2010年4月30日金曜日

Alberto Alesina and Richard Holden 「選挙における曖昧さと過激さ」


Alberto Alesina and Richard Holden,〝Why do candidates move along the political spectrum?”(September 22, 2008)

理論的な観点からすると、大統領候補者たちは、選挙に勝つつもりであるならば中位投票者を説得しようと試みるはずであり、その試みの過程においては、選挙民に向かって自らの政策方針(platforms)を明瞭な言葉で語るはずである。しかしながら、現実の候補者たちは、しばしば曖昧な言葉で語り、政治的スペクトル上の中心に向かって(=中位投票者の選好に沿うように)自らの政策方針を調整している様子はない。我々は、最近の研究において、いかにして金権政治(money-politics)が候補者たちの関心を政治的スペクトル上の中心(中位投票者)から逸らせることになり、また、候補者たちの政策方針における曖昧さを助長することになるか、を議論している。


政治学(political science)の世界でもっともよく知られている結論によると(Downs 1957)、2人の候補者が選挙レースを争うケースでは、ヨリ多くの票を獲得して選挙に勝利することを目指す2人の候補者は、互いにその政策方針を政治的スペクトル上の中心に向かって調整することになるはずである。もっと正確に表現すると、2人の候補者はともに中位投票者(median voter)が選好するような政策を提言することになるはずである。中位投票者の選好に沿う政策を提言することが選挙に勝利するための最善の戦略であるということになれば、2人の候補者はともに選挙民に対して今まさに語りかけようとする話の内容(=中位投票者の選好に沿う政策)が可能な限り明瞭に伝わるように心掛けるはずであり、政策方針の中身に関するちょっとした不確実性であってもそれを取り除こうと試みるはずである。

現実の選挙はどうもこの理論的な予測からはかけ離れているようである。現実の2政党間の選挙の多くでは、候補者たちが掲げる政策方針は大きな対立を見せており、しばしば政治的スペクトル上における政治的中道の位置にスッポリと大きな穴が開いている(=政治的中道の立場に立つ候補者がほとんどいない)ことも珍しくない。この点については現在のアメリカがいい例であろう。共和、民主両党の大統領候補者は、外交から中絶、ヘルスケア、税金の問題にわたるまであれもこれも(他にも両者が大きく対立する争点があるようなら先のリストに付け加えていってください)に関して意見を異にしている。過去2回の米大統領選挙における両候補者間の意見の食い違いといったら、それはそれはもう激しいものだった。ここ最近フランスやイタリア、スペインで実施された選挙でも、相対する2つの政党グループが提示した政策方針の中身は大きく異なっていた。

候補者たちは自らの政策方針を曖昧さを排除した明瞭なかたちで選挙民に対して表明するはずである、という理論的な予測もまた現実政治の世界とは大きくかけ離れている。政治家は、選挙期間中において、自らの立場を明確に表明することを避けようとしてどっちつかずの言葉で語るものだ、と相場が決まっているものである。現実の政治家が見せる曖昧さ(ambiguity)は主に2つの形態をとる。第1のタイプの曖昧さは、文字通りに、自らの政策方針を曖昧、不明瞭(vague)なままにしておくことであり、もう1つのタイプの曖昧さは、語りかける聴衆に応じて話す内容(メッセージ)に修正を加える、というかたちをとる。

さて、どうすれば2政党間の選挙競争に関する古典的なダウンズモデルの予測と現実政治とのかい離を埋めることができるであろうか? 我々は、最近の論文において (Alesina and Holden 2008)、政党の政策形成に対して逆の方向に作用する2つの力(force)の存在を指摘し、その2つの力の働きに関して分析を加えている。第1の力は、ダウンズモデルでも想定されている通常の力であり、この力が作用する結果として両政党の政策方針は政治的スペクトラム上の中心に向かって収斂することになる(その結果として互いの政策方針の内容も似通ったものとなる)―左翼の候補者(政党)が、左翼的な選挙民の支持に加えて、ヨリ穏健な立場の(政治的中道よりの)選挙民からも支持を勝ち得ようとする結果として、彼らの政策方針は政治的スペクトル上の中心に向かって調整されていくことになる(右翼の候補者(政党)に関しても同様の議論が成り立つ)―。しかしながら、政党間の政策方針を政治的スペクトル上の正反対の方向に引き離すように作用するもう一つの力が存在する。この力は、選挙キャンペーンへの貢献(campaign contributions)―「選挙キャンペーンへの貢献」は、大まかには、政治家(政党)に対する金銭(政治献金や賄賂等)の供与、ロビイストをはじめとした政治活動家(activists)が選挙運動に投下する時間、労働組合によるストライキetcから成っている―を通じてその効果を表すことになる。

(上で定義したような広い意味での)選挙キャンペーンへの貢献は、選挙における過激さを増す方向、つまりは、両政党間の政策方針を政治的スペクトル上の中心からかい離させる方向に(それも正反対の方向に)作用する結果になりがちである。選挙キャンペーンへの貢献は、有権者全体のムードを自身にとって都合のよい方向に(右翼的な政党にとっては保守的な方向に、左翼的な政党にとってはリベラルな方向に)変える働きをするかもしれない。例えば、保守的な運動グループからの政治献金のおかげで、TVでヨリ長く(右翼的な政党の)選挙CMを流すことが可能となり、その結果として(選挙キャンペーンへの貢献にはそれほど積極的ではない=投票以外の方法で政治に関与することにはそれほど熱心ではない)有権者の中の中道的な人々が保守的な(右翼的な)方向に傾くことになるかもしれない。あるいは、左翼的な政治活動家が多くの時間を選挙運動に費やす結果として、左翼的な政党が政治的に重要な地区で勝利を収めることができるかもしれない。そういうわけで、例えば右翼的な政党から立候補する候補者は、2つの相反する力のバランスを取らなければならないことになる。政治的スペクトル上を右方向に動くことで、彼あるいは彼女は、保守層からヨリ多くの票を得ることができ、さらには(選挙キャンペーンへの貢献の効果を通じて)中位投票者を右方向に傾かせることができるかもしれない。一方で、政治的スペクトル上の中心に向かって動くことで、彼あるいは彼女は、(保守的な人々からの)選挙キャンペーンへの貢献を失うことになるが、政治的スペクトル上においてそこまで右の方向にはいないかもしれない中位投票者に向かって近付いていくことになる。これら相反する2つの力のバランスを取ろうとする結果、この右翼的な候補者が掲げる政策方針は必ずしも政治的スペクトル上の中心に向かって調整されることはないかもしれない。同様の理屈は左翼的な政党から立候補する候補者に対しても妥当するので、最終的には両政党間の選挙競争は分裂的な均衡(polarised equilibrium)に落ち着くことになる(訳者注;両政党が掲げる政策方針が政治的スペクトル上の中心に向かって収斂するのではなく、両政党ともに政治的スペクトル上の異なる位置に(右翼的な政党は政治的スペクトル上の中心からやや右寄りに、左翼的な政党は政治的スペクトル上の中心からやや左寄りに)留まったままに互いの政策方針が対立的な内容を含むことになる)かもしれない。

相反する2つの力のバランスを取ろうとする候補者の努力は、政策方針における曖昧さを生むことにもなるかもしれない。ある意味、候補者たちはケーキを持ちつつ同時に食べたい(=矛盾することを同時に達成したい)と考えることだろう(the candidates would like to have their cake and eat it too)。候補者たちは、明確に自身の政策方針を語るよりは、幅を持った緩やかな政策(a range of policies)を語ることになるしれない。選挙キャンペーンへの貢献者(訳者注;上で触れたように、金銭、時間、ストライキ等の実力行使を通じて政党に働き掛ける人々)は、候補者が当選した暁には、候補者が彼ら(=選挙キャンペーンへの貢献者)の最も支持するような政策(例えば、幅を持った政策の中でも最も極端な政策)を実行してくれることを望むだろう。 一方で、中位投票者は、その反対(幅を持った政策の中でも最も緩やかな(イデオロギー的に見て最も中立的な)政策の実行)を望むことだろう。このようなかたちで政策方針を曖昧に保つことで(=政策に幅を持たせることで)、候補者は、(中位投票者の選好を反映した政策方針を明確に表明する場合と比べて)選挙キャンペーンへの候補者からヨリ多くの票を獲得することが可能となると同時に、(選挙キャンペーンへの貢献者たちを満足させるような政策方針を明確に表明する場合と比べて)中位投票者からの票の流出をヨリ少なめに抑えることができる、つまりは自らの政策方針を明確に語る場合よりもヨリ多くの票を獲得することができるかもしれないのである。選挙キャンペーンへの貢献者と一般の投票者とは、候補者が曖昧さを欲するインセンティブを有していることに気付くこともあるだろうが、候補者が有権者に対して自分自身の真の選好を隠すことができる限りは、均衡においては(選挙キャンペーンへの貢献者と一般の投票者がともに、完全に合理的であり、かつ、リスク回避的である、と仮定した場合においても)、候補者にとって政策方針を曖昧に保ち続けることが望ましい戦略となり得るのである。

以上の議論は、2政党間の選挙であればどのようなケースに対しても妥当するものである。アメリカの大統領選挙のケースでは、両政党の候補者間における政策方針の曖昧さを助長する追加的な力として、予備選挙(primaries)の存在を指摘することができる。どの候補者(党の公認を巡って争う同党内の大統領立候補者)も彼あるいは彼女の政策スタンスに関するオプション価値(option value)を維持しようと欲している。政策スタンスを曖昧なままにしておけば、(同党内の)誰が対立候補として立候補するかに応じて自らの立ち位置を調整することができるからである。それゆえ、対立候補が誰になるのか、そして対立候補がどのような政策スタンスをとることになるのか、という点に関して不確実性が存在するとなれば、政策方針における曖昧さは一層助長される結果となる。(予備選挙の後に来る)大統領選挙の一般選挙において(共和、民主)両党の公認候補の間で働く曖昧さを志向するインセンティブの存在を考えれば、予備選挙での対立候補が誰であるかが具体的に判明しても対立候補である彼あるいは彼女の政策スタンスは(訳者注;(同党内の)対立候補は、次に来る一般選挙を見据えて政策方針を曖昧に保つことになるであろうから)完全には明らかにはならないだろう(訳者注;それゆえ、この前の文章にあるように、対立候補がどのような政策スタンスをとることになるのかに関して不確実性が存在することになり、どの候補者も(対立候補が政策スタンスを明らかにしないために)対立候補の政策スタンスに応じて自らの立ち位置を明らかにすることができない=誰一人として自らの政策スタンスを明らかにしない、という状況が生じることになる)。それゆえ、予備選挙において自らの政策方針を曖昧さを排除した明確なかたちで語ることは、キツキツの拘束衣をまとうことを意味することになるかもしれない(訳者注;予備選挙で自らの政策方針を明確に語ること=自らキツキツの拘束衣をまとうこと、であり、そのようなことを自ら進んで行う人は誰もいない、ということを意味しているのだろう)。一方で、リスク回避的な投票者は、予備選挙におけるあまりにも行き過ぎた曖昧さを嫌うことになるであろう。予備選挙における曖昧さの程度は、これら相反する2つの力(リスク回避的な投票者による曖昧さを忌避する力と予備選挙において(同党内の)対立候補の間で働く曖昧さを維持しようとする力)のバランスによって決定されることになる。アメリカの大統領選挙においては、予備選挙における曖昧さを志向するインセンティブが、2政党間の選挙であればどのようなケースにおいても見られる曖昧さを志向するインセンティブに付け加わることになるのである。

熾烈な予備選挙が争われるケースでは、曖昧さは時に滑稽なかたちをとってあらわれることがある。例えば、つい最近の共和党予備選挙で、J.マケイン(John McCain)は対立候補であるM.ロムニー(Mitt Romney)に対して次のように迫った。「あなたは中絶問題に関して7年ごとに立場を変えてらっしゃるようですが、一体どういうわけでしょう?」。マケインのこの突っ込みに対してロムニーは次のように答えたのであった。「私が立場を変更した背景には、クロ-ン(cloning)研究における新発見があるんです」(← ロムニーの返答をそっくりそのまま再現しています。こちらでは一切手を加えておりません)。


<参考文献>

〇Alesina and R. Holden (2008) “Ambiguity and Extremism in Elections”, NBER Working Paper.
〇Downs, Anthony (1957). An Economic Theory of Democracy, Harper and Row, New York, NY.

2010年4月27日火曜日

Esther Duflo 「多すぎるバンカー?」(2008年10月8日)

Esther Duflo, "Too many bankers? ″ (VOX, October 8, 2008)

金融部門は、過去20年間にわたり、相対的に高額な給与の支払いを通じて多くの――おそらくは、あまりにも多すぎる――有能な人材を引きつけてきた。今般の金融危機は、才能の配分(allocation of talent)を改善する効果を持つかもしれない。すなわち、有能な人材の創造的なエネルギーがこれまでよりも社会的に有益なかたちで利用されるようになるかもしれないのだ。

金融危機の混乱から金融部門を救い出すための緊急救済策が講じられる過程で、金融部門における給与水準の驚くほどの高さに注目が寄せられることになった。ニコラス・クリストフ(Nicholas Kristof)がニューヨーク・タイムズ紙のコラムで詳しく報じているが、リーマン・ブラザーズ――今般の金融危機の渦中で最初に(9月)倒産することになった銀行――のCEOが受け取っていた給与は、2007年の1年間だと4500万ドル、1993年から2007年までの総額だとおよそ5億ドルにも上るという。

しかしながら、リーマン・ブラザーズのCEOのケースは例外というわけではない。Thomas Piketty&Emmanuel Saezの二人によるパネルデータ分析によると、アメリカにおける所得上位1%の超富裕層の取り分は1980年代以降コンスタントに高まっているが、金融部門で働く「ゴールデンボーイ」が受け取る所得の上昇ペースは他の富裕層のそれを大きく上回っているのである。Thomas Philippon&Ariell Reshefによる最近の研究で(注1)、1980年の時点では、金融部門で働くバンカーが受け取っていた給与は他の部門で働く同程度の能力の持ち主とほぼ同水準だったが、1980年代に入って両者が受け取る給与水準に開きが出始め、その後はその差が広がる一方であることが明らかにされている。2000年時点だと、金融部門における給与水準は、それ以外の部門における給与水準を60%も上回っているのである。その一因としては、金融部門において高度なスキルを備えたバンカーの数が増えたのに加えて、失業するリスクが高まったことが挙げられるが、あくまでも一因でしかない。Plippon&Reshef の計算によると、金融部門で働くバンカーが受け取っている給与水準は、先の二つの要因――①高度なスキルを備えたバンカーの数が増えたこと、②失業するリスクが高まったこと――を踏まえて導き出される水準を40%も上回っているのである。バンカーの給与がこれほどまでの高額に達したのは、1929年以来のことなのだ。

そういうわけで、金融安定化に関するポールソン案の是非を巡る議論の中で高額給与の問題が俎上にのぼるのは避けられなかった。ポールソン案では、金融機関の株式(市場では買い手がつかないであろう株式)を購入するために最大7000億ドルの公的資金枠が設けられる予定になっているが、1万7000ドルもの時給を受け取っているバンカーの尻拭いをするために自分の財布からお金を出さねばならない納税者にとっては何とも不公平な話に思えてしまうことだろう。最終的に、役員への「ゴールデンパラシュート(退職金)」にいくらか制約が課せられることにはなったものの、役員(政府が出資したファンドに株式を売却した銀行の役員)の報酬に制限を課す話はお流れになった。Thomas Piketty が先週のLiberation紙のコラムで指摘しているように、サラリーキャップ(給与水準に上限を課すこと)を出し抜くのは容易であることを考えると、ルーズベルト政権が実施したように、(給与水準に上限を課すよりも)高額所得への課税強化に乗り出す方が望ましいだろう。

バンカーの給与水準を(大幅に)引き下げるにしろ、給与への課税を(大幅に)強化するにしろ、モラルの観点からすれば――公平性の観点からしても――望ましい措置に違いないだろうが、多くの経済学者が主張しているように、その代価として経済効率が損なわれてしまう恐れ――金融部門で働く有能なバンカーの労働意欲を阻害し、金融技術面でのイノベーションを低迷させるリスク――はあるだろうか? その答えはおそらく「イエス」だろうが、そうなるのには好ましい面もあるのだ。

