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2025年5月14日水曜日

David Beckworth 「『ゼロ下限制約』に達しても『流動性の罠』に陥ることはそうそうない」(2011年5月6日)

David Beckworth, “Liquidity Traps Are Very Unlikely, Even at the Zero Bound: A Rejoinder to Matt Rognlie”(Macro Musings Blog, May 6, 2011)


マシュー・ログリー(Matthew Rognlie)がタイラー・コーエン(Tyler Cowen)を難詰している。「流動性の罠」なんて存在しないと語るコーエンに反論を加えているのだ。「流動性の罠」が存在することを滔々と述べ立てた後に、ログリーは以下のように締め括っている。

しかしながら、希望は少しも残されていないというわけじゃない。Fedにやれることはまだあるのだ。名目金利の今後の経路についての予想に働きかけるという手もある。通常とは違うかたちで債券を大量に購入して、ポートフォリオのリバランスを引き起こして満期が長めの金利の低下を促すという手もある。・・・(略)・・・ゼロ%は制約ではないと言い回るのだけはよしてもらいたい。悲しいかな、ゼロ%は制約なのだ。

政策金利がゼロ%という制約に達しても、「流動性の罠」に陥ることはそうそうない。皮肉なことに、上に太字で引用した部分こそがまさにその理由になっているのだ。このことを理解してもらうためには、「流動性の罠」というのがどういう状況なのかをまずは思い起こす必要がある。「流動性の罠」というのは、貨幣に対する需要が無限に弾力的になる状況のことである。すなわち、中央銀行がどんなことをしても、貨幣に対する需要に何の影響も及ぼせない状況なのだ。「流動性の罠」に陥ると貨幣に対する超過需要が生じて、そこから派生する問題を金融政策で解決することができなくなってしまうのである。

ログリーの言い分によると、中央銀行が操作対象にしている短期金利(政策金利)がゼロ%に達したら、「流動性の罠」に陥ることになるという。政策金利だけが貨幣に対する需要に影響を及ぼすと想定するなら、その通りだろう。しかしながら、かつてミルトン・フリードマン(Milton Friedman)が主張したように、貨幣に対する需要は、政策金利を含む金利のスペクトラム(満期の異なる様々な金利)によって影響されるのだ。そうだとすると、政策金利がゼロ%に達したとしても、Fedにやれることは依然としてたくさんあることになる。Fedが長期国債だとか社債だとかの利回り――これらの利回りも貨幣に対する需要に影響を及ぼす重要な要因というのがフリードマンの考えだった――を低下させることができたら、貨幣に対する需要にも影響を及ぼせるわけであり、「流動性の罠」に陥らずに済むことになるのだ。

たった今述べたことは、上に太字で引用した箇所でログリーが述べている「ポートフォリオのリバランス」を引き起こす背景になっている。Fedが長期国債を購入したらその利回り(長期金利)が低下する可能性があるが、そうなるとポートフォリオのリバランスが引き起こされることになる。民間の経済主体が株式だとか実物資本だとかの高リスク資産を購入するようになるのだ。それに伴い、貨幣に対する需要が低下することになる。すなわち、Fedが長期国債を購入したらポートフォリオのリバランスが引き起こされると主張するのは、政策金利がゼロ%という制約に達したとしても「流動性の罠」に陥ることはないと主張しているに等しいのだ。ポートフォリオのリバランスが引き起こされると語るログリーは、「流動性の罠」の存在に懐疑的なコーエンの肩を持っていることになるのだ。

ところで、貨幣に対する需要が金利のスペクトラムによって影響されることを示す証拠はあるのだろうか? 過去に目を向けてもその証拠をいくつか見出すことができるし(例えば、こちらこちらを参照)、最近についてもその証拠はある。以下の3つのグラフがそれだ。貨幣の流通速度(セントルイス連銀が発表しているMZMの流通速度)と各種の金利(3カ月物の短期国債の利回り、10年物国債の利回り、社債の利回り)との間に密接なつながり(相関)があることが示されている(決定係数の値はいずれも0.7を超えている)。 





政策金利がゼロ%に達したからと言って、「流動性の罠」に陥るとは限らないのだ。「流動性の罠」に陥るためには、貨幣に対する需要に限りが無くなる必要があるのだ。そうなれば、デフレが起きることになるのだ。さらには、政策金利がゼロ%に達して貨幣に対する需要に限りが無くなるようなことが仮にあったとしても、ピーター・アイルランド(Peter Ireland)がクルーグマンの「流動性の罠」モデルを使って示しているように(pdf)、人口が成長するようなら、マネーサプライが増えるのに伴って分配効果が生じて、そのおかげで「流動性の罠」に陥るのを避けられるのだ。

現状はどうなのかというと、貨幣に対する需要が高止まりしているせいで景気の足が引っ張られているのは確かだが、「流動性の罠」からは程遠い。すなわち、貨幣に対する超過需要が生じているせいで引き起こされている問題を解決するためにも、総需要(名目支出)を刺激するためにも、金融政策にできることは依然としてたくさんあるのだ。こちらの記事で私なりにそのための具体的な提案を行っているので、参照していただきたいと思う。

(追記1)ジョシュ・ヘンドリクソン(Josh Hendrickson)もログリーに反論している〔拙訳はこちら〕。

(追記2)しばらく前のブログエントリーになってしまうが、「流動性の罠」についてのスコット・サムナー(Scott Sumner)の見解もあわせて参照されたい。

Josh Hendrickson 「流動性の罠」(2011年5月9日)

Josh Hendrickson, “Liquidity Traps”(The Everyday Economist, May 9, 2011)

 
「流動性の罠」の有意義な定義としては、貨幣(現金残高)に対する需要に限りが無い状況というのくらいしか考えられない。貨幣(現金残高)に対する需要に限りが無いようなら、民間の経済主体は現金をいくらでも溜め込もうとするので、その必然的な結果として金融政策は無力になってしまうだろう。

例えば、中央銀行がFF金利(短期名目金利)に誘導目標を定めているとしよう。もしもFF金利がゼロ%に達したら、FF金利をそれ以上引き下げることはもはやできなくなってしまう。しかしながら、実質金利を引き下げる余地は残されている。標準的な貨幣理論によれば、中央銀行がマネーサプライを増やせばインフレ率が高まることになる。インフレ率が高まれば実質金利が低下して、総需要が刺激されることになる。

ところで、ポール・クルーグマン(Krugman 1998)(pdf)とラルス・スヴェンソン(Svensson 1999)(pdf)が提示しているモデルでは、名目金利がゼロ%に達すると、貨幣(現金残高)に対する需要に限りが無くなるようになっている。すなわち、名目金利がゼロ%の下限に達すると、マネーサプライを増やしても民間の経済主体によってそのまま溜め込まれてしまうのである。それゆえ、中央銀行は物価水準に影響を及ぼせなくなる。金融政策が無力になってしまうわけである(念の為に指摘しておくと、クルーグマンは金融政策がその力を取り戻す可能性についても言及している。中央銀行がインフレ期待を喚起することできるようなら、総需要を刺激できる可能性があるというのである。しかしながら、この点についてはしばらく脇に置いておくとしよう)。「流動性の罠」に嵌ることなんてあり得ないと無下に否定するわけにはいかないようだ。どういう条件が成り立てば「流動性の罠」に嵌るのかを真剣に検討する必要がありそうだ。

クルーグマンとスヴェンソンのモデルで「流動性の罠」に陥るのはどうしてかというと、貨幣が純資産(net wealth)ではないからである。貨幣が民間部門における純資産ではないせいで、マネーサプライが増えても実質残高効果(real balance effect)が生じないのだ。だからこそ、マネーサプライが増えても民間の経済主体によってそのまま溜め込まれてしまうのである。

ピーター・アイルランド(Ireland 2005)(pdf)によると、クルーグマンのモデルに人口の成長を組み込むと、実質残高効果が生じることになって、「流動性の罠」に陥るのを避けられるという。換言すると、人口が成長するようだと、貨幣を純資産に転換するような分配効果が生じるというのである。マネーサプライが増えると、民間部門における純資産が増えて、そのおかげで「流動性の罠」に陥るのを避けられるというのである。

これまでに触れてきたどのモデルも、政策金利がゼロ%の「ゼロ下限制約」に達した場合の金融政策の役割について理解する上で重要な示唆を投げかけている。その絡みで言うと、デビッド・ベックワース(David Beckworth)のこちらのブログエントリー〔拙訳はこちら〕を読んだ時には我が意を得たりと思ったものだ。「流動性の罠」に陥る可能性を認めながら、それと同時に金融政策がポートフォリオのリバランス(調整)を引き起こす可能性を説くのは矛盾しているというのがベックワースの言い分で、まさにその通りである。「流動性の罠」に陥っているなら、貨幣に対する需要に限りが無くなっているので、中央銀行による公開市場操作は何の効果も持たないだろう。中央銀行が債券を買い入れて市中に貨幣を注入しても、そのまま溜め込まれるだけだからだ――中央銀行がいかなる種類の債券を購入しようとも結果は変わらない――。「流動性の罠」に陥っている状況では、貨幣と他のあらゆる資産との間に違いがなくなる(完全に代替的になる)のだ。1968年にブルナー(Karl Brunner)&メルツァー(Allan H. Meltzer)の二人が指摘しているように(経済思想の歴史を学ぶことが重要なのはなぜなのかを物語っていると言えよう)。

ところで、マシュー・ログリー(Matthew Rognlie)がベックワースのエントリーのコメント欄に登場して反論を加えているが、それを読んで困惑してしまった。ログリー曰く、

まずはじめに強調しておきたいのは、言葉の定義には興味がないということです。中央銀行が金利に影響を与える手段を一切持ち合わせていない状況を指して「流動性の罠」と呼ぶのだとしたら、そういう意味での「流動性の罠」に嵌ることはないというが私の考えです。言葉の定義にこれ以上深入りするのを避けるためにも、私が言わんとすることを次のように言い換えるとしましょう。ゼロ下限制約に達すると、金融政策を通じて景気を刺激するのがずっとずっと難しくなる。ゼロ下限制約に達すると、金融政策の性質がそれまで(ゼロ下限制約に達する前)と根本的に変わる。

ログリーは、因果の向きを取り違えてしまっているようだ。私にしてもベックワースにしても、金融政策が無力であることを意味するように「流動性の罠」を「定義」しているわけじゃない。金融政策が無力になるというのは、「流動性の罠」の定義から必然的に導かれる結果なのだ。「貨幣に対する需要に限りが無くなっている」という定義に同意するか否かで、「流動性の罠」に陥る可能性を受け入れるかどうかも決まるのだ。「ゼロ下限制約に達すると、金融政策の性質がそれまで(ゼロ下限制約に達する前)と根本的に変わる」という主張は、「流動性の罠」に陥る可能性があるかどうかという話とは別物だ。「ゼロ下限制約」と「流動性の罠」を同一視すべきではないのだ(ベックワースも述べているように)。

ログリーはさらに次のように述べている。

あいにくなことに、量的緩和に起因するポートフォリオ・リバランス効果の大きさが些細ならざるものかどうかははっきりしません。エガートソン&ウッドフォード(Eggertsson&Woodford 2003)(pdf)は、一定の条件が成り立つようなら、量的緩和はポートフォリオのリバランスを一切引き起こさないという無関連命題を証明してさえいるのです。

確かにその通りである。ただし、エガートソン&ウッドフォードのモデルは、クルーグマンのモデルにいくらか手を加えた拡張版だということをおさえておくのは大事だ。クルーグマンのモデルと同じように、人口の成長が組み込まれていないので、分配効果が生じないようになっているのだ。つまりは、貨幣が純資産ではないことが仮定されていて、それゆえに実質残高効果が生じないのである。以下のように述べるログリーも実はそのことを密かに認めていることになるのだ。

エガートソン&ウッドフォードの無関連命題は、リカードの等価定理の変種の一つと言えるでしょう。公共部門のバランスシートのリスクを最終的に引き受けるのは民間の経済主体(消費者)なので、国債を所有しているのが民間部門から公共部門に変わっても何の違いも生じないのです。

同じようなアナロジーを持ち出している(「貨幣の超中立性」を「リカードの等価定理」の変種の一つと見なして分析を加えている)のがフィリップ・ウェイル(Weil 1991)(pdf)だが、ウェイルも指摘しているように、分配効果が生じないせいで貨幣が純資産ではないからこそ成り立つ結果なのだ。エガートソン&ウッドフォードのモデルでは、仮定によって分配効果が生じないようになっているのだ。

「流動性の罠」についてだけでなく、「流動性の罠」に陥るのはどういう条件が成り立つ場合なのかについても誤解があるようだ。「ゼロ下限制約」と「流動性の罠」を結びつけて論じるのが慣わしとなっているが、必ずしも同一視できないのだ。金融政策を論じる時には、「ゼロ下限制約」と「流動性の罠」の違いに気を配る(あるいは、言葉の定義にもっと注意を払う)のが大事なのだ。

2023年4月18日火曜日

Richard Baldwin 「『ワインの経済学』が明かす『お得なワイン』とは?」(2008年6月28日)

Richard Baldwin, “Wine economics and economical wine”(VOX, June 28, 2008)
 
身近にある気楽な話題に切り込んだ厳密な研究によると、テロワール(ブドウの生育環境)はワインの質と関係ないようであり――ワインの値段となると話は別――、ワイン「専門家」の意見(評価)はワインの将来(飲み頃になった頃)の質や値段を予測するのに役立たないようだ。

経済学者の手にかかると、何もかもがつまらなくなってしまうのはどうしてなんだろう?

世界中のワイン愛好家の間では、テロワール(ブドウの生育環境)の細部について語らうのが楽しみの一つになっている。サン・テステフ村とポイヤック村を比べると、ワイン用のブドウを栽培するのが難しいのはサン・テステフ村の方というのが目利きたちの間で一致した意見だ。その理由は、サン・テステフ村の土壌の方が重みも厚みもあるから・・・ですよね?

そんなのは戯言(たわごと)だ!・・・と語るのは、オリヴィエ・ジャーゴウ(Olivier Gergaud)&ヴィクター・ギンスバーフ(Victor Ginsburgh)の二人だ。エコノミック・ジャーナル誌に掲載された彼らの共著論文では、100箇所のブドウ園を対象に、テロワール――土壌の特徴、日当たりの良さなど――に加えて、ワインがどんな方法で製造されているか――どの種類のブドウを栽培しているか、ブドウをどのようにして収穫しているか、ワインをどのように瓶詰めしているか等々――についてもデータが集められている。そして、そのデータをワインの質を測る指標(専門家らによる評価、競売価格)と突き合わせたところ、テロワールは鍵を握っていないことが見出されたという。ワインの質を左右するのは、テクノロジー(ワインの製造方法)だというのだ。「テロワールこそが重要なのだ!」と説くフランス発の神話はそう簡単には解体されないだろうが、お金を賢く使いたいならそんな神話なんて無視すべきなのだ。

エコノミック・ジャーナル誌の同じ号には、テロワール神話解体派の首領(ドン)とも言えるオーリー・アッシェンフェルター(Orley Ashenfelter)の論文も掲載されている。アッシェンフェルターによると、ボルドー産のワインは年を重ねるほど(熟成が進むほど)味わいがよくなるおかげで、同じワインであってもしばらく待っていたら倍の値で売れるという。ボルドーワインを若いうちに飲んでしまうつもりなら、デキャンタする(ガラス容器に移し替えて空気に触れさせる)のをお忘れなく。

マーケットが素面(しらふ)でちゃんと機能しているようなら、ワインの先物価格(まだ樽に入っている出荷前のワインに付けられる値)は、そのワインが飲み頃になった時にどのくらいの値で手に入れられるかを先取りして伝える偏りのない指標になっているはずだ。しかしながら、現実はそうなっていない。それぞれの生産年度(ヴィンテージ)のボルドーワインの質や値段(飲み頃になった時の値段)はそのワインが製造された年(そのワインを作るのに使われたブドウが収穫された年)の気候によってうまく予測できる。しかしながら、気候という簡単に測れる決定因は、ワインの先物取引で買い手に回る諸君にすっかり無視されてしまっている。その代わり、出荷前のワインに付けられる値に影響を及ぼしているのがその道の専門家による試飲結果――とりわけ、ロバート・パーカー(Robert Parker)が試飲して下した評価(点数)――だ。

お金を賢く使いたいなら、パーカーの評価なんて無視すること。その代わり、ワインが製造された年の気候情報に加えて、アッシェンフェルターの論文――“Predicting the Quality and Prices of Bordeaux Wine”(「ボルドーワインの質と値段を予測する」)――のコピーを手に入れるのをお薦めする。

