2013年8月30日金曜日

Tyler Cowen&Kevin Grier 「ムードに流される非合理的な有権者? ~カレッジフットボールの試合結果が大統領選挙の行方を左右する?~」(2012年10月24日)

Tyler Cowen&Kevin Grier, “Will Ohio State’s Football Team Decide Who Wins the White House?”(Slate, October 24, 2012) 

「民主主義の最大の弱みを知りたければ、平均的な有権者と5分間話してみるといい」( “The best argument against democracy is a five-minute conversation with the average voter.”) -ウィンストン・チャーチル

2012年の大統領選挙は、選挙人団の投票も一般投票のどちらもともに、接戦になりそうだ。有権者の投票行動を理解しようと努めるのはいつだって重要だが、選挙戦が緊迫している場合にはその重要性が一層増すことになろう。

有権者が挑戦者に希望を託して票を投じたり、現職に「ノー」を突きつけたりするのは、何が根拠になっているのだろうか? 有権者は、失業率、GDP、インフレ率のような経済変数を考慮に入れて誰に投票するかを決めているのだろうか? 失業率、GDP、インフレ率が改善しているのか悪化しているのかに応じて投票先を決めているのだろうか? それとも、各陣営が提示する政策方針書(position papers)の中身や候補者のこれまでの経歴(personal history)が鍵を握っているのだろうか? テレビで放映される候補者の選挙用CMや討論会でのパフォーマンスの出来は、有権者の行動に影響を及ぼすのだろうか?

そのどれでもないかもしれない。最近の研究によると、有権者が抱える非合理性(voter irrationality)は、思っている以上に恣意的なようだ。紙一重のきわどい選挙では、有権者がそこまで極端に非合理的でなくても最終的な結果が左右される可能性がある。それでは、有権者はどのくらい非合理的なのだろうか? 最近の研究の一つによると、投票が実施されるその同じ州で直前に行われたカレッジフットボールの試合結果がホワイトハウスへの切符を賭けたレースの行方を決定づける可能性があるという。

そのことを実証的に明らかにしているのが、アンドリュー・ヒーリー(Andrew Healy)&ニール・マルフォートラ(Neil Malhotra)&セシリア・モー(Cecilia Mo)の三人である。『米国科学アカデミー紀要』(Proceedings of the National Academy of Science)に掲載されている彼らの大変魅力的な論文で、大統領選挙、上院議員選挙、州知事選挙の直前に行われたカレッジフットボールの試合結果が有権者の投票行動にどんな影響を及ぼしたかが検証されている。どんな結果が見出されているかというと、投票日の直前(1週間以内)に行われたゲームで地元チームが勝利すると、現職の得票率がおよそ1.5ポイント(1.5パーセントポイント)上昇する傾向にあるという。観客動員数トップ20のチーム――ミシガン大学、オクラホマ大学、南カリフォルニア大学といったビッグチーム――が投票日の直前に勝利したとしたら、現職の得票率は3ポイント(3パーセントポイント)も上昇する傾向にあるというのだ。かなりの票数であり、接戦の選挙戦で勝利を掴む上で決して無視できない数だ。なお、以上の結果は、1964年から2008年にかけて行われたビッグマッチ62戦分のデータに実証分析を加えて見出されたものであることを断っておこう。ごく限られた試合や少数の選挙戦のデータが根拠になっているわけではないのだ。

スポーツのおかげで元気づけられて、日々を晴れ晴れと過ごせるようになるというのは、良い報せに違いないだろう。応援するチームが勝利すると、そのチームのファンは、競技場においてだけでなく、競技場の外でも幸せを感じる。満足感を覚える。幸せだったり気持ちが高ぶっていたりすると、現状に満足しがちになる。そして、現状への満足感が、現職の政治家を支持するというかたちをとって表れるわけだ。それがどんなに非合理的であろうとも。

ヒーリーらの論文では、あれやこれやの要因(経済的、人口統計学的、政治的な諸要因)にコントロールが加えられているので、先に言及した結果は大雑把な相関よりもずっと精緻なものだと言える。さらには、「予想」を考慮に入れた分析も試みられていて、地元チームが予想外の勝利を収めると、現職の得票率がおよそ2.5ポイント(2.5パーセントポイント)上昇する傾向にあることが見出されている。

フットボールだけじゃない。ヒーリーらの論文では、2009年度に行われた全米大学体育協会(NCAA)主催のバスケットボールトーナメントの試合結果が有権者の投票行動に及ぼした影響についても検討されていて、フットボールのケースとほぼ同様の結果が得られている。1948年~2009年の期間に実施された市長選挙を対象にして、プロバスケットボール(NBA)、プロフットボール(NFL)、プロ野球(メジャーリーグ)の試合結果が選挙に及ぼした影響を検証している別の研究によると、地元チームがシーズンで好調な成績を残すと、現職に追い風になることが見出されている。

ただし、カレッジフットボールだとかプロ野球だとかの試合内容が選挙の結果を決定づける「主要な」要因だとまで言うつもりはない。オクラホマ大学のスーナーズ(Sooners)が100連勝したとしても(現職の)オバマ大統領がオクラホマ州で勝てない可能性もあるし、UCLA(カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校)のフットボールチームがボロ負けを喫したのに(挑戦者の)ミット・ロムニーがカリフォルニア州で敗れる可能性もある。ESPNスポーツセンターが報じる試合のスコア以外の要因も大いに重要なことは言うまでもないのだ。

とは言え、驚くべき結果であることに変わりはない。ヒーリーらも指摘しているように、現職の政治家たちは、自分とは何の関係もない試合結果に対して称賛を受けたり責任を問われたりするというわけだから。我々がいかに気まぐれでムードに流されやすいかを示す証左であると言えよう。スポーツを含めたポップカルチャーが「投薬」された状態で日々の選択を行っているのかもしれないと考えると、ちょっとゾッとしてしまう。スポーツの試合結果がこんなにも重要な影響を及ぼす可能性があることを思うと、有権者が政治に関わる基本的な情報――経済のパフォーマンスに関するデータなど――を合理的に処理しているのかどうかについても疑ってかかるべきかもしれない。

さて、ここで極端なシナリオを想定してみるとしよう。今のところは、現職のオバマ大統領が挑戦者のミット・ロムニーを若干リードしているようだが、今回の選挙は接戦になるだろうというのが大半の専門家の見立てだ。共和党陣営が勝利するためには、フロリダ州、オハイオ州、ヴァージニア州の3つの激戦州(swing states)が鍵を握る可能性がある。

来る10月27日――投票日の1週間とちょっと前――に、オハイオ州で地元のオハイオ州立大学のバッキーズ(Buckeyes)がペンシルベニア州立大学のニタニー・ライオンズ(Nittany Lions)を迎え撃ち、フロリダ州で地元のフロリダ大学のゲイターズ(Gators)がジョージア大学のブルドッグス(Bulldogs)を迎え撃つ。大統領選が今後も接戦のまま進むようなら、これら2つの州で行われるフットボールゲームの試合結果がこれからの4年間にわたって誰がホワイトハウスで指揮を執るかを左右する可能性がある。夜遅くにオバマ陣営からバッキーズのヘッドコーチであるアーバン・マイヤーに電話があって、ブリッツ(守備の戦術)についてアドバイスが送られたり、ロムニー陣営からゲイターズに電話があって、ブルドッグスのラン・プレイを防ぐためのアドバイスが送られたり、・・・なんてことがあったりするだろうか? 大事なフォース(4th)ダウンでパントを選ぶかタッチダウンを狙うかによって、コーチ陣だけでなくそれ以外の面々の前途も変わってしまう可能性があるのだ。

地元チームの勝利は、ビール・ゴーグル効果の選挙版と言えそうだ。地元チームが勝ったせいで判断が曇らされて、翌朝になって後悔するわけだ。「そんなはずない」(“That just ain’t right”)と。

2013年8月28日水曜日

Bryan Caplan 「自然災害への政府の対応を歪ませる有権者の破滅的な投票行動」(2008年7月15日)

Bryan Caplan, “Disastrous Voting”(EconLog, July 15, 2008)


アンドリュー・ヒーリー(Andrew Healy)――実証的政治経済学の分野における新世代を代表する一人であり、私のお気に入りの学者の一人――が最新の論文で大胆な主張を展開している。自然災害は「神の仕業」(=不可抗力)という考えが一般的かもしれないが、アメリカの有権者(投票者)も(自然災害の)共謀者なのだというのがヒーリーの言い分だ。論文のアブストラクト(要旨)の一部を引用しておこう。

