2016年5月31日火曜日

George Akerlof 「木の上の猫 ~経済危機に関する私見~」(2013年5月9日)

George A. Akerlof, “The cat in the tree and further observations: Rethinking macroeconomic policy”(VOX, May 9, 2013)

危機の予測という点に関しては、経済学者はダメダメだった。その一方で、危機が起きてからこれまでに試みられた一連の経済政策は、「経済を専門とする名医」の処方箋に近いものだったと言える。良い経済学も良識もこれまでのところはちゃんと機能している。あれこれと試してみて、成果も上がっている。このことは将来への教訓として胸に刻んでおかねばならないだろう。
 
IMFが主催した今回のカンファレンスでは、「マクロ経済政策の再考」がテーマとして掲げられた(IMF 2013)。私も参加させてもらって、多くのことを学ぶことができた。スピーチしてくれたすべての方々に大いに感謝したいと思う。ところで、全体の印象を何らかのイメージに置き換えるとしたら、どうなるだろうか? 誰かの役に立つかどうかはわからないが、大木によじ登っている猫というのが私の脳裏に浮かぶイメージだ。木の上にいる猫をみんなで見上げているのだ。 猫というのは、今回の大いなる危機のことを指しているのは言うまでもない。今回のカンファレンスでは、その愚かな猫をテーマにみんなで意見を出し合ったわけだ。どう取り扱うべきかについて。木の上から降ろすためにはどうしたらいいかについて。私がとりわけ感銘を受けたのは、「猫」に対するイメージ(「猫観」)が一人ひとり違っていて、意見が被ることがなかったことだ。とは言え、意見がうまく噛み合うことも時にあった。今回のカンファレンスを振り返ってみると、そういうイメージが浮かんでくるのだ。 今回のカンファレンスで交わされた討論は、大変有益なものだったと思う。なぜなら、どの「猫観」も独特だったし、それでいながらどれもが的を射ていたからだ。私の「猫観」はというと、哀れな猫が木の上にいて、今にも落ちそう。でも、下で見ている人たちはどうしていいかわからないでいる。そういう感じだ。

経済危機に関する私見

今回の危機についての私なりの考えを具体的に論じていくとしよう。「猫」の扱いはどれくらい上手くいったのだろうか? 他のみんながそれぞれ独自の観点から述べたことに私なりに少し違った角度から光を当ててみようと思う。

危機後のアメリカに分析を集中させるが、その結果は他の国にも当てはまるだろう。格好の論文がある。オスカー・ヨルダ(Oscar Jorda)&モリッツ・シュラリック(Moritz Schularick)&アラン・テイラー(Alan Taylor)の三人の大変優れた共著論文(Jorda, Schularick&Taylor 2011)がそれだ。この論文では、1870年から2008年までの間に先進14カ国で発生した景気後退が2つのタイプに分類されている。金融危機を伴う景気後退(financial recession)と、(金融危機を伴わない)通常の景気後退(normal recession)である。ブーム期における与信残高の対GDP比の違いに応じてその後に発生した景気後退の性質にどんな違いが見られるかが検証されていて、以下のような結果が見出されている。

  • 金融危機を伴う景気後退は、通常の景気後退に比べると、GDPの落ち込みが大きくて、景気回復の足取りも鈍い傾向にある。それに加えて、ブーム期における与信残高の対GDP比が高いほど、金融危機を経た後の景気回復の足取りが鈍い傾向にある。

これまでについてはそうだったという話だ。過去のデータから見出せる傾向に照らすと、目下の危機についてどんなことが言えるだろうか? 「与信残高」をどう測るかによってその結果は違ってくる。

  • 民間部門における銀行融資残高で「与信残高」を測ると、2007年以降のアメリカの景気回復局面におけるGDPの水準は、過去の似たような事例(景気後退に先立つブーム期における「与信残高」の対GDP比が同じくらいの過去の事例)での景気回復局面におけるGDPの水準の平均値を1%上回っている。
  • 民間部門における銀行融資残高にシャドー・バンキング・システムを経由した信用残高を加えて「与信残高」を測ると、2007年以降のアメリカの景気回復局面におけるGDPの水準は、過去の似たような事例(景気後退に先立つブーム期における「与信残高」の対GDP比が同じくらいの過去の事例)での景気回復局面におけるGDPの水準の平均値を4%上回っている。

詳しくは、ヨルダ&シュラリック&テイラーの共著論文のグラフをご覧いただきたい。ところえ、金融デリバティブの隆盛に伴って、「与信(信用)」(“credit”)をどう測ればいいかがよくわからなくなってきているのだ。

デリバティブがリスクヘッジのために利用されるようなら、金融市場がクラッシュした時にそのインパクトを和らげる働きをするだろう。例えば、クレジット・デフォルト・スワップ(CDS)の売り手ではなく買い手が債務不履行で破産するとしたら、CDSのおかげでその影響が和らげられるだろう。その一方で、デリバティブがギャンブルを煽るようなら、金融市場がクラッシュした時にそのインパクトを増幅する働きをするだろう。

