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2025年6月7日土曜日

Tyler Smith 「大恐慌から抜け出せたのは、金本位制から離脱したおかげか?」(2024年1月23日)

Tyler Smith, “Recovering from economic depressions: Did ending the gold standard help countries escape from the Great Depression?”(Research Highlights, American Economic Association, January 23, 2024)


金本位制からの離脱が1930年代の大恐慌(Great Depression)を終わらせるために必要な第一歩だったというのが多くの経済学者の考えである。そのことを裏付ける何よりの証拠がアメリカの経験である。しかしながら、一つの例あるいは一部の例から一般的な結論を導き出すのは軽率かもしれない。
 
大恐慌から抜け出すのを支えた真因は何だったのか? そのことを探るためにこれまでで最も包括的なデータを使って検証を加えているのが、アメリカン・エコノミック・レビュー誌の2024年1月号に掲載予定のマーティン・エリソン(Martin Ellison)&サン・セオク・リー(Sang Seok Lee)&ケヴィン・オルーク(Kevin Hjortshøj O'Rourke)の三人の共著論文――“The Ends of 27 Big Depressions”(American Economic Review 114 (1): pp. 134–68)――である。27カ国が対象になっていて、最先端のナウキャスティングの手法を使って1500以上の変数について月次ないしは四半期の23万件を超えるデータに分析が加えられている。

金本位制から離脱する前後で物価水準と産出量にどんな変化が生じたかを跡付けたのが、三人の共著論文から転載した以下の図(図11)である。ベルギー、カナダ、デンマーク、エストニア、フィンランド、日本、ニュージーランド、ペルー、南アフリカ、スウェーデン、イギリス、アメリカの計12カ国が対象になっている。いずれも金本位制から離脱した日付がはっきりしている国である。




横軸に直行する垂直線よりも左側が金本位制から離脱する前で、右側が金本位制から離脱した後である。赤色の実線は、アメリカの物価水準と産出量の推移を表している。濃い黒色の実線は、アメリカを除く11カ国の平均値を表している(産出量については、データの制約もあって、ペルー、ニュージーランド、デンマーク、エストニア、フィンランドが除かれている)。

金本位制から離脱するまでは、12カ国すべてで物価水準が下落傾向にあった。金本位制から離脱した後はどうだったかというと、大半の国で物価水準が急速に安定した。多くの国では、産出量も盛り返した。アメリカなんかは特にそうだ。しかしながら、産出量が下落し続けた国もいくつかあった。上の図に照らす限りだと、金本位制から離脱したおかげで産出量にどんな効果が及んだかについて明確な結論は下せない。

金本位制からの離脱がどんな効果を持ったかを推計するために、エリソン&リー&オルークの三人は別の手法も使って分析を加えている。そして、金本位制からの離脱がインフレ期待を喚起して実質金利を低下させたことを見出している。 実質金利が低下したおかげで、景気が回復したというのである。

通貨制度が大きく変わると、インフレ期待が喚起されて総需要が刺激される可能性があるのだ。金本位制からの離脱がその典型例なのだ。

2025年5月24日土曜日

Paul Krugman 「小心の罠」(2014年3月21日)

Paul Krugman, “Timid Analysis (Wonkish)”(The Conscience of a Liberal, March 21, 2014)


今日のコラムでも軽く触れたけど、もうちょっと突っ込んだ話をしておこうと思う。

ブルッキングス研究所主催のパネルディスカッションから戻ってきたばかりだ。「アベノミクス」がテーマの論文についても報告があって、僕も含めて二人が討論者を務めた。もう一人の討論者は、ベン・バーナンキだとかいう名前だったと思う。個人的にずっと心配に思っていたことがあって、そのことについても語った。言いたいことを前よりもいくらかうまく整理できてると思うので、ここでも繰り返させてもらうとしよう。

僕が1998年に書いた論文(pdf)以降に大量に生み出された「ゼロ下限制約」に関する理論的な研究の山を眺めてみると、「流動性の罠」に陥るのは一時的なショックの結果であると見なされている。例外なくだ。何らかのショックが起こって――わかりやすい例だと、バブルが崩壊したりとか、信用ブームが終わってデレバレッジ(債務の圧縮)が強いられたりとか――、総需要が大きく落ち込む。金利をゼロ%にまで引き下げても完全雇用を実現できないくらいに。でも、そのショックもいつまでも続くわけじゃない。いつかは終わる。そうだとすると、抜け道があることになる。金融政策のレジームが変わったことをみんな(国民)に納得させればいいのだ。ゼロ下限制約に直面している状況で総需要を刺激してほどほどのインフレを起こしたければ、ショックが去って総需要が回復してからも中央銀行が金融緩和を続けるとみんなに信じ込ませればいいのだ。  

ところで、日本でショックが去るのはいつになるんだろうか? 総需要が勢いを取り戻して、ゼロ下限制約に縛られる必要が無くなるのはいつになるんだろうか? アメリカについてすら長期停滞(secular stagnation)の可能性が真剣に取り沙汰されていて、金融政策が「正常」に戻るまでにかなり長い時間を要するかもしれないというのに。

それでもなお、景気に弾みをつけるのは依然として可能だ。中央銀行が高めのインフレ率の達成を目標に掲げて、そのことがみんなから信頼されるようなら、〔予想インフレ率が上昇するので〕実質金利が低下する。ところで、中央銀行が掲げるインフレ目標がみんなから信頼されるために必要なことって何だろう? 「自己実現的な予言」(self-fulfilling prophecy)が大いに絡んでくるに違いない。中央銀行が掲げる目標値にまでインフレ率が上昇するに違いないとみんなが信じて行動したら、その通りにならなくちゃいけないのだ。景気が刺激されて、インフレ率が目標値にまで上昇しなくちゃいけないのだ。

そのための必要条件がある(ただし、十分条件じゃない)。インフレ率の目標値がかなり高めに設定される必要があるのだ。みんなが信じて行動したら、ブームが起きるくらいの高さに設定される必要があるのだ。インフレ率の目標値がそんなに高くないようだと、みんなが信じて行動したとしてもその通りにならないだろう。景気もそこそこしか刺激されずに、そのせいでインフレ率も目標値に届かないだろう。そんなだと、そのうち誰も中央銀行が掲げるインフレ目標を信頼しなくなって、すべての努力が無駄になってしまうおそれがあるのだ。 

今朝作成したばかりの図を使って、今の話を確認しておくとしよう。




黒い曲線は、フィリップスカーブを表わしている。仮想的なものではあるが、現実のフィリップスカーブとそう違わないと思う。インフレ率が産出量の水準に依存していて、資本設備の稼働率が高くなるほど(産出量の水準が高まるほど)傾きが急になっている。青い直線は、金利がゼロ%の場合の総需要曲線を表わしている。予想インフレ率が上昇すると、それと同じだけ実質金利が低下する。総需要曲線が右上がりになっているのは、そのためだ。上の図では、中央銀行がインフレ率の目標値を2%に設定するけど、インフレ率が2%にまで上昇しない状況が描かれている。インフレ率が2%にまで上昇するとみんなが信じて行動したとしても、その通りにならないのだ。そのうち誰も中央銀行が掲げるインフレ目標を信頼しなくなってしまうだろう。

僕の心配事というのは以上の通りだ。インフレ率の目標値を4%に設定する必要があるというのに、セントラルバンカーが次のように語ったとしよう。「4%ですか? ちょっと過激に思えますね。もうちょっと慎重になって、2%にしておきましょう」。慎重で分別があるようだけれど、そのせいで失敗してしまうかもしれないのだ。

2025年5月23日金曜日

Gregory Mankiw 「景気循環の影響は尾を引く?」(2006年5月25日)

Gregory Mankiw, “Goolsbee on the Business Cycle”(Greg Mankiw’s Blog, May 25, 2006)


シカゴ大学に籍を置く経済学者のオースタン・グールズビー(Austan Goolsbee)が本日のニューヨーク・タイムズ紙に素晴らしい記事を寄稿している。学生たちが社会に出る時の景気の状態が彼らのその後のキャリアに及ぼす影響について調査している最新の研究結果が紹介されている。一部を引用しておこう。

スタンフォード大学経営大学院に籍を置く経済学者のポール・オイヤー(Paul Oyer)が最近の論文――“The Making of an Investment Banker: Macroeconomic Shocks, Career Choice and Lifetime Income”(NBER Working Paper 12059, February 2006)――で見出している証拠を取り上げるとしよう。オイヤーは、1960年から1997年までの間にスタンフォード大学経営大学院を卒業した学生たちのその後の経歴を辿っている。

どういう結果が見出されているかというと、学生たちが大学院に入学してから2年間の株式市場のパフォーマンスが卒業後に投資銀行部門に就職できるかどうかだけでなく、卒業後の平均賃金にも重要な影響を及ぼしているという。投資銀行部門というのは給与も高額だから、特段驚くような結果ではない。衝撃的なのは、卒業した年度の違いによる平均賃金の差が20年後になっても埋まらないということだ。

例えば、1988年度にスタンフォード大学経営大学院を卒業した学生たちは、1987年の株価大暴落(ブラックマンデー)の直後に就職戦線に入ることになった。民間の銀行は、新卒採用に消極的だった。そのためもあって、1988年度の卒業生の初年度の平均賃金は、1987年度の卒業生の初年度の平均賃金を下回るだけでなく、株式市場が回復した後に卒業した学生の初年度の平均賃金も下回ったのだった。卒業してから10年以上が経過した後でも、1988年度の卒業生の平均賃金は、それ以外の年度の卒業生の卒業後10年以上が経過した後の平均賃金を大きく下回ったままなのだ。1988年度の卒業生たちは、社会人としてスタートした時点で割りのいい仕事を取り逃がしてしまい、その後も失地を挽回できなかったのだ。

過去20年間を対象に同様の調査を行っている他の経済学者によると、MBA(経営学修士号)を取得してウォール街で働くような若者だけに当てはまる現象ではないことが見出されている。学部の卒業生(大卒者)にも当てはまるというのだ。フィリップ・オレオプロス(Philip Oreopoulos)&ティル・フォン・ワッチャー(Till Von Wachter)&アンドリュー・ヘイス(Andrew Heisz)の三人の最近の共著論文――“The Short- and Long-Term Career Effects of Graduating in a Recession”(NBER Working Paper 12159, April 2006)――によると、不況期に就職した大卒者は、社会に出てから10年間は収入面での躓き(つまずき)を挽回できないというのだ。

標準的なマクロ経済理論と食い違っているようだが、辻褄を合わせるにはどうしたらいいだろう? この記事を読みながら頭に浮かんだ疑問だ。標準的な理論によると、自然産出量や自然失業率から一時的に乖離するのが景気循環という現象なのだ。マクロ経済ショックが起きてから数年後には、すべてが正常に戻ると想定されているのだ。それとは対照的に、グールズビーが紹介している証拠によると、マクロ経済ショックが一人ひとりの機会に及ぼす影響はだいぶ尾を引くというのだ。

GDPが過去の値(履歴)に強く影響を受ける――「単位根」を持つ――ことを示唆する時系列分析の分野の発見と関わってくる証拠なのかもしれない。景気循環の社会的コストについて見直しを迫る証拠なのかもしれない。

グールズビーが紹介しているミクロの証拠と標準的なマクロ理論との食い違いを埋めるために、優れた研究論文がそのうち何本か書かれるんじゃなかろうか。

2025年5月21日水曜日

Mike Moffatt 「リセッションとデプレッションの違いとは?」(2018年7月22日)

Mike Moffatt, “What Is the Distinction Between a Recession and a Depression?”(ThoughtCo., July 22, 2018)


「リセッションというのは、あなたの隣人が仕事を失う時のこと。デプレッションというのは、あなたが仕事を失う時のこと」。経済学者の間で知られている古いジョークだ。

リセッションとデプレッションの違いが曖昧ではっきりしない単純な理由がある。一般的に認められている定義というのがないのだ。100人の経済学者にリセッションとデプレッションの定義を聞いたら、最低でも100通りの別の答えが返ってくるだろう。しかしながら、とにかくやってみるとしよう。リセッションとデプレッションがどう定義されているかを概観した後に、ほぼすべての経済学者が同意してくれそうなやり方で両者の違いを説明してみるとしよう。


リセッション:新聞の定義

GDP(国内総生産)が2四半期(あるいは、2四半期以上)連続して減少するのがリセッションというのが、新聞でよく目にする定義だ。

大半の経済学者は、この定義を気に入っていない。主な理由は二つあって、GDP以外の変数の変化が考慮されていないというのが一つ目だ。例えば、失業率だとか消費者信頼感指数だとかの変化が無視されているのだ。四半期のデータを使って判断されているので、リセッションがいつ始まっていつ終わったのかを特定するのが難しいというのが二つ目の理由だ。リセッションが10カ月未満しか続かないようなら、見過ごされてしまう可能性があるのだ。


リセッション:景気循環日付委員会の定義

リセッションに陥っているかどうかをより的確に見抜こうと試みているのがNBER(全米経済研究所)の景気循環日付委員会だ。 雇用量、鉱工業生産、実質所得、卸売販売額/小売販売額だとかの変化に目を凝らして、景気の良し悪しを認定している。景気循環日付委員会では、 景気が「山」から「谷」に向かうまでの期間をリセッション(景気後退局面)と定義している。それとは反対に、景気が「谷」から「山」に向かうまでの期間は景気拡張局面と定義されている。この定義によると、リセッションは平均的には1年くらい続く傾向にあるようだ。


デプレッションの定義

1930年代に大恐慌が起こるまでは、景気の低迷は例外なくデプレッションと呼ばれていた。1910年とか1913年とかに起こったデプレッションと1930年代に起こったデプレッションを区別するために、1910年とか1913年とかに起こったデプレッション(1930年代に起こったデプレッションほどは深刻じゃないデプレッション)をリセッションと呼ぶようになったのである。このことからデプレッションの単純な定義が得られることになる。リセッションよりも長く続いて深刻なのがデプレッション。


リセッションとデプレッションの違い

リセッションとデプレッションをどうやって区別したらいいだろうか? いい目安がある。実質GDPの落ち込みが10%以上ならデプレッションで、実質GDPの落ち込みが10%未満ならリセッションと見なすのだ。

この物差しを使うと、アメリカで最後にデプレッションが起こったのは1937年5月から1938年6月までの期間ということになる。実質GDPが18.2%減少したのだ。この物差しを使うと、1930年代に起こった大恐慌の見え方も変わってくる。一回ではなく二回のデプレッションが起こったのだ。1929年8月から1933年3月までの間に実質GDPが33%近くも減少するというひどいデプレッションが起こって、その後に景気回復局面を挟んで、1937年5月から1938年6月までの間にもう一回デプレッションが起こったのだ。

戦後のアメリカでは、実質GDPが10%以上減少するようなデプレッションは起こっていない。1973年11月から1975年3月までの間に実質GDPが4.9%減少したのが、過去60年の間に起こった最悪のリセッションだ。フィンランドだとかインドネシアだとかでは、実質GDPが10%以上減少するようなデプレッションがつい最近も起こっている。

2025年5月20日火曜日

Gregory Mankiw 「リセッションとデプレッション」(2008年10月10日)

Gregory Mankiw, “Recession or Depression?”(Greg Mankiw's Blog, October 10, 2008)


学生から質問された。

どうなればリセッション(recession)がデプレッション(depression)になる決まりになっているのでしょうか?
 
デプレッションの公式の定義というのはない。私も委員を務めたことがあるNBER(全米経済研究所)の景気循環日付委員会では、景気循環の転換点を認定している。景気が拡大局面から後退局面(あるいは、後退局面から拡大局面)に転換したのはいつかを後知恵で決めているわけだ。緩やかな景気後退をリセッションと呼んで、深刻な景気後退をデプレッションと呼ぶのが習わしみたいになっているが、リセッションとデプレッションを区別する公式の定義というのはないのだ。 

この上なく明快な定義は、おそらく以下だろう。

リセッションというのは、あなたの隣人が仕事を失う時のこと。デプレッションというのは、あなたが仕事を失う時のこと。

2025年5月18日日曜日

Mark Thoma 「ケインズ経済学に関する『七つの神話』」(2013年5月7日)

Mark Thoma, “Seven Myths about Keynesian Economics”(The Fiscal Times, May 7, 2013)


ハーバード大学に籍を置く歴史学者のニーアル・ファーガソン(Niall Ferguson)がケインズについての発言で謝罪に追い込まれている。ファーガソンによると、ケインズはその独特な性的嗜好ゆえに子供がいなかったから、長期的な経済問題に関心が無かったというのだ。ケインズの性的嗜好云々については脇に置いておくとしても、経済が短期的な問題を抱えている時にケインジアンは長期的な側面に目をつぶりがちだと語られることはよくある。しかしながら、ケインジアンが長期的な問題に関心が無いという言い草は、ケインズ経済学に関する多くの「神話」のうちの一つなのだ。


【神話その1:ケインジアンは、長期的な経済問題への関心が疎かだ】

大間違いだ。ケインズ経済学を嫌っている保守派は、短期的な問題への関心が疎かで、短期的な問題――とりわけ、失業の問題――への対処を誤ると長期的な損害につながりかねないことへの注意が足りないのだ。例えば、景気後退が長引くと、労働市場から退出して二度と戻ってこない人が増えてしまって、経済の長期的な成長力(潜在成長率)が鈍ってしまうおそれがある。ケインジアンは、長期的な問題に大いに関心を持っているのだ。長期的な問題を解決するためには、短期的な問題を無視するに限るとは考えていないだけなのだ。 


【神話その2:ケインジアンは、経済成長にとんと興味が無い】

ケインジアンも経済成長の有難味(ありがたみ)は理解している。しかしながら、二酸化炭素の排出をはじめとした「外部性」を企業が考慮に入れるように望むだけでなく、経済成長の成果がどのように分配されるかにも関心を払う。近年のように、労働者の生産性が上昇しているのに所得上位層だけが潤っているようなら、そのことを問題視する。所得を増やそうとするなら経済成長は欠かせないが、少数のヨット(お金持ち)だけでなくすべてのボートが一緒に引き上げられねばならないのだ。海水を汚さないようにしなくてはならない(環境にも配慮しなくてはならない)のだ。


【神話その3:ケインジアンは、「大きな政府」の支持者だ】

ケインズ経済学に関する神話の中でもおそらく最も実態とかけ離れていて、最も広く流布している神話だ。景気が悪化したら政府支出を増やすか減税するかして景気の刺激を試みる一方で、景気がよくなったら逆のことをせよというのが、ケインジアンが説く安定化政策である。ケインジアンが説いているのは、政府支出なり税金なりの「一時的な」変更なのだ。景気が悪化した時に政府支出を増やしても、景気がよくなった後に政府支出を減らしたら、政府の規模は、景気が悪化する前と変わらない。しかしながら、景気がよくなった後に政府支出が減らされるのではなく増税が行われるようなら、政府の規模は、景気が悪化する前よりも大きくなるだろう。あるいは、景気が悪化した時に減税が実施されて、景気がよくなった後に政府支出が減らされるようなら、政府の規模は、景気が悪化する前よりも小さくなるだろう。しかしながら、ケインジアンが説くように、景気が悪化した時に政府支出を増やしたらその後(景気がよくなった後)に政府支出を減らすようにするか、景気が悪化した時に減税したらその後に増税するようにしたら、政府の規模は、景気が悪化する前と変わらないのだ。


【神話その4:ケインジアンは、公的債務のことなんて気にもかけていない】

ケインジアンとしても、政府が負う公的債務が状況によっては厄介な問題を引き起こす可能性があることはわかっているし、公的債務の長期的な持続可能性の問題に取り組む必要があることもわかっている。しかしながら、公的債務が原因で生じるコストだけを気にかけるのではなく、失業が原因で生じるコストと天秤にかけるのが肝心なのだ。深刻な景気後退に陥っていて、公的債務の残高が今くらいの水準のようなら、失業が原因で生じるコストの方が公的債務が原因で生じるコストよりもずっと大きい。その一方で、景気がよくなったら、二つのコストの大小関係が逆転するだろうから、財政赤字の削減に重きを置くべきだろう。しかしながら、今のところは、失業こそが最大の関心事であるべきなのだ。


【神話その5:ケインジアンは、インフレのことなんてどうでもいいと思っている】

ケインジアンが何よりも重視しているのは、労働者の雇用と所得を高い水準で安定させることだ。労働者の雇用と所得を高い水準で安定させようと試みている最中にインフレが加速するようなら、そのことを問題視するのは言うまでもない。インフレが原因で生じるコストを誇張して語る陣営に反対するのだ。失業が原因で生じるコストを矮小化して語る陣営に反対するのだ。すなわち、政府が経済に介入するのに何が何でも反対しようとする陣営の言い草に異を唱えるのだ。


【神話その6:ケインジアンは、金融政策を信用していない】

金融政策に景気を刺激する力が備わっていることについては、ケインジアンも否定しない。しかしながら、金融政策だけで深刻な景気後退から抜け出せるとは考えない。財政政策も必要なのだ。


