tag:blogger.com,1999:blog-23021961957699607752024-03-14T13:12:07.517+09:00VOXを訳す!VOX以外も訳します。voxwatcherhttp://www.blogger.com/profile/10317675353577588272noreply@blogger.comBlogger82125tag:blogger.com,1999:blog-2302196195769960775.post-52788640859232219822023-04-18T12:55:00.005+09:002023-04-18T12:56:21.427+09:00Richard Baldwin 「『ワインの経済学』が明かす『お得なワイン』とは?」(2008年6月28日)<div style="text-align: left;"><span style="font-size: large;">Richard Baldwin, “<a href="https://cepr.org/voxeu/columns/wine-economics-and-economical-wine" target="_blank">Wine economics and economical wine</a>”(<i>VOX</i>, June 28, 2008)</span><br /></div><div style="text-align: left;"><blockquote><i>身近にある気楽な話題に切り込んだ厳密な研究によると、テロワール(ブドウの生育環境)はワインの質と関係ないようであり――ワインの値段となると話は別――、ワイン「専門家」の意見(評価)はワインの将来(飲み頃になった頃)の質や値段を予測するのに役立たないようだ。</i></blockquote><div style="text-align: left;"><br /></div></div><div style="text-align: left;">経済学者の手にかかると、何もかもがつまらなくなってしまうのはどうしてなんだろう?</div><div style="text-align: left;"><br />世界中のワイン愛好家の間では、<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AD%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB" target="_blank">テロワール</a>(ブドウの生育環境)の細部について語らうのが楽しみの一つになっている。サン・テステフ村とポイヤック村を比べると、ワイン用のブドウを栽培するのが難しいのはサン・テステフ村の方というのが目利きたちの間で一致した意見だ。その理由は、サン・テステフ村の土壌の方が重みも厚みもあるから・・・ですよね?<br /><br /></div><div style="text-align: left;">そんなのは戯言(たわごと)だ!・・・と語るのは、オリヴィエ・ジャーゴウ(Olivier Gergaud)&ヴィクター・ギンスバーフ(Victor Ginsburgh)の二人だ。<a href="https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1111/j.1468-0297.2008.02146.x" target="_blank">エコノミック・ジャーナル誌に掲載された彼らの共著論文</a>では、100箇所のブドウ園を対象に、テロワール――土壌の特徴、日当たりの良さなど――に加えて、ワインがどんな方法で製造されているか――どの種類のブドウを栽培しているか、ブドウをどのようにして収穫しているか、ワインをどのように瓶詰めしているか等々――についてもデータが集められている。そして、そのデータをワインの質を測る指標(専門家らによる評価、競売価格)と突き合わせたところ、テロワールは鍵を握っていないことが見出されたという。ワインの質を左右するのは、テクノロジー(ワインの製造方法)だというのだ。「テロワールこそが重要なのだ!」と説くフランス発の神話はそう簡単には解体されないだろうが、お金を賢く使いたいならそんな神話なんて無視すべきなのだ。<br /><br /></div><div style="text-align: left;">エコノミック・ジャーナル誌の同じ号には、テロワール神話解体派の首領(ドン)とも言える<a href="https://cepr.org/about/people/orley-ashenfelter" target="_blank">オーリー・アッシェンフェルター(Orley Ashenfelter)</a>の論文も掲載されている。アッシェンフェルターによると、ボルドー産のワインは年を重ねるほど(熟成が進むほど)味わいがよくなるおかげで、同じワインであってもしばらく待っていたら倍の値で売れるという。ボルドーワインを若いうちに飲んでしまうつもりなら、デキャンタする(ガラス容器に移し替えて空気に触れさせる)のをお忘れなく。<br /><br /></div><div style="text-align: left;">マーケットが素面(しらふ)でちゃんと機能しているようなら、ワインの先物価格(まだ樽に入っている出荷前のワインに付けられる値)は、そのワインが飲み頃になった時にどのくらいの値で手に入れられるかを先取りして伝える偏りのない指標になっているはずだ。しかしながら、現実はそうなっていない。それぞれの生産年度(ヴィンテージ)のボルドーワインの質や値段(飲み頃になった時の値段)はそのワインが製造された年(そのワインを作るのに使われたブドウが収穫された年)の気候によってうまく予測できる。しかしながら、気候という簡単に測れる決定因は、ワインの先物取引で買い手に回る諸君にすっかり無視されてしまっている。その代わり、出荷前のワインに付けられる値に影響を及ぼしているのがその道の専門家による試飲結果――とりわけ、<a href="https://www.robertparker.com/about/the-wine-advocate" target="_blank">ロバート・パーカー(Robert Parker)</a>が試飲して下した評価(点数)――だ。<br /><br /></div><div style="text-align: left;">お金を賢く使いたいなら、パーカーの評価なんて無視すること。その代わり、ワインが製造された年の気候情報に加えて、アッシェンフェルターの論文――“<a href="https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/j.1468-0297.2008.02148.x" target="_blank">Predicting the Quality and Prices of Bordeaux Wine</a>”(「ボルドーワインの質と値段を予測する」)――のコピーを手に入れるのをお薦めする。<br /><br /></div><div style="text-align: left;">・・・というアドバイスは、値段相応のワインを「味わう」つもりのようなら申し分ないと言えようが、ワインで「お金儲けをする」つもりのようなら別のアプローチを試す必要がある。ケインズがいみじくも喝破しているように、美人投票で誰が一位になるかを予測するためには、「誰が美しいか」を判断するのではなく、「みんなが誰を美しいと判断しているか」を判断するのが肝心になってくる。ボルドーワインに関しては、 あの人の判断を無視するわけにはいかない。それは誰かというと、・・・そう、ロバート・パーカーだ。<br /><br /></div><div style="text-align: left;">巧みな手を使って「パーカー効果」の大きさを推計しているのが<a href="https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1111/j.1468-0297.2008.02147.x" target="_blank">マイケル・ビサー(Michael Visser)らの論文</a>である。ボルドーまでわざわざ足を運んで、出荷される前のワインを試飲して点数を付けるというのがパーカーの長年の習わしだった。パーカーが下す評価は、ワインの先物価格にかなり大きなインパクトを及ぼしていることが統計分析の結果として明らかになっている。しかしながら、2003年に関してはそうはならなかった。イラク戦争を恐れてか、パーカーは春になってもボルドーを訪れなかった。そのため、2003年に関しては、パーカーが評価を下す前に既に先物価格が決まっていたのである。ビサーらの論文では、およそ250種類のワインの2002年と2003年の分の先物価格のデータを比較して、「パーカー効果」の大きさが推計されている。その大きさは、ワイン1本あたりおよそ2.8ユーロになる(パーカーの評価が加わるだけで、ワインの先物価格が平均すると2.8ユーロくらい高まる傾向にある)ということだ。</div>voxwatcherhttp://www.blogger.com/profile/10317675353577588272noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2302196195769960775.post-86593759601604050142023-04-10T13:44:00.005+09:002023-04-10T13:53:59.866+09:00David Ubilava&Rebecca Edwards&Stefanie Schurer&Kadir Atalay 「コロナ不況で救われる命:オーストラリアの過去40年のデータから得られる証拠」(2020年11月2日)<p><span style="font-size: large;">David Ubilava&Rebecca Edwards&Stefanie Schurer&Kadir Atalay, “<a href="https://cepr.org/voxeu/columns/lives-saved-during-economic-downturns-evidence-australia" target="_blank">Lives saved during economic downturns: Evidence from Australia</a>”(<i>VOX</i>, November 2, 2020)</span></p><p><i></i></p><blockquote><i>新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐために社会経済活動の制限を試みる一連の措置は、益よりも害が多いと説く声がある。社会経済活動を制限するのに伴って、景気が落ち込むだけでなく、孤立するのを強いられてメンタル面にも悪影響が及ぶというのだ。本稿では、オーストラリアの過去40年のデータを利用して、景気後退が死亡率に及ぼす影響を検証した。その結果はというと、景気後退は死亡率にほとんど影響を及ぼさないようだ。ただし、例外がある。景気が後退すると、交通事故死が減る傾向にあるのだ。ロックダウンやそれに伴う景気の落ち込みが心身の健康に悪影響を及ぼす可能性を排除するつもりは毛頭ないが、ロックダウンやそれに伴う景気の落ち込みの影響で車の交通量が減るおかげで死亡率はむしろ低下することになるかもしれない。</i></blockquote><p></p><p><br /></p><p>新型コロナの大流行を原因とする公衆衛生面での危機に立ち向かうために、世界中の各国で社会経済活動の制限が試みられている。その結果として失業が一時的に急増しているだけでなく、景気の落ち込みが長引くのではないかとも予想されている。「大封鎖」(グレート・ロックダウン)は、1930年代の「大恐慌」と同等の破壊的な影響をもたらすのではないかと予測する声も聞かれるくらいだ(Gopinath 2020)。ロックダウン(都市封鎖)のコストをめぐって世界中で議論が続けられている最中だが、ロックダウンのような「厳格な措置」は益よりも害が多いと説く論者もいる。その言い分によると、ロックダウンによって景気が落ち込むだけでなく、ロックダウンによって孤立するのを強いられる(他者と交流できなくなる)せいでメンタル面(メンタルヘルス)にも悪影響が及ぶというのだ(ABC 2020, Benson 2020, Giuffrida 2020, Collins and Cox 2020)。</p><p>ところで、景気が後退すると死亡率が低下することを見出している一連の先行研究がある。そこにオーストラリアで得られた証拠を新たに付け加えて、ロックダウンのコストをめぐる国内外の議論に一石を投じようと意図しているのが我々の最新の研究である(Atalay et al. 2020)。ことオーストラリアに関しては、景気後退は死亡率にほとんど影響を及ぼさない――景気が後退しても死亡率はほとんど変化しない――というのが過去40年のデータから示唆される結論である。ただし、例外がある。景気が後退すると、交通事故死が減る傾向にあるのだ。その一方で、景気後退は自殺に対して何の影響も及ぼさないことが見出されている。これらの結果は、ロックダウンの影響で景気が落ち込むと、少なくとも国民皆保険が実現している国においては死亡率が低下する可能性があることを示唆している。2020年の終わりまでにオーストラリア国内の失業率は5.1%から10%へと上昇するというのがオーストラリア準備銀行の見立てだが、もしもその見立て通りになったとすると、オーストラリア国内の死亡者の数は(交通事故死が減るおかげで)425人だけ減る――425人の命が救われる――というのが我々の研究から導かれる推計結果である。この推計結果は、未曽有の経済危機に陥る可能性を慎重に考慮に入れた上で導き出されている。景気が落ち込めば心身の健康に悪影響が及ぶかもしれないし、ロックダウンによって心身の健康が損なわれて自殺が増えてしまうかもしれない。その一方で、ロックダウンによって車の交通量が減れば――それに加えて、在宅勤務が広がれば――交通死亡事故が減り、そのおかげで景気後退が死亡率に及ぼす影響がいつにも増して強まるかもしれない。</p><p>景気の良し悪しと死亡率との関係をめぐっては続々と研究が積み重ねられているが、その先駆となったのがクリストファー・リューム(Christopher Ruhm)の画期的な研究(Ruhm 2000, 2015)である。リュームが探ったのは、景気の後退がその国で暮らす人々の健康にプラスに働く(健康を増進させる)可能性だった。景気が後退すると、金銭面で余裕がなくなって生活が苦しくなりがちだとしても、失職して時間の余裕が生まれると、病院に通って治療したり、誰かと一緒に過ごしたり、親戚の世話をしたり、健康的なライフスタイルを送ったりできるようになる。失職すると、事故に遭う機会が減る可能性もある。通勤しないでよくなるので車を運転する機会が減るし、仕事で危ない目(労災)に遭わずに済むようになるからである。すなわち、一国全体のレベルで見ると、 景気が悪化する――失業率が高まる――のに伴って、国民の心身の健康状態が上向くおかげで死亡率が低下する可能性があるわけだ。挑戦的で物議を醸す仮説ではあるが、国別(アメリカ、カナダ、メキシコ、ドイツ) のデータを利用した研究でも、地域別(OECD加盟国、アジア太平洋地域)のデータを利用した研究でも、その妥当性を裏付ける実証的な証拠が得られている。すなわち、「失業率が高まると、死亡率が低下する」という仮説が支持されているのだ(Ruhm 2000, Gerdtham and Ruhm 2006, Miller et al. 2009, Ariizumi and Schirle 2012, Lin 2009, Neumayer 2004, Gonzalez and Quast 2011)。この分野にオーストラリアで得られた証拠を新たに持ち込んだのが我々の研究であり、1979年から2017年までのおよそ40年間にわたる死因別死亡率の時系列データ――そのデータはオーストラリア健康福祉研究所(AIHW)が作成しており、州別/男女別/年齢別に死因別死亡率が跡付けられている――を利用して実証的な検証を試みている。これまでにオーストラリアは研究の対象になっていないが、国民皆保険が実現していてセーフティーネットが比較的充実していてOECD(経済協力開発機構)に加盟している裕福な国についての重要な洞察を得る上でオーストラリアは格好の対象である。</p><p>我々の研究を通じて得られた主要な結果を要約しているのが以下の図1である。失業率の変化が死亡率に及ぼす影響がまとめられているが、全年代をひっくるめた結果に加えて、年齢別――年少層(0歳~14歳)、若年層(15歳~24歳)、年長層(25歳~34歳)、中年層(35歳~64歳)、高齢層(65歳以上)の5階級――の結果も示されている。全年代をひっくるめると、失業率が高まっても死亡率には何の影響も及ばないというのが我々が見出した結果である(一番左)。失業率が1ポイント(1パーセントポイント)上昇しても死亡率には何の影響も及ばないのである(失業率が1ポイント上昇すると死亡率が0.02%低下するという結果が得られているが、 統計的に有意ではない)。しかしながら、若い世代――若年層+年長層(15歳~34歳)――に関しては、失業率が高まると死亡率が低下するという関係(統計的に有意な関係)がはっきりと成り立つことが見出されている。男女別で検証した結果も加味すると、15歳~34歳の若い世代で「失業率が高まると死亡率が低下する」という統計的に有意な関係が成り立つのは、失業率が高まると若い(15歳~34歳の)男性の死亡率が低下するおかげのようだ。中年層(35歳~64歳)および高齢層(65歳以上)に関しては、失業率と死亡率との間に統計的に有意な関係は見出されなかった――中年層、高齢層を個別に検証しても、ひっくるめて検証しても、5歳刻みないしは10歳刻みでグループ分けして検証しても、統計的に有意な関係は見出されなかった――。</p><p style="text-align: center;"><b>図1</b></p><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEg5ILuxcOTqpjX1DUI_HREpvUQB-hctiDfeW3sidpx8WMUBkoQJ1tlZ24P26lyp2vi81eaJarWIPyODJ-I1X9sN4S1ErL8uTHwpa5K2iwSB59F6NrkJ9bQL4plrAE5dyuurzW-9RsL3lwVkdJ2M0Wl4JHSIST1gUgc783OEEQ6-D1LtGDTotWn69iEG/s605/atalay2novfig1.webp" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="577" data-original-width="605" height="508" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEg5ILuxcOTqpjX1DUI_HREpvUQB-hctiDfeW3sidpx8WMUBkoQJ1tlZ24P26lyp2vi81eaJarWIPyODJ-I1X9sN4S1ErL8uTHwpa5K2iwSB59F6NrkJ9bQL4plrAE5dyuurzW-9RsL3lwVkdJ2M0Wl4JHSIST1gUgc783OEEQ6-D1LtGDTotWn69iEG/w533-h508/atalay2novfig1.webp" width="533" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;"></td></tr></tbody></table><br /><p>オーストラリアのデータの検証を通じて我々が得た結果は、2000年よりも前のデータが対象になっている Ruhm (2000, 2015) や国民皆保険が実現していないアメリカが対象になっている Stevens et al. (2015) で得られている結果と大体足並みが揃っている。例えば、Ruhm (2000) によると、20歳~44歳の年齢層については「失業率が高まると、死亡率が低下する」という関係(統計的に有意な関係)が成り立つ――失業率が1ポイント上昇すると、20歳~44歳の世代の死亡率が1.9%低下する――ものの、中年層・高齢層についてはそのような関係は見出せないとのことであり、我々の研究と同様の結果が得られている。また、Stevens et al. (2015) では、15歳~29歳の男性(および、15歳~24歳の女性)について「失業率が高まると、死亡率が低下する」との関係が見出されており、失業率が1ポイント上昇すると(15歳~29歳の男性、15歳~24歳の女性の)死亡率が1.1%~1.8%低下するとの結果が得られている。それに加えて、Stevens et al. (2015) によると、失業率の変化が死亡率に及ぼす影響は女性よりも男性の方が大きいとのことであり、我々の研究と同様の結果が得られている。</p><p>我々の研究では、失業率の変化が死亡率に及ぼす影響を死因別に分解して検証してもいる。図1にまとめられている結果が特定の死因の変動によって突き動かされているかどうかを確かめるためにである。その検証の結果はというと、一つの例外を除いて、「失業率が高まると、○○を死因とする死亡率が低下する」という関係は見出されなかった。一つの例外というのは、交通事故死である。失業率が高まると、交通事故死が一貫して減る傾向にあるのだ。具体的に言うと、失業率が1ポイント上昇すると、交通事故死が6%減る傾向にあるのだ。これは従来の研究で見出されているよりも倍の影響の大きさであり、人数に換算すると年あたり88人の命が(交通事故死する運命を逃れて)救われる計算になる。そのうちの73人は男性で、残りの15人は女性である――命が助かる男性の数は、命が助かる女性の数の5倍――。また、失業率の変化が交通事故死の数に及ぼす影響が一番大きく表れる世代は、生産年齢に該当する世代である。このことを踏まえると、若年層+年長層(15歳~34歳)に限って「失業率が高まると、死亡率が低下する」という関係(図1)が成り立つのは、失業率が高まるとこの世代の交通事故死が減るおかげということになろう。「景気が後退すると、交通事故死が減る」傾向は、オーストラリア以外の国(アメリカ、ドイツ、カナダ、フランスなど)でも一貫して見出されている。従来の研究では、失業率が1ポイント上昇すると、交通事故死が2~3%ほど低下するという結果が得られている(Ruhm 2000, Neumayer 2004, Gerdtham and Ruhm 2006, Lin 2009, Ariizumi and Schirle 2012, Brüning and Thuilliez 2019)。</p><p>アメリカで得られた結果とオーストラリアで得られた結果との間には、特筆すべき違いがいくつかある。まず第一に、オーストラリアが対象になっている我々の研究では、景気の後退が年少層(0歳~4歳)や高齢層(65歳~84歳)の死亡率に影響を及ぼしている証拠は見出されていないが、アメリカが対象になっている Stevens et al. (2015) では、景気が後退すると年少層や高齢層の死亡率が低下することが見出されている。「なぜそうなるのか?」という疑問に対する答えの候補として Stevens et al. (2015) で着目されているのが、景気変動に伴う医療の質の変化である。アメリカの医療の質は、病院やナーシングホームで働く医療従事者の質によって左右される。景気が後退すると、病院やナーシングホームで働く医療従事者の質が上がり――スキルの高い求職者が医療現場に集まり――、そのおかげで年少層や高齢層の死亡率が低下するのではないかというのが Stevens et al. (2015) の説である。別の違いに話を転じると、我々の研究では、Stevens et al. (2015) とは異なり、失業率が交通事故死以外の死因(自殺、心臓疾患、呼吸器疾患、脳血管疾患、肺炎、インフルエンザ)による死亡率に影響を及ぼしている証拠は見出されていない。かような違いが生まれる理由は、オーストラリアのように国民皆保険が実現している国では、医療の質も医療へのアクセスのしやすさも景気変動の影響を受けにくいからかもしれない――その理由は、公費が絶えず投入されているおかげもあって、景気が悪化してお金のやりくりが苦しくなっても医療を受けられる余裕があるからである――。 オーストラリアの国民皆保険制度は、国民(とりわけ、年少層や高齢層)の健康が景気変動に左右されるのを防ぐ壁の役割を果たしているのかもしれない。同様の指摘をしている Ariizumi and Schirle (2012) によると、カナダでも景気変動が年少層や高齢層の死亡率に影響を及ぼしている証拠は見出せないとのことだ。カナダと言えば、医療制度の面でオーストラリアとよく似ている国である。また、OECD加盟国が対象になっている Gerdtham and Ruhm (2006) によると、社会保険制度が充実している国においてほど、失業率と死亡率の負の相関――「失業率が高まると、死亡率が低下する」という関係性――は弱まるとのことである。</p><h3 style="text-align: left;"><参考文献></h3><div style="text-align: left;"><br />●Atalay, K, R Edwards, S Schurer and D Ubilava (2020), “<a href="https://www.iza.org/publications/dp/13742/lives-saved-during-economic-downturns-evidence-from-australia" target="_blank">Lives Saved During Economic Downturns: Evidence from Australia</a>”, IZA Discussion Paper 13742<br />●Ariizumi, H and T Schirle (2012), “<a href="https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S0277953612000834" target="_blank">Are recessions really good for your health? Evidence from Canada</a>”, <i>Social Science & Medicine</i> 74(8): 1224-1231.<br />●Australian Broadcasting Corporation (ABC) (2020), “<a href="https://www.abc.net.au/news/2020-04-20/economists-warn-against-early-lifting-of-coronavirus-lockdown/12165934" target="_blank">‘Extreme’ COVID-19 epidemic better than lockdown argues economist, but others strongly disagree</a>”, 20 April.<br />●Benson, S (2020), “Coronavirus Australia: suicide’s toll far higher than virus”, <i>The Australian</i>.<br />●Brüning, M and J Thuilliez (2019), “<a href="https://read.dukeupress.edu/demography/article/56/5/1747/168052/Mortality-and-Macroeconomic-Conditions-What-Can-We" target="_blank">Mortality and Macroeconomic Conditions: What can we learn from France?</a>”, <i>Demography</i> 56(5): 1747–1764.<br />●Cameron, A C and D Miller (2015), “<a href="http://jhr.uwpress.org/content/50/2/317.short" target="_blank">A Practitioner’s Guide to Cluster-Robust Inference</a>”, <i>Journal of Human Resources</i> 50(2): 317-372.<br />●Collins, A and A Cox (2020), “<a href="https://theconversation.com/coronavirus-why-lockdown-may-cost-young-lives-over-time-134580" target="_blank">Coronavirus: why lockdown may cost young lives over time</a>”, <i>The Conversation</i>.<br />●Gerdtham, U G and C J Ruhm (2006), “<a href="https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S1570677X06000074" target="_blank">Deaths rise in good economic times: Evidence from the OECD</a>”, <i>Economics and Human Biology</i> 4(3): 298–316.<br />●Gonzalez, F and T Quast (2011), “<a href="https://link.springer.com/article/10.1007/s00181-010-0360-0" target="_blank">Macroeconomic changes and mortality in Mexico</a>”, <i>Empirical Economics</i> 40: 305–319.<br />●Gopinath, G (2020), “<a href="https://www.imf.org/en/Blogs/Articles/2020/04/14/blog-weo-the-great-lockdown-worst-economic-downturn-since-the-great-depression" target="_blank">The Great Lockdown: Worst Economic Downturn Since the Great Depression</a>”, IMF Blog.<br />●Giuffrida, A (2020), “<a href="https://www.theguardian.com/world/2020/may/21/italy-lockdown-mental-health-psychologists-coronavirus" target="_blank">Italy’s lockdown has taken heavy toll on mental health, say psychologists</a>”, <i>The Guardian</i>.<br />●Lin, S-J (2009), “<a href="https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/00036840701720754" target="_blank">Economic fluctuations and health outcome: a panel analysis of Asia-Pacific countries</a>”, <i>Applied Economics</i> 41(4): 519-530.<br />●Miller, D L, M E Page, A H Stevens and M Filipski (2009), “<a href="https://www.aeaweb.org/articles?id=10.1257/aer.99.2.122" target="_blank">Why Are Recessions Good for Your Health?</a>”, <i>The American Economic Review Papers & Proceedings</i> 99(2): 122-127.<br />●Neumayer, E (2004), “<a href="https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S0277953603002764" target="_blank">Recessions lower (some) mortality rates: evidence from Germany</a>”, <i>Social Science & Medicine</i> 58(6): 1037–1047.<br />●Ruhm, C J (2000), “<a href="https://academic.oup.com/qje/article-abstract/115/2/617/1840483" target="_blank">Are recessions good for your health?</a>”, <i>Quarterly Journal of Economics</i> 115(2): 617–650.<br />●Ruhm, C J (2015), “<a href="https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S0167629615000326" target="_blank">Recessions, healthy no more?</a>”, <i>Journal of Health Economics</i> 42: 17-28.<br />●Stevens, A H, D L Miller, M E Page and M Filipski (2015), “<a href="https://www.aeaweb.org/articles?id=10.1257/pol.20130057" target="_blank">The Best of Times, the Worst of Times: Understanding Pro-cyclical Mortality</a>”, <i>American Economic Journal: Economic Policy</i> 7(4): 279–311.</div>voxwatcherhttp://www.blogger.com/profile/10317675353577588272noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2302196195769960775.post-12107179641751021342023-01-14T13:15:00.003+09:002023-01-14T13:17:25.226+09:00Martin van Tuijl&Jan C. van Ours 「『観客らは決着がついたと思っているようです』 ~国民性、土壇場でのゴール、PK戦~」(2010年6月15日)<p><span style="font-size: large;">Martin van Tuijl and Jan C. van Ours, “<a href="https://cepr.org/voxeu/columns/they-think-its-all-over-national-identity-scoring-last-minute-and-penalty-shootouts" target="_blank">They think it’s all over: National identity, scoring in the last minute, and penalty shootouts</a>”(<i>VOX</i>, June 15, 2010)</span></p><p></p><blockquote><i>第19回目(2010年度)のFIFAワールドカップが南アフリカで開催中だが、本稿では、6カ国――ベルギー、ブラジル、イングランド、ドイツ、イタリア、オランダ――の代表チームの1960年以降の成果に分析を加えた結果を報告する。サッカーの国際大会では、ホームアドバンテージ、スキル、運といった要素もそれなりに試合の行方を左右しているが、試合終了間際の土壇場においては「国民性」が物を言うこともあり得るようである</i>。</blockquote><p></p><p><br /></p><div style="text-align: left;"><div style="text-align: right;">『サッカーというのは、実にシンプルなゲームだ。総勢22名の男たちが90分間にわたって一つのボールを追いかけまわす。そして、最終的にはドイツ代表が勝利するのだ。』</div><div style="text-align: right;">――ゲーリー・リネカー(BBCのスポーツキャスター/元イングランド代表のキャプテン)</div></div><p style="text-align: right;"><span style="text-align: left;">『ドイツ代表の調子がよければ、世界一の称号を勝ち取る。ドイツ代表の調子が悪ければ、決勝戦に進む。』</span></p><p style="text-align: right;"><span style="text-align: left;">――ミシェル・プラティニ(欧州サッカー連盟会長/元フランス代表のキャプテン)</span></p><p><br /></p><div style="text-align: left;">1954年に開催されたFIFAワールドカップの決勝戦では、試合が始まってからわずか8分の間にハンガリー代表が西ドイツ代表から2点を奪った。試合が始まる前に、西ドイツ代表がハンガリー代表を倒せるかもしれないと予想している人なんてただの一人もいなかった。いや、ハンガリー代表を倒せるチームがあるなんて誰も考えもしなかった。「マイティ・マジャール」(屈強なるマジャール戦士)の愛称で知られていたハンガリー代表は、前年の1953年にイングランド代表をウェンブリーで行われた親善試合で破っていた。イングランド代表にホームで初めて黒星をつけたのだ。しかしながら、西ドイツ代表は、「勝利を渇望するメンタリティ」をどこよりも備えているチームという座を手放すのを拒んだ。土壇場でのゴールをお手の物とするチームという触れ込みを裏切らなかった。フォワードのヘルムート・ラーンが試合終了6分前にゴールを決めて、西ドイツ代表が逆転勝ちを収めたのである。試合終了のホイッスルが鳴った時のスコアは、3対2。ドイツ(西ドイツ)代表がハンガリー代表を下(くだ)してワールドカップで初優勝を遂げたのだ。その後のドイツ代表は、世界各国の代表チームの中でも屈指の成績を残すに至っている。ワールドカップでの優勝は3回(1954年、1974年、1990年)で、準優勝は4回(1966年、1982年、1986年、2002年)。UEFA欧州選手権での優勝は3回(1972年、1980年、1996年)で、準優勝は3回(1976年、1992年、2008年)。ドイツ代表が今回(2010年度)のワールドカップで優勝できそうかというと、オッズは14倍となっていて、ドイツ代表が4度目の優勝を飾る可能性はそこまで高く見積もられてはいないようだ。しかしながら、これまでの華々しい足跡を踏まえると、ドイツ代表を優勝候補の一角から外す人はほとんどいないだろう。</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">ドイツ出身でノーベル平和賞受賞者でもあるヘンリー・キッシンジャーは、ドイツ代表が好成績を収めてこれた原因をドイツ人に特有の態度や入念なまでの計画癖に求めている。曰く、「ドイツ代表チームは、戦争への備えを進める時のドイツ参謀本部そっくりだ。試合に際しては、細心の注意を払って前もって計画が立てられる。選手一人ひとりは、攻撃(オフェンス)も守備(ディフェンス)もどちらもこなせるようにトレーニングを積んでいる。いざゴールを奪おうとなると、複雑なパスのやり取りが展開される。脳みそを振り絞れるだけ振り絞って予測や前準備が試みられるだけでなく、骨を粉にし身を砕くほどの努力が払われるのだ」(Kissinger 1986)。</div><div style="text-align: left;"><b><br /></b></div><div style="text-align: left;"><b>成果の良し悪しを左右する要因は?</b></div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">サッカーの代表チームの成果をめぐるこれまでの先行研究では、国別の人口規模やGDPの水準、(「学習」の度合いを測る指標として)ワールドカップへの出場回数といった変数に目が向けられてきている(Houston and Wilson 2002)。そして、意外でもないだろうが、たった今挙げた変数が代表チームの成果にプラスに働いていることが見出されている。代表チームに強くなってほしいようなら、国の人口が増えて国が豊かになればその望みを叶えるためにいくらか助けになるわけだ(Hoffmann et al. 2002, Macmillan and Smith 2007, Leeds and Leeds 2009)。</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">ところで、「スポーツ経済学」と「労働経済学」との間には、はっきりとしたアナロジーを見出すことができる。Kahn (2000) も詳述しているように、プロスポーツは労働市場について研究するためのユニークな機会を提供しているのだ。スポーツの勝敗は、絶対的な力量によってではなく、相対的な力量(対戦相手との力量の差)によって決まる。プロのサッカー選手は、自分のことを一番高く評価してくれるチームにお世話になろうとする。このことはクラブチームに関しては当てはまるが、代表チームには当てはまらない――帰化するという例もあるにはあるが――。代表に選出される選手は、「売り買い」されるわけではない。一国の代表としてプレーするためには、その国の国籍を持っていなければならないという条件があり、どこかの国のA代表に一度でも選出されると、別の国の代表としてプレーすることはできない決まりになっている。代表チームに選出され得る人材の数は、ほぼほぼ外生的に決まっている――国籍保持者に限定される――のだ。</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">あちこちのクラブの経営陣も念押ししていることではあるが、代表チームでプレーするのがプロのサッカー選手にとって一番大事な仕事かというと、決してそうではない。とは言え、選手としては、代表チームでプレーしたいという思いも間違いなく持っている。それというのも、代表に選ばれると、サッカー選手として箔(はく)が付いて市場価値が上がる――年俸が上がる――からである。それに加えて、代表に選ばれるのは大いに「名誉」なことであって、代表に呼ばれたのにそれを断る選手は滅多にいない。こういったことを考え合わせると、代表チームの成果は、選手たちのスキルによって左右されるのであって、インセンティブには左右されなさそうに思える。</div><div style="text-align: left;"><b><br /></b></div><div style="text-align: left;"><b>土壇場において露(あらわ)になる「国民性」の違い</b></div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">代表チームは、チーム・スピリットによって一つに束ねられている。どうしてそうなっているかというと、代表に選ばれた選手たち(の大半)が同じ「国民性」――その具体的な内実は様々であり得るだろうが――を共有しているからである。我々二人の共著論文(van Ours and Van Tuijl, 2010)では、労働市場一般に対する理解を深める助けになるような洞察を得られたらとの期待を込めて、それぞれの代表チームの国民性がサッカーの国際大会での試合結果に影響を及ぼすかどうかを探っている。</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">我々の論文で特に焦点を当てているのは、サッカーの主要な国際大会における「土壇場でのゴール」である。それはなぜかというと、試合終了間際の土壇場においてこそ、国民性の違いがこの上なく露(あらわ)になるからである。具体的には、ベルギー、ブラジル、イングランド、ドイツ、イタリア、オランダの計6カ国の代表チームが1960年以降にサッカーの主要な国際大会の試合――試合数にして1500試合以上――で奪った(あるいは、奪われた)ゴール(得失点)に分析を加えている。</div><div style="text-align: left;"><b><br /></b></div><div style="text-align: left;"><b>前後半90分+延長戦</b></div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">試合終了まで残り1分あるいは残り5分でのゴールの重要性を伝えているのが以下の表1である。我々が分析を加えた試合の総数は1564試合に上(のぼ)るが、試合終了まで残り1分で点(ゴール)を奪ったケースはそのうちの4%(63試合)、試合終了まで残り5分で点を奪ったケースはそのうちの13.9%(217試合)。 