ラベル Paul Krugman の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル Paul Krugman の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2025年5月24日土曜日

Paul Krugman 「小心の罠」(2014年3月21日)

Paul Krugman, “Timid Analysis (Wonkish)”(The Conscience of a Liberal, March 21, 2014)


今日のコラムでも軽く触れたけど、もうちょっと突っ込んだ話をしておこうと思う。

ブルッキングス研究所主催のパネルディスカッションから戻ってきたばかりだ。「アベノミクス」がテーマの論文についても報告があって、僕も含めて二人が討論者を務めた。もう一人の討論者は、ベン・バーナンキだとかいう名前だったと思う。個人的にずっと心配に思っていたことがあって、そのことについても語った。言いたいことを前よりもいくらかうまく整理できてると思うので、ここでも繰り返させてもらうとしよう。

僕が1998年に書いた論文(pdf)以降に大量に生み出された「ゼロ下限制約」に関する理論的な研究の山を眺めてみると、「流動性の罠」に陥るのは一時的なショックの結果であると見なされている。例外なくだ。何らかのショックが起こって――わかりやすい例だと、バブルが崩壊したりとか、信用ブームが終わってデレバレッジ(債務の圧縮)が強いられたりとか――、総需要が大きく落ち込む。金利をゼロ%にまで引き下げても完全雇用を実現できないくらいに。でも、そのショックもいつまでも続くわけじゃない。いつかは終わる。そうだとすると、抜け道があることになる。金融政策のレジームが変わったことをみんな(国民)に納得させればいいのだ。ゼロ下限制約に直面している状況で総需要を刺激してほどほどのインフレを起こしたければ、ショックが去って総需要が回復してからも中央銀行が金融緩和を続けるとみんなに信じ込ませればいいのだ。  

ところで、日本でショックが去るのはいつになるんだろうか? 総需要が勢いを取り戻して、ゼロ下限制約に縛られる必要が無くなるのはいつになるんだろうか? アメリカについてすら長期停滞(secular stagnation)の可能性が真剣に取り沙汰されていて、金融政策が「正常」に戻るまでにかなり長い時間を要するかもしれないというのに。

それでもなお、景気に弾みをつけるのは依然として可能だ。中央銀行が高めのインフレ率の達成を目標に掲げて、そのことがみんなから信頼されるようなら、〔予想インフレ率が上昇するので〕実質金利が低下する。ところで、中央銀行が掲げるインフレ目標がみんなから信頼されるために必要なことって何だろう? 「自己実現的な予言」(self-fulfilling prophecy)が大いに絡んでくるに違いない。中央銀行が掲げる目標値にまでインフレ率が上昇するに違いないとみんなが信じて行動したら、その通りにならなくちゃいけないのだ。景気が刺激されて、インフレ率が目標値にまで上昇しなくちゃいけないのだ。

そのための必要条件がある(ただし、十分条件じゃない)。インフレ率の目標値がかなり高めに設定される必要があるのだ。みんなが信じて行動したら、ブームが起きるくらいの高さに設定される必要があるのだ。インフレ率の目標値がそんなに高くないようだと、みんなが信じて行動したとしてもその通りにならないだろう。景気もそこそこしか刺激されずに、そのせいでインフレ率も目標値に届かないだろう。そんなだと、そのうち誰も中央銀行が掲げるインフレ目標を信頼しなくなって、すべての努力が無駄になってしまうおそれがあるのだ。 

今朝作成したばかりの図を使って、今の話を確認しておくとしよう。




黒い曲線は、フィリップスカーブを表わしている。仮想的なものではあるが、現実のフィリップスカーブとそう違わないと思う。インフレ率が産出量の水準に依存していて、資本設備の稼働率が高くなるほど(産出量の水準が高まるほど)傾きが急になっている。青い直線は、金利がゼロ%の場合の総需要曲線を表わしている。予想インフレ率が上昇すると、それと同じだけ実質金利が低下する。総需要曲線が右上がりになっているのは、そのためだ。上の図では、中央銀行がインフレ率の目標値を2%に設定するけど、インフレ率が2%にまで上昇しない状況が描かれている。インフレ率が2%にまで上昇するとみんなが信じて行動したとしても、その通りにならないのだ。そのうち誰も中央銀行が掲げるインフレ目標を信頼しなくなってしまうだろう。

僕の心配事というのは以上の通りだ。インフレ率の目標値を4%に設定する必要があるというのに、セントラルバンカーが次のように語ったとしよう。「4%ですか? ちょっと過激に思えますね。もうちょっと慎重になって、2%にしておきましょう」。慎重で分別があるようだけれど、そのせいで失敗してしまうかもしれないのだ。

2025年5月20日火曜日

Gregory Mankiw 「野獣を飢えさせろ」(2008年6月16日)

Gregory Mankiw, “Starve the Beast”(Greg Mankiw's Blog, June 16, 2008)


ポール・クルーグマン(Paul Krugman)が本日のニューヨーク・タイムズ紙のコラムで述べているところによると、「野獣を飢えさせろ」理論は正しいらしい。減税すると、政府の規模が小さくなるというのだ。ただし、時間差があるという。

オバマは、マケインよりもずっと進歩的でもある。上位1%の税引き後所得を大幅に引き下げる一方で、下位80%の所得を引き上げるつもりだというのだ。しかしながら、どれだけの税収を確保するつもりなのかというと、7000億ドルにとどまっている。大金に聞こえるかもしれないが、国民皆保険を実現するためには足りないだろう。 

オバマが税金を集めるのに控え目なのはなぜなのか? ブッシュが税制に仕込んだポイズンピルに原因があるのだ。

・・・(中略)・・・

二人の候補者(オバマとマケイン)が税金についてせせこましい議論を繰り広げているのを眺めていると、ブッシュが税制に仕込んだポイズンピルが効果をちゃっかり発揮しているのがわかって、驚きもするしガッカリもしてしまう。 

言い換えると、ブッシュ減税のせいでオバマが大統領になっても政府の規模に縛りがかかるかもしれないというのだ。

似たようなことを語っているのが、ロバート・ライシュ(Robert Reich)だ。クリントン政権で労働長官を務めたライシュだが、当時を回想した滅茶苦茶面白い一冊である『Locked in the Cabinet』で、レーガンによる減税(および、その結果としての財政赤字の拡大)のせいでクリントン政権の手が縛られたと述べているのだ。ライシュが望んでいた支出プログラムを残らず実行することができなかったというのだ。

クルーグマンもライシュも悪い報せとして受け取っている。政府支出が拡大するのをよしとしているからだ。しかしながら、「小さな政府」をよしとする古典的自由主義者にとっては、良い報せだ。かの有名で悪罵を浴びせられることもある「野獣を餓えさせろ」理論を支持する報せなのだから。

2025年5月17日土曜日

Paul Krugman 「『流動性の罠』の下でのインフレ目標:日本経済に埋め込まれた排中律」(1999年2月)



噂によると、日本銀行がインフレ目標の採用を検討しているらしい。プラスのインフレ率を上限値にするんだとか。朗報だ。自分たちが置かれている状況をとうとう理解し始めたらしいことを意味しているわけだから。でも、本当にそうなんだろうか? 何とも言えないところだ。なぜなら、噂として聞こえてくるインフレ率の目標値があまりにも低過ぎるからだ。噂通りなんだとしたら、自分たちが置かれている状況をまだちゃんと理解していないんだろう。「流動性の罠」に嵌ってしまったら、かなり高めのプラスのインフレ率を目指すか、ノロノロ続くデフレを受け入れるかのどちらかを選ぶしかないのだ。中道なんてないのだ。

その理屈は単純なんだけれど、なかなか理解してもらえないみたいだ。均衡実質金利――完全雇用に達した場合に貯蓄と投資(海外純投資を含む)が等しくなる金利――がマイナスで(“Japan: still trapped”で説明したように、「流動性の罠」に嵌るというのは、均衡実質金利がマイナスになることなのだ)、失業が発生しても物価はすぐには下がらないとしよう。予想インフレ率が低過ぎて実質金利が均衡実質金利の水準にまで下がらないようなら――例えば、マイナス3%の実質金利が「必要」とされているのに、予想インフレ率がプラス1%でしかないようなら――、完全雇用が達成できずに緩やかなデフレが続くことになるだろう。そうなったら、インフレ目標の信用もすぐに地に落ちて、ふりだしに戻っちゃうだろう。

