2022年11月5日土曜日

Matthew E. Kahn&Matthew J. Kotchen 「景気後退に備わるクラウディング・アウト効果 ~失業率が高まると、環境問題への関心は低下する?~」(2010年8月21日)

Matthew E. Kahn and Matthew J. Kotchen, “Trends in environmental concern as revealed by Google searches: The chilling effect of recession”(VOX, August 21, 2010)
環境問題に対する世間の関心は、奢侈財(ぜいたく品)のような性質を持っているのだろうか? Googleで「失業」と「地球温暖化」という2つのキーワードがどれだけ検索されているかを時系列に沿って調べたところ、景気後退は、気候変動問題への関心を低下させる一方で、失業問題への関心を高める効果を備えていることが判明した。さらには、景気後退には、地球温暖化否認論(「地球温暖化なんて起こってない!」)の勢いを強める効果が備わっている場合もあるとの結果も得られている。

Googleインサイト〔訳注;Googleインサイトのサービスは、現在ではGoogleトレンドに統合されている〕は、Googleのネット検索サービスで特定のキーワードが地域別にどれだけ検索されたかを時系列に沿って調べることを可能とするオンラインツールであり、誰もが気軽に利用できる。これまでの一連の研究によると、Googleの検索データは、病気の流行(Pelat et al. 2009, Valdiva and Monge-Carella 2010)や経済活動(Choi and Varian 2009, D’Amuri and Marcucci 2009, Varian 2009)の予測に役立てることができる強力なツールであることが明らかとなっている。アメリカ経済は、2007年の終盤頃を境にして、1930年代の大恐慌以来最も深刻な景気後退に見舞われることになったわけだが、現下のかような経済状況は、Googleの検索データを使って、景気循環と世論との間にどのような関係が成り立っているかを探る上でまたとない機会を提供していると言えるかもしれない。

もう少し具体的に突っ込むと、ここ最近のアメリカでは、景気が大きく低迷しているだけではなく、環境問題に対する国民の関心も大いに薄れつつある様が確認できる。景気の悪化(景気後退)は、環境問題に関する世論の変遷に一体どの程度の影響を及ぼすことになるのだろうか?

まさにこの問題の解明を意図しているのが我々二人がつい最近行ったばかりの研究(Kahn and Kotchen 2010)だが、環境問題――その中でも、現在最もホットな争点の一つである気候変動の問題――に関する世論の変遷を跡付けるために、Googleの検索データの助けを借りた。Googleインサイトのサービスを利用して、2004年1月から2010年2月までの間に、「地球温暖化」(“global warming”) と「失業」(“unemployment”) という2つのキーワードがアメリカ国内のそれぞれの州でどれだけ検索されたかを週次データとして集計したのである。そして、その上でこう問うたのである。ある州で失業率が変化すると、その州でのこれら2つのキーワードの検索状況にはどのような影響が及ぶだろうか?

さて、その答えはというと、ある州で失業率が上昇すると、その州では「地球温暖化」というキーワードの検索が減る一方で、「失業」というキーワードの検索が増える傾向にあったのである。ネット検索(という実際の行動)を通じて顕示された人々の選好に照らす限りでは、景気後退は、失業問題に対する人々の関心を高める効果を持つ一方で――このことは特段驚くことでもないだろう――、環境問題に対する人々の関心をクラウドアウトする(弱める)効果を備えている可能性があると言えそうである。さらには、これら2つの効果の量的な大きさはほぼ同等であるとの興味深い結果も得られており、失業問題に対する関心は、環境問題に対する関心をクラウドアウトする効果がある〔訳注;失業問題に対する関心が高まるのと同じ分だけ、環境問題に対する関心が低下する、という関係にある〕との解釈も無理なく成り立つと言えそうである。

赤い州と青い州 ~景気後退に備わるクラウディング・アウト効果がより顕著なのは、どちらの州?~

アメリカ国内では、「赤い州」(“red states”)〔訳注;共和党を支持する傾向が強い保守的な土地柄の州〕と 「青い州」(“blue states”)〔訳注;民主党を支持する傾向が強いリベラルな土地柄の州〕との間で、環境問題をめぐってイデオロギー面での対立があることはよく知られているところだが、我々の研究では、州ごとの政治的なイデオロギーの違いが、失業率(の変化)とGoogleを使った検索活動(に見られる変化)との間に成り立つ関係にどういった影響を及ぼすかについても検証している。その検証を行うためには、それぞれの州の政治的なイデオロギーの違いを測る必要があるが、2004年の大統領選挙における(民主党側の候補である)ジョン・ケリー候補の州別の得票率のデータを集めて、それを州ごとの政治的なイデオロギーの違いを測る尺度の一つとして用いている。さて、その検証の結果はというと、民主党寄りの傾向が強い州ほど、(その州の失業率の上昇に伴って)「地球温暖化」というキーワードの検索が減る度合いが大きくて、「失業」というキーワードの検索が増える度合いが小さいことが判明した。民主党寄りの傾向が強い州ほど、(その州の失業率の上昇に伴って)「地球温暖化」というキーワードの検索が減る度合いが大きいという結果は、一見すると直感に反するように思えるが、そうなる理由の一つは、共和党支持者は、民主党支持者と比べると、気候変動問題にそもそもあまり関心が無く、そのため、気候変動問題に対する関心が低下する余地が乏しいためなのかもしれない。

失業率が高まると、地球温暖化を否認する声が勢いを増す?

我々の研究では、失業率の変化に応じて、気候変動の問題に関する世論が州ごとにどのように変化するかを探るために、Googleの検索データ以外にも、アメリカ全土を対象に2度にわたって行われた聞き取り調査――この聞き取り調査では、気候変動問題について同じ質問がなされている――の結果も利用している。聞き取り調査の結果を利用した分析によると、ある州の失業率が上昇すると、その州で暮らす住民が地球温暖化の進行を認める(地球温暖化が進行していることを認める)確率が低下し、地球温暖化の進行を認める住民もその意見にどれだけ自信があるかと問われると、(失業率が上昇する前と比べて)弱気になりがちであることが判明した。さらには、ある州の失業率が上昇すると、その州の住民は「米議会は、地球温暖化を防ぐための対策を緩(ゆる)めるべきだ」との意見に傾くという結果も得られている。また、カリフォルニア州で毎月実施されている計11回に及ぶ聞き取り調査――この聞き取り調査では、「’経済’, ‘環境’, ‘仕事’, ‘教育’, ‘健康’, ‘移民’, ‘財政赤字’, ‘税金’, ‘その他’の中で、カリフォルニア州が目下抱えている一番重要な問題はどれだと思いますか?」という質問が問われている――の結果を利用した分析によると、カリフォルニア州での失業率が上昇すると、「環境」問題を一番重要な問題に選ぶ(カリフォルニア州が抱えている一番重要な問題は、「環境」問題だと答える)州民の数が大幅に減るとの結果が得られている。

