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2025年5月20日火曜日

Cory Doctorow 「フランスやスコットランドが性能面で劣っていたクロスボウに固執したのはなぜ?」(2016年1月20日)



ロングボウクロスボウよりも性能がだいぶ優れていたが、軍の主力武器として取り入れたのはイングランドだけだった。フランスやスコットランドの軍隊は、性能面で劣っていたクロスボウを1世紀近くも使い続けたのである。その理由は?

歴史家たちを何十年にもわたって悩ませてきたこの謎――「ロングボウパズル」――の答えを二人の経済学者が提示している。サイモン・フレーザー大学に籍を置くダグラス・アレン(Douglas Allen)と、ジョージ・メイソン大学に籍を置くピーター・リーソン(Peter Leeson)の二人が Journal of Law and Economics 誌に掲載された論文で、ロングボウパズルを解いているのだ。

フランスやスコットランドの王は、反乱を恐れるあまりに、兵にロングボウを持たせたがらなかったというのが二人の言い分だ。その一方で、イングランドは政情が比較的安定していたので、安心して兵にロングボウを持たせることができたというのだ。その結果として、イングランドは外敵との戦争で優位に立てたというのだ。

論文のアブストラクト(要旨)を引用しておこう。

ロングボウは、中世ヨーロッパにおける飛び道具界の無二の王の地位に一世紀以上にわたって君臨した。しかしながら、軍の主力武器として採用したのはイングランドだけだった。フランスやスコットランドの軍隊は、性能面で劣っていたクロスボウに固執したのである。何十年にもわたって歴史家たちを悩ませてきた謎である。本稿では、「制度によって制約された技術選択」理論の観点からこの謎に切り込む。ロングボウは、クロスボウとは違って、安価で作るのが簡単で、戦場で使うつもりであれば大勢の射手を養成する必要があった。ロングボウのこれらの特徴ゆえに、軍の主力武器として採用すると、王の座を狙う貴族がロングボウの扱いに慣れた大勢の兵を束ねて反乱を引き起こす可能性が生まれたのである。どの飛び道具を軍の主力武器として選ぶかをめぐって、王(支配者)はトレードオフに直面していたのだ。内乱を防ぐか、それとも国防を強化するかというトレードオフに。中世末期のヨーロッパで、飛び道具として最も優れていたロングボウを選んでも反乱が起こるのを心配する必要がないくらいに政情が安定していたのはイングランドだけだった。政情が不安定だったフランスやスコットランドでは、クロスボウがやむなく選ばれたのだ。

2025年5月14日水曜日

David Beckworth 「不換紙幣から商品貨幣へ ~ソマリアのケース~」(2013年2月12日)

David Beckworth, “From Government Fiat Money to Private Commodity Money: the Case of Somalia”(Macro Musings Blog, February 12, 2013)


1991年に政権が崩壊して以降のソマリアでの「お金事情」について、ローレンス・ホワイト(Lawrence H. White)&ウィリアム・ルーサー(William Luther)の二人が興味深い研究を行っている(こちらこちら)。彼らの論文から一部を抜粋しておこう。

貨幣の供給をどのように管理すべきかについて、過去数十年にわたって数多くの研究がなされてきている。興味深いことに、1991年に政権が崩壊して以降のソマリアで、貨幣の供給を自生的に管理するメカニズムが粗いかたちながらも出現してきているようだ。市中に流通する紙幣の量を制限できる力を持つ政府が不在であるのに乗じて、海外の印刷業者と手を組んで偽札を輸入して儲けようとする勢力が現れた。しかしながら、国内での通常の取引では1991年以前に発行された紙幣しか受け取ってもらえないので、国内に持ち込まれる偽札の量に制限が課せられる格好になった。額面が大きい紙幣を偽造しても儲けられないからである。1000ソマリア・シリングの対ドルレートは1991年から2008年までの間に0.30ドルから0.03ドルに減価したが、その後はそのレートで安定した。1000ソマリア・シリング紙幣を一枚偽造するのに要する費用(およそ0.03ドル/3セント)と等しくなったからである。

つまりは、贋金つくりに手を染める連中でさえも合理的な計算を行っているわけだ。限界費用(一枚の紙幣を偽造するのに要する費用)が限界便益(一枚の紙幣を偽造することによって得られる儲け)と等しくなるところまで偽札の発行を続けたというわけだから。その結果として、ソマリア紙幣の価値は、偽札を作るために要する費用と等しくなる水準にまで低下した。一枚の偽札を作るためにかかる紙代、インク代、プリンター代、電気代、海外からの輸送費等々の合計と等しくなる水準にまで低下したのだ。私からすると、ソマリアで出回っている偽札は一種の商品貨幣のように見える。政府が機能していない破綻国家であるにもかかわらず、ソマリアの経済がほどほどの安定を保っているのはこの商品貨幣のおかげだ。ソマリアで進行中の貨幣をめぐる魅惑的な実験は、商品貨幣から不換紙幣へという貨幣史の定番の流れに逆行している。ソマリアでは、不換紙幣(政府が独占的に発行する不換紙幣)が商品貨幣(民間で自由に発行される商品貨幣)に取って代わられているのだ。ブログ界における貨幣史の第一人者であるコーニング(J. P. Koning)がソマリアで起こっていることからどんな教訓を引き出すか楽しみだ。



