2013年8月21日水曜日

Nicholas Crafts 「イギリス経済は『流動性の罠』からいかにして抜け出したのか ~1930年代のイギリスの経験に学ぶ~」

Nicholas Crafts, “Escaping liquidity traps: Lessons from the UK’s 1930s escape”(VOX, May 12, 2013)
1930年代にイギリス経済は「流動性の罠」に陥ったものの、そこから無事に抜け出して力強い景気回復を経験することになった。イギリス経済が力強い景気回復を成し遂げた背後には一体どのような要因が控えていたのであろうか? 本論説では、イングランド銀行ではなくイギリス財務省(大蔵省)によって主導された「非伝統的な」(‘unconventional’)金融政策こそが当時の景気回復を牽引した要因であった、との主張を展開する。当時財務相を務めていたネヴィル・チェンバレンは「アベノミクス」の先駆者であった、というわけだ。また、当時のイギリスの経験を踏まえると、次のような疑問が持ち上がることになる。独立した中央銀行によるインフレ目標政策は、名目金利が極めて低い水準にある状況において適切な金融政策の枠組みであると言えるのだろうか?
1932年半ばのイギリス経済の様子を振り返ると次のようになる。まず何よりも、深刻な景気後退に陥っていたことである。その深刻さはこの度の(2008年から2009年にかけての)景気後退に引けを取らないものであった。また、財政再建に向けて構造的財政赤字の大幅な削減-対GDP比で4%にも及んだ-が断行された。そして、短期名目金利はゼロ%近くの水準にあり、景気は二番底の真っ只中に置かれていた(Crafts and Fearon 2013)。しかしながら、1933年から1936年にかけてイギリス経済は非常に力強い景気回復を経験することになった。1933~1936年におけるイギリスの経済成長率はどの年も年率4%を上回る数字を記録したのである。この景気回復を主導した人物は、当時財務相(The Chancellor of the Exchequer)を務めていたネヴィル・チェンバレン(Neville Chamberlain)であった(彼は1931年11月から1937年5月まで財務相を務めた)。1930年代当時においてチェンバレンが直面していた状況と現在ジョージ・オズボーン(George Osborne)が直面している状況とは似通っているが、前任者が採用した政策からオズボーンが学び取れることは何かあるだろうか?

1930年代のイギリスで経済政策が景気回復を後押しした面があったとすれば、1935年までに関しては金融刺激策(金融緩和策)がその主たる手段であったと言えるだろう。再軍備(軍事増強)に向けた一連のプログラムは事実上のケインズ政策(財政出動)と見なすことができ、1938年までの累計でGDPの4%程度の引き上げに貢献したと考えられるのは確かだが、1933~1936年の期間に関しては経済活動に対してほとんど何らの影響も持たなかった。また、景気が大きく低迷していたにもかかわらず、当時の財政支出乗数の値はおそらく1を下回っていたと考えられる。その理由としては、(第一次世界大戦の後遺症として)対GDP比で見た政府債務残高がかなり高い水準に達していたことを挙げることができるだろう。


1930年代のイギリスで採用された政策枠組み

1932年半ば以降にイギリスで採用された政策枠組みは、いわゆる「流動性の罠から抜け出すための絶対確実な方法」(Svensson, 2003)や現在日本で進行中の「アベノミクス」とかなり類似していると言える。
  • 1931年9月にイギリスは金本位制からの離脱を余儀なくされたが、その後の1932年半ばにイギリス財務省はいわゆる「チープ・マネー政策」(‘cheap-money policy’)に乗り出した。

「チープ・マネー政策」は大きく3つの要素から成っていた。まず第1に、「チープ・マネー政策」の結果として短期名目金利が0.6%程度にまで低下し、1930年代の残りの期間を通じて短期名目金利はその水準にとどまることになった(表1を参照)。
  • 第2に、1932年7月にチェンバレンが物価水準目標の宣言を行った。その目的は、デフレーションを終息させ、物価を1929年の水準にまで引き戻すことにあった。
  • 第3に、イギリス財務省はポンドの大幅な減価を伴う為替レートターゲットに乗り出した。まずはじめにドルとのペッグ(ドルとの交換レートは1ポンド=3.40ドルに設定された)、次いでフランとのペッグ(フランとの交換レートは1ポンド=77フランに設定された)に踏み切られることになった(Howson 1980)。為替市場への介入は1932年の夏に創設された為替平衡勘定(Exchange Equalisation Account)を通じて行われた(表2を参照)。

