2016年5月31日火曜日

George Akerlof 「木の上の猫 ~経済危機に関する私見~」

●George A. Akerlof, “The cat in the tree and further observations: Rethinking macroeconomic policy”(VOX, May 9, 2013)
経済学者は危機の到来をうまく予測することができなかった。しかしながら、危機に対処するために導入された一連の経済政策はそのほとんどが「経済を専門とする名医」の処方箋に近いものだったと言える。良い経済学(経済学の教えの中でも質的に優れたもの)も良識(健全な世間知)もこれまでのところかなりうまく働いている。これまでに様々な対策が試みられ、成果もきちんと上がっている。このことは将来への教訓として胸に刻んでおかねばならないだろう。

編集者による注記:この記事はIMF主催のカンファレンス「マクロ経済政策を再考する<第二弾>:初動対応と現段階での教訓」(“Rethinking Macro Policy II: First Steps and Early Lessons”)の模様を回想して書かれたエッセイのトップを飾るものである。

今回IMFが主催したカンファレンスでは「マクロ経済政策の再考」がテーマとして掲げられた(IMF 2013)。私もその場に参加させてもらったわけだが、多くのことを学ぶことができた。カンファレンスの席上でスピーチしてくださったすべての方々に大いに感謝したいと思う。今回のカンファレンス全体の印象を一つのまとまったイメージとして描き出すとどうなるだろうか? 誰かの役に立つかどうかはわからないが、私なりのイメージを語らせてもらうと次のようになるだろう。猫が大木によじ登り、木の上の高い所にじっと居座っている。そしてその猫を頭を抱えて見上げる人々の群れ。そういうイメージだ。言うまでもないだろうが、「猫」というのは2008年以降に我々の身に襲いかかることになった大規模な経済危機を指している。今回のカンファレンスでは「木の上に居座る愚かな猫をどう取り扱うべきか?」「猫を木の上から降ろすためにどうしたらいいだろうか?」という問いを巡って参加者一人ひとりが思うところを吐露したわけだ。その様子を眺めていてとりわけ感銘を受けたのは、「猫」に対するイメージ(「猫観」)が各人ごとで違っており、意見が被るということがなかったことだ。とは言え、延々とすれ違いが続くというわけではなく、時として互いの意見がうまくかみ合う(補強し合う)瞬間が訪れる。今回のカンファレンスを振り返ってみるとそういうイメージが浮かんでくるのだ。今回のカンファレンスで交わされた討論は大変有益なものだったというのが私の感想だが、それというのもどの「猫観」もそれぞれ独自の観点から導き出されたものだったからだ。そしていずれの「猫観」もそれぞれ妥当な根拠に裏付けられている。私自身の「猫観」はどういうものだろうか? 哀れな猫が木の上にいて今にも飛び降りようとしている。しかし、木の下でその様子を眺めている人間たちはどうしていいかわからないでいる。こういう感じになるだろう。


経済危機に関する私見

それではこの度の危機に関する私なりの考えを具体的に論じていくことにしよう。これまでのところ「猫」の扱いはどのくらい上手くいったと言えるだろうか? これまでに大勢の人々がそれぞれ独自の観点から訴えてきた多様な主張を私なりに少々違った角度から照射してみることにしよう。

以下では議論の対象を危機以降のアメリカ経済に限定するが、これから論じることはその他の国々にとっても関係してくることだろう。まず何よりも真っ先に取り上げたいのはオスカー・ヨルダ(Oscar Jorda)とモリッツ・シュラリック(Moritz Schularick)、そしてアラン・テイラー(Alan Taylor)の三名の手になる大変優れた共著論文である(Jorda, Schularick&Taylor 2011)。この論文では1870年から2008年までの間に先進14カ国で発生した景気後退が金融危機を伴う景気後退(financial recession)とそうではない(金融危機を伴わない)通常の景気後退(normal recession)の2つのタイプに分類されている。景気後退に先立つブーム期に与信残高の対GDP比はどの程度の値に達したか? (景気後退に先立つ)ブーム期における与信残高の対GDP比の値の違いに応じてその後に発生した景気後退の性質(GDPの落ち込みの程度やGDPの回復ペース)にどういう違いが見られるか? 彼らの論文ではその点について詳しく検証されているわけだが、その検証の結果として実証的に確たる裏付けのある次のような発見が得られている。