インフレ目標がうまくいく可能性があるのは、目標値がかなり高く設定されてそのことが信用される場合に限られるのだ。言い換えると、インフレが起きるくらいに景気が刺激される場合に限られるのだ。目標値が低過ぎるようなら、失敗する運命にあるのだ。

「調整インフレ」案を和らげたがる人――「物価安定を目指しちゃいけないのでしょうか? 例えば、1%のインフレ率を目指しちゃいけないのでしょうか?」とかいうふうに穏健にしたがる人――がいるけど、肝心なことがわかっていないのだ。“Japan's trap”でも述べたように、日本がデフレ圧力に晒されているのは、インフレが必要とされているからなのだ。そのために、今の物価水準を将来の期待物価水準よりも引き下げようとする力が働いているのだ。それと同時に景気が低迷しているのは、物価というのはなかなか下がらないし、その過程で痛みを伴わないわけにはいかないからだ。

これまでの話に抵抗を感じるのもよくわかる。政策当局者たちは、逆説的に聞こえる話には慣れていないし、どうにかして中道を歩もうと試みるのが彼らの本能だからだ。でも、日本経済に埋め込まれている排中律〔注1〕は、学者の頭の中にある抽象的な屁理屈なんかじゃない。筋道立った分析から導かれる避けられない結論なのだ。

最後に太字でまとめておこう。

目標値が十分に高くない限り、日本におけるインフレ目標は失敗に終わるだろう。

-----------------------------------------------

〔注1〕かなり高めのプラスのインフレ率を目指すか、ノロノロ続くデフレを受け入れるかのどちらかを選ぶしかない(中道なんてない)、という意味。

2025年5月10日土曜日

Paul Krugman 「俗流ケインジアン」(1997年2月7日)

Paul Krugman, “Vulgar Keynesians”(Slate, February 7, 1997)


経済学の分野も、その他のあらゆる知的な営みと同様に、「学問版・収穫逓減の法則」の影響下にある。時折、偉大な革新者が颯爽と登場し、まるで詩人のような語り口で、自らのアイデアを披露する。そのアイデアは幾分粗が目立ち、先人(あるいは、主流派)のヴィジョンとの違いが誇張して語られるとしても、そのことは取り立てて問題とはならない。アイデアに磨きがかけられることで、やがて確固としたパースペクティブが形作られる可能性があるからだ。しかしながら、どうしても避けられない定めとして、その革新者の後には、表面上の字句には忠実でありながらも、アイデアの核となる精神を誤解した一群の信奉者が続くことになる――彼らの頑迷さは、主流派が自らの見解に対して見せるこだわりを凌駕するほどである――。革新者のアイデアが広まるにつれて、それはますます単純化されることになり、やがて常識(public consciousness)の一部――「誰もが知る」知識の一部――となるまでに流布した暁には、革新者によるアイデアは、粗っぽいまでに劇画化された姿に変容を遂げてしまうのだ。

これはまさに、ケインズ経済学が辿った道のりでもある。ジョン・メイナード・ケインズその人は、大変緻密で革新的なアイデアの持ち主だった。しかし、不運なことに――意図しないかたちで――、彼は自らの遺産の一つとして、今もなお経済問題を巡る論争に混乱をもたらし続けている思想を産み落としてしまったのである。ここではそれを「俗流ケインズ主義」と呼ぶことにしよう。

ケインズが『雇用・利子および貨幣の一般理論』を出版したのは1936年。それ以前の経済学の世界では、ミクロ経済学――個々の市場の機能を対象にして、稀少な資源があれこれの市場の間にどのように配分されるかを研究する分野――に関しては、精緻で洞察力のある理論が既に発展を遂げていた。その一方で、マクロ経済学の分野――インフレやデフレ、景気の過熱や不況といった一国レベルで発生する現象を研究する分野――は、発育停止とでも呼べる状況にあった。足許で進行中の「大恐慌」について何の説明も提供できずにいたのである。

いわゆる「古典派」のマクロ経済学によると、経済は(放っておいても)長期的には完全雇用に戻る傾向があると見なされていて、(完全雇用が実現している)「長期」だけが分析対象になっていた。「古典派」のマクロ経済学を支える理論的な支柱は2つあった。「貨幣数量説」と、「貸付資金(“loanable funds”)説」である。貨幣数量説というのは、物価がいかに決定されるかについての理論であり、一国の物価水準は、経済に流通する貨幣量に比例すると考えられた。その一方で、貸付資金説というのは、金利がいかに決定されるかについての理論であり、金利は、総貯蓄(一国全体の貯蓄)と総投資(一国全体の投資)の不一致を解消するように上下に変動すると考えられたのである。

ケインズとしても、十分に長いスパンをとってみた場合には、「古典派」のマクロ経済学を支える理論が妥当する可能性もあるかもしれないと認めるのにやぶさかではなかった。しかしながら、彼の有名な言葉をひくと、「長期的には、我々は皆死んでしまう」。そこで、ケインズは次のように主張した。短期において金利の水準を決定するのは、(貸付資金説が説くように)完全雇用下における総貯蓄と総投資のバランスではない。「流動性選好」(“liquidity preference”)――現金と比較して安全性や利便性の面で劣る資産への投資を促す上で(高い利回りのような)十分なインセンティブが提供されない限りは、現金を保有し続けようとする欲望――こそが、短期における金利の水準を決定するのだ、と。さらには、ケインズは次のようにも付け加えた。総貯蓄と総投資は、貸付資金説が妥当しないとしても、必ず等しくなる。とは言っても、(事前的な)総貯蓄が(事前的な)総投資を上回ると、(貸付資金説が説くように)金利が低下するのではなく、雇用量や産出量が減ることで総貯蓄と総投資が一致するようになるのだ、と。別の言い方をすると、何らかの理由――例えば、株価の急落など――で投資需要が減少すると、経済は(雇用量や産出量の落ち込みを伴う)全般的な不況に見舞われるということだ。

このようなヴィジョンは、経済の働きに関する従来の見解に見直しを迫るものだった。その見事なまでの洞察力もあって、当時の若くて優れた経済学徒の間ですぐさま受け入れられた。とはいえ、ケインズは現実を単純化し過ぎている面がある、と早いうちから指摘していた経済学者がいたことも事実である。特に、雇用量や産出量は、金利に対して反作用を及ぼすのが通常であり、このことは大きな違いを生む可能性がある。しかしながら、『一般理論』が出版されてから長年にわたって、多くの経済学者は、ケインズのヴィジョンから導き出される含意に魅惑されることになった。ケインズのヴィジョンは、(節倹という)美徳が罰せられ、浪費が報われる「不思議の国のアリス」のような世界に我々を誘うかのように思われたのだ。

例えば、「貯蓄(節約)のパラドックス」(“paradox of thrift”)について考えてみるとしよう。初期のケインジアンモデルによると、何らかの理由で貯蓄率――所得のうち支出(消費)に回されない割合――が上昇したとしたら、総貯蓄と総投資がともに減少するという結果になる。どうしてだろうか? その理由はこうである。貯蓄率が上昇する(事前的な総貯蓄が増加する)と、消費が減って不況になり、それに伴って所得が減ることになる。所得が減ると、所得の増加関数である総投資が減ることになる。総貯蓄と総投資は最終的には等しくならなければならないので、(減少した総投資と等しくなるように)総貯蓄は減らなければならない!