・・・というアドバイスは、値段相応のワインを「味わう」つもりのようなら申し分ないと言えようが、ワインで「お金儲けをする」つもりのようなら別のアプローチを試す必要がある。ケインズがいみじくも喝破しているように、美人投票で誰が一位になるかを予測するためには、「誰が美しいか」を判断するのではなく、「みんなが誰を美しいと判断しているか」を判断するのが肝心になってくる。ボルドーワインに関しては、 あの人の判断を無視するわけにはいかない。それは誰かというと、・・・そう、ロバート・パーカーだ。

巧みな手を使って「パーカー効果」の大きさを推計しているのがマイケル・ビサー(Michael Visser)らの論文である。ボルドーまでわざわざ足を運んで、出荷される前のワインを試飲して点数を付けるというのがパーカーの長年の習わしだった。パーカーが下す評価は、ワインの先物価格にかなり大きなインパクトを及ぼしていることが統計分析の結果として明らかになっている。しかしながら、2003年に関してはそうはならなかった。イラク戦争を恐れてか、パーカーは春になってもボルドーを訪れなかった。そのため、2003年に関しては、パーカーが評価を下す前に既に先物価格が決まっていたのである。ビサーらの論文では、およそ250種類のワインの2002年と2003年の分の先物価格のデータを比較して、「パーカー効果」の大きさが推計されている。その大きさは、ワイン1本あたりおよそ2.8ユーロになる(パーカーの評価が加わるだけで、ワインの先物価格が平均すると2.8ユーロくらい高まる傾向にある)ということだ。

2023年1月14日土曜日

Martin van Tuijl&Jan C. van Ours 「『観客らは決着がついたと思っているようです』 ~国民性、土壇場でのゴール、PK戦~」(2010年6月15日)

Martin van Tuijl&Jan C. van Ours, “They think it’s all over: National identity, scoring in the last minute, and penalty shootouts”(VOX, June 15, 2010)

 
第19回目(2010年度)のFIFAワールドカップが南アフリカで開催中だが、本稿では、6カ国――ベルギー、ブラジル、イングランド、ドイツ、イタリア、オランダ――の代表チームの1960年以降の成果に分析を加えた結果を報告する。サッカーの国際大会では、ホームアドバンテージ、スキル、運といった要素もそれなりに試合の行方を左右しているが、試合終了間際の土壇場においては「国民性」が物を言うこともあり得るようである


『サッカーというのは、実にシンプルなゲームだ。総勢22名の男たちが90分間にわたって一つのボールを追いかけまわす。そして、最終的にはドイツ代表が勝利するのだ。』
――ゲーリー・リネカー(BBCのスポーツキャスター/元イングランド代表のキャプテン)

『ドイツ代表の調子がよければ、世界一の称号を勝ち取る。ドイツ代表の調子が悪ければ、決勝戦に進む。』

――ミシェル・プラティニ(欧州サッカー連盟会長/元フランス代表のキャプテン)


1954年に開催されたFIFAワールドカップの決勝戦では、試合が始まってからわずか8分の間にハンガリー代表が西ドイツ代表から2点を奪った。試合が始まる前に、西ドイツ代表がハンガリー代表を倒せるかもしれないと予想している人なんてただの一人もいなかった。いや、ハンガリー代表を倒せるチームがあるなんて誰も考えもしなかった。「マイティ・マジャール」(屈強なるマジャール戦士)の愛称で知られていたハンガリー代表は、前年の1953年にイングランド代表をウェンブリーで行われた親善試合で破っていた。イングランド代表にホームで初めて黒星をつけたのだ。しかしながら、西ドイツ代表は、「勝利を渇望するメンタリティ」をどこよりも備えているチームという座を手放すのを拒んだ。土壇場でのゴールをお手の物とするチームという触れ込みを裏切らなかった。フォワードのヘルムート・ラーンが試合終了6分前にゴールを決めて、西ドイツ代表が逆転勝ちを収めたのである。試合終了のホイッスルが鳴った時のスコアは、3対2。ドイツ(西ドイツ)代表がハンガリー代表を下(くだ)してワールドカップで初優勝を遂げたのだ。その後のドイツ代表は、世界各国の代表チームの中でも屈指の成績を残すに至っている。ワールドカップでの優勝は3回(1954年、1974年、1990年)で、準優勝は4回(1966年、1982年、1986年、2002年)。UEFA欧州選手権での優勝は3回(1972年、1980年、1996年)で、準優勝は3回(1976年、1992年、2008年)。ドイツ代表が今回(2010年度)のワールドカップで優勝できそうかというと、オッズは14倍となっていて、ドイツ代表が4度目の優勝を飾る可能性はそこまで高く見積もられてはいないようだ。しかしながら、これまでの華々しい足跡を踏まえると、ドイツ代表を優勝候補の一角から外す人はほとんどいないだろう。

ドイツ出身でノーベル平和賞受賞者でもあるヘンリー・キッシンジャーは、ドイツ代表が好成績を収めてこれた原因をドイツ人に特有の態度や入念なまでの計画癖に求めている。曰く、「ドイツ代表チームは、戦争への備えを進める時のドイツ参謀本部そっくりだ。試合に際しては、細心の注意を払って前もって計画が立てられる。選手一人ひとりは、攻撃(オフェンス)も守備(ディフェンス)もどちらもこなせるようにトレーニングを積んでいる。いざゴールを奪おうとなると、複雑なパスのやり取りが展開される。脳みそを振り絞れるだけ振り絞って予測や前準備が試みられるだけでなく、骨を粉にし身を砕くほどの努力が払われるのだ」(Kissinger 1986)。


成果の良し悪しを左右する要因は?

サッカーの代表チームの成果をめぐるこれまでの先行研究では、国別の人口規模やGDPの水準、(「学習」の度合いを測る指標として)ワールドカップへの出場回数といった変数に目が向けられてきている(Houston and Wilson 2002)。そして、意外でもないだろうが、たった今挙げた変数が代表チームの成果にプラスに働いていることが見出されている。代表チームに強くなってほしいようなら、国の人口が増えて国が豊かになればその望みを叶えるためにいくらか助けになるわけだ(Hoffmann et al. 2002, Macmillan and Smith 2007, Leeds and Leeds 2009)。

ところで、「スポーツ経済学」と「労働経済学」との間には、はっきりとしたアナロジーを見出すことができる。Kahn (2000) も詳述しているように、プロスポーツは労働市場について研究するためのユニークな機会を提供しているのだ。スポーツの勝敗は、絶対的な力量によってではなく、相対的な力量(対戦相手との力量の差)によって決まる。プロのサッカー選手は、自分のことを一番高く評価してくれるチームにお世話になろうとする。このことはクラブチームに関しては当てはまるが、代表チームには当てはまらない――帰化するという例もあるにはあるが――。代表に選出される選手は、「売り買い」されるわけではない。一国の代表としてプレーするためには、その国の国籍を持っていなければならないという条件があり、どこかの国のA代表に一度でも選出されると、別の国の代表としてプレーすることはできない決まりになっている。代表チームに選出され得る人材の数は、ほぼほぼ外生的に決まっている――国籍保持者に限定される――のだ。

あちこちのクラブの経営陣も念押ししていることではあるが、代表チームでプレーするのがプロのサッカー選手にとって一番大事な仕事かというと、決してそうではない。とは言え、選手としては、代表チームでプレーしたいという思いも間違いなく持っている。それというのも、代表に選ばれると、サッカー選手として箔(はく)が付いて市場価値が上がる――年俸が上がる――からである。それに加えて、代表に選ばれるのは大いに「名誉」なことであって、代表に呼ばれたのにそれを断る選手は滅多にいない。こういったことを考え合わせると、代表チームの成果は、選手たちのスキルによって左右されるのであって、インセンティブには左右されなさそうに思える。


土壇場において露(あらわ)になる「国民性」の違い

代表チームは、チーム・スピリットによって一つに束ねられている。どうしてそうなっているかというと、代表に選ばれた選手たち(の大半)が同じ「国民性」――その具体的な内実は様々であり得るだろうが――を共有しているからである。我々二人の共著論文(van Ours and Van Tuijl, 2010)では、労働市場一般に対する理解を深める助けになるような洞察を得られたらとの期待を込めて、それぞれの代表チームの国民性がサッカーの国際大会での試合結果に影響を及ぼすかどうかを探っている。

我々の論文で特に焦点を当てているのは、サッカーの主要な国際大会における「土壇場でのゴール」である。それはなぜかというと、試合終了間際の土壇場においてこそ、国民性の違いがこの上なく露(あらわ)になるからである。具体的には、ベルギー、ブラジル、イングランド、ドイツ、イタリア、オランダの計6カ国の代表チームが1960年以降にサッカーの主要な国際大会の試合――試合数にして1500試合以上――で奪った(あるいは、奪われた)ゴール(得失点)に分析を加えている。


前後半90分+延長戦

試合終了まで残り1分あるいは残り5分でのゴールの重要性を伝えているのが以下の表1である。我々が分析を加えた試合の総数は1564試合に上(のぼ)るが、試合終了まで残り1分で点(ゴール)を奪ったケースはそのうちの4%(63試合)、試合終了まで残り5分で点を奪ったケースはそのうちの13.9%(217試合)。 反対に、試合終了まで残り1分で点を奪われたケースは全体の1.9%(29試合)で、試合終了まで残り5分で点を奪われたケースは全体の6.8%(106試合)という結果になっている。冒頭で「・・・(略)・・・そして、最終的にはドイツ代表が勝利するのだ」というリネカーの発言――ドイツ代表の粘りに対する諦念が込められた発言――を引用したが、表1はその発言を裏付ける証拠の一つともなっている。ドイツ代表が試合終了まで残り1分でゴールを奪った試合は、全体の5.5%(344試合中19試合)に上っており、6カ国の平均(4%)を大きく上回っているのだ。とは言え、オランダ代表はさらにその上を行っている。オランダ代表が試合終了まで残り1分でゴールを奪った試合は、全体の5.9%(253試合中15試合)に上っているのだ(図1もあわせて参照されたい)。

表1. 試合終了間際の土壇場にゴールが生まれた試合数(For=得点した試合/Against=失点した試合)


図1. 時間帯ごとの得失点の分布(実線=得点/点線=失点)


我々の論文では、それぞれの代表チームが試合終了まで残り1分でゴールを奪う確率を導き出すために、線形のシンプルな確率モデルの推計も行っている。それによると、イングランド代表、ドイツ代表、オランダ代表の三チームは、ブラジル代表と比べると、試合終了まで残り1分でゴールを奪う確率が4.5ポイント(4.5パーセントポイント)ほど高いとの結果が得られている。4.5ポイントの差が甚(はなは)だしい違いを生むことがある。試合終了まで残り1分でゴールを奪うと、その試合に勝つ確率が26ポイント(26パーセントポイント)ほど高まる一方で、負ける確率が12~14ポイント(12~14パーセントポイント)ほど低くなるのだ。我々が推計した線形のシンプルな確率モデルによると、試合終了まで残り5分でゴールを奪う(得点する)確率が一番高いのはオランダ代表であり、試合終了間際の土壇場(試合終了まで残り1分および残り5分)でゴールを奪われる(失点する)確率が一番高いのはドイツ代表という結果が得られている。

ところで、試合がホーム(自国)で行われるかどうかによって試合結果に違いが生まれるだろうか? 我々の分析結果によると、ホームで試合をすると、相手(アウェイ)チームからゴールを奪う(得点する)確率が4.2ポイント(4.2パーセントポイント)ほど高まる一方で、相手チームにゴールを奪われる(失点する)確率が2.3ポイント(2.3パーセントポイント)ほど低くなるようである。さらには、ホームで試合をすると、試合に勝つ確率が20ポイント(20パーセントポイント)ほど高まる一方で、試合に負ける確率が12~16ポイント(12~16ポイントポイント)ほど低くなるようである。


PK戦

前後半90分が終わった段階で引き分けで、延長戦でも決着がつかないようだと、PK戦で勝敗が決められることになる。前回(2006年度)もそうだったが、ワールドカップの決勝戦でもPK戦までもつれこむことが時にある。ワールドカップおよびコンフェデレーションズカップでのPK戦の結果をまとめたのが以下の表2である。イングランド代表、イタリア代表、オランダ代表はPK戦の成績が振るわず、それに比べてブラジル代表はずっと優れた成績を残している。ドイツ代表も抜群の成績を残しており、PK戦に5回――フランス代表、メキシコ代表、アルゼンチン代表を相手にそれぞれ1回、イングランド代表を相手に2回――勝っている。(ワールドカップおよびコンフェデレーションズカップで)PK戦を一度しか経験していないベルギー代表を除外すると、ドイツ代表はワールドカップでもUEFA欧州選手権でもPKの成功率――ワールドカップでのPKの成功率は94%、UEFA欧州選手権でのPKの成功率は90%――が一番高いという結果になっている。

表2. PK戦の結果
データの出所:Penaltyshootouts.co.uk


総括

ゴールを奪えるかどうかは、チームのメンバー全員の努力にかかっている――優秀なストライカーがいれば、みんなの努力が実を結びやすくなる(ゴールがいくらか生まれやすくなる)としても――。それに加えて、ゴールを奪えるかどうかは、試合を注視している観客の後押しによっても左右される。一国の代表チーム同士で争われる重要な国際大会では、ホームアドバンテージがはっきりと確認できるのだ。

サッカーの試合でゴールが決まるかどうかは偶然によって左右される面もある。それだからこそ、観戦していてワクワクさせられるわけだが、代表チームの成果には明確な差を見出すことができるのも確かだ。ブラジル代表やドイツ代表は、一貫して優れた成果を残しているのだ。サッカーの強国の間での成果の差は徐々に縮まってきてはいるが、1960年~2009年の期間に関する限り、ブラジル代表は、勝ち星の面でどのチームよりも――例えば、イタリア代表/ドイツ代表/イングランド代表/オランダ代表よりも――はるかに優れた実績を残している。

それぞれの代表チームは、勝利数や得失点数だけでなく、勝ち方や点の取り方の面でも違いがある。ブラジル代表やイタリア代表は、試合に負けるのをよしとしないところがある。そのため、土壇場でのゴールを奪うために労力を割こうとしない。ゴールを奪うために労力を割くと、(守備が甘くなって)反対にゴールを奪われてしまう危険性があるからだ。その一方で、イングランド代表、ドイツ代表、オランダ代表は、リスクを恐れないところがある。ゴールを奪われてしまう危険を冒してでも、土壇場でのゴールを奪うために労力を割くのを厭(いと)わないのだ。そして、土壇場でのゴールを奪おうと必死になるあまり、それと引き換えにゴールを奪われてしまう危険性が大幅に高まってしまうのはドイツ代表だけ・・・という結果が我々の分析を通じて得られている。ドイツ代表がどんな犠牲を払ってでも勝ちを欲しているのは、どうやら間違いないようなのだ。

試合に勝てる確率は、チームの質(スキルの高さ)によっておおよそ決まってくることは言うまでもない。しかしながら、ホームアドバンテージ、運といった要素もそれなりに試合の行方を左右すると言えそうだ。そして、「国民性」が物を言うこともあり得るようだ。とは言え、土壇場でのゴールは、そう頻繁には生まれない。そんなわけで、土壇場でのゴールを引き寄せる力が備わっているらしいゲルマン魂が、今回のワールドカップの帰趨(きすう)に影響を及ぼす可能性は小さそうだ――無視できるほど小さくはないだろうが――。


<参考文献>


●Hoffmann, R, CG Lee and B Ramasamy (2002), “The socio-economic determinants in international soccer performance”(pdf), Journal of Applied Economics, 5:253-272.
●Houston, R, DP Wilson (2002), “Income, leisure and proficiency: an economic study of football performance”, Applied Economics Letters, 9:939-943.
●Kahn, LM (2000), “The sports business as a labor market laboratory”(pdf), Journal of Economic Perspectives, 14:75-94.
●Kissinger, H (1986), “The World Cup according to character”, Los Angeles Times,29 June.
●Leeds, MA and EM Leeds (2009), “International Soccer Success and National Institutions”, Journal of Sports Economics, 10:369-390.
●Macmillan, P and I Smith (2007), “Explaining international soccer rankings”, Journal of Sports Economics, 8:202-213.
●Van Ours, JC and M A van Tuijl (2010), “Country-Specific Goal-Scoring in the “Dying Seconds” of International Football Matches”, CEPR Discussion Paper 7873.