自然災害、政府支出、有権者の投票行動に関する包括的なデータの分析から明らかになることは、有権者は災害復旧(disaster relief)向けの政府支出に対しては票を投じて報いる一方で、災害予防(disaster prevention)向けの政府支出に対してはそうじゃないということである。有権者のこのような投票行動は、政府(現職)が直面するインセンティブに大きな歪みをもたらす。というのも、災害予防向けの政府支出は、将来の損害(将来起こり得る自然災害に伴って生じる被害)の大幅な抑制につながることがデータによって示されているからである。

本文で掲げられている二つの散布図――現職の得票率(の変化)と災害復旧向けの政府支出(の変化)との関係を可視化した散布図と、現職の得票率(の変化)と災害予防向けの政府支出(の変化)との関係を可視化した散布図――によると、現職の得票率(の変化)と災害復旧向けの政府支出(の変化)との間には正の相関が成り立つ一方で〔訳注;災害復旧向けの政府支出が増えると、現職の得票率が高まる傾向にある、という意味〕、現職の得票率(の変化)と災害予防向けの政府支出(の変化)との間にはこれといった関係が見出されないことがわかる。有権者のこのような投票行動を踏まえると、現職の政治家が災害復旧事業(票になる事業)に災害予防事業(票にならない事業)の15倍もの予算を投じているのも何ら驚くようなことじゃない。

災害予防向けの政府支出が役立たずで効果が無いようなら、憂(うれ)えるような話じゃないだろう。しかしながら、ヒーリーも証拠を挙げているように、災害予防向けの政府支出はリターンが大きい(大きな効果が期待できる)のだ。

有権者は、政府による災害予防には効果が無いと判断しているのかもしれない。その可能性を検証するために、災害予防向けの政府支出の効果の推計を試みるとしよう。
・・・(中略)・・・
災害予防向けに平均で年間1億9500万ドルの予算が投じられて、災害の被害額の平均が165億ドルと想定するなら、災害予防向けの政府支出が1ドル増えると、災害の被害額が8.30ドル減るというのが回帰分析から得られる結果である。この推計結果は、2000年から2004年までの5年の間に生じる効果しか考慮していないことに注意されたい。

文句をつけたいところもなくはない。「有権者は、災害予防という賢明な策に対して投票で報いることはない」という原則への例外に関する議論で論文が締め括られているのが気に食わないのだ。今後の研究課題としては貴重なトピックかもしれないが、そういうかたちで締め括ってしまうと、主要なメッセージが薄められてしまって惜しくてならないのだ。政府支出が大きな効果を生む(効率を大幅に改善する)可能性があったとしても、その機会はみすみす見過ごされてしまうという主要なメッセージが。合理的な有権者が政府をコントロールしているようなら、政府は公共財の問題だったりを解決するのに役立つ妙薬になり得る。しかしながら、合理的とは言えない有権者――この世に生きる現実の有権者――が政府をコントロールしているようなら、政府はバカでかいインチキ薬になりがちなのだ。

Bill Petti 「無能さの効能」(2010年10月19日)

Bill Petti, “The Individual Utility of Incompetence”(Signal/Noise, October 19, 2010)


組織(政府や企業など)が機能不全に陥って低空飛行を続ける理由は、たくさんある。その中でも主たる理由の一つは、能力の低い人物が昇進したり、同じ地位に居座り続けたりするからだ。この面に焦点を当てた研究は数多い――例えば、ピーターの法則(Peter Principle)が有名だ。出世の階段を上っているうちに、やがては能力に見合わない役目を任される羽目になるというのだ――。しかしながら、無能な人物が昇進したり同じ地位にとどまり続けたりするのは、組織の利益に反するように思える。それなのに、そうなっているのはどうしてなのだろうか? 能力の低い人物が同じ地位に居座り続けられるのは、どうしてなのだろう? 昇進までできたりすることがあるのは、どうしてなのだろう?  

「無能さ」それ自体に価値があるから、というのが考えられる理由の一つだ。「無能さ」は、信憑性の高い「コストのかかるシグナル」(costly signal)として機能している可能性がある。組織内での勢力基盤を固めようと企んでいる上司が信頼できる部下を見分けるためのシグナルとして機能している可能性があるのだ。

社会学者のディエゴ・ガンベッタ(Diego Gambetta)と言えば、シグナリング研究の第一人者として知られている。彼が2007年に上梓した『Codes of the Underworld:How Criminals Communicate』では、「信頼、シグナリング、コミュニケーション」の絡み合いを解きほぐすために、犯罪者同士の協調という極端な例に目が向けられている。ギャングは、「信頼のシグナリング理論」にとっての「ハードケース」(厄介な事例)と見なせる。なぜなら、犯罪者は嘘をつく(裏切る)強いインセンティブを持っていて、犯罪者であるというまさにその事実ゆえに信頼できない相手だからである。犯罪者たちは、どうやって連携し合っているのだろう? 相手が信頼できるかどうかをどうやって確認し合っているのだろう?  そのあたりのことが理解できたら、それほど過酷ではないありふれた場面ではどうなっているかについても何かしらを学べるだろう。 

自分が信頼できる人間だということを相手に伝えるためには、どうしたらいいか? ガンベッタによると、犯罪者がそのために使える方法の一つが「無能さ」だという。

ギャングの下っ端――フィクションの中で、エネルギュメーヌ(énergumène;変人)として誇張して描かれることが多い存在――が、極端なケースの典型である。彼があまりにも賢いようだと、そのギャングのボスにとって脅威になるだろう。白痴(Idiocy)であることが、信頼できる部下であることの仄めかしになるのだ。・・・(省略)・・・お金を儲けるためには「義賊」(‘honourable thief’;高潔な泥棒)として振る舞うのがこちらにとって最善の手であることを相手に納得させる方法の一つは、他にマシな選択肢がないことを伝えることにある。・・・(省略)・・・「無能さ」は、相手に次のように伝える方法の一つである。「私は頼りになりますよ。だって、あなたを裏切ろうにも、無能な私にはそんなことできっこないんですから」。
 
ギャングの下っ端は、一人でやっていけるだけのスキルも知性も備えていない。お金を稼ぐためには、ボスに頼らざるを得ない。まさにそれゆえにこそ、自分が信頼できる人間だということをボスにシグナルできるのだ。このことからどんなことが言えるか? ギャングは、無能なゴロツキをメンバーとして迎え入れる可能性が高い。ギャングのボスの周りには、(自分よりも能力の低い)無能な補佐役が集まりがち。 

同様のメカニズムがその他の組織――企業、学校、政府など――でも働いているのを見て取ることは難しくない。パフォーマンスの良し悪しよりも、忠誠心に重きが置かれるようになると、組織内における無能なメンバーの比率が高まるだろう。さらには、「スポンサー」(自分に目をかけてくれている上司)が昇進すると、無能な部下もその後を追って一緒に昇進することになるだろう。

よう、アレン。上司にペコペコこびへつらってばかりいる人間の気持ちってどんなもんなんだろうね?」「別に。どうってことないけど。
ところで、逆に聞いてみたいんだけど、出世の見込みなんて一切ない人間の気持ちってどんなもんなんだろうね?」「別に。どうってことないね。
生まれつきそんな感じなの? それとも出世とは無縁の人生を過ごそうって決めたのかい?」「どうだろうね。ママに聞いてみるよ。でも、僕が思うに親の育て方が悪かったんじゃないかな。

2013年8月24日土曜日

Katherine Mangu-Ward 「私の妻を買ってください! ~妻売りの経済学~」(2011年6月20日)

Katherine Mangu-Ward, “Take Buy My Wife. Please!”(Hit&Run blog, June 20, 2011) /Buy My Wife. Please!”(ReasonNovember 2011


ジョージ・メイソン大学に籍を置く経済学者のピーター・リーソン(Peter Leeson)――海賊神判の研究で名を知られているあのリーソン――が、ピーター・ベッキー(Peter Boettke)とジェイマ・レムケ(Jayme S. Lemke)との共同研究で、18~19世紀のイギリスで見られた「妻売り」の慣行を経済学的な観点から弁護している。当時のイギリスでは、離婚の手続きが面倒で、妻は夫の所有物と見なされていた。「妻売りは、産業革命期のイギリスの法律によって生み出された所有権の歪みに対する制度的な反応であり、効率性を高めるのに貢献した」というのが三人の言い分だ。