2025年5月12日月曜日

David Henderson 「ロナルド・コース 〜『黒板経済学』に異を唱えた男〜」(2013年9月4日)

David R. Henderson, “The Man Who Resisted ‘Blackboard Economics'”(Wall Street Journal, September 4, 2013)


つい先日のレイバーデー(Labor Day)に102歳で逝去したロナルド・コース(Ronald Coase)は、20世紀に活躍した経済学者の中でも誰よりも稀有な存在だった。取引費用が現実の経済に対してどのような影響を及ぼすかをめぐって鋭い分析を展開し、その洞察に対して1991年にノーベル経済学賞が授与されている。75年の学者人生を通じて彼が執筆した重要な論文は1ダース程度しかなく、論文で数学を使うこともほとんどあるいはまったくなかった。しかしながら、彼が経済学に及ぼした影響は深くて大きい。

20代前半の若かりしコースは、社会主義者だった。しかしながら、他の大半の社会主義者には欠けている特徴を持ち合わせていた。それは何かというと、現実の経済の働きに対する好奇心である。1931年から1932年にかけて、故郷のイギリスを離れてアメリカに旅行に出掛けた時のことだ。コースは、ノーマン・トーマス(Norman Thomas)――社会主義の政党(アメリカ社会党)から大統領選挙に出馬した泡沫候補の一人――のもとをひょっこり訪ねるだけでなく、フォードやゼネラルモーターズの工場にも立ち寄った。そのことをきっかけに、次のような疑問を抱くに至る。アメリカでは、幾つかの大企業がうまくやっているように見える。そうだというのに、ロシア経済を一つの大きな工場のように運営するのは可能だと考えているレーニンは間違っているというのが経済学者たちの言い分だ。どうなってるんだ?

この疑問に対するコースなりの回答が寄せられているのが、1937年に執筆されてその後数多く引用されることになる論文 “The Nature of the Firm”(「企業の本質」)である。企業は、(中央)計画経済と似ているところもあるが、違いもある。企業は、人々の自発的な選択を通じて形成される。どうしてそのような選択を行うのだろう? その理由は、「市場を利用することに伴うコスト」(“marketing costs”)が存在するためだ――あるいは、現代流に表現すれば、「取引費用」(“transaction costs”)が存在するためだ――というのがコースの答えだった。市場を利用するのにコストが一切かからないようなら、企業を作ったところで何の意味もないだろう。人々は、個々の独立した存在として、必要に応じてその都度取引を行うだろう。しかしながら、市場を利用するのにコストがかかるようなら、企業の内部で生産(取引)を組織化するのが最も効率的となる可能性がある。企業なるものが存在している理由についてコースが1937年の論文で与えている説明は、その後に大きく発展することになる研究領域を生み出すきっかけになったのだった。

コースが1960年に執筆した論文 “The Problem of Social Cost”(「社会的費用の問題」)も、その後に大きく発展することになる研究領域――「法と経済学」(“law and economics”)――を生み出すきっかけになった。コースのこの論文が登場するまでは、大半の経済学者は「外部性」の問題についてアーサー・ピグー(Arthur Pigou)の考えを受け入れていた。例えば、牧場で飼われている牛が隣接する農家に入り込んで、作物を踏み荒らしているとしよう。どうすべきだろうか? ピグー流の考えでは、政府が牧場主に牛の自由な放牧を禁ずるか、牛の放牧に対して税金を課すべきだということになる。そうでもしないと、牧場主としては牛が隣の農地を荒らさないように防ぐインセンティブがないので、農作物が牛に荒らされっ放しになってしまうだろうというのである。

コースは異を唱えた。重要な機会が見逃されているというのである。牧場主は、牛が農作物を荒らさないように手配するのと引き換えに、農家からお金を支払ってもらえばいいのだ。もしも取引費用がゼロであるようなら――コース自身は「取引費用がゼロ」という想定が現実に成り立つとは考えていなかったことを念押ししておこう――、農家も牧場主もどちらも得する合意に達することができる(どちらも得する取引を実現できる)のだ。