2022年11月1日火曜日

Sascha O. Becker&Ludger Woessmann「デュルケーム『自殺論』再訪 ~プロテスタント教徒はカトリック教徒よりも自殺傾向が高い?~」(2012年1月15日)

Sascha O. Becker&Ludger Woessmann, “Religion matters, in life and death”(VOX, January 15, 2012)

 
宗教は、自殺という重大な決断に何らかの影響を及ぼすだろうか? 19世紀のプロイセンのデータを用いて検証したところ、プロテスタント教徒の割合が高い地区(郡)では、カトリック教徒の割合が高い地区(郡)においてよりも自殺率がずっと高い傾向にあり、プロテスタンティズムこそが自殺率を高めている原因であるとの結果が得られた。経済学的なモデル(合理的選択理論)の助けを借りれば、プロテスタンティズムがなぜ自殺率を高めることになるのかを理解する手掛かりを得ることができる。

フランスの社会学者であるエミール・デュルケームが1897年(!)に物した古典の一つである『自殺論』を紐解くと、プロテスタンティズムと自殺との間に強いつながりがあることを示唆する一連の統計数字が提示されている。プロテスタントの国ではカトリックの国においてよりも自殺率が高いというデュルケームの指摘は「社会学の分野における数少ない法則の候補として広く受け入れられるまでになっている」(Pope and Danigelis 1981)。

カトリックの国々と比べると、プロテスタントの国々では、自殺率が随分と高い傾向にあるというのは現在においても依然として当てはまる話であり、宗教と自殺との間にどのような関係が見られるかを探ることは、今もなお極めて重要なトピックだと言えるだろう。毎年世界中でおよそ百万人もの人々が自ら命を絶っており、若者の間では自殺が死因のトップであることを考えると、なおさらそうである(World Health Organisation 2008)。あちこちで頻発する自殺は、人々の感情に対してだけではなく、社会全体や経済全体に対しても広範な影響を及ぼしており、政府も自殺の予防に向けて数々の対応に追われているのが現状である。


自殺に関する経済学的なモデル

自殺の問題に経済学的な観点から切り込んだ研究は既にいくつもあるが(例えば、Hamermesh and Soss(1974)や Becker and Posner(2004)を参照せよ)、そういった一連の研究においては、自殺は生と死との間の選択問題の一つとして定式化されている。今後も生き続けることで得られる(と期待される)効用と、人生に終止符を打つ(命を絶つ)ことで得られる(と期待される)効用〔訳注;「命を絶つことで得られる効用って何だ?」と疑問に思われるかもしれないが、ここでは死後の世界の存在が想定されている。死んだ後に運良く天国に送られて、そこで喜びに満ち溢れた生活を過ごすことができるかもしれないと信じられている場合、人生に終止符を打つ(命を絶つ)ことで得られる(と期待される)効用は、その人にとってプラスの値をとることになる〕とを比較して、前者が後者を下回るようであれば、自殺を選ぶことが(その人にとって)「最適な」選択であるという話になるわけだ。

我々の最新の研究(Becker and Woessmann 2011)でもそのような(自殺に関する経済学的なモデルの)従来の枠組みを踏襲しているが、それに加えて三つのメカニズムを考慮に入れることで、プロテスタント教徒はカトリック教徒よりも自殺傾向が高い(自殺率が高い)との理論的な予測を導き出している。一つ目のメカニズムは、デュルケームも指摘しているものだが、プロテスタントとカトリックとの間の宗教組織としての構造の違いに由来するものである。具体的には、プロテスタントの方がカトリックよりも宗教組織として見た場合に個人主義的な色彩が強い。生きていく中で困難にぶつかったとしても、カトリック教徒は凝集性が相対的に高い(結束が強い)組織(ないしは宗教コミュニティー)に頼ることができ、そのためもあって(何らかの困難にぶつかったとしても)魂がこの世にとどまる(自殺せずに生き続けることを選ぶ)可能性もそれだけ高まることになると考えられるのだ。

我々の研究では、デュルケームも指摘している上記の社会学的なメカニズムに加えて、プロテスタントとカトリックとの宗教上の教義の違いにも着目しているが、この違いもプロテスタント教徒の自殺傾向をカトリック教徒よりも高める方向に働くことになる。まずは二つ目のメカニズムから取り上げることにしよう。プロテスタントの教義では、ある人物が救済されるか否かは神の恩寵だけによって決められ、その人物がこの世でどれだけ善行を積んだかによっては左右されない点が強調されるが、カトリックの教義では、ある人物の救済をめぐる神の判断が、その人物がこの世でどのような行いをし、どのような罪を犯したかによって影響される余地が残されている。自殺という大罪を犯せば、救済の可能性は遠ざかり、死後に天国で過ごす道が閉ざされることになってしまうのではないか。カトリック教徒は、そのように考えて、自殺を思いとどまることになるかもしれない〔訳注;カトリック教徒にとっては、自殺という行為は、人生に終止符を打つ(命を絶つ)ことで得られる(と期待される)効用を低下させる効果を持っている。自殺という大罪を犯すことで、死後に天国に行ける可能性が低下するかもしれないからである。その一方で、プロテスタント教徒の場合は、自殺という大罪を犯しても、人生に終止符を打つ(命を絶つ)ことで得られる(と期待される)効用に変化が生じることはない。自分が天国に行けるかどうかは、自殺したかどうかによって影響されないと考えられているからである〕。

最後に三つ目のメカニズムである。カトリックの教義では、罪の告白(懺悔)は(七つの)秘跡(サクラメント)の一つに数え上げられているが、プロテスタントの教義ではそうなっていない。当然のことながら、自殺は数ある罪の中でも、生きているうちに告白のしようがない唯一の罪である。そのため、絶望のどん底に陥ったカトリック教徒は、(生前に告白のしようがない罪である)自殺に踏み切る代わりに、(酒浸りの生活を送ったり、犯罪に手を染めたりといった)その他の(告白して赦しを得られるかもしれない)罪を犯すことを選ぶかもしれない(罪の告白が持つ代替効果)〔訳注;罪の告白によって天国に行ける可能性がある程度左右されるとすれば、カトリック教徒にとっては、(何らかの罪を犯すのであれば)告白の可能性が残されている罪を犯そうとするインセンティブがあることになる。告白のしようがない自殺という大罪を犯すよりも、告白の可能性が残されている罪を犯した方が、人生に終止符を打つ(命を絶つ)ことで得られる(と期待される)効用の低下が軽微で済むからである〕。

まとめよう。宗教が自殺をめぐる選択にどのような影響を及ぼすかを理解する手掛かりを得るために、「合理的選択」理論に助けを求めたわけだが、①プロテスタントとカトリックとの間の宗教組織としての構造の違い(凝集性の違い)、②人間のこの世での行いが神の恩寵に及ぼす影響に関する教義上の見解の違い、③自殺という罪を告白することは不可能だという事実、という三点をモデルに組み込んだところ、プロテスタント教徒はカトリック教徒よりも自殺に踏み切る可能性が高いとの理論的な予測が導き出されることになったのである。


19世紀のプロイセンのデータは何を物語っているか?

次に、実際のデータを用いて理論的な予測の妥当性を検証する必要があるが、我々の研究では、19世紀のプロイセン(王国)のデータに目を向けている。なぜ19世紀のデータに目をつけたかというと、デュルケームが『自殺論』の中でカバーしている時期が19世紀だからというのもあるが、当時は宗教が今よりも(ほぼすべての人がいずれかの宗派に属しており、宗教が生活のあらゆる面に浸透していたという意味で)広く普及していたからでもある。なぜ19世紀のプロイセンを選んだかというと、当時のプロイセンでは、プロテスタントもカトリックもいずれも少数派ではなかったことに加えて、それぞれの教徒が政治制度や裁判制度、言語や文化を同じくする州で共存して生活を営んでいたからでもある。

我々は、当時のプロイセン王国の公文書が保管されているアーカイブに足を運んだが、そこにはプロイセン統計局が収集し、それぞれの地区の警察当局が厳重に管理していた1869年から1871年までのデータが残されていた。452の郡すべて〔訳注;当時のプロイセンでは、最大の行政単位としてまず州(全部で11州)があり、それに次いで県(全部で35県)、そして最後に郡(全部で452郡)が続くという格好になっていた〕のデータが揃っており、その中には自殺の発生件数のデータも含まれている。さらには、1871年に実施された国勢調査のデータも残されていたが、その中には、(それぞれの教徒が人口に占める割合をはじめとした)宗教に関する情報だけではなく、識字率や経済発展の度合い等に関する情報も含まれている。

プロテスタンティズムが自殺に対してどのような効果を持つかを実証的に跡付ける上では、厄介な困難が控えている。自殺傾向が高い性格の持ち主がプロテスタント教徒になることを選んだという可能性があるのだ〔訳注;プロテスタント教徒の自殺率が高いという事実(あるいは、プロテスタント教徒が多く住む地域ほど自殺率が高いという相関関係)が仮に見られるとしても、プロテスタンティズムには自殺傾向を高める効果がある(プロテスタンティズムが自殺率を高めている原因だ)とは必ずしも言えない。例えば、元々自殺傾向が高い人がプロテスタンティズムに引き寄せられてプロテスタント教徒になっている可能性があるからである。この研究では、操作変数法と呼ばれる手法を使って因果の向き(プロテスタンティズムが自殺率を高めている原因だとの因果関係)の推定が試みられている〕。しかしながら、今回のケースに関しては、この点はそれほど問題とはならないだろう。というのは、当時のプロイセンでは、個人が宗派を変える例はほとんど見られなかったし、郡ごとの宗派の違いは、何世紀も前にその界隈を統括していた統治者の決定に遡ることができるからである。とは言え、何の手も打っていないわけではない。因果の向きをできるだけ正確に特定するために、我々の論文では、宗教改革後にプロテスタンティズムが(マルティン・ルターが活躍した町である)ヴィッテンベルクを中心として同心円状に広がっていったという歴史的な事実に目をつけている。それぞれの郡とヴィッテンベルク間の距離を操作変数として用いることで、因果の向きをできるだけ正確に特定しようと試みたのである。

宗教改革の波は、ヴィッテンベルクを中心として同心円状に広がっていったわけだが、その事実を反映して、ヴィッテンベルクに(距離的に)近い郡ほどプロテスタント教徒が住民全体に占める割合は高くなっている。さらには、ヴィッテンベルクに近い郡ほど、自殺率も高くなっている(図1を参照)。図2をご覧いただきたいが、プロテスタント教徒が占める割合が高い郡ほど、自殺率も高いというはっきりとした傾向が確認できる。住民すべてがプロテスタント教徒である郡の自殺率の平均をとると、住民すべてがカトリック教徒である郡のそれを大幅に上回っている。宗派ごとの自殺率の違いは量的に見てかなりのものである。プロテスタント教徒の自殺率(年平均値)は、人口10万人あたり18人となっており、カトリック教徒の自殺率のおよそ3倍も高い数値となっているのだ。

図1 プロイセンにおける郡ごとの自殺率の分布(1869年~1871年までの期間における自殺率(人口10万人あたりの自殺者数)の年平均値)

出典:Becker and Woessmann (2011)


図2 プロテスタンティズムと自殺率との関係(1871年時点での郡ごとのプロテスタント教徒の割合と1869年~1871年までの期間における自殺率の年平均値)

出典:Becker and Woessmann (2011)


以上のような結果は、郡ごとの経済発展の度合いの違いや識字率の違い、天候条件の違い、メンタル面の健康に問題を抱えている住民の割合の違い等々といった要因を考慮しても、揺るがずに成り立つことが見出されている。過小報告の可能性〔訳注;実際は自殺で命を失っているにもかかわらず、死因が(例えば事故死と)偽って報告される可能性〕や特定の宗派の集中度(それぞれの郡で異なる教徒がどれだけ混在しているか)の違いが持つ効果、生態学的誤謬の可能性を考慮しても、どうやら結果は左右されないようである。さらには、1816年のデータでも同様の検証を試してみたが、やはり同様の結果が得られている。


プロテスタンティズムがプロテスタント教徒の福利に及ぼす多様な効果

今回新たに判明した結果によると、プロテスタンティズムは(自殺率を高める可能性があるという意味で)好ましくない効果を持つ可能性があるわけだが、その一方で、プロテスタンティズムには好ましい効果が備わっている可能性もある。我々二人のかつての共著論文(Becker and Woessmann 2009)で示されているように、プロテスタンティズムは、人的資本の蓄積を促すことで、大多数の教徒(プロテスタント教徒)の収入を増やす(生活水準を高める)効果を持っている可能性があるのだ。その一方で、今回新たに判明した結果によると、プロテスタンティズムは、不幸極まりない境遇に置かれた一部の教徒(プロテスタント教徒)の自殺傾向を高める可能性を持っているわけだ〔訳注;プロテスタンティズムは、(今後も生き続けることで得られる(と期待される)効用を低下させる効果を持つという意味で)人を不幸にするという意味ではないことに注意されたい。何らかの原因(失業や失恋、親しい人との死別等々)で、今後も生き続けることで得られる(と期待される)効用が大幅に低下した場合に、プロテスタント教徒はカトリック教徒に比べると自殺を選ぶ可能性が高いという意味である〕。プロテスタンティズムに備わるこのような相反する二つの側面は、ひょっとすると、いわゆる「ダークコントラスト・パラドックス」(“dark-contrasts paradox”)――幸福度が高いにもかかわらず自殺率も高い地域が数多く見られることはよく知られているが、そのような逆説的な現象の背後には、他者との比較を通じて自らの境遇を判断する人間の特性が潜んでいる可能性がある(Daly et al 2011)――とも関係してくるかもしれない。ともあれ、宗教は、生と死のどちらの面でも重要な役割を果たしていることだけは明らかだと言ってよいだろう。


<参考文献>


●Becker, Gary S, and Richard A Posner (2004), “Suicide: An economic approach“(pdf), Mimeo, University of Chicago.
●Becker, Sascha O, and Ludger Woessmann (2009), “Was Weber wrong? A human capital theory of Protestant economic history“, Quarterly Journal of Economics, 124(2): 531-596.
●Becker, Sascha O, and Ludger Woessmann (2011), “Knocking on Heaven’s Door? Protestantism and Suicide”, CEPR Discussion Paper 8448, Centre for Economic Policy Research.
●Daly, Mary C, Andrew J Oswald, Daniel J Wilson, and Stephen Wu (2011), “Dark contrasts: The paradox of high rates of suicide in happy places“, Journal of Economic Behavior and Organization, 80(3): 435-442.
●Durkheim, Émile (1897), Le suicide: étude de sociologie, Félix Alcan (Suicide: A study in sociology, translated by John A Spaulding and George Simpson, Glencoe, The Free Press, 1951)(宮島 喬(訳)『自殺論』).
●Hamermesh, Daniel S, and Neal M Soss (1974), “An economic theory of suicide“, Journal of Political Economy, 82(1): 83-98.
●Pope, Whitney, and Nick Danigelis (1981), “Sociology’s “one law”“, Social Forces, 60(2): 495-516.
●World Health Organization (2008), Preventing suicide: A resource for media professionals, World Health Organization and International Association for Suicide Prevention.