さらにもう一つ、賃金と雇用の関係をめぐる「寡婦の壺」(“widow's cruse”)理論――この名称は古い伝承にちなんで付けられた――についても取り上げておこう。名目賃金が引き上げられると、人件費が高くなるので労働への需要は減ると思うかもしれない。しかしながら、初期のケインジアンの幾人かは、次のような主張を展開した。名目賃金の上昇は、資本家から労働者への所得の再分配(資本家が受け取る利潤が減って、労働者が受け取る賃金が増えること)を意味する。労働者は、資本家と比べると、あまり貯蓄をしないので――これは事実に反しているのだが、それはまあよしとしておこう――、資本家から労働者へと所得が再分配されると、消費需要が増えて、その結果として産出量と雇用量が増える、と。

このようなパラドックスに思いを馳せることは楽しいし、入門レベルの教科書を開くと今でもその説明に出くわすことがある。

しかしながら、このようなパラドックスを真剣に受け止めている経済学者は、今ではほとんどいない。その理由はいくつかあるが、中でも最も重要な理由は、わずか2語で語ることができる。アラン・グリーンスパンAlan Greenspan)である。

シンプルなケインジアンが語るストーリーを深く掘り下げていくと、金利は、雇用量や産出量の水準から独立して決まると想定されていることがわかる。しかし、現実はそうなっていない。金利は、FRB(連邦準備制度理事会)によって積極的に操作されている。雇用が低調であると判断されると金利が引き下げられて、景気が過熱気味だと判断されると金利が引き上げられるのだ。FRB議長(グリーンスパン)の判断の是非についてあれこれ言いたい人――金融政策をもう少し緩和して景気の拡大を支えるべきだと考えたり――もいるかもしれないが、FRB議長に備わる力の大きさについて疑問を呈することができる人はそうそういないだろう。今後数年間のアメリカの失業率を予測できるシンプルなモデルをお探しのようなら、今ここでそれを紹介して差し上げよう。この先の失業率は、グリーンスパンが望む水準に落ち着くと考えてほぼ間違いないのだ(グリーンスパンも神ではないので、彼が望む水準から若干ずれる可能性も考慮する必要はあるけれど)。

グリーンスパン(FRB議長)の役割を考慮に入れると、マクロ経済の働きに関する「古典派」のヴィジョンの多くが息を吹き返すことになる。とは言っても、そっくりそのままというわけじゃない。「古典派」のヴィジョンでは、(市場の)「見えざる手」が経済を長期的には――とは言っても、具体的にどのくらいの長さの期間かとなると特定されることはないけれど――完全雇用に導くと見なされていたが、現実においては、FRBの「見える手」が経済を2〜3年のうちにNAIRU(非インフレ加速的失業率)に導く役割を果たすのである。そのためには、失業率がNAIRU(あるいは、目標とする失業率)に達した時に総貯蓄と総投資が等しくなるように金利を操作する必要があるが、FRBが金利をそのように操作するようなら、「貯蓄のパラドックス」や「寡婦の壺」理論をはじめとした初期のケインジアンの主張が妥当性を失うことになるのである。例えば、貯蓄率が上昇したら、(貯蓄のパラドックスが説くところとは反対に)総投資は増えるだろう。なぜなら、FRBが金利を下げるだろうからである。

何らかの理由で総需要が変化しても、FRBが金利を操作してそれを打ち消す――そのため、雇用量は変わらない傾向にある――というアイデアは、少なくとも私にとってはシンプルでもっともなものに思える。しかしながら、学術的な世界の外に目をやると、このアイデアを受け入れている人はごくわずかというのが実状のようだ。例えば、NAFTA(北米自由貿易協定)の是非を巡る議論では雇用への影響が焦点になったが、アメリカとメキシコ間の貿易収支がどうなろうとも、今後10年間のアメリカの失業率はFRBが望む水準に概ね落ち着くだろうと私は当然のように考えていたが、世間はそう考えていなかったのだ(こんなことがあった。1993年に開催されたとあるパネルディスカッションの席上でまったく同じことを口にしたら、それを聞いていたパネリストの一人――NAFTAの支持者だったみたいだ――が激昂して、「そんなことを言うから経済学者は嫌われるのだ!」と宣ったのだ)。

その代わり、世間――悲しいかな、自分のことを物知りだと任じている知識人の多くもその中に含まれる――の「常識」になっていたのは、劇画化されたケインズ主義の一種だった。その特徴は、「消費の減少(貯蓄の増加)は、いついかなる時も悪である」というアイデアを無批判に受け入れているところにある。アメリカではインフレや財政赤字の問題がここしばらくは後景に退いているが、その機に乗じるかのようにして、俗流ケインズ主義が劇的なかたちでカムバックを果たしたのだ。先月のコラムで取り上げたばかりのウィリアム・グレイダー(William Greider)の新著でも、「貯蓄のパラドックス」とか「寡婦の壺」理論とかが主要なテーマになっているし――とは言っても、グレイダーがそのアイデアの出所をわかっているかとなると疑わしい。「知的な面で誰からも影響を受けていないと信じ切っている実践的な人間も、今は亡き経済学者の奴隷であるのが普通である」とはケインズの言だ――、 ジョン・ジュディス(John B. Judis)がニュー・リパブリック誌で似たような主張を開陳している姿も目に入る。これくらいなら驚くほどじゃないかもしれないが、「貯蓄の増加は、経済成長を阻害する」というアイデアがビジネスウィーク誌でも真剣に扱われているとなると(“Looking for Growth in All the Wrong Places,” February 3, 1997)、俗流ケインズ主義が一つの文化現象になりつつあると考えざるを得ないだろう。

「貯蓄の増加は、経済成長を阻害する」という主張――「貯蓄は、経済が成長するために決定的に重要な要因だと語る人がいるが、そこまでじゃない」という主張はある程度理にかなっているが、「貯蓄の増加は、経済成長を阻害する」という主張とは別物だ――を正当化するためには、FRBは無力だということを説得的に示さなければならない。何らかの理由で(事前的な)貯蓄が増加したら、FRBが金利を引き下げても総投資は増えないということを論証せねばならないのだ。

金利は、総投資に影響を及ぼす数ある要因のうちの一つに過ぎないと語るだけでは十分じゃない。そのような反論は、アクセルペダルを踏み込む力の強さは、車のスピードに影響を及ぼす数ある要因の一つに過ぎないと語っているようなものだ。「それで?」としか思わない。アクセルペダルをどれだけ強く踏み込むかは、自分で自由に調節できる。何か異常がない限りは、ペダルを踏み込む強さを調節して、車のスピードを「これくらいなら安全に運転できるだろう」と自分なりに考える速度に制御できる。それと同様に、グリーンスパンは、お望み通りに金利を自由に調節できる(FRBが望みさえすれば、一日のうちにマネーサプライの規模を倍増させることだってできる)。何か異常がない限りは、金利を調節して、雇用量を「これくらいならインフレも加速しないだろう」と考える水準に持っていくことができるのだ。

「貯蓄の増加は、経済成長を阻害する」という主張を正当化するためには、次のどちらかが成り立つことを示さねばならない。金利が総需要に対して何の影響も持たないことを示すか――本気でそう信じているなら、全米ホームビルダー協会(NAHB)に伝えてみるといい――、貯蓄率があまりに高すぎて、FRBが金利をゼロ%近くにまで引き下げても総貯蓄と総投資のギャップを埋められないことを示さねばならないのだ。1930年代のアメリカだったり――当時のTビル(財務省短期証券)の利回りは0.1%を下回っていた――、現在の日本だったり――現在の日本では、金利は1%程度――のように、後者のケースが妥当する例もなくはない――とはいえ、日本銀行は日本経済を停滞から救い出せるだけの力を依然として持っていると思うし、日銀の消極的な態度はかなりの不正行為(malfeasance)にあたると思う。しかし、この件については、別の機会に取り上げるとしよう――。しかしながら、住宅ローンを借りている銀行から自宅に通知書が毎月送られてくるのだが、それを見ると金利はプラスで、下がる余地はまだかなりあるようだ。ありがたや。

ともあれ、そこまでこだわる必要もないかもしれない。というのも、「貯蓄の増加は、経済成長を阻害する」と語っている人たちは、FRBが無力だとは思っていないようだからだ。それどころか、これまでの長きにわたってアメリカ経済のパフォーマンスが低調だったのは、全部FRBのせいだと語っていたりするのだ。グリーンスパンが腰を上げさえすれば、今の苦境から抜け出すことができるのにと語っていたりするのだ。

2月3日付のビジネスウィーク誌から引用するとしよう。

「貯蓄が増えると、景気が減速する可能性が高い」と語る「つむじ曲がり」の経済学者もいる。貯蓄が増えると、投資が活発になるのではなくむしろ落ち込むというのがその理由だ。「投資を刺激する必要があります」と語るのは、テキサス大学のジェームス・ガルブレイス(James K. Galbraith)。ケインジアンを自任する経済学者だ。ガルブレイスによると、経済成長を促すには金利を引き下げるべきだという。

つまりは、こう主張していることになる。貯蓄が増えると、景気が悪化する。FRBが金利を引き下げても、総投資が増えないからだ。その代わり、FRBは、金利を引き下げて経済成長を促すべきだ。金利を引き下げれば、総投資が増えて経済成長が促されるだろうから。

・・・何か見過ごしてる?