2007年~2008年のアメリカではどうだったかというと、デリバティブは色々なかたちでギャンブルを煽っていたというのが通説だ。デリバティブが住宅ローンの評価の嵩上げに寄与したことを伝えるたとえ話としてよく持ち出されるのが、(カリフォルニア州の)セントラル・バレーで怪しげな相手に貸し出された住宅ローンがデリバティブによってひとまとめにされて、Aないしはそれ以上の格付けを得たというやつだ。怪しげなジャンク債でも高い格付けを得られたのだ。そのため、住宅ローンのオリジネーター(原債権者)は、借り手に頭金の支払いを求めなかったし、借り手の信用調査も行わなかったのだ。

投資銀行や格付け機関は、「受託者」(fiduciary)という信用ある立場を存分に利用して、新しいデリバティブを次々と編み出して、それらに高い格付けを与えていった。これらのことを踏まえると、2007年以降のアメリカの景気回復局面についての先の二つの評価は辛めということになるだろう。


政策の成否を測る物差しとしての大恐慌

2008年の秋頃における世間の認識も同じだったようだ。政府が何らかの対策を講じなければ、「大恐慌」級の不況がやって来るだろうと思われていたのだ。「大恐慌」が物差しになっていたのだ。「大恐慌」を物差しにして判断するなら、これまでに試みられたマクロ経済政策は、「グッド」というにとどまらず「エクセレント」という評価になるだろう。アラン・ブラインダー(Alan Blinder)も出色の一冊である『After the Music Stopped』で、まったく同じ評価を下している(Blinder 2013)。

そのほとんどが「名医」の処方箋に近かったのだ。具体的な例は、以下の通り。 

  • 2008年景気刺激法
  • 保険大手のアメリカン・インターナショナル・グループ(AIG)への公的資金の注入
  • ワシントン・ミューチュアル、ワコビア、カントリーワイドの救済合併
  • 不良資産救済プログラム(TARP)
  • 財務省とFedによる銀行のストレステスト(健全性審査)
  • Fedによるゼロ金利政策
  • 2009年アメリカ復興・再投資法(ARRA)
  • 自動車業界の救済
  • IMFが主導的な役割を果たしたG20ピッツバーグ・サミットでの合意内容に沿った国際協調

個人的に不満に思っていることが一つだけある。

  • 政策の成否は、足許の失業率の水準で判断するのではなく、適当な物差しと比べて判断すべきなのだ。景気後退に先立つブーム期における金融面での脆弱性に照らして今回の危機と似ている過去の事例と比べて判断すべきなのだ。そのことを世間に訴えるべきだったのだ。

適当な物差しと比べると、これまでに試みられたマクロ経済政策は成果を上げていると判断できる。経済学者たちは、そのことを世間にうまく説明できていないのだ。とは言え、世間の人たちは、なかなか耳を貸してくれないかもしれない。マクロ経済学やマクロ経済の歴史を学ぶ以外にやるべきことをたくさん抱えているからだ。 

しかしながら、これまでに試みられたマクロ経済政策が上々の成果を上げているのに気付くためには、ちょっとした良識を働かせるだけでいい。例えば、リーマン・ブラザーズが1ドルの赤字を計上していて、経営破綻に陥らないためには1ドルの黒字に転じるだけでいいとすると、ここぞというタイミングで2ドルの公費を投じれば、「大恐慌」級の不況を回避できてしまえる可能性があるのだ。わずか2ドルでいいのだ。堤防の裂け目を防ぐためには、指・・・ではなくて2ドルを突っ込むだけでいいのだ。

言うまでもないが、金融機関を救済するために実際に投じられた公費は2ドルでは済まなかった。その額は、最終的に数十億ドルに及ぶ可能性もある。しかしながら、金融機関を救済するために公費が投じられたおかげで、金融システムのメルトダウンが避けられたことは確かだ。金融システムがメルトダウンして「大恐慌」級の不況に見舞われていたとしたら、数兆ドルものGDPが失われていた可能性がある。数十億ドルの公費を投じるおかげで数兆ドルものGDPが失われずに済むとすれば、不良資産救済プログラム(TARP)の費用対効果は1対1000ということになる。費用対効果が1対1000というのだから、「堤防の裂け目に突っ込まれた指」という喩えを持ち出しても誇張じゃないだろう。

ブッシュ政権ならびにオバマ政権によって試みられた財政刺激策(2008年景気刺激法と2009年アメリカ復興・再投資法)は、費用対効果の面で見劣りするが、効果があったのは確かだ。政府支出の乗数効果は2くらいと推計されているが、直感的にも納得がいく。流動性の罠に嵌っているようなら、均衡予算乗数の値は理論的に1くらいで、実証的にもそのくらいと推計されている。租税乗数の値も同じく1くらいと推計されている。政府支出乗数は、均衡予算乗数と租税乗数の和なので、足して2だ。財政刺激策もだいぶ大きな効果を生んだのは確かなのだ。


結論

まとめるとしよう。危機の予測という点に関しては、経済学者はダメダメだった。その一方で、危機が起きてからこれまでに試みられた一連の経済政策は、「経済を専門とする名医」の処方箋に近いものだったと言える。いずれの政策もブッシュ政権およびオバマ政権の両政権によって党派の枠を超えて繰り出され、議会も支持したのだった。

良い経済学も良識もこれまでのところはちゃんと機能している。あれこれと試してみて、成果も上がっている。このことは将来への教訓として胸に刻んでおかねばならないだろう。


<参考文献>

●Blinder, Alan S (2013), After The Music Stopped, Penguin.
●IMF (2013), “Rethinking Macro Policy II: First Steps and Early Lessons”, conference, 16-17 April.
●Jorda, Oscar, Moritz Schularick and Alan Taylor (2011), “When credit bites back: Leverage, Business Cycles and Crises”, NBER Working Paper Series 17621, NBER.