例えば、牛一頭から得られる金銭的な利益がネットで(飼育に要する費用を差し引いた上で)20ドルだとしたら、農家から牧場主に対して20ドルを超える支払いがなされるようなら、牧場主は牛をさらにもう一頭飼うのをやめるのに同意するだろう。その一方で、一頭の牛が農作物に及ぼす被害が30ドルだとしたら、牧場主が牛をさらにもう一頭飼うのをやめさせるために、農家としては30ドルまでなら喜んで支払うだろう。牛の放牧に対してピグー税を課すべきかというと、それほどはっきりと「イエス」とは言えなくなるわけである。

コースの1960年の論文に含まれている洞察の中でもとりわけ刺激的なのは「取引費用がゼロ」の場合に成り立つ結論であると考えたのが、ジョージ・スティグラー(George Stigler)――1982年のノーベル経済学賞受賞者――だ。「取引費用がゼロ」の場合に成り立つ結論に「コースの定理」(“Coase Theorem”)という名前を冠したのも、スティグラーだ。取引費用がゼロなら、(たとえ外部性が存在していても)政府が介入する必要は一切ないと説くのが「コースの定理」というわけだ。

その一方で、「取引費用がゼロ」の場合に成り立つ結論は取るに足りないと考えたのが、イリノイ州立大学シカゴ校に籍を置く経済学者のディアドラ・マクロスキー(Deirdre McCloskey)だ。マクロスキー女史の考えでは、コースの1960年の論文に含まれている洞察の中でもとりわけ興味深いのは、「取引費用がプラス」である現実の世界で成り立つ結論についてだった。取引費用がプラスなら、裁判所が賠償責任(liability)を誰(どの主体)に割り当てるかが重要な意味を持つことになる。例えば、牧場主と農家の先の例――牧場主にとっての牛の価値(20ドル)が、牛が農作物にもたらす損害額(30ドル)を下回っているケース――で、裁判所が牧場主に牛を飼う権利を認めたら、プラスの取引費用が存在するせいで効率的な解決策が阻まれる可能性があるのだ。

コース自身は、ピグーの考えだけでなく、(「取引費用がゼロ」のケースを重視した)スティグラーの考えも拒否して、どちらの考えも「黒板経済学」の典型だと嘲(あざけ)ったのだった。

コースが1974年に執筆した論文 “The Lighthouse in Economics”(「経済学における灯台」)も有名だ。経済学者は、灯台を「公共財」――政府だけが供給できる財――の例として持ち出すことがある。しかしながら、コースが歴史を詳細に調べてみたところ、19世紀のイギリスでは灯台(のサービス)が私的に供給されていて、港に立ち寄った船から(灯台のサービスを享受した見返りとして)代金が徴収されていたことが明らかになったのである。港に立ち寄らずにそのまま通り過ぎる船もあったが、灯台の運営・管理が商売として成り立つに足るだけの船が港に立ち寄って代金を支払っていたのだ。

コースによるこの発見は、経済学者がそれまで抱いていた見解に打撃を加えた。フリーライダー(ただ乗り)問題のせいで、灯台を私的に運営・管理するのは無理だと考えられていたのである。それに加えて、1974年の論文は、コースの持論を裏付けてもいる。経済学者は、黒板の上で問題を解いてよしとするのではなく、現実の経済(市場)を研究する必要があるという彼の持論を。

コースは、1959年に執筆した論文で、連邦通信委員会(Federal Communications Commission)は不要だと主張した。電磁スペクトルは、市場で自由に売り買いしたらいいというのである。周波数の稀少性だけを特別視すべき理由なんて一切ない。市場で取引されているどの財(経済財)にしても、同じく稀少なのだからというのである。当時は馬鹿にされた言い分だったが、今では経済学者の間でほぼ標準的な見解となっている。

コースは、1964年から1982年にかけてJournal of Law and Economics誌の編集者を務めた。その間の同誌には、政府による規制に批判的な論文が数多く掲載された。コースも強調しているが、政府による規制はうまくいきようがない(「市場の失敗」を解決できない)という意味で批判的なわけではなく、実際にうまくいっていない――同誌に掲載された論文で検討されているほぼすべてのケースで――という意味で批判的だったのである。政府による規制は、カルテルの形成を促したりその他のネガティブな結果をもたらしていたのだ。

コースは、政府による規制に信を置く知識人たちを苛立たせるような指摘を行っている。あなた方が信じておられるように、財市場に対する規制がそんなにうまくいくようなら、アイデア市場(言論の自由)に対する規制はなおさらうまくいくでしょう、というのである。

その理由は? 1997年のReason誌でのインタビューで、コースは次のように語っている。「消費者にとっては、アイデアの善し悪しを判断するよりも、モモの缶詰の善し悪しを判断する方が簡単でしょう」。多くの知識人は、コースがアイデア市場に対する規制を強化せよと訴えていると受け取った。しかしながら、コースにはそんな気はなかった。コースの真意としては、財市場に対する規制を是とする根拠の弱さを(政府による規制に無批判に信を置く)知識人たちに気付かせたかったのである。

