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2025年5月12日月曜日

David Henderson 「ロナルド・コース 〜『黒板経済学』に異を唱えた男〜」(2013年9月4日)

David R. Henderson, “The Man Who Resisted ‘Blackboard Economics'”(Wall Street Journal, September 4, 2013)


つい先日のレイバーデー(Labor Day)に102歳で逝去したロナルド・コース(Ronald Coase)は、20世紀に活躍した経済学者の中でも誰よりも稀有な存在だった。取引費用が現実の経済に対してどのような影響を及ぼすかをめぐって鋭い分析を展開し、その洞察に対して1991年にノーベル経済学賞が授与されている。75年の学者人生を通じて彼が執筆した重要な論文は1ダース程度しかなく、論文で数学を使うこともほとんどあるいはまったくなかった。しかしながら、彼が経済学に及ぼした影響は深くて大きい。

20代前半の若かりしコースは、社会主義者だった。しかしながら、他の大半の社会主義者には欠けている特徴を持ち合わせていた。それは何かというと、現実の経済の働きに対する好奇心である。1931年から1932年にかけて、故郷のイギリスを離れてアメリカに旅行に出掛けた時のことだ。コースは、ノーマン・トーマス(Norman Thomas)――社会主義の政党(アメリカ社会党)から大統領選挙に出馬した泡沫候補の一人――のもとをひょっこり訪ねるだけでなく、フォードやゼネラルモーターズの工場にも立ち寄った。そのことをきっかけに、次のような疑問を抱くに至る。アメリカでは、幾つかの大企業がうまくやっているように見える。そうだというのに、ロシア経済を一つの大きな工場のように運営するのは可能だと考えているレーニンは間違っているというのが経済学者たちの言い分だ。どうなってるんだ?

この疑問に対するコースなりの回答が寄せられているのが、1937年に執筆されてその後数多く引用されることになる論文 “The Nature of the Firm”(「企業の本質」)である。企業は、(中央)計画経済と似ているところもあるが、違いもある。企業は、人々の自発的な選択を通じて形成される。どうしてそのような選択を行うのだろう? その理由は、「市場を利用することに伴うコスト」(“marketing costs”)が存在するためだ――あるいは、現代流に表現すれば、「取引費用」(“transaction costs”)が存在するためだ――というのがコースの答えだった。市場を利用するのにコストが一切かからないようなら、企業を作ったところで何の意味もないだろう。人々は、個々の独立した存在として、必要に応じてその都度取引を行うだろう。しかしながら、市場を利用するのにコストがかかるようなら、企業の内部で生産(取引)を組織化するのが最も効率的となる可能性がある。企業なるものが存在している理由についてコースが1937年の論文で与えている説明は、その後に大きく発展することになる研究領域を生み出すきっかけになったのだった。

コースが1960年に執筆した論文 “The Problem of Social Cost”(「社会的費用の問題」)も、その後に大きく発展することになる研究領域――「法と経済学」(“law and economics”)――を生み出すきっかけになった。コースのこの論文が登場するまでは、大半の経済学者は「外部性」の問題についてアーサー・ピグー(Arthur Pigou)の考えを受け入れていた。例えば、牧場で飼われている牛が隣接する農家に入り込んで、作物を踏み荒らしているとしよう。どうすべきだろうか? ピグー流の考えでは、政府が牧場主に牛の自由な放牧を禁ずるか、牛の放牧に対して税金を課すべきだということになる。そうでもしないと、牧場主としては牛が隣の農地を荒らさないように防ぐインセンティブがないので、農作物が牛に荒らされっ放しになってしまうだろうというのである。

コースは異を唱えた。重要な機会が見逃されているというのである。牧場主は、牛が農作物を荒らさないように手配するのと引き換えに、農家からお金を支払ってもらえばいいのだ。もしも取引費用がゼロであるようなら――コース自身は「取引費用がゼロ」という想定が現実に成り立つとは考えていなかったことを念押ししておこう――、農家も牧場主もどちらも得する合意に達することができる(どちらも得する取引を実現できる)のだ。