2022年10月31日月曜日

Claudia Biancotti他 「サイバーセキュリティの経済学」(2017年6月23日)

Claudia Biancotti&Riccardo Cristadoro&Sabina Di Giuliomaria&Antonino Fazio&Giovanna Partipilo, “Cyber attacks: An economic policy challenge”(VOX, June 23, 2017)

 
円滑な経済活動を支える基盤の一つとしてサイバーセキュリティへの関心が高まっているが、「市場の失敗」ゆえに、サイバーセキュリティを強化するための私的な投資が十分に行われずにいる。「市場の失敗」を是正する政策を練り上げて、あらゆる部門が一体となってサイバー攻撃の脅威に立ち向かっていかねばならない。そのためには、サイバー空間の安全性を左右するミクロ経済レベルのメカニズムに対する理解を深めるだけでなく、サイバー攻撃の実態に関する信憑性のあるデータを集める必要がある。
 
サイバー攻撃が国家の安全保障上の脅威の一つに位置づけられるようになってからだいぶ日が経っているが、マクロ経済的な観点からも脅威の一つと見なされるようになってきている。その背景として、情報通信技術を介して生み出される付加価値がGDPに占める割合が日増しに高まってきていることがある。2012年にOECD加盟国全体で生み出された付加価値のうちの6%が情報産業によって生み出されている。同じく2012年にOECD加盟国全体で就業していた人のうちの4%が情報産業で働いている。同じく2012年にOECD加盟国全体で実施された設備投資のうちの12%が情報産業によるものとなっている。さらには、特許協力条約(PCT)に基づく手続きを経て国際的な特許権を取得した発明のうちの40%が情報通信技術絡みとなっている(OECD 2014, 2015)。2014年のイギリスでは、140万人がデジタル部門――情報通信産業のごく一部の部門――で働いている。140万人というのは、就業者全体の7.3%に相当する(UK Department for Culture, Media and Sport 2016)。これまでに挙げてきた数値は、デジタル技術によって生み出されている価値を控えめに捉えたものに過ぎない。デジタル化がどこまで進行しているかを知るには、インターネット上でごく普通の一日の間に何が起きているかに目を向けてみるという手があるが、世界銀行がその実情を図(図1)にまとめてくれている(World Bank 2016)。

図1:インターネット上におけるごく普通の一日(図の出所は、世界銀行が刊行している『世界開発報告2016年版』。上の図は、2015年5月29日にインターネット上で何が起きていたかをこちらのサイトを使って集計したもの)


デジタル化が急速に進行するのに伴って、経済内部における相互のつながり(連結性)の度合いも高まっている。言い換えると、誰かしらがサイバー攻撃を受けた場合に、被害の範囲がその当人だけにとどまらないおそれがあるわけだ。サイバー空間の安全性に疑念が抱かれると、知識集約型部門において情報通信技術の導入が避けられたり、国境を越えた商取引が手控えられたりして、生産性の伸びが鈍化するおそれがある(World Economic Forum 2014)。

サイバーセキュリティを強化する(サイバー空間の安全性を高める)上で、どうしても理解しておかねばならないことがある。サイバーセキュリティを強化できるかどうかは、脆弱じゃないプログラムを書けるかどうかだけでなく、インセンティブのありようにもかかっているのだ。

その一例が、Anderson (2001) によって15年以上前に指摘されている。預金の不正引き出し被害の件数で国ごとに開きがあるのはどうしてかというと、詐欺師の技術レベルに違いがあるためではなく、責任の所在に関するルールに違いがあるためだというのだ。米国では、キャッシュカードの持ち主が預金を不正に引き出されたと申し出ると、金融機関の側がその真偽を調査することになっている。そして、申し出が嘘だと証明できない限りは、金融機関が全額補償することになっている。その一方で、預金が不正に引き出されたことをキャッシュカードの持ち主が自分で証明しないと、一銭たりとも補償してもらえない国もある。預金の不正引き出し被害の件数が少ないのはどっちかというと、米国の方がずっと少ないのだ〔原注;この15年の間に預金の不正引き出し被害の数もだいぶ増えており、それに伴って、大体どこの国でも米国型のルールを採用するようになっている。その結果として、ATM(現金自動預け払い機)のセキュリティを強化するための投資が積極的に行われるようになっている〕。

時に国家によって企てられるAPT攻撃のような高度なサイバー攻撃も重要な問題には違いないが(Center for International and Strategic Studies 2016)、シンプルなサイバー攻撃であっても――社員に初歩的なセキュリティ教育を施すなり、すぐに手に入るウイルス対策ソフトをインストールするなり、セキュリティマネジメント体制を構築するなりすれば、容易に阻止できる類のサイバー攻撃であっても――大きな被害が出る。2013年に米国の大手ディスカウントストア・チェーンであるターゲット社のPOSシステムがサイバー攻撃に遭ったが、およそ3億ドルに上る被害が出た。ターゲット社の取引先である空調業者のパソコンのセキュリティ対策が甘く、そこを突かれたのだ。空調業者のパソコンから盗み出された認証情報を使われて、ネットワークへの侵入を許してしまったのだ。2017年にブラジルの銀行のネットワークが5時間にわたり乗っ取られた時には、「DNSハイジャック」と呼ばれる初歩的な手法が使われた。その銀行のサイトにアクセスすると、本物そっくりの偽サイト(フィッシングサイト)に飛ばされ、ログインしようとした顧客の個人情報が盗まれたのだ。

いわゆる「モノのインターネット」(IoT)――インターネットを介して相互に結び付けられたスマート・デバイス(スマートフォンやタブレットなど)のネットワーク――の市場規模が大きくなるにつれて新しくて未知の領域が広がっているが(図2)、新しいテクノロジーに付き物のトレードオフも抱えている。新しいテクノロジーのおかげで色んな可能性が開ける一方で、セキュリティ上の問題――技術的な問題に加えて、インセンティブが絡む問題――が放置されたままだと(安全性に疑念を抱かれて、テクノロジーの導入が避けられるために)その可能性が実現せずに終わるリスクがあるのだ。 「モノのインターネット」を標的にしたサイバー攻撃は既に起こっている。2016年には10万台にも上る数のデジタルビデオレコーダーやウェブカメラが乗っ取られて、TwitterやRedditといったソーシャルプラットフォームに障害が起きているし、 2017年には大学の自動販売機がハッキングされて、学内のネットワークがすべてダウンしている。


図2:「モノのインターネット」の市場規模の予測(データの出所は、IHS マークイット)


「市場の失敗」を是正するには?

様々な「市場の失敗」ゆえに、サイバーセキュリティを強化するための私的な投資が十分に行われずにいる。政策を通じて「市場の失敗」を是正できれば、サイバー攻撃を防ぐことができる。「市場の失敗」を是正する政策を練り上げるためには、政治的な意思が必要となるだけではなく、二つの障害物を取り除かなければいけない。 二つの障害物とは何か? サイバー空間の安全性を左右するミクロ経済レベルのメカニズムに対する理解不足が一つ目の障害物。サイバー攻撃の実態に関する信憑性のあるデータの不足が二つ目の障害物だ。

サイバー空間の安全性を左右するミクロ経済レベルのメカニズムをえぐり出しているのが、Anderson and Moore (2011) だ。まず何よりも先に指摘しておくべきなのは、ハードウェアの市場にしても、ソフトウェアの市場にしても、「ネットワーク外部性」が生じやすい市場だということだ。すなわち、製品のユーザーの数が増えるほど、製品の価値(利便性)が高まる傾向にあるのだ〔原注;格好の例は、パソコンのOS(オペレーティングシステム)だ。アプリケーションソフトの開発者は、広く利用されているOSに対応したソフトを作ろうとし、ユーザーは対応するソフトの数が多いOSに惹かれることになる。別の例は、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)だ。誰ともつながれないようだと、その価値はゼロだ〕。「ネットワーク外部性」は、先行者利益を生む源泉となる。ある程度の数のユーザーをいち早く獲得できた製品がその分野のスタンダードとなり、ユーザーがますます呼び込まれることになるのだ。ハードウェアの市場やソフトウェアの市場が寡占状態となっているのはなぜか? 製品開発の世界で「とにかく出荷(リリース)せよ。手直しするのは後でいい」というのがビジネスモデルの定番となっているのはなぜか? その答えは、「ネットワーク外部性」にあるのだ(「とにかく出荷せよ。修正するのは後でいい」というのが製品開発の世界におけるビジネスモデルの定番となっているのは、ユーザーが製品の安全性をそこまで重視していないせいでもある。ユーザーが製品の安全性をそこまで重視していないため、安全性はそっちのけで、どこよりも早く製品を出荷することに心血が注がれることになる。先行者利益を得るために。結果的に、多くの脆弱性を抱えた製品が出荷される運びとなる)。

次に指摘しておくべきなのは、脆弱性を抱えたハードウェアなりソフトウェアなりというのは、「負の外部性」(「外部不経済」)を引き起こす元凶になりかねないということだ。どういうことかというと、誰かしらがサイバー攻撃に遭った場合に、被害が及ぶ範囲がその当人だけにとどまらない可能性があるのだ。多くのコンピュータシステムには、そのシステムの持ち主の情報だけでなく、他者の貴重な情報も貯蔵されている。例えば、米国の医療保険会社であるアンセム社のサーバーが攻撃に遭った時には、顧客のデリケートな情報である診療記録が流出しているし、メールサービスを提供しているヤフー社のサーバーが攻撃に遭った時には、顧客の個人情報が流失している。サイバー攻撃は、間接的なかたちをとることもある。標的となる相手を直接狙うのではなく、まずはセキュリティ対策の甘い端末をいくつも乗っ取り、乗っ取った端末を遠隔操作して標的に攻撃を仕掛けるのだ。乗っ取られた端末によって構成されるネットワークは「ボットネット」とも呼ばれるが、そのネットワークに組み込まれた端末の数が何百万台もの規模に上ることもある。

サイバー攻撃に遭うと、被害があちこちに波及するリスクがある――「負の外部性」ゆえに、社会的なコスト(当人が被る被害に加えて、第三者に及ぼす被害)が私的なコスト(当人が被る被害)を上回る可能性がある――にもかかわらず、世間ではそのことに対する危機意識が依然として低いままだ。危機意識が低いままだと、「負の外部性」が一切生じないようであっても、セキュリティを強化するための私的な投資は十分には行われないだろう。仮にユーザーの側の危機意識が高まったとしても、ユーザーとメーカーとの間に横たわる「プリンシパル=エージェント問題」ゆえに、セキュリティを強化するための私的な投資は十分には行われないだろう。というのも、ハードウェアやソフトウェアを開発するメーカー(エージェント)が、製造物責任を負うのを渋っているのだ。プログラムのコードに間違いが混入するのは避けられないのに、その間違いが原因でサイバー攻撃が誘発されたのだからお前らが賠償しろと迫られるようだと、新製品を開発するインセンティブが削がれてしまう・・・というのがその言い分だ。とは言え、The Economist (2017) も指摘しているように、自動運転車がハッキングされて誰かが轢かれるなんて事故が起きたら、 世間の考えだったり政治家の態度だったりがガラリと変わる可能性はある。

「負の外部性」に対処する術は既にいくつか提案されているが、その多くは「負の外部性」を内部化する(サイバー攻撃によって生じた被害に対して、誰かしらが損害賠償責任を負う)必要性を認めつつも、負担の分かち合いを要求している。例えば、インターネットに接続されている洗濯機がハッカー集団に乗っ取られて、その洗濯機が石油会社のサーバーに攻撃を仕掛けるための道具として使われた場合に、洗濯機の持ち主に全額賠償させるのではなく、インターネットサービスプロバイダーに損害賠償の一部を肩代わりさせるわけだ〔原注;サイバー空間における「自衛権」のあり方について活発な論争が繰り広げられている。ハッカー集団に対して「逆ハッキング」(ハッキングしてきた相手にハッキングで復讐すること)で立ち向かうことをよしとする意見もあれば(Messerschmidt 2013)、「逆ハッキング」は逆効果になりかねないとの意見もある(Raymond et al. 2015)〕。

徐々にではあるが、OECD加盟国の多くで、「市場の失敗」の部分的な解決につながる法律が整備され出している。例えば、企業のサーバーが攻撃に遭って顧客の個人情報が流出した場合に、そのことを顧客本人に通知する義務が企業に課されている。あるいは、日常生活を送る上で欠かせない重要なインフラを運営する事業者に対して、安全基準の遵守が要請されている(それというのも、その事業者のサーバーが攻撃に遭ってインフラの操業が停止してしまうと、社会全体に甚大な被害が生じかねないからだ)。デジタル化が進んでいて、サイバー攻撃への強い警戒が求められる部門に対しては、国内法規によって厳格な義務が課されるだけでなく、国際的な法規制や慣行に従うことも要請されている。

その格好の例が、ハッカー集団にとってまたとない獲物である金融部門だ(Maurer et al. 2017)。先進国の法律では、金融部門に他のどの部門よりも念入りなセキュリティ対策が義務付けられている。例えば、2018年に改正された「EU決済サービス指令第2版」(PSD2)では、デジタル決済(電子決済)の安全性を確保するために、EU圏内で決済サービスを提供する事業者に対してかなり厳しい安全基準の遵守が求められている〔原注;改正された「EU決済サービス指令第2版」では、①ユーザー、②決済サービスを提供する事業者、③通信インフラの管理者、④規制官庁、の四者が一体となってセキュリティの強化に取り組む方針が打ち出されている〕。

中央銀行をはじめとした各国の金融監督機関は、監督対象となる国内の金融機関に対して様々な義務を課す――例えば、サイバー攻撃に遭った場合に、その旨を報告する義務を課す――だけでなく、サイバーセキュリティに関する国際的なガイドライン――法的な強制力はないものの、国内で法整備をする際に参考にされる指針――の作成にも国境の枠を超えて共同で取り組んでいる。その一例が、BIS(国際決済銀行)とIOSCO(証券監督者国際機構)によってまとめられた「金融市場インフラのサイバー攻撃耐性を高めるためのガイダンス」(BIS&IOSCO 2016)だが、サイバー攻撃に対する金融システムの耐性を高めるために取り組むべき課題として、技術的な面だけでなく、組織のガバナンスについても取り上げられている。他にも、人的要因が果たす役割だったり、サイバー攻撃に関する情報を共有する重要性についても触れられている。

法規制の面でいくらか進展が見られるとは言え、現状のままでは「市場の失敗」が部分的に解決されるに過ぎず、危機的な状況に追い込まれるリスクをゼロにすることはできない。例えば、規模の大きな金融機関がサイバー攻撃の標的となった場合に、経営破綻に追いやられるところまではいかなくても、営業停止に追い込まれる可能性は残されている。どれか一つの部門の守りを固めるだけでは、決して無駄ではないものの、十分じゃないのだ。あらゆる部門を対象とした包括的な政策対応が求められている。どこかに守りが甘いところがあると、その近隣の安全が脅かされてしまうのだ。個人情報の窃取を狙ったサイバー攻撃だけでなく、あらゆるタイプのサイバー攻撃に立ち向かうべきなのだ。重要なインフラを運営する事業者だけではなく、サイバー空間に足を踏み入れているすべてのプレイヤーに守りを固めさせるべきなのだ。


データの不足

「市場の失敗」を是正する政策の設計が阻まれているのは、サイバー攻撃の実態に関する信憑性のあるデータが不足しているためでもある。ごく一般的な企業のサーバーはどのくらい脆弱なのだろうか? サイバー攻撃はどのくらい頻繁に起きているのだろうか? サイバー攻撃に遭うと、どのくらいの被害が出るのだろうか? その答えはというと、・・・よくわからないのだ。サイバー攻撃についての統計データだったらメディアでもしばしば取り上げられてるじゃないかとお思いかもしれないが、ああいうデータを提供しているのは、ウイルス対策ソフトを作っているメーカーだったり、セキュリティ対策を仕事にしている会社だったりする。利益相反の可能性(自社の売り上げを伸ばすために、数字が水増しされている可能性)があるのに加えて、情報源が明らかにされていないことも多い。サイバー攻撃に関する信憑性のあるデータというのは、非常に限られているのだ。

その限られた中の一つが、英国政府による聞き取り調査だ。調査が開始されたのは、2016年。最新の結果は、2017年4月に報告されている(UK Department for Culture, Media and Sport 2017)。それによると、イギリス国内の46%の企業が過去1年の間に少なくとも1回はサイバー攻撃に遭っているという。企業規模が大きくなるほどサイバー攻撃の標的になりやすく、イギリス国内の大企業の68%が過去1年の間に少なくとも1回はサイバー攻撃に遭っているようだ(図3)。サイバー攻撃によって生じた被害の平均額はそこまで大きくないが(大企業に話を限ると、被害の平均額は1万9,600ポンド)、被害の額には大きなバラツキがある。被害額が一番大きかったケースでは、復旧作業だけで50万ポンドもかかったようだ。


図3:イギリス企業を標的にしたサイバー攻撃(図の出所は、英国政府)


英国政府による聞き取り調査に比べるといくらか大雑把ではあるが、同様の調査がイタリア銀行によって行われている(Biancotti 2017)。イタリアにある企業(具体的には、製造業と、金融業を除くサービス業を営む事業所)を対象にした長期間にわたる聞き取り調査〔原注;以下がそれ。Survey of Industrial and Service Firms(https://www.bancaditalia.it/pubblicazioni/indagine-imprese/index.html)/Business Outlook Survey of Industrial and Service Firms(https://www.bancaditalia.it/pubblicazioni/sondaggio-imprese/index.html)。どちらの聞き取り調査も毎年実施されている〕の結果によると、セキュリティ対策を一切していない企業の割合は2%を下回っているが、3分の1の企業が1年の間(2015年9月~2016年9月)に少なくとも1回はサイバー攻撃に遭っている(表1)。サイバー攻撃に遭ったことに気付いていなかったり、サイバー攻撃に遭ったことを隠している(サイバー攻撃に遭ったのに、遭っていないと答えている)可能性もあるので、「3分の1」という数値は実態を正確に反映していないかもしれない。そこで統計的な手法を使って生のデータに修正を加えると、1年の間(2015年9月~2016年9月)に少なくとも1回はサイバー攻撃に遭ったことがあると推測される企業の割合は、45.2%に上ることになる。部門別にみると、大企業、ハイテク企業、輸出企業(売上高に占める輸出額の割合が高い企業)がサイバー攻撃の標的になりやすいと言えそうだ。