2025年5月8日木曜日

Tim Schilling 「制度と起業家精神 ~ジュジュ(精霊)に立ち向かう起業家~」(2010年11月19日)

Tim Schilling, “Institutions and Entrepreneurship”(MV=PQ: A Resource for Economic Educators, November 19, 2010)


このブログの定期的な読者であればご存知のように、私が興味を抱いている対象の一つが「経済制度」である。制度とは何かというと、「ゲームのルール」と定義されるのが通常である。もっと具体的に踏み込むと、インセンティブを形作ることによって一人ひとりの意思決定に影響を及ぼす一連のルールならびに組織――フォーマルなものであれ、インフォーマルなものであれ――の総体が制度だ。成文法も含まれるし、自発的に従われる行為規範も含まれる。文化的な信念(cultural beliefs)も含まれる。今回のエントリーの主題というのが、最後に触れた「文化的な信念」である。

本日付のウォール・ストリート・ジャーナル紙で、ナイジェリアのバイクタクシーについて取り上げられている。具体的には、ナイジェリアのバイクタクシーがいかに危険であるかがテーマだ。バイクタクシー絡みの事故があまりにも多いので、バイクタクシーの事故で負傷した患者専用の病棟を用意している病院もあるくらいだという。

バイクタクシーの乗客にヘルメットを被ってもらおうとあれこれと手が打たれたが、うまくいかなかったという。その主たる理由は、迷信(文化的な信念)にある。ナイジェリアでは、ヘルメットが頭に直に触れると、邪悪なジュジュ(精霊)の呪いにかかってしまって、災難に巻き込まれるおそれがあると広く信じ込まれているのである。この世から突如として消え去ったり、脳を失ったり、運を吸い取られてしまうおそれがあると広く信じ込まれているのだ。ナイジェリアの人々がヘルメットを被らないという選択――しばしば悲劇的な結末を伴う選択――をしているのは、ヘルメットを被るコストが迷信のせいで高く感じられて、ヘルメットを被るおかげで得られると予想される便益を上回るからだ。すなわち、ナイジェリアの人々は、便益とコストを比較した上で、「論理的」な選択をしているのだ。

ここで登場するのが、一人の起業家である。ヘルメットと頭の間に挟むことができる布帽子を開発したのである。布帽子を被れば、頭がヘルメットに直に触れずに済むので、ジュジュ(精霊)の呪いに対する恐れが和らげられる――皆が皆というわけにはいかないだろうが――。衛生面の問題をはじめとして色々と課題はあるものの、重要なポイントは次の点にある。この起業家が新たなマーケットを発見して開拓するのに成功したのは、この地に特有の制度的要因を理解していたからこそなのだ。安価な競合品――例えば、ハンカチ――が数多く存在していることを考えると、彼がこれからどれくらい成功を収められそうかはわからない。ライバルが続々と参入してくる可能性もある。ともあれ、この事例は、制度と起業家精神との関わりをめぐる興味深いケースであることは間違いない。

2013年8月24日土曜日

Katherine Mangu-Ward 「私の妻を買ってください! ~妻売りの経済学~」(2011年6月20日)

Katherine Mangu-Ward, “Take Buy My Wife. Please!”(Hit&Run blog, June 20, 2011) /Buy My Wife. Please!”(ReasonNovember 2011


ジョージ・メイソン大学に籍を置く経済学者のピーター・リーソン(Peter Leeson)――海賊神判の研究で名を知られているあのリーソン――が、ピーター・ベッキー(Peter Boettke)とジェイマ・レムケ(Jayme S. Lemke)との共同研究で、18~19世紀のイギリスで見られた「妻売り」の慣行を経済学的な観点から弁護している。当時のイギリスでは、離婚の手続きが面倒で、妻は夫の所有物と見なされていた。「妻売りは、産業革命期のイギリスの法律によって生み出された所有権の歪みに対する制度的な反応であり、効率性を高めるのに貢献した」というのが三人の言い分だ。

論文の一部を引用しておこう。

18世紀のイギリスで生活をともにしている夫婦の一例について考えてみるとしよう。妻の名はハティで、夫の名はホーレス。ホーレスは、ハティを愛している。妻として評価すると、その価値は5ポンド。その一方で、ハティは、ホーレスを嫌っている。夫として評価すると、その価値はマイナス7ポンド。この2人の結婚は、(それぞれが相手に下している評価を足し合わせるとマイナスになるので)非効率的である。ハティは、離婚したいと思っているが、離婚するためにはホーレスから同意を取り付ける必要がある。ホーレスとしては、ハティが5ポンド以上を払ってくれるのであれば離婚に同意してもいいと思っている。ハティとしても、離婚に同意してもらえるなら5ポンド以上を払ってもいいと思っている。しかしながら、当時の法律によると、夫婦の財産はすべて夫のものなので、ハティはびた一文払えない。2人で直接交渉して離婚に漕ぎ着けるのは不可能なのだ。

