2010年5月3日月曜日

Tom Jacobs 「強力な敵の不安鎮静化効果」

Tom Jacobs, 〝The Comforting Notion of an All-Powerful Enemy”(Miller-McCune Online, March 8, 2010)

最新の研究によると、我々は、一般的な不安(generalized anxiety)に対する防衛機制(defense mechanism)として、敵の存在に着目して、その敵の力を誇張する(=実際よりも強大な存在として想定する)傾向にある――そうすることを通じて、不安の鎮静化を図る傾向にある――ことが示されている。 
我々の社会が抱える多くの問題の背後には敵が控えており、しかもその敵はかなり強大な力を備えた存在である、と想定されることが時にある。「社会問題ならびに不安の源泉としての強力な敵」というモチーフは、多くの人々が抱える一般的な不安が獰猛な敵(ferocious foe)の姿に転化される〔=「我々が日常的に感じている不安の原因を作っているのはアイツだ」というかたちで、不安の源泉を特定の人物や存在に求める;訳者注〕というかたちをとって、現代の政治論争の場で繰り返し語られるテーマの一つとなっている。

感情的なレトリックを駆使する党派的な論客たちの間から、けたたましい警鐘が鳴らされている。オバマ大統領の現状はというと、審議の過程で骨抜きにされた法案でさえも議会を通過させることに苦慮している有様だが、先の党派的な論客たちによれば、オバマ大統領はアメリカを社会主義国家に作り変えようとしているらしい。さらには、反オバマの「The Tea Party」ムーブメントは、アメリカ政治において何度も繰り返し生じている被害妄想的な動きではなく、アメリカ政治の基盤を揺るがしかねないおどろおどろしい新現象であるらしい。さらには、オサマ・ビンラディンはどこぞの洞穴に閉じ込められていて身動きできないようだが、彼が再度もたらすことになるかもしれない脅威を考えると、彼を洞穴に閉じ込めておくために今後も継続してこれまでのように労力を傾注する必要があるという。

ある研究グループの一派によると、敵の強さ(あるいは、力)を誇張して語る我々の傾向は、ある特定の心理的な機能を果たすことになるという。我々の幸福(well-being)は、我々のコントロールできない要因に大きく左右されるという事実を受け入れるよりも、我々が感じているあらゆる恐怖の原因を単一の強力な敵のせいにするほうが、まだ気持ち的に楽である。何といっても、〔(我々の幸福を左右するかもしれない)コントロールできない不明瞭な要因とは違って;訳者注〕、具体的な存在としての敵は、特定することができる(定義できる)し、分析を加えることもできるし、さらには倒す(克服する)ことだってできるのである。

我々の怒り(や恐怖・不安)の原因を意思を持った強力な敵のせいにすることによって、怒りや恐怖が和らぐ可能性が初めて論じられたのは、文化人類学者である Ernest Becker が1969年に出版した 『Angel in Armor』においてである。つい最近 Journal of Personality and Social Psychology に掲載されたばかりの論文 “An Existential Function of Enemyship,” で、Ernest Becker の説の妥当性が裏付けられている。

カンザス大学に籍を置く社会心理学者の Daniel Sullivan が率いる研究チームは、先の論文において、人は「我々を取り囲む混沌さ(chaotic environment)というぞっとした事実に直面する(心理的に受け入れる)のを避けようとして、明確な敵を仕立て上げるように(あるいは、明確な敵を絶えず設定するように)動機づけられている」ことを示唆する4つの実験結果を報告している。彼らの発見に立脚して今日の世界が直面している多くの(経済的な、あるいはそれ以外の)脅威に対する我々の態度を眺めてみると、イデオロギー上の敵対者を強力なモンスターとして描こうとする傾向にも得心がいくようになる。

Sullivanらが実施した実験の1つ――2008年の大統領選挙期間中に実施された実験――では、カンザス大学に通う大学生に対して以下のような質問が投げかけられている。
「あなたが支持する候補者(オバマ or マケイン)の対戦相手は、選挙結果を操作しようとして、電子投票機に手を加えていると思いますか?」 
なお、被験者の半数に対しては、この「陰謀論」に対して自分なりの考えを語ってもらう前に、以下の主張が自分に当てはまるかどうか(以下の主張が正しいと思うかどうか)も問われている。
「私は、自分が病気に罹るかどうかをコントロールできます(“I have control over whether I am exposed to a disease.” )」/「私は、自分の就職機会(思い通りのところに就職できるかどうか、あるいは、ちゃんと就職できるかどうか)をコントロールできます(“I have control over how my job prospects fare in the economy.”) 」。
その一方で、残り半数の被験者に対しては、先の主張と似ているものの重要性の点で劣る以下のような主張について、それが自分に当てはまるかどうか(以下の主張が正しいと思うかどうか)を評価してもらったという。
「私は、自分がTVを見る時間をコントロールできます(“I have control over how much TV I watch.”)」。
実験結果を簡潔にまとめると、以下のようであったという。人生における重要事(訳者注;病気や就職)に対する自分自身のコントロール能力には限界があることを意識させられた被験者(「私は、自分が病気に罹るかどうかをコントロールできます」etcの正否を尋ねられた被験者)は、先の「陰謀論」に対して「はい」と答える傾向が強かった。つまりは、「自分が支持する候補の対戦相手が投票機を操作して選挙不正を働いていることをより強く信じる傾向にあった」というのだ。

別の実験では、被験者の(カンザス大学の)大学生に対して、2つのエッセイのうちどちらか1つがランダムに割り当てられ、それを読んでもらうように依頼した。1つ目のエッセイでは、アメリカ政府は不況にうまく対処し得る能力を備えていること、法律の運用が改善されたおかげで犯罪率が下落傾向にあること、が語られていた。その一方で、2つ目のエッセイでは、アメリカ政府は不況に対してなす術なくお手上げ状態であること、政府の懸命の努力にもかかわらず犯罪率が上昇傾向にあること、が語られていた。

