2012年7月30日月曜日

Richard Ebeling 「ヴィンセント・オストローム ~自由と連邦主義の擁護者~」

Richard M. Ebeling, “Vincent Ostrom (1919-2012): Political Philosopher of Freedom and Federalism”(In Defense of Capitalism & Human Progress, July 1, 2012)


2012年6月29日金曜日、政治学者であるヴィンセント・オストローム(Vincent Ostrom)がこの世を去った。齢92歳であった。オストロームはアメリカにおける立憲上の連邦主義(アメリカ憲法に体現された連邦主義)(American constitutional federalism)の構造とその内容に関する指導的な専門家の一人であった。1919年にこの世に生を受け、1950年にUCLAから政治学の博士号を取得、1964年にインディアナ大学に移り、そこで妻であるエリノア・オストローム(Elinor Ostrom)――2009年のノーベル経済学賞の受賞者であり、夫が亡くなるおよそ3週間前に78歳でこの世を去った――とともに「政治理論と政策分析に関するワークショップ」(Workshop in Political Theory and Policy Analysis)を立ち上げている。

アメリカの立憲的な秩序の解剖に取り組んだ偉大なる業績 『The Political Theory of a Compound Republic』(1971, 2nd ed., 1987)は、 「フェデラリスト・ペーパー」(“The Federalist Papers”)の念入りな注釈を通じて、「自己統治」(“self-governing” )の概念とそのユニークな特徴を理解・解釈しようと試みた傑作である。このテーマはその後 『The Meaning of American Federalism: Constituting a Self-Governing Society』(1991)に収録されたエッセイでさらなる検討に付され、様々な方向に拡張されている。

私見によれば、彼の真の代表作は 『The Meaning of Democracy and the Vulnerability of Democracies: A Response to Tocqueville’s Challenge』(1997)である。本書は、政治哲学、経済学、社会学、歴史、社会における言語理論(訳注;社会言語学か?)(the theory of language in society)とが見事に融合された学際的な業績である。この本で彼は、自由な社会が存続するためには――ヴィルヘルム・レプケ(Wilhelm Roepke)の表現を借りれば――「需要と供給の彼方」( “beyond supply and demand”)にまで乗り出す必要があることを示している。

自由な民主主義社会(The free democratic society)は選挙や立法手続き(legislative procedures)ないしは成文憲法ですべてが尽くされるわけではない。自由な民主主義社会は――オストロームが好んで引用したアレクシス・ド・トクヴィル(Alexis de Tocqueville)の表現を借りれば――「心の習慣」(“habits of the heart” )や「精神の特徴」(“character of the mind”)に基づいている。つまりは、社会の構成員の間で「共有された意味の構造」(“structures of shared meaning”)から成る広大なネットワークに依存しているのである。自己統治に基づく社会秩序というのは、社会を構成する個々のメンバーが自分自身そして他者をどう捉えるかという点に依存するかたちで立ち現れてくるものなのだ。(訳注;自己統治が可能となりそれが存続するためには)社会の構成員の間で人間の価値の意味や個々人の尊厳に対して共同の信頼が置かれねばならず、一人ひとりが持つ夢や願望(wish)、望み(hope)、価値観の違い(人間の多様性)を尊重しそれを寛容に受け入れる態度が共有されねばならないのである。

とりわけ重要であるのは、社会の構成員の間で信念の体系(belief-system)――オストロームが強調しているように、信念の体系が社会の構成員の思考法(自分自身や他者をどのようなものとして考えるか)をある方向に導くためには、人々が使用する言語の中に埋め込まれねばならない――が共有されねばならない点である。自己統治を可能とする信念の体系はある発想、つまりは、暴力や抑圧、操作、欺瞞、腐敗(腐敗(corruption)の中には社会的・政治的な討論の場で使用される言語の転化も含まれる)に依らずとも、社会の構成員が共同の利益の促進に向けて平穏かつ協働して結集・協力する方法を見い出すことは可能だし望ましくもある、との発想に基づいている。

オストロームが強調しているように、自己統治は政治的な民主主義プロセスの場においてのみ意味を持ったり実現したりするわけではない。自己統治や「民主主義の精神」(“spirit of democracy”)はもっと広範なものであって、政治的な民主主義プロセスの場で実現する自己統治はその一部が表出したに過ぎないのである。民主主義的な統治の性格やその善し悪しは、自由な結社から成る自由な社会に生きる自由な個人によって協働的な自己統治の発想が安定的・持続的に共有されるかどうかで変容するのである。

自己統治に基づく社会秩序が抱える脆弱性の一つは、世代を超えて受け継がれ得るような「自己統治の遺伝子」(“self-governance gene” )など存在しない点にある。自己統治に基づく社会秩序は、新たな世代ごとに学ばれ適応されねばならず、それを支える「心の習慣」や「精神の特徴」が更新されることがなければ弱体化し最悪の場合は崩れ去ってしまう類のものなのである。

エドワード・シルズ(Edward Shils)が『Tradition』(1981)の中で指摘しているように、社会の伝統や慣習は三世代――子供と親と祖父母――が重なり合う(オーバーラップする)場合においてのみ保存され得る。三世代が重なり合うことで、知恵(wisdom)や洞察、理解、信念――これらは経験と内省を通じてのみ得られるものである――が若い世代に受け継がれる可能性が生じることになるのである。

ただし、慣習や伝統は永遠に「不変」(“frozen”)というわけではない。慣習や伝統は世代ごとに変化し修正されていく。しかしながら、その変化は「心の習慣」や「精神の特徴」が世代を超えて共有されることを通じて生じるのである。

オストロームは、自己統治に基づく社会の存続や繁栄が依って立つ「心の習慣」や「精神の特徴」が失われつつあるのではないか、と警告を発していた。介入的な国家・福祉国家の規模とコントロールが拡大することを通じてパターナリズムや社会工学を支持するメンタリティが広まり、それと引き換えに自己統治を可能とする「心の習慣」や「精神の特徴」が失われつつあるのである。

自由の言語(The language of liberty)――自由で自己統治を体現した人々の言語――が失われつつあるのだ。我々は、言語を通じて、自分自身について、他者との関係の在り方について、社会秩序一般について思考する存在なのである。

ナチ時代を生き抜いたユダヤ系のドイツ人であるヴィクトール・クレンペラー(Victor Klemperer)は戦後に一冊の本――『The Language of the Third Reich』――を執筆している。彼はその本の中で、ナチ・ドイツでは事実上誰もが皆ナチであった――自らを国家社会主義者と見なすかどうかにかかわらず。そして体制から虐げられた多くの者(ユダヤ系ドイツ人も含む)もまたそうであった――、と主張している。

なぜか? ナチの支配者らが流布したアイデアやイデオロギーによって人々の思考や信念が囚われ、それに対する適応が生じたためである。当時ナチ・ドイツに生きた人々は人生やモラルについて違った仕方で考えること、つまりは、人間や「人種」(“race”)、社会に関するナチ流の概念を反映する言語や政治的なフレーズから独立した思考を行うことに困難を感じたのである。クレンペラーが示唆しているように、ヒットラーの国家社会主義流の言葉遣いやロジックを通じて思考し行動した結果として、当時の人々はもはや自己統治を体現した存在ではなく体制の奴隷へと化したのであった。

オストロームはその研究を通じて、人々が「他者による統治」に陥ってしまって手遅れになってしまわないように、と警告を発していた。今やあまりにも多くの市民が精神や言語のコントロールに晒されそれに囚われつつある。「給付金(福祉の受給権)」(“entitlement”)、「不労所得」(“unearned income”)、「社会正義」(“social justice”)・・・・。

この先我々は集産主義的な(collectivist)パターナリズムに屈することになるのだろうか? それとも自由の言語や自由のアイデアが守り抜かれることになるのだろうか? その帰結次第でここアメリカを舞台とした自己統治をめぐる偉大なる実験――1830年代にトクヴィルがアメリカを訪れた際に大きな印象を受けた実験――がこのまま続くかどうかが決まるだろう。

ヴィンセント・オストロームの研究は、アメリカで観察される自己統治の性質やそのロジックを説明するにとどまらず、政治権力の分割と分権化を通じて自由を確保しようと試みるアメリカの偉大な実験が人類の歴史上に占めるそのユニークな位置づけを評価するよう促してもいる。その実験が途中で放棄されることにでもなれば悲劇的なまでの損失を意味することとなろう。

オストロームは、それなしでは自由が存続し得ない政治制度と社会的に(社会の構成員の間で)共有されたアイデアとに関する優れた分析を通じて、自由の哲学の深化に貢献する深遠な知的遺産を残すことになったのである。