Martin Ravallion 「『貧困への目覚め』 ~過去3世紀の間に『貧困』に対する注目はどのような変遷を辿ってきたか?~」(2011年2月14日)

Martin Ravallion, “Poverty Enlightenment: Awareness of poverty over three centuries”(VOX, February 14, 2011)

世間の人々が「貧困」に注目し出してからどれくらいの期間が経っているのだろうか? 1700年以降に出版された書籍の中で「貧困」という単語がどれだけの頻度で使用されているかを調査した結果、次のような事実が明らかになった。1740年から1790年までの間に「貧困」という単語への言及頻度が急増したものの――一度目の『貧困への目覚め』の時代の到来――、19世紀から20世紀の半ばにかけて貧困への注目は徐々に薄らいでいった。しかし、1960年頃を境として、二度目の『貧困への目覚め』の時代が到来するに至っており、「貧困」への注目は今現在も高まり続けている最中である。

 

貧困に対する世間の注目は、これまでにないほど高まっていると言えるかもしれない。例えば、以下の図1をご覧いただきたい。この図はGoogle Books Ngram Viewerの助けを借りて作成されたものだが、1700年から2000年までの間に出版された書籍の中で「貧困」(“poverty”)という単語がどれだけの頻度で使用されているかを調べた結果を表わしている〔原注1〕――縦軸に示されているのが頻度の移動平均(その年に出版されたすべての書籍に含まれる総単語数で標準化したもの)――。この図によると、1740年から1790年までの間に「貧困」という単語への言及頻度が7倍に増えていることがわかる。この時期は、啓蒙主義の時代が終わりを迎えようとしている頃――フランスとアメリカで革命(フランス革命とアメリカ独立戦争)が発生した時期――にあたるわけだが、貧困に対する注目が急速な勢いで高まった「貧困への目覚め」(“Poverty Enlightenment”)の時代としても特徴付けることができるわけだ。その後の19世紀から20世紀の半ばにかけて貧困に対する注目は衰えを見せるが、1960年頃を境として二度目の「貧困への目覚め」の時代(second Poverty Enlightenment)に突入することになる。1960年頃を境として、突如として貧困への注目が再燃し、「貧困」という単語への言及頻度が(データが利用できる最新の年である)2000年の時点でこれまでのピークに達しているのだ。


図1. 「貧困」という単語への言及頻度 (1700年から2000年までの間に出版された英語圏の書籍が対象)


2度にわたる「貧困への目覚め」の時代の背後では、どのような事態が進行していた(いる)のだろうか? つい最近の論文(Ravallion 2011)で、驚くべき速さで単語をカウントする能力を備えたGoogle Books Ngram Viewerの助力を得つつ、過去のテキストの読解――私自身の能力の制約もあって、だいぶ時間を要したが――を通じて、私なりにこの問いへの答えを探ってみた。その結果の一部を以下で報告することにしよう。


一度目の「貧困への目覚め」

分配的正義(distributive justice)というアイデアの歴史がものの見事に跡付けられているサミュエル・フライシャッカー(Samuel Fleischacker)の著作(Fleischacker 2004)によると、前近代の時代においては「貧困層は、ひどい欠点を抱えた無価値な存在と見なされていた」(pp. 7)。例えば、ロバート・モス(Robert Moss)は、18世紀初頭にこう述べている。貧乏人は「自らが置かれている状況に満足すべきである。というのは、貧乏人がかくのごとくであるのは、神の望むところだからだ」。また、フランスの医師でありモラリストでもあったフィリップ・エッケ(Philippe Hecquet)は、1740年に次のように書いている。「貧乏人は、絵の中の影のようなものである。なくてはならないコントラストの役割を果たしているのだ」。貧困が発生するのはどうしてなのかという問いに対する答えとしては、「神の意志」が持ち出されるか、一人ひとりが抱える私的な問題――怠惰をはじめとした性格面での欠点――に目が向けられがちだった。飢え(空腹)は好ましいことだという意見さえあった。空腹だからこそ(空腹を満たしたいと思うからこそ)、貧乏人は働く気になるというのだ。

18世紀後半に入ると、特にフランスにおいて、従来の社会的な階級構造を疑問視する声が次第に上がり始めるようになる。ピエール・ド・ボーマルシェ(Pierre Baumarchais)が1784年に書いた戯曲『フィガロの結婚』がそのいい例だが、パリの聴衆たちは、召使のフィガロの側について貴族を嘲笑したのだった。フランスで芽生え始めた平等主義の精神は、やがてイギリス海峡を渡ることになるが、頑(かたく)なな抵抗に遭うケースもしばしばだった。例えば、イギリスにおける近代警察の生みの親であるパトリック・カフーン(Patrick Colquhoun)は、1806年にこう書いている。貧困は「社会を成り立たせる上で、最も必要で欠かせない要素である。貧困と無縁な国家や共同体は、文明の地位に辿り着くことはできない」。