【神話その7:ケインジアンが使っているモデルは、古くて時代遅れで劣っている】

危機に襲われて、現代のマクロ経済学のモデルが役に立たないことが明らかになると、経済学者の多くは、オールドケインジアンのモデルに助けを乞うた。今まさに我々が直面している類の問題に答えるために組み立てられたと言っても過言ではないようなモデルだったからである。現代のモデルが抱える欠陥が修正されるのを待っている余裕などなかった。その一方で、オールドケインジアンのモデルに関しては、その長所と短所を考慮に入れさえすれば、役に立つことが判明したのである。ケインジアンは、今回の危機のどの局面であれ、いつの時代に作られたものかなんて大して気にせずに、利用できる中から最善と思われるモデルを選んで使った。現代のモデルが役に立ったこともあれば、古いモデルが優れた洞察を与えてくれたこともあった。古かろうが新しかろうが、重要な疑問に答えるのに最善と思われるモデルに頼ったのである。今回の危機をきっかけに現代の「ニューケインジアン」モデルにも修正が加えられたが、修正されたニューケインジアンモデルが古いモデルから導き出される処方箋を支持する傾向にあるのは興味深い。


古いモデルだったり修正されたニューケインジアンモデルだったりが推奨する政策がもっと積極的に試みられていたとしたら、長期失業のような問題も今みたいにひどくはなっていなかったかもしれない。いや、今からでも遅くない。今からでもいいから、もっと積極的に試みる必要があるのだ。経験から学んでほしいところではあるが、これまでに触れてきた「七つの神話」が失業問題に効き目がある政策が試みられるのを邪魔し続けているのだ。

2025年5月12日月曜日

Gregory Mankiw 「現金をどれくらい持ち歩くべきか?」(2007年9月4日)

Gregory Mankiw, “How much cash to hold”(Greg Mankiw's Blog, September 04, 2007)


ブライアン・カプラン(Bryan Caplan)が、財布にどれくらい現金を入れておくべきかを問うている。

大学(ジョージ・メイソン大学)でのランチの時間に、二人の経済学者(A氏&B氏)が財布にどれくらい現金を入れておくべきか(現金をどれくらい持ち歩くべきか)をめぐって意見を戦わせた。A氏が持ち歩いている現金は、ほんの少しだけ。クレジットカードで基本的に何でも買えるからというのがその理由だ。B氏はというと、現金をたくさん持ち歩いている。現金を手元に持っているせいで得られなくなる金利なんて無に等しいし、貴重な時間をできるだけ無駄にしたくない(現金を持ち歩いていたら時間を節約できる)というのがその理由だ。

あなたは、どちらに肩入れするだろうか? その理由は? 「時間の価値」および「現金を手元に持っているせいで得られなくなる金利」の具体的な計算結果もお待ちしている。

(追記)教科書に載っているような貨幣需要モデルは持ち出さないでもらいたい。知りたいのは、一般的な枠組みではなく、具体的な答えなのだ。

カプランは、教科書に載っているモデルをあまりにも安易に退けてしまっているようだ。現金管理に関するボーモル=トービンモデル――貨幣需要の在庫理論アプローチ――は、単なる「一般的な枠組み」というにとどまらない。「具体的な答え」も導き出せるのだ。拙著である中級マクロ経済学の教科書の18章の練習問題の一つで学生たちに現金をどう管理すべきかを問うているが、あれは簡単な数値例を使ったボーモル=トービンモデルの応用問題なのだ。

例えば、ジョージ・メイソン大学に籍を置く某経済学者が1日に使う現金は10ドルだとしよう。ATMまで足を運んでお金をおろすのに10分かかって、彼にとって1時間は60ドルの値打ちがあるとしよう。銀行にお金を1年間預けていたら、5%の利子が得られるとしよう。これだけの情報があれば、ボーモル=トービンモデルから具体的な予測を導き出すことができるのだ。某経済学者は、1年のうちにATMに3回足を運んで、そのたびに1200ドルを銀行口座から引き出すべきなのだ。言い換えると、1年を通じて財布の中に平均で600ドルが入っているようにすべきなのだ(この予測を裏付ける方程式の詳細については、拙著をご確認いただきたい)。

大半の人の財布には(1年を通じて平均で)600ドルも入っていない。ずっと少ない現金しか持ち歩いていない。1年のうちにATMに足を運ぶ回数も3回どころじゃない。もっとずっと多い。モデルから導かれる予測と違っているのは、なぜなのだろう? 謎だ。中級マクロ経済学の講義で格好の題材となるに違いない謎だ。モデルと現実が食い違っているのはなぜなのかをめぐって、実りある討論ができるだろう。 

現金を無くすのを心配しているから、というのが考え得る理由の一つだ。現金を紛失する(あるいは、盗まれる)確率が p だとすると、現金を保有する機会費用は(r+p)〔訳注;rは金利〕へと高まることになる。しかしながら、p に具体的な値を代入してみると、難があることにすぐ気付く。2週間に1回はATMに足を運ぶとかいう現実と合致する予測をモデルから導き出すためには、p の値をだいぶ大きくしないといけないのだ。現実にはあり得ないほど財布をしょっちゅう落とすと想定しないといけないのだ。

持ち歩いている現金の額がモデルから導き出される予測と大きく食い違っているのはどうしてなのかと学生たちに尋ねたら、お金を持ってたらつい使ってしまうかもしれないからだ、という答えがあちこちから返ってくることだろう。興味深い行動仮説だ。お金をポケットに入れておいたら焼け穴を作って出ていってしまう――お金を持っていたら、つい使ってしまいたくなる誘惑にとらわれる――おそれがあるが、銀行に預けておいたらその心配もないというわけだ。この仮説で私自身の行動がうまく説明できるとは思わないので、私としてはこの仮説にそこまで説得力を感じないが、多くの学生は共鳴するんじゃなかろうか。教師としてのこれまでの経験からそう言えそうだ。

2025年5月11日日曜日

Bradford DeLong 「J. S. ミル 対 ECB:ワルラスの法則で世界経済の現状を読み解く」(2010年7月29日)

J. Bradford DeLong, “John Stewart Mill vs. the European Central Bank”(Project Syndicate, July 29, 2010)


経済学の知られたくない秘密の一つは、「経済理論」と名乗れるようなものなんてどこにもないことだ。現実の経済現象に切り込む時に足場として頼れるような一揃いの根本原理なんてものがないのだ。財政緊縮を求める声が世界中でこだましているが、是非とも心に留めておいてもらいたいのは、このことだ。

例えば、生物学者であれば、細胞内でのタンパク質の合成は、DNAにコード化されていることを知っている。化学者であれば、ハイゼンベルグの不確定性原理とパウリの排他原理という二つの原理(それに加えて、空間の三次元性)に遡って、電子配置が安定しているのはなぜなのかを語る。 物理学者であれば、自然界の4つの力に遡ってあれやこれやの説明を試みる。

経済学者には、そのような足場がない。理論を支えていると称する「経済原理」なんてものは、まやかしなのだ。根本的な真理なんかではなく、「正しい」結論を導き出すために弄(いじ)ったり捻ったりできるドアノブみたいなものに過ぎないのだ。

「正しい」結論と言っても、その経済学者がどちらのタイプかによってその意味するところは違う。第一のタイプの経済学者は、まずはじめに政治的なスタンスを決める。どの陣営の味方になるかを決める。そして、自分が選んだ政治的なスタンスに合致する――自分の味方にとって都合がいい――結論が導かれるまで、理論の前提を弄ったり捻ったりする。第二のタイプの経済学者は、まずはじめに歴史の残骸を拾ってくる。次いでそれを鍋に投げ込んで、加熱して煮込む。骨だけになるまで煮込む。その骨から何らかの教訓が得られるかもしれないと願って。ユートピアの実現に向けてノロノロと徘徊する時に、有権者、官僚、政治家に指針を与える原理のヒントが得られるかもしれないと願って。

意外でも何でもないだろうが、第二のタイプの経済学者だけが傾聴に値する何かを語れるというのが私の考えだ。そこで、世界経済の当面の窮状について、歴史からどんな教訓が学べるか探ってみるとしよう。

1829年に、ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)は、彼が「全般的な供給過剰(“general gluts”)」と呼んだ現象にどう立ち向かえばいいかを明らかにした。そのおかげで知的な面で大いなる飛躍が成し遂げられたのだった。ミルは悟った。特定の金融資産に対する超過需要〔需要が供給を上回る状態〕が存在する裏には、生産物市場における財・サービスの超過供給〔供給が需要を上回る状態〕が存在するということを。生産物市場における財・サービスの超過供給は、労働市場における超過供給を生み出すということを。

そこからさらに一歩進めてどのようなことが言えるかも、明らかだった。すなわち、金融資産に対する超過需要を和らげることができたら、財・サービスの超過供給(つまりは、総需要の不足)も労働の超過供給(つまりは、失業)も和らぐのだ。

金融資産に対する超過需要を和らげる方法はたくさんある。

支払い手段として使われる流動的な資産――すなわち、「貨幣」――に対する超過需要が発生しているようなら、中央銀行が貨幣を発行して国債を買い取るのが正攻法である。その結果として、マネーストックが増えて(=「貨幣」の供給量が増加し)、「貨幣」の供給量(残高)と「貨幣」に対する需要量とがつり合うようになる。この方法は、「金融政策」と呼ばれている。

満期が長めの金融資産――現在から将来へと購買力を移転させる「価値の貯蔵手段」として機能する「債券」――に対する超過需要が発生しているようなら、正攻法は二通りある。第1の手段は、企業が借入を増やして(社債の発行を増やして)事業を拡大する方向にどうにかして持っていくことである。第2の手段は、政府が借入を増やして(国債の発行を増やして)政府支出の規模を拡大することである。その結果として、「債券」の供給量(残高)と「債券」に対する需要量とがつり合うようになる。第1の手段は「信頼回復」策と呼ばれていて、第2の手段は「財政政策」と呼ばれている。

安全資産――一時的にその場を離れて戻ってきても、預けた富を前の通りの姿でかくまっていてくれる安全な保管場所――に対する超過需要が発生しているようなら、(マーケットからの)信用度の高い(creditworthy)政府が民間の金融資産に対して政府保証を与えたり、民間の金融資産を国債と取り換えたりするというのが正攻法である。その結果として、リスク資産の供給量(残高)が減少して、安全資産の供給量(残高)が増えることになる。この方法は「資産転換政策」と呼ばれている。

言うまでもないが、現実の世界で試みられる政策は、上の理念型のどれか一つにぴったりと合致するわけじゃない。欧州中央銀行(ECB)は、財政刺激策をこれ以上続けたら逆効果になってしまうと懸念を露にしているが、ECBのその懸念を上の理念型を使って読み替えると、以下のようになるだろうか。「政府支出をさらに増やして、大規模な財政赤字を継続すれば、国債の供給量(残高)が増えることになるので、満期が長めの金融資産に対する超過需要が和らぐだろう。しかしながら、政府債務(国債)の残高が膨らんで政府の債務返済能力を上回るようなら、すべての国債が(安全資産から)リスク資産に変わってしまうだろう。 すなわち、財政刺激策をこれ以上続けたら、満期が長めの金融資産に対する超過需要は和らぐ一方で、安全資産が不足してしまうことになるのだ。そうなれば、状況は前よりも悪くなる」。

ECBの主張によると、北側の主要な国――ドイツ、フランス、イギリス、アメリカ、日本――は、今すぐにも財政緊縮策に方向転換する必要があるという。それらの国の債務(国債)の質に対する金融市場の信頼が揺らいでいて、その信頼がいつ崩壊するかもわからないというのだ。世の政策当局者たちも、ECBの主張に賛同しつつあるようだ。その例の一つが、米国行政管理予算局(OMB)長官であるピーター・オルザグ(Peter Orszag)が7月後半に口にした発言だ。オルザグによると、アメリカ政府が今後3年間にわたって取り組む予定の財政再建では、過去60年で最大規模の歳出削減が試みられるだろうというのだ。

しかし、私の目には、世界経済の現状は大きく違って見える。北側の主要な国の政府が発行する債務(国債)の質に対する金融市場の信頼が揺らいでいるようには見えない。その信頼が崩壊する瀬戸際にあるようには見えない。私の目に映るのは、生産能力を10%下回っていて、失業率が10%に迫ろうとしている世界の姿である。そして何よりも、主要な国の政府が発行する債務(国債)に対して投資家が大きな信頼を抱いている世界の姿である。投資家の多くにとって、政府債務(国債)こそが直近の嵐の中で唯一の安全な港になっているのだ。

ミルであればこのような状況でどのような政策を勧めたかは、あまりにはっきりしている。

2025年5月10日土曜日

David Beckworth 「モノプソニーとしてのFed」(2009年9月11日)

David Beckworth, “The Fed as a Monopsony”(Macro Musings Blog, September 11, 2009)


侮蔑を込めて「貨幣の独占的供給者」と呼ばれることもあるFedだが、新たな呼び名を頂戴しているようだ。マクロ経済学者が出入りする労働市場や思想市場における「モノプソニー」(強大な支配力を持つ買い手)だ(あるいは、それに近い)というのだ。ライアン・グリム(Ryan Grim)がハフィントン・ポスト紙で報じているところによると、一流の学術誌でマクロ経済学についてどんな話題が率先して取り上げられるかにFedが並々ならぬ影響を及ぼしているという。Fedがそれだけの影響力を持っている理由は、(1) 大勢のマクロ経済学者を雇ったり客員研究員として受け入れていて、(2) スタッフたちが貨幣経済学やマクロ経済学の分野の一流の学術誌の編集陣に名を連ねていて、(3) Fedに同情的な元スタッフが大勢いて、(4) 今のところはFedと関わりがない経済学者たちももしかしたらFedとお近づきになれるかもしれない機会をみすみす潰さないように気を配っていて、(5) Fedがマクロ経済学の分野の多くの学術的なカンファレンスのスポンサーになっているからだという。グリムの言い分を引用しておこう。

本紙の調査によって明らかになったのは、コンサルタント、客員研究員、元スタッフ、現スタッフの膨大なネットワークを土台にして、Fedが経済学の世界を徹底的に牛耳っているということだ。中央銀行であるFedを正面から批判すると、経済学者としての将来のキャリアに暗雲が垂れ込めかねないのだ。 
大恐慌以来最悪の危機を予見できなかったFedを批判する声が経済学者たちの間からあまり上がらなかったのも、Fedのその強大な支配力ゆえなのだ。Fedの虜(とりこ)になっていたせいで、経済学者たちも同じ過ちを犯した(危機の予見に失敗した)のだ。 
・・・(中略)・・・ 
Fedの支配力の重要な源泉の一つが、その道の分野の「門番」とのつながりである。例えば、若くてこれからという経済学者にとっては避けては通れない学術誌の一つであるジャーナル・オブ・マネタリー・エコノミクス誌の編集陣の半数以上がFedの現スタッフなのだ。残りも元スタッフなのだ。

グリムの記事は興味深いが、Fedの影響力についてもう少し公平で学術的な批判を加えているのがローレンス・ホワイト(Lawrence H. White)である。2005年にEcon Journal Watch誌に掲載されたホワイトの論文のアブストラクト(要旨)を引用しておこう。

FRB(連邦準備制度)は、アメリカにおいて貨幣経済学の分野の研究を支えている重要なスポンサーの一つである。Fedがスポンサーになっている研究プログラムの規模(インプットおよびアウトプット)をいくつかの方法で計測し、貨幣経済学の分野における学術的な研究の内容に対してFedが及ぼしている直接的ないしは間接的な影響について検討するのが本稿の狙いである。Fedがスポンサーになっている研究は「現状維持バイアス」を抱えているかもしれないのだ。

ホワイトもグリムと同じ結論に達している。Fedは、マクロ経済学者が出入りする労働市場や思想市場において「モノプソニー」に似た影響力を持っているというのである。もっともな批判だが、私としてはあの手この手でFedの政策に疑問を呈し続けるつもりだ。どれもこれも失敗に終わるようでも、まだこのブログがある。・・・いや、待て。何よりも先にテニュア(終身在職権)をとらなくちゃいけない。 

Paul Krugman 「俗流ケインジアン」(1997年2月7日)

Paul Krugman, “Vulgar Keynesians”(Slate, February 7, 1997)


経済学の分野も、その他のあらゆる知的な営みと同様に、「学問版・収穫逓減の法則」の影響下にある。時折、偉大な革新者が颯爽と登場し、まるで詩人のような語り口で、自らのアイデアを披露する。そのアイデアは幾分粗が目立ち、先人(あるいは、主流派)のヴィジョンとの違いが誇張して語られるとしても、そのことは取り立てて問題とはならない。アイデアに磨きがかけられることで、やがて確固としたパースペクティブが形作られる可能性があるからだ。しかしながら、どうしても避けられない定めとして、その革新者の後には、表面上の字句には忠実でありながらも、アイデアの核となる精神を誤解した一群の信奉者が続くことになる――彼らの頑迷さは、主流派が自らの見解に対して見せるこだわりを凌駕するほどである――。革新者のアイデアが広まるにつれて、それはますます単純化されることになり、やがて常識(public consciousness)の一部――「誰もが知る」知識の一部――となるまでに流布した暁には、革新者によるアイデアは、粗っぽいまでに劇画化された姿に変容を遂げてしまうのだ。

これはまさに、ケインズ経済学が辿った道のりでもある。ジョン・メイナード・ケインズその人は、大変緻密で革新的なアイデアの持ち主だった。しかし、不運なことに――意図しないかたちで――、彼は自らの遺産の一つとして、今もなお経済問題を巡る論争に混乱をもたらし続けている思想を産み落としてしまったのである。ここではそれを「俗流ケインズ主義」と呼ぶことにしよう。

ケインズが『雇用・利子および貨幣の一般理論』を出版したのは1936年。それ以前の経済学の世界では、ミクロ経済学――個々の市場の機能を対象にして、稀少な資源があれこれの市場の間にどのように配分されるかを研究する分野――に関しては、精緻で洞察力のある理論が既に発展を遂げていた。その一方で、マクロ経済学の分野――インフレやデフレ、景気の過熱や不況といった一国レベルで発生する現象を研究する分野――は、発育停止とでも呼べる状況にあった。足許で進行中の「大恐慌」について何の説明も提供できずにいたのである。

いわゆる「古典派」のマクロ経済学によると、経済は(放っておいても)長期的には完全雇用に戻る傾向があると見なされていて、(完全雇用が実現している)「長期」だけが分析対象になっていた。「古典派」のマクロ経済学を支える理論的な支柱は2つあった。「貨幣数量説」と、「貸付資金(“loanable funds”)説」である。貨幣数量説というのは、物価がいかに決定されるかについての理論であり、一国の物価水準は、経済に流通する貨幣量に比例すると考えられた。その一方で、貸付資金説というのは、金利がいかに決定されるかについての理論であり、金利は、総貯蓄(一国全体の貯蓄)と総投資(一国全体の投資)の不一致を解消するように上下に変動すると考えられたのである。

ケインズとしても、十分に長いスパンをとってみた場合には、「古典派」のマクロ経済学を支える理論が妥当する可能性もあるかもしれないと認めるのにやぶさかではなかった。しかしながら、彼の有名な言葉をひくと、「長期的には、我々は皆死んでしまう」。そこで、ケインズは次のように主張した。短期において金利の水準を決定するのは、(貸付資金説が説くように)完全雇用下における総貯蓄と総投資のバランスではない。「流動性選好」(“liquidity preference”)――現金と比較して安全性や利便性の面で劣る資産への投資を促す上で(高い利回りのような)十分なインセンティブが提供されない限りは、現金を保有し続けようとする欲望――こそが、短期における金利の水準を決定するのだ、と。さらには、ケインズは次のようにも付け加えた。総貯蓄と総投資は、貸付資金説が妥当しないとしても、必ず等しくなる。とは言っても、(事前的な)総貯蓄が(事前的な)総投資を上回ると、(貸付資金説が説くように)金利が低下するのではなく、雇用量や産出量が減ることで総貯蓄と総投資が一致するようになるのだ、と。別の言い方をすると、何らかの理由――例えば、株価の急落など――で投資需要が減少すると、経済は(雇用量や産出量の落ち込みを伴う)全般的な不況に見舞われるということだ。

このようなヴィジョンは、経済の働きに関する従来の見解に見直しを迫るものだった。その見事なまでの洞察力もあって、当時の若くて優れた経済学徒の間ですぐさま受け入れられた。とはいえ、ケインズは現実を単純化し過ぎている面がある、と早いうちから指摘していた経済学者がいたことも事実である。特に、雇用量や産出量は、金利に対して反作用を及ぼすのが通常であり、このことは大きな違いを生む可能性がある。しかしながら、『一般理論』が出版されてから長年にわたって、多くの経済学者は、ケインズのヴィジョンから導き出される含意に魅惑されることになった。ケインズのヴィジョンは、(節倹という)美徳が罰せられ、浪費が報われる「不思議の国のアリス」のような世界に我々を誘うかのように思われたのだ。

例えば、「貯蓄(節約)のパラドックス」(“paradox of thrift”)について考えてみるとしよう。初期のケインジアンモデルによると、何らかの理由で貯蓄率――所得のうち支出(消費)に回されない割合――が上昇したとしたら、総貯蓄と総投資がともに減少するという結果になる。どうしてだろうか? その理由はこうである。貯蓄率が上昇する(事前的な総貯蓄が増加する)と、消費が減って不況になり、それに伴って所得が減ることになる。所得が減ると、所得の増加関数である総投資が減ることになる。総貯蓄と総投資は最終的には等しくならなければならないので、(減少した総投資と等しくなるように)総貯蓄は減らなければならない!