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<訳者による追記>
 
ヴィンセント・オストロームの思想の全体像を知るにはR.ワグナーによる以下の論文も参考になるかもしれない。
 
● Richard E. Wagner(2005), Self-governance, polycentrism, and federalism: recurring themes in Vincent Ostrom's scholarly oeuvreScienceDirect)”(Journal of Economic Behavior & Organization, Vol.57(2), pp.173-188;こちら(pdf)で論文を閲覧できたり・・・


なお、文中でも触れられているように、ヴィンセント・オストロームの妻であるエリノア・オストロームも夫とほぼ時期を同じくして亡くなっている。エリノア・オストロームの訃報記事としては例えば以下を参照。
 
● Catherine Rampell, “Elinor Ostrom, Winner of Nobel in Economics, Dies at 78”(New York Times, June 12, 2012 )
● Daniel Cole, “Elinor Ostrom obituary”(guardian.co.uk, June 13, 2012)
● Peter Boettke, “Elinor Ostrom (1933-2012)”(Coordination Problem, June 12, 2012)
● Daniel Little, “Ostrom's central idea”(UnderstandingSociety, June 12, 2012)

オストローム夫妻のご冥福をお祈りします。

2012年7月25日水曜日

「ケインズ経済学に対する新たなる基礎づけ;ジョージ・アカロフへのインタビュー」

The New Case for Keynesianism;Interview with George Akerlof(pdf)”(Challenge, vol. 50, no. 4, July/August 2007, pp. 5–16)


現在主流の経済学で広く受け入れられている諸前提に挑むのはノーベル経済学賞受賞者でもあるジョージ・アカロフ。市場参加者の意思決定(なぜそのような意思決定を行うのか、意思決定はどのように行われるのか)に関してもっと現実的な見方に立てば、ケインジアンの信念が無理のないかたちで正当化されることが判明するだろう。政府による政策は経済を運営する上で決定的な役割を果たす。政府による政策を欠いた状態では、我々は一層大きなリスクに直面することになり、おそらくは経済成長は鈍化することになるだろう。

インタビュワー;アカロフ教授、この冬(訳注;2006年の冬)にあなたがアメリカ経済学会の総会で行われた会長講演(欄外訳注)は大変挑発的な内容でした。講演では現在主流の経済学で広く受け入れられている教義のいくつかに対して正面切って挑戦をなされました。講演の目的というのは一体どのようなものだったのでしょうか?
 
アカロフ;そもそも私が経済学を学び始めた理由は特にマクロ経済学、それも基本的には失業の原因(どうして失業が生じるのか、といった問題)に興味を持ったことにありました。失業の問題は私がこれまでに学者としてのキャリアを通じて行ってきた研究の大半の中心をなしてきたと言えます。先の会長講演では、現在主流のマクロ経済学に関する私なりのビジョンを提示するとともに、古いタイプのマクロ経済学-私個人の目には常に常識的な見解として映ってきたマクロ経済学-に対してもっと高い評価を与えるべき理由について説明したいと考えました。ここで古いタイプのマクロ経済学というのは基本的にはケインズのマクロ経済学のことを指しています。

インタビュワー;ケインズはこれまでに(ケインズが自説を発表した当時においてもそれ以降の時代においても)辛辣な批判にされされてきました。アカロフ教授が試みようと考えてらっしゃるのはこのケインズ批判の潮流を反転させることにあるのでしょうか?

アカロフ;ケインズに対する攻撃は彼の古典的な著作である『雇用、利子および貨幣の一般理論』が発表された1936年当時から既に見られたところではありましたが、ケインズ主義(Keynesianism)はまたたく間に教科書や経済学的な思考(economic thinking)における標準的な見解として定着することになりました。しかしながら、1970年代~1980年代に入ると、ケインズ経済学の理論体系とそれを支える諸前提に対してちょっとした修正を施すと、最終的に理論上における大きな変化がもたらされることを幾人かの経済学者が発見することになったのです。

インタビュワー;「ケインズ経済学」ということで正確にはどのようなことを意味されているのでしょうか? まずはこの点についてお話しいただけるでしょうか?

アカロフ;「ケインズ経済学」ということで私が意味しているのは、政府は経済の安定化を図る役割を担うべきである、ということです。政府がその役割を果たすにあたっては金融政策に頼ることができるでしょうし、金融政策がうまく機能しない場合には財政政策に頼るという選択肢もあるでしょう。具体的な手段はともかく、「ケインズ経済学」においては、経済の安定化を一国政府の責任の一つと見なすのです。

インタビュワー;『一般理論』が出版された当時、ケインズは金融政策-マネーサプライや金利の操作-よりも財政政策-税金や政府支出の操作-にずっと大きな関心を持っていると解釈されていました。これはケインズに対する誤った解釈であるとお考えでしょうか?

アカロフ;いや、そうは思いません。ただ、ケインズが執筆していた当時は他の時期とは状況が大きく異なっていた点を思い出す必要があります。大恐慌当時においてプライムレート(優良企業向けの優遇貸出金利)はほぼゼロ%の水準にありました。そのため、金利への影響を通じて機能する金融政策は(経済を刺激する上で)ほとんど何の効果も持ち得ず、頼れるのは財政政策だけという状況だったのです。しかし、戦後になり再び繁栄が戻ってくると、金利がゼロ%に近い状況というのはもはやお目にかかれなくなり、経済の安定化を図る手段として再度金融政策に頼ることが可能となりました。加えて、金融政策は財政政策よりも柔軟性に富んでいるように思われます。 というのも、金融政策は大統領や議会ではなく中央銀行(アメリカではFRB)によって決定されているので速やかに変更することが可能だからです。そういうわけで、現在では(財政政策だけではなく)金融政策と財政政策の両者ともにケインズ政策に含まれると考えられています。景気が悪化すると景気の浮揚を狙って政府が減税に臨んだり、時には政府支出の増加に臨む傾向を目にするでしょうが、これはまさしく古典的なケインズ流の財政政策です。

インタビュワー;さて、先ほど、1970年代~1980年代に入るとケインズ経済学を支える諸前提に対して修正が施されることになった、とのお話がありましたが-そのような修正は主にミルトン・フリードマン(Milton Friedman)をはじめとしたシカゴ大学の経済学者によって施されたと言っても差支えないと考えるのですが-、ケインズ主義に対する攻撃をひきつけることになった(ケインズ経済学を支える)諸前提というのはどのようなものだったのでしょうか? 

アカロフ;基本的には3つの前提です。まず1つ目は、現在の消費は現在の所得に依存する、という前提です。この前提に対してミルトン・フリードマンは、「それは間違いだ。人は合理的であり、それゆえ、個々人が現在どれだけ消費するかは単に現在の所得だけに依存するのではなくこれから先の生涯全体にわたる所得(訳注;もっと正確には、恒常所得)にずっと大きく依存するはずである。さらには、個々人が資産を保有している場合には、資産もまた現在の消費に影響を与えるだろう」、と反論しました。もしフリードマンのこの反論が正しいとすると、ケインズ政策の実施は一層困難なことになります。というのも、政府支出の増加を通じて人々に仕事が提供され現在の所得が増加するとしても、(フリードマンの反論が正しければ)現在の消費は現在の所得にそれほど敏感には反応しないので、政府支出の増加が有する乗数効果は小さくなるだろうからです。

インタビュワー;フリードマンの反論が正しければ、政府支出の増加が経済を刺激する効果は(ケインズ経済学において想定されている場合よりも)小さくなるということですね。ところで、フリードマンとよく似たモデルを提案した経済学者として例えばフランコ・モジリアーニ(Franco Modigliani)やジェームス・デューセンベリー(James Duesenberry)といった人々-フリードマンのように政治的な保守派であるとは言えない経済学者-がいます。彼らのモデルはフリードマンのものと同じと見ていいのでしょうか? それともいささか違ったところがあるのでしょうか?