Googleの検索データと聞き取り調査の結果を利用した我々の研究は、失業率の変化が環境問題に対する人々の関心に及ぼす影響を実証的に計測することを意図したはじめての試みである。ところで、我々が見出した結果――失業率が高まると、環境問題への関心が低下する――の背後では、どのようなメカニズムが働いているのだろうか? 心理学的な説明を持ち出すと、我々が見出した結果は、マズローの欲求段階説(Maslow 1943)と整合的であり 〔訳注;この点について、この論説の基となっている論文(ジャーナル掲載版)(pdf)では、次のように論じられている。「〔マズローの欲求段階説によると〕、人間というのは、生きていく上で欠かせない基本的な欲求が満たされてはじめて、長期的で抽象的な話題に関心を持つようになると見なされている。この考えに従うと、例えば、景気後退の最中では、人々は気候変動のようなその影響が不確実で長期的な脅威に対してよりは、雇用のような問題に関心を集中させることになるかもしれない。」(pp. 258)/「人々は、景気後退の只中では、地球温暖化のような抽象的でその影響が不確実な長期的な脅威に対してよりも、その日その日の幸せに関心を注ぐ傾向にあるようである。職を失うかもしれないという恐れ・・・(略)・・・のために、経済の短期的な情勢やマクロ経済の不確性に関心が向ちがちになるのだろう。このような行動パターンは、マズローの欲求段階説に依拠した心理学の理論と整合的である。」(pp. 269~270)〕、経済学的には、「環境問題への関心は、奢侈財(ぜいたく品)のような性質を備えている」というように説明できるだろう。さらには、メディアが、それ自体原因の一つあるいは増幅要因の一つとして、重要な役割を果たしている可能性もある〔訳注;この点について、この論説の基となっている論文(ジャーナル掲載版)(pdf)では、次のように論じられている。「〔人々の関心は、景気後退の最中においては、環境問題よりも雇用問題に注がれるようになる可能性があるわけだが〕、メディアは、国民の関心にそのようなシフトが生じることを予期して、景気後退に関する話題の取り扱いを増やす一方で、気候変動をはじめとした環境問題の取り扱いを減らそうとするインセンティブを持つことになる。・・・(中略)・・・メディアの報道内容は、国民がその都度どんな話題を優先的に重視しているかによって左右されるという意味で、国民の関心を反映している可能性がある一方で、メディアには情報の拡散を通じて国民の関心(どんな話題を重視するか)に影響を及ぼす力があることも認識しておかねばならない。」(pp. 270)。つまりは、こういうことが言いたいのだろう。メディアとしては、商業上の理由から、視聴者からそっぽを向かれないために視聴者におもねろうとする(視聴者の関心が高い話題を優先的に取り上げようとする)インセンティブがある。そのため、景気が後退すると環境問題に対する人々の関心が低下する(その一方で、失業問題への関心が高まる)ことになれば、それに応じてメディアで環境問題が取り上げられることも少なくなる。つまりは、メディアで環境問題の取り扱いが小さくなるのは、視聴者が環境問題への関心を失った結果であると言える。しかしながら、メディアで環境問題の取り扱いが小さくなると、視聴者の側としては、環境問題はそれほど重要な問題ではないのではないかと考えるようになるかもしれない。つまりは、メディアで環境問題の取り扱いが小さくなることで、環境問題に対する人々の関心の低下がさらに促されるという影響関係もあり得るわけで、メディア自身も環境問題に対する人々の関心の低下に一役買っている可能性があることになる〕。

メディアの報道に関連して、以下の2つの図をご覧いただきたい。この2つの図は、2006年1月から2010年1月までの間に、メディアで地球温暖化問題と失業問題がどのくらい取り上げられたかを追跡した結果をまとめたものである。図1は、主要な全国紙での報道の様子を時系列で辿ったものだが、2007年の半ば頃から、地球温暖化問題の取り扱いが減少傾向を辿っていることが見て取れるだろう。それと時を同じくして、失業問題の取り扱いが上昇傾向に転じていることもわかる。図2は、テレビのニュース番組で地球温暖化問題と失業問題がそれぞれどのくらい取り上げられたかを月間の放送時間数(単位は分)で測ったものだが、2007年11月頃までは、地球温暖化問題も失業問題も放送時間数がほぼ同じくらいであることがわかる。しかしながら、2007年11月以降になると、地球温暖化問題の取り扱い(放送時間数)が次第に減っていく一方で――2009年の終わり頃に、地球温暖化問題の報道が突如として急増しているが、これはコペンハーゲンで第15回気候変動枠組条約締約国会議(COP15)が開催されたためである――、景気後退の影響がはっきりと表れ出した2008年の秋頃を境に、失業問題の取り扱い(放送時間数)が大幅に増え出し、その後もずっとその状態(ニュース番組での高い注目)が続いていることがわかるだろう。


図1 新聞紙上における「地球温暖化」問題(点線)と「失業」問題(実線)の取り扱いの変遷〔原注;主要な5つの全米紙の記事で「地球温暖化」問題と「失業」問題がどれだけの数取り上げられているかを月ごとに集計したもの。データは、Googleニュースでの検索結果を基に作成〕



図2 テレビのニュース番組での「地球温暖化」問題(点線)と「失業」問題(実線)の取り扱いの変遷〔原注;米5大ネットワークで放映されているニュース番組で「地球温暖化」問題と「失業」問題がどれだけの時間取り上げられたかを月ごとに集計したもの(単位は分)。データは、Vanderbilt Television News Archiveでの検索結果を基に作成〕


景気後退の到来に伴って弱まりゆく「政治的な意志」の力

自然環境に対する人々の選好(好み)がどのように形作られるかを理解するためには、さらなる研究が必要とされていることは確かだが、我々の研究は、(自然環境に対する人々の選好の性質に関して)はっきりとしたパターンの一つを明らかにしている。失業率が高まると――少なくとも、今回の景気後退の過程で記録された水準にまで失業率が上昇すると――、環境問題に対する人々の関心が低下するというのがそれである。我々が見出したこの発見は、景気後退に備わるコストを探る一連の研究に対する新たな貢献という側面も持っている。職を失った労働者や(住宅ローンの返済ができずに)住宅を差し押さえられてマイホームを失った一家が味わう苦しみについてはメディアでも広く取り上げられており、マクロ経済学者の間でも景気後退に伴う様々なコストについて幅広く論じられているところである。その一方で、環境経済学の分野に目をやると、景気後退には(銀緑色に輝く)「ほのかな希望の光」(“green silver lining”)も備わっていると指摘する意見も見られる。経済活動が低迷すれば、それに伴って大気汚染も軽減されるという意味で、景気後退には好ましい面もあるというのだ(Kahn 1999, Chay and Greenstone 2003)。