反対に、試合終了まで残り1分で点を奪われたケースは全体の1.9%(29試合)で、試合終了まで残り5分で点を奪われたケースは全体の6.8%(106試合)という結果になっている。冒頭で「・・・(略)・・・そして、最終的にはドイツ代表が勝利するのだ」というリネカーの発言――ドイツ代表の粘りに対する諦念が込められた発言――を引用したが、表1はその発言を裏付ける証拠の一つともなっている。ドイツ代表が試合終了まで残り1分でゴールを奪った試合は、全体の5.5%(344試合中19試合)に上っており、6カ国の平均(4%)を大きく上回っているのだ。とは言え、オランダ代表はさらにその上を行っている。オランダ代表が試合終了まで残り1分でゴールを奪った試合は、全体の5.9%(253試合中15試合)に上っているのだ(図1もあわせて参照されたい)。</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: center;"><b>表1</b>. 試合終了間際の土壇場にゴールが生まれた試合数(For=得点した試合/Against=失点した試合)</div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgeCTGQ8nO1bZFpCNb-cx2uAWHD52bGnj7zQMwD3SLgSMWNONFTaa6YjTvJ2YxNLUf-jOhyhv_cw9kJKqB8PGbVSlrI0_jTZPHF39wagZDetGP2ncKNEaGXi7gX6C6OJHz4T6MKYB2FfsuKqWakkE6fFMDXGZLjfIVC_lihcbriSr2HukeSjyIpakpS/s391/Table1vanOurs.png" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="226" data-original-width="391" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgeCTGQ8nO1bZFpCNb-cx2uAWHD52bGnj7zQMwD3SLgSMWNONFTaa6YjTvJ2YxNLUf-jOhyhv_cw9kJKqB8PGbVSlrI0_jTZPHF39wagZDetGP2ncKNEaGXi7gX6C6OJHz4T6MKYB2FfsuKqWakkE6fFMDXGZLjfIVC_lihcbriSr2HukeSjyIpakpS/s16000/Table1vanOurs.png" /></a></div><p><br /></p><div style="text-align: center;"><b>図1</b>. 時間帯ごとの得失点の分布(実線=得点/点線=失点)</div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgWAp-QiaeCMDzCcLz-VnxZNHpyvEGs1PwwivUrQcEEnFRBSh8xJAonzGNrrw57aBtShZ3FWo1cB0kqm4AGco7nRtvxaLW7TiDJuOK_8Faq97yrLKeAbAxbJGflbQ2Sd5LYQOQkMUFgqwHiiwvrTw0_1docLoqwl1QK7Je1Olb6NSgGts6nHmxLxJLz/s780/FigurevanOurs.png" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="780" data-original-width="661" height="570" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgWAp-QiaeCMDzCcLz-VnxZNHpyvEGs1PwwivUrQcEEnFRBSh8xJAonzGNrrw57aBtShZ3FWo1cB0kqm4AGco7nRtvxaLW7TiDJuOK_8Faq97yrLKeAbAxbJGflbQ2Sd5LYQOQkMUFgqwHiiwvrTw0_1docLoqwl1QK7Je1Olb6NSgGts6nHmxLxJLz/w483-h570/FigurevanOurs.png" width="483" /></a></div><br /><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><br /></div><div style="text-align: left;">我々の論文では、それぞれの代表チームが試合終了まで残り1分でゴールを奪う確率を導き出すために、線形のシンプルな確率モデルの推計も行っている。それによると、イングランド代表、ドイツ代表、オランダ代表の三チームは、ブラジル代表と比べると、試合終了まで残り1分でゴールを奪う確率が4.5ポイント(4.5パーセントポイント)ほど高いとの結果が得られている。4.5ポイントの差が甚(はなは)だしい違いを生むことがある。試合終了まで残り1分でゴールを奪うと、その試合に勝つ確率が26ポイント(26パーセントポイント)ほど高まる一方で、負ける確率が12~14ポイント(12~14パーセントポイント)ほど低くなるのだ。我々が推計した線形のシンプルな確率モデルによると、試合終了まで残り5分でゴールを奪う(得点する)確率が一番高いのはオランダ代表であり、試合終了間際の土壇場(試合終了まで残り1分および残り5分)でゴールを奪われる(失点する)確率が一番高いのはドイツ代表という結果が得られている。</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">ところで、試合がホーム(自国)で行われるかどうかによって試合結果に違いが生まれるだろうか? 我々の分析結果によると、ホームで試合をすると、相手(アウェイ)チームからゴールを奪う(得点する)確率が4.2ポイント(4.2パーセントポイント)ほど高まる一方で、相手チームにゴールを奪われる(失点する)確率が2.3ポイント(2.3パーセントポイント)ほど低くなるようである。さらには、ホームで試合をすると、試合に勝つ確率が20ポイント(20パーセントポイント)ほど高まる一方で、試合に負ける確率が12~16ポイント(12~16ポイントポイント)ほど低くなるようである。</div><div style="text-align: left;"><b><br /></b></div><div style="text-align: left;"><b>PK戦</b></div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">前後半90分が終わった段階で引き分けで、延長戦でも決着がつかないようだと、PK戦で勝敗が決められることになる。前回(2006年度)もそうだったが、ワールドカップの決勝戦でもPK戦までもつれこむことが時にある。ワールドカップおよびコンフェデレーションズカップでのPK戦の結果をまとめたのが以下の表2である。イングランド代表、イタリア代表、オランダ代表はPK戦の成績が振るわず、それに比べてブラジル代表はずっと優れた成績を残している。ドイツ代表も抜群の成績を残しており、PK戦に5回――フランス代表、メキシコ代表、アルゼンチン代表を相手にそれぞれ1回、イングランド代表を相手に2回――勝っている。(ワールドカップおよびコンフェデレーションズカップで)PK戦を一度しか経験していないベルギー代表を除外すると、ドイツ代表はワールドカップでもUEFA欧州選手権でもPKの成功率――ワールドカップでのPKの成功率は94%、UEFA欧州選手権でのPKの成功率は90%――が一番高いという結果になっている。</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: center;"><b>表2</b>. PK戦の結果</div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhoDMe_9PDKVuR5W1BIwGJQoGzlSn3e1XXyZokCNOtMngBoH7Gg1ZiA0ZHi3EGhPrEO1UHN1Xqt60ZV1Q-aSR1cY1IiOFsqXn6jP6haQ0yGFj4Y_PBTBidRKoFer1SMu1mlGjjwM27fOA5bphFrVQM6WDo_3SOtQzEtuXmt_AlGpZl4v1Dqydw3Fbxi/s517/Table2vanours.png" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="343" data-original-width="517" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhoDMe_9PDKVuR5W1BIwGJQoGzlSn3e1XXyZokCNOtMngBoH7Gg1ZiA0ZHi3EGhPrEO1UHN1Xqt60ZV1Q-aSR1cY1IiOFsqXn6jP6haQ0yGFj4Y_PBTBidRKoFer1SMu1mlGjjwM27fOA5bphFrVQM6WDo_3SOtQzEtuXmt_AlGpZl4v1Dqydw3Fbxi/s16000/Table2vanours.png" /></a></div><div style="text-align: center;">データの出所:Penaltyshootouts.co.uk</div><p style="text-align: center;"><br /></p><div style="text-align: left;"><b>総括</b></div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">ゴールを奪えるかどうかは、チームのメンバー全員の努力にかかっている――優秀なストライカーがいれば、みんなの努力が実を結びやすくなる(ゴールがいくらか生まれやすくなる)としても――。それに加えて、ゴールを奪えるかどうかは、試合を注視している観客の後押しによっても左右される。一国の代表チーム同士で争われる重要な国際大会では、ホームアドバンテージがはっきりと確認できるのだ。</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">サッカーの試合でゴールが決まるかどうかは偶然によって左右される面もある。それだからこそ、観戦していてワクワクさせられるわけだが、代表チームの成果には明確な差を見出すことができるのも確かだ。ブラジル代表やドイツ代表は、一貫して優れた成果を残しているのだ。サッカーの強国の間での成果の差は徐々に縮まってきてはいるが、1960年~2009年の期間に関する限り、ブラジル代表は、勝ち星の面でどのチームよりも――例えば、イタリア代表/ドイツ代表/イングランド代表/オランダ代表よりも――はるかに優れた実績を残している。</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">それぞれの代表チームは、勝利数や得失点数だけでなく、勝ち方や点の取り方の面でも違いがある。ブラジル代表やイタリア代表は、試合に負けるのをよしとしないところがある。そのため、土壇場でのゴールを奪うために労力を割こうとしない。ゴールを奪うために労力を割くと、(守備が甘くなって)反対にゴールを奪われてしまう危険性があるからだ。その一方で、イングランド代表、ドイツ代表、オランダ代表は、リスクを恐れないところがある。ゴールを奪われてしまう危険を冒してでも、土壇場でのゴールを奪うために労力を割くのを厭(いと)わないのだ。そして、土壇場でのゴールを奪おうと必死になるあまり、それと引き換えにゴールを奪われてしまう危険性が大幅に高まってしまうのはドイツ代表だけ・・・という結果が我々の分析を通じて得られている。ドイツ代表がどんな犠牲を払ってでも勝ちを欲しているのは、どうやら間違いないようなのだ。</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">試合に勝てる確率は、チームの質(スキルの高さ)によっておおよそ決まってくることは言うまでもない。しかしながら、ホームアドバンテージ、運といった要素もそれなりに試合の行方を左右すると言えそうだ。そして、「国民性」が物を言うこともあり得るようだ。とは言え、土壇場でのゴールは、そう頻繁には生まれない。そんなわけで、土壇場でのゴールを引き寄せる力が備わっているらしいゲルマン魂が、今回のワールドカップの帰趨(きすう)に影響を及ぼす可能性は小さそうだ――無視できるほど小さくはないだろうが――。</div><div style="text-align: left;"><br /></div><h3 style="text-align: left;"><参考文献></h3><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">●Hoffmann, R, CG Lee and B Ramasamy (2002), “<a href="https://ucema.edu.ar/publicaciones/download/volume5/hoffmann.pdf" target="_blank">The socio-economic determinants in international soccer performance</a>”(pdf), <i>Journal of Applied Economics</i>, 5:253-272.<br />●Houston, R, DP Wilson (2002), “<a href="https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/13504850210140150" target="_blank">Income, leisure and proficiency: an economic study of football performance</a>”, <i>Applied Economics Letters</i>, 9:939-943.<br />●Kahn, LM (2000), “<a href="https://people.ucsc.edu/~lkletzer/econ104/kahn_sportsbusiness_JEP.pdf" target="_blank">The sports business as a labor market laboratory</a>”(pdf), <i>Journal of Economic Perspectives</i>, 14:75-94.<br />●Kissinger, H (1986), “<a href="https://www.washingtonpost.com/archive/opinions/1986/06/29/soccer-imitates-life/9458bd3c-4c43-4db0-9497-a0135e62988d/" target="_blank">The World Cup according to character</a>”, Los Angeles Times,29 June.<br />●Leeds, MA and EM Leeds (2009), “<a href="https://journals.sagepub.com/doi/abs/10.1177/1527002508329864" target="_blank">International Soccer Success and National Institutions</a>”, <i>Journal of Sports Economics</i>, 10:369-390.<br />●Macmillan, P and I Smith (2007), “<a href="https://journals.sagepub.com/doi/abs/10.1177/1527002505279344" target="_blank">Explaining international soccer rankings</a>”, <i>Journal of Sports Economics</i>, 8:202-213.<br />●Van Ours, JC and M A van Tuijl (2010), “<a href="https://cepr.org/publications/dp7873" target="_blank">Country-Specific Goal-Scoring in the “Dying Seconds” of International Football Matches</a>”, CEPR Discussion Paper 7873.</div>voxwatcherhttp://www.blogger.com/profile/10317675353577588272noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2302196195769960775.post-12992270297576169602022-11-05T12:57:00.007+09:002022-11-05T13:01:15.210+09:00Matthew E. Kahn&Matthew J. Kotchen 「景気後退に備わるクラウディング・アウト効果 ~失業率が高まると、環境問題への関心は低下する?~」(2010年8月21日)<div style="text-align: left;"><span style="font-size: large;">Matthew E. Kahn and Matthew J. Kotchen, “<a href="https://cepr.org/voxeu/columns/trends-environmental-concern-revealed-google-searches-chilling-effect-recession" target="_blank">Trends in environmental concern as revealed by Google searches: The chilling effect of recession</a>”(<i>VOX</i>, August 21, 2010)</span><br /></div><div style="text-align: left;"><blockquote><i>環境問題に対する世間の関心は、奢侈財(ぜいたく品)のような性質を持っているのだろうか? Googleで「失業」と「地球温暖化」という2つのキーワードがどれだけ検索されているかを時系列に沿って調べたところ、景気後退は、気候変動問題への関心を低下させる一方で、失業問題への関心を高める効果を備えていることが判明した。さらには、景気後退には、地球温暖化否認論(「地球温暖化なんて起こってない!」)の勢いを強める効果が備わっている場合もあるとの結果も得られている。</i></blockquote><div style="text-align: left;"><br /></div><div>Googleインサイト〔訳注;Googleインサイトのサービスは、現在ではGoogleトレンドに統合されている〕は、Googleのネット検索サービスで特定のキーワードが地域別にどれだけ検索されたかを時系列に沿って調べることを可能とするオンラインツールであり、誰もが気軽に利用できる。これまでの一連の研究によると、Googleの検索データは、病気の流行(Pelat et al. 2009, Valdiva and Monge-Carella 2010)や経済活動(Choi and Varian 2009, <a href="https://cepr.org/voxeu/columns/predictive-power-google-data-new-evidence-us-unemployment" target="_blank">D’Amuri and Marcucci 2009</a>, <a href="https://cepr.org/multimedia/doing-economics-google" target="_blank">Varian 2009</a>)の予測に役立てることができる強力なツールであることが明らかとなっている。アメリカ経済は、2007年の終盤頃を境にして、1930年代の大恐慌以来最も深刻な景気後退に見舞われることになったわけだが、現下のかような経済状況は、Googleの検索データを使って、景気循環と世論との間にどのような関係が成り立っているかを探る上でまたとない機会を提供していると言えるかもしれない。</div><div><br />もう少し具体的に突っ込むと、ここ最近のアメリカでは、景気が大きく低迷しているだけではなく、環境問題に対する国民の関心も大いに薄れつつある様が確認できる。景気の悪化(景気後退)は、環境問題に関する世論の変遷に一体どの程度の影響を及ぼすことになるのだろうか?</div><div><br /></div><div>まさにこの問題の解明を意図しているのが我々二人がつい最近行ったばかりの研究(Kahn and Kotchen 2010)だが、環境問題――その中でも、現在最もホットな争点の一つである気候変動の問題――に関する世論の変遷を跡付けるために、Googleの検索データの助けを借りた。Googleインサイトのサービスを利用して、2004年1月から2010年2月までの間に、「地球温暖化」(“global warming”) と「失業」(“unemployment”) という2つのキーワードがアメリカ国内のそれぞれの州でどれだけ検索されたかを週次データとして集計したのである。そして、その上でこう問うたのである。ある州で失業率が変化すると、その州でのこれら2つのキーワードの検索状況にはどのような影響が及ぶだろうか?</div><div><br /></div><div>さて、その答えはというと、ある州で失業率が上昇すると、その州では「地球温暖化」というキーワードの検索が減る一方で、「失業」というキーワードの検索が増える傾向にあったのである。ネット検索(という実際の行動)を通じて顕示された人々の選好に照らす限りでは、景気後退は、失業問題に対する人々の関心を高める効果を持つ一方で――このことは特段驚くことでもないだろう――、環境問題に対する人々の関心をクラウドアウトする(弱める)効果を備えている可能性があると言えそうである。さらには、これら2つの効果の量的な大きさはほぼ同等であるとの興味深い結果も得られており、失業問題に対する関心は、環境問題に対する関心をクラウドアウトする効果がある〔訳注;失業問題に対する関心が高まるのと同じ分だけ、環境問題に対する関心が低下する、という関係にある〕との解釈も無理なく成り立つと言えそうである。</div><div><br /></div><div><b>赤い州と青い州 ~景気後退に備わるクラウディング・アウト効果がより顕著なのは、どちらの州?~</b></div><div><br /></div><div>アメリカ国内では、「赤い州」(“red states”)〔訳注;共和党を支持する傾向が強い保守的な土地柄の州〕と 「青い州」(“blue states”)〔訳注;民主党を支持する傾向が強いリベラルな土地柄の州〕との間で、環境問題をめぐってイデオロギー面での対立があることはよく知られているところだが、我々の研究では、州ごとの政治的なイデオロギーの違いが、失業率(の変化)とGoogleを使った検索活動(に見られる変化)との間に成り立つ関係にどういった影響を及ぼすかについても検証している。その検証を行うためには、それぞれの州の政治的なイデオロギーの違いを測る必要があるが、2004年の大統領選挙における(民主党側の候補である)ジョン・ケリー候補の州別の得票率のデータを集めて、それを州ごとの政治的なイデオロギーの違いを測る尺度の一つとして用いている。さて、その検証の結果はというと、民主党寄りの傾向が強い州ほど、(その州の失業率の上昇に伴って)「地球温暖化」というキーワードの検索が減る度合いが大きくて、「失業」というキーワードの検索が増える度合いが小さいことが判明した。民主党寄りの傾向が強い州ほど、(その州の失業率の上昇に伴って)「地球温暖化」というキーワードの検索が減る度合いが大きいという結果は、一見すると直感に反するように思えるが、そうなる理由の一つは、共和党支持者は、民主党支持者と比べると、気候変動問題にそもそもあまり関心が無く、そのため、気候変動問題に対する関心が低下する余地が乏しいためなのかもしれない。</div><div><br /></div><div><b>失業率が高まると、地球温暖化を否認する声が勢いを増す?</b><br /><br /></div><div>我々の研究では、失業率の変化に応じて、気候変動の問題に関する世論が州ごとにどのように変化するかを探るために、Googleの検索データ以外にも、アメリカ全土を対象に2度にわたって行われた聞き取り調査――この聞き取り調査では、気候変動問題について同じ質問がなされている――の結果も利用している。聞き取り調査の結果を利用した分析によると、ある州の失業率が上昇すると、その州で暮らす住民が地球温暖化の進行を認める(地球温暖化が進行していることを認める)確率が低下し、地球温暖化の進行を認める住民もその意見にどれだけ自信があるかと問われると、(失業率が上昇する前と比べて)弱気になりがちであることが判明した。さらには、ある州の失業率が上昇すると、その州の住民は「米議会は、地球温暖化を防ぐための対策を緩(ゆる)めるべきだ」との意見に傾くという結果も得られている。また、カリフォルニア州で毎月実施されている計11回に及ぶ聞き取り調査――この聞き取り調査では、「’経済’, ‘環境’, ‘仕事’, ‘教育’, ‘健康’, ‘移民’, ‘財政赤字’, ‘税金’, ‘その他’の中で、カリフォルニア州が目下抱えている一番重要な問題はどれだと思いますか?」という質問が問われている――の結果を利用した分析によると、カリフォルニア州での失業率が上昇すると、「環境」問題を一番重要な問題に選ぶ(カリフォルニア州が抱えている一番重要な問題は、「環境」問題だと答える)州民の数が大幅に減るとの結果が得られている。</div><div><br />Googleの検索データと聞き取り調査の結果を利用した我々の研究は、失業率の変化が環境問題に対する人々の関心に及ぼす影響を実証的に計測することを意図したはじめての試みである。ところで、我々が見出した結果――失業率が高まると、環境問題への関心が低下する――の背後では、どのようなメカニズムが働いているのだろうか? 心理学的な説明を持ち出すと、我々が見出した結果は、マズローの欲求段階説(Maslow 1943)と整合的であり 〔訳注;この点について、<a href="http://environment.yale.edu/kotchen/pubs/CCEfinal.pdf" target="_blank">この論説の基となっている論文(ジャーナル掲載版)</a>(pdf)では、次のように論じられている。「〔マズローの欲求段階説によると〕、人間というのは、生きていく上で欠かせない基本的な欲求が満たされてはじめて、長期的で抽象的な話題に関心を持つようになると見なされている。この考えに従うと、例えば、景気後退の最中では、人々は気候変動のようなその影響が不確実で長期的な脅威に対してよりは、雇用のような問題に関心を集中させることになるかもしれない。」(pp. 258)/「人々は、景気後退の只中では、地球温暖化のような抽象的でその影響が不確実な長期的な脅威に対してよりも、その日その日の幸せに関心を注ぐ傾向にあるようである。職を失うかもしれないという恐れ・・・(略)・・・のために、経済の短期的な情勢やマクロ経済の不確性に関心が向ちがちになるのだろう。このような行動パターンは、マズローの欲求段階説に依拠した心理学の理論と整合的である。」(pp. 269~270)〕、経済学的には、「環境問題への関心は、<a href="http://m-words.jp/w/%E4%B8%8A%E7%B4%9A%E8%B2%A1.html" target="_blank">奢侈財(ぜいたく品)</a>のような性質を備えている」というように説明できるだろう。さらには、メディアが、それ自体原因の一つあるいは増幅要因の一つとして、重要な役割を果たしている可能性もある〔訳注;この点について、<a href="http://environment.yale.edu/kotchen/pubs/CCEfinal.pdf" target="_blank">この論説の基となっている論文(ジャーナル掲載版)</a>(pdf)では、次のように論じられている。「〔人々の関心は、景気後退の最中においては、環境問題よりも雇用問題に注がれるようになる可能性があるわけだが〕、メディアは、国民の関心にそのようなシフトが生じることを予期して、景気後退に関する話題の取り扱いを増やす一方で、気候変動をはじめとした環境問題の取り扱いを減らそうとするインセンティブを持つことになる。・・・(中略)・・・メディアの報道内容は、国民がその都度どんな話題を優先的に重視しているかによって左右されるという意味で、国民の関心を反映している可能性がある一方で、メディアには情報の拡散を通じて国民の関心(どんな話題を重視するか)に影響を及ぼす力があることも認識しておかねばならない。」(pp. 270)。つまりは、こういうことが言いたいのだろう。メディアとしては、商業上の理由から、視聴者からそっぽを向かれないために視聴者におもねろうとする(視聴者の関心が高い話題を優先的に取り上げようとする)インセンティブがある。そのため、景気が後退すると環境問題に対する人々の関心が低下する(その一方で、失業問題への関心が高まる)ことになれば、それに応じてメディアで環境問題が取り上げられることも少なくなる。つまりは、メディアで環境問題の取り扱いが小さくなるのは、視聴者が環境問題への関心を失った結果であると言える。しかしながら、メディアで環境問題の取り扱いが小さくなると、視聴者の側としては、環境問題はそれほど重要な問題ではないのではないかと考えるようになるかもしれない。つまりは、メディアで環境問題の取り扱いが小さくなることで、環境問題に対する人々の関心の低下がさらに促されるという影響関係もあり得るわけで、メディア自身も環境問題に対する人々の関心の低下に一役買っている可能性があることになる〕。</div><div><br />メディアの報道に関連して、以下の2つの図をご覧いただきたい。この2つの図は、2006年1月から2010年1月までの間に、メディアで地球温暖化問題と失業問題がどのくらい取り上げられたかを追跡した結果をまとめたものである。図1は、主要な全国紙での報道の様子を時系列で辿ったものだが、2007年の半ば頃から、地球温暖化問題の取り扱いが減少傾向を辿っていることが見て取れるだろう。それと時を同じくして、失業問題の取り扱いが上昇傾向に転じていることもわかる。図2は、テレビのニュース番組で地球温暖化問題と失業問題がそれぞれどのくらい取り上げられたかを月間の放送時間数(単位は分)で測ったものだが、2007年11月頃までは、地球温暖化問題も失業問題も放送時間数がほぼ同じくらいであることがわかる。しかしながら、2007年11月以降になると、地球温暖化問題の取り扱い(放送時間数)が次第に減っていく一方で――2009年の終わり頃に、地球温暖化問題の報道が突如として急増しているが、これはコペンハーゲンで第15回気候変動枠組条約締約国会議(COP15)が開催されたためである――、景気後退の影響がはっきりと表れ出した2008年の秋頃を境に、失業問題の取り扱い(放送時間数)が大幅に増え出し、その後もずっとその状態(ニュース番組での高い注目)が続いていることがわかるだろう。<br /><br /></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://cepr.org/sites/default/files/styles/flexible_wysiwyg/public/image/FromAug2010/KotchenFig1.gif?itok=IRTGWE_Q" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="305" data-original-width="721" height="219" src="https://cepr.org/sites/default/files/styles/flexible_wysiwyg/public/image/FromAug2010/KotchenFig1.gif?itok=IRTGWE_Q" width="518" /></a></div><br /><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><div class="separator" style="clear: both;"><b>図1</b> 新聞紙上における「地球温暖化」問題(点線)と「失業」問題(実線)の取り扱いの変遷〔原注;主要な5つの全米紙の記事で「地球温暖化」問題と「失業」問題がどれだけの数取り上げられているかを月ごとに集計したもの。データは、<a href="https://news.google.com/nwshp?hl=en&tab=wn" target="_blank">Googleニュース</a>での検索結果を基に作成〕</div><div class="separator" style="clear: both;"><br /></div><div class="separator" style="clear: both;"><br /></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://cepr.org/sites/default/files/styles/flexible_wysiwyg/public/image/FromAug2010/KotchenFig2(3).gif?itok=hAKFiB0P" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="289" data-original-width="721" height="206" src="https://cepr.org/sites/default/files/styles/flexible_wysiwyg/public/image/FromAug2010/KotchenFig2(3).gif?itok=hAKFiB0P" width="515" /></a></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: left;"><br /></div><div class="separator" style="clear: both;"><b>図2</b> テレビのニュース番組での「地球温暖化」問題(点線)と「失業」問題(実線)の取り扱いの変遷〔原注;米5大ネットワークで放映されているニュース番組で「地球温暖化」問題と「失業」問題がどれだけの時間取り上げられたかを月ごとに集計したもの(単位は分)。データは、<a href="http://tvnews.vanderbilt.edu/" target="_blank">Vanderbilt Television News Archive</a>での検索結果を基に作成〕</div><div class="separator" style="clear: both;"><br /></div><div class="separator" style="clear: both;"><br /></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: left;"><b>景気後退の到来に伴って弱まりゆく「政治的な意志」の力</b></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: left;"><br /></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: left;">自然環境に対する人々の選好(好み)がどのように形作られるかを理解するためには、さらなる研究が必要とされていることは確かだが、我々の研究は、(自然環境に対する人々の選好の性質に関して)はっきりとしたパターンの一つを明らかにしている。失業率が高まると――少なくとも、今回の景気後退の過程で記録された水準にまで失業率が上昇すると――、環境問題に対する人々の関心が低下するというのがそれである。我々が見出したこの発見は、景気後退に備わるコストを探る一連の研究に対する新たな貢献という側面も持っている。職を失った労働者や(住宅ローンの返済ができずに)住宅を差し押さえられてマイホームを失った一家が味わう苦しみについてはメディアでも広く取り上げられており、マクロ経済学者の間でも景気後退に伴う様々なコストについて幅広く論じられているところである。その一方で、環境経済学の分野に目をやると、景気後退には(銀緑色に輝く)「ほのかな希望の光」(“green silver lining”)も備わっていると指摘する意見も見られる。経済活動が低迷すれば、それに伴って大気汚染も軽減されるという意味で、景気後退には好ましい面もあるというのだ(Kahn 1999, Chay and Greenstone 2003)。</div><div class="separator" style="clear: both; text-align: left;"><br /></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: left;">しかしながら、我々の研究は、景気後退に備わる「ほのかな希望の光」の作用を打ち消す方向に働く力の存在を仄めかしている。失業率が高まると、環境問題に対する人々の関心が低下するということになれば、外部性(外部不経済)の内部化を促すために既存の規制の適用を強化したり新たな環境規制を導入したりする上で必要となる「政治的な意志」の力が景気後退の到来に伴って弱まることになるかもしれないのだ。その実例の一つとしてカリフォルニア州のエピソードを取り上げると、州の失業率が5.5%を上回っている中で、州議会下院法案32号(「地球温暖化解決法」)の履行凍結を求める提案(「プロポジション23」)の是非を問う住民投票が近々実施される予定になっている〔訳注;住民投票では、「地球温暖化解決法」の履行凍結は否決されたとのこと(<a href="http://jp.reuters.com/article/3rd_jp_jiji_EnvNews/idJPjiji2010110400228" target="_blank">「米加州、温暖化阻止法凍結を拒否=再生エネルギー促進派は安堵」</a>(<i>ロイター</i>、2010年11月4日)〕。アメリカ全土レベルでも、野心的なエネルギー・環境規制の導入に向けた動きがここにきて完全に勢いを失っている感がある。ヨーロッパでも状況は似たようなものだが、ヨーロッパ各国において環境問題への関心と景気循環との間にどのような関係が成り立っているかを探ることは今後の課題の一つである。</div><div class="separator" style="clear: both; text-align: left;"><br /></div><h3 style="clear: both; text-align: left;"><参考文献></h3><div style="text-align: left;"><br /></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: left;">●Chaoi, H and H Varian (2009), “<a href="http://static.googleusercontent.com/media/www.google.com/ja//googleblogs/pdfs/google_predicting_the_present.pdf" target="_blank">Predicting the Present with Google Trends</a>(pdf)”, Working paper, Google Inc.</div><div class="separator" style="clear: both; text-align: left;">●Chay, K and M Greenstone (2003), “<a href="https://academic.oup.com/qje/article-abstract/118/3/1121/1942999" target="_blank">The Impact of Air Pollution On Infant Mortality: Evidence From Geographic Variation In Pollution Shocks Induced By A Recession</a>”, <i>The Quarterly Journal of Economics</i>, 118:1121-1167.</div><div class="separator" style="clear: both; text-align: left;">●D’Amuri, Francesco and Juri Marcucci (2009), “<a href="https://cepr.org/voxeu/columns/predictive-power-google-data-new-evidence-us-unemployment" target="_blank">The predictive power of Google data: New evidence on US unemployment</a>”, VoxEU.org, 16 December.</div><div class="separator" style="clear: both; text-align: left;">●Kahn, ME (1999), “<a href="https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S0094119098921271" target="_blank">The Silver Lining of Rust Belt Manufacturing Decline</a>”, <i>Journal of Urban Economics</i>, 46:360-76.</div><div class="separator" style="clear: both; text-align: left;">●Kahn, ME and MJ Kotchen (2010), “<a href="https://www.nber.org/papers/w16241" target="_blank">Environmental Concern and the Business Cycle: The Chilling Effect of Recession</a>”, NBER Working Paper 16241.</div><div class="separator" style="clear: both; text-align: left;">●Maslow, AH (1943), “<a href="https://psycnet.apa.org/record/1943-03751-001" target="_blank">A Theory of Human Motivation</a>”, <i>Psychological Review</i>, 50:370-396.</div><div class="separator" style="clear: both; text-align: left;">●Varian, Hal (2009), “<a href="https://cepr.org/multimedia/doing-economics-google" target="_blank">Doing economics at Google</a>”, VoxEU.org, 8 May, Interview by Romesh Vaitilingam.</div><div class="separator" style="clear: both; text-align: left;">●Pelat, C, C Turbelin, A Bar-Hen, A Flahault, and A Valleron (2009), “<a href="https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2815981/" target="_blank">More Diseases Tracked by Using Google Trends</a>”, <i>Emerging Infectious Diseases</i>, 15:1327-1328.