アカロフ;基本的には同じと見て構いません。ですので、(ケインズ経済学を支える)1つ目の前提に対して反論を加えたのはフリードマンだけではない、ということになりますね。フリードマンの恒常所得仮説には支持するに値する見解があると信じられており、その見解が広く共有されているわけです。その見解というのは、つまりは、現在の消費は現在の所得だけに依存するわけではない、というものです。 しかしながら、ケインズが執筆したものを見ると、彼が大変慎重であったことがわかります。確かにケインズは、現在の消費は主に現在の所得に依存すると述べていますが、同時に彼は現在の消費が依存する可能性のあるそれ以外の変数からなる長いリスト-その中には将来の所得も含まれます-を掲げてもいるのです。フリードマンのユニークな点は、現在の所得は富-すべての将来所得を含んだ富-の一部として勘定される以外のかたちでは(訳注;富ならびに恒常所得を変化させない限りは)現在の消費に対して影響を与えることはない、と主張したところにあります。これは極端な見解であると言えます。ところで実際の事実を見ますと、現在の消費はかつてケインズが主張したのとそっくりのかたちで現在の所得に依存しているように思われます。しかし、そうだとしたら問題が生じることになります。フリードマンが主張したように、人々が合理的であるとすれば、消費の決定は恒常所得に基づいて行われるはずですが、そうだとすると現在の消費が現在の所得に依存するという事実をどう説明したらよいのでしょうか? この事実を説明する上で最も簡単な方法は、人々は規範(norm)に従って行動していると想定することにあると私は考えます。消費はどのようにあるべきか(どれだけの金額を消費するべきか/消費してもよいか)という点に関して人はそれぞれに見解を持っており、その見解はどれだけの額を支出に回す権利(資格)があると感じているか(how much they feel entitled to spend)に依存していると考えられるのです。大半の人々にとっては、自らが支出に回す権利があると感じる額は現在どれだけ稼いでいるか(現在の所得)に大きく依存するでしょう。現在の所得以上に支出すると、何か不味いことをしているのではないかと感じるのです。こういった理由で、現在の所得は現在の消費を決定する上で特別な役割を果たすことになるのです。現在の消費と将来の消費との間の選択は-フリードマンが主張したように-単に経済的な便益と経済的なコストとを天秤にかけて行われている、というわけではないと考えられるのです。

インタビュワー;次に他の前提についてお話をうかがうことにしましょう。ケインズ主義に対する攻撃をひきつけることになった1つ目の前提は消費関数を巡るものでしたが、その他の前提はどのようなものだとお考えでしょうか?

アカロフ;2つ目の前提は投資に関するものです。企業が投資を行うのは投資がもたらす経済的な報酬が投資の実施に要する経済的なコストを上回る場合に限ってである、との見解がありますが、これとは対照的にケインズは、企業による投資はキャッシュフローにも依存する、と主張しました。大きな利潤を手にした企業は(訳注;その大きな利潤を基にして)大規模な投資を行い、一方で、それほど利潤をあげられなかった企業は(訳注;その小さな利潤を基にして)わずかばかりの投資しか行わない、と考えたのです。

インタビュワー;企業の投資に関するケインズのその前提に対してどのような反論があったのでしょうか?

アカロフ;フランコ・モジリアーニとマートン・ミラー(Merton Miller)という2人の経済学者が次のような理論を発展させて反論を寄せたのです。もし人々が完全に合理的だとすれば、経営者は株主に対して可能な限り最大の収益をもたらすように行動するので、その結果として企業による投資は現在のキャッシュフローからは独立して決定されるだろう。企業による投資はこれから実施される予定の投資の収益性のみに依存するだろう、と。しかし、先ほど話した現在の消費と現在の所得との関係の例のように、ここでも実証的な事実はモジリアーニ=ミラーの理論に疑問を投げかけているのです。現実には、企業による投資は現在のキャッシュフローに敏感に反応しているのです。
 
インタビュワー;つまりは、ここでもまた反ケインズ的な見方からケインズ的な見方への回帰が生じた-他にもっと適当な表現があるのかもしれませんが-ということですね。

アカロフ;そういうことです。そして、この事実をうまく説明するような新たな理論、経営者の行動に関する新たな理論というのも開発されています。この理論では、経営者は単に株主の利益のことだけを考えて企業を経営しているわけではなく、経営者は自らが念頭に置いている利益もまた追求しようと試みるものだ、と捉えます。彼ら経営者は「帝国の建設者(empire-builders)」であって、利用可能な資金があればそれを基にして自分にとって望ましいと感じるような仕方で投資を実施するのです。こうして、私たちは再びケインズ的な見方に立ち戻ることになります。キャッシュフローが豊富にあると、それを基にして大規模な投資が行われることになるのです。

インタビュワー;ということは、かつてケインズ主義を覆した前提が今後は逆に覆されつつある、というわけですね。

アカロフ;もし現実の人間が標準的な経済学のモデルにおいて想定されているのとは別のものを最大化しようと試みるのだとすれば-現実の人間が合理的な経済人とは異なる利益を追求するとすれば-、最終的に得られる結論は標準的な経済学のモデルが予測するのとは異なったものとなることでしょう。そして、その結論はオリジナルのケインズモデルと似た性質を備えていると考えられるのです。

インタビュワー;それでは、3つ目の前提についてお話しいただけるでしょうか?

アカロフ;この3つの目の前提というのは私が最も重要だと考えるポイントでもあります。さて、賃金や価格というのはどのように設定されるのでしょうか? 40年ほど前、ミルトン・フリードマンとエドモンド・フェルプス(Edmund Phelps)は非常に興味深い理論を公にしました。彼らが主張するには、失業率がある水準-自然失業率と呼ばれています-を下回ればインフレーションが加速することになり、反対に、失業率が自然失業率を上回ればデフレーションが加速することになる、というのです。どうしてそうなるのでしょうか? 彼らによればその理由はこういうことです。現実の失業率が自然失業率を下回ったとすれば、現実のインフレ率は期待インフレ率を上回ることになるでしょう。現実のインフレ率があらかじめ予想していた以上の高さであることが判明すれば、労働者は賃金の引き上げを要求し、経営側は自社製品の価格引き上げに臨むことになるでしょう。このようにして、現実の失業率が自然失業率を下回るとインフレーションが加速することになる、というのです。もしフリードマン=フェルプスの主張が正しいとすれば、財政政策は長期的な失業の水準にほとんど何の影響も及ぼせない、ということになるでしょう。というのも、現実の失業率が自然失業率を下回ったとしても(訳注;その状態は一時的なものでやがて現実の失業率は自然失業率に落ち着き)最終的にインフレーションが加速するだけであり、現実の失業率が自然失業率を上回ったとしても(訳注;その状態は一時的なものでやがて現実の失業率は自然失業率に落ち着き)最終的にデフレーションが加速するだけ、ということになるからです。

インタビュワー;フリードマンとフェルプスによって自然失業仮説が提唱される以前は、フィリップスカーブが大きな影響力を誇っていました。

アカロフ;その通りです。かつては、インフレ率の水準と失業の水準との間にはトレードオフが存在する、と考えられていました。つまりは、失業率が低ければ低いほどそれに応じてインフレ率は高くなる、と考えられていたのです。ところが、フリードマンとフェルプスによれば、失業率が自然失業率を下回るような状況では、(訳注;インフレ率が上昇することと引き換えに失業率が低下する、ということはなく)インフレーションがコントロールを失って加速するような悪循環が生じることになる、というのです。

インタビュワー;フリードマンとフェルプスによる自然失業率仮説は政府による政策に対してどのような意味合いを持っているのでしょうか?

アカロフ;もし彼らの理論が現実に妥当するのだとすれば、金融政策や財政政策によっては現実の失業率を長期にわたって自然失業率と大きく異なるような水準にとどめておくことはできない、ということになります。つまりは、金融政策や財政政策は経済の長期的な繁栄(繁栄というのは結局のところ職(job)の問題に尽きます)に対して何の効果も持たない、ということになるのです。

インタビュワー;なるほど。それではなぜフリードマンとフェルプスの主張は成り立たないとお考えなのでしょうか?

アカロフ;彼らの主張には真実の要素が含まれてはいます。価格を設定するにあたって、人々はある程度期待インフレ率を考慮する、というのは確かにその通りでしょう。賃金契約に臨むにあたって、人々はおそらくこの先のインフレ率がどうなりそうかを考慮に入れることでしょう。しかし、フェルプスやフリードマンの理論は高い正確性と合理性を要求しています。彼らの理論では、期待インフレ率が1%ポイントだけ上昇すると、人々は設定する価格を1%ポイントだけ引き上げ、名目賃金の1%ポイントの引き上げを求める、と見なされているのです。これは非現実的なまでの正確性を要求するものと言えます。期待インフレ率が価格や賃金の設定に影響を持っているのは確かだと私も考えますが、両者が正確に1対1で対応している(訳注;価格や賃金が期待インフレ率の変化とそっくり同じ規模だけ改訂される)かどうかはわかりません。統計上の証拠は、両者が1対1で対応していることを明白な形で支持している、というわけではありません。どうやら多くの経済学者は期待インフレ率が価格や賃金の設定に及ぼす影響を現実よりもずっと強力なものとして解釈してきたようです。さて、期待インフレ率と価格・賃金の設定とが1対1では対応していないとすれば、どういうことになるでしょうか? 結論を言いますと、インフレーションと失業率との間には、フィリップスカーブが示唆するように、かなりのトレードオフが存在することになるかもしれないのです。

インタビュワー;期待インフレ率と価格・賃金の設定が1対1で対応するかのように見なしてきた経済学者らは一体何を見過ごしてしまったのでしょうか?