例えば、牛一頭から得られる金銭的な利益がネットで(飼育に要する費用を差し引いた上で)20ドルだとしたら、農家から牧場主に対して20ドルを超える支払いがなされるようなら、牧場主は牛をさらにもう一頭飼うのをやめるのに同意するだろう。その一方で、一頭の牛が農作物に及ぼす被害が30ドルだとしたら、牧場主が牛をさらにもう一頭飼うのをやめさせるために、農家としては30ドルまでなら喜んで支払うだろう。牛の放牧に対してピグー税を課すべきかというと、それほどはっきりと「イエス」とは言えなくなるわけである。

コースの1960年の論文に含まれている洞察の中でもとりわけ刺激的なのは「取引費用がゼロ」の場合に成り立つ結論であると考えたのが、ジョージ・スティグラー(George Stigler)――1982年のノーベル経済学賞受賞者――だ。「取引費用がゼロ」の場合に成り立つ結論に「コースの定理」(“Coase Theorem”)という名前を冠したのも、スティグラーだ。取引費用がゼロなら、(たとえ外部性が存在していても)政府が介入する必要は一切ないと説くのが「コースの定理」というわけだ。

その一方で、「取引費用がゼロ」の場合に成り立つ結論は取るに足りないと考えたのが、イリノイ州立大学シカゴ校に籍を置く経済学者のディアドラ・マクロスキー(Deirdre McCloskey)だ。マクロスキー女史の考えでは、コースの1960年の論文に含まれている洞察の中でもとりわけ興味深いのは、「取引費用がプラス」である現実の世界で成り立つ結論についてだった。取引費用がプラスなら、裁判所が賠償責任(liability)を誰(どの主体)に割り当てるかが重要な意味を持つことになる。例えば、牧場主と農家の先の例――牧場主にとっての牛の価値(20ドル)が、牛が農作物にもたらす損害額(30ドル)を下回っているケース――で、裁判所が牧場主に牛を飼う権利を認めたら、プラスの取引費用が存在するせいで効率的な解決策が阻まれる可能性があるのだ。

コース自身は、ピグーの考えだけでなく、(「取引費用がゼロ」のケースを重視した)スティグラーの考えも拒否して、どちらの考えも「黒板経済学」の典型だと嘲(あざけ)ったのだった。

コースが1974年に執筆した論文 “The Lighthouse in Economics”(「経済学における灯台」)も有名だ。経済学者は、灯台を「公共財」――政府だけが供給できる財――の例として持ち出すことがある。しかしながら、コースが歴史を詳細に調べてみたところ、19世紀のイギリスでは灯台(のサービス)が私的に供給されていて、港に立ち寄った船から(灯台のサービスを享受した見返りとして)代金が徴収されていたことが明らかになったのである。港に立ち寄らずにそのまま通り過ぎる船もあったが、灯台の運営・管理が商売として成り立つに足るだけの船が港に立ち寄って代金を支払っていたのだ。

コースによるこの発見は、経済学者がそれまで抱いていた見解に打撃を加えた。フリーライダー(ただ乗り)問題のせいで、灯台を私的に運営・管理するのは無理だと考えられていたのである。それに加えて、1974年の論文は、コースの持論を裏付けてもいる。経済学者は、黒板の上で問題を解いてよしとするのではなく、現実の経済(市場)を研究する必要があるという彼の持論を。

コースは、1959年に執筆した論文で、連邦通信委員会(Federal Communications Commission)は不要だと主張した。電磁スペクトルは、市場で自由に売り買いしたらいいというのである。周波数の稀少性だけを特別視すべき理由なんて一切ない。市場で取引されているどの財(経済財)にしても、同じく稀少なのだからというのである。当時は馬鹿にされた言い分だったが、今では経済学者の間でほぼ標準的な見解となっている。