2012年10月11日木曜日

Paul Krugman 「デレバレッジ・ショックと財政乗数」(2012年10月9日)

Paul Krugman, “Deleveraging Shocks and the Multiplier (Sort of Wonkish)”(The Conscience of a Liberal, October 9, 2012)


IMFが財政乗数の推計について懺悔していて、ジョナサン・ポルテス(Jonathan Portes)――1週間後にロンドンで財政政策について討論する予定になっていて、彼とは共同戦線を張ることになりそうだ――がそのことについてコメントを加えている。世界中の多くの政策当局者は、財政乗数の値が1を大きく下回るという前提で行動してきたが、経験に照らすなら財政乗数の値は1よりも大きいようだというのだ。

あえて指摘しておかないといけないと思うことがある。財政乗数の値が大きくなる理屈と、危機が起こる理屈との間には非常に密接なつながりがあるのだ。信用バブルが崩落した後には、財政乗数の値が大きくなると予想されるのだ。それだからこそ、信用バブルが崩落した後にどうにでもなれとあきらめてしまうと――もっとまずいことには、財政緊縮に乗り出してしまうと――、ひどい害が招かれてしまうのだ。

今みたいな混乱に陥ることになってしまったのは、どうしてなんだろう? 借り入れに対して過度に強気な姿勢が続いていたかと思ったらある日突然目が覚めたというのが、シンプルだけど概ね正しい筋書きだ。家計が負う債務が急速に膨れ上がって、ある時突如として借り過ぎだと悟られたのだ。




マクロ経済学的な観点からすると見逃せないのは、借り入れとデレバレッジ(債務の圧縮)が景気に及ぼす効果が非対称ということだ。他の事情が一定で変わらないようなら、借り入れが増えると総需要も増える。でも、そのようにして総需要が増えても中央銀行がその気になれば相殺できるし、その気になって相殺するのが通常だ。金利を引き上げるのはいつだって可能だからだ。その一方で、デレバレッジが景気に及ぼす効果を相殺するのは、借り入れが景気に及ぼす効果を相殺するのと同じくらい造作ないかというと、そうじゃない。金利を引き下げて応じるという手があるが、ゼロ%までしか下げられない。非伝統的な金融政策で応じるという手もあるが、非伝統的な金融政策については異論もあって、その効果も不確かなところがある(だからといって、非伝統的な金融政策には手を付けるなかれと言いたいわけじゃない)。

つまりは、借り入れが急速に膨張していたのが一転して、誰も彼もがデレバレッジ(債務の圧縮)に勤(いそ)しむようになると、総需要の不足が長引いてしまう可能性があるのだ。通常の金融政策によってはそのことを解決できない可能性があるのだ。僕が言うところの「不況の経済学」が当てはまる状況に陥ってしまうのだ。

信用バブルが崩落した後に財政乗数の値が通常よりも大きくなるのも同じ事情が絡んでいる。通常であれば、拡張的な財政政策は、金融引き締め(金利の引き上げ)によって相殺される一方で、緊縮的な財政政策は、金融緩和(金利の引き下げ)によって相殺される。通常の経験に基づいて導き出された財政乗数の推計値が小さいのもそのためなのだ。しかしながら、誰も彼もがデレバレッジに勤しむせいで「流動性の罠」に陥ってしまうと、金融政策によって財政政策の効果を打ち消すことができなくなる。

「流動性の罠」に陥ってしまったとしたら、財政乗数の値はどれくらいになると予想されるだろうか? 答. 1より大きい。

その理由を探るために、まずは摩擦の無い世界を想定してみるとしよう。つまりは、消費者が将来のことを完全に見通すことができて(完全予見の仮定)、誰もが資本市場に自由にアクセスできる(資本市場の完全性の仮定)と想定するとしよう。摩擦の無い世界では、財政乗数の値は1になるはずだ。政府支出が変化しても、消費支出は増えも減りもしないはずだ。それゆえ、政府支出が増えるのと同額だけGDPが増えるはずだ。その理由は? 政府支出が増えると、今の時点で所得が増えるけど、それと同時に将来における税負担も増えるからだ。それら2つの効果がちょうど打ち消し合うことになるのだ。

現実に近付けて摩擦を付け加えてみるとしよう。家計は流動性制約下にあるか、今の所得がどれくらいかに照らして消費のために使う金額を決めるような経験則(rules of thumb)に従っているとしよう――ところで、エガートソン(Gauti Eggertsson)との共著論文でも指摘したが、債務ないしはデレバレッジを組み込んだモデルを使うというのは、多くの家計が流動性制約下にあると想定していることを意味するのだ――。そのような摩擦が存在するようなら、政府支出が増える結果として今の時点で所得が増えたら、消費支出も同じようにいくらか増えるだろう。反対に、政府支出が減る結果として今の時点で所得が減ったら、消費支出も同じようにいくらか減るだろう。つまりは、財政乗数の値が1よりも大きくなるのだ。

マーケットからの「信頼」がどうのこうのという意見があるかもしれない。政府支出が変化したとして、それが将来における政府支出のもっと大きな変化の前触れであるとみんなが信じるようなら、先の結論もひっくり返るかもしれない。でも、財政刺激策が試みられたとして、将来的に何かもっと大きな変化があるに違いないとみんなが信じるかというと、そんなことは到底ありそうにない。これまでを振り返ると、財政刺激策はあくまでも一時的な措置でしかなかったからだ。財政危機に陥って慌てて財政緊縮策に乗り出す場合にしても、将来的に何かもっと大きな変化があるに違いないとみんなが信じるかというと、かなり疑わしい。

そんなわけで、財政乗数の値が大きいからといって驚くべき理由なんてないのだ。今のような危機に陥ったら、そうなるはずと予測できたことなのだ。財政乗数の値が1を大きく下回るなんていう正当化し得ない想定が受け入れられたせいで、危機の深刻化に拍車がかかってしまったのだ。

2010年11月19日金曜日

Paul Krugman 「債務、デレバレッジング、流動性の罠」(2010年11月18日)

Paul Krugman, “Debt, deleveraging, and the liquidity trapVOX, November 18, 2010)

先進国で交わされている政策論議で主役を演じているのが「債務」である。不況やデフレーションを避けるために拡張的な財政政策を試みよと主張する論者がいる一方で、債務(家計による借り過ぎ)によって引き起こされた問題を債務(政府債務)をさらに増やして解決できるわけがないと主張する論者もいる。本稿では、債務ショックとそれへの政策対応について理論的に分析を加えることが可能な新たなモデルの核となるロジックを説明する。異質なエージェント(主体)を導入することによって、「貯蓄のパラドックス」だけでなく、サプライサイドにおける新たなパラドックス――「精励のパラドックス」&「伸縮性のパラドックス」――も成り立つことが見出されている。大半の経済学者が考え違いをしていて、そのせいでアメリカやEUにおいて政策が間違った方向に誘導されてしまう可能性があるのだ。   

アメリカやヨーロッパを悩ましている経済問題をめぐる議論で一番頻繁に登場する単語と言えば、「債務」(“debt”)で間違いないだろう。2000年から2008年までの間に、アメリカでは家計債務の対可処分所得比が96%から128%に上昇した。イギリスの場合は、105%から160%に上昇。スペインの場合は、69%から130%に上昇。急速に累積した債務が危機のお膳立てをしたとも言われているし、過剰な債務が景気の足を引っ張り続けているとも言われている。


フォーマルなモデルはいずこに?