このような一連の「チープ・マネー政策」によって実質金利は劇的かつ速やかに低下し、イギリスが保有する金準備は1年でほぼ倍増することになった。また、1932年初頭から1936年の終わりにかけてマネーサプライは34%もの増加を見せることになったのであった(Howson 1975)。

「ゼロ下限制約下において実質金利の低下をもたらすためにはどうしたらよいか?」という問題に対して、「チープ・マネー政策」は教科書通りのアプローチで立ち向かうこととなった。すなわち、「チープ・マネー政策」はインフレ期待の喚起(予想インフレ率の引き上げ)を通じて実質金利の低下をもたらしたのである。この点に関しては、金本位制離脱後のイギリスで金融政策を取り仕切ったのはモンタギュー・ノーマン(Montagu Norman)率いるイングランド銀行ではなくチェンバレン率いる財務省であった、という事実が重要な意味合いを持っている。その理由はこうである。かねてより指摘されているように、「流動性の罠から抜け出すための絶対確実な方法」はコミットメント-それも特に中央銀行によるコミットメント-の信頼性に関わる問題を抱えている。すなわち、景気が一度回復軌道に乗った後もなお中央銀行は信頼のおけるかたちでインフレ率の上昇(あるいは高めのインフレ率の容認)にコミットすることができるかどうか、という問題である。しかしながら、(イングランド銀行とは違って)当時のイギリス財務省は(高めのインフレ率の達成に対する)コミットメントの信頼性を勝ち得る上で都合のよい立場にあった。なぜなら財政の持続可能性の問題を抱えていたからである。実質金利が実質GDP成長率よりも低い水準に抑えられることで実質GDP成長率と実質金利との間に差(実質GDP成長率-実質金利>0)が生まれれば、それを利用して対GDP比で見た政府債務残高の縮小につなげることが可能である。つまりは、当時のイギリス財務省は、実質金利を実質GDP成長率よりも低い水準に抑え、財政の持続可能性を担保するための戦略の一環として緩やかなインフレをしばらく受け入れるつもりだ、とマーケットを説得し得る都合のよい立場にあったわけである。いわゆる「金融抑圧」(‘financial repression’)を通じた政府債務の圧縮ということになるが、ともかくも(高めのインフレ率の達成に対する)コミットメントの信頼性を勝ち得たことで、それほど大きなプライマリーバランスの黒字を生み出す必要性に迫られることもなく、また、財政に対するケインズ流のアプローチに訴えずとも「自滅的な財政緊縮」(財政赤字ならびに政府債務残高の縮小を目指して財政緊縮に乗り出したものの、(さらなる景気の落ち込みをもたらすことで)かえって財政赤字や政府債務残高が増大する結果となってしまうこと;訳注)の恐れを和らげることが可能となったのである。

表3は財政の持続可能性に関わるデータを掲げたものである。この表からイギリス財務省による(高めのインフレ率の達成に対する)コミットメントが信頼できるものであったことを見て取ることができるだろう。イギリス経済がデフレに陥っていた1930年代初頭においては、対GDP比で見た政府債務残高の増大を阻止する上で莫大な規模のプライマリーバランスの黒字を生み出す必要があったが、1934~35年以降になると実質GDP成長率が実質金利を上回るようになり、プライマリーバランスが若干赤字であっても財政の持続可能性と矛盾しない状況であったことがわかる。