貧困というのは、自然的秩序の表れ(自然法則の帰結)ではなく、政治・経済的な現象であるとの認識が広まるにつれて、一度目の「貧困への目覚め」の時代が到来して、貧困層自身も貧困からの脱出を意識し始めるようになる。しかしながら、書籍の上では依然として「貧困は、多かれ少なかれ避けることのできない(受け入れざるを得ない)この世の現実である」との見方が支配的であり、それは18世紀~19世紀の経済学の世界でも同様だった。当時の経済学者の中には、貧困は経済が発展する上で必須の条件と見なす者もいた。そのような経済学者も、実質賃金が上昇すれば貧困の削減につながることは否定しなかったものの、実質賃金が上昇すると富の蓄積が妨げられることになるかもしれないと懸念したのだった。実質賃金が高まれば、労働の供給が減るばかりか、輸出面での競争で不利な立場に立たされ、さらには労働者が贅沢品に夢中になって(仕事に身が入らずに)労働の質が低下するかもしれないというのである――輸出面での競争で不利な立場に立たされると、富の蓄積が妨げられることになるとの発想の背後には、重商主義的な世界観が控えていた――。また、トマス・マルサスが、生態学的な危機の到来を予測し、人口の増加は貧困と飢饉(食糧不足)によってしか食い止められないと語ったことも有名である。社会進歩の可能性についてマルサスよりもずっと楽観的だったアダム・スミスも、経済発展(経済成長)の果実が社会各層に公平に行き渡る可能性についてはそれほど大きな望みを抱いていなかった。スミスは、こう語っている(Smith 1776, pp.232)。「大いに繁栄している地域においてはどこであれ、格差もまた大きいものだ。1人の大金持ちに対して貧乏人が少なくとも500人はいるのが通例であり、少数の豊かさには多数の貧しさが伴っているのだ」。


二度目の「貧困への目覚め」

現代的な意味での「分配的正義」の発想――「社会に生きるすべての人に最低限度の生活水準が保障されるべきである」との発想――が(粗いかたちではあれ)その姿を表わしたのは、18世紀後半の西欧世界においてだったが、その後の170年間を通じて世間から徐々に忘れ去られることになる。とは言え、学術的な文献に目を向けると、その微(かす)かな命脈を確認することができる。19世紀から20世紀への転換期において、経済学者のアルフレッド・マーシャルは、『経済学原理』(1890)の巻頭(pp.2)で次のように問い掛けている。「貧困はこの世にとって必要なものだとする発想は、過去の遺物ではなかったのか?」

世間の注目が再び貧困に向けられて、現代的な意味での「分配的正義」の発想に広い支持が寄せられるまでには、1960年代に入って二度目の「貧困への目覚め」の時代が到来するのを待たねばならなかった。その中心的な舞台となったのは、アメリカである。物質的な豊かさを享受していた20世紀中頃のアメリカで――公民権運動の盛り上がりに次ぐかたちで――、貧困が「再発見」されたのである。その後押しをする上で大きな役割を果たしたのが、当時の論壇を賑わせた J・K・ガルブレイス(John Kenneth Galbraith)の『ゆたかな社会』(1958)や、マイケル・ハリントン(Michael Harrington)の『もう一つのアメリカ』(1962)――どちらも当時ベストセラーになった――といった一連の著作だった。政府もこのような世間の風潮に反応し、「貧困との戦い」(War on Poverty)を旗印にしたリンドン・ジョンソン政権下で、貧困家庭に対する支援をはじめとした数々の社会プログラムが導入されることになったのである。

ガルブレイスやハリントンらの著作が大きな影響を持ち得た理由の一つは、著作が発表されたタイミングが時宜(じぎ)を得ていたからというのもあるだろう。1950年代~1960年代のアメリカでは、国民の大多数が豊かな生活を手に入れることになったが、それゆえにこそ、貧困という問題を見過ごして平然としていることがますます難しくなっていったのである。それに加えて、当時は楽観的な雰囲気が充満しており、貧困の削減に向けた政策の効果についても同様に楽観的に捉えられていた。しかしながら、1980年代に入ると、右派の側から反撃の狼煙(のろし)が上げられ――チャールズ・マレー(Charles Murray)の『Losing Ground』(1984)がその代表――、1990年代における一連の福祉改革(社会保障制度の改革)へとつながることになる。「貧困との戦い」(“War on Poverty”)が宣言されたと思いきや、その30年後に「福祉との戦い(福祉政策の縮小に向けた戦い)」(“War on Welfare”)が宣言されるに至ったわけだ。貧困の問題についてはその原因や適切な政策対応を巡って現在でも世界中で議論が続いているが、その多く――例えば、貧しさの原因のうちのどのくらいがその人(貧困層)自身にあると言えるのかといった問題を巡る論争――は、200年前(一番目の「貧困への目覚め」の時代)の論争の焼き直しという面を強く持っている。