「債務」に対して熱い注目が寄せられている昨今だが、経済学の世界における長い伝統を想起せずにはいられない。フィッシャー(Irving Fisher)のデット・デフレ理論(1931年)から、再注目されているミンスキー(Hyman Minsky)の金融不安定性仮説(1986年)を経て、クー(Richard Koo)のバランスシート不況論(2008年)へと至る伝統だ。世の中で繰り広げられている経済談義の中で「債務」に注目が寄せられていて、景気を落ち込ませる重要な要因として「債務」に着目する長い伝統があるにもかかわらず、どうしたことか見当たらないのだ。政策の現場では「債務」におびただしい関心が寄せられているというのに、「債務」と絡めて経済政策――とりわけ、財政政策および金融政策――について理論的な分析を加えられるモデルが見当たらないのだ。多くの分析(僕のも含めて)は、未だに代表的個人モデル(representative-agent model)を使っている。債務者もいれば債権者もいるという事実がどういう結果をもたらすかを扱いようがないというのに。

エガートソン(Gauti Eggertsson)と一緒に進めている研究(Eggertsson and Krugman 2010)で、そのあたりの欠陥を修正するシンプルなモデルを提供しようと試みている。徹底的にシンプルなモデルだが、世の中が今まさに直面している問題について重要な洞察を与えてくれるに違いないと思っている。そのモデルによると、現実の政策を支えている通念の多くは今みたいな状況では間違っていることが示唆されるのだ。


モデルの核となるロジック

我々のモデルは、標準的なニューケインジアンモデルと構造をほぼ共有しているが、代表的個人の代わりに、「気長な」(“patient”)タイプと「気短な」(“impatient”)タイプの2タイプの主体がいると想定している。「気短な」タイプが「気長な」タイプからお金を借りるのだ。ただし、借り入れ可能な額には上限がある。これくらいなら貸しても安全だろうという暗黙の認識によって上限が決まってくるのだ。

「デレバレッジ・ショック」の結果として、今まさに世の中が直面しているのとそっくりの危機が起こる。具体的な理由はどうであれ、借り入れ可能な額の上限が突如として引き下げられる――「ミンスキー・モーメント」(“Minsky moment”)の到来――。すると、過剰な(借り入れ可能な額の上限を超える)債務を負っている債務者は、支出の急激な切り詰めを強いられる。不況に陥るのを防ぐためには、別の主体が支出を増やさないといけない。そうなるように、例えば金利を下げないといけない。でも、デレバレッジ・ショックがあまりにも強烈なようだと、金利をゼロ%にまで下げても足りないかもしれない。デレバレッジ・ショックが強烈だと、いとも容易く「流動性の罠」に陥ってしまう可能性があるのだ。

それに続いてフィッシャー流のデット・デフレーションのメカニズムも発動するかもしれない。返さないといけない債務の額が名目単位(貨幣単位)で決められていて、デレバレッジ・ショックのせいで物価が下落するようなら、債務の実質的な負担が増すことになる。その結果として債務者はさらに支出を切り詰めないといけなくなって、そのせいで当初のショックが増幅されることになるのだ。フィッシャー流のデット・デフレーションのメカニズムが発動するようだと、総需要曲線は右下がりではなくて右上がりになる可能性がある。物価が下落すると、総需要が減る可能性があるのだ。

デレバレッジ・ショックが強烈なようだと、通常のルールの多くが通用しなくなる「真っ逆さまの世界」に誘われるというのが我々のモデルから得られる一般的なメッセージである。その名は知られているものの、長らく無視されてきた「貯蓄のパラドックス」が成り立つようになるのだ。一人ひとりが貯蓄を増やそうとすると、全体としての総貯蓄が減ってしまうのだ。それだけじゃない。潜在GDPが高まると現実のGDPが減ってしまうという「精励のパラドックス」(“paradox of toil”)も成り立つようになるし、労働者が名目賃金の引き下げをすんなり受け入れるようになると失業が増えてしまうという「伸縮性のパラドックス」(“paradox of flexibility”)も成り立つようになるのだ。

しかしながら、我々のモデルのおかげで靄(もや)が晴れるようになるのは、財政政策の分析においてこそだと思われるのだ。


財政政策に対するインプリケーション

失業を減らすために拡張的な財政政策を試みよと主張すると、債務のことを持ち出して反論してくる人がいる。債務によって引き起こされた問題を債務をさらに増やして解決できるわけがないというのだ。家計が借金し過ぎたのが問題の元凶だというのに、政府にもっと借金しろとでも?

どこが間違っているかというと、どの債務も同じと暗に想定しているところだ。お金を借りるのが誰かというのは重要じゃないと想定しているのだ。でも、そんなことはあり得ない。誰がお金を借りようが関係ないとしたら、そもそも債務が問題を引き起こすことはないだろう。マクロで見ると、債務というのは、我々が自分から借りているお金みたいなものだ。アメリカは中国だとかからお金を借りてるじゃないかというのはその通りだが、そのことは肝心じゃない。海外からの借り入れを無視するか、世界経済をひっくるめて考えれば、債務の総計は純資産の総計に何の影響も及ぼさない。誰かの債務は、他の誰かの資産だからだ。

債務の総計が重要になるとしたら、その理由はただ一つだけだ。誰が債務を負っているかによって違いが出てくるからだ。高額の債務を負っている主体が直面する制約と、低額の債務を負っている主体が直面する制約が違っているからだ。どの債務も同じじゃないのだ。だからこそ、誰かが過去に借り過ぎたのが原因で生じた問題を他の誰かが今から借り入れを増やして解決できる可能性があるのだ。我々のモデルでそのことが明瞭に示されているのだ。我々のモデルによると、高額の債務を負っている民間の主体がバランスシートの改善(デレバレッジ/債務の圧縮)に励んでいても、政府が国債を発行して歳出を増やすと、失業やデフレーションを避けることが少なくとも理論的に可能になるのだ。さらには、デレバレッジ・ショックが原因で起きた危機が過ぎ去ると、国債を償還する余裕が生まれることも示されているのだ。

つまりは、債務の役割と債務者が直面する制約を真摯に受け止めると、世の中が今まさに直面している問題についてだけでなく、あり得る解決策についても見晴らしがずっとよくなるのだ。最後にもう一つ。我々のモデルによると、政策当局者に何をすべきかを勧告している通念は、ひどく間違っている可能性があるのだ。


<参考文献>

●Eggertsson, Gauti and Krugman, Paul (2010), “Debt, Deleveraging, and the Liquidity Trap(pdf)”, mimeo
●Fisher, Irving, (1933), “The Debt-Deflation Theory of Great Depressions(pdf)”, Econometrica, Vol. 1, no. 4.
●Koo, Richard (2008), The Holy Grail of Macroeconomics: Lessons from Japan’s Great Recession, Wiley.
●Minsky, Hyman (1986), Stabilizing an Unstable Economy, New Haven: Yale University Press.

2010年11月1日月曜日

Paul Krugman&Maurice Obstfeld&Marc J. Melitz 「『流動性の罠』と為替レート」(2010年)

Paul Krugman&Maurice Obstfeld&Marc J. Melitz, “Liquidity Trap”(in 『International Economics: Theory and Policy (9th)』, Ch. 17, pp. 451-454)


1930年代に長きにわたる大恐慌(Great Depression)に襲われたアメリカでは、名目利子率がゼロ%にまで下がった。経済学者によって「流動性の罠」と呼ばれている状況に陥ったのである。先の章でも述べたように、貨幣は、資産の中で流動性が最も高くて、どんな財とでも容易に交換できるというユニークな性質を備えている。「流動性の罠」が「罠」たるゆえんは、名目利子率がゼロ%にまで下がってしまうと、中央銀行がマネーサプライを増やしても――つまりは、経済に流動性を注入しても――名目利子率をそれ以上引き下げられなくなる(マイナスにできない)からである。そうなる理由は、名目利子率がマイナスになると、債券よりも貨幣を保有する方が断然得になって、債券の需給が一致しなくなる(債券の超過供給が発生する)からだ。名目金利がゼロ%になるというのは、借り手にとっては喜ばしいかもしれないが――お金を借りても金利を払わなくていいのだから――、マクロ経済政策を司る政策当局者にとっては悩みの種なのだ――標準的な金融緩和によって景気を上向かせるのが不可能になってしまうかもしれないのだから――。