  • 金融危機を伴う景気後退は通常の景気後退に比べて落ち込みの程度が大きいだけではなく、その後の景気回復の足取り(景気回復のペース)も鈍い傾向にある。さらには、金融危機を伴う景気後退の中でもその後の景気回復の足取りには違いが見られ、景気後退に先立つブーム期における与信残高の対GDP比の値が高いほどその足取り(景気回復のペース)は鈍い傾向にある。

以上の発見は過去の歴史を振り返るとそうだったという話だ。過去のエピソードの検証を通じて得られた以上の発見は目下の危機についてどのような光を投げ掛けるだろうか? その答えは「与信残高」をどう測るかによって左右されることになる。

  • 民間部門における銀行融資残高で「与信残高」を測った場合(「与信残高」=「民間部門における銀行融資残高」):ピーク時(景気後退入りする前の景気の山の時点)のGDPの水準と景気後退入りして以降のGDPの水準との差に着目すると、2007年以降のアメリカの景気回復局面では過去の似たような事例(景気後退に先立つブーム期における与信残高の対GDP比が同じくらいの値を記録した過去の事例)の平均と比べるとその差は1%程度ほど小さいことがわかる。
  • 民間部門における銀行融資残高にシャドー・バンキング・システムを通じて供与された信用残高を加えた場合(「与信残高」=「民間部門における銀行融資残高」+「シャドー・バンキング・システムを通じて供与された信用残高」):シャドー・バンキング・システムを通じて供与された信用残高も加えるとそれに応じて「与信残高」の対GDP比の値も高まるわけだが、同じくピーク時(景気後退入りする前の景気の山の時点)のGDPの水準と景気後退入りして以降のGDPの水準との差に着目すると、2007年以降のアメリカの景気回復局面では過去の似たような事例の中央値と比べるとその差は4%程度ほど小さいことがわかる。

以上の点について詳しくは論文のグラフ をご覧いただきたいが(訳注1)、金融デリバティブの隆盛に伴って「与信(信用)」(‘credit’)をどう測ればいいのかがますますよくわからなくなってきている面がある。

デリバティブがリスクヘッジのための手段として機能するようであれば、金融市場がクラッシュしてもデリバティブの存在のおかげでそのインパクトは和らげられることになる。そう予想されることだろう。例えば、クレジット・デフォルト・スワップ(CDS)を購入しておけばお金を貸している相手が債務不履行に陥ってもその煽りを受けて自分も破産してしまうというリスクを避けることができる。そういう意味ではクレジット・デフォルト・スワップは金融市場がクラッシュした場合にそのインパクトを和らげる働きをすると予想されることだろう。その一方で、(クレジット・デフォルト・スワップをはじめとした)デリバティブはギャンブルに近い投機的な活動を後押しする可能性があるという立場に立つと、デリバティブは金融市場がクラッシュした場合のインパクトを増幅する働きをすると予想されることだろう。

2007年~2008年のアメリカで金融市場がクラッシュした際にはデリバティブは様々な経路を通じてギャンブルに近い投機的な活動を後押しする役割を果たしていた。一般的にはそのように解釈されている。こういう話がよく持ち出されるものだ。(カリフォルニア州の)セントラル・バレーで怪しげな相手に貸し出された複数の住宅ローン(モーゲージ)がひとまとめにしてプールされ、それを担保にあれこれの証券が組成される。そしてそのようにして生み出された証券に格付け機関からAないしはそれ以上の評価が与えられる。デリバティブはかようにして住宅ローンの評価を順繰りに吊り上げる仕組みを生み出すことになったのだ、と。怪しげなジャンクが格付けに影響を及ぼさない環境が用意され、そのためにモーゲージのオリジネーター(住宅ローンの原債権者)は住宅ローンの借り手に頭金を要求するインセンティブも借り手の信用調査を行うインセンティブも失うことになった。頭金の支払いも求めないし信用調査も行わないというケースは実際のところそう珍しくもなかったのである。

