Peter T. Leeson, “Superstition and Development”(Aid Watch, August 23, 2010)
ジプシー(ロマ)の間では次のような迷信が信じられている。人間の下半身は気付かぬうちに穢される恐れがあり、超自然的な力の働きによって超自然的な穢れが人から人へと伝染していくことがある。そして、ジプシー以外の人々は内面的に毒されている、と。
このような一連の迷信は決して非合理的なわけではなく、ジプシー社会の秩序を維持する上で中心的な役割を果たしている。ジプシーは仲間うちでの協調を支えるために政府によって作り上げられた法制度(訳注;以下では、「公的でフォーマルな制度」と訳すことにする)に頼ることができない状況に置かれており、彼らの間でなされる経済的・社会的なやり取りは公的な法律の範囲の外にあるものとしてあるいは違法なものとして取り扱われている。しかしながら、法と秩序に対する欲求の強さに関してはジプシーもそれ以外の人々に少しも劣るところはない。
そこでジプシーは仲間内での秩序を維持するために迷信の力を借りることになる(原注1)。冒頭で触れた迷信、すなわち、ジプシー以外の人々は内面的に毒されており、超自然的な穢れは人づてに伝染する、という信念について考えてみることにしよう。ジプシーは(経済的・社会的な)やり取りの相手側(ただし、自分と同じジプシー)の裏切り行為を抑えるために政府に頼ることはできない。そのため、ジプシーは社会的に見て破壊的な(非生産的な)行為を抑えるために村八分(ostracism)の脅し(訳注;裏切り行為に手を染めればジプシー社会から永久に追放するぞ(ジプシー社会の人間はもう誰もお前とはこの先取引することはないぞ)、との脅し)に訴えざるを得ないことになる。
しかしながら、ここに問題がある。それは、ジプシー社会はジプシー以外の人々からなる大海の上に浮かぶ小島のようなものだということである(訳注;ジプシー以外の人々と容易に接触できる状況にある、ということ)。裏切り行為を犯して追放されたジプシーが外部の大きな社会に溶け込み、その社会の人々(ジプシー以外の人々)と接触することができるようであれば、村八分は大した罰とは言えなくなる。そこでジプシーは、村八分の脅しに実効性をもたせるために、ジプシー以外の人々は内面的に毒されており、彼らの内面における毒は伝染性があり、彼らと接触すれば超自然的な力の働きによって自らも毒されて(穢されて)しまう、との強固な信念を生み出すに至ったのである。
このような迷信が信じられている状況では、村八分の脅しは真実味を帯びたものとなる。というのも、裏切り行為はジプシー社会・非ジプシー社会を問わず全ての社会からの追放を意味することになるからである(訳注;裏切り行為を行うとその後は非ジプシー社会の人々とのみ付き合わざるを得なくなるが、非ジプシーの人々と付き合うと自らも穢れてしまうと信じられているために、非ジプシーの人々と付き合うわけにもいかない)。村八分の脅しと迷信の力が相まって、ジプシー社会では社会的に見て破壊的な行為が防がれているわけである。おそらく意図しないかたちでではあろうが、ジプシーの間で信じられている迷信は(ジプシーの仲間うちの間での)法と秩序の維持に貢献しているわけである。
私たちはジプシーのような「他者」が信じる迷信をつい見下してしまいがちだが、ヨーロッパの歴史もまた迷信の宝庫であることがわかる。そして、かつてヨーロッパで信じられていた迷信の中には社会的に有益な役割を果たしていたものも存在していた可能性がある。例えば、中世ヨーロッパの裁判では、犯罪の被告人が有罪か無罪かがはっきりしない場合、被告人に対して試罪法(ordeal)が執り行われた(原注2)。例えば、熱湯を用いた試罪法では、被告人はぐつぐつとお湯が沸き立つ大釜の中に手を突っ込むよう求められる。熱湯に手を突っ込んでから3日後に被告人の腕にひどいやけどや感染症の症状が確認されると、被告人は有罪を宣告されることになる。一方で、被告人の腕に何の異常も表れない場合には、被告人には無罪が言い渡されることになる。こういった試罪法はとある迷信の上に成り立っている。その迷信というのは、被告人が無実であれば、神がその被告人に対して奇跡をもたらし、厳しい試練を無傷のままで潜り抜けることを可能とする、というものである。
ジプシーのケースと同様に、この迷信は一見すると非合理的な信念のように思われるが、じっくりと検討してみると社会的に見て有益な働きをしていることが判明する。仮に被告人に罪の覚えがある場合、自らの腕を熱湯にさらさねばならない恐怖を前にして、彼/彼女は試罪法の受け入れを必ずや拒否することだろう。それというのも、中世のヨーロッパでは、罪の覚えが無い被告人は神によって救われて無罪放免となり、一方で罪の覚えがある被告人は試罪法を通じて罪を犯したことが明らかになる、との迷信が人々に信じられており、そのため罪の覚えがある被告人は試罪法を受ければ腕にやけどを負い、そして有罪を宣告されるはずだ、と考えるからである。罪の覚えがある被告人は、腕にやけどを負うよりは、自ら罪を白状するか告発者と示談に持ち込む方が得策だ、と考えることだろう。
それとは対照的に、罪の覚えが無い被告人は必ずや試罪法の執行を受け入れることだろう。彼らもまた先の迷信-罪を犯していない被告人が試罪法に身を任せた場合、神が彼らの腕をやけどから守り、そのため無罪が証明されるはずだ、との迷信-を信じており、そのために試罪法に対して何らの恐れも抱くことが無いからである。罪の覚えが無い被告人はすすんで試罪法の執行を受け入れることになるだろう。
罪の覚えがある被告人だけが試罪法の受け入れを拒否し、罪の覚えが無い被告人だけがそれをすすんで受け入れるために、被告人が試罪法に対してどういった反応を見せるかを観察することで、彼/彼女が有罪か無罪かを知ることができたわけである。中世ヨーロッパで広く信じられていた迷信は刑事裁判の進行を手助けする働きをなしており、そうすることで法と秩序の維持に貢献していたわけである。
ただし、あらゆる迷信が法と秩序の維持を促すと主張したいわけではない。決してそうではないだろう。しかしながら、滑稽で科学的な裏付けのない信念の中には、公的でフォーマルな制度が不在であったり、そういった制度がうまく機能していない状況において、公的でフォーマルな制度の代わりとなって社会的な協調を促す働きを現に果たしているものが存在する可能性を退けるべきではない、と思われるのである。そこで疑問となるのは、発展途上国で信じられている迷信のうちでどれがそういったカテゴリーに含まれるだろうか?、ということである。
<原注>
(原注1) ジプシー社会の迷信に対して経済学的な観点から包括的な分析を加えているものとしては、次の私の論文がある。参照あれ。Leeson, Peter T. 2013. “Gypsy law(pdf)”, Public Choice, vol.155, issue 3-4, pp. 273-292.
(原注2) 中世ヨーロッパで実施されていた試罪法による裁判に対して経済学的な観点から包括的な分析を加えているものとしては、次の私の論文がある。参照あれ。Leeson, Peter T. 2012. “Ordeals(pdf)”, Journal of Law and Economics, vol.55, issue 3, pp. 691-714.
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