1930年代に長きにわたる大恐慌(Great Depression)に襲われたアメリカでは、名目利子率がゼロ%にまで下がった。経済学者によって「流動性の罠」と呼ばれている状況に陥ったのである。先の章でも述べたように、貨幣は、資産の中で流動性が最も高くて、どんな財とでも容易に交換できるというユニークな性質を備えている。「流動性の罠」が「罠」たるゆえんは、名目利子率がゼロ%にまで下がってしまうと、中央銀行がマネーサプライを増やしても――つまりは、経済に流動性を注入しても――名目利子率をそれ以上引き下げられなくなる(マイナスにできない)からである。そうなる理由は、名目利子率がマイナスになると、債券よりも貨幣を保有する方が断然得になって、債券の需給が一致しなくなる(債券の超過供給が発生する)からだ。名目金利がゼロ%になるというのは、借り手にとっては喜ばしいかもしれないが――お金を借りても金利を払わなくていいのだから――、マクロ経済政策を司る政策当局者にとっては悩みの種なのだ――標準的な金融緩和によって景気を上向かせるのが不可能になってしまうかもしれないのだから――。
「流動性の罠」は過去の遺物というのが経済学者の考えだった。1990年代の後半に日本経済が「流動性の罠」に陥るまでは。日本銀行によって名目利子率が劇的に引き下げられたものの、日本経済は少なくとも1990年代半ば以降から停滞に陥ったままで、デフレ(物価の下落)にも苦しめられた。1999年までに短期名目利子率が実質的にゼロ%に達した。2004年9月時点のオーバーナイト金利――金融政策によって直接的に影響を及ぼせる金利――は、わずか0.001%だったのだ。
日本銀行は2006年にゼロ金利政策を解除して、オーバーナイト金利を徐々に引き上げ始めた。景気回復の兆しが見られたからである。しかしながら、2008年後半に世界的な金融危機が勃発すると、オーバーナイト金利を再びゼロ%に引き下げた。金融危機によって激しく揺さぶられたアメリカでも政策金利がゼロ%にまで引き下げられた。世界中のあちこちの中央銀行も同じく政策金利を劇的に引き下げた。世界中が「流動性の罠」に陥ったのだ。
「流動性の罠」に陥っている状況で中央銀行が直面することになるジレンマについては、国内の名目利子率(R)がゼロ%である場合(R = 0)の金利平価条件を検討すれば一目瞭然となる〔訳注1〕。
R = 0 = R* + (Ee - E)/ E
E = Ee /(1 - R*)
どういうわけでこんなことになるのだろうか? マネーサプライを一時的に増やすと名目利子率が下落する(ならびに、名目為替レートも減価する)という通常の議論が成り立つのは、債券を保有するのが貨幣を保有するよりも不利にならない限りは、市中に出回る貨幣が増えたらそのまま溜め込まれずに債券の需要が増えると想定されているからである。しかしながら、名目利子率がゼロ%(R=0)になると、貨幣を保有するのも債券を保有するのも変わりがなくなる。貨幣を保有しても債券を保有しても得られる金利は同じ(ゼロ%)だからだ。それゆえ、債券を買って市中に貨幣を注入する買いオペを中央銀行が試みても、市場が撹乱されないのだ。市中に出回る貨幣の量を増やしてもそのまま溜め込まれるので、名目利子率はゼロ%のままで変わらないし、それゆえに為替レートも変化しないのだ。先の章で検討したケースとは対照的に、マネーサプライを増やしても景気に何の影響も及ぼせないのだ。中央銀行が債券を売ってマネーサプライを徐々に減らせばそのうち名目利子率が上昇するだろうが――そうなるのは、貨幣に対する超過需要が発生するからだ。貨幣無しでは経済は回らないのだ――、景気が低迷している中でそんなことをしても助けになんかならないのだ。求められているのは、名目利子率が低下することなのだ。
「流動性の罠」に陥った場合に DD-AA図〔訳注2〕がどのように修正されるかを表しているのが Figure 1 である。DD曲線はこれまでと変わらないが、AA曲線は水平な部分を持つようになる。産出量があまりにも少ないようだと、貨幣の需給が一致する(貨幣市場が均衡する)名目利子率がゼロ%(R=0)になるのだ。AA曲線の水平な部分は、名目為替レートが Ee /(1 - R*)よりも高くなり得ない(減価し得ない)ことを表している。以下の図での均衡は、点1だ。完全雇用が達成される場合の産出量は Yf だが、均衡における産出量は Yf を下回っている。