論文の一部を引用しておこう。

18世紀のイギリスで生活をともにしている夫婦の一例について考えてみるとしよう。妻の名はハティで、夫の名はホーレス。ホーレスは、ハティを愛している。妻として評価すると、その価値は5ポンド。その一方で、ハティは、ホーレスを嫌っている。夫として評価すると、その価値はマイナス7ポンド。この2人の結婚は、(それぞれが相手に下している評価を足し合わせるとマイナスになるので)非効率的である。ハティは、離婚したいと思っているが、離婚するためにはホーレスから同意を取り付ける必要がある。ホーレスとしては、ハティが5ポンド以上を払ってくれるのであれば離婚に同意してもいいと思っている。ハティとしても、離婚に同意してもらえるなら5ポンド以上を払ってもいいと思っている。しかしながら、当時の法律によると、夫婦の財産はすべて夫のものなので、ハティはびた一文払えない。2人で直接交渉して離婚に漕ぎ着けるのは不可能なのだ。

しかしながら、迂回してなら可能である。ホーレス&ハティ夫婦の隣人で独身のハーランドは、ハティをホーレス以上に愛している。妻として評価すると、6ポンドの価値があると考えている。ハティはどうかというと、ハーランドをホーレスよりも好いている。夫として評価すると、1ポンドの価値があると考えている。 
ホーレスもそのことを知っている。そこで、ハーランドに次のような提案を持ちかける。君が5.5ポンドを払ってくれるなら、妻のハティを譲ってもいいと思うがどうする? ハティとは違って、ハーランドの財産は、ハーランドのものである。ホーレスのものではない。それゆえ、実行可能な取引である。ハティとハーランドは、ホーレスの提案を受け入れる。ホーレスは0.5ポンド得をする〔訳注1〕。ハーランドは0.5ポンド得をする〔訳注2〕。ハティは8ポンド得をする〔訳注3〕。妻が売られるおかげで、三人がともに得をするのだ。

論文はこちら(pdf)。


<訳注>

〔訳注1〕ホーレスは、ハティと離婚すると5ポンドの損失を被るが(妻としてのハティを5ポンドと評価しているため)、ハーランドから5.5ポンドを支払ってもらえるので、差し引きすると0.5ポンド(=5.5-5)得することになる。

〔訳注2〕ハーランドは、ハティを譲り受けるために5.5ポンドを支払うが、妻として6ポンドの価値があると考えているハティと一緒に暮らせるようになるので、差し引きすると0.5ポンド(=6-5.5)得することになる。

〔訳注3〕ハティは、ホーレスと離婚すると7ポンドの得をして(夫としてのホーレスをマイナス7ポンドと評価しているため)、ハーランドと一緒になると1ポンドの得をする(夫としてのハーランドを1ポンドと評価しているため)。合計で8ポンド(=7+1)得することになる。

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ピーター・リーソンは、ジョージ・メイソン大学に籍を置く経済学者。肩書は「資本主義研究のためのBB&T教授」。忍者、UFO、魔女裁判についての論文を書いていて、経済学の原理を応用して海賊について分析を加えている『The Invisible Hook』(邦訳『海賊の経済学』)をプリンストン大学出版局から上梓している。同僚のピーター・ベッキーとジェイマ・レムケと共同で執筆している最近の論文では、「妻売り」を経済学的な観点から弁護している。18~19世紀のイギリスでは、妻が売られるのが珍しくなかったのである。当時のイギリスでは、離婚の手続きが面倒で、結婚した女性は財産を一切持てなかった。本誌のシニア・エディターであるキャサリン・マング=ウォードが今年(2011年)の8月にリーソンに行ったインタビューを文字に起こしたのが以下である。


Q:妻売りをテーマにしようと思ったきっかけは何だったのでしょうか?

A:海賊についての研究に取り組んでいた最中に18世紀に発行された新聞を調べていたら、とある広告を見つけたんです。妻売りの広告だったんですが、当時の新聞ではよくあることだったらしいです。はじめて目にした時は度肝を抜かれて、何て馬鹿げてるんだろうと思いました。でも、じっくり検討してみたら、理に適(かな)っていると思うようになったんです。

Q:妻売りを取り巻く当時の状況はどんな感じだったのでしょうか?

A:18~19世紀のイギリスでは、財産、結婚、離婚についての法律がやけに厳格で馬鹿げたところがありました。当時の婚姻法では、婚姻関係が続いている間は、妻は自らの財産に対する所有権をすべて夫に譲り渡す決まりになっていました。自分の身体に対する所有権でさえもです。

そのため、妻が結婚生活に不満を抱いて離婚しようと思ったら、夫から同意を取り付けないといけませんでした。経済学の世界で「コースの定理」と呼ばれている説によると、だからといって取り立てて問題にはならないはずです。お金を払って離婚の権利を買い取ればいいからです。でも、当時のイギリスでは、妻は財産を一切持てなかったので、お金を払って離婚の権利を夫から買い取るということができなかったのです。

でも、その女性を今の夫よりも高く評価している男性がいるかもしれません。その女性もその男性を今の夫よりも高く評価しているかもしれません。妻の財産は夫のものですが、その男性の財産は夫のものじゃありません。その男性は、代わりに夫から離婚の権利を買い取ることができるわけです。妻売りというのは、そういうものだったんです。

Q:どういう人が妻を買ったのでしょうか?

A:妻の愛人というケースが多かったみたいです。それも納得がいきます。夫としては、妻をできるだけ高値で売り渡したいと考えるでしょうからね。妻を最も高く評価していて、妻が一緒にいたいと望んでいる相手に売り渡したいと考えるでしょうからね。妻に愛人がいれば、うってつけです。妻を一番高値で買い取ってくれるのは愛人である可能性が高いですからね。既に関係を築いていますから、妻を最も高く評価しています。妻もその愛人を今の夫よりも高く評価しているでしょう。未来の伴侶としても。

そういうわけで、妻の愛人が買い手になることが多かったとしても納得がいくわけです。でも、常にそうだったわけじゃありません。愛人がいなくても、今の夫が嫌いで離婚したいと思うというケースはあり得ます。結婚してもいいと思えるような相手がどこかにいるかもしれませんし、これから見つけるつもりかもしれません。夫は夫で、奪い取りたいと思うほどに妻のことを高く評価している人物がどこかにいないか確かめたいでしょう。そこで、妻を売りに出すわけです。競売のようなもので、誰が妻を高く評価しているかがあぶり出されるのです。

妻の同意を得た上での話だったということは強調しておかないといけないでしょう。彼女たちは無理矢理売られたわけじゃありません。売られたがっていたのです。

2013年8月21日水曜日

Nicholas Crafts 「イギリス経済は『流動性の罠』からいかにして抜け出したのか ~1930年代のイギリスの経験から得られる教訓~」(2013年5月12日)

Nicholas Crafts, “Escaping liquidity traps: Lessons from the UK’s 1930s escape”(VOX, May 12, 2013)
 
1930年代にイギリス経済は「流動性の罠」から抜け出して、力強い景気回復を成し遂げた。その立役者は、イングランド銀行ではなく、イギリス財務省(大蔵省)が主導した「非伝統的」な金融政策だった。当時財務大臣を務めていたネヴィル・チェンバレンは、「アベノミクス」の先駆者だったのだ。当時のイギリスの経験を踏まえると、一つの疑問が持ち上がってくる。中央銀行が「独立」していて「インフレ目標」の達成を目指すというのは、名目金利が極めて低い状況において適切な枠組みなのだろうか?

1932年半ばのイギリスは、深刻な景気後退に陥っていた――その深刻さは、2008年から2009年にかけての世界的な経済危機に引けを取らないほどだった――。大規模な財政再建が試みられて、構造的財政赤字が対GDP比で4%も減った。短期名目金利がゼロ%近くで、景気は二番底の真っ只中だった(Crafts&Fearon 2013)。しかしながら、1933年から1936年にかけて非常に力強い景気回復が成し遂げられた。どの年も成長率が4%を上回ったのである。景気回復を主導した立役者が、1931年11月から1937年5月まで財務大臣を務めたネヴィル・チェンバレン(Neville Chamberlain)だった。現財務大臣であるジョージ・オズボーン(George Osborne)は、今と似たような状況に直面していた先輩が採用した政策から何かしらを学び取れるだろうか?