コースは、1964年から1982年にかけてJournal of Law and Economics誌の編集者を務めた。その間の同誌には、政府による規制に批判的な論文が数多く掲載された。コースも強調しているが、政府による規制はうまくいきようがない(「市場の失敗」を解決できない)という意味で批判的なわけではなく、実際にうまくいっていない――同誌に掲載された論文で検討されているほぼすべてのケースで――という意味で批判的だったのである。政府による規制は、カルテルの形成を促したりその他のネガティブな結果をもたらしていたのだ。

コースは、政府による規制に信を置く知識人たちを苛立たせるような指摘を行っている。あなた方が信じておられるように、財市場に対する規制がそんなにうまくいくようなら、アイデア市場(言論の自由)に対する規制はなおさらうまくいくでしょう、というのである。

その理由は? 1997年のReason誌でのインタビューで、コースは次のように語っている。「消費者にとっては、アイデアの善し悪しを判断するよりも、モモの缶詰の善し悪しを判断する方が簡単でしょう」。多くの知識人は、コースがアイデア市場に対する規制を強化せよと訴えていると受け取った。しかしながら、コースにはそんな気はなかった。コースの真意としては、財市場に対する規制を是とする根拠の弱さを(政府による規制に無批判に信を置く)知識人たちに気付かせたかったのである。

2025年5月11日日曜日

Bradford DeLong 「J. S. ミル 対 ECB:ワルラスの法則で世界経済の現状を読み解く」(2010年7月29日)

J. Bradford DeLong, “John Stewart Mill vs. the European Central Bank”(Project Syndicate, July 29, 2010)


経済学の知られたくない秘密の一つは、「経済理論」と名乗れるようなものなんてどこにもないことだ。現実の経済現象に切り込む時に足場として頼れるような一揃いの根本原理なんてものがないのだ。財政緊縮を求める声が世界中でこだましているが、是非とも心に留めておいてもらいたいのは、このことだ。

例えば、生物学者であれば、細胞内でのタンパク質の合成は、DNAにコード化されていることを知っている。化学者であれば、ハイゼンベルグの不確定性原理とパウリの排他原理という二つの原理(それに加えて、空間の三次元性)に遡って、電子配置が安定しているのはなぜなのかを語る。 物理学者であれば、自然界の4つの力に遡ってあれやこれやの説明を試みる。

経済学者には、そのような足場がない。理論を支えていると称する「経済原理」なんてものは、まやかしなのだ。根本的な真理なんかではなく、「正しい」結論を導き出すために弄(いじ)ったり捻ったりできるドアノブみたいなものに過ぎないのだ。

「正しい」結論と言っても、その経済学者がどちらのタイプかによってその意味するところは違う。第一のタイプの経済学者は、まずはじめに政治的なスタンスを決める。どの陣営の味方になるかを決める。そして、自分が選んだ政治的なスタンスに合致する――自分の味方にとって都合がいい――結論が導かれるまで、理論の前提を弄ったり捻ったりする。第二のタイプの経済学者は、まずはじめに歴史の残骸を拾ってくる。次いでそれを鍋に投げ込んで、加熱して煮込む。骨だけになるまで煮込む。その骨から何らかの教訓が得られるかもしれないと願って。ユートピアの実現に向けてノロノロと徘徊する時に、有権者、官僚、政治家に指針を与える原理のヒントが得られるかもしれないと願って。

意外でも何でもないだろうが、第二のタイプの経済学者だけが傾聴に値する何かを語れるというのが私の考えだ。そこで、世界経済の当面の窮状について、歴史からどんな教訓が学べるか探ってみるとしよう。

1829年に、ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)は、彼が「全般的な供給過剰(“general gluts”)」と呼んだ現象にどう立ち向かえばいいかを明らかにした。そのおかげで知的な面で大いなる飛躍が成し遂げられたのだった。ミルは悟った。特定の金融資産に対する超過需要〔需要が供給を上回る状態〕が存在する裏には、生産物市場における財・サービスの超過供給〔供給が需要を上回る状態〕が存在するということを。生産物市場における財・サービスの超過供給は、労働市場における超過供給を生み出すということを。