新たなデリバティブが次々と編み出され、そのどれもこれもに高い格付けが与えられる。そのようなことが可能となったのは投資銀行や格付け機関が「受託者」(fiduciary)という立場に伴う高い評判を存分に活用したためだった。デリバティブに備わるこのような(ギャンブルに近い投機的な活動を後押しする)役割を踏まえると、銀行融資残高にシャドー・バンキング・システムを通じて供与された信用残高を加えて「与信残高」を測ったとしてもその指標では金融面の脆弱性を正確に捉えることはできない(金融面の脆弱性の程度が過小評価されることになる)だろうし、その指標に依拠したベンチマーク(金融危機を伴う景気後退が発生した後の景気の落ち込みの程度に関する想定)も控え目なものとなってしまうことだろう。


政策の成否を測るベンチマークとしての大恐慌

2008年の秋頃に世間一般に広まっていた認識は「与信残高」に依拠したベンチマークが控え目なものであることを見抜いていたようだ。政府が介入しなければ(政府が何らかの対策を講じなければ)「大恐慌」級の不況がやって来るだろう。2008年の秋頃にはそのように考えられていた。「大恐慌」がベンチマーク(現状を評価するための物差し、政策の効果を測るための比較対象)として想定されていたわけだ。「大恐慌」というベンチマークに照らして考えると、これまでに手掛けられたマクロ経済政策は「グッド」というにとどまらず「エクセレント」という評価に値すると言えるだろう。アラン・ブラインダー(Alan Blinder)も出色の一冊である『After the Music Stopped』の中でまったく同様の評価を下している(Blinder 2013)。

これまでに手掛けられた危機への対応策はそのほとんどが「経済を専門とする名医」の処方箋に近いものだったと言える。その具体的な例を列挙すると以下のようになる。

  • 2008年景気刺激法
  • 保険大手のアメリカン・インターナショナル・グループ(AIG)への公的資金の注入(を通じた救済)
  • ワシントン・ミューチュアルやワコビア、カントリーワイドといった大手金融機関の救済合併
  • 不良資産救済プログラム(TARP)
  • 財務省とFedが中心となって進めた銀行のストレステスト(健全性審査)
  • Fedによるゼロ金利政策(政策金利をほぼゼロ%の水準にまで引き下げる)
  • 2009年アメリカ復興・再投資法(ARRA)
  • 自動車業界の救済
  • IMFが主導的な役割を果たしたG20ピッツバーグ・サミットでの合意内容に沿った国際協調(国際的な政策協調)

危機への対応策との絡みで私なりに不満を感じていることもなくはない。

  • 政策の成否は足許の失業率の高さで測るのではなく、ベンチマークとの比較で測るべきだ。景気後退に先立つブーム期に金融面での脆弱性がどこまで高められることになったか、そして金融面での脆弱性が顕在化した後に何の対策も講じずに放っておいたらどうなっていたと考えられるか? そのような想定を通じてベンチマークを拵え、そのベンチマークと現状(何らかの対策が講じられた現実の状況)との比較を通じて政策の成否を測るべきだ。経済学者は世間に向けてそう訴えるべきだったのだ。

(金融面での脆弱性が顕在化した後に何の対策も講じずに放っておいた場合(ベンチマーク)と現状とを比べた上で判断すると)これまでのところマクロ経済政策は成果を上げている。経済学者は世間に向けてそう説明すべきだったのにその任務をうまくこなせずにいる。とは言え、仮に経済学者がきちんと説明していたとしても世間がその説明をすんなりと受け入れたとは限らない。そう考えるに足るそれなりの理由もある。世間一般の人たちはマクロ経済学やマクロ経済の歴史を学ぶ以外にもやるべきことをたくさん抱えているのだ。

