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2025年5月20日火曜日

Cory Doctorow 「フランスやスコットランドが性能面で劣っていたクロスボウに固執したのはなぜ?」(2016年1月20日)



ロングボウクロスボウよりも性能がだいぶ優れていたが、軍の主力武器として取り入れたのはイングランドだけだった。フランスやスコットランドの軍隊は、性能面で劣っていたクロスボウを1世紀近くも使い続けたのである。その理由は?

歴史家たちを何十年にもわたって悩ませてきたこの謎――「ロングボウパズル」――の答えを二人の経済学者が提示している。サイモン・フレーザー大学に籍を置くダグラス・アレン(Douglas Allen)と、ジョージ・メイソン大学に籍を置くピーター・リーソン(Peter Leeson)の二人が Journal of Law and Economics 誌に掲載された論文で、ロングボウパズルを解いているのだ。

フランスやスコットランドの王は、反乱を恐れるあまりに、兵にロングボウを持たせたがらなかったというのが二人の言い分だ。その一方で、イングランドは政情が比較的安定していたので、安心して兵にロングボウを持たせることができたというのだ。その結果として、イングランドは外敵との戦争で優位に立てたというのだ。

論文のアブストラクト(要旨)を引用しておこう。

ロングボウは、中世ヨーロッパにおける飛び道具界の無二の王の地位に一世紀以上にわたって君臨した。しかしながら、軍の主力武器として採用したのはイングランドだけだった。フランスやスコットランドの軍隊は、性能面で劣っていたクロスボウに固執したのである。何十年にもわたって歴史家たちを悩ませてきた謎である。本稿では、「制度によって制約された技術選択」理論の観点からこの謎に切り込む。ロングボウは、クロスボウとは違って、安価で作るのが簡単で、戦場で使うつもりであれば大勢の射手を養成する必要があった。ロングボウのこれらの特徴ゆえに、軍の主力武器として採用すると、王の座を狙う貴族がロングボウの扱いに慣れた大勢の兵を束ねて反乱を引き起こす可能性が生まれたのである。どの飛び道具を軍の主力武器として選ぶかをめぐって、王(支配者)はトレードオフに直面していたのだ。内乱を防ぐか、それとも国防を強化するかというトレードオフに。中世末期のヨーロッパで、飛び道具として最も優れていたロングボウを選んでも反乱が起こるのを心配する必要がないくらいに政情が安定していたのはイングランドだけだった。政情が不安定だったフランスやスコットランドでは、クロスボウがやむなく選ばれたのだ。

2013年8月24日土曜日

Katherine Mangu-Ward 「私の妻を買ってください! ~妻売りの経済学~」(2011年6月20日)

Katherine Mangu-Ward, “Take Buy My Wife. Please!”(Hit&Run blog, June 20, 2011) /Buy My Wife. Please!”(ReasonNovember 2011


ジョージ・メイソン大学に籍を置く経済学者のピーター・リーソン(Peter Leeson)――海賊神判の研究で名を知られているあのリーソン――が、ピーター・ベッキー(Peter Boettke)とジェイマ・レムケ(Jayme S. Lemke)との共同研究で、18~19世紀のイギリスで見られた「妻売り」の慣行を経済学的な観点から弁護している。当時のイギリスでは、離婚の手続きが面倒で、妻は夫の所有物と見なされていた。「妻売りは、産業革命期のイギリスの法律によって生み出された所有権の歪みに対する制度的な反応であり、効率性を高めるのに貢献した」というのが三人の言い分だ。