「流動性の罠」は過去の遺物というのが経済学者の考えだった。1990年代の後半に日本経済が「流動性の罠」に陥るまでは。日本銀行によって名目利子率が劇的に引き下げられたものの、日本経済は少なくとも1990年代半ば以降から停滞に陥ったままで、デフレ(物価の下落)にも苦しめられた。1999年までに短期名目利子率が実質的にゼロ%に達した。2004年9月時点のオーバーナイト金利――金融政策によって直接的に影響を及ぼせる金利――は、わずか0.001%だったのだ。

日本銀行は2006年にゼロ金利政策を解除して、オーバーナイト金利を徐々に引き上げ始めた。景気回復の兆しが見られたからである。しかしながら、2008年後半に世界的な金融危機が勃発すると、オーバーナイト金利を再びゼロ%に引き下げた。金融危機によって激しく揺さぶられたアメリカでも政策金利がゼロ%にまで引き下げられた。世界中のあちこちの中央銀行も同じく政策金利を劇的に引き下げた。世界中が「流動性の罠」に陥ったのだ。

「流動性の罠」に陥っている状況で中央銀行が直面することになるジレンマについては、国内の名目利子率(R)がゼロ%である場合(R = 0)の金利平価条件を検討すれば一目瞭然となる〔訳注1〕。

R = 0 = R* + (Ee - E)/ E

将来の期待名目為替レート(Ee)は不変だと今のところはとりあえず想定するとしよう。一時的に為替レートを減価させようとして(つまりは、E を一時的に高めようとして)、中央銀行が国内のマネーサプライを増やしたとしたらどうなるだろうか? 金利平価条件に照らすと、R = 0 のようなら、為替レートを減価させられない(E を高められない)ことがわかる。為替レートを減価させるためには、国内の名目利子率(R) がマイナスにならないといけないのだ。 R=0 のようなら、マネーサプライを増やしても、名目為替レートは以下の水準から動かないのだ。

E = Ee /(1 - R*)

名目為替レート(E)はこの水準よりも高くならない(減価しない)のだ。

どういうわけでこんなことになるのだろうか? マネーサプライを一時的に増やすと名目利子率が下落する(ならびに、名目為替レートも減価する)という通常の議論が成り立つのは、債券を保有するのが貨幣を保有するよりも不利にならない限りは、市中に出回る貨幣が増えたらそのまま溜め込まれずに債券の需要が増えると想定されているからである。しかしながら、名目利子率がゼロ%(R=0)になると、貨幣を保有するのも債券を保有するのも変わりがなくなる。貨幣を保有しても債券を保有しても得られる金利は同じ(ゼロ%)だからだ。それゆえ、債券を買って市中に貨幣を注入する買いオペを中央銀行が試みても、市場が撹乱されないのだ。市中に出回る貨幣の量を増やしてもそのまま溜め込まれるので、名目利子率はゼロ%のままで変わらないし、それゆえに為替レートも変化しないのだ。先の章で検討したケースとは対照的に、マネーサプライを増やしても景気に何の影響も及ぼせないのだ。中央銀行が債券を売ってマネーサプライを徐々に減らせばそのうち名目利子率が上昇するだろうが――そうなるのは、貨幣に対する超過需要が発生するからだ。貨幣無しでは経済は回らないのだ――、景気が低迷している中でそんなことをしても助けになんかならないのだ。求められているのは、名目利子率が低下することなのだ。

「流動性の罠」に陥った場合に DD-AA図〔訳注2〕がどのように修正されるかを表しているのが Figure 1 である。DD曲線はこれまでと変わらないが、AA曲線は水平な部分を持つようになる。産出量があまりにも少ないようだと、貨幣の需給が一致する(貨幣市場が均衡する)名目利子率がゼロ%(R=0)になるのだ。AA曲線の水平な部分は、名目為替レートが Ee /(1 - R*)よりも高くなり得ない(減価し得ない)ことを表している。以下の図での均衡は、点1だ。完全雇用が達成される場合の産出量は Yf だが、均衡における産出量は Yf を下回っている。



この何とも奇妙な状況で中央銀行が買いオペを試みたらどうなるかを検討してみるとしよう。Figure 1 では詳しく跡付けていないが、マネーサプライが増えたらAA曲線が右方にシフトするだろう。マネーサプライが増えるとAA曲線が右方にシフトするのは、名目為替レートも名目利子率も変わらないままで貨幣の超過供給が解消されるためには、産出量(所得)が増加して貨幣に対する需要が高まる必要があるからだ。マネーサプライが増えると、AA曲線の水平な部分が右方に伸びることになるだろう。産出量が増えて貨幣に対する需要が増えても、名目利子率がなかなか上昇しないわけである(産出量が増え続けたら、いつかは名目利子率が上昇するだろう。名目利子率が上昇したら、名目為替レートが増価するだろう。AA曲線が右下がりになるわけだ)。驚くべきことに、マネーサプライが増えても均衡の位置は変わらない。点1のままなのだ。金融緩和は、産出量にも為替レートにも何の影響も及ぼさないのだ。「罠」に嵌ってしまっているのだ。

これまでの議論で鍵になるのは、将来の期待名目為替レート(Ee)が不変だという想定だ。中央銀行がマネーサプライを増やすとして、それが一時的な措置ではなく恒久的な措置であると見なされるようなら、現時点においてマネーサプライが増えると同時に Ee も上昇することになる。AA曲線が右上にシフトするのだ。その結果として、産出量が増えるだけでなく、名目為替レートが減価するのだ。しかしながら、これまで日本経済を観察してきたその道の専門家の意見によると、日本銀行の審議委員たちは――1930年代初頭の多くのセントラルバンカーたちと同じように――、円安とインフレを大層恐れていて、日本銀行は円安をいつまでも放置しておこうとはしないだろうというのがマーケットの見立てだという。日銀は一旦は円安を受け入れてもすぐに為替を増価させようとするつもりなんじゃないかと疑われていて、日銀があの手この手で金融政策を緩和しても一時的な措置に過ぎないと見なされているというのだ〔原注1〕。

2010年の今でもなお、ゼロ金利政策が続けられている。日本だけでなくアメリカでもだ。Fedもデフレになるのを防げずに、日本のようになってしまうのではないかと懸念する経済学者もいる。Fedも含めてあちこちの国の中央銀行が「非伝統的な金融政策」に乗り出している。これまでとは異なる資産を買いオペの対象にしているのだ。例えば、長期金利を低下させるために、長期国債を購入するというのもそのうちの一つだ。住宅ローンの金利にも大いに関わってくる。住宅ローンの金利が下がるようなら、住宅需要が盛り上がるだろう。「非伝統的な金融政策」の別の候補としては、外貨を購入するという手がある。次章で詳しく論じるとしよう。


〔原注1〕この点についての詳しい議論は、以下の論文を参照されたい。Paul R. Krugman, “It’s Baaack: Japan’s Slump and the Return of the Liquidity Trap”(Brookings Papers on Economic Activity 2: 1998, pp. 137-205)。以下の論文も参照せよ。Ronald McKinnon&Kenichi Ohno, “The Foreign Exchange Origins of Japan’s Economic Slump and Low Interest Liquidity Trap”(World Economy 24, March 2001, pp. 279-315)。

〔訳注1〕R* は外国の名目利子率。E は自国通貨建ての名目為替レート。ドル円の為替レートだと、例えば「1ドル=100円」のように表される。E の値が上昇すれば円安(減価)を意味していて、E の値が下落すれば円高(増価)を意味する。

〔訳注2〕DD-AA図について簡単に説明しておくと、DD-AA図は短期における財市場と資産市場の同時均衡を表している。DD曲線は、財市場が均衡する名目為替レートと産出量の組み合わせを表している。AA曲線は、外国為替市場を含んだ資産市場が均衡する名目為替レートと産出量の組み合わせを表している。DD曲線が右上がりになるのは、名目為替レートが減価すると、純輸出が増えるおかげで産出量が増加するからである(E↑→Y↑)。(通常の)AA曲線が右下がりになるのは、産出量(所得)が増えると、貨幣に対する需要が増えるからである。Yの増加(Y↑)→貨幣に対する需要の増加→名目利子率が上昇して(R↑)、貨幣の超過需要が解消→(Ee、R*が所与の場合の金利平価条件より)名目為替レートの増価(E↓)という調整が働くのである(Y↑→E↓)。

