2025年5月8日木曜日

Henry Farrell 「『経済政策に関するマーフィーの法則』は正しいか? ~経済学者が経済政策に及ぼす影響力が最大になるのはどんな時?~」(2011年3月17日)

Henry Farrell, “A simple model of disagreement among economistsCrooked Timber, March 17, 2011)


ライアン・アベント(Ryan Avent)マシュー・イグレシアス(Matthew Yglesias)によると、経済学者たちは言い争ってばかりいて意見が全く一致しないと思われているが、それは誤解だという。この件で私が真っ先に思い起こすのは、アラン・ブラインダー(Alan Blinder)が言うところの「経済政策に関するマーフィーの法則」である。ブラインダーは、『Hard Heads, Soft Hearts』(邦訳『ハードヘッド&ソフトハート』)の中で次のように述べている。

「経済学者たちが経済政策に及ぼす影響力が最小になるのは、研究が蓄積されていてお互いの意見が一致している時。経済学者たちが経済政策に及ぼす影響力が最大になるのは、研究が手薄で意見のバラツキが最も大きい時」。

わざわざ持ち出してきてなんだが、「経済政策に関するマーフィーの法則」は正しいのだろうか? はじめて目にした時からずっと疑わしく思っていたのだ。「経済政策に関するマーフィーの法則」が説いているのが、経済学者の間で「意見のバラツキが大きい」話題についてほど、公の討論の場での経済学者の「存在感が大きい」という相関関係なのだとしたら、異論はない。現実にそうなっているからだ。しかしながら、「存在感が大きい」というのは、「(経済政策に及ぼす)影響力が大きい」というのと同じじゃない。それに加えて、「存在感が大きい」からこそ「意見のバラツキが大きくなる」という可能性(逆の因果関係)も捨てきれない。以下にモデル(モデルといってもごくカジュアルな意味でそう呼ぶに過ぎない)の素描を試みるが、経済学者の間で意見のバラツキが大きい時に経済学者の(経済政策に及ぼす)影響力はそこまで大きくないように思えるのだ。

(I) 政党だとか利益集団だとかがわかりやすい例だが、経済政策に対する好みがはっきりしているアクター(行為主体)が政治の世界には多数存在する。例えば、Aという政党は、自党の党員なり支持者なりが得するような規制を導入しようとするだろう。その規制を導入したら経済成長率が低下してしまうかもしれないとしてもだ。その一方で、その規制の導入に断固として反対する抵抗勢力が存在するものだ。例えば、Bという政党がA党に反対するだけでなく、自党の党員なり支持者なりが得するような別の規制の導入を求めるかもしれない。そうなれば、激しい政策論争が巻き起こるだろう。

(II) 経済政策に対してはっきりとした好みを持っていなくて、専門家によって説得される可能性を秘めているアクターも存在している。専門家が支持する政策に味方する可能性があるアクターだ。専門家の話に耳を傾けてくれるようならという条件は付くが、一般の有権者(the public)もその一例だ。

(III) 専門家である経済学者が手にしているツールから導き出せるのは、一般的な結論でしかない。ちょっとした裏の手(誰もがよく知る部分均衡モデルだとか、フォーク定理だとか)を使えば、どんな政策だって支持することができる――この点については、マクロスキー(Donald McCloskey)の “The Rhetoric of Economics”(pdf)を参照されたい――。ちょっとした裏の手を使えば、A党が導入しようとしている規制も支持できるし、B党が導入しようとしている規制も支持できるのだ。政治信条に忠実たろうとしてなのか、お金に釣られてなのか、どちらの理由も一緒になってなのか、A党ないしはB党が導入しようとしている規制に理論的なお墨付きを与えようとする経済学者も出てくるだろう。

(IV) A党ないしはB党は、あの手この手を使って御用学者を拵(こしら)えることができる。味方になってくれそうな経済学者を快適な場所に招いて学術的なセミナーを開いたり、金銭的な便宜を図ったりして、自らの陣営が導入しようと図っている規制にお墨付きを与えてもらうのだ。御用学者がお墨付きを与えてくれたら、経済政策に対してはっきりとした好みを持っていないアクターの一部も味方になってくる可能性がある。

断っておくが、以上のような大雑把なスケッチをそっくりそのまま受け入れるつもりはない。経済学のツールというのは、(III) で述べたよりも首尾一貫していて、どんな政策でも同じくらい苦も無く支持できるわけじゃないだろう。かなり無理をして議論を呼ばずには理論的に支持できないような政策もあるだろう。それに、学問の世界におけるアイデアというのは、何らかの政治的なイデオロギーを正当化するためだけの存在に過ぎないわけでもない。とは言え、このモデルを使えば、現実についての興味深い予測を無理なく導き出すことができるのだ。例えば、以下のような。