</div><div class="separator" style="clear: both; text-align: left;">●Valdivia, A and S Monge-Corella (2010), “<a href="https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2874385/" target="_blank">Diseases Tracked by Using Google Trends, Spain</a>”, <i>Emerging Infectious Diseases</i>, 16:168. </div></div></div>voxwatcherhttp://www.blogger.com/profile/10317675353577588272noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2302196195769960775.post-47050850484707179422022-11-03T13:15:00.002+09:002022-11-03T13:18:51.504+09:00Esther Duflo 「中国における一人っ子政策の諸帰結」(2008年8月18日)<p><span style="font-size: large;">Esther Duflo, “<a href="https://cepr.org/voxeu/columns/too-many-boys" target="_blank">China’s demographic imbalance: Too many boys</a>”(<i>VOX</i>, August 18, 2008)</span></p><div style="text-align: left;"></div><blockquote><div style="text-align: left;"><i>中国における「一人っ子政策」は、1980年代から90年代にかけて出生性比(出生児の男女比)を急激に高めることになった。「一人っ子」世代が大人になるにつれて、犯罪の増加をはじめとした様々な問題が表面化し始めている。</i></div></blockquote><p><br /></p><p>中国は、共産主義の過去から徐々に脱却しつつある最中にあるが、それと同時に、1980年代から90年代に埋め込まれた時限爆弾が今まさに破裂しそうな瀬戸際に立たされてもいる。かつての人口政策(人口抑制策)の影響が徐々に表面化し始めているのだ。</p><div>中国における人口政策として最も知られているのは、何と言っても「一人っ子政策」である。中国で一人っ子政策が開始されたのは、1978年。それ以降、何度か修正が加えられたものの、今もなお続行中である。現状では、夫婦がどちらとも1人っ子の場合は、子供を2人まで授かることが許されている。農村部に限って言うと、第1子が女児であればもう1人子供をもうけてもよいことになっている。しかしながら、1980年代から90年代にかけては――地域ごとに若干の違いはあるものの――制度の運用が厳格で、「上限数」を超える子供をもうけた夫婦には罰則が科せられた。罰金を支払わねばならなかっただけではなく、「上限を超過した」子供の分の教育費や医療費を全額自己負担せねばならなかったのである。</div><div><br />一人っ子政策は鄧小平の指揮によって導入されたが、この積極的な産児制限策はそれまでの毛沢東時代における方針――「人が多いのは、いいことだ」(“more people, more power”)――と真っ向から対立するものだった。中国の未来は経済をうまく管理できるかどうかにかかっており、経済を管理する上では産児制限が重要な鍵を握っていると考えて、鄧小平は一人っ子政策を推進したのである。<br /><br />産児制限という基準に照らす限りでは、一人っ子政策は大きな成功を収めたと言える。しかしながら、中国は、男児選好(男児を尊ぶ伝統)が根強く残っている国であったという事情も重なって、一人っ子政策は、出生性比(出生児の男女比)に大きな歪みを生む格好となってしまった。さらには、胎児の性別判断が技術的に可能となった結果として、男女を産み分けるための中絶手術が広まることにもなったのであった。</div><div><br />男児選好、女児の中絶、幼い女児の高い死亡率といった現象は、中国に特有というわけではないし、一人っ子政策がすべての元凶というわけでもない。同様の現象は、インド、台湾、パキスタンといった国々でも見られるし、それらの国々からアメリカに移住した移民の間でも広く観察されている〔原注;詳しくは、以下の論文を参照されたい。 ●Jason Abrevaya(2009), “<a href="https://www.aeaweb.org/articles?id=10.1257/app.1.2.1" target="_blank">Are There Missing Girls in the United States? Evidence from Birth Data</a>”(<i>American Economic Journal: Applied Economics</i>, vol.1(2), pp. 1-34)/●Almond, Doug and Lena Edlund(2008), “<a href="https://www.pnas.org/doi/abs/10.1073/pnas.0800703105" target="_blank">Son-biased sex ratios in the 2000 United States Census</a>”(<i>Proceedings of the National Academy of Sciences</i>, vol.105, pp. 5681-5682)〕。しかしながら、一人っ子政策は、男児選好を持つ(男児を授かりたいと望む)夫婦に第1子(であり、授かることが許されている唯一の我が子)が女児とはならないように「強いた」結果として、男女比の歪みを加速させる役割を果たした。例えば、産児制限が実施されていない台湾では、1986年に中絶が合法化されてから男女の産み分けが盛んになったが、中絶手術が試みられているのはあくまでも第3子以降であることがわかっている〔原注;詳しくは、次の論文を参照されたい。 ●Lin, Ming-Jen, Liu, Jin-Tan and Qian, Nancy(2008), “<a href="https://cepr.org/active/publications/discussion_papers/dp.php?dpno=6667" target="_blank">More women missing, fewer girls dying: The impact of abortion on sex ratios at birth and excess female mortality in Taiwan</a>”, CEPR Discussion Paper 6667.〕。その一方で、中国では、制度の運用が省長の裁量にある程度委ねられていて、80年代以降になると、第1子が女児であれば第2子の出産が認められるようになった省も出てきたが、第1子に関しては出生性比(出生児の男女比)は標準値とほぼ同じなのに、第2子に関しては出生性比が飛びぬけて高かった(女児よりも男児の数が飛びぬけて多かった)のである〔原注;詳しくは、次の論文を参照されたい。 ●Nancy Qian, “<a href="https://ideas.repec.org/p/ess/wpaper/id2558.html" target="_blank">Quantity-Quality: The Positive Effect of Family Size on School Enrollment in China</a>”, Brown University mimeograph.〕。</div><div><br /></div><div>一人っ子政策に加えて、男児選好や中絶手術の普及といった要因が重なった結果として、中国では1980年代から90年代にかけて男児の数が女児の数を大きく上回ることになった。1978年の時点では、100人の女児に対しておよそ102人の男児が存在していた――男児の数が女児の数の1.02倍――が、1998年の時点になると、100人の女児に対して男児が112人以上存在する――男児の数が女児の数の1.12倍以上――までになったのである。今現在はというと、100人の女児に対して120人もの男児が存在しており――男児の数が女児の数の1.2倍――、数にして男児が女児よりも3700万人も多くなっているのである。</div><div><br />「一人っ子」世代も年をとり、続々と大人の年齢に達しつつある(例えば、1980年に生まれた子供は、2008年現在は28歳)。それに伴って、出生性比の歪みの影響が徐々に表面化しつつある。例えば、16歳~25歳の年齢層に目を向けると、100人の女子に対しておよそ110人の男子がいる計算――男子の数が女子の数の1.1倍――になるが、女子の数が相対的に少ないせいで、若い男子が結婚相手を見つけるのがますます難しくなっている。さらには、若い男子――とりわけ、独身の男子――は、若い女子に比べると、行動面で問題を抱えがちで、犯罪を犯しやすいと言われている。例えば、アメリカの西部開拓時代に暴力に向かう傾向が強く見られた理由は、(若い男子が中心となって体現していた)フロンティア精神(“frontier town” mentality)にその原因があるとはよく指摘されているところである。中国では1998年以降に犯罪件数が平均して年率13%のペースで増えているが、逮捕者の70%が16歳~25歳の若者で、そのうちの90%は男性という結果になっている。</div><div><br />犯罪が増えているとはいっても、そのうちのどのくらいが若い男子の数が増えたせいなのだろうか? この問いに真っ向から立ち向かっているのが、中国とアメリカの研究者が手を組んで取り組んでいる最近の研究である〔原注;Lena Edlund, Hongbin Li, Junjian Yi, and Junsen Zhang, “<a href="https://docs.iza.org/dp3214.pdf" target="_blank">Sex ratio and crime: Evidence from China’s one-Child Policy</a>(pdf)”(IZA Discussion Paper No. 3214, December 2007;その後、<i>The Review of Economics and Statistics</i>誌に掲載)〕。この研究では、1998年~2004年の期間を対象に、一人っ子政策が厳格に運用されている地域とそうではない地域(第1子が女児であれば第2子の出産が認められている地域。これらの地域では、第1子の出生性比は標準値とほぼ変わらない)の犯罪件数がそれぞれどのくらい増えているかが比較されているが、犯罪件数の増加分の7分の1は一人っ子政策〔訳注;一人っ子政策の影響で、若い男子が同世代の女子よりも大幅に増えていること〕によって説明できるとの結論が導き出されている。</div><div><br /></div><div>人口全体に占める若い男子(犯罪予備軍)の割合が高まっていることに加えて、若い男子が結婚相手を見つけにくくなっていることも犯罪が増えている理由の一つとなっている可能性がある。</div><div><br />その手掛かりをいくつか与えているのが、ベトナム帰還兵を対象にした長期にわたる調査である(調査が行われたのは1998年。この調査については、最近のニュー・リパブリック誌でも取り上げられている〔原注;“<a href="https://newrepublic.com/article/63568/no-country-young-men" target="_blank">No Country for Young Men</a>” by Mara Hvistendahl, New Republic, July 9, 2008.〕)。その調査によると、被験者として選ばれた帰還兵の男性が結婚するとテストステロンの濃度が低下した一方で、離婚するとテストステロンの濃度は増加したという。加えて、調査期間中にずっと独身だった男性のテストステロンの濃度は高い水準を保っていたという。テストステロンは、攻撃性や暴力と深い関わりのある男性ホルモンの一種として知られている。 独身の男性は、テストステロンの濃度が高いせいで、とりわけ攻撃的になってしまうのかもしれない。</div><div><br />一人っ子として育てられたことも何かしら関係があるかもしれない。第1子が女児であれば第2子の出産が認められている地域に暮らしている第1子の(弟ないしは妹がいる)少女は、子供の出産が1人しか認められていない地域に暮らしている子供(一人っ子)に比べて、学校に在籍する期間が長い傾向にあるという〔原注;詳しくは、次の論文を参照されたい。 ●Nancy Qian, “<a href="https://www.nber.org/papers/w14973" target="_blank">Quantity-Quality: The Positive Effect of Family Size on School Enrollment in China</a>”, NBER Working Papers No. 14973.〕。兄弟姉妹の数が増えると、家族内での競争が生じて機会(教育を受ける機会)が奪われるわけではなく、むしろお互いのためになるようである。「1人っ子」世代は、「孤独な」世代と言えるのかもしれない。</div><div><br /></div><div>ともあれ、将来的に一人っ子政策の運用が和らげられたとしても、中国は今後しばらくの間にわたって過去の一人っ子政策の影響に頭を悩まされ続けることだろう。</div>voxwatcherhttp://www.blogger.com/profile/10317675353577588272noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2302196195769960775.post-87196168780124742752022-11-03T12:56:00.007+09:002022-11-03T13:17:06.496+09:00Stephan Klasen 「『消えた女性』の謎を巡る一大論争 ~B型肝炎 vs 性差別~」(2008年8月28日)<p><span style="font-size: large;">Stephan Klasen, “<a href="https://cepr.org/voxeu/columns/missing-women-south-asia-and-china-biology-or-discrimination" target="_blank">Missing women in South Asia and China: Biology or discrimination?</a>”(<i>VOX</i>, August 28, 2008)</span></p><p></p><blockquote><i>発展途上の国々では、1億人を超える女性が「消えて」しまっている。その原因は「B型肝炎」にあるとの説がここにきて大きな注目を集めている。発展途上の国々――とりわけ、中国――で出生性比が高い(男児が相対的に多く生まれている)原因は、両親がB型肝炎のキャリアだからだというのだ。本稿では、「B型肝炎原因説」に寄せられた数多くの反論を要約する。B型肝炎ではなく、性差別こそが「消えた女性」の原因なのだ。</i></blockquote><div style="text-align: left;"><br />20年ほど近く前になるが、アマルティア・セン(Amartya Sen)が「消えた女性」問題を提起して広く話題を呼ぶことになった。セン曰く、南アジア、東アジア、中東、北アフリカといった地域では女性の死亡率が相対的に高くて、そのために1億人を超える女性が「消えて」しまっているというのだ〔原注;Sen(1989, 1990)〕。「消えた女性」の数(規模)についてはその後の研究で修正が加えられたものの、センの主張の妥当性は高く支持されている――詳しくは、Coale(1991)や Klasen(1994)を参照されたい――。これらの地域で女性が「消えて」しまった原因は、医療サービスや食事へのアクセスの面で女性が差別されていることに加えて、男女の産み分けを可能とする中絶手術が普及したこと〔訳注;妊婦のお腹の中にいる赤ちゃんが女の子だとわかると、中絶が選ばれる、という意味〕に求められるというのが通説となっている。</div><p></p><div><b>「消えた女性」の原因はB型肝炎にあり?</b></div><div><br /></div><div>2005年に『ジャーナル・オブ・ポリティカル・エコノミー』誌に掲載された論文で、通説とは大きく異なる主張が唱えられた。論文の著者であるエミリー・オスター(Emily Oster)によると、多くの女性が「消えた」とされている地域ではB型肝炎ウイルスの感染者が多く、両親がB型肝炎ウイルスのキャリアだと出生児の男女比(出生性比〔訳注;出生性比というのは、新生女児100人あたりの新生男児数のこと。例えば、出生性比が1.05だと、女児100人に対して男児が105人生まれる計算になる。出生性比の値が高くなるほど、新生児全体に占める男児の割合が増えることになる〕)が高くなる(男児が生まれやすくなる)傾向にあるという。そのこと踏まえると、「消えた」とされている女性のうちの47%~70%はそもそもこの世に生まれていなかった可能性があるというのである。 つまりは、南アジアや東アジアで女性が「消えて」しまった原因の多くは、「性差別」ではなく、「生物学的な要因」(B型肝炎)に求められるというわけだ。女性が「消えた」原因を見直す必要性にとりわけ迫られたのは、中国だった。中国は、B型肝炎ウイルスの感染率が特に高い地域だったからである。中国における「消えた女性」のうちの75%~86%がB型肝炎によるものというのがオスターの下した結論だった。</div><div><br /></div><div>オスターの主張が仮に正しいとすると、性差別の問題がこれまで思われていたほど酷いものではなかったことが示唆されるという意味で、良い報せということになろう。しかしながら、それと同時に、(オスターは言及していない)悪い報せもいくつかある。女性が「消えた」地域――中国、インド、台湾など――では、1980年代から1990年代にかけてB型肝炎の予防接種が開始されたが、オスターの主張が正しければ、この間に(予防接種のおかげでB型肝炎のキャリアが減るのに伴って)出生性比(ひいては、人口性比〔訳注;人口性比(人口全体の男女比)というのは、女性100人あたりの男性数のこと。例えば、人口性比が1.05だと、女性100人に対して男性が105人いる計算になる。人口性比の値が高くなるほど、人口全体に占める男性の割合が増えることになる〕)が急低下して、「消えた女性」の数も大きく減ることになったはずである。実際のところは、どうだったか? 南アジアのいくつかの国では確かに出生性比が低下したが、とても「急低下」と呼べるようなものではなかった。オスターの主張が正しいとすると、出生性比が緩やかにしか低下しなかったのは、(B型肝炎のキャリアが減ることに伴う恩恵を打ち消すようにして)この間に性差別がさらに酷くなったためではないかという可能性が浮かび上がってくることになる。</div><div><br /></div><div>オスターの論文が発表されると、彼女の主張を高く評価する声と彼女の主張に異議を唱える声とが入り乱れるかたちで、激しい論争が繰り広げられることになった〔原注;Das Gupta(2005, 2006)、Ebenstein(2008)、Lin and Luoh(2008)、Abrevaya(2005)、Klasen(2008)を参照されたい〕。オスター自身もこの問題に取り組み続けた。そして、他の研究者による強力な反論に加えて、自らの継続調査の結果も踏まえて、最終的には持説を撤回するに至ったのであった。つまりは、B型肝炎は、中国(ひいては、南アジア)における歪んだ人口性比〔訳注;人口全体に占める男性の割合が高くなっている事実〕や「消えた女性」の謎を解く鍵ではないとの結論に至ったのである。</div><div><br /></div><div><b>オスター論文への反論;B型肝炎は「消えた女性」の謎を解く鍵ではない</b></div><div><br /></div><div>「消えた女性」の謎を解く鍵をB型肝炎に求めたオスターは、どのような証拠を携えていたのだろうか? その一方で、オスターの主張に異議を唱えた論者は、どのような反証を挙げたのだろうか? 双方の証拠をどのように解釈したらいいのだろうか?</div><div><br /></div><div>オスターは、「消えた女性」の謎を解く鍵をB型肝炎に求めるにあたって、主に4つの証拠を頼りにしている。まず1つ目の証拠は、男女の産み分けを可能とする中絶手術が普及する前からずっと一貫して、中国における出生性比も、アメリカに移住した中国人の出生性比も、標準値よりも飛びぬけて高かったという事実である。2つ目の証拠は、(中国や南アジアの国々を除いた)世界各地のミクロデータの分析を通じて得られたもので、両親がB型肝炎のキャリアだと、そうでない場合と比べて、出生性比が高くなる(男児が生まれやすくなる)傾向にあることが見出されたという。3つ目の証拠は、アラスカの原住民と台湾人を対象にしたB型肝炎の予防接種の効果を追跡した時系列データの分析を通じて得られたもので、B型肝炎の予防接種が実施された後に出生性比が低下傾向を辿っていることが見出されたという。最後に4つ目の証拠は、クロスカントリー分析(国際比較分析)を通じて得られたもので、B型肝炎ウイルスの感染率が高い地域ほど、出生性比が高いという関係が見出されたという。一見すると、多岐にわたる数々の証拠がオスターの主張を支持しているように思える。</div><div><br /></div><div>しかしながら、その後の論争の過程で、オスターの主張を支えているか見える証拠に重大な問題が潜んでいることが指摘されると同時に、オスターの主張を覆すような証拠も徐々に明らかになってきた――論争の詳細については、Klasen(2008)を参照されたい――。 国際比較分析を通じて得られた証拠(4つ目の証拠)に関して言うと、データの信頼性に若干問題があり、南アジアや東アジアの中でも性差別が原因で――女児が生まれると役所にその旨が届け出られなかったり、生まれたばかりの女児が間引れたり、女児のネグレクト(育児放棄)が広く見られたり、女児が中絶されたりといった理由で――出生性比が高くなっている可能性がある国々のデータに分析結果が強く影響されている可能性が指摘されている。ミクロデータの分析を通じて得られた証拠(2つ目の証拠)に関しては、ある程度妥当性が認められているものの、サンプルサイズが小さいのに加えて、南アジアや東アジアの国々のデータが含まれておらず、広まっているB型肝炎ウイルスの種類が地域ごとにまちまちであることも指摘されている。中国では出生性比が飛びぬけて高かったという証拠(1つ目の証拠)に関しては、(少なくとも中絶手術が普及する1990年代までに限ると)こと第1子に関しては出生性比が標準値と変わらない地域が国内にいくつもあったことが判明している。さらには、Abrevaya(2008)によると、アメリカに移住した中国人の出生性比が高い理由は、両親がB型肝炎に感染していたためではなく、女児の中絶が選ばれたためである可能性が高いという。時系列データの分析を通じて得られた証拠(3つ目の証拠)に関しては、ある程度妥当性が認められているものの、統計解析の面で若干の問題を抱えていて、決定的な証拠とまでは言えないようだ。</div><div><br /></div><div>おそらく最も致命的と言える反論を寄せているのが、林明仁(Ming-Jen Lin)&駱明慶(Ming-Ching Luoh)の二人による最近の論文である(Lin&Luoh, 2008)。彼らは、台湾における300万件を超える出生児のデータを分析し、母親がB型肝炎のキャリアであっても出生性比にはこれといって大した影響は生じないとの結論を得ている。彼らの推計によると、中国における「消えた女性」のうちでB型肝炎によって説明できるのは2%にも満たないとのことだ。となると、残りの98%は性差別によるものではないかとの可能性が浮かび上がってくることになる。とは言え、彼らの分析にも問題は無くはない。彼らの分析で対象になっているのは中国ではなく台湾であり、母親がB型肝炎のキャリアであるケースだけしか考慮されていない。ここで再び登場するのが、オスターだ(Oster&Chen&Yu&Lin, 2008)。オスターは、共同研究者の協力を得て、母親だけではなく父親の側がB型肝炎のキャリアであるケースも含めて、中国におけるB型肝炎のキャリアに関する大規模なデータを収集して、それに詳細な分析を加えている。そして、母親だけではなく父親がB型肝炎のキャリアであっても出生性比にはこれといって大した影響は生じないとの結論を得ている。かくして、中国(そして、おそらくは南アジア)における歪んだ人口性比や「消えた女性」の謎を解く鍵を(B型肝炎という)生物学的な要因に求めることはできなくなり、性差別こそがその大きな原因である可能性が再び持ち上がってくる格好となったのである。</div><div><br /></div><div><b>悪い報せと良い報せ</b></div><div><br /></div><div>オスター論文をきっかけとして巻き起こった論争から、一体何が得られたのだろうか? まずは、悪い報せから指摘しておこう。中国や南アジアにおける「消えた女性」の47%~70%を説明できるような生物学的な要因というのは、どうやら幻だったようだ。ということは翻って、Sen(1989, 1990)、Coale(1991)、Klasen&Wink(2002, 2003)の言い分がやはり正しくて、女児の中絶やネグレクト(育児放棄)が原因で、女性の死亡率が依然として相対的に高いままという可能性があることになる。 しかしながら、悪い報せの中にも良い報せがいくつかある。1980年代から1990年代にかけてB型肝炎の予防接種が開始されたのに伴って、南アジアのいくつかの国では出生性比が若干ながら低下する傾向が見られたわけだが、オスターの主張が正しいと仮定した場合は、この間に性差別がさらに酷くなったとの解釈が成り立つことは先に見た通りである。しかしながら、オスターの当初の主張に疑義が生じた今となっては、Klasen&Wink(2002, 2003)による解釈が妥当するように思われる。すなわち、「消えた女性」問題を抱える大半の地域では、1980年代から1990年代にかけて性差別が若干ながら薄らいだ可能性があるのだ。とは言え、中国は例外である。<a href="http://www.voxeu.org/article/china-s-demographic-imbalance-too-many-boys" target="_blank">一人っ子政策</a>〔拙訳は<a href="http://voxwatcher.blogspot.com/2022/11/esther-duflo-2008818.html" target="_blank">こちら</a>〕に加えて、<a href="https://cepr.org/publications/dp6876" target="_blank">男女の産み分けを可能とする中絶手術が普及した</a>結果として、中国では性差別の問題が悪化の一途を辿り、女性が生き残るのがなおさら難しくなる格好となったのである。</div><div><br /></div><p></p><h3 style="text-align: left;"><参考文献></h3><div><br /></div><div><div>●Abrevaya, J. 2009. “<a href="https://www.aeaweb.org/articles?id=10.1257/app.1.2.1" target="_blank">Are there missing girls in the United States?</a>”, <i>American Economic Review: Applied Economics</i> 1(2): 1-34.</div><div>●Blumberg, B. and E. Oster. 2007. “<a href="https://citeseerx.ist.psu.edu/viewdoc/download?doi=10.1.1.511.6360&rep=rep1&type=pdf" target="_blank">Hepatitis B and sex ratios at birth: Fathers or Mothers?</a>(pdf)”, Mimeograph, University of Chicago.</div><div>●Chahnazarian, A. 1986. “Determinants of the sex ratio at birth”, Ph.D. dissertation, Princeton University.</div><div>●Chahnazarian, A. B. Blumberg, and W. Th. London. 1988. “<a href="https://www.cambridge.org/core/journals/journal-of-biosocial-science/article/abs/hepatitis-b-and-the-sex-ratio-at-birth-a-comparative-analysis-of-four-populations/E54A716220618110943EAAA96A0CFC02" target="_blank">Hepatitis B and the sex ratio at birth: A comparative study of four populations</a>”, <i>Journal of Biosocial Sciences</i> 20: 357-370.</div><div>●Coale, A. 1991. “<a href="https://www.jstor.org/stable/1971953" target="_blank">Excess female mortality and the balance of the sexes: An estimate of the number of missing females</a>”, <i>Population and Development Review</i> 17: 517-523.</div><div>●Das Gupta, M. 2005. “<a href="https://www.jstor.org/stable/3401477" target="_blank">Explaining Asia’s Missing Women: A new look at the data</a>”, <i>Population and Development Review</i> 31(3): 539-535.</div><div>●Das Gupta, M. 2006. “<a href="https://www.jstor.org/stable/20058877" target="_blank">Cultural versus biological factors in explaining Asia’s Missing Women: Response to Oster</a>”, <i>Population and Development Review</i> 32: 328-332.</div><div>●Ebenstein, Avraham. 2007. “<a href="https://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm?abstract_id=965551" target="_blank">Fertility choices and sex selection in Asia: Analysis and Policy</a>”, Mimeograph, University of Berkeley.</div><div>●Klasen, S. 1994. “<a href="https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/0305750X94901481" target="_blank">Missing Women Reconsidered</a>”, <i>World Development</i> 22: 1061-71.</div><div>●Klasen, S. 2008. “<a href="http://www.econstor.eu/bitstream/10419/27458/1/572394918.PDF" target="_blank">Missing Women: Some Recent Controversies on Levels and Trends in Gender Bias in Mortality</a>(pdf)”, Ibero America Institute Discussion Paper No. 168. In Basu, K. and R. Kanbur (eds.) <i><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/0199239118" target="_blank">Arguments for a better world: Essays in honour of Amartya Sen</a></i>. Oxford: Oxford University Press, 280-299.</div><div>●Klasen, S. and C. Wink. 2002. “<a href="https://www.jstor.org/stable/3092814" target="_blank">A turning point in gender bias in mortality: An update on the number of missing women</a>”, <i>Population and Development Review</i> 28(2): 285-312.</div><div>●Klasen, S. and C. Wink. 2003. “<a href="https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/1354570022000077999" target="_blank">Missing Women: Revisiting the Debate</a>”, <i>Feminist Economics</i> 9: 263-299.</div><div>●Klasen, S. 2003. “Sex Selection”, In P. Demeny, and G. McNicoll (eds.) <i><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/0028656776/" target="_blank">Encyclopaedia of Population</a></i>. New York: Macmillan, 878-881.</div><div>●Lin, M-J. and M-C. Luoh. 2008. “<a href="https://www.aeaweb.org/articles?id=10.1257/aer.98.5.2259" target="_blank">Can Hepatitis B mothers account for the number of missing women? Evidence from 3 million newborns in Taiwan</a>”, <i>American Economic Review</i> 98(5): 2259-73.</div><div>●Oster, E. (2006). “<a href="https://emilyoster.net/wp-content/uploads/HepatitisBandtheCaseoftheMissingWomen.pdf" target="_blank">Hepatitis B and the Case of Missing Women</a>(pdf)”, <i>Journal of Political Economy</i> 113(6): 1163-1216.</div><div>●Oster, E. G. Chen, X. Yu and W. Lin. 2008. “<a href="https://emilyoster.net/wp-content/uploads/HepatitisBDoesNotExplainMale-BiasedSexRatiosinChina.pdf" target="_blank">Hepatitis B does not explain male-biased sex ratio in China</a>(pdf)”, Mimeographed, University of Chicago.</div><div>●Sen, A. 1989. “<a href="https://www.jstor.org/stable/3824748" target="_blank">Women’s Survival as a Development Problem</a>”, <i>Bulletin of the American Academy of Arts and Sciences</i> 43(2): 14-29.</div><div>●Sen, A. 1990. “<a href="http://www.nybooks.com/articles/archives/1990/dec/20/more-than-100-million-women-are-missing/" target="_blank">More than 100 million women are missing</a>”, <i>New York Review of Books</i>, 20 December.</div></div>voxwatcherhttp://www.blogger.com/profile/10317675353577588272noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2302196195769960775.post-70633051778971327222022-11-01T12:28:00.007+09:002022-11-01T12:58:26.505+09:00Sascha O. Becker&Ludger Woessmann「デュルケーム『自殺論』再訪 ~プロテスタント教徒はカトリック教徒よりも自殺傾向が高い?~」(2012年1月15日)<p><span style="font-size: large;">Sascha O. Becker and Ludger Woessmann, “<a href="https://cepr.org/voxeu/columns/religion-matters-life-and-death" target="_blank">Religion matters, in life and death</a>”(<i>VOX</i>, January 15, 2012)</span></p><p></p><blockquote style="font-style: italic;">宗教は、自殺という重大な決断に何らかの影響を及ぼすだろうか? 19世紀のプロイセンのデータを用いて検証したところ、プロテスタント教徒の割合が高い地区(郡)では、カトリック教徒の割合が高い地区(郡)においてよりも自殺率がずっと高い傾向にあり、プロテスタンティズムこそが自殺率を高めている原因であるとの結果が得られた。経済学的なモデル(合理的選択理論)の助けを借りれば、プロテスタンティズムがなぜ自殺率を高めることになるのかを理解する手掛かりを得ることができる。</blockquote><div><br /></div><div>フランスの社会学者であるエミール・デュルケームが1897年(!)に物した古典の一つである『自殺論』を紐解くと、プロテスタンティズムと自殺との間に強いつながりがあることを示唆する一連の統計数字が提示されている。プロテスタントの国ではカトリックの国においてよりも自殺率が高いというデュルケームの指摘は「社会学の分野における数少ない法則の候補として広く受け入れられるまでになっている」(Pope and Danigelis 1981)。</div><div><br />カトリックの国々と比べると、プロテスタントの国々では、自殺率が随分と高い傾向にあるというのは現在においても依然として当てはまる話であり、宗教と自殺との間にどのような関係が見られるかを探ることは、今もなお極めて重要なトピックだと言えるだろう。毎年世界中でおよそ百万人もの人々が自ら命を絶っており、若者の間では自殺が死因のトップであることを考えると、なおさらそうである(World Health Organisation 2008)。あちこちで頻発する自殺は、人々の感情に対してだけではなく、社会全体や経済全体に対しても広範な影響を及ぼしており、政府も自殺の予防に向けて数々の対応に追われているのが現状である。</div><div><br /><b>自殺に関する経済学的なモデル</b><br /><br /></div><div>自殺の問題に経済学的な観点から切り込んだ研究は既にいくつもあるが(例えば、Hamermesh and Soss(1974)や Becker and Posner(2004)を参照せよ)、そういった一連の研究においては、自殺は生と死との間の選択問題の一つとして定式化されている。今後も生き続けることで得られる(と期待される)効用と、人生に終止符を打つ(命を絶つ)ことで得られる(と期待される)効用〔訳注;「命を絶つことで得られる効用って何だ?」と疑問に思われるかもしれないが、ここでは死後の世界の存在が想定されている。死んだ後に運良く天国に送られて、そこで喜びに満ち溢れた生活を過ごすことができるかもしれないと信じられている場合、人生に終止符を打つ(命を絶つ)ことで得られる(と期待される)効用は、その人にとってプラスの値をとることになる〕とを比較して、前者が後者を下回るようであれば、自殺を選ぶことが(その人にとって)「最適な」選択であるという話になるわけだ。</div><div><br />我々の最新の研究(<a href="http://www.cepr.org/active/publications/discussion_papers/dp.php?dpno=8448" target="_blank">Becker and Woessmann 2011</a>)でもそのような(自殺に関する経済学的なモデルの)従来の枠組みを踏襲しているが、それに加えて三つのメカニズムを考慮に入れることで、プロテスタント教徒はカトリック教徒よりも自殺傾向が高い(自殺率が高い)との理論的な予測を導き出している。一つ目のメカニズムは、デュルケームも指摘しているものだが、プロテスタントとカトリックとの間の宗教組織としての構造の違いに由来するものである。具体的には、プロテスタントの方がカトリックよりも宗教組織として見た場合に個人主義的な色彩が強い。生きていく中で困難にぶつかったとしても、カトリック教徒は凝集性が相対的に高い(結束が強い)組織(ないしは宗教コミュニティー)に頼ることができ、そのためもあって(何らかの困難にぶつかったとしても)魂がこの世にとどまる(自殺せずに生き続けることを選ぶ)可能性もそれだけ高まることになると考えられるのだ。</div><div><br />我々の研究では、デュルケームも指摘している上記の社会学的なメカニズムに加えて、プロテスタントとカトリックとの宗教上の教義の違いにも着目しているが、この違いもプロテスタント教徒の自殺傾向をカトリック教徒よりも高める方向に働くことになる。まずは二つ目のメカニズムから取り上げることにしよう。プロテスタントの教義では、ある人物が救済されるか否かは神の恩寵だけによって決められ、その人物がこの世でどれだけ善行を積んだかによっては左右されない点が強調されるが、カトリックの教義では、ある人物の救済をめぐる神の判断が、その人物がこの世でどのような行いをし、どのような罪を犯したかによって影響される余地が残されている。自殺という大罪を犯せば、救済の可能性は遠ざかり、死後に天国で過ごす道が閉ざされることになってしまうのではないか。カトリック教徒は、そのように考えて、自殺を思いとどまることになるかもしれない〔訳注;カトリック教徒にとっては、自殺という行為は、人生に終止符を打つ(命を絶つ)ことで得られる(と期待される)効用を低下させる効果を持っている。自殺という大罪を犯すことで、死後に天国に行ける可能性が低下するかもしれないからである。その一方で、プロテスタント教徒の場合は、自殺という大罪を犯しても、人生に終止符を打つ(命を絶つ)ことで得られる(と期待される)効用に変化が生じることはない。自分が天国に行けるかどうかは、自殺したかどうかによって影響されないと考えられているからである〕。</div><div><br />最後に三つ目のメカニズムである。カトリックの教義では、罪の告白(懺悔)は<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%98%E8%B7%A1" target="_blank">(七つの)秘跡(サクラメント)</a>の一つに数え上げられているが、プロテスタントの教義ではそうなっていない。当然のことながら、自殺は数ある罪の中でも、生きているうちに告白のしようがない唯一の罪である。そのため、絶望のどん底に陥ったカトリック教徒は、(生前に告白のしようがない罪である)自殺に踏み切る代わりに、(酒浸りの生活を送ったり、犯罪に手を染めたりといった)その他の(告白して赦しを得られるかもしれない)罪を犯すことを選ぶかもしれない(罪の告白が持つ代替効果)〔訳注;罪の告白によって天国に行ける可能性がある程度左右されるとすれば、カトリック教徒にとっては、(何らかの罪を犯すのであれば)告白の可能性が残されている罪を犯そうとするインセンティブがあることになる。告白のしようがない自殺という大罪を犯すよりも、告白の可能性が残されている罪を犯した方が、人生に終止符を打つ(命を絶つ)ことで得られる(と期待される)効用の低下が軽微で済むからである〕。</div><div><br />まとめよう。