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2025年5月20日火曜日

Gregory Mankiw 「野獣を飢えさせろ」(2008年6月16日)

Gregory Mankiw, “Starve the Beast”(Greg Mankiw's Blog, June 16, 2008)


ポール・クルーグマン(Paul Krugman)が本日のニューヨーク・タイムズ紙のコラムで述べているところによると、「野獣を飢えさせろ」理論は正しいらしい。減税すると、政府の規模が小さくなるというのだ。ただし、時間差があるという。

オバマは、マケインよりもずっと進歩的でもある。上位1%の税引き後所得を大幅に引き下げる一方で、下位80%の所得を引き上げるつもりだというのだ。しかしながら、どれだけの税収を確保するつもりなのかというと、7000億ドルにとどまっている。大金に聞こえるかもしれないが、国民皆保険を実現するためには足りないだろう。 

オバマが税金を集めるのに控え目なのはなぜなのか? ブッシュが税制に仕込んだポイズンピルに原因があるのだ。

・・・(中略)・・・

二人の候補者(オバマとマケイン)が税金についてせせこましい議論を繰り広げているのを眺めていると、ブッシュが税制に仕込んだポイズンピルが効果をちゃっかり発揮しているのがわかって、驚きもするしガッカリもしてしまう。 

言い換えると、ブッシュ減税のせいでオバマが大統領になっても政府の規模に縛りがかかるかもしれないというのだ。

似たようなことを語っているのが、ロバート・ライシュ(Robert Reich)だ。クリントン政権で労働長官を務めたライシュだが、当時を回想した滅茶苦茶面白い一冊である『Locked in the Cabinet』で、レーガンによる減税(および、その結果としての財政赤字の拡大)のせいでクリントン政権の手が縛られたと述べているのだ。ライシュが望んでいた支出プログラムを残らず実行することができなかったというのだ。

クルーグマンもライシュも悪い報せとして受け取っている。政府支出が拡大するのをよしとしているからだ。しかしながら、「小さな政府」をよしとする古典的自由主義者にとっては、良い報せだ。かの有名で悪罵を浴びせられることもある「野獣を餓えさせろ」理論を支持する報せなのだから。

2012年7月30日月曜日

Richard Ebeling 「ヴィンセント・オストローム ~自由と連邦主義の擁護者~」(2012年7月1日)

Richard M. Ebeling, “Vincent Ostrom (1919-2012): Political Philosopher of Freedom and Federalism”(In Defense of Capitalism & Human Progress, July 1, 2012)


2012年6月29日の金曜日に、政治学者であるヴィンセント・オストローム(Vincent Ostrom)が亡くなった。享年92歳。オストロームは、アメリカ憲法に体現されている連邦主義の構造とその特徴についてのその道の指導的な専門家の一人だった。1919年生まれで、1950年にUCLAで政治学の博士号を取得。1964年にインディアナ大学に移って、妻であるエリノア・オストローム(Elinor Ostrom)――2009年のノーベル経済学賞の受賞者で、夫が亡くなるおよそ3週間前に78歳で亡くなった――と共同で「政治理論と政策分析に関するワークショップ」を立ち上げている。

アメリカ憲法の秩序が解剖されている『The Political Theory of a Compound Republic』(1971年発行。第2版は1987年に発行)は、学術的な釈義として並外れた傑作である。 「フェデラリスト・ペーパー」の念入りな注釈を通じて、「自己統治」(“self-governing”)という概念の理解とそのユニークな特徴の解釈が試みられている。このテーマについては、『The Meaning of American Federalism:Constituting a Self-Governing Society』(1991年発行)に収録されたエッセイでさらなる検討が加えられて、様々な方向に拡張されている。

彼の真の代表作は 『The Meaning of Democracy and the Vulnerability of Democracies:A Response to Tocqueville’s Challenge』(1997年発行)だというのが私の考えだ。政治哲学、経済学、社会学、歴史、社会言語学が見事に融合された学際的な業績である。この本によると、自由な社会が存続するためには、「需要と供給の彼方」(by ヴィルヘルム・レプケ)にまで踏み出す必要があるという。