論文の一部を引用しておこう。

18世紀のイギリスで生活をともにしている夫婦の一例について考えてみるとしよう。妻の名はハティで、夫の名はホーレス。ホーレスは、ハティを愛している。妻として評価すると、その価値は5ポンド。その一方で、ハティは、ホーレスを嫌っている。夫として評価すると、その価値はマイナス7ポンド。この2人の結婚は、(それぞれが相手に下している評価を足し合わせるとマイナスになるので)非効率的である。ハティは、離婚したいと思っているが、離婚するためにはホーレスから同意を取り付ける必要がある。ホーレスとしては、ハティが5ポンド以上を払ってくれるのであれば離婚に同意してもいいと思っている。ハティとしても、離婚に同意してもらえるなら5ポンド以上を払ってもいいと思っている。しかしながら、当時の法律によると、夫婦の財産はすべて夫のものなので、ハティはびた一文払えない。2人で直接交渉して離婚に漕ぎ着けるのは不可能なのだ。

しかしながら、迂回してなら可能である。ホーレス&ハティ夫婦の隣人で独身のハーランドは、ハティをホーレス以上に愛している。妻として評価すると、6ポンドの価値があると考えている。ハティはどうかというと、ハーランドをホーレスよりも好いている。夫として評価すると、1ポンドの価値があると考えている。 
ホーレスもそのことを知っている。そこで、ハーランドに次のような提案を持ちかける。君が5.5ポンドを払ってくれるなら、妻のハティを譲ってもいいと思うがどうする? ハティとは違って、ハーランドの財産は、ハーランドのものである。ホーレスのものではない。それゆえ、実行可能な取引である。ハティとハーランドは、ホーレスの提案を受け入れる。ホーレスは0.5ポンド得をする〔訳注1〕。ハーランドは0.5ポンド得をする〔訳注2〕。ハティは8ポンド得をする〔訳注3〕。妻が売られるおかげで、三人がともに得をするのだ。

論文はこちら(pdf)。


<訳注>

〔訳注1〕ホーレスは、ハティと離婚すると5ポンドの損失を被るが(妻としてのハティを5ポンドと評価しているため)、ハーランドから5.5ポンドを支払ってもらえるので、差し引きすると0.5ポンド(=5.5-5)得することになる。

〔訳注2〕ハーランドは、ハティを譲り受けるために5.5ポンドを支払うが、妻として6ポンドの価値があると考えているハティと一緒に暮らせるようになるので、差し引きすると0.5ポンド(=6-5.5)得することになる。

〔訳注3〕ハティは、ホーレスと離婚すると7ポンドの得をして(夫としてのホーレスをマイナス7ポンドと評価しているため)、ハーランドと一緒になると1ポンドの得をする(夫としてのハーランドを1ポンドと評価しているため)。合計で8ポンド(=7+1)得することになる。

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ピーター・リーソンは、ジョージ・メイソン大学に籍を置く経済学者。肩書は「資本主義研究のためのBB&T教授」。忍者、UFO、魔女裁判についての論文を書いていて、経済学の原理を応用して海賊について分析を加えている『The Invisible Hook』(邦訳『海賊の経済学』)をプリンストン大学出版局から上梓している。同僚のピーター・ベッキーとジェイマ・レムケと共同で執筆している最近の論文では、「妻売り」を経済学的な観点から弁護している。18~19世紀のイギリスでは、妻が売られるのが珍しくなかったのである。当時のイギリスでは、離婚の手続きが面倒で、結婚した女性は財産を一切持てなかった。本誌のシニア・エディターであるキャサリン・マング=ウォードが今年(2011年)の8月にリーソンに行ったインタビューを文字に起こしたのが以下である。


Q:妻売りをテーマにしようと思ったきっかけは何だったのでしょうか?

A:海賊についての研究に取り組んでいた最中に18世紀に発行された新聞を調べていたら、とある広告を見つけたんです。妻売りの広告だったんですが、当時の新聞ではよくあることだったらしいです。はじめて目にした時は度肝を抜かれて、何て馬鹿げてるんだろうと思いました。でも、じっくり検討してみたら、理に適(かな)っていると思うようになったんです。

Q:妻売りを取り巻く当時の状況はどんな感じだったのでしょうか?