表1:イタリア国内で製造業ないしはサービス業(金融業除く)を営む事業所のうちで、1年の間に少なくとも1回はサイバー攻撃に遭ったことがある事業所の割合


サイバー攻撃がこんなにも蔓延(はびこ)っていることを知れば、政府の要人も衝撃を受けて目を覚ますはずだ。データを集めなくてはいけない。定義を国際的に統一して、研究者が無料でアクセスできれば言うことないが、とにかくデータを集めなくてはいけない。サイバーセキュリティを強化するための適切な政策を練るためにも、サイバー攻撃の実態に関する信憑性のあるデータの蓄積が切実に求められているのだ。


<参考文献>


●Anderson, R (2001), ‘Why Information Security is Hard – an Economic Perspective’(pdf), Proceedings of the 17th Annual Computer Security Applications Conference.
●Anderson, R and T Moore (2011),  ‘Internet Security’, in Peitz, M. and J. Waldfogel (eds.), The Oxford Handbook of the Digital Economy, Oxford University Press.
●Biancotti, C (2017), ‘Cyber Attacks: Preliminary Evidence from the Bank of Italy’s Business Surveys’, Occasional Papers no. 373, Bank of Italy.
●Bank for International Settlements and Board of the International Organization of Securities Commissions (2016), ‘Guidance on Cyber Resilience for Financial Market Infrastructures’(pdf)
●Center for Strategic and International Studies (2016), ‘Significant Cyber Incidents since 2006’(pdf)
●Maurer, T, A Levite and G Perkovitch (2017), ‘Toward a Global Norm Against Manipulating the Integrity of Financial Data’, Carnegie Endowment for International Peace White Paper.
●Messerschmidt, J (2013), ‘Hackback: Permitting Retaliatory Hacking by Non-State Actors as Proportionate Countermeasures to Transboundary Cyberharm’, Columbia Journal of Transnational Law, 52(1).
●OECD (2015), ‘Digital Economy Outlook
●Raymond, M, G Nojeim and A Brill (2015), ‘Private Sector Hack-backs and the Law of Unintended Consequences’, Center for Democracy & Technology.
The Economist (2017), ‘How to Manage the Computer-Security Threat
●UK Department for Culture, Media and Sport (2017), ‘Cyber Security Breaches Survey: Main Report’.
●UK Department for Culture, Media and Sport (2016), ‘Digital Sector Economic Estimates – Statistical Release’(pdf)
●World Economic Forum (2014), ‘Risk and Responsibility in a Hyperconnected World’(pdf)

2016年5月31日火曜日

Martin Ravallion 「『貧困への目覚め』 ~過去3世紀の間に『貧困』に対する注目はどのような変遷を辿ってきたか?~」(2011年2月14日)

Martin Ravallion, “Poverty Enlightenment: Awareness of poverty over three centuries”(VOX, February 14, 2011)

世間の人々が「貧困」に注目し出してからどれくらいの期間が経っているのだろうか? 1700年以降に出版された書籍の中で「貧困」という単語がどれだけの頻度で使用されているかを調査した結果、次のような事実が明らかになった。1740年から1790年までの間に「貧困」という単語への言及頻度が急増したものの――一度目の『貧困への目覚め』の時代の到来――、19世紀から20世紀の半ばにかけて貧困への注目は徐々に薄らいでいった。しかし、1960年頃を境として、二度目の『貧困への目覚め』の時代が到来するに至っており、「貧困」への注目は今現在も高まり続けている最中である。

 

貧困に対する世間の注目は、これまでにないほど高まっていると言えるかもしれない。例えば、以下の図1をご覧いただきたい。この図はGoogle Books Ngram Viewerの助けを借りて作成されたものだが、1700年から2000年までの間に出版された書籍の中で「貧困」(“poverty”)という単語がどれだけの頻度で使用されているかを調べた結果を表わしている〔原注1〕――縦軸に示されているのが頻度の移動平均(その年に出版されたすべての書籍に含まれる総単語数で標準化したもの)――。この図によると、1740年から1790年までの間に「貧困」という単語への言及頻度が7倍に増えていることがわかる。この時期は、啓蒙主義の時代が終わりを迎えようとしている頃――フランスとアメリカで革命(フランス革命とアメリカ独立戦争)が発生した時期――にあたるわけだが、貧困に対する注目が急速な勢いで高まった「貧困への目覚め」(“Poverty Enlightenment”)の時代としても特徴付けることができるわけだ。その後の19世紀から20世紀の半ばにかけて貧困に対する注目は衰えを見せるが、1960年頃を境として二度目の「貧困への目覚め」の時代(second Poverty Enlightenment)に突入することになる。1960年頃を境として、突如として貧困への注目が再燃し、「貧困」という単語への言及頻度が(データが利用できる最新の年である)2000年の時点でこれまでのピークに達しているのだ。


図1. 「貧困」という単語への言及頻度 (1700年から2000年までの間に出版された英語圏の書籍が対象)


2度にわたる「貧困への目覚め」の時代の背後では、どのような事態が進行していた(いる)のだろうか? つい最近の論文(Ravallion 2011)で、驚くべき速さで単語をカウントする能力を備えたGoogle Books Ngram Viewerの助力を得つつ、過去のテキストの読解――私自身の能力の制約もあって、だいぶ時間を要したが――を通じて、私なりにこの問いへの答えを探ってみた。その結果の一部を以下で報告することにしよう。


一度目の「貧困への目覚め」

分配的正義(distributive justice)というアイデアの歴史がものの見事に跡付けられているサミュエル・フライシャッカー(Samuel Fleischacker)の著作(Fleischacker 2004)によると、前近代の時代においては「貧困層は、ひどい欠点を抱えた無価値な存在と見なされていた」(pp. 7)。例えば、ロバート・モス(Robert Moss)は、18世紀初頭にこう述べている。貧乏人は「自らが置かれている状況に満足すべきである。というのは、貧乏人がかくのごとくであるのは、神の望むところだからだ」。また、フランスの医師でありモラリストでもあったフィリップ・エッケ(Philippe Hecquet)は、1740年に次のように書いている。「貧乏人は、絵の中の影のようなものである。なくてはならないコントラストの役割を果たしているのだ」。貧困が発生するのはどうしてなのかという問いに対する答えとしては、「神の意志」が持ち出されるか、一人ひとりが抱える私的な問題――怠惰をはじめとした性格面での欠点――に目が向けられがちだった。飢え(空腹)は好ましいことだという意見さえあった。空腹だからこそ(空腹を満たしたいと思うからこそ)、貧乏人は働く気になるというのだ。

18世紀後半に入ると、特にフランスにおいて、従来の社会的な階級構造を疑問視する声が次第に上がり始めるようになる。ピエール・ド・ボーマルシェ(Pierre Baumarchais)が1784年に書いた戯曲『フィガロの結婚』がそのいい例だが、パリの聴衆たちは、召使のフィガロの側について貴族を嘲笑したのだった。フランスで芽生え始めた平等主義の精神は、やがてイギリス海峡を渡ることになるが、頑(かたく)なな抵抗に遭うケースもしばしばだった。例えば、イギリスにおける近代警察の生みの親であるパトリック・カフーン(Patrick Colquhoun)は、1806年にこう書いている。貧困は「社会を成り立たせる上で、最も必要で欠かせない要素である。貧困と無縁な国家や共同体は、文明の地位に辿り着くことはできない」。

貧困というのは、自然的秩序の表れ(自然法則の帰結)ではなく、政治・経済的な現象であるとの認識が広まるにつれて、一度目の「貧困への目覚め」の時代が到来して、貧困層自身も貧困からの脱出を意識し始めるようになる。しかしながら、書籍の上では依然として「貧困は、多かれ少なかれ避けることのできない(受け入れざるを得ない)この世の現実である」との見方が支配的であり、それは18世紀~19世紀の経済学の世界でも同様だった。当時の経済学者の中には、貧困は経済が発展する上で必須の条件と見なす者もいた。そのような経済学者も、実質賃金が上昇すれば貧困の削減につながることは否定しなかったものの、実質賃金が上昇すると富の蓄積が妨げられることになるかもしれないと懸念したのだった。実質賃金が高まれば、労働の供給が減るばかりか、輸出面での競争で不利な立場に立たされ、さらには労働者が贅沢品に夢中になって(仕事に身が入らずに)労働の質が低下するかもしれないというのである――輸出面での競争で不利な立場に立たされると、富の蓄積が妨げられることになるとの発想の背後には、重商主義的な世界観が控えていた――。また、トマス・マルサスが、生態学的な危機の到来を予測し、人口の増加は貧困と飢饉(食糧不足)によってしか食い止められないと語ったことも有名である。社会進歩の可能性についてマルサスよりもずっと楽観的だったアダム・スミスも、経済発展(経済成長)の果実が社会各層に公平に行き渡る可能性についてはそれほど大きな望みを抱いていなかった。スミスは、こう語っている(Smith 1776, pp.232)。「大いに繁栄している地域においてはどこであれ、格差もまた大きいものだ。1人の大金持ちに対して貧乏人が少なくとも500人はいるのが通例であり、少数の豊かさには多数の貧しさが伴っているのだ」。


二度目の「貧困への目覚め」

現代的な意味での「分配的正義」の発想――「社会に生きるすべての人に最低限度の生活水準が保障されるべきである」との発想――が(粗いかたちではあれ)その姿を表わしたのは、18世紀後半の西欧世界においてだったが、その後の170年間を通じて世間から徐々に忘れ去られることになる。とは言え、学術的な文献に目を向けると、その微(かす)かな命脈を確認することができる。19世紀から20世紀への転換期において、経済学者のアルフレッド・マーシャルは、『経済学原理』(1890)の巻頭(pp.2)で次のように問い掛けている。「貧困はこの世にとって必要なものだとする発想は、過去の遺物ではなかったのか?」

世間の注目が再び貧困に向けられて、現代的な意味での「分配的正義」の発想に広い支持が寄せられるまでには、1960年代に入って二度目の「貧困への目覚め」の時代が到来するのを待たねばならなかった。その中心的な舞台となったのは、アメリカである。物質的な豊かさを享受していた20世紀中頃のアメリカで――公民権運動の盛り上がりに次ぐかたちで――、貧困が「再発見」されたのである。その後押しをする上で大きな役割を果たしたのが、当時の論壇を賑わせた J・K・ガルブレイス(John Kenneth Galbraith)の『ゆたかな社会』(1958)や、マイケル・ハリントン(Michael Harrington)の『もう一つのアメリカ』(1962)――どちらも当時ベストセラーになった――といった一連の著作だった。政府もこのような世間の風潮に反応し、「貧困との戦い」(War on Poverty)を旗印にしたリンドン・ジョンソン政権下で、貧困家庭に対する支援をはじめとした数々の社会プログラムが導入されることになったのである。

ガルブレイスやハリントンらの著作が大きな影響を持ち得た理由の一つは、著作が発表されたタイミングが時宜(じぎ)を得ていたからというのもあるだろう。1950年代~1960年代のアメリカでは、国民の大多数が豊かな生活を手に入れることになったが、それゆえにこそ、貧困という問題を見過ごして平然としていることがますます難しくなっていったのである。それに加えて、当時は楽観的な雰囲気が充満しており、貧困の削減に向けた政策の効果についても同様に楽観的に捉えられていた。しかしながら、1980年代に入ると、右派の側から反撃の狼煙(のろし)が上げられ――チャールズ・マレー(Charles Murray)の『Losing Ground』(1984)がその代表――、1990年代における一連の福祉改革(社会保障制度の改革)へとつながることになる。「貧困との戦い」(“War on Poverty”)が宣言されたと思いきや、その30年後に「福祉との戦い(福祉政策の縮小に向けた戦い)」(“War on Welfare”)が宣言されるに至ったわけだ。貧困の問題についてはその原因や適切な政策対応を巡って現在でも世界中で議論が続いているが、その多く――例えば、貧しさの原因のうちのどのくらいがその人(貧困層)自身にあると言えるのかといった問題を巡る論争――は、200年前(一番目の「貧困への目覚め」の時代)の論争の焼き直しという面を強く持っている。

20世紀後半に入って貧困に対する世間の注目が再び高まっている理由は、他にもある。そのうちの一つは、発展途上国の広い範囲で厳しい貧困が蔓延(はびこ)っている事実が徐々に世界中の人々の目に留まり始めたことである。そのような気運が醸成されたのは1970年代に入ってからのことだが、開発政策の専門家に強い影響を及ぼしたのが、世界銀行が1990年に刊行した『世界開発報告』(World Development Report)である。それ以降、世界銀行は「貧困のない世界」(“world free of poverty”)の実現を最重要目標に掲げ、専門家の間で貧困問題に関する実証研究が活発に行われるようになったのである。


貧困と政策:貧困の削減に向けて

過去3世紀の間に、貧困に対する世間の見方は大きなシフトを見せた。貧困の現実を現状肯定的に受け入れたり、貧困層を軽蔑しさえする態度が支配的な時代もあったが、今現在はそうではない。社会や経済ないしは政府の成績(善し悪し)は、貧困の削減にどのくらい成功しているかによって少なくとも部分的には評価すべきだというのが現在の支配的な見方である。このようなシフトが生じた理由としては、いくつか考えられるだろう。世界経済が全般的に豊かになったことで、貧困という問題を見過ごして平然としていることがますます難しくなったという事情もあるだろうし、民主主義の広がりによって貧困層の声が政治に反映されやすくなったという事情もあるだろう。貧困に関する研究の進展に伴って、効果的な政策対応を可能とする知識の蓄積が進んだということもあろう。

過去3世紀の間には、(貧困の削減に向けた政府介入の有効性をはじめとして)市場と政府の役割に対する態度の面でも大きなシフトが生じた。第二次世界大戦後の「政府介入の黄金時代」(Tanzi&Schuknecht 2000)においては、(貧困の削減に向けた政策も含めて)幅広い範囲で政府による市場への介入が試みられたが、1970年代の後半以降になると、経済問題の解決に向けた政府の介入には限界があることを明らかにした政治経済学方面の研究や積極的で精力的な政治運動に支えられるようにして、それまでの流れに反発して政府の役割の縮小を求める動きが勢いを増し始めることになった。

論争の行方や制度改革の方向性は右へ左へと揺れ動いているが、Google Books Ngram Viewerを用いた文献の解析によると、「政府介入の黄金時代」の終焉にもかかわらず、貧困に対する世間の関心はそれほど薄らいではいないようである。それどころか、「貧困」や「格差」(inequality)といった単語への言及頻度は、20世紀後半を通じてはっきりとした増加傾向を辿っている。1980年代以降に入って、「社会政策」(social policies)や「社会保障(社会的保護)」(social protection)、「市民社会団体」(civil society organisations)といった単語への言及頻度が急速に増えているのだ――その理由のいくらかは、貧困や格差に対する世間の関心の高まりに求められるに違いない――(Ravallion 2011)。

貧困に対する世間の注目がこれまでにないほど高まっている今現在だが、この気運をどうやって効果的な行動(取り組み)に結実させたらよいかとなると、それはまた別の問題である。二度目の「貧困への目覚め」の時代においては、意見の不一致があちこちで起こったし、貧国の削減に向けた取り組みも成功ばかりではなく失敗もあった。19世紀の大半を通じてと同様に、今現在においてもまた、政府の介入に懐疑的な見方が力を持ち始めている。しかしながら、励みになる事実もある。「貧困は、逃れようのない現実であり、受け入れざるを得ないのだ」という19世紀に支配的だった現状肯定的な態度が蘇るところまでは至っていないのだ。


〔原注1〕Google Books Ngram Viewerは、Michel et al.(2010)によって開発された。デジタル化されて保存されている書籍の総数は520万冊、単語の数は5000億ワードを超えている。Google Books Ngram Viewerの長短については、Ravallion(2011)を参照されたい。


<参考文献>

●Fleischacker, Samuel (2004), A Short History of Distributive Justice, Harvard University Press.
●Galbraith, John Kenneth (1958), The Affluent Society(邦訳 『ゆたかな社会 決定版』), Mariner Books.
●Harrington, Michael (1962), The Other America: Poverty in the US(邦訳 『もう一つのアメリカ-合衆国の貧困』), Macmillan.
●Michel, Jean-Baptiste, Yuan Kui Shen, Aviva P Aiden, Adrian Veres, Matthew K Gray, The Google Books Team, Joseph P Pickett, Dale Hoiberg, Dan Clancy, Peter Norvig, Jon Orwant, Steven Pinker, Martin A Nowak, and Erez Lieberman Aiden (2010), “Quantitative Analysis of Culture Using Millions of Digitized Books”, Science, 16 December.
●Marshall, Alfred (1890), Principles of Economics (8th edition, 1920)(邦訳 『経済学原理』), Macmillan.
●Murray, Charles A (1984), Losing Ground. American Social Policy 1950-1980, Basic Books.
●Ravallion, Martin (2011), “The Two Poverty Enlightenments: Historical Insights from Digitized Books Spanning Three Centuries”, Policy Research Working Paper 5549, World Bank.
●Smith, Adam (1776), An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations(邦訳 『国富論』), in Edwin Cannan (ed.), The Wealth of Nations, Chicago University Press.
●Tanzi, Vito and Ludger Schuknecht (2000), Public Spending in the 20th Century: A Global Perspective, Cambridge University Press.
●World Bank (1990), World Development Report: Poverty, Oxford University Press.