「チープ・マネー政策」の波及メカニズム;住宅建設

「チープ・マネー政策」が効果を発揮するためには、その政策を通じて総需要が刺激される必要があることは言うまでもない。つまりは、「チープ・マネー政策」が実体経済に対して影響を及ぼす経路(波及メカニズム)が必要である。その波及メカニズムの中でも特に検討してみる価値があるのは、「チープ・マネー政策」が住宅建設に及ぼした影響である。民間部門における住宅建設戸数は1931~32年においては13万3000件であったが、その後になって増加傾向を示すことになり、1934~35年においては29万3000件、1935~36年においては27万9000件を記録した-この間に建設された住宅の多くは、1930年代にロンドンをはじめとした南イングランド一帯で人気を集めたセミデタッチハウス(semi-detached house;二戸建て住宅)であった-。住宅建設は1934年までに5500万ポンドの直接的な経済効果をもたらし、雇用の増加に伴う間接的な効果も含めると合計で8000万ポンドあるいは1932年から1934年の間におけるGDPの増加分の3分の1の規模にのぼる経済効果をもたらすことになったと考えられる。住宅の建設は金利の低下に反応して増加することになったが、土地の開発業者らの間で「建設コストは底入れした」との認識が広がったこともまた住宅の建設を促すことになった。住宅建設を刺激したこれらどちらの要因もともに「チープ・マネー政策」の結果としてもたらされたものであった(Howson 1975)。

1930年代に住宅建設は大きな反応を見せたわけだが、その理由は何なのだろうか? その理由として2つの要因を挙げることができるだろう。

  • 第一の要因は、(住宅金融を専門とする組合組織の成長を背景とした;訳注)住宅ローンの供給の急激な伸びである。また、住宅ローン貸出の抑制につながるような金融危機が発生しなかったこともあり、好条件で住宅ローンを借り入れることが可能であった。
住宅金融組合(Building society)による住宅ローンの貸出残高は、1930年時点では72万人の借り手に対して計3億1600万ポンドにのぼったが、1937年に入ると139万2000人の借り手に対して計6億3600万ポンドを記録するまでになった。なお、1937年の時点においては、非農業部門雇用世帯の18%が持ち家を購入予定か既に所有している状態であった。また、組合に預け入れる必要のある預金額(住宅金融組合から住宅ローンを借りる場合は土地の購入価格の一定割合を組合に預金として預け入れる必要があった;訳注)が引き下げられ(預け入れる必要のある預金が土地の購入代金のわずか5%というケースもあった)、住宅ローンの返済期限がそれまでのおよそ20年から25年に(場合によっては30年に)延長されることで週ごとのローン返済額が15%ポイント削減されたのであった(Scott 2008)。

  • 第二の要因は、住宅を安価で購入できたことである。 
新築住宅の85%は当時の価格で750ポンド(現在の価格に換算すると、45,000ポンド)よりも安くで売られていた。また、1930年代中頃のロンドンではテラスハウスを395ポンドで購入することができた(当時の平均年収はおよそ165ポンドであった)。住宅の価格が安かったのは、住宅用の土地の供給が極めて弾力的であったためである。そのためもあって、開発業者らは広大な土地を自ら抱え込むインセンティブを持つことはなかったのであった。なぜ住宅用の土地がそれほど広く利用可能であったかというと、土地利用計画に関わる規制が当時はまだほとんど存在していなかったからである。1932年時点では規制対象となっていた土地はわずか7万5000エーカー程度であった。土地の厳格な利用規制を含む都市・農村計画法(Town and Country Planning Act)が制定されるのは1947年のことである。


今日への教訓

それではジョージ・オズボーンは1930年代のイギリスの経験からどのような教訓を引き出すことができるだろうか?

  • 【第一の-そして最も明白な-教訓】 経済がゼロ下限制約下に置かれている状況では、独立した中央銀行によるインフレ目標政策は適切な金融政策の枠組みではないかもしれない。
ここのところ中央銀行の政策目標を巡る議論が盛んである。中央銀行はもっと高めのインフレ率を目標に据えるべきだ、いや名目GDPを政策目標とすべきだ、といったように政策目標を巡って熱い議論がたたかわされているわけだが、この第一の教訓はそういった議論を超えたもの(あるいはそういった議論とは次元を異にするもの)である。1930年代のイギリスは中央銀行が独立していなかったことから便益を受ける格好となったのであり、中央銀行の独立性は必ずしも金融政策を運営する上で最善の方法であるとは限らない-特に今現在においては最善の方法ではないかもしれない-と思われるのである。