しかしながら、迂回してなら可能である。ホーレス&ハティ夫婦の隣人で独身のハーランドは、ハティをホーレス以上に愛している。妻として評価すると、6ポンドの価値があると考えている。ハティはどうかというと、ハーランドをホーレスよりも好いている。夫として評価すると、1ポンドの価値があると考えている。 
ホーレスもそのことを知っている。そこで、ハーランドに次のような提案を持ちかける。君が5.5ポンドを払ってくれるなら、妻のハティを譲ってもいいと思うがどうする? ハティとは違って、ハーランドの財産は、ハーランドのものである。ホーレスのものではない。それゆえ、実行可能な取引である。ハティとハーランドは、ホーレスの提案を受け入れる。ホーレスは0.5ポンド得をする〔訳注1〕。ハーランドは0.5ポンド得をする〔訳注2〕。ハティは8ポンド得をする〔訳注3〕。妻が売られるおかげで、三人がともに得をするのだ。

論文はこちら(pdf)。


<訳注>

〔訳注1〕ホーレスは、ハティと離婚すると5ポンドの損失を被るが(妻としてのハティを5ポンドと評価しているため)、ハーランドから5.5ポンドを支払ってもらえるので、差し引きすると0.5ポンド(=5.5-5)得することになる。

〔訳注2〕ハーランドは、ハティを譲り受けるために5.5ポンドを支払うが、妻として6ポンドの価値があると考えているハティと一緒に暮らせるようになるので、差し引きすると0.5ポンド(=6-5.5)得することになる。

〔訳注3〕ハティは、ホーレスと離婚すると7ポンドの得をして(夫としてのホーレスをマイナス7ポンドと評価しているため)、ハーランドと一緒になると1ポンドの得をする(夫としてのハーランドを1ポンドと評価しているため)。合計で8ポンド(=7+1)得することになる。

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ピーター・リーソンは、ジョージ・メイソン大学に籍を置く経済学者。肩書は「資本主義研究のためのBB&T教授」。忍者、UFO、魔女裁判についての論文を書いていて、経済学の原理を応用して海賊について分析を加えている『The Invisible Hook』(邦訳『海賊の経済学』)をプリンストン大学出版局から上梓している。同僚のピーター・ベッキーとジェイマ・レムケと共同で執筆している最近の論文では、「妻売り」を経済学的な観点から弁護している。18~19世紀のイギリスでは、妻が売られるのが珍しくなかったのである。当時のイギリスでは、離婚の手続きが面倒で、結婚した女性は財産を一切持てなかった。本誌のシニア・エディターであるキャサリン・マング=ウォードが今年(2011年)の8月にリーソンに行ったインタビューを文字に起こしたのが以下である。


Q:妻売りをテーマにしようと思ったきっかけは何だったのでしょうか?

A:海賊についての研究に取り組んでいた最中に18世紀に発行された新聞を調べていたら、とある広告を見つけたんです。妻売りの広告だったんですが、当時の新聞ではよくあることだったらしいです。はじめて目にした時は度肝を抜かれて、何て馬鹿げてるんだろうと思いました。でも、じっくり検討してみたら、理に適(かな)っていると思うようになったんです。

Q:妻売りを取り巻く当時の状況はどんな感じだったのでしょうか?

A:18~19世紀のイギリスでは、財産、結婚、離婚についての法律がやけに厳格で馬鹿げたところがありました。当時の婚姻法では、婚姻関係が続いている間は、妻は自らの財産に対する所有権をすべて夫に譲り渡す決まりになっていました。自分の身体に対する所有権でさえもです。

そのため、妻が結婚生活に不満を抱いて離婚しようと思ったら、夫から同意を取り付けないといけませんでした。経済学の世界で「コースの定理」と呼ばれている説によると、だからといって取り立てて問題にはならないはずです。お金を払って離婚の権利を買い取ればいいからです。でも、当時のイギリスでは、妻は財産を一切持てなかったので、お金を払って離婚の権利を夫から買い取るということができなかったのです。

でも、その女性を今の夫よりも高く評価している男性がいるかもしれません。その女性もその男性を今の夫よりも高く評価しているかもしれません。妻の財産は夫のものですが、その男性の財産は夫のものじゃありません。その男性は、代わりに夫から離婚の権利を買い取ることができるわけです。妻売りというのは、そういうものだったんです。

Q:どういう人が妻を買ったのでしょうか?