しかしながら、これまでに手掛けられた一連のマクロ経済政策がかなり高い成果を収めたことに気付くためには(マクロ経済学やマクロ経済の歴史に習熟せずとも)ちょっとした良識を働かせるだけでいい。例えば、リーマン・ブラザーズが1ドルの赤字を計上しており、破産裁判所の厄介にならないで済む(経営破綻という事態を避ける)ためには1ドルの黒字に転じるだけでいいとしよう。その場合、今まさに危機が起きようとしている決定的な瞬間を逃さずにわずか2ドルの公費を投じるだけで「大恐慌」級の不況が回避される可能性があることになる。「大恐慌」級の不況を避けるためには2ドルあれば十分というわけであり、この2ドルは「堤防の裂け目に突っ込まれた指」(訳注2)のようなものというわけだ。

言うまでもないが、実際のところは金融機関を救済するために投じられた公費は2ドルでは済まなかった。そのために必要となる金額はプラスの値になることは避けられないだろうし、その額は最終的には数十億ドルに及ぶ可能性もある。しかしながら、金融機関を救済するために公費を投じたおかげで金融システムのメルトダウンが避けられたことは確かだ。仮に(金融システムのメルトダウンを避けることができず、その結果として)「大恐慌」級の不況に見舞われていたら数兆ドル単位に及ぶGDPが失われていた可能性があるわけだが、そうだとすると不良資産救済プログラム(TARP)の費用対効果は(金融機関を救済するために数十億ドルの公費を投じることで「大恐慌」級の不況(数兆ドル単位のGDPが失われる事態)が回避される可能性があるという意味で)1対1000にも上るということになる。費用対効果が1対1000だというのだから「堤防の裂け目に突っ込まれた指」という喩えを持ち出しても誇張でも何でもないと言えるだろう。

それに比べるとブッシュ政権とオバマ政権のもとで試みられた財政刺激策(2008年景気刺激法と2009年アメリカ復興・再投資法)は費用対効果の面でいくらか見劣りする。とは言え、効果があったことは確かだ。政府支出乗数の値は今のところ2くらいだと推計されているが、その値は直感的にも納得いくものだ。流動性の罠に嵌っている状況では均衡予算乗数の値は理論的にはおよそ1くらいであり、実証的に見てもそのくらいだと推計されている。減税乗数(租税乗数)の値も同じく1くらいだと推計されている。政府支出乗数は均衡予算乗数と減税乗数の和として求められる。それゆえ政府支出乗数の値は2くらいということになるわけだが、そうだとすると財政刺激策もかなり大きな見返りが期待できる対策であることは確かだと言えるだろう。


結論

まとめることにしよう。危機の予測という点に関しては経済学者はダメダメだった。その一方で、危機が勃発してからこれまでの間に手掛けられた一連の経済政策は「経済を専門とする名医」の処方箋に近いものだったと言える。そのような一連の経済政策はブッシュ政権およびオバマ政権の両政権を通じて次々と取り入れられたものであり、議会もそれを支持したのだった。

良い経済学(経済学の教えの中でも質的に優れたもの)も良識(健全な世間知)もこれまでのところかなりうまく働いている。これまでに様々な対策が試みられ、成果もきちんと上がっている。このことは将来への教訓として胸に刻んでおかねばならないだろう。

編集者による注記:この記事は元々iMFdirectに投稿されたものだが、IMFの許可を得た上で本サイトにも転載される運びとなった。


<参考文献>

●Blinder, Alan S (2013), After The Music Stopped, Penguin.
●IMF (2013), “Rethinking Macro Policy II: First Steps and Early Lessons”, conference, 16-17 April.
●Jorda, Oscar, Moritz Schularick and Alan Taylor (2011), “When credit bites back: Leverage, Business Cycles and Crises”, NBER Working Paper Series 17621, NBER.