金融部門が大学出のエリートたちをそそのかす誘惑の強さは、Philippon&Reshefの推計が示唆しているよりもずっと大きい。“Harvard and Beyond” サーベイ――Claudia Goldin&Larry Katzの二人がハーバードの大学院生を対象に複数の世代にわたって実施した調査――によれば、大学での成績や入学時の偏差値、専攻、卒業年度etcにコントロールを加えた後でも、2006年時点で金融部門で働いていたハーバード大学の院卒生は、それ以外の部門で働いていた院卒生のほぼ3倍以上の(195%も高い)給与を得ていたという(注2)。才能ある若者にとって金融部門で働くことの誘惑はかくも大きいのであり、1969年~1972年に大学院を修了したハーバード大の男子の院卒生のうちで金融部門で職を得た学生は全体の5%に過ぎなかったが、1988年~1992年に大学院を修了したハーバード大の男子の院卒生になると、その数(金融部門で職を得た学生の割合)は15%にまで増えているのだ。1980年代に入って金融市場で大規模な規制緩和が進み、莫大な利潤を手にできる機会が広がるのに伴って、金融部門で働く人の数が増えるとともに、金融部門で働く上で求められる資格要件(学歴)が厳しくなっていった。Philippon&Resheff によると、金融部門で働くバンカーとそれ以外の部門で働く人々との間に見られる平均的な学歴差に匹敵する事例を過去から見つけるためには1929年にまで遡らなければならないとのことである。金融商品の複雑化に加えて、職務上求められるスキルの上昇を背景として、大学院生――おそらくは高い知性の持ち主――にとって金融部門の(就職先としての)魅力がいや増すことになったのである。

今回の危機が明け透けにしたことは、これらの有能な知性がそれほど生産的な方法では利用されていないということである。金融部門は、起業家と投資家とを結び付ける仲介役として欠かせない部門というのは確かである。しかし、金融部門は、金融に対する実体経済の必要性を満たすという役割からやや切り離されて、それ自体でほとんど独立(あるいは、自己完結)した部門として拡大を続けてきたように思える。Thomas Philippon の計算によると、金融部門がGDPに占める割合は2006年時点で8%に達しており、金融仲介機能を果たす上で必要なサイズよりも少なくとも2%は余分に規模が大きい可能性があるとのことである(注3)。なお厄介なことには、「不動産担保証券」(“mortgage backed securities”)に対する銀行の飽くなき需要が過剰な借入れと住宅バブルを招き、サブプライム危機の一因となったことである。ここ数日中の出来事を眺めていると、「金融部門のCEOたちを追い出せ」との声が日増しに強まっているようである。プラグマティックな観点からすると、金融部門で働くCEOの法外な報酬が抑制されることにでもなれば、若い世代の人々が金融部門以外の部門へと行き先(就職先)を変更することで、有能な若者の創造的なエネルギーがこれまでよりも社会的に有益なかたちで利用されるようになるかもしれない。金融危機は、経済を深刻で長期化する不況に引きずり込む可能性があるが、希望の光が見出せないこともない。金融危機は、「才能の配分」の改善につながる可能性を秘めてもいるのだ。ウォール街とヨーロッパで準備されている金融部門の救済パッケージが、最良にして最も聡明な若者たち(the best and brightest)に「金融部門は、依然として最善の選択肢(=就職先)だ」との判断に傾かせる結果に終わらないようにと願いたいところである。 


<注>

(注1) Thomas Philippon and Ariell Reshef(2007), “Skill Biased Financial Development: Education, Wages and Occupations in the U.S. Finance Sector”, NYU Stern Business School mimeograph, September 2007.
(注2) Claudia Goldin and Lawrence Katz(2008), “Transitions: Career and Family Life Cycles of the Educational Elite(pdf)”, American Economic Review 98:2, pp.263-269
(注3)Thomas Philippon, “Why Has the U.S. Financial Sector Grown so Much?(pdf)”, MIMEO, NYU Stern.

2010年4月19日月曜日

Ari Aisen and Dalibor Eterovic 「グローバル・インバランス;新興市場の新規参入?」


Ari Aisen and Dalibor Eterovic, “Global imbalances: Are emerging markets the new guest at the party?”(February 26, 2010)

多くの論者が今般の世界金融危機を引き起こした原因であると主張するグローバル・インバランスの今後は一体どうなるだろうか? 本論説で我々は、今後、経常収支黒字国・赤字国の双方においてともに黒字・赤字の規模が縮小する方向に調整が生じる可能性が高い一方で、これまではグローバル・インバランスを巡る議論を外から傍観するだけであった新興市場(emerging markets)が過剰な流動性を吸収し始める可能性がある、と主張する。


So-called global imbalances, or the persistence of current account deficit in the US and other high income countries matched by the surplus of others such as China, have been identified as one of the major causes of the current crisis (Bernanke 2009 among others). The presence of excess liquidity ended up inflating prices of financial assets to unsustainable levels in the US and other major economies as well as international commodity prices (Obstfeld and Rogoff 2009).

For the time being the collapse of international trade (Baldwin 2009) has helped to reduce the size of imbalances. Yet looking forward, the future trajectory of global imbalances is unclear. In a recent paper, Blanchard and Milesi-Ferretti (2009) argue that, while global imbalances have reduced, reducing them further would be beneficial to the world economy as the imbalance may threaten the sustainability of the recovery.

Two major questions remain unresolved:

  • First, does the reduction of global imbalances reflect a transitory or a more permanent shift?
  • Second, directly related to the first, which form will the economic and financial landscape take regarding global capital flows?

Regarding the first question, a number of observers, argue that the reduction in global imbalances is transitory. Baldwin and Taglioni (2009), in a column on this site, argue that the improvements in global imbalances are mainly the transitory side-effect of the large trade collapse recently experienced by the world economy, and once global growth resumes, global imbalances are likely to re-emerge as well. The IMF in its October 2009 World Economic Outlook, forecast a widening of the global imbalances towards 2014, albeit not as big as the immediate pre-crisis level. Its forecast of a reduction of the deficits in the countries with chronic deficit is not matched by a reduction of surpluses of countries with chronic surplus. The resulting gap is subsequently closed by an increase of errors and omissions (Figure 1).

Figure 1. Global imbalances as a share of World GDP


A three scenario analysis
We think the IMF forecast provides a useful framework to think about this problem. We suggest three alternative scenarios for the “absorption” of the forecast errors and omissions. This analysis was also explored in depth in chapter 1 of the most recent financial stability report at the Central Bank of Chile (2009).

Since balance of payments of all countries are required to sum zero on a global scale, the capital reflected in the errors and omissions account of the IMF forecast will eventually be shared by one or more countries.1 Three potential scenarios result; deficit countries increase their deficit, surplus countries reduce their surplus, or finally, another group of countries that so far, have not been the centre of the discussions around the global imbalances, becomes the recipient of the excess liquidity and start running increasing deficits. Naturally, combinations of these three scenarios are also possible. Figure 2 describes these three possible scenarios for the evolution of the global imbalances through a simple framework based on the path of private savings in three different groups of countries. (For simplicity, this framework assumes unchanged government savings and private and government investments. Different assumptions for the path of these variables can be easily incorporated but go beyond the scope of this note).

Figure 2. Global imbalances scenarios


Back to the past?
If the surplus countries do not adjust, one possibility is that the errors and omissions go to finance consumption of the deficit countries. This would signal a return to the old imbalances. The same kind of imbalances would probably lead to problems similar to those which led to the current crisis – only much faster, and probably deeper. The flow of cheap capital would stimulate consumption again, but deficit countries are already highly leveraged, so a shorter time would ensue before the new environment becomes unsustainable.

A healthy alternative?
China and other chronic surplus countries may adopt policies to stimulate higher domestic consumption and lower savings. This would keep global imbalances smaller as trade may not recover to levels as high as previously observed. World growth, however, is likely to be lower in this scenario as the total size of the chronic surplus countries’ economies is significantly smaller than the total size of the economies with chronic deficit. We believe that the possibility of the errors and omissions being reduced by the lower surplus of China is remote in the medium term. First, it may take time for China to move away from an export-oriented economy to one mostly based on domestic demand and second, the impact on its growth rate would be uncertain. Moreover, there are still other surplus countries like the oil-exporting ones. But due to their size, even if they adjust, it is unlikely to be enough to diminish errors and omission forecast in a significant way.

New people at the party?
A third possibility, neglected so far but, in our opinion, likely to gain traction, is that the errors and omissions go to a different group of countries; countries which have been ancillary to the action and outside the core discussion of global imbalances. This could result if the currencies in deficit countries appreciate, leading to less competitive exports and deteriorating their balance of payments. Capital flows to these countries may inflate assets prices and overheat their economies. Figure 3 shows that countries that received the larger capital inflows to portfolio equity investments during the third quarter of 2009 saw their equity markets increase by a larger margin. In the context of this scenario, several macroeconomic risks emerge for this group of countries and their governments, which would face difficult policy dilemmas so as to mitigate the negative effects on the economy.

Figure 3. Net asset inflows and stock market prices* (% variation in dollars, share of initial stock)


Policy implications for emerging market economies
In our third scenario, large and sustained capital inflows will test emerging markets’ ability to absorb foreign capital without distorting prices in their national economies. Beyond emerging countries, Australia, New Zealand, Canada and other economies may also face similar challenges from large capital inflows.

The exchange rate regime will be pivotal in shaping the policy implications faced by each economy. On one hand, economies with flexible exchange rate regimes are likely to see their currencies appreciate over time, creating problems of competitiveness for their export sector. Figure 4 shows that currencies of countries that received the larger capital inflows to portfolio equity investments during the third quarter of 2009 appreciate the most. Given the exports’ sector importance and political influence, governments of these countries may face pressures favouring foreign exchange intervention to reduce foreign exchange volatility. This intervention may take the form of direct purchases of foreign exchange in the market or indirect capital controls aiming to discourage capital inflows. Measures liberalising capital outflows may also be considered as a tool to mitigate exchange rate appreciation. On the other hand, economies with more rigid exchange rate regimes are likely to see their credit expand rapidly, creating risks of overheating the economy and increasing inflationary pressures.

Figure 4. Net asset inflows and nominal exchange rate against the dollar (% variation, share of initial stock)


Bottom line
Attributing a high probability to scenario 3, we believe that policy challenges in emerging economies will abound in the near future. Navigating through the different options will not be trivial and capital controls in several countries could re-emerge after years of ostracism as a policy instrument. Brazil and Taiwan are among economies which have recently taken the first steps in this direction.


<注>

(注1) Nonetheless, some errors and omissions are always expected to remain in place given institutional capacity problems of data collection in several countries, which may arise from, among others, under- and over-reporting of exports and imports and informal capital account transactions (capital flight).


<参考文献>

〇Baldwin, Richard (2009), The Great Trade Collapse: Causes, Consequences and Prospects, VoxEU.org Ebook, 27 November.
〇Baldwin, Richard and Daria Taglioni (2009), “The illusion of improving global imbalances”, VOX.org, 14 November 2009.
〇Bernanke, Ben S (2009), “Financial Reform to Address Systemic Risk”, Speech at the Council on Foreign Relations, Washington, DC, 10 March.
〇Blanchard, Olivier and Milesi-Ferretti, Gian M. (2009),“Global Imbalances: In Midstream?”, IMF Staff Position Note, December.
〇Central Bank of Chile (2009), “Financial Stability Report – December 2009”.
〇International Monetary Fund (2009), “World Economic Outlook”, October.
〇Obstfeld, Maurice and Kenneth Rogoff (2009), “Global Imbalances and The Financial Crisis: Products of Common Causes”, Paper prepared for the Federal Reserve Bank of San Francisco Asia Economic Policy Conference, Santa Barbara, CA, October 18-20.

Paola Giuliano and Antonio Spilimbergo 「経済危機の長期持続的な諸効果」

Paola Giuliano and Antonio Spilimbergo, “The long-lasting effects of the economic crisis”(VOX, September 25, 2009)
経済上の出来事(Economic events)は、長期にわたって持続する非経済的な諸効果を伴う可能性がある。本稿では、経済上の出来事だったり、その時々の経済状況だったりが、個々人の終生にわたる信念にいかなる影響を及ぼすかを調査した研究の成果を紹介する。不況の最中に成育した若者は、人生で成功できるかどうかは努力よりも運にかかっていると考える傾向にある。それだけではない。不況の最中に成育した若者は、政府による再分配政策を強く支持する傾向にある一方で、公的な制度に対してそれほど信頼を寄せない傾向にもあることが見出されている。現下の厳しい不況は、リスクを嫌うと同時に、政府による再分配を強く支持する新世代を育みつつあるのかもしれない

“経済学の世界に足を踏み入れるきっかけとなった理由は、2つあります。まず1つ目の理由は、『大恐慌世代』ということもあって、世界のあり方に並々ならぬ関心を持つようになったのです。当時の世の中で起きていた多くの問題の根本的な原因を探ると、そこには経済問題が横たわっていたのです。…”
 ― ジェームス・トービン(James Tobin), Conversations with Economists


大恐慌以来最も深刻な経済危機から脱して、回復へと向かいつつある兆しが見え始めている。それに伴って、世間の関心もこれまでとは違った先へと移り行こうとしている。危機への即時的な対応策から、危機に備わる長期的な効果へと、世間の関心がシフトし始めているのだ。

過去の経済危機は、経済の構造だけではなく、政治のあり方だったり、現実経済に対する経済学者の「ものの見方」だったりに対しても、さらには、世間一般の人々の心理や信念に対しても、しぶとい痕跡を残すに至っている。例えば、1930年代の大恐慌は、政府に対して「マクロ経済の安定化」という新たな役割を付与する契機となったばかりではなく、アメリカの政治の世界を数十年にわたって支配することになる新たな政治連合(political alliance)の形成を促すきっかけともなった。さらには、ケインズ革命とマクロ経済学の誕生を誘発することにもなったのである。

現下の経済危機が経済の構造に対して及ぼす長期持続的な効果の詳細を把握するには、まだしばらく時間がかかるだろうが、IMFのチーフエコノミストであるブランシャール(Olivier Blanchard)も語っているように、「今回の経済危機は、我々の経済システムに対して、深い傷を刻み付けることになった。供給と需要のどちらの側面に対しても、今後何年にもわたって影響を及ぼし続けるだろう傷を刻み付けたのだ」(Blanchard 2009)。現下の経済危機は、その置き土産として、「経済システムに対する深い傷」ばかりではなく、いくつかの新たな問いも提起している。これから先、経済学者が必死になって取り組まねばならないだろう問いだ。すなわち、過去2年の間に金融システムで急速な勢いで進んだディスインターメディエーション(financial disintermediation)は、一時的な現象に終わらずに、経済システムの永続的な特徴となるだろうか? 「信用なき」(“creditless” )景気回復(銀行融資を含む「信用」の拡大を伴わない景気回復)は可能だろうか? 政府は、規制に対するアプローチを見直すべきだろうか?