A:妻の愛人というケースが多かったみたいです。それも納得がいきます。夫としては、妻をできるだけ高値で売り渡したいと考えるでしょうからね。妻を最も高く評価していて、妻が一緒にいたいと望んでいる相手に売り渡したいと考えるでしょうからね。妻に愛人がいれば、うってつけです。妻を一番高値で買い取ってくれるのは愛人である可能性が高いですからね。既に関係を築いていますから、妻を最も高く評価しています。妻もその愛人を今の夫よりも高く評価しているでしょう。未来の伴侶としても。

そういうわけで、妻の愛人が買い手になることが多かったとしても納得がいくわけです。でも、常にそうだったわけじゃありません。愛人がいなくても、今の夫が嫌いで離婚したいと思うというケースはあり得ます。結婚してもいいと思えるような相手がどこかにいるかもしれませんし、これから見つけるつもりかもしれません。夫は夫で、奪い取りたいと思うほどに妻のことを高く評価している人物がどこかにいないか確かめたいでしょう。そこで、妻を売りに出すわけです。競売のようなもので、誰が妻を高く評価しているかがあぶり出されるのです。

妻の同意を得た上での話だったということは強調しておかないといけないでしょう。彼女たちは無理矢理売られたわけじゃありません。売られたがっていたのです。

2013年8月18日日曜日

Eli Dourado 「人身御供の経済学」(2013年2月20日)

Eli Dourado, “What Can We Learn from Human Sacrifice?”(The Ümlaut, February 20, 2013)


人身御供(ひとみごくう)についての描写は、現代人の心をゾッとさせずにはおかない。インド東部のコンド族によって執り行われていた人身御供についての以下の記述をご覧いただきたい。ピーター・リーソン(Peter Leeson)の最近の論文(pdf)からの引用だ。

生贄が動かないようにするために、腕や足の骨が折られることもあった。最後の祈りが唱えられると、神官の言葉を合図に「儀式に参加していた民衆が一斉に生贄に飛び掛かり、頭と腸には一切触れずに、肉を引き剝がし始めた」。生贄を切り刻むというのはどこでもよくあったが、コンド族の間では、派手で残酷な別の処置が追加されることもあった。例えば、豚の血で満たされた穴の中に生贄を投げ込んで溺死させることもあれば、生贄の命が絶えるまで真鍮の腕輪で殴り続けることもあった。その後で生贄の体を細かく切り刻むのだ。

豊饒と草木の女神――執念深い地母神――であるタリ・ペヌー(Tari Penu)の気持ちをなだめるために。

まったくもって非合理的で、何の得にもならない滅茶苦茶な行為だと思うかもしれない。「いや、違う」というのがリーソンの言い分である。コンド族は、同族の隣接する集落から襲撃されるのを防ぐための術として人身御供という儀式を利用していたというのである。人身御供という 「見せびらかしの破壊」を行って、近くの集落に知らせていたというのだ。富を破壊してしまって貧しくなった我々を襲っても得にならないということを。人身御供が略奪を防ぐのに効果を発揮したのは、富が破壊されているのが誰の目にも明らかだったからである。生贄――メリアー(meriahs)と呼ばれていた――は、別の部族から高値で購入する習わしになっていた。大量の作物を燃やして富を破壊しているのを見せびらかす場合とは違って、人体を切り刻んでいるのを偽装するのは困難だ――本当は作物を燃やしていないのに、表面を葉っぱで覆ってしまえば作物を燃やしていると言い張ることができるが、人体を解体する場合はそうはいかない――。人身御供という 「見せびらかしの破壊」では、高価な富が破壊されているのが誰の目にも明らかだったのだ。

人身御供が合理的で、社会的に有用な役割を果たしたケースもあることを理論的・歴史的な観点から説得的に論証しているのがリーソンの論文なのだ。人身御供が一切執り行われていなければ、同族内での略奪が頻繁に起きていたかもしれない。人身御供は、コンド族のためになっていたのだ。

コンド族を真似て、人身御供を執り行うべきなのだろうか? その答えは、明らかに「ノー」だ。しかしながら、コンド族のケースから学べることはたくさんある。リーソンは、論文の冒頭でジョージ・スティグラー(George Stigler)の次の言葉を引用している。

「長きにわたって存続している社会制度も慣行も例外なく効率的である」

言い伝えによると、コンド族による人身御供は太古の昔からずっと続いていたらしい。長きにわたって存続した社会制度だったわけである。リーソンのこれまでの研究を振り返ると、風変わりではあるが合理的で効率的な歴史上の慣行の例で満ち溢れている。呪いはどうなのか? リーソンによれば(pdf)、合理的である。決闘裁判は? リーソンによれば(pdf)、効率的である。中世ヨーロッパの裁判で執り行われていた神判は? リーソンによれば(pdf)、無実かそうでないかを正確に見分けるのに役立った。動物裁判は? リーソンによれば(pdf)、カトリック教会による賢明な策だった(十分の一税の納付を促す役割をした)。妻売りは? リーソン&ベッキー(Peter Boettke)&レムケ(Jayme Lemke)によれば(pdf)、女性のためになった。

