2025年5月10日土曜日

Paul Krugman 「俗流ケインジアン」(1997年2月7日)

Paul Krugman, “Vulgar Keynesians”(Slate, February 7, 1997)


経済学の分野も、その他のあらゆる知的な営みと同様に、「学問版・収穫逓減の法則」の影響下にある。時折、偉大な革新者が颯爽と登場し、まるで詩人のような語り口で、自らのアイデアを披露する。そのアイデアは幾分粗が目立ち、先人(あるいは、主流派)のヴィジョンとの違いが誇張して語られるとしても、そのことは取り立てて問題とはならない。アイデアに磨きがかけられることで、やがて確固としたパースペクティブが形作られる可能性があるからだ。しかしながら、どうしても避けられない定めとして、その革新者の後には、表面上の字句には忠実でありながらも、アイデアの核となる精神を誤解した一群の信奉者が続くことになる――彼らの頑迷さは、主流派が自らの見解に対して見せるこだわりを凌駕するほどである――。革新者のアイデアが広まるにつれて、それはますます単純化されることになり、やがて常識(public consciousness)の一部――「誰もが知る」知識の一部――となるまでに流布した暁には、革新者によるアイデアは、粗っぽいまでに劇画化された姿に変容を遂げてしまうのだ。

これはまさに、ケインズ経済学が辿った道のりでもある。ジョン・メイナード・ケインズその人は、大変緻密で革新的なアイデアの持ち主だった。しかし、不運なことに――意図しないかたちで――、彼は自らの遺産の一つとして、今もなお経済問題を巡る論争に混乱をもたらし続けている思想を産み落としてしまったのである。ここではそれを「俗流ケインズ主義」と呼ぶことにしよう。

ケインズが『雇用・利子および貨幣の一般理論』を出版したのは1936年。それ以前の経済学の世界では、ミクロ経済学――個々の市場の機能を対象にして、稀少な資源があれこれの市場の間にどのように配分されるかを研究する分野――に関しては、精緻で洞察力のある理論が既に発展を遂げていた。その一方で、マクロ経済学の分野――インフレやデフレ、景気の過熱や不況といった一国レベルで発生する現象を研究する分野――は、発育停止とでも呼べる状況にあった。足許で進行中の「大恐慌」について何の説明も提供できずにいたのである。

いわゆる「古典派」のマクロ経済学によると、経済は(放っておいても)長期的には完全雇用に戻る傾向があると見なされていて、(完全雇用が実現している)「長期」だけが分析対象になっていた。「古典派」のマクロ経済学を支える理論的な支柱は2つあった。「貨幣数量説」と、「貸付資金(“loanable funds”)説」である。貨幣数量説というのは、物価がいかに決定されるかについての理論であり、一国の物価水準は、経済に流通する貨幣量に比例すると考えられた。その一方で、貸付資金説というのは、金利がいかに決定されるかについての理論であり、金利は、総貯蓄(一国全体の貯蓄)と総投資(一国全体の投資)の不一致を解消するように上下に変動すると考えられたのである。

ケインズとしても、十分に長いスパンをとってみた場合には、「古典派」のマクロ経済学を支える理論が妥当する可能性もあるかもしれないと認めるのにやぶさかではなかった。しかしながら、彼の有名な言葉をひくと、「長期的には、我々は皆死んでしまう」。そこで、ケインズは次のように主張した。短期において金利の水準を決定するのは、(貸付資金説が説くように)完全雇用下における総貯蓄と総投資のバランスではない。「流動性選好」(“liquidity preference”)――現金と比較して安全性や利便性の面で劣る資産への投資を促す上で(高い利回りのような)十分なインセンティブが提供されない限りは、現金を保有し続けようとする欲望――こそが、短期における金利の水準を決定するのだ、と。さらには、ケインズは次のようにも付け加えた。総貯蓄と総投資は、貸付資金説が妥当しないとしても、必ず等しくなる。とは言っても、(事前的な)総貯蓄が(事前的な)総投資を上回ると、(貸付資金説が説くように)金利が低下するのではなく、雇用量や産出量が減ることで総貯蓄と総投資が一致するようになるのだ、と。別の言い方をすると、何らかの理由――例えば、株価の急落など――で投資需要が減少すると、経済は(雇用量や産出量の落ち込みを伴う)全般的な不況に見舞われるということだ。

このようなヴィジョンは、経済の働きに関する従来の見解に見直しを迫るものだった。その見事なまでの洞察力もあって、当時の若くて優れた経済学徒の間ですぐさま受け入れられた。とはいえ、ケインズは現実を単純化し過ぎている面がある、と早いうちから指摘していた経済学者がいたことも事実である。特に、雇用量や産出量は、金利に対して反作用を及ぼすのが通常であり、このことは大きな違いを生む可能性がある。しかしながら、『一般理論』が出版されてから長年にわたって、多くの経済学者は、ケインズのヴィジョンから導き出される含意に魅惑されることになった。ケインズのヴィジョンは、(節倹という)美徳が罰せられ、浪費が報われる「不思議の国のアリス」のような世界に我々を誘うかのように思われたのだ。

例えば、「貯蓄(節約)のパラドックス」(“paradox of thrift”)について考えてみるとしよう。初期のケインジアンモデルによると、何らかの理由で貯蓄率――所得のうち支出(消費)に回されない割合――が上昇したとしたら、総貯蓄と総投資がともに減少するという結果になる。どうしてだろうか? その理由はこうである。貯蓄率が上昇する(事前的な総貯蓄が増加する)と、消費が減って不況になり、それに伴って所得が減ることになる。所得が減ると、所得の増加関数である総投資が減ることになる。総貯蓄と総投資は最終的には等しくならなければならないので、(減少した総投資と等しくなるように)総貯蓄は減らなければならない!