アカロフ;重要なポイントは貨幣錯覚(money illusion)の存在です。貨幣錯覚が存在する、ということは、人々は名目価格(nominal price)を通じてものを考えるということです。もし5ドルだけ名目賃金が上昇したら、人々はそれ以前(賃金上昇前)に手にしていたよりも5ドル多く、あるいは何かしらを多く手にすることになると考えるのです。たとえインフレーションが生じていたとしても、です。つまりは、貨幣錯覚が存在する場合、人々は賃金でどれだけの財が購入できるか、というようには考えないのです。そして、非常に重要な2つのインタビュー調査によれば、名目賃金が上昇すると、たとえ財の価格が同じだけ上昇していたとしても、人々は名目賃金の上昇を受けて以前よりも幸福を感じることが明らかにされています。今私が主張していることとフリードマン=フェルプスが主張していることとの違いは、フリードマン=フェルプスによる想定、つまりは、人は皆極めて合理的である、との想定にあります。フリードマン=フェルプスによれば、人々が賃金について考える際には、自らの賃金でどれだけの財が購入できるかという点にしか注意が向けられない-言い換えれば、人々はインフレーションで調整した賃金(実質賃金)にしか興味がない-、と見なされているのです。しかし、実際のところ人々は賃金を貨幣単位で考えている(訳注;名目賃金それ自体に興味を抱いている)ことを示す様々な証拠があります。この事実がはっきりと表れている例を一つ挙げると、人々は賃金のカット(切り下げ)を嫌う、というのがあります。それも特に名目賃金のカットを嫌うのです。人々は賃金や給与のカットを経済的な観点から解釈するにとどまらず、賃金のカットを個人的な侮蔑としても受け取る傾向にあります。そのために、経済的に見て筋が通っていたとしても、人々は賃金のカットに抵抗することになるのです。一方で、名目賃金の上昇がインフレーションに遅れをとる場合(訳注;名目賃金は上昇する一方で実質賃金は低下する場合)、人々は名目賃金がカットされる場合ほどには心がかき乱されることはありません。実際に統計上の証拠を眺めると、名目賃金がカットされた例というのはほとんどないことがわかります。もし人々がフリードマン=フェルプスが想定するほどに合理的なのだとすれば、人々は名目賃金の上昇がインフレーションに遅れをとる場合にも名目賃金がカットされる場合と同じような反応をしてしかるべきなのですが・・・・。

インタビュワー;今ご説明いただいたお話が政策に対して持つ意味合いはどういったものになるでしょうか?

アカロフ;オリジナルの自然失業率仮説からは、政府は経済の状況を改善し得ない、との含意が導かれることになりますが、一方で、貨幣錯覚が存在する場合には、労働者は自然失業率仮説が予測するところとは違って必ずしも期待インフレを賃金契約に反映させる(訳注;期待インフレ率の上昇分と同じだけの名目賃金の引き上げを要求する)ことはありません。その結果として、インフレーションと失業との間の長期的なトレードオフが復活する、ということになるのです。

インタビュワー;さらなる景気刺激策が採用されれば失業率は低下することになるかもしれない、ということでしょうか?

アカロフ;そうです。そして、穏やかなインフレーションは望ましいことだ(a little inflation is a good thing)、との結論が導かれることになります。これはある意味で、失業を減らすために人々が抱く貨幣錯覚を利用している、と見なすことができるでしょう。穏やかなインフレーションは雇用の妨げにならない、というわけですが、この見解は重要なインプリケーションを有しています。極めて低率のインフレーションの達成を目指してこれまでに奮闘を繰り広げてきた政府がいくつかありますが、そういった国では同時に高金利と経済成長の鈍化が見られました。例えば、1990年代を通じてカナダの金融政策は極めて低率のインフレーションの達成を目指して運営されましたが、同期間におけるカナダの失業率は大変高い水準を記録することになりました。インフレーションを極めて低い水準にとどめておこうとする過ちのために、経済成長の鈍化と不必要に高い失業率という高いコストを支払う結果となったわけです。

インタビュワー;1980年代から1990年代の初頭にかけてアメリカで追求されたインフレ率も低すぎであった、とお考えになりますか?

アカロフ;アメリカに関してははっきりとしたことは言えませんが、ただ、あまりに低率のインフレーションを目標とすることは重大な損害をもたらし得る、との警告であると受け止めていただきたいと思います。

インタビュワー;最近の経済学の教科書を読むと、執筆者がフリードマンにシンパシーを感じているような場合だけではなく、例えば、MITの伝統の中で育ったような人物が執筆者である場合でも、 自然失業率仮説に従順な様子が感じ取れますね。

アカロフ;そうですね。実にその点は会長講演でのメッセージの一つでもありました。「私たちはあまりにも自然失業率仮説に傾倒しすぎているのではないか? この点について冷静に考え直すべきではないか?」、というメッセージですね。もうちょっと丁寧に説明させていただきますと、優れた経済学者であれば誰でも、インフレ期待が賃金や価格の設定に影響を及ぼすだろう点には同意するでしょう。しかし、インフレ期待が賃金や価格の設定に影響を及ぼすと信じることとインフレ期待と賃金・価格の設定が1対1で対応していると主張することとの間には大きなギャップがあるのです。統計上の証拠によれば、確かにインフレ期待が価格や賃金の設定に影響を与えていることがわかります。統計上の証拠によれば、インフレ期待と価格・賃金の設定が1対1で対応している可能性を棄却することはできませんが、同時に、インフレ期待と価格・賃金の設定との結び付きが1対1での対応よりずっと弱い可能性もまた棄却されないのです。インフレ期待が価格や賃金の設定に及ぼす影響はゼロではないかもしれませんが、両者のつながりは1対1での対応よりずっと弱い可能性もあるのです。自然失業率仮説に対しては現状よりも少しばかり冷めた態度で接するべきなのです。実際の証拠は自然失業率仮説に関して広く受け入れられている見解を支持するものではなく、さらには、今日のようにインフレ率が低い場合には自然失業率仮説が妥当する可能性は特に小さくなるのです。後者(訳注;インフレ率が低い場合には自然失業率仮説が妥当する可能性が小さくなる点)については多くの証拠があります。

インタビュワー;どのような証拠でしょうか?

アカロフ;1930年代に大変痛ましい経済実験が行われることになりました。大恐慌(Great Depression)ですね。大恐慌の期間を通じて失業率は極めて高い水準にありましたが、当時の失業率は自然失業率-妥当なかたちで推計された自然失業率-を大きく上回っていたと思われます。自然失業率仮説が正しければ、現実の失業率が自然失業率を上回った結果としてデフレーションが加速していたはずです。しかし、現実にはそういったことは起きませんでした。1930年代を通じて失業率は極めて高い水準にあり、その結果として確かに低率のインフレーションが生じることにはなりましたが、自然失業率仮説が予測するようにデフレーションが加速するというようなことにはならなかったのです。

インタビュワー;これまでご説明いただいた議論は合理的期待形成理論に対しても疑問を投げかけることになるでしょうか?

アカロフ;自然失業率仮説や合理的期待形成理論のキーとなる想定は、通常思われている点とは違うのではないかと私は考えています。もう少し細かく説明させていただきましょう。多くの人々は、合理的期待形成理論のキーとなる想定は、市場参加者は将来に対して合理的に期待を形成する点にある、と見なしているようです。しかし、私個人としては、合理的期待形成理論のキーとなる想定は、人々は貨幣錯覚を抱かない、という点にあると思います。もし貨幣錯覚が存在するようであれば、たとえ人々が合理的に期待を形成するとしても、経済の安定化を図る上でシステマティックな金融政策に頼り得る余地が残されることになるでしょう。

インタビュワー;もう少し詳しくご説明していただけるでしょうか?