しかしながら、我々の研究は、景気後退に備わる「ほのかな希望の光」の作用を打ち消す方向に働く力の存在を仄めかしている。失業率が高まると、環境問題に対する人々の関心が低下するということになれば、外部性(外部不経済)の内部化を促すために既存の規制の適用を強化したり新たな環境規制を導入したりする上で必要となる「政治的な意志」の力が景気後退の到来に伴って弱まることになるかもしれないのだ。その実例の一つとしてカリフォルニア州のエピソードを取り上げると、州の失業率が5.5%を上回っている中で、州議会下院法案32号(「地球温暖化解決法」)の履行凍結を求める提案(「プロポジション23」)の是非を問う住民投票が近々実施される予定になっている〔訳注;住民投票では、「地球温暖化解決法」の履行凍結は否決されたとのこと(「米加州、温暖化阻止法凍結を拒否=再生エネルギー促進派は安堵」ロイター、2010年11月4日)〕。アメリカ全土レベルでも、野心的なエネルギー・環境規制の導入に向けた動きがここにきて完全に勢いを失っている感がある。ヨーロッパでも状況は似たようなものだが、ヨーロッパ各国において環境問題への関心と景気循環との間にどのような関係が成り立っているかを探ることは今後の課題の一つである。

<参考文献>


●Chaoi, H and H Varian (2009), “Predicting the Present with Google Trends(pdf)”, Working paper, Google Inc.
●Chay, K and M Greenstone (2003), “The Impact of Air Pollution On Infant Mortality: Evidence From Geographic Variation In Pollution Shocks Induced By A Recession”, The Quarterly Journal of Economics, 118:1121-1167.
●D’Amuri, Francesco and Juri Marcucci (2009), “The predictive power of Google data: New evidence on US unemployment”, VoxEU.org, 16 December.
●Kahn, ME (1999), “The Silver Lining of Rust Belt Manufacturing Decline”, Journal of Urban Economics, 46:360-76.
●Kahn, ME and MJ Kotchen (2010), “Environmental Concern and the Business Cycle: The Chilling Effect of Recession”, NBER Working Paper 16241.
●Maslow, AH (1943), “A Theory of Human Motivation”, Psychological Review, 50:370-396.
●Varian, Hal (2009), “Doing economics at Google”, VoxEU.org, 8 May, Interview by Romesh Vaitilingam.
●Pelat, C, C Turbelin, A Bar-Hen, A Flahault, and A Valleron (2009), “More Diseases Tracked by Using Google Trends”, Emerging Infectious Diseases, 15:1327-1328.
●Valdivia, A and S Monge-Corella (2010), “Diseases Tracked by Using Google Trends, Spain”, Emerging Infectious Diseases, 16:168. 

2022年11月3日木曜日

Esther Duflo 「中国における一人っ子政策の諸帰結」(2008年8月18日)

Esther Duflo, “China’s demographic imbalance: Too many boys”(VOX, August 18, 2008)

中国における「一人っ子政策」は、1980年代から90年代にかけて出生性比(出生児の男女比)を急激に高めることになった。「一人っ子」世代が大人になるにつれて、犯罪の増加をはじめとした様々な問題が表面化し始めている。


中国は、共産主義の過去から徐々に脱却しつつある最中にあるが、それと同時に、1980年代から90年代に埋め込まれた時限爆弾が今まさに破裂しそうな瀬戸際に立たされてもいる。かつての人口政策(人口抑制策)の影響が徐々に表面化し始めているのだ。

中国における人口政策として最も知られているのは、何と言っても「一人っ子政策」である。中国で一人っ子政策が開始されたのは、1978年。それ以降、何度か修正が加えられたものの、今もなお続行中である。現状では、夫婦がどちらとも1人っ子の場合は、子供を2人まで授かることが許されている。農村部に限って言うと、第1子が女児であればもう1人子供をもうけてもよいことになっている。しかしながら、1980年代から90年代にかけては――地域ごとに若干の違いはあるものの――制度の運用が厳格で、「上限数」を超える子供をもうけた夫婦には罰則が科せられた。罰金を支払わねばならなかっただけではなく、「上限を超過した」子供の分の教育費や医療費を全額自己負担せねばならなかったのである。

一人っ子政策は鄧小平の指揮によって導入されたが、この積極的な産児制限策はそれまでの毛沢東時代における方針――「人が多いのは、いいことだ」(“more people, more power”)――と真っ向から対立するものだった。中国の未来は経済をうまく管理できるかどうかにかかっており、経済を管理する上では産児制限が重要な鍵を握っていると考えて、鄧小平は一人っ子政策を推進したのである。

産児制限という基準に照らす限りでは、一人っ子政策は大きな成功を収めたと言える。しかしながら、中国は、男児選好(男児を尊ぶ伝統)が根強く残っている国であったという事情も重なって、一人っ子政策は、出生性比(出生児の男女比)に大きな歪みを生む格好となってしまった。さらには、胎児の性別判断が技術的に可能となった結果として、男女を産み分けるための中絶手術が広まることにもなったのであった。

男児選好、女児の中絶、幼い女児の高い死亡率といった現象は、中国に特有というわけではないし、一人っ子政策がすべての元凶というわけでもない。同様の現象は、インド、台湾、パキスタンといった国々でも見られるし、それらの国々からアメリカに移住した移民の間でも広く観察されている〔原注;詳しくは、以下の論文を参照されたい。 ●Jason Abrevaya(2009), “Are There Missing Girls in the United States? Evidence from Birth Data”(American Economic Journal: Applied Economics, vol.1(2), pp. 1-34)/●Almond, Doug and Lena Edlund(2008), “Son-biased sex ratios in the 2000 United States Census”(Proceedings of the National Academy of Sciences, vol.105, pp. 5681-5682)〕。しかしながら、一人っ子政策は、男児選好を持つ(男児を授かりたいと望む)夫婦に第1子(であり、授かることが許されている唯一の我が子)が女児とはならないように「強いた」結果として、男女比の歪みを加速させる役割を果たした。例えば、産児制限が実施されていない台湾では、1986年に中絶が合法化されてから男女の産み分けが盛んになったが、中絶手術が試みられているのはあくまでも第3子以降であることがわかっている〔原注;詳しくは、次の論文を参照されたい。 ●Lin, Ming-Jen, Liu, Jin-Tan and Qian, Nancy(2008), “More women missing, fewer girls dying: The impact of abortion on sex ratios at birth and excess female mortality in Taiwan”, CEPR Discussion Paper 6667.〕。その一方で、中国では、制度の運用が省長の裁量にある程度委ねられていて、80年代以降になると、第1子が女児であれば第2子の出産が認められるようになった省も出てきたが、第1子に関しては出生性比(出生児の男女比)は標準値とほぼ同じなのに、第2子に関しては出生性比が飛びぬけて高かった(女児よりも男児の数が飛びぬけて多かった)のである〔原注;詳しくは、次の論文を参照されたい。 ●Nancy Qian, “Quantity-Quality: The Positive Effect of Family Size on School Enrollment in China”, Brown University mimeograph.〕。