さらにもう一つ、賃金と雇用の関係をめぐる「寡婦の壺」(“widow's cruse”)理論――この名称は古い伝承にちなんで付けられた――についても取り上げておこう。名目賃金が引き上げられると、人件費が高くなるので労働への需要は減ると思うかもしれない。しかしながら、初期のケインジアンの幾人かは、次のような主張を展開した。名目賃金の上昇は、資本家から労働者への所得の再分配(資本家が受け取る利潤が減って、労働者が受け取る賃金が増えること)を意味する。労働者は、資本家と比べると、あまり貯蓄をしないので――これは事実に反しているのだが、それはまあよしとしておこう――、資本家から労働者へと所得が再分配されると、消費需要が増えて、その結果として産出量と雇用量が増える、と。

このようなパラドックスに思いを馳せることは楽しいし、入門レベルの教科書を開くと今でもその説明に出くわすことがある。

しかしながら、このようなパラドックスを真剣に受け止めている経済学者は、今ではほとんどいない。その理由はいくつかあるが、中でも最も重要な理由は、わずか2語で語ることができる。アラン・グリーンスパンAlan Greenspan)である。

シンプルなケインジアンが語るストーリーを深く掘り下げていくと、金利は、雇用量や産出量の水準から独立して決まると想定されていることがわかる。しかし、現実はそうなっていない。金利は、FRB(連邦準備制度理事会)によって積極的に操作されている。雇用が低調であると判断されると金利が引き下げられて、景気が過熱気味だと判断されると金利が引き上げられるのだ。FRB議長(グリーンスパン)の判断の是非についてあれこれ言いたい人――金融政策をもう少し緩和して景気の拡大を支えるべきだと考えたり――もいるかもしれないが、FRB議長に備わる力の大きさについて疑問を呈することができる人はそうそういないだろう。今後数年間のアメリカの失業率を予測できるシンプルなモデルをお探しのようなら、今ここでそれを紹介して差し上げよう。この先の失業率は、グリーンスパンが望む水準に落ち着くと考えてほぼ間違いないのだ(グリーンスパンも神ではないので、彼が望む水準から若干ずれる可能性も考慮する必要はあるけれど)。

グリーンスパン(FRB議長)の役割を考慮に入れると、マクロ経済の働きに関する「古典派」のヴィジョンの多くが息を吹き返すことになる。とは言っても、そっくりそのままというわけじゃない。「古典派」のヴィジョンでは、(市場の)「見えざる手」が経済を長期的には――とは言っても、具体的にどのくらいの長さの期間かとなると特定されることはないけれど――完全雇用に導くと見なされていたが、現実においては、FRBの「見える手」が経済を2〜3年のうちにNAIRU(非インフレ加速的失業率)に導く役割を果たすのである。そのためには、失業率がNAIRU(あるいは、目標とする失業率)に達した時に総貯蓄と総投資が等しくなるように金利を操作する必要があるが、FRBが金利をそのように操作するようなら、「貯蓄のパラドックス」や「寡婦の壺」理論をはじめとした初期のケインジアンの主張が妥当性を失うことになるのである。例えば、貯蓄率が上昇したら、(貯蓄のパラドックスが説くところとは反対に)総投資は増えるだろう。なぜなら、FRBが金利を下げるだろうからである。

何らかの理由で総需要が変化しても、FRBが金利を操作してそれを打ち消す――そのため、雇用量は変わらない傾向にある――というアイデアは、少なくとも私にとってはシンプルでもっともなものに思える。しかしながら、学術的な世界の外に目をやると、このアイデアを受け入れている人はごくわずかというのが実状のようだ。例えば、NAFTA(北米自由貿易協定)の是非を巡る議論では雇用への影響が焦点になったが、アメリカとメキシコ間の貿易収支がどうなろうとも、今後10年間のアメリカの失業率はFRBが望む水準に概ね落ち着くだろうと私は当然のように考えていたが、世間はそう考えていなかったのだ(こんなことがあった。1993年に開催されたとあるパネルディスカッションの席上でまったく同じことを口にしたら、それを聞いていたパネリストの一人――NAFTAの支持者だったみたいだ――が激昂して、「そんなことを言うから経済学者は嫌われるのだ!」と宣ったのだ)。