そこからさらに一歩進めてどのようなことが言えるかも、明らかだった。すなわち、金融資産に対する超過需要を和らげることができたら、財・サービスの超過供給(つまりは、総需要の不足)も労働の超過供給(つまりは、失業)も和らぐのだ。

金融資産に対する超過需要を和らげる方法はたくさんある。

支払い手段として使われる流動的な資産――すなわち、「貨幣」――に対する超過需要が発生しているようなら、中央銀行が貨幣を発行して国債を買い取るのが正攻法である。その結果として、マネーストックが増えて(=「貨幣」の供給量が増加し)、「貨幣」の供給量(残高)と「貨幣」に対する需要量とがつり合うようになる。この方法は、「金融政策」と呼ばれている。

満期が長めの金融資産――現在から将来へと購買力を移転させる「価値の貯蔵手段」として機能する「債券」――に対する超過需要が発生しているようなら、正攻法は二通りある。第1の手段は、企業が借入を増やして(社債の発行を増やして)事業を拡大する方向にどうにかして持っていくことである。第2の手段は、政府が借入を増やして(国債の発行を増やして)政府支出の規模を拡大することである。その結果として、「債券」の供給量(残高)と「債券」に対する需要量とがつり合うようになる。第1の手段は「信頼回復」策と呼ばれていて、第2の手段は「財政政策」と呼ばれている。

安全資産――一時的にその場を離れて戻ってきても、預けた富を前の通りの姿でかくまっていてくれる安全な保管場所――に対する超過需要が発生しているようなら、(マーケットからの)信用度の高い(creditworthy)政府が民間の金融資産に対して政府保証を与えたり、民間の金融資産を国債と取り換えたりするというのが正攻法である。その結果として、リスク資産の供給量(残高)が減少して、安全資産の供給量(残高)が増えることになる。この方法は「資産転換政策」と呼ばれている。

言うまでもないが、現実の世界で試みられる政策は、上の理念型のどれか一つにぴったりと合致するわけじゃない。欧州中央銀行(ECB)は、財政刺激策をこれ以上続けたら逆効果になってしまうと懸念を露にしているが、ECBのその懸念を上の理念型を使って読み替えると、以下のようになるだろうか。「政府支出をさらに増やして、大規模な財政赤字を継続すれば、国債の供給量(残高)が増えることになるので、満期が長めの金融資産に対する超過需要が和らぐだろう。しかしながら、政府債務(国債)の残高が膨らんで政府の債務返済能力を上回るようなら、すべての国債が(安全資産から)リスク資産に変わってしまうだろう。 すなわち、財政刺激策をこれ以上続けたら、満期が長めの金融資産に対する超過需要は和らぐ一方で、安全資産が不足してしまうことになるのだ。そうなれば、状況は前よりも悪くなる」。

ECBの主張によると、北側の主要な国――ドイツ、フランス、イギリス、アメリカ、日本――は、今すぐにも財政緊縮策に方向転換する必要があるという。それらの国の債務(国債)の質に対する金融市場の信頼が揺らいでいて、その信頼がいつ崩壊するかもわからないというのだ。世の政策当局者たちも、ECBの主張に賛同しつつあるようだ。その例の一つが、米国行政管理予算局(OMB)長官であるピーター・オルザグ(Peter Orszag)が7月後半に口にした発言だ。オルザグによると、アメリカ政府が今後3年間にわたって取り組む予定の財政再建では、過去60年で最大規模の歳出削減が試みられるだろうというのだ。