20世紀後半に入って貧困に対する世間の注目が再び高まっている理由は、他にもある。そのうちの一つは、発展途上国の広い範囲で厳しい貧困が蔓延(はびこ)っている事実が徐々に世界中の人々の目に留まり始めたことである。そのような気運が醸成されたのは1970年代に入ってからのことだが、開発政策の専門家に強い影響を及ぼしたのが、世界銀行が1990年に刊行した『世界開発報告』(World Development Report)である。それ以降、世界銀行は「貧困のない世界」(“world free of poverty”)の実現を最重要目標に掲げ、専門家の間で貧困問題に関する実証研究が活発に行われるようになったのである。


貧困と政策:貧困の削減に向けて

過去3世紀の間に、貧困に対する世間の見方は大きなシフトを見せた。貧困の現実を現状肯定的に受け入れたり、貧困層を軽蔑しさえする態度が支配的な時代もあったが、今現在はそうではない。社会や経済ないしは政府の成績(善し悪し)は、貧困の削減にどのくらい成功しているかによって少なくとも部分的には評価すべきだというのが現在の支配的な見方である。このようなシフトが生じた理由としては、いくつか考えられるだろう。世界経済が全般的に豊かになったことで、貧困という問題を見過ごして平然としていることがますます難しくなったという事情もあるだろうし、民主主義の広がりによって貧困層の声が政治に反映されやすくなったという事情もあるだろう。貧困に関する研究の進展に伴って、効果的な政策対応を可能とする知識の蓄積が進んだということもあろう。

過去3世紀の間には、(貧困の削減に向けた政府介入の有効性をはじめとして)市場と政府の役割に対する態度の面でも大きなシフトが生じた。第二次世界大戦後の「政府介入の黄金時代」(Tanzi&Schuknecht 2000)においては、(貧困の削減に向けた政策も含めて)幅広い範囲で政府による市場への介入が試みられたが、1970年代の後半以降になると、経済問題の解決に向けた政府の介入には限界があることを明らかにした政治経済学方面の研究や積極的で精力的な政治運動に支えられるようにして、それまでの流れに反発して政府の役割の縮小を求める動きが勢いを増し始めることになった。

論争の行方や制度改革の方向性は右へ左へと揺れ動いているが、Google Books Ngram Viewerを用いた文献の解析によると、「政府介入の黄金時代」の終焉にもかかわらず、貧困に対する世間の関心はそれほど薄らいではいないようである。それどころか、「貧困」や「格差」(inequality)といった単語への言及頻度は、20世紀後半を通じてはっきりとした増加傾向を辿っている。1980年代以降に入って、「社会政策」(social policies)や「社会保障(社会的保護)」(social protection)、「市民社会団体」(civil society organisations)といった単語への言及頻度が急速に増えているのだ――その理由のいくらかは、貧困や格差に対する世間の関心の高まりに求められるに違いない――(Ravallion 2011)。

貧困に対する世間の注目がこれまでにないほど高まっている今現在だが、この気運をどうやって効果的な行動(取り組み)に結実させたらよいかとなると、それはまた別の問題である。二度目の「貧困への目覚め」の時代においては、意見の不一致があちこちで起こったし、貧国の削減に向けた取り組みも成功ばかりではなく失敗もあった。19世紀の大半を通じてと同様に、今現在においてもまた、政府の介入に懐疑的な見方が力を持ち始めている。しかしながら、励みになる事実もある。「貧困は、逃れようのない現実であり、受け入れざるを得ないのだ」という19世紀に支配的だった現状肯定的な態度が蘇るところまでは至っていないのだ。


〔原注1〕Google Books Ngram Viewerは、Michel et al.(2010)によって開発された。デジタル化されて保存されている書籍の総数は520万冊、単語の数は5000億ワードを超えている。Google Books Ngram Viewerの長短については、Ravallion(2011)を参照されたい。


<参考文献>

●Fleischacker, Samuel (2004), A Short History of Distributive Justice, Harvard University Press.
●Galbraith, John Kenneth (1958), The Affluent Society(邦訳 『ゆたかな社会 決定版』), Mariner Books.
●Harrington, Michael (1962), The Other America: Poverty in the US(邦訳 『もう一つのアメリカ-合衆国の貧困』), Macmillan.
●Michel, Jean-Baptiste, Yuan Kui Shen, Aviva P Aiden, Adrian Veres, Matthew K Gray, The Google Books Team, Joseph P Pickett, Dale Hoiberg, Dan Clancy, Peter Norvig, Jon Orwant, Steven Pinker, Martin A Nowak, and Erez Lieberman Aiden (2010), “Quantitative Analysis of Culture Using Millions of Digitized Books”, Science, 16 December.
●Marshall, Alfred (1890), Principles of Economics (8th edition, 1920)(邦訳 『経済学原理』), Macmillan.
●Murray, Charles A (1984), Losing Ground. American Social Policy 1950-1980, Basic Books.
●Ravallion, Martin (2011), “The Two Poverty Enlightenments: Historical Insights from Digitized Books Spanning Three Centuries”, Policy Research Working Paper 5549, World Bank.
●Smith, Adam (1776), An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations(邦訳 『国富論』), in Edwin Cannan (ed.), The Wealth of Nations, Chicago University Press.
●Tanzi, Vito and Ludger Schuknecht (2000), Public Spending in the 20th Century: A Global Perspective, Cambridge University Press.
●World Bank (1990), World Development Report: Poverty, Oxford University Press.