自由な民主主義社会は、選挙、立法手続き、成文憲法さえ揃っていれば何の問題もなく存立できるかというと、そうではない。オストロームが好んで引用したアレクシス・ド・トクヴィル(Alexis de Tocqueville)の表現を借りると、「心の習慣」(“habits of the heart”)や「精神の特徴」(“character of the mind”)によって支えられねばならないのだ。つまりは、社会の成員によって「共有された意味の構造」(“structures of shared meaning”)の広大なネットワークに支えられねばならないのだ。社会の秩序のあり方は、社会を構成する個々の成員が自分自身や他者をどう捉えるかに依存しているのだ。自己統治に立脚する社会秩序を打ち立てるためには、人間の価値の意味が社会の成員によって共有され、一人ひとりの尊厳が社会の成員によって認められねばならないのだ。一人ひとりが持つ夢、願望、望みが尊重されて、一人ひとりの価値観の違いが受け入れられねばならないのだ。

とりわけ重要なのは、暴力、抑圧、操作、欺瞞、腐敗――日常生活や政治的な討論の場で使われる言語の腐敗(転化)も含まれる――に頼らなくても、共同の目的のために平穏にみんなで力を合わせて協力する術を見つけ出すことは可能だし望ましくもあるということが社会の成員によって共有されねばならないことである。そのような「理念(信念)」が社会の成員によって共有されねばならないのだ――オストロームが強調しているように、信じ込まれるだけでなく、日常的に使われる言語の中に埋め込まれなければならない。言語の中に埋め込まれてこそ、社会の成員が自分自身や他者をどう捉えるかに影響が及ぶからである――。

オストロームが強調しているように、自己統治や「民主主義の精神」は、政治の世界だけに関わりがあるわけではない。いわゆる民主政治は、あくまでも全体の一部でしかないのだ。民主政治の性格やその良し悪しは、自由な個人が自発的に交じり合う自由な社会という理念――あるいは、協働的な自己統治という理念――が世の中にどれだけ広く深く行き渡っているかによって変わってくるのだ。

自己統治に立脚する社会秩序が抱える脆弱性の一つは、次の世代に受け継げるような「自己統治の遺伝子」なるものが存在しないことである。新たな世代ごとに学んで適応していかなければいけないのだ。自己統治に立脚する社会秩序を支えるために必要な「心の習慣」や「精神の特徴」が世代ごとに学び直されて更新されないようなら、弱体化してしまう可能性があるのだ。失われてしまう可能性があるのだ。

エドワード・シルズ(Edward Shils)が『Tradition』(1981年発行)で指摘しているように、社会の伝統なり慣習なりが保存され得るのは、三世代――子供と親と祖父母――が重なり合う場合だけに限られる。経験と内省を通じてのみ得られる知恵、洞察、理解、信念が若い世代に受け継がれるのは、三世代が重なり合う場合だけに限られるというのだ。

伝統にしても慣習にしても永遠に「不変」というわけではない。世代ごとに変化するし、修正されていく。しかしながら、「心の習慣」や「精神の特徴」が世代を超えて共有されていく中でそうなるのだ。

オストロームが懸念していたのは、自己統治に立脚する社会秩序を支える「心の習慣」や「精神の特徴」が失われつつあるのではないかということだった。その理由は、政府による介入が増えて福祉国家の規模が大きくなるにつれて、パターナリズムや社会工学を支持するメンタリティが世の中に広まったせいだ。

「自由の言語」が失われつつあるのだ。自由な個人による自己統治を支える言語が失われつつあるのだ。我々は、言語を通じて自分自身について考えるのだ。言語を通じて他者との関係について考えるのだ。言語を通じて社会のあり方について考えるのだ。