2015年6月12日金曜日

Francesco D’Amuri&Juri Marcucci 「Googleトレンドの予測精度はいかほど? ~Googleトレンドの検索データを使って失業率の行方を予測する~」(2009年12月16日)

Francesco D’Amuri&Juri Marcucci, “The predictive power of Google data: New evidence on US unemployment”(VOX, December 16, 2009)

タイムリーな経済指標を求める世間の声に応えるために、Googleの助けを借りて時系列モデルの予測精度を高めようと試みられている。Googleトレンドの検索データ(「Googleインデックス」)を使えば、失業率の予測精度を大幅に高めることができるのだ。アメリカだけでなく、イタリアについても。

Googleトレンドを予測に役立てるのが一つのトレンド(流行)になっている。例えば、ネイチャー誌に掲載されたばかりのGinsberg et al. (2009) では、Googleでインフルエンザに関係の深いキーワードがどれくらい検索されたかという情報だけを使ってインフルエンザ様疾患の患者数を予測するシンプルなモデルが開発されている。Googleで特定のキーワードがどれくらい検索されたかを知ろうと思ったら、全検索数に占める割合についてのデータが週ごとにほぼリアルタイムで利用できるのである。

求職活動にインターネットを活用するのも当たり前になりつつある昨今だが(Stevenson 2008)、失業の予測にGoogleの検索データを役立てようとする試みも散見されるようになってきている。これまでの研究成果によると、職探しに関わりの深いキーワードの検索数が総検索数に占める割合を示す「Googleインデックス」は、ドイツやイスラエルにおける失業率(Askitas&Zimmermann 2009、Suhoy 2009)だけでなく、アメリカにおける失業保険の新規申請件数(Choi&Varian 2009)を高い精度で予測できることが明らかになっている。


Googleトレンドの検索データを使ってアメリカの失業率の行方を予測する

今般の経済危機がインターネットを使った求職活動に及ぼした影響を浮き彫りにしているのが以下の図1である。危機が発生する前と後とで「Googleインデックス」の値がアメリカ国内でどう変化したかが可視化されている。「Googleインデックス」を失業率を予測するための先行指標の一つとして用いると、予測の精度が大幅に高まることが我々がつい最近行ったばかりの二つの研究で明らかになっている。アメリカ(D’Amuri&Marcucci 2009)だけでなく、イタリア(D’Amuri 2009)についても。



図1 今般の危機が発生する前と後での「Googleインデックス」の変化〔原注1〕


1ヶ月先、2ヶ月先、3ヶ月先の失業率を予測する上で、「Googleインデックス」を説明変数に含んでいるモデルの方が、線形・非線形の定評のある300以上の時系列モデル〔訳注;自己回帰移動平均(ARMA)モデル〕よりも精度が高かったのである。

「Googleインデックス」は、アメリカ全土の失業率だけではなく、州ごとの失業率の予測でも力を発揮する。アメリカ国内の7割に上る州の失業率を予測する上で最も精度が高かったのは、「Googleインデックス」を説明変数に含んでいるモデルだったのである。さらには、以下の図2に示されているように、「Googleインデックス」を説明変数に含んでいるモデル〔緑色の線〕は、フィラデルフィア連銀が実施している専門家予測調査(SPF)〔青色あるいは赤色の線〕よりも高い精度で四半期の失業率を予測できるのである。予測誤差を測る尺度の一つである平均二乗誤差(Mean Squared Error)の値が1桁違いで小さいのだ。



図2 予測誤差 ~時系列モデル vs 専門家予測調査(SPF)~〔原注2〕


「Googleインデックス」の高い予測精度は、イタリアにおいても確認されている。イタリアでも、「Googleインデックス」を説明変数に含んでいる時系列モデルが失業率の行方を予測する上で最も精度が高かったのである。政策の立案にも重要な意味を持ち得る発見である。なぜなら、四半期ごとの失業率が公式に発表されるのは大体2ヶ月後というのがイタリアの現状だが、Googleの検索データはほぼリアルタイムで利用できるからである。アメリカでは失業率のデータがもう少し早く公表されるので、「Googleインデックス」を失業率の予測に役立てることによって得られる見返りはイタリアにおいてのほうが大きそうである。


結論

「Googleインデックス」を失業率の予測に役立てる上での主たる難点は、インターネットを介した求職活動は失業者によるものだけとは限らないところである。在職中の転職活動も含まれている可能性があるのだ。別の難点は、誰もがインターネットを使うわけではないので、インターネットを介して職探しをする求職者は無作為に抽出されたサンプルとは言えない可能性があるところである。しかしながら、この点は大した問題じゃないだろう。求職活動にインターネットを活用するのが当たり前になりつつあるからだ。それに加えて、インターネットを使って職探しをする失業者とインターネットを使わずに職探しをする失業者とでショックから受ける影響が異ならない限りは、サンプルに偏りが生じることはないだろうからだ。

失業問題に対する世間の関心が高まるにつれて、失業率をタイムリーかつ正確に予測する必要性も高まっている。Googleの検索データの助けを借りれば、その求めに応じることも可能なのだ。


〔原注1〕左の画像は、危機が発生する前の2007年5月~8月の「Googleインデックス」の値(職探しに関わりの深いキーワードの検索数が総検索数に占める割合)を表している。右の画像は、危機の最中にあたる2009年5月~8月の「Googleインデックス」の値を表している。青色が濃いほど、Googleインデックスの値が高い(インターネットを介した求職活動が盛んである)ことを示している。画像の出所は、Googleトレンド。詳細は、D’Amuri&Marcucci (2009) を参照のこと。

〔原注2〕専門家予測調査(SPF)と時系列モデルによる四半期の失業率の予測誤差を比較した図。対象期間は2007年2月~2009年6月。SPF_mean は、専門家予測調査における(およそ30人の専門家による)予測の平均値の予測誤差。SPF_median は、専門家予測調査における予測のメディアン(中央値)の予測誤差。○○_Comb は、○○を説明変数に含んでいる時系列モデルの予測誤差を表している。時系列モデルから得られる四半期の失業率の予測値は、当該四半期の最初の月の終わりの時点での1ヶ月先と2ヶ月先の予測値に、当該四半期の最初の月の実際の失業率を加えて平均をとったもの。G_Comb は、「Googleインデックス」を説明変数に含んでいる時系列モデルの中で最も予測精度が高いモデルの予測誤差。IC_Comb は、「Googleインデックス」を説明変数に含まずに失業保険の新規申請件数(Initial Claims;IC)を説明変数に含んでいる時系列モデル(サンプル期間長め)の中で最も予測精度が高いモデルの予測誤差。IC_Comb_s は、「Googleインデックス」を説明変数に含まずに失業保険の新規申請件数を説明変数に含んでいる時系列モデル(サンプル期間短め)の中で最も予測精度が高いモデルの予測誤差。SETAR、LSTAR、AAR は、ラグ数が2の非線形自己回帰モデルの予測誤差。詳細は、D’Amuri&Marcucci (2009) を参照のこと。


<参考文献>


●Askitas, Nikoa and Klaus F Zimmermann (2009), “Google Econometrics and Unemployment Forecasting(pdf)”, IZA Discussion Paper (4201).
●Choi, Hyonyoung and Hal Varian (2009), “Predicting Initial Claims for Unemployment Benefits(pdf)”, Google technical report.
●D’Amuri Francesco (2009), “Predicting unemployment in short samples with internet job search query data”, MPRA WP 18403.
●D’Amuri, Francesco and Juri Marcucci (2009), ““Google it!” Forecasting the US unemployment rate with a Google job search index”, ISER WP 2009-32.
●Ginsberg, Jeremy, Mathew H Mohebbi, Rajan S Patel, Lynnette Brammer, Mark S Smolinski and Larry Brilliant (2009), “Detecting Influenza epidemics using Search Engine Query Data”, Nature (457), pp.1012-1014.
●Stevenson, Betsy (2008), “The Internet and Job Search”, NBER Working Paper (13886).
●Suhoy, Tanya (2009), “Query Indices and a 2008 Downturn(pdf)”, Bank of Israel Discussion Paper (06).

2014年12月20日土曜日

Paolo Manasse 「経済学ブログの経済学」(2011年10月28日)

Paolo Manasse, “The economics of economics blogs”(VOX, October 28, 2011)


インセンティブの働きを理解するのが経済学者の仕事である。その証拠に、経済学者が運営しているブログのあちこちでインセンティブの話題が取り上げられている。ところで、一流の経済学者たちが貴重な時間を「浪費」してまでブログを書こうとするインセンティブは何なのだろうか?


多くの経済学者――とりわけ、アメリカを拠点にしている経済学者――が、ブログの運営に多大な時間と労力を注いでいるのは、なぜなのだろうか?――スティーヴン・レヴィットポール・クルーグマンブラッド・デロンググレゴリー・マンキューダニ・ロドリックベッカー&ポズナーマーク・ソーマジョン・テイラーが名の知れた例だ――。それなりに年齢を重ねると、学術誌に論文を投稿してから掲載されるまでの長いタイムラグが我慢ならなくなるのだろうか? あるいは、経済学者という存在や経済学者による専門的な研究に世間の注目を集めたいと思っているのだろうか? それとも、経済学のアイデアをわかりやすく説明したり、議論を喚起したり、読者と意見交換をしたりして、「市民としての義務」(“civic duty”)を果たそうとしているのだろうか? 何よりも不思議なのは、アメリカと違って、ヨーロッパの多くの国々――とりわけ、イタリア――では、個人でブログを運営している経済学者が珍しいことだ。それはなぜなのだろうか?


ブログが持つ3つの効果

格好の論文がある。マッケンジー&オズラーの論文(McKenzie&Özler 2011)がそれで、以下の仮説が検証されている。

a) アメリカの経済学者が運営している代表的な8つのブログで論文のリンクが貼られると、その論文のダウンロード数なりアブストラクト(要旨)の閲覧数なりが増える。
b) ブログを運営すると、運営者本人の学者としての評価が高まる。
c) ブログは読者の見解に影響を及ぼす。

かなり興味深い結果が見出されている。まずは一番目の仮説を取り上げると、ブログで論文のリンクが貼られると、その論文のダウンロード数なりアブストラクトの閲覧数なりが大きく増えるという。リンクが貼られたその月だけでなく、翌月までその影響は――リンクが貼られた月ほどではないにしても――続くという。以下の図1に示されているように、かなり大きな「乗数」効果を備えているブログもあるようだ。例えば、ポール・クルーグマンのブログだとか、Marginal Revolution だとか、Freakonomics だとかで論文のリンクが貼られると、その論文のアブストラクトの閲覧数が月あたりで300回~470回増えて――ちなみに、NBERのワーキングペーパーのアブストラクトの閲覧数は、平均すると月あたりで10.3回――、ダウンロード数が月あたりで33回~100回増える――ちなみに、NBERのワーキングペーパーのダウンロード数は、平均すると月あたりで4.2回――というのだ。



図1. Freakonomics で論文のリンクが貼られた場合のダウンロード数とアブストラクトの閲覧数の推移


次に二番目の仮説に関してだが、アメリカを拠点とする経済学者へのアンケート調査を基にして作成された「尊敬する経済学者ランキング」――人気を測るランキング――と、論文のダウンロード数/引用数で上位500位のランキング(RePEcによるトップ500ランキング)――学者としての実力を測るランキング――を突き合わせて、ブログをやっているかどうかが「尊敬する経済学者ランキング」に入る可能性を高めるかどうかが検証されている。その結果はというと、ブログをやっていると「尊敬する経済学者ランキング」に入る確率がおよそ40%高まるというのだ。RePEcによるトップ500ランキングに入る場合と同じくらい人気を高める効果があるというのだ。

最後に三番目の仮説に関してだが、ブログが読者の見解に影響を及ぼすかどうかを検証するために実験が行われている。開発経済学を専攻する修士課程および博士課程の大学院生(619名)、世界銀行で働く若手のエコノミスト、NGOで働く若者を2つのグループにランダムに振り分けて、一方のグループだけに世界銀行のサイトで開設されたばかりのブログ(Development Impact)を紹介して読むことを勧めたのである。その結果はというと、勧めに従ってブログに目を通した被験者は、世界銀行による研究の質を高く評価しがちになり、世界銀行で働きたいという思いを強めたという。


アメリカ vs.イタリア

アメリカにおいては、経済学者――その多くは大学に籍を置いている――による個人ブログは、専門的な論文への注目を高めるだけでなく、ブログを運営している本人の評価も高めるし、読者の見解にも影響を及ぼす。ブログを書くために貴重な時間を「浪費する」に足るだけの立派な理由が少なくとも3つはあるわけだ。しかしながら、イタリアではどうかというと、大学に籍を置いている経済学者で個人でブログを運営しているケースというのは少数の例外を除いて見当たらない。それはなぜなのだろうか?

イタリア国内で経済学がテーマの人気ブログ上位500位のリストを眺めるとすぐに気付くだろうが、複数人で協力して運営している「共同」ブログばかりが目に付く。例えば、(VOXとパートナーシップを結んでいる)Lavoce.infoがそうだ。

学者として出世しようとするインセンティブが関わっているようには思えない。研究のために割ける貴重な時間が犠牲になるというのが、ブログを書く機会費用である。アメリカよりもイタリアにおいてのほうがブログを書く機会費用が高いと言い募るのは、学術的な成果が学者として出世できるかどうかに及ぼす影響がイタリアにおいてのほうが大きいと主張するようなものだが、そんなことはありそうにない。

イタリアではアメリカにおいてよりもブログを運営することによって得られる見返り(自分の評価が上がる/専門的な研究の流布/世論に影響を及ぼす可能性)が小さいと思われていて、それゆえに共同でブログを立ち上げるということになっているのかもしれない。ブログを運営するコストを分担しているわけだ。しかしながら、ブログを運営することによって得られる見返りが小さいと思われているのはなぜなのかという別の疑問が持ち上がる。

私なりに思い付いた仮説を列挙すると、以下のようになる。

  • 世間一般の「経済学の素養(リテラシー)」がアメリカにおいてよりもずっと低いので、ブログを運営することによって得られる見返りが小さい。
  • マスメディアの所有権がアメリカよりもずっと集中していて、個人が付け入る隙が小さい。
  • イタリア(をはじめとしたヨーロッパ)の経済学者は、カトリック/ポスト・マルクス主義の影響下にあって、個人による成果よりも集団による成果を重視しがち。
  • 言語の壁もあって「市場規模」がアメリカよりもずっと小さいので、ブログを運営することによって得られる見返りが小さい〔原注1〕。
  • イタリアでは、ブログのように「市場」向けに活動するよりも、パーソナル・ネットワーク(コネ)に頼る方が得られる見返りがずっと大きい。

実証的に検証してみる価値がありそうだ。博士課程の学生でやってもいいという猛者はいないだろうか?


〔原注1〕国際貿易の分野における「スーパースター」効果のフォーマルな分析については、Manasse&Turrini (2001) を参照されたい。



<参考文献>


●Manasse, P and A Turrini (2001), “Trade, Wages and Superstars”, Journal of International Economics.
●McKenzie, D and B Özler (2011), “The Impact of Economics Blogs”, CEPR Discussion Paper 8558, September.

2014年9月19日金曜日

Z. G. 「経済学者は世論に影響を及ぼせるか?」(2014年8月20日)

Z. G., “Economics for the masses”(Free exchange, August 20, 2014) 


堅物と思われていた経済学者たちが世間に顔を晒すようになっている。データジャーナリズムの隆盛も一因となって、「陰鬱な科学」の専門家たちが公共圏に進出してきているのだ。しかしながら、経済学者と世間とでは、その考えにしばしば大きなギャップがある。経済学者は、世人のハートを掴めるのだろうか? 世論を変えることができるのだろうか? それとも、世間に出回っている通念を正当化したり補強したりするために都合よく利用されるだけの存在に過ぎないのだろうか?