A:18~19世紀のイギリスでは、財産、結婚、離婚についての法律がやけに厳格で馬鹿げたところがありました。当時の婚姻法では、婚姻関係が続いている間は、妻は自らの財産に対する所有権をすべて夫に譲り渡す決まりになっていました。自分の身体に対する所有権でさえもです。

そのため、妻が結婚生活に不満を抱いて離婚しようと思ったら、夫から同意を取り付けないといけませんでした。経済学の世界で「コースの定理」と呼ばれている説によると、だからといって取り立てて問題にはならないはずです。お金を払って離婚の権利を買い取ればいいからです。でも、当時のイギリスでは、妻は財産を一切持てなかったので、お金を払って離婚の権利を夫から買い取るということができなかったのです。

でも、その女性を今の夫よりも高く評価している男性がいるかもしれません。その女性もその男性を今の夫よりも高く評価しているかもしれません。妻の財産は夫のものですが、その男性の財産は夫のものじゃありません。その男性は、代わりに夫から離婚の権利を買い取ることができるわけです。妻売りというのは、そういうものだったんです。

Q:どういう人が妻を買ったのでしょうか?

A:妻の愛人というケースが多かったみたいです。それも納得がいきます。夫としては、妻をできるだけ高値で売り渡したいと考えるでしょうからね。妻を最も高く評価していて、妻が一緒にいたいと望んでいる相手に売り渡したいと考えるでしょうからね。妻に愛人がいれば、うってつけです。妻を一番高値で買い取ってくれるのは愛人である可能性が高いですからね。既に関係を築いていますから、妻を最も高く評価しています。妻もその愛人を今の夫よりも高く評価しているでしょう。未来の伴侶としても。

そういうわけで、妻の愛人が買い手になることが多かったとしても納得がいくわけです。でも、常にそうだったわけじゃありません。愛人がいなくても、今の夫が嫌いで離婚したいと思うというケースはあり得ます。結婚してもいいと思えるような相手がどこかにいるかもしれませんし、これから見つけるつもりかもしれません。夫は夫で、奪い取りたいと思うほどに妻のことを高く評価している人物がどこかにいないか確かめたいでしょう。そこで、妻を売りに出すわけです。競売のようなもので、誰が妻を高く評価しているかがあぶり出されるのです。

妻の同意を得た上での話だったということは強調しておかないといけないでしょう。彼女たちは無理矢理売られたわけじゃありません。売られたがっていたのです。

2013年8月18日日曜日

Eli Dourado 「人身御供の経済学」(2013年2月20日)

Eli Dourado, “What Can We Learn from Human Sacrifice?”(The Ümlaut, February 20, 2013)


人身御供(ひとみごくう)についての描写は、現代人の心をゾッとさせずにはおかない。インド東部のコンド族によって執り行われていた人身御供についての以下の記述をご覧いただきたい。ピーター・リーソン(Peter Leeson)の最近の論文(pdf)からの引用だ。

生贄が動かないようにするために、腕や足の骨が折られることもあった。最後の祈りが唱えられると、神官の言葉を合図に「儀式に参加していた民衆が一斉に生贄に飛び掛かり、頭と腸には一切触れずに、肉を引き剝がし始めた」。生贄を切り刻むというのはどこでもよくあったが、コンド族の間では、派手で残酷な別の処置が追加されることもあった。例えば、豚の血で満たされた穴の中に生贄を投げ込んで溺死させることもあれば、生贄の命が絶えるまで真鍮の腕輪で殴り続けることもあった。その後で生贄の体を細かく切り刻むのだ。