被験者たちは、どちらか一方のエッセイを読んだ後に、架空の出来事のリストを見せられて、それぞれの出来事を引き起こしたと考えられる最もあり得そうな原因は何であるかを以下の選択肢の中から選ぶよう依頼された。
①友達、②敵、③どちらでもない(=つまりは、その出来事は偶然生じた)
実験結果を簡潔にまとめると、以下のようであったという。政府は問題に対するコントロールに限界を抱えている(問題に対処する能力に限界を抱えている)ということを意識させられた被験者(2つ目のエッセイを読んだ被験者)は、自らの人生におけるよからぬ出来事(negative events)の原因は敵にあると見なす傾向が強く、それとは対照的に、(政府のおかげで)事がうまく運んでいると意識させられた被験者(1つ目のエッセイを読んだ被験者)は、「自らの人生に対して敵がよからぬ影響を及ぼす程度を軽視する傾向にあった」というのだ。

これらの研究結果は、我々が抱える苦しみ(sorrow)の原因として具体的に指摘することのできる誰か(あるいは、何物か)を有することが、不思議と心を和ませる効果を持つ可能性を示唆している。また、これらの研究結果は、アメリカ人が標的とすべき外部の敵――ソビエトであったり、ムスリムであったり、中国であったり――を事あるごとに見出そうとする理由を説明する助けともなるだろう。しかしながら、このような幻想を抱くこと〔=敵を仕立てあげて、その敵の実力を誇張する傾向;訳者注〕に対して社会が明白な対価(犠牲)を支払うことを迫られる可能性があるとすれば〔訳者注;例えば、戦争等のかたちで〕、「敵意」(“enemyship”)に対する必要性(あるいは、需要)を減じるにはどうすればいいかという問いもまた重要になってくるだろう。

この問いに対して、Sullivanは、Eメールを介した私とのインタビューで次のように答えている。「社会で生じる危害だったり自分自身の人生だったりに対して幾分かでもコントロールを及ぼすことができるという感覚を抱けるようになれば、他者を敵として(それも、実力以上の強力な敵として)仕立てあげる('enermize')必要性は減るだろうと思います」。
「例えば、我々が実施した最初の実験では、自らの人生に対して高いレベルでコントロールを及ぼせる状況にあると意識づけられた被験者は、外的な危害(external hazards)の原因を敵に求める傾向が弱いという結果が得られています。この実験結果を踏まえると、自分の人生に対するコントロールの感覚を強めるような何らかの社会的な構造や仕組みを設計することができれば、危害を生みだした原因として敵を勝手に仕立てあげたり、危害を生みだした原因と見なせるほどの大きな力を敵に持たせようとする(敵の実力を誇張しようとする)必要性(あるいは、傾向)は減ずることになるでしょう。おそらく、完全に無くなるということはないでしょうが。」

「また、我々が3番目に実施した実験では、社会システムが全般的に秩序だっていると意識づけられた被験者は、自らの人生をコントロールする上で何らかの脅威に直面しても、敵の実力を誇張することを通じて脅威の原因を敵に求めようとはせずに、脅威をコントロールする政府の能力に高い信頼を置く傾向にありました。この実験結果を踏まえると、先ほどの繰り返しになりますが、自分の人生に対するコントロールの感覚が強まったり、ランダムな危害の脅威から我が身を守ってくれる頼りになる効率的な社会秩序の中に自分が生きていると感じられるようになれば、『敵意』に対する必要性は減ずることになるでしょう。」

「そういうわけですから、市民が医療保険のおかげで健康面でのリスクから守られていたり、警察による保護に対して強い信頼が抱かれているようなら、ランダムで差し迫った脅威の源泉としての敵を探し出そうとする傾向は減ずる可能性があると思います。」

Sullivan は、「敵意」に対する必要性を減ずるために、個人レベルでも可能な対処法としてさらに2つの術を語ってくれた。「自らの人生に対するコントロールの感覚や確実性の感覚を持ちたいという欲求が人には備わっているのだとすれば、その欲求が可能な限り社会的に有益なかたちで発露するように誘導してやればいいと思います。多くの人々は、我々が住む不確実な世界を、何らかのルールや取り決め(engagement)に基づいた明確なシステムとして把握しようとして、科学や芸術、宗教等といった分野――以上は、ほんの一例にすぎませんが――で研鑽を積み、そのおかげで特定の狭い領域に対しては何もかもに精通しているかのような感覚を抱くことができます。そのような試みが、誰も傷つけず、しかも人にコントロールの感覚を抱かせるに至るようなら、『敵意』に対する必要性を減ずることにもつながるでしょう。」

「人生における不確実性やコントロールの限界をそのまま受け入れようと試みるというのが最終的な対処法でしょうね。人生に意味を付与するいくつかのシステム――例えば、道教(Taoism)など――は、この発想に基づいています。どういうことかというと、人というのは、自分でコントロールできることには限界があるという事実を最終的には受け入れることができるし、自分でコントロールできることには限界があるという事実を前にして敵を仕立てあげて自衛に走らずに、ある程度のレベルであれば(自分でコントロールできることには限界があるという)その事実に(心を惑わされることなく)慣れ親しむだけの境地に達することもできるのです。」

というわけで、「敵意」に対する必要性を減ずるために、今すぐにでもできることから実践してみようじゃないか。手始めに、MSNBCの視聴時間を減らして、瞑想(meditation)にあてる時間を増やしてみてはどうだろうか。