さらにもう一つ、賃金と雇用の関係をめぐる「寡婦の壺」(“widow's cruse”)理論――この名称は古い伝承にちなんで付けられた――についても取り上げておこう。名目賃金が引き上げられると、人件費が高くなるので労働への需要は減ると思うかもしれない。しかしながら、初期のケインジアンの幾人かは、次のような主張を展開した。名目賃金の上昇は、資本家から労働者への所得の再分配(資本家が受け取る利潤が減って、労働者が受け取る賃金が増えること)を意味する。労働者は、資本家と比べると、あまり貯蓄をしないので――これは事実に反しているのだが、それはまあよしとしておこう――、資本家から労働者へと所得が再分配されると、消費需要が増えて、その結果として産出量と雇用量が増える、と。

このようなパラドックスに思いを馳せることは楽しいし、入門レベルの教科書を開くと今でもその説明に出くわすことがある。

しかしながら、このようなパラドックスを真剣に受け止めている経済学者は、今ではほとんどいない。その理由はいくつかあるが、中でも最も重要な理由は、わずか2語で語ることができる。アラン・グリーンスパンAlan Greenspan)である。

シンプルなケインジアンが語るストーリーを深く掘り下げていくと、金利は、雇用量や産出量の水準から独立して決まると想定されていることがわかる。しかし、現実はそうなっていない。金利は、FRB(連邦準備制度理事会)によって積極的に操作されている。雇用が低調であると判断されると金利が引き下げられて、景気が過熱気味だと判断されると金利が引き上げられるのだ。FRB議長(グリーンスパン)の判断の是非についてあれこれ言いたい人――金融政策をもう少し緩和して景気の拡大を支えるべきだと考えたり――もいるかもしれないが、FRB議長に備わる力の大きさについて疑問を呈することができる人はそうそういないだろう。今後数年間のアメリカの失業率を予測できるシンプルなモデルをお探しのようなら、今ここでそれを紹介して差し上げよう。この先の失業率は、グリーンスパンが望む水準に落ち着くと考えてほぼ間違いないのだ(グリーンスパンも神ではないので、彼が望む水準から若干ずれる可能性も考慮する必要はあるけれど)。

グリーンスパン(FRB議長)の役割を考慮に入れると、マクロ経済の働きに関する「古典派」のヴィジョンの多くが息を吹き返すことになる。とは言っても、そっくりそのままというわけじゃない。「古典派」のヴィジョンでは、(市場の)「見えざる手」が経済を長期的には――とは言っても、具体的にどのくらいの長さの期間かとなると特定されることはないけれど――完全雇用に導くと見なされていたが、現実においては、FRBの「見える手」が経済を2〜3年のうちにNAIRU(非インフレ加速的失業率)に導く役割を果たすのである。そのためには、失業率がNAIRU(あるいは、目標とする失業率)に達した時に総貯蓄と総投資が等しくなるように金利を操作する必要があるが、FRBが金利をそのように操作するようなら、「貯蓄のパラドックス」や「寡婦の壺」理論をはじめとした初期のケインジアンの主張が妥当性を失うことになるのである。例えば、貯蓄率が上昇したら、(貯蓄のパラドックスが説くところとは反対に)総投資は増えるだろう。なぜなら、FRBが金利を下げるだろうからである。

何らかの理由で総需要が変化しても、FRBが金利を操作してそれを打ち消す――そのため、雇用量は変わらない傾向にある――というアイデアは、少なくとも私にとってはシンプルでもっともなものに思える。しかしながら、学術的な世界の外に目をやると、このアイデアを受け入れている人はごくわずかというのが実状のようだ。例えば、NAFTA(北米自由貿易協定)の是非を巡る議論では雇用への影響が焦点になったが、アメリカとメキシコ間の貿易収支がどうなろうとも、今後10年間のアメリカの失業率はFRBが望む水準に概ね落ち着くだろうと私は当然のように考えていたが、世間はそう考えていなかったのだ(こんなことがあった。1993年に開催されたとあるパネルディスカッションの席上でまったく同じことを口にしたら、それを聞いていたパネリストの一人――NAFTAの支持者だったみたいだ――が激昂して、「そんなことを言うから経済学者は嫌われるのだ!」と宣ったのだ)。

その代わり、世間――悲しいかな、自分のことを物知りだと任じている知識人の多くもその中に含まれる――の「常識」になっていたのは、劇画化されたケインズ主義の一種だった。その特徴は、「消費の減少(貯蓄の増加)は、いついかなる時も悪である」というアイデアを無批判に受け入れているところにある。アメリカではインフレや財政赤字の問題がここしばらくは後景に退いているが、その機に乗じるかのようにして、俗流ケインズ主義が劇的なかたちでカムバックを果たしたのだ。先月のコラムで取り上げたばかりのウィリアム・グレイダー(William Greider)の新著でも、「貯蓄のパラドックス」とか「寡婦の壺」理論とかが主要なテーマになっているし――とは言っても、グレイダーがそのアイデアの出所をわかっているかとなると疑わしい。「知的な面で誰からも影響を受けていないと信じ切っている実践的な人間も、今は亡き経済学者の奴隷であるのが普通である」とはケインズの言だ――、 ジョン・ジュディス(John B. Judis)がニュー・リパブリック誌で似たような主張を開陳している姿も目に入る。これくらいなら驚くほどじゃないかもしれないが、「貯蓄の増加は、経済成長を阻害する」というアイデアがビジネスウィーク誌でも真剣に扱われているとなると(“Looking for Growth in All the Wrong Places,” February 3, 1997)、俗流ケインズ主義が一つの文化現象になりつつあると考えざるを得ないだろう。

「貯蓄の増加は、経済成長を阻害する」という主張――「貯蓄は、経済が成長するために決定的に重要な要因だと語る人がいるが、そこまでじゃない」という主張はある程度理にかなっているが、「貯蓄の増加は、経済成長を阻害する」という主張とは別物だ――を正当化するためには、FRBは無力だということを説得的に示さなければならない。何らかの理由で(事前的な)貯蓄が増加したら、FRBが金利を引き下げても総投資は増えないということを論証せねばならないのだ。

金利は、総投資に影響を及ぼす数ある要因のうちの一つに過ぎないと語るだけでは十分じゃない。そのような反論は、アクセルペダルを踏み込む力の強さは、車のスピードに影響を及ぼす数ある要因の一つに過ぎないと語っているようなものだ。「それで?」としか思わない。アクセルペダルをどれだけ強く踏み込むかは、自分で自由に調節できる。何か異常がない限りは、ペダルを踏み込む強さを調節して、車のスピードを「これくらいなら安全に運転できるだろう」と自分なりに考える速度に制御できる。それと同様に、グリーンスパンは、お望み通りに金利を自由に調節できる(FRBが望みさえすれば、一日のうちにマネーサプライの規模を倍増させることだってできる)。何か異常がない限りは、金利を調節して、雇用量を「これくらいならインフレも加速しないだろう」と考える水準に持っていくことができるのだ。

「貯蓄の増加は、経済成長を阻害する」という主張を正当化するためには、次のどちらかが成り立つことを示さねばならない。金利が総需要に対して何の影響も持たないことを示すか――本気でそう信じているなら、全米ホームビルダー協会(NAHB)に伝えてみるといい――、貯蓄率があまりに高すぎて、FRBが金利をゼロ%近くにまで引き下げても総貯蓄と総投資のギャップを埋められないことを示さねばならないのだ。1930年代のアメリカだったり――当時のTビル(財務省短期証券)の利回りは0.1%を下回っていた――、現在の日本だったり――現在の日本では、金利は1%程度――のように、後者のケースが妥当する例もなくはない――とはいえ、日本銀行は日本経済を停滞から救い出せるだけの力を依然として持っていると思うし、日銀の消極的な態度はかなりの不正行為(malfeasance)にあたると思う。しかし、この件については、別の機会に取り上げるとしよう――。しかしながら、住宅ローンを借りている銀行から自宅に通知書が毎月送られてくるのだが、それを見ると金利はプラスで、下がる余地はまだかなりあるようだ。ありがたや。

ともあれ、そこまでこだわる必要もないかもしれない。というのも、「貯蓄の増加は、経済成長を阻害する」と語っている人たちは、FRBが無力だとは思っていないようだからだ。それどころか、これまでの長きにわたってアメリカ経済のパフォーマンスが低調だったのは、全部FRBのせいだと語っていたりするのだ。グリーンスパンが腰を上げさえすれば、今の苦境から抜け出すことができるのにと語っていたりするのだ。

2月3日付のビジネスウィーク誌から引用するとしよう。

「貯蓄が増えると、景気が減速する可能性が高い」と語る「つむじ曲がり」の経済学者もいる。貯蓄が増えると、投資が活発になるのではなくむしろ落ち込むというのがその理由だ。「投資を刺激する必要があります」と語るのは、テキサス大学のジェームス・ガルブレイス(James K. Galbraith)。ケインジアンを自任する経済学者だ。ガルブレイスによると、経済成長を促すには金利を引き下げるべきだという。

つまりは、こう主張していることになる。貯蓄が増えると、景気が悪化する。FRBが金利を引き下げても、総投資が増えないからだ。その代わり、FRBは、金利を引き下げて経済成長を促すべきだ。金利を引き下げれば、総投資が増えて経済成長が促されるだろうから。

・・・何か見過ごしてる?

2012年12月17日月曜日

Garett Jones 「『債務』という名の最も粘着的な価格」(2012年9月11日)

Garett Jones, “Debt: The Stickiest Price of All”(EconLog, September 11, 2012)


名目支出(総需要)が減るせいで実体経済に害が及ぶとしたらいかにしてか? そのことについて経済学者はぺちゃくちゃと喋りまくる。いや、喋らざるを得ないのだ。名目支出が減ると、産出量(実質GDP)が減るというのは当たり前ではないからだ。「一般的な供給過剰」(general gluts)の存在を前提するわけにはいかないからだ。

窓の外に目をやれば供給過剰の証拠なんてすぐに見つかるというのが世間の考えだというのに、供給過剰を生んでいる根本原因を解き明かすためにわざわざ頭を悩ます必要なんてあるんだろうか? あるのだ。供給過剰の存在は、経済学者がこれまでに育んできた偉大なアイデアの一つと抵触するのだ。売れ残りが出るようなら――労働者が職にあぶれていたり、住宅が売れ残っていたり、車が売れずに駐車場で錆びついていたりするようなら――、価格が低下して、売り捌かれるはずなのだ。

売れ残りが出ると、供給過剰を解消するようなプロセスが始動するはずなのだ。その実例を知りたければ、終了まで残り30分のガレージセールを眺めるといい。

価格の力に刃向かって供給過剰が解消されるのを妨げる「摩擦」(“frictions”)というのがあるとすれば、相当強力じゃないといけないはずで、誰の目にもすぐに目につくはずだ。しかしながら、経済学者が持ち出す「摩擦」というと、「粘着価格」(“sticky prices”)だとか、「粘着賃金」(“sticky wages”)だとか、文化規範だとか、公共部門の労働組合だとかというのが通例だ。どれも強力だし、その存在も疑おうとは思わない。しかしながら、需要と供給の力を上回るくらい強力だろうか? 何年も持続するくらい強力だろうか?

ここで、私のお気に入りの「摩擦」にご登場願おう。社会心理学的な理由によってではなく、契約の力によって生じる「摩擦」である。その名は、「債務」(debt)。家計が負う債務。企業が負う債務。政府が負う債務。債務の破壊力に着目した経済学者と言えば、アーヴィング・フィッシャー(Irving Fisher)だ。1933年にエコノメトリカ誌の第1号に掲載された大変優れた論文(pdf)で、債務が景気を収縮させることを説いたのだ。フィッシャーの不況理論(デット・デフレ理論)は、ケインズの『一般理論』の中のどの説明よりも優れているというのが私の考えだ。

債務が存在するようだと、売り上げがちょっと落ち込むだけでも破産するおそれがある。収入が大きく落ち込むと、資産の投げ売りが誘発される。借り入れている額が大きいほど、自由にできるお金も少なくなる。債務の返済に充てないといけないからだ。クレジットカードの滞納が何度か続くと、これまでとは別の社会階級に仲間入りしないといけなくなる。住宅ローンが返済できないと、警察がやって来て我が家から追い出される。クレジットカードの支払いにしろ、住宅ローンの返済にしろ、粘着的な価格なのだ。

実質値で測った小売売上高が危機以前のトレンドをおよそ15%も下回った理由の一部は、債務が粘着的な価格だからだろう。大きく落ち込んだ売上高の中から債務を返済して、警察が我が家にやって来るのを防がなくてはいけないのだ。

個人的にこれという答えが出せないでいる問いがある。民間部門の債務は、大きな「負の外部性」を生むのだろうか? 名目所得(名目GDP)が不安定なようなら、その答えは「おそらくイエス」というのがフィッシャーの教えなのだ。

2012年10月11日木曜日

Paul Krugman 「デレバレッジ・ショックと財政乗数」(2012年10月9日)

Paul Krugman, “Deleveraging Shocks and the Multiplier (Sort of Wonkish)”(The Conscience of a Liberal, October 9, 2012)


IMFが財政乗数の推計について懺悔していて、ジョナサン・ポルテス(Jonathan Portes)――1週間後にロンドンで財政政策について討論する予定になっていて、彼とは共同戦線を張ることになりそうだ――がそのことについてコメントを加えている。世界中の多くの政策当局者は、財政乗数の値が1を大きく下回るという前提で行動してきたが、経験に照らすなら財政乗数の値は1よりも大きいようだというのだ。

あえて指摘しておかないといけないと思うことがある。財政乗数の値が大きくなる理屈と、危機が起こる理屈との間には非常に密接なつながりがあるのだ。信用バブルが崩落した後には、財政乗数の値が大きくなると予想されるのだ。それだからこそ、信用バブルが崩落した後にどうにでもなれとあきらめてしまうと――もっとまずいことには、財政緊縮に乗り出してしまうと――、ひどい害が招かれてしまうのだ。

今みたいな混乱に陥ることになってしまったのは、どうしてなんだろう? 借り入れに対して過度に強気な姿勢が続いていたかと思ったらある日突然目が覚めたというのが、シンプルだけど概ね正しい筋書きだ。家計が負う債務が急速に膨れ上がって、ある時突如として借り過ぎだと悟られたのだ。




マクロ経済学的な観点からすると見逃せないのは、借り入れとデレバレッジ(債務の圧縮)が景気に及ぼす効果が非対称ということだ。他の事情が一定で変わらないようなら、借り入れが増えると総需要も増える。でも、そのようにして総需要が増えても中央銀行がその気になれば相殺できるし、その気になって相殺するのが通常だ。金利を引き上げるのはいつだって可能だからだ。その一方で、デレバレッジが景気に及ぼす効果を相殺するのは、借り入れが景気に及ぼす効果を相殺するのと同じくらい造作ないかというと、そうじゃない。金利を引き下げて応じるという手があるが、ゼロ%までしか下げられない。非伝統的な金融政策で応じるという手もあるが、非伝統的な金融政策については異論もあって、その効果も不確かなところがある(だからといって、非伝統的な金融政策には手を付けるなかれと言いたいわけじゃない)。

つまりは、借り入れが急速に膨張していたのが一転して、誰も彼もがデレバレッジ(債務の圧縮)に勤(いそ)しむようになると、総需要の不足が長引いてしまう可能性があるのだ。通常の金融政策によってはそのことを解決できない可能性があるのだ。僕が言うところの「不況の経済学」が当てはまる状況に陥ってしまうのだ。

信用バブルが崩落した後に財政乗数の値が通常よりも大きくなるのも同じ事情が絡んでいる。通常であれば、拡張的な財政政策は、金融引き締め(金利の引き上げ)によって相殺される一方で、緊縮的な財政政策は、金融緩和(金利の引き下げ)によって相殺される。通常の経験に基づいて導き出された財政乗数の推計値が小さいのもそのためなのだ。しかしながら、誰も彼もがデレバレッジに勤しむせいで「流動性の罠」に陥ってしまうと、金融政策によって財政政策の効果を打ち消すことができなくなる。

「流動性の罠」に陥ってしまったとしたら、財政乗数の値はどれくらいになると予想されるだろうか? 答. 1より大きい。

その理由を探るために、まずは摩擦の無い世界を想定してみるとしよう。つまりは、消費者が将来のことを完全に見通すことができて(完全予見の仮定)、誰もが資本市場に自由にアクセスできる(資本市場の完全性の仮定)と想定するとしよう。摩擦の無い世界では、財政乗数の値は1になるはずだ。政府支出が変化しても、消費支出は増えも減りもしないはずだ。それゆえ、政府支出が増えるのと同額だけGDPが増えるはずだ。その理由は? 政府支出が増えると、今の時点で所得が増えるけど、それと同時に将来における税負担も増えるからだ。それら2つの効果がちょうど打ち消し合うことになるのだ。

現実に近付けて摩擦を付け加えてみるとしよう。家計は流動性制約下にあるか、今の所得がどれくらいかに照らして消費のために使う金額を決めるような経験則(rules of thumb)に従っているとしよう――ところで、エガートソン(Gauti Eggertsson)との共著論文でも指摘したが、債務ないしはデレバレッジを組み込んだモデルを使うというのは、多くの家計が流動性制約下にあると想定していることを意味するのだ――。そのような摩擦が存在するようなら、政府支出が増える結果として今の時点で所得が増えたら、消費支出も同じようにいくらか増えるだろう。反対に、政府支出が減る結果として今の時点で所得が減ったら、消費支出も同じようにいくらか減るだろう。つまりは、財政乗数の値が1よりも大きくなるのだ。

マーケットからの「信頼」がどうのこうのという意見があるかもしれない。政府支出が変化したとして、それが将来における政府支出のもっと大きな変化の前触れであるとみんなが信じるようなら、先の結論もひっくり返るかもしれない。でも、財政刺激策が試みられたとして、将来的に何かもっと大きな変化があるに違いないとみんなが信じるかというと、そんなことは到底ありそうにない。これまでを振り返ると、財政刺激策はあくまでも一時的な措置でしかなかったからだ。財政危機に陥って慌てて財政緊縮策に乗り出す場合にしても、将来的に何かもっと大きな変化があるに違いないとみんなが信じるかというと、かなり疑わしい。

そんなわけで、財政乗数の値が大きいからといって驚くべき理由なんてないのだ。今のような危機に陥ったら、そうなるはずと予測できたことなのだ。財政乗数の値が1を大きく下回るなんていう正当化し得ない想定が受け入れられたせいで、危機の深刻化に拍車がかかってしまったのだ。

Antonio Fatas 「過小評価された財政乗数」(2012年10月8日)

Antonio Fatas, “Underestimating Fiscal Policy Multipliers”(Antonio Fatas on the Global Economy, October 8, 2012)


IMFの世界経済見通し(IMF World Economic Outlook)の最新版(2012年10月)が公表されたが、世界経済の成長が鈍化するリスクについて強く警戒されている(報告書の全文はこちら)。第1章に目を向けると、これまでの成長予測において財政乗数の大きさが過小評価されていた可能性について優れた分析が加えられている。一部を引用しよう。

多くの国々が財政再建に取り組む中で、財政乗数の大きさについて激しい議論が繰り広げられた。財政乗数の値が小さければ小さいほど、財政再建に伴うコストも小さくなる。実際のところはどうだったか? 財政再建に着手した国々のパフォーマンスは、期待を裏切るものだった。そこで当然問われるべきは、財政乗数の値が過小評価されていたのではないかということである。財政引き締めが景気に及ぼす短期的なマイナスの効果が予想を上回ったのは、財政乗数の値が過小評価されていたからではないかということである。

そうなのだ。財政乗数の値は過小評価されていたのだ。

これまでの経緯を私なりに振り返ってみるとしよう。11年くらい前に試みられた一連の学術的な研究によると、財政乗数の値は1〜1.5の範囲にあると推計されていた。言い換えると、政府支出が1%増えると、GDPが1〜1.5%増えると推計されていたのである。2001年にイリアン・ミホフ(Ilian Mihov)と一緒に書いた論文――その論文はこちら(pdf)――で私なりに達した結論でもあり、ほぼ同じ時期に書かれたオリヴィエ・ブランシャール(Oliver Blanchard)とロベルト・ペロッティ(Roberto Perotti)の共著論文――その論文はこちら(pdf)――でも同じ結論が得られている。この件についてはその後に大量の研究が積み重ねられた。数多くの論文が(財政乗数の値が1〜1.5の範囲にあるという)先の推計結果を追認したが、疑問を投げ掛ける論文もあった。例えば、戦争のようなイベントに着目した研究では、財政乗数の推計値は小さくなりがちだった。財政政策が絡んでくる問題だけに、論争はいつまで経っても鎮まらなかった。乗数の値はゼロに近い、いやマイナスだ――政府支出が増えると、それと同じ額かそれ以上に民間の支出が減る――と語る研究者も出てくる始末だった。 

論争はあったものの、2008年に危機が勃発するまでに得られていた研究成果を私なりに振り返ると、乗数の値は1くらいか1を少し上回るというのが大方の見立てだったと言っていいと思う。

