Sascha O. Becker and Ludger Woessmann, “Religion matters, in life and death”(VOX, January 15, 2012)
宗教は、自殺という重大な決断に何らかの影響を及ぼすだろうか? 19世紀のプロイセンのデータを用いて検証したところ、プロテスタント教徒の割合が高い地区(郡)では、カトリック教徒の割合が高い地区(郡)においてよりも自殺率がずっと高い傾向にあり、プロテスタンティズムこそが自殺率を高めている原因であるとの結果が得られた。経済学的なモデル(合理的選択理論)の助けを借りれば、プロテスタンティズムがなぜ自殺率を高めることになるのかを理解する手掛かりを得ることができる。
フランスの社会学者であるエミール・デュルケームが1897年(!)に物した古典の一つである『自殺論』を紐解くと、プロテスタンティズムと自殺との間に強いつながりがあることを示唆する一連の統計数字が提示されている。プロテスタントの国ではカトリックの国においてよりも自殺率が高いというデュルケームの指摘は「社会学の分野における数少ない法則の候補として広く受け入れられるまでになっている」(Pope and Danigelis 1981)。
カトリックの国々と比べると、プロテスタントの国々では、自殺率が随分と高い傾向にあるというのは現在においても依然として当てはまる話であり、宗教と自殺との間にどのような関係が見られるかを探ることは、今もなお極めて重要なトピックだと言えるだろう。毎年世界中でおよそ百万人もの人々が自ら命を絶っており、若者の間では自殺が死因のトップであることを考えると、なおさらそうである(World Health Organisation 2008)。あちこちで頻発する自殺は、人々の感情に対してだけではなく、社会全体や経済全体に対しても広範な影響を及ぼしており、政府も自殺の予防に向けて数々の対応に追われているのが現状である。
自殺に関する経済学的なモデル
自殺の問題に経済学的な観点から切り込んだ研究は既にいくつもあるが(例えば、Hamermesh and Soss(1974)や Becker and Posner(2004)を参照せよ)、そういった一連の研究においては、自殺は生と死との間の選択問題の一つとして定式化されている。今後も生き続けることで得られる(と期待される)効用と、人生に終止符を打つ(命を絶つ)ことで得られる(と期待される)効用〔訳注;「命を絶つことで得られる効用って何だ?」と疑問に思われるかもしれないが、ここでは死後の世界の存在が想定されている。死んだ後に運良く天国に送られて、そこで喜びに満ち溢れた生活を過ごすことができるかもしれないと信じられている場合、人生に終止符を打つ(命を絶つ)ことで得られる(と期待される)効用は、その人にとってプラスの値をとることになる〕とを比較して、前者が後者を下回るようであれば、自殺を選ぶことが(その人にとって)「最適な」選択であるという話になるわけだ。
我々の最新の研究(Becker and Woessmann 2011)でもそのような(自殺に関する経済学的なモデルの)従来の枠組みを踏襲しているが、それに加えて三つのメカニズムを考慮に入れることで、プロテスタント教徒はカトリック教徒よりも自殺傾向が高い(自殺率が高い)との理論的な予測を導き出している。一つ目のメカニズムは、デュルケームも指摘しているものだが、プロテスタントとカトリックとの間の宗教組織としての構造の違いに由来するものである。具体的には、プロテスタントの方がカトリックよりも宗教組織として見た場合に個人主義的な色彩が強い。生きていく中で困難にぶつかったとしても、カトリック教徒は凝集性が相対的に高い(結束が強い)組織(ないしは宗教コミュニティー)に頼ることができ、そのためもあって(何らかの困難にぶつかったとしても)魂がこの世にとどまる(自殺せずに生き続けることを選ぶ)可能性もそれだけ高まることになると考えられるのだ。
我々の研究では、デュルケームも指摘している上記の社会学的なメカニズムに加えて、プロテスタントとカトリックとの宗教上の教義の違いにも着目しているが、この違いもプロテスタント教徒の自殺傾向をカトリック教徒よりも高める方向に働くことになる。まずは二つ目のメカニズムから取り上げることにしよう。プロテスタントの教義では、ある人物が救済されるか否かは神の恩寵だけによって決められ、その人物がこの世でどれだけ善行を積んだかによっては左右されない点が強調されるが、カトリックの教義では、ある人物の救済をめぐる神の判断が、その人物がこの世でどのような行いをし、どのような罪を犯したかによって影響される余地が残されている。自殺という大罪を犯せば、救済の可能性は遠ざかり、死後に天国で過ごす道が閉ざされることになってしまうのではないか。カトリック教徒は、そのように考えて、自殺を思いとどまることになるかもしれない〔訳注;カトリック教徒にとっては、自殺という行為は、人生に終止符を打つ(命を絶つ)ことで得られる(と期待される)効用を低下させる効果を持っている。自殺という大罪を犯すことで、死後に天国に行ける可能性が低下するかもしれないからである。その一方で、プロテスタント教徒の場合は、自殺という大罪を犯しても、人生に終止符を打つ(命を絶つ)ことで得られる(と期待される)効用に変化が生じることはない。自分が天国に行けるかどうかは、自殺したかどうかによって影響されないと考えられているからである〕。