(欄外訳注1)


このグラフはJorda, Schularick&Taylor論文のpp.36にあるFigure. 5 (b) を転載したものである。民間部門における銀行融資残高で「与信残高」を測った場合(「与信残高」=「民間部門における銀行融資残高」)の過去の似たような事例は茶色の線で表されており、民間部門における銀行融資残高にシャドー・バンキング・システムを通じて供与された信用残高を加えた場合(「与信残高」=「民間部門における銀行融資残高」+「シャドー・バンキング・システムを通じて供与された信用残高」)の過去の似たような事例は赤線で表されていると大まかに捉えてもらって構わないだろう。2007年以降のアメリカ経済の軌跡は紫色の線で表されている。縦軸はピーク時(景気後退入りする前の景気の山の時点)のGDPとその時々のGDPとの差を表しており、横軸は景気後退入りしてからの経過年数を表している。曲線が縦軸の0の値に近づくほど景気の復調に伴ってピーク時のGDPとの差が縮まっていることを示している。ちなみに、Jorda, Schularick&Taylor論文の概要は次のVOXの記事で知ることができる。 ●Moritz Schularick and Alan Taylor, “Fact-checking financial recessions: US-UK update”(VOX, October 24, 2012)

(欄外訳注2) 「堤防の裂け目に突っ込まれた指」(finger in the dyke)というのはアメリカの作家であるメアリ・メープス・ドッジの作品『銀のスケート-ハンス・ブリンカーの物語』の中の「ハールレムの英雄」という話(堤防の裂け目に自分の指を突っ込んで水漏れを塞ぎ、村が水浸しになることを防いだオランダの少年が主人公のフィクション)に由来する表現のようだ。堤防の裂け目に指を突っ込むという一見些細な行動が大災害を防いだごとくに費用対効果が驚くほど大きい、というような意味が込められているのであろう。

Martin Ravallion 「『貧困への目覚め』 ~過去3世紀の間に『貧困』に対する注目はどのような変遷を辿ってきたか?~」

●Martin Ravallion, “Poverty Enlightenment: Awareness of poverty over three centuries”(VOX, February 14, 2011)

世間一般の人々が「貧困」に注目し出してからどれくらいの期間が経っているのだろうか? 1700年以降に出版された書籍の中で「貧困」という単語がどれだけの頻度で使用されているかを調査した結果、次のような事実が明らかになった。1740年から1790年までの間に「貧困」という単語への言及頻度は急増を見せたものの――一度目の『貧困への目覚め』の時代の到来――、19世紀から20世紀の半ばにかけて貧困への注目は徐々に薄らいでいった。しかし、1960年頃を境として、二度目の『貧困への目覚め』の時代が到来するに至っており、「貧困」への注目は今現在も高まり続けている最中である。

 

貧困に対する世間一般の注目は、これまでにないほどの高まりを見せていると言えるかもしれない。例えば、以下の図1をご覧いただきたい。この図はGoogle Books Ngram Viewerの助けを借りて作成されたものだが、「貧困」(“poverty”)という単語が1700年から2000年までの間に出版された書籍の中でどれだけの頻度で使用されているかを調べた結果を表わしている――縦軸に示されているのが頻度の移動平均(その年に出版されたすべての書籍に含まれる総単語数で標準化したもの)――〔原注;Google Books Ngram Viewerは、Michel et al.(2010)によって開発された。デジタル化した上でデータとして保存されている書籍の総数は520万冊、単語の数は5000億ワードを超えている。Google Books Ngram Viewerの長短についてはRavallion(2011)を参照されたい〕。この図によると、1740年から1790年までの間に「貧困」という単語への言及頻度が7倍に増えていることがわかる。この時期は、啓蒙主義の時代が終わりを迎えようとしている頃――フランスとアメリカで革命(フランス革命とアメリカ独立戦争)が発生した時期――にあたるわけだが、貧困に対する注目が急速な勢いで高まりを見せた「貧困への目覚め」(“Poverty Enlightenment”)の時代としても特徴付けることができるわけだ。その後の19世紀から20世紀の半ばにかけて、貧困に対する注目は衰えを見せることになるが、1960年頃を境として二度目の「貧困への目覚め」の時代(second Poverty Enlightenment)に突入することになる。1960年頃を境として、突如として貧困への注目が再燃し、「貧困」という単語への言及頻度が(データが利用できる最新の年である)2000年の時点でこれまでのピークに達しているのだ。










図1. 「貧困」という単語への言及頻度 (1700年から2000年までの間に出版された英語圏の書籍が対象)