大不況と大傑作(Great recessions and great literature)

経済危機は、経済や政治の分野だけにとどまらず、世人の心理や態度に対しても(トラウマとなるほどに)衝撃的な効果(traumatic effect)を及ぼす。この点は、作家のスタインベックが『怒りの葡萄』(The Grapes of Wrath)や『ハツカネズミと人間』(Of Mice and Men)――どちらも、大恐慌の中頃に執筆されている――の中で、ありありと描き出しているところでもある。大恐慌という衝撃的な出来事は、世人の信念や態度に対して大きなインパクトを及ぼした。その結果として、アメリカの政治システムを長期にわたって下支えすることになる社会的な信念や社会的な態度が醸成されるに至ったのである。

翻って、現下の経済危機は、心理的・政治的な側面に対していかなる効果を及ぼすだろうか? ダストボウル(the Dust Bowl)が引き起こした苦痛をありありと描き出したスタインベックのように、サブプライムローンが引き起こした苦痛をありありと描き出した作家は今のところまだ登場していないが、現下の経済危機のような経済的なショックが世人の心理や行動に及ぼす効果について何らかの示唆を与えてくれそうな学術的な研究ならある。我々の最新の研究成果がそれだ。

総合社会調査(General Social Survey)を利用した最新の研究成果

我々の研究では、厳しい不況が個々人の広範にわたる信念や態度に対して及ぼす影響が調査対象となっている(Giuliano and Spilimbergo, 2009)。具体的には、総合社会調査(GSS:General Social Survey)――アメリカで、1972年以降ほぼ毎年のように実施されている意識調査――への回答データを利用して、経済的なショックがアメリカに暮らす異なる世代の人々の態度に及ぼした影響を分析している。成人期の初期の段階(early adulthood)で生じたマクロ経済的なショックと、GSSで自己申告された回答データとを突き合わせて、マクロ経済的なショックが世人(特に、若者)の態度にどのような影響を及ぼしたかを明らかにしようと試みたのである。

経済的なショックが個々人の信念に及ぼす効果を分析する上では、乗り越えるべき重要な課題が控えている。一人ひとりの人間は、生きていく中で色々な経験をするが、一人ひとりの人間が味わう経験のうちで経済的なショック以外の経験が個々人の信念に及ぼす効果をコントロールすることが大事になってくるのだ。特に、戦争だとか、文化の急激な変容だとかといった非経済的な要因は、異なる世代の人々に異なるかたちで影響を及ぼす可能性がある〔原注;Strauss and Howe (1991) は、アメリカの歴史上の主要な出来事は、異なる世代の入れ替わり(世代交代)によって説明できる、と主張している。彼らの主張によれば、アメリカの歴史は、4タイプの世代――理想主義(idealist)/反動的(reactive)/ シヴィック(civic)/ 適応的(adaptive)――が継起的に(順番に)入れ替わる事実によって説明できるという。彼らの言い分では、4タイプの世代の継起的な入れ替わりは、経済上の出来事からは独立して生じるとされている〕。例えば、大恐慌の最中に成人期を迎えた世代は、大恐慌からだけではなく、第2次世界大戦からも影響を受けている可能性があるのである。

経済的なショックの効果を、それ以外の国家的事件の効果から切り離す必要があるわけだが、そこで我々が目を付けたのが、アメリカでは地域ごとに経済成長の面で大きくパフォーマンスが異なるという事実である〔原注;アメリカは、大きく9つの地域に区分される〕。例えば、同じ年に、ニューイングランドは厳しい不況に見舞われているのに、それ以外の地域は順調な経済成長を経験している、ということがあり得るのだ。我々の研究によれば、アメリカ国内の特定の地域を襲った厳しい不況がその地域に暮らす若者の態度と信念を大きく変えたことが明らかになっている。不況は、世の中の人々――特に、18~25歳の若者――の認識(perception)を変えるのだ。不況を経験した若者は、政府による再分配を強く支持する傾向にある。それと同時に、人生で成功できるかどうかは、努力や勤勉よりも運にかかっている部分が大きいと考える傾向にあるのだ。

不況が世の人々の態度に及ぼす効果

我々の研究を通じて明らかになった事実のうち、以下の4点はあえて指摘しておきたいと思う。
  • 第1に、厳しい不況を経験することによって、態度(信念)に大きな影響が及ぶのは、18歳~24歳のいわゆる人格形成期(formative age)――社会心理学者によれば、社会的な信念(social beliefs)の大半が形成されるとされている時期――の若者である。人格形成期以降に厳しい不況を経験した場合は、不況が態度(信念)に及ぼす効果はそれほど強くないことが見出されている。
  • 第2に、不況が態度(信念)に及ぼす効果は長続きする。不況を経験したことで大きく変化した態度(信念)は、厳しい不況が終わった後も、長年にわたり変化したままにとどまっている。
  • 第3に、所得、教育水準、マイホームの所有の有無といった個別の属性も個人の態度(信念)に影響を及ぼし得るが、我々の研究では、そのような属性にコントロールを加えている。不況が個人の態度(信念)に及ぼす直接的な効果だけを取り出すためである。しかしながら、個別の属性は不況によって影響を受けるので、不況は、個別の属性への影響を介して、個人の態度(信念)に対して間接的にも効果を及ぼす可能性がある。間接的な効果(不況→個別の属性→態度・信念)も加味すると、不況が個人の態度(信念)に及ぼす効果は一層大きくなり得る。
  • 第4に、不況が態度(信念)に及ぼす効果の大きさは控え目に推定されている。というのも、我々が試みた検証では、地域レベルの経済的ショックだけが取り上げられており、国家レベルで生じる経済的ショックは暗黙のうちに無視されているからである。

Malmendier&Nagel (2009) は、金融取引に焦点を合わせて、国家規模で生じる経済的なショックが人々の態度(特に、リスクに対する態度)に及ぼす効果を分析している。彼らの研究によれば、過去に株式市場で高利回りを経験した世代は、リスク回避の程度が低く、株式投資に積極的であり、資産運用に乗り出す際には手持ちの流動資産の多くの割合を株式で保有する傾向にある、との結果が得られている。さらには、過去に高インフレを経験した世代は、債券(bond)の保有を避ける傾向にある、との結果も得られている。興味深いことに、株式の利回りやインフレに関わる過去の経験のうちでも若い頃の経験は、その後数十年にわたってその人のリスクに対する態度に影響を及ぼすことも見出されている。異なる世代の間で投資パターンに違いが見られる事実を説明する発見と言えよう。

人生において運が果たす重要性、あるいは、政府が果たすべき役割。そういったことに関して世の人々が抱く信念なり、政府による再分配政策への賛否なりが、経済面で重要な意味を持つのはどうしてなのだろうか? その理由は、今何が経験され、今どのような信念が抱かれているかによって、明日の(未来の)政治風土の方向性が形作られることになるからである。ひいては、明日の政策の中身が左右されることになるからである。例えば、Piketty (1995) によれば、人生において運が大きな役割を果たすと信じる人は、そのように信じない人に比べると、重めの税負担も許容する傾向にあることが示されている。さらには、Alesina&Angeletos (2005) および Benabou&Tirole (2006) によると、公平性(fairness)に関する信念――「公正世界仮説」を信じるか否か――の相互作用を通じて、「アメリカ的な」均衡――自由放任的な政策が実施されるとともに、「公正世界仮説」が幅広い層に共有されている状態――に向かう場合もあれば、「ヨーロッパ的な」均衡――社会福祉政策が実施されるとともに、「公正世界仮説」に懐疑的な見方が支配的な状態――に向かう場合もあり得ることが示されている。

「大きな政府」を支持する新世代?

リスクを嫌い、株式投資には消極的。政府の介入に肯定的で、政府による再分配を強く支持し、重い税負担も受け入れる。かような特徴を備えた新世代が、現下の厳しい不況に揉まれる中で育まれつつあるのかもしれない。

アメリカの歴史を振り返ると、大規模な政界再編(political realignments)は、しばしば、経済上の衝撃的な事件と時を同じくして起こっている――経済上の衝撃的な事件が、世間の態度を変化させることを通じて、政治風土を変える可能性については、昔からよく知られていた。しかし、そのことを裏付ける明確な証拠が欠けていたのだ――。経済危機に見舞われている時期というのは、将来に対して重要な意味合いを備えている「選択の時」でもあるのだ〔原注;crisis(危機)という英語は、古代ギリシア語のκρίσις (krisis) に由来している。興味深いことに、κρίσις には、「決定(decision)、選択(choice)、選挙(election)、判断(judgment)、討論(dispute)」という意味がある〕。その時々の経済状況が世人の信念や態度に対して及ぼす影響を明らかにしようと試みる首尾一貫した研究成果が続々と報告されている。しかし、世の政治家たちは、新たな時代精神(zeitgeist)の誕生をただただ歓迎するばかりで、その背後にある経緯を解きほぐそうと試みる研究成果には見向きもしないでいる。


<参考文献>

〇Alesina, Alberto, and George-Marios Angeletos (2005), “Fairness and Redistribution: US vs. Europe(pdf)”, American Economic Review, Vol. 95 (September), pp. 913–35.
〇Benabou, Roland, and Jean Tirole (2006), “Belief in a Just World and Redistributive Politics” (ワーキングペーパー版はこちら), Quarterly Journal of Economics, Vol. 121 (May), No. 2, pp. 699–746.
〇Blanchard, Olivier (2009). “Sustaining a Global Recovery”, Finance & Development, September.
〇Giuliano, Paola, and Antonio Spilimbergo (2009), “Growing Up in a Recession: Beliefs and the Macroeconomy(pdf)”, CEPR Discussion Paper 7399
〇Malmandier, Ulrike, and Stefan Nagel (2009), “Depression Babies: Do Macroeconomic Experiences Affect Risk-Taking?(pdf)” mimeo.
〇Piketty, Thomas (1995), “Social Mobility and Redistributive Politics(pdf)”, Quarterly Journal of Economics, Vol. 110, No. 3, pp. 551–84.
〇Strauss, William, and Neil Howe (1991), Generations: The History of America's Future, 1584-2069. Harper Perennial.

2010年4月12日月曜日

岡田靖 「小幅で頑固な日本のデフレーションは問題か?」


訳すのはVOXの記事だけと決めていましたが、本エントリーに関してだけは例外です。
日本経済のデフレ脱却に向けて、これまで長きにわたり並々ならぬご尽力をなさってこられた岡田靖先生が一昨晩(2010年4月10日土曜日)にお亡くなりになられました。残念ながら先生とは直接お会いする機会を持つことはできませんでしたが、論文等を通じて多大な学恩を授けていただきました。その学恩に対するささやかながらの報いにでもなればと思い、ここに先生の論文を訳させていただきます。岡田先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

Yasushi Okada, “Is the Persistence of Japan’s Low Rate of Deflation a Problem?”(PDF)

要約
本論文は大きく2つのパートから構成される。まず第1のパートにおいて、なぜ日本経済において持続するデフレーションが小幅(マイルド)であるのかを論ずる。デフレーションが、①小幅(マイルド)であり、かつ、②長らく持続している(頑固である)、というこの2つの事実の組み合わせは、日本経済が過去10年間において経験したデフレーションの最も顕著な特徴である。本論文において我々は、このような2つの事実によって特徴づけられる日本のデフレーションは、あるインフレ定常均衡(inflationary steady state equilibrium)から別のインフレ定常均衡に至る移行過程(transition process)として解釈できることを示すであろう。第2のパートでは、名目賃金の硬直性が存在する状況においては、小幅で弱々しいマイルドなデフレーションが企業収益の大きな圧迫(減少)につながることが示される。こうして生じた企業収益の圧迫の結果として、日本経済における長期にわたる不況が生み出されることになったのである。


第1部.日本のデフレーションに対する一つの単純な解釈

日本銀行による目標インフレ率の引き下げとその結果としてのデフレーション

日本経済は、GDPデフレーターの前年からの変化で測った場合、1994年の第3四半期からデフレーションに突入し、それ以降今日に至るまで12年間にわたってデフレに陥り続けたままであった。このような長い期間にわたって物価が下落し続けた例というのは、第2次世界大戦の終結以降稀な事例である。実際のところ、このような事実は大不況(Great Depression)以降現実に観察されたことはなかったのである。しかしながら、大不況期に日本とアメリカで生じたデフレーションは極めて急速なものであったが、最近12年間にわたって日本で生じたデフレーションはマイルドなもの-平均すれば1%のデフレ-であった。このように大不況期と現在のデフレーションとが極めて異なる様相を示していることもあって、日本のエコノミストの多くは、現在のマイルドなデフレーションが経済に与える影響は大不況期におけるデフレーションが経済に与えた影響とは大きく異なるものである、と考えている。大不況期においては、デフレーションと生産活動の大幅な落ち込みとは時を同じくして生じた。大不況期におけるアメリカ経済においては、それ以前のピーク時と比べて、実質GDPはおよそ50%の減少を見せた。1991年-1991年は日本経済が長期的な不況に突入した年である-以降における日本経済の平均的な実質GDP成長率は、1980年代のそれを大きく下回っているものの、1~2%程度の成長は続いている状況であった。さらには、大不況期においては、金と通貨との公定の交換レートである平価を維持するために、金融政策を通じて意図的に物価の下落が図られたのであった。

図1 GDPデフレーターで測ったインフレーション
(固定基準年方式、消費税の影響除く)


図2 CPIで測ったインフレーション(消費税の影響除く)

1990年以降における日本の金融政策は、資産価格の引き下げを目標として運営されており、このような政策姿勢を指してバブルの抑制(Bubble suppression)を志向した政策と呼ばれることもあった。しかしながら、この間に物価が下落することはなかった。1980年代においては、目標とされるインフレ率は、GDPデフレーターで見て、2~3%のレンジに設定されていたようである。ところが、1990年以降においては、目標とされるインフレ率は、0~1%のレンジへと引き下げられたようである。たとえデフレーションを引き起こすこと自体を目的としてはいないとしても、目標とするインフレ率の引き下げがデフレーションを引き起こすとすれば、日本銀行による政策変更(目標インフレ率の引き下げ;訳者注)がデフレーションの原因であった、ということになる。

インフレ定常状態(Inflationary steady state)

ここで、生産技術と人口が時を通じて不変であり、マネーサプライだけが一定率で成長するような経済を考えてみよう(注1)。ある特定の条件の下で、この経済は最終的にある定常均衡(steady state equilibrium)に落ち着くことになるだろう。定常均衡においては、全ての実質変数は一定に保たれることになるので、実質的なマネーサプライもまた(実質変数であることから;訳者注)一定の値をとることになる。しかしながら、仮定より、マネーサプライは一定率で成長しているので、実質的なマネーサプライが一定に保たれるためには、インフレ率(物価上昇率)がマネーサプライ成長率と同じスピードで成長する必要があることになる。貨幣数量説が正しいかどうかにかかわらず、定常均衡においては、物価の変化率(インフレ率)はマネーサプライの変化率と等しくなるわけである。こうしてインフレ率が決まってくると、実質利子率にインフレ率を加えることによって名目利子率もまた決定されることになる。名目利子率-名目利子率は貨幣保有の機会費用である―は、以下のように、その他の実質変数(訳者注;実質貨幣残高に対する需要に影響を及ぼす諸々の実質変数を一括りにしてΛで表すことにする)とともに実質貨幣需要関数の変数を構成することになる。

M/P = L(i, Λ)

ここに、Mは名目的なマネーサプライを、Pは物価水準を、Lは実質貨幣残高に対する需要を、iは名目利子率を、それぞれ表している。 名目的なマネーサプライの水準は毎期ごとに中央銀行によって決定され、定常均衡においては実質貨幣需要関数の変数(iとΛ)は一定の値(均衡値)に決まってくる(それに応じて実質貨幣残高に対する需要量も特定の値をとることになる;訳者注)ので、物価水準は貨幣市場の均衡条件を満足するような水準に決まることになるであろう。

目標インフレ率の引き下げ

ここである特定のインフレ定常均衡に置かれている経済を考えてみよう。ここで中央銀行が時点Tにおいてマネーサプライ成長率を低下させる決定をしたとしよう。ただし、時点T以降におけるマネーサプライ成長率はある一定の正の値をとるものとする。言い換えれば、マネーサプライの数量を絶対的に減少させることを通じて物価水準を引き下げるよう試みる意図的なデフレ政策は採られないということである。X軸に時間をとり、Y軸には名目マネーサプライの自然対数値をとると、図3に描かれているように、マネーサプライの時間的経路はマネーサプライ成長率の低下を反映して時点Tにおいて屈折を見せることになる。

図3 時点Tにおけるマネーサプライ成長率の変化


ここでマネーサプライ成長率をμで表すことにしよう。特に、時点T以前におけるマネーサプライ成長率をμ(0)、時点T以降のマネーサプライ成長率をμ(1)、とそれぞれ表すことにしよう。中央銀行が時点Tにおいてマネーサプライ成長率を低下させることから、μ(0) > μ(1) との関係が成り立つことになる。定常均衡の仮定より、時点T以前のインフレ率はマネーサプライ成長率と等しいμ(0)となり、また、時点Tにおいてマネーサプライ成長率が引き下げられてから十分な時間が経過したのちには(=経済が新たな定常均衡に到達した暁には;訳者注)、インフレ率はμ(1)に達することになるだろう。

マネーサプライ成長率がμ(0)であるケースとμ(1)であるケースのどちらの定常均衡においても実質利子率は同じ値をとると仮定し、その際の実質利子率をρ* と表すことにしよう。すると、時点T以前の定常均衡における名目利子率i(0)は、i(0) = ρ * + μ(0) となり、時点T以降に(十分な時間が経過したのちに)成立する新たな定常均衡における名目利子率i(1)は、i(1)= ρ * + μ(1) となる。これら2つの名目利子率の間には、i(0) > i(1)、との関係が成り立つことは明らかであろう。ここで、実質貨幣残高に対する需要は、実質変数の関数であるばかりではなく、名目利子率の関数でもあることを思い出そう。実質貨幣残高に対する需要が名目利子率の関数でもある結果として、2つの定常均衡においては、実質変数のうちで(2つの定常均衡間においてそれぞれに成立する名目利子率が異なることを反映して;訳者注)実質貨幣残高に対する需要のみが異なる値をとることになる。(マネーサプライ成長率がμ(0)からμ(1)に低下したのちに成立する;訳者注)新たな定常均衡での名目利子率i(1)は時点T以前の定常均衡における名目利子率i(0)よりも低い値をとるので、(ヨリ低い名目利子率を反映して実質貨幣残高に対する需要がヨリ大きくなるために;訳者注)新たな定常均衡における実質貨幣量は、時点T以前の定常均衡におけるそれよりも大きな値をとることになる。