しかし、私の目には、世界経済の現状は大きく違って見える。北側の主要な国の政府が発行する債務(国債)の質に対する金融市場の信頼が揺らいでいるようには見えない。その信頼が崩壊する瀬戸際にあるようには見えない。私の目に映るのは、生産能力を10%下回っていて、失業率が10%に迫ろうとしている世界の姿である。そして何よりも、主要な国の政府が発行する債務(国債)に対して投資家が大きな信頼を抱いている世界の姿である。投資家の多くにとって、政府債務(国債)こそが直近の嵐の中で唯一の安全な港になっているのだ。

ミルであればこのような状況でどのような政策を勧めたかは、あまりにはっきりしている。

2025年5月10日土曜日

Paul Krugman 「俗流ケインジアン」(1997年2月7日)

Paul Krugman, “Vulgar Keynesians”(Slate, February 7, 1997)


経済学の分野も、その他のあらゆる知的な営みと同様に、「学問版・収穫逓減の法則」の影響下にある。時折、偉大な革新者が颯爽と登場し、まるで詩人のような語り口で、自らのアイデアを披露する。そのアイデアは幾分粗が目立ち、先人(あるいは、主流派)のヴィジョンとの違いが誇張して語られるとしても、そのことは取り立てて問題とはならない。アイデアに磨きがかけられることで、やがて確固としたパースペクティブが形作られる可能性があるからだ。しかしながら、どうしても避けられない定めとして、その革新者の後には、表面上の字句には忠実でありながらも、アイデアの核となる精神を誤解した一群の信奉者が続くことになる――彼らの頑迷さは、主流派が自らの見解に対して見せるこだわりを凌駕するほどである――。革新者のアイデアが広まるにつれて、それはますます単純化されることになり、やがて常識(public consciousness)の一部――「誰もが知る」知識の一部――となるまでに流布した暁には、革新者によるアイデアは、粗っぽいまでに劇画化された姿に変容を遂げてしまうのだ。

これはまさに、ケインズ経済学が辿った道のりでもある。ジョン・メイナード・ケインズその人は、大変緻密で革新的なアイデアの持ち主だった。しかし、不運なことに――意図しないかたちで――、彼は自らの遺産の一つとして、今もなお経済問題を巡る論争に混乱をもたらし続けている思想を産み落としてしまったのである。ここではそれを「俗流ケインズ主義」と呼ぶことにしよう。

ケインズが『雇用・利子および貨幣の一般理論』を出版したのは1936年。それ以前の経済学の世界では、ミクロ経済学――個々の市場の機能を対象にして、稀少な資源があれこれの市場の間にどのように配分されるかを研究する分野――に関しては、精緻で洞察力のある理論が既に発展を遂げていた。その一方で、マクロ経済学の分野――インフレやデフレ、景気の過熱や不況といった一国レベルで発生する現象を研究する分野――は、発育停止とでも呼べる状況にあった。足許で進行中の「大恐慌」について何の説明も提供できずにいたのである。

いわゆる「古典派」のマクロ経済学によると、経済は(放っておいても)長期的には完全雇用に戻る傾向があると見なされていて、(完全雇用が実現している)「長期」だけが分析対象になっていた。「古典派」のマクロ経済学を支える理論的な支柱は2つあった。「貨幣数量説」と、「貸付資金(“loanable funds”)説」である。貨幣数量説というのは、物価がいかに決定されるかについての理論であり、一国の物価水準は、経済に流通する貨幣量に比例すると考えられた。その一方で、貸付資金説というのは、金利がいかに決定されるかについての理論であり、金利は、総貯蓄(一国全体の貯蓄)と総投資(一国全体の投資)の不一致を解消するように上下に変動すると考えられたのである。