宗教が自殺をめぐる選択にどのような影響を及ぼすかを理解する手掛かりを得るために、「合理的選択」理論に助けを求めたわけだが、①プロテスタントとカトリックとの間の宗教組織としての構造の違い(凝集性の違い)、②人間のこの世での行いが神の恩寵に及ぼす影響に関する教義上の見解の違い、③自殺という罪を告白することは不可能だという事実、という三点をモデルに組み込んだところ、プロテスタント教徒はカトリック教徒よりも自殺に踏み切る可能性が高いとの理論的な予測が導き出されることになったのである。</div><div><br /><b>19世紀のプロイセンのデータは何を物語っているか?</b><br /><br /></div><div>次に、実際のデータを用いて理論的な予測の妥当性を検証する必要があるが、我々の研究では、19世紀の<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%BB%E3%83%B3%E7%8E%8B%E5%9B%BD" target="_blank">プロイセン(王国)</a>のデータに目を向けている。なぜ19世紀のデータに目をつけたかというと、デュルケームが『自殺論』の中でカバーしている時期が19世紀だからというのもあるが、当時は宗教が今よりも(ほぼすべての人がいずれかの宗派に属しており、宗教が生活のあらゆる面に浸透していたという意味で)広く普及していたからでもある。なぜ19世紀のプロイセンを選んだかというと、当時のプロイセンでは、プロテスタントもカトリックもいずれも少数派ではなかったことに加えて、それぞれの教徒が政治制度や裁判制度、言語や文化を同じくする州で共存して生活を営んでいたからでもある。</div><div><br />我々は、当時のプロイセン王国の公文書が保管されているアーカイブに足を運んだが、そこにはプロイセン統計局が収集し、それぞれの地区の警察当局が厳重に管理していた1869年から1871年までのデータが残されていた。452の郡すべて〔訳注;当時のプロイセンでは、最大の行政単位としてまず州(全部で11州)があり、それに次いで県(全部で35県)、そして最後に郡(全部で452郡)が続くという格好になっていた〕のデータが揃っており、その中には自殺の発生件数のデータも含まれている。さらには、1871年に実施された国勢調査のデータも残されていたが、その中には、(それぞれの教徒が人口に占める割合をはじめとした)宗教に関する情報だけではなく、識字率や経済発展の度合い等に関する情報も含まれている。</div><div><br />プロテスタンティズムが自殺に対してどのような効果を持つかを実証的に跡付ける上では、厄介な困難が控えている。自殺傾向が高い性格の持ち主がプロテスタント教徒になることを選んだという可能性があるのだ〔訳注;プロテスタント教徒の自殺率が高いという事実(あるいは、プロテスタント教徒が多く住む地域ほど自殺率が高いという相関関係)が仮に見られるとしても、プロテスタンティズムには自殺傾向を高める効果がある(プロテスタンティズムが自殺率を高めている原因だ)とは必ずしも言えない。例えば、元々自殺傾向が高い人がプロテスタンティズムに引き寄せられてプロテスタント教徒になっている可能性があるからである。この研究では、操作変数法と呼ばれる手法を使って因果の向き(プロテスタンティズムが自殺率を高めている原因だとの因果関係)の推定が試みられている〕。しかしながら、今回のケースに関しては、この点はそれほど問題とはならないだろう。というのは、当時のプロイセンでは、個人が宗派を変える例はほとんど見られなかったし、郡ごとの宗派の違いは、何世紀も前にその界隈を統括していた統治者の決定に遡ることができるからである。とは言え、何の手も打っていないわけではない。因果の向きをできるだけ正確に特定するために、我々の論文では、宗教改革後にプロテスタンティズムが(マルティン・ルターが活躍した町である)ヴィッテンベルクを中心として同心円状に広がっていったという歴史的な事実に目をつけている。それぞれの郡とヴィッテンベルク間の距離を操作変数として用いることで、因果の向きをできるだけ正確に特定しようと試みたのである。</div><div><br />宗教改革の波は、ヴィッテンベルクを中心として同心円状に広がっていったわけだが、その事実を反映して、ヴィッテンベルクに(距離的に)近い郡ほどプロテスタント教徒が住民全体に占める割合は高くなっている。さらには、ヴィッテンベルクに近い郡ほど、自殺率も高くなっている(<b>図1</b>を参照)。<b>図2</b>をご覧いただきたいが、プロテスタント教徒が占める割合が高い郡ほど、自殺率も高いというはっきりとした傾向が確認できる。住民すべてがプロテスタント教徒である郡の自殺率の平均をとると、住民すべてがカトリック教徒である郡のそれを大幅に上回っている。宗派ごとの自殺率の違いは量的に見てかなりのものである。プロテスタント教徒の自殺率(年平均値)は、人口10万人あたり18人となっており、カトリック教徒の自殺率のおよそ3倍も高い数値となっているのだ。</div><div><br /></div><p></p><div style="text-align: center;"><b>図1 </b>プロイセンにおける郡ごとの自殺率の分布(1869年~1871年までの期間における自殺率(人口10万人あたりの自殺者数)の年平均値)</div><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://cepr.org/sites/default/files/styles/flexible_wysiwyg/public/image/FromAug2011/WoessmannFig1.gif?itok=Q4MnO7_r" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="336" data-original-width="526" height="336" src="https://cepr.org/sites/default/files/styles/flexible_wysiwyg/public/image/FromAug2011/WoessmannFig1.gif?itok=Q4MnO7_r" width="526" /></a></div><p style="text-align: center;">出典:<a href="http://www.cepr.org/active/publications/discussion_papers/dp.php?dpno=8448" target="_blank">Becker and Woessmann (2011)</a></p><p style="text-align: center;"><br /></p><p style="text-align: center;"><b>図2</b> プロテスタンティズムと自殺率との関係(1871年時点での郡ごとのプロテスタント教徒の割合と1869年~1871年までの期間における自殺率の年平均値)</p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://cepr.org/sites/default/files/styles/flexible_wysiwyg/public/image/FromAug2011/WoessmanFig2.gif?itok=L_XsAH3w" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="364" data-original-width="508" height="364" src="https://cepr.org/sites/default/files/styles/flexible_wysiwyg/public/image/FromAug2011/WoessmanFig2.gif?itok=L_XsAH3w" width="508" /></a></div><p style="text-align: center;">出典:<a href="http://www.cepr.org/active/publications/discussion_papers/dp.php?dpno=8448" target="_blank">Becker and Woessmann (2011)</a></p><p style="text-align: left;"><br /></p><p></p><div>以上のような結果は、郡ごとの経済発展の度合いの違いや識字率の違い、天候条件の違い、メンタル面の健康に問題を抱えている住民の割合の違い等々といった要因を考慮しても、揺るがずに成り立つことが見出されている。過小報告の可能性〔訳注;実際は自殺で命を失っているにもかかわらず、死因が(例えば事故死と)偽って報告される可能性〕や特定の宗派の集中度(それぞれの郡で異なる教徒がどれだけ混在しているか)の違いが持つ効果、<a href="http://www.kansatsu.co.jp/service/kansatsu-x/column/detail/201" target="_blank">生態学的誤謬</a>の可能性を考慮しても、どうやら結果は左右されないようである。さらには、1816年のデータでも同様の検証を試してみたが、やはり同様の結果が得られている。</div><div><br /></div><div><div><b>プロテスタンティズムがプロテスタント教徒の福利に及ぼす多様な効果</b></div><div><br /></div><div>今回新たに判明した結果によると、プロテスタンティズムは(自殺率を高める可能性があるという意味で)好ましくない効果を持つ可能性があるわけだが、その一方で、プロテスタンティズムには好ましい効果が備わっている可能性もある。我々二人のかつての共著論文(Becker and Woessmann 2009)で示されているように、プロテスタンティズムは、人的資本の蓄積を促すことで、大多数の教徒(プロテスタント教徒)の収入を増やす(生活水準を高める)効果を持っている可能性があるのだ。その一方で、今回新たに判明した結果によると、プロテスタンティズムは、不幸極まりない境遇に置かれた一部の教徒(プロテスタント教徒)の自殺傾向を高める可能性を持っているわけだ〔訳注;プロテスタンティズムは、(今後も生き続けることで得られる(と期待される)効用を低下させる効果を持つという意味で)人を不幸にするという意味ではないことに注意されたい。何らかの原因(失業や失恋、親しい人との死別等々)で、今後も生き続けることで得られる(と期待される)効用が大幅に低下した場合に、プロテスタント教徒はカトリック教徒に比べると自殺を選ぶ可能性が高いという意味である〕。プロテスタンティズムに備わるこのような相反する二つの側面は、ひょっとすると、いわゆる「ダークコントラスト・パラドックス」(“dark-contrasts paradox”)――幸福度が高いにもかかわらず自殺率も高い地域が数多く見られることはよく知られているが、そのような逆説的な現象の背後には、他者との比較を通じて自らの境遇を判断する人間の特性が潜んでいる可能性がある(Daly et al 2011)――とも関係してくるかもしれない。ともあれ、宗教は、生と死のどちらの面でも重要な役割を果たしていることだけは明らかだと言ってよいだろう。</div></div><div><br /></div><div><br /></div><div><h3 style="text-align: left;"><参考文献></h3><div><br /></div><div>●Becker, Gary S, and Richard A Posner (2004), “<a href="https://www.gwern.net/docs/psychology/2004-becker.pdf" target="_blank">Suicide: An economic approach</a>“(pdf), Mimeo, University of Chicago.</div><div>●Becker, Sascha O, and Ludger Woessmann (2009), “<a href="http://qje.oxfordjournals.org/content/124/2/531.abstract" target="_blank">Was Weber wrong? A human capital theory of Protestant economic history</a>“, <i>Quarterly Journal of Economics</i>, 124(2): 531-596.</div><div>●Becker, Sascha O, and Ludger Woessmann (2011), “<a href="https://cepr.org/publications/dp8448" target="_blank">Knocking on Heaven’s Door? Protestantism and Suicide</a>”, CEPR Discussion Paper 8448, Centre for Economic Policy Research.</div><div>●Daly, Mary C, Andrew J Oswald, Daniel J Wilson, and Stephen Wu (2011), “<a href="http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0167268111001120" target="_blank">Dark contrasts: The paradox of high rates of suicide in happy places</a>“, <i>Journal of Economic Behavior and Organization</i>, 80(3): 435-442.</div><div>●Durkheim, Émile (1897), <i>Le suicide: étude de sociologie</i>, Félix Alcan (<i>Suicide: A study in sociology</i>, translated by John A Spaulding and George Simpson, Glencoe, The Free Press, 1951)(宮島 喬(訳)『<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4122012562/" target="_blank">自殺論</a>』).</div><div>●Hamermesh, Daniel S, and Neal M Soss (1974), “<a href="http://www.jstor.org/stable/1830901" target="_blank">An economic theory of suicide</a>“, <i>Journal of Political Economy</i>, 82(1): 83-98.</div><div>●Pope, Whitney, and Nick Danigelis (1981), “<a href="http://www.jstor.org/stable/2578447" target="_blank">Sociology’s “one law”</a>“, <i>Social Forces</i>, 60(2): 495-516.</div><div>●World Health Organization (2008), <i><a href="https://apps.who.int/iris/handle/10665/43954" target="_blank">Preventing suicide: A resource for media professionals</a></i>, World Health Organization and International Association for Suicide Prevention.</div></div>voxwatcherhttp://www.blogger.com/profile/10317675353577588272noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2302196195769960775.post-1798689600317739322022-10-31T13:00:00.005+09:002022-11-14T14:20:09.701+09:00Claudia Biancotti他 「サイバーセキュリティの経済学」(2017年6月23日)<p><span style="font-size: large;">Claudia Biancotti&Riccardo Cristadoro&Sabina Di Giuliomaria&Antonino Fazio&Giovanna Partipilo, “<a href="https://cepr.org/voxeu/columns/cyber-attacks-economic-policy-challenge" target="_blank">Cyber attacks: An economic policy challenge</a>”(<i>VOX</i>, June 23, 2017)</span></p><p><i></i></p><blockquote><i>円滑な経済活動を支える基盤の一つとしてサイバーセキュリティへの関心が高まっているが、「市場の失敗」ゆえに、サイバーセキュリティを強化するための私的な投資が十分に行われずにいる。「市場の失敗」を是正する政策を練り上げて、あらゆる部門が一体となってサイバー攻撃の脅威に立ち向かっていかねばならない。そのためには、サイバー空間の安全性を左右するミクロ経済レベルのメカニズムに対する理解を深めるだけでなく、サイバー攻撃の実態に関する信憑性のあるデータを集める必要がある。</i></blockquote><div style="text-align: left;"> </div><div style="text-align: left;">サイバー攻撃が国家の安全保障上の脅威の一つに位置づけられるようになってからだいぶ日が経っているが、マクロ経済的な観点からも脅威の一つと見なされるようになってきている。その背景として、情報通信技術を介して生み出される付加価値がGDPに占める割合が日増しに高まってきていることがある。2012年にOECD加盟国全体で生み出された付加価値のうちの6%が情報産業によって生み出されている。同じく2012年にOECD加盟国全体で就業していた人のうちの4%が情報産業で働いている。同じく2012年にOECD加盟国全体で実施された設備投資のうちの12%が情報産業によるものとなっている。さらには、特許協力条約(PCT)に基づく手続きを経て国際的な特許権を取得した発明のうちの40%が情報通信技術絡みとなっている(OECD 2014, 2015)。2014年のイギリスでは、140万人がデジタル部門――情報通信産業のごく一部の部門――で働いている。140万人というのは、就業者全体の7.3%に相当する(UK Department for Culture, Media and Sport 2016)。これまでに挙げてきた数値は、デジタル技術によって生み出されている価値を控えめに捉えたものに過ぎない。デジタル化がどこまで進行しているかを知るには、インターネット上でごく普通の一日の間に何が起きているかに目を向けてみるという手があるが、世界銀行がその実情を図(<b>図1</b>)にまとめてくれている(World Bank 2016)。</div><div style="text-align: left;"><i><br /></i></div><div style="text-align: left;"><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://cepr.org/sites/default/files/styles/flexible_wysiwyg/public/image/FromMay2014/biancottifig1.png?itok=Bh1_fShD" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="318" data-original-width="521" height="300" src="https://cepr.org/sites/default/files/styles/flexible_wysiwyg/public/image/FromMay2014/biancottifig1.png?itok=Bh1_fShD" width="491" /></a></div></div><div style="text-align: left;"><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><b>図1</b>:インターネット上におけるごく普通の一日(図の出所は、世界銀行が刊行している『世界開発報告2016年版』。上の図は、2015年5月29日にインターネット上で何が起きていたかを<a href="http://www.internetlivestats.com/one-second" target="_blank">こちらのサイト</a>を使って集計したもの)</div><br /><div>デジタル化が急速に進行するのに伴って、経済内部における相互のつながり(連結性)の度合いも高まっている。言い換えると、誰かしらがサイバー攻撃を受けた場合に、被害の範囲がその当人だけにとどまらないおそれがあるわけだ。サイバー空間の安全性に疑念が抱かれると、知識集約型部門において情報通信技術の導入が避けられたり、国境を越えた商取引が手控えられたりして、生産性の伸びが鈍化するおそれがある(World Economic Forum 2014)。</div><div><br /></div><div>サイバーセキュリティを強化する(サイバー空間の安全性を高める)上で、どうしても理解しておかねばならないことがある。サイバーセキュリティを強化できるかどうかは、脆弱じゃないプログラムを書けるかどうかだけでなく、インセンティブのありようにもかかっているのだ。</div><div><br /></div><div>その一例が、Anderson (2001) によって15年以上前に指摘されている。預金の不正引き出し被害の件数で国ごとに開きがあるのはどうしてかというと、詐欺師の技術レベルに違いがあるためではなく、責任の所在に関するルールに違いがあるためだというのだ。米国では、キャッシュカードの持ち主が預金を不正に引き出されたと申し出ると、金融機関の側がその真偽を調査することになっている。そして、申し出が嘘だと証明できない限りは、金融機関が全額補償することになっている。その一方で、預金が不正に引き出されたことをキャッシュカードの持ち主が自分で証明しないと、一銭たりとも補償してもらえない国もある。預金の不正引き出し被害の件数が少ないのはどっちかというと、米国の方がずっと少ないのだ〔原注;この15年の間に預金の不正引き出し被害の数もだいぶ増えており、それに伴って、大体どこの国でも米国型のルールを採用するようになっている。その結果として、ATM(現金自動預け払い機)のセキュリティを強化するための投資が積極的に行われるようになっている〕。</div><div><br /></div><div>時に国家によって企てられる<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/APT%E6%94%BB%E6%92%83" target="_blank">APT攻撃</a>のような高度なサイバー攻撃も重要な問題には違いないが(Center for International and Strategic Studies 2016)、シンプルなサイバー攻撃であっても――社員に初歩的なセキュリティ教育を施すなり、すぐに手に入るウイルス対策ソフトをインストールするなり、セキュリティマネジメント体制を構築するなりすれば、容易に阻止できる類のサイバー攻撃であっても――大きな被害が出る。2013年に米国の大手ディスカウントストア・チェーンであるターゲット社の<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A9%E5%A3%B2%E6%99%82%E7%82%B9%E6%83%85%E5%A0%B1%E7%AE%A1%E7%90%86" target="_blank">POSシステム</a>がサイバー攻撃に遭ったが、およそ3億ドルに上る被害が出た。ターゲット社の取引先である空調業者のパソコンのセキュリティ対策が甘く、そこを突かれたのだ。空調業者のパソコンから盗み出された認証情報を使われて、ネットワークへの侵入を許してしまったのだ。2017年にブラジルの銀行のネットワークが5時間にわたり乗っ取られた時には、「DNSハイジャック」と呼ばれる初歩的な手法が使われた。その銀行のサイトにアクセスすると、本物そっくりの偽サイト(フィッシングサイト)に飛ばされ、ログインしようとした顧客の個人情報が盗まれたのだ。</div><div><br /></div><div>いわゆる<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%8E%E3%81%AE%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88" target="_blank">「モノのインターネット」(IoT)</a>――インターネットを介して相互に結び付けられたスマート・デバイス(スマートフォンやタブレットなど)のネットワーク――の市場規模が大きくなるにつれて新しくて未知の領域が広がっているが(<b>図2</b>)、新しいテクノロジーに付き物のトレードオフも抱えている。新しいテクノロジーのおかげで色んな可能性が開ける一方で、セキュリティ上の問題――技術的な問題に加えて、インセンティブが絡む問題――が放置されたままだと(安全性に疑念を抱かれて、テクノロジーの導入が避けられるために)その可能性が実現せずに終わるリスクがあるのだ。 「モノのインターネット」を標的にしたサイバー攻撃は既に起こっている。2016年には10万台にも上る数のデジタルビデオレコーダーやウェブカメラが乗っ取られて、TwitterやRedditといったソーシャルプラットフォームに障害が起きているし、 2017年には大学の自動販売機がハッキングされて、学内のネットワークがすべてダウンしている。</div><div><br /></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://cepr.org/sites/default/files/styles/flexible_wysiwyg/public/image/FromMay2014/biancottifig2.png?itok=L2D_VnwJ" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="352" data-original-width="651" height="265" src="https://cepr.org/sites/default/files/styles/flexible_wysiwyg/public/image/FromMay2014/biancottifig2.png?itok=L2D_VnwJ" width="489" /></a></div><br /><div><div style="text-align: center;"><b>図2</b>:「モノのインターネット」の市場規模の予測(データの出所は、IHS マークイット)</div></div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;"><div><b>「市場の失敗」を是正するには?</b></div><div><br /></div><div>様々な「市場の失敗」ゆえに、サイバーセキュリティを強化するための私的な投資が十分に行われずにいる。政策を通じて「市場の失敗」を是正できれば、サイバー攻撃を防ぐことができる。「市場の失敗」を是正する政策を練り上げるためには、政治的な意思が必要となるだけではなく、二つの障害物を取り除かなければいけない。 二つの障害物とは何か? サイバー空間の安全性を左右するミクロ経済レベルのメカニズムに対する理解不足が一つ目の障害物。サイバー攻撃の実態に関する信憑性のあるデータの不足が二つ目の障害物だ。</div><div><br /></div><div>サイバー空間の安全性を左右するミクロ経済レベルのメカニズムをえぐり出しているのが、Anderson and Moore (2011) だ。まず何よりも先に指摘しておくべきなのは、ハードウェアの市場にしても、ソフトウェアの市場にしても、「ネットワーク外部性」が生じやすい市場だということだ。すなわち、製品のユーザーの数が増えるほど、製品の価値(利便性)が高まる傾向にあるのだ〔原注;格好の例は、パソコンのOS(オペレーティングシステム)だ。アプリケーションソフトの開発者は、広く利用されているOSに対応したソフトを作ろうとし、ユーザーは対応するソフトの数が多いOSに惹かれることになる。別の例は、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)だ。誰ともつながれないようだと、その価値はゼロだ〕。「ネットワーク外部性」は、先行者利益を生む源泉となる。ある程度の数のユーザーをいち早く獲得できた製品がその分野のスタンダードとなり、ユーザーがますます呼び込まれることになるのだ。ハードウェアの市場やソフトウェアの市場が寡占状態となっているのはなぜか? 製品開発の世界で「とにかく出荷(リリース)せよ。手直しするのは後でいい」というのがビジネスモデルの定番となっているのはなぜか? その答えは、「ネットワーク外部性」にあるのだ(「とにかく出荷せよ。修正するのは後でいい」というのが製品開発の世界におけるビジネスモデルの定番となっているのは、ユーザーが製品の安全性をそこまで重視していないせいでもある。ユーザーが製品の安全性をそこまで重視していないため、安全性はそっちのけで、どこよりも早く製品を出荷することに心血が注がれることになる。先行者利益を得るために。結果的に、多くの脆弱性を抱えた製品が出荷される運びとなる)。</div><div><br /></div><div>次に指摘しておくべきなのは、脆弱性を抱えたハードウェアなりソフトウェアなりというのは、「負の外部性」(「外部不経済」)を引き起こす元凶になりかねないということだ。どういうことかというと、誰かしらがサイバー攻撃に遭った場合に、被害が及ぶ範囲がその当人だけにとどまらない可能性があるのだ。多くのコンピュータシステムには、そのシステムの持ち主の情報だけでなく、他者の貴重な情報も貯蔵されている。例えば、米国の医療保険会社であるアンセム社のサーバーが攻撃に遭った時には、顧客のデリケートな情報である診療記録が流出しているし、メールサービスを提供しているヤフー社のサーバーが攻撃に遭った時には、顧客の個人情報が流失している。サイバー攻撃は、間接的なかたちをとることもある。標的となる相手を直接狙うのではなく、まずはセキュリティ対策の甘い端末をいくつも乗っ取り、乗っ取った端末を遠隔操作して標的に攻撃を仕掛けるのだ。乗っ取られた端末によって構成されるネットワークは「ボットネット」とも呼ばれるが、そのネットワークに組み込まれた端末の数が何百万台もの規模に上ることもある。</div><div><br /></div><div>サイバー攻撃に遭うと、被害があちこちに波及するリスクがある――「負の外部性」ゆえに、社会的なコスト(当人が被る被害に加えて、第三者に及ぼす被害)が私的なコスト(当人が被る被害)を上回る可能性がある――にもかかわらず、世間ではそのことに対する危機意識が依然として低いままだ。危機意識が低いままだと、「負の外部性」が一切生じないようであっても、セキュリティを強化するための私的な投資は十分には行われないだろう。仮にユーザーの側の危機意識が高まったとしても、ユーザーとメーカーとの間に横たわる「プリンシパル=エージェント問題」ゆえに、セキュリティを強化するための私的な投資は十分には行われないだろう。というのも、ハードウェアやソフトウェアを開発するメーカー(エージェント)が、製造物責任を負うのを渋っているのだ。プログラムのコードに間違いが混入するのは避けられないのに、その間違いが原因でサイバー攻撃が誘発されたのだからお前らが賠償しろと迫られるようだと、新製品を開発するインセンティブが削がれてしまう・・・というのがその言い分だ。とは言え、The Economist (2017) も指摘しているように、自動運転車がハッキングされて誰かが轢かれるなんて事故が起きたら、 世間の考えだったり政治家の態度だったりがガラリと変わる可能性はある。</div><div><br /></div><div>「負の外部性」に対処する術は既にいくつか提案されているが、その多くは「負の外部性」を内部化する(サイバー攻撃によって生じた被害に対して、誰かしらが損害賠償責任を負う)必要性を認めつつも、負担の分かち合いを要求している。例えば、インターネットに接続されている洗濯機がハッカー集団に乗っ取られて、その洗濯機が石油会社のサーバーに攻撃を仕掛けるための道具として使われた場合に、洗濯機の持ち主に全額賠償させるのではなく、インターネットサービスプロバイダーに損害賠償の一部を肩代わりさせるわけだ〔原注;サイバー空間における「自衛権」のあり方について活発な論争が繰り広げられている。ハッカー集団に対して「逆ハッキング」(ハッキングしてきた相手にハッキングで復讐すること)で立ち向かうことをよしとする意見もあれば(Messerschmidt 2013)、「逆ハッキング」は逆効果になりかねないとの意見もある(Raymond et al. 2015)〕。</div><div><br /></div><div>徐々にではあるが、OECD加盟国の多くで、「市場の失敗」の部分的な解決につながる法律が整備され出している。例えば、企業のサーバーが攻撃に遭って顧客の個人情報が流出した場合に、そのことを顧客本人に通知する義務が企業に課されている。あるいは、日常生活を送る上で欠かせない重要なインフラを運営する事業者に対して、安全基準の遵守が要請されている(それというのも、その事業者のサーバーが攻撃に遭ってインフラの操業が停止してしまうと、社会全体に甚大な被害が生じかねないからだ)。デジタル化が進んでいて、サイバー攻撃への強い警戒が求められる部門に対しては、国内法規によって厳格な義務が課されるだけでなく、国際的な法規制や慣行に従うことも要請されている。</div><div><br /></div><div>その格好の例が、ハッカー集団にとってまたとない獲物である金融部門だ(Maurer et al. 2017)。先進国の法律では、金融部門に他のどの部門よりも念入りなセキュリティ対策が義務付けられている。例えば、2018年に改正された「EU決済サービス指令第2版」(PSD2)では、デジタル決済(電子決済)の安全性を確保するために、EU圏内で決済サービスを提供する事業者に対してかなり厳しい安全基準の遵守が求められている〔原注;改正された「EU決済サービス指令第2版」では、①ユーザー、②決済サービスを提供する事業者、③通信インフラの管理者、④規制官庁、の四者が一体となってセキュリティの強化に取り組む方針が打ち出されている〕。</div><div><br /></div><div>中央銀行をはじめとした各国の金融監督機関は、監督対象となる国内の金融機関に対して様々な義務を課す――例えば、サイバー攻撃に遭った場合に、その旨を報告する義務を課す――だけでなく、サイバーセキュリティに関する国際的なガイドライン――法的な強制力はないものの、国内で法整備をする際に参考にされる指針――の作成にも国境の枠を超えて共同で取り組んでいる。その一例が、BIS(国際決済銀行)とIOSCO(証券監督者国際機構)によってまとめられた「金融市場インフラのサイバー攻撃耐性を高めるためのガイダンス」(BIS&IOSCO 2016)だが、サイバー攻撃に対する金融システムの耐性を高めるために取り組むべき課題として、技術的な面だけでなく、組織のガバナンスについても取り上げられている。他にも、人的要因が果たす役割だったり、サイバー攻撃に関する情報を共有する重要性についても触れられている。</div><div><br /></div><div>法規制の面でいくらか進展が見られるとは言え、現状のままでは「市場の失敗」が部分的に解決されるに過ぎず、危機的な状況に追い込まれるリスクをゼロにすることはできない。例えば、規模の大きな金融機関がサイバー攻撃の標的となった場合に、経営破綻に追いやられるところまではいかなくても、営業停止に追い込まれる可能性は残されている。どれか一つの部門の守りを固めるだけでは、決して無駄ではないものの、十分じゃないのだ。あらゆる部門を対象とした包括的な政策対応が求められている。どこかに守りが甘いところがあると、その近隣の安全が脅かされてしまうのだ。個人情報の窃取を狙ったサイバー攻撃だけでなく、あらゆるタイプのサイバー攻撃に立ち向かうべきなのだ。重要なインフラを運営する事業者だけではなく、サイバー空間に足を踏み入れているすべてのプレイヤーに守りを固めさせるべきなのだ。</div><div><br /></div><div><b>データの不足</b></div><div><br /></div><div>「市場の失敗」を是正する政策の設計が阻まれているのは、サイバー攻撃の実態に関する信憑性のあるデータが不足しているためでもある。ごく一般的な企業のサーバーはどのくらい脆弱なのだろうか? サイバー攻撃はどのくらい頻繁に起きているのだろうか? サイバー攻撃に遭うと、どのくらいの被害が出るのだろうか? その答えはというと、・・・よくわからないのだ。サイバー攻撃についての統計データだったらメディアでもしばしば取り上げられてるじゃないかとお思いかもしれないが、ああいうデータを提供しているのは、ウイルス対策ソフトを作っているメーカーだったり、セキュリティ対策を仕事にしている会社だったりする。利益相反の可能性(自社の売り上げを伸ばすために、数字が水増しされている可能性)があるのに加えて、情報源が明らかにされていないことも多い。サイバー攻撃に関する信憑性のあるデータというのは、非常に限られているのだ。</div><div><br /></div><div>その限られた中の一つが、英国政府による聞き取り調査だ。調査が開始されたのは、2016年。最新の結果は、2017年4月に報告されている(UK Department for Culture, Media and Sport 2017)。それによると、イギリス国内の46%の企業が過去1年の間に少なくとも1回はサイバー攻撃に遭っているという。企業規模が大きくなるほどサイバー攻撃の標的になりやすく、イギリス国内の大企業の68%が過去1年の間に少なくとも1回はサイバー攻撃に遭っているようだ(<b>図3</b>)。サイバー攻撃によって生じた被害の平均額はそこまで大きくないが(大企業に話を限ると、被害の平均額は1万9,600ポンド)、被害の額には大きなバラツキがある。被害額が一番大きかったケースでは、復旧作業だけで50万ポンドもかかったようだ。</div><div><br /></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://cepr.org/sites/default/files/styles/flexible_wysiwyg/public/image/FromMay2014/biancottifig3.png?itok=wXZ-QQAG" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="272" data-original-width="611" height="223" src="https://cepr.org/sites/default/files/styles/flexible_wysiwyg/public/image/FromMay2014/biancottifig3.png?itok=wXZ-QQAG" width="500" /></a></div><br /><div><div style="text-align: center;"><b>図3</b>:イギリス企業を標的にしたサイバー攻撃(図の出所は、英国政府)</div></div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;"><div>英国政府による聞き取り調査に比べるといくらか大雑把ではあるが、同様の調査がイタリア銀行によって行われている(Biancotti 2017)。イタリアにある企業(具体的には、製造業と、金融業を除くサービス業を営む事業所)を対象にした長期間にわたる聞き取り調査〔原注;以下がそれ。Survey of Industrial and Service Firms(<a href="https://www.bancaditalia.it/pubblicazioni/indagine-imprese/index.html" target="_blank">https://www.bancaditalia.it/pubblicazioni/indagine-imprese/index.html</a>)/Business Outlook Survey of Industrial and Service Firms(<a href="https://www.bancaditalia.it/pubblicazioni/sondaggio-imprese/index.html" target="_blank">https://www.bancaditalia.it/pubblicazioni/sondaggio-imprese/index.html</a>)。どちらの聞き取り調査も毎年実施されている〕の結果によると、セキュリティ対策を一切していない企業の割合は2%を下回っているが、3分の1の企業が1年の間(2015年9月~2016年9月)に少なくとも1回はサイバー攻撃に遭っている(<b>表1</b>)。サイバー攻撃に遭ったことに気付いていなかったり、サイバー攻撃に遭ったことを隠している(サイバー攻撃に遭ったのに、遭っていないと答えている)可能性もあるので、「3分の1」という数値は実態を正確に反映していないかもしれない。そこで統計的な手法を使って生のデータに修正を加えると、1年の間(2015年9月~2016年9月)に少なくとも1回はサイバー攻撃に遭ったことがあると推測される企業の割合は、45.2%に上ることになる。部門別にみると、大企業、ハイテク企業、輸出企業(売上高に占める輸出額の割合が高い企業)がサイバー攻撃の標的になりやすいと言えそうだ。</div><div><br /></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://cepr.org/sites/default/files/styles/flexible_wysiwyg/public/image/FromMay2014/biancottitable1.png?itok=0VfV9dYE" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="532" data-original-width="476" height="532" src="https://cepr.org/sites/default/files/styles/flexible_wysiwyg/public/image/FromMay2014/biancottitable1.png?itok=0VfV9dYE" width="476" /></a></div><br /><div><div style="text-align: center;"><b>表1</b>:イタリア国内で製造業ないしはサービス業(金融業除く)を営む事業所のうちで、1年の間に少なくとも1回はサイバー攻撃に遭ったことがある事業所の割合</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;"><div>サイバー攻撃がこんなにも蔓延(はびこ)っていることを知れば、政府の要人も衝撃を受けて目を覚ますはずだ。データを集めなくてはいけない。定義を国際的に統一して、研究者が無料でアクセスできれば言うことないが、とにかくデータを集めなくてはいけない。サイバーセキュリティを強化するための適切な政策を練るためにも、サイバー攻撃の実態に関する信憑性のあるデータの蓄積が切実に求められているのだ。</div><div><br /></div><div><br /></div><div><h3 style="text-align: left;"><参考文献></h3><div><br /></div><div>●Anderson, R (2001), ‘<a href="https://www.acsac.org/2001/papers/110.pdf" target="_blank">Why Information Security is Hard – an Economic Perspective</a>’(pdf), <i>Proceedings of the 17th Annual Computer Security Applications Conference</i>.</div><div>●Anderson, R and T Moore (2011), ‘Internet Security’, in Peitz, M. and J. Waldfogel (eds.), <i><a href="https://www.oxfordhandbooks.com/view/10.1093/oxfordhb/9780195397840.001.0001/oxfordhb-9780195397840" target="_blank">The Oxford Handbook of the Digital Economy</a></i>, Oxford University Press.