経済が時点Tに到達した段階で、今後将来的にマネーサプライ成長率が引き下げられることになるだろうことが民間部門の人々に広く知られているとすればどうなるか考えてみよう。期待インフレ率は今すぐにでも低下し、名目利子率もそれに応じて低下するだろう。さらには、実質貨幣残高に対する需要は(名目利子率の低下を反映して;訳者注)増加するであろう。しかしながら、時点Tにおいて名目マネーサプライの水準が増加することはないので、結果として、貨幣市場における均衡を維持するために時点Tにおいて物価水準が下落する必要があり、こうして実質貨幣量が増加する(つまりは貨幣市場の均衡が保たれる;訳者注)ということになるだろう。

図4 物価水準の移行経路

もちろん、現実には名目価格と名目賃金とは多かれ少なかれ硬直的であり、それゆえ、貨幣市場の均衡を維持するために必要なだけの物価水準の下方へのジャンプが生じることはないだろう。その結果、(貨幣市場が不均衡状態におかれることによって;訳者注)実質変数にも影響が及ぶことになり、貨幣市場の均衡を回復するために必要となる調整を実現するために、物価水準の下落と実質変数の減少とが緩やかなかたちで生じることになるだろう。新たな定常均衡に到達するのは、このような物価水準と実質変数との調整が完全に終了したのちのことであろうと考えられる。

以上の議論から明らかになる重要な結論は、マネーサプライが絶対的に減少させられることはなくともその成長率(マネーサプライ成長率)だけでも引き下げられることになれば、物価水準は低下することになるだろう、ということである。言い換えれば、短期的なマネーサプライの変化は物価(諸価格)に影響を及ぼさないだろう、ということである。マネーサプライ成長率は、新たな定常均衡を定めることを通じて、現時点における物価水準とインフレ率とに影響を及ぼすことになるわけである。これまで論じてきたようかたちで生じるデフレーションを前にして中央銀行が一時的にマネーサプライ成長率を増加させたとしてもこのようなデフレーションが食い止められることはないだろう。つまるところ、経済は「流動性の罠」に陥っているわけであり、Krugman [1998]が指摘したように、このような状況においては物価(諸価格)とマネーサプライとの間における明瞭な関係性が失われることになるわけである。

日本経済の現実のデータに目を転じると、1980年代におけるマネーサプライ(M2+CD)成長率はおよそ10%であったことが示されている。しかしながら、1990年以降マネーサプライ(M2+CD)成長率は突然低下を見せ、平均して0%から3%の間を推移するようになった。1980年代のデータからオイルショックの時期を除けば、1980年代におけるインフレ率は、CPIとGDPデフレーターのどちらで見ても、およそ3%であった。しかしながら、最近の金融政策決定会合でも述べられているように、日本銀行は長期的なインフレ率の目標をおよそ1%に変更したようである。日銀によるこのような長期的な目標インフレ率の引き下げがいつの時点で民間部門から広く認識されるようになったのかは明らかではないが、デフレーションの発生が実際に認識され始めた1990年代中頃には民間部門における長期的なインフレ期待に変化が生じたのではないかと考えることもできるかもしれない。

図5 マネーサプライ(M2+CD)成長率

先に論じたように名目価格や名目賃金に硬直性が存在すると考えられるならば、長期的な目標インフレ率が突然引き下げられたことによってデフレーションが発生したという可能性もあり得ることである。さらには、このようなかたちで生じるデフレーションは、マネーサプライの絶対的な縮小を伴う大不況期のデフレーションのような悲惨な結果をもたらす必要はないだろう。しかしながら、このようなデフレーションは物価水準の調整(貨幣市場の均衡を維持するために必要となる物価水準の下落)が終了するまで持続することになるだろう。それゆえ、発生するデフレーションがマイルドであるようならば、(デフレがマイルドであればあるほど埋め合わせるべき物価水準の下落を実現するまでに要する時間もそれだけ長くなるので;訳者注)それだけデフレーションは長い期間にわたって持続するということになるだろう。このようにして生じるデフレーションは、一時的なマネーサプライの増加によっては終わらせることはできない。経済は、極めて低水準の名目利子率とマイルドなデフレーションとを伴いつつ、長期間にわたる実体経済面での停滞を経験することになるだろう。


第2部.マイルドなデフレーションの効果

名目賃金や名目価格に硬直性が存在し、中央銀行による長期的な目標インフレ率が引き下げられる時には、マイルドではあるけれども、長期にわたる頑固なデフレーションが生じる可能性がある。しかしながら、1%~2%程度のマイルドなデフレーションが経済に対して大きなインパクトを持つ可能性に関しては広く問題とされることはなかった。日本における多くのエコノミスト-中央銀行内部の研究者のみならず、民間のエコノミストも含めて-は、その程度のマイルドなデフレーションは経済に対してそれほど深刻な悪影響をもたらさないだろうと考えていたのである。物価が個別製品の価格を平均したものであると見なされ、物価と貨幣価値との関連が見忘れられるやいなや、デフレーションを引き起こす技術進歩や規制緩和は経済にとってよいものである、と考えられたのであった。多くのエコノミストや政策当局者たちは、1990年代に生じたデフレーションを「よいデフレ」であると見なしていたのである。

多くのエコノミストは、日本経済が抱える最も深刻な問題はデフレーションではなく生産性の低迷にあると信じていた。このような考えは、Hayashi and Prescott [2003]によって提示されたものである。林=プレスコットは、成長会計の手法を用いて、1990年代において全要素生産性(TFP)の成長率が低下していることを示し、TFP成長率の低下こそが1990年代において日本経済のGDP成長率が低下した原因である、と主張した。しかしながら、その後の研究によれば(注2)、林=プレスコットの結論は必ずしも正しいものではない、との報告がなされている。

ここで、連鎖方式のデフレーターによって推計されたGDP統計―このようなデータは1994年以降になって利用可能となった―を用いて、労働生産性(注3)の変化を見てみることにしよう。以下の図6によれば、1994年以降、労働生産性は一定の率で成長していることがわかる。もちろん、これらのデータは必ずしも真の構造パラメータを反映しているわけではない。しかしながら、1994年以降に労働生産性に大規模な構造変化が生じてはいないことは明らかである。

図6 労働生産性とそのタイムトレンド

実質賃金(注4)は、安定した成長を見せる労働生産性とは異なる動きを見せている。1998年に失業率が過去最高を上回る3%に達すると、名目賃金は下落に転ずることになったが、GDPデフレーターが下落し続けたこともあって、実質賃金は2002年まで上昇を続けることになった(注5)。

図7 名目賃金と実質賃金の推移

実質賃金と企業収益との関係は単純なものである。もし実質賃金と労働生産性との比(*)が一定に保たれ得るとすれば、企業収益と名目GDPとの比も一定に保たれることになる。そして、このケース(実質賃金と労働生産性との比が一定で変わらないケース)では、企業収益の伸びは名目GDP成長率と一致することになる。そうでないケース、特に、実質賃金が労働生産性以上に増加するようなケースでは、企業収益の伸びは名目GDP成長率を下回ることになる。デフレの結果として名目GDP成長率は0%に陥ったと考えられ、失われた10年においては名目GDP成長率は実質GDP成長率を下回る(**)ことになった(注6)。(デフレによる;訳者注)実質賃金の上昇が(労働生産性を上回るスピードで上昇し、その結果として労働分配率を引き上げることを通じて;訳者注)直接的に企業収益を圧迫することになったわけである。労働生産性と実質賃金のそれぞれの推移は、以下の図8に示されている。

図8 労働生産性と実質賃金の推移


2002年以前における労働生産性の上昇は実質賃金の上昇によって完全に相殺されることになった。問題は、1994年中に企業収益が十分回復しなかった、ということにある。通常の景気循環の過程では、景気拡大の初期の段階には実質賃金が相対的に減少し、企業収益は大幅に増加するものである。1980年代までは、まさしくこのようなかたちで調整が進んだものである。名目賃金の上昇は1997年に入るとストップし、下落を始めることになった。この時デフレーションが生じていなければ、企業収益は名目賃金の下落を受けて増加を見せたはずである。しかしながら、実際のところはデフレが生じていたために、実質賃金は2002年まで上昇し続けることになった。こうして、1%程度のマイルドなデフレーションが(実質賃金の高止まりを通じて;訳者注)企業収益の堅調な回復を妨げることになったのである。

1994年に始まったGDPデフレーターで見たデフレーションは、名目賃金の下落の効果を完全に打ち消すことになった。デフレーションは実質賃金の上昇を引き起こすことで企業収益を圧迫し、また、株価を含んだ資産価格の回復を妨げることになった。企業収益の弱々しい回復を受けて、設備投資はすぐにも減少を見せることになり、さらには、金融機関ならびに一般事業法人のバランスシート上における純資産は、株価が下落したことにより、そして間接的なかたちではあるものの設備投資が減少したことにより、減少することになった。こうして、企業活動はさらなる低迷を経験することになり、2001年の下半期に入ると失業率は5%にまで上昇することになったのである。1997年に失業率が3%を超えたことを受けて名目賃金が下落に転じたように、失業率が5%もの高水準に達したことで名目賃金は大幅に下落することになり、ついには、実質賃金までも下落する事態になった。名目GDPは増加しなかったものの、実質賃金が下落したことによって、企業部門の収益は増加することとなり、その結果として、デフレーションは依然として続いたものの、(企業収益の伸びの回復を受けて;訳者注)資産価格の上昇と設備投資の増加とが定着するということになったのである。


結論

本論文で論じたように、複雑な動学マクロモデルを用いずとも、長期的なマネーサプライ成長率(あるいは中央銀行が目標として設定する長期的なインフレ率)が引き下げられれば、経済がデフレーションに陥ることを示すことは可能である。さらには、マネーサプライを短期的に(一時的に)増加させたとしても、このようなデフレが終焉することはないだろうことも示される。言い換えるならば、Krugman [1998]によって提唱された「流動性の罠」に関する命題の本質的な部分は、クルーグマンモデルに特有な構造には依存していないということである。本論文において示されているように、流動性の罠が生じるために必要な条件は、1)名目価格や名目賃金の調整が不完全であること、2)名目利子率が実質貨幣需要関数の独立変数であること、である。

現在のところ、すべての経済学者が同意するような名目価格や名目賃金の調整に関する短期的な動学モデルは必ずしも確立されていない。しかしながら、たとえすべての経済学者に支持されるような動学モデルが存在しないとしても、 単純なインフレ定常均衡モデルに基づくことで、長期的な金融政策の変化により流動性の罠が引き起こされることが明らかになるのである。

また、マイルドなデフレーションこそが長期にわたる経済停滞を引き起こした原因であると考え得ることも本論文で示したところである。1990年代に日本経済が抱えていた歴史的な条件のために、マイルドなデフレーションが企業収益を大きく圧迫することにつながり、それが原因で日本経済は停滞に陥ることになったと考えられるのである。つまりは、小幅で頑固なデフレーションは、過去10年間にわたって日本経済が停滞し続けた最も重要な要因の一つであった、と考えられるのである。


<注>

(注1)McCallum [1989], Chapter 6.
(注2)Jorgenson and Motohashi [2003].
(注3)労働生産性=実質GDP/雇用者数/平均週労働時間.
(注4)実質賃金=雇用者報酬/(GDPデフレーター×雇用者数)/平均週労働時間.
(注5)GDPデフレーターの動向に関しては消費税の影響も考慮せねばならない。消費税率は1997年4月に3%から5%に引き上げられることになった。消費税の影響を考慮するにあたり、本論文では最も単純な方法に従うことにする。つまりは、1997年第1四半期以前のデフレーターに関しては(消費税率3%を反映して)1.03で割り、1997年第2四半期以降のデフレーターに関しては(消費税率5%を反映して)1.05で割ることで、消費税の影響を調整することにする。
(注6)Hayashi and Prescott[2002].
 

<訳者による補足>

(*)実質賃金と労働生産性との比は、言い換えるならば、労働分配率のことである。なぜなら、
   労働分配率=雇用者報酬/名目GDP
={雇用者報酬/(GDPデフレーター×雇用者数)/平均週労働時間}/
         {(実質GDP/雇用者数)/平均週労働時間}
        =実質賃金/労働生産性
        (注3, 注4における労働生産性と実質賃金の定義参照)
             
(**)実質GDP成長率=名目GDP成長率-GDPデフレーター変化率
  =>実質GDP成長率-名目GDP成長率=-GDPデフレーター変化率
  デフレーションが生じているということは(GDPデフレーター変化率<0)、
ということなので、デフレが生じている時には、
    実質GDP成長率-名目GDP成長率>0、つまりは、
    実質GDP成長率>名目GDP成長率、が成り立つ。
  

<参考文献>

〇Hayashi, F. and E. Prescott, 2002, “The 1990’s in Japan: A Lost Decade(pdf),” Review of Economic Dynamics, 5, pp. 206–235.
〇Jorgenson, D.W. and K. Motohashi, 2003, “Economic Growth of Japan and the United States in the Information Age,” RIETI Discussion Paper Series 03-E-015.
〇Krugman, P. 1998, “It’s Baaak! Japan’s Slump and the Return of the Liquidity Trap(pdf)”(邦訳(山形浩生氏訳)はこちら(pdf)), Brookings Papers on Economic Activity, 2, pp. 137–187.
〇McCallum, B. 1989, Monetary Economics, Macmillan.

2010年4月11日日曜日

Yoonsoo Lee and Toshihiko Mukoyama 「不況の浄化効果?」

Yoonsoo Lee and Toshihiko Mukoyama, “Are there cleansing effects of recessions? Entry and exit of manufacturing plants over the business cycle”(VOX, January 7, 2008)
景気循環の過程では、次々と生起する創造的破壊を通じて産業が清められる(‘cleanse’ )ことになる、と広く信じられている。しかしながら、我々の最新の研究によると、市場への新規参入は、経済の崩壊(busts)期よりもブーム(booms)期におけるほうが盛んな一方で、市場からの退出率と市場から退出する企業のタイプは、景気循環の過程を通じて安定していることが見出されている。さらには、不況期に新規参入する企業は、ブーム期に新規参入する企業と比べると、規模が大きくて、生産性が高い傾向にあることも見出されている。すなわち、不況期には、「創造的破壊」(‘creative destruction’)ではなく、「創造的参入」(‘creative entry’)が起きているのだ。

「創造的破壊」は、現代の市場経済を突き動かす重要な原動力の一つである。市場経済においては、企業の(市場への)新規参入と(市場からの)退出が日々起きている。開業するプラントもあれば、閉鎖されるプラントもある。労働者が職場を移ったり職業を変えるのも珍しくない。市場経済において生じる「資源の再配分」(reallocation)の規模はかなりのものであることが、経済学の分野における過去数十年間にわたる研究を通じて明らかになり始めている〔原注;Dunne, Roberts, and Samuelson (1989) および Davis, Haltiwanger, and Schuh (1996) による先駆的な研究を参照せよ〕。創造的破壊は、例外的な現象ではなく常態であり、良好に機能する市場経済にとって欠かせない。資源が再配分される過程ではミクロの企業(あるいは、産業)レベルでの上下動(あるいは、浮き沈み)が生じるが、それに伴って、新製品の導入や新技術の実用化、生産資源の生産的な用途への移動が進むことになるのである。

現代の市場経済においては、ミクロレベルにおいてだけではなく、マクロ経済レベルでも上下動(浮き沈み)が繰り返されている。ブームと不況が交互に――時に穏やかに、時に過酷に――生起する景気循環にしょちゅう見舞われており、景気循環の安定化を図ることは多くの政府にとって主要な政策目標の一つとなっている。ところで、マクロ安定化政策(景気循環の安定化を目的としたマクロ経済政策)に乗り出す前に、問うておかねばならないことがある。マクロ経済レベルでの変動――景気循環――とミクロ(個別の企業、産業)レベルでの変動――創造的破壊――との間にはどんな結び付きがあるのだろうか? マクロ経済レベルでの変動が良好に機能する市場経済の一側面たる「資源の再配分」プロセスを反映しているに過ぎないとしたら、景気循環はそれほど問題じゃないということになるかもしれないのである。