ケインズとしても、十分に長いスパンをとってみた場合には、「古典派」のマクロ経済学を支える理論が妥当する可能性もあるかもしれないと認めるのにやぶさかではなかった。しかしながら、彼の有名な言葉をひくと、「長期的には、我々は皆死んでしまう」。そこで、ケインズは次のように主張した。短期において金利の水準を決定するのは、(貸付資金説が説くように)完全雇用下における総貯蓄と総投資のバランスではない。「流動性選好」(“liquidity preference”)――現金と比較して安全性や利便性の面で劣る資産への投資を促す上で(高い利回りのような)十分なインセンティブが提供されない限りは、現金を保有し続けようとする欲望――こそが、短期における金利の水準を決定するのだ、と。さらには、ケインズは次のようにも付け加えた。総貯蓄と総投資は、貸付資金説が妥当しないとしても、必ず等しくなる。とは言っても、(事前的な)総貯蓄が(事前的な)総投資を上回ると、(貸付資金説が説くように)金利が低下するのではなく、雇用量や産出量が減ることで総貯蓄と総投資が一致するようになるのだ、と。別の言い方をすると、何らかの理由――例えば、株価の急落など――で投資需要が減少すると、経済は(雇用量や産出量の落ち込みを伴う)全般的な不況に見舞われるということだ。

このようなヴィジョンは、経済の働きに関する従来の見解に見直しを迫るものだった。その見事なまでの洞察力もあって、当時の若くて優れた経済学徒の間ですぐさま受け入れられた。とはいえ、ケインズは現実を単純化し過ぎている面がある、と早いうちから指摘していた経済学者がいたことも事実である。特に、雇用量や産出量は、金利に対して反作用を及ぼすのが通常であり、このことは大きな違いを生む可能性がある。しかしながら、『一般理論』が出版されてから長年にわたって、多くの経済学者は、ケインズのヴィジョンから導き出される含意に魅惑されることになった。ケインズのヴィジョンは、(節倹という)美徳が罰せられ、浪費が報われる「不思議の国のアリス」のような世界に我々を誘うかのように思われたのだ。

例えば、「貯蓄(節約)のパラドックス」(“paradox of thrift”)について考えてみるとしよう。初期のケインジアンモデルによると、何らかの理由で貯蓄率――所得のうち支出(消費)に回されない割合――が上昇したとしたら、総貯蓄と総投資がともに減少するという結果になる。どうしてだろうか? その理由はこうである。貯蓄率が上昇する(事前的な総貯蓄が増加する)と、消費が減って不況になり、それに伴って所得が減ることになる。所得が減ると、所得の増加関数である総投資が減ることになる。総貯蓄と総投資は最終的には等しくならなければならないので、(減少した総投資と等しくなるように)総貯蓄は減らなければならない!

さらにもう一つ、賃金と雇用の関係をめぐる「寡婦の壺」(“widow's cruse”)理論――この名称は古い伝承にちなんで付けられた――についても取り上げておこう。名目賃金が引き上げられると、人件費が高くなるので労働への需要は減ると思うかもしれない。しかしながら、初期のケインジアンの幾人かは、次のような主張を展開した。名目賃金の上昇は、資本家から労働者への所得の再分配(資本家が受け取る利潤が減って、労働者が受け取る賃金が増えること)を意味する。労働者は、資本家と比べると、あまり貯蓄をしないので――これは事実に反しているのだが、それはまあよしとしておこう――、資本家から労働者へと所得が再分配されると、消費需要が増えて、その結果として産出量と雇用量が増える、と。

このようなパラドックスに思いを馳せることは楽しいし、入門レベルの教科書を開くと今でもその説明に出くわすことがある。

しかしながら、このようなパラドックスを真剣に受け止めている経済学者は、今ではほとんどいない。その理由はいくつかあるが、中でも最も重要な理由は、わずか2語で語ることができる。アラン・グリーンスパンAlan Greenspan)である。