最後に三つ目のメカニズムである。カトリックの教義では、罪の告白(懺悔)は(七つの)秘跡(サクラメント)の一つに数え上げられているが、プロテスタントの教義ではそうなっていない。当然のことながら、自殺は数ある罪の中でも、生きているうちに告白のしようがない唯一の罪である。そのため、絶望のどん底に陥ったカトリック教徒は、(生前に告白のしようがない罪である)自殺に踏み切る代わりに、(酒浸りの生活を送ったり、犯罪に手を染めたりといった)その他の(告白して赦しを得られるかもしれない)罪を犯すことを選ぶかもしれない(罪の告白が持つ代替効果)〔訳注;罪の告白によって天国に行ける可能性がある程度左右されるとすれば、カトリック教徒にとっては、(何らかの罪を犯すのであれば)告白の可能性が残されている罪を犯そうとするインセンティブがあることになる。告白のしようがない自殺という大罪を犯すよりも、告白の可能性が残されている罪を犯した方が、人生に終止符を打つ(命を絶つ)ことで得られる(と期待される)効用の低下が軽微で済むからである〕。
まとめよう。宗教が自殺をめぐる選択にどのような影響を及ぼすかを理解する手掛かりを得るために、「合理的選択」理論に助けを求めたわけだが、①プロテスタントとカトリックとの間の宗教組織としての構造の違い(凝集性の違い)、②人間のこの世での行いが神の恩寵に及ぼす影響に関する教義上の見解の違い、③自殺という罪を告白することは不可能だという事実、という三点をモデルに組み込んだところ、プロテスタント教徒はカトリック教徒よりも自殺に踏み切る可能性が高いとの理論的な予測が導き出されることになったのである。
19世紀のプロイセンのデータは何を物語っているか?
次に、実際のデータを用いて理論的な予測の妥当性を検証する必要があるが、我々の研究では、19世紀のプロイセン(王国)のデータに目を向けている。なぜ19世紀のデータに目をつけたかというと、デュルケームが『自殺論』の中でカバーしている時期が19世紀だからというのもあるが、当時は宗教が今よりも(ほぼすべての人がいずれかの宗派に属しており、宗教が生活のあらゆる面に浸透していたという意味で)広く普及していたからでもある。なぜ19世紀のプロイセンを選んだかというと、当時のプロイセンでは、プロテスタントもカトリックもいずれも少数派ではなかったことに加えて、それぞれの教徒が政治制度や裁判制度、言語や文化を同じくする州で共存して生活を営んでいたからでもある。
我々は、当時のプロイセン王国の公文書が保管されているアーカイブに足を運んだが、そこにはプロイセン統計局が収集し、それぞれの地区の警察当局が厳重に管理していた1869年から1871年までのデータが残されていた。452の郡すべて〔訳注;当時のプロイセンでは、最大の行政単位としてまず州(全部で11州)があり、それに次いで県(全部で35県)、そして最後に郡(全部で452郡)が続くという格好になっていた〕のデータが揃っており、その中には自殺の発生件数のデータも含まれている。さらには、1871年に実施された国勢調査のデータも残されていたが、その中には、(それぞれの教徒が人口に占める割合をはじめとした)宗教に関する情報だけではなく、識字率や経済発展の度合い等に関する情報も含まれている。
プロテスタンティズムが自殺に対してどのような効果を持つかを実証的に跡付ける上では、厄介な困難が控えている。自殺傾向が高い性格の持ち主がプロテスタント教徒になることを選んだという可能性があるのだ〔訳注;プロテスタント教徒の自殺率が高いという事実(あるいは、プロテスタント教徒が多く住む地域ほど自殺率が高いという相関関係)が仮に見られるとしても、プロテスタンティズムには自殺傾向を高める効果がある(プロテスタンティズムが自殺率を高めている原因だ)とは必ずしも言えない。例えば、元々自殺傾向が高い人がプロテスタンティズムに引き寄せられてプロテスタント教徒になっている可能性があるからである。この研究では、操作変数法と呼ばれる手法を使って因果の向き(プロテスタンティズムが自殺率を高めている原因だとの因果関係)の推定が試みられている〕。しかしながら、今回のケースに関しては、この点はそれほど問題とはならないだろう。というのは、当時のプロイセンでは、個人が宗派を変える例はほとんど見られなかったし、郡ごとの宗派の違いは、何世紀も前にその界隈を統括していた統治者の決定に遡ることができるからである。とは言え、何の手も打っていないわけではない。因果の向きをできるだけ正確に特定するために、我々の論文では、宗教改革後にプロテスタンティズムが(マルティン・ルターが活躍した町である)ヴィッテンベルクを中心として同心円状に広がっていったという歴史的な事実に目をつけている。それぞれの郡とヴィッテンベルク間の距離を操作変数として用いることで、因果の向きをできるだけ正確に特定しようと試みたのである。
宗教改革の波は、ヴィッテンベルクを中心として同心円状に広がっていったわけだが、その事実を反映して、ヴィッテンベルクに(距離的に)近い郡ほどプロテスタント教徒が住民全体に占める割合は高くなっている。さらには、ヴィッテンベルクに近い郡ほど、自殺率も高くなっている(図1を参照)。図2をご覧いただきたいが、プロテスタント教徒が占める割合が高い郡ほど、自殺率も高いというはっきりとした傾向が確認できる。住民すべてがプロテスタント教徒である郡の自殺率の平均をとると、住民すべてがカトリック教徒である郡のそれを大幅に上回っている。宗派ごとの自殺率の違いは量的に見てかなりのものである。プロテスタント教徒の自殺率(年平均値)は、人口10万人あたり18人となっており、カトリック教徒の自殺率のおよそ3倍も高い数値となっているのだ。
図1 プロイセンにおける郡ごとの自殺率の分布(1869年~1871年までの期間における自殺率(人口10万人あたりの自殺者数)の年平均値)
出典:Becker and Woessmann (2011)
図2 プロテスタンティズムと自殺率との関係(1871年時点での郡ごとのプロテスタント教徒の割合と1869年~1871年までの期間における自殺率の年平均値)