この何とも奇妙な状況で中央銀行が買いオペを試みたらどうなるかを検討してみるとしよう。Figure 1 では詳しく跡付けていないが、マネーサプライが増えたらAA曲線が右方にシフトするだろう。マネーサプライが増えるとAA曲線が右方にシフトするのは、名目為替レートも名目利子率も変わらないままで貨幣の超過供給が解消されるためには、産出量(所得)が増加して貨幣に対する需要が高まる必要があるからだ。マネーサプライが増えると、AA曲線の水平な部分が右方に伸びることになるだろう。産出量が増えて貨幣に対する需要が増えても、名目利子率がなかなか上昇しないわけである(産出量が増え続けたら、いつかは名目利子率が上昇するだろう。名目利子率が上昇したら、名目為替レートが増価するだろう。AA曲線が右下がりになるわけだ)。驚くべきことに、マネーサプライが増えても均衡の位置は変わらない。点1のままなのだ。金融緩和は、産出量にも為替レートにも何の影響も及ぼさないのだ。「罠」に嵌ってしまっているのだ。
これまでの議論で鍵になるのは、将来の期待名目為替レート(Ee)が不変だという想定だ。中央銀行がマネーサプライを増やすとして、それが一時的な措置ではなく恒久的な措置であると見なされるようなら、現時点においてマネーサプライが増えると同時に Ee も上昇することになる。AA曲線が右上にシフトするのだ。その結果として、産出量が増えるだけでなく、名目為替レートが減価するのだ。しかしながら、これまで日本経済を観察してきたその道の専門家の意見によると、日本銀行の審議委員たちは――1930年代初頭の多くのセントラルバンカーたちと同じように――、円安とインフレを大層恐れていて、日本銀行は円安をいつまでも放置しておこうとはしないだろうというのがマーケットの見立てだという。日銀は一旦は円安を受け入れてもすぐに為替を増価させようとするつもりなんじゃないかと疑われていて、日銀があの手この手で金融政策を緩和しても一時的な措置に過ぎないと見なされているというのだ〔原注1〕。
2010年の今でもなお、ゼロ金利政策が続けられている。日本だけでなくアメリカでもだ。Fedもデフレになるのを防げずに、日本のようになってしまうのではないかと懸念する経済学者もいる。Fedも含めてあちこちの国の中央銀行が「非伝統的な金融政策」に乗り出している。これまでとは異なる資産を買いオペの対象にしているのだ。例えば、長期金利を低下させるために、長期国債を購入するというのもそのうちの一つだ。住宅ローンの金利にも大いに関わってくる。住宅ローンの金利が下がるようなら、住宅需要が盛り上がるだろう。「非伝統的な金融政策」の別の候補としては、外貨を購入するという手がある。次章で詳しく論じるとしよう。
〔原注1〕この点についての詳しい議論は、以下の論文を参照されたい。Paul R. Krugman, “It’s Baaack: Japan’s Slump and the Return of the Liquidity Trap”(Brookings Papers on Economic Activity 2: 1998, pp. 137-205)。以下の論文も参照せよ。Ronald McKinnon&Kenichi Ohno, “The Foreign Exchange Origins of Japan’s Economic Slump and Low Interest Liquidity Trap”(World Economy 24, March 2001, pp. 279-315)。
〔訳注1〕R* は外国の名目利子率。E は自国通貨建ての名目為替レート。ドル円の為替レートだと、例えば「1ドル=100円」のように表される。E の値が上昇すれば円安(減価)を意味していて、E の値が下落すれば円高(増価)を意味する。
〔訳注2〕DD-AA図について簡単に説明しておくと、DD-AA図は短期における財市場と資産市場の同時均衡を表している。DD曲線は、財市場が均衡する名目為替レートと産出量の組み合わせを表している。AA曲線は、外国為替市場を含んだ資産市場が均衡する名目為替レートと産出量の組み合わせを表している。DD曲線が右上がりになるのは、名目為替レートが減価すると、純輸出が増えるおかげで産出量が増加するからである(E↑→Y↑)。(通常の)AA曲線が右下がりになるのは、産出量(所得)が増えると、貨幣に対する需要が増えるからである。Yの増加(Y↑)→貨幣に対する需要の増加→名目利子率が上昇して(R↑)、貨幣の超過需要が解消→(Ee、R*が所与の場合の金利平価条件より)名目為替レートの増価(E↓)という調整が働くのである(Y↑→E↓)。
0 件のコメント:
コメントを投稿