その代わり、世間――悲しいかな、自分のことを物知りだと任じている知識人の多くもその中に含まれる――の「常識」になっていたのは、劇画化されたケインズ主義の一種だった。その特徴は、「消費の減少(貯蓄の増加)は、いついかなる時も悪である」というアイデアを無批判に受け入れているところにある。アメリカではインフレや財政赤字の問題がここしばらくは後景に退いているが、その機に乗じるかのようにして、俗流ケインズ主義が劇的なかたちでカムバックを果たしたのだ。先月のコラムで取り上げたばかりのウィリアム・グレイダー(William Greider)の新著でも、「貯蓄のパラドックス」とか「寡婦の壺」理論とかが主要なテーマになっているし――とは言っても、グレイダーがそのアイデアの出所をわかっているかとなると疑わしい。「知的な面で誰からも影響を受けていないと信じ切っている実践的な人間も、今は亡き経済学者の奴隷であるのが普通である」とはケインズの言だ――、 ジョン・ジュディス(John B. Judis)がニュー・リパブリック誌で似たような主張を開陳している姿も目に入る。これくらいなら驚くほどじゃないかもしれないが、「貯蓄の増加は、経済成長を阻害する」というアイデアがビジネスウィーク誌でも真剣に扱われているとなると(“Looking for Growth in All the Wrong Places,” February 3, 1997)、俗流ケインズ主義が一つの文化現象になりつつあると考えざるを得ないだろう。

「貯蓄の増加は、経済成長を阻害する」という主張――「貯蓄は、経済が成長するために決定的に重要な要因だと語る人がいるが、そこまでじゃない」という主張はある程度理にかなっているが、「貯蓄の増加は、経済成長を阻害する」という主張とは別物だ――を正当化するためには、FRBは無力だということを説得的に示さなければならない。何らかの理由で(事前的な)貯蓄が増加したら、FRBが金利を引き下げても総投資は増えないということを論証せねばならないのだ。

金利は、総投資に影響を及ぼす数ある要因のうちの一つに過ぎないと語るだけでは十分じゃない。そのような反論は、アクセルペダルを踏み込む力の強さは、車のスピードに影響を及ぼす数ある要因の一つに過ぎないと語っているようなものだ。「それで?」としか思わない。アクセルペダルをどれだけ強く踏み込むかは、自分で自由に調節できる。何か異常がない限りは、ペダルを踏み込む強さを調節して、車のスピードを「これくらいなら安全に運転できるだろう」と自分なりに考える速度に制御できる。それと同様に、グリーンスパンは、お望み通りに金利を自由に調節できる(FRBが望みさえすれば、一日のうちにマネーサプライの規模を倍増させることだってできる)。何か異常がない限りは、金利を調節して、雇用量を「これくらいならインフレも加速しないだろう」と考える水準に持っていくことができるのだ。

「貯蓄の増加は、経済成長を阻害する」という主張を正当化するためには、次のどちらかが成り立つことを示さねばならない。金利が総需要に対して何の影響も持たないことを示すか――本気でそう信じているなら、全米ホームビルダー協会(NAHB)に伝えてみるといい――、貯蓄率があまりに高すぎて、FRBが金利をゼロ%近くにまで引き下げても総貯蓄と総投資のギャップを埋められないことを示さねばならないのだ。1930年代のアメリカだったり――当時のTビル(財務省短期証券)の利回りは0.1%を下回っていた――、現在の日本だったり――現在の日本では、金利は1%程度――のように、後者のケースが妥当する例もなくはない――とはいえ、日本銀行は日本経済を停滞から救い出せるだけの力を依然として持っていると思うし、日銀の消極的な態度はかなりの不正行為(malfeasance)にあたると思う。しかし、この件については、別の機会に取り上げるとしよう――。しかしながら、住宅ローンを借りている銀行から自宅に通知書が毎月送られてくるのだが、それを見ると金利はプラスで、下がる余地はまだかなりあるようだ。ありがたや。

ともあれ、そこまでこだわる必要もないかもしれない。というのも、「貯蓄の増加は、経済成長を阻害する」と語っている人たちは、FRBが無力だとは思っていないようだからだ。それどころか、これまでの長きにわたってアメリカ経済のパフォーマンスが低調だったのは、全部FRBのせいだと語っていたりするのだ。グリーンスパンが腰を上げさえすれば、今の苦境から抜け出すことができるのにと語っていたりするのだ。

2月3日付のビジネスウィーク誌から引用するとしよう。

「貯蓄が増えると、景気が減速する可能性が高い」と語る「つむじ曲がり」の経済学者もいる。貯蓄が増えると、投資が活発になるのではなくむしろ落ち込むというのがその理由だ。「投資を刺激する必要があります」と語るのは、テキサス大学のジェームス・ガルブレイス(James K. Galbraith)。ケインジアンを自任する経済学者だ。ガルブレイスによると、経済成長を促すには金利を引き下げるべきだという。

つまりは、こう主張していることになる。貯蓄が増えると、景気が悪化する。FRBが金利を引き下げても、総投資が増えないからだ。その代わり、FRBは、金利を引き下げて経済成長を促すべきだ。金利を引き下げれば、総投資が増えて経済成長が促されるだろうから。

・・・何か見過ごしてる?

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