2011年11月1日火曜日

Henry Farrell 「経済学者間での意見の不一致に関するシンプルなモデル」

Henry Farrell, "A simple model of disagreement among economists"(Crooked Timber, March 17, 2011)

ライアン・アベント(Ryan Avent)マット・イグレシアス(Matt Yglesias)が「公的な議論の場では経済学者間での意見の不一致が実際よりも誇張されてしまうことになるのではないか」と語っている。こういった話題についての古典的ともいってよい見解は、アラン・ブラインダー(Alan Blinder)が『Hard Heads, Soft Hearts』(邦訳;『ハードヘッド ソフトハート』)の中で「経済政策に関するマーフィーの法則」と名付けた以下のような見解である。すなわち、


Economists have the least influence on policy where they know the most and are most agreed; they have the most influence on policy where they know the least and disagree most.
(「エコノミストの知識がもっともよくゆき届いており、彼らの間でもっとも意見の一致が見られるとき、エコノミストの経済政策に与える影響力は最小となる。逆に、エコノミストの知識がもっとも不足しており、意見のバラツキがもっとも大きいとき、エコノミストの影響力は最大となる。」(邦訳、pp.16より引用))


この見解を目にした時からずっと私は個人的に「果たしてこの見解は事実を的確に捉えているのだろうか」と思案してきたものである。ブラインダーのこの見解は、(a)経済学者間での意見の不一致の程度、と、(b)公的な議論の場において経済学者の存在・意見がはっきりと目立つそのさま、との間に容易に観察できる相関関係が存在する(訳注;経済学者間での意見の不一致の程度が大きければ大きいほど、公的な議論の場で経済学者の存在・意見がますます一層目立つ)ことを説明する助けとなるものである。しかし、「目立つ」(prominence)というのは「影響力がある」(influence)というのとは同じではなく(「目立つ」ならば「影響力がある」とは必ずしも言えず)、逆もまた言えるのではないか(「影響力がある」ようならば「目立つ」とは必ずしも言えない)とも考えざるを得ず、それゆえ、経済学者が意見を異にする際に政策に対して影響力を持つとはいってもその影響力はそれほど大したものではないのではないかと個人的には感じるのである。以下、この点についてモデル(モデルといっても非常にカジュアルな意味でそう呼んでいることを了解していただきたい)を用いて素描してみることにしよう。

(I) 政治アクターの中には、それ(=ある特定の経済政策)が経済学的に理にかなったものかどうかにかかわらず、特定の経済政策がもたらす結果に対して強固で安定的な選好(stable preferences)を有する主体が存在する。例えば、政党や利益集団は、規制を設けることで一国全体の経済成長が抑制されることになったとしても、その規制によって自らの構成メンバーや自らの支持者に対して便益が再分配されることになるとすればそのような規制の実施を望むことだろう。一方で、このような規制の実施を通じた便益の再分配に対して異を唱える(先の政治アクターとは異なる利害を有する)政治アクターが一般的には存在することだろう。この政治アクターは(先の政治アクターに便益をもたらすような)規制の実施に反対したり、あるいは、自分自身や自らの支持者に対して好ましい結果をもたらすような別の規制の実施を求める声を上げたりすることだろう。こうして政治アクター間での利害の対立は激しい政治論争をもたらすことになる(と予想される)。

(II) 政治アクターの中には――彼らがその特定の経済政策に対して注目を寄せる限りにおいての話ではあるが――経済政策に対してそれほど強固な選好を有してはいないアクターが存在する。その典型は一般の人々(the public)である。特定の経済政策に対してそれほど強固な選好を有していない一般の人々は、専門家(今の文脈では経済学者)によって裏付けを与えられた(専門家が支持を与えた)政策を支持するような方向に説得される可能性を秘めている。