1930年代のイギリスで景気回復を後押しした経済政策と言えば、1935年までに関しては金融刺激策(金融緩和策)が主要な役割を果たした。事実上のケインズ政策(財政出動)として機能したのが再軍備(軍事増強)に向けた一連の措置で、その効果は1938年までの累計でGDPの4%程度に上る可能性があるが、1933年から1936年までに関してはほとんど見るべき効果を持たなかった。景気が大きく落ち込んでいたものの、財政乗数の値はおそらく1を下回っていたと考えられる。それはどうしてかというと、(第一次世界大戦の遺産として)政府債務残高の対GDP比がかなり高い水準に達していたのも関わっているかもしれない。


1930年代のイギリスで採用された政策枠組み

1932年半ばにイギリスで採用された政策枠組みは、スヴェンソンが言うところの「流動性の罠から抜け出すための『絶対確実な方法』」(Svensson 2003)に酷似している。日本で試みられている最中の「アベノミクス」とも酷似している。

  • 1931年9月に金本位制からの離脱を余儀なくされたが、1932年半ばにイギリス財務省がいわゆる「チープ・マネー政策」(‘cheap-money policy’)に乗り出した。

まず第1に、短期名目金利が0.6%近辺にまで引き下げられた。1930年代の残りの期間を通じて、短期名目金利はその水準にとどまり続けた(表1を参照)。

  • 第2に、1932年7月にチェンバレンが「物価水準目標」を宣言した。デフレーションを終わらせて、物価を1929年の水準にまで引き戻すことが誓われたのである。
  • 第3に、イギリス財務省がポンドの大幅な減価を伴う「為替レートターゲット」に乗り出した。まずはじめにドルとの交換レートが1ポンド=3.40ドルに固定されて、次いでフランとの交換レートが1ポンド=77フランに固定された(Howson 1980)。1932年の夏に創設された為替平衡勘定(Exchange Equalisation Account)を通じて為替市場への介入が行われた(表2を参照)。

「チープ・マネー政策」のおかげで、実質金利が急速な勢いで劇的に低下した。イギリスが保有する金準備も1年でほぼ倍増した。1932年の初頭から1936年の終わりまでの間に、マネーサプライが34%も増えた(Howson 1975)。

「チープ・マネー政策」は、ゼロ下限制約を乗り越えるための教科書通りのやり方に従うかのように、インフレ期待を喚起して実質金利を低下させた。とりわけ重要だったのは、金本位制から離脱した後のイギリスで金融政策を取り仕切ったのが、モンタギュー・ノーマン(Montagu Norman)率いるイングランド銀行ではなく、チェンバレン率いる財務省だったことである。「流動性の罠から抜け出すための『絶対確実な方法』」は、景気が回復軌道に乗った後でも中央銀行が高めのインフレ率を容認することに信頼のおけるかたちでコミットできるかどうかという問題を抱えている。ところで、当時のイギリス財務省は、「財政の持続可能性」の問題を抱えていたおかげで、高めのインフレ率を容認するに違いないと信じてもらいやすい立場にあった。実質金利を実質GDP成長率よりも低くすることができたら、政府債務残高の対GDP比を低下させることができたからである。「金融抑圧」(‘financial repression’)に頼れたおかげで、プライマリーバランスをそこまで黒字にしなくても済んだし、財政緊縮が自滅的な結果に終わるのを恐れずに済んだのである。

「財政の持続可能性」に関わる変数の推移をまとめた表3を見ると、イギリス財務省が高めのインフレ率を容認するに違いないと信じてもらいやすい立場にあったことが確認できる。デフレに陥っていた1930年代初頭の時点では、政府債務残高の対GDP比が高まるのを防ぐためには、プライマリーバランスを大幅に黒字にする必要があった。しかしながら、1934~35年までに実質GDP成長率が実質金利を上回るようになり、プライマリーバランスが若干の赤字であっても「財政の持続可能性」と矛盾しなくなったのである。


「チープ・マネー政策」の波及メカニズム:住宅建設

言うまでもないが、「チープ・マネー政策」が効果を発揮するためには、総需要を刺激する必要がある。つまりは、「チープ・マネー政策」が実体経済に影響を及ぼした経路(波及メカニズム)があったはずである。特に検討してみる価値があるのは、住宅建設に及ぼした影響である。民間部門における住宅建設戸数は、1931~32年の時点では13万3000戸。1934~35年の時点では29万3000戸。1935~36年の時点では27万9000戸――その多くは、1930年代にロンドンをはじめとした南イングランド一帯で人気を集めたセミデタッチドハウス(semi-detached house;二戸建て住宅)だった――。住宅の建設が増えたおかげで1934年までに生み出された直接的な経済効果は、5500万ポンド。雇用の増加に伴う間接的な波及効果も含めると、合計で8000万ポンド――1932年から1934年までの間に増えたGDPの3分の1――の経済効果を生んだと考えられる。住宅の建設が促されたのは、金利が低下したおかげでもあったが、建設コストが底を打ったという認識が土地の開発業者の間で広がったことも加勢した。金利が低下したのも、建設コストが底を打ったのも、「チープ・マネー政策」のおかげだったのだ(Howson 1975)。

住宅の建設が「チープ・マネー政策」に敏感に反応したのはなぜなのだろうか? 2つの要因を挙げることができる。

  • 第一の要因は、住宅金融を専門とする組合組織の成長を背景として、住宅ローンの供給が急激に増えたことである。金融危機が起きなかったこともあって、好条件で住宅ローンを借り入れることが可能だった。

住宅金融組合(Building society)による住宅ローンの貸出残高は、1930年の時点では72万人の借り手に対して合計で3億1600万ポンドに上ったが、1937年の時点では139万2000人の借り手に対して合計で6億3600万ポンドにまで増えた。1937年の時点では、農業以外の部門で働く世帯の18%が持ち家を購入予定か既に購入済みだった。さらには、組合に預け入れないといけない預金の額が土地の購入代金の5%にまで引き下げられたこともあったし、住宅ローンの返済期限が20年から25年に(場合によっては、30年に)延長されたりもした――それに伴って、返済しないといけないローンの額が週あたりで15%少なくなった――(Scott 2008)。

  • 第二の要因は、住宅の価格がお手頃だったことである。 

新築住宅の85%は、当時の価格で750ポンド(現在の価格に換算すると、45,000ポンド)よりも安くで売られていた。平均年収がおよそ165ポンドだった1930年代中頃のロンドンでは、テラスハウスを395ポンドで買えたのである。住宅の価格がお手頃だったのは、住宅用に使える土地が豊富だったので、開発業者が広大な土地を抱え込もうとするインセンティブを持たなかったからである。当時は、土地の利用に関わる規制が無かったに等しかったのだ。1932年の時点で規制の対象になっていた土地は、わずか7万5000エーカー程度だった。都市・農村計画法(Town and Country Planning Act)が制定されたのは、1947年のことなのだ。


今日への教訓

ジョージ・オズボーンは、1930年代のイギリスの経験からどんな教訓を引き出せるだろうか?

  • 中央銀行が「独立」していて「インフレ目標」の達成を目指すというのは、ゼロ下限制約に直面している状況(名目金利が極めて低い状況)においては適切な枠組みではないかもしれないというのが第一の教訓である。

中央銀行にどんな目標を課すべきか――インフレ率の目標値を引き上げるべきか否か、「インフレ目標」から「名目GDP目標」に切り替えるべきか否か――という議論に収まりきらない教訓である。1930年代のイギリスは、中央銀行が独立していなかったおかげで得をした。中央銀行に「独立性」を付与するのはどんな時でも最善だとは限らない――もしかしたら今も最善とは言えない――可能性があるのだ。

  • 1930年代の住宅建設ブームの再現を目指すべしというのが第二の教訓である。

今すぐに住宅建設ブームが起こりそうかというと、難しそうだ。住宅ローンを借りるのが1930年代ほど簡単じゃないし、土地の利用に関わるルール(法律)が1930年代とは大違いだからである。都市計画法の規制を緩和するべきかもしれない。最近の研究でも明らかにされているように(Hilber&Vermeulen 2012)、土地の利用をめぐる法規制は、住宅市場に大きな歪みをもたらしている。規制の一部が取り除かれたら、住宅の建設が盛んになるかもしれない。しかしながら、土地の利用に関わる法律を見直すというのは、政治的なハードルが高い難題であり、実現される見込みは低そうだ。