経済学者の間で持て囃(はや)されている見解の一つによると、景気循環は次々と生起する創造的破壊の表れだとされている。ブームは「創造」が急速に進む時期であり、不況は「破壊」が急速に進む時期、というわけだ。それゆえ、景気循環を安定化しようとする試みは、「資源の再配分」という健全なプロセスを阻害する可能性があると見なされることになる。言い換えると、不況は長い目で見るとそれほど悪いものじゃないということになる。不況期には、非効率的な生産単位(企業)が淘汰されて、経済システムの浄化〔訳注;あるいは、新陳代謝〕が促されるからだというのである〔原注;この見解に理論的な観点から検討を加えている研究として、例えば Caballero and Hammour(1994) を参照せよ〕。しかしながら、すべての経済学者がこの見解に同意しているわけではない。正反対の見解に立って、不況期にはむしろ「資源の再配分」のペースが鈍ることになる――不況期には、創造と破壊のペースが落ちることになる――と考える研究者もいる〔原注;例えば、Barlevy(2002) や Caballero and Hammour(2005) を参照せよ〕。こちらの見解からすると、不況はやはり悪いということになる。

このように経済学者の間でも意見が分かれている状況であり、マクロ安定化政策の立案・実施を担う政策当局者にとっても、景気循環の過程で生じる「資源の再配分」の実態がどうなっているかを知ることは重要な課題であると言えよう。まさにこの問題にメスを入れているのが我々の最新の論文である(Lee and Mukoyama, 2007)。具体的には、アメリカの製造業部門を対象に、米国勢調査局(US Census Bureau)が集めているプラントレベルのデータを利用して〔原注;我々の研究では、1972年から1997年までの工業統計調査(Annual Survey of Manufactures)を利用している〕、景気循環の過程におけるプラントの新規開業(誕生)と閉鎖(死)の実態がどうなっているかを詳細に検討したのである。我々の研究を通じて明らかになったことをまとめると、以下のようになる。プラントの開業率(一年の間に新たに開業したプラントの割合)は、不況期よりもブーム期のほうがずっと高い一方で、閉鎖率(一年の間に閉鎖されたプラントの割合)は、ブーム期と不況期とで違いが見られない。興味深いことには、不況期に開業するプラントとブーム期に開業するプラントとの間には雇用と生産性の面で大きな違いが見られる一方で、不況期に閉鎖されるプラントとブーム期に閉鎖されるプラントとの間には雇用と生産性の面でそれほど違いが見られない。もう少し具体的に言うと、不況期に開業するプラントは、ブーム期に開業するプラントと比べて、規模が大きくて(それゆえ、より多くの雇用を生み)、生産性が高い傾向にあるのである。その一方で、繰り返しになるが、不況期に閉鎖されるプラントとブーム期に閉鎖されるプラントとの間では規模(雇用)と生産性の面でそれほど違いが見られないのである。

以上の結果は、マクロレベルでの「景気循環」とミクロレベルでの「資源の再配分」との関係について再考を迫ることになる。不況の浄化効果(cleansing effect of recessions)を称える陣営の間では、「破壊」(あるいは、退出・閉鎖)を通じて経済システムの浄化が促されると信じ込まれている。既存プラントにおける雇用破壊(job destructions)が極めて反循環的である〔訳注;雇用破壊がブーム期には減少し(あるいは、破壊のペースが低下し)、不況期には増加する〕ことを見出した先行研究がその裏付けとなっているが、我々の研究によると、破壊(退出・閉鎖)の面ではこれといって特別なことは起きていないことが見出されている。先にも述べたように、ブーム期に閉鎖されるプラントと不況期に閉鎖されるプラントは(雇用や生産性の点で)似たような特徴を備えている。不況期には、生産性の低いプラント――ブーム期であれば、操業を続けられたであろうプラント――の大規模な破壊が起きる・・・というわけでは必ずしもないのである。不況に陥って、プラントの操業を続けることが困難になると、雇われている従業員の一部が解雇されて雇用の縮小が進む傾向にあるが、不況に陥ったからといって、非効率的な既存企業(既存のプラント)が一気に一掃されるわけではなさそうなのだ。生産性の低い企業が淘汰されるのは確かだが、それは不況期だけに限られる話ではない。破壊を通じて働く浄化は、景気循環の全局面を通じて――ブーム期だろうと、不況期だろうと変わらずに――絶えず起きており、不況期に起こる破壊とブーム期に起こる破壊との間で特徴の面でこれといった違いは見られないのである。

とは言え、マクロレベルでの「景気循環」とミクロレベルでの「資源の再配分」との間には何の結び付きもないということを意味するわけではもちろんない。そういうわけで決してなく、市場への新規参入は極めて順循環的〔訳注;市場への新規参入は、不況期よりもブーム期におけるほうが盛ん〕なのである。先にも述べたように、新規参入する企業(あるいは、新たに開業するプラント)のタイプはブーム期と不況期とで大きく異なっているわけだが、そうなっているのは景気循環の過程で何らかの重要な選別プロセスが「参入」の面において働いているせいなのかもしれない。ブーム期であれば、小規模で相対的に生産性の低い企業であっても参入することができる。景気がいいので、生産性の低い企業でも利潤をあげられる余地があるからだ。その一方で、不況期に新規参入して利潤を確保できるのは、生産性の高い(そして、規模の大きい)企業くらいのものだ。不況は、生産性の高いプラントだけを選別する――生産性の高いプラントだけに参入を許す――ことを通じて、経済全体の平均的な生産性を引き上げる効果を備えているのかもしれない。ただし、不況にそのような(経済全体の平均的な生産性を引き上げる)効果が備わっているとしたら、それは非効率的な既存のプラントが浄化(あるいは、淘汰)されるからというわけでは必ずしもない。生産性の高い企業だけが選び抜かれる(生産性の高い企業だけが新規参入できる)点こそがより重要なのだ。つまりは、景気循環に備わる効果を探るのであれば、企業の「退出」から「参入」へと焦点を移すべきなのだ。「破壊」(“destruction”)よりも「創造」(“Creation”)の方が重要なプロセスのだ。

我々が見出した結果は、以下にいくつか列挙するように、政策に対しても重要な意味合いを持っている。まず第1に、ブーム期に開業するプラントと不況期に開業するプラントのタイプに違いがあるという事実は、ブーム期よりも不況期の方が新規参入に対する障壁がずっと高い可能性を示唆している。そのような障壁は、経済全体の長期的な成長を損なうことになるかもしれない。新規のプラントは、イノベーションを体化していることが多い。いくつかの研究によると、新規のプラントの参入は、マクロ経済全体の生産性の伸びを高める重要な源泉の一つであることがわかっている。こういった理由からして、不況期において新規参入を阻害している要因は何なのかという疑問は、重要な問いとなる。おそらくその答えは、不況期には、ブーム期と比べると、創業(スタートアップ)のための初期投資に要するコストが高まるためか、資金調達が困難となるためなのであろう。

第2に、各種のマクロ安定化政策がどのような帰結を伴うかは、その政策が開業(参入)率と閉鎖(退出)率とに及ぼす効果に左右される可能性がある。我々の研究では、現実のデータと整合的なモデルを組み立てた上で、いくつかのシミュレーションを試みている。その結果の一部を紹介すると、解雇税を課す――従業員を解雇する企業に税金を課す――ようにすると、それに伴ってプラントの開業(参入)や閉鎖(退出)に影響が及ばないようであれば、景気循環の安定化につながる可能性が示されている。その理由は、解雇税が導入されると、人材の新規採用や解雇の頻度が抑えられるようになるからである――〔原注;Veracierto(2004) や Samaniego(2006) も参照せよ。Samaniegoのモデルでは、開業率が内生的に決定される設定になっているが、開業率は景気循環の過程を通じてほとんど変動しないという結果が得られている〕。しかしながら、我々の研究では、解雇税が導入されると、景気循環の過程を通じて開業率の変動――ブーム期における開業率と不況期における開業率の差――が大きくなり、その結果としてマクロの産出量の変動も大きくなる可能性が示されている。その理由は、解雇税の導入により、ブーム期にも不況期にも新規参入が抑制されることになるが、不況期においての方がその作用が強く出るからである。解雇税の影響を受けやすいのは、より多くの従業員を抱える――ということは、いつか苦境に陥った時に多くの人員を解雇する可能性が高い――規模の大きなプラントである。不況期に開業する可能性が高いのは規模の大きなプラントなのだから、不況期においての方が解雇税の作用(新規参入を抑制する効果)が強く出ることになるのである。

我々の研究は、新規参入(開業)のインセンティブに狙いを定めた政策の重要性を明らかにしている。マクロ経済の安定化を実現するための効果的な手段の一つは、補助金を給付するなどして不況期における新規参入を促進することにある。市場の非効率性(流動性制約のような、資本市場の不完全性等)が新規参入の障壁になっているとすれば、不況期における新規参入を促進することは経済厚生の面からしても望ましい政策であると言えよう。

最後になるが、我々が得た実証的な結果は、アメリカの製造業のデータに基づいているという点を強調しておきたい。今後に残された興味深い研究課題の一つとして、製造業以外の部門やアメリカ以外の国も対象に加えて、今のところ手にしている結果と突き合わせてみたいところだ。


<参考文献>

〇Barlevy, G. (2002). “The Sullying Effect of Recessions,” Review of Economic Studies 69, 41-64.
〇Caballero, R. J. and M. L. Hammour (1994). “The Cleansing Effect of Recessions,” American Economic Review 84, 1350-1368.
〇Caballero, R. J. and M. L. Hammour (2005). “The Cost of Recessions Revisited: A Reverse-Liquidationist View(pdf)", Review of Economic Studies 72, 313-341.
〇Davis, S. J., J. C. Haltiwanger, and S. Schuh (1996). Job Creation and Destruction, Cambridge, MIT Press.
〇Dunne, T., M. J. Roberts, and L. Samuelson (1988). “Patterns of Firm Entry and Exit in US Manufacturing Industries(pdf)”, RAND Journal of Economics 19, 495-515.
〇Lee, Y. and T. Mukoyama (2007). “Entry, Exit, and Plant-level Dynamics over the Business Cycle(pdf)”, Federal Reserve Bank of Cleveland Working Paper 07-18.
〇Samaniego, R. M. (2006). “Entry, Exit and Business Cycles in a General Equilibrium Model(pdf)”, mimeo. George Washington University.
〇Veracierto, M. L. (2004). “Firing Costs and Business Cycle Fluctuations(pdf)”, mimeo. Federal Reserve Bank of Chicago.

Paul Krugman 「サミュエルソン ~比類なき経済学者~」

Paul Krugman, “Paul Samuelson:The incomparable economist”(VOX, December 15, 2009)
本論説は、ポール・サミュエルソン(Paul Samuelson)の生涯と業績に関する回顧記事である。

ハリネズミがいて、キツネがいて、そして・・・ポール・サミュエルソンがいる。
ご存知だとは思うが、ここで私は、アイザイア・バーリン(Isaiah Berlin)が思想家を類別するために使った、かの有名なたとえ話を持ち出しているのである。キツネは多くのことを知っている(foxes who know many things)。一方で、ハリネズミはたった一つのことしか知らない、ただし、非常に重要なアイデア(=ビッグ・アイデア)を一つ(hedgehogs who know one big thing)・・・というお馴染みのアレである。経済思想家としてのサミュエルソンを、人類史上にわたって比類なき経済学者たらしめているのは、彼が非常に重要なアイデアを数多く知っていた(he knew many big things)――そして、我々にそれらのことを教えてくれた――という事実にこそある。サミュエルソンほどに数多くの独創的なアイデアに恵まれた経済学者は、他には見当たらないのだ。

Google Scholarの助けもちょっと借りて、サミュエルソンが発案したビッグ・アイデアを以下にいくつかリストアップしてみることにしよう。わざわざ「いくつか」と断ったのは、このリストではサミュエルソンのビッグ・アイデアを網羅し尽くしてはいないことが明々白々だからだ。しかしながら、ともかくも、ここでは彼の独創的な洞察の中から、一応8つ――8つだってさ!――のアイデアをピックアップしてみた。どのアイデアも、その後に発展性ある研究成果を大量に生み出す契機となったものである。


1.顕示選好(Revealed preference:1930年代に、消費者理論の分野で一つの革命〔訳注;おそらく、ヒックス=アレン等が先鞭をつけた、基数的効用から序数的効用に基づく消費者理論の書き換えのことを指していると思われる〕が起こった。この革命の過程において、経済学者らは、消費者選択の問題には、限界効用逓減の法則以上に豊かな世界が広がっていることを認識するようになった。しかしながら、(1930年代の消費者理論における革命の後に)サミュエルソンは、彼が唱えた単純な命題――すなわち、彼なり彼女なりが実際に選択したものは、彼(彼女)が選び得たにもかかわらず、実際には選ばなかったものよりも、その人自身の選好に沿うもの(=より大きな満足を与えるもの)である――から、いかに多くの含意を導き出すことができるかを我々に教えてくれたのであった。

2.厚生経済学(Welfare economics): ある経済状態(economic outcome)が、別の経済状態と比べて、より望ましい、との主張によって意味されていることは一体何なのだろうか? サミュエルソンが厚生経済学の分野に進出する以前の段階においては、この主張が何を意味するのかに関しては、曖昧なままに放っておかれており、また、所得分配を巡る議論は大きな混乱に包まれていた。サミュエルソンは、「倫理的な観察者(ethical observer)による再分配(redistribution)」という発想を導入することを通じて、社会厚生(social welfare)という概念についてどのように考えればいいのか、一つの道筋を示した。それと同時に、倫理的な観察者などが存在せず、「倫理的な観察者による再分配」が(通常であれば)生じることのない現実の世界においては、社会厚生という概念は限界を抱えていることも示したのであった。

3.貿易の利益(Gains from trade): 国際貿易は有益(beneficial)である、との主張によって意味されていることは一体何なのだろうか? また、この主張はどのような限界(あるいは留保条件)を抱えているのだろうか? 「貿易の利益」に関するサミュエルソンの分析――この分析においては、顕示選好の方法と、経済厚生分析との両者が応用されている――は、これらの問いに取り組む上での出発点となっている。「市場の歪み」に関するバグワティ(Bhagwati)やジョンソン(Johnson)〔訳注;おそらく、ハリー・ジョンソン〕の分析から、一般化された比較優位(generalised comparative advantage)に関するデアドロフ(Deardorff)の分析までに至る(貿易の利益に関する)一切の研究業績は、サミュエルソンの洞察の上に立脚しているのだ。

4.公共財(Public goods): ある特定の財やサービスが政府によって供給されねばならないのは、なぜなのだろうか? また、ある財――それも、限られた数の財――の生産を市場に委ねるべきであるとすれば、一体どのような事情ゆえにそうなるのだろうか? すべての答えは、サミュエルソンの1954年論文「公共支出の純粋理論」(“Pure theory of public expenditure”)にある。

5.生産要素の賦存比率と国際貿易(Factor-proportions trade theory):生産要素の賦存状態と比較優位との関係について語る時、国際貿易が所得分配に与える影響について頭を悩ましながら語る時、我々は、(知ってか知らずか)1940年代と1950年代におけるサミュエルソンの研究成果に立ち返っていることになる。サミュエルソンは、オリーン(Ohlin)とヘクシャー(Heckscher)による曖昧でやや混乱気味のアイデアをもとにして、切れ味鋭いモデルを組み立てたのであった。サミュエルソンによって定式化されたヘクシャー=オリーンモデルは、その後の一世代にわたって、国際貿易理論における支配的な地位を占めることになったし、現代の貿易理論の重要な構成要素の一つであり続けている。

6.為替レートと国際収支(Exchange rates and the balance of payments):ここでちょっと個人的な話をさせてもらいたい。国際貿易論を研究している学者の大半は、ひとたび為替レートや国際収支の問題に議論が及ぶや、話の筋を見失ってしまいがちになる。これまでにも何度か指摘したことがあるが、(実体経済を対象とする学としての)国際貿易の研究に従事している学者は、(貨幣経済学としての)国際マクロ経済学をブードゥー(voodoo)経済学と見なす一方で、国際マクロ経済学の研究に従事している学者は、国際貿易論を退屈で現実との関連が薄い学問と見なす傾向にある (私の機嫌が悪い時には、どちらの主張もともに正しい、と言ってやることにしている)。しかしながら、リカードの貿易理論に関するドーンブッシュ=フィッシャー=サミュエルソン論文(1977年)(Dornbusch, Fischer, and Samuelson(1977))を読んでからというもの、私個人は、国際貿易論と国際マクロ経済学との対立から逃れることができるようになった。ドーンブッシュ=フィッシャー=サミュエルソン論文の中では、国際貿易とマクロ経済とが、為替レートと国際収支とが、そして、貿易の利益が発生する可能性と(輸入品と競合する国内の産業で生じる;訳者注)失業の可能性とが、それぞれ自然なかたちで相互に関連付けられている(=統一的に分析されている)のである。