</div><div>●Biancotti, C (2017), ‘<a href="https://www.bancaditalia.it/pubblicazioni/qef/2017-0373/index.html?com.dotmarketing.htmlpage.language=1" target="_blank">Cyber Attacks: Preliminary Evidence from the Bank of Italy’s Business Surveys</a>’, Occasional Papers no. 373, Bank of Italy.</div><div>●Bank for International Settlements and Board of the International Organization of Securities Commissions (2016), ‘<a href="https://www.iosco.org/library/pubdocs/pdf/IOSCOPD535.pdf" target="_blank">Guidance on Cyber Resilience for Financial Market Infrastructures</a>’(pdf)</div><div>●Center for Strategic and International Studies (2016), ‘<a href="https://csis-prod.s3.amazonaws.com/s3fs-public/160824_Significant_Cyber_Events_List.pdf" target="_blank">Significant Cyber Incidents since 2006</a>’(pdf)</div><div>●Maurer, T, A Levite and G Perkovitch (2017), ‘<a href="http://carnegieendowment.org/2017/03/27/toward-global-norm-against-manipulating-integrity-of-financial-data-pub-68403" target="_blank">Toward a Global Norm Against Manipulating the Integrity of Financial Data</a>’, Carnegie Endowment for International Peace White Paper.</div><div>●Messerschmidt, J (2013), ‘<a href="https://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm?abstract_id=2309518" target="_blank">Hackback: Permitting Retaliatory Hacking by Non-State Actors as Proportionate Countermeasures to Transboundary Cyberharm</a>’, <i>Columbia Journal of Transnational Law</i>, 52(1).</div><div>●OECD (2014), ‘<a href="http://www.oecd.org/sti/measuring-the-digital-economy-9789264221796-en.htm" target="_blank">Measuring the Digital Economy. A New Perspective</a>’</div><div>●OECD (2015), ‘<a href="http://www.oecd.org/internet/oecd-digital-economy-outlook-2015-9789264232440-en.htm" target="_blank">Digital Economy Outlook</a>’</div><div>●Raymond, M, G Nojeim and A Brill (2015), ‘<a href="https://cdt.org/insight/private-sector-hack-backs-and-the-law-of-unintended-consequences/" target="_blank">Private Sector Hack-backs and the Law of Unintended Consequences</a>’, Center for Democracy & Technology.</div><div>●<i>The Economist</i> (2017), ‘<a href="http://www.economist.com/news/leaders/21720279-incentives-software-firms-take-security-seriously-are-too-weak-how-manage" target="_blank">How to Manage the Computer-Security Threat</a>’</div><div>●UK Department for Culture, Media and Sport (2017), ‘<a href="https://www.gov.uk/government/statistics/cyber-security-breaches-survey-2017" target="_blank">Cyber Security Breaches Survey: Main Report</a>’.</div><div>●UK Department for Culture, Media and Sport (2016), ‘<a href="https://www.gov.uk/government/uploads/system/uploads/attachment_data/file/503666/Digital_Sector_Economic_Estimates_-_January_2016_Revised.pdf" target="_blank">Digital Sector Economic Estimates – Statistical Release</a>’(pdf)</div><div>●World Bank (2016), <i><a href="http://www.worldbank.org/en/publication/wdr/wdr-archive" target="_blank">World Development Report 2016: Digital Dividends</a></i>.</div><div>●World Economic Forum (2014), ‘<a href="http://www3.weforum.org/docs/WEF_RiskResponsibility_HyperconnectedWorld_Report_2014.pdf" target="_blank">Risk and Responsibility in a Hyperconnected World</a>’(pdf)</div></div></div><div style="text-align: center;"><br /></div></div></div></div></div><p></p>voxwatcherhttp://www.blogger.com/profile/10317675353577588272noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2302196195769960775.post-16877331699902455482016-05-31T17:07:00.003+09:002016-05-31T17:15:39.252+09:00George Akerlof 「木の上の猫 ~経済危機に関する私見~」<span style="font-size: large;">●George A. Akerlof, “<a href="http://voxeu.org/article/cat-tree-and-further-observations-rethinking-macroeconomic-policy" target="_blank">The cat in the tree and further observations: Rethinking macroeconomic policy</a>”(<i>VOX</i>, May 9, 2013)</span><br />
<blockquote class="tr_bq">
<i>経済学者は危機の到来をうまく予測することができなかった。しかしながら、危機に対処するために導入された一連の経済政策はそのほとんどが「経済を専門とする名医」の処方箋に近いものだったと言える。良い経済学(経済学の教えの中でも質的に優れたもの)も良識(健全な世間知)もこれまでのところかなりうまく働いている。これまでに様々な対策が試みられ、成果もきちんと上がっている。このことは将来への教訓として胸に刻んでおかねばならないだろう。</i></blockquote>
<i><br /></i>
<i>編集者による注記:この記事はIMF主催のカンファレンス「マクロ経済政策を再考する<第二弾>:初動対応と現段階での教訓」(“Rethinking Macro Policy II: First Steps and Early Lessons”)の模様を回想して書かれたエッセイのトップを飾るものである。</i><br />
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今回IMFが主催したカンファレンスでは「マクロ経済政策の再考」がテーマとして掲げられた(IMF 2013)。私もその場に参加させてもらったわけだが、多くのことを学ぶことができた。カンファレンスの席上でスピーチしてくださったすべての方々に大いに感謝したいと思う。今回のカンファレンス全体の印象を一つのまとまったイメージとして描き出すとどうなるだろうか? 誰かの役に立つかどうかはわからないが、私なりのイメージを語らせてもらうと次のようになるだろう。猫が大木によじ登り、木の上の高い所にじっと居座っている。そしてその猫を頭を抱えて見上げる人々の群れ。そういうイメージだ。言うまでもないだろうが、「猫」というのは2008年以降に我々の身に襲いかかることになった大規模な経済危機を指している。今回のカンファレンスでは「木の上に居座る愚かな猫をどう取り扱うべきか?」「猫を木の上から降ろすためにどうしたらいいだろうか?」という問いを巡って参加者一人ひとりが思うところを吐露したわけだ。その様子を眺めていてとりわけ感銘を受けたのは、「猫」に対するイメージ(「猫観」)が各人ごとで違っており、意見が被るということがなかったことだ。とは言え、延々とすれ違いが続くというわけではなく、時として互いの意見がうまくかみ合う(補強し合う)瞬間が訪れる。今回のカンファレンスを振り返ってみるとそういうイメージが浮かんでくるのだ。今回のカンファレンスで交わされた討論は大変有益なものだったというのが私の感想だが、それというのもどの「猫観」もそれぞれ独自の観点から導き出されたものだったからだ。そしていずれの「猫観」もそれぞれ妥当な根拠に裏付けられている。私自身の「猫観」はどういうものだろうか? 哀れな猫が木の上にいて今にも飛び降りようとしている。しかし、木の下でその様子を眺めている人間たちはどうしていいかわからないでいる。こういう感じになるだろう。<br />
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<b>経済危機に関する私見</b><br />
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それではこの度の危機に関する私なりの考えを具体的に論じていくことにしよう。これまでのところ「猫」の扱いはどのくらい上手くいったと言えるだろうか? これまでに大勢の人々がそれぞれ独自の観点から訴えてきた多様な主張を私なりに少々違った角度から照射してみることにしよう。<br />
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以下では議論の対象を危機以降のアメリカ経済に限定するが、これから論じることはその他の国々にとっても関係してくることだろう。まず何よりも真っ先に取り上げたいのはオスカー・ヨルダ(Oscar Jorda)とモリッツ・シュラリック(Moritz Schularick)、そしてアラン・テイラー(Alan Taylor)の三名の手になる大変優れた共著論文である(Jorda, Schularick&Taylor 2011)。この論文では1870年から2008年までの間に先進14カ国で発生した景気後退が金融危機を伴う景気後退(financial recession)とそうではない(金融危機を伴わない)通常の景気後退(normal recession)の2つのタイプに分類されている。景気後退に先立つブーム期に与信残高の対GDP比はどの程度の値に達したか? (景気後退に先立つ)ブーム期における与信残高の対GDP比の値の違いに応じてその後に発生した景気後退の性質(GDPの落ち込みの程度やGDPの回復ペース)にどういう違いが見られるか? 彼らの論文ではその点について詳しく検証されているわけだが、その検証の結果として実証的に確たる裏付けのある次のような発見が得られている。<br />
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<ul>
<li>金融危機を伴う景気後退は通常の景気後退に比べて落ち込みの程度が大きいだけではなく、その後の景気回復の足取り(景気回復のペース)も鈍い傾向にある。さらには、金融危機を伴う景気後退の中でもその後の景気回復の足取りには違いが見られ、景気後退に先立つブーム期における与信残高の対GDP比の値が高いほどその足取り(景気回復のペース)は鈍い傾向にある。</li>
</ul>
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以上の発見は過去の歴史を振り返るとそうだったという話だ。過去のエピソードの検証を通じて得られた以上の発見は目下の危機についてどのような光を投げ掛けるだろうか? その答えは「与信残高」をどう測るかによって左右されることになる。<br />
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<ul>
<li>民間部門における銀行融資残高で「与信残高」を測った場合(「与信残高」=「民間部門における銀行融資残高」):ピーク時(景気後退入りする前の景気の山の時点)のGDPの水準と景気後退入りして以降のGDPの水準との差に着目すると、2007年以降のアメリカの景気回復局面では過去の似たような事例(景気後退に先立つブーム期における与信残高の対GDP比が同じくらいの値を記録した過去の事例)の平均と比べるとその差は1%程度ほど小さいことがわかる。</li>
<li>民間部門における銀行融資残高にシャドー・バンキング・システムを通じて供与された信用残高を加えた場合(「与信残高」=「民間部門における銀行融資残高」+「シャドー・バンキング・システムを通じて供与された信用残高」):シャドー・バンキング・システムを通じて供与された信用残高も加えるとそれに応じて「与信残高」の対GDP比の値も高まるわけだが、同じくピーク時(景気後退入りする前の景気の山の時点)のGDPの水準と景気後退入りして以降のGDPの水準との差に着目すると、2007年以降のアメリカの景気回復局面では過去の似たような事例の中央値と比べるとその差は4%程度ほど小さいことがわかる。</li>
</ul>
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以上の点について詳しくは論文のグラフ をご覧いただきたいが(訳注1)、金融デリバティブの隆盛に伴って「与信(信用)」(‘credit’)をどう測ればいいのかがますますよくわからなくなってきている面がある。<br />
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デリバティブがリスクヘッジのための手段として機能するようであれば、金融市場がクラッシュしてもデリバティブの存在のおかげでそのインパクトは和らげられることになる。そう予想されることだろう。例えば、クレジット・デフォルト・スワップ(CDS)を購入しておけばお金を貸している相手が債務不履行に陥ってもその煽りを受けて自分も破産してしまうというリスクを避けることができる。そういう意味ではクレジット・デフォルト・スワップは金融市場がクラッシュした場合にそのインパクトを和らげる働きをすると予想されることだろう。その一方で、(クレジット・デフォルト・スワップをはじめとした)デリバティブはギャンブルに近い投機的な活動を後押しする可能性があるという立場に立つと、デリバティブは金融市場がクラッシュした場合のインパクトを増幅する働きをすると予想されることだろう。<br />
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2007年~2008年のアメリカで金融市場がクラッシュした際にはデリバティブは様々な経路を通じてギャンブルに近い投機的な活動を後押しする役割を果たしていた。一般的にはそのように解釈されている。こういう話がよく持ち出されるものだ。(カリフォルニア州の)セントラル・バレーで怪しげな相手に貸し出された複数の住宅ローン(モーゲージ)がひとまとめにしてプールされ、それを担保にあれこれの証券が組成される。そしてそのようにして生み出された証券に格付け機関からAないしはそれ以上の評価が与えられる。デリバティブはかようにして住宅ローンの評価を順繰りに吊り上げる仕組みを生み出すことになったのだ、と。怪しげなジャンクが格付けに影響を及ぼさない環境が用意され、そのためにモーゲージのオリジネーター(住宅ローンの原債権者)は住宅ローンの借り手に頭金を要求するインセンティブも借り手の信用調査を行うインセンティブも失うことになった。頭金の支払いも求めないし信用調査も行わないというケースは実際のところそう珍しくもなかったのである。<br />
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新たなデリバティブが次々と編み出され、そのどれもこれもに高い格付けが与えられる。そのようなことが可能となったのは投資銀行や格付け機関が「受託者」(fiduciary)という立場に伴う高い評判を存分に活用したためだった。デリバティブに備わるこのような(ギャンブルに近い投機的な活動を後押しする)役割を踏まえると、銀行融資残高にシャドー・バンキング・システムを通じて供与された信用残高を加えて「与信残高」を測ったとしてもその指標では金融面の脆弱性を正確に捉えることはできない(金融面の脆弱性の程度が過小評価されることになる)だろうし、その指標に依拠したベンチマーク(金融危機を伴う景気後退が発生した後の景気の落ち込みの程度に関する想定)も控え目なものとなってしまうことだろう。<br />
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<strong>政策の成否を測るベンチマークとしての大恐慌</strong><br />
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2008年の秋頃に世間一般に広まっていた認識は「与信残高」に依拠したベンチマークが控え目なものであることを見抜いていたようだ。政府が介入しなければ(政府が何らかの対策を講じなければ)「大恐慌」級の不況がやって来るだろう。2008年の秋頃にはそのように考えられていた。「大恐慌」がベンチマーク(現状を評価するための物差し、政策の効果を測るための比較対象)として想定されていたわけだ。「大恐慌」というベンチマークに照らして考えると、これまでに手掛けられたマクロ経済政策は「グッド」というにとどまらず「エクセレント」という評価に値すると言えるだろう。アラン・ブラインダー(Alan Blinder)も出色の一冊である『After the Music Stopped』の中でまったく同様の評価を下している(Blinder 2013)。<br />
<br />
これまでに手掛けられた危機への対応策はそのほとんどが「経済を専門とする名医」の処方箋に近いものだったと言える。その具体的な例を列挙すると以下のようになる。<br />
<br />
<ul>
<li>2008年景気刺激法</li>
<li>保険大手のアメリカン・インターナショナル・グループ(AIG)への公的資金の注入(を通じた救済)</li>
<li>ワシントン・ミューチュアルやワコビア、カントリーワイドといった大手金融機関の救済合併</li>
<li>不良資産救済プログラム(TARP)</li>
<li>財務省とFedが中心となって進めた銀行のストレステスト(健全性審査)</li>
<li>Fedによるゼロ金利政策(政策金利をほぼゼロ%の水準にまで引き下げる)</li>
<li>2009年アメリカ復興・再投資法(ARRA)</li>
<li>自動車業界の救済</li>
<li>IMFが主導的な役割を果たしたG20ピッツバーグ・サミットでの合意内容に沿った国際協調(国際的な政策協調)</li>
</ul>
<br />
危機への対応策との絡みで私なりに不満を感じていることもなくはない。<br />
<br />
<ul>
<li>政策の成否は足許の失業率の高さで測るのではなく、ベンチマークとの比較で測るべきだ。景気後退に先立つブーム期に金融面での脆弱性がどこまで高められることになったか、そして金融面での脆弱性が顕在化した後に何の対策も講じずに放っておいたらどうなっていたと考えられるか? そのような想定を通じてベンチマークを拵え、そのベンチマークと現状(何らかの対策が講じられた現実の状況)との比較を通じて政策の成否を測るべきだ。経済学者は世間に向けてそう訴えるべきだったのだ。</li>
</ul>
<br />
(金融面での脆弱性が顕在化した後に何の対策も講じずに放っておいた場合(ベンチマーク)と現状とを比べた上で判断すると)これまでのところマクロ経済政策は成果を上げている。経済学者は世間に向けてそう説明すべきだったのにその任務をうまくこなせずにいる。とは言え、仮に経済学者がきちんと説明していたとしても世間がその説明をすんなりと受け入れたとは限らない。そう考えるに足るそれなりの理由もある。世間一般の人たちはマクロ経済学やマクロ経済の歴史を学ぶ以外にもやるべきことをたくさん抱えているのだ。<br />
<br />
しかしながら、これまでに手掛けられた一連のマクロ経済政策がかなり高い成果を収めたことに気付くためには(マクロ経済学やマクロ経済の歴史に習熟せずとも)ちょっとした良識を働かせるだけでいい。例えば、リーマン・ブラザーズが1ドルの赤字を計上しており、破産裁判所の厄介にならないで済む(経営破綻という事態を避ける)ためには1ドルの黒字に転じるだけでいいとしよう。その場合、今まさに危機が起きようとしている決定的な瞬間を逃さずにわずか2ドルの公費を投じるだけで「大恐慌」級の不況が回避される可能性があることになる。「大恐慌」級の不況を避けるためには2ドルあれば十分というわけであり、この2ドルは「堤防の裂け目に突っ込まれた指」(訳注2)のようなものというわけだ。<br />
<br />
言うまでもないが、実際のところは金融機関を救済するために投じられた公費は2ドルでは済まなかった。そのために必要となる金額はプラスの値になることは避けられないだろうし、その額は最終的には数十億ドルに及ぶ可能性もある。しかしながら、金融機関を救済するために公費を投じたおかげで金融システムのメルトダウンが避けられたことは確かだ。仮に(金融システムのメルトダウンを避けることができず、その結果として)「大恐慌」級の不況に見舞われていたら数兆ドル単位に及ぶGDPが失われていた可能性があるわけだが、そうだとすると不良資産救済プログラム(TARP)の費用対効果は(金融機関を救済するために数十億ドルの公費を投じることで「大恐慌」級の不況(数兆ドル単位のGDPが失われる事態)が回避される可能性があるという意味で)1対1000にも上るということになる。費用対効果が1対1000だというのだから「堤防の裂け目に突っ込まれた指」という喩えを持ち出しても誇張でも何でもないと言えるだろう。<br />
<br />
それに比べるとブッシュ政権とオバマ政権のもとで試みられた財政刺激策(2008年景気刺激法と2009年アメリカ復興・再投資法)は費用対効果の面でいくらか見劣りする。とは言え、効果があったことは確かだ。政府支出乗数の値は今のところ2くらいだと推計されているが、その値は直感的にも納得いくものだ。流動性の罠に嵌っている状況では均衡予算乗数の値は理論的にはおよそ1くらいであり、実証的に見てもそのくらいだと推計されている。減税乗数(租税乗数)の値も同じく1くらいだと推計されている。政府支出乗数は均衡予算乗数と減税乗数の和として求められる。それゆえ政府支出乗数の値は2くらいということになるわけだが、そうだとすると財政刺激策もかなり大きな見返りが期待できる対策であることは確かだと言えるだろう。<br />
<br />
<br />
<strong>結論</strong><br />
<br />
まとめることにしよう。危機の予測という点に関しては経済学者はダメダメだった。その一方で、危機が勃発してからこれまでの間に手掛けられた一連の経済政策は「経済を専門とする名医」の処方箋に近いものだったと言える。そのような一連の経済政策はブッシュ政権およびオバマ政権の両政権を通じて次々と取り入れられたものであり、議会もそれを支持したのだった。<br />
<br />
良い経済学(経済学の教えの中でも質的に優れたもの)も良識(健全な世間知)もこれまでのところかなりうまく働いている。これまでに様々な対策が試みられ、成果もきちんと上がっている。このことは将来への教訓として胸に刻んでおかねばならないだろう。<br />
<br />
<i>編集者による注記:この記事は元々iMFdirectに投稿されたものだが、IMFの許可を得た上で本サイトにも転載される運びとなった。</i><br />
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<span style="font-size: large;"><参考文献></span><br />
<br />
●Blinder, Alan S (2013), <em><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B008EKORIY" target="_blank">After The Music Stopped</a></em>, Penguin.<br />
●IMF (2013), “<a href="http://www.imf.org/external/np/seminars/eng/2013/macro2/index.htm" target="_blank">Rethinking Macro Policy II: First Steps and Early Lessons</a>”, conference, 16-17 April.<br />
●Jorda, Oscar, Moritz Schularick and Alan Taylor (2011), “<a href="http://www.nber.org/papers/w17621" target="_blank">When credit bites back: Leverage, Business Cycles and Crises</a>”, NBER Working Paper Series 17621, NBER.<br />
<br />
<hr />
(欄外訳注1)<br />
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<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjKDb5d4EOSFPz0E0xpq0_DrAaBJ_-BBSPnEhAkxOyD77IvEGRwc7gMmwP4zRjCXTVLhN4nJwZqvlvxxG22WHHyPNfegTaKXEOyQjbqNTdDUKcU6px_N8VI7TCcwJxT6J8k-C_MJKpkIcc/s1600/pic.png" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjKDb5d4EOSFPz0E0xpq0_DrAaBJ_-BBSPnEhAkxOyD77IvEGRwc7gMmwP4zRjCXTVLhN4nJwZqvlvxxG22WHHyPNfegTaKXEOyQjbqNTdDUKcU6px_N8VI7TCcwJxT6J8k-C_MJKpkIcc/s1600/pic.png" /></a></div>
<br />
このグラフはJorda, Schularick&Taylor論文のpp.36にあるFigure. 5 (b) を転載したものである。民間部門における銀行融資残高で「与信残高」を測った場合(「与信残高」=「民間部門における銀行融資残高」)の過去の似たような事例は茶色の線で表されており、民間部門における銀行融資残高にシャドー・バンキング・システムを通じて供与された信用残高を加えた場合(「与信残高」=「民間部門における銀行融資残高」+「シャドー・バンキング・システムを通じて供与された信用残高」)の過去の似たような事例は赤線で表されていると大まかに捉えてもらって構わないだろう。2007年以降のアメリカ経済の軌跡は紫色の線で表されている。縦軸はピーク時(景気後退入りする前の景気の山の時点)のGDPとその時々のGDPとの差を表しており、横軸は景気後退入りしてからの経過年数を表している。曲線が縦軸の0の値に近づくほど景気の復調に伴ってピーク時のGDPとの差が縮まっていることを示している。ちなみに、Jorda, Schularick&Taylor論文の概要は次のVOXの記事で知ることができる。 ●Moritz Schularick and Alan Taylor, “<a href="http://voxeu.org/article/fact-checking-financial-recessions-us-uk-update" target="_blank">Fact-checking financial recessions: US-UK update</a>”(<i>VOX</i>, October 24, 2012)<br />
<br />
(欄外訳注2) 「堤防の裂け目に突っ込まれた指」(finger in the dyke)というのはアメリカの作家であるメアリ・メープス・ドッジの作品『<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4001120054/" target="_blank">銀のスケート-ハンス・ブリンカーの物語</a>』の中の「ハールレムの英雄」という話(堤防の裂け目に自分の指を突っ込んで水漏れを塞ぎ、村が水浸しになることを防いだオランダの少年が主人公のフィクション)に由来する表現のようだ。堤防の裂け目に指を突っ込むという一見些細な行動が大災害を防いだごとくに費用対効果が驚くほど大きい、というような意味が込められているのであろう。voxwatcherhttp://www.blogger.com/profile/10317675353577588272noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2302196195769960775.post-54296028473675811172016-05-31T16:43:00.006+09:002022-10-31T16:10:56.176+09:00Martin Ravallion 「『貧困への目覚め』 ~過去3世紀の間に『貧困』に対する注目はどのような変遷を辿ってきたか?~」<span style="font-size: large;">●Martin Ravallion, “<a href="http://www.voxeu.org/article/poverty-enlightenment-awareness-poverty-over-three-centuries" target="_blank">Poverty Enlightenment: Awareness of poverty over three centuries</a>”(<em>VOX</em>, February 14, 2011)</span><br />
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<blockquote class="tr_bq"><i>世間一般の人々が「貧困」に注目し出してからどれくらいの期間が経っているのだろうか? 1700年以降に出版された書籍の中で「貧困」という単語がどれだけの頻度で使用されているかを調査した結果、次のような事実が明らかになった。1740年から1790年までの間に「貧困」という単語への言及頻度は急増を見せたものの――一度目の『貧困への目覚め』の時代の到来――、19世紀から20世紀の半ばにかけて貧困への注目は徐々に薄らいでいった。しかし、1960年頃を境として、二度目の『貧困への目覚め』の時代が到来するに至っており、「貧困」への注目は今現在も高まり続けている最中である。</i></blockquote><p> </p>
貧困に対する世間一般の注目は、これまでにないほどの高まりを見せていると言えるかもしれない。例えば、以下の図1をご覧いただきたい。この図は<a href="https://books.google.com/ngrams/" target="_blank">Google Books Ngram Viewer</a>の助けを借りて作成されたものだが、「貧困」(“poverty”)という単語が1700年から2000年までの間に出版された書籍の中でどれだけの頻度で使用されているかを調べた結果を表わしている――縦軸に示されているのが頻度の移動平均(その年に出版されたすべての書籍に含まれる総単語数で標準化したもの)――〔原注;Google Books Ngram Viewerは、Michel et al.(2010)によって開発された。デジタル化した上でデータとして保存されている書籍の総数は520万冊、単語の数は5000億ワードを超えている。Google Books Ngram Viewerの長短についてはRavallion(2011)を参照されたい〕。この図によると、1740年から1790年までの間に「貧困」という単語への言及頻度が7倍に増えていることがわかる。この時期は、啓蒙主義の時代が終わりを迎えようとしている頃――フランスとアメリカで革命(フランス革命とアメリカ独立戦争)が発生した時期――にあたるわけだが、貧困に対する注目が急速な勢いで高まりを見せた「貧困への目覚め」(“Poverty Enlightenment”)の時代としても特徴付けることができるわけだ。その後の19世紀から20世紀の半ばにかけて、貧困に対する注目は衰えを見せることになるが、1960年頃を境として二度目の「貧困への目覚め」の時代(second Poverty Enlightenment)に突入することになる。1960年頃を境として、突如として貧困への注目が再燃し、「貧困」という単語への言及頻度が(データが利用できる最新の年である)2000年の時点でこれまでのピークに達しているのだ。<br />
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<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiRGqos_a4Jx9PhW7vCrVK8y01ArPHrZWwqYKO38LbLNorLKp3eAOkFPmttlLqXlypd-phGkB1U9oXS-CQx3q3lY-0rlqXvv4-dRKR-luKSN8lA3CvE1ngbaf7ChzsiKbjQ7MlkwRH4OCM/s1600/RavillionFig11.gif" style="clear: left; float: left; margin-bottom: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="192" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiRGqos_a4Jx9PhW7vCrVK8y01ArPHrZWwqYKO38LbLNorLKp3eAOkFPmttlLqXlypd-phGkB1U9oXS-CQx3q3lY-0rlqXvv4-dRKR-luKSN8lA3CvE1ngbaf7ChzsiKbjQ7MlkwRH4OCM/w528-h192/RavillionFig11.gif" width="528" /></a></div>
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<div style="text-align: center;"><b><br /></b></div><div style="text-align: center;"><b><br /></b></div><div style="text-align: center;"><b><br /></b></div><div style="text-align: center;"><br /></div><div style="text-align: center;"><br /></div><div style="text-align: center;"><br /></div><div style="text-align: center;"><br /></div><div style="text-align: center;"><div><b>図1</b>. 「貧困」という単語への言及頻度 (1700年から2000年までの間に出版された英語圏の書籍が対象)</div><div style="text-align: left;"><br /></div></div><div style="text-align: left;"><br /></div>
2度にわたる「貧困への目覚め」の時代の背後では、どのような事態が進行していた(いる)のだろうか? つい最近の論文(Ravallion 2011)で、驚くべき速さで単語をカウントする能力を備えたGoogle Books Ngram Viewerの助力を得つつ、過去のテキストの読解――私自身の能力の制約もあって、だいぶ時間を要したが――を通じて、私なりにこの問いへの答えを探ってみた。その結果の一部を以下で報告することにしよう。<br />
<br />
<strong>一度目の「貧困への目覚め」</strong><br />
<br /><div>サミュエル・フライシャッカー(Samuel Fleischacker)が2004年に公にした著作(Fleischacker 2004)では、分配的正義(distributive justice)というアイデアの歴史がものの見事に跡付けられているが、その中(pp.7)では次のように語られている。前近代の時代においては「貧困層は、ひどい欠点を抱えた無価値な存在と見なされていた」。例えば、ロバート・モス(Robert Moss)は、18世紀初頭にこう述べている。貧乏人は「自らが置かれている状況に満足すべきである。というのは、貧乏人がかくのごとくであるのは、神の望むところだからだ」。また、フランスの医師でありモラリストでもあったフィリップ・エッケ(Philippe Hecquet)は、1740年に次のように書いている。「貧乏人は、絵の中の影のようなものである。なくてはならないコントラストの役割を果たしているのだ」。「どうして貧困が発生するのか?」という問いに対する答えとしては「神の意志」が持ち出されるか、一人ひとりが抱える私的な問題――怠惰をはじめとした性格面での欠点――に目が向けられがちだった。飢え(空腹)は好ましいことだという意見さえあった。空腹だからこそ(空腹を満たしたいと思うからこそ)、貧乏人は働く気になるというのだ。</div><div><br /></div><div>18世紀後半に入ると、特にフランスにおいて、従来の社会的な階級構造を疑問視する声が次第に上がり始めるようになる。ピエール・ド・ボーマルシェ(Pierre Baumarchais)が1784年に書いた戯曲『フィガロの結婚』がそのいい例だが、パリの聴衆たちは、召使のフィガロの側について貴族を嘲笑したのだった。フランスで芽生え始めた平等主義の精神は、やがてイギリス海峡を渡ることになるが、頑(かたく)なな抵抗に遭うケースもしばしばだった。例えば、イギリスにおける近代警察の生みの親であるパトリック・カフーン(Patrick Colquhoun)は、1806年にこう書いている。貧困は「社会を成り立たせる上で、最も必要で欠かせない要素である。貧困と無縁な国家や共同体は、文明の地位に辿り着くことはできない」。</div><div><br /></div><div>貧困というのは、自然的秩序の表れ(自然法則の帰結)ではなく、政治・経済的な現象であるとの認識が広まるにつれて、一度目の「貧困への目覚め」の時代が到来し、貧困層自身も貧困からの脱出を意識し始めるようになる。しかしながら、書籍の上では依然として「貧困は、多かれ少なかれ避けることのできない(受け入れざるを得ない)この世の現実である」との見方が支配的であり、それは18世紀~19世紀の経済学の世界でも同様だった。当時の経済学者の中には、貧困は経済が発展する上で必須の条件と見なす者もいた。そのような経済学者も、実質賃金が上昇すれば貧困の削減につながることは否定しなかったものの、実質賃金が上昇すると富の蓄積が妨げられることになるかもしれないと懸念したのだった。実質賃金が高まれば、労働の供給が減るばかりか、輸出面での競争で不利な立場に立たされ、さらには労働者が贅沢品に夢中になって(仕事に身が入らずに)労働の質が低下するかもしれないというのである――輸出面での競争で不利な立場に立たされると、富の蓄積が妨げられることになるとの発想の背後には、重商主義的な世界観が控えていた――。また、トマス・マルサスが、生態学的な危機の到来を予測し、人口の増加は貧困と飢饉(食糧不足)によってしか食い止められないと語ったことも有名である。社会進歩の可能性についてマルサスよりもずっと楽観的だったアダム・スミスも、経済発展(経済成長)の果実が社会各層に公平に行き渡る(分配される)可能性についてはそれほど大きな望みを抱いていなかった。スミスは、こう語っている(Smith 1776, pp.232)。「大いに繁栄している地域においてはどこであれ、格差もまた大きいものだ。1人の大金持ちに対して貧乏人が少なくとも500人はいるのが通例であり、少数の豊かさには多数の貧しさが伴っているのだ」。</div>
<br />
<strong>二度目の「貧困への目覚め」</strong><br />
<br /><div>現代的な意味での「分配的正義」の発想――「社会に生きるすべての人に最低限度の生活水準が保障されるべきである」との発想――が(粗いかたちではあれ)その姿を表わしたのは、18世紀後半の西欧世界においてだったが、その後の170年間を通じてこの発想は世間から徐々に忘れ去られることになる。とは言え、学術的な文献に目を向けると、その微(かす)かな命脈を確認することができる。19世紀から20世紀への転換期において、経済学者のアルフレッド・マーシャルは、『経済学原理』(1890)の巻頭(pp.2)で次のように問い掛けている。「貧困はこの世にとって必要なものだとする発想は、過去の遺物ではなかったのか?」</div><div><br /></div><div>しかしながら、世間の注目が再び貧困に向けられ、現代的な意味での「分配的正義」の発想に広い支持が寄せられるまでには、1960年代に入って二度目の「貧困への目覚め」の時代が到来するのを待たねばならなかった。その中心的な舞台となったのは、アメリカである。物質的な豊かさを享受していた20世紀中頃のアメリカで――公民権運動の盛り上がりに次ぐかたちで――、貧困が「再発見」されるに至ったのである。そのような動きを後押しする上で大きな役割を果たしたのが、当時の論壇を賑わせたJ・K・ガルブレイス(John Kenneth Galbraith)の『ゆたかな社会』(1958)や、マイケル・ハリントン(Michael Harrington)の『もう一つのアメリカ』(1962)――どちらも当時ベストセラーになった――といった一連の著作だった。政府もこのような世間の風潮に反応し、「貧困との戦い」(War on Poverty)を旗印にしたリンドン・ジョンソン政権下で、貧困家庭に対する支援をはじめとした数々の社会プログラムが導入されることになったのである。</div><div><br /></div><div>ガルブレイスやハリントンらの著作が大きな影響を持ち得た理由の一つは、著作が発表されたタイミングが時宜(じぎ)を得ていたからというのもあるだろう。1950年代~1960年代のアメリカでは、国民の大多数が豊かな生活を手に入れることになったが、それゆえにこそ、貧困という問題を見過ごして平然としていることがますます難しくなっていったのである。それに加えて、当時は楽観的な雰囲気が充満しており、貧困の削減に向けた政策の効果についても同様に楽観的に捉えられていた。しかしながら、1980年代に入ると、右派の側から反撃の狼煙(のろし)が上げられ――チャールズ・マレー(Charles Murray)の『Losing Ground』(1984)がその代表――、その勢いは1990年代における一連の福祉改革(社会保障制度の改革)へとつながることになる。「貧困との戦い」(“War on Poverty”)が宣言されたと思いきや、その30年後に「福祉との戦い(福祉政策の縮小に向けた戦い)」(“War on Welfare”)が宣言されるに至ったわけだ。貧困の問題についてはその原因や適切な政策対応を巡って現在でも世界中で議論が続いているが、その多く――例えば、貧しさの原因のどの程度がその人(貧困層)自身にあると言えるのかといった問題を巡る論争――は、200年前(一番目の「貧困への目覚め」の時代)の論争の焼き直しという面を強く持っている。</div><div><br /></div><div>20世紀後半に入って貧困に対する世間一般の注目が再び高まりを見せている理由は、他にもある。そのうちの一つは、発展途上国の広い範囲で厳しい貧困状態が蔓延(はびこ)っている事実が徐々に世界中の人々の目に留まり始めたことである。そのような気運が醸成されたのは1970年代に入ってからのことだが、開発政策の専門家に強い影響を及ぼしたのが、世界銀行が1990年に刊行した『世界開発報告』(World Development Report)である。それ以降、世界銀行は「貧困のない世界」(“world free of poverty”)の実現を最重要目標に掲げ、専門家の間で貧困問題に関する実証研究が活発に行われるようになったのである。</div>