表1 各種の金利(単位は%)


(注記)実質金利は、事後的な実質金利(=名目金利-実際のインフレ率)。実質長期金利(Real long rates)は、コンソル債の利回りから過去3年間のインフレ率の加重平均を差し引いたもの。詳細は、Chadha&Dimsdale (1999) を参照されたい。データを提供してくれた Jagjit Chadha に感謝。

(データの出所)Bank Rate(政策金利)、Treasury Bill Rate(短期国債の利回り)、Yield on Consols(コンソル債の利回り)のデータの出所は、Dimsdale (1981)。Real interest rates(実質金利)のデータの出所は、Chadha&Dimsdale (1999)。


表2 名目為替レート(1929年時点の為替レートを100とおく)


(注記)Average exchange rate(平均為替レート)は、ポンドとその他のあらゆる通貨の交換レートの加重平均。製造業の輸出シェアをウェイトとして用いている。 

(データの出所) Dimsdale (1981)


表3 「財政の持続可能性」に関わる変数の推移(1925年~1938年)


(注記)b*は、Δd= 0 という条件を満たすために必要なプライマリーバランスの黒字額(対GDP比)――言い換えると、政府債務残高の対GDP比を一定の値にとどめるために必要なプライマリーバランスの黒字額(対GDP比)――を表している。なお、Δd =-b +d ( i-π-g) という関係が成り立つ。b は、プライマリーバランスの対GDP比(b がプラスの値だと、プライマリーバランスの黒字が発生)。i は、国債の平均的な名目金利。d は、政府債務残高の対GDP比。b、i、d についてはMiddleton (2010) のデータを利用している。π は、GDPデフレーターで測ったインフレ率で、Feinstein (1972) のデータを利用している。g は、第4四半期の実質GDP成長率で、Mitchell et al. (2012) のデータを利用している


<参考文献>


●Chadha, J S and Dimsdale, N H (1999), “A Long View of Real Rates”, Oxford Review of Economic Policy 15(2), 17-45.
●Crafts, N and Fearon, P (2013), “The 1930s: Understanding the Lessons”, in N Crafts and P Fearon (eds.) The Great Depression of the 1930s: Lessons for Today, Oxford, Oxford University Press, 45-73.
●Dimsdale, N H (1981), “British Monetary Policy and the Exchange Rate, 1920-1938”, Oxford Economic Papers 33(2), supplement, 306-349.
●Feinstein, C H (1972), National Income, Expenditure and Output of the United Kingdom, 1855-1965, Cambridge, Cambridge University Press.
●Hilber, C A L and Vermeulen, W (2012), “The Impact of Supply Constraints on House Prices in England(pdf)”, London School of Economics Spatial Economics Research Centre Discussion Paper No. 119.
●Howson, S (1975), Domestic Monetary Management in Britain, 1919-1938, Cambridge, Cambridge University Press.
●Howson, S (1980), “The Management of Sterling, 1932-1939”, Journal of Economic History 40, 53-60.
●Middleton, R (2010), “British Monetary and Fiscal Policy in the 1930s”, Oxford Review of Economic Policy 26, 414-441.
●Mitchell, J, Solomou, S and Weale, M (2012), “Monthly GDP Estimates for Interwar Britain”, Explorations in Economic History 49, 543-556.
●Scott, P (2008), “Marketing Mass Home Ownership and the Creation of the Modern Working-Class Consumer in Interwar Britain”, Business History 50, 4-25.
●Svensson, L E O (2003), “Escaping from a Liquidity Trap and Deflation: the Foolproof Way and Others”, Journal of Economic Perspectives 17(4), 145-166.

2013年8月18日日曜日

Eli Dourado 「人身御供の経済学」(2013年2月20日)

Eli Dourado, “What Can We Learn from Human Sacrifice?”(The Ümlaut, February 20, 2013)


人身御供(ひとみごくう)についての描写は、現代人の心をゾッとさせずにはおかない。インド東部のコンド族によって執り行われていた人身御供についての以下の記述をご覧いただきたい。ピーター・リーソン(Peter Leeson)の最近の論文(pdf)からの引用だ。

生贄が動かないようにするために、腕や足の骨が折られることもあった。最後の祈りが唱えられると、神官の言葉を合図に「儀式に参加していた民衆が一斉に生贄に飛び掛かり、頭と腸には一切触れずに、肉を引き剝がし始めた」。生贄を切り刻むというのはどこでもよくあったが、コンド族の間では、派手で残酷な別の処置が追加されることもあった。例えば、豚の血で満たされた穴の中に生贄を投げ込んで溺死させることもあれば、生贄の命が絶えるまで真鍮の腕輪で殴り続けることもあった。その後で生贄の体を細かく切り刻むのだ。

豊饒と草木の女神――執念深い地母神――であるタリ・ペヌー(Tari Penu)の気持ちをなだめるために。

まったくもって非合理的で、何の得にもならない滅茶苦茶な行為だと思うかもしれない。「いや、違う」というのがリーソンの言い分である。コンド族は、同族の隣接する集落から襲撃されるのを防ぐための術として人身御供という儀式を利用していたというのである。人身御供という 「見せびらかしの破壊」を行って、近くの集落に知らせていたというのだ。富を破壊してしまって貧しくなった我々を襲っても得にならないということを。人身御供が略奪を防ぐのに効果を発揮したのは、富が破壊されているのが誰の目にも明らかだったからである。生贄――メリアー(meriahs)と呼ばれていた――は、別の部族から高値で購入する習わしになっていた。大量の作物を燃やして富を破壊しているのを見せびらかす場合とは違って、人体を切り刻んでいるのを偽装するのは困難だ――本当は作物を燃やしていないのに、表面を葉っぱで覆ってしまえば作物を燃やしていると言い張ることができるが、人体を解体する場合はそうはいかない――。人身御供という 「見せびらかしの破壊」では、高価な富が破壊されているのが誰の目にも明らかだったのだ。

人身御供が合理的で、社会的に有用な役割を果たしたケースもあることを理論的・歴史的な観点から説得的に論証しているのがリーソンの論文なのだ。人身御供が一切執り行われていなければ、同族内での略奪が頻繁に起きていたかもしれない。人身御供は、コンド族のためになっていたのだ。

コンド族を真似て、人身御供を執り行うべきなのだろうか? その答えは、明らかに「ノー」だ。しかしながら、コンド族のケースから学べることはたくさんある。リーソンは、論文の冒頭でジョージ・スティグラー(George Stigler)の次の言葉を引用している。

「長きにわたって存続している社会制度も慣行も例外なく効率的である」

言い伝えによると、コンド族による人身御供は太古の昔からずっと続いていたらしい。長きにわたって存続した社会制度だったわけである。リーソンのこれまでの研究を振り返ると、風変わりではあるが合理的で効率的な歴史上の慣行の例で満ち溢れている。呪いはどうなのか? リーソンによれば(pdf)、合理的である。決闘裁判は? リーソンによれば(pdf)、効率的である。中世ヨーロッパの裁判で執り行われていた神判は? リーソンによれば(pdf)、無実かそうでないかを正確に見分けるのに役立った。動物裁判は? リーソンによれば(pdf)、カトリック教会による賢明な策だった(十分の一税の納付を促す役割をした)。妻売りは? リーソン&ベッキー(Peter Boettke)&レムケ(Jayme Lemke)によれば(pdf)、女性のためになった。

人身御供についてのリーソンの研究がリベラル派(あるいは、リベラル寄りな人たち)に対して突き付けている重要な教訓がある。長きにわたって続いている慣行(あるいは、長きにわたって流布している信念)を愚かだとか非合理的だとかと安直に断じるなかれという教訓がそれである。現存する制度なり慣行なりについて何もかも理解し尽くしているかのような気になってはいけないのだ。人身御供を宗教上の制度――そうだったのは確か――としてだけ捉えてしまうと、略奪を防ぐための制度でもあった――そうだったのは確か――ことが易々と見過ごされてしまうだろう。何らかの呪術的な干渉によってコンド族に人身御供を取りやめさせることができたとしても、その結果として同族内での略奪が盛んになるかもしれない。人身御供が続けられる場合よりも、多くの人命と富が失われてしまうおそれがあるのだ。イギリス政府がリベラルな教育を施したり暴力で脅したりしてコンド族に人身御供を取りやめさせようとしたが、結局のところは失敗に終わった。それと同様に、長きにわたって存続しているリベラルとは言えない慣行を取りやめさせようとしても、失敗に終わることが多いだろう。