豊饒と草木の女神――執念深い地母神――であるタリ・ペヌー(Tari Penu)の気持ちをなだめるために。

まったくもって非合理的で、何の得にもならない滅茶苦茶な行為だと思うかもしれない。「いや、違う」というのがリーソンの言い分である。コンド族は、同族の隣接する集落から襲撃されるのを防ぐための術として人身御供という儀式を利用していたというのである。人身御供という 「見せびらかしの破壊」を行って、近くの集落に知らせていたというのだ。富を破壊してしまって貧しくなった我々を襲っても得にならないということを。人身御供が略奪を防ぐのに効果を発揮したのは、富が破壊されているのが誰の目にも明らかだったからである。生贄――メリアー(meriahs)と呼ばれていた――は、別の部族から高値で購入する習わしになっていた。大量の作物を燃やして富を破壊しているのを見せびらかす場合とは違って、人体を切り刻んでいるのを偽装するのは困難だ――本当は作物を燃やしていないのに、表面を葉っぱで覆ってしまえば作物を燃やしていると言い張ることができるが、人体を解体する場合はそうはいかない――。人身御供という 「見せびらかしの破壊」では、高価な富が破壊されているのが誰の目にも明らかだったのだ。

人身御供が合理的で、社会的に有用な役割を果たしたケースもあることを理論的・歴史的な観点から説得的に論証しているのがリーソンの論文なのだ。人身御供が一切執り行われていなければ、同族内での略奪が頻繁に起きていたかもしれない。人身御供は、コンド族のためになっていたのだ。

コンド族を真似て、人身御供を執り行うべきなのだろうか? その答えは、明らかに「ノー」だ。しかしながら、コンド族のケースから学べることはたくさんある。リーソンは、論文の冒頭でジョージ・スティグラー(George Stigler)の次の言葉を引用している。

「長きにわたって存続している社会制度も慣行も例外なく効率的である」

言い伝えによると、コンド族による人身御供は太古の昔からずっと続いていたらしい。長きにわたって存続した社会制度だったわけである。リーソンのこれまでの研究を振り返ると、風変わりではあるが合理的で効率的な歴史上の慣行の例で満ち溢れている。呪いはどうなのか? リーソンによれば(pdf)、合理的である。決闘裁判は? リーソンによれば(pdf)、効率的である。中世ヨーロッパの裁判で執り行われていた神判は? リーソンによれば(pdf)、無実かそうでないかを正確に見分けるのに役立った。動物裁判は? リーソンによれば(pdf)、カトリック教会による賢明な策だった(十分の一税の納付を促す役割をした)。妻売りは? リーソン&ベッキー(Peter Boettke)&レムケ(Jayme Lemke)によれば(pdf)、女性のためになった。

人身御供についてのリーソンの研究がリベラル派(あるいは、リベラル寄りな人たち)に対して突き付けている重要な教訓がある。長きにわたって続いている慣行(あるいは、長きにわたって流布している信念)を愚かだとか非合理的だとかと安直に断じるなかれという教訓がそれである。現存する制度なり慣行なりについて何もかも理解し尽くしているかのような気になってはいけないのだ。人身御供を宗教上の制度――そうだったのは確か――としてだけ捉えてしまうと、略奪を防ぐための制度でもあった――そうだったのは確か――ことが易々と見過ごされてしまうだろう。何らかの呪術的な干渉によってコンド族に人身御供を取りやめさせることができたとしても、その結果として同族内での略奪が盛んになるかもしれない。人身御供が続けられる場合よりも、多くの人命と富が失われてしまうおそれがあるのだ。イギリス政府がリベラルな教育を施したり暴力で脅したりしてコンド族に人身御供を取りやめさせようとしたが、結局のところは失敗に終わった。それと同様に、長きにわたって存続しているリベラルとは言えない慣行を取りやめさせようとしても、失敗に終わることが多いだろう。