2008年に危機が勃発すると、財政乗数の値がどれくらいかという問題は、学術的な論争の対象から、緊急を要する政策課題の争点になった。財政刺激策はどれくらいのインパクトを持つのだろう? オバマ政権は、財政刺激策の必要性を正当化するために、財政乗数の値が1.5くらいであることを示唆する報告書――執筆者の一人は、クリスティーナ・ローマー(Christina Romer)――を発表した。この報告書に批判を加えたのは、深刻な危機に陥っていようが総需要を管理しようなんて以ての外だと信じている人たちだった。財政乗数の値をめぐる論争は、イデオロギー闘争の様相を強めていった。その一方で、我々が今まさに直面しているような特殊な状況――金融政策がゼロ下限制約に直面していて、債務の圧縮に伴って民間の需要が落ち込んで深刻な景気後退に陥っている状況――では、乗数の値が11年前の推計値よりも大きくなる可能性を示唆する学術的な研究がちらほらと表れ出した。

しかしながら、その新しい研究成果も従来の研究成果ともども無視された。財政刺激策が試みられた後の2008年〜2009年に繰り広げられたイデオロギー色が濃い論争の結果として導き出されたのは、財政刺激策は効果がなかったし、財政緊縮に邁進することこそが求められているという結論だった。過去2年の間に多くの政府が足並みを揃えて財政緊縮に乗り出したが、乗数の値が大きい可能性を見過ごしてGDPの成長率が予測されたのだった。

IMFが最新の世界経済見通しの中で自己批判を込めて分析しているが、世界経済の成長率を予測するために使っていたモデルに検討を加えたところ、財政再建のインパクトを予測するにあたって乗数の値が0.5くらいであると暗黙のうちに想定されていたことがわかったという。GDPの成長率の実績値が予測を下回ったことを踏まえると、乗数の値は0.5を上回るのではないかというのがIMFの考えで、乗数の値は0.9〜1.7の範囲にあるかもしれないと示唆している。11年前の推計結果とほとんど同じであり、最新の推計結果とも合致する。今のような特殊な状況に置かれたら乗数の値がどうなりそうかをモデルを使って理論的に予測する試みもあるが、その大半の結果ともそれほどかけ離れていないのだ。

2012年7月25日水曜日

「ケインズ経済学に対する新たなる基礎づけ;ジョージ・アカロフへのインタビュー」

The New Case for Keynesianism;Interview with George Akerlof(pdf)”(Challenge, vol. 50, no. 4, July/August 2007, pp. 5–16)


現在主流の経済学で広く受け入れられている諸前提に挑むのはノーベル経済学賞受賞者でもあるジョージ・アカロフ。市場参加者の意思決定(なぜそのような意思決定を行うのか、意思決定はどのように行われるのか)に関してもっと現実的な見方に立てば、ケインジアンの信念が無理のないかたちで正当化されることが判明するだろう。政府による政策は経済を運営する上で決定的な役割を果たす。政府による政策を欠いた状態では、我々は一層大きなリスクに直面することになり、おそらくは経済成長は鈍化することになるだろう。

インタビュワー;アカロフ教授、この冬(訳注;2006年の冬)にあなたがアメリカ経済学会の総会で行われた会長講演(欄外訳注)は大変挑発的な内容でした。講演では現在主流の経済学で広く受け入れられている教義のいくつかに対して正面切って挑戦をなされました。講演の目的というのは一体どのようなものだったのでしょうか?
 
アカロフ;そもそも私が経済学を学び始めた理由は特にマクロ経済学、それも基本的には失業の原因(どうして失業が生じるのか、といった問題)に興味を持ったことにありました。失業の問題は私がこれまでに学者としてのキャリアを通じて行ってきた研究の大半の中心をなしてきたと言えます。先の会長講演では、現在主流のマクロ経済学に関する私なりのビジョンを提示するとともに、古いタイプのマクロ経済学-私個人の目には常に常識的な見解として映ってきたマクロ経済学-に対してもっと高い評価を与えるべき理由について説明したいと考えました。ここで古いタイプのマクロ経済学というのは基本的にはケインズのマクロ経済学のことを指しています。

インタビュワー;ケインズはこれまでに(ケインズが自説を発表した当時においてもそれ以降の時代においても)辛辣な批判にされされてきました。アカロフ教授が試みようと考えてらっしゃるのはこのケインズ批判の潮流を反転させることにあるのでしょうか?

アカロフ;ケインズに対する攻撃は彼の古典的な著作である『雇用、利子および貨幣の一般理論』が発表された1936年当時から既に見られたところではありましたが、ケインズ主義(Keynesianism)はまたたく間に教科書や経済学的な思考(economic thinking)における標準的な見解として定着することになりました。しかしながら、1970年代~1980年代に入ると、ケインズ経済学の理論体系とそれを支える諸前提に対してちょっとした修正を施すと、最終的に理論上における大きな変化がもたらされることを幾人かの経済学者が発見することになったのです。

インタビュワー;「ケインズ経済学」ということで正確にはどのようなことを意味されているのでしょうか? まずはこの点についてお話しいただけるでしょうか?

アカロフ;「ケインズ経済学」ということで私が意味しているのは、政府は経済の安定化を図る役割を担うべきである、ということです。政府がその役割を果たすにあたっては金融政策に頼ることができるでしょうし、金融政策がうまく機能しない場合には財政政策に頼るという選択肢もあるでしょう。具体的な手段はともかく、「ケインズ経済学」においては、経済の安定化を一国政府の責任の一つと見なすのです。

インタビュワー;『一般理論』が出版された当時、ケインズは金融政策-マネーサプライや金利の操作-よりも財政政策-税金や政府支出の操作-にずっと大きな関心を持っていると解釈されていました。これはケインズに対する誤った解釈であるとお考えでしょうか?

アカロフ;いや、そうは思いません。ただ、ケインズが執筆していた当時は他の時期とは状況が大きく異なっていた点を思い出す必要があります。大恐慌当時においてプライムレート(優良企業向けの優遇貸出金利)はほぼゼロ%の水準にありました。そのため、金利への影響を通じて機能する金融政策は(経済を刺激する上で)ほとんど何の効果も持ち得ず、頼れるのは財政政策だけという状況だったのです。しかし、戦後になり再び繁栄が戻ってくると、金利がゼロ%に近い状況というのはもはやお目にかかれなくなり、経済の安定化を図る手段として再度金融政策に頼ることが可能となりました。加えて、金融政策は財政政策よりも柔軟性に富んでいるように思われます。 というのも、金融政策は大統領や議会ではなく中央銀行(アメリカではFRB)によって決定されているので速やかに変更することが可能だからです。そういうわけで、現在では(財政政策だけではなく)金融政策と財政政策の両者ともにケインズ政策に含まれると考えられています。景気が悪化すると景気の浮揚を狙って政府が減税に臨んだり、時には政府支出の増加に臨む傾向を目にするでしょうが、これはまさしく古典的なケインズ流の財政政策です。

インタビュワー;さて、先ほど、1970年代~1980年代に入るとケインズ経済学を支える諸前提に対して修正が施されることになった、とのお話がありましたが-そのような修正は主にミルトン・フリードマン(Milton Friedman)をはじめとしたシカゴ大学の経済学者によって施されたと言っても差支えないと考えるのですが-、ケインズ主義に対する攻撃をひきつけることになった(ケインズ経済学を支える)諸前提というのはどのようなものだったのでしょうか? 

アカロフ;基本的には3つの前提です。まず1つ目は、現在の消費は現在の所得に依存する、という前提です。この前提に対してミルトン・フリードマンは、「それは間違いだ。人は合理的であり、それゆえ、個々人が現在どれだけ消費するかは単に現在の所得だけに依存するのではなくこれから先の生涯全体にわたる所得(訳注;もっと正確には、恒常所得)にずっと大きく依存するはずである。さらには、個々人が資産を保有している場合には、資産もまた現在の消費に影響を与えるだろう」、と反論しました。もしフリードマンのこの反論が正しいとすると、ケインズ政策の実施は一層困難なことになります。というのも、政府支出の増加を通じて人々に仕事が提供され現在の所得が増加するとしても、(フリードマンの反論が正しければ)現在の消費は現在の所得にそれほど敏感には反応しないので、政府支出の増加が有する乗数効果は小さくなるだろうからです。

インタビュワー;フリードマンの反論が正しければ、政府支出の増加が経済を刺激する効果は(ケインズ経済学において想定されている場合よりも)小さくなるということですね。ところで、フリードマンとよく似たモデルを提案した経済学者として例えばフランコ・モジリアーニ(Franco Modigliani)やジェームス・デューセンベリー(James Duesenberry)といった人々-フリードマンのように政治的な保守派であるとは言えない経済学者-がいます。彼らのモデルはフリードマンのものと同じと見ていいのでしょうか? それともいささか違ったところがあるのでしょうか?

アカロフ;基本的には同じと見て構いません。ですので、(ケインズ経済学を支える)1つ目の前提に対して反論を加えたのはフリードマンだけではない、ということになりますね。フリードマンの恒常所得仮説には支持するに値する見解があると信じられており、その見解が広く共有されているわけです。その見解というのは、つまりは、現在の消費は現在の所得だけに依存するわけではない、というものです。 しかしながら、ケインズが執筆したものを見ると、彼が大変慎重であったことがわかります。確かにケインズは、現在の消費は主に現在の所得に依存すると述べていますが、同時に彼は現在の消費が依存する可能性のあるそれ以外の変数からなる長いリスト-その中には将来の所得も含まれます-を掲げてもいるのです。フリードマンのユニークな点は、現在の所得は富-すべての将来所得を含んだ富-の一部として勘定される以外のかたちでは(訳注;富ならびに恒常所得を変化させない限りは)現在の消費に対して影響を与えることはない、と主張したところにあります。これは極端な見解であると言えます。ところで実際の事実を見ますと、現在の消費はかつてケインズが主張したのとそっくりのかたちで現在の所得に依存しているように思われます。しかし、そうだとしたら問題が生じることになります。フリードマンが主張したように、人々が合理的であるとすれば、消費の決定は恒常所得に基づいて行われるはずですが、そうだとすると現在の消費が現在の所得に依存するという事実をどう説明したらよいのでしょうか? この事実を説明する上で最も簡単な方法は、人々は規範(norm)に従って行動していると想定することにあると私は考えます。消費はどのようにあるべきか(どれだけの金額を消費するべきか/消費してもよいか)という点に関して人はそれぞれに見解を持っており、その見解はどれだけの額を支出に回す権利(資格)があると感じているか(how much they feel entitled to spend)に依存していると考えられるのです。大半の人々にとっては、自らが支出に回す権利があると感じる額は現在どれだけ稼いでいるか(現在の所得)に大きく依存するでしょう。現在の所得以上に支出すると、何か不味いことをしているのではないかと感じるのです。こういった理由で、現在の所得は現在の消費を決定する上で特別な役割を果たすことになるのです。現在の消費と将来の消費との間の選択は-フリードマンが主張したように-単に経済的な便益と経済的なコストとを天秤にかけて行われている、というわけではないと考えられるのです。

インタビュワー;次に他の前提についてお話をうかがうことにしましょう。ケインズ主義に対する攻撃をひきつけることになった1つ目の前提は消費関数を巡るものでしたが、その他の前提はどのようなものだとお考えでしょうか?

アカロフ;2つ目の前提は投資に関するものです。企業が投資を行うのは投資がもたらす経済的な報酬が投資の実施に要する経済的なコストを上回る場合に限ってである、との見解がありますが、これとは対照的にケインズは、企業による投資はキャッシュフローにも依存する、と主張しました。大きな利潤を手にした企業は(訳注;その大きな利潤を基にして)大規模な投資を行い、一方で、それほど利潤をあげられなかった企業は(訳注;その小さな利潤を基にして)わずかばかりの投資しか行わない、と考えたのです。

インタビュワー;企業の投資に関するケインズのその前提に対してどのような反論があったのでしょうか?

アカロフ;フランコ・モジリアーニとマートン・ミラー(Merton Miller)という2人の経済学者が次のような理論を発展させて反論を寄せたのです。もし人々が完全に合理的だとすれば、経営者は株主に対して可能な限り最大の収益をもたらすように行動するので、その結果として企業による投資は現在のキャッシュフローからは独立して決定されるだろう。企業による投資はこれから実施される予定の投資の収益性のみに依存するだろう、と。しかし、先ほど話した現在の消費と現在の所得との関係の例のように、ここでも実証的な事実はモジリアーニ=ミラーの理論に疑問を投げかけているのです。現実には、企業による投資は現在のキャッシュフローに敏感に反応しているのです。
 
インタビュワー;つまりは、ここでもまた反ケインズ的な見方からケインズ的な見方への回帰が生じた-他にもっと適当な表現があるのかもしれませんが-ということですね。

アカロフ;そういうことです。そして、この事実をうまく説明するような新たな理論、経営者の行動に関する新たな理論というのも開発されています。この理論では、経営者は単に株主の利益のことだけを考えて企業を経営しているわけではなく、経営者は自らが念頭に置いている利益もまた追求しようと試みるものだ、と捉えます。彼ら経営者は「帝国の建設者(empire-builders)」であって、利用可能な資金があればそれを基にして自分にとって望ましいと感じるような仕方で投資を実施するのです。こうして、私たちは再びケインズ的な見方に立ち戻ることになります。キャッシュフローが豊富にあると、それを基にして大規模な投資が行われることになるのです。

インタビュワー;ということは、かつてケインズ主義を覆した前提が今後は逆に覆されつつある、というわけですね。

アカロフ;もし現実の人間が標準的な経済学のモデルにおいて想定されているのとは別のものを最大化しようと試みるのだとすれば-現実の人間が合理的な経済人とは異なる利益を追求するとすれば-、最終的に得られる結論は標準的な経済学のモデルが予測するのとは異なったものとなることでしょう。そして、その結論はオリジナルのケインズモデルと似た性質を備えていると考えられるのです。

インタビュワー;それでは、3つ目の前提についてお話しいただけるでしょうか?

アカロフ;この3つの目の前提というのは私が最も重要だと考えるポイントでもあります。さて、賃金や価格というのはどのように設定されるのでしょうか? 40年ほど前、ミルトン・フリードマンとエドモンド・フェルプス(Edmund Phelps)は非常に興味深い理論を公にしました。彼らが主張するには、失業率がある水準-自然失業率と呼ばれています-を下回ればインフレーションが加速することになり、反対に、失業率が自然失業率を上回ればデフレーションが加速することになる、というのです。どうしてそうなるのでしょうか? 彼らによればその理由はこういうことです。現実の失業率が自然失業率を下回ったとすれば、現実のインフレ率は期待インフレ率を上回ることになるでしょう。現実のインフレ率があらかじめ予想していた以上の高さであることが判明すれば、労働者は賃金の引き上げを要求し、経営側は自社製品の価格引き上げに臨むことになるでしょう。このようにして、現実の失業率が自然失業率を下回るとインフレーションが加速することになる、というのです。もしフリードマン=フェルプスの主張が正しいとすれば、財政政策は長期的な失業の水準にほとんど何の影響も及ぼせない、ということになるでしょう。というのも、現実の失業率が自然失業率を下回ったとしても(訳注;その状態は一時的なものでやがて現実の失業率は自然失業率に落ち着き)最終的にインフレーションが加速するだけであり、現実の失業率が自然失業率を上回ったとしても(訳注;その状態は一時的なものでやがて現実の失業率は自然失業率に落ち着き)最終的にデフレーションが加速するだけ、ということになるからです。

インタビュワー;フリードマンとフェルプスによって自然失業仮説が提唱される以前は、フィリップスカーブが大きな影響力を誇っていました。

アカロフ;その通りです。かつては、インフレ率の水準と失業の水準との間にはトレードオフが存在する、と考えられていました。つまりは、失業率が低ければ低いほどそれに応じてインフレ率は高くなる、と考えられていたのです。ところが、フリードマンとフェルプスによれば、失業率が自然失業率を下回るような状況では、(訳注;インフレ率が上昇することと引き換えに失業率が低下する、ということはなく)インフレーションがコントロールを失って加速するような悪循環が生じることになる、というのです。

インタビュワー;フリードマンとフェルプスによる自然失業率仮説は政府による政策に対してどのような意味合いを持っているのでしょうか?

アカロフ;もし彼らの理論が現実に妥当するのだとすれば、金融政策や財政政策によっては現実の失業率を長期にわたって自然失業率と大きく異なるような水準にとどめておくことはできない、ということになります。つまりは、金融政策や財政政策は経済の長期的な繁栄(繁栄というのは結局のところ職(job)の問題に尽きます)に対して何の効果も持たない、ということになるのです。

インタビュワー;なるほど。それではなぜフリードマンとフェルプスの主張は成り立たないとお考えなのでしょうか?

アカロフ;彼らの主張には真実の要素が含まれてはいます。価格を設定するにあたって、人々はある程度期待インフレ率を考慮する、というのは確かにその通りでしょう。賃金契約に臨むにあたって、人々はおそらくこの先のインフレ率がどうなりそうかを考慮に入れることでしょう。しかし、フェルプスやフリードマンの理論は高い正確性と合理性を要求しています。彼らの理論では、期待インフレ率が1%ポイントだけ上昇すると、人々は設定する価格を1%ポイントだけ引き上げ、名目賃金の1%ポイントの引き上げを求める、と見なされているのです。これは非現実的なまでの正確性を要求するものと言えます。期待インフレ率が価格や賃金の設定に影響を持っているのは確かだと私も考えますが、両者が正確に1対1で対応している(訳注;価格や賃金が期待インフレ率の変化とそっくり同じ規模だけ改訂される)かどうかはわかりません。統計上の証拠は、両者が1対1で対応していることを明白な形で支持している、というわけではありません。どうやら多くの経済学者は期待インフレ率が価格や賃金の設定に及ぼす影響を現実よりもずっと強力なものとして解釈してきたようです。さて、期待インフレ率と価格・賃金の設定とが1対1では対応していないとすれば、どういうことになるでしょうか? 結論を言いますと、インフレーションと失業率との間には、フィリップスカーブが示唆するように、かなりのトレードオフが存在することになるかもしれないのです。

インタビュワー;期待インフレ率と価格・賃金の設定が1対1で対応するかのように見なしてきた経済学者らは一体何を見過ごしてしまったのでしょうか?

アカロフ;重要なポイントは貨幣錯覚(money illusion)の存在です。貨幣錯覚が存在する、ということは、人々は名目価格(nominal price)を通じてものを考えるということです。もし5ドルだけ名目賃金が上昇したら、人々はそれ以前(賃金上昇前)に手にしていたよりも5ドル多く、あるいは何かしらを多く手にすることになると考えるのです。たとえインフレーションが生じていたとしても、です。つまりは、貨幣錯覚が存在する場合、人々は賃金でどれだけの財が購入できるか、というようには考えないのです。そして、非常に重要な2つのインタビュー調査によれば、名目賃金が上昇すると、たとえ財の価格が同じだけ上昇していたとしても、人々は名目賃金の上昇を受けて以前よりも幸福を感じることが明らかにされています。今私が主張していることとフリードマン=フェルプスが主張していることとの違いは、フリードマン=フェルプスによる想定、つまりは、人は皆極めて合理的である、との想定にあります。フリードマン=フェルプスによれば、人々が賃金について考える際には、自らの賃金でどれだけの財が購入できるかという点にしか注意が向けられない-言い換えれば、人々はインフレーションで調整した賃金(実質賃金)にしか興味がない-、と見なされているのです。しかし、実際のところ人々は賃金を貨幣単位で考えている(訳注;名目賃金それ自体に興味を抱いている)ことを示す様々な証拠があります。この事実がはっきりと表れている例を一つ挙げると、人々は賃金のカット(切り下げ)を嫌う、というのがあります。それも特に名目賃金のカットを嫌うのです。人々は賃金や給与のカットを経済的な観点から解釈するにとどまらず、賃金のカットを個人的な侮蔑としても受け取る傾向にあります。そのために、経済的に見て筋が通っていたとしても、人々は賃金のカットに抵抗することになるのです。一方で、名目賃金の上昇がインフレーションに遅れをとる場合(訳注;名目賃金は上昇する一方で実質賃金は低下する場合)、人々は名目賃金がカットされる場合ほどには心がかき乱されることはありません。実際に統計上の証拠を眺めると、名目賃金がカットされた例というのはほとんどないことがわかります。もし人々がフリードマン=フェルプスが想定するほどに合理的なのだとすれば、人々は名目賃金の上昇がインフレーションに遅れをとる場合にも名目賃金がカットされる場合と同じような反応をしてしかるべきなのですが・・・・。

インタビュワー;今ご説明いただいたお話が政策に対して持つ意味合いはどういったものになるでしょうか?

アカロフ;オリジナルの自然失業率仮説からは、政府は経済の状況を改善し得ない、との含意が導かれることになりますが、一方で、貨幣錯覚が存在する場合には、労働者は自然失業率仮説が予測するところとは違って必ずしも期待インフレを賃金契約に反映させる(訳注;期待インフレ率の上昇分と同じだけの名目賃金の引き上げを要求する)ことはありません。その結果として、インフレーションと失業との間の長期的なトレードオフが復活する、ということになるのです。

インタビュワー;さらなる景気刺激策が採用されれば失業率は低下することになるかもしれない、ということでしょうか?