2度にわたる「貧困への目覚め」の時代の背後では、どのような事態が進行していた(いる)のだろうか? つい最近の論文(Ravallion 2011)で、驚くべき速さで単語をカウントする能力を備えたGoogle Books Ngram Viewerの助力を得つつ、過去のテキストの読解――私自身の能力の制約もあって、だいぶ時間を要したが――を通じて、私なりにこの問いへの答えを探ってみた。その結果の一部を以下で報告することにしよう。

一度目の「貧困への目覚め」

サミュエル・フライシャッカー(Samuel Fleischacker)が2004年に公にした著作(Fleischacker 2004)では、分配的正義(distributive justice)というアイデアの歴史がものの見事に跡付けられているが、その中(pp.7)では次のように語られている。前近代の時代においては「貧困層は、ひどい欠点を抱えた無価値な存在と見なされていた」。例えば、ロバート・モス(Robert Moss)は、18世紀初頭にこう述べている。貧乏人は「自らが置かれている状況に満足すべきである。というのは、貧乏人がかくのごとくであるのは、神の望むところだからだ」。また、フランスの医師でありモラリストでもあったフィリップ・エッケ(Philippe Hecquet)は、1740年に次のように書いている。「貧乏人は、絵の中の影のようなものである。なくてはならないコントラストの役割を果たしているのだ」。「どうして貧困が発生するのか?」という問いに対する答えとしては「神の意志」が持ち出されるか、一人ひとりが抱える私的な問題――怠惰をはじめとした性格面での欠点――に目が向けられがちだった。飢え(空腹)は好ましいことだという意見さえあった。空腹だからこそ(空腹を満たしたいと思うからこそ)、貧乏人は働く気になるというのだ。

18世紀後半に入ると、特にフランスにおいて、従来の社会的な階級構造を疑問視する声が次第に上がり始めるようになる。ピエール・ド・ボーマルシェ(Pierre Baumarchais)が1784年に書いた戯曲『フィガロの結婚』がそのいい例だが、パリの聴衆たちは、召使のフィガロの側について貴族を嘲笑したのだった。フランスで芽生え始めた平等主義の精神は、やがてイギリス海峡を渡ることになるが、頑(かたく)なな抵抗に遭うケースもしばしばだった。例えば、イギリスにおける近代警察の生みの親であるパトリック・カフーン(Patrick Colquhoun)は、1806年にこう書いている。貧困は「社会を成り立たせる上で、最も必要で欠かせない要素である。貧困と無縁な国家や共同体は、文明の地位に辿り着くことはできない」。

貧困というのは、自然的秩序の表れ(自然法則の帰結)ではなく、政治・経済的な現象であるとの認識が広まるにつれて、一度目の「貧困への目覚め」の時代が到来し、貧困層自身も貧困からの脱出を意識し始めるようになる。しかしながら、書籍の上では依然として「貧困は、多かれ少なかれ避けることのできない(受け入れざるを得ない)この世の現実である」との見方が支配的であり、それは18世紀~19世紀の経済学の世界でも同様だった。当時の経済学者の中には、貧困は経済が発展する上で必須の条件と見なす者もいた。そのような経済学者も、実質賃金が上昇すれば貧困の削減につながることは否定しなかったものの、実質賃金が上昇すると富の蓄積が妨げられることになるかもしれないと懸念したのだった。実質賃金が高まれば、労働の供給が減るばかりか、輸出面での競争で不利な立場に立たされ、さらには労働者が贅沢品に夢中になって(仕事に身が入らずに)労働の質が低下するかもしれないというのである――輸出面での競争で不利な立場に立たされると、富の蓄積が妨げられることになるとの発想の背後には、重商主義的な世界観が控えていた――。また、トマス・マルサスが、生態学的な危機の到来を予測し、人口の増加は貧困と飢饉(食糧不足)によってしか食い止められないと語ったことも有名である。社会進歩の可能性についてマルサスよりもずっと楽観的だったアダム・スミスも、経済発展(経済成長)の果実が社会各層に公平に行き渡る(分配される)可能性についてはそれほど大きな望みを抱いていなかった。スミスは、こう語っている(Smith 1776, pp.232)。「大いに繁栄している地域においてはどこであれ、格差もまた大きいものだ。1人の大金持ちに対して貧乏人が少なくとも500人はいるのが通例であり、少数の豊かさには多数の貧しさが伴っているのだ」。