人身御供についてのリーソンの研究がリベラル派(あるいは、リベラル寄りな人たち)に対して突き付けている重要な教訓がある。長きにわたって続いている慣行(あるいは、長きにわたって流布している信念)を愚かだとか非合理的だとかと安直に断じるなかれという教訓がそれである。現存する制度なり慣行なりについて何もかも理解し尽くしているかのような気になってはいけないのだ。人身御供を宗教上の制度――そうだったのは確か――としてだけ捉えてしまうと、略奪を防ぐための制度でもあった――そうだったのは確か――ことが易々と見過ごされてしまうだろう。何らかの呪術的な干渉によってコンド族に人身御供を取りやめさせることができたとしても、その結果として同族内での略奪が盛んになるかもしれない。人身御供が続けられる場合よりも、多くの人命と富が失われてしまうおそれがあるのだ。イギリス政府がリベラルな教育を施したり暴力で脅したりしてコンド族に人身御供を取りやめさせようとしたが、結局のところは失敗に終わった。それと同様に、長きにわたって存続しているリベラルとは言えない慣行を取りやめさせようとしても、失敗に終わることが多いだろう。

保守派(あるいは、保守寄りの人たち)もコンド族のケースから学べることがある。人身御供は、コンド族が置かれていた状況においては効率的な制度だった。イギリス政府がコンド族のために所有権の保護や紛争解決のサービスを提供し始めると、コンド族の人たちは人身御供を快く取りやめた――若者世代の不信心な態度に怒り心頭だった年配者もいただろうと想像される――。環境が劇的に変化すると、それまで長きにわたって存続してきて効率的だった社会制度も効率的ではなくなって、存続できなくなるわけである。スティグラーが主張しているように、効率的な制度の存続を支えるのと同じ力が非効率的な制度を淘汰するのである。リベラル派だけでなく保守派も社会制度が存続したり変化したりする真の理由を理解するのが難しいようで、新しいテクノロジーの登場に対する効率的な反応として社会制度が変化しているのに、保守派はそうは考えない。社会制度が変化しているのは道徳が頽廃しているからと考えがちなのだ。

テクノロジーが急激に変化する時代に我々は生きているとよく言われるし、事実その通りだ。結婚、出産、終末期医療、労働市場、大学など社会制度の多くも急激に変化しているが、驚くにはあたらない。社会制度の変化は、テクノロジーの変化の結果に過ぎないからだ。古くから続く制度を現状の温存に加担するものとしか考えないリベラル派は、社会制度が変化するのを進歩と見なすことだろう。旧習を内面化している保守派は、社会制度が変化するのを頽廃と見なすことだろう。しかしながら、社会制度の変化は、道徳面での進歩を意味しているわけでもなければ、道徳面での頽廃を意味しているわけでもないのだ。法、経済学、迷信についてのリーソンの一連の研究は、風変わりな多くの社会制度――コンド族に限らず、我々のも含めて――がいかにして形成されるかを愉快かつ啓発的なかたちで明らかにしている。それぞれの社会が直面している問題や制約に対する合理的な反応の結果なのだ。

2013年8月13日火曜日

Peter Leeson 「迷信と経済発展」(2010年8月23日)

Peter T. Leeson, “Superstition and Development”(Aid Watch, August 23, 2010)


ジプシーたちの間で信じ込まれている説によると、ジプシーではない人間の下半身は気付かぬうちに穢れてしまっているという。超自然的な力によって穢れが人づてに伝染するというのだ。そのせいで、ジプシーではない人間の魂は毒されているというのである。

これらの迷信は、非合理的なわけでは決してない。ジプシーたちの共同体の秩序を維持するのに中心的な役割を果たしているのだ。ジプシーたちは、仲間うちでの協調を図るために、公的な法制度に頼るということができない。彼らの間での経済的・社会的なやり取りの多くは、法律の対象外であるか、違法行為にあたる。しかしながら、法と秩序に対する欲求の強さは、ジプシーたちも人後に落ちない。

そこで、仲間内での秩序を維持するために迷信の力が借りられるのだ〔原注1〕。ジプシーではない人間の魂は毒されていて、超自然的な力によって穢れが人づてに伝染するという迷信がどんな役割を果たしているかを検討してみるとしよう。ジプシーたちは、仲間内の誰かが裏切らないようにするために、政府に頼ることができない。村八分(ostracism)の脅しに頼る〔訳注;裏切り行為を働いたら、共同体から追い出してもう二度と関わりを持たないと脅す〕しかない。 