アカロフ;合理的期待形成理論によれば、金融政策は経済の安定化効果を持ち得ない、ということになります。その理由はこうです。もしマネーサプライの増加が賃金や価格の上昇を上回るようであれば、 金融政策は景気刺激効果を持つことになります。マネーサプライが物価水準よりも速やかに上昇するために(訳注;実質的な貨幣残高(マネーサプライを物価水準で除したもの)が増加するために)、総需要が増加することになるからです。しかしながら、貨幣錯覚が存在しない場合、金融政策の変更があらかじめ予見されていれば、賃金や価格はマネーサプライの増加と比例するかたちで引き上げられることになり、その結果として金融政策の効果が相殺されることになるのです。一方で、もし貨幣錯覚が存在すれば、人々はあらかじめ予見されたマネーサプライの変化を完全に相殺するようには行動しないと考えられます。貨幣錯覚が存在する状況では、マネーサプライの変化ほどには価格や賃金は変化しない(訳注;例えば、マネーサプライが増加した場合、賃金や価格はマネーサプライの増加ほどには引き上げられない)と考えられるのです。そうだとすると、あらかじめ予見されたマネーサプライの変化であっても生産や雇用に対して効果を持ち得ることでしょう。

インタビュワー;リカードの中立命題(Ricardian equivalence)も成り立たないとお考えでしょうか?

アカロフ;はい。リカードの中立命題については例を用いて説明することにしましょう。例えば、リカードの中立命題では、現代世代に対する社会保障給付の増加は現時点での支出(消費)に影響を与えない、と主張されます。その理由は、社会保障給付の増加を賄うために将来的に増税されるだろうと人々が予想するから、というのです。将来世代の消費水準を維持しようとの思いから、現代世代の人々は将来の増税(将来世代に対する税負担の増加)を予見して社会保障給付として受け取った分を(将来世代に相続する遺産として)貯蓄に回すだろう、というのです。このような理屈が現実をうまく描写していると信じる人はほとんどいないと私は思います。私であれば、ポケットに以前よりも多くのお金を持ち合わせていることを知ったとすれば、これまでよりもたくさん支出に回す権利があると感じることでしょう。

インタビュワー;合理的期待形成理論の後継者であり、リカードの中立命題といとこのような関係にあるのは実物的景気循環理論であると思われます。実物的景気循環理論でもまた政府による介入は何の助けにもならないと想定されています。実物的景気循環理論についてはどのようにお考えでしょうか?

アカロフ;実物的景気循環理論はその前提が非現実的であるためにうまくいかないと思います。実物的景気循環理論では、人々は貨幣錯覚を抱かないと想定されているのです。

インタビュワー;金融政策についてお考えになる際は、マネーサプライの成長率を頭に浮かべられるのでしょうか? それとも金利でしょうか?

アカロフ;今回のインタビューでは金融政策は主にマネーサプライの水準に影響を与えるものとして語ってきましたが、金融政策は金利を決定するものだと考えたとしても私の議論の本質は変わらないと思います。

インタビュワー;マネーサプライと金利とは切り離せないので、マネーサプライの観点から考えるか、それとも金利の観点から考えるかというのは重要ではない、という意味でしょうか?

アカロフ;金融政策は金利に影響を与えるのか、それともマネーサプライに影響を与えるのか、といった話は重要ではないと私は考えます。というのも、どちら一方の水準を決めたら、暗黙のうちに他方の水準も決めていることになりますからね。

インタビュワー;わかりやすい言葉で表現させていただくと、アカロフ教授の結論は、政府による政策は重要である、ということになるでしょうか。

アカロフ;私はケインジアンの見方に賛同しています。ケインジアンの経済認識はいつでも正しいものであった、と個人的には考えています。大恐慌についても戦後についても彼らの経済認識は正しいものでしたし、今日においてもケインジアンの経済認識は相変わらずその妥当性を失ってはいません。結論めいたことを言いますと、資本主義システムは人々が望む財を提供する上で極めて強力な仕組みであって、多くのメリットを備えています。しかし、だからといって、システムへの介入が果たすべき役割は何もない、ということにはなりません。政府は雇用水準に影響を与える上で責任があります。というのも、政府はそうすること(雇用水準に影響を及ぼすこと)が可能なのですから。戦後世界の経済的な成功は、政府が雇用に対する責務を果たすことへの信頼(faith)の上に成り立っていた(訳注;政府が雇用に対する責務を果たすに違いないとの信頼があったからこそ戦後世界の経済的な成功が可能になった)、と私は考えます。そのような信頼があれば、経済が不調に陥った場合でも、投資に回すはずであった資金を手に人々がどこかに逃亡するなんて事態は生じないでしょう。政府が完全雇用を維持する責務を果たすだろうから経済はそのうち復調するに違いない、と予想されるからです。過去60年にわたって西洋経済が完全雇用に極めて近い状況を保ち続けてきた主要な理由はまさにこの点(訳注;政府が雇用に対する責務を果たすことへの信頼が存在していた点)にある、と私は考えます。政府は経済の安定化を図る能力と責務がある、との発想に頼ることができなければ、私たちはこの先一体何が起こるのか見当もつかない状態に置かれることになるでしょう。そうなれば大変深刻な損失がもたらされることになるかもしれません。

インタビュワー;設備投資の決定や企業の意思決定、労働者の意思決定における不確実性が高まることになれば、それに伴って生じる損失は有害なものとなり得ますね。

アカロフ;そうですね。「政府を廃止せよ!」と訴える人々は、政府が廃止されることでこの世は一層見通しが良くなる(確かなものとなる)と考えているようです。そのような見方は私が考えるところとは正反対の見方ですね。

インタビュワー;今回アカロフ教授に披露していただいた見解といわゆるニューケインジアンの見解との間にはどういった違いがあるのでしょうか? ニューケインジアンのキーワードは「摩擦」(“frictions”)-賃金や価格の設定が粘着的になる根拠となるもの-ですが、この摩擦の存在がケインズ的な刺激策を正当化することになるわけですが。

アカロフ;「摩擦」を強調する議論に対しては何の反論もありません。ただ、今回お話しさせていただいた議論はケインジアンが心に抱いていた考えに対してもっとしっかりとした基礎を提供するものだと個人的には考えています。

インタビュワー;「摩擦」よりももっとしっかりとした基礎ということですか?

アカロフ;そうです。私の議論は「摩擦」を強調するニューケインジアンの議論を大きく補強することになると思います。ただ、「摩擦」を強調する議論に対しては反論があり得るのも確かです。「摩擦」の多くは情報の非対称性(asymmetric information)-特に、雇用者と被雇用者との間での情報の非対称性-が原因で生じますが、賃金契約を工夫することで情報の非対称性に伴う問題を和らげることは可能です。他にも、「摩擦」は精々小さなものであって、それゆえに景気循環に対してはわずかばかりの効果しか持たないとの反論もあり得ます。そういうわけで、「摩擦」を強調する議論は私の議論よりも脆い面があるのではないかと個人的には考えています。

インタビュワー;全体のまとめをしていただくとどうなるでしょうか?

アカロフ;ケインジアンの理解は基本的には正しかった、ということです。

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(欄外訳注)

インタビュワーの最初の質問で言及されている会長講演は以下。

●George A. Akerlof(2007), “The Missing Motivation in Macroeconomics”(American Economic Review, vol.97(1), pp.5–36;ドラフトはこちら(pdf))

なお、アカロフの本講演に関しては梶ピエール氏が詳細な解説を加えてらっしゃいます。本インタビューで触れられている内容についてもう少し深く突っ込んで知りたいという方は是非ともご一読あれ。

●梶ピエール、「『アニマルスピリット』の議論の原型」(梶ピエールの備忘録。, 2009年6月4日)

2012年7月19日木曜日

Mark Pennington 「「左翼」と公共選択論」

Mark Pennington, “‘The Left’ and Public Choice Theory”(Pileus, January 30, 2012)


政治的に見て「左翼」('the left')の人々が「公共選択論」(public choice theory)に対して示す反応には様々なものがあり得るだろう。

まず第1のタイプの反応は「無知」(ignorance)-公共選択論という理論的な立場が存在すること自体を知らない-に基づくものである。私が学者としてのキャリアを歩み始めたばかりの頃のことだが、ある講義を終えた後に次のような経験をしたことがある。その講義では1時間にわたって「規制の虜」理論-規制当局が規制対象である企業によって「捕われる」(‘capture’ )(訳注;規制政策の内容が(時に消費者側(ないしは社会全体)の利益に反して)企業側の利益促進につながるようなかたちをとる)現象に関する理論的な説明-について語ったのだが、講義終了後に講義を聴講していたとある学生-社会主義労働者党(Socialist Workers Party)の活動に積極的に関与していた学生-から次のような質問を受けたのであった。 「先生はいつマルキストになられたのでしょうか?」、と。ラディカルな「反マルキスト」を自任している身としてはこの学生の質問に正直面食らったわけだが、この学生の反応はアカデミックな世界(サークル)に蔓延っているある態度、すなわち、企業側(business)に有利に働くような(企業側の利益を促進するような)権力関係の所在に関心を示す人物は左翼的な立場あるいは社会主義的な立場に対してシンパシーを抱いているに違いない、と当然視する態度を例証していると言えるだろう。この種の(=「無知」タイプの)反応を見せる左翼の人々には、古典的自由主義(classical liberal)あるいは自由市場を支持する立場に基づきながらも企業側に有利に働く権力関係の理解(あるいは説明)を可能とするような理論的な立ち位置-公共選択論もそのような立場の一つだが-もあり得るとは思いも付かないのであろう。