2016年1月3日日曜日

Guyonne Kalb&Jan van Ours 「家庭での本の読み聞かせにはどんな効果がある?」(2013年6月10日)

Guyonne Kalb&Jan van Ours, “Reading to children: a head-start in life”(VOX, June 10, 2013)


幼い頃に培われた認知的・非認知的なスキルは、大人になってからの境遇に大きな影響を及ぼす。親が幼い我が子に本を読み聞かせることにはどんな効果があるのだろうか? 計量経済学的な検証を通じて明らかになった発見に照らすと、世の親たちは幼い我が子に日常的に本を読み聞かせるべきである。親が家で本を読み聞かせると、幼い子供の非認知的なスキルはそれほど高まらないが、認知的なスキルは大いに高まるのだ。

幼い子供の認知的・非認知的なスキル〔訳注1〕を育むことは、経済学的な観点からしても重要である。幼い頃に培われた認知的・非認知的なスキルは、大人になってからの経済面での生産性に影響を及ぼすことが知られているからである(Heckman and Masterov 2007)。認知的なスキルは、社会的・経済的な面で成功できるかどうか――学業成績の高低、給料の高低、職場環境の良し悪し――を説明する上で重要な要因の一つであり、就学前教育(幼稚園や保育園での教育)や学校教育だけでなく家庭内での親の努力によっても影響される。例えば、全米青年長期調査(NLSY79)の追跡データを検証しているクンヤ&ヘックマンの2008年の論文(Cunha&Heckman 2008)によると、親が家庭内で投じる「投資」の量が子供の認知的なスキルを育む――ひいては、大人になってからの成功を左右する――上で重要な役割を果たしていることが見出されている。クンヤ&ヘックマンの論文では、家庭内での「投資」の量を測る指標として、家に児童書が何冊あるか、家に楽器があるかどうか、日刊紙(新聞)を購読しているかどうか、子供が習い事に通っているかどうか、家族で博物館や映画館に出掛ける習慣があるかどうかに目が向けられている。クンヤ&ヘックマンによると、親による家庭内での「投資」が子供の認知的なスキルに及ぼす効果が最も高いのは幼少期との結果が見出されている。これまでに試みられた大量の実証研究を概観しているクンヤその他(Cunha et al. 2006)によると、幼い頃に培われた認知的なスキルは、より高い訓練を受けられる可能性だったりより高い学歴を身に付けられる可能性だったりに影響を及ぼすだけでなく、訓練なり教育なりを受けることで得られる経済的な見返り(社会人になってからの稼ぎ)の大きさにも影響を及ぼすと結論付けられている。

親が我が子に日常的に本を読み聞かせれば、自分で読書する習慣が育まれて、そのおかげで子供の認知的なスキルが磨かれるかもしれない。教育分野におけるいくつかの先行研究によると、親が子供に本を読み聞かせることと、その子供がもう少し大きくなった時に身に付けているリーディングスキル(文字や文章を読む能力、読解力)、言語スキル、認知面の発達との間に正の相関があることが確認されている(例えば、Mol&Bus (2011) を参照)。しかしながら、その正の相関関係を因果関係と解釈できるかどうかとなると、そのことを検証した研究は乏しいと言わざるを得ない。


研究の背景

親が幼少期の我が子に本を読み聞かせたらその子供のリーディングスキルにどんな効果が及ぶかを全豪小児長期調査(LSAC)の追跡データを用いて検証しているのが、我々の最近の論文である(Kalb&Van Ours 2013)。4~5歳児の子供に本を読み聞かせた場合にリーディングスキルにどんな効果が及ぶかに加えて、その効果がどれだけ持続するかを調べるために、その子供がもう少し成長した時点(10歳~11歳時点)のリーディングスキルも追跡して調査している。実証結果の頑健性をチェックするために、一つではなく複数の指標を使ってリーディングスキルを測っている。



図1. 本を読み聞かせる頻度とリーディングスキル(4~5歳児)


生のデータを調べてみると、すぐに浮かび上がってくるパターンがある。親が幼児に本を読み聞かせる頻度と、その幼児のリーディングスキルとの間に明確な正の相関関係が見出せるのである(図1を参照)。つまりは、親に家庭で本を読んでもらう機会が多い幼児ほど、リーディングスキル(を測る指標の値)が高い傾向にあるのだ(青棒の色が薄いほど、リーディングスキルが高いことを示している)。さらには、親に家庭で本を読んでもらう頻度にかかわらず、女児の方が男児よりもリーディングスキルが若干高い。リーディングスキルを測るその他のすべての指標でも同様のパターンが見出されている。4~5歳の時点では、言語に関わるスキル全般で女児は男児よりも秀でているのだ。

別の例として図2をご覧いただきたい。全国統一学力テスト(NAPLAN)での8~9歳の女児のリーディングテスト(読解力テスト)の成績分布が表されているが、4~5歳の時に親に家庭で本を読んでもらった機会が多い女児ほど、8~9歳時のリーディングテストの点数が高い(曲線全体が右側に位置している)傾向にある。



図2. 全国統一学力テスト(読解力テスト)の成績分布(8~9歳の女児)


