2013年8月18日日曜日

Eli Dourado 「人身御供の経済学」(2013年2月20日)

Eli Dourado, “What Can We Learn from Human Sacrifice?”(The Ümlaut, February 20, 2013)


人身御供(ひとみごくう)についての描写は、現代人の心をゾッとさせずにはおかない。インド東部のコンド族によって執り行われていた人身御供についての以下の記述をご覧いただきたい。ピーター・リーソン(Peter Leeson)の最近の論文(pdf)からの引用だ。

生贄が動かないようにするために、腕や足の骨が折られることもあった。最後の祈りが唱えられると、神官の言葉を合図に「儀式に参加していた民衆が一斉に生贄に飛び掛かり、頭と腸には一切触れずに、肉を引き剝がし始めた」。生贄を切り刻むというのはどこでもよくあったが、コンド族の間では、派手で残酷な別の処置が追加されることもあった。例えば、豚の血で満たされた穴の中に生贄を投げ込んで溺死させることもあれば、生贄の命が絶えるまで真鍮の腕輪で殴り続けることもあった。その後で生贄の体を細かく切り刻むのだ。

豊饒と草木の女神――執念深い地母神――であるタリ・ペヌー(Tari Penu)の気持ちをなだめるために。

まったくもって非合理的で、何の得にもならない滅茶苦茶な行為だと思うかもしれない。「いや、違う」というのがリーソンの言い分である。コンド族は、同族の隣接する集落から襲撃されるのを防ぐための術として人身御供という儀式を利用していたというのである。人身御供という 「見せびらかしの破壊」を行って、近くの集落に知らせていたというのだ。富を破壊してしまって貧しくなった我々を襲っても得にならないということを。人身御供が略奪を防ぐのに効果を発揮したのは、富が破壊されているのが誰の目にも明らかだったからである。生贄――メリアー(meriahs)と呼ばれていた――は、別の部族から高値で購入する習わしになっていた。大量の作物を燃やして富を破壊しているのを見せびらかす場合とは違って、人体を切り刻んでいるのを偽装するのは困難だ――本当は作物を燃やしていないのに、表面を葉っぱで覆ってしまえば作物を燃やしていると言い張ることができるが、人体を解体する場合はそうはいかない――。人身御供という 「見せびらかしの破壊」では、高価な富が破壊されているのが誰の目にも明らかだったのだ。

人身御供が合理的で、社会的に有用な役割を果たしたケースもあることを理論的・歴史的な観点から説得的に論証しているのがリーソンの論文なのだ。人身御供が一切執り行われていなければ、同族内での略奪が頻繁に起きていたかもしれない。人身御供は、コンド族のためになっていたのだ。

コンド族を真似て、人身御供を執り行うべきなのだろうか? その答えは、明らかに「ノー」だ。しかしながら、コンド族のケースから学べることはたくさんある。リーソンは、論文の冒頭でジョージ・スティグラー(George Stigler)の次の言葉を引用している。

「長きにわたって存続している社会制度も慣行も例外なく効率的である」

言い伝えによると、コンド族による人身御供は太古の昔からずっと続いていたらしい。長きにわたって存続した社会制度だったわけである。リーソンのこれまでの研究を振り返ると、風変わりではあるが合理的で効率的な歴史上の慣行の例で満ち溢れている。呪いはどうなのか? リーソンによれば(pdf)、合理的である。決闘裁判は? リーソンによれば(pdf)、効率的である。中世ヨーロッパの裁判で執り行われていた神判は? リーソンによれば(pdf)、無実かそうでないかを正確に見分けるのに役立った。動物裁判は? リーソンによれば(pdf)、カトリック教会による賢明な策だった(十分の一税の納付を促す役割をした)。妻売りは? リーソン&ベッキー(Peter Boettke)&レムケ(Jayme Lemke)によれば(pdf)、女性のためになった。

人身御供についてのリーソンの研究がリベラル派(あるいは、リベラル寄りな人たち)に対して突き付けている重要な教訓がある。長きにわたって続いている慣行(あるいは、長きにわたって流布している信念)を愚かだとか非合理的だとかと安直に断じるなかれという教訓がそれである。現存する制度なり慣行なりについて何もかも理解し尽くしているかのような気になってはいけないのだ。人身御供を宗教上の制度――そうだったのは確か――としてだけ捉えてしまうと、略奪を防ぐための制度でもあった――そうだったのは確か――ことが易々と見過ごされてしまうだろう。何らかの呪術的な干渉によってコンド族に人身御供を取りやめさせることができたとしても、その結果として同族内での略奪が盛んになるかもしれない。人身御供が続けられる場合よりも、多くの人命と富が失われてしまうおそれがあるのだ。イギリス政府がリベラルな教育を施したり暴力で脅したりしてコンド族に人身御供を取りやめさせようとしたが、結局のところは失敗に終わった。それと同様に、長きにわたって存続しているリベラルとは言えない慣行を取りやめさせようとしても、失敗に終わることが多いだろう。

保守派(あるいは、保守寄りの人たち)もコンド族のケースから学べることがある。人身御供は、コンド族が置かれていた状況においては効率的な制度だった。イギリス政府がコンド族のために所有権の保護や紛争解決のサービスを提供し始めると、コンド族の人たちは人身御供を快く取りやめた――若者世代の不信心な態度に怒り心頭だった年配者もいただろうと想像される――。環境が劇的に変化すると、それまで長きにわたって存続してきて効率的だった社会制度も効率的ではなくなって、存続できなくなるわけである。スティグラーが主張しているように、効率的な制度の存続を支えるのと同じ力が非効率的な制度を淘汰するのである。リベラル派だけでなく保守派も社会制度が存続したり変化したりする真の理由を理解するのが難しいようで、新しいテクノロジーの登場に対する効率的な反応として社会制度が変化しているのに、保守派はそうは考えない。社会制度が変化しているのは道徳が頽廃しているからと考えがちなのだ。

テクノロジーが急激に変化する時代に我々は生きているとよく言われるし、事実その通りだ。結婚、出産、終末期医療、労働市場、大学など社会制度の多くも急激に変化しているが、驚くにはあたらない。社会制度の変化は、テクノロジーの変化の結果に過ぎないからだ。古くから続く制度を現状の温存に加担するものとしか考えないリベラル派は、社会制度が変化するのを進歩と見なすことだろう。旧習を内面化している保守派は、社会制度が変化するのを頽廃と見なすことだろう。しかしながら、社会制度の変化は、道徳面での進歩を意味しているわけでもなければ、道徳面での頽廃を意味しているわけでもないのだ。法、経済学、迷信についてのリーソンの一連の研究は、風変わりな多くの社会制度――コンド族に限らず、我々のも含めて――がいかにして形成されるかを愉快かつ啓発的なかたちで明らかにしている。それぞれの社会が直面している問題や制約に対する合理的な反応の結果なのだ。

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