問題なのは、ジプシーたちの共同体は大海に浮かぶ小島のようなものだということである。ジプシーではない人間がすぐ近くにうようよいるのだ。裏切り行為を働いて追放されたジプシーが外の社会に溶け込んで、そこで暮らす人たちと接触できるようなら、追い出すというのは大した罰ではなくなる。村八分の脅しに効力を持たせるために、あの迷信が生まれたのだ。ジプシーではない人間の魂は毒されていて、その毒は伝染するというあの迷信が。ジプシーではない人間と接触したら、超自然的な力によって同じく毒されてしまうというあの迷信が。

あの迷信のおかげで、村八分の脅しが真実味を帯びるようになる。裏切り行為を働くと、あらゆる社会から追放されることを意味するようになるからである。ジプシーたちとだけでなく、外の社会の人間たちとも接触できなくなることを意味するのだ。村八分の脅しと迷信の力が相まって、裏切り行為が防がれているわけなのだ。ジプシーたちの間で信じられている迷信は、おそらくは意図せずして法と秩序の維持に貢献しているのだ。

ジプシーのような「他者」が信じている迷信を見下してしまいがちな風潮があるが、ヨーロッパの歴史を振り返ると、迷信の宝庫であることがわかる。そして、その中のいくつかは社会的に有用な働きをしていた可能性があるのだ。例えば、中世ヨーロッパの裁判では、被告人が有罪か無罪かがはっきりしない場合に神判(ordeal)が執り行われた〔原注2〕。例えば、熱湯を用いる神判では、被告人はお湯がグツグツと沸き立っている大釜の中に腕を突っ込むように求められる。熱湯に腕を突っ込んでから3日後にひどいやけどや感染症の症状が確認されると、有罪が宣告される。その一方で、腕に何の異常も表れないようなら、無罪が言い渡される。このような神判を支えているのは、無実の被告人のために神が奇跡をもたらすという迷信なのだ。被告人が無実であれば、神のおかげで厳しい試練も無傷で潜り抜けられるという迷信なのだ。

ジプシーのケースと同じように、この迷信も一見すると非合理的な信念のように思えるが、じっくり検討してみると、社会的に有用な働きをしていることが判明する。被告人が身に覚えがあるようなら、腕を熱湯に突っ込むのを拒否するに決まっているだろう。なぜなら、無実の被告人は神のご加護によって救われる一方で、身に覚えがある被告人には神のご加護がないと信じ込まれているからである。すなわち、身に覚えがある被告人は、腕を熱湯に突っ込めばやけどを負うに違いないと予想するのだ。腕を熱湯に突っ込むのに同意したら、やけどを負って有罪を宣告されるに違いないと予想するのだ。腕にやけどを負うよりは、罪を白状するか原告と示談する方が得策と考えるのだ。

それとは対照的に、無実の被告人は、必ずや神判を受けようとするだろう。無実の被告人には神のご加護があるという迷信を信じているからである。腕を熱湯に突っ込んでも神のおかげでやけどを負わずに済むと信じているからである。神判を受けたら無罪が証明されるに違いないと信じているからである。無実の被告人は、神判を受けるのに少しも恐れを抱かない。神判をすすんで受けようとするのだ。

身に覚えがある被告人は神判を受けようとせず、無実の被告人は神判をすすんで受けようとする。被告人が神判をすすんで受けようとするかどうかを観察すれば、その被告人が有罪か無罪かを見分けられるのだ。中世ヨーロッパで信じられていた迷信は、刑事裁判で正義が下されるのを手助けする働きをしていたのだ。そのようにして法と秩序の維持に貢献していたのだ。

とは言え、あらゆる迷信が法と秩序の維持に貢献するというわけではない。決してそうじゃないだろう。しかしながら、科学的な根拠がなくて滑稽な迷信であっても、公的な制度の代役を果たしている場合があるかもしれないのだ。公的な制度が存在していなかったり公的な制度がうまく機能していない状況で、社会的な協調を支える役割を代わりに果たしているかもしれないのだ。その可能性を否定すべきじゃないだろう。発展途上国で信じ込まれている迷信のうちで、そういう役割を果たしているものはあるだろうか?


<原注>

〔原注1〕ジプシーたちの間で広まっている迷信に経済学的な観点から包括的な分析を加えているのが、次の拙論文である。Peter T. Leeson (2013), “Gypsy law(pdf)”(Public Choice, vol. 155, issue 3-4, pp. 273-292)

〔原注2〕中世ヨーロッパの裁判で執り行われていた「神判」に経済学的な観点から包括的な分析を加えているのが、次の拙論文である。Peter T. Leeson (2012), “Ordeals(pdf)”(Journal of Law and Economics, vol. 55, issue 3, pp. 691-714)