2010年8月18日水曜日

Paul Krugman 「流動性選好説、貸付資金説、ニーアル・ファーガソン」(2009年5月2日)

Paul Krugman, “Liquidity preference, loanable funds, and Niall Ferguson (wonkish)”(The Conscience of a Liberal, May 2, 2009)


ジョー・ノセラ(Joe Nocera)が木曜日に行われたイベント――The New York Review of BooksとPEN World Voicesがスポンサーで、僕も参加した――について記事を書いているが、イベントの最中に僕が一番ガックリさせられたことには触れられていない。僕らが生きているのは「マクロ経済学の暗黒時代」で、これまでに苦労して獲得されてきた知識が忘れ去られてしまっていることを示すさらなる証拠を目の当たりにしたのだ。

その証拠というのは、財政拡張策は景気を冷え込ませるというニーアル・ファーガソン(Niall Ferguson)の「説明」だ。財政拡張策は名目金利を上昇させるだろうからというのがその理由だ。ファーガソンの発言だったと思う(何しろ有名人がたくさんいたので、誰がどの発言をしたのか区別するのが難しくて)。ともあれ、あんな発言を耳にするというのは本当に残念なことだ。学問的に洗練されていると思っている当世の人たちよりもジョン・ヒックス(John Hicks)の方が1937年の時点(pdf)でこの問題についてずっとよく理解していたわけだから。

今のような苦境に陥っているのはなぜかというと、世界的に貯蓄が過剰だからだと考えられるわけだが、そのことを再度説明してみるのも有益かもしれない。なぜなら、世界的に貯蓄が過剰なようだと、財政拡張策が景気を刺激しない限りは名目金利は上昇しないだろうからだ。

ファーガソンが考えていることを僕なりに推し量ると、利子率の水準は「貯蓄の供給」と「貯蓄に対する需要」によって決まると考えているんだと思う。いわゆる「貸付資金」(“loanable funds”)説と呼ばれているやつで、どのテキストにも載っている。僕が書いたテキストにも載っている。図にすると以下のようになる。




S は貯蓄。I は投資支出。r は利子率だ。
 
完全雇用が達成されないでいる可能性を考慮すると、この図は不完全だと指摘したのはケインズだ。その理由は、貯蓄も投資もGDPの水準に依存するからだ。例えば、GDPが増えて所得も増えると、そのうちの一部が貯蓄に回されるだろうから、貯蓄曲線が右方にシフトする(S1→S2)。GDPが増えると投資需要も増える(投資曲線も右方にシフトする)可能性があるが(I1→I2)、貯蓄の増加が投資の増加を上回るのが通常だ。すなわち、GDPが増えると、利子率は低下する。下図のように。




つまりは、貸付資金の供給(貯蓄)と貸付資金に対する需要(投資)だけに照らして利子率の水準がどうなるかを知ることはできないのだ。GDPの水準がこれこれの時に利子率の水準がこれこれになると教えてくれるのが貸付資金説なのだ。別の言い方をすれば、貸付資金説は、利子率とGDPとの関係を定義しているわけである。下図のように。




この図は、経済学入門の講義でも教えられるIS曲線そのものだ。通常は別のやり方で導出されるけれど。利子率が与えられると投資需要が決まって、投資需要が決まると乗数効果が働いてGDPの水準が決まる。通常であれば、そのようにしてIS曲線が導出される。しかしながら、導き方が違っているだけで、到達する結論は同じだ。同じモデルを違ったやり方で提示しているに過ぎないのだ。

ところで、GDPの水準はどうやって決まるのだろう? そのことを知るためには、「流動性選好」(“liquidity preference”)――「貨幣の供給」と「貨幣に対する需要」――を付け加える必要がある。最近では話をもっと単純化して、中央銀行が利子率を目標とする水準に誘導するためにマネーサプライを調整すると想定されることが多い。言い換えると、中央銀行がIS曲線上の1点を選ぶわけだ。

さて、僕らが置かれている現実に話を移そう。今のFedが選べる最低の利子率はゼロ%だ。でも、利子率をゼロ%にまで下げても完全雇用を達成するには力不足だ。上の図でも示されているように、完全雇用を達成するために必要な利子率の水準はマイナスなのだ。僕だけの意見じゃない。フィナンシャル・タイムズ紙によると、望ましいFF金利(政策金利)の水準はマイナス5%というのがFedで働くエコノミストの推計結果なのだ。

貸付資金説に照らしてこの状況を図示するとどうなるだろうか? 完全雇用が達成されたとした場合の「貸付資金の供給」と「貸付資金に対する需要」を描くと、以下のような感じになる。




利子率がゼロ%でも貯蓄が投資を上回るわけだ。それこそが問題なのだ。

政府が借り入れを増やしたら(財政拡張策に乗り出して財政赤字が拡大したら)どうなるだろうか? 政府が借り入れを増やしたら、過剰な貯蓄の一部が吸収される。その過程で総需要が増える。GDPが増える。少なくとも過剰な貯蓄が吸収し尽くされないでいる間は、政府が借り入れを増やしても民間の支出はクラウドアウト(抑制)されない。言い換えると、「流動性の罠」に陥っている間は、政府が借り入れを増やしても民間の支出はクラウドアウトされないのだ。

政府が大量に借り入れをすることにも問題があるのは確かだ。政府債務の残高が膨れ上がるというのもそのうちの一つだ。そういう問題を軽んじるつもりはない。例えば、アイルランドのように、厳しい不況に陥っているというのに、政府債務の残高が累積しているせいで財政緊縮を強いられている国もある。しかしながら、世界規模での過剰な貯蓄――行き場を求めて彷徨っている過剰な貯蓄――こそが僕らが直面している真の問題であることに変わりはないのだ。

2010年4月11日日曜日

Paul Krugman 「ポール・サミュエルソン ~比類なき経済学者~」(2009年12月15日)

Paul Krugman, “Paul Samuelson:The incomparable economist”(VOX, December 15, 2009)


ハリネズミがいて、キツネがいて、そしてポール・サミュエルソンがいる。

ご存知だとは思うが、アイザイア・バーリン(Isaiah Berlin)が思想家を二つのタイプに分けていて、それを持ち出しているのだ。キツネタイプの思想家はたくさんのことを知っている。その一方で、ハリネズミタイプの思想家はデカいことを一つだけ知っている・・・というやつだ。経済思想家としてのサミュエルソンを人類史上比類なき存在たらしめているのは、彼がキツネでもありハリネズミでもあったという事実にある。デカいことをたくさん知っていたのだ。それらを僕らに教えてくれたのだ。サミュエルソンのようにたくさんの独創的なアイデアに恵まれた経済学者というのは、他に見当たらないのだ。

Google Scholar の助けも少しばかり借りて、サミュエルソンが知っていた(思い付いた)「デカいこと」を以下にいくつか列挙してみるとしよう。「いくつか」と断ったのは、網羅し切れないのがあまりにも明らかだからだ。ともあれ、8つ――8つだって!――だけ選んでみた。どれもこれもその後に膨大な数の後続研究を生み出すきっかけになった偉大な洞察だ。


1.顕示選好(Revealed preference:1930年代に消費者理論の分野で革命が起こった。消費者の選択を説明するには限界効用逓減の法則だけじゃ足りないことがわかってきたからだ。「あの人はAもBもCも選べたのに、BでもCでもなくAを選んだのは、Aが三つの中で一番好きだからに違いない」という単純な命題から実にたくさんの含意を導き出せることを教えてくれたのは、サミュエルソンだった。

2.厚生経済学(Welfare economics): XとYという二つの資源配分を比べて、Xの方がYよりも望ましいというのはどういう意味なんだろうか? サミュエルソンが登場するまでは、その意味するところが曖昧なままに放っておかれていて、所得分配についてどう考えたらいいのか五里霧中の状態だった。「倫理的な観察者」(ethical observer)による再分配という発想を導入して、社会厚生(social welfare)という概念を筋道立てて理解するにはどうしたらいいかを教えてくれたのがサミュエルソンだった。それと同時に、現実の世界において社会厚生という概念が限界を抱えていることを教えてくれたのもサミュエルソンだった。 現実の世界には、倫理的な観察者なんていないからだ。