第2のタイプの反応は「忌避」(‘avoidance’)というかたちをとる。左翼の中には、公共選択論の議論内容については気付いていながらも、自らが最も重要であると考えるアイデアに対して公共選択論が直接的な脅威となると感じるがために、「忌避」という反応を見せる人がいる。私が思うに、彼ら(左翼の中のある人々)が公共選択論を脅威と感じる理由の一部は、ネオマルキスト的な立場よりも公共選択論の方が現実の「権力関係」(‘power relations’)に対してより妥当な説明を提供しているからであろう。公共選択論は、権力に関するナイーブな多元主義的な(pluralist)見解-各利益集団の間に均等に権力が分配されているかのように見なす見解-を拒否した上で、エリートの権力に関する非マルキスト的な説明を提示する。公共選択論では、 政治の場における主要な行動単位(権力を有するプレイヤー)として「資本家」や「労働者」といった大ざっぱな「階級」を想定するのではなく、その代わりに、集団が結束する上で(訳注;集団を構成する個々のメンバーが集団全体の利益の促進に向けて一致団結する上で)-そして、集団が(結束することを通じて)他者(あるいは他の集団)に対して権力を行使する能力を決定づける上で-(集団を構成する)個々のメンバーが直面するインセンティブがどのような影響を及ぼすかという点に注目を寄せる。企業側が政治の場で大きな権力を持ち得るというのは確かである。しかし、その理由は、「企業だから」とか「我々が現に生きているのが資本主義社会だから」というわけではない。企業側が政治の場で大きな権力を持ち得るのは特に大規模なプレイヤーの数が相対的に少ない分野(訳注;例えば、同産業内における企業の数が少ない場合)においてであって、その理由は、政治的な権力の獲得に向けて結集することが困難な納税者や消費者といった集団に比べて企業側の方が容易に(企業間における)集合行為の問題(collective action problem)ないしはただ乗りの問題(free-rider problem)を克服し得るからである(訳注;ある集団が結束する上で障害の一つとなるのが集合行為の問題ないしはただ乗りの問題。それゆえ、集合行為の問題を比較的容易に克服し得るということは、集団として結束し易くて政治的な場でより大きな権力を持つ可能性が高いことを意味する。)。その一方で、プレイヤーの規模が小さくまたその数が多い分野(訳注;例えば、数多くの小規模な企業が激しい競争を繰り広げている産業)においては、企業側はしばしば政治的な発言力を欠き、労働組合や政府部門において独占的な地位を有する官僚といった集団の方が企業側よりも大きな権力を有する場合もあるのである。公共選択論の立場からすれば、「企業」(あるいは「資本家」)とか「労働者」とかいった括りなどには意味はなく、政治的な成功を収める「企業」(あるいは「資本家」)や「労働者」もいれば、そうではない「企業」(あるいは「資本家」)や「労働者」も存在するのである-どの「企業」(あるいは「資本家」)や「労働者」が政治的に成功するかは、集団を構成する個々のメンバーが直面する(それぞれのケースに特有な)インセンティブや組織上の問題に依存する-。現実の民主主義的な政治の場では多様な特殊利益が政治的な権力を得ている様子が観察されるが、この現実を説明する上では「階級支配」(‘class rule’)といった単純な理論よりも公共選択論の方が説得的であると言えよう。

左翼の多くの人々が公共選択論を脅威と感じるさらなる理由は、特殊利益が有する政治権力の問題をどうやって解決するかという点と関係していると思われる。市場に対する政府の介入がしばしば企業側の特殊利益によって「捕われる」(caputured)ことがあるとすれば-左翼の多くの人々はそう考えているようであるが-、市場に介入する政府の裁量的な権限を一層拡大しようと試みる社会民主主義的な(social democratic)取り組みが一体どういった次第で特殊利益の力を削ぐことにつながるのだろうか?(訳注;社会民主主義的な取り組みを進めることで市場に対する政府介入が一層増すことになれば、それにあわせてますます特殊利益が政治の場で大きな発言力を持つ可能性があるのではないだろうか? 社会民主主義的な取り組みを進めることと政治の場において特殊利益の影響力を排除することとの間には齟齬が生じる可能性があるのではないか? といった意味が込められているものと思われる。) おそらくマルキストは、「「権力関係」の問題を解決するためには、私有財産を廃止するとともにすべての意思決定権力を何らかの公共団体(public body)に一手に集中(独占)させるしかない」と主張することだろう-私にはあまり説得的とは思えない主張だが-。一方で、公共選択論の立場からすると、特殊利益が有する政治的な権力の主要な源泉が現代の社会民主主義的な政府にあるのだとすれば、特殊利益の力を削ぐ上で最も有効な手段は政府による反競争的な市場介入措置を取り除くことだ、ということになるだろう。この公共選択論的な解決策は、一切の不平等が存在しない平等なファンタジーの世界の実現を求めるものではない。公共選択論的な解決策が求めるのは、個々人の優れた成果や起業家的な創意工夫を通じて生じる不平等は歓迎するものの、政治的なコネのある資本家や労働組合のトップ、官僚らがその政治的な権力を通じて手にする不平等を最小限に抑えるような「制約された政府」(limited government)の枠組みである。

公共選択論に対して時に左翼の人々が見せる第3のタイプの反応は「否定」(denial)というかたちをとる。左翼の中には、「政治というのは、企業や労働組合、官僚といったプレイヤーが社会全体の犠牲と引き換えに自らの利益の促進を目指して政府を利用しようと相争うゲームである」といった議論に接すると、「政治というのはそのようなものではない」、と否定する人がいる。彼らによれば、政治は(「利益」ではなく)「価値(あるいは、アイデアや理念)」(‘values’ )によって突き動かされるものであって、公共選択論を専門とする経済学者らはこの点(政治の場において「価値」が果たす役割)を考慮していない、と言うのである。私は個人的には左翼によるこの反論に大いにシンパシーを感じるものである。というのも、既存の公共政策のいずれもが特殊利益を反映したものであると考える-「右派的なマルキスト」(‘right-wing Marxism’)の一派はそうだと主張するかもしれないが-のはあまりにも単純過ぎると思われるからである。しかしながら、公共選択論に対して上述したようなかたちで「否定」の反応を見せる左翼の人々は一つの問題を抱えることになる。政治の場における「価値」の役割を強調するのであれば、左翼の人々はこれまでに新たな支持者(同調者)を獲得するための戦術としてしばしば利用してきた陰謀論めいた議論の多くを投げ捨てなければならなくなるのである。 中央銀行が金融緩和を推し進め、金融規制当局が貸付基準の緩和を容認してきたのは、中央銀行や金融規制当局が民間のバンカーに「捕われた」ためではなく、中央銀行や金融規制当局自身がそのように行動することが「正しい」と考えたためなのだろうか? もし政治が価値やアイデアによって突き動かされるのだとすれば、「政府の失敗」の原因として、「トップ1%」(所得上位1%)による地位を悪用した振る舞いに目を向けるのではなく、(ケインズ主義やマネタリズムといった)「誤った理論」(‘mistaken theories’ )の持つ力に対してこそ目を向ける必要がある、ということになろう。

まとめよう。公共選択論は「左翼」に対していくつかの困難な問題を投げ掛けることになる。もし「政治は「利益」によって突き動かされるものである」という立場をとるのであれば、特殊利益がいかにして政治的な権力を追求・獲得するのか、特殊利益が社会にもたらす脅威を最小化するためにはどうしたらよいか、といった話題を考える上で、公共選択論は左翼よりも妥当な説明を提示することができる。一方で、もし「政治においては利益よりも「アイデア」の方が重要である」という立場をとるのであれば、左翼はこれまでに新たな支持者を獲得する上で最も重要な戦術(話術)の一つであった「やつらvs.我ら(敵vs.味方)」(‘them versus us’ )といったレトリックに頼ることをあきらめねばならなくなるのである。

2012年7月6日金曜日

Renee Haltom 「流動性の罠」

Renee Haltom, “Jargon Alert-Liquidity Trap(pdf)”(Region FocusFirst Quarter 2012), FRB of Richmond)


短期的な経済成長を刺激する上で中央銀行が無力となる状況は存在するだろうか? 幾人かの経済学者は、「今こそがまさにそのような状況である。経済は「流動性の罠」(“liquidity trap”)に嵌っているのだ。」、と主張している。