一人っ子政策に加えて、男児選好や中絶手術の普及といった要因が重なった結果として、中国では1980年代から90年代にかけて男児の数が女児の数を大きく上回ることになった。1978年の時点では、100人の女児に対しておよそ102人の男児が存在していた――男児の数が女児の数の1.02倍――が、1998年の時点になると、100人の女児に対して男児が112人以上存在する――男児の数が女児の数の1.12倍以上――までになったのである。今現在はというと、100人の女児に対して120人もの男児が存在しており――男児の数が女児の数の1.2倍――、数にして男児が女児よりも3700万人も多くなっているのである。

「一人っ子」世代も年をとり、続々と大人の年齢に達しつつある(例えば、1980年に生まれた子供は、2008年現在は28歳)。それに伴って、出生性比の歪みの影響が徐々に表面化しつつある。例えば、16歳~25歳の年齢層に目を向けると、100人の女子に対しておよそ110人の男子がいる計算――男子の数が女子の数の1.1倍――になるが、女子の数が相対的に少ないせいで、若い男子が結婚相手を見つけるのがますます難しくなっている。さらには、若い男子――とりわけ、独身の男子――は、若い女子に比べると、行動面で問題を抱えがちで、犯罪を犯しやすいと言われている。例えば、アメリカの西部開拓時代に暴力に向かう傾向が強く見られた理由は、(若い男子が中心となって体現していた)フロンティア精神(“frontier town” mentality)にその原因があるとはよく指摘されているところである。中国では1998年以降に犯罪件数が平均して年率13%のペースで増えているが、逮捕者の70%が16歳~25歳の若者で、そのうちの90%は男性という結果になっている。

犯罪が増えているとはいっても、そのうちのどのくらいが若い男子の数が増えたせいなのだろうか? この問いに真っ向から立ち向かっているのが、中国とアメリカの研究者が手を組んで取り組んでいる最近の研究である〔原注;Lena Edlund, Hongbin Li, Junjian Yi, and Junsen Zhang, “Sex ratio and crime: Evidence from China’s one-Child Policy(pdf)”(IZA Discussion Paper No. 3214, December 2007;その後、The Review of Economics and Statistics誌に掲載)〕。この研究では、1998年~2004年の期間を対象に、一人っ子政策が厳格に運用されている地域とそうではない地域(第1子が女児であれば第2子の出産が認められている地域。これらの地域では、第1子の出生性比は標準値とほぼ変わらない)の犯罪件数がそれぞれどのくらい増えているかが比較されているが、犯罪件数の増加分の7分の1は一人っ子政策〔訳注;一人っ子政策の影響で、若い男子が同世代の女子よりも大幅に増えていること〕によって説明できるとの結論が導き出されている。

人口全体に占める若い男子(犯罪予備軍)の割合が高まっていることに加えて、若い男子が結婚相手を見つけにくくなっていることも犯罪が増えている理由の一つとなっている可能性がある。

その手掛かりをいくつか与えているのが、ベトナム帰還兵を対象にした長期にわたる調査である(調査が行われたのは1998年。この調査については、最近のニュー・リパブリック誌でも取り上げられている〔原注;“No Country for Young Men” by Mara Hvistendahl, New Republic, July 9, 2008.〕)。その調査によると、被験者として選ばれた帰還兵の男性が結婚するとテストステロンの濃度が低下した一方で、離婚するとテストステロンの濃度は増加したという。加えて、調査期間中にずっと独身だった男性のテストステロンの濃度は高い水準を保っていたという。テストステロンは、攻撃性や暴力と深い関わりのある男性ホルモンの一種として知られている。 独身の男性は、テストステロンの濃度が高いせいで、とりわけ攻撃的になってしまうのかもしれない。

一人っ子として育てられたことも何かしら関係があるかもしれない。第1子が女児であれば第2子の出産が認められている地域に暮らしている第1子の(弟ないしは妹がいる)少女は、子供の出産が1人しか認められていない地域に暮らしている子供(一人っ子)に比べて、学校に在籍する期間が長い傾向にあるという〔原注;詳しくは、次の論文を参照されたい。 ●Nancy Qian, “Quantity-Quality: The Positive Effect of Family Size on School Enrollment in China”, NBER Working Papers No. 14973.〕。兄弟姉妹の数が増えると、家族内での競争が生じて機会(教育を受ける機会)が奪われるわけではなく、むしろお互いのためになるようである。「1人っ子」世代は、「孤独な」世代と言えるのかもしれない。

ともあれ、将来的に一人っ子政策の運用が和らげられたとしても、中国は今後しばらくの間にわたって過去の一人っ子政策の影響に頭を悩まされ続けることだろう。

Stephan Klasen 「『消えた女性』の謎を巡る一大論争 ~B型肝炎 vs 性差別~」(2008年8月28日)

Stephan Klasen, “Missing women in South Asia and China: Biology or discrimination?”(VOX, August 28, 2008)

発展途上の国々では、1億人を超える女性が「消えて」しまっている。その原因は「B型肝炎」にあるとの説がここにきて大きな注目を集めている。発展途上の国々――とりわけ、中国――で出生性比が高い(男児が相対的に多く生まれている)原因は、両親がB型肝炎のキャリアだからだというのだ。本稿では、「B型肝炎原因説」に寄せられた数多くの反論を要約する。B型肝炎ではなく、性差別こそが「消えた女性」の原因なのだ。

20年ほど近く前になるが、アマルティア・セン(Amartya Sen)が「消えた女性」問題を提起して広く話題を呼ぶことになった。セン曰く、南アジア、東アジア、中東、北アフリカといった地域では女性の死亡率が相対的に高くて、そのために1億人を超える女性が「消えて」しまっているというのだ〔原注;Sen(1989, 1990)〕。「消えた女性」の数(規模)についてはその後の研究で修正が加えられたものの、センの主張の妥当性は高く支持されている――詳しくは、Coale(1991)や Klasen(1994)を参照されたい――。これらの地域で女性が「消えて」しまった原因は、医療サービスや食事へのアクセスの面で女性が差別されていることに加えて、男女の産み分けを可能とする中絶手術が普及したこと〔訳注;妊婦のお腹の中にいる赤ちゃんが女の子だとわかると、中絶が選ばれる、という意味〕に求められるというのが通説となっている。

「消えた女性」の原因はB型肝炎にあり?