保守派(あるいは、保守寄りの人たち)もコンド族のケースから学べることがある。人身御供は、コンド族が置かれていた状況においては効率的な制度だった。イギリス政府がコンド族のために所有権の保護や紛争解決のサービスを提供し始めると、コンド族の人たちは人身御供を快く取りやめた――若者世代の不信心な態度に怒り心頭だった年配者もいただろうと想像される――。環境が劇的に変化すると、それまで長きにわたって存続してきて効率的だった社会制度も効率的ではなくなって、存続できなくなるわけである。スティグラーが主張しているように、効率的な制度の存続を支えるのと同じ力が非効率的な制度を淘汰するのである。リベラル派だけでなく保守派も社会制度が存続したり変化したりする真の理由を理解するのが難しいようで、新しいテクノロジーの登場に対する効率的な反応として社会制度が変化しているのに、保守派はそうは考えない。社会制度が変化しているのは道徳が頽廃しているからと考えがちなのだ。

テクノロジーが急激に変化する時代に我々は生きているとよく言われるし、事実その通りだ。結婚、出産、終末期医療、労働市場、大学など社会制度の多くも急激に変化しているが、驚くにはあたらない。社会制度の変化は、テクノロジーの変化の結果に過ぎないからだ。古くから続く制度を現状の温存に加担するものとしか考えないリベラル派は、社会制度が変化するのを進歩と見なすことだろう。旧習を内面化している保守派は、社会制度が変化するのを頽廃と見なすことだろう。しかしながら、社会制度の変化は、道徳面での進歩を意味しているわけでもなければ、道徳面での頽廃を意味しているわけでもないのだ。法、経済学、迷信についてのリーソンの一連の研究は、風変わりな多くの社会制度――コンド族に限らず、我々のも含めて――がいかにして形成されるかを愉快かつ啓発的なかたちで明らかにしている。それぞれの社会が直面している問題や制約に対する合理的な反応の結果なのだ。

2013年8月13日火曜日

Peter Leeson 「迷信と経済発展」(2010年8月23日)

Peter T. Leeson, “Superstition and Development”(Aid Watch, August 23, 2010)


ジプシーたちの間で信じ込まれている説によると、ジプシーではない人間の下半身は気付かぬうちに穢れてしまっているという。超自然的な力によって穢れが人づてに伝染するというのだ。そのせいで、ジプシーではない人間の魂は毒されているというのである。

これらの迷信は、非合理的なわけでは決してない。ジプシーたちの共同体の秩序を維持するのに中心的な役割を果たしているのだ。ジプシーたちは、仲間うちでの協調を図るために、公的な法制度に頼るということができない。彼らの間での経済的・社会的なやり取りの多くは、法律の対象外であるか、違法行為にあたる。しかしながら、法と秩序に対する欲求の強さは、ジプシーたちも人後に落ちない。

そこで、仲間内での秩序を維持するために迷信の力が借りられるのだ〔原注1〕。ジプシーではない人間の魂は毒されていて、超自然的な力によって穢れが人づてに伝染するという迷信がどんな役割を果たしているかを検討してみるとしよう。ジプシーたちは、仲間内の誰かが裏切らないようにするために、政府に頼ることができない。村八分(ostracism)の脅しに頼る〔訳注;裏切り行為を働いたら、共同体から追い出してもう二度と関わりを持たないと脅す〕しかない。 

問題なのは、ジプシーたちの共同体は大海に浮かぶ小島のようなものだということである。ジプシーではない人間がすぐ近くにうようよいるのだ。裏切り行為を働いて追放されたジプシーが外の社会に溶け込んで、そこで暮らす人たちと接触できるようなら、追い出すというのは大した罰ではなくなる。村八分の脅しに効力を持たせるために、あの迷信が生まれたのだ。ジプシーではない人間の魂は毒されていて、その毒は伝染するというあの迷信が。ジプシーではない人間と接触したら、超自然的な力によって同じく毒されてしまうというあの迷信が。

あの迷信のおかげで、村八分の脅しが真実味を帯びるようになる。裏切り行為を働くと、あらゆる社会から追放されることを意味するようになるからである。ジプシーたちとだけでなく、外の社会の人間たちとも接触できなくなることを意味するのだ。村八分の脅しと迷信の力が相まって、裏切り行為が防がれているわけなのだ。ジプシーたちの間で信じられている迷信は、おそらくは意図せずして法と秩序の維持に貢献しているのだ。