二度目の「貧困への目覚め」

現代的な意味での「分配的正義」の発想――「社会に生きるすべての人に最低限度の生活水準が保障されるべきである」との発想――が(粗いかたちではあれ)その姿を表わしたのは、18世紀後半の西欧世界においてだったが、その後の170年間を通じてこの発想は世間から徐々に忘れ去られることになる。とは言え、学術的な文献に目を向けると、その微(かす)かな命脈を確認することができる。19世紀から20世紀への転換期において、経済学者のアルフレッド・マーシャルは、『経済学原理』(1890)の巻頭(pp.2)で次のように問い掛けている。「貧困はこの世にとって必要なものだとする発想は、過去の遺物ではなかったのか?」

しかしながら、世間の注目が再び貧困に向けられ、現代的な意味での「分配的正義」の発想に広い支持が寄せられるまでには、1960年代に入って二度目の「貧困への目覚め」の時代が到来するのを待たねばならなかった。その中心的な舞台となったのは、アメリカである。物質的な豊かさを享受していた20世紀中頃のアメリカで――公民権運動の盛り上がりに次ぐかたちで――、貧困が「再発見」されるに至ったのである。そのような動きを後押しする上で大きな役割を果たしたのが、当時の論壇を賑わせたJ・K・ガルブレイス(John Kenneth Galbraith)の『ゆたかな社会』(1958)や、マイケル・ハリントン(Michael Harrington)の『もう一つのアメリカ』(1962)――どちらも当時ベストセラーになった――といった一連の著作だった。政府もこのような世間の風潮に反応し、「貧困との戦い」(War on Poverty)を旗印にしたリンドン・ジョンソン政権下で、貧困家庭に対する支援をはじめとした数々の社会プログラムが導入されることになったのである。

ガルブレイスやハリントンらの著作が大きな影響を持ち得た理由の一つは、著作が発表されたタイミングが時宜(じぎ)を得ていたからというのもあるだろう。1950年代~1960年代のアメリカでは、国民の大多数が豊かな生活を手に入れることになったが、それゆえにこそ、貧困という問題を見過ごして平然としていることがますます難しくなっていったのである。それに加えて、当時は楽観的な雰囲気が充満しており、貧困の削減に向けた政策の効果についても同様に楽観的に捉えられていた。しかしながら、1980年代に入ると、右派の側から反撃の狼煙(のろし)が上げられ――チャールズ・マレー(Charles Murray)の『Losing Ground』(1984)がその代表――、その勢いは1990年代における一連の福祉改革(社会保障制度の改革)へとつながることになる。「貧困との戦い」(“War on Poverty”)が宣言されたと思いきや、その30年後に「福祉との戦い(福祉政策の縮小に向けた戦い)」(“War on Welfare”)が宣言されるに至ったわけだ。貧困の問題についてはその原因や適切な政策対応を巡って現在でも世界中で議論が続いているが、その多く――例えば、貧しさの原因のどの程度がその人(貧困層)自身にあると言えるのかといった問題を巡る論争――は、200年前(一番目の「貧困への目覚め」の時代)の論争の焼き直しという面を強く持っている。

20世紀後半に入って貧困に対する世間一般の注目が再び高まりを見せている理由は、他にもある。そのうちの一つは、発展途上国の広い範囲で厳しい貧困状態が蔓延(はびこ)っている事実が徐々に世界中の人々の目に留まり始めたことである。そのような気運が醸成されたのは1970年代に入ってからのことだが、開発政策の専門家に強い影響を及ぼしたのが、世界銀行が1990年に刊行した『世界開発報告』(World Development Report)である。それ以降、世界銀行は「貧困のない世界」(“world free of poverty”)の実現を最重要目標に掲げ、専門家の間で貧困問題に関する実証研究が活発に行われるようになったのである。