2005年に『ジャーナル・オブ・ポリティカル・エコノミー』誌に掲載された論文で、通説とは大きく異なる主張が唱えられた。論文の著者であるエミリー・オスター(Emily Oster)によると、多くの女性が「消えた」とされている地域ではB型肝炎ウイルスの感染者が多く、両親がB型肝炎ウイルスのキャリアだと出生児の男女比(出生性比〔訳注;出生性比というのは、新生女児100人あたりの新生男児数のこと。例えば、出生性比が1.05だと、女児100人に対して男児が105人生まれる計算になる。出生性比の値が高くなるほど、新生児全体に占める男児の割合が増えることになる〕)が高くなる(男児が生まれやすくなる)傾向にあるという。そのこと踏まえると、「消えた」とされている女性のうちの47%~70%はそもそもこの世に生まれていなかった可能性があるというのである。 つまりは、南アジアや東アジアで女性が「消えて」しまった原因の多くは、「性差別」ではなく、「生物学的な要因」(B型肝炎)に求められるというわけだ。女性が「消えた」原因を見直す必要性にとりわけ迫られたのは、中国だった。中国は、B型肝炎ウイルスの感染率が特に高い地域だったからである。中国における「消えた女性」のうちの75%~86%がB型肝炎によるものというのがオスターの下した結論だった。

オスターの主張が仮に正しいとすると、性差別の問題がこれまで思われていたほど酷いものではなかったことが示唆されるという意味で、良い報せということになろう。しかしながら、それと同時に、(オスターは言及していない)悪い報せもいくつかある。女性が「消えた」地域――中国、インド、台湾など――では、1980年代から1990年代にかけてB型肝炎の予防接種が開始されたが、オスターの主張が正しければ、この間に(予防接種のおかげでB型肝炎のキャリアが減るのに伴って)出生性比(ひいては、人口性比〔訳注;人口性比(人口全体の男女比)というのは、女性100人あたりの男性数のこと。例えば、人口性比が1.05だと、女性100人に対して男性が105人いる計算になる。人口性比の値が高くなるほど、人口全体に占める男性の割合が増えることになる〕)が急低下して、「消えた女性」の数も大きく減ることになったはずである。実際のところは、どうだったか? 南アジアのいくつかの国では確かに出生性比が低下したが、とても「急低下」と呼べるようなものではなかった。オスターの主張が正しいとすると、出生性比が緩やかにしか低下しなかったのは、(B型肝炎のキャリアが減ることに伴う恩恵を打ち消すようにして)この間に性差別がさらに酷くなったためではないかという可能性が浮かび上がってくることになる。

オスターの論文が発表されると、彼女の主張を高く評価する声と彼女の主張に異議を唱える声とが入り乱れるかたちで、激しい論争が繰り広げられることになった〔原注;Das Gupta(2005, 2006)、Ebenstein(2008)、Lin and Luoh(2008)、Abrevaya(2005)、Klasen(2008)を参照されたい〕。オスター自身もこの問題に取り組み続けた。そして、他の研究者による強力な反論に加えて、自らの継続調査の結果も踏まえて、最終的には持説を撤回するに至ったのであった。つまりは、B型肝炎は、中国(ひいては、南アジア)における歪んだ人口性比〔訳注;人口全体に占める男性の割合が高くなっている事実〕や「消えた女性」の謎を解く鍵ではないとの結論に至ったのである。

オスター論文への反論;B型肝炎は「消えた女性」の謎を解く鍵ではない

「消えた女性」の謎を解く鍵をB型肝炎に求めたオスターは、どのような証拠を携えていたのだろうか? その一方で、オスターの主張に異議を唱えた論者は、どのような反証を挙げたのだろうか? 双方の証拠をどのように解釈したらいいのだろうか?

オスターは、「消えた女性」の謎を解く鍵をB型肝炎に求めるにあたって、主に4つの証拠を頼りにしている。まず1つ目の証拠は、男女の産み分けを可能とする中絶手術が普及する前からずっと一貫して、中国における出生性比も、アメリカに移住した中国人の出生性比も、標準値よりも飛びぬけて高かったという事実である。2つ目の証拠は、(中国や南アジアの国々を除いた)世界各地のミクロデータの分析を通じて得られたもので、両親がB型肝炎のキャリアだと、そうでない場合と比べて、出生性比が高くなる(男児が生まれやすくなる)傾向にあることが見出されたという。3つ目の証拠は、アラスカの原住民と台湾人を対象にしたB型肝炎の予防接種の効果を追跡した時系列データの分析を通じて得られたもので、B型肝炎の予防接種が実施された後に出生性比が低下傾向を辿っていることが見出されたという。最後に4つ目の証拠は、クロスカントリー分析(国際比較分析)を通じて得られたもので、B型肝炎ウイルスの感染率が高い地域ほど、出生性比が高いという関係が見出されたという。一見すると、多岐にわたる数々の証拠がオスターの主張を支持しているように思える。

しかしながら、その後の論争の過程で、オスターの主張を支えているか見える証拠に重大な問題が潜んでいることが指摘されると同時に、オスターの主張を覆すような証拠も徐々に明らかになってきた――論争の詳細については、Klasen(2008)を参照されたい――。 国際比較分析を通じて得られた証拠(4つ目の証拠)に関して言うと、データの信頼性に若干問題があり、南アジアや東アジアの中でも性差別が原因で――女児が生まれると役所にその旨が届け出られなかったり、生まれたばかりの女児が間引れたり、女児のネグレクト(育児放棄)が広く見られたり、女児が中絶されたりといった理由で――出生性比が高くなっている可能性がある国々のデータに分析結果が強く影響されている可能性が指摘されている。ミクロデータの分析を通じて得られた証拠(2つ目の証拠)に関しては、ある程度妥当性が認められているものの、サンプルサイズが小さいのに加えて、南アジアや東アジアの国々のデータが含まれておらず、広まっているB型肝炎ウイルスの種類が地域ごとにまちまちであることも指摘されている。中国では出生性比が飛びぬけて高かったという証拠(1つ目の証拠)に関しては、(少なくとも中絶手術が普及する1990年代までに限ると)こと第1子に関しては出生性比が標準値と変わらない地域が国内にいくつもあったことが判明している。さらには、Abrevaya(2008)によると、アメリカに移住した中国人の出生性比が高い理由は、両親がB型肝炎に感染していたためではなく、女児の中絶が選ばれたためである可能性が高いという。時系列データの分析を通じて得られた証拠(3つ目の証拠)に関しては、ある程度妥当性が認められているものの、統計解析の面で若干の問題を抱えていて、決定的な証拠とまでは言えないようだ。