3.貿易の利益(Gains from trade): 国際貿易は利益をもたらすというのはどういう意味なんだろうか? いつだってそう言えるんだろうか? これらの問いについて考えるための出発点になっているのが、「貿易の利益」についてのサミュエルソンの分析だ――その土台になっているのが、①の顕示選好の方法と、②の社会厚生についての分析――。「市場の歪み」についてのバグワティ(Jagdish Bhagwati)やジョンソン(Harry Johnson)の分析も、デアドロフ(Alan Deardorff)による比較優位の一般化も、この方面のどれもこれもがサミュエルソンの洞察に負っているのだ。

4.公共財(Public goods): 特定の財やサービスが政府によって供給されなければならないのはどうしてなんだろう? 市場に供給を委ねるのが適している財(その数はごく限られている)とそうじゃない財の違いはどこにあるんだろう? これらの問いについて考えるための扉を開いたのが、サミュエルソンが1954年に書いた「公共支出の純粋理論」(“Pure theory of public expenditure”)だ。

5.生産要素の賦存比率と国際貿易(Factor-proportions trade theory):生産要素の賦存状態と比較優位との関係について語るにしろ、国際貿易が所得分配に及ぼす影響について心配するにしろ、1940年代1950年代にサミュエルソンが手掛けた研究がその根拠になっている。サミュエルソンは、オリーン(Bertil Ohlin)&ヘクシャー(Eli Heckscher)の曖昧で混乱気味のアイデアを磨き上げて、切れ味鋭いモデルを組み立てた。そのモデルは、その後の一世代にわたって国際貿易理論の分野で支配的な地位を占めることになったし、現代の貿易理論の重要な構成要素の一つであり続けている。

6.為替レートと国際収支(Exchange rates and the balance of payments):ここでちょっと個人的な話をさせてもらいたいと思う。国際貿易について研究している学者の大半は、為替レートや国際収支の問題について語ろうとすると、話の筋を見失ってしまいがちになる。これまでにも何度か指摘したことがあるが、国際貿易という実物経済を研究対象にしている学者は、(貨幣的側面を研究対象にしている)国際マクロ経済学をブードゥー(いかさま)経済学と見なす一方で、国際マクロ経済学を研究している学者は、国際貿易論を退屈で現実との関わりが薄い学問と見なす傾向にある (機嫌が悪い時には、どちらの言い分も正しいと言って済ませている)。 僕がそのような対立から自由になれたのは、1977年に書かれたドーンブッシュ&フィッシャー&サミュエルソンの共著論文を読んだおかげだ。リカードの貿易理論に分析が加えられているこの論文では、国際貿易論と国際マクロ経済学を融合するにはどうすればいいかが示されている。為替レートと国際収支を結び付けて論じるにはどうすればいいかが示されている。「貿易の利益」が発生する可能性だけでなく、失業が発生する可能性も同時に考慮するにはどうすればいいかが示されている。

後になって知ったのだが、サミュエルソンが(国際貿易論と国際マクロ経済学の融合という)この課題を解決するためのとっかかりを掴んだのは1977年の共著論文よりもずっと前に遡るようだ――1977年の共著論文での整然とした定式化が最後の一歩を踏み出すのに役立ったようだけれど――。サミュエルソンは、1964年に「貿易問題に関する理論的覚書」(“Theoretical notes on trade problems”)と題された論文で次のように述べている。「雇用量が完全雇用の水準を下回っていて、国民純生産が最適な水準にないようなら、通常であれば間違っている重商主義的な議論のどれもこれもが妥当性を持つようになる」。これに続けて、『経済学』の当時の最新版(第6版)の付録で「通貨の過大評価が自由貿易擁護論者にとって面倒な問題を引き起こすことを指摘している」と述べている。完全雇用を達成するための方法としてサミュエルソンが提示したのが貿易の制限・・・ではなく、通貨の過大評価を終わらせること(為替レートの切り下げ)だった。サミュエルソンは、まっとうなマクロ経済政策こそがまっとうなミクロ経済政策を可能にする前提条件だと見なしていたわけである。この点については、後でも論じるとしよう。

7.世代重複モデル(Overlapping generations):サミュエルソンが1958年の論文で提唱した世代重複モデルは、社会保障だとか家計の債務だとかあれやこれやについて考えるための基礎的な枠組みを提供している。世代重複モデルを欠いたマクロ経済学というのを想像するのは難しい。

8.ランダムウォーク仮説(Random-walk finance):将来を見据えた投資家たちの行動が資産価格のランダムな変動を生むことを証明したのもサミュエルソンだ。現代のファイナンス理論の多くの出発点になっている洞察だ。


先にも述べたように、挙げようと思えばもっと挙げられるだろうが、これら8つの「デカいこと」のどれであれ、それ単独でサミュエルソンの名を偉大な経済学者として歴史に刻むのに十分だっただろう。こんなにたくさんの「デカいこと」をやってのけた経済学者は、サミュエルソン以外に誰一人として――誇張でも何でもなく、本当に誰一人として――いなかったのだ。

その秘訣は何だったんだろう? 誰よりも頭が良かったというのも勿論あるだろう。でも、それだけじゃなくて、他にも秘訣があるんじゃないかと思う。二つくらい。

一つ目は、「遊び心」だ。サミュエルソンの文章を読んでいると、堅苦しい論文を書き上げるために机の前に座している姿ではなく、楽しみながらアイデアを紡ぎだしている姿が思い浮かんでくる。遊び心が洗練されたおふざけのかたちをとることもある。例えば、先にも触れた1958年の論文(世代重複モデルが提唱されている論文)の注9を見てみるといい。こう書かれている。「確かに(Surely)、“確かに”(“surely”)という単語から始まる文の最後がクエッションマークで終わるというのは、普通であればあり得ないことである? しかしながら、一つの論文には一つのパラドックスで十分なのであって・・・(略)・・・」。遊び心があったからこそ、想像力(imagination)が解放されたし、創造力(creativity)が刺激されたと思われるのだ。

二つ目は、現実に根をおろそうと常に心掛けていたことだ。サミュエルソンは、大学という象牙の塔に閉じこもらずに、現実の出来事や現実の政策に強い興味を示し続けた。それに加えて、株式投資にも手を出した。理論が現実から遊離しないように心掛けていたのだ。

最後になるが、サミュエルソンが経済政策の理論の面で果たした偉大な貢献――いわゆる「新古典派総合」――について触れるとしよう。サミュエルソンは、大恐慌の赤ん坊(Depression baby)として知的修練を積んだ。サミュエルソンが学生として学んだのは、大量の失業が発生した大恐慌の真っ只中だったのだ。彼が執筆したテキスト――『経済学』――は、ケインジアン流の思考法を世の中に広めた。サミュエルソンが生涯を通じて決して忘れなかったように、市場は時にひどい機能障害に陥る可能性がある。そうだとすると、市場の利点を説く経済理論を現実に当てはめるにはどうしたらいいのだろうか?

まっとうなマクロ経済政策ありき、というのがサミュエルソンの答えだった。まず何よりも、金融・財政政策を使って完全雇用を達成しなければいけない(僕もあちこちで指摘してきたが、サミュエルソンは、今日の状況を予見していたかのように金融政策の限界を認識していた)。為替レートを調整して価格競争力を維持しなければいけない。そうしてはじめて市場の利点が発揮され得るというわけだ。

現代の経済学者のあまりにも多くが忘れ去ってしまった教訓だ。完全競争市場モデルの美しい数学的外観に見惚れてしまっているうちに忘れ去られてしまったのだ。市場はデカいことをやり遂げられる仕組みではあるが、政府による積極的な介入によってサポートされる必要があるというサミュエルソン流の現実主義が、今日ほど求められている時期は他にないだろう。

比類なき経済学者であるポール・アンソニー・サミュエルソンを称えようじゃないか。彼に比肩し得るような経済学者はこれまでに現れなかったし、今後も決して現れないだろう。