<br />
<strong>貧困と政策:貧困の削減に向けて</strong><br />
<br /><div>過去3世紀の間に、貧困に対する世間の見方は大きなシフトを見せた。貧困の現実を現状肯定的に受け入れたり、貧困層を軽蔑しさえする態度が支配的な時代もあったが、今現在はそうではない。社会や経済ないしは政府の成績(善し悪し)は、貧困の削減にどの程度成功しているかによって少なくとも部分的には評価すべきだというのが現在の支配的な見方である。このようなシフトが生じた理由としては、いくつか考えられるだろう。世界経済が全般的に豊かになったことで、貧困という問題を見過ごして平然としていることがますます難しくなったという事情もあるだろうし、民主主義の広がりによって貧困層の声が政治に反映されやすくなったという事情もあるだろう。貧困に関する研究の進展に伴って、効果的な政策対応を可能とする知識の蓄積が進んだということもあろう。</div><div><br /></div><div>過去3世紀の間には、(貧困の削減に向けた政府介入の有効性をはじめとして)市場と政府の役割に対する態度の面でも大きなシフトが生じた。第二次世界大戦後の(Tanzi and Schuknecht(2000)が語るところの)「政府介入の黄金時代」(“golden age of government intervention”)においては、(貧困の削減に向けた政策も含めて)幅広い範囲で政府による(市場への)介入が試みられたが、1970年代の後半以降になると、それまでの流れに反発して政府の役割の縮小を求める動きが――経済問題の解決に向けた政府の介入には限界があることを明らかにした政治経済学方面の研究や、積極的で精力的な政治運動に支えられるかたちで――勢いを増し始めることになったのである。</div><div><br /></div><div>論争の行方や制度改革の方向性は右へ左へと揺れ動いているが、Google Books Ngram Viewerを用いた文献解析によると、「政府介入の黄金時代」の終焉にもかかわらず、貧困に対する世間一般の関心はそれほど薄らいではいないようである。それどころか、「貧困」や「格差」(inequality)といった単語への言及頻度は、20世紀後半を通じてはっきりとした増加傾向を辿っており、1980年代以降に入って、「社会政策」(social policies)や「社会保障(社会的保護)」(social protection)、「市民社会団体」(civil society organisations)といった単語への言及頻度が急速に増えているのだ――その理由のいくらかは、貧困や格差に対する世間一般の関心の高まりに求められるに違いない――(Ravallion 2011)。</div><div><br /></div><div>今現在、貧困に対する世間一般の注目はこれまでにないほどの高まりを見せているわけだが、この気運をどうやって効果的な行動(取り組み)に結実させたらよいかとなると、それはまた別の問題である。二度目の「貧困への目覚め」の時代においては、意見の不一致があちこちで起こり、貧国の削減に向けた取り組みも成功ばかりではなく失敗もあった。19世紀の大半を通じてと同様に、今現在おいてもまた、政府介入に懐疑的な見方が力を持ち始めている。しかしながら、励みになる事実もある。「貧困は、逃れようのない現実であり、受け入れざるを得ないのだ」という19世紀に支配的だった現状肯定的な態度が蘇るところまでは至っていないのだ。</div>
<br />
<br />
<span style="font-size: large;"><参考文献></span><br />
<br />
●Fleischacker, Samuel (2004), <a href="http://www.amazon.co.jp/dp/0674018311/" target="_blank"><em>A Short History of Distributive Justice</em></a>, Harvard University Press.<br />
●Galbraith, John Kenneth (1958), <em><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/0395925002/" target="_blank">The Affluent Society</a></em>(邦訳 『<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4006031378/" target="_blank">ゆたかな社会 決定版</a>』), Mariner Books.<br />
●Harrington, Michael (1962), <em><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/068482678X/" target="_blank">The Other America: Poverty in the US</a></em>(邦訳 『<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/B000JAC7VG" target="_blank">もう一つのアメリカ-合衆国の貧困</a>』), Macmillan.<br />
●Michel, Jean-Baptiste, Yuan Kui Shen, Aviva P Aiden, Adrian Veres, Matthew K Gray, The Google Books Team, Joseph P Pickett, Dale Hoiberg, Dan Clancy, Peter Norvig, Jon Orwant, Steven Pinker, Martin A Nowak, and Erez Lieberman Aiden (2010), “<a href="http://www.sciencemag.org/content/331/6014/176.abstract" target="_blank">Quantitative Analysis of Culture Using Millions of Digitized Books</a>”, <em>Science</em>, 16 December.<br />
●Marshall, Alfred (1890), <a href="http://www.amazon.co.jp/dp/0230249299/" target="_blank"><em>Principles of Economics</em></a> (8th edition, 1920)(邦訳 『<a href="http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_sb_noss_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&url=search-alias%3Dstripbooks&field-keywords=%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%80%80%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%AD%A6%E5%8E%9F%E7%90%86" target="_blank">経済学原理</a>』), Macmillan.<br />
●Murray, Charles A (1984), <a href="http://www.amazon.co.jp/dp/0465065880/" target="_blank"><em>Losing Ground. American Social Policy 1950-1980</em></a>, Basic Books.<br />
●Ravallion, Martin (2011), “<a href="http://elibrary.worldbank.org/doi/book/10.1596/1813-9450-5549" target="_blank">The Two Poverty Enlightenments: Historical Insights from Digitized Books Spanning Three Centuries</a>”, Policy Research Working Paper 5549, World Bank.<br />
●Smith, Adam (1776), <a href="http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_sb_noss?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&url=search-alias%3Denglish-books&field-keywords=An+Inquiry+into+the+Nature+and+Causes+of+the+Wealth+of+Nations&rh=n%3A52033011%2Ck%3AAn+Inquiry+into+the+Nature+and+Causes+of+the+Wealth+of+Nations" target="_blank">An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations</a>(邦訳 『<a href="http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_sb_noss?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&url=search-alias%3Dstripbooks&field-keywords=An+Inquiry+into+the+Nature+and+Causes+of+the+Wealth+of+Nations&rh=n%3A465392%2Ck%3AAn+Inquiry+into+the+Nature+and+Causes+of+the+Wealth+of+Nations" target="_blank">国富論</a>』), in Edwin Cannan (ed.), <em>The Wealth of Nations</em>, Chicago University Press.<br />
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●World Bank (1990), <a href="http://econ.worldbank.org/external/default/main?pagePK=64165259&theSitePK=469372&piPK=64165421&menuPK=64166093&entityID=000425962_20130228141712" target="_blank"><em>World Development Report: Poverty</em></a>, Oxford University Press.<br />voxwatcherhttp://www.blogger.com/profile/10317675353577588272noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2302196195769960775.post-40507005086697309622015-02-05T23:06:00.000+09:002015-02-05T23:09:21.715+09:00Jonathan Portes 「『ケインジアン』ってどういう意味?」<span style="font-size: large;">Jonathan Portes, “<a href="http://www.voxeu.org/article/what-does-keynesian-really-mean" target="_blank">Fiscal policy: What does ‘Keynesian’ mean?</a>”(<i>VOX</i>, February 7, 2012)</span><br />
<br />
<blockquote class="tr_bq">
<i>「ケインジアン」という言葉には一体どのような意味が込められているのだろうか? 経済学のその他の用語と同様に、「ケインジアン」という言葉も政争の具とされている感を強く受ける。そのために政策論争が不毛なものとなり、その結果として何百万もの雇用がいたずらに失われる羽目になっているのだ。</i></blockquote>
<br />
少しばかり私自身の個人的な経歴に触れさせてもらうが、1987年にイギリスの大蔵省で職を得た後、私は経済学を学ぶために一時的にプリンストン大学の門を叩いた。そこではロゴフ(Kenneth Rogoff)やキャンベル(John Campbell)から教えを受けたが、その後は再びイギリスに戻り、2008年に金融危機が勃発した際には内閣府で首相に経済政策に関してアドバイスを送る立場にあった。これまでの歩みを振り返ると、この間に自分自身のことを「ケインジアン」と考えたことが一度もなかったことに気付く。そもそも「ケインジアンかどうか?」と問うこと自体意味がなかったのだ。それはあたかも物理学者に対して「あなたはニュートン主義者ですか?」と問うようなものだったのだ。ケインズは偉大な存在であり(20世紀のイギリスを代表する最も偉大な人物の一人であることは間違いない)、彼の洞察を理解せずしてマクロ経済学を理解することはできなかったのである。しかしながら、そのような状況にも徐々に変化の波が押し寄せることになったのであった。<br />
<br />
2008年に金融危機が勃発する以前の時期を振り返ると、イギリスの大蔵省ではマクロ経済を管理する術を巡って次のような見解が広く支持されていた。財政政策は確かに重要ではあるが、総需要を管理する術として利用するのは――実践上の理由からして――賢明ではない。総需要を管理する術としては財政政策よりも金融政策の方が優れている。というのも、金融政策の方が小回りが利き、透明性が高く、政治的な圧力によって歪みが生じる恐れが小さいからだ。このような見解に対して理論的な後ろ盾を与えたのがナイジェル・ローソン(Nigel Lawson)が1984年に行ったかの有名な<a href="http://www.margaretthatcher.org/document/109504" target="_blank">メイズ講演</a>である。当の私自身もこの見解を全面的に支持していた。<br />
<br />
しかしながら、金融危機を経た2008年以降の世界では事情は少々複雑になっている。というわけで、ここで問うことにしよう。「ケインジアン」という言葉には一体どういった意味が込められているのだろうか? その候補としてはいくつか考えられるだろう。<br />
<br />
<br />
<b>定義<その1></b><br />
<br />
時計の針を1930年代まで戻すことにしよう。その当時ケインズはいわゆる「大蔵省見解」(‘Treasury View’)に明確に異を唱えた(「大蔵省見解」はしばしば「セイの法則」――供給はそれ自らの需要を生み出す――と同一視されることがあるが、そのような捉え方は幾分不公平ではある。ともあれ、「大蔵省見解」を巡る過去の論争の概要については<a href="http://crookedtimber.org/2011/11/22/blogging-the-zombies-expansionary-austerity-birth/" target="_blank">Quiggin(2011)</a>を参照されたい)。「大蔵省見解」によると、財政政策は「会計上の恒等式」の制約ゆえに総需要に影響を及ぼすことはできないとされる。政府が支出を増やすためには課税ないしは国債の発行(借り入れ)を通じて市中に出回っているお金を調達してこなければならず、政府が支出に回せるお金が増えると民間部門ではそれと同額だけ支出に回せるお金が減るというのである。さて、ここで「ケインジアン」の定義<その1>が得られることになる。「ケインジアン」というのは「大蔵省見解」――財政政策は「会計上の恒等式」の制約ゆえに総需要に影響を及ぼすことはできない――を受け入れない人々というわけだ。どうやらジョン・コクラン(John Cochrane)は「ケインジアン」をこのように定義付けているようだ(<a href="http://faculty.chicagobooth.edu/john.cochrane/research/papers/fiscal2.htm" target="_blank">Cochrane 2009</a>)。彼は次のように書いている。<br />
<br />
<blockquote class="tr_bq">
まず第一に、お金が新たに発行されないとすれば、市中に出回っているお金をどこかから調達してこなければならない。政府があなたから1ドルを借り入れたとすれば、あなたの手を離れたその1ドルは消費に回されることもなく、企業に貸し出されることも(そしてその企業が設備投資を増やすことも)ない。つまりは、政府支出が増えた分だけ民間部門で支出が減らねばならないのだ。政府支出が増えたおかげで新たに雇用が生まれたとしても民間部門で支出が減るおかげで別のところで雇用が失われることになるのだ。財政刺激策を通じて道路を建設することは可能だが、その代わり民間部門で工場の建設が取り止められることになる。道路も工場もどちらもともに建設することはできないのだ。このようにして「クラウディング・アウト」が発生するのは会計上の必然的な結果に過ぎず、経済主体の行動についてどういった想定を置こうとも結論は左右されないのだ。</blockquote>
<br />
読者もよくご存知だとは思うが、コクランのこの主張をきっかけとして経済学ブログの世界でクルーグマン(Paul Krugman)やデロング(Brad Delong)らを中心として激しい論争が巻き起こることになった。例えば、サイモン・レン-ルイス(Simon Wren-Lewis)はコクランに対して「学部レベルの間違いを犯している」と手厳しい批判を加えている(<a href="http://mainlymacro.blogspot.jp/2012/01/mistakes-and-ideology-in-macroeconomics.html" target="_blank">Wren-Lewis 2012a</a>)。デロングらが指摘しているように、その後コクランは当初の意見を幾分か引っ込めたようである(<a href="http://johnhcochrane.blogspot.com/2012/01/stimulus-and-etiquette.html" target="_blank">Cochrane 2012</a>, <a href="http://delong.typepad.com/sdj/2012/01/john-cochrane-says-john-cochrane-used-to-be-a-bullshit-artist.html" target="_blank">Delong 2012</a>)。アメリカでの学者間での論争はともあれ、私自身は定義<その1>に照らす限りでは――「大蔵省見解」に与しないという意味で――紛れもなく「ケインジアン」である。しかしながら、この意味では誰もが皆――現在のイギリス大蔵省を含めて――「ケインジアン」ということになるだろう。「財政政策は定義上(「会計上の恒等式」の制約ゆえに)総需要に影響を及ぼすことはできない」と本気で信じている人は現在では誰一人として――誇張でも何でもなく本当に誰一人として――いないのだ。<br />
<br />
<br />
<b>定義<その2></b><br />
<br />
もう少しもっともらしくて標準的な用法にも沿った「ケインジアン」の定義は次のようになるだろう。財政政策は(理論上の話にとどまらず)「実証的にも」(実際にも)総需要にかなり大きな影響を及ぼすと信じる人々、それが「ケインジアン」だというものである(定義<その2>)。それとは対照的な立場に立つのが「リカードの等価定理」(‘Ricardian equivalence’)を信奉する人々である。「リカードの等価定理」によると、政府支出や政府の借り入れに変化が生じても民間部門においてその変化を打ち消すような行動が引き起こされ、その結果総需要はほとんどないしはまったく影響を受けないとされる。比較的最近になって提唱され出した「拡張的な財政緊縮」(‘expansionary fiscal contraction’)と呼ばれる考えはもっと先鋭的な立場である。「拡張的な財政緊縮」の立場に立つ論者によると、(財政再建に向けた)財政緊縮策は為替レートの減価や民間部門における信頼感の改善を通じて総需要の拡大および経済成長の加速をもたらし得るとされる。この見解を流布する上で特に強い影響を持ったのが2009年に発表されたアレシナ&アルダーニャ論文(<a href="http://www.nber.org/papers/w15438" target="_blank">Alesina and Ardagna 200</a>9)であり、(あくまでも些細で一時的なものだとは思うが)その影響はイギリス大蔵省にも及んでいる。例えば2010年の緊急予算には次のような記述が見られる。<br />
<br />
<blockquote class="tr_bq">
財政再建に向けた財政緊縮策は民間部門の行動に変化を促す可能性があるが、民間部門におけるそのような行動の変化は総需要を刺激し、経済パフォーマンスの改善を後押しする方向に作用する可能性がある。そういったポジティブな効果は財政緊縮に伴って直接的に生じるネガティブな効果を上回ることもあり得る。</blockquote>
<br />
私が知る限りではイギリス大蔵省がこのような見解を表明した機会はこれ一度きりのようだ。それも頷けるところである。というのも、現実の証拠は「拡張的な財政緊縮」論が説くところとは正反対の結果を指し示しているからだ。アレシナ&アルダーニャ論文に対してはこれまでに多くの学者から疑問が呈されており、その後のIMF(国際通貨基金)の研究によってその結論が否定されてもいる。さらに重要なことには、「拡張的な財政緊縮」論を裏付けるようなエピソードを各国中探してもそういった事実はほとんど見当たらないのである。「拡張的な財政緊縮」論の妥当性に関する現在の通念はIMFがまとめている通りだと言っていいだろう。IMFは2010年10月の段階で既にこう結論付けている(詳しくは<a href="https://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2010/02/pdf/c3.pdf" target="_blank">こちら</a>(pdf)を参照されたい)。<br />
<br />
<blockquote class="tr_bq">
財政再建は短期的には経済成長の減速をもたらす傾向にある。今回新たなデータを用いて検証したところ、GDP比で1%に相当する規模の財政緊縮(財政赤字の縮小)はそれ以降の2年の間に生産量(実質GDP)をおよそ0.5%だけ落ち込ませ、失業率を3分の1(0.333…)%だけ引き上げる傾向にあるとの結果が得られた。</blockquote>
<br />
その後、IMFはどちらかというとこの結論を強調する姿勢を見せている。例えば、IMFのチーフエコノミストであるオリビエ・ブランシャール(Olivier Blanchard)はつい最近次のように語っている。<br />
<br />
<blockquote class="tr_bq">
「短期的に見ると財政再建は総需要の足かせとなることは疑いない。ということはつまり経済成長の足かせともなるということだ。」(<a href="http://blog-imfdirect.imf.org/2012/01/24/driving-the-global-economy-with-the-brakes-on/" target="_blank">Blanchard 2012</a>)</blockquote>
<br />
定義<その2>に照らす限りでは――財政政策は実際にも総需要に影響を及ぼすという見解を支持するという意味で――私自身はやはり「ケインジアン」である。しかしながら、この意味ではIMFの専務理事やチーフエコノミストも同じく「ケインジアン」である。それだけにとどまらない。イギリス大蔵省やイングランド銀行、イギリス予算責任局も「ケインジアン」に括られる。これらいずれの機関のマクロ計量モデルにも財政乗数が組み込まれているし、これらの機関で働く上級職員の中で財政再建に向けたこれまでの取り組みが実際問題としてイギリス経済の成長を鈍化させる効果を持ったことを否定する者はおそらくいないだろう。例えば、2011年11月に開催された(イングランド銀行の)金融政策決定会合の<a href="http://www.bankofengland.co.uk/publications/minutes/Documents/mpc/pdf/2011/mpc1111.pdf" target="_blank">議事要旨</a>(pdf)には次のような文言が見られる。<br />
<br />
<blockquote class="tr_bq">
昨年1年間を通じてGDPの伸びは弱々しいものだったが、その理由は家計の実質所得の落ち込みや資金の借り入れが困難な状況が続いていること、そして長引く財政再建の影響に求められると思われる。</blockquote>
<br />
<b>定義<その3></b><br />
<br />
定義<その1>と定義<その2>に照らす限りでは私は間違いなく「ケインジアン」だと言えるわけだが、しかしそれと同時に真面目に取り合うべき人々のあまりにも多くもまた「ケインジアン」ということになってしまうだろう。目下の政策論争の場で「ケインジアン」とそれ以外を区別するために用いられている定義はもう少し狭く限定されたものであり、これまでの2つの定義と比べるとずっと「政治的」な色合いが強いものだと言えるかもしれない。その定義というのは次のようなものだ。「今現在のイギリス経済(あるいアメリカ経済)が置かれている状況を踏まえると、財政再建のペースを遅らせることが好ましい」。そう考えるのが「ケインジアン」だというのである(定義<その3>)。しかしながら、個人的にはこの定義は色々と問題を抱えていると思う。そう考える理由は二つある。まず一つ目の理由は、「ケインジアン」という言葉が何らかの意味を備えるべきだとしたら、特定の時期に特定の国で議論の対象となっている特定の政策についての立ち場を指し示すための言葉として用いられるのではなく、もっと普遍的な意義を持った言葉であるべきだと思われるのだ。独自の哲学というか理論的な見解――少なくとも実証的な証拠を解釈する仕方――を指し示すための言葉であるべきなのだ。<br />
<br />
二つ目の理由はもっと重要である。「拡張的な財政緊縮」論の妥当性には今や疑問符が付いているわけだが、そうだとすると「財政再建のペースを遅らせるべきだ」と語る陣営と「そのような決定(財政再建のペースを遅らせること)は大きな危険を伴う過ちと言わざるを得ない」と語る陣営との間の争点は財政再建のペースを遅らせることで経済に好ましい効果(訳注;財政再建のペースが遅らされることで財政緊縮策を原因とした景気の減速が和らげられる)が生じるかどうかという点にはないということになる(両陣営ともに好ましい効果が生じるという点に異論はない)。真の争点は財政再建のペースが遅らされることでマーケットが政府に対する「信頼」を失い、その結果として長期金利が跳ね上がるリスクがあるかどうか、そして長期金利が急騰した場合に経済に及ぶ損害は財政再建のペースを遅らせることに伴う好ましい効果を凌駕する可能性があるかどうかという点にあるのだ。<br />
<br />
(財政再建のペースを遅らせることで)長期金利が跳ね上がるリスクはかなり誇張されており、財政再建のペースを遅らせた結果としてどのような事態が生じ得るかについて綿密な検討が加えられている様子はあまり見受けられないように個人的には感じるわけだが(この点について詳しくは<a href="http://www.newstatesman.com/economy/2011/08/interest-rates-debt-government" target="_blank">Portes(2011a)</a>および<a href="http://blogs.spectator.co.uk/coffeehouse/2011/10/another-voice-against-austerity/" target="_blank">Portes(2011b)</a>を参照されたい)、果たしてどちらの陣営が正しいのかという話は少なくともここでの文脈ではどうでもいいことなのだ。両陣営の間で繰り広げられている論争にケインジアンかどうかという区別はまったく関係ないという点をこそ指摘したいのだ。マーケット全体が合理性を欠いた振る舞いを見せる可能性にどう取り組んだらよいか、格付け機関の役割についてどう考えるべきか、複数均衡の問題にどう対処したらよいか等々ここには多くの問題が控えているわけだが、こういった一連の問題についてどちらか一方の立場を表明したからといって「私はケインジアンだ」「お前はケインジアンではない」といったように截然と区別されるわけではないのである。<br />
<br />
最後になるが、かつてイギリスの大蔵省に勤めていた際に学んだ経験との絡みで一点だけ指摘しておこう。かつての大蔵省でもそうだったのだが、総需要が極めて低調である際には財政政策ではなく金融政策(金融緩和)で対応するのが望ましいといった見解は今でも広く支持されている。この話題については経済学ブログの世界でも盛んに議論の対象となっている(とっかかりとしては<a href="http://www.economist.com/blogs/freeexchange/2012/01/monetary-policy" target="_blank">Economist(2012)</a>をご覧になられるといいだろう)。この話題に関する私の基本的な姿勢は正直言って変わった。過去20年間にわたって大蔵省を支配していた見解――総需要を管理する上で財政政策が果たすべき役割はない――には最早与してはいないのだ(とは言え、真っ先に財政政策に手を付けるべきだとまでは考えていない)。この点についてはサイモン・レン-ルイス(<a href="http://mainlymacro.blogspot.jp/2012/01/return-of-schools-of-thought-macro.html" target="_blank">Wren-Lewis 2012b</a>)が優れた要約(特に最後から2番目のパラグラフ)を行っているのでそちらもあわせてご覧になられたい。<br />
<br />
総需要を管理する上では(財政政策よりも)金融政策の方が適しているという見解自体もそもそもは理論的な裏付けがあったわけではなく一種のプラグマティズム(pragmatism)にその根拠を持っていたわけだが、この話題に関して私が基本的な姿勢を変えた理由もそれと同様の事情からである。実際問題として総需要を刺激する上で金融政策単独で十分なのだとしたら、イギリス経済は今のような状況――失業率が自然失業率の推計を大きく上回っており、近い将来にこの状態が改善される見込みが薄い状況――にはそもそも置かれてはいないはずである。別のところでも触れたが(<a href="http://www.niesr.ac.uk/blog/largest-and-longest-unemployment-gap-wwii#.VGp6hTSsWQk" target="_blank">Portes 2012</a>)、今のこのような状況(ひいては今のような状況をもたらしている総需要管理政策)は政策当局者の納得を得られるような代物では到底ないのだ。<br />
<br />
私が姿勢を変えたのはイデオロギー上の理由からではない。現実の世界およびマクロ経済学はこれまでに想定していた以上にずっと複雑なものだという事実を真摯に受け止めた結果としてそうなったのだ。どうやらブランシャールも私と同じ立場を共有しているようだ。彼は次のように語っている(<a href="http://blog-imfdirect.imf.org/2011/03/13/future-of-macroeconomic-policy/" target="_blank">Blanchard 2011</a>)。<br />
<br />
<blockquote class="tr_bq">
金融危機後の世界はまったく新しい世界である。政策決定者の目の前に広がる光景はこれまでとはガラリと変わっている。まずはこの現実を受け入れねばならない。・・・(中略)・・・マクロ経済政策(とりわけ財政政策と金融政策)が追い求めるべき目標の数は一つではなく複数存在している。そしてその複数ある目標を達成するために使用し得る手段も複数存在しているのだ。</blockquote>
<br />
マクロ経済政策のあるべき姿を探る上ではプラグマティックな観点に立って何事も疑ってかかる姿勢を忘れないこと――そして現実の証拠の裏付けを徹底して追い求めること――。それこそが私の理想とする態度である。ケインズが今も生きていたとしたらおそらく彼も私に同意してくれるに違いない。<br />
<br />
<br />
<span style="font-size: large;"><参考文献></span><br />
<br />
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●Economist (2012), “<a href="http://www.economist.com/blogs/freeexchange/2012/01/monetary-policy" target="_blank">The zero lower bound in our minds</a>”, 7 January.<br />
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●Portes, J (2012), “<a href="http://www.niesr.ac.uk/blog/largest-and-longest-unemployment-gap-wwii#.VGp6hTSsWQk" target="_blank">The largest and longest unemployment gap since World War 2</a>”, blogpost, January.<br />
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<br />
<blockquote><i>2002年から2008年にかけて原油価格が高騰したにもかかわらず、1970年代のように惨憺たる結果が招かれることはなかった。それはなぜなのだろうか? その理由はいくつか考えられる。i)先進国で省エネ化が進んだため ii)実質賃金の伸縮性が高まったため iii)経済全体に占める自動車産業のシェアが縮小したため iv)金融政策がコアCPIに重きを置いて運営されるようになったため v)原油価格が高騰した原因が、供給サイドにではなく、需要サイドにあったため。</i></blockquote>
<br /><div>アメリカ経済は、2002年の終わりから2008年の半ばにかけて、大規模なオイルショックに見舞われることになった。原油のドル建て価格が5倍も上昇し、一時的に1バレル=145ドルにまで達したのである。物価変動の影響を取り除いた実質価格で見ても、この間の原油価格の高騰には仰天させられる。ピーク時の原油価格の実質価格は、1979年~80年のいわゆる第二次オイルショック時に記録されたそれまでの最高値を50%も上回ることになったのである(原油価格は2008年7月にピークをつけた後に急落し、その後は1バレル=30~50ドルのあたりをうろついている)。</div><div><br /></div><div>かつての2度にわたる(OPECが主導した)オイルショック時と比べても遜色ないほどに原油価格が高騰したわけだが、マクロ経済に及ぼした影響となると、かなり大きな違いが見られるようだ。1970年代から1980年代前半には「スタグフレーション」が発生し、高い失業率と高率のインフレが共存する状況が長く続いたわけだが、教科書的な説明ではその原因は「サプライショック」(原油価格および食料価格の急騰)にあるとされている。その一方で、この間の原油価格の高騰に伴って、2001年以降から続く景気の拡大に横槍が入った様子はほとんど見受けられない(アメリカ経済は、2007年の終わり頃から景気後退入りすることになったが、その主たる原因は、サブプライム危機に端を発する金融危機にあるというのが大方の見方だ)。コアCPI(食料やエネルギーの価格を除いた消費者物価指数)にしても、かつての2度にわたるオイルショック時とは違って、比較的安定した動きを見せている。</div><div><br /></div><div>「どうしてこうも違うんだろう?」という疑問が自然と湧いてくるが、その答えの候補の一つとして名乗りを上げているのが、1970年代のスタグフレーションの原因をめぐる「修正主義的な」解釈である。「修正主義的な」解釈――代表的な提唱者としては、デロング(DeLong 1997)、バースキー&キリアン(Barsky and Kilian 2002)、チェケッティその他(Cecchetti et al. 2007)を挙げることができる――によると、1973年から1983年にかけてマクロ経済のパフォーマンスが惨憺たる結果に終わったそもそもの原因は、オイルショック(をはじめとしたサプライショック)にではなく、稚拙な金融政策にあるとされる。例えばデロングによると、当時のFedは、1930年代の大恐慌の悪夢に囚われており、インフレを抑えるために金融引き締めに乗り出すべきところでも二の足を踏む傾向にあったという。それに加えて、当時のFedは、フィリップス曲線は長期的に見ても右下がりであると認識しており、高めのインフレを受け入れる代わりに失業率をできるだけ低く抑えようと試みる傾向にあったという。その結果として、インフレが昂進することになったというのだ。バースキー&キリアンの二人も同様の立場に立っており、1970年代から1980年代初頭にかけて高インフレと高失業が発生した原因は、当時の「ストップ&ゴー」型の金融政策に求められるという。バースキー&キリアンの二人はさらに一歩踏み込んで、アメリカをはじめとした世界各国の金融緩和が原因で一般物価のみならず原油をはじめとしたコモディティの価格も高騰することになったと主張している。つまりは、原油価格の高騰をはじめとしたサプライショックは、スタグフレーションを引き起こした原因ではなく、政策の失敗(行き過ぎた金融緩和)に付随して生じた現象に過ぎないというのだ。</div><div><br /></div><div>我々二人は、つい最近の論文(Blinder and Rudd 2008)で、1970年代のスタグフレーションの原因をめぐる「通説」(「サプライショック説」)――原油価格および食料価格の急騰(それに加えて、1970年代初頭における賃金・価格統制の撤廃)こそが、スタグフレーションを引き起こした主因だとする説――の妥当性の検証を試みている。サプライショック説がはじめて唱えられたのは30年以上も前になるが、この間の研究の蓄積――新たに得られたデータに、新たに開発された理論に、計量経済学上の新たな証拠――に照らし合わせてみてわかったことは、「通説」の妥当性は揺るがないということである。詳しくは論文をご覧いただきたいが、(1970年代のスタグフレーションの原因をめぐる)「修正主義的な」解釈についても批判的な検証を加えている。</div> <b><br />オイルショックの影響が弱まってきているのはなぜ?</b><div><b><br /></b><div><div>「通説」の妥当性が揺るがないとすると、大きな謎に直面することになる。1970年代から1980年代初頭にかけてマクロ経済のパフォーマンスが惨憺たる結果に終わった主因がサプライショックにあったのだとすると、つい最近の原油価格の高騰も同じくマクロ経済に対して大きな負の影響を及ぼしてもおかしくはなさそうなのに、そうはなっていない。なぜなのだろうか? 1980年代初頭以降もオイルショックは度々発生しているが、多くの論者によって裏付けられているように――例えば、フッカー(Hooker 1996, 2002)、ブランシャール&ガリ(Blanchard and Gali 2007)、ノードハウス(Nordhaus 2007)を参照されたい――、オイルショックがマクロ経済に及ぼす影響はかつてに比べて小さくなってきているようだ。オイルショックがコアCPIに及ぼす影響は時代が下るにつれて急速に弱まってきており、生産量や雇用量はオイルショックからほとんど何の影響も受けないようになってきているのだ。</div><div><br /></div><div>どうしてなんだろうか? 理由の一つは明らかである。1973年~74年のいわゆる第一次オイルショック(「OPEC I」)と1979年~80年のいわゆる第二次オイルショック(「OPEC II」)の後にエネルギーの消費を節約する動きが広がり、アメリカをはじめとする先進国では、1973年当時と比べると、省エネ化が相当進んだ。アメリカのケースで言うと、エネルギー消費量の対GDP比(BTU単位で測った年間のエネルギー消費量をその年の実質GDPで除した値)は劇的なペースで減少しており、1973年当時と比べるとほぼ半減するまでになっている。それに伴って、オイルショックがマクロ経済――価格(原油以外の財・サービスの価格)および数量(生産量や雇用量)――に及ぼす影響も同じく半減することになったと思われるのだ。</div><div><br /></div><div>しかしながら、フッカーによると(Hooker 2002)、オイルショックがその他の財・サービスの価格(例えば、コアCPI)に及ぼす影響は時とともに無視できるところまで小さくなっており、省エネ化という要因だけではすべてを説明できないという。さらには、我々の論文ではエネルギー集約度に応じて消費財を分類し、それぞれの分類に含まれる消費財の価格がオイルショック後にどのような反応を見せたかを検証しているが、2002年~2007年の期間に関して言うと、エネルギー集約度の高さと、価格の変動幅との間に正の相関は見出せなかった〔訳注;「エネルギー集約度の高い消費財ほど、オイルショック後に価格が大きく上昇した」という関係は見出せなかったということ〕。どうやら、省エネ化以外の別の要因にも目を向ける必要があるようだ。</div><div><br /></div><div>「別の要因」を探っているのが、ノードハウスのつい最近の論文だ(Nordhaus 2007)。ノードハウスは、その候補を三つ挙げている。つい最近の原油価格の高騰はその上昇ペースが比較的緩やかであり、そのためもあってその影響が薄められることになったというのが一つ目の候補だ。原油価格の上昇幅は、2002年~2008年にかけての累計で測ると相当なものだが、年平均で測ると「OPEC I」や「OPEC II」時よりもずっと緩やかなのである。2002年~2008年にかけての原油価格の上昇幅を年平均で測ると、対GDP比でおよそ0.7%という結果になるが(ただし、ノードハウスの試算では、2006年第2四半期までしか対象に含まれていない点に注意願いたい)、「OPEC I」や「OPEC II」時におけるそれは、対GDP比でおよそ2%になるのである。原油価格の上昇ペースが緩やかであれば、それだけその影響も弱まることになるだろう。</div><div><br /></div><div>二つ目の候補は、とりわけ重要である。ノードハウスは、Fedがどのようなルールに従って政策金利を決定しているか(いわゆる「テイラー・ルール」)を推計しているが、1980年以前のFedはヘッドラインCPI(食料やエネルギーの価格を含んだ消費者物価指数)に重きを置いて金融政策を運営していたが、1980年以降になるとコアCPIに重きが置かれるようになっていることを見出している。