おそらく最も致命的と言える反論を寄せているのが、林明仁(Ming-Jen Lin)&駱明慶(Ming-Ching Luoh)の二人による最近の論文である(Lin&Luoh, 2008)。彼らは、台湾における300万件を超える出生児のデータを分析し、母親がB型肝炎のキャリアであっても出生性比にはこれといって大した影響は生じないとの結論を得ている。彼らの推計によると、中国における「消えた女性」のうちでB型肝炎によって説明できるのは2%にも満たないとのことだ。となると、残りの98%は性差別によるものではないかとの可能性が浮かび上がってくることになる。とは言え、彼らの分析にも問題は無くはない。彼らの分析で対象になっているのは中国ではなく台湾であり、母親がB型肝炎のキャリアであるケースだけしか考慮されていない。ここで再び登場するのが、オスターだ(Oster&Chen&Yu&Lin, 2008)。オスターは、共同研究者の協力を得て、母親だけではなく父親の側がB型肝炎のキャリアであるケースも含めて、中国におけるB型肝炎のキャリアに関する大規模なデータを収集して、それに詳細な分析を加えている。そして、母親だけではなく父親がB型肝炎のキャリアであっても出生性比にはこれといって大した影響は生じないとの結論を得ている。かくして、中国(そして、おそらくは南アジア)における歪んだ人口性比や「消えた女性」の謎を解く鍵を(B型肝炎という)生物学的な要因に求めることはできなくなり、性差別こそがその大きな原因である可能性が再び持ち上がってくる格好となったのである。

悪い報せと良い報せ

オスター論文をきっかけとして巻き起こった論争から、一体何が得られたのだろうか? まずは、悪い報せから指摘しておこう。中国や南アジアにおける「消えた女性」の47%~70%を説明できるような生物学的な要因というのは、どうやら幻だったようだ。ということは翻って、Sen(1989, 1990)、Coale(1991)、Klasen&Wink(2002, 2003)の言い分がやはり正しくて、女児の中絶やネグレクト(育児放棄)が原因で、女性の死亡率が依然として相対的に高いままという可能性があることになる。 しかしながら、悪い報せの中にも良い報せがいくつかある。1980年代から1990年代にかけてB型肝炎の予防接種が開始されたのに伴って、南アジアのいくつかの国では出生性比が若干ながら低下する傾向が見られたわけだが、オスターの主張が正しいと仮定した場合は、この間に性差別がさらに酷くなったとの解釈が成り立つことは先に見た通りである。しかしながら、オスターの当初の主張に疑義が生じた今となっては、Klasen&Wink(2002, 2003)による解釈が妥当するように思われる。すなわち、「消えた女性」問題を抱える大半の地域では、1980年代から1990年代にかけて性差別が若干ながら薄らいだ可能性があるのだ。とは言え、中国は例外である。一人っ子政策〔拙訳はこちら〕に加えて、男女の産み分けを可能とする中絶手術が普及した結果として、中国では性差別の問題が悪化の一途を辿り、女性が生き残るのがなおさら難しくなる格好となったのである。

<参考文献>


●Abrevaya, J. 2009. “Are there missing girls in the United States?”, American Economic Review: Applied Economics 1(2): 1-34.
●Blumberg, B. and E. Oster. 2007. “Hepatitis B and sex ratios at birth: Fathers or Mothers?(pdf)”, Mimeograph, University of Chicago.
●Chahnazarian, A. 1986. “Determinants of the sex ratio at birth”, Ph.D. dissertation, Princeton University.
●Chahnazarian, A. B. Blumberg, and W. Th. London. 1988. “Hepatitis B and the sex ratio at birth: A comparative study of four populations”, Journal of Biosocial Sciences 20: 357-370.
●Coale, A. 1991. “Excess female mortality and the balance of the sexes: An estimate of the number of missing females”, Population and Development Review 17: 517-523.
●Das Gupta, M. 2005. “Explaining Asia’s Missing Women: A new look at the data”, Population and Development Review 31(3): 539-535.
●Das Gupta, M. 2006. “Cultural versus biological factors in explaining Asia’s Missing Women: Response to Oster”, Population and Development Review 32: 328-332.
●Ebenstein, Avraham. 2007. “Fertility choices and sex selection in Asia: Analysis and Policy”, Mimeograph, University of Berkeley.
●Klasen, S. 1994. “Missing Women Reconsidered”, World Development 22: 1061-71.
●Klasen, S. 2008. “Missing Women: Some Recent Controversies on Levels and Trends in Gender Bias in Mortality(pdf)”, Ibero America Institute Discussion Paper No. 168. In Basu, K. and R. Kanbur (eds.) Arguments for a better world: Essays in honour of Amartya Sen. Oxford: Oxford University Press, 280-299.
●Klasen, S. and C. Wink. 2002. “A turning point in gender bias in mortality: An update on the number of missing women”, Population and Development Review 28(2): 285-312.
●Klasen, S. and C. Wink. 2003. “Missing Women: Revisiting the Debate”, Feminist Economics 9: 263-299.
●Klasen, S. 2003. “Sex Selection”, In P. Demeny, and G. McNicoll (eds.) Encyclopaedia of Population. New York: Macmillan, 878-881.
●Lin, M-J. and M-C. Luoh. 2008. “Can Hepatitis B mothers account for the number of missing women? Evidence from 3 million newborns in Taiwan”, American Economic Review 98(5): 2259-73.
●Oster, E. (2006). “Hepatitis B and the Case of Missing Women(pdf)”, Journal of Political Economy 113(6): 1163-1216.
●Oster, E. G. Chen, X. Yu and W. Lin. 2008. “Hepatitis B does not explain male-biased sex ratio in China(pdf)”, Mimeographed, University of Chicago.
●Sen, A. 1989. “Women’s Survival as a Development Problem”, Bulletin of the American Academy of Arts and Sciences 43(2): 14-29.
●Sen, A. 1990. “More than 100 million women are missing”, New York Review of Books, 20 December.

2022年11月1日火曜日

Sascha O. Becker&Ludger Woessmann「デュルケーム『自殺論』再訪 ~プロテスタント教徒はカトリック教徒よりも自殺傾向が高い?~」(2012年1月15日)

Sascha O. Becker and Ludger Woessmann, “Religion matters, in life and death”(VOX, January 15, 2012)

宗教は、自殺という重大な決断に何らかの影響を及ぼすだろうか? 19世紀のプロイセンのデータを用いて検証したところ、プロテスタント教徒の割合が高い地区(郡)では、カトリック教徒の割合が高い地区(郡)においてよりも自殺率がずっと高い傾向にあり、プロテスタンティズムこそが自殺率を高めている原因であるとの結果が得られた。経済学的なモデル(合理的選択理論)の助けを借りれば、プロテスタンティズムがなぜ自殺率を高めることになるのかを理解する手掛かりを得ることができる。

フランスの社会学者であるエミール・デュルケームが1897年(!)に物した古典の一つである『自殺論』を紐解くと、プロテスタンティズムと自殺との間に強いつながりがあることを示唆する一連の統計数字が提示されている。プロテスタントの国ではカトリックの国においてよりも自殺率が高いというデュルケームの指摘は「社会学の分野における数少ない法則の候補として広く受け入れられるまでになっている」(Pope and Danigelis 1981)。

