2025年5月14日水曜日

Josh Hendrickson 「流動性の罠」(2011年5月9日)

Josh Hendrickson, “Liquidity Traps”(The Everyday Economist, May 9, 2011)

 
「流動性の罠」の有意義な定義としては、貨幣(現金残高)に対する需要に限りが無い状況というのくらいしか考えられない。貨幣(現金残高)に対する需要に限りが無いようなら、民間の経済主体は現金をいくらでも溜め込もうとするので、その必然的な結果として金融政策は無力になってしまうだろう。

例えば、中央銀行がFF金利(短期名目金利)に誘導目標を定めているとしよう。もしもFF金利がゼロ%に達したら、FF金利をそれ以上引き下げることはもはやできなくなってしまう。しかしながら、実質金利を引き下げる余地は残されている。標準的な貨幣理論によれば、中央銀行がマネーサプライを増やせばインフレ率が高まることになる。インフレ率が高まれば実質金利が低下して、総需要が刺激されることになる。

ところで、ポール・クルーグマン(Krugman 1998)(pdf)とラルス・スヴェンソン(Svensson 1999)(pdf)が提示しているモデルでは、名目金利がゼロ%に達すると、貨幣(現金残高)に対する需要に限りが無くなるようになっている。すなわち、名目金利がゼロ%の下限に達すると、マネーサプライを増やしても民間の経済主体によってそのまま溜め込まれてしまうのである。それゆえ、中央銀行は物価水準に影響を及ぼせなくなる。金融政策が無力になってしまうわけである(念の為に指摘しておくと、クルーグマンは金融政策がその力を取り戻す可能性についても言及している。中央銀行がインフレ期待を喚起することできるようなら、総需要を刺激できる可能性があるというのである。しかしながら、この点についてはしばらく脇に置いておくとしよう)。「流動性の罠」に嵌ることなんてあり得ないと無下に否定するわけにはいかないようだ。どういう条件が成り立てば「流動性の罠」に嵌るのかを真剣に検討する必要がありそうだ。

クルーグマンとスヴェンソンのモデルで「流動性の罠」に陥るのはどうしてかというと、貨幣が純資産(net wealth)ではないからである。貨幣が民間部門における純資産ではないせいで、マネーサプライが増えても実質残高効果(real balance effect)が生じないのだ。だからこそ、マネーサプライが増えても民間の経済主体によってそのまま溜め込まれてしまうのである。

ピーター・アイルランド(Ireland 2005)(pdf)によると、クルーグマンのモデルに人口の成長を組み込むと、実質残高効果が生じることになって、「流動性の罠」に陥るのを避けられるという。換言すると、人口が成長するようだと、貨幣を純資産に転換するような分配効果が生じるというのである。マネーサプライが増えると、民間部門における純資産が増えて、そのおかげで「流動性の罠」に陥るのを避けられるというのである。

これまでに触れてきたどのモデルも、政策金利がゼロ%の「ゼロ下限制約」に達した場合の金融政策の役割について理解する上で重要な示唆を投げかけている。その絡みで言うと、デビッド・ベックワース(David Beckworth)のこちらのブログエントリー〔拙訳はこちら〕を読んだ時には我が意を得たりと思ったものだ。「流動性の罠」に陥る可能性を認めながら、それと同時に金融政策がポートフォリオのリバランス(調整)を引き起こす可能性を説くのは矛盾しているというのがベックワースの言い分で、まさにその通りである。「流動性の罠」に陥っているなら、貨幣に対する需要に限りが無くなっているので、中央銀行による公開市場操作は何の効果も持たないだろう。中央銀行が債券を買い入れて市中に貨幣を注入しても、そのまま溜め込まれるだけだからだ――中央銀行がいかなる種類の債券を購入しようとも結果は変わらない――。「流動性の罠」に陥っている状況では、貨幣と他のあらゆる資産との間に違いがなくなる(完全に代替的になる)のだ。1968年にブルナー(Karl Brunner)&メルツァー(Allan H. Meltzer)の二人が指摘しているように(経済思想の歴史を学ぶことが重要なのはなぜなのかを物語っていると言えよう)。