(1) 経済学者たちの間で取り沙汰されている話題がA党だったりB党だったりの興味をそそらないようなら、経済学者たちは放っておかれるだろう。政治と無縁でいられるだろう。経済学者たちの間で取り沙汰される命題の中には、A党だったりB党だったりが興味をそそられない命題というのがたくさんある。A党なりB党なりが興味をそそられない理由は、自分たち(自党の党員や支持者)にとって毒にも薬にもならないからという場合もあれば、受け入れがたい(repugnant)からという場合もあるだろう。このようなケースでは、意見の対立を煽るような外部からの圧力が存在していないので、経済学者たちの間で「幸せな和合」が成り立つ可能性がある――ただし、経済学者に特有の「何かと衝突しがちな性向」が許す限りで――。

(2) 経済学者たちの間で取り沙汰されている話題がA党だったりB党だったりの興味をそそると同時に、その話題について経済学者たちの間でコンセンサス(意見の一致)が得られているようなら、経済学者の影響力は最大になるだろう。そのコンセンサスがA党の利害に反するようなら、A党は耳を貸そうとしないだろうが、そのコンセンサスがB党にとって都合がいいようなら、B党が近寄ってきて自党が掲げる政策にお墨付きをもらおうとするだろう。経済政策に対してはっきりとした好みを持っていないアクターの中からも、経済学者に説得されて同調する勢力が出てくるだろう。しかしながら、経済学者たちにとっては幸せなこの状況も不安定に違いない。なぜなら、不利な立場に置かれているA党が黙っていないだろうからである。寝返ってくれそうな経済学者を見つけ出して、コンセンサスを突き崩そうとするだろうからである。その経済学者に支援の手を差し伸べて、コンセンサスに反論させる機会を設ける――例えば、A党が費用を負担してその経済学者を1週間にわたる無駄仕事(boondoggles)に連れ出して、あちこちでコンセンサスに反論させる――だろうからである。経済学者たちの影響力が無視できないようであれば、A党は黙っていずに、経済学者たちが言い争うようにあの手この手を使うだろう。そのようにして、自分たちの「味方」をしてくれる経済学者を発掘するのだ。そういうわけで、遅かれ早かれ以下の(3)へと移行することになるだろう。

(3) 経済学者たちの間で取り沙汰されている話題がA党だったりB党だったりの興味をそそると同時に、その話題について経済学者たちの間で意見が割れているようなら、経済学者の影響力はそこまで大きくないだろう。A党もB党も自分たちの味方をしてくれる御用学者をそれぞれ抱えていて、自党が掲げる政策にモデルや実証研究でお墨付きを与えてもらえる。例外的なケースを除けば、この状況――「ジョン・ロット」(“John Lott”)均衡とでも呼べるかもしれない――は、(2)の状況とは違って、極めて安定しているだろう。

現実についてどんな予測が導かれるだろうか? 経済学者の間で「意見のバラツキが大きい」話題についてほど、公の討論の場での経済学者の「存在感が大きい」という相関関係が成り立つことを示唆しているというのがまず一つ目。経済学者たちの間でコンセンサスが得られていても、政治の世界のアクターたちにとってはどうでもいい(興味をそそられない)ような命題――「野菜を食べなさい」(“Eat your greens”)とかいう類の命題――は、政治の世界のアクターたちからことごとく無視されるという予測が二つ目。これら二つの予測は、読み替えられた「経済政策に関するマーフィーの法則」とも合致している。しかしながら、三つ目と四つ目の予測は、オリジナルの「経済政策に関するマーフィーの法則」と食い違う。経済学者たちの間で意見が割れているようなら、経済学者の(経済政策に及ぼす)影響力はそこまで大きくないと予測されるのだ。政治の世界で対立している陣営(例えば、A党とB党)のどちら側も御用学者を抱えている可能性があって、経済政策に対してはっきりとした好みを持っていないアクターへの影響が相殺されるのだ。最後に四つ目の予測になるが、経済学者の(経済政策に及ぼす)影響力が最大になるのは、政治の世界で政策論争の対象になっている話題について経済学者たちの間で意見が一致している(コンセンサスが得られている)時――非常に稀で不安定なケース――と予測されるのだ。

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