ナチスの時代を生き延びたユダヤ系ドイツ人であるヴィクトール・クレムペラー(Victor Klemperer)が戦後に一冊の本を執筆している。『The Language of the Third Reich』(邦訳『第三帝国の言語:ある言語学者のノート』)がそれである。クレムペラーによると、国家社会主義者と自任していたかどうかにかかわらず、ナチス・ドイツにおいては誰も彼もがナチスだったという。ユダヤ系ドイツ人をはじめとして、体制から虐げられた犠牲者の多くも含めて。

なぜなのか? ナチスの指導者たちが流布したアイデアやイデオロギーに感染したからである。思考が囚われてしまって、人生やモラルについて違った考えをするのに困難を感じたのである。人間、「人種」、社会についてのナチス流の考えを反映している言語やフレーズから独立した考えを持てずにいたのである。クレムペラーも示唆しているように、自分で自分を統治できる存在ではなくなっていたのだ。ヒトラー流の国家社会主義の言葉遣いやロジックで考えて行動しているうちに、体制の奴隷と化していたのだ。

オストロームが手遅れになってしまわないうちに警告しようとしていたことは、「他者による統治」に陥ってしまうなかれということだった。ところが、今やあまりにも多くの市民がそうなってしまいつつある。「給付」(“entitlement”)、「不労所得」(“unearned income”)、「社会正義」(“social justice”)とかいう類の言葉が氾濫していて、それらに思考が囚われつつあるのだ。

集産主義的なパターナリズムに屈するのか、それとも「自由の言語」や「自由の理念」が守り抜かれるのかによって、アメリカを舞台とする「自己統治」をめぐる偉大な実験――1830年代にアメリカを訪れたトクヴィルに強い印象を与えた実験――が今後も続行されるかどうかが決まるのだ。

ヴィンセント・オストロームの研究は、アメリカを舞台とする「自己統治」をめぐる実験の性質やそのロジックを説明しているだけにとどまらない。政治権力の分割と連邦制を通じて自由を確保しようとするアメリカの実験が人類の歴史に占めるユニークさを知らしめてもいる。その実験が途中で放棄されてしまったら、その損失たるやいかばかりか。 

ヴィンセント・オストロームは、「自由」を支える政治制度と理念に対する優れた分析を通じて、「自由の哲学」を深化させる知的遺産を後世に伝えているのだ。

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<訳者による追記>
 
ヴィンセント・オストロームの思想の全体像を知るには、R. ワグナーの以下の論文が参考になるかもしれない。
 
● Richard E. Wagner (2005), Self-governance, polycentrism, and federalism: recurring themes in Vincent Ostrom's scholarly oeuvre”(Journal of Economic Behavior & Organization, Vol. 57 (2), pp. 173-188;こちら(pdf)で閲覧できたり・・・

2010年5月3日月曜日

Tom Jacobs 「強力な敵の不安鎮静化効果」(2010年3月8日)

Tom Jacobs, “The Comforting Notion of an All-Powerful Enemy”(Miller-McCune Online, March 8, 2010)
 
最新の研究によると、我々は、一般的な不安(generalized anxiety)に対する防衛機制(defense mechanism)として、敵を仕立て上げてその実力を誇張する傾向にある――そうすることを通じて、不安の鎮静化を図る傾向にある――らしい。

我々の前には、敵が立ち塞がっている。それも、強力な敵が。そのようにして、多くの人々の間で抱かれている「一般的な不安」が「獰猛な敵」の姿に転化されるというのは、現代の政治論争の場で繰り返されるモチーフの一つになっている。

