J. Bradford DeLong, “John Stewart Mill vs. the European Central Bank”(Project Syndicate, July 29, 2010)
経済学の知られたくない秘密の一つは、「経済理論」と名乗れるようなものなんてどこにもないことだ。現実の経済現象に切り込む時に足場として頼れるような一揃いの根本原理なんてものがないのだ。財政緊縮を求める声が世界中でこだましているが、是非とも心に留めておいてもらいたいのは、このことだ。
例えば、生物学者であれば、細胞内でのタンパク質の合成は、DNAにコード化されていることを知っている。化学者であれば、ハイゼンベルグの不確定性原理とパウリの排他原理という二つの原理(それに加えて、空間の三次元性)に遡って、電子配置が安定しているのはなぜなのかを語る。 物理学者であれば、自然界の4つの力に遡ってあれやこれやの説明を試みる。
経済学者には、そのような足場がない。理論を支えていると称する「経済原理」なんてものは、まやかしなのだ。根本的な真理なんかではなく、「正しい」結論を導き出すために弄(いじ)ったり捻ったりできるドアノブみたいなものに過ぎないのだ。
「正しい」結論と言っても、その経済学者がどちらのタイプかによってその意味するところは違う。第一のタイプの経済学者は、まずはじめに政治的なスタンスを決める。どの陣営の味方になるかを決める。そして、自分が選んだ政治的なスタンスに合致する――自分の味方にとって都合がいい――結論が導かれるまで、理論の前提を弄ったり捻ったりする。第二のタイプの経済学者は、まずはじめに歴史の残骸を拾ってくる。次いでそれを鍋に投げ込んで、加熱して煮込む。骨だけになるまで煮込む。その骨から何らかの教訓が得られるかもしれないと願って。ユートピアの実現に向けてノロノロと徘徊する時に、有権者、官僚、政治家に指針を与える原理のヒントが得られるかもしれないと願って。
意外でも何でもないだろうが、第二のタイプの経済学者だけが傾聴に値する何かを語れるというのが私の考えだ。そこで、世界経済の当面の窮状について、歴史からどんな教訓が学べるか探ってみるとしよう。
1829年に、ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)は、彼が「全般的な供給過剰(“general gluts”)」と呼んだ現象にどう立ち向かえばいいかを明らかにした。そのおかげで知的な面で大いなる飛躍が成し遂げられたのだった。ミルは悟った。特定の金融資産に対する超過需要〔需要が供給を上回る状態〕が存在する裏には、生産物市場における財・サービスの超過供給〔供給が需要を上回る状態〕が存在するということを。生産物市場における財・サービスの超過供給は、労働市場における超過供給を生み出すということを。
そこからさらに一歩進めてどのようなことが言えるかも、明らかだった。すなわち、金融資産に対する超過需要を和らげることができたら、財・サービスの超過供給(つまりは、総需要の不足)も労働の超過供給(つまりは、失業)も和らぐのだ。
金融資産に対する超過需要を和らげる方法はたくさんある。
支払い手段として使われる流動的な資産――すなわち、「貨幣」――に対する超過需要が発生しているようなら、中央銀行が貨幣を発行して国債を買い取るのが正攻法である。その結果として、マネーストックが増えて(=「貨幣」の供給量が増加し)、「貨幣」の供給量(残高)と「貨幣」に対する需要量とがつり合うようになる。この方法は、「金融政策」と呼ばれている。
満期が長めの金融資産――現在から将来へと購買力を移転させる「価値の貯蔵手段」として機能する「債券」――に対する超過需要が発生しているようなら、正攻法は二通りある。第1の手段は、企業が借入を増やして(社債の発行を増やして)事業を拡大する方向にどうにかして持っていくことである。第2の手段は、政府が借入を増やして(国債の発行を増やして)政府支出の規模を拡大することである。その結果として、「債券」の供給量(残高)と「債券」に対する需要量とがつり合うようになる。第1の手段は「信頼回復」策と呼ばれていて、第2の手段は「財政政策」と呼ばれている。
安全資産――一時的にその場を離れて戻ってきても、預けた富を前の通りの姿でかくまっていてくれる安全な保管場所――に対する超過需要が発生しているようなら、(マーケットからの)信用度の高い(creditworthy)政府が民間の金融資産に対して政府保証を与えたり、民間の金融資産を国債と取り換えたりするというのが正攻法である。その結果として、リスク資産の供給量(残高)が減少して、安全資産の供給量(残高)が増えることになる。この方法は「資産転換政策」と呼ばれている。
言うまでもないが、現実の世界で試みられる政策は、上の理念型のどれか一つにぴったりと合致するわけじゃない。欧州中央銀行(ECB)は、財政刺激策をこれ以上続けたら逆効果になってしまうと懸念を露にしているが、ECBのその懸念を上の理念型を使って読み替えると、以下のようになるだろうか。「政府支出をさらに増やして、大規模な財政赤字を継続すれば、国債の供給量(残高)が増えることになるので、満期が長めの金融資産に対する超過需要が和らぐだろう。しかしながら、政府債務(国債)の残高が膨らんで政府の債務返済能力を上回るようなら、すべての国債が(安全資産から)リスク資産に変わってしまうだろう。 すなわち、財政刺激策をこれ以上続けたら、満期が長めの金融資産に対する超過需要は和らぐ一方で、安全資産が不足してしまうことになるのだ。そうなれば、状況は前よりも悪くなる」。
ECBの主張によると、北側の主要な国――ドイツ、フランス、イギリス、アメリカ、日本――は、今すぐにも財政緊縮策に方向転換する必要があるという。それらの国の債務(国債)の質に対する金融市場の信頼が揺らいでいて、その信頼がいつ崩壊するかもわからないというのだ。世の政策当局者たちも、ECBの主張に賛同しつつあるようだ。その例の一つが、米国行政管理予算局(OMB)長官であるピーター・オルザグ(Peter Orszag)が7月後半に口にした発言だ。オルザグによると、アメリカ政府が今後3年間にわたって取り組む予定の財政再建では、過去60年で最大規模の歳出削減が試みられるだろうというのだ。
しかし、私の目には、世界経済の現状は大きく違って見える。北側の主要な国の政府が発行する債務(国債)の質に対する金融市場の信頼が揺らいでいるようには見えない。その信頼が崩壊する瀬戸際にあるようには見えない。私の目に映るのは、生産能力を10%下回っていて、失業率が10%に迫ろうとしている世界の姿である。そして何よりも、主要な国の政府が発行する債務(国債)に対して投資家が大きな信頼を抱いている世界の姿である。投資家の多くにとって、政府債務(国債)こそが直近の嵐の中で唯一の安全な港になっているのだ。
ミルであればこのような状況でどのような政策を勧めたかは、あまりにはっきりしている。
0 件のコメント:
コメントを投稿