(III) 経済学者――特定の政策に対して支持・裏付けを与える専門家――は一連の(経済学に)特有の方法論やモデリング技術に依拠して分析を行ったり、政策を評価したりしているが、その方法論やモデリング技術からはいくつかの一般的な結論が導かれ示唆されるだけではなく、ちょっとしたごまかし(jiggery-pokery)(誰もがよく知る部分均衡モデルやフォーク定理など)と併用することで(経済学に特有の方法論やモデリング技術から)自らが好むような政策処方箋を支持する結論を導き出すことも可能である(この点については、D.マクロスキー(Donald McCloskey)の以下の論文“The Rhetoric of Economics”(pdf)を参照せよ)。さらには、経済学者の中には政治論争をたたかわせている対立する政治アクターの一方の側に優勢に働く議論に支持を与えるような理論(経済理論)的な見解を見つけ出すよう(おそらくは特定のイデオロギーに対するコミットメント(傾倒)あるいは金銭的なインセンティブ、もしくは両者の組み合わせを原因として)突き動かされる人物もいることだろう。

(IV) (特定の経済政策に対して)強固で安定的な選好を有する政治アクターは、様々な手段(快適な環境の下で開催される週末の学術的なセミナーに招待したり、あるいは直接的に金銭的な便宜を図ったりetc)を用いることを通じて、(特定のイデオロギーに対するコミットメント(傾倒)あるいは金銭的なインセンティブ、もしくは両者の組み合わせに基づいて)自らの陣営に対して支持を与えてくれる可能性のある経済学者が自らの陣営にとって便益をもたらしてくれるであろう経済政策に対して実際にも理論的な支持を与えてくれるように促し、そうする(経済学者が特定の経済政策に対して理論的な支持を与える)ことで(特定の経済政策に対して)それほど強固な選好を有してはいない、あるいはそれほど明確な選好を有してはいない政治アクター――世間一般の人々――に対して影響を与えることが可能である。

ここで注記しておくと、私自身この簡単なモデルの大雑把なスケッチをありのまま受け入れるつもりはないという点は指摘しておこう。確かに、経済学的な思考方法(economic thinking)はこのモデルが示唆する以上に確固とした首尾一貫性を備えており、ある立場を支持することは他の立場を支持すること以上に(訳注;ある立場を支持するためには議論における首尾一貫性を大きく犠牲にしないといけないなどして)議論を呼ぶということがあるだろう。また、アイデアというのは、単に既存の政治的なアジェンダをイデオロギー的に正当化するものにすぎない、というわけでもない。しかしながら、そうではあるとしても、この簡単なモデルから予測される結果は何ほどか興味深いかたちで現実の結果と結び付くのである。このモデルのあり得る(それなりに合理的な)予測は以下のようにまとめることができるかもしれない。

(1) 経済学者間での論争の内容が政治アクターの目にとまる(政治アクターの気をそそる)ことがないよう状況においては、経済学者は外部からの政治的な影響から自由でいられることだろう。このような状況においては、政治アクターにとっては特にこれといった関連性を有することのない経済学上の多くの命題が語られることだろう。そのうちの命題のいくつかは単に政治家やその支持者にとってこれといった大きな分配上の効果をもたらすものではないために、またそのうちのいくつかの命題はすべての政治アクターにとって受け入れがたい(repugnant)ものであるために、政治的に関連性がないとみなされることだろう。このような状況においては、経済学者の間で意見対立を生じさせるような外的な圧力は存在せず、(経済学者が本来的に備える、何かと衝突しがちな性向(vexatiousness)が許す限りにおいてではあるが)経済学者らは互いに幸せな意見の一致(happy concordance)を見ることになるだろう。