感情的なレトリックを駆使する党派的な論客たちによって、けたたましい警鐘が鳴らされている。審議の過程で骨抜きにされた法案でさえも議会をなかなか通過させられずにいるオバマ大統領だが、党派的な論客たちによれば、オバマ大統領はアメリカを社会主義国家に作り変えようとしているらしい。反オバマの「ティーパーティー運動」は、これまでに何度も繰り返されている被害妄想的な現象ではなく、アメリカの基盤を揺るがしかねないまったく新しい現象らしい。オサマ・ビンラディンは、どこぞの洞穴に閉じ込められていて身動きできないようだが、気を許してはならないという。やはり脅威であるからだというのだ。

ある一派によると、敵の強さを誇張して語る傾向は、特定の心理的な機能を果たしているという。我々の幸福(well-being)は、自分ではコントロールできない要因に大きく左右されるという事実を受け入れるよりも、我々が感じているあらゆる恐怖の原因を単一の強力な敵のせいにするほうが、気持ち的に楽なのだ。何といっても、敵がいるとなれば、的が絞れるし、分析を加えることもできるし、倒すことだってできるかもしれないのだ。

怒りの矛先を強力な(と思われている)敵にぶつけることによって恐怖が和らぐ可能性について誰よりも先んじて論じたのは、文化人類学者のアーネスト・ベッカー(Ernest Becker)である――1969年に出版された 『Angel in Armor』にて――。Journal of Personality and Social Psychology誌に掲載されたばかりの論文――“An Existential Function of Enemyship”――で、ベッカーの説の妥当性が裏付けられている。

カンザス大学に籍を置く社会心理学者のダニエル・サリヴァン(Daniel Sullivan)が率いる研究チームは、先の論文で4つの実験を試みている。それらの結果によると、多くの人は、「身の回りの混沌とした環境というぞっとした事実に直面するのを避けるために、明確な敵を作り上げて絶えずそれと張り合うように動機づけられている」らしい。彼らの発見を踏まえて現代の多くの(経済的な、あるいはそれ以外の)脅威なるもの――我々が直面している脅威なるものーーを眺めてみると、異なるイデオロギーの持ち主を強力なモンスターのように見なそうとする傾向にも得心がいくようになる。

サリヴァンらが試みた実験の1つ――2008年の大統領選挙期間中に行われた実験――では、カンザス大学に通う学部生を対象に、自分が支持していない候補(オバマ or マケイン)――すなわち、敵――が選挙で勝つために電子投票機を不正に操作していると思うかどうかが尋ねられている。

この「陰謀論」について自分なりの考えを語ってもらう前に、被験者の半数に対しては、以下の主張が正しいと思うかどうかが問われている。

「私は、自分が病気に罹るかどうかを思いのままに操れます」(“I have control over whether I am exposed to a disease.”) 
「私は、就活がうまくいくかどうかを思いのままに操れます」(“I have control over how my job prospects fare in the economy.”)
その一方で、残りの半数の被験者に対しては、先の主張と似ているがそこまで重要とは言えない以下のような主張について、正しいと思うかどうかが問われている。
「私は、テレビの視聴時間を思いのままに操れます」(“I have control over how much TV I watch.”)。
どういう結果が得られたかというと、人生における重大事(病気や就職)に対する自分の非力さ(思いのままにならないこと)を自覚させられた被験者たちは、「自分が支持していない候補が電子投票機を不正に操作していると信じる傾向が強かった」という。

別の実験では、被験者の大学生に対して2つのエッセイのうちどちらか1つをランダムに割り当てて、それを読んでもらっている。1つ目のエッセイでは、アメリカ政府は不況を容易く終わらせることができる能力を備えていて、捜査当局の頑張りのおかげで犯罪率が下落傾向にあることが述べられている。2つ目のエッセイでは、アメリカ政府は不況に対して為す術がなくてお手上げ状態であり、捜査当局の懸命の努力にもかかわらず犯罪率が上昇傾向にあることが述べられている。