アカロフ;そうです。そして、穏やかなインフレーションは望ましいことだ(a little inflation is a good thing)、との結論が導かれることになります。これはある意味で、失業を減らすために人々が抱く貨幣錯覚を利用している、と見なすことができるでしょう。穏やかなインフレーションは雇用の妨げにならない、というわけですが、この見解は重要なインプリケーションを有しています。極めて低率のインフレーションの達成を目指してこれまでに奮闘を繰り広げてきた政府がいくつかありますが、そういった国では同時に高金利と経済成長の鈍化が見られました。例えば、1990年代を通じてカナダの金融政策は極めて低率のインフレーションの達成を目指して運営されましたが、同期間におけるカナダの失業率は大変高い水準を記録することになりました。インフレーションを極めて低い水準にとどめておこうとする過ちのために、経済成長の鈍化と不必要に高い失業率という高いコストを支払う結果となったわけです。

インタビュワー;1980年代から1990年代の初頭にかけてアメリカで追求されたインフレ率も低すぎであった、とお考えになりますか?

アカロフ;アメリカに関してははっきりとしたことは言えませんが、ただ、あまりに低率のインフレーションを目標とすることは重大な損害をもたらし得る、との警告であると受け止めていただきたいと思います。

インタビュワー;最近の経済学の教科書を読むと、執筆者がフリードマンにシンパシーを感じているような場合だけではなく、例えば、MITの伝統の中で育ったような人物が執筆者である場合でも、 自然失業率仮説に従順な様子が感じ取れますね。

アカロフ;そうですね。実にその点は会長講演でのメッセージの一つでもありました。「私たちはあまりにも自然失業率仮説に傾倒しすぎているのではないか? この点について冷静に考え直すべきではないか?」、というメッセージですね。もうちょっと丁寧に説明させていただきますと、優れた経済学者であれば誰でも、インフレ期待が賃金や価格の設定に影響を及ぼすだろう点には同意するでしょう。しかし、インフレ期待が賃金や価格の設定に影響を及ぼすと信じることとインフレ期待と賃金・価格の設定が1対1で対応していると主張することとの間には大きなギャップがあるのです。統計上の証拠によれば、確かにインフレ期待が価格や賃金の設定に影響を与えていることがわかります。統計上の証拠によれば、インフレ期待と価格・賃金の設定が1対1で対応している可能性を棄却することはできませんが、同時に、インフレ期待と価格・賃金の設定との結び付きが1対1での対応よりずっと弱い可能性もまた棄却されないのです。インフレ期待が価格や賃金の設定に及ぼす影響はゼロではないかもしれませんが、両者のつながりは1対1での対応よりずっと弱い可能性もあるのです。自然失業率仮説に対しては現状よりも少しばかり冷めた態度で接するべきなのです。実際の証拠は自然失業率仮説に関して広く受け入れられている見解を支持するものではなく、さらには、今日のようにインフレ率が低い場合には自然失業率仮説が妥当する可能性は特に小さくなるのです。後者(訳注;インフレ率が低い場合には自然失業率仮説が妥当する可能性が小さくなる点)については多くの証拠があります。

インタビュワー;どのような証拠でしょうか?

アカロフ;1930年代に大変痛ましい経済実験が行われることになりました。大恐慌(Great Depression)ですね。大恐慌の期間を通じて失業率は極めて高い水準にありましたが、当時の失業率は自然失業率-妥当なかたちで推計された自然失業率-を大きく上回っていたと思われます。自然失業率仮説が正しければ、現実の失業率が自然失業率を上回った結果としてデフレーションが加速していたはずです。しかし、現実にはそういったことは起きませんでした。1930年代を通じて失業率は極めて高い水準にあり、その結果として確かに低率のインフレーションが生じることにはなりましたが、自然失業率仮説が予測するようにデフレーションが加速するというようなことにはならなかったのです。

インタビュワー;これまでご説明いただいた議論は合理的期待形成理論に対しても疑問を投げかけることになるでしょうか?

アカロフ;自然失業率仮説や合理的期待形成理論のキーとなる想定は、通常思われている点とは違うのではないかと私は考えています。もう少し細かく説明させていただきましょう。多くの人々は、合理的期待形成理論のキーとなる想定は、市場参加者は将来に対して合理的に期待を形成する点にある、と見なしているようです。しかし、私個人としては、合理的期待形成理論のキーとなる想定は、人々は貨幣錯覚を抱かない、という点にあると思います。もし貨幣錯覚が存在するようであれば、たとえ人々が合理的に期待を形成するとしても、経済の安定化を図る上でシステマティックな金融政策に頼り得る余地が残されることになるでしょう。

インタビュワー;もう少し詳しくご説明していただけるでしょうか?

アカロフ;合理的期待形成理論によれば、金融政策は経済の安定化効果を持ち得ない、ということになります。その理由はこうです。もしマネーサプライの増加が賃金や価格の上昇を上回るようであれば、 金融政策は景気刺激効果を持つことになります。マネーサプライが物価水準よりも速やかに上昇するために(訳注;実質的な貨幣残高(マネーサプライを物価水準で除したもの)が増加するために)、総需要が増加することになるからです。しかしながら、貨幣錯覚が存在しない場合、金融政策の変更があらかじめ予見されていれば、賃金や価格はマネーサプライの増加と比例するかたちで引き上げられることになり、その結果として金融政策の効果が相殺されることになるのです。一方で、もし貨幣錯覚が存在すれば、人々はあらかじめ予見されたマネーサプライの変化を完全に相殺するようには行動しないと考えられます。貨幣錯覚が存在する状況では、マネーサプライの変化ほどには価格や賃金は変化しない(訳注;例えば、マネーサプライが増加した場合、賃金や価格はマネーサプライの増加ほどには引き上げられない)と考えられるのです。そうだとすると、あらかじめ予見されたマネーサプライの変化であっても生産や雇用に対して効果を持ち得ることでしょう。

インタビュワー;リカードの中立命題(Ricardian equivalence)も成り立たないとお考えでしょうか?

アカロフ;はい。リカードの中立命題については例を用いて説明することにしましょう。例えば、リカードの中立命題では、現代世代に対する社会保障給付の増加は現時点での支出(消費)に影響を与えない、と主張されます。その理由は、社会保障給付の増加を賄うために将来的に増税されるだろうと人々が予想するから、というのです。将来世代の消費水準を維持しようとの思いから、現代世代の人々は将来の増税(将来世代に対する税負担の増加)を予見して社会保障給付として受け取った分を(将来世代に相続する遺産として)貯蓄に回すだろう、というのです。このような理屈が現実をうまく描写していると信じる人はほとんどいないと私は思います。私であれば、ポケットに以前よりも多くのお金を持ち合わせていることを知ったとすれば、これまでよりもたくさん支出に回す権利があると感じることでしょう。

インタビュワー;合理的期待形成理論の後継者であり、リカードの中立命題といとこのような関係にあるのは実物的景気循環理論であると思われます。実物的景気循環理論でもまた政府による介入は何の助けにもならないと想定されています。実物的景気循環理論についてはどのようにお考えでしょうか?

アカロフ;実物的景気循環理論はその前提が非現実的であるためにうまくいかないと思います。実物的景気循環理論では、人々は貨幣錯覚を抱かないと想定されているのです。

インタビュワー;金融政策についてお考えになる際は、マネーサプライの成長率を頭に浮かべられるのでしょうか? それとも金利でしょうか?

アカロフ;今回のインタビューでは金融政策は主にマネーサプライの水準に影響を与えるものとして語ってきましたが、金融政策は金利を決定するものだと考えたとしても私の議論の本質は変わらないと思います。

インタビュワー;マネーサプライと金利とは切り離せないので、マネーサプライの観点から考えるか、それとも金利の観点から考えるかというのは重要ではない、という意味でしょうか?

アカロフ;金融政策は金利に影響を与えるのか、それともマネーサプライに影響を与えるのか、といった話は重要ではないと私は考えます。というのも、どちら一方の水準を決めたら、暗黙のうちに他方の水準も決めていることになりますからね。

インタビュワー;わかりやすい言葉で表現させていただくと、アカロフ教授の結論は、政府による政策は重要である、ということになるでしょうか。

アカロフ;私はケインジアンの見方に賛同しています。ケインジアンの経済認識はいつでも正しいものであった、と個人的には考えています。大恐慌についても戦後についても彼らの経済認識は正しいものでしたし、今日においてもケインジアンの経済認識は相変わらずその妥当性を失ってはいません。結論めいたことを言いますと、資本主義システムは人々が望む財を提供する上で極めて強力な仕組みであって、多くのメリットを備えています。しかし、だからといって、システムへの介入が果たすべき役割は何もない、ということにはなりません。政府は雇用水準に影響を与える上で責任があります。というのも、政府はそうすること(雇用水準に影響を及ぼすこと)が可能なのですから。戦後世界の経済的な成功は、政府が雇用に対する責務を果たすことへの信頼(faith)の上に成り立っていた(訳注;政府が雇用に対する責務を果たすに違いないとの信頼があったからこそ戦後世界の経済的な成功が可能になった)、と私は考えます。そのような信頼があれば、経済が不調に陥った場合でも、投資に回すはずであった資金を手に人々がどこかに逃亡するなんて事態は生じないでしょう。政府が完全雇用を維持する責務を果たすだろうから経済はそのうち復調するに違いない、と予想されるからです。過去60年にわたって西洋経済が完全雇用に極めて近い状況を保ち続けてきた主要な理由はまさにこの点(訳注;政府が雇用に対する責務を果たすことへの信頼が存在していた点)にある、と私は考えます。政府は経済の安定化を図る能力と責務がある、との発想に頼ることができなければ、私たちはこの先一体何が起こるのか見当もつかない状態に置かれることになるでしょう。そうなれば大変深刻な損失がもたらされることになるかもしれません。

インタビュワー;設備投資の決定や企業の意思決定、労働者の意思決定における不確実性が高まることになれば、それに伴って生じる損失は有害なものとなり得ますね。

アカロフ;そうですね。「政府を廃止せよ!」と訴える人々は、政府が廃止されることでこの世は一層見通しが良くなる(確かなものとなる)と考えているようです。そのような見方は私が考えるところとは正反対の見方ですね。

インタビュワー;今回アカロフ教授に披露していただいた見解といわゆるニューケインジアンの見解との間にはどういった違いがあるのでしょうか? ニューケインジアンのキーワードは「摩擦」(“frictions”)-賃金や価格の設定が粘着的になる根拠となるもの-ですが、この摩擦の存在がケインズ的な刺激策を正当化することになるわけですが。

アカロフ;「摩擦」を強調する議論に対しては何の反論もありません。ただ、今回お話しさせていただいた議論はケインジアンが心に抱いていた考えに対してもっとしっかりとした基礎を提供するものだと個人的には考えています。

インタビュワー;「摩擦」よりももっとしっかりとした基礎ということですか?

アカロフ;そうです。私の議論は「摩擦」を強調するニューケインジアンの議論を大きく補強することになると思います。ただ、「摩擦」を強調する議論に対しては反論があり得るのも確かです。「摩擦」の多くは情報の非対称性(asymmetric information)-特に、雇用者と被雇用者との間での情報の非対称性-が原因で生じますが、賃金契約を工夫することで情報の非対称性に伴う問題を和らげることは可能です。他にも、「摩擦」は精々小さなものであって、それゆえに景気循環に対してはわずかばかりの効果しか持たないとの反論もあり得ます。そういうわけで、「摩擦」を強調する議論は私の議論よりも脆い面があるのではないかと個人的には考えています。

インタビュワー;全体のまとめをしていただくとどうなるでしょうか?

アカロフ;ケインジアンの理解は基本的には正しかった、ということです。

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(欄外訳注)

インタビュワーの最初の質問で言及されている会長講演は以下。

●George A. Akerlof(2007), “The Missing Motivation in Macroeconomics”(American Economic Review, vol.97(1), pp.5–36;ドラフトはこちら(pdf))

なお、アカロフの本講演に関しては梶ピエール氏が詳細な解説を加えてらっしゃいます。本インタビューで触れられている内容についてもう少し深く突っ込んで知りたいという方は是非ともご一読あれ。

●梶ピエール、「『アニマルスピリット』の議論の原型」(梶ピエールの備忘録。, 2009年6月4日)

2012年6月22日金曜日

Alan Blinder 「ケインズ経済学」

Alan S. Blinder, “Keynesian Economics”(The Concise Encyclopedia of Economics, Library of Economics and Liberty)


ケインズ経済学(Keynesian economics)は、経済における総支出(total spending)-総需要(aggregate demand)とも呼ばれる-に関する理論であり、総需要が生産やインフレーションに及ぼす効果を理論的に研究する立場の一つである。これまで種々雑多なアイデアに対して「ケインズ経済学」という用語が(時に誤って)あてがわれてきたが、ケインズ経済学の中心的な教義(tenet)は以下の6つのポイントから成っているのではないかと思われる。はじめの3つのポイントは、現実の経済のメカニズム(経済はどのように機能するか)に関する視点をまとめたものである。
 
 
1. 総需要は様々な経済上の意思決定-民間部門における意思決定と公共(政府)部門における意思決定-によって影響を受け、時に不規則に変動する。

(総需要に影響を与えるような)公共部門における意思決定の最たるものは、金融政策と財政政策(政府支出と税金に関する政策決定)である。数十年前のことになるが、経済学者の間で財政政策と金融政策の相対的な有効性を巡って熱い議論が交わされたが、ケインジアンの中のある者は「金融政策は無力である」と主張し、マネタリストの中のある者は「財政政策は無力である」と主張したものである。しかしながら、現在ではこの問題は実質的にもはや争点ではなくなっている。今ではケインジアンであれマネタリストであれほとんど皆が財政政策も金融政策もどちらもともに総需要に影響を及ぼす、と信じているのである。しかしながら、経済学者の中には債務の中立性(リカードの中立命題)-ある一定水準の政府支出を税金で賄う代わりに借り入れ(国債発行)で賄うように資金調達の方法を変更したとしても総需要には効果は生じない、というアイデア-を信じている者もいる(この点に関しては後でもまた触れる)。

2. 総需要の変化は-それがあらかじめ予測されていようがそうでなかろうが-短期的には、価格に対してではなく、実質GDPと雇用とに対して最も大きな影響を及ぼす。

例えば、このアイデアは、失業率の低下に伴ってインフレーションがごく緩やかに上昇することを示すフィリップスカーブによっても捉えられているところである。ケインジアンは、「長期において成立すること」から「短期において成立すること」(短期において何が正しいのか)を推測することは必ずしもできず、また、現実の我々は短期の世界に生きているんだ、と信じている。この信念を要領よく伝えるために、ケインジアンはケインズの有名な言葉-「長期的に見ると、我々は皆死んでしまう」( “In the long run, we are all dead” )-をしばしば引用する。

金融政策が生産や雇用に対して影響を及ぼし得るのは名目価格の中で硬直的なものが存在する場合-例えば、名目賃金(ドル(や円)で測った賃金)が即座には調整しなかったりする場合-に限ってである。もしいずれの価格も硬直的でなければ、経済に対して新たに貨幣が注入されてもすべての価格が同じ割合だけ上昇するだけに終わるだろう。そこで、一般的にはケインジアンのモデルでは名目価格ないしは名目賃金の硬直性があらかじめ前提されるか、あるいは、なぜ名目価格や名目賃金が硬直的であるのかその説明が試みられることになる。標準的なミクロ経済学によれば、すべての名目価格が比例的に変化する場合には実質的な生産量や需要量に変化が生じるはずがないので、なぜ名目価格(のうちのあるもの)が硬直的であるのかを合理的に説明することは厄介な理論上の問題であると言えよう。

ケインジアンは、名目価格のうちのあるものは幾分か硬直的であり、総需要の構成要素-消費、投資、政府支出-のいずれかが変動すればそれに伴って生産の変動が引き起こされる、と見なしている。例えば、政府支出が増加して総需要のそれ以外の構成要素に変化がないとすれば生産は増加する、と見なすのである。また、経済変動に関するケインジアンのモデルの特徴としていわゆる乗数効果も重要である。つまりは、総需要に生じた変化はその何倍もの生産の変化をもたらす、と見なされているのである。政府支出が100億ドルだけ増加すると総生産は150億ドル増加することもあれば(乗数が1.5のケース)、50億ドル増加することもあり得るのである(乗数が0.5のケース)。ケインジアンの分析では乗数は1以上であることが必要だ、と広く信じられているが、そのようはことはない。乗数はゼロより大きければ(プラスであれば)よいのである。

3. 名目価格、特に名目賃金は生産や需要の変化に対して緩やかにしか反応せず、その結果として周期的に不足や過剰(特に、労働市場における不足や過剰(労働の超過需要や超過供給))が発生する。

あのミルトン・フリードマン(Milton Friedman)でさえ、「考え得るどのような制度的な仕組みの下であっても、そして現在アメリカ経済に広く普及している制度的な仕組みの下では確かに言えることだが、名目価格や名目賃金の柔軟性(伸縮性)には限りがある。」(原注1)(“under any conceivable institutional arrangements, and certainly under those that now prevail in the United States, there is only a limited amount of flexibility in prices and wages.”)、と認めているところである。現在の基準に照らせば、このフリードマンの発言はケインジアン的な立場の表明と受け取られることだろう。


以上の3つのポイントだけからはいかなる政策処方箋も引き出されることはない。また、自らをケインジアンだとは見なさない経済学者の多くも以上の3つのポイントすべてを受け入れることだろう。ケインジアンとその他の経済学者との違いは、経済政策に関する以下の3つの教義を信じるかどうかという点にある。


4. 現実において典型的に観察される失業の水準は理想的な水準ではない。というのも、経済は総需要の気まぐれな変動にさらされているからであり、また、価格調整は緩やかにしか進まないからである。

ケインジアンは、現実の失業は平均的に見てあまりにも高すぎ、あまりにも変動が激しすぎる、と見なす傾向にある-この現実認識を理論的に厳密に正当化することは困難であるとはよくよくわかっていながらも。また、「景気後退や不況=それほど魅力的ではない機会の出現に対する市場の効率的な反応の結果」と見なす実物的景気循環(リアルビジネスサイクル)理論とは異なり、ケインジアンは「景気後退や不況=一種の経済的な疾病(economic maladies)」である、と確信している。


5.  景気循環をすべての経済問題の中でも最も重要な問題と位置付け、景気循環の振幅(変動の大きさ)を和らげるために積極的な経済安定化政策の実施を求める(ただし、多くのケインジアンがそう考えているのであって、すべてのケインジアンがそう考えているというわけではない)。

保守派寄りのケインジアンの中には、経済安定化政策の効果に疑いを抱いたり、経済安定化政策を試みることが果たして賢明なのかと訝しんで、この教義を受け入れない経済学者も存在する点は指摘しておこう。

積極的な経済安定化政策の実施を求めるとはいってもファインチューニング(fine-tunig;微調整)-経済が完全雇用の状態にとどまり続けるよう促すために、政府支出や税金やマネーサプライを毎月ごとに細かく調整すること-を求めているわけではない。今日ではほとんどすべての経済学者-大半のケインジアンも含む-は、政府はファインチューニングを成功裏に進め得るほど十分に素早く行動できるわけでもなく、また(ファインチューニングを成功裏に進め得るほど)十分に知識を備えているわけでもない、と信じている。ファインチューニングを困難にするような3タイプのラグが存在しているのである。第1のラグは、政策変更の必要性が生じてから政府がそのこと(政策変更の必要性が生じたこと)を認識するに至るまでのラグである。第2のラグは、政府が政策変更の必要性を認識してから実際に政策が実施されるまでのラグである。アメリカのような国では特に財政政策の変更に関してこの第2のラグが非常に長くなり得る。政府支出や税金の内容を変更するためには議会と政府との同意が必要となるからである。そして第3のラグは、実際に政策が実施されてから(政策が変更されてから)政策の効果が表れるまで(政策が経済に影響を与えるまで)のラグである。このラグもまた長くなり得るものである。しかしながら、多くのケインジアンは、(ファインチューニングに比べて)もっと控えめな経済安定化政策-コースチューニング(coarse-tuning;粗い調整)とでも呼べよう-を目指すことは擁護し得るし分別ある立場でもある、と信じている。例えば、失業率が非常に高い水準にあるような状況では、金融緩和策の実施を勧告する上で、ラグの具体的な長さに関する細かな知識を持ち合わせている必要はないであろう。

6. インフレ退治(インフレーションの抑制)よりも失業退治(失業を減らすこと)のほうに関心を払う(ケインジアンであれば皆が皆そう考えているというわけではない)。

低インフレがもたらすコストが小さいことを示す証拠に基づいてこの教義を受け入れるに至ったケインジアンがいる一方で、反インフレ的なケインジアンもたくさん存在する。そう呼ばれることを好むかどうかにかかわらず、過去から現在までに至る世界中のセントラルバンカーの大半は反インフレ的なケインジアンだと言えるだろう。指摘するまでもないが、失業とインフレーションの相対的な重要性に関する見解の違い(失業とインフレのどちらに重きを置くかの違い)は、経済学者がどのような政策アドバイスを勧告し、政策当局者がどのような政策アドバイスを聞き入れるかに大きな違いを生み出す。ケインジアンは、ケインジアンではない経済学者と比べると、よりアグレッシブな緩和策を勧告する傾向にある。