出典:Becker and Woessmann (2011)
以上のような結果は、郡ごとの経済発展の度合いの違いや識字率の違い、天候条件の違い、メンタル面の健康に問題を抱えている住民の割合の違い等々といった要因を考慮しても、揺るがずに成り立つことが見出されている。過小報告の可能性〔訳注;実際は自殺で命を失っているにもかかわらず、死因が(例えば事故死と)偽って報告される可能性〕や特定の宗派の集中度(それぞれの郡で異なる教徒がどれだけ混在しているか)の違いが持つ効果、生態学的誤謬の可能性を考慮しても、どうやら結果は左右されないようである。さらには、1816年のデータでも同様の検証を試してみたが、やはり同様の結果が得られている。
プロテスタンティズムがプロテスタント教徒の福利に及ぼす多様な効果
今回新たに判明した結果によると、プロテスタンティズムは(自殺率を高める可能性があるという意味で)好ましくない効果を持つ可能性があるわけだが、その一方で、プロテスタンティズムには好ましい効果が備わっている可能性もある。我々二人のかつての共著論文(Becker and Woessmann 2009)で示されているように、プロテスタンティズムは、人的資本の蓄積を促すことで、大多数の教徒(プロテスタント教徒)の収入を増やす(生活水準を高める)効果を持っている可能性があるのだ。その一方で、今回新たに判明した結果によると、プロテスタンティズムは、不幸極まりない境遇に置かれた一部の教徒(プロテスタント教徒)の自殺傾向を高める可能性を持っているわけだ〔訳注;プロテスタンティズムは、(今後も生き続けることで得られる(と期待される)効用を低下させる効果を持つという意味で)人を不幸にするという意味ではないことに注意されたい。何らかの原因(失業や失恋、親しい人との死別等々)で、今後も生き続けることで得られる(と期待される)効用が大幅に低下した場合に、プロテスタント教徒はカトリック教徒に比べると自殺を選ぶ可能性が高いという意味である〕。プロテスタンティズムに備わるこのような相反する二つの側面は、ひょっとすると、いわゆる「ダークコントラスト・パラドックス」(“dark-contrasts paradox”)――幸福度が高いにもかかわらず自殺率も高い地域が数多く見られることはよく知られているが、そのような逆説的な現象の背後には、他者との比較を通じて自らの境遇を判断する人間の特性が潜んでいる可能性がある(Daly et al 2011)――とも関係してくるかもしれない。ともあれ、宗教は、生と死のどちらの面でも重要な役割を果たしていることだけは明らかだと言ってよいだろう。
<参考文献>
●Becker, Gary S, and Richard A Posner (2004), “Suicide: An economic approach“(pdf), Mimeo, University of Chicago.
●Becker, Sascha O, and Ludger Woessmann (2009), “Was Weber wrong? A human capital theory of Protestant economic history“, Quarterly Journal of Economics, 124(2): 531-596.
●Becker, Sascha O, and Ludger Woessmann (2011), “Knocking on Heaven’s Door? Protestantism and Suicide”, CEPR Discussion Paper 8448, Centre for Economic Policy Research.
●Daly, Mary C, Andrew J Oswald, Daniel J Wilson, and Stephen Wu (2011), “Dark contrasts: The paradox of high rates of suicide in happy places“, Journal of Economic Behavior and Organization, 80(3): 435-442.
●Durkheim, Émile (1897), Le suicide: étude de sociologie, Félix Alcan (Suicide: A study in sociology, translated by John A Spaulding and George Simpson, Glencoe, The Free Press, 1951)(宮島 喬(訳)『自殺論』).
●Hamermesh, Daniel S, and Neal M Soss (1974), “An economic theory of suicide“, Journal of Political Economy, 82(1): 83-98.
●Pope, Whitney, and Nick Danigelis (1981), “Sociology’s “one law”“, Social Forces, 60(2): 495-516.
●World Health Organization (2008), Preventing suicide: A resource for media professionals, World Health Organization and International Association for Suicide Prevention.
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