2013年8月13日火曜日

Peter Leeson 「迷信と経済発展」(2010年8月23日)

Peter T. Leeson, “Superstition and Development”(Aid Watch, August 23, 2010)


ジプシーたちの間で信じ込まれている説によると、ジプシーではない人間の下半身は気付かぬうちに穢れてしまっているという。超自然的な力によって穢れが人づてに伝染するというのだ。そのせいで、ジプシーではない人間の魂は毒されているというのである。

これらの迷信は、非合理的なわけでは決してない。ジプシーたちの共同体の秩序を維持するのに中心的な役割を果たしているのだ。ジプシーたちは、仲間うちでの協調を図るために、公的な法制度に頼るということができない。彼らの間での経済的・社会的なやり取りの多くは、法律の対象外であるか、違法行為にあたる。しかしながら、法と秩序に対する欲求の強さは、ジプシーたちも人後に落ちない。

そこで、仲間内での秩序を維持するために迷信の力が借りられるのだ〔原注1〕。ジプシーではない人間の魂は毒されていて、超自然的な力によって穢れが人づてに伝染するという迷信がどんな役割を果たしているかを検討してみるとしよう。ジプシーたちは、仲間内の誰かが裏切らないようにするために、政府に頼ることができない。村八分(ostracism)の脅しに頼る〔訳注;裏切り行為を働いたら、共同体から追い出してもう二度と関わりを持たないと脅す〕しかない。 

問題なのは、ジプシーたちの共同体は大海に浮かぶ小島のようなものだということである。ジプシーではない人間がすぐ近くにうようよいるのだ。裏切り行為を働いて追放されたジプシーが外の社会に溶け込んで、そこで暮らす人たちと接触できるようなら、追い出すというのは大した罰ではなくなる。村八分の脅しに効力を持たせるために、あの迷信が生まれたのだ。ジプシーではない人間の魂は毒されていて、その毒は伝染するというあの迷信が。ジプシーではない人間と接触したら、超自然的な力によって同じく毒されてしまうというあの迷信が。

あの迷信のおかげで、村八分の脅しが真実味を帯びるようになる。裏切り行為を働くと、あらゆる社会から追放されることを意味するようになるからである。ジプシーたちとだけでなく、外の社会の人間たちとも接触できなくなることを意味するのだ。村八分の脅しと迷信の力が相まって、裏切り行為が防がれているわけなのだ。ジプシーたちの間で信じられている迷信は、おそらくは意図せずして法と秩序の維持に貢献しているのだ。

ジプシーのような「他者」が信じている迷信を見下してしまいがちな風潮があるが、ヨーロッパの歴史を振り返ると、迷信の宝庫であることがわかる。そして、その中のいくつかは社会的に有用な働きをしていた可能性があるのだ。例えば、中世ヨーロッパの裁判では、被告人が有罪か無罪かがはっきりしない場合に神判(ordeal)が執り行われた〔原注2〕。例えば、熱湯を用いる神判では、被告人はお湯がグツグツと沸き立っている大釜の中に腕を突っ込むように求められる。熱湯に腕を突っ込んでから3日後にひどいやけどや感染症の症状が確認されると、有罪が宣告される。その一方で、腕に何の異常も表れないようなら、無罪が言い渡される。このような神判を支えているのは、無実の被告人のために神が奇跡をもたらすという迷信なのだ。被告人が無実であれば、神のおかげで厳しい試練も無傷で潜り抜けられるという迷信なのだ。

ジプシーのケースと同じように、この迷信も一見すると非合理的な信念のように思えるが、じっくり検討してみると、社会的に有用な働きをしていることが判明する。被告人が身に覚えがあるようなら、腕を熱湯に突っ込むのを拒否するに決まっているだろう。なぜなら、無実の被告人は神のご加護によって救われる一方で、身に覚えがある被告人には神のご加護がないと信じ込まれているからである。すなわち、身に覚えがある被告人は、腕を熱湯に突っ込めばやけどを負うに違いないと予想するのだ。腕を熱湯に突っ込むのに同意したら、やけどを負って有罪を宣告されるに違いないと予想するのだ。腕にやけどを負うよりは、罪を白状するか原告と示談する方が得策と考えるのだ。

それとは対照的に、無実の被告人は、必ずや神判を受けようとするだろう。無実の被告人には神のご加護があるという迷信を信じているからである。腕を熱湯に突っ込んでも神のおかげでやけどを負わずに済むと信じているからである。神判を受けたら無罪が証明されるに違いないと信じているからである。無実の被告人は、神判を受けるのに少しも恐れを抱かない。神判をすすんで受けようとするのだ。

身に覚えがある被告人は神判を受けようとせず、無実の被告人は神判をすすんで受けようとする。被告人が神判をすすんで受けようとするかどうかを観察すれば、その被告人が有罪か無罪かを見分けられるのだ。中世ヨーロッパで信じられていた迷信は、刑事裁判で正義が下されるのを手助けする働きをしていたのだ。そのようにして法と秩序の維持に貢献していたのだ。

とは言え、あらゆる迷信が法と秩序の維持に貢献するというわけではない。決してそうじゃないだろう。しかしながら、科学的な根拠がなくて滑稽な迷信であっても、公的な制度の代役を果たしている場合があるかもしれないのだ。公的な制度が存在していなかったり公的な制度がうまく機能していない状況で、社会的な協調を支える役割を代わりに果たしているかもしれないのだ。その可能性を否定すべきじゃないだろう。発展途上国で信じ込まれている迷信のうちで、そういう役割を果たしているものはあるだろうか?


<原注>

〔原注1〕ジプシーたちの間で広まっている迷信に経済学的な観点から包括的な分析を加えているのが、次の拙論文である。Peter T. Leeson (2013), “Gypsy law(pdf)”(Public Choice, vol. 155, issue 3-4, pp. 273-292)

〔原注2〕中世ヨーロッパの裁判で執り行われていた「神判」に経済学的な観点から包括的な分析を加えているのが、次の拙論文である。Peter T. Leeson (2012), “Ordeals(pdf)”(Journal of Law and Economics, vol. 55, issue 3, pp. 691-714)

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