デューク大学に籍を置く二人の政治学者の共著論文(pdf)によると、経済学者は世論に影響を及ぼせるという。ただし、それもテクニカルな話題に限っての話だという。政治的に議論を呼びそうなホットな話題となると、経済学者は世論にそれほど影響を及ぼせないというのだ。この論文では、世間の人々が経済学者という専門家集団に対してどのようなイメージを抱いているかだけでなく、経済学者の間でコンセンサスが得られている問題――例えば、移民の受け入れだとか、金本位制への移行の是非だとか――について世間の人々がどのように考えているかが調査されている。さらには、「専門家のコンセンサス」の効果も探られている。世間の人々が「専門家のコンセンサス」を知ると自分の意見を変えるかどうかについてだけでなく、経済学者(という専門家集団)に対するイメージを見直すかどうかについても検証されているのだ。

その結果やいかに? まずは、悪い報せから取り上げるとしよう。経済学者の間でコンセンサスが得られている問題について意見を求めたところ、どの問題についても回答者の過半数――「わからない」と答えた人は除く――が経済学者と異なる意見を述べたという。さらには、経済政策が争点である場合に経済学者の意見を信頼すると答えたのは、回答者のうちのわずか59%。それも、その大半は「少しは信頼する」というに過ぎなかった。経済学者(という専門家集団)に対する不信感は、属性の如何を問わずどのグループにも広まっているが、その中でも経済学者(という専門家集団)を一番信頼していないのは、政治的に右寄りの意見の持ち主たちだったという。

しかしながら、良い報せもある。経済学者の間でのコンセンサス(「専門家のコンセンサス」)を知らされると、世間の人々はそれ(「専門家のコンセンサス」)に同調しがちになるというのだ。しかしながら、「専門家のコンセンサス」が持つ効果は、どんな問題について意見が問われるかによって違っている。 金本位制への移行の是非だったり今後の税収予測だったりのようなテクニカルな問題については、「専門家のコンセンサス」は世論を変える(世人の意見を変える)力を持っているが、中国との貿易問題だったり移民受け入れのメリットだったりのような政治的にホットな問題になると、「専門家のコンセンサス」が世論を変える可能性はずっと小さいという。そればかりではない。政治的にホットな問題について自分の意見が「専門家のコンセンサス」と食い違っているのを知ると、その人が経済学者に対して寄せる信頼の度合いが大きく低下する傾向にあったというのだ。その一方で、テクニカルな問題については、そのような結果は観察されなかった。テクニカルな問題について自分の意見と「専門家のコンセンサス」が食い違っているのを知っても、その人が経済学者に対して寄せる信頼の度合いは変わらない傾向にあったのである。政治的にホットでヒートアップしやすい問題については、経済学者は世間から都合よく利用されているだけなのかもしれない。世間の偏見にお墨付きを与えられるようなら意見を聞き入れてもらえるが、そうでなければ「信頼できない奴ら」という烙印を押されかねないのだ。

経済学者が公共政策に影響を及ぼす――望むらくは、公共政策を改善する――ためには、世論を納得させられるかどうかが肝心になってくる。どうすればいいだろう? どうすれば少しでもうまくいきそうだろうか? テクニカルな問題に絞って口を出すように自制するというのは得策でもないし、守れそうにもない。政治的にホットになりがちで、経済学者が有益なアドバイスを送れる問題というのは、それはもうたくさんあるからだ。しかしながら、政治的にホットな問題に口を出すにしても、テクニカルな面を強調して語るようにするといいかもしれない。例えば、「移民を受け入れよ!」と結論だけを述べるのではなく、移民を受け入れた場合に生じる便益の大きさを計測してその結果を伝えるようにしたら、世間から意見を聞き入れてもらえる可能性も高まるかもしれない。

2013年6月11日火曜日

Benjamin Mandel&Geoffrey Barnes 「予想インフレ率を測るための新たな指標 ~日本の予想インフレ率を探る~」(2013年4月22日)

Benjamin R. Mandel&Geoffrey Barnes, “Japanese Inflation Expectations, Revisited”(Liberty Street Economics, April 22, 2013


金融政策の成否を測る重要な指標の一つは、予想インフレ率を安定させられるかどうかである。予想インフレ率は実際のインフレ率にも影響を及ぼすし、それゆえにインフレ目標を達成できるかどうかを左右するのだ。このことが特別な意義を持ってくるのが、日本経済である。日本では、CPI(消費者物価指数)で測ったインフレ率が1994年以降に何度かマイナスを記録していて、予想インフレ率が一貫してマイナスにとどまっている(すなわち、デフレの継続が予想されている)と広く信じられているのだ。このエントリーでは、日本における予想インフレ率を測るための新たな指標について説明を加えて、その頑健性をチェックする。購買力平価説に依拠したその指標によると、ここ最近の日本の予想インフレ率は過去3年間におけるピークを大きく上回っているのだ。

背景情報を伝えておくと、日本銀行の政策で最近になって変わったところは、インフレ期待(予想インフレ率)にスポットライトが当てられるようになったことである。去る4月4日に、量的・質的緩和(Quantitative and Qualitative Monetary Easing ;QQE)と呼ばれるプログラム(pdf)〔日本語版はこちら(pdf)〕が導入された。マネタリーベースを拡大させるために資産の買い入れ額を劇的に増やすと同時に、満期が長めの資産の買い入れを進めることが誓われたのである。日本国債の利回り(名目金利)はもう既に極めて低いので、量的・質的緩和プログラムの成否は、予想インフレ率が2%――日銀が掲げる「物価安定の目標」――に近いところまで上昇して実質金利が低下するかどうかによって判断されることになるだろう。


予想インフレ率をいかにして測るか:予想インフレ率を測るための既存の指標

日本の予想インフレ率を測るためには、どうしたらいいのだろうか? この件についてはコンセンサスがある。日本の予想インフレ率を測るために頼りになる指標は存在しないというのがそれだ。アメリカの予想インフレ率を測るためによく使われる市場データとしては、普通国債と物価連動国債(TIPS)の利回りの差がある。いわゆるブレーク・イーブン・インフレ率と呼ばれているやつである。他には、インフレスワップと呼ばれる店頭デリバティブのデータも利用されている。その一方で、日本の物価連動国債(JGBi)は、取引量が極めて少なくて、発行残高の大半が近年になって財務省によって買い戻されている。それゆえに、物価連動国債の利回りから日本の予想インフレ率について頼りになる情報が得られるかというと、疑わしい。インフレスワップについても市場の厚みの面で物価連動国債と同様の問題を抱えている。 

予想インフレ率を測るための別の指標としては、 家計、投資家、経済予測の専門家らに対するアンケート調査がある。しかしながら、アンケート調査での回答はバックワードになりやすい(過去に引きずられやすい)かもしれない。回答が将来的なインフレ予測(将来的にインフレがどうなりそうか)を反映するよりも、実際のインフレ(最近のインフレがどうだったか)に強く影響される可能性があるのである。ちなみに、市場データに基づく指標――ブレーク・イーブン・インフレ率(紫色の実線)&インフレスワップ(赤色の実線)――と、アンケート調査に基づく指標――日経クイックサーベイ(青色の実線)&日銀による生活意識に関するアンケート調査(緑色の実線)――の推移を表しているのが以下のチャートである。ここ最近になって、5年先、10年先の予想インフレ率を測る指標がいずれも1%近辺に集まっていることがわかる。しかしながら、既に指摘したように、多くのアナリストは、これらの指標から予想インフレ率の符号の向きですら正確に知れるかどうかについて覚束なく感じているのである。




購買力平価説に依拠した予想インフレ率の指標:予想インフレ率を測るための新たな指標

そんなわけで、市場データに基づく別の指標にスポットを当てることにしよう。アメリカの予想インフレ率――日本に比べると、アメリカでは物価連動国債(TIPS)もインフレスワップも活発に取引されている――と購買力平価説を組み合わせて、日本の予想インフレ率を導き出すのだ。我々が知る範囲では、そのようにして日本の予想インフレ率が推計されることは滅多にないようだが、物価連動国債(JGBi)やインフレスワップに代わる有益な情報源になる可能性がある。例外として、ゴールドマン・サックスによる調査(“The Market Consequences of Exiting Japan’s Liquidity Trap,” Global Economics Weekly 13/05, February 2013)を挙げておこう。ドル円の先物為替レート(30年先)を使って、日本の予想インフレ率が推計されている。

我々が提示する指標は、購買力平価(Purchasing Power Parity;PPP)説に依拠している。購買力平価説によると、任意の二国間の名目為替レートは、その二国の物価水準の比と等しくなると考えられている。これまでの研究によると、購買力平価説は、名目為替レートの長期的な変動をかなりうまく説明できて、とりわけ変化率で見る(相対的PPP)とあてはまりがいいことがわかっている。すなわち、日本における物価水準の期待変化率(≒予想インフレ率)は、アメリカにおける物価水準の期待変化率に名目為替レート(ドル円レート)の期待変化率を加えたものに等しくなる〔日本の予想インフレ率=アメリカの予想インフレ率+名目為替レートの期待減価率〕わけである。アメリカの予想インフレ率を測る指標としてアメリカのブレーク・イーブン・インフレ率を用いて、名目為替レートの期待減価率を測る指標としてドル円の先物為替レートを用いるとしよう。

購買力平価説から示唆される日本の予想インフレ率の推移を表したのが以下のチャートである。日次データを利用していて、2010年1月以降が対象である。5年先の予想インフレ率が赤色の実線、7年先の予想インフレ率が緑色の実線、10年先の予想インフレ率が紫色の実線で表されている。予想インフレ率にシフトが生じているタイミングを見ると、政策面での変化と関わりがありそうなことが示唆される。過去3年のうちで予想インフレ率がピークに達したのは、政策面でイノベーション(新たな行動)に踏み切られた後だからである。2010年10月に日本銀行は「包括的金融緩和」(pdf)〔日本語版はこちら(pdf)〕に乗り出したが、その後に予想インフレ率が高まっていることが見て取れる。しかしながら、予想インフレ率は2011年の半ば頃までに包括的金融緩和が導入される前の水準にまで戻った。2012年2月に日本銀行は「1%の物価安定の目途」(pdf)〔日本語はこちら(pdf)〕を発表したが、その後に再び予想インフレ率が高まった――包括的金融緩和が導入された後に比べると、軽微な上昇にとどまった――。しかしながら、その数ヶ月後には予想インフレ率は再び元の水準(「1%の物価安定の目途」が発表される前の水準)にまで低下した。最近はどうかというと、2012年9月に安倍晋三が自民党の総裁に選ばれて、同年の12月に新首相の座に就いて「アベノミクス」と呼ばれる政策レジームが始動すると、予想インフレ率が跳ね上がった。以下のチャートによると、「アベノミクス」後の予想インフレ率は、先程触れた過去2回のピークを大きく上回っているのだ。




頑健性のチェック

国のペアを変えて同じ理屈を当てはめてみたら、購買力平価説から示唆される予想インフレ率の指標が頑健かどうかをチェックできるだろう。購買力平価説から示唆される日本の予想インフレ率の変動がアメリカと日本の金融市場に特有の事情によって突き動かされているわけではないようなら、ドル円以外の先物為替レートやアメリカ以外のブレーク・イーブン・インフレ率を用いても似たような結果が得られるはずである。アメリカ以外の別の国として真っ先に候補になるのはイギリスだろう。イギリスの物価連動国債の市場は、流動性が比較的高いからである。先のケースと同じように、ポンド円の先物為替レートとイギリスのブレーク・イーブン・インフレ率を用いて日本の予想インフレ率を導き出した結果をまとめたのが以下のチャートである。「日本×イギリス」のペアから求められる日本の予想インフレ率(U.K.-PPP;緑色の実線)に加えて、「日本×アメリカ」のペアから求められる日本の予想インフレ率(U.S.-PPP;赤色の実線)も並記してある。その水準は必ずしも完全に一致しているわけではないが、両者(U.K.-PPP&U.S.-PPP)の相関はかなり高い――相関係数は0.66――。




イギリスのブレーク・イーブン・インフレ率とドルポンドの先物為替レートを用いてアメリカの予想インフレ率を導き出して、それとアメリカのブレーク・イーブン・インフレ率を比較するという手もある。以下のチャートがそれである。購買力平価説から示唆されるアメリカの予想インフレ率が緑色の実線、アメリカのブレーク・イーブン・インフレ率が赤色の実線で表されている。2012年後半の数日を例外として、この2つの指標も相関がかなり高い――相関係数は0.64――。購買力平価説から示唆される予想インフレ率の指標は、物価連動国債(TIPS)から算出される予想インフレ率の良い近似になっていると言えよう。




要約しよう。購買力平価説に依拠すれば、日本の予想インフレ率を測るための市場データに基づく新たな指標が得られる。その指標は、日本銀行による最近の金融政策面でのイノベーションに極めて敏感に反応しているようである。異なる期間(5年先、7年先、10年先の予想インフレ率)や異なる国のペア(アメリカと日本、イギリスと日本、アメリカとイギリス)でも似たような結果が得られることから判断すると、購買力平価説から示唆される予想インフレ率の指標は、予想インフレ率を測るための頑健で頼りになる指標と言えそうなのだ。

2013年3月7日木曜日

The Economist 「メディア・バイアスの経済学 ~ニュースにバイアスが生じるのはなぜ?~」(2008年10月30日)

The Economist, “A biased market”(October 30, 2008)
 
偏向報道は、メディアが機能不全に陥っている印(しるし)と見なされているが、実のところは健全な競争が働いている印なのかもしれない。

バラク・オバマがニューヨーク・タイムズ・マガジンのライターについ最近語っているところによると、右派系の放送局であるフォックス・ニュースが存在しなければ、来る大統領選挙で自分の得票率が2~3ポイント(パーセントポイント)は上昇するかもしれないという。その一方で、共和党の副大統領候補であるサラ・ペイリンも「リベラルなメディア」が抱えるバイアスを取り上げて激しい口撃を加えている。メディアの偏向報道を問題視する声がアメリカの政界のあちこちで上がっているが、ニュースの報道の仕方に違いが生じるのはなぜなのかを立ち止まって考える人はあまりいないようだ。

サプライサイド(ニュースの送り手の側)に原因があるというのが一つの可能性だ。テレビ局なり新聞社なりの経営者や従業員が抱いているイデオロギーがニュースの報道に歪みを生じさせるという可能性である。しかしながら、読者や視聴者が情報の正確さを重視するようなら成り立ちそうにない可能性だ。読者や視聴者が情報の正確さを重視するようなら、メディア間での競争によって、右寄りか左寄りかのどちらかに一貫して歪んだ情報を伝える報道機関は、読者や視聴者からそっぽを向かれて経営的に痛手を被ることになるはずだからである。アメリカのメディア市場では自由な競争が行われているにもかかわらず偏向報道が横行しているらしいとすると、何か別の要因が関わっていそうだ。

競争が激しいメディア市場で偏向報道が蔓延る理由を理解するためには、ディマンドサイド(ニュースの受け手の側)が何を欲しているかについてもっと掘り下げて考えてみるのが大事かもしれない。ともにハーバード大学に籍を置く経済学者のセンディル・ムッライナタン(Sendhil Mullainathan)とアンドレイ・シュライファー(Andrei Shleifer)のよく知られている共著論文――“The Market for News”(pdf)――によると、ニュースの受け手が情報の正確さだけを気にかけると想定するのはナイーブかもしれないという。その代わりに、彼らの共著論文では、新聞の読者が(情報の正確さを気にかけるだけでなく、それに加えて)確証バイアスを抱えていて、自分が既に持っている考え(信念)が記事を読んで正当化されるのを欲すると想定してその帰結がモデルを使って分析されている。ムッライナタン&シュライファーのモデルによると、読者がそれぞれ異なる考え(信念)を持っているとしたら、メディア間での競争は、歪んだニュースを報じる新聞社を市場から駆逐するのではなく、偏向報道を蔓延らせる可能性がある。それぞれの新聞社が偏った考え(右寄りないしは左寄りの考え)の持ち主(読者)のニーズに応えようとするからである。ムッライナタン&シュライファーのモデルが現実に当てはまるかどうかを検証しているのが、ともにシカゴ大学のビジネススクールに籍を置く経済学者のマシュー・ジェンツコウ(Matthew Gentzkow)とジェシー・シャピロ(Jesse Shapiro)の共著論文――“What Drives Media Slant? Evidence from U.S. Daily Newspapers”(pdf)――である。