貧困と政策:貧困の削減に向けて

過去3世紀の間に、貧困に対する世間の見方は大きなシフトを見せた。貧困の現実を現状肯定的に受け入れたり、貧困層を軽蔑しさえする態度が支配的な時代もあったが、今現在はそうではない。社会や経済ないしは政府の成績(善し悪し)は、貧困の削減にどの程度成功しているかによって少なくとも部分的には評価すべきだというのが現在の支配的な見方である。このようなシフトが生じた理由としては、いくつか考えられるだろう。世界経済が全般的に豊かになったことで、貧困という問題を見過ごして平然としていることがますます難しくなったという事情もあるだろうし、民主主義の広がりによって貧困層の声が政治に反映されやすくなったという事情もあるだろう。貧困に関する研究の進展に伴って、効果的な政策対応を可能とする知識の蓄積が進んだということもあろう。

過去3世紀の間には、(貧困の削減に向けた政府介入の有効性をはじめとして)市場と政府の役割に対する態度の面でも大きなシフトが生じた。第二次世界大戦後の(Tanzi and Schuknecht(2000)が語るところの)「政府介入の黄金時代」(“golden age of government intervention”)においては、(貧困の削減に向けた政策も含めて)幅広い範囲で政府による(市場への)介入が試みられたが、1970年代の後半以降になると、それまでの流れに反発して政府の役割の縮小を求める動きが――経済問題の解決に向けた政府の介入には限界があることを明らかにした政治経済学方面の研究や、積極的で精力的な政治運動に支えられるかたちで――勢いを増し始めることになったのである。

論争の行方や制度改革の方向性は右へ左へと揺れ動いているが、Google Books Ngram Viewerを用いた文献解析によると、「政府介入の黄金時代」の終焉にもかかわらず、貧困に対する世間一般の関心はそれほど薄らいではいないようである。それどころか、「貧困」や「格差」(inequality)といった単語への言及頻度は、20世紀後半を通じてはっきりとした増加傾向を辿っており、1980年代以降に入って、「社会政策」(social policies)や「社会保障(社会的保護)」(social protection)、「市民社会団体」(civil society organisations)といった単語への言及頻度が急速に増えているのだ――その理由のいくらかは、貧困や格差に対する世間一般の関心の高まりに求められるに違いない――(Ravallion 2011)。

今現在、貧困に対する世間一般の注目はこれまでにないほどの高まりを見せているわけだが、この気運をどうやって効果的な行動(取り組み)に結実させたらよいかとなると、それはまた別の問題である。二度目の「貧困への目覚め」の時代においては、意見の不一致があちこちで起こり、貧国の削減に向けた取り組みも成功ばかりではなく失敗もあった。19世紀の大半を通じてと同様に、今現在おいてもまた、政府介入に懐疑的な見方が力を持ち始めている。しかしながら、励みになる事実もある。「貧困は、逃れようのない現実であり、受け入れざるを得ないのだ」という19世紀に支配的だった現状肯定的な態度が蘇るところまでは至っていないのだ。


<参考文献>

●Fleischacker, Samuel (2004), A Short History of Distributive Justice, Harvard University Press.
●Galbraith, John Kenneth (1958), The Affluent Society(邦訳 『ゆたかな社会 決定版』), Mariner Books.
●Harrington, Michael (1962), The Other America: Poverty in the US(邦訳 『もう一つのアメリカ-合衆国の貧困』), Macmillan.
●Michel, Jean-Baptiste, Yuan Kui Shen, Aviva P Aiden, Adrian Veres, Matthew K Gray, The Google Books Team, Joseph P Pickett, Dale Hoiberg, Dan Clancy, Peter Norvig, Jon Orwant, Steven Pinker, Martin A Nowak, and Erez Lieberman Aiden (2010), “Quantitative Analysis of Culture Using Millions of Digitized Books”, Science, 16 December.
●Marshall, Alfred (1890), Principles of Economics (8th edition, 1920)(邦訳 『経済学原理』), Macmillan.
●Murray, Charles A (1984), Losing Ground. American Social Policy 1950-1980, Basic Books.
●Ravallion, Martin (2011), “The Two Poverty Enlightenments: Historical Insights from Digitized Books Spanning Three Centuries”, Policy Research Working Paper 5549, World Bank.
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