1930年代にジョン・メイナード・ケインズがはじめて「流動性の罠」という概念を導入して以来、それを支える理論に変化が生じたために、「流動性の罠」の定義には幾分かの曖昧さが生じることになった。最も広い意味では、金利がゼロ%にまで引き下げられたために金融政策が経済を刺激することができなくなってしまった-「罠」に嵌ってしまった-状況を指して「流動性の罠」と定義づけられている。2008年12月以降、金利はゼロ%ないしはゼロ%近辺にとどまっている状況である。

「流動性の罠」のもう少し正確な定義は、「流動性の罠」=「人々が他の資産よりも現金(cash)に対して飽くなき(無限の)需要-「流動性」に対する飽くなき需要-を抱いている状況」というものである。人々が現金に対して飽くなき需要を抱いているような状況においては、中央銀行がマネーサプライを増やしても消費や投資は増加せず、経済が刺激されることはないだろう。なぜなら、中央銀行がマネーサプライを増やしても、人々は新たに手にした現金をそのまま保蔵してしまうからである。しばしば、財政刺激策のようなその他の政策を正当化するために、「「流動性の罠」の下では金融政策は無力である」と語られることがあるが、現実の経済には同時に様々な(時に対立する)影響が生じている点を勘案すると、Fedによる金融緩和の努力が経済に何の影響も及ぼさないかどうかをリアルタイムで(金融緩和に臨んでいる最中に)判断することは困難であると言えよう。実のところ、Fedによる金融緩和が経済に対して何の影響も及ぼさないかどうかは事後的に(実際に金融緩和を実施してみた後に)のみ知り得る問題なのである。「流動性の罠」を指して「人々が他の資産よりも現金に対して飽くなき需要を抱いている状況」と定義づけるとしても、そのような定義はリアルタイムの政策決定に対してはそれほど洞察を与えるものではないのかもしれないのである。

ところで、多くの経済学者は「流動性の罠は決して起こり得ない」と主張している。研究によれば、金利がゼロ%に達した状況においても中央銀行は決して無力ではないことが示唆されているのである。例えば、Fedの量的緩和は銀行部門に大量の流動性を供給することを通じて貸付金利の低下を促すことになったし、さらには、Fedが2011年の8月以来試みてきているように、金利を今後もしばらくの間極めて低い水準に据え置く旨を宣言することを通じて金融政策が将来的にも景気刺激的なスタンスにとどまる期待を生み出し、そうすることで貸付けの条件をさらに緩和することは可能なのである。こういった一連の政策のアナウンスに対して金融市場はポジティブな反応を見せたようだが、この事実は、マーケットの参加者たちはFedの政策が無力だとは信じていないことを示唆していると言えるだろう。

原則としては中央銀行が創造し得る貨幣の量には限界はない。というのも、極端な話、中央銀行は経済に存在する利子付きの資産をすべて購入し得るからである。おそらくは、中央銀行が利子付きの資産をすべて購入する以前の段階で、貨幣以外の資産の価格が上昇を始め、その結果として投資(実物投資)の魅力が増し、経済活動が上向くことになるだろう。

実のところ、「流動性の罠」を巡って議論する際に多くの経済学者の頭にあるのは、中央銀行が経済を刺激する「能力」(ability)に対する制約(限界)ではなく、中央銀行が経済を刺激しようとする「意思」(willingness)に対する制約であるように思われる。金融緩和に伴うコスト-その中でも最も顕著なものはインフレーションが上昇するリスク-が経済を刺激しようとする中央銀行の「意思」に対して制約を課しているのかもしれないのである。

Fedが名目金利のゼロ下限制約に直面して以降インフレーションは抑制され低水準で推移しているが、政策当局者は、さらなる金融緩和に乗り出して景気回復を促す場合と経済の自然治癒に任せる場合とでは後者(経済が自ずと回復するに任せる)の方がコストが小さい、と判断することがあるかもしれない。例えば、フィラデルフィア連銀総裁であるチャールズ・プロッサー(Charles Plosser)をはじめとした幾人かの経済学者は、「さらなる金融緩和策は金融市場に歪みを生み-特定の投資プロジェクトを他の投資プロジェクトと比べて人為的に安価にし-、将来的に資源配分を歪ませることになるかもしれない」、と主張している。

標準的な「流動性の罠」の概念が示唆するように中央銀行は無力である(中央銀行は経済を刺激する能力がない)、というよりは、中央銀行に経済を刺激する意思が欠けている-金融緩和のコストと便益との評価に基づいて(便益よりもコストの方が大きいと判断して;訳者挿入)経済をさらに刺激することを拒む-、と考えた方が(事実の描写として)妥当であるのかもしれない。しかしながら、政策当局者が「さらなる金融緩和は経済に対してネットで見て便益をもたらさない(コストの方が便益よりも大きい)だろう」と判断した(その結果としてさらなる金融緩和に乗り出すのを踏みとどまった;訳者挿入)場合、我々は「流動性の罠」のテクニカルな定義によって予測されるのと非常に似通った状況-中央銀行による力強い行動にもかかわらず、経済の低成長が持続する状況-を目にすることになる可能性があるのである。

「流動性の罠」に関する実際の証拠もまたそれほどはっきりとしたものではない。「流動性の罠」の実在を示す証拠としてよく挙げられる3つのエピソードがある。まず第1のエピソードは大恐慌(Great Depression)である。しかし、ミルトン・フリードマンとアンナ・シュワルツによる指摘、つまりは、1930年代の半ばにおいてFedは金融政策を緩和し続けていたわけではなかった、との指摘は有名である。準備預金に関する政策変更が金融システムに対してどのような影響を及ぼすかについて不完全にしか理解されておらず、そのためにFedは不注意にも(inadvertently)マネーサプライの縮小を許してしまい、結果として大恐慌を悪化させることになってしまったのであった。第2のエピソードは1990年代を通じて低成長を記録した日本の「失われた10年」である(2000年代の大半の時期もその中に含める経済学者もいる)。 しかしながら、多くの経済学者は、日本銀行の金融政策もまた(1930年代半ばのFedのように)「失われた10年」の間に幾度か引き締め的となり、経済成長を刺激する上で日本銀行にできることはすべて試みられたとは言い難い、と主張している。第3のエピソードは2008年~2009年の景気後退から現在にかけてである。経済を刺激するためにFedが前例のない試みに乗り出したにもかかわらず、結果的には力強い景気回復が見られなかったことを受けて、幾人かの経済学者は、「今や経済は「流動性の罠」に陥っているのだ」、と主張している。確かにこの間における経済成長は弱々しいものだったが、 これまでのところFedの多くの政策当局者は、「条件が許す限り、Fedの弾薬庫は空っぽではない(Fedの打つ手はなくなってはいない)-そして今後も決して打つ手がなくなることはないだろう-」、と主張してきている。

2012年7月2日月曜日

Alberto Alesina and Francesco Giavazzi 「財政緊縮を巡る正しい問いの立て方:手段(「どのように?」)は規模(「どれだけ?」)と同じくらい重要である」

Alberto Alesina and Francesco Giavazzi, “The austerity question: ‘How’ is as important as ‘how much’” (VOX, April 3, 2012)
ヨーロッパ各国政府による財政緊縮に向けた動きは、経済学者の間で激しい議論を巻き起こすこととなった。財政緊縮を巡る議論は、問いの立て方が不適切であるために、袋小路に迷い込んでしまっている。重要な原則――「どのように?」(’how’)という問いは、「どれだけ?」(’how much’)という問いと同じくらい重要である――が広く認識されないでいるうちは、ヨーロッパにおける財政緊縮を巡る議論は、財政緊縮が経済にもたらす真の効果から遊離したかたちで進められることになるだろう

ヨーロッパにおける財政緊縮を巡る議論は、財政緊縮の「規模」(size)にばかり注目が寄せられる結果として、袋小路に迷い込んでしまっている。政策当局者は、どのような手段を通じて財政緊縮を進めたらよいのか(財政緊縮の構成(composition))――増税を通じて財政緊縮を進めるか、政府支出の切り詰め(歳出削減)を通じて財政緊縮を進めるか――、財政緊縮に相伴うべき政策は何なのか、という点にこそ注目すべきである。「規模」を強調する不適切な傾向は、VOXディベートのタイトル――「財政緊縮は行き過ぎか?」( “Has austerity gone too far?” )――にも表れていると言えよう。

我々の見解によれば、「どのくらい遠くまで歩を進めたらよいのか(財政緊縮を『どの程度の規模だけ』進めたらよいのか)」(’how far’ governments go)という問いではなく、「目的地までどのようにして歩を進めたらよいのか(財政再建を実現するに十分なだけの財政緊縮を『どのように』進めたらよいのか)」(’how’ governments go far enough)という問いこそが重要なのである。