経済安定化に向けた政府の積極的な行動を支持するケインジアンの信念は、価値判断と以下の2つの信念、すなわち、(a)マクロ経済の変動は人々の経済的な福祉(economic well-being)を大きく減ずるものであり、(b)政府は自由市場の働き(あるいは欠陥や機能不全)を改善し得る程度には知識も能力も備えている、という信念とに基づくものであると言える。

1980年代に勃発したケインジアンと「新しい古典派」(new classical)との間のちょっとした論争は、主に(a)の信念とケインズ経済学を特徴づけるはじめの3つの教義(1~3)-1~3の教義に関してはマネタリストも同じく受け入れていた-をめぐって争われたものであった。新しい古典派の経済学者は、あらかじめ予測されたマネーサプライの変化は実質的な生産量(実質GDP)に影響を与えることはなく、また市場-労働市場でさえも-は不足や過剰の解消に向けて素早く調整するものであり、さらには景気循環はもしかしたら効率的であるかもしれない、と信じていた。この後で明らかにする理由に照らして、私自身は、こういった論点に関する「客観的な」(“objective”)科学的な証拠はケインジアンの立場を強く支持するものである、と信じている。1990年代に入ると、新しい古典派も、価格は硬直的であり、そのために労働市場はかつて彼ら(新しい古典派)が考えていたほどには(不足や過剰の解消に向けて)素早く調整するものではない、という見解を受け入れるところとなったのであった。


「ケインズ経済学」の定義から離れて別の話題に転じる前に、これまでに意図的に避けてきた(避けてはならないように思われる)いくつかの論点についてここで強調しておかねばならないだろう。

避けてきた論点その1。合理的期待形成学派についてはこれまで一切触れてこなかった。経済政策に関する期待を形成するにあたって人々は利用可能な情報をすべて利用する、という合理的期待形成学派の見解に関しては、ケインズ自身もそうだが多くのケインジアンも疑わしく思っている。ただし、ケインジアンの中には合理的期待形成のアイデアを受け入れている者もいることはいる。ただ、私自身がこれまでに興味を向けてきた大きな争点のいずれも期待が合理的に形成されるかどうかにはほとんど影響されない、ということは指摘しておこう。例えば、合理的期待形成は価格の硬直性を排除するものではなく、価格の硬直性を伴う合理的期待形成モデルは私の定義によればまごうことなくケインジアン的なモデルである。しかしながら、新しい古典派の経済学者の中には合理的期待形成こそがケインジアンと新しい古典派との論争において(他のどの論点にもまして)ずっと本質的な論点だと考えている者もいることは明記しておくべきだろう。

避けてきた論点その2。長期的な失業の「自然な水準」が存在する、という仮説(自然失業率仮説)について。1970年以前においては、ケインジアンは、長期的な失業の水準は政府の政策に依存しており、政府は高めの-しかしその高い水準で安定した-インフレーションと引き換えに失業率を低下させることができる、と信じていた。しかしながら、1960年代の後半にマネタリストであるミルトン・フリードマンとケインジアンであるエドモンド・フェルプス(Edmund Phelps)とによって、失業とインフレーションとの長期的なトレードオフというアイデアに対して理論的な反駁が加えられたのであった。政府が現実の失業率を「自然失業率」以下の水準に保っておくことができる唯一の方法は、インフレの絶えざる加速(インフレ率の継起的な上昇)をもたらすようなマクロ経済政策を通じてのみである、と言うのである。長期的には現実の失業率は自然失業率を下回ることはできない、というわけである。フリードマン=フェルプスによる自然失業率仮説の発表後間もなくして、ノースウェスタン大学のケインジアンであるロバート・ゴードン(Robert Gordon)によってフリードマン=フェルプスの見解を支持するような実証的な証拠が提示され、1972年頃以降になるとケインジアンも自然失業率仮説を受け入れるところとなったのであった。そういう次第で、1975年~1985年の期間にわたって繰り広げられた(ケインジアンと新しい古典派との)激しい論争の過程で自然失業率仮説は何らの役割も果たすことがなかったのである。

避けてきた論点その3。経済安定化政策として金融政策と財政政策とのどちらが望ましいと言えるか、という論点もまたこれまで触れてこなかった話題である。この話題に関しては経済学者によって意見が異なり、自らの立場を変更するような経済学者も時折見受けられる。私の定義によれば、ケインジアンでありながら、経済安定化の責務は原則的には金融政策当局に委ねられるべきである、あるいは、実際のところそうなっている、と信じる、というのは何の問題もなしに成り立ち得る立場である。実際のところ、今では大半のケインジアンはこの2つの信念(訳注1)のうちどちらか一方あるいは両方ともに受け入れるかたちとなっている。


1970年代中頃から1980年代中頃にかけてケインジアンの理論はアカデミックな世界において散々な誹謗中傷を受けることになったが、1980年代中頃以降になるとケインジアンの理論は強力なカムバックを果たすことになった。その主たる理由は、ケインズ経済学のほうがライバルである新しい古典派よりも1970年代と1980年代に生じた経済上の出来事をうまく説明できた点にある、と思われる。

その「古典派」というルーツに忠実に、新しい古典派は、名目賃金や名目価格の下落を通じて景気後退を克服する市場経済の能力を強調した。1970年代中頃当時、新しい古典派は、景気後退の原因は相対価格(例えば、実質賃金)の動向を人々が誤って認識することにあり、そういった認識の誤りは人々が現下の一般物価水準やインフレ率を知らない場合に生じるだろう、と主張した。 しかし、物価指数の統計が毎月ごとに発表され、月ごとのインフレ率が1%を下回るような状況では、そういった認識の誤りはあくまでも一時的なはずであり、それほど大きな誤りとはなり得ないだろう。そうだとすれば、初期の新しい古典派の立場からすると、認識の誤りに基づく景気後退はマイルドですぐに終わるはずである。しかし、実際には世界各国の工業国は1980年代を通じて厳しくて長い景気後退を経験することになったのである。ケインズ経済学は理論的にみると粗雑であるかもしれないが、非自発的失業が長らく持続するだろうことを正確に予測したのであった。

1970年代、1980年代当時の新しい古典派(初期の新しい古典派)の理論家によると、あらかじめ正しく認識されたマネーサプライ成長率の低下は実質的な生産量(実質GDP)に対して-影響を与えるとすれば-ごくわずかしか影響を与えないはずであった。しかしながら、FRBやBOE(イングランド銀行)がインフレを抑制するために金融政策を引き締めることをアナウンスし、その後アナウンス通り(約束通り)に行動した際に何が起こったかというと、アメリカでもイギリスでも深刻な景気後退が生じる結果になったのであった。新しい古典派の経済学者は、「金融引き締めは予測されざるものだった(というのも、金融政策当局のアナウンスを人々が本気で信じなかったからだ)」と反論するかもしれない。その反論ももしかしたらある程度は正しいのかもしれないが、金融引き締めは大枠では予測されており、あるいは少なくとも金融引き締めがアナウンスされた際には正しくそのように認識されていたのである。企業や家計は、インフレに応じて価格が自動的に改訂されるような契約ではなく、価格が固定された契約を結んでいるために、いかなる金融引き締めも景気を冷え込ませる効果を持つだろう、と主張する古臭いケインジアンの理論のほうが現実をうまく捉えているように思われるのである。

新しい古典派から派生したアイデアとしては、ハーバード大学のロバート・バロー(Robert Barro)によって定式化された債務の中立性に関するアイデアがある。バローのアイデアを簡潔に述べると以下のようになろう。インフレーションや失業、実質GDP、実質的な国民貯蓄は、政府が一定水準の政府支出を賄うために高い税金を課すか(この場合財政赤字は低水準)それとも低い税金を課すか(この場合財政赤字は高水準)によっては影響されないはずである。というのも、人々は合理的なので、今日における低い税金(と高水準の財政赤字)は将来における高い税金を意味すると正しくも認識し、人々は将来(将来の自分自身あるいは自らの子孫)の税負担の増加分と同じ金額だけ今日の消費を切り詰めて貯蓄の増加に向かうだろうからである。こうして生じる民間貯蓄の増加は財政赤字の増加を完全に相殺するはずである。一方で、ナイーブなケインジアンの分析によると、政府支出の水準が変わらないままでの財政赤字の増加は総需要の増加を意味することになる。1980年代初頭のアメリカで実際に起こったように、(財政赤字の増加による)総需要への刺激が金融引き締め政策によって相殺されるようならば、ケインジアンの分析が予測するところでは実質金利は大きく上昇するはずである。ケインジアンの分析によると、このような状況において民間貯蓄が増加する理由はない、ということになろう。

1981年から1984年の間にアメリカで実施された大幅な減税はケインジアンと新しい古典派のどちらの見解が正しいかを検証する一種の実験テストの機会を提供することになった。現実には何が生じただろうか? 民間貯蓄は増加せず、実質金利は大きく上昇した。(大幅減税のかたちをとった)財政刺激策は金融引き締めによって相殺されたので、実質GDP成長率はほとんど影響を受けなかった。実質GDPはそれ以前の時期とほぼ同じペースで成長したのである。これら一連の事実もまた新しい古典派よりはケインジアンの理論と整合的であるように思われるのである。

最後に、ケインジアンと新しい古典派とは1980年代にヨーロッパで発生した不況-1930年代の不況以来最悪の不況-をそれぞれどのように説明するのだろうか? ケインジアンの説明は単純である。ケインジアンによれば、イギリスやドイツの中央銀行に先導されるかたちで各国の政府がインフレ退治に乗り出す決心をし、インフレの退治に向けてかなりの金融引き締めと財政引き締めが実施されたために不況が生じたのである。このインフレ撲滅運動の影響は、ドイツの断固たる金融引き締めをヨーロッパ中に拡散する役割を果たすかたちになったヨーロッパに特有の通貨制度によって強化されたのであった。一方で新しい古典派はケインジアンの説明に匹敵するような説明を持ち合わせていない。新しい古典派、そして広くは保守派の経済学者は、不況の原因は何かと尋ねられたら、ヨーロッパの各国政府が労働市場に深く介入しているからだ、とおそらくは主張することだろう(加えて、手厚い失業保険や労働者の解雇制限などにも言及することだろう)。しかし、ヨーロッパの各国政府による労働市場への介入の大半は、失業率が極めて低かった1970年代初頭時点でも既に存在していたのである。


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Further Reading(もっと深く学びたい人向けの文献紹介)

○Blinder, Alan S. “Keynes After Lucas(JSTOR)”, Eastern Economic Journal 12, no. 3 (1986): 209–216.
○Blinder, Alan S. “Keynes, Lucas, and Scientific Progress(JSTOR)”, American Economic Review 77, no. 2 (1987): 130–136. Reprinted in Mark Blaug, ed., John Maynard Keynes (1833–1946), vol. 2. Brookfield, Vt.: Edward Elgar, 1991.
○Gordon, Robert J. “What Is New-Keynesian Economics?(JSTOR)”, Journal of Economic Literature 28, no. 3 (1990): 1115–1171.
○Keynes, John Maynard. The General Theory of Employment, Interest, and Money. London: Macmillan, 1936.
○Mankiw, N. Gregory, and others. “A Symposium on Keynesian Economics Today.” Journal of Economic Perspectives 7 (Winter 1993): 3–82.

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原注

(原注1)“The Role of Monetary Policy,” American Economic Review 58, no. 1: 13.

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訳注

(訳注1)経済安定化の責務は原則的には金融政策当局に委ねられるべきであるという信念と経済安定化の責務は実際にも金融政策当局に委ねられるかたちになっているという信念。

2012年6月19日火曜日

Bennett McCallum 「マネタリズムの経済学」

Bennett T. McCallum, “Monetarism”(The Concise Encyclopedia of Economics, Library of Economics and Liberty)


マネタリズム(Monetarism)はマクロ経済学の一学派であり、以下の4点を強調する特徴がある。
(1)長期的な貨幣の中立性
(2)短期的な貨幣の非中立性
(3)名目利子率と実質利子率の区別
(4)政策分析における貨幣集計量(monetary aggregates)の役割の強調
代表的なマネタリストとしては、ミルトン・フリードマン(Milton Friedman)、アンナ・シュワルツ(Anna Schwartz)、カール・ブルナー(Karl Brunner)、アラン・メルツァー(Allan Meltzer)がいる。アメリカ以外の国でマネタリズムの初期の発展に貢献した経済学者としては、デイビッド・レイドラー(David Laidler)、マイケル・パーキン(Michael Parkin)、アラン・ワルターズ(Alan Walters)の名前を挙げることができよう。ジャーナリズム――特にイギリスのジャーナリズム――においては、マネタリズムのことを自由市場を擁護する立場に結びつけがちだが、そのような捉え方は適当ではない。自由市場擁護の立場に立つ多くの論者は、よもや自分がマネタリストと名指しされようとは考えもしていないことだろう。

まずは(1)から説明を加えていこう。例えば、マネーサプライが外生的にZ%増加したとしよう。このケースにおいて、諸々の調整が終了した後に、最終的に一般物価水準がZ%上昇して、実質変数(例えば、消費量、生産量、商品間の相対価格)に一切の変化が見られなければ、経済は「長期的な貨幣の中立性」の性質を備えていることになる。大半の経済学者は、現実の貨幣経済は少なくとも近似的には「長期的な貨幣の中立性」の性質を備えていると考えているが、マネタリストほどに「長期的な貨幣の中立性」を強調している経済学者のグループは他に存在しない。以上の議論に対して、現実の中央銀行はマネーサプライを外生的に変化させることはできないとの反論を寄せる人がいることだろう。確かにこの反論自体は正しいが、しかしながらこの反論は「長期的な貨幣の中立性」とは何の関係もない論点である。「長期的な貨幣の中立性」が成立するかどうかは、家計や企業が自らの需要や供給を選択するにあたって、財・サービス――消費され、また供給されることになる財・サービス――の数量のみに関心を持つかどうかにかかっているのである。家計や企業が財・サービスの数量にしか関心を持たないとすれば、経済は「長期的な貨幣の中立性」の特徴を示すことになり、上で例示した議論(訳注1)が妥当することになるのである(原注1)。自然失業率仮説も含めて他の中立性概念についてはもう少し後のほうで論じることにしよう。

次に(2)に進もう。終局的には「長期的な貨幣の中立性」が成り立つとしても、マネーサプライの変化に対して価格調整が緩やかにしか進まないようであれば、「短期的な貨幣の非中立性」が成り立つことになる。マネーサプライが変化するのに伴って、一時的に――価格調整が完了するまでの間に限って――実質GDPや雇用量といった実質変数も変化することになるのである。大半の経済学者は、「短期的な貨幣の非中立性」は現実において成り立つと見なしているが、マクロ経済学の重要な一学派である実物的景気循環理論(リアルビジネスサイクル理論)の擁護者は、「短期的な貨幣の非中立性」を否定している。

次は(3)である。実質利子率は、日常で普通に目にする利子率(名目利子率)に期待インフレ率の分だけ修正を加えたものである(訳注2)。現在消費と将来消費とのトレードオフに直面している合理的な経済主体は、最適化(異時点間にわたる効用の最大化)を実現するために、名目利子率ではなく実質利子率に基づいて意思決定を行う。名目利子率と実質利子率の区別は、1800年代にイギリスの銀行家であり経済学者でもあったヘンリー・ソーントン(Henry Thornton)によって早くも認識されており、1900年代の初期にアメリカの経済学者であるアーヴィング・フィッシャー(Irving Fisher)によっても強調されていた。しかしながら、名目利子率と実質利子率の区別は、1950年代にマネタリストが名目と実質を区別することの重要性を主張し始めるまでは、マクロ経済分析においてしばしば無視されていたのである。多くのケインジアンは原則としては名目と実質の区別を受け入れていたが、実際のところは、ケインジアンのモデルにおいてはしばしば名目利子率と実質利子率が区別されていなかったし、ケインジアンは、(実質利子率ではなく)名目利子率の水準に照らして金融政策のスタンスを判断していた。マネタリストは―― 一人残らず――インフレの克服に非貨幣的な手段(例えば、賃金・価格の直接的な統制やガイドラインの実施)を割り当てることは望ましくないと主張した。非貨幣的な手段は、市場の機能を歪めることになると考えたからである。その代わりに、マネタリストは、インフレーションはその本質において貨幣的な現象であることを強調した。それとは対照的に、当時のケインジアンの多くは、インフレーションを貨幣的な現象とは見なしていなかったのである。

最後に(4)である。初期のマネタリストは皆、金融政策を分析するにあたり、貨幣集計量――例えば、M1やM2、マネタリーベース――の役割を強調した。しかしながら、細かい点をめぐってはマネタリストの間で違いもあった。特にフリードマン=シュワルツとブルナー=メルツァーとの間では細かい点をめぐって意見の対立があった。フリードマンのよく知られた政策提案は、足許のマクロ経済の状況の如何にかかわらず、貨幣集計量を「月単位で、可能であれば日単位で、年率X%――Xには3~5の間にある数字を選べばよい――」(原注1)で増やすべし、というものであった(訳注3)。一方で、ブルナー=メルツァーも金融政策の運営にあたっては何らかのルールを課すべきであるという立場ではあったが、貨幣集計量の成長率を足許のマクロ経済の状況と結び付ける積極主義的なルール(activist rule)の利点を認識していた。また、ブルナー=メルツァーは(法定準備預金額の変化を反映するように調整が加えられた)マネタリーベースの動きを注視する一方で、フリードマンはM2やM1といったマネーサプライの動きを注視した(訳注4)。フリードマンは、中央銀行がマネーサプライを正確にコントロールできるようにするために、預金準備率を100%に設定する銀行システム改革案を提言してもいた。

フリードマンのk%ルールがマネタリズムの基本的な(k%ルール以外の)他の教義を差し置いて大きな注目を浴びた結果として、マネタリズムの理解や評価が歪められることになった。特に、フリードマンによる「インフレ加速」(“accelerationist”)仮説、あるいは、「自然失業率」(“natural-rate”)仮説は、その重要性の割には無視されてきたといえる。「自然失業率」仮説によれば、インフレーションと失業率とは長期的にはトレードオフの関係にはない。つまりは、長期的なフィリップス曲線は垂直ということになる。この点――インフレと失業率とは長期的にはトレードオフの関係にはない――は、ブルナー=メルツァーによっても盛んに主張されたところである。「自然失業率仮説」を加味すると、マネタリストにとって基本的な命題を以下の2点にまとめることができるだろう。
[1] 名目所得の循環的な変動は、主に貨幣数量の変動にその原因を求めることができる(貨幣数量の変動→名目所得の変動)
[2] 失業とインフレーションとの間には永続的なトレードオフは存在しない
以上の2つの命題が相伴って、マネタリストの政策上の立場が導かれることになるのである。

マネタリズムが経済学界で広く認知されるようになったきっかけは、フリードマンをはじめとするシカゴ大学に勤務する経済学者たちが1950年代に金融理論の分野で書いた一連の論文にある。これらの論文が経済学界の興味を引きつけた理由は、どの論文も新古典派経済学の基本原則に則って書かれていたからである。マネタリズムの台頭にとって最も決定的だったのは、フリードマンが1967年にアメリカ経済学会で行った会長講演である(この講演は、“The Role of Monetary Policy”とのタイトルで1968年に論文として発表された)。フリードマンは、この講演において、自然失業率仮説を展開するだけでなく――フリードマンは、既にその2年前に明瞭なかたちで自然失業率仮説を主張していた――、k%ルールを支持する論拠として自然失業率仮説を援用したのである。ほぼ同時期に、エドモンド・フェルプス(Edmund Phelps)――フェルプスはマネタリストではなかったが――も自然失業率仮説を主張していた。フリードマン=フェルプスの自然失業率仮説は、数年後に現実によって強力な支持を与えられることになったのである。

1970年代後半~1980年代前半になると、それ以前の10年間とは対照的に、マネタリズムの影響力は徐々に弱まっていった。その理由は、主に3つあると考えられる。第1の理由は、実証的なデータに照らして、貨幣需要関数が基本的に極めて不安定である――貨幣需要関数は、4半期ごとに大きく、それも予想できないかたちで、シフトする――と見なされるようになったことである。第2の理由は、合理的期待形成学派が台頭してきたためである――合理的期待形成学派の台頭によって、ケインズ経済学的な積極主義に敵対的な立場の経済学者が別々のグループに分散することになった(マネタリストの過半は、合理的期待仮説を速やかに受け入れることになった)――。そして第3の理由は、1979~1982年にFRBが乗り出した「マネタリズムの実験」(“monetarist experiment”)にある。第3の理由について以下で詳しく説明を加えることにしよう。

