Mark Pennington, “‘The Left’ and Public Choice Theory”(Pileus, January 30, 2012)
政治的に見て「左翼」('the left')の人々が「公共選択論」(public choice theory)に対して示す反応には様々なものがあり得るだろう。
まず第1のタイプの反応は「無知」(ignorance)-公共選択論という理論的な立場が存在すること自体を知らない-に基づくものである。私が学者としてのキャリアを歩み始めたばかりの頃のことだが、ある講義を終えた後に次のような経験をしたことがある。その講義では1時間にわたって「規制の虜」理論-規制当局が規制対象である企業によって「捕われる」(‘capture’ )(訳注;規制政策の内容が(時に消費者側(ないしは社会全体)の利益に反して)企業側の利益促進につながるようなかたちをとる)現象に関する理論的な説明-について語ったのだが、講義終了後に講義を聴講していたとある学生-社会主義労働者党(Socialist Workers Party)の活動に積極的に関与していた学生-から次のような質問を受けたのであった。 「先生はいつマルキストになられたのでしょうか?」、と。ラディカルな「反マルキスト」を自任している身としてはこの学生の質問に正直面食らったわけだが、この学生の反応はアカデミックな世界(サークル)に蔓延っているある態度、すなわち、企業側(business)に有利に働くような(企業側の利益を促進するような)権力関係の所在に関心を示す人物は左翼的な立場あるいは社会主義的な立場に対してシンパシーを抱いているに違いない、と当然視する態度を例証していると言えるだろう。この種の(=「無知」タイプの)反応を見せる左翼の人々には、古典的自由主義(classical liberal)あるいは自由市場を支持する立場に基づきながらも企業側に有利に働く権力関係の理解(あるいは説明)を可能とするような理論的な立ち位置-公共選択論もそのような立場の一つだが-もあり得るとは思いも付かないのであろう。
第2のタイプの反応は「忌避」(‘avoidance’)というかたちをとる。左翼の中には、公共選択論の議論内容については気付いていながらも、自らが最も重要であると考えるアイデアに対して公共選択論が直接的な脅威となると感じるがために、「忌避」という反応を見せる人がいる。私が思うに、彼ら(左翼の中のある人々)が公共選択論を脅威と感じる理由の一部は、ネオマルキスト的な立場よりも公共選択論の方が現実の「権力関係」(‘power relations’)に対してより妥当な説明を提供しているからであろう。公共選択論は、権力に関するナイーブな多元主義的な(pluralist)見解-各利益集団の間に均等に権力が分配されているかのように見なす見解-を拒否した上で、エリートの権力に関する非マルキスト的な説明を提示する。公共選択論では、 政治の場における主要な行動単位(権力を有するプレイヤー)として「資本家」や「労働者」といった大ざっぱな「階級」を想定するのではなく、その代わりに、集団が結束する上で(訳注;集団を構成する個々のメンバーが集団全体の利益の促進に向けて一致団結する上で)-そして、集団が(結束することを通じて)他者(あるいは他の集団)に対して権力を行使する能力を決定づける上で-(集団を構成する)個々のメンバーが直面するインセンティブがどのような影響を及ぼすかという点に注目を寄せる。企業側が政治の場で大きな権力を持ち得るというのは確かである。しかし、その理由は、「企業だから」とか「我々が現に生きているのが資本主義社会だから」というわけではない。企業側が政治の場で大きな権力を持ち得るのは特に大規模なプレイヤーの数が相対的に少ない分野(訳注;例えば、同産業内における企業の数が少ない場合)においてであって、その理由は、政治的な権力の獲得に向けて結集することが困難な納税者や消費者といった集団に比べて企業側の方が容易に(企業間における)集合行為の問題(collective action problem)ないしはただ乗りの問題(free-rider problem)を克服し得るからである(訳注;ある集団が結束する上で障害の一つとなるのが集合行為の問題ないしはただ乗りの問題。それゆえ、集合行為の問題を比較的容易に克服し得るということは、集団として結束し易くて政治的な場でより大きな権力を持つ可能性が高いことを意味する。)。その一方で、プレイヤーの規模が小さくまたその数が多い分野(訳注;例えば、数多くの小規模な企業が激しい競争を繰り広げている産業)においては、企業側はしばしば政治的な発言力を欠き、労働組合や政府部門において独占的な地位を有する官僚といった集団の方が企業側よりも大きな権力を有する場合もあるのである。公共選択論の立場からすれば、「企業」(あるいは「資本家」)とか「労働者」とかいった括りなどには意味はなく、政治的な成功を収める「企業」(あるいは「資本家」)や「労働者」もいれば、そうではない「企業」(あるいは「資本家」)や「労働者」も存在するのである-どの「企業」(あるいは「資本家」)や「労働者」が政治的に成功するかは、集団を構成する個々のメンバーが直面する(それぞれのケースに特有な)インセンティブや組織上の問題に依存する-。現実の民主主義的な政治の場では多様な特殊利益が政治的な権力を得ている様子が観察されるが、この現実を説明する上では「階級支配」(‘class rule’)といった単純な理論よりも公共選択論の方が説得的であると言えよう。