「増税を通じた財政緊縮」と「政府支出の切り詰めを通じた財政緊縮」との効果を巡る証拠

OECD加盟各国(とりわけ、ヨーロッパ各国)でこれまでに実施された大規模な財政再建の効果をどのように計測したらよいか、その効果をどう評価したらよいかという点を巡って、経済学者の間で活発な議論が繰り広げられてきている。その議論の過程で積み上げられた証拠を慎重かつ公正な目でもって点検すると、論者ごとのアプローチの違いにもかかわらず、比較的論争の余地のない(ある程度のコンセンサスが得られるような)ポイントがいくつか明らかになってくる。過去40年間にわたりOECD加盟各国で実施された財政再建に関する膨大な証拠に目を凝らすと、以下のポイントが明瞭になってくるのである。
・ポイントその1;政府支出の切り詰めを通じた財政緊縮は、増税を通じた財政緊縮に比べると、景気を抑制する効果が小さい。
・ポイントその2;政府支出の切り詰めを通じた財政緊縮に適当な政策が伴うようなら、そうじゃない(政府支出の切り詰めを通じた財政緊縮に適当な政策が伴わない)場合と比べて、景気の落ち込みは軽微で済む傾向にあり、場合によっては経済成長にプラスの効果が生じる傾向さえある。
政府支出の切り詰めを通じた財政緊縮に伴う「適当な政策」には、金融緩和、生産物市場・労働市場の自由化、その他の構造改革が含まれる。

「適当な政策」には何が含まれるのか、「適当な政策」がどのような経路を通じて政府支出の切り詰めを通じた財政再建を側面から支援することになるのか、といった論点に関しては突き詰めねばならないことがまだたくさん残されているが、例えばロバルト・ペロッティがつい最近の論文で示しているように(Roberto Perotti(2011))、次の事実は揺るぎないものである。
・ポイントその3;これまでのところ、政府債務残高の対GDP比が(低下しないまでも)一定水準で安定を保つという意味で「持続的な財政再建」(permanent consolidation of the budget)に成功した例というのは、政府支出の切り詰めを通じた財政緊縮のみである。

IMFの研究の批判的な検討

IMFが発表したばかりの2つの研究(IMF, 2010, Chapter 3, and Devries et al 2011)も、政府支出の切り詰めを通じた財政緊縮はうまくいくという点には同意している。しかしながら、IMFの研究によると、その理由は、財政緊縮が政府支出の切り詰めというかたちをとるからではなく、政府支出の切り詰めを通じた財政緊縮にあわせて、「偶然にも」長期金利が低下したり、あるいは「偶然にも」為替レートが安定したり、あるいは「偶然にも」株価が安定したおかげ(あるいは、以上のすべてが「偶然にも」同時に生じたおかげ)だという。

そのような言い分は、純粋に論理的な観点からしても欠陥を抱えていると言わねばならない。というのも、金融資産の価格――金利、為替レート、株価――というのは、(政策の如何によっては左右されない)外生的な変数ではなく、財政政策のアナウンスメントに反応するものだからである。例えば、投資家らが「政府支出の切り詰めを通じた財政緊縮のみが持続的な財政再建につながる」と正しくも認識しているとすれば、政府支出の切り詰めを通じた財政緊縮がアナウンスメントされると、投資家らの「信頼」(’confidence’)が高まる結果として、長期金利の低下や株価の上昇が引き起こされることになるだろうと考えられるのである。

この点に関するもっと説得的な証拠は、異なる「タイプ」の財政緊縮プログラムが信頼および生産量に及ぼす効果を比較することによって得ることができる。増税を通じた財政緊縮は、政府債務残高の対GDP比の上昇を食い止めることができないという意味で、うまくいかないというだけではない。増税を通じて財政緊縮が試みられる旨がアナウンスされると、企業経営者らの信頼が急激に冷え込み、それに伴って、生産活動が低調になるのである。それとは対照的に、政府支出の切り詰めを通じて財政緊縮が試みられる(加えて、適当な政策が伴う)旨がアナウンスされても、企業経営者らの信頼が冷え込むことはなく、財政緊縮プログラムがアナウンスされてから1年の間に、生産活動はむしろ右肩上がりになる場合さえあるのである。

税収がGDP比で50%近くに及ぶヨーロッパの国々に関しては、これ以上税収を増やす余地が残されていないという点も指摘しておかねばならないだろう。

ハラルド・ウーリヒ&マシアス・トラヴァントの二人の最近の論文によると(Harald Uhlig and Mathias Trabandt (2012))、ヨーロッパの多くの国々は、現実的な想定に基づいて推計されたラッファーカーブの頂点にきわめて近い位置にあるようだ。つまりは、追加的な増税は、税収をわずかに増やすだけで、供給サイド・需要サイドの両方への影響を通じて景気を大きく落ち込ませる可能性があるわけである。

以上の点を勘案すると、財政再建を巡る議論において、財政緊縮プログラムの規模に注目するのはやめるべきだと言えよう。比較的少額の増税を通じて財政再建を試みようとしても、それよりも規模の大きな政府支出の切り詰めを通じて財政再建を試みる場合よりも、景気を大きく冷え込ませる可能性がある。言い換えると、政府債務残高の対GDP比を安定させる上では、比較的少額の政府支出の切り詰めを通じて財政再建を試みる方が、それよりも規模の大きな増税を通じて財政再建を試みる場合よりも、効果的な可能性があるのだ。

財政緊縮の「構成」に関してもっと詰めるべき論点

財政緊縮の「構成」の効果を解きほぐすためには、以下のような論点についてもっと詰める必要があるだろう。
政府支出の項目の中で、どの項目の切り詰めが(財政再建を実現する上で)より大きな効果を持つ可能性があるか?
同じ税収をもたらす税制改革のうちで、より歪みの小さいものはどれか?
どの分野の市場から自由化を進めればよいか? 自由化はどのくらいのペースで進めればよいか?
すべての国で回答が同じである場合もあれば、国ごとに回答が異なる場合もあるだろう。
例えば、全般的には、所得税から付加価値税(VAT)に重きを置く方向に税制を変えるのが望ましいだろう。
国によっては、定年の大幅引き上げや政府部門の雇用カット(人員削減)に乗り出すしか(財政再建に向けた)解決の途はない場合もあるだろう。
二番目には、労働市場の改革も絡んでくる。公共部門の雇用カットは、解雇規制が取り払われて、適当なセーフティーネットが整備されたのちにはじめて可能となるだろう。また、多くの国に関しては、物理的なインフラの必要性やその生産性を強調することは時に的外れである。

結論
本論説で指摘してきた重要な原則――「どのように?」(’how’)という問いは、「どれだけ?」(’how much’)という問いと同じくらい重要である――が広く認識されないでいるうちは、ヨーロッパにおける財政緊縮を巡る議論は、財政緊縮が経済にもたらす真の効果から大いに遊離したかたちで進められることになるだろう。

ユーロ圏における財政再建プログラムの中核を担う財務協定(fiscal compact)には、大きな落胆を感じざるを得ないところである。というのも、財務協定は、自らのうちに失敗の種を蒔いているように思われるからである。
ユーロ各国が条約を変更してまで自らに課すことを決定した新財務協定では、財政緊縮パッケージの構成(増税を通じて財政緊縮を進めるのか、政府支出の切り詰めを通じて財政緊縮を進めるのか)について一切言及がなされていない。
財政再建が主に税サイドを通じて試みられて(増税を通じた財政緊縮というかたちをとり)、政府債務残高の対GDP比が低下しないようであれば、ユーロ経済は――さらなる景気後退に陥るところまでいかなくても――停滞を続けることになるだろう。
結局のところ、財務協定は、安定・成長協定(Stability and Growth Pact)のように、頓挫する結果に終わるだろう。


<参考文献>

○Corsetti, G (2012), “Has austerity gone too far? A new Vox Debate”, VoxEU.org, 2 April.
○Devries, P, J Guajardo, D Leigh, and A Pescatori (2011), “A New Action-Based Dataset of Fiscal Consolidation(pdf),” IMF Working Paper No. 11/128.
○IMF (2010), “Chapter 3(pdf)”, World Economic Outlook, Washington, DC: International Monetary Fund.
○Perotti, R (2011), “The ‘Austerity Myth’: Gain Without Pain?(pdf)” NBER Working Paper No 17571.
○Trabandt, M and H Uhlig (2012), “How Do Laffer Curves Differ Across Countries(pdf)” , NBER Working Paper No 17862.