(2) 経済学者間での論争の内容が政治アクターの目にとまる(政治アクターの気をそそる)ようなものであり、かつ、経済学者の間で正真正銘のコンセンサス(意見の一致)が存在するような状況においては、経済学者の影響力は最大のものとなることだろう。このような状況においては、その利害が(経済学者間での)コンセンサスと対立するような政治アクターに対して経済学者の影響力が及ぶことはないだろうが、一方で、その利害がコンセンサスと合致するような政治アクターからはコンセンサスを擁護する姿勢を期待することができ、加えて、経済学者による影響を受け入れる姿勢にあるような一般の人々の中には経済学者間のコンセンサスを聞き入れる人が現れる可能性がある。しかしながら、この(経済学者にとって)幸せな状況はかなり不安定なものである、という点には注意しておこう。というのも、その利害が経済学者間のコンセンサスと対立することで不利な立場に置かれている政治アクターは、コンセンサスに不満を抱いている可能性のある経済学者が公に異議を表明するよう支援の手を差し伸べて励ましたり、コンセンサスに対する反論を聴取するべくその経済学者を1週間にわたる無駄仕事(boondoggles)の旅に自らの費用持ちで何度も連れ出したりするなどして、経済学者間でのコンセンサスを突き崩そうとする強いインセンティブを持つだろうからである。経済学者が有するその政治的な影響力の程度に応じて、不利な立場に置かれた政治アクターは、公的な議論の場で自らの陣営に対して支持を与えてくれる「味方の」経済学者に頼ることができるようにするために、経済学者間でのコンセンサスを突き崩し、もって経済学者間で意見の対立が生まれるよう試みるインセンティブを有することだろう。そういうわけで、この(2)の状況は遅かれ早かれ次のような(3)の状況へと移行することになるだろう。

(3) 経済学者間での論争の内容が政治アクターの目にとまる(政治アクターの気をそそる)ようなものであり、かつ、経済学者間での意見対立が存在するような状況においては、経済学者が政治的な結果に対して及ぼす影響は控え目なものとなることだろう。この状況においては、対立する政治アクターのどちらの側も自らの陣営の主張を裏付け、自陣にとって有利になるようなモデルや計量経済学的な結果etcを提供してくれるような経済学者を抱えていることだろう。この状況(この状況は「ジョン・ロット」('John Lott’)均衡とでも呼ぶことが可能(欄外訳注1)かもしれない)は、(2)の状況とは異なり、例外的なケースを除いては極めて安定していることだろう。

以上で素描したモデルからはどのような予測が導かれるだろうか? 冒頭で触れたブラインダーの格言と同様に、このモデルは、(a)経済学者間での意見の不一致の程度、と、(b)経済学者が政治論争に関与(involvement)する程度、との間に観察可能な相関関係が存在するだろうことを示唆している。経済学者の間では人気があるが、どの政治アクターにとっても等しく気がそそられることがないような「あなたのお皿にある野菜を食べなさい」('Eat your greens')といった類の種々の命題は、ブラインダーの格言でも述べられているように、どの政治アクターからもことごとく無視されることだろう。しかし、ブラインダーの格言とは異なり、このモデルによれば、経済学者が互いに意見を異にするような状況においては、それぞれ別の政治アクターのために語る経済学者が互いに対立する意見をたたかわせることになるために一般の人々に対する影響力は少なくとも部分的に相殺されることになるので、経済学者の影響力は取り立ててそれほど大きなものではないだろうことが示唆される。また、このモデルによれば、経済学者の影響力は、経済学者が互いに意見を異にするような状況においてよりも、政治論争に積極的に参加する政治アクターのうちどちらか一方の側を経済学者が一致して支持するような状況-稀でありかつ束の間の(不安定な)状況-においての方がずっと大きいだろうことが示唆されることになる。

(追記)このモデルは、「公共選択論」という学問領域が登場してきた理由に関する公共選択論的な簡潔な説明を内に含んでいる。この点を明らかにすることは読者への練習問題として残しておこう。

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(欄外訳注1)なぜ(3)の状況を「ジョン・ロット」均衡と呼び得るのかという点については、イアン・エアーズ著/山形浩生訳『その数学が戦略を決める』(特に第7章の7.9節(ジョン・ロットってだれ?)と7.10節(でもそれがまちがっていたら?)あたり)をご覧になればヒントが得られるかもしれません。

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