サミュエルソンにとっても、国際貿易論と国際マクロ経済学とをいかにして関連付けたらよいか、という課題を明確に理解するにあたって、ドーンブッシュ=フィッシャー=サミュエルソン(1977年論文)による整然とした定式化が大きな助けとなったらしいが、サミュエルソンがこの課題にぶつかったのは時期的にずっと前に遡るようだ。ここで、1964年に公刊されたサミュエルソンの論文「貿易問題に関する理論的覚書」(”Theoretical notes on trade problems”(pdf))の中から、関連する箇所を引用してみることにしよう。「雇用の水準が完全雇用水準以下であり、国民純生産(Net National Product)が準最適な(suboptimal)水準にとどまっている(最適な水準には達していない)ようなケースでは、通常であれば馬鹿げている重商主義者(mercantilist)の議論のどれもこれもが妥当性を持つようになる」。そして、これに続けてサミュエルソンは、自らが執筆したテキストである『経済学』の(当時の)最新版の付録(appendix)の中で、「通貨の過大評価(overvaluation)によって引き起こされる問題――自由貿易擁護論にとって真に厄介な問題――を指摘した」事実に言及している。ここでサミュエルソンが、問題解決の方法(訳者注;完全雇用を達成し、国民純生産を最適な水準に復帰させる方法)として提示したのは、貿易の制限ではなく、通貨の過大評価をストップさせること(=為替安(通貨の減価)への誘導;訳者注)であった。つまりは、サミュエルソンは、まっとうなマクロ経済政策(good macroeconomic policies)は、まっとうなミクロ経済政策(good microeconomic policies)の前提条件である(訳者注;まっとうなマクロ経済政策なくして、まっとうなミクロ経済政策はありえない)、と理解していたわけである。この点については、また少し後で触れることにしよう。

7.世代重複モデル(Overlapping generations):サミュエルソンが1958年の論文で発明した世代重複モデルは、社会保障から家計債務の問題にまで及ぶ、幅広い問題を考えるにあたっての基礎的な枠組みを提供している。世代重複モデルなしに、今日あるマクロ経済学の発展を想像することは困難だ。

8.ランダムウォーク仮説(Random-walk finance):フォワードルッキングな(将来を見据えて判断を下す)投資家(investors)の行動は資産価格のランダムな変動を生む、というサミュエルソンの論証は、現代における大半のファイナンス理論の出発点となっている。


先にも述べたように、サミュエルソンが発案したビッグ・アイデアは、以上の8つにとどまるものではなく、探せばきっともっとたくさん見つかることだろう。しかし、以上8つのアイデアのうち、どれ1つを取り上げても、それ単独で、サミュエルソンの名を偉大な経済学者として歴史に刻むに十分な貢献であるとみなされたことだろう。今日までに、これほど多くのビッグ・アイデアを思いついた経済学者は、サミュエルソン以外に誰一人として――誇張でも何でもなく、本当に誰一人として――いなかったのである。

サミュエルソンは、いかにしてこんなにも多くのビッグ・アイデアを思いついたのだろうか? もちろん、他の誰よりも頭が良かった、というのもあるだろう。しかしながら、ここで私は、サミュエルソンの学問上の探究を支えた要素(知的属性)として、(頭の良さに加えて)さらに2点指摘したいと思う。

まず第1の要素は、彼の茶目っけたっぷり(playfulness)の態度である。サミュエルソンの文章を読む人の脳裏には、非常に堅苦しい論文を書き上げるために机の前に座している男の姿ではなく、楽しみながらアイデアを紡ぎだしている男の姿が浮かび上がってくることだろう。茶目っけは、時に、洗練されたおふざけ(inspired silliness)のかたちをとって表れることがある。例えば、先にも触れた1958年の世代重複モデル論文の注9を見てみるといい。そこには、こうある。「確かに(Surely)、“確かに”(’surely’)という言葉で始まる文の最後がクエッションマークで終わることは、普通であればあり得ないことである? しかしながら、一つの論文においては、一つのパラドックスで十分であって・・・」(“Surely, no sentence beginning with the word ‘surely’ can validly contain a question mark at its end? However, one paradox is enough for one article …”)。サミュエルソンの茶目っけたっぷりな態度は、彼の想像力(imagination)を解放すると同時に、創造力(creativity)の刺激にもつながったに違いないと思われるのである。

そして第2の要素は、現実に根をおろそうと常に心掛ける態度である。サミュエルソンは、大学という象牙の塔に閉じこもるような学者然とした人物ではなかった。彼は、現実の出来事や政策に深く興味を示し続け、加えて、株式投資に手を出したりもした。さらには、理論が現実から遊離しないように心掛けてもいた。

最後に、サミュエルソンが政策形成の方面において果たした偉大な貢献、いわゆる「ケインジアン総合」(訳者注;あるいは、「新古典派総合」)について触れることにしたい。サミュエルソンは、知的な観点からして、大恐慌の赤ん坊(Depression baby)であった。というのも、彼が経済学の教育を受けたのは、大量失業が発生した大恐慌期の真っ只中だったからである。彼が執筆したテキストである『経済学』は、ケインジアンの思考法を広く一般の人々に知らしめることになった。サミュエルソンは、市場は時に手が負えないほどの機能障害に陥る可能性があることを、生涯を通じて決して忘れることはなかったが、もしそうである(=市場が機能障害に陥ることがある;訳者注)とすれば、市場の利点を説く経済理論をいかにして現実世界に適用したらよいのだろうか?

サミュエルソンが上の問いに対して寄せた回答は、まずはまっとうなマクロ経済政策ありき、ということであった。まず何よりも、金融・財政政策を通じて完全雇用を維持する必要があり(私自身色々なところで指摘してきたが、サミュエルソンは、今日の状況をあたかも予見していたかのような仕方で、金融政策の限界を認識していた)、為替レートの調整を通じて(訳者注;完全雇用の達成に十分なだけの)価格競争力を維持する必要がある。市場の利点が発揮され得るのはその後の話、というわけである。

以上のサミュエルソンの「ものの見方」は、現代の経済学者の多く(あまりにも多く)が、見た目に美しい完全市場モデルの数理的な操作に没頭する中で忘れ去ってきた教訓であった。サミュエルソンによるその現実主義的な「ものの見方」――市場は大いなる偉業を達成する仕組みではあるが、(市場は)時に政府による積極主義(government activism)によってサポートされる必要がある、という発想――が、今日ほど適当に思える時期は他にないであろう。

比類なき経済学者、ポール・アンソニー・サミュエルソンをここに称えるとしよう。今日までに彼に比肩し得るような経済学者は現れることはなかったし、おそらく今後も決して現れることはないであろう。

Axel Leijonhufvud 「マクロ経済における安定性と不安定性」

Axel Leijonhufvud, “Stabilities and instabilities in the macroeconomy”(VOX, November 21, 2009)
現在の経済学は、その分析用具を用いて明らかにするはずの現実の経済の性質に関して地に足のついた理解を得ることができないでいる。現在主流の「摩擦を伴う安定性」に基づくマクロ経済理論(stable-with-frictions macro theory)においては、①レバレッジの不安定性、②連結性(connectivity)、③物価水準の潜在的な不安定性の三つが無視されている。「摩擦を伴う安定性」が支配的なパラダイムである限り、経済分析におけるテクニカルな面でいかなる進展があったとしても、現実の経済の理解の面で真の進歩がもたらされることはないだろうし、政府は新たな危機に対して準備不足の状態に置かれ続けることになるだろう

およそ50年前に遡ると、経済学を学ぶ学生たちは次のように教えられたものだ。市場(経済における民間部門)は、完全雇用に向けて収束する傾向を有しておらず、乗数効果や加速度効果によって増幅された望ましからぬ景気変動に見舞われがちであるとともに、そこここに様々な種類の「市場の失敗」が存在している、と。加えて、次のようにも教えられたものである。だがしかし、慈悲深くて有能な民主主義下の政府が打ち出す政策を通じて、マクロ経済の安定化を実現し、大半の「市場の失敗」を是正する――「市場の失敗」の是正を通じて、経済厚生上の損失を軽微なものにとどめる――ことは可能である、と。

翻って50年後の今日、経済学を学ぶ学生たちは次のように教えられる。民主主義下の政府は、価格や生産量の余計な変動を生み出す。政府に対して適当な制約を課すことができれば――例えば、中央銀行に対して独立性を付与するなどして――、自由な市場は、完全雇用の実現をはじめとした多くの恩恵をもらたすことになる、と。50年の間に、マクロ経済政策に関する教義の焦点が、民間部門の安定化を図ることから、公共部門に制約を課すことへとシフトすることになったわけである。

過去50年の間に経済に関する視座に大きなシフトが生じることになったわけだが、この半世紀というのは、経済分析におけるテクニカルな面で大きな進展が見られた実り豊かな時期でもあった(Blanchard 2008)。しかしながら、この半世紀の経済学の歩みが示しているのは、自らが作り出した時流の表面をあてもなく漂いながら、ただただ途方に暮れている経済学の姿である。現在の経済学は、その分析用具を用いて明らかにするはずの現実の経済の性質に関して地に足のついた理解を得ることができないでいるのだ。

Neoclassical syntheses(新古典派総合)

20世から21世紀へと向かう世紀の転換点のあたりで、振り子が反転を始めた――といっても、その振れ幅は、それほど大きなものではなかったが――。マクロ経済学における「淡水学派」(“freshwater”)と「海水学派」(“saltwater”)との間に、「新-新古典派総合」(New Neoclassical Synthesis)として知られる「汽水」(“brackish”)的な妥協が成立することになったのである。「海水学派」たるニューケインジアンの面々は、ニュークラシカルの手によって開発された動学的確率的一般均衡(DSGE)モデルを受け入れた。その一方で、「淡水学派」たるニュークラシカルの面々は、ニューケインジアンによって長らく研究されてきた、市場における 「摩擦」(“frictions”)や資本市場における「不完全性」(“imperfections”)を受け入れるところとなったのである。

この「新しい総合」は、50年前の「古い総合」と同様の想定に立っている。すなわち、現実の経済は、安定的な一般均衡システムのように振舞い、基本的には均衡に向かう傾向を有しているものの、その傾向が時折「摩擦」によって妨げられることがある、との想定に立っているのだ。「新しい総合」の立場に立つ経済学者は、目下の出来事(金融危機に端を発する世界的な経済危機)は理論的に説明可能な現象であると言い張ろうとしているが、既存の理論では現在の危機はうまく説明できないのだ。

私の判断では、新旧どちらの総合も間違っている。新旧どちらの総合も、市場経済の性質に関する根本的な誤解を抱えている。「摩擦を伴う安定性」(“stability-with-frictions”)が支配的なパラダイムである限りは、経済分析におけるテクニカルな面でいかなる進展があろうとも、現実の経済の理解の面で真の進歩がもたらされることはないだろう。現実の経済の理解の面で真の進歩を実現するためには、現代経済における真の不安定性の問題に正面から立ち向かわなければならないのだ。

A complex adaptive system(「複雑な適応システム」としての経済システム)

現実の経済は、適応的な動的システム(adaptive dynamical system)である。現実の経済は、時に「市場メカニズム」と呼ばれるところの自己規制的な(self-regulating)特性――均衡に向かう特性――を有しているものの、「市場メカニズム」は、複雑なシステム内部で展開される様々な経済活動間でのコーディネーションを必ずしも保証するものではない。約40年前に遡るが、この点に関連して「回廊仮説」(“corridor hypothesis”)と呼ばれる仮説を私なりに展開したことがある。「回廊仮説」の概要は、こうである。何らかのショックが生じて経済が均衡状態から離れることがあったとしても、均衡経路付近の「回廊」の内部にとどまっていれば、「古典派」的な調整が働いて経済は再び均衡に復することになる。しかし、回廊の外側にある「ケインジアン」的な領域では、市場に備わる自己規制的な力は損なわれる。それゆえ、均衡からの乖離が大きくて、経済が回廊の外側に位置するような状況では、政府による安定化政策の助けがない限り、経済は再び均衡に復することができないかもしれない。

「回廊仮説」に関するオリジナルの議論では、逸脱増幅的な(deviation-amplifying;均衡からの乖離を促すような)乗数効果について細かく検討が加えられたが、逸脱増幅的なプロセスに目を向けるというのは稀なケースに着目しているように見えて、説得的に感じられないかもしれない。しかしながら、経済システム以外の他のあらゆる複雑な動的システム――人工的なものであれ、自然環境下に存在するのものであれ――においては、ホメオスタシスの働きに限界が存すると言われていることも事実である。この点に関して、経済システムだけが例外というのはありそうにない。

経済システムの状態空間(state-space)上には、均衡に向かう特性を備えた領域に加えて、逸脱増幅的なプロセスが作動して均衡に向かう特性の力が削がれる領域も存在すると見なしても、それほど的外れではないだろう。しかしながら、話はここで終わらない。現在の危機は、乗数効果以外の――そして、その効果が発動する領域が乗数効果ほど限定されてはいない――不安定性を引き起こすポジティブ・フィードバック・ループの例をいくつか明らかにしているのだ。例えば、銀行によるデレバレッジ(債務の圧縮)がそうだ。銀行がデレバレッジに取り組めば、ビジネス部門に対する信用(銀行貸出)の供与が削られることになる。その結果として、不況がさらに深まって、銀行が保有する資産の毀損がさらに進むことになれば、銀行がデレバレッジを通じてバランスシートを縮小させようとするインセンティブは一層高まることになるだろう。不安定性を引き起こすフィードバック・ループの中でも最も危険なのは――これまでのところは、どうにかして回避してきているが――、フィッシャー流のデット・デフレーションである。経済システムの状態空間上には、いかなる犠牲を払ってでも避けるべき領域が存在するのだ。

この種の「衝撃-波及」(impulse-propagation)の枠組みでは、ショック(衝撃)の発生に伴ってシステムが均衡から大きく離れた場合に、システムがどのように振舞うことになるかという点が問われることになる。この枠組みにおいては、衝撃は外生的なものと見なされていることもあって、不安定性が内生的に引き起こされる可能性が見過ごされてしまうおそれがある。

過去200年の経験を通じて学び取られてきたことの一つは、部分準備銀行制度(fractional reserve banking)には内生的な不安定性が備わっているということだ。部分準備銀行制度に備わる「金融的な不安定性」が商業銀行システムを超えて波及する可能性を説いたのは、ハイマン・ミンスキー(Hyman Minsky)だ。ミンスキーは、次のように主張した。危機に晒されないでいる期間が長引くと――最近の「大平穏」(“Great Moderation”)期のように――、人々がリスクを引き受けるのに抵抗を感じなくなり、それに伴って経済システムは「金融的に脆弱な」状況に置かれるようになる。そして、脆弱なシステムは、遅かれ早かれ崩壊することになるだろう、と。

Systemic problems(システミックな問題)

現在世界経済が直面している喫緊の問題には、「摩擦を伴う安定性」に基づくマクロ経済理論によって無視されてきた「3つの不安定性」が絡んでいる。「3つの不安定性」については、私もこれまでにVOXの論説で詳しく論じてきたところだ(Leijonhufvud, June 2007, January 2009, and July 2009)。
  • レバレッジの不安定性(Instability of leverage):ライバルよりも何倍も高い収益を獲得しようとして、どの金融機関も歴史的に見て極めて高率のレバレッジをきかせた取引に臨んだ。それに伴って、リスクスプレッドは歴史上最低の水準にまで縮小することになり、金融機関のバランスシートにはやがて「不良債権」(“toxic”)へと化すことになる資産が大量に計上されることになったのであった。
  • 連結性(Connectivity):かつてのアメリカの金融システムは、グラス=スティーガル法によって異なる業務分野――異なる業務分野は、投資可能な資産の種類と、発行可能な負債の種類によって区別された――の間で分断されており、異なる業務分野で活動する金融機関が互いに直接競争することはなかった。しかしながら、規制緩和が進んだ結果として、金融機関が形成するグローバル・ネットワークの連結性が急激に高まることになった。1980年代のアメリカで生じたS&L危機は非常に大きなコストをもたらしたが、その影響が及んだのはアメリカの住宅金融部門だけだった。現在の危機もアメリカの住宅金融部門に端を発しているが、(金融機関相互の連結性の高まりを背景として;訳者挿入)その影響は世界中にまで波及することになったのである。
  • 物価水準の潜在的な不安定性(Potential instability of the price level):アメリカの消費者物価は、中国をはじめとした貿易相手国による為替レート政策(為替安(人民元安etc)政策)と、中国をはじめとした新興国からの安価な製品の輸入に支えられて、10年間にわたって安定を保つことになった。さらには、「大平穏」(The Great Moderation)期を経て、予想インフレ率のボラティリティも低下することになった。今後これらの条件に変化が生じるようであれば、 「インフレ目標+マネタリーベースの内生的な調整(受動的な供給)+唯一の政策手段としてのFF金利」といった特徴を備えた金融政策の既存の枠組みは、金融面での安定を保つには不適切であることが判明するに違いない。