1970年代のアメリカでは、他の多くの工業国と同様に、平時においては前例がないほど高水準のインフレーションが数年にわたって続いた。この未曾有のインフレーションは、様々な「ショック」――石油価格の高騰、ベトナム戦争、そして何よりも1971~1973年にかけてのブレトンウッズ体制(国際的な固定為替制度)の崩壊(崩壊の原因の多くは、アメリカがドルと金との交換レートを維持できなくなったことによる)――の結果として生じたものだった。ブレトンウッズ体制の崩壊は、中央銀行に対して新たな重責を課すことになった。つまり、中央銀行は、一国の通貨に対して、金(gold)に代わる新たな名目的なアンカー(錨)を提供せねばならなくなったのである。FRBは、1970年代を通じて、インフレを克服する意思を何度か表明したが、いずれの試みもうまくいかなかった。そんな中、1979年10月6日にヴォルカー(Paul Volcker)議長率いるFRBは、従来の金融政策運営の手続きを大幅に変更し、新たな試み――その試みは、マネタリストの提案する政策手続きと際立った共通点を有していた――に踏み切る旨をアナウンスした。具体的に言うと、FRBは、M1の成長率に月ごとの目標を設定して、その目標を達成するように金融政策の舵を取ることになった。さらには、コントロールが容易な非借入準備(nonborrowed reserves)――「準備預金額(bank reserves)」マイナス「FRBからの借入額(borrowings from the Fed)」――の操作に重点が置かれることになった。FRBが以上のような変更に踏み切った理由は、インフレ率を2桁の水準から大幅に引き下げるため――具体的にどの程度の水準にまで引き下げるかは特定されなかったが――だった。

現時点から振り返ってみると、1979年10月から1982年9月にかけての一連の出来事は、高インフレの克服にとって必要な処置だったし、1990年代における世界的な低インフレの実現につながった実り多き試みだったと見なすことができよう。しかしながら、当時においては、この「実験」は多くのアメリカ人から歓迎されたわけではなかった。1979年後半には、金融引き締めの影響で短期金利が急上昇し、1980年に入ると、融資規制(credit control)が強化された影響で産出量(実質GDP)が大きく落ち込んだが、次の4半期には、融資規制が撤廃されたおかげもあって産出量は回復した。1981年から1982年の中頃にかけて金融引き締めが長期にわたって続いた結果として、1930年代の大恐慌(Great Depression)以来最も深刻な不況が到来し、インフレ率は多くの経済学者が予想した以上のスピードで低下した。さらには、この間に利子率もマネーサプライ成長率もどちらも大振れした。具体的には、1979年10月から1982年9月にかけて、M1の月ごとの成長率の標準偏差は、3.73(1979年10月以前の3年間のケース)から8.22へと上昇し、FF金利(federal funds rate)の月ごとの変化の標準偏差は、2.86から23.1(年率換算)へと急上昇することになったのである。

多くの批評家は、この「実験」をマクロ経済的な大惨事と総括した。さらには、この「実験」はマネタリズムの無効性を示す強力で決定的な証拠であると受け止める者もいた。この「実験」は、貨幣集計量の成長率を目標にして金融政策を運営することがいかに好ましくないかを示すものであり、非借入準備の操作を通じてM1の成長率をコントロールしようとする試みがいかに非現実的であるかを示すものである、というのである。その一方で、マネタリストたちは、この「実験」は、実のところ、マネタリスト的な教義に則ったものではなかったと主張した。①M1の成長率が月ごとに大きく変動していたし、②準備預金の積み立てが1カ月遅れでなされる仕組みになっていたせいでM1をコントロールするのが極めて難しくなっていたし、③FRBが足許の経済状況に応じて裁量的に反応するのを断じてやめずにいた、というのがその言い分である。現時点から振り返ってみると、FRBによる非借入準備の操作を通じた政策運営――非借入準備額に週ごとの目標を設定した上で、非借入準備の供給量を操作する――は、FRBが国民と円滑な関係を築く上では大いに効果があったように思える。というのは、「利子率の高止まり」という国民に人気のない結果が生じたとしても、FRBとしては「利子率が高いのは、市場需要が旺盛だからだ」(原注3)と言い逃れできたからである。それに加えて、見かけ上はマネタリスト的なアプローチを採用しているかのように振る舞っておいて、いざ「実験」が失敗したとなれば、マネタリズム(+FRBに対していつも文句ばかり言ってくるマネタリスト)に失敗の責任を被せることができたからである。時間が経過して全貌が明らかになると、この「実験」は―― 一時的には痛みを伴うものであったかもしれないが――戦略的な成功であったと見なされるようになり、「マネタリズムの失敗」という評価だけがそのまま残るという顛末になったのであった。

マネタリズムの教義のうちで今日まで受け継がれているものは何かあるだろうか? 異論はあるだろうが、いくつか確かなこともある。面白いことに、初期のマネタリストがケインジアンに迫った意見変更のいくつかは、今日ではマクロ経済学や金融論のスタンダードとして受け入れられるに至っている。いくつか例を挙げると、実質変数と名目変数を慎重に区別すべきこと、実質利子率と名目利子率を区別すべきこと、インフレーションと失業率との間には長期的なトレードオフは存在しないこと・・・などがそれだ。さらには、今では大半の研究者が、財政政策よりも金融政策の方が景気安定化政策として効果的であると同時に使い勝手がいいと少なくとも暗黙のうちに考えている。アカデミックな研究者や中央銀行のエコノミストの中には、実物的景気循環理論の立場から、金融政策は実質変数に影響を与えることができないと考える人もいることはいるが、おそらくその勢力はそこまで重要性を持たないだろう。1981~1983年のアメリカで起きた不況の原因が、FRBによる1981年の意図的な金融引き締め――事後的な実質利子率とM1の成長率に照らして、1981年に金融政策のスタンスが引き締めの方向に転じたことがわかる――にはないと信じるのは困難なのだ(訳注5)。

2005年現在、貨幣経済学(monetary economics)の専門家の多くは、自分のことをニューケインジアンのシンパ(共鳴者)と見なすことだろう。アカデミックな経済学者や中央銀行のエコノミストが金融政策について加えている分析を目にすると、貨幣集計量にわずかしか――あるいは、まったく――注意が向けられていないことがあるのも確かだ。しかしながら、理論分析のレベルでいうと、今日の主流的な立場は、かつてのケインジアン――例えば、1956年~1978年のケインジアン ――よりは、マネタリストの立場にずっと近いと言える。さらには、金融政策を運営するにあたって「裁量」(“discretion”)――どのように定義されようとも――よりも「ルール」に重きが置かれているのは明らかだし、インフレーションを極めて低い水準に保つことの重要性が強調されてもいる。マネタリズムの教義のうちで、今では見捨てられて実践されずにいるものがあるとすれば、それは貨幣集計量を強調する見解くらいである。


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Further Reading(もっと深く学びたい人向けの文献紹介)

●Brunner, Karl, and Allan H. Meltzer. “An Aggregate Theory for a Closed Economy.” In Jerome L. Stein, ed., Monetarism. New York: American Elsevier, 1976.
●Friedman, Milton. A Program for Monetary Stability. New York: Fordham University Press, 1959.
●Friedman, Milton. “The Role of Monetary Policy(pdf)”, American Economic Review 58 (March 1968): 1–17.
●Friedman, Milton, and Anna J. Schwartz. A Monetary History of the United States, 1867–1960. Princeton: Princeton University Press, 1963.
●McCallum, Bennett T. Monetary Economics: Theory and Policy. New York: Macmillan, 1989.
●Symposium: “Monetarism: Lessons from the Post-1979 Experiment(JSTOR)”, American Economic Review Papers and Proceedings 74 (May 1984): 382–400.
●Taylor, John B., ed. Monetary Policy Rules. Chicago: University of Chicago Press, 1999.


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原注

(原注1)正確には、長期的な中立性が成り立つためには「リカードの中立命題」が成立している必要がある。
(原注2)Milton Friedman, Capitalism and Freedom (Chicago: University of Chicago Press, 1962), pp. 54.
(原注3)この主張は、いくらか欺瞞的である。非借入準備の供給量が一旦決定されてしまえば、その時々の利子率の水準は非借入準備に対する需要の大きさによって決まってくるというのはその通りだ。しかしながら、「非借入準備の供給量」を決定する権限はFRBにあるのである。

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訳注

(訳注1)Z%のマネーサプライの増加がZ%の一般物価の上昇につながる。実質変数は変化なし。
(訳注2)期待実質利子率 ≒ 名目利子率-期待インフレ率
(訳注3)以下では、フリードマンによるこの提案を「k%ルール」と表現することにする。
(訳注4)つまりは、フリードマン=シュワルツとブルナー=メルツァーとの間では、どの貨幣集計量に注視すべきかという点についても違いがあったということ。
(訳注5)実物的景気循環理論が正しいようなら、金融引き締めの影響で不況が生じるはずがない。しかしながら、1981年の金融引き締めによって実際には不況が生じている。このことは、実物的景気循環理論の言い分とは異なり、金融政策が実質変数に影響を及ぼせることを示している・・・ということが言いたいのだろう。

2012年6月18日月曜日

Gregory Mankiw 「ニューケインジアンの経済学」

N. Gregory Mankiw, “New Keynesian Economics”(The Concise Encyclopedia of Economics, Library of Economics and Liberty)


ニューケインジアンのマクロ経済学(New Keynesian economics)は、ジョン・メイナード・ケインズの思想を引き継ぐ現代マクロ経済学の一学派である。ケインズは1930年代に『雇用、利子および貨幣の一般理論』を出版したが、ケインズの影響力は、1960年代を通じて、経済学者や政策当局者の間で高まっていくことになった。しかしながら、1970年代に入ると、R. ルーカスやT. サージェント、R. バローらを代表とする新しい古典派(New Classical)のマクロ経済学者が、ケインズ革命がもたらした多くの教訓に疑問を投げかけることになった。1980年代に入って、新しい古典派からの批判にさらされたケインズ経済学の教義の立て直しを図ろうと登場してきたのが「ニューケインジアン」を自称する一連の経済学者らであった。

新しい古典派とニューケインジアンとの間における主要な意見の不一致は、名目賃金や名目価格の調整速度(名目賃金や名目価格がどれだけ素早く調整されるか)に関する想定の違いに基づいている。新しい古典派は、名目賃金や名目価格は伸縮的であるとの仮定の下に理論を構築しており、価格は市場を清算するように-需要と供給とが等しくなるように-素早く調整されると想定しているのである。一方で、ニューケインジアンは、(新しい古典派が想定するような)市場均衡モデルは短期的な景気変動を説明することはできないと考え、短期的な景気変動を説明するためには、名目賃金や名目価格は粘着的(“sticky”)であるとの仮定の下に理論を構築するべきだ、と主張する。ニューケインジアンは、名目賃金と名目価格の粘着性に基づいて、非自発的失業が存在する理由や金融政策が経済活動に強い影響を及ぼし得る理由を説明しようとするのである。

(ケインズ経済学とマネタリズムとの両者のパースペクティブをともに含む)マクロ経済学における長い伝統(A long tradition in macroeconomics)においては、金融政策が短期的に雇用量や生産量に影響を与えることができるのは、マネーサプライの変化に対する名目価格の調整が緩やかであるからだ、とみなされている。この伝統的な見解によれば、マネーサプライの変化は以下のようなメカニズムを通じて生産や雇用に影響を与えることになると考えられている。例えば、マネーサプライが減少すると、人々はお金の支出を減らし、その結果財に対する需要が減少することになる。しかしながら、名目価格や名目賃金の調整は緩やかであり、それゆえ名目価格や名目賃金は需要の減少に応じて即座には下落しないために、(マネーサプライの減少に端を発する)需要の減少は生産の落ち込みと労働者の首切りをもたらすことになるだろう、と。新しい古典派はこの伝統的な見解を批判する。緩やかな価格調整という仮定は理論的に首尾一貫した説明を欠くアドホックな仮定だ、というのである。ニューケインジアンの研究の多くは、マクロ経済学における長い伝統に含まれているこの欠陥を修正すること、つまりは、緩やかな価格調整という仮定に対して理論的に首尾一貫したミクロ的基礎を提供することに向けられたのである。


Menu Costs and Aggregate-Demand Externalities (メニューコストと総需要外部性)

名目価格が市場を均衡させるように素早く調整されない理由の一つは、価格調整にコストがかかるからである。価格(値付け)の変更に伴って企業は顧客に対して新たなカタログを送付しなければならないかもしれず、商品の販売スタッフに対して新たな値付けのリストを配布しなければならないかもしれない。また、レストランでは新たなメニューを作り直さなければならないかもしれない。このような価格調整に伴うコスト-「メニューコスト」と呼ばれる-が存在するために、企業は需要の変化に応じてその都度柔軟に価格を変更する代わりに断続的に価格を変更することを選ぶのである。

メニューコストの存在が短期的な景気変動を説明する助けとなるかどうかという点に関しては経済学者の間で意見の不一致がある。(メニューコストの存在によっては短期的な景気変動を説明できないとの立場に立つ)懐疑的な経済学者は、メニューコストは大体において極めて小さいものであり、そのように小さなメニューコストが景気後退のような社会的に大きなコストを生み出す現象を説明することはできないのではないか、と主張する。一方で擁護の立場に立つ経済学者は、「小さい」("small")ということは「とるに足らない(重要でない)」("inconsequential")ということと同じではない、と反論する。メニューコストは個々の企業にとっては小さなものであったとしても、経済全体に対しては大きな効果を持ちうるかもしれない、というのである。

メニューコストの存在に基づいて短期的な景気変動を説明することができると考える経済学者は以下のように議論を展開する。価格がなぜ緩やかにしか変化しないのかを理解するためには、ある特定企業による価格の変更は外部性-当該の(自社製品の価格を変更しようとしている)企業や顧客以外にも効果が及ぶこと-を有していることを認識しなければならない。例えば、ある企業による製品価格の引き下げは次のように他の企業に対しても便益をもたらすことになる。ある企業が価格を引き下げると、同時に経済全体の平均価格も若干ではあるが下落することになり、その結果経済全体の実質所得は増加することになる(名目所得はマネーサプライの量によって決定される)。この実質所得の増加はすべての企業の製品に対する需要の増加というかたちをとることになるだろう。一企業の価格調整が他のすべての企業の製品に対する需要に及ぼすこのマクロ経済的な効果は「総需要外部性」(“aggregate-demand externality”)と呼ばれている。

総需要外部性が存在する状況下では、個々の企業の製品価格を粘着的にする小さなメニューコストは社会全体に対して大きなコストをもたらすことになる。例えば、GMがある新車の価格を発表した直後にFRBがマネーサプライを減少させたとしよう。FRBのこの行動を受けて、GMは発表したばかりの新車の価格を引き下げるべきかどうかを決定しなければならない。もしGMが価格を引き下げたとすれば、車の購入者の実質所得は増加することになり、車の購入者は他の企業の製品を(GMの新車価格が引き下げられなかった場合と比べると)より多く購入することになるだろう。しかし、新車の価格を引き下げるべきかどうか思案しているGMは自車の価格引き下げが他の企業にどのような便益を及ぼすことになるかを考慮に入れることはない。それゆえ、場合によっては、GMは、価格を引き下げることが社会的に見て望ましいとしても、メニューコストの存在により価格引き下げを断念する(訳注1)ということもあり得るだろう。このGMの例が示しているように、粘着的な価格(価格を据え置くこと)が個々の企業にとっては合理的である(最適である)としても、経済全体で見ると非合理的な(望ましくない)結果につながることがあり得るのである。


The Staggering of Prices (価格設定の時間的ズレ)

ニューケインジアンが価格の粘着性を説明しようと試みる際には、すべての企業が同時に価格を設定するわけではなく、その代わりに、企業ごとの価格設定には時間的なズレが存在する点が強調されることもある。それぞれの企業が価格を設定するタイミングにズレが存在するとなると、個別企業による価格設定は複雑な様相を呈することになる。というのも、企業ごとの価格設定に時間的なズレがあると、各企業は価格設定をする際に自社製品の価格と他社製品の価格との相対的な関係(=相対価格)にも注意を払わなければならなくなるからである。企業ごとの価格設定に時間的なズレが存在する場合には、個々の企業が頻繁に価格を改定したとしても、経済全体の物価水準は緩やかにしか変化しないことになる。

以下例を用いてこの点を説明してみよう。まずは、すべての企業が同時に価格設定を行う場合について考えてみることにしよう。すべての企業は月初めごとに価格設定を行うものとする。もし5月10日にマネーサプライが増やされ、その結果として総需要が増加したとすれば、5月10日から6月1日にかけて生産量は(マネーサプライが増やされなかった場合と比べて)増加することになるだろう。というのも、5月10日から6月1日にかけては(仮定により価格の変更は月初めにのみ行われるので)価格が変更されることはないからである。しかし、6月1日になれば、すべての企業は需要の増加に応じて各々の製品価格を引き上げることになるだろう。こうして(5月10日から6月1日にかけての)3週間にわたるブームは終了することになる。

次に、価格設定には企業ごとに時間的なズレがある場合について考えてみよう。経済全体の半数の企業は月初めごとに価格設定を行い、残る半数の企業は月の真中である毎月の15日に価格設定を行うものとする。もし5月10日にマネーサプライが増やされたとすれば、経済全体の半数の企業は5月15日に自社製品の価格を引き上げることが可能である。しかし、残る半数の(月初めごとに価格設定を行う)企業は5月15日に価格を変更することはないので、5月15日に価格を引き上げるとその企業の製品の相対価格は上昇することになり、(価格が据え置かれた製品(月初めごとに価格設定を行う企業の製品)に顧客が流れてしまうことで)結果として顧客を失ってしまうかもしれない(この事例とは対照的に、もしすべての企業が同時に価格を設定するとすれば、すべての企業が各々の製品価格を同時に引き上げるために相対価格は変化しない可能性がある)。(顧客を失うことを恐れて)5月15日に価格設定を行う企業は(価格を引き上げるとしても)おそらくそこまで製品価格を引き上げることないだろう。もし5月15日に価格設定を行う企業が価格を据え置く判断をすれば、月初めに価格設定を行う企業も6月1日には自社製品の価格を据え置く判断をするだろう。というのも、 6月1日に価格を引き上げるべきかどうか思案している企業もまた相対価格を変化させたくないと考えるからである。6月1日以降もこれと同様のロジックが働くことだろう。こうして月初めと毎月15日において個々の製品価格は徐々にしか上昇せず、そのために経済全体の物価水準も緩やかにしか上昇しないということになるだろう。どの企業も他の企業の製品と比べて自らの製品の価格が上昇することを望まないがために、価格設定に時間的なズレがあることで経済全体の物価水準は緩やかにしか変化しないということになるのである。


Coordination Failure (調整の失敗)

ニューケインジアンの中には、景気後退は調整の失敗(コーディネーションの失敗)にその原因がある、と主張する経済学者もいる。コーディネーションの問題は、経済主体が互いに他の経済主体による価格設定に関する意思決定を予想し合うような状況においても生じ得ると考えられる。賃金交渉に臨む労働組合のトップは他の労働組合が使用者側から勝ち取る譲歩に関心を有するだろうし、新たな価格設定に臨む企業は他の企業による価格設定に注意を寄せることだろう。

景気後退がいかにして調整の失敗の結果として生じるかを理解するために、以下の「お話」を見てみることにしよう。経済は2つの企業から構成されているとしよう。中央銀行がマネーサプライを減少させたことを受けて、それぞれの企業は自社製品の価格を引き下げるべきかどうかを思案している。どちらの企業もともに利潤の最大化を目指しているが、利潤は自社製品の価格設定に依存するばかりではなく、相手の企業による価格設定にも依存しているとしよう。

もしどちらの企業もともに製品価格を引き下げなければ、実質貨幣量(マネーサプライを物価水準で割ったもの)は低水準に落ち込み、それを受けて経済は景気後退に陥ることになる。この時両企業はそれぞれ15ドルの利潤しか得られないとしよう。

もしどちらの企業もともに製品価格を引き下げれば、実質貨幣量は高水準に維持され、経済は景気後退を回避することが可能となる。この時両企業はそれぞれ30ドルの利潤を得るとしよう。両企業ともに景気後退を回避することを望んでいるが、自らの行動(自社製品の価格設定)だけでは景気後退を回避することはできない、つまりは、一方の企業だけが製品価格を引き下げ、もう一方の企業は製品価格を据え置くとすれば、景気後退が生じることになるとしよう。この時製品価格を引き下げた企業は5ドルの利潤しか獲得することができず、製品価格を据え置いた企業は15ドルの利潤を獲得することになるとしよう。

この「お話」のポイントは、一方の企業の意思決定は他方の企業が利用可能な結果(機会)に影響を与えるということである。一方の企業(企業A)が製品価格を引き下げれば、他方の企業(企業B)が利用可能な機会は改善することになる。なぜなら、企業Bは自らの製品価格を引き下げることで景気後退を回避することができるようになるからである。企業Aによる製品価格の引き下げが企業Bが直面する利潤機会を改善することになるのは、総需要外部性が働く結果であると考えることができるだろう。

この経済は最終的にはどのような結果に落ち着くことになるであろうか? 一つの可能性は、どちらの企業もともに相手側が製品価格を引き下げると予想し、その結果両企業ともに実際にも製品価格を引き下げるということになるかもしれない。この時、経済は景気後退を回避し、両企業ともに30ドルずつの利潤を獲得することになる。もう一つの可能性は、どちらの企業もともに相手側が製品価格を据え置くと予想し、その結果両企業ともに実際にも製品価格を据え置くということになるかもしれない。この時、経済は景気後退に陥り、両企業ともに15ドルずつの利潤を獲得することになる。これら2つの可能性のどちらもともに実現可能である。つまりは、この経済は複数均衡を有する経済なのである。