検証を行うためには、まず何よりも報道内容が政治的にどれくらい偏向しているかを測定する必要があるが、ジェンツコウ&シャピロの二人は想像力に富んだ方法でその厄介な問題を処理している。議会での討論をコンピュータープログラムを使って分析し、共和党の議員と民主党の議員がそれぞれ頻繁に口にするフレーズを特定したのである。例えば、民主党の議員は、“estate tax”(相続税)という語を口にしがちな一方で、共和党の議員は同じ問題を論じる時に “death tax”(相続税)という語を口にしがちだという(これは単なる偶然ではない。ジェンツコウ&シャピロの二人が匿名の共和党スタッフの言葉として引用しているところによると、党の指導部は議員に “death tax” という語を使うように指導しているという。なぜかというと、「“estate tax” だと富裕層だけが対象であるかのように響くが、“death tax” だと誰もが対象であるかのように響くから」だというのだ)。党派色のあるフレーズを特定したジェンツコウ&シャピロの二人が次に何をしたかというと、アメリカで発行されている400紙以上の新聞を対象にして、党派色のあるフレーズが記事の中でどれくらい頻繁に使われているかを調査したのだった。党派色のあるフレーズがどれくらい頻繁に使われているかを基にして、それぞれの新聞が抱える「偏向度」を正確に測定する指標を作り上げたのだ。

次にやるべきことは、それぞれの新聞の読者の政治的な傾向を評価することである。ジェンツコウ&シャピロの二人は、それぞれの新聞が流通している地域の住民であり読者の政治的な傾向を探るために、2004年の大統領選挙でのジョージ・ブッシュ(共和党の候補)の地域別の得票率のデータに加えて、それぞれの地域が民主党寄りか共和党寄りかを判別するのに使えそうなデータに目を向けて分析を加えている。かくして、「新聞の発行部数」、「新聞の偏向度」、「読者の政治的な傾向」の関係を探るための準備が整ったわけである。

まずはじめに、「新聞の発行部数」が「新聞の偏向度」と「読者の政治的な傾向」のズレに応じてどのように変化するかが検証されているが、「新聞の偏向度」と「読者の政治的な傾向」のズレが小さいほど、「新聞の発行部数」が多くなる傾向にあることが見出されている。「共和党寄り」の新聞は、「共和党寄り」の地域でよく読まれるというわけだ。このことはさして驚くような発見じゃないが、「新聞の発行部数」が「新聞の偏向度」と「読者の政治的な傾向」のズレに応じてどれくらい増減するかを計測することによって、もっと興味深い比較を行えるようになった。どういうことかというと、それぞれの地域の「政治的な傾向」がわかっているので、それぞれの地域でどれくらい偏向すれば利潤が最大化できるかが計算できるのだ。それぞれの地域ごとに利潤を最大化する「理想的な偏向度」を求めることができるのだ。そのおかげで、利潤の最大化につながる「理想的な偏向度」とそれぞれの新聞の「偏向度」を比較することができるようになったのだ。 

その比較の結果はというと、驚くほど一致していることが見出された。全般的な傾向として、利潤を最大化するのにちょうどいい程度に偏向していることが見出されたのだ。そうなるのも納得がいく。ジェンツコウ&シャピロの二人の分析結果によると、「理想的な偏向度」からほんの少しズレるだけでも発行部数が大きく落ち込むことになるからだ。


私が歪んでいるのは、あなたのため

新聞が政治的に偏向しているのは経済的に見て合理的だから(儲けられるから)ということが示されたからといって、ニュースにバイアスが生じる原因がサプライサイド(ニュースの送り手の側)にあるのか、それともディマンドサイド(ニュースの受け手の側)にあるのかという疑問への答えが得られるわけでは必ずしもない。そこで、ジェンツコウ&シャピロの二人は、メディア関係の大手企業が複数の新聞を発行している事実に着目した。経営者が同じである複数の新聞が「政治的な傾向」が異なる地域で発行されていることも珍しくない。経営者が同じである新聞同士の方がランダムに選ばれた二紙よりも「偏向度」が似通っているかどうかを検証したところ、否定的な結果が得られた。経営者は、自社の新聞の「偏向度」にほんの些細な影響しか及ぼしていないというのだ。メディア関係の大手企業が発行している新聞の「偏向度」の5分の1は「読者の政治的な傾向」によって説明可能で、経営者は「偏向度」に何の影響も及ぼしていないに等しいというのだ。

ありのままの真実を追い求める人にとっては、何の足しにもならない発見だろう。正確な情報を追い求める注意深い人は、バランスをとるためにいくつもの新聞に目を通さねばならないことになろう。しかしながら、メディア市場における競争は、多様性を促すことにもなる。報道機関がディマンドサイドの多様なニーズに応じようとして、あれやこれやの異なる考えを代弁することになるからである。ともあれ、ペイリンがフォックス・ニュースを批判することもなければ、オバマがニューヨーク・タイムズ紙に不満を垂れることもなさそうだ。

2010年4月19日月曜日

Paola Giuliano&Antonio Spilimbergo 「経済危機の長期持続的な諸効果」(2009年9月25日)

Paola Giuliano&Antonio Spilimbergo, “The long-lasting effects of the economic crisis”(VOX, September 25, 2009)
 
経済面での出来事は、長期にわたって持続する非経済的な効果を持つ可能性がある。経済面での出来事だったりその時々の経済情勢だったりは、一人ひとりの終生にわたる信念に影響を及ぼす可能性があるのだ。不況の最中に成長した若者は、人生で成功できるかどうかは努力よりも運にかかっていると考える傾向にあって、政府による再分配政策を強く支持する傾向にある。その一方で、公的な制度に対してそれほど信頼を寄せない傾向にもある。現下の厳しい不況は、リスクを嫌うと同時に、政府による再分配を強く支持する新しい世代を育みつつあるのかもしれない 

“経済学の世界に足を踏み入れたのはなぜかというと、その理由は2つあります。まず1つ目の理由は、『大恐慌世代』ということもあって、世の中のことについて並々ならぬ関心を持つようになったのです。当時の世の中で起こっていた多くの問題の根本的な原因を探ると、そこには経済問題が横たわっていたのです。”― ジェームス・トービン(James Tobin), Conversations with Economists


大恐慌以来最も深刻な経済危機から脱しようとしている中で、世間の関心もシフトし始めている。危機にどう対応したらいいかということから、危機に備わる長期的な効果へと世間の関心がシフトし始めているのだ。

過去の経済危機は、経済の構造だけではなく、政治の世界にも、経済についての経済学者の考え方にも、世間の人々の心理や信念にも、しぶとい痕跡を残した。例えば、1930年代の大恐慌は、政府に対して「マクロ経済の安定化」という新たな役割を付与する契機になったばかりではなく、アメリカの政界をその後数十年にわたって規定することになった新たな政治連合の形成を促した。さらには、ケインズ革命とマクロ経済学の誕生を誘発したのである。 

現下の経済危機が経済の構造に対して及ぼす長期持続的な効果の詳細を把握するためにはしばらく時間がかかるだろうが、IMFのチーフエコノミストであるブランシャール(Olivier Blanchard)も語っているように、「今回の危機は、経済システムに深い傷を刻み付けた。供給と需要のどちら側に対しても、今後何年にもわたって影響を及ぼし続けるだろう傷を刻み付けたのだ」(Blanchard 2009)。現下の経済危機は、「経済システムに深い傷を刻み付けた」だけでなく、いくつかの新たな問いも提起している。これから先、経済学者が必死になって取り組まねばならないだろう問いだ。すなわち、過去2年にわたって金融面で急速な勢いで進んだディスインターメディエーション(financial disintermediation)は、一時的な現象に終わらずに、今後もこのまま定着するのだろうか? 「信用なき」(“creditless” )景気回復――銀行の融資を含む「信用」の拡大を伴わない景気回復――を続けるのは可能だろうか? 政府は、規制に対するアプローチを見直すべきだろうか? 


大不況と大傑作(Great recessions and great literature)

経済危機は、経済や政治の分野だけにとどまらず、世間の人々の心理や態度に対しても衝撃的な効果(traumatic effect)を及ぼす。スタインベックが『怒りの葡萄』(The Grapes of Wrath)や『ハツカネズミと人間』(Of Mice and Men)――どちらも、大恐慌の中頃に執筆された作品――でありありと描き出しているように。大恐慌という衝撃的な出来事は、世間の人々の信念や態度に大きなインパクトを及ぼした。その結果として、アメリカの政治システムを長きにわたって支えた信念や態度が醸成されるに至ったのである。

翻って、現下の経済危機はどうだろうか? 心理的・政治的な側面に対してどんな効果を及ぼすだろうか? ダストボウル(Dust Bowl)が引き起こした苦痛をありありと描き出したスタインベックのように、サブプライムローンが引き起こした苦痛をありありと描き出す作家はまだ登場していないが、経済危機が世間の人々の心理や行動に及ぼす効果について何らかの示唆を与えてくれそうな学術的な研究ならある。我々の最新の研究成果がそれだ。 


総合社会調査(General Social Survey)を利用した最新の研究成果

我々の研究では、厳しい不況が一人ひとりの広範にわたる信念や態度に対して及ぼす影響が調査されている(Giuliano and Spilimbergo, 2009)。具体的には、アメリカで1972年以降ほぼ毎年のように実施されている総合社会調査(GSS:General Social Survey)への回答データを利用して、経済的なショックがアメリカの異なる世代の人々の態度に及ぼした影響を分析している。成人期の初期段階(early adulthood)で生じたマクロ経済的なショックと、GSSで自己申告された回答を突き合わせて、マクロ経済的なショックが世間の人々――特に、若者――の態度にどのような影響を及ぼしたかを明らかにしようと試みたのである。

経済的なショックが一人ひとりの信念に及ぼす効果を分析しようとすると、乗り越えなくてはならない重要な課題がある。一人ひとりの人間は、生きていく中で実に色々な経験をする。一人ひとりの人間が味わう経験のうちで経済的なショック以外の経験がその人の信念に及ぼす効果をコントロールすることが大事になってくるのだ。特に、戦争だとか、文化の急激な変容だとかという非経済的な出来事は、異なる世代に異なる影響を及ぼす可能性がある〔原注1〕。例えば、大恐慌の最中に成人期を迎えた世代は、大恐慌からだけではなく、第2次世界大戦からも影響を受けている可能性があるのだ。

経済的なショックの効果をそれ以外の国家的出来事の効果から切り離すために、アメリカでは地域によって経済成長のパフォーマンスにかなり違いがあるという事実を利用した〔原注2〕。例えば、ニューイングランドは厳しい不況に見舞われているのに、それ以外の地域はプラス成長を謳歌しているということがあり得るのだ。我々の研究によると、アメリカ国内の特定の地域を襲った厳しい不況がその地域で育った若者の態度と信念を大きく変えたことが明らかになっている。不況は、世間の人々――特に、18~25歳の若者――の認識(perception)を変えるのだ。不況を経験した若者は、政府による再分配を強く支持する傾向にある。それに加えて、人生で成功できるかどうかは、努力や勤勉よりも運にかかっている面が大きいと考える傾向にあるのだ。 


不況が態度に及ぼす効果

我々の研究を通じて明らかになった事実のうち、特筆すべきなのは以下の4点である。

  • 厳しい不況を経験することによって態度(信念)に大きな影響が及ぶのは、18歳~24歳のいわゆる人格形成期(formative age)――社会心理学者によれば、社会的な信念(social beliefs)の大半が形作られるとされている時期――の若者である。人格形成期以降に厳しい不況を経験した場合は、不況が態度(信念)に及ぼす効果はそれほど大きくない。 
  • 不況が態度(信念)に及ぼす効果は長続きする。不況を経験したせいで大きく変化した態度(信念)は、厳しい不況が終わった後も長年にわたって変化したままにとどまる。
  • 我々の研究では、所得、教育水準、マイホームを所有しているか否かという属性にコントロールを加えて、不況が一人ひとりの態度(信念)に及ぼす直接的な効果だけを取り出している。しかしながら、不況は先に挙げた属性への影響を介して、一人ひとりの態度(信念)に間接的なかたちでも効果を及ぼす可能性がある。間接的な効果も加味すると、不況が一人ひとりの態度(信念)に及ぼす効果はさらに大きくなる可能性がある。
  • 不況が態度(信念)に及ぼす効果の大きさは控え目な推定である。我々が試みた検証では、地域レベルで生じた経済的なショックの影響だけが取り上げられていて、国家レベルで生じた経済的なショックの影響は暗黙のうちに無視されているからである。

金融取引に焦点を合わせて、国家規模で生じる経済的なショックが態度(特に、リスクに対する態度)に及ぼす効果を分析しているマルメンディア&ナーゲル(Malmendier&Nagel 2009)によると、過去に株式市場で高利回りを経験したことがある世代は、リスク回避の程度が低くて、株式投資に積極的で、資産を運用するとなると手持ちの流動資産の多くの割合を株式に投資しがちであることが見出されている。さらには、過去に高インフレを経験したことがある世代は、債券(bond)の保有を避ける傾向にあることも見出されている。興味深いことに、株式の利回りやインフレにまつわる経験のうちでも若かりし頃の経験は、その後数十年にわたってその人のリスクに対する態度に影響を及ぼすことも見出されている。世代によって投資パターンに違いが見られる理由を説明する発見と言えよう。

人生において運が果たす重要性だったり、政府が果たすべき役割だったり、政府による再分配だったりについて一人ひとりが抱いている信念が重要な意味を持つのはなぜかというと、政治風土を形作るからである。ひいては、どんな政策が選ばれるかを決めるからである。例えば、ピケティ(Piketty 1995)によると、人生において運が大きな役割を果たすと信じている人は、重めの税負担も許容する傾向にあるという。さらには、アレシナ&アンジェレトス(Alesina&Angeletos 2005)やベナボウ&ティロール(Benabou&Tirole 2006)によると、公平性(fairness)についてどんな信念が抱かれているか――「公正世界仮説」を信じるか否か――によって、自由放任的な政策が実施される「アメリカ的」な均衡に落ち着く場合もあれば、社会福祉政策が実施される「ヨーロッパ的」な均衡に落ち着く場合もあるのだ。


「大きな政府」を支持する新世代?

現下の厳しい不況は、新しい世代を育みつつあるのかもしれない。リスクを嫌って、株式投資に消極的で、政府の介入を歓迎して、政府による再分配を強く支持して、重い税負担も甘受する新しい世代を。

アメリカの歴史を振り返ると、政界の大再編が経済面での衝撃的な出来事と時を同じくして起こるというのは珍しくない――経済面での衝撃的な出来事が世間の態度を変えて政治風土を変容させる可能性については、昔からよく知られていた。しかし、そのことを裏付ける明確な証拠が欠けていたのだ――。経済危機に見舞われる時期というのは、将来にとって重要な意味を持つ「選択の時」でもあるのだ〔原注3〕。その時々の経済情勢が世間の人々の信念や態度に対して及ぼす影響を明らかにしようと試みる首尾一貫した研究成果が続々と報告されている。しかしながら、世の政治家たちは、新たな時代精神を歓迎するばかりで、その背後にある経緯を解きほぐそうと試みている学術的な研究成果には無関心なようだ。


〔原注1〕ストラウス&ハウ(Strauss&Howe 1991)によると、アメリカ史の中の主要な出来事は、異なる世代の入れ替わり(世代交代)によって説明できるという。アメリカの歴史は、4タイプの世代――理想主義(idealist)/反動的(reactive)/ シヴィック(civic)/ 適応的(adaptive)――の入れ替わりによって説明できるというのだ。ストラウス&ハウによると、4タイプの世代の入れ替わりは、経済面での出来事からは独立して起こるとされている。

〔原注2〕アメリカは、大きく9つの地域に区分される。

〔原注3〕crisis(危機)という単語は、古代ギリシア語の κρίσις (krisis) に由来している。興味深いことに、κρίσις には、「決定(decision)、選択(choice)、選挙(election)、判断(judgment)、討論(dispute)」という意味がある。


<参考文献>


●Alesina, Alberto, and George-Marios Angeletos (2005), “Fairness and Redistribution: US vs. Europe(pdf)”, American Economic Review, Vol. 95 (September), pp. 913–35.
●Benabou, Roland, and Jean Tirole (2006), “Belief in a Just World and Redistributive Politics”, Quarterly Journal of Economics, Vol. 121 (May), No. 2, pp. 699–746.
●Blanchard, Olivier (2009). “Sustaining a Global Recovery”, Finance & Development, September.
●Giuliano, Paola, and Antonio Spilimbergo (2009), “Growing Up in a Recession: Beliefs and the Macroeconomy(pdf)”, CEPR Discussion Paper 7399
●Malmandier, Ulrike, and Stefan Nagel (2009), “Depression Babies: Do Macroeconomic Experiences Affect Risk-Taking?(pdf)” mimeo.
●Piketty, Thomas (1995), “Social Mobility and Redistributive Politics(pdf)”, Quarterly Journal of Economics, Vol. 110, No. 3, pp. 551–84.
●Strauss, William, and Neil Howe (1991), Generations: The History of America's Future, 1584-2069. Harper Perennial.