左翼の多くの人々が公共選択論を脅威と感じるさらなる理由は、特殊利益が有する政治権力の問題をどうやって解決するかという点と関係していると思われる。市場に対する政府の介入がしばしば企業側の特殊利益によって「捕われる」(caputured)ことがあるとすれば-左翼の多くの人々はそう考えているようであるが-、市場に介入する政府の裁量的な権限を一層拡大しようと試みる社会民主主義的な(social democratic)取り組みが一体どういった次第で特殊利益の力を削ぐことにつながるのだろうか?(訳注;社会民主主義的な取り組みを進めることで市場に対する政府介入が一層増すことになれば、それにあわせてますます特殊利益が政治の場で大きな発言力を持つ可能性があるのではないだろうか? 社会民主主義的な取り組みを進めることと政治の場において特殊利益の影響力を排除することとの間には齟齬が生じる可能性があるのではないか? といった意味が込められているものと思われる。) おそらくマルキストは、「「権力関係」の問題を解決するためには、私有財産を廃止するとともにすべての意思決定権力を何らかの公共団体(public body)に一手に集中(独占)させるしかない」と主張することだろう-私にはあまり説得的とは思えない主張だが-。一方で、公共選択論の立場からすると、特殊利益が有する政治的な権力の主要な源泉が現代の社会民主主義的な政府にあるのだとすれば、特殊利益の力を削ぐ上で最も有効な手段は政府による反競争的な市場介入措置を取り除くことだ、ということになるだろう。この公共選択論的な解決策は、一切の不平等が存在しない平等なファンタジーの世界の実現を求めるものではない。公共選択論的な解決策が求めるのは、個々人の優れた成果や起業家的な創意工夫を通じて生じる不平等は歓迎するものの、政治的なコネのある資本家や労働組合のトップ、官僚らがその政治的な権力を通じて手にする不平等を最小限に抑えるような「制約された政府」(limited government)の枠組みである。
公共選択論に対して時に左翼の人々が見せる第3のタイプの反応は「否定」(denial)というかたちをとる。左翼の中には、「政治というのは、企業や労働組合、官僚といったプレイヤーが社会全体の犠牲と引き換えに自らの利益の促進を目指して政府を利用しようと相争うゲームである」といった議論に接すると、「政治というのはそのようなものではない」、と否定する人がいる。彼らによれば、政治は(「利益」ではなく)「価値(あるいは、アイデアや理念)」(‘values’ )によって突き動かされるものであって、公共選択論を専門とする経済学者らはこの点(政治の場において「価値」が果たす役割)を考慮していない、と言うのである。私は個人的には左翼によるこの反論に大いにシンパシーを感じるものである。というのも、既存の公共政策のいずれもが特殊利益を反映したものであると考える-「右派的なマルキスト」(‘right-wing Marxism’)の一派はそうだと主張するかもしれないが-のはあまりにも単純過ぎると思われるからである。しかしながら、公共選択論に対して上述したようなかたちで「否定」の反応を見せる左翼の人々は一つの問題を抱えることになる。政治の場における「価値」の役割を強調するのであれば、左翼の人々はこれまでに新たな支持者(同調者)を獲得するための戦術としてしばしば利用してきた陰謀論めいた議論の多くを投げ捨てなければならなくなるのである。 中央銀行が金融緩和を推し進め、金融規制当局が貸付基準の緩和を容認してきたのは、中央銀行や金融規制当局が民間のバンカーに「捕われた」ためではなく、中央銀行や金融規制当局自身がそのように行動することが「正しい」と考えたためなのだろうか? もし政治が価値やアイデアによって突き動かされるのだとすれば、「政府の失敗」の原因として、「トップ1%」(所得上位1%)による地位を悪用した振る舞いに目を向けるのではなく、(ケインズ主義やマネタリズムといった)「誤った理論」(‘mistaken theories’ )の持つ力に対してこそ目を向ける必要がある、ということになろう。
まとめよう。公共選択論は「左翼」に対していくつかの困難な問題を投げ掛けることになる。もし「政治は「利益」によって突き動かされるものである」という立場をとるのであれば、特殊利益がいかにして政治的な権力を追求・獲得するのか、特殊利益が社会にもたらす脅威を最小化するためにはどうしたらよいか、といった話題を考える上で、公共選択論は左翼よりも妥当な説明を提示することができる。一方で、もし「政治においては利益よりも「アイデア」の方が重要である」という立場をとるのであれば、左翼はこれまでに新たな支持者を獲得する上で最も重要な戦術(話術)の一つであった「やつらvs.我ら(敵vs.味方)」(‘them versus us’ )といったレトリックに頼ることをあきらめねばならなくなるのである。
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