ジプシーのような「他者」が信じている迷信を見下してしまいがちな風潮があるが、ヨーロッパの歴史を振り返ると、迷信の宝庫であることがわかる。そして、その中のいくつかは社会的に有用な働きをしていた可能性があるのだ。例えば、中世ヨーロッパの裁判では、被告人が有罪か無罪かがはっきりしない場合に神判(ordeal)が執り行われた〔原注2〕。例えば、熱湯を用いる神判では、被告人はお湯がグツグツと沸き立っている大釜の中に腕を突っ込むように求められる。熱湯に腕を突っ込んでから3日後にひどいやけどや感染症の症状が確認されると、有罪が宣告される。その一方で、腕に何の異常も表れないようなら、無罪が言い渡される。このような神判を支えているのは、無実の被告人のために神が奇跡をもたらすという迷信なのだ。被告人が無実であれば、神のおかげで厳しい試練も無傷で潜り抜けられるという迷信なのだ。

ジプシーのケースと同じように、この迷信も一見すると非合理的な信念のように思えるが、じっくり検討してみると、社会的に有用な働きをしていることが判明する。被告人が身に覚えがあるようなら、腕を熱湯に突っ込むのを拒否するに決まっているだろう。なぜなら、無実の被告人は神のご加護によって救われる一方で、身に覚えがある被告人には神のご加護がないと信じ込まれているからである。すなわち、身に覚えがある被告人は、腕を熱湯に突っ込めばやけどを負うに違いないと予想するのだ。腕を熱湯に突っ込むのに同意したら、やけどを負って有罪を宣告されるに違いないと予想するのだ。腕にやけどを負うよりは、罪を白状するか原告と示談する方が得策と考えるのだ。

それとは対照的に、無実の被告人は、必ずや神判を受けようとするだろう。無実の被告人には神のご加護があるという迷信を信じているからである。腕を熱湯に突っ込んでも神のおかげでやけどを負わずに済むと信じているからである。神判を受けたら無罪が証明されるに違いないと信じているからである。無実の被告人は、神判を受けるのに少しも恐れを抱かない。神判をすすんで受けようとするのだ。

身に覚えがある被告人は神判を受けようとせず、無実の被告人は神判をすすんで受けようとする。被告人が神判をすすんで受けようとするかどうかを観察すれば、その被告人が有罪か無罪かを見分けられるのだ。中世ヨーロッパで信じられていた迷信は、刑事裁判で正義が下されるのを手助けする働きをしていたのだ。そのようにして法と秩序の維持に貢献していたのだ。

とは言え、あらゆる迷信が法と秩序の維持に貢献するというわけではない。決してそうじゃないだろう。しかしながら、科学的な根拠がなくて滑稽な迷信であっても、公的な制度の代役を果たしている場合があるかもしれないのだ。公的な制度が存在していなかったり公的な制度がうまく機能していない状況で、社会的な協調を支える役割を代わりに果たしているかもしれないのだ。その可能性を否定すべきじゃないだろう。発展途上国で信じ込まれている迷信のうちで、そういう役割を果たしているものはあるだろうか?


<原注>

〔原注1〕ジプシーたちの間で広まっている迷信に経済学的な観点から包括的な分析を加えているのが、次の拙論文である。Peter T. Leeson (2013), “Gypsy law(pdf)”(Public Choice, vol. 155, issue 3-4, pp. 273-292)

〔原注2〕中世ヨーロッパの裁判で執り行われていた「神判」に経済学的な観点から包括的な分析を加えているのが、次の拙論文である。Peter T. Leeson (2012), “Ordeals(pdf)”(Journal of Law and Economics, vol. 55, issue 3, pp. 691-714)