バーナンキその他(Bernanke et al. 1997)によると、かつてのオイルショック時に生産量が落ち込んだ理由の多くは、Fedがインフレを抑えるために金融引き締めに動いたためだとされているが、そのような見方が正しいとすると、つい最近の原油価格の高騰がどうしてそれほど大きな生産の落ち込みを伴わなかったのかについてもそれなりに納得がいくことになる。というのも、先にも触れたように、オイルショックがコアCPIに及ぼす影響が弱まってきていて、FedがコアCPIに重きを置くようになっているとすると、オイルショックの発生に伴って金融政策が変更される(原油価格の高騰に伴って、金融政策が引き締められる)可能性は小さくなっていると予想されるからである。</div><div><br /></div><div>三つ目の候補は、1970年代に比べて、実質賃金の伸縮性が高まっている可能性である〔訳注:このパラグラフでは、ノードハウスの主張がかなり圧縮されたかたちで要約されており、そのまま訳したのでは内容がわかりづらいだろうと判断して、Nordhaus(2007)に照らし合わせて訳者の側で若干修正を加えている〕。それもこれも、原油価格の高騰はあくまで一時的なものだとの見方が世間一般に広がったことが大きい。その結果として、原油価格が高騰しても、労働者は名目賃金の引き上げを求める代わりに、実質賃金の下落を受け入れるようになった。新古典派的なメカニズム(相対価格の変化に促された生産要素間の代替〔訳注;財・サービスを生産するにあたって、相対的に高価になった生産要素(エネルギー)の代わりに、相対的に安価になった生産要素(労働)の投入を増やす〕)が働く余地が広がることになった可能性があるのだ。さらには、原油価格の高騰はあくまで一時的なものだとの見方が広がったことで、消費者が原油高騰による実質所得の低下をあくまで一時的なものと見なすようになった。その結果として、原油価格の高騰が実質所得の低下を招いて総需要を冷え込ませるケインジアン的なメカニズムの効果がかつてよりは和らいでいる可能性がある。このような一連の変化は、オイルショックが生産量や雇用量に及ぼす影響を弱める方向に作用することだろう。</div><div><br /></div><div>ブランシャール&ガリの二人も実質賃金の伸縮性が高まっている可能性に言及しているが(Blanchard and Gali 2007)、それに加えて、1970年代以降に中央銀行の「インフレ・ファイター」としての信頼性が高まってきていることも見逃せないと主張している。中央銀行の「インフレ・ファイター」としての信頼性が高まれば、原油価格が高騰しても、予想インフレ率はそこまで変わらない可能性がある(ブランシャール&ガリの二人は、そのような証拠を見出している)。原油価格の高騰にもかかわらず、予想インフレ率が安定しているようであれば、原油価格の高騰がコアCPIや生産量に及ぼす影響は小さくなると考えられるのだ。ただし、彼らも述べているように、荒削りな面が多分にあるモデルから得られた結論とのことなので、あまり重視し過ぎないほうがいいだろう。</div><div><br /></div><div>実証的な裏付けのある二つの興味深い要因に言及しているのがキリアンだ(Kilian 2007)。いずれの要因も国際貿易と深い関わりがある。まず一つ目の要因は、おそらくはかつての2度にわたるオイルショック(「OPEC I」と「OPEC II」)がきっかけとなって、1973年以降にアメリカ国内の自動車産業で構造転換が進んだことである。小型で燃費の良い車を手に入れようと思ったら、かつては海外から輸入するしかなかったが、今では国内でも大量に製造されるようになっている。その結果として、原油価格が高騰しても、国産車への需要がかつてほど落ち込むことはなくなったのである(これまでの小型化・低燃費化の流れに逆行するかのようにして、SUV車が流行しているが、自動車産業もアメリカ経済もその代償を今になって支払わされているわけだ)。さらには、1970年代に比べると、自動車産業がアメリカ経済全体に占めるシェアもずっと小さくなっていて、このこともオイルショックの影響が弱まってきている理由の一つとなっている。</div><div><br /></div><div>キリアンが指摘している二つの目の要因は、原油価格の高騰をもたらしたそもそもの原因に関わるものである。2002年~2008年にかけて原油価格が高騰した理由は、(1970年代のように)世界的に原油の供給が減少したためでもなければ、原油市場に特有のショックが発生したためでもなく、<a href="https://cepr.org/voxeu/columns/oil-prices-risks-and-opportunities" target="_blank">世界経済の堅調な成長に支えられて原油に対する需要が増加したため</a>であるようだ。原油価格の高騰は、その原因の如何を問わず、アメリカのような原油輸入国にとっては「オイルショック」を意味することに変わりはないが、世界経済が堅調な成長を続けているおかげで海外への輸出が増えることになり、その結果として「オイルショック」に伴う負の影響(「オイルショック」に伴う生産の落ち込み)が和らげられる格好となったのである。</div></div><div><b style="font-family: "Noto Sans JP", sans-serif; font-size: 16px;"><br /></b></div><div><b style="font-family: "Noto Sans JP", sans-serif; font-size: 16px;">結論</b></div><div><span face=""Noto Sans JP", sans-serif" style="font-size: 16px;"><br /></span></div><div><span face=""Noto Sans JP", sans-serif" style="font-size: 16px;">まとめるとしよう。「オイルショックの影響が弱まってきているのはなぜか?」という疑問に答えるために長々と探りを入れてきたわけだが、その苦労も無駄ではなかったようだ。無駄ではなかったどころか、豊作だ。答えの候補が数多く列挙されたリストが出来上がったのだから。そのうちのどれか一つが群を抜いているわけではなく、いずれの候補も多かれ少なかれ妥当性を備えているように思われる。スタグフレーションの原因をめぐる「サプライショック説」も依然として定性的には妥当性を失っていないが、定量的にはかつてほど重要ではなくなっている〔</span><span face="Noto Sans JP, sans-serif">訳注;原油価格の高騰に伴って、コアCPIが上昇したり生産量(や雇用量)が落ち込む可能性はあるが、その影響の量的な大きさは限定的ということ</span><span face=""Noto Sans JP", sans-serif" style="font-size: 16px;">〕。よほどの不運や政策上の不手際に見舞われない限りは、食料やエネルギーの価格が高騰したとしても、1970年代や1980年代初頭のように惨憺たる結果が招かれる必然性は最早ないのだ。</span></div><div><div>
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<span style="font-size: large;"><参考文献></span><br />
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●Barsky, Robert B., and Lutz Kilian. 2002. “<a href="http://www.nber.org/papers/w8389" target="_blank">Do we really know that oil caused the Great Stagflation? A monetary alternative</a>”, In <i>NBER Macroeconomics Annual 2001</i>, eds. Ben S. Bernanke and Kenneth Rogoff, 137-183.<br />
●Bernanke, Ben S., Mark Gertler, and Mark Watson. 1997. “<a href="http://www.brookings.edu/about/projects/bpea/papers/1997/effects-of-oil-price-shocks-bernanke" target="_blank">Systematic monetary policy and the effects of oil price shocks</a>”, <i>Brookings Papers on Economic Activity</i> 1: 91-142.<br />
●Blanchard, Olivier J., and Jordi Gali. 2007. “<a href="http://www.nber.org/papers/w13368" target="_blank">The macroeconomic effects of oil shocks: Why are the 2000s so different from the 1970s?</a>”, NBER Working Paper no. 13368, September.<br />
●Blinder, Alan S., and Jeremy B. Rudd. 2008. “<a href="http://www.nber.org/papers/w14563" target="_blank">The supply-shock explanation of the Great Stagflation revisited</a>”, NBER Working Paper no. 14563, December.<br />
●Cecchetti, Stephen G., Peter Hooper, Bruce C. Kasman, Kermit L. Schoenholtz, and Mark W. Watson. 2007. “<a href="http://research.chicagobooth.edu/igm/docs/2007usmpf-report.pdf" target="_blank">Understanding the evolving inflation process</a>(pdf)”, US Monetary Policy Forum working paper, July.<br />
●DeLong, J. Bradford. 1997. “<a href="http://www.nber.org/chapters/c8886.pdf" target="_blank">America’s peacetime inflation: The 1970s</a>(pdf)”, In <i><a href="http://papers.nber.org/books/rome97-1" target="_blank">Reducing inflation: Motivation and strategy</a></i>, eds. Christina D. Romer and David H. Romer, 247-280. Chicago: University of Chicago Press.<br />
●Hooker, Mark A. 1996. “<a href="http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0304393296012810" target="_blank">What happened to the oil price-macroeconomy relationship?</a>”, <i>Journal of Monetary Economics</i> 38 (October): 195-213.<br />
●Hooker, Mark A. 2002. “<a href="http://www.jstor.org/discover/10.2307/3270701?uid=3738328&uid=4578250477&uid=2&uid=3&uid=60&sid=21105083277003" target="_blank">Are oil shocks inflationary? Asymmetric and nonlinear specifications versus changes in regime</a>”, <i>Journal of Money, Credit, and Banking</i> 34 (May): 540-561.<br />
●Kilian, Lutz. 2007. “<a href="http://www-personal.umich.edu/~lkilian/jel052407.pdf" target="_blank">The economic effects of energy price shocks</a>(pdf)”, University of Michigan, October. Mimeo.<br />
●Nordhaus, William D. 2007. “<a href="http://www.brookings.edu/about/projects/bpea/papers/2007/oil-shock-nordhaus" target="_blank">Who’s afraid of a big bad oil shock?</a>”, <i>Brookings Papers on Economic Activity</i> 2: 219-240.<br />
<br /></div></div></div>voxwatcherhttp://www.blogger.com/profile/10317675353577588272noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2302196195769960775.post-26462178117207108652014-10-22T21:41:00.004+09:002022-10-31T12:02:04.964+09:00Itay Goldstein and Assaf Razin 「金融危機に備わる3つの顔 ~銀行取付け、信用市場の凍結、通貨危機~」<span style="font-size: large;">Itay Goldstein and Assaf Razin, “<a href="http://www.voxeu.org/article/theories-financial-crises" target="_blank">Theories of financial crises</a>”(<i>VOX</i>, March 11, 2013)</span><br />
<br />
<blockquote class="tr_bq"><i>金融危機は、その特徴に応じて、大まかに3つのタイプに分類することができる。「銀行危機」、(信用取引に伴う摩擦を原因とする)「信用市場の凍結」、「通貨危機」である。今回世界全体を襲った金融危機は、これら3つの特徴をすべて兼ね備えており、「銀行危機」と「信用市場の凍結」と「通貨危機」とが互いに影響を及ぼし合いながら世界経済全体に大きな動揺をもたらすことになったのであった。金融危機をテーマとする過去30年以上にわたる先行研究の足跡を辿った上で言えることは、目下の状況を正確に捉えるためには、金融危機を引き起こす数ある要因を同時に組み込んだモデルの開発が何よりも待たれるということである。</i></blockquote>
<br /><div><div>金融システムおよび通貨システムの役割は、稀少な資源の効率的な配分を促すことを通じて、実体経済活動の円滑な働きを支えることにあると広く理解されている。事実、金融システムの発展が資源の効率的な配分を促すことで経済の成長を後押ししていることを裏付ける実証的な証拠も数多い(Levine 1997, Rajan and Zingales 1998)。その一方で、過去の歴史を振り返ると、金融システムや通貨システムに深刻な機能不全をもたらす金融危機が頻発していることも残念ながら事実だ。</div><div><br /></div><div>多くの経済学者の意表を突いて、世界全体の金融システムが大きな混乱に見舞われてから、もうかれこれ5年になろうとしている。アメリカやヨーロッパでは、主要な金融機関が相次いで経営危機に追いやられ、それに伴って、貸出をはじめとした金融取引が急激な縮小を余儀なくされることになった。ユーロ圏経済は、今なお厳しい状況に置かれている。今回の危機の背後では、どのような要因がうごめいていたのか? 危機から抜け出すためには、どうすればいいのか? 将来再び今回のような危機に陥らないようにするためには、どうしたらいいのか? これら一連の問いに答えを見出すことが、多くの経済学者にとって最優先課題となっている〔原注;過去数年にわたる世界的な金融危機の実態については、多くの学者が詳細に取り上げている。その中でも、Brunnermeier(2009)やGorton(2010)を参照されたい〕。</div><div><br /></div><div>今回の危機は、過去に発生した金融危機に備わる主要な特徴を同時に併せ持っている。金融危機の背後でどのような要因が働いているかを説明し、金融危機に対処するための処方箋を提供するために、これまでに長年にわたって数多くの経済理論の開発に多大な努力が捧げられてきている。金融危機を説明するためにこれまでに開発されてきた経済理論の内容を正確に理解し、今後の課題として既存の理論をどのような方向に彫琢していく必要があるかを明らかにすることは、我々が直面している目下の課題を克服するためにも、金融システムを改革して将来同じような事態に陥らないように備えるためにも、欠かせない作業である。</div><div><br /></div><div>つい最近我々二人は、金融危機をテーマとする過去30年以上にわたる膨大な先行研究の足跡を辿り、その結果を展望論文としてまとめ上げたばかりである(Goldstein and Razin 2012)。過去の金融危機は、その特徴に応じて、3つのタイプに分類することが可能であり、これまでの先行研究も同じく3つの領域に細かく区別することができる〔原注;今回の論説のもととなる論文(Goldstein and Razin 2012)では、数多くの先行研究を参考文献として掲げている。今回の論説では、あくまでもその一部だけにしか触れられていない点に注意されたい〕。まず第1の研究領域は、銀行危機(あるいは、銀行パニック)をテーマとするものである。そして第2の研究領域は、信用取引に伴う摩擦と、信用市場の凍結をテーマとするものである。最後に第3の研究領域は、通貨危機をテーマとするものである。今回世界全体を襲うことになった金融危機は、これら3つの特徴(銀行危機、信用市場の凍結、通貨危機)をすべて兼ね備えており、「銀行危機」と「信用市場の凍結」と「通貨危機」とが互いに影響を及ぼし合いながら世界経済全体に大きな動揺をもたらしたというのが我々の判断である。以下では、金融危機をテーマとする先行研究の概要を3つの研究領域ごとに簡単に振り返ってみるとしよう。</div></div><div><br /></div><div><b>銀行危機</b></div><div><b><br /></b></div><div><div>銀行危機(あるいは、銀行パニック)をテーマとする研究は、1983年のダイアモンド&ディヴィグ論文(Diamond and Dybvig 1983)にまで遡る。銀行は、預金者から「短期」で借り入れた資金(預金)を基にして「長期」貸出(銀行ローン)を行う「資産変換機能」を果たしているが、そのおかげで、短期的な(あるいは、緊急の)資金の必要性に迫られる可能性のある投資家に対してリスクシェアリングの機会が提供されるかたちになっている〔訳注;投資家が自ら「長期貸出」を行った場合、緊急に資金が必要となっても即座にその貸し出しを引き揚げることができず、必要な資金を調達できない可能性がある。一方で、投資家が銀行に預金を預け、銀行がその預金を基にして「長期貸出」を行う場合、投資家は間接的に(銀行を介して)長期貸出を行っていると言えるが、緊急に資金が必要となった場合には預金を引き出してそれに応じればよい〕。しかしながら、銀行が資産変換機能を果たすことには、リスクも伴う。大勢の預金者が大挙して預金の引き出しに殺到する、銀行取付け(bank run)に晒される恐れがあるのだ。銀行システムは、銀行取付けの可能性と常に隣り合わせであり、そのような脆弱性の根底にあるのは、「協調の失敗」(coordination failure)である。預金の引き出しに殺到する預金者の数が多いほど、銀行が倒産する可能性も高くなるため、ある程度の数の預金者が預金を引き出そうとすると、他の預金者たちもできるだけ早く預金を引き出そうとする強いインセンティブを持つことになるのである。</div><div><br /></div><div>過去の歴史を振り返ると、銀行システムは度々取付け騒ぎに見舞われている(詳しくは、例えばCalomiris and Gorton(1991)を参照されたい)。20世紀初頭に入ると、銀行取付けの問題に対処するために、預金保険制度が導入されることになったが、その結果として、銀行取付けが発生する可能性は大きく抑えられることになった。しかしながら、預金保険で預金が全額保護されていないケースだったり、預金保険制度が導入されていない国では、銀行取付けは依然として金融危機を彩る特徴の一つとなっている。例えば、過去20年の間に、東アジアやラテンアメリカでは、多くの銀行取付けが発生している。今回の危機の過程でも、イギリスのノーザン・ロック銀行を対象として「教科書」通りの取付け騒ぎが発生し、大勢の預金者たちが預金の払い戻しを求めて店頭に殺到したことはご存知の通りである(Shin 2009)。銀行システムだけに限定せずに金融システム全体に目を向けると、(預金者が預金の払い戻しを求めて銀行に殺到する)伝統的な取付けの範疇には含まれないが、取付けと呼ぶにふさわしい現象は数多く発生している。例えば、今回の危機の過程では、投資銀行が短期資金を調達するために利用するレポ市場でも取付けが発生しており(Gorton and Metrick 2012)、そのせいでレポ市場では突如として流動性が枯渇し、資金の調達が困難となったのであった。ベア・スターンズやリーマン・ブラザーズといった名だたる金融機関が経営危機に追いやられた理由も、レポ市場における取付けにその原因があったのである。それ以外にも、マネー・マーケット・ファンド(MMF)や資産担保コマーシャルペーパーを取り扱うマーケットでも取付けは発生しており(Schroth, Suarez, and Taylor 2012)、オープンエンド型投資信託を取り扱うマーケットは、「協調の失敗」による脆弱性に日常的に晒されていると指摘する研究もある(Chen, Goldstein, and Jiang 2010)。</div><div><br /></div><div>銀行危機をテーマとする研究領域でとりわけ重要な政策課題は、金融システムを舞台とした「協調の失敗」とそれに起因する取付け騒ぎがもたらす被害をいかにして回避するかという点にあると言えるだろう。預金保険はこれまでにそれなりの効果をあげてきたと評価できるが、預金保険はモラル・ハザードを引き起こす可能性を伴っており〔訳注;預金保険によって預金の一部(あるいは、全額)が保護されていると、預金を預けている銀行が破綻したとしても預金の一部(あるいは、全額)は手元に戻ってくるため、預金者は銀行の行動にそれほど注意を払わなくなる可能性がある。預金者による監視の目が緩むと、銀行は貸出先の審査にあたって手を抜く可能性がある〕、その点も真剣に考慮せねばならない。「最適な」預金保険制度の設計に向けて研究すべきことは、まだまだ残されているのだ。比較的最近になって発展を見せている経済理論として「グローバル・ゲーム」と呼ばれる一連のモデルがあるが(Carlsson and van Damme 1993, Morris and Shin 1998, Goldstein and Pauzner 2005)、このモデルを使えば、預金保険の便益(銀行取付けを防ぐ効果)とコスト(モラル・ハザードを引き起こす可能性)を同時に分析することが可能となり、「最適な」預金保険制度が備えるべき特徴についても手掛かりが得られるようになるかもしれない。</div></div><div><b><br /></b></div>
<b>信用取引に伴う摩擦と信用市場の凍結</b><br />
<br /><div>銀行危機をテーマとする研究領域では、銀行の預金者だったり銀行に対する貸し手だったりの行動に焦点が置かれている。言い換えると、銀行のバランスシートの「負債」の側に焦点が合わせられているわけである。しかしながら、金融システムにおける問題は、銀行のバランスシートのもう一方の側である「資産」の側に起因していることも珍しくない。信用市場〔訳注;資金が貸し借りされる市場のこと。その例としては、銀行ローン市場を挙げることができるが、銀行ローン市場では、銀行が資金の供給者(貸し手)であり、銀行からお金を借り入れる主体が資金の需要者(借り手)ということになる〕における均衡では、銀行による貸出の量だけではなくその質も決定されることになるが、信用取引に伴う摩擦のために、銀行は、悪質な借り手から自らを守るために貸出を渋る(ローンの供給を抑える)可能性があるのである。</div><div><br /></div><div>信用市場において信用割当(credit rationing)〔訳注;信用に対する需要(資金の借り入れ需要)が供給を上回る状態。信用市場で成立する金利が、信用に対する需要と供給を等しくする水準を下回っている状態とも言える〕が発生する可能性を理論的に明らかにしたのが、1981年のスティグリッツ&ウェイス論文(Stiglitz and Weiss 1981)である。通常の経済理論の立場からすると、需要と供給の間にギャップがあれば、価格が変化して最終的には(均衡においては)割当は解消されるはずである〔訳注;信用に対する需要が供給を上回っている(信用割当が存在する)場合は、需給が一致するところまで金利が上昇するはず、ということ〕。しかしながら、銀行がローンの金利(貸出金利)を変化させると、それに伴って、ローンを借りにくる相手(借り手)の「質」も変化する可能性がある。金利の上昇に伴って借り手の「質」が悪化するようであれば、信用割当が存在していても、金利は上昇せずにそのままの水準にとどまる可能性があるのだ。信用割当が発生する背後には、信用取引に伴う2つの摩擦の存在が控えている。「モラル・ハザード」と「逆選択」である。1997年のホルムストローム&ティロール論文(Holmstrom and Tirole 1997)で定式化されたモデルが一大転機となって、この2つの摩擦(とりわけ、モラル・ハザード)が銀行の貸出(ローン供給)行動に及ぼす影響を探る膨大な研究が量産されることになった。銀行ローンの借り手が銀行の監視の目を逃れて好きなように(銀行から借り入れた)資金を流用できるようであれば、資金の貸し手である銀行としても、そう易々とローンの貸出に応じるわけにはいかない。銀行(貸し手)から借り手へと資金がスムーズに貸借されるためには、借り手に自分の好きなように資金を使わないようにさせることが重要となってくる。そのための方法の一つが、借り手に「身銭を切らせる」(“skin in the game”)――例えば、担保を出させる――というやり方だ。借り手によるモラル・ハザードを防ぐためには、借り入れた資金を投じたプロジェクトの成功に向けて借り手が熱を入れるように工夫する必要があるのだ。しかしながら、「身銭を切る」余裕のある借り手の数は限られているので、銀行による貸出の量も限られることになる。景気が悪化するのに伴って「身銭を切る」余裕のある借り手の数が減るようなら、銀行による貸出の量も減ることになり、やがては金融危機が招かれる恐れすらある。</div><div><br /></div><div>今回の危機の過程でも、信用取引に伴う摩擦が信用市場の機能不全を引き起こす一因となっていたことは疑いない。2008年に金融システムを突如として襲ったショックの後に、銀行ローン市場でも、インターバンク市場(銀行間取引市場)でも、信用のやり取りが凍結するに至ったが、その理由は、信用取引に伴う摩擦が原因で当初のショックが増幅されたせいである可能性があるのだ。</div><div><br /></div><div>信用取引に伴う摩擦がマクロ経済(景気循環)に及ぼす影響の解明に向けて、信用取引に伴う摩擦をマクロ経済モデルに組み込む試みがここにきて盛んになっている。そのような試みの先駆けとも言えるバーナンキ&ガートラー論文(Bernanke and Gertler 1989)や清滝&ムーア論文(Kiyotaki and Moore 1997)では、信用取引に伴う摩擦は、当初のショックを増幅させるだけでなく、当初のショックが消え去った後もその影響を持続させる役割を果たすことが明らかにされている。この線に沿ったつい最近の代表的な試みでは(Gertler and Kiyotaki 2010, Rampini and Viswanathan 2011)、マクロ経済モデルに金融仲介部門が明示的に組み込まれ、金融仲介部門とそれ以外の部門の間の動学的な相互作用が分析されている。金融仲介部門を組み込んだマクロ経済モデルが今後発展を見せることになれば、今回の危機の過程で各国の政府が採用した数々の政策について精緻で実りある議論を行える舞台が用意されることになるだろう。</div>
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<b>通貨危機</b><br />
<br /><div>金融危機に備わる重要な側面の一つとして、政府の関与、とりわけ政府が採用している為替レジームの崩壊も見逃してはならないだろう。1970年代初頭におけるブレトンウッズ体制の崩壊をはじめとして、多くの通貨危機は、政府が固定相場制度を維持しようと試みる中で、それ以外の政策目標との間に齟齬が生じる結果として引き起こされる傾向にある。固定相場制度の維持とそれ以外の政策目標との齟齬が積もり積もって、為替レジームの突然の崩壊が引き起こされるわけである。通貨危機をテーマとする研究の出発点をどこに求めるかについては色々と意見があるだろうが、我々二人の展望論文では、クルーグマンらによる第一世代モデル(Krugman 1979, Flood and Garber 1984)と、オブスフェルドによる第二世代モデル(Obstfeld 1994, 1996)をその出発点に定めている。</div><div><br /></div><div>通貨危機の第一世代モデル&第二世代モデルは、ユーロ圏経済が今現在置かれている状況を理解する上でも大いに示唆に富むモデルである。通貨危機の第一世代モデル&第二世代モデルの礎となっているのは、かの有名な「国際金融のトリレンマ」だ。「国際金融のトリレンマ」によると、①国境を越えた資本の自由な移動、②独立した金融政策、③固定相場制度(あるいは、為替レートの安定)という3つの政策目標のうち、一国の政府が同時に追求できるのは2つだけだとされる。ユーロ圏の各国は、①と③を同時に追求するのと引き換えに②をあきらめたわけだが、その結果として(金融政策を自国の事情にあわせて自由に操れないために)、金融危機の余波を吸収するためにも、国債の価格を維持するためにも、限られた余地しか残されていない状況に追いやられる格好となってしまった。「ユーロ圏の各国政府には、固定相場を維持する意志も国債を償還する意志もないのではないか」と疑いを持たれるようであれば、投資家や投機家が大挙してユーロや国債の投げ売りに乗り出し、そのせいでユーロ圏経済が抱える問題はさらに深刻さを増す可能性がある。ユーロ圏の各国は、政府債務のデフォルトを宣言するか、もしくは、ユーロを放棄するか(あるいは、どちらもともに選ばざるを得ないか)という重大な選択を迫られる可能性があるのだ。</div><div><br /></div><div>通貨危機の第一世代モデル&第二世代モデルでは、政府の行動だけに焦点が合わせられているが、通貨危機の第三世代モデル(Krugman 1999, Chang and Velasco 2001, Goldstein 2005)では、銀行危機に加えて、信用取引に伴う摩擦がモデルに組み込まれている。第三世代モデルが開発されたきっかけは、1990年代後半に東アジアを襲った通貨危機にある。東アジアの通貨危機では、金融機関の破綻と為替レジームの崩壊が同時に発生したが、銀行危機と通貨危機とが絡み合って経済全体が極めて脆弱な状態に晒される可能性があることをまざまざと知らしめた事件だった。第三世代モデルも、ユーロ圏経済が今現在置かれている状況を理解する上で大いに示唆に富むモデルだ。ユーロ圏では、銀行危機と債務危機とが複雑に絡み合っており、ユーロ圏経済の行く末がどうなるかは、その絡み合いがこの先どのような展開を見せるかに、かなりの程度左右されるのだ。</div>
<br />
<b>結論</b><br />
<br /><div>今後の主要な研究課題は、これまでに触れてきた数々の「摩擦」――協調の失敗、インセンティブ問題、情報の非対称性、政府が採用する為替レジーム――をマクロ経済モデルの中に組み込んで、最適なポリシーミックスや政策の望ましい規模について定量的な結論を導き出すことにあると言えるだろう。中央銀行が、既存のモデルの代わりに、摩擦を組み込んだモデルを使い始めるようになれば、願ったりである。信用取引に伴う摩擦をマクロ経済モデルに組み込む試みは徐々にその気運が盛り上がりを見せているが、それ以外の摩擦を組み込む試みとなると、ほとんど手がつけられていない状態だ。あらゆる摩擦を組み込んだマクロ経済モデルの開発に取り組むことが今後の重要な課題だと言えるだろう。</div><div><br /></div><div>もう一点だけ触れておくと、システムを脆弱にしたり金融危機を引き起こしたりする数ある要因の中からいずれか一つに焦点を定めて、その影響を分析するモデルは数多いが、数ある要因を同時にまとめて組み込んだモデルは今のところ――いくつかの例外はあるにせよ――著しく欠如していると言わざるを得ない。数ある要因を同時にモデルに組み込んではじめて、それぞれの要因が結果に及ぼす影響の強さを比較できるようになるし、それぞれの要因が互いにどのように作用し合っているかを理解できるようになる。システムを脆弱にしたり金融危機を引き起こしたりする数ある要因を同時に組み込んだモデルの開発に取り組むことも、今後の重要な課題であると言えるだろう。</div>
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<span style="font-size: large;"><参考文献></span><br />
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voxwatcherhttp://www.blogger.com/profile/10317675353577588272noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2302196195769960775.post-42660522341816362112014-10-22T21:20:00.001+09:002014-10-22T21:23:06.086+09:00Andrea Prat 「金融規制の政治経済学」<span style="font-size: large;">Andrea Prat, “<a href="http://www.voxeu.org/article/political-economy-financial-reform-effective-regulations-require-effective-regulators" target="_blank">A political economy view of financial regulation</a>”(<i>VOX</i>, March 9, 2009)</span><br />
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<blockquote class="tr_bq">
<i>現状の金融規制は数々の欠陥を抱えていることは間違いない。しかしながら、ルールが現状のままであっても規制当局は手持ちの情報を使ってもっと積極果敢で迅速な対応をとれたはずである。ルール自体がいかに優れたものであっても規制当局者(ルールを執行する立場にある人間)がそのルールを忠実に執行するインセンティブを持たなければ意味はない。金融規制の分野で「規制の虜」と呼ばれる現象が発生する可能性がどの程度のものかを評価し、その可能性を少しでも低く抑えるために、規制当局はこれまでに入手した情報だけではなく規制対象となる産業界との人的なつながりの実態についても公表すべきである。</i></blockquote>
<br />
今回の金融危機で大きな打撃を受けたのは金融市場だけにとどまらない。金融システムの動向を監視・監督する役割を果たす金融規制に対する国民の信頼も地に落ちることになったのだ。金融システムの安定性を確保するために金融規制の分野における現状のルールをどのように変えたらよいかという問題を巡って<a href="http://www.voxeu.org/debates/financial-rescue-and-regulation" target="_blank">活発で示唆に富む議論が繰り広げられている最中</a>だが、ここではちょっと視点を変えて政治経済学的な観点からこの問題に切り込んでみることにしよう。<br />
<br />
今回金融危機に見舞われた多くの国における金融規制の体系は時代遅れどころか最先端というにふさわしい特徴を備えていた。しかしながら、規制が効果を上げるかどうかは(法律をはじめとした)ルールの質だけに依存するわけではなく、そのルールを執行する立場にある人間(規制当局者)のインセンティブにもかかっている。規制当局者が直面するインセンティブの中でもとりわけ重要となってくるのは規制当局が規制対象となる産業(民間企業)の虜となってしまう可能性(いわゆる「規制の虜」(regulatory capture)と呼ばれる現象(欄外訳注1)が発生する可能性)であり、この問題については長らくその重要性が指摘されてきているだけではなく公的規制をテーマとするテキストの中でも大きな関心が寄せられている(Laffont&Tirole 1993)(原注;ラフォンとティロールの共著であるこの本の第5部は「公的規制の政治学」(The Politics of Regulation)と題されており、本全体のおよそ3分の1の分量を占めている)。また、規制当局の独立性に疑問符が付く場合には好ましからぬ結果が招かれる可能性を示す実証的な証拠も数多い(Dal Bó 2006)。<br />
<br />
金融規制の分野における現状のルールも完璧とは言えず改善の余地があることは疑いないだろう。しかしながら、規制当局者がルールを執行する上でどのようなインセンティブに直面しているかも同時に分析の対象に含めるべきなのだ。規制当局者がルールを忠実に執行するインセンティブを欠いていたり、ルールが目指す方向とは逆行する行動を選び取るよう促すインセンティブに晒されているような状況では、ルール自体がいかに優れたものであっても前途は暗いと言わざるを得ないだろう。<br />
<br />
今回の金融危機の過程で規制当局が規制対象となる金融機関の虜となるような事態は果たして見られたのだろうか? この問題を考えるにあたって次の2つの質問を検討してみることにしよう。<br />
<br />
<br />
<b>規制当局は現状のルールと手持ちの情報をフルに活用したと言えるだろうか?</b><br />
<br />
ルールが現状のままであっても規制当局は手持ちの情報を使ってもっと積極果敢で迅速な対応をとれたはずだというのが私の判断である。そのことを裏付ける典型的な例はバーナード・マドフ(Bernard Lawrence Madoff)が仕掛けた金融詐欺事件である。米国証券取引委員会(SEC)は詐欺の実態に関する情報を事前に得ていた。マドフが巨大なポンジ・スキームに手を染めている可能性については信頼できる情報源から密かに何度も繰り返しリークされていたのである。また、SECはこの問題に対処するための揺るぎない法的な権限も備えていた。証券詐欺規制法がそれである。それにもかかわらず、どうしてこんなにも大規模で古典的な手法を使った違法行為が見逃されることになったのだろうか?(原注;2003年に発生したいわゆるスタンフォード詐欺事件についても規制当局に対して事前に信頼できる情報源から情報がリークされていたことが判明している) それ以外にも<a href="http://www.bloomberg.com/apps/news?pid=newsarchive&sid=a.pGKHXuQwEU&refer=uk" target="_blank">ポール・ムーア(Paul Moore)による内部告発の例</a>もある。ムーアは当時イギリスの大手金融会社HBOSでリスク管理部門長を務めていたが、同社がリスクを過剰に取り過ぎていると内部告発を行ったのである(ムーアは内部告発を行った後に同社を解雇されることになった)。信頼できる情報源から警告が寄せられていたにもかかわらず、どうして英国金融サービス機構(FSA)(欄外訳注2)は重大な問題に発展しかねない事態に十分な真剣さを持って向き合わなかったのだろうか? HBOSはその後公的資金による救済を受けることになったわけだが、もし仮にFSAがムーアの内部告発を受けて即座に断固たる対応をとっていたとすればイギリスの納税者は何十億ポンドにも上る税負担をせずに済んでいた可能性がある。実際問題として規制当局には個別の金融機関の戦略を変更させるだけの権限はなかったという反論もあることだろう。しかしながら、FSAにしろSECにしろ手持ちの情報を基にして国民に対して警告を発することくらいは少なくとも可能だったはずである。自らと取引関係のある金融機関がどういったリスクをとっているかについて株主や貸し手、預金者たちに対してはっきりとした言葉で警告が発せられていたとしたら今頃どうなっていただろうか? これといって大差はないと言えるだろうか?<br />
<br />
<br />
<b>規制当局は「利益相反」の問題をどの程度抱えているだろうか?</b><br />
<br />
いずれの公的機関も「独立性の確保」と「優秀な人材を確保する必要性」との間のトレードオフに直面しているが、とりわけ金融規制の分野は「利益相反」(conflict of interest)の問題に晒される高い可能性を秘めているようだ。例えば、FSAの現副長官(2009年当時)である<a href="http://www.theguardian.com/business/2009/feb/11/crosby-resignation-fsa-statement" target="_blank">ジェームズ・クロスビー卿(James Crosby)</a>はかつてHBOS――内部告発を行ったポール・ムーアを解雇した会社――でCEOを務めていたが、2004年から2006年の時期にかけてはFSAの副長官とHBOSのCEOを兼務する状況にあったのである。言うなれば、規制される側の企業のトップが規制当局の挙動に監視の目を光らせていたようなものだ。競争政策をはじめとしたその他の分野でこれと同様の状況が考えられるだろうか? マイクロソフト社のCEOが(独占禁止政策を取り仕切る)米国連邦取引委員会(FTC)の委員に任命されるということがあり得るだろうか? 規制当局と規制対象となる企業との間に存在する人的なつながりの例はこれだけにとどまらない。FSAの非常勤委員8名のうち3名は現在(2009年現在)でも民間の金融機関で職に就いているようである(原注;その3名というのはピーター・フィッシャー(Peter Fisher)、デビッド・マイルズ(David Miles)、ヒュー・スティーブンソン(Hugh Stevenson)である。<a href="http://www.fsa.gov.uk/Pages/About/Who/board/index.shtml" target="_blank">FSAのホームページにある略歴</a>によると、フィッシャーはブラックロック、マイルズはモルガン・スタンレー、スティーブンソンはエクイタスならびにマーチャント・トラストでそれぞれ要職にあるとのことだ)。規制対象となる民間企業と人的な交流(つながり)を持つことは多少避けられない面もあるが、FSAの委員の席に規制対象となる企業のトップが居座る必要性が果たしてどれだけあるのだろうか?<br />
<br />
金融規制というのはルールさえ用意すれば放っておいても自動的にその機能を発揮するような類のものではない。多くの国においては金融システムは非常に洗練されており、国民に対して多大な便益をもたらす可能性を大いに秘めている。優秀な弁護士や会計士といった人材も豊富であり、システムの運営を側面から支援する人的資源という面に照らしても文句なしである。しかしながら、金融システムがその潜在的な力を存分に発揮するためには能力が優れているだけではなくルールを忠実に執行するインセンティブを備えた規制当局者の存在が欠かせない。必要とあれば問題の所在を徹底的に追及し、規制対象となる金融業界に対して厳しい態度で臨むことも厭わない規制当局者の存在が欠かせないのだ。<br />
<br />
今後の課題に目を転じることにしよう。規制当局者がルールを存分に活用する強いインセンティブを持つようにするためには具体的にどのような措置を講じたらよいだろうか?<br />
<ul>