  • 【第二の教訓】 1930年代の住宅建設ブームが今また再現されることは好ましいことだと言えるだろう。
今すぐに住宅建設ブームが起こりそうかというとそうとは言えないのは確かだ。というのも、住宅ローンの利用可能性と土地利用計画に関わるルール(法律)が1930年代と現在とでは大きく異なるからである。そのことを踏まえると、住宅建設ブームを後押しする上では特に都市計画法の規制を緩和することが望ましいと言えるのかもしれない。最近の研究で示されているように、土地利用を巡る法規制は住宅市場に大きな歪みをもたらしており、仮に規制の一部が取り除かれた場合には、経済が新たな均衡に移行する過程で数多くの住宅が建設されることになる可能性がある(Hilber and Vermeulen 2012)。しかしながら、その種の政策変更を実現することは政治的に見てかなりの難題であり、その実現可能性は低いと思われる。


表1 各種金利指標(単位は%)
(注記)実質金利は事後的な実質金利(=名目金利-実際のインフレ率)である。実質長期金利(Real long rates)はコンソル債の利回りから過去3年間のインフレ率の加重平均を差し引いて導出している。詳細はChadha and Dimsdale(1999)を参照のこと。今回データを提供してくれた Jagjit Chadha には感謝の意を表したい。
(データの出所)Bank Rate(政策金利)、Treasury Bill Rate(短期国債の利回り)、Yield on Consols(コンソル債の利回り)に関するデータの出所は Dimsdale(1981)、Real interest rates(実質金利)に関するデータの出所は Chadha and Dimsdale(1999)。

表2 名目為替レート(1929年時点の為替レートを100とおく)
(注記)Average exchange rate(平均為替レート)はポンドとその他のあらゆる通貨との間の(2国間)為替レートの加重平均であり、製造業の輸出シェアをウェイトとして用いている。 
(データの出所) Dimsdale(1981)

表3 「財政の持続可能性」に関わるデータ(1925年-1938年)
(注記)b*は、(change in d) = 0 との条件を満たす上で(対GDP比で見た政府債務残高が変化せずに一定の値にとどまる上で;訳注)必要となるプライマリーバランスの黒字の値(対GDP比)を表している。また、(change in d) = -b +d(i -π - g) である。bは対GDP比で見たプライマリーバランス(bがプラスの値をとる場合はプライマリーバランスの黒字が発生)、iは政府債務(国債)の平均的な名目金利、dは対GDP比で見た政府債務残高をそれぞれ表している。b、i、dのいずれに関してもMiddleton(2010)のデータを利用している。πはGDPデフレーターで測ったインフレ率であり、Feinstein(1972)のデータを利用している。gは第4四半期の実質GDP成長率であり、Mitchell et al.(2012)のデータを利用している。


<参考文献>

○Chadha, J S and Dimsdale, N H (1999), “A Long View of Real Rates(Oxford Journals)”, Oxford Review of Economic Policy 15(2), 17-45.
○Crafts, N and Fearon, P (2013), “The 1930s: Understanding the Lessons”, in N Crafts and P Fearon (eds.) The Great Depression of the 1930s: Lessons for Today, Oxford, Oxford University Press, 45-73.
○Dimsdale, N H (1981), “British Monetary Policy and the Exchange Rate, 1920-1938(JSTOR)”, Oxford Economic Papers 33(2), supplement, 306-349.
○Feinstein, C H (1972), National Income, Expenditure and Output of the United Kingdom, 1855-1965, Cambridge, Cambridge University Press.
○Hilber, C A L and Vermeulen, W (2012), “The Impact of Supply Constraints on House Prices in England(pdf)”, London School of Economics Spatial Economics Research Centre Discussion Paper No. 119.
○Howson, S (1975), Domestic Monetary Management in Britain, 1919-1938, Cambridge, Cambridge University Press.
○Howson, S (1980), “The Management of Sterling, 1932-1939(JSTOR)”, Journal of Economic History 40, 53-60.
○Middleton, R (2010), “British Monetary and Fiscal Policy in the 1930s(Oxford Journals)”, Oxford Review of Economic Policy 26, 414-441.
○Mitchell, J, Solomou, S and Weale, M (2012), “Monthly GDP Estimates for Interwar Britain(ScienceDirect)”, Explorations in Economic History 49, 543-556.
○Scott, P (2008), “Marketing Mass Home Ownership and the Creation of the Modern Working-Class Consumer in Interwar Britain(Taylor&Francis Online)”, Business History 50, 4-25.
○Svensson, L E O (2003), “Escaping from a Liquidity Trap and Deflation: the Foolproof Way and Others”, Journal of Economic Perspectives 17(4), 145-166.

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