Current issues(現在の課題)

注意を払ってその成り行きを見守るべき課題は、以下の4つである。
  • 前途に立ちはだかっている脅威は、二つのタイプに分けられる。日本型の景気停滞と、ラテンアメリカ型の高率のインフレーションである。通常であれば、どちらの脅威もほとんどあり得ないことであり、起き得る事象をその可能性の高い順に列挙したリストのかなり下の方に位置することだろう。しかしながら、①高水準の政府債務残高、②社会保障財源の大規模な積み立て不足、③大幅な財政赤字という事実に照らせば、どちらの脅威もまったくあり得ないこととは言い切れないのだ。財政問題を決然と解決することに伴う政治的な困難を思えば、財政にまつわる問題はあくまで一時的な苦境であるとは言えないであろう。スキュラとカリブディスの間の航行可能な経路(ルート)は、かなり狭まってきている(進退はかなり窮まってきている)のだ。
  • 今後の政策の方向性を見極めるにあたり、念頭に置いておくべき非常に重要な事実がある。今般の危機の最中に繰り出された金融機関の救済策(ベイルアウト)や財政出動のおかげで財政赤字が極限にまで膨らんだために、将来的にバブルが崩壊した場合にそれに対処できるだけの財政面での余地(財政政策で対処できる余地)がもう残されていないという事実がそれだ。そのことを踏まえると、政策はフェイルセーフ(fail-safe)モードで運営されるべきである。現下の超低金利政策は、フェイルセーフの発想に基づくものとは言えない。低金利政策の目的は、景気のさらなる悪化を避けるために、資産価格をできるだけ引き上げることにある。それは細心の注意を要するオペレーションであって、フェイルセーフの発想に基づくものとは言えないのだ。現下の低金利政策は、民間の銀行に対して、高いレバレッジをかけて満期転換〔訳注;短期で調達した資金を元手に、満期が長期の資産に投資する〕に励むゲーム――現下の危機を招く原因となったゲーム――を再開するよう促す強力なインセンティブを醸成しつつある。民間の銀行がそちらの方向に舵を切りつつあるのは明らかだ。
  • 今回の危機をもたらした重要な犯人と言えば、高いレバレッジである。再び危機が発生するリスクを減らすためには、レバレッジを抑制する方向に向かわねばならない。しかし、各国の政府は、金融部門がデレバレッジをすすめるのに乗り気ではないようだ。金融機関がデレバレッジをすすめたら、その過程で資産価格が下落するだけでなく、信用(銀行貸出等)が抑えられることになり、そのせいで不況が一層悪化するかもしれないと心配しているようなのだ。じゃあ、問いたいと思う。今じゃないとしたら、一体いつならいいのだろうか?
  • 各国の中央銀行は、「出口戦略」――セントラルバンカーらによると、出口戦略というのは、風変わりな〔訳注;「風変わりな」=通常であれば中央銀行が買い取らないだろう、という意味〕資産が混在するかたちで大きく膨らんだバランスシートを正常な状態に戻す〔訳注;バランスシートの規模ならびに資産構成を平常時の状態に戻す〕ことを意味しているらしい――に乗り出す機会をうかがっているが、おそらく思い通りにはいかないだろう。たとえ首尾よくいったとしても、将来また今回のような危機が生じたら、今回のようになりふり構わないかたちで非伝統的な政策に打って出なければいけなくなるだろう。それもこれも、既存の制度的な枠組みの下では、中央銀行の責務がどこまで及ぶのかがはっきりと確定していないことに原因があるのだ。この問題を解決するには、金融システムに新たな規制を課すしかないと思われるが、規制の具体的な中身となるとよくわかっていないのが現状だ。


<参考文献>

〇Blanchard, Olivier (2008), “The state of macro”, NBER Working Paper 14259.
〇Leijonhufvud, Axel (2007), “The perils of inflation targeting”, VoxEU.org, 25 June 2007
〇Leijonhufvud, Axel (2009), “Fixing the crisis: Two systemic problems”, VoxEU.org, 12 January.
〇Leijonhufvud, Axel (2009), “Curbing instability: policy and regulation”, VoxEU.org, 11 July.
〇Leijonhufvud, Axel (2009), “Macroeconomics and the Crisis: A Personal Appraisal”, CEPR Policy Insight 41, November.

Robert E. Hall and Susan Woodward 「インフレのコントロール手段としての準備預金金利の操作」


Robert E. Hall and Susan Woodward, “Fed can control inflation with reserve interest-rate policy”(April 13, 2009)


Fedによる金融危機対策の結果として、民間銀行が保有する準備預金残高が驚くほどの高水準に達している。この事実を前に、多くの論者の口から、将来的にインフレの過熱につながるのではないか、出口戦略の足かせとなってしまうのではないか、といった懸念の声が表明されている。本論説において我々は、Fedは、準備預金に支払われる金利水準の操作を通じて、インフレをコントロールすることができる、と主張する。結果として、Fedは、将来的にインフレが過熱してしまうかもしれないとの恐れに囚われることなしに、出口戦略に乗り出すことができるようになるであろう。本論説で論じるように、Fedは準備預金金利の操作を通じてインフレをコントロールすることができるが、インフレをコントロールする手段として準備預金金利の操作に訴えるにあたってはそうする旨を公に広く宣言すべきである。


More and more one hears the concern that the Fed has embarked on an expansionary policy that will result in high inflation once the economy returns to normal. John Taylor, a leading expert in this area, put the argument as follows, in recent Congressional testimony:

“… the enormous increase in reserves is potentially inflationary. Many people ask me if it is inflationary, so I know it is on people’s minds. With the economy in a weak state and commodity and many other prices falling, inflation is not now a problem, but at some time the Federal Reserve will have to remove these reserves or we will have a large increase in inflation…Recall that increases in money growth affect inflation with a long lag. The question is whether the Fed will be able to reduce the reserves in time and whether people will expect the Fed to do so. If reserves get to the level [implicit in recent policy announcements] it will have to sell a huge amount of securities backed by consumer credit, mortgages, student loans, and auto loans. This will be difficult to do politically.”

Chairman Bernanke responded to this view in January, but his answer – basically what we view as the correct one – received little attention and did not alleviate the misconception of incipient inflation that has spread widely since then.

A common way to express the concern is that the Fed has created huge amounts of money and that it will not be able to shrink the money supply in time to avert inflation as the economy recovers. This way of expressing the issue is completely confusing, because it equates reserves with money.

Reserves, money and inflation

The Fed now pays interest on reserves, so the connection of reserves to money is not mechanical but requires a modern analysis that includes the role of the interest rate on reserves. Though many central banks now pay interest on reserves, the extension of monetary theory to include that new factor has remained obscure. Only little-known academic studies such as “Controlling the Price Level” and “Optimal Fiduciary Monetary Systems” have considered the issue.

Reserves are interest-bearing obligations of the Federal Government, enjoying the same safety and liquidity as Treasury bills. Reserves form the core of the payments system. Anybody can trade reserves dollar-for-dollar for currency by cashing a check, withdrawing from an ATM, or depositing currency in a bank account. Financial obligations stated in dollars can be met definitively by writing a check, which is an instruction to one bank to transfer reserves to another bank.

Banks must hold reserves of 10% of the amounts in their depositors’ checking accounts (required reserves), but this requirement is not binding today, as banks are holding vastly more than their required reserves.

When standard old-fashioned monetary theory applies

When the Fed pays interest on reserves at a rate well below market rates – in particular, well below the Fed funds rate governing borrowing and lending among banks – banks economize on reserves. If the margin between the Fed funds rate and the reserve rate is large, say several percentage points, banks will hold only required reserves. In this case, standard old-fashioned monetary theory applies, taught to generations of freshman principles students as the “multiple expansion of deposits.”

Suppose we start with deposits of $100 billion and reserves of $10 billion, so banks hold no reserves in excess of requirements. Then the Fed creates another $1 billion of reserves. Banks will expand their activities to try to avoid holding excess reserves, which are undesirable because they pay interest far below market rates. The economy expands as a result, depositors hold more in their checking accounts – $110 billion to be precise – and banks no longer hold excess reserves. The economic expansion is a combination of more real activity and higher prices. An expansion of reserves raises the rate of inflation over some period, generally thought to run from about a year after the expansion to around four years.

This conventional analysis always applied when the Fed paid zero interest on reserves and market rates were in the range of 5% or more. Banks used sharp-pencil policies to avoid holding excess reserves. Manipulation of the quantity of reserves gave the Fed powerful and direct and direct control over economic activity and inflation.

Today’s situation: No risk of excess inflation

When reserve interest rates and the Fed funds interest rate are close to each other, the situation is quite different. Banks are happy to hold excess reserves which pay just as much as could be earned on other safe investments. Expansion of reserves results mainly in expansion of excess reserves and has little effect on bank lending. Rather than stimulating economic activity and raising the volume of bank deposits, an expansion of reserves just adds to banks’ holdings of reserves. The Fed loses its control over economic activity. In particular, expansion of reserves is not inflationary when the reserve rate and Fed funds rate are the same. There is no risk of excess inflation in today’s economy.

Equality of the reserve rate and the funds rate comes about in two ways. One is for the funds rate to fall toward the reserve rate. Prior to October 2008, the reserve rate was always zero. Thus, as the funds rate approaches zero, the mechanical connection between reserves and economic activity vanishes. This limitation on the Fed’s ability to stimulate the economy has long been known.

The second way the two rates could become equal is for the reserve rate to rise to the level of the funds rate (or even a bit above, as it has since October). Note that both factors have operated in recent months. When the Fed started to pay interest on reserves in October, it set the rate at 0.75% or 75 basis points. The current rate is 25 basis points.

The reserve interest rate and contractionary policy: Fed’s inexplicable decisions

Raising the reserve interest rate is a contractionary measure. A higher interest rate on reserves makes banks more likely to hold reserves rather than increasing lending. The Fed’s decision to raise the reserve rate from zero to 75 basis points just as the economy entered a sharp contraction in activity is utterly inexplicable. Fortunately, the Fed lowered the reserve rate subsequently, but the continuation of a positive reserve rate in today’s economy is equally inexplicable.

Some economists have proposed that the Fed charge banks for holding reserves, an expansionary policy worth considering. With the Fed funds rate at around 15 basis points, it would take a charge to restore the differential that drives banks to lend rather than hold reserves. Were the Fed to charge for reserves, they would become the hot potatoes that they were in the past, when the reserve rate was zero and the Fed funds rate 4 or 5%. Banks would expand lending to try not to hold the hot potatoes and the economy would expand. There is no basis for the claim that the Fed has lost its ability to steer the economy. (However, the Fed would have to go to Congress to get this power, as it did to get the power to pay positive interest on reserves.)

A new monetary lever: Margin between Fed funds rate and reserve rate

The basic point emerging from the analysis of the role of the reserve interest rate is simple: The margin between the Fed funds rate and the reserve rate is a potent new tool for stabilizing the economy. When the Fed wants to expand, it should raise the margin. In today’s economy, this would call for a negative reserve rate, that is, a charge to banks for holding reserves. When the time comes to move to a tighter policy, the Fed should lower the margin. At that time, the Fed would raise the reserve rate for two reason: first to reduce the margin and second to follow increases in market interest rates that will occur in a recovery.

So the question John Taylor posed – how can the Fed control inflation in coming years when it is committed to have a large volume of reserves outstanding to finance its purchases of illiquid assets? – has a simple and effective answer: The Fed should raise the rate its pays on reserves as needed to control economic activity and inflation. It is unnecessary for the Fed to cut its reserves to low levels once the economy approaches normal conditions. Rather, it only needs to raise the reserve interest rate to a point sufficiently close to market rates to make banks willing to hold excess reserves.

Adaptive policy on the reserve rate

How should the Fed pick the level of the reserve interest rate? The policy for the reserve rate should be basically the same as the successful policy for the Fed funds rate that delivered exceptional stability to the economy from the mid-1980s until the current crisis. During that period, the Fed set the funds rate adaptively – when the economy seemed headed for overheating and excess inflation, it raised the funds rate to cool the economy off. When the economy stumbled, as in 2001 and in 2008, the Fed cut the funds rate to low levels. The resulting record on inflation was outstanding – the inflation rate remained in a tight band cantered on about 2.5%.

One of the best ways to judge the performance of the Fed is to look at the consensus forecast for inflation over the coming two years. For the past 20 years, the forecast was right on 2 to 3% with few exceptions. Today the consensus is for too little inflation – only 1.2% in 2009 and 2010 and 1.7% in 2011. So inflation forecasts call for expansion. Once the forecast rises to around 2.5% for the coming two years, the Fed should raise the reserve interest rate and reduce the volume of reserves (to the extent permitted by the liquidity of its portfolio at that time) as needed to keep the forecast at around 2.5%. The Fed can pick a combination of a higher reserve rate and a lower volume of reserves to cool the economy sufficiently to keep inflation on target.

Policy announcement the Fed should make

The Fed needs to issue a pronouncement along the following lines to assure the public that there is no need for concern about inflation after the recovery and to reaffirm its historical commitment to stable and low inflation:

The Federal Reserve is fully committed to a policy of stable and low inflation. Though the Fed has not adopted a quantitative target for a specific measure of inflation, its actual performance over the period from 1987 through 2007 is indicative of its goal for the future. The Fed will continue its efforts to expand the economy this year, when inflation appears to be well below its normal range. Its past and planned expansionary policies during the current period of extreme stress will result in a large expansion of reserves. The Fed will use its authority to pay interest on reserves as needed to prevent excessive inflation as the economy recovers.

Even the St. Louis Fed has missed the point that reserve interest policy can take care of an overhang of reserves. An article in its Review that discusses interest on reserves nonetheless concludes: “The key is that the Fed will have to drain reserves when the economy begins to recover if it is to prevent a rapid acceleration of inflation. That necessity drives the current discussion of exit strategies.”

The (incorrect) logic in the article is that as long as the Fed has a high volume of reserves outstanding, they must be held by the banking system and thus the monetary base must be large and inflationary. It misses the point that banks can be coaxed into just the right demand for excess reserves to ensure the desired inflation rate, by paying the right interest rate on reserves. The exit strategy from the Fed’s holdings of illiquid assets need not be constrained by concerns about inflation, because reserve-rate policy can take care of inflation.


<参考文献>

〇Hall, Robert (2002). “Controlling the Price Level”, Contributions to Macroeconomics, Volume 2, Issue 1 2002 Article 5.
〇Hall, Robert (1983). “Optimal Fiduciary Monetary Systems” Journal of Monetary Economics.
〇Taylor, John B. (2009). “Monetary Policy and the Recent Extraordinary Measures Taken by the Federal Reserve,” Testimony before the Committee on Financial Services, US House of Representatives, February 26, 2009.