被験者たちは、どちらか一方のエッセイを読んだ後に、架空の出来事のリストを見せられて、それぞれの出来事を引き起こした原因として最も可能性が高そうなのはどれだと思うかを以下の選択肢の中から選ぶように求められた。
①友達、②敵、③どちらでもない(たまたま起きてしまった)
どういう結果が得られたかというと、政府が万能ではないことを「教えられた」被験者たち(2つ目のエッセイを読んだ被験者たち)は、自分の人生におけるよからぬ出来事は敵によって引き起こされていると見なす傾向が強かった。それとは対照的に、何もかもがうまく回っていると「教えられた」被験者たち(1つ目のエッセイを読んだ被験者たち)は、「自分の人生に対して敵がよからぬ影響を及ぼしている度合いを軽く見積もる傾向にあった」という。

これらの実験結果は、苦しみの原因を誰か(あるいは、何か)に帰することできたら、不思議と心が和らぐ可能性があることを示唆している。さらには、アメリカ人が絶えず外部の敵(標的)――ソビエトであったり、ムスリムであったり、中国であったり――を見つけ出そうとする理由を説明する助けにもなる。ところで、「強力な敵」という幻想が多くの人に信じ込まれてしまうと、何らかの代償(犠牲)を払わねばならなくなる。「敵意」(“enemyship”)への欲求を抑えるためには、どうしたらいいのだろうか?

この問いに対して、サリヴァンはメールで次のように答えている。「自分の人生だったり世の中で起こる危害だったりに対するコントロール感をいくらか高められたら、他人を敵に仕立て上げる必要性も減るだろうと思います。例えば、我々が試みた最初の実験では、自分の人生に対するコントロール感が高めになるように意識づけられた被験者たちは、外的な危害の原因を敵に求める傾向が弱いという結果が得られています。自分の人生に対するコントロール感を高めるのにつながる何らかの仕組みを用意できたら、敵を仕立て上げたり、敵の実力を誇張しようとする必要性(あるいは、傾向)は減ずるはずです。完全に無くなりはしないでしょうが」。

「我々が試みた3つ目の実験では、社会システムが安定していて秩序が保たれていると感じると、自分ではコントロールできない何らかの脅威に直面しても、その原因を敵に求めようとするよりも、政府に信頼を寄せる傾向にありました。先ほどの繰り返しになりますが、自分の人生に対するコントロール感が高まったり、頼もしくて効率的な社会システムのおかげでランダムな危害の脅威から守られていると感じられるようなら、敵を仕立て上げる必要性は減ずることになるでしょう」。 

「あらゆる市民が医療保険に入っていたり、警察が守ってくれるに違いないと感じているようなら、ランダムで差し迫った脅威を引き起こしている敵を探し出して槍玉にあげる傾向は減ずる可能性があると思います」。

サリヴァンは、「敵意」への欲求を抑制するために個人レベルで出来る対処法も二つほど語ってくれた。「自分の人生に対するコントロール感なり確実性への欲求なりが人間に埋め込まれているのだとしたら、その欲求が可能な限り社会的に有益な結果を生むように誘導してやればいいと思います。多くの人は、我々が住む不確実な世界を何らかのルールに基づく明確なシステムとして把握するために、あるいは、不確実な現実との折り合いをつけるために、科学、芸術、宗教等――以上は、ほんの一例にすぎません――に没頭しています。そのおかげで、自分なりに精通している領域というのを生み出せるわけですね。狭い領域ではありますが。そのような試みが誰も傷つけずに、コントロール感を高めるのに役立つようなら、『敵意』への欲求を抑制できるでしょう」。

「人生は不確実で、何もかもをコントロールできるわけではないことを受け入れるというのが最終的な対処法でしょうね。例えば、道教なんかは、そのような発想が根っこにあります。人というのは、自分でコントロールできることに限りがあるのをゆくゆくは受け入れられるというんです。敵を仕立て上げたりして我が身を守ろうとせずとも、そのような境地に達することができるというんです」。

というわけで、今すぐにできることから実践しようじゃないか。手始めに、MSNBCの視聴時間を減らして、瞑想にあてる時間を増やそうじゃないか。