どちらの企業もともに15ドルずつの利潤を獲得する(景気後退を伴う)劣位な均衡は調整の失敗の一例となっている。両企業が行動をコーディネートすることが可能であれば、両企業ともに製品価格を引き下げて(景気後退を回避する)優位な均衡を実現することができたであろう。この「お話」とは異なり、価格設定の意思決定に臨んでいる企業の数がもっと多い現実の世界においては、経済主体間のコーディネーションを達成することはしばしば困難となる。以上の「お話」の教訓は、誰一人として粘着的な価格に利害を有していないとしても、ただ単に各々の価格設定者の間で「価格は粘着的になるだろう」との予想が共有されるだけでも実際に価格が粘着的になり得る、ということである。


Efficiency Wages (効率賃金)

ニューケインジアンのマクロ経済学が発展させた重要な理論として失業の理論も見逃すことはできない。持続する失業の存在は経済理論にとって一つのパズルである。通常の経済分析が予測するところでは、労働の超過供給は賃金に対する低下圧力となり、賃金の下落は労働需要の喚起を通じて失業を減少させることになる、ということになるだろう。つまりは、通常の経済理論によれば、失業は自己矯正的な問題(訳注2)なのである。

ニューケインジアンの経済学者は、失業を解消する自己矯正的なメカニズムが機能しない理由を説明するためにしばしば効率賃金仮説と呼ばれる理論を持ち出す。効率賃金仮説によれば、高賃金は労働者の生産性を高めることになると考えられている。労働の超過供給が存在するにもかかわらず、企業が賃金のカットに乗り出さない理由は、賃金が労働者の効率性に影響を与える可能性があるからかもしれない。賃金をカットすることで企業は人件費を節約することができるかもしれないが、効率賃金仮説が正しいとすれば、賃金のカットは(人件費の節約につながると)同時に労働者の生産性を低下させることで逆に企業の利潤を減らす結果となってしまうかもしれないのである。

賃金が労働者の効率性に影響を与える理由としてはいくつかの説明が提示されている。第一の説明では、高賃金の支払いが労働者の転職を抑制することを通じて労働者の効率性に影響を与える可能性に着目する。労働者は様々な理由に基づいて現在の職を離れることになるだろう。他の企業においてもっと魅力的な職を見つけたり、あるいはキャリアの変更を考えたり、あるいは居住地の変更に伴ってなどなど様々な理由に基づいて、労働者は現在の職を離れることになる。しかしながら、労働者が現在の職場にとどまろうとするインセンティブは、企業が労働者に支払う賃金水準が高ければ高いほど、大きくなると考えられる。高賃金を支払うことによって、企業は労働者の転職を抑制し、その結果として新規に労働者を募集したり、新規労働者に訓練を施したりするための時間や手間といった諸々のコストを節約することが可能となるかもしれない。

第二の説明では、賃金が職場における労働者の平均的な能力の質に影響を及ぼす可能性に注目が寄せられる。企業が賃金をカットすると、おそらくは能力のある(生産性の高い)労働者から先に(他に機会を求めて)職場を離れていくことになるだろう。そして、職場には他に行くあてのない能力の劣る(生産性の低い)労働者が残る、ということになるだろう。均衡賃金(労働市場で需給が一致する賃金の水準)を上回る賃金を支払うことにより、企業は以上の逆選択(adverse selection)メカニズムが働くことを回避し、職場における労働者の平均的な能力の質を改善することができるかもしれない。職場における労働者の平均的な能力の質が改善されれば、企業全体の生産性は向上することになるであろう。

第三の説明では、高賃金が労働者の努力水準を高める可能性に注目する。労働者がどれだけ努力しているかを完璧にモニターすることができない場合には、労働者がどれだけ努力するかはある程度労働者自身の裁量に任されることになるだろう。労働者は一生懸命努力して仕事に励むこともできるし、上司に発見されれば首を切られるかもしれないとの危険を負いながらも手を抜いて仕事に臨むことも可能である。この時、企業は高賃金を支払うことによって労働者の努力水準を高めることができる。というのも、支払われる賃金が高ければ高いほど、労働者にとって首を切られることのコストはそれだけ大きくなるからである。高賃金を支払うことによって、企業は労働者が手抜きすることを抑制し、その結果労働者の生産性を高めることが可能となるかもしれない。


A New Synthesis (新しい総合)

1990年代に入ると、新しい古典派とニューケインジアンとの論争は「新しい総合」(new synthesis)の出現を促すこととなった。つまりは、短期的な景気変動を説明するための最善の方法や金融政策/財政政策の役割といった話題に関してマクロ経済学者の間で「新しい総合」に向けた可能性が探られることになったのである。この「新しい総合」は、対立するそれぞれの学派の長所を取り入れることを通じて学派間の総合を図ろうと試みている。「新しい総合」は、新しい古典派陣営から、家計や企業の異時点間にわたる意思決定に関するモデル構築上の様々なツールを取り入れるとともに、ニューケインジアン陣営からは価格硬直性のモデルを取り入れることを通じて短期的な貨幣の非中立性(訳注3)を説明しようと試みている。「新しい総合」に共通したアプローチの特徴は、独占的競争モデル-独占的競争下にある企業(各企業は市場支配力を持ってはいるものの他企業との競争にも直面している)は、市場の動向に応じて頻繁に価格を変更することはなく、間隔をおいて断続的に価格の改定を行う-を採用しているところにある。

「新しい総合」の核心は、経済を動学的な一般均衡システム(dynamic general equilibrium system)として捉える見方、それも価格粘着性やそれ以外の様々な市場の不完全性(market imperfections)のために短期的には効率的な資源配分の状況から逸脱することもあり得る動学的な一般均衡システムとして捉える見方にある。今やこの「新しい総合」は、多くの面において、FRBやその他の中央銀行の金融政策を分析する際の知的な基礎(intellectual foundation)を提供するに至っている。


Policy Implications (政策的なインプリケーション)

ニューケインジアンのマクロ経済学はあくまでもマクロ経済「理論」における一学派であり、それゆえ、ニューケインジアンを自称する経済学者間で経済「政策」に関して共有された単一の見解があるわけでは必ずしもない。大まかに言うと、ニューケインジアンのマクロ経済学においては、新しい古典派のいくつかの理論とは対照的に、景気後退=市場が効率的に機能するような通常時から逸脱した状態、と見なされている。ニューケインジアンのマクロ経済学の構成要素-メニューコストや価格設定における時間的なズレ、調整の失敗、効率賃金-は、古典派経済学が立脚している様々な仮定-経済学者が自由放任(レッセフェール)を正当化する際の知的根拠となるもの-からの大きな逸脱を示すものである。ニューケインジアンの理論においては、景気後退はマクロ経済レベルでの市場の失敗によって引き起こされるわけであり、それゆえ、ニューケインジアンのマクロ経済学は市場への政府介入-金融政策や財政政策を通じた経済の安定化-に対して「理論」的な根拠を提供しているとみなすことができるであろうし、ニューケインジアンのマクロ経済学におけるこの側面は先に述べた「新しい総合」の中にも組み込まれている。しかしながら、政府が実際にも市場に介入すべきかどうかという問題は、経済的な判断だけではなく政治的な判断も伴うものであり、「理論」的な結論をそのまま「実践」に移すことができるほど簡単な問題ではないのである。


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Further Reading (もっと深く学びたい人向けの文献紹介)

○Clarida, Richard, Jordi Gali, and Mark Gertler. “The Science of Monetary Policy: A New Keynesian Perspective(pdf)”, Journal of Economic Literature 37 (1999): pp.1661–1707.
○Goodfriend, Marvin, and Robert King. “The New Neoclassical Synthesis and the Role of Monetary Policy(pdf)”, in Ben S. Bernanke and Julio Rotemberg, eds., NBER Macroeconomics Annual 1997. Cambridge: MIT Press, 1997. pp. 231–283.
○Mankiw, N. Gregory, and David Romer, eds. New Keynesian Economics. 2 vols. Cambridge: MIT Press, 1991.

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訳注

(訳注1)価格引き下げによる車の売り上げの増加が価格引き下げに伴うメニューコストを下回る場合には、GMにとっては価格を据え置くことが(できるだけ多くの利潤を確保する上では)合理的となる。
(訳注2)価格(名目賃金)の調整を通じて市場が自動的に解決する問題
(訳注3)金融政策は短期的には生産量や雇用量といった実質変数に影響を与えることができる、ということ。

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サイドバーに「The Concise Encyclopedia of Economics(Library of Economics and Liberty)の訳」欄を新たに設置。

2012年2月7日火曜日

David Beckworth 「金利を引き上げたら景気が回復する?」(2012年2月7日)

David Beckworth, “Can Raising Interest Rates Spark a Robust Recovery?”(Macro Musings Blog, February 7, 2012)


ビル・グロス(Bill Gross)の言い分によると、FedがFF金利(政策短期金利)の誘導目標を引き上げたら景気が勢いよく回復するそうだ。グロスによると、Fedによる低金利政策のせいで金融仲介機関の純金利マージン(利ざや)――貸付金利と支払金利(調達金利)の差――が圧縮されているのが景気の回復を妨げている主たる原因だという。Fedがイールドカーブ全体を押し下げていて(短期金利だけではなく、中長期の金利も低下していて)、そのせいで金融仲介機関が貸し付けを行うインセンティブが削がれているというのだ。そんなに簡単な話だったらいいのだけれど・・・。

経済が順調に成長していると金利も高めな傾向にあるというのは間違っていないが、グロスは因果の向きを見誤ってしまっているようだ。金利が低いから景気が低迷しているわけではない。景気が低迷しているから金利が低いのだ。家計や企業による資金需要(借入需要)が落ち込んでいるのが金利が低い一因なのだ。将来に対する不確実性が高まっていて、所得の伸びが予想を下回っていて、債務を圧縮しないといけない。その結果として家計も企業も借り入れを差し控えているのだ。それだけでなく、貯蓄を増やしてもいる。さらには、世界的に安全資産が不足していて、海外の貯蓄がアメリカに流入してもいる。資金需要が落ち込んでいて、民間の貯蓄が増えていて、安全資産を求める海外の貯蓄がアメリカに流入しているがゆえに、金利が低くなっているのだ。

過去数年にわたるFedの大規模資産購入プログラムによって満期が長めの資産のリスクプレミアムが低下したのは間違いなさそうだ。しかしながら、多くの実証研究によると、大規模資産購入プログラムが長期金利に対して及ぼした効果はそこまで大きくないことが見出されている。例えば、2007年以降に10年物国債の利回りは3%ポイント以上下落したが、大規模資産購入プログラムによってはその下落の多くを説明できないのだ。長引く景気の低迷と安全資産に対する需要の高まりこそがその下落の多くを説明できるのだ。言い換えると、Fedが大規模資産購入プログラムに乗り出さなくても、金利はやはり極めて低くなっていた可能性があるのだ。

経済のファンダメンタルズを反映する金利は、均衡利子率と呼ばれている。自然利子率とか中立金利と呼ばれることもある。純金利マージンが圧縮されているのはFedの政策のせいではなく、自然利子率(短中長期の自然利子率)が低下しているからなのだ。2008年半ば以降のFedの政策は、落ち込む自然利子率を後追いしていたに過ぎないのだ。他ならぬPIMCO〔訳注;ビル・グロスはPIMCOの最高投資責任者〕に所属する2名の優れたエコノミストも2008年の段階で以下のように指摘している

中央銀行が速やかに行動せずに金融市場の状況がさらに悪化してしまうようなら、市場金利を引き下げても中立金利を後追いする結果に終わってしまって、景気を刺激するに至らないかもしれない。

大変優れた指摘だ。この点について以下でIS-LMモデルを使って説明を試みてみようと思う。IS-LMモデルは決して完璧とは言えないが、金利について系統立てて考えるためのシンプルな道具立ての一つだ。ポール・クルーグマン(Paul Krugman)も同じ意見のようだが、クルーグマンがグロスに寄せている返答を私なりにモデルを使って掘り下げてみるとしよう。

まずはモデルの説明からだ。標準的なIS-LMモデルは、2つの曲線から成り立っている。IS曲線とLM曲線である。IS曲線は、貯蓄(意図した貯蓄)と投資(意図した投資)が等しくなるような――あるいは、支出と産出量が等しくなるような――金利(i)と実質GDP(Y)の組み合わせを表している。通常は右下がりの形状をしている。その一方で、LM曲線は、貨幣市場を均衡させる金利(i)と実質GDP(Y)の組み合わせを表している。中央銀行であるFedが金利に誘導目標を設定して金融政策を運営しているようなら、LM曲線は水平になる。IS曲線とLM曲線に加えて、完全雇用が達成されている時の産出量――自然産出量(Y Natural)――を図示したのが以下の図1だ。赤色の垂直線で表されている自然産出量とIS曲線が交わる金利の水準が自然利子率(i Natural)だ。



図1 完全雇用が達成されている状況


図1では、完全雇用が達成されている状況が描かれている。すなわち、実際の産出量が自然産出量に等しくて、金利(市場金利)が自然利子率に等しいわけである。何らかの負のショックが生じて、貯蓄(意図した貯蓄)が増えるか投資(意図した投資)が減るかしたらどうなるだろうか? 負のショックが生じて総需要が減ったら、以下の図2に示されているように、IS曲線が IS1 から IS2 へと左方にシフトすることになる。



図2 負のショックが発生


IS曲線が左方にシフトする結果として、自然利子率は4%からマイナス2%に低下する。総需要が急落したのを受けて、Fedが政策金利を実質ゼロ%――例えば、0.25%――にまで引き下げたとしたら、LM曲線が LM1 から LM2 へと下方にシフトすることになる。興味深いのは、産出ギャップ(output gap)を埋めて完全雇用を再び実現するためには政策金利をマイナスにする必要があるのに、それは不可能なことだ。名目金利にはゼロ%という下限が存在するからだ。結果的にスランプに嵌ったままの状態が続いて、低金利こそが問題を引き起こしている元凶だと語る人――ビル・グロスのような人――が出てくるのだ。その流れで、Fedは金利を引き上げるべきだ――LM曲線を上方にシフトさせるべきだ――と考えてしまうのだ。Fedが金利を引き上げたら、市場金利と自然利子率の差(interest rate gap)がさらに広がるだけなのに、そのことがわからないのだ。Fedが金利を引き上げたら、金融政策が引き締められて、景気がさらに落ち込むことになるのだ。

金利を金融政策の操作目標にするのを好きになれない理由の一つは、こんなような余計な混乱を招くからだ。金利が操作目標になっていると、ビル・グロスのような人が上の図の説明を理解したとしても、金利がゼロ%に達すると金融政策にできることはもう何もないかのように思ってしまうのだ。あるいは、「非伝統的」な手段に乗り換えねばならないかのように思ってしまって、Fedの次なる手をめぐってあれこれと思惑が入り乱れるおそれがあるのだ。金利を操作目標にして余計な混乱を招くよりも、名目GDP水準目標を採用して金利の代わりに総需要を操作目標にする方がずっと望ましいだろう。Fedが名目GDP水準目標を採用したら、Fedによる低金利政策のせいで純金利マージンが圧縮されているのが悪いんだといきり立つような人は出てこないだろう。その代わりに、Fedが名目GDPをトレンドに復帰させられずにいることに対して批判の声が上がるだろう。名目GDPを回復させることこそが純金利マージンを元通りにするための真の解決策なのだ(名目GDP水準目標が採用されたら、IS曲線とLM曲線が負のショックが生じる前の位置に向かってシフトすると同時に、LM曲線が右上がりになるだろう)。ビル・グロスのような人がこのことを理解して、Fedに名目GDP水準目標の採用を迫るようになってくれることを願うばかりだ。

(追記)ニック・ロウ(Nick Rowe)もIS-LMモデルを使って目下のスランプを説明しようと試みている。本エントリーと併せて一読されたい。

2010年8月18日水曜日

Paul Krugman 「流動性選好説、貸付資金説、ニーアル・ファーガソン」(2009年5月2日)

Paul Krugman, “Liquidity preference, loanable funds, and Niall Ferguson (wonkish)”(The Conscience of a Liberal, May 2, 2009)


ジョー・ノセラ(Joe Nocera)が木曜日に行われたイベント――The New York Review of BooksとPEN World Voicesがスポンサーで、僕も参加した――について記事を書いているが、イベントの最中に僕が一番ガックリさせられたことには触れられていない。僕らが生きているのは「マクロ経済学の暗黒時代」で、これまでに苦労して獲得されてきた知識が忘れ去られてしまっていることを示すさらなる証拠を目の当たりにしたのだ。

その証拠というのは、財政拡張策は景気を冷え込ませるというニーアル・ファーガソン(Niall Ferguson)の「説明」だ。財政拡張策は名目金利を上昇させるだろうからというのがその理由だ。ファーガソンの発言だったと思う(何しろ有名人がたくさんいたので、誰がどの発言をしたのか区別するのが難しくて)。ともあれ、あんな発言を耳にするというのは本当に残念なことだ。学問的に洗練されていると思っている当世の人たちよりもジョン・ヒックス(John Hicks)の方が1937年の時点(pdf)でこの問題についてずっとよく理解していたわけだから。

今のような苦境に陥っているのはなぜかというと、世界的に貯蓄が過剰だからだと考えられるわけだが、そのことを再度説明してみるのも有益かもしれない。なぜなら、世界的に貯蓄が過剰なようだと、財政拡張策が景気を刺激しない限りは名目金利は上昇しないだろうからだ。

ファーガソンが考えていることを僕なりに推し量ると、利子率の水準は「貯蓄の供給」と「貯蓄に対する需要」によって決まると考えているんだと思う。いわゆる「貸付資金」(“loanable funds”)説と呼ばれているやつで、どのテキストにも載っている。僕が書いたテキストにも載っている。図にすると以下のようになる。




S は貯蓄。I は投資支出。r は利子率だ。
 
完全雇用が達成されないでいる可能性を考慮すると、この図は不完全だと指摘したのはケインズだ。その理由は、貯蓄も投資もGDPの水準に依存するからだ。例えば、GDPが増えて所得も増えると、そのうちの一部が貯蓄に回されるだろうから、貯蓄曲線が右方にシフトする(S1→S2)。GDPが増えると投資需要も増える(投資曲線も右方にシフトする)可能性があるが(I1→I2)、貯蓄の増加が投資の増加を上回るのが通常だ。すなわち、GDPが増えると、利子率は低下する。下図のように。




つまりは、貸付資金の供給(貯蓄)と貸付資金に対する需要(投資)だけに照らして利子率の水準がどうなるかを知ることはできないのだ。GDPの水準がこれこれの時に利子率の水準がこれこれになると教えてくれるのが貸付資金説なのだ。別の言い方をすれば、貸付資金説は、利子率とGDPとの関係を定義しているわけである。下図のように。




この図は、経済学入門の講義でも教えられるIS曲線そのものだ。通常は別のやり方で導出されるけれど。利子率が与えられると投資需要が決まって、投資需要が決まると乗数効果が働いてGDPの水準が決まる。通常であれば、そのようにしてIS曲線が導出される。しかしながら、導き方が違っているだけで、到達する結論は同じだ。同じモデルを違ったやり方で提示しているに過ぎないのだ。

ところで、GDPの水準はどうやって決まるのだろう? そのことを知るためには、「流動性選好」(“liquidity preference”)――「貨幣の供給」と「貨幣に対する需要」――を付け加える必要がある。最近では話をもっと単純化して、中央銀行が利子率を目標とする水準に誘導するためにマネーサプライを調整すると想定されることが多い。言い換えると、中央銀行がIS曲線上の1点を選ぶわけだ。

さて、僕らが置かれている現実に話を移そう。今のFedが選べる最低の利子率はゼロ%だ。でも、利子率をゼロ%にまで下げても完全雇用を達成するには力不足だ。上の図でも示されているように、完全雇用を達成するために必要な利子率の水準はマイナスなのだ。僕だけの意見じゃない。フィナンシャル・タイムズ紙によると、望ましいFF金利(政策金利)の水準はマイナス5%というのがFedで働くエコノミストの推計結果なのだ。

貸付資金説に照らしてこの状況を図示するとどうなるだろうか? 完全雇用が達成されたとした場合の「貸付資金の供給」と「貸付資金に対する需要」を描くと、以下のような感じになる。




利子率がゼロ%でも貯蓄が投資を上回るわけだ。それこそが問題なのだ。

政府が借り入れを増やしたら(財政拡張策に乗り出して財政赤字が拡大したら)どうなるだろうか? 政府が借り入れを増やしたら、過剰な貯蓄の一部が吸収される。その過程で総需要が増える。GDPが増える。少なくとも過剰な貯蓄が吸収し尽くされないでいる間は、政府が借り入れを増やしても民間の支出はクラウドアウト(抑制)されない。言い換えると、「流動性の罠」に陥っている間は、政府が借り入れを増やしても民間の支出はクラウドアウトされないのだ。

政府が大量に借り入れをすることにも問題があるのは確かだ。政府債務の残高が膨れ上がるというのもそのうちの一つだ。そういう問題を軽んじるつもりはない。例えば、アイルランドのように、厳しい不況に陥っているというのに、政府債務の残高が累積しているせいで財政緊縮を強いられている国もある。しかしながら、世界規模での過剰な貯蓄――行き場を求めて彷徨っている過剰な貯蓄――こそが僕らが直面している真の問題であることに変わりはないのだ。