カトリックの国々と比べると、プロテスタントの国々では、自殺率が随分と高い傾向にあるというのは現在においても依然として当てはまる話であり、宗教と自殺との間にどのような関係が見られるかを探ることは、今もなお極めて重要なトピックだと言えるだろう。毎年世界中でおよそ百万人もの人々が自ら命を絶っており、若者の間では自殺が死因のトップであることを考えると、なおさらそうである(World Health Organisation 2008)。あちこちで頻発する自殺は、人々の感情に対してだけではなく、社会全体や経済全体に対しても広範な影響を及ぼしており、政府も自殺の予防に向けて数々の対応に追われているのが現状である。

自殺に関する経済学的なモデル

自殺の問題に経済学的な観点から切り込んだ研究は既にいくつもあるが(例えば、Hamermesh and Soss(1974)や Becker and Posner(2004)を参照せよ)、そういった一連の研究においては、自殺は生と死との間の選択問題の一つとして定式化されている。今後も生き続けることで得られる(と期待される)効用と、人生に終止符を打つ(命を絶つ)ことで得られる(と期待される)効用〔訳注;「命を絶つことで得られる効用って何だ?」と疑問に思われるかもしれないが、ここでは死後の世界の存在が想定されている。死んだ後に運良く天国に送られて、そこで喜びに満ち溢れた生活を過ごすことができるかもしれないと信じられている場合、人生に終止符を打つ(命を絶つ)ことで得られる(と期待される)効用は、その人にとってプラスの値をとることになる〕とを比較して、前者が後者を下回るようであれば、自殺を選ぶことが(その人にとって)「最適な」選択であるという話になるわけだ。

我々の最新の研究(Becker and Woessmann 2011)でもそのような(自殺に関する経済学的なモデルの)従来の枠組みを踏襲しているが、それに加えて三つのメカニズムを考慮に入れることで、プロテスタント教徒はカトリック教徒よりも自殺傾向が高い(自殺率が高い)との理論的な予測を導き出している。一つ目のメカニズムは、デュルケームも指摘しているものだが、プロテスタントとカトリックとの間の宗教組織としての構造の違いに由来するものである。具体的には、プロテスタントの方がカトリックよりも宗教組織として見た場合に個人主義的な色彩が強い。生きていく中で困難にぶつかったとしても、カトリック教徒は凝集性が相対的に高い(結束が強い)組織(ないしは宗教コミュニティー)に頼ることができ、そのためもあって(何らかの困難にぶつかったとしても)魂がこの世にとどまる(自殺せずに生き続けることを選ぶ)可能性もそれだけ高まることになると考えられるのだ。

我々の研究では、デュルケームも指摘している上記の社会学的なメカニズムに加えて、プロテスタントとカトリックとの宗教上の教義の違いにも着目しているが、この違いもプロテスタント教徒の自殺傾向をカトリック教徒よりも高める方向に働くことになる。まずは二つ目のメカニズムから取り上げることにしよう。プロテスタントの教義では、ある人物が救済されるか否かは神の恩寵だけによって決められ、その人物がこの世でどれだけ善行を積んだかによっては左右されない点が強調されるが、カトリックの教義では、ある人物の救済をめぐる神の判断が、その人物がこの世でどのような行いをし、どのような罪を犯したかによって影響される余地が残されている。自殺という大罪を犯せば、救済の可能性は遠ざかり、死後に天国で過ごす道が閉ざされることになってしまうのではないか。カトリック教徒は、そのように考えて、自殺を思いとどまることになるかもしれない〔訳注;カトリック教徒にとっては、自殺という行為は、人生に終止符を打つ(命を絶つ)ことで得られる(と期待される)効用を低下させる効果を持っている。自殺という大罪を犯すことで、死後に天国に行ける可能性が低下するかもしれないからである。その一方で、プロテスタント教徒の場合は、自殺という大罪を犯しても、人生に終止符を打つ(命を絶つ)ことで得られる(と期待される)効用に変化が生じることはない。自分が天国に行けるかどうかは、自殺したかどうかによって影響されないと考えられているからである〕。

最後に三つ目のメカニズムである。カトリックの教義では、罪の告白(懺悔)は(七つの)秘跡(サクラメント)の一つに数え上げられているが、プロテスタントの教義ではそうなっていない。当然のことながら、自殺は数ある罪の中でも、生きているうちに告白のしようがない唯一の罪である。そのため、絶望のどん底に陥ったカトリック教徒は、(生前に告白のしようがない罪である)自殺に踏み切る代わりに、(酒浸りの生活を送ったり、犯罪に手を染めたりといった)その他の(告白して赦しを得られるかもしれない)罪を犯すことを選ぶかもしれない(罪の告白が持つ代替効果)〔訳注;罪の告白によって天国に行ける可能性がある程度左右されるとすれば、カトリック教徒にとっては、(何らかの罪を犯すのであれば)告白の可能性が残されている罪を犯そうとするインセンティブがあることになる。告白のしようがない自殺という大罪を犯すよりも、告白の可能性が残されている罪を犯した方が、人生に終止符を打つ(命を絶つ)ことで得られる(と期待される)効用の低下が軽微で済むからである〕。

まとめよう。宗教が自殺をめぐる選択にどのような影響を及ぼすかを理解する手掛かりを得るために、「合理的選択」理論に助けを求めたわけだが、①プロテスタントとカトリックとの間の宗教組織としての構造の違い(凝集性の違い)、②人間のこの世での行いが神の恩寵に及ぼす影響に関する教義上の見解の違い、③自殺という罪を告白することは不可能だという事実、という三点をモデルに組み込んだところ、プロテスタント教徒はカトリック教徒よりも自殺に踏み切る可能性が高いとの理論的な予測が導き出されることになったのである。

19世紀のプロイセンのデータは何を物語っているか?

次に、実際のデータを用いて理論的な予測の妥当性を検証する必要があるが、我々の研究では、19世紀のプロイセン(王国)のデータに目を向けている。なぜ19世紀のデータに目をつけたかというと、デュルケームが『自殺論』の中でカバーしている時期が19世紀だからというのもあるが、当時は宗教が今よりも(ほぼすべての人がいずれかの宗派に属しており、宗教が生活のあらゆる面に浸透していたという意味で)広く普及していたからでもある。なぜ19世紀のプロイセンを選んだかというと、当時のプロイセンでは、プロテスタントもカトリックもいずれも少数派ではなかったことに加えて、それぞれの教徒が政治制度や裁判制度、言語や文化を同じくする州で共存して生活を営んでいたからでもある。

我々は、当時のプロイセン王国の公文書が保管されているアーカイブに足を運んだが、そこにはプロイセン統計局が収集し、それぞれの地区の警察当局が厳重に管理していた1869年から1871年までのデータが残されていた。452の郡すべて〔訳注;当時のプロイセンでは、最大の行政単位としてまず州(全部で11州)があり、それに次いで県(全部で35県)、そして最後に郡(全部で452郡)が続くという格好になっていた〕のデータが揃っており、その中には自殺の発生件数のデータも含まれている。さらには、1871年に実施された国勢調査のデータも残されていたが、その中には、(それぞれの教徒が人口に占める割合をはじめとした)宗教に関する情報だけではなく、識字率や経済発展の度合い等に関する情報も含まれている。