研究の手法

我々の論文では、4000人を超える子供のコホート調査――全豪小児長期調査(LSAC)――のデータに分析を加えている。第一回目の調査が行われた時点で4~5歳だった4000人超の子供を対象に、2年ごとに計4回(第二回目の調査は6~7歳時点、第三回目の調査は8~9歳時点、第四回目の調査は10~11歳時点)にわたって行われた追跡調査のデータに分析を加えているわけである。リーディングスキルについては、親や幼稚園(ないしは保育園)の先生による評価(4~5歳の時点)、小学校の先生による評価(6~7歳、8~9歳、10~11歳の時点)、全国統一学力テストの成績という複数の指標を使って測っている。言語スキルについては、ピーボディー大学式理解力検査(PPVT)の点数を使って計測している。認知的なスキル全般については、全豪小児長期調査(LSAC)で収集されている学力指数を使って計測している。非認知的なスキルについては、全豪小児長期調査(LSAC)で収集されている社交性や情動に関する指数を使って計測している。メインとなる変数は、親が我が子に本を読み聞かせるためにどれくらいの時間を費やしているかである。親が1週間のうちに我が子にどれくらい本を読み聞かせているかを3つのカテゴリー(「週に0~2回」/「週に3~5回」/「週に6~7回」)に分類して、計量経済学的な検証を行っている。親が本を読み聞かせるおかげで子供のリーディングスキルが高まると言えるかどうかを検証するために、操作変数法と呼ばれる手法を用いている。その子供が第一子かどうか、兄弟姉妹が何人いるかを操作変数として用いている。第一子かどうか、兄弟姉妹が何人いるかというのは、親が一人の子供に本を読み聞かせるために割ける時間(説明変数)には影響を及ぼすものの、子供のリーディングスキル(被説明変数)には直接的に影響を及ぼすことはないと考えられるからである。


実証結果

3つの主たる結果が見出されている。一つずつ見ていくとしよう。

  • 親が子供に本を読み聞かせる頻度と関わりのある要因は?

まずは男児について。子供の年齢が高いほど、家にあるテレビの台数が多いほど、平日に家でテレビを視る時間が長いほど、兄弟姉妹の数が多いほど、親が本を読み聞かせる頻度が少なくなる。それとは反対に、家にある児童書の冊数が多いほど、親の学歴が高いほど、育児を主に担当する親の年齢が高いほど(ただし50歳以下)、親が本を読み聞かせる頻度が多くなる。さらには、その男児が第一子のようなら、親が本を読み聞かせる頻度は多くなる。女児についても似たような傾向が確認されているが、育児を主に担当する親の年齢や兄弟姉妹の人数が本を読み聞かせてもらえる頻度に及ぼす効果は統計的に有意ではない。さらには、男児の場合とは違って、親の所得が本を読み聞かせてもらえる頻度と関わりがある〔訳注2〕ようであり、平日だけでなく週末についても家でテレビを視る時間が長いほど、本を読み聞かせてもらえる頻度が少なくなるようである。

  • 子供のリーディングスキルと関わりのある要因は?

まずは男児について。4歳から5歳に近づくほど、リーディングスキルが高い。家の中で英語以外の言語が使われている場合もリーディングスキルが高い傾向にある。それとは反対に、家にある児童書の冊数が多いほど(ただし、統計的な有意性は低い)、育児を主に担当する親の年齢が高いほど(ただし、40歳以下)、リーディングスキルは低い傾向にある。女児についても似たような傾向が確認されているが、男児の場合とは違って、家にあるテレビの台数が多いほど、リーディングスキルが高い(ただし、統計的な有意性は低い)ことが見出されている。しかしながら、平日にテレビを視る時間が長いほどリーディングスキルが低い傾向にあって、二つの傾向がちょうど打ち消し合うかたちになっている。さらには、育児を主に担当する親の学歴が高いほど、リーディングスキルが若干低くなる傾向にあることも見出されている(ただし、統計的な有意性は低い)。4~5歳の女児についてはそうなっているが、もう少し上の年齢になると、(育児を主に担当する親の学歴が高いほど、リーディングスキルやその他のスキルが高いという)正の相関が成り立つようになる。

  • 親が本を読み聞かせるおかげで子供のリーディングスキルが高まるか?

親が本を読み聞かせる頻度と子供(4~5歳児)のリーディングスキルとの間に強い正の相関が成り立っているだけでなく、両者の間に因果関係が成り立っている――親が本を読み聞かせるおかげで子供のリーディングスキルが高まる――ことも見出されている。さらには、親による本の読み聞かせが子供のリーディングスキルを高める効果は、生のデータを使って得られる(単純な回帰分析から得られる)効果――親に本を読み聞かせてもらえるのが「週に6~7回」の子供と「週に0~2回」の子供とでは、リーディングスキルに標準偏差0.26個分の違いがある――よりも大きいことが見出されている。操作変数法を用いた検証結果の一覧を掲げているのが図3である。一番上の「a. Baseline estimates」をご覧いただければわかるように、親に本を読み聞かせてもらえるのが「週に6~7回」の子供と「週に0~2回」の子供とでは、リーディングスキルに標準偏差0.5個分以上の違いがあるという結果が得られている。この効果の大きさがいかほどのものかを把握するために、子供の年齢が上がるにつれてリーディングスキルが高まる効果と比較してみると、4~5歳の男児については、親に本を読み聞かせてもらえるのが「週に0~2回」から「週に6~7回」に増えるおかげでリーディングスキルが高まる効果は、年齢を半年(6ヶ月)重ねるおかげでリーディングスキルが高まる効果よりも若干大きくて、4~5歳の女児についてはその効果の差がもっと大きいという結果になっている。