ところで、マシュー・ログリー(Matthew Rognlie)がベックワースのエントリーのコメント欄に登場して反論を加えているが、それを読んで困惑してしまった。ログリー曰く、

まずはじめに強調しておきたいのは、言葉の定義には興味がないということです。中央銀行が金利に影響を与える手段を一切持ち合わせていない状況を指して「流動性の罠」と呼ぶのだとしたら、そういう意味での「流動性の罠」に嵌ることはないというが私の考えです。言葉の定義にこれ以上深入りするのを避けるためにも、私が言わんとすることを次のように言い換えるとしましょう。ゼロ下限制約に達すると、金融政策を通じて景気を刺激するのがずっとずっと難しくなる。ゼロ下限制約に達すると、金融政策の性質がそれまで(ゼロ下限制約に達する前)と根本的に変わる。

ログリーは、因果の向きを取り違えてしまっているようだ。私にしてもベックワースにしても、金融政策が無力であることを意味するように「流動性の罠」を「定義」しているわけじゃない。金融政策が無力になるというのは、「流動性の罠」の定義から必然的に導かれる結果なのだ。「貨幣に対する需要に限りが無くなっている」という定義に同意するか否かで、「流動性の罠」に陥る可能性を受け入れるかどうかも決まるのだ。「ゼロ下限制約に達すると、金融政策の性質がそれまで(ゼロ下限制約に達する前)と根本的に変わる」という主張は、「流動性の罠」に陥る可能性があるかどうかという話とは別物だ。「ゼロ下限制約」と「流動性の罠」を同一視すべきではないのだ(ベックワースも述べているように)。

ログリーはさらに次のように述べている。

あいにくなことに、量的緩和に起因するポートフォリオ・リバランス効果の大きさが些細ならざるものかどうかははっきりしません。エガートソン&ウッドフォード(Eggertsson&Woodford 2003)(pdf)は、一定の条件が成り立つようなら、量的緩和はポートフォリオのリバランスを一切引き起こさないという無関連命題を証明してさえいるのです。

確かにその通りである。ただし、エガートソン&ウッドフォードのモデルは、クルーグマンのモデルにいくらか手を加えた拡張版だということをおさえておくのは大事だ。クルーグマンのモデルと同じように、人口の成長が組み込まれていないので、分配効果が生じないようになっているのだ。つまりは、貨幣が純資産ではないことが仮定されていて、それゆえに実質残高効果が生じないのである。以下のように述べるログリーも実はそのことを密かに認めていることになるのだ。

エガートソン&ウッドフォードの無関連命題は、リカードの等価定理の変種の一つと言えるでしょう。公共部門のバランスシートのリスクを最終的に引き受けるのは民間の経済主体(消費者)なので、国債を所有しているのが民間部門から公共部門に変わっても何の違いも生じないのです。

同じようなアナロジーを持ち出している(「貨幣の超中立性」を「リカードの等価定理」の変種の一つと見なして分析を加えている)のがフィリップ・ウェイル(Weil 1991)(pdf)だが、ウェイルも指摘しているように、分配効果が生じないせいで貨幣が純資産ではないからこそ成り立つ結果なのだ。エガートソン&ウッドフォードのモデルでは、仮定によって分配効果が生じないようになっているのだ。

「流動性の罠」についてだけでなく、「流動性の罠」に陥るのはどういう条件が成り立つ場合なのかについても誤解があるようだ。「ゼロ下限制約」と「流動性の罠」を結びつけて論じるのが慣わしとなっているが、必ずしも同一視できないのだ。金融政策を論じる時には、「ゼロ下限制約」と「流動性の罠」の違いに気を配る(あるいは、言葉の定義にもっと注意を払う)のが大事なのだ。

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