プロテスタンティズムが自殺に対してどのような効果を持つかを実証的に跡付ける上では、厄介な困難が控えている。自殺傾向が高い性格の持ち主がプロテスタント教徒になることを選んだという可能性があるのだ〔訳注;プロテスタント教徒の自殺率が高いという事実(あるいは、プロテスタント教徒が多く住む地域ほど自殺率が高いという相関関係)が仮に見られるとしても、プロテスタンティズムには自殺傾向を高める効果がある(プロテスタンティズムが自殺率を高めている原因だ)とは必ずしも言えない。例えば、元々自殺傾向が高い人がプロテスタンティズムに引き寄せられてプロテスタント教徒になっている可能性があるからである。この研究では、操作変数法と呼ばれる手法を使って因果の向き(プロテスタンティズムが自殺率を高めている原因だとの因果関係)の推定が試みられている〕。しかしながら、今回のケースに関しては、この点はそれほど問題とはならないだろう。というのは、当時のプロイセンでは、個人が宗派を変える例はほとんど見られなかったし、郡ごとの宗派の違いは、何世紀も前にその界隈を統括していた統治者の決定に遡ることができるからである。とは言え、何の手も打っていないわけではない。因果の向きをできるだけ正確に特定するために、我々の論文では、宗教改革後にプロテスタンティズムが(マルティン・ルターが活躍した町である)ヴィッテンベルクを中心として同心円状に広がっていったという歴史的な事実に目をつけている。それぞれの郡とヴィッテンベルク間の距離を操作変数として用いることで、因果の向きをできるだけ正確に特定しようと試みたのである。

宗教改革の波は、ヴィッテンベルクを中心として同心円状に広がっていったわけだが、その事実を反映して、ヴィッテンベルクに(距離的に)近い郡ほどプロテスタント教徒が住民全体に占める割合は高くなっている。さらには、ヴィッテンベルクに近い郡ほど、自殺率も高くなっている(図1を参照)。図2をご覧いただきたいが、プロテスタント教徒が占める割合が高い郡ほど、自殺率も高いというはっきりとした傾向が確認できる。住民すべてがプロテスタント教徒である郡の自殺率の平均をとると、住民すべてがカトリック教徒である郡のそれを大幅に上回っている。宗派ごとの自殺率の違いは量的に見てかなりのものである。プロテスタント教徒の自殺率(年平均値)は、人口10万人あたり18人となっており、カトリック教徒の自殺率のおよそ3倍も高い数値となっているのだ。

図1 プロイセンにおける郡ごとの自殺率の分布(1869年~1871年までの期間における自殺率(人口10万人あたりの自殺者数)の年平均値)

出典:Becker and Woessmann (2011)


図2 プロテスタンティズムと自殺率との関係(1871年時点での郡ごとのプロテスタント教徒の割合と1869年~1871年までの期間における自殺率の年平均値)

出典:Becker and Woessmann (2011)


以上のような結果は、郡ごとの経済発展の度合いの違いや識字率の違い、天候条件の違い、メンタル面の健康に問題を抱えている住民の割合の違い等々といった要因を考慮しても、揺るがずに成り立つことが見出されている。過小報告の可能性〔訳注;実際は自殺で命を失っているにもかかわらず、死因が(例えば事故死と)偽って報告される可能性〕や特定の宗派の集中度(それぞれの郡で異なる教徒がどれだけ混在しているか)の違いが持つ効果、生態学的誤謬の可能性を考慮しても、どうやら結果は左右されないようである。さらには、1816年のデータでも同様の検証を試してみたが、やはり同様の結果が得られている。

プロテスタンティズムがプロテスタント教徒の福利に及ぼす多様な効果

今回新たに判明した結果によると、プロテスタンティズムは(自殺率を高める可能性があるという意味で)好ましくない効果を持つ可能性があるわけだが、その一方で、プロテスタンティズムには好ましい効果が備わっている可能性もある。我々二人のかつての共著論文(Becker and Woessmann 2009)で示されているように、プロテスタンティズムは、人的資本の蓄積を促すことで、大多数の教徒(プロテスタント教徒)の収入を増やす(生活水準を高める)効果を持っている可能性があるのだ。その一方で、今回新たに判明した結果によると、プロテスタンティズムは、不幸極まりない境遇に置かれた一部の教徒(プロテスタント教徒)の自殺傾向を高める可能性を持っているわけだ〔訳注;プロテスタンティズムは、(今後も生き続けることで得られる(と期待される)効用を低下させる効果を持つという意味で)人を不幸にするという意味ではないことに注意されたい。何らかの原因(失業や失恋、親しい人との死別等々)で、今後も生き続けることで得られる(と期待される)効用が大幅に低下した場合に、プロテスタント教徒はカトリック教徒に比べると自殺を選ぶ可能性が高いという意味である〕。プロテスタンティズムに備わるこのような相反する二つの側面は、ひょっとすると、いわゆる「ダークコントラスト・パラドックス」(“dark-contrasts paradox”)――幸福度が高いにもかかわらず自殺率も高い地域が数多く見られることはよく知られているが、そのような逆説的な現象の背後には、他者との比較を通じて自らの境遇を判断する人間の特性が潜んでいる可能性がある(Daly et al 2011)――とも関係してくるかもしれない。ともあれ、宗教は、生と死のどちらの面でも重要な役割を果たしていることだけは明らかだと言ってよいだろう。


<参考文献>


●Becker, Gary S, and Richard A Posner (2004), “Suicide: An economic approach“(pdf), Mimeo, University of Chicago.
●Becker, Sascha O, and Ludger Woessmann (2009), “Was Weber wrong? A human capital theory of Protestant economic history“, Quarterly Journal of Economics, 124(2): 531-596.
●Becker, Sascha O, and Ludger Woessmann (2011), “Knocking on Heaven’s Door? Protestantism and Suicide”, CEPR Discussion Paper 8448, Centre for Economic Policy Research.
●Daly, Mary C, Andrew J Oswald, Daniel J Wilson, and Stephen Wu (2011), “Dark contrasts: The paradox of high rates of suicide in happy places“, Journal of Economic Behavior and Organization, 80(3): 435-442.
●Durkheim, Émile (1897), Le suicide: étude de sociologie, Félix Alcan (Suicide: A study in sociology, translated by John A Spaulding and George Simpson, Glencoe, The Free Press, 1951)(宮島 喬(訳)『自殺論』).
●Hamermesh, Daniel S, and Neal M Soss (1974), “An economic theory of suicide“, Journal of Political Economy, 82(1): 83-98.
●Pope, Whitney, and Nick Danigelis (1981), “Sociology’s “one law”“, Social Forces, 60(2): 495-516.
●World Health Organization (2008), Preventing suicide: A resource for media professionals, World Health Organization and International Association for Suicide Prevention.