シンプルなケインジアンが語るストーリーを深く掘り下げていくと、金利は、雇用量や産出量の水準から独立して決まると想定されていることがわかる。しかし、現実はそうなっていない。金利は、FRB(連邦準備制度理事会)によって積極的に操作されている。雇用が低調であると判断されると金利が引き下げられて、景気が過熱気味だと判断されると金利が引き上げられるのだ。FRB議長(グリーンスパン)の判断の是非についてあれこれ言いたい人――金融政策をもう少し緩和して景気の拡大を支えるべきだと考えたり――もいるかもしれないが、FRB議長に備わる力の大きさについて疑問を呈することができる人はそうそういないだろう。今後数年間のアメリカの失業率を予測できるシンプルなモデルをお探しのようなら、今ここでそれを紹介して差し上げよう。この先の失業率は、グリーンスパンが望む水準に落ち着くと考えてほぼ間違いないのだ(グリーンスパンも神ではないので、彼が望む水準から若干ずれる可能性も考慮する必要はあるけれど)。

グリーンスパン(FRB議長)の役割を考慮に入れると、マクロ経済の働きに関する「古典派」のヴィジョンの多くが息を吹き返すことになる。とは言っても、そっくりそのままというわけじゃない。「古典派」のヴィジョンでは、(市場の)「見えざる手」が経済を長期的には――とは言っても、具体的にどのくらいの長さの期間かとなると特定されることはないけれど――完全雇用に導くと見なされていたが、現実においては、FRBの「見える手」が経済を2〜3年のうちにNAIRU(非インフレ加速的失業率)に導く役割を果たすのである。そのためには、失業率がNAIRU(あるいは、目標とする失業率)に達した時に総貯蓄と総投資が等しくなるように金利を操作する必要があるが、FRBが金利をそのように操作するようなら、「貯蓄のパラドックス」や「寡婦の壺」理論をはじめとした初期のケインジアンの主張が妥当性を失うことになるのである。例えば、貯蓄率が上昇したら、(貯蓄のパラドックスが説くところとは反対に)総投資は増えるだろう。なぜなら、FRBが金利を下げるだろうからである。

何らかの理由で総需要が変化しても、FRBが金利を操作してそれを打ち消す――そのため、雇用量は変わらない傾向にある――というアイデアは、少なくとも私にとってはシンプルでもっともなものに思える。しかしながら、学術的な世界の外に目をやると、このアイデアを受け入れている人はごくわずかというのが実状のようだ。例えば、NAFTA(北米自由貿易協定)の是非を巡る議論では雇用への影響が焦点になったが、アメリカとメキシコ間の貿易収支がどうなろうとも、今後10年間のアメリカの失業率はFRBが望む水準に概ね落ち着くだろうと私は当然のように考えていたが、世間はそう考えていなかったのだ(こんなことがあった。1993年に開催されたとあるパネルディスカッションの席上でまったく同じことを口にしたら、それを聞いていたパネリストの一人――NAFTAの支持者だったみたいだ――が激昂して、「そんなことを言うから経済学者は嫌われるのだ!」と宣ったのだ)。

その代わり、世間――悲しいかな、自分のことを物知りだと任じている知識人の多くもその中に含まれる――の「常識」になっていたのは、劇画化されたケインズ主義の一種だった。その特徴は、「消費の減少(貯蓄の増加)は、いついかなる時も悪である」というアイデアを無批判に受け入れているところにある。アメリカではインフレや財政赤字の問題がここしばらくは後景に退いているが、その機に乗じるかのようにして、俗流ケインズ主義が劇的なかたちでカムバックを果たしたのだ。先月のコラムで取り上げたばかりのウィリアム・グレイダー(William Greider)の新著でも、「貯蓄のパラドックス」とか「寡婦の壺」理論とかが主要なテーマになっているし――とは言っても、グレイダーがそのアイデアの出所をわかっているかとなると疑わしい。「知的な面で誰からも影響を受けていないと信じ切っている実践的な人間も、今は亡き経済学者の奴隷であるのが普通である」とはケインズの言だ――、 ジョン・ジュディス(John B. Judis)がニュー・リパブリック誌で似たような主張を開陳している姿も目に入る。これくらいなら驚くほどじゃないかもしれないが、「貯蓄の増加は、経済成長を阻害する」というアイデアがビジネスウィーク誌でも真剣に扱われているとなると(“Looking for Growth in All the Wrong Places,” February 3, 1997)、俗流ケインズ主義が一つの文化現象になりつつあると考えざるを得ないだろう。