実証結果の頑健性をチェックするためにいくつかの感度分析も試みている(その結果の多くは図3に掲げてある)が、親による本の読み聞かせが子供のリーディングスキルを高める効果の統計的な有意性や効果の向きは揺るがないことが確認されている。例えば、別のコホートが対象の全豪小児長期調査(LSAC)のデータを用いたり、子供が4歳になる前の時点で本を読み聞かせた場合の効果を調べたり、子供が6歳以降になった時点でリーディングスキルやその他のスキルがどうなっているかに分析を加えたり、操作変数法とは別の手法――PSM法(Propensity Score Matching methods)――を使って検証を行っている。さらには、本の読み聞かせ以外の親子の触れ合いが子供のリーディングスキルにどういう効果を及ぼすかも検証している。その子供が第一子かどうか、兄弟姉妹が何人いるかというのを操作変数に用いるのが妥当かどうかも検証している。第一子かそうじゃないかという違いは、親が本を読み聞かせるために費やせる時間が違ってくるからではなく、生物学的な(ないしは遺伝的な)属性の違いゆえにリーディングスキルに効果を及ぼす可能性があり、兄弟姉妹の数が多いか少ないかというのは、親が一人ひとりに本を読み聞かせることができる時間が違ってくるからではなく、その家庭の社会経済的地位(SES)の違いを反映していてそれがためにリーディングスキルに効果を及ぼす可能性があるが、そういう別の可能性はいずれも棄却されている。

図3をご覧いただければわかるように、親による本の読み聞かせが子供のリーディングスキルを高める効果は、計算能力(numeracy)のようなその他の認知的なスキルを高める効果を上回っている。とはいえ、親による本の読み聞かせは認知的なスキル全般にかなり大きな効果を及ぼしている。例外は非認知的なスキルに及ぼす効果で、親が本を読み聞かせる頻度を測る変数に含まれているバイアスをコントロールすると、親による本の読み聞かせが非認知的なスキルに及ぼす効果は消滅する。



図3. 親が家で4~5歳児に本を読み聞かせる効果(「週に6~7回」読み聞かせる場合と「週に0~2回」読み聞かせる場合の効果の差)


政策への含意

複数の手法を使って検証を行っても、親による本の読み聞かせが子供のリーディングスキルを高める「効果」は消えない。その「効果」は、子供が年齢を重ねても持続するし、リーディングスキルと関わりの深いその他の認知的なスキルにも及ぶ。しかしながら、その「効果」は非認知的なスキルには及ばない。親による本の読み聞かせが子供の認知的なスキル全般に及ぼす効果が一貫していることに照らすと、裕福で学歴の高い親が子供に本を読み聞かせる機会が多いために、親が本を読み聞かせるおかげで子供のリーディングスキルが高まっているように見えるに過ぎないわけではないようだ。親による本の読み聞かせは、子供のリーディングスキルを確かに高めているようなのだ。

これらのことからどんな含意が引き出せるだろうか? 幼少期の子供に日常的に本を読み聞かせることの重要性が明らかになったわけだが、親による家庭での本の読み聞かせは、幼少期の学習結果に好ましい影響を及ぼす可能性のある早期介入 (early-life intervention)の一つと見なせるだろう。子供の発育を支える上で、親は重要な役割を果たせるのだ。親が家で本を読み聞かせたら、我が子のリーディングスキルをはじめとする認知的なスキルが高まって、その効果が少なくとも10~11歳まで持続する可能性があるのだ。我々が用いたデータでは答えられないが、政策当局者の関心を引くに違いない興味深い問いがある。保育園、幼稚園、小学校で先生が子供に本を読み聞かせても、家で親が本を読み聞かせる場合と同じような効果があるのだろうか?


〔訳注1〕「認知的なスキル」というのは、読み・書き・計算の能力をはじめとするIQテストや学力検査で測れる能力を指している。その一方で、「非認知的なスキル」としては、やる気、社交性、忍耐強さ、自制心、自尊心などが含まれる。

〔訳注2〕親の所得が高いほど、本を読み聞かせてもらえる頻度が多くなる、という意味。


<参考文献>


●Cunha, F, JJ Heckman, LJ Lochner and DV Masterov (2006), “Interpreting the evidence on life cycle skill formation”, in: Hanushek, EA and F Welch (eds.) Handbook of the Economics of Education, Amsterdam, Elsevier, 697–812.
●Cunha, F and JJ Heckman (2008), “Formulating, identifying and estimating the technology of cognitive and noncognitive skill formation”, Journal of Human Resources 43, 738–782.
●Heckman, JJ and DV Masterov (2007), “The productivity argument for investing in young children”, Review of Agricultural Economics 29(3), 446–493.
●Kalb, G and JC van Ours (2013), “Reading to children gives them a head-start in life”, CEPR Discussion Paper 9485, May.
●Mol, SE and AG Bus (2011), “To Read or Not to Read: A Meta-Analysis of Print Exposure From Infancy to Early Adulthood”, Psychological Bulletin, 137, 267–296.