Willem Buiter 「マイナス金利の素晴らしき世界」

Willem Buiter, “The wonderful world of negative nominal interest rates”(VOX, June 4, 2009)
中央銀行にマイナス金利(マイナスの名目金利)の設定を求める声が幾人かの経済学者の間から上がっている。本稿では、名目金利のゼロ下限制約を乗り越えるための三つの手段――①現金の廃止、②現金への課税、③新通貨を導入して、(通貨が果たす諸機能のうち)計算単位としての機能と交換手段としての機能を切り離す――の検討を通じて、マイナス金利をめぐる基本的なポイントの説明を試みる。

私は、つい先頃までヨーロッパ中央銀行(ECB)の本店があるフランクフルトに滞在していた。フランクフルトを訪れた理由は、マイナス金利(および、名目金利のゼロ下限制約)がテーマの講演(pdf)の依頼を受けたからだった。どういうわけだか、マイナス金利をめぐる議論は、オバマ大統領を批判するのと同じくらい熱気のこもった感情的なリアクションを呼び起こすようだ。この話題については私も過去に論説のかたちで論じたことがあるのだが、その際に読者から寄せられたリアクションを踏まえて、今後この話題について論じる時には「この文章を読むと、健康を害する恐れがあります」との警告文を添える必要があるのではないかと考えたほどだった。その熱気や感情的なリアクションの原因は、マイナス金利に関する初歩的なロジックがびっくりするほど理解されていないせいだと思われるので、まずは基本的なポイント〔原注;ロバート・ホール(Robert Hall)らによるこちらの論説でもマイナス金利について取り上げられている。あわせて参照されたい〕から説明をはじめることにしよう。

本稿の目的は、金融政策に内在する非対称性――馬鹿げた非対称性――を取り除くための処置を論ずることにある。名目金利がゼロ%の現金なるものが存在するために、それ以外のあらゆる金融資産の名目金利はゼロ%以下にはなり得ない(実際のところは、現金の持ち運びにはコストがかかるので、銀行預金などの金融資産の名目金利は少々であればマイナスになり得る。しかし、この点はあくまで二次的な問題なので、以下では無視することにしよう)。その結果として、金融政策に非対称性が持ち込まれてしまうのである。どういうことか? インフレが過熱しそうであれば、中央銀行は自らが適当だと判断する水準にまで政策金利を引き上げて対処することになる。政策金利には、上限はない 。その一方で、デフレに陥りそうだったり、景気が悪化しそうなおそれがあると、中央銀行は政策金利を引き下げて対処するだろうが、政策金利はゼロ%までしか引き下げられない。政策金利には、ゼロ%という下限が存在するのである。政策金利がゼロ%まで引き下げられた後はというと、量的緩和や信用緩和をはじめとした非伝統的な金融政策(unconventional monetary policy)の出番ということになる。

名目金利と実質金利を混同しないように注意してもらいたいと思う。インフレの影響を除去した実質金利(=名目金利-インフレ率)が事後的にマイナスを記録した例は、これまでに何度もある。金融資産から得られる収益(名目金利)がインフレ率を下回ったためである。特にアメリカに言えることだが、今後インフレが起きて実質金利がマイナスを記録する可能性は十分にあるだろう。

もう一点だけ注意してもらいたいことがある。私としては、通貨やそれ以外の資産の名目金利なり実質金利なりをいつまでもマイナスにとどめておけと提唱するつもりはない。本稿の目的は、中央銀行が短期のリスクフリー(無リスク)金利――政策金利――を操る能力に内在している非対称性を取り除くための三つの手段について論じることにある。三つのうちのどれか一つでも採用されたら、マイナス金利への道が開かれることになろう。しかしながら、実際に政策金利をマイナスにまで引き下げるべきかどうかは、あくまでも実証的な問題である。ところで、FRBのスタッフがアメリカ経済の計量経済モデルに依拠して行ったいくつかの研究によると、ゼロ下限制約が存在しないとしたら(名目金利をマイナスにまで引き下げることが可能だったとしたら)、テイラー・ルールからはじき出されるFF金利(政策金利)はマイナス5%――FF金利をマイナス5%にまで引き下げるのが望ましい――との結果が得られている。もしも名目金利をマイナスにまで引き下げることが可能だったとしたら、主要な中央銀行は例外なく――Fedも、ECBも、イングランド銀行も、日本銀行も――、景気後退からの脱却を目指して疾(と)うに政策金利をマイナスにまで引き下げていたろうと思われるのだ。

ゼロ下限制約を乗り越えるための三つの手段

名目金利のゼロ下限制約を乗り越えるための手段としては、以下の3つが考えられる。
1.現金の廃止
2.現金への課税
3.新しい通貨(ルド)を導入するのと引き換えに、既存の通貨(ドル)を廃止する。そうして、計算単位(ニュメレール)と交換手段(支払い手段)とを切り離す。新たに導入されるルドが交換手段として用いられるようになる一方で、ドルはそのまま計算単位として機能し続けることになろう。加えて、政府によって、ドルとルドとの間に交換レート(為替レート)が設定されることになろう。ドルはもう交換手段ではなくなるので、ドルで測った名目金利に関してはゼロ下限制約は存在しなくなるだろう。その一方で、新たに交換手段となるルドで測った名目金利に関してはゼロ下限制約が存在することになるだろう。中央銀行が政策目標を達成するためにドルで測った名目金利をマイナス(例えば、マイナス5%)に設定する必要が生じたとしても、中央銀行が将来的にドルをルドに対して増価させる(今よりも5%だけドル高ルド安の方向に向かう)旨を宣言してそれが信頼されるようなら、ルドで測った名目金利はゼロ%を下回らずに済むだろう。
まず1番目の手段に関して言うと、政府が発行する現金が廃止されても、民間の支払い手段(銀行口座宛ての小切手、クレジットカード、デビットカード、デジタル通貨)を使って取引の決済のほとんどを行うことができる。(民間の銀行だけではなく)一般市民も中央銀行に預金口座を持てるようにするという手もある。その口座を使って決済する時は、日頃から付き合いのある商業銀行なり貯蓄銀行なり郵貯なりが代わりに相手側の口座に振り込んでくれることだろう。口座に残高がある場合は、その時々の経済情勢に応じて、プラスの金利が支払われたり、マイナスの金利が課せられたりするだろう。

現金に課税するという2番目の手段にまつわる主要な問題は、名目金利をマイナスにまで引き下げる必要が出てきた時に、現金の保有者にいかにして金利(税金)を支払わせたらいいか、という点である。紙幣に発行日時が記載されているようなら――大抵の紙幣はそうなっているが――、紙幣が法定通貨として通用する期間(満期)を発行日時ごとに定めて、告知すればいいだろう。そして、手持ちの紙幣が満期を迎える前に中央銀行に足を運んで金利(税金)を支払うようにさせればいい。満期前にきちんと金利(税金)が支払われた紙幣には、スタンプを押すか、何らかの印を付けるようにすればいいだろう(スタンプが押されているか、何らかの印が付いている紙幣に限って、その後も法定通貨として通用するようにする)。

つい最近のことだが、グレッグ・マンキュー(Greg Mankiw)が自らのブログで、紙幣に満期を設けるためのよく練られた案を紹介している。マンキューによると、学生の発案らしい。チャールズ・グッドハート(Charles Goodhart)も長年にわたって同じような案を唱え続けている。この案のポイントをまとめると、以下のようになる。
①どの紙幣にも、末尾が0から9のいずれかの整数で終わるシリアル番号(記番号)が記載されているのはご存知の通り。
②どの紙幣にも、印刷された年度を記載するようにする。
③1年に1度、あらかじめ決められた日に、中央銀行が0から9のいずれかの整数をランダムに選ぶ。
④その年あるいはそれ以前の年に印刷された紙幣のうちで、シリアル番号の末尾の整数が③でランダムに選ばれた整数と一致する紙幣は法定通貨としての地位を失う。その紙幣を中央銀行に持って行っても、同額の現金や何か他のものと交換してもらえなくなる。
⑤10分の1の確率で紙幣が無価値になるわけだから、紙幣(現金)の期待名目金利はマイナス10%ということになる。デフレに断固たる決意で立ち向かおうとする中央銀行に行動の余地を与えるには十分だろう。
この案は、イギリスで発行されている割増金付き公債(British Premium Bond)――利子も支払われず、キャピタルゲインも得られないが、抽選で賞金が当たる公債――のマイナス金利バージョンということになろう。

ただし、この案には一つの問題がある。マンキューやグッドハートは気付いていないようだが、ある紙幣が法定通貨としての地位を失ったからといって、その価値に影響が生じる(無価値になる)とは限らないのである。不換紙幣(fiat money)の価値は、人々の信念――人々がその紙幣にどのくらいの価値があると考えるか――に依存している。法定通貨としての地位を失った紙幣の価値が――マンキューやグッドハートが予想するように――ゼロとなる可能性(無価値の紙切れに化す可能性)も勿論ある。しかし、不換紙幣がいくらか価値を持つためには、法定通貨としての地位は欠かせないわけじゃない。抽選の結果として法定通貨の地位を剥奪された紙幣が同じ額面の紙幣――法定通貨の地位にとどまっている紙幣――とその後も変わらず同等であり続ける――等価物として交換され続ける――可能性も残されているのである。

となると、法定通貨としての地位を剥奪するだけではなく、法定通貨としての地位を失った紙幣を押収する可能性を仄めかしたり、その紙幣の所有者に何らかの罰金やペナルティーを科す可能性を仄めかしたりする必要もあるかもしれない。現金への課税は、個人の資産に対する過度な侵害行為と感じられるかもしれないし、実務的にも手間がかかって面倒かもしれない。その一方で、現金への課税に魅力を感じる為政者もおそらくいることだろう。

どれが価値の貯蔵手段に選ばれる?

冒頭でも触れた私の論説には実に色んなコメントが寄せられたが、その中でも最も早とちりしたコメントはおおよそ次のようなものだった。「名目金利がマイナスになれば、みんなこぞって別のかたちで価値を貯蔵しようとする――現金の代わりに、新たな価値の貯蔵手段を探すようになる――だろう」。マイナス金利の狙いは、まさにそこにあるのだ。みんなが現金(あるいは、名目金利がマイナスの短期金融資産)の代わりに、それ以外の資産――望むらくは、実物資産やコモディティ(一次産品)――の取得に向かうよう促すことが狙いなのだ。ぴったり狙い通りにはいかないかもしれないが、ほぼほぼ狙い通りにはなるだろう。この点について、以下でもう少し突っ込んで論じるとしよう。

上で掲げた三つの手段のうちのどれが採用されたとしても、名目金利がマイナスになる時には、現金が価値の貯蔵手段として選ばれることはないだろう。1番目の手段では、そもそも現金は廃止されている。2番目の手段では、現金の(期待)名目金利はマイナスなので、価値の貯蔵手段として好ましいとは言えない。3番目の手段では、ルド(新しい通貨)の名目金利はゼロ%以下にはならないが、ドルがルドに対して増価するので、名目金利がマイナスのドル建て債券よりもルドの方が価値の貯蔵手段として優れているとは言えない。

価値の貯蔵手段としてコモディティが選ばれることはあるだろうか? 非耐久財のコモディティが価値の貯蔵手段として選ばれるようなら、消費(コモディティ消費)が急伸するということになろう。耐久財のコモディティが価値の貯蔵手段として選ばれるようなら、話を単純にするためにそのコモディティから得られる限界的な便益(使用価値)がずっと変わらないとすると、裁定の結果として [2]そのコモディティの価格は名目金利と同じ割合で低下する――名目金利がマイナスx%なら、毎期ごとにx%ずつ低下する――ことになるだろう。

価値の貯蔵手段としておそらく一番優れているのは、名目金利がマイナスの債券ということになろう。名目金利がマイナスであっても、民間の銀行は依然として利潤を稼ぐことができるだろう。というのも、銀行の利潤は、金利の絶対的な水準ではなく、貸出利率と借入利率の差に依存するからである。例えば、民間の銀行が中央銀行からマイナス5%の金利で資金を借り入れて、その資金をマイナス2%の金利で誰かしらに貸し出せば、金利5%で借り入れて金利8%で貸し出す場合と同額の利潤が生じることになる(ただし、二つのケースで取引金額が同じであれば)。

貯金を拠り所にして生計を立てている人は、マイナスの名目金利にどう対処したらいいだろうか? まずは、実質金利をチェックする必要があろう。かなりのデフレが起きていて、名目金利がマイナスでも実質金利はプラスになるようなら、貯蓄家は悠々とやり過ごせるだろう。その一方で、名目金利ばかりでなく実質金利もマイナスになるようなら、貯蓄家は資本(capital)を取り崩して生きていかざるを得ないだろう。そうこうしているうちに貧困に陥ったり、社会問題に発展したとすれば、詰め寄るべき先は財務省や社会保健省(Ministry of Social Affairs)である。中央銀行に詰め寄って困らせるようなことがなきよう。

中央銀行の掌中に「マイナスの名目金利」という手段が握られている未来――さぞや素晴らしき未来――に向けて、いざ踏み出そうではないか。

Tabellini 「世界金融危機の教訓;その2」


Guido Tabellini, “Lessons for the future: Ideas and rules for the world in the aftermath of the storm, Part II”(July 17, 2009)

今般の世界金融危機が将来の世界経済に対して示唆するところのインプリケーションに関していかなる結論を下すべきであろうか? 本論説では―本論説は2部構成のうちの第2のパートを成すものである―、財政・金融政策においてあらかじめ想定されておくべき出口戦略の輪郭を大まかに描くことを試みる。また、本論説においては、危機=パラダイムシフトを迫るような出来事(a paradigm-shifting event)、と見なすよりはむしろ、危機=一時的な混乱の時期(a temporary period of turmoil)、と見なすべきであることが主張される。


In light of the failings outlined in my previous column, we need an exit strategy. Even if recent events cannot be interpreted as a systemic crisis and only stem from a number of important technical problems in financial markets, they could become a major turning point if the recovery continues to be managed in the haphazard, improvised way it has been thus far.

In order to sustain intermediaries with financial problems, central banks have injected massive amounts of liquidity into markets. Within a few months of Lehman Brothers’ bankruptcy, the Federal Reserve’s balance sheet had almost tripled, and the Fed projects that it could triple again in the near future, reaching almost one-third of US national income. This huge amount of liquidity was immediately absorbed without generating inflation, because today everyone is markedly risk averse and wants to hold liquid, low-risk assets. In the near future, the risk is actually the opposite – the demand for liquidity still exceeds money creation, and this may produce deflation.

As we begin to exit the crisis, however, demand for liquidity will go back to normal levels, and fear of deflation will be replaced by the risk of inflation (or asset price inflation). To avoid it, policymakers will have to withdraw liquidity in a timely fashion. That is easier said than done. Too abrupt a change in monetary policy could induce losses on circulating assets, and the economy could plunge back into the crisis. But a belated intervention would not be sufficient to prevent the start of an inflation spiral. These difficulties are exacerbated by the weakness of currency markets, where the supremacy of the dollar as a reserve currency for Asian countries could be suddenly put into question. Successful monetary policy will most importantly require successful guidance of expectations, reassuring economic agents that price stability is a key objective.

Fiscal policy will face comparable, if not greater, difficulties. The IMF estimates that, on average, public debt in G20 economies will reach 110% of national income before 2014. And this is the best-case scenario – in the worst case, average public debt may reach 140% of income. Again, the US is among the most exposed countries, and according to the projections of Congress, the US deficit will continue to stay around 6% of national income until 2019, even under the assumption of a quick return to sustained growth (above 3.6% on average between 2011 and 2015). In order to avoid financial instability, tax rates will have to be raised significantly, and a credible and rigorous program of public debt reduction has to be announced soon.

But there is a further uncertainty here. Whereas monetary policy is managed by an independent bureaucracy according to technical criteria, fiscal policy stems from political processes whose outcomes are less predictable. It cannot be excluded that the expansion of the role of the state, started in order to temporarily counteract the crisis, will last longer and bring significant changes in the division of tasks between state and market, even in those countries in which the public sector has traditionally had more limited a role than in continental Europe.

Concluding remarks

How will this crisis be remembered in economic history books? As a systemic crisis and a turning point, or as a temporary, soon reabsorbed accident due to too rapid growth of financial innovation?

If we look at the causes of the crisis and the lessons to be drawn from it, the answer must clearly be the latter. In a nutshell, the crisis has burst due to a number of specific technical problems in the functioning and regulation of financial markets, and it has been exacerbated by a number of mistakes made during the management of the crisis. Although these are complex problems, they can be tackled and solved with appropriate, although deep, reforms of financial regulation. If we will be able to learn from these mistakes and manage the recovery from the crisis well, the economy will be back to how it used to be, and even better, with less excesses and more stability. Talking about a crisis of capitalism, the end of globalisation, the crisis of a whole system and of way of thinking would be a huge exaggeration.

This, however, does not mean that this outcome is obvious. The crisis is not over yet, and above all we still do not know how policymakers will address the difficulties linked to recovery from the crisis. Any technical or political mistake in this second phase may have long-lasting consequences for economic recovery, the allocation of economic power among the various parts of the world, and the division of tasks between state and market.