保守派(あるいは、保守寄りの人たち)もコンド族のケースから学べることがある。人身御供は、コンド族が置かれていた状況においては効率的な制度だった。イギリス政府がコンド族のために所有権の保護や紛争解決のサービスを提供し始めると、コンド族の人たちは人身御供を快く取りやめた――若者世代の不信心な態度に怒り心頭だった年配者もいただろうと想像される――。環境が劇的に変化すると、それまで長きにわたって存続してきて効率的だった社会制度も効率的ではなくなって、存続できなくなるわけである。スティグラーが主張しているように、効率的な制度の存続を支えるのと同じ力が非効率的な制度を淘汰するのである。リベラル派だけでなく保守派も社会制度が存続したり変化したりする真の理由を理解するのが難しいようで、新しいテクノロジーの登場に対する効率的な反応として社会制度が変化しているのに、保守派はそうは考えない。社会制度が変化しているのは道徳が頽廃しているからと考えがちなのだ。

テクノロジーが急激に変化する時代に我々は生きているとよく言われるし、事実その通りだ。結婚、出産、終末期医療、労働市場、大学など社会制度の多くも急激に変化しているが、驚くにはあたらない。社会制度の変化は、テクノロジーの変化の結果に過ぎないからだ。古くから続く制度を現状の温存に加担するものとしか考えないリベラル派は、社会制度が変化するのを進歩と見なすことだろう。旧習を内面化している保守派は、社会制度が変化するのを頽廃と見なすことだろう。しかしながら、社会制度の変化は、道徳面での進歩を意味しているわけでもなければ、道徳面での頽廃を意味しているわけでもないのだ。法、経済学、迷信についてのリーソンの一連の研究は、風変わりな多くの社会制度――コンド族に限らず、我々のも含めて――がいかにして形成されるかを愉快かつ啓発的なかたちで明らかにしている。それぞれの社会が直面している問題や制約に対する合理的な反応の結果なのだ。

2013年8月13日火曜日

Peter Leeson 「迷信と経済発展」(2010年8月23日)

Peter T. Leeson, “Superstition and Development”(Aid Watch, August 23, 2010)


ジプシーたちの間で信じ込まれている説によると、ジプシーではない人間の下半身は気付かぬうちに穢れてしまっているという。超自然的な力によって穢れが人づてに伝染するというのだ。そのせいで、ジプシーではない人間の魂は毒されているというのである。

これらの迷信は、非合理的なわけでは決してない。ジプシーたちの共同体の秩序を維持するのに中心的な役割を果たしているのだ。ジプシーたちは、仲間うちでの協調を図るために、公的な法制度に頼るということができない。彼らの間での経済的・社会的なやり取りの多くは、法律の対象外であるか、違法行為にあたる。しかしながら、法と秩序に対する欲求の強さは、ジプシーたちも人後に落ちない。

そこで、仲間内での秩序を維持するために迷信の力が借りられるのだ〔原注1〕。ジプシーではない人間の魂は毒されていて、超自然的な力によって穢れが人づてに伝染するという迷信がどんな役割を果たしているかを検討してみるとしよう。ジプシーたちは、仲間内の誰かが裏切らないようにするために、政府に頼ることができない。村八分(ostracism)の脅しに頼る〔訳注;裏切り行為を働いたら、共同体から追い出してもう二度と関わりを持たないと脅す〕しかない。 

問題なのは、ジプシーたちの共同体は大海に浮かぶ小島のようなものだということである。ジプシーではない人間がすぐ近くにうようよいるのだ。裏切り行為を働いて追放されたジプシーが外の社会に溶け込んで、そこで暮らす人たちと接触できるようなら、追い出すというのは大した罰ではなくなる。村八分の脅しに効力を持たせるために、あの迷信が生まれたのだ。ジプシーではない人間の魂は毒されていて、その毒は伝染するというあの迷信が。ジプシーではない人間と接触したら、超自然的な力によって同じく毒されてしまうというあの迷信が。

あの迷信のおかげで、村八分の脅しが真実味を帯びるようになる。裏切り行為を働くと、あらゆる社会から追放されることを意味するようになるからである。ジプシーたちとだけでなく、外の社会の人間たちとも接触できなくなることを意味するのだ。村八分の脅しと迷信の力が相まって、裏切り行為が防がれているわけなのだ。ジプシーたちの間で信じられている迷信は、おそらくは意図せずして法と秩序の維持に貢献しているのだ。

ジプシーのような「他者」が信じている迷信を見下してしまいがちな風潮があるが、ヨーロッパの歴史を振り返ると、迷信の宝庫であることがわかる。そして、その中のいくつかは社会的に有用な働きをしていた可能性があるのだ。例えば、中世ヨーロッパの裁判では、被告人が有罪か無罪かがはっきりしない場合に神判(ordeal)が執り行われた〔原注2〕。例えば、熱湯を用いる神判では、被告人はお湯がグツグツと沸き立っている大釜の中に腕を突っ込むように求められる。熱湯に腕を突っ込んでから3日後にひどいやけどや感染症の症状が確認されると、有罪が宣告される。その一方で、腕に何の異常も表れないようなら、無罪が言い渡される。このような神判を支えているのは、無実の被告人のために神が奇跡をもたらすという迷信なのだ。被告人が無実であれば、神のおかげで厳しい試練も無傷で潜り抜けられるという迷信なのだ。

ジプシーのケースと同じように、この迷信も一見すると非合理的な信念のように思えるが、じっくり検討してみると、社会的に有用な働きをしていることが判明する。被告人が身に覚えがあるようなら、腕を熱湯に突っ込むのを拒否するに決まっているだろう。なぜなら、無実の被告人は神のご加護によって救われる一方で、身に覚えがある被告人には神のご加護がないと信じ込まれているからである。すなわち、身に覚えがある被告人は、腕を熱湯に突っ込めばやけどを負うに違いないと予想するのだ。腕を熱湯に突っ込むのに同意したら、やけどを負って有罪を宣告されるに違いないと予想するのだ。腕にやけどを負うよりは、罪を白状するか原告と示談する方が得策と考えるのだ。

それとは対照的に、無実の被告人は、必ずや神判を受けようとするだろう。無実の被告人には神のご加護があるという迷信を信じているからである。腕を熱湯に突っ込んでも神のおかげでやけどを負わずに済むと信じているからである。神判を受けたら無罪が証明されるに違いないと信じているからである。無実の被告人は、神判を受けるのに少しも恐れを抱かない。神判をすすんで受けようとするのだ。

身に覚えがある被告人は神判を受けようとせず、無実の被告人は神判をすすんで受けようとする。被告人が神判をすすんで受けようとするかどうかを観察すれば、その被告人が有罪か無罪かを見分けられるのだ。中世ヨーロッパで信じられていた迷信は、刑事裁判で正義が下されるのを手助けする働きをしていたのだ。そのようにして法と秩序の維持に貢献していたのだ。

とは言え、あらゆる迷信が法と秩序の維持に貢献するというわけではない。決してそうじゃないだろう。しかしながら、科学的な根拠がなくて滑稽な迷信であっても、公的な制度の代役を果たしている場合があるかもしれないのだ。公的な制度が存在していなかったり公的な制度がうまく機能していない状況で、社会的な協調を支える役割を代わりに果たしているかもしれないのだ。その可能性を否定すべきじゃないだろう。発展途上国で信じ込まれている迷信のうちで、そういう役割を果たしているものはあるだろうか?