「貯蓄の増加は、経済成長を阻害する」という主張――「貯蓄は、経済が成長するために決定的に重要な要因だと語る人がいるが、そこまでじゃない」という主張はある程度理にかなっているが、「貯蓄の増加は、経済成長を阻害する」という主張とは別物だ――を正当化するためには、FRBは無力だということを説得的に示さなければならない。何らかの理由で(事前的な)貯蓄が増加したら、FRBが金利を引き下げても総投資は増えないということを論証せねばならないのだ。

金利は、総投資に影響を及ぼす数ある要因のうちの一つに過ぎないと語るだけでは十分じゃない。そのような反論は、アクセルペダルを踏み込む力の強さは、車のスピードに影響を及ぼす数ある要因の一つに過ぎないと語っているようなものだ。「それで?」としか思わない。アクセルペダルをどれだけ強く踏み込むかは、自分で自由に調節できる。何か異常がない限りは、ペダルを踏み込む強さを調節して、車のスピードを「これくらいなら安全に運転できるだろう」と自分なりに考える速度に制御できる。それと同様に、グリーンスパンは、お望み通りに金利を自由に調節できる(FRBが望みさえすれば、一日のうちにマネーサプライの規模を倍増させることだってできる)。何か異常がない限りは、金利を調節して、雇用量を「これくらいならインフレも加速しないだろう」と考える水準に持っていくことができるのだ。

「貯蓄の増加は、経済成長を阻害する」という主張を正当化するためには、次のどちらかが成り立つことを示さねばならない。金利が総需要に対して何の影響も持たないことを示すか――本気でそう信じているなら、全米ホームビルダー協会(NAHB)に伝えてみるといい――、貯蓄率があまりに高すぎて、FRBが金利をゼロ%近くにまで引き下げても総貯蓄と総投資のギャップを埋められないことを示さねばならないのだ。1930年代のアメリカだったり――当時のTビル(財務省短期証券)の利回りは0.1%を下回っていた――、現在の日本だったり――現在の日本では、金利は1%程度――のように、後者のケースが妥当する例もなくはない――とはいえ、日本銀行は日本経済を停滞から救い出せるだけの力を依然として持っていると思うし、日銀の消極的な態度はかなりの不正行為(malfeasance)にあたると思う。しかし、この件については、別の機会に取り上げるとしよう――。しかしながら、住宅ローンを借りている銀行から自宅に通知書が毎月送られてくるのだが、それを見ると金利はプラスで、下がる余地はまだかなりあるようだ。ありがたや。

ともあれ、そこまでこだわる必要もないかもしれない。というのも、「貯蓄の増加は、経済成長を阻害する」と語っている人たちは、FRBが無力だとは思っていないようだからだ。それどころか、これまでの長きにわたってアメリカ経済のパフォーマンスが低調だったのは、全部FRBのせいだと語っていたりするのだ。グリーンスパンが腰を上げさえすれば、今の苦境から抜け出すことができるのにと語っていたりするのだ。

2月3日付のビジネスウィーク誌から引用するとしよう。

「貯蓄が増えると、景気が減速する可能性が高い」と語る「つむじ曲がり」の経済学者もいる。貯蓄が増えると、投資が活発になるのではなくむしろ落ち込むというのがその理由だ。「投資を刺激する必要があります」と語るのは、テキサス大学のジェームス・ガルブレイス(James K. Galbraith)。ケインジアンを自任する経済学者だ。ガルブレイスによると、経済成長を促すには金利を引き下げるべきだという。

つまりは、こう主張していることになる。貯蓄が増えると、景気が悪化する。FRBが金利を引き下げても、総投資が増えないからだ。その代わり、FRBは、金利を引き下げて経済成長を促すべきだ。金利を引き下げれば、総投資が増えて経済成長が促されるだろうから。

・・・何か見過ごしてる?