<原注>

〔原注1〕ジプシーたちの間で広まっている迷信に経済学的な観点から包括的な分析を加えているのが、次の拙論文である。Peter T. Leeson (2013), “Gypsy law(pdf)”(Public Choice, vol. 155, issue 3-4, pp. 273-292)

〔原注2〕中世ヨーロッパの裁判で執り行われていた「神判」に経済学的な観点から包括的な分析を加えているのが、次の拙論文である。Peter T. Leeson (2012), “Ordeals(pdf)”(Journal of Law and Economics, vol. 55, issue 3, pp. 691-714)

2013年8月11日日曜日

Stephen Hansen&Michael McMahon 「遅れてやってくるハトっぽさ ~マーク・カーニーの今後の振る舞いを占う~」(2013年8月11日)

Stephen Hansen&Michael McMahon, “Mark Carney and first impressions in monetary policy”(VOX, August 11, 2013)
 
イングランド銀行の新しい総裁に就任したばかりのマーク・カーニーの「タカ派度」を探るヒントを求めて、カーニーの一言一句に注目が集まるだろう。我々の研究によると、金融政策委員会のメンバーは、着任して間もない頃はタカ派色を強めがちで、経験を積むにつれて――例えば、金融政策決定会合に18回以上参加すると――ハト派色を強めがちになるようだ。真の選好がハト派寄りであるほど、その傾向が強いようだ。

現代の金融政策では、「インフレ期待の管理」に重きが置かれている。中央銀行の独立性を確保するのもそう。インフレ目標を採用するのもそう。フォワード・ガイダンスに訴えるのもそう。いずれもインフレ期待を管理することの重要性を反映しているのだ。中央銀行の上層部の刷新――例えば、新たな議長や新たな総裁の任命――は、インフレ期待を安定化させる上でとりわけ重要な出来事になりがちだ。新任の議長・総裁(ないしは、政策委員)がどんな選好の持ち主なのかよくわからないために、どういう政策スタンスが採用されそうかをめぐって――それに加えて、インフレ期待にどんな影響が及びそうかをめぐって――多くの憶測が飛び交う。イングランド銀行の新しい総裁に就任したばかりのマーク・カーニーが「タカ派」(‘hawk’)なのか、「ハト派」(‘dove’)なのかという議論(Cottle 2012)もその一例だ。

イングランド銀行の新しい総裁になったカーニーの今後の振る舞いについてどんな予測を立てられるだろうか? 彼が5年間の任期の後半に採用する政策を前もって予測するための頼りになる指針を得ることはできるだろうか? これからの数カ月の言動に照らして、カーニー総裁をハト派と断じたり、反対にタカ派だと言い放つ声が聞かれるようになるのは間違いないが、カーニー総裁の本音――カーニー総裁の真の選好――が実際の行動を通じて明らかになるまでにはかなりの時間を要するかもしれない。それはどうしてかというと、経済学の分野で「シグナリング」と呼ばれているアイデアが関わってくる。

着任して間もないセントラルバンカーがインフレ期待に影響を与えるために戦略的に振る舞う可能性があることを「シグナリング」のアイデアを使って分析している学術的な研究は、かなりの数にのぼる――例えば、Backus&Driffill (1985a, 1985b)、Barro (1986)、 Cukierman&Meltzer (1986)、Vickers (1986)、Faust&Svensson (2001)、Sibert (2002, 2003, 2009)、King&Lu&Pasten (2008) を参照されたい――。どんなことが明らかになっているかというと、着任したばかりのセントラルバンカーは、自らの本音――以下では、真の選好と呼ぶことにしよう――よりもタカ派色を強めてインフレに対してタフな態度で臨む傾向にあるという。その理由は、正真正銘のインフレファイターであるという評判を勝ち取るためだという。しかしながら、タフさを誇示した後は軟化して、真の選好に沿ったスタンスに転じるようになるというのだ。


金融政策委員会を対象にした最新の研究

真の選好がハト派寄りであるほど、インフレに対するタフさを誇示しようとしがちというのがこれまでの先行研究で強調されていることだが、セントラルバンカーの真の選好が国民に知られていない場合にセントラルバンカーがどのように振る舞いそうかを検討しているのが我々の最新の研究 (Hansen&McMahon 2013)である。どんなことが明らかになっているかというと、インフレ期待が高まるのを防ぐことが課題になっているようなら、真の選好がハト派寄りであろうとタカ派寄りであろうと、着任して間もないセントラルバンカーは真の選好よりもタカ派色を強めてインフレに対してタフな態度で臨む傾向にあって、時が経つにつれてハト派色を強めていくことが見出されている。「遅れてやってくるハトっぽさ」(“delayed dovishness”)――あるいは、「先んじてやってくるタカっぽさ」(“early hawkishness”)――とでも形容できる結果が見出されているのだ。どんな選好の持ち主であっても、着任したばかりだと真の選好よりもタカ派色を強めようとするのは変わらないが、真の選好がハト派寄りであるほど、タカ派色を強めようとするインセンティブが強いようだ。 

「シグナリング」のアイデアを使って金融政策に分析を加える学術的な研究の歴史は何十年にも及ぶが、イングランド銀行に設置されている金融政策委員会(Monetary Policy Committee;MPC)――その議長を新たに務めるのが、マーク・カーニー――のメンバーの振る舞いを対象にして「シグナリング」モデルの実証的な妥当性を裏付けているのは我々の研究がはじめてである。MPCのメンバーは、経験を積むにつれて(具体的には、MPCの会合に18回以上参加すると)、ハト派色を強める傾向にあることが見出されている。さらには、真の選好がハト派寄りであるほど、着任して間もない頃にタカ派色を強めがちであることも見出されている。

カーニー総裁の真の選好がハト派寄りで、それでいてタフなインフレファイターであるという評判を確立したいと望んでいるようなら、当初のうちはタカっぽさを誇示しようとするだろうというのが我々が見出した結果から示唆されることである。つまりは、イングランド銀行の総裁に着任したばかりのカーニーは、真の選好よりもタカ派色を強める可能性があるわけだ。

ところで、これまでの先行研究では、セントラルバンカーがインフレに対するタフさを誇示するのは、インフレが過熱しないようにするためであると想定されている。インフレに対するタフさを誇示して、インフレ期待が高まらないようにしていると想定されているのだ。1997年にMPCが設立されて以降の大半の期間に関しては、そのように想定しても特に問題はなかっただろう。しかしながら、景気が弱々しかったり、「流動性の罠」に陥ったり、政策当局者がインフレ期待を高めたいと望んでいたりするケースもあるかもしれない。そういうケースでは、セントラルバンカーの振る舞いについて正反対の予測が導かれるだろう。MPCのメンバーは、着任して間もない頃に真の選好よりもハト派色を強めて、経験を積むにつれてタカ派色を強めると予測されるのだ。そうすればインフレ期待が高まって、実質金利(期待実質金利)が低下するからである。実質金利が低下すれば、投資(設備投資)――The Economist (2013) でも論じられているように、イギリスでは投資の勢いが弱い――や消費が刺激される。日本銀行総裁に任命されたばかりの黒田東彦は、だいぶハト派寄りと目されていて、積極的な金融緩和に対するコミットメントを明らかにしている。黒田新総裁の振る舞いも「シグナリング」モデルを使ってうまく説明できるかもしれない。

着任して間もないイングランド銀行総裁の振る舞いについて、イギリス経済が置かれている困難な現状に照らして導かれる予測と、インフレファイターとしての評判を確立したいと願うセントラルバンカー特有の本能に照らして導かれる予測は、大きく食い違う。カーニー総裁がタカ派なのかハト派なのかを判別するのは相当に難度が高くなりそうだし、カーニーを総裁に選んだのが正しかったのかどうかを判断するにはだいぶ長い時間がかかるだろう。カーニー総裁の前途には、前任の総裁たちが担ったよりも厄介な仕事が待ち構えている。インフレ目標の達成が求められているだけでなく、マクロプルーデンス政策や金融規制の面でもやらないといけない仕事がたくさんあるのだ。カーニー総裁の真の選好を見極めるのはタフな仕事になるだろうが、カーニー総裁の前途に待ち構えているのはそれ以上にタフな仕事だ。あちらこちらで上がる数え切れないほどの火の手を鎮火しないといけないのだから。 


<参考文献>


●Backus, D and J Driffill (1985a): “Inflation and Reputation”, The American Economic Review, 75(3), 530-38.
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●Barro, R J (1986), “Reputation in a model of monetary policy with incomplete information”, Journal of Monetary Economics, 17(1), 3-20.
●Cottle, D (2012), “So, Mr. Carney, Hawk or Dove”, 27 November 2012, last accessed 04 April 2013.
●Cukierman, A and A H Meltzer (1986), “A Theory of Ambiguity, Credibility, and Inflation under Discretion and Asymmetric Information”, Econometrica, 54(5), 1099-1128.
●Faust, J and L E O Svensson (2001), “Transparency and Credibility: Monetary Policy with Unobservable Goals”, International Economic Review, 42(2), 369-97.
●Hansen, S and M McMahon (2013), “First Impressions Matter: Signalling as a source of policy dynamics(pdf)”, mimeograph.
●King, R G, Y K Lu and E S Pastén (2008), “Managing Expectations”, Journal of Money, Credit and Banking, 40(8), 1625-1666.
●Sibert, A (2002), “Monetary policy with uncertain central bank preferences”, European Economic Review, 46(6), 1093-1109.
●Sibert, A (2003), “Monetary Policy Committees: Individual and Collective Reputations”, Review of Economic Studies, 70(3), 649-665.
●Sibert, A (2009), “Is Transparency about Central Bank Plans Desirable?”, Journal of the European Economic Association, 7, 831-857.
The Economist (2013), “On a wing and a credit card” July 6th 2013.
●Vickers, J (1986), “Signalling in a Model of Monetary Policy with Incomplete Information”, Oxford Economic Papers, 38(3), 443-55.

2013年8月10日土曜日

Andy Harless 「タフでマッチョなハト派?」(2013年2月13日)

Andy Harless, “Why Doves Are Really Hawks”(Employment, Interest, and Money, February 13, 2013) 


マッチョ(Machismo)は、コミットメント・メカニズムの一種である。

あなたが徹底的なまでに合理的なオタク(perfectly rational nerd)だとしたら、周囲はあなたがいつだって合理的に振る舞うはずだと予想するだろう。そのため、あなたが脅しても信じてもらえないだろう。その脅しを実行するのが合理的なようなら信じてもらえるだろうが、そんなことはほとんどないだろうからだ。「ケツを蹴っ飛ばすぞ」と脅しておいて、その通りに他人のケツを蹴飛ばすのが合理的なケースなんてそうそうないだろう。

その一方で、あなたがタフでマッチョなごろつき(badass)だとしたら、周囲はあなたがいつだってタフでマッチョでたちの悪い振る舞いをするはずだと予想するだろう。そのため、あなたが脅すといつだって信じてもらえるだろう。脅しを実行するのは、タフでマッチョでたちの悪い行いに他ならないからである。あなたが脅すと周囲がそれを真面目に受け取るので、脅しを実行しなくちゃいけない機会は滅多に訪れないだろう。

同じことが金融政策についても言える。あなたの国のセントラルバンカーが徹底的なまでに合理的なオタクだとしたら、あなたの国ではインフレ率が高止まりするだろう。そのセントラルバンカーが「インフレを抑制するために不況を起こすぞ」と脅しても、誰からも信じてもらえないからである。その脅しを実行するのが合理的なようなら信じてもらえるだろうが、そんなことは滅多にないので口先だけだと思われるのである。不況を起こすのが合理的なケースなんてそうそうないだろう。

その一方で、あなたの国のセントラルバンカーがタフでマッチョなごろつきだとしたら、あなたの国でインフレ率が高止まりするようなことはないだろう。そのセントラルバンカーが「インフレを抑制するために不況を起こすぞ」と脅したら、誰もが信じるからである。不況を起こすというのはタフでマッチョでたちの悪い行いに他ならないので、そのセントラルバンカーが本気で脅しを実行するに違いないと周囲は予想するのである。セントラルバンカーの脅しを真面目に受け取った商売人たちが先んじて値下げに動くので、セントラルバンカーは脅しを実行する必要がなくなるのである(単純化し過ぎている面はあるが、あらましとしてはそうなる)。 

インフレ率が高止まりしないようにしたければ、どんな人物をセントラルバンカーに据えたらいいだろうか? その答えは、言うまでもなく明らかだろう。タフでマッチョなごろつきである。己のかぎづめでディナー用の小動物を仕留めるのに喜びを見出す「タカ」みたいな人物である。こぎれいな見た目でクウクウ鳴きながらそこら一帯を飛び回るのに喜びを見出す「ハト」みたいな人物は御免被りたいことだろう。

1980年代においてはそう言えたかもしれないが、世の中は変わってしまった。過去20年を通じてインフレ率はそれほど高くなかった。今はというと、緩やかな不況の真っ只中にある。今のこの状況から抜け出すにはどうしたらいいのだろうか? 「インフレを起こすぞ」と脅すというのが一つの手だ。これからインフレを起こすつもりだから、お金の購買力が失われてしまう前にさっさと何かを買っておいた方が得策だと思わせるわけである。みんながお金を使うようになれば、脅しを実行するのは合理的じゃなくなるだろう。それゆえ、セントラルバンカーが徹底的なまでに合理的なオタクだとしたら、「インフレを起こすぞ」と脅しても信じてもらえないだろう。

今のこの緩やかな不況から抜け出したければ、どんな人物をセントラルバンカーに据えたらいいだろうか? その答えは、言うまでもなく明らかだろう。タフでマッチョなごろつきである。己のかぎづめでディナー用の小動物を仕留めるのに喜びを見出すような人物である。ところで、私は鳥類学の専門家ではないが、そんな人物を「ハト(派)」と呼ぶのは適切ではないように思われるのだ。

2013年8月9日金曜日

James Zuccollo 「9・11テロの副次的な効果」(2013年8月9日)

James Zuccollo, “Side effects of 9/11”(TVHE, August 9, 2013)


人間というのは、限定合理的な(boundedly rational)存在だ。何らかの意思決定を下す時に、その都度最適な選択肢を探すよりも、ヒューリスティック(heuristics)に頼ろうとするのだ。しかしながら、ヒューリスティックがその人のためになるとは限らない
2001年のテロ事件が発生して以降の数カ月間に、アメリカの主要な航空会社の旅客マイル(旅客数×飛行距離)は12%~20%減少した一方で、車での移動が大幅に増えたという。
・・・(中略)・・・
ドイツでリスクについて専門的に研究しているゲルト・ギーゲレンツァー(Gerd Gigerenzer)教授の推計結果によると、9・11テロ以降の1年間に、車での移動が増えたせいで1595人のアメリカ人が自動車事故で命を失うことになったという。9・11テロという悲劇の間接的な犠牲者と言えよう。 
・・・(中略)・・・ 
リスクに対する貧弱な理解が原因で失われた命だとギーゲレンツァー教授は語る。「フライパンから火の中へと飛び込んだわけです」。 
ギーゲレンツァー教授は続ける。「私たちは、一度に大勢が命を失う状況を恐れるような傾向を備えています。私たちの祖先が小さな集団でまとまって生活していた時代の名残だと思われます。一部のメンバーの死がそれ以外のみんなの命も危険に晒してしまいかねない時代のですね。今ではそうじゃなくなっているわけですが、死者の数は同じであっても、それが一度で失われるか1年間の累計で失われるかで感じる恐れが違ってくるのです」。

2013年8月3日土曜日

Timothy Taylor 「FOMC版(笑)指数」(2013年8月2日)

Timothy Taylor, “The Fed Laughter Index”(Conversable Economist, August 2, 2013)


2007年から2009年にかけて、我が国(アメリカ)は金融面・経済面で大きなショックに襲われた。本ブログでは、そのショックの深刻さを可視化するのに役立つような図表を折に触れて紹介してきた。例えば、こちらこちらで取り上げたように、金利スプレッド、金融部門による純貸出、住宅バブル、海外からアメリカへの資本流入などについて紹介してきたわけだが、今回はちょっと風変わりな指標を紹介するとしよう。「FOMC版(笑)指数」とでも呼べる指標であり、アメリカにおける金融政策の最高意思決定機関であるFOMC(連邦公開市場委員会)のトランスクリプト(出席者の発言を文字に起こしたもの)にある「(笑)の数」――会合中に出席者の間で笑い声が漏れた回数――がカウントされている。


上の図によると、グリーンスパン議長時代の終わり頃には、会合ごとの「(笑)の数」は10回~30回というのが定番だったようだ(はっきりさせておかないといけないことがある。金融政策のオタクたちが一室に集まっているわけで、そんな彼らだけが笑える類のユーモアが交わされたに違いないということだ)。バーナンキがFRB議長に就任して以降は、「(笑)の数」が増えている。ピーク時には、会合ごとの「(笑)の数」が70回~80回にも達している。しかしながら、2007年後半に金融危機の第一波に襲われてからというもの、「(笑)の数」がほぼゼロという会合もちらほらある。

データが2008年初頭までしかないのは、会合が終了してから議事録が公開されるまでに5年待たないといけないからだ。最後に図の出所を明らかにしておくと、スタンフォード大学経済政策研究所が昨年(2012年)の春に開催した「サミット」の報告書からの転載だ。Bianco Researchが収集したデータを基にして作成した図だという。