<li>金融規制の分野で規制当局が規制対象となる金融機関の虜となる可能性がどの程度のものかを正確に評価するためにはまずもってこれまでの実状を知る必要がある。規制当局はこれまでにどのようなリーク情報を得たかを公開し、その情報に基づいて調査に乗り出した経緯がある場合はその調査結果もあわせて明らかにすべきである。例えば、FSAがHBOSだけではなくそれ以外の金融機関が抱えているリスクの実態についてどういった情報を得ていたか(あるいは知り得た状況にあったか)が明らかにされれば非常に有用な判断材料となることだろう。</li>
<li>規制当局と規制対象となる企業の経営陣との間の人的なつながりの実態についても情報を明らかにすべきである。規制当局の委員を務める人物(および規制当局で働く官僚)が委員に任命される前、委員在任中、そしてその職を辞した後にそれぞれどのような地位にあったか(あるか)について情報を公開すべきである。その種の情報が明らかにされれば、規制対象となる企業との人的なつながりが果たしてルールの厳格な適用を妨げているかどうかを検討することが可能となるだろう。</li>
<li>上記で公開された情報を精査し、その分析結果に照らして「利益相反」の問題に対処する策を講じる必要がある。その場合、現時点における産業界との人的なつながりだけではなく、将来における産業界との人的なつながり(いわゆる「天下り」問題)(訳注;規制当局で委員を務めた人物や規制当局で働く官僚がその職を辞した後に規制対象となっている企業に天下ることを認めてもいいかどうか)も検討の対象となることだろう。その対策の具体的な内容が固まった暁には国民に向けて大々的に公表し、規制当局は社会全体の利益を何よりも優先する旨を確約すべきである。</li>
</ul>
成果主義(成果に基づく報酬の支払い)というアイデアは最近はあまり受けがよくないようだが、規制当局者にルールを忠実に執行するインセンティブを持たせる手段の一つとして金融システムの健全性がどの程度保たれているかに応じて規制当局者に支払う報酬の額を決める(訳注;そうすることで金融システムの健全性を保つことが規制当局者自身の利益(自己利益)ともなるように仕向ける)という大胆な可能性を探ってみるべきであろう。そのためには金融システムの健全性(あるいはその反対に脆弱性)をできるだけ正確に測る指標を作成する必要があるが、仮にそのような指標が作成できた暁には規制当局者に支払う報酬の額をその指標に照らして決める(その指標の変動に応じて報酬の額を上下させる)という一種の成果主義的な報酬制度を導入する道が開かれることになる。仮にそのような報酬制度が実際にも導入される運びとなったら、規制当局者は(実際のところは自己利益に従って行動しているものの結果的に)社会全体の利益を優先しているかのように振る舞うよう促される可能性があるのだ。<br />
<br />
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<span style="font-size: large;"><参考文献></span><br />
<br />
●Jean-Jacques Laffont and Jean Tirole (1993), <i><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/0262121743/" target="_blank">A Theory of Incentives in Procurement and Regulation</a></i>, MIT Press.<br />
●Ernesto Dal Bó (2006), “<a href="http://oxrep.oxfordjournals.org/content/22/2/203.abstract" target="_blank">Regulatory Capture: A Review</a>,” <i>Oxford Review of Economic Policy</i>, 22(2): 203-225.<br />
<br />
<hr />
(欄外訳注1) 規制対象となる企業が規制当局に対して政治的な働きかけを行う結果として規制の内容が社会全体の利益よりも規制対象となる企業の側の利益を優先するような方向に歪められたり、規制の適用にあたって手心が加えられたりすること<br />
<br />
(欄外訳注2) FSAは2013年4月に解体され、その権限は金融行為監督機構(FCA)とイングランド銀行内に設置された金融安定政策委員会(FPC)およびプルーデンス規制機構(PRA)の3つの機関に委譲されている。詳しくは例えば次の論文を参照のこと。 ●小林襄治, “<a href="http://www.jsri.or.jp/publish/research/pdf/82/82_02.pdf" target="_blank">英国の新金融監督体制とマクロプルーデンス政策手段</a>(pdf)”(証券経済研究, 第82号(2013 . 6))voxwatcherhttp://www.blogger.com/profile/10317675353577588272noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2302196195769960775.post-61379988333520563322014-10-07T22:18:00.002+09:002014-10-07T22:22:07.243+09:00Jordi Galí 「タブーへの挑戦 ~財政ファイナンスの効果を探る~」<span style="font-size: large;">Jordi Galí, “<a href="http://www.voxeu.org/article/effects-money-financed-fiscal-stimulus" target="_blank">Thinking the unthinkable: The effects of a money-financed fiscal stimulus</a>”(<i>VOX</i>, October 3, 2014)</span><br />
<span style="font-size: large;"><br /></span>
<blockquote class="tr_bq">
<i>今般の経済危機の過程では各国の中央銀行によって数多くの非伝統的な金融政策が採用されることになったが、各国は未だ景気低迷から抜け出せずにいる。本論説では、政府支出の一時的な拡大の財源を貨幣の発行で賄う政策(「財政ファイナンス」)の効果について論じる。現実に近いモデルの枠内で財政ファイナンスの効果を評価すると、財政ファイナンスは生産と雇用を大きく刺激し、インフレを若干上昇させるとの予測結果が得られることになる。</i></blockquote>
<br />
「財政ファイナンスは経済論議の中でタブーの一つと見なされるまでになっている。有害な政策と断じられているばかりではない。提案することはおろか、考えてすらいけないものと見なされているのだ」-アデール・ターナー卿(2013)
<br />
<br />
<br />
今般の経済・金融危機は伝統的なマクロ安定化政策(あるいは反循環的な政策)が抱える限界を知らしめることになった。経済活動の落ち込みを受けて各国の金融当局と財政当局はそれぞれ金利の急速な引き下げと構造的財政赤字の大幅な拡大に乗り出したが、景気の回復を待たずして打つ手が無くなる事態に追い込まれることになった。経済危機を迎えてから比較的早い段階で政策金利はゼロ下限制約に達することになり、(大幅な構造的財政赤字に乗り出した結果として)政府債務残高の対GDP比がかなり高い水準にまで上昇を続けた関係もあって各国の政府は財政再建を強いられることになった――多くの国ではまだその途上にある――のである(財政再建は景気回復を遅らせ、経済にさらなる痛みを加える格好となった可能性がある)。それに加えて、主要な中央銀行は非伝統な金融政策にも踏み出すことになったわけだが、そのような一連の政策は金融システムに安定を取り戻し、銀行部門の収益の改善を後押しする上ではそれなりの役割を果たした可能性はあるものの、特に今回の金融危機で最も大きな痛手を受けたいくつかの国においては総需要を十分に刺激するには至らず、生産と雇用をぞれぞれ潜在的な水準(潜在GDPや自然失業率)にまで引き戻すことはできなかったのである。<br />
<br />
名目金利の引き下げも国債の発行も伴わずして経済を刺激し得るような政策について真剣に検討すべき時が来ている。というのも、これ以上名目金利を引き下げることは不可能であり、(政府債務残高の対GDP比が歴史上稀に見るほど高い水準に達しているばかりか、なおも上昇する勢いにある事実を踏まえると)政府債務残高をこれ以上増やすことは望ましくないからである。また、政府支出の拡大にあわせて税金を引き上げる(政府支出の財源を捻出するために増税する)というのも魅力ある選択肢とは言えない。多くの国では税率は既に高い水準にあるだけでなく、税金の引き上げは自滅的な結果をもたらす(訳注;税金の引き上げが政府支出の効果を打ち消す)可能性があるからだ。さらには、労働コストの削減や構造改革に力点を置いた提案に対してはここにきて疑問視する声が上がっている。労働コストの削減や構造改革が生産の拡大に結び付くかどうかはそれと同時に金融緩和が伴うかどうかにかかっているとの反論が寄せられているのだ(原注;例えば次の論文を参照のこと。Eggertsson et al.(2013), Galí (2013), Galí and Monacelli(2014))――そして金融緩和の余地はもう無いときているのである――。<br />
<br />
<br />
<b>財政ファイナンス</b>(Money-financed fiscal stimulus)<br />
<br />
つい最近の論文で私は経済を刺激し得るような政策の候補の一つに検討を加えている(Galí 2014)。その候補というのは、政府支出を一時的に拡大するための財源を貨幣の発行で賄うというもの(以下、「財政ファイナンス」)である。冒頭で引用したターナー卿の言葉にあるように、財政ファイナンスは政策当局者の世界では「口にするのも憚られる」一種の「タブー」と見なされている。しかしながら、研究者はそのようなタブーに縛られるべきではないだろう。社会的に広く共有されている目標(例. 完全雇用と物価安定)の達成を促す可能性があればいかなる政策であれその帰結を探ってみる必要があり、その過程で明らかになった発見は包み隠さず(必要な注意書きも忘れず添えた上で)公にしなければならない。それが我々研究者の責任なのだ。<br />
<br />
私の研究を通じて得られた中心的なメッセージは次の通りである。<br />
<br />
<ul>
<li>財政ファイナンスが生産やインフレに及ぼす影響はモデルの種類(どのようなモデルを選ぶか)に大きく依存する</li>
</ul>
<br />
「理想的な」古典派モデル――あらゆる市場で完全競争が行われており、名目賃金を含むあらゆる名目価格が完全に伸縮的であるような貨幣経済のモデル――の枠内では財政ファイナンスが生産や雇用を刺激する効果はごく限られたものであり、一方で(財政ファイナンスの結果として)インフレは即座に大幅な上昇を見せることになる。また、民間の消費は減少することになる。望ましい効果もあるにはある。財政ファイナンスは即座に大幅なインフレをもたらすことになるが、その結果として(債務の実質的な価値が低下することで)政府債務残高の対GDP比が縮小するのである。 財政ファイナンスが引き起こす結果をすべて考慮すると、 「理想的な」古典派モデルの枠内では財政ファイナンスは到底お勧めできない政策ということになるだろう(原注;「理想的な」古典派モデルでは、財政ファイナンスは家計の効用を確実に低下させることになる)。個人的な推測だが、財政ファイナンスをタブー視する態度の背後にはこのような「古典派」的な発想が控えているのではないだろうか。<br />
<br />
しかしながら、以上の議論は必ずしも正しいものとは言い切れないかもしれない。論文の中でも詳しく論じていることだが、「理想的な」古典派モデルから離れてもう少し現実に近いモデル――市場では不完全競争が行われており、名目賃金や名目価格が粘着的であるような貨幣経済のモデル――の枠内で財政ファイナンスの効果を評価すると、その結果は「理想的な」古典派モデルの枠内で得られる結果とは大きく違ってくるのである。<br />
<br />
<ul>
<li>(現実に近いモデルの枠内では)財政ファイナンスは複数年にわたって実体経済活動を大きく上向かせることになる。それに伴ってインフレも上昇することになるが、比較的穏やかな水準にとどまることなる。</li>
</ul>
<br />
実体経済活動が大きく刺激される理由は予想インフレ率の上昇によって実質金利がしばらくの期間にわたって低く抑えられ、その結果として民間消費と投資が刺激されるためである。<br />
<br />
<ul>
<li>政府債務残高の対GDP比は時とともに縮小していく。その主たる理由は実質金利がしばらくの期間にわたって低く抑えられるためである。</li>
<li>当初の生産量が効率的な水準を十分大きく下回っている場合は、財政ファイナンスを通じて実施される政府支出がまったく無駄な対象に費やされたとしても経済厚生は改善されることになる。</li>
</ul>
<br />
政府支出の対象が生産性の向上につながるような公共投資に向けられる場合には財政ファイナンスが経済厚生を改善する効果はもっと大きくなることだろう。<br />
<br />
現実に近いモデルから得られる以上のような予測結果は量的緩和をはじめとした非伝統的な金融政策のこれまでの経験とは大きな対照をなしている。非伝統的な金融政策は総需要に直接的に影響を及ぼすものではないが、そのためにこれまでのところ多くの国々――特にユーロ圏経済――を低迷から救い出すことができずにいるのだ(訳注;一方で、財政ファイナンスは総需要に直接的に影響を及ぼすことになる。というのも、政府支出の拡大が伴うためである)。財政ファイナンスはユーロ圏のような通貨同盟向けの政策としての利点も備えている。財政ファイナンスでは政府支出の拡大が伴うわけだが、高失業や低インフレ(あるいは長引くデフレのリスク)に悩まされている地域を選定した上でその地に政府支出を集中させるという方法も採り得るのである。<br />
<br />
特にユーロ圏経済に言えることだが、古色蒼然とした偏見から脱却し、これまでに試されてきたどの方法よりもずっと確実に総需要を刺激し得る方法を試すべき緊急の必要性に迫られている事実に向き合う時が来ているのかもしれない。財政ファイナンスを選択肢の一つとして真剣に考慮すべき時が来ているのだ。<br />
<br />
<br />
<span style="font-size: large;"><参考文献></span><br />
<br />
●Eggertsson, G, A Ferrero, and A Raffo (2013), “<a href="http://www.econ.brown.edu/fac/gauti_eggertsson/papers/CR_April15.pdf" target="_blank">Can Structural Reforms Help Europe?</a>(pdf)”, Brown University, mimeo<br />
●Galí, J (2013), “<a href="http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/jeea.12032/abstract" target="_blank">Notes for a New Guide to Keynes (I): Wages, Aggregate Demand and Employment</a>”, <i>Journal of the European Economic Association</i>, 11(5), 973-1003.<br />
●Galí, J and T Monacelli (2014), “<a href="http://www.cepr.org/pubs/dps/DP9806" target="_blank">Understanding the Gains from Wage Flexibility: The Exchange Rate Connection</a>”, CREI working paper.<br />
●Galí, J (2014), “<a href="http://www.cepr.org/pubs/dps/DP10165" target="_blank">The Effects of a Money-Financed Fiscal Stimulus</a>”, CEPR Discussion Paper 10165, September.voxwatcherhttp://www.blogger.com/profile/10317675353577588272noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2302196195769960775.post-83462829560412289452014-10-04T01:33:00.000+09:002014-10-04T01:49:03.590+09:00Lucrezia Reichlin, Adair Turner and Michael Woodford 「ヘリコプターマネーの是非を問う」<span style="font-size: large;">Lucrezia Reichlin, Adair Turner and Michael Woodford, “<a href="http://www.voxeu.org/article/helicopter-money-policy-option" target="_blank">Helicopter money as a policy option</a>”(<i>VOX</i>, May 20, 2013)</span><br />
<br />
<blockquote class="tr_bq">
<i>ヨーロッパ全体が長引く景気低迷に追いやられる中、非伝統的な政策オプションを探し求める動きがますます盛んになっている。そのような中で依然として押し入れの奥深くに閉じ込められたままになっている政策が存在する。その名は「ヘリコプターマネー」――中央銀行が財政赤字を直接賄ういわゆる「財政ファイナンス」――である。本論説は世界を代表する3名の貨幣経済学者が「ヘリコプターマネー」をテーマに討論を行った際の模様を再現したものである。</i></blockquote>
<br />
<b>イントロダクション(by ルクレツィア・ライシュリン)</b><br />
<br />
金融危機が勃発して以降、各国の中央銀行は金融市場の動揺が続く中で総需要(名目支出)の安定化を目指して数々の非伝統的な金融政策に乗り出してきた。非伝統的な金融政策と一括りにはされても個々の政策ごとに直接的な目標(マーケットメイキング、長期金利をはじめとした資産価格のコントロール、補助金の提供を通じた信用支援等々)は異なっている。こういった一連の非伝統的な金融政策はリーマン・ブラザーズの破綻に続いて起こった銀行危機を和らげ、金融市場に安定を取り戻す上では役割を果たしたと評価されている。しかしながら、実体経済に対する効果については依然として不確実な面が多い(原注;非伝統的な金融政策がマクロ経済(特にアメリカ経済)に及ぼした効果に関する実証的な分析としては例えばKhrishnamurthy&Vissing-Jorgensen(2011)を参照されたい。また、欧州中央銀行(ECB)による非伝統的な金融政策についてはLenza&Pill&Reichlin(2010)を参照のこと)。<br />
<br />
非伝統的な金融政策が実体経済にどのような効果を及ぼすのかはっきりしたことがわからない状況が続いている中、日本銀行が突如として大胆な行動プランを明らかにした。今後2年間でマネタリーベースならびに国債の保有額を2倍に拡大すると発表したのである。<br />
<br />
非伝統的な金融政策を巡っては大きく対立する2つの立場がある。<br />
<ul>
<li>量的緩和は将来におけるバブルの温床となるだけではなく、量的緩和から手を引く(撤退する)過程では金融システムの安定性が損なわれる恐れがある(詳しくはStein(2013)を参照のこと)</li>
<li>実体経済を上向かせるためには量的緩和よりもさらに積極的な行動が必要だ</li>
</ul>
つい最近になってアデール・ターナー卿が「量的緩和よりもさらに積極的な行動」の一つを提言している(Turner 2013)。 「ヘリコプターマネー」である(彼は「永続的な貨幣供給」とも呼んでいる)。このアイデアは元々ミルトン・フリードマン(Friedman 1948)によって論じられ、今から10年前の2003年にベン・バーナンキ(Bernanke 2003)によって再び取り上げられたものである。バーナンキはゼロ下限制約に直面している日本経済を念頭に置いていたが、彼は「ヘリコプターマネー」の具体的な手法として一般家庭への給付金の支給あるいは企業に対する減税と歩調を合わせるようにして中央銀行が国債の買い入れを進めること――貨幣の発行を伴う減税――を説いている 。<br />
<br />
「ヘリコプターマネー」はそれなりに長い歴史を持つアイデアではあるが、今日ではタブーの一つとなっている。今般の経済危機に対処するために各国の中央銀行は数々の非伝統的な金融政策に乗り出すことになったわけだが、その結果として各国の中央銀行のバランスシートはいずれも大きく拡大することになった。しかしながら、マネタリーベースの拡大を明確な目標に掲げるだけでなく、マネタリーベースの「永続的な」拡大にコミットした例は――先の日本銀行を含めても――ここ最近ではない。しかしながら、経済学界の中からは「ヘリコプターマネー」を支持する声がちらほらと聞こえてきている。<br />
<br />
2012年に開催されたジャクソンホール・シンポジウムでマイケル・ウッドフォードが「フレキシブル・インフレ目標」の変種を提案している。中央銀行が名目変数(例えば、名目GDPの将来経路)に関して目標を設定し、その目標の達成に向けてコミットするというもの(名目GDP水準目標)だが、その枠組みの中で採り得る手段についてもいくつか論じられている。その中の一つが給付金の支給と組み合わされたマネタリーベースの「永続的な」拡大である(Woodford 2012)。<br />
<br />
世界各国が長引く景気低迷に苦しめられている現在、押し入れの奥深くに閉じ込められたままになっている選択肢も含めてありとあらゆる可能性を俎上に乗せてみるには絶好の機会だろう。<br />
<br />
<hr />
以下は「ヘリコプターマネー」をテーマとした3名の経済学者の討論の模様を再現したものである。ライシュリンが質問し、それにターナーとウッドフォードが回答する質疑応答の形式をとっている。<br />
<br />
<span style="color: blue;"><質問その1> ターナー卿に質問です。金融政策のオプション(手段)の一つとして「ヘリコプターマネー」が特に今現在の状況においてその適切さを増しているとお考えになる理由をご説明願えるでしょうか?</span><br />
<br />
<b>アデール・ターナー</b>(以下、「ターナー卿」): 「ヘリコプターマネー」とは何か?という点から軽く触れさせていただきますと、私個人としては中央銀行が(新発国債を直接引き受けることで)財政赤字を直接賄ういわゆる「財政ファイナンス」の意味で使っています。「ヘリコプターマネー」だけが総需要(名目支出)を確実に刺激できる唯一の手段だと言えるような状況があるかもしれません。それに加えて、「ヘリコプターマネー」は現在各国の中央銀行が広く採用している非伝統的な金融政策と比べると将来的に金融システムの安定性を脅かす可能性も低いのではないかと考えます。<br />
<br />
まず真っ先に問うておくべき質問があります。果たして今現在は総需要を刺激すべき状況にあるのかどうか?ということです。次の2つの条件のいずれかが満たされるようであればその答えは当然「イエス」ということになるでしょう。まず第1の条件は、総需要の増加が概して実質的な産出量(実質GDP)の増加というかたちをとって表れる可能性が高いこと。そして第2の条件は、(総需要が増加する結果として生じる)インフレ率の上昇それ自体が望ましい効果を持つと考えられることです。現在のところ先進国の中には以上の2つの条件が当てはまる国がいくつかあると考えられます。そのような国では金融危機の余波を受けて民間部門でデレバレッジ(債務の圧縮)が進められている最中であり、そのために景気に大きな下押し圧力がかかっています。その結果、名目GDP成長率も極めて低い状態にあります。一方で先の2つの条件が満たされないようであれば、「ヘリコプターマネー」は言うまでもなく名目GDPを刺激するような政策はいかなるものであれ試すべきではないということになるでしょう。<br />
<br />
ここでは先の2つの条件が満たされており、それゆえ名目GDP成長率を高めることが望ましいとの前提で話を進めることにしましょう。しかし、ここに厄介な問題が控えています。「ヘリコプターマネー」以外の政策にはあまり効果が期待できなかったり好ましからぬ副作用が伴う可能性があるのです。金融政策は――伝統的な金融政策も非伝統的な金融政策もいずれも――「ひもを押している」かのような状況に置かれている可能性があります。民間部門がデレバレッジ(債務の圧縮)に奔走する「バランスシート不況」が続く中で政策金利はゼロ%にまで引き下げられることになりましたが、(銀行貸出をはじめとした)信用の供給や需要を十分に刺激することはできませんでした。量的緩和を通じて長期金利の低下を促しても同様に効果はあまり期待できないかもしれません。それに加えて、金利を長い期間にわたって極めて低い水準に抑えつけておくと投資家たちの利回り追求行動(search for yield)を後押しする格好となり――その過程では新たな金融商品の開発やキャリートレードが盛んに行われることでしょう――、その結果として将来的に金融システムの安定性を脅かす火種をまいてしまうことにもなりかねません。<br />
<br />
金融政策に比べると通常の(国債を市中で発行して得られた資金を財源とする)財政政策(財政刺激策)の方がまだ効果が高いと言えるかもしれません。中央銀行がフォワードガイダンスに乗り出している(しばらくの期間にわたって金利を低い水準に据え置くことを約束している)状況では財政乗数は大きな値をとる可能性があります。しかしながら、政府債務残高が既に高い水準にあってなおも累増する勢いを見せているような状況では、政府債務の持続可能性に強い疑いが持たれ出し、それに伴って「リカードの中立命題」がその効果を露わにし始める可能性があります。減税が実施されても「将来的に増税が行われてその埋め合わせがなされるに違いない」と国民の多くが予想する(訳注;そして将来の増税に備えて貯蓄を増やす(消費を減らす))ようになる可能性があるのです。<br />
<br />
こういった事情を踏まえると、「ヘリコプターマネー」も選択肢の一つとして考慮すべきだというのが私の考えです。前FRB議長であるベン・バーナンキも2003年に日本に対して「ヘリコプターマネー」の採用を勧めています。仮に日本が2003年の時点で「ヘリコプターマネー」の採用に乗り出していたとしたら、実質GDPや物価は今よりも高い水準にあり、政府債務残高の対GDP比も今よりも低い水準に抑えられていたことでしょう。<br />
<br />
<br />
<span style="color: blue;"><質問その2> 次にウッドフォード教授に質問です。ターナー卿が提案している「ヘリコプターマネー」は経済にどのような効果を及ぼすと思われますか? 通常の量的緩和と比較して効果の面で違いはあるでしょうか? もう一つ質問です。ターナー卿が提案している「ヘリコプターマネー」とあなた自身が提案されている名目GDP水準目標との間にはどのような関係があると思われますか?</span><br />
<br />
<b>マイケル・ウッドフォード</b>(以下、「ウッドフォード教授」): 理論的に考えますと、「ヘリプターマネー」も量的緩和もまったく同じ均衡に至る可能性があります。量的緩和では中央銀行が市中にある国債(既発国債)を購入することでマネタリーベースが増えることになるわけですが、ここでは一つの想定として一旦拡大されたマネタリーベースがその後もずっと(永続的に)そのままの状態に置かれることが公に宣言されるとしましょう。一方で、「ヘリコプターマネー」提案では国民に対する給付金の財源としてマネタリーベースが活用されることになるわけですが、こちらでもやはり一旦拡大されたマネタリーベースがその後もずっと(永続的に)そのままの状態に置かれることが公に宣言されると想定することにしましょう。さらには、どちらのケースでも将来にわたる政府支出の経路に違いはなく、中央銀行が手にするシニョリッジ(通貨発行益)は国庫に納付され(政府の税収となり)、市中にある国債の償還と政府支出を賄う上で必要なだけの課税が行われるとしましょう。こういった一連の仮定に加えて完全予見(perfect foresight)の想定を置くと、どちらのケースでもマネタリーベースの拡大規模が同じである限りは理論的にはまったく同じ均衡に至ることになります。また、予算に及ぼす効果の面でも両者の間で違いはありません。量的緩和の下では中央銀行は市中から国債を買い取ることになりますが、中央銀行が買い取った国債に対して支払われる金利はやがては国庫に納付される(財務省に払い戻される)ことになります。中央銀行と政府の予算に及ぼす効果ということに関して言うと中央銀行が国債を買い取ってはいない場合と何の変わりもなく、「ヘリコプターマネー」ではこの点がもっとはっきりしています。<br />
<br />
しかしながら、実際問題としては二つの政策は異なる効果を生む可能性があります。政策の将来の成り行きについて二つの政策の間で国民が異なる認識を持つかもしれないからです。量的緩和のケースでは国民は一旦拡大されたマネタリーベースがその後もずっと(永続的に)そのままの状態に置かれるとは受け取らないかもしれません。2001年~2006年に日本で実施された量的緩和がまさにそうでしたし(訳注;マネタリーベースの拡大が永続的なものではなかった)、アメリカやイギリスの政策当局者は中央銀行のバランスシートを今後もずっと膨らんだままにしておくつもりはないと語っています。マネタリーベースの拡大が一時的なものに過ぎない(永続的なものではない)と国民に受け取られる場合には総需要が刺激されることはないと考えられます。一方で、「ヘリコプターマネー」のケースでは一旦拡大されたマネタリーベースをその後もずっとそのままにしておくとの宣言が信用される可能性は高いと言えるかもしれません。それに加えて、「ヘリコプターマネー」のケースでは国民の手に直接現金(給付金)が渡ることになります。量的緩和の場合だと支出を増やす余裕が生まれた事実に気付くために国民は将来の状況(異時点間の予算制約)にどのような変化が生じたかを事細かく検討する必要がありますが、「ヘリコプターマネー」の場合はそのような細かい検討をせずとも現金(給付金)を直接手にすることで国民は支出を増やす余裕が生まれた事実にすぐに気付く可能性があります。<br />
<br />
というわけで、量的緩和と比べるとターナー卿の提案(「ヘリコプターマネー」)の方が効果がありそうだと個人的には判断するわけですが、「ヘリコプターマネー」と同様の効果を持つ政策は他にもあるのではないかと思います。それも「ヘリコプターマネー」と同じく将来を見通す能力の面で国民に多くを要求せずとも効果が期待できるものです。それは何かと言いますと、給付金の財源は通常のように国債を市中で発行して賄うわけですが、それと足並みを揃えるようにして中央銀行が名目GDP水準目標に乗り出せばよいのです。マネタリーベースの拡大規模(ないしはその将来経路)が「ヘリコプターマネー」のケースと同じであれば(そうなるように名目GDPの目標水準(目標経路)を定めれば)、完全予見の想定の下では両者はまったく同じ均衡に落ち着くことになるでしょう。また、「ヘリコプターマネー」のケースと同様に国民の手に直接現金(給付金)が渡ることになります。そのため将来の状況(異時点間の予算制約)にどのような変化が生じたかを細かく検討しなくとも国民は支出を増やす余裕が生まれた事実に容易に気付くかもしれません。つまりは、将来を見通す能力の面で国民に多くを要求せずとも景気を刺激する効果が期待されるわけです。流動性制約下にある国民がいる場合も同様に景気の刺激につながるでしょう。「ヘリコプターマネー」との違いと言えば、国民に給付金が支払われるプロセスに中央銀行が直接関与することはないというところです。それゆえ私のこの提案では金融政策と財政政策はこれまで通り分離されたままになります。<br />
<br />
<br />
<span style="color: blue;"><質問その3> ターナー卿に質問です。ウッドフォード教授のお話によりますと、ヘリコプターマネーよりも望ましくて適当な政策があるということです。政府が国債を発行して給付金の財源を市中で調達すると同時に中央銀行が名目GDP水準目標に乗り出せばよいとのことですが、ウッドフォード教授のご意見に同意なさいますか?</span><br />
<br />
<b>ターナー卿</b>: ウッドフォード教授がいみじくも指摘されたように、完全予見の想定が妥当するようであれば、ウッドフォード教授が提案する政策も私自身が提案する「ヘリコプターマネー」もまったく同じ均衡に辿り着くことでしょう。しかしながら、完全予見は常に成り立つわけではないかもしれません。「ヘリコプターマネー」では給付金の財源は中央銀行が発行する貨幣によって直接賄われており、その貨幣が国民の手元に直接渡ることになるわけですが、完全予見が成り立つようにするためにはそのような透明性の高い仕組みが必要となるかもしれません。<br />
<br />
ウッドフォード教授の提案のポイントは次の2点にあると言えるでしょう。まず第1点目は、政府が財政赤字の拡大を許容して(減税ないしは政府支出の拡大を通じて)国民の手元に入るお金の量を増やす。そして第2点目は、中央銀行が名目GDP水準目標に乗り出すことを宣言し、名目GDPを目標水準(目標経路)に留めておく上で必要なだけの買いオペを行う(国債を市中から購入する)。おそらくは目標を達成する上ではマネタリーベースの永続的な拡大を伴うことでしょう。<br />
<br />
名目GDP水準目標の達成に向けて取り組む過程で拡大されたマネタリーベースはその後もずっと(永続的に)そのままの状態に置かれる(マネタリーベースの拡大は永続的なものである)と国民から受け取られる場合、政府が財政赤字の拡大を許容したからといって将来の税負担が増えるわけではないと正しく認識される可能性があり、それゆえ国民も将来の税負担について心配することはなくなるかもしれません。言い換えると、財政刺激策の財源は結局のところは中央銀行による貨幣の永続的な拡大によって賄われているのだということが国民によって正しく理解される可能性もなくはありません。<br />
<br />
つまりは、ウッドフォード教授の提案は実質的には財政ファイナンスだと言えるわけですが、「ヘリコプターマネー」ほどその点が明白ではないわけです(訳注;財政赤字の財源が貨幣の発行によって賄われている点が「ヘリコプターマネー」ほど明白ではない)。そしてそのために完全予見が成り立たない恐れがあり、財政赤字が拡大している(政府が国債の発行を増やしている)様子を見て国民が「将来の税負担が増えているのではないか?」と勘違いしてしまう可能性があるのです。そのような勘違いが起こる場合には名目GDP水準目標を達成するためにかなり大規模な買いオペを行う必要があるかもしれません。先にも触れましたが、かなり大規模な買いオペが必要となる場合には金融システムの安定性が脅かされる恐れがあります。<br />
<br />
「ヘリコプターマネー」のような“明白なかたちの”財政ファイナンスにも問題はあるかもしれません。とりわけ個人的に重要だと思う問題は、「中央銀行の独立性」と抵触しないようにすることは可能なのかどうか? 財政ファイナンスの行き過ぎを阻止することは可能なのかどうか? というものです。そしてそれは可能だと考えます。<br />
<br />
<br />
<span style="color: blue;"><質問その4> 「ヘリコプターマネー」は財政政策の一種だと考えられますが、そうだとすると一つの問題が持ち上がってくることになります。どの機関がその政策を受け持つべきか? という問題です。中央銀行でしょうか? 財務省でしょうか? それとも両者が共同で担当すべきでしょうか? この問題は「中央銀行の独立性」という原則を脅かす可能性があります。そこまでいかなくとも、政府(財務省)と中央銀行との関係を律しているルールの再考を迫る可能性があるとは言えるでしょう。ウッドフォード教授に質問です。金融政策と財政政策との垣根が曖昧になるとそれに伴ってモラル・ハザードの問題が引き起こされる可能性があるわけですが、そのような問題に対処するにはどうすればよいとお考えでしょうか?</span><br />
<br />
<b>ウッドフォード教授</b>: 「ヘリコプターマネー」に関してはそのような問題が伴うかもしれませんが、私がつい先ほど語った提案はその問題を免れていると思います。私の提案の方が好ましいと考える理由もこの点にあります。私の提案では金融政策と財政政策が共同歩調をとる必要がありますが、両者がこれまで通り別々に分離した状態のままであってもそれは可能です。国民に給付金を支払い、国債を市中で発行してそのための資金を調達し、そして満期を迎えた国債を償還するために将来的に課税を行う。以上の任務は財政当局が単独で行うことが可能です。一方で、名目GDP水準目標を達成するために必要なだけの公開市場オペレーションを行い(あるいは名目GDPが目標を下回る場合は名目金利をゼロ%に据え置き)、資産の獲得(購入)と引き換えに負債(マネタリーベース)を発行し、シニョリッジをはじめとした収益を国庫に納付する。以上の任務は中央銀行が単独で行うことが可能です。望ましい均衡を実現するために両者が緊密に協力する必要があるからといってそこからただちに「金融政策が財政当局に乗っ取られてしまう」ということになるわけではありませんし、「モラル・ハザードが誘発されるのではないか?」と過敏になる必要もないと思われるのです。それにそもそもの話として、財政当局がどのように行動しようとも中央銀行が名目GDP水準目標の達成に向けて全身全霊を注げばそれで構わないのです。特にゼロ下限制約に直面している場合には財政当局の協力が得られれば成功の可能性も高まるとは思いますが――というのは、財政刺激策は予想への働きかけに頼らずともその効果を発揮するからです――、財政当局の協力が得られようと得られまいと中央銀行にとっては名目GDP水準目標の達成に向けて邁進することが賢明な策であることには変わりないでしょう。<br />
<br />
<br />
<span style="color: blue;"><質問その5> ターナー卿に質問です。あなたが提案されている「ヘリコプターマネー」を実行に移した場合、それに伴って「中央銀行の独立性」が脅かされる恐れがあると懸念する声がありますが、そのような意見に対してどのようにお答えなさるでしょうか?</span><br />
<br />
<b>ターナー卿</b>: 財政ファイナンスを選択肢の一つとして認めることはタブーを犯すことを意味しており、それには大きなリスクが伴うという意見については「まったくその通りだ」と私も同意します。しかしながら、そのようなリスクを回避する術はいくつかあるとも考えます。また、ウッドフォード教授のご意見に異を唱える格好になりますが、ウッドフォード教授が提案されている政策もやはり財政規律を損なう危険性を抱えているのではないかとも考えます。<br />
<br />
現在最も求められている政策を実現するためには金融政策と財政政策が緊密に協力する必要があるという点についてはウッドフォード教授と私とで意見の違いはありません。ウッドフォード教授の提案に従いますと、財政当局はクラウディング・アウトの可能性を気にかけることなく積極果敢な財政政策に打って出ることが可能です――その結果、景気も刺激されることになるでしょう――。というのも、中央銀行が名目GDP水準目標の達成に向けて大量の国債を購入し、その後もずっと購入した国債を保有し続ける(一旦購入した国債を決して売らない)可能性が高いことがわかっているからです。しかしながら、まさにそれだからこそ財政規律が損なわれる危険性があるのです。中央銀行が名目GDP水準目標を達成する上で必要となる規模を上回るほどの過大な財政赤字が生み出される可能性も捨てきれないのです。<br />
<br />
私が提案する「ヘリコプターマネー」も財政規律を損なう危険性はありますが、そのような危険性を回避する手立ての一つとして独立した中央銀行が前もって財政ファイナンスの規模(国債の直接引き受けを通じて賄う財政赤字の規模)を決めるようにすればいいでしょう。まずはじめに中央銀行が政策目標(インフレ目標あるいは名目GDP目標)を達成する上でどのくらいの規模であれば国債を直接引き受けても問題ないかを決める。そしてその後に財政当局が具体的な使途(減税に回すかそれとも政府支出に回すか)を決めるわけです。中央銀行が財政ファイナンスの規模を決める際はあくまで政府から独立した立場で検討を加え、通常の金融政策を決める際と同じ政策決定プロセス(政策委員会)を通じて判断が下されることになるでしょう。<br />
<br />
<i>編集後記: 本論説は2013年4月に経済政策研究センター(CEPR)とロンドン・ビジネス・スクールが共同で開催した討論会の模様を再現したものである。この討論会ではルクレツィア・ライシュリンが司会を務め、アデール・ターナーとマイケル・ウッドフォードが「ヘリコプターマネー」をテーマに討論を行った。</i><br />
<br />
<br />
<span style="font-size: large;"><参考文献></span><br />
<br />
●Bernanke, B (2003), “<a href="http://www.federalreserve.gov/boarddocs/speeches/2003/20030531/" target="_blank">Some Thoughts on Monetary Policy in Japan</a>”(邦訳 『<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4046028459/" target="_blank">リフレが正しい。~FRB議長ベン・バーナンキの言葉~</a>』の第7章に収録), speech, Tokyo, May.<br />
●Friedman, Milton (1948), “<a href="http://www.jstor.org/discover/10.2307/1810624?uid=3738328&uid=4578250477&uid=2&uid=3&uid=60&sid=21104249631891" target="_blank">A Monetary and Fiscal Framework for Economic Stability</a>”, The American Economic Review 38, June.<br />
●Giannone, D, Lenza, M, Pill, H and Reichlin, L (2012), “<a href="http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/j.1468-0297.2012.02553.x/abstract" target="_blank">The ECB and the interbank market</a>”, Economic Journal.<br />
●Khrishnamurthy A and Vissing-Jorgensen, A (2011), “<a href="http://www.brookings.edu/~/media/Projects/BPEA/Fall%202011/2011b_bpea_krishnamurthy.PDF" target="_blank">The Effects of Quantitative Easing on Interest Rates</a>(pdf)”, Brooking Papers of Economic Activity, Fall.<br />
●Lenza, M, Pill, H and Reichlin L (2010), “<a href="http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/j.1468-0327.2010.00240.x/abstract" target="_blank">Monetary policy in exceptional times</a>”, Economic Policy 62, 295-339.<br />
●Stein, AJ (2013), “<a href="http://www.federalreserve.gov/newsevents/speech/stein20130207a.htm" target="_blank">Overheating in Credit Markets: Origins, Measurement, and Policy Responses</a>”, speech at the research symposium sponsored by the Federal Reserve Bank of St Louis, St Louis, Missouri, 7 February.<br />
●Turner, A (2013), “<a href="http://www.fsa.gov.uk/library/communication/speeches/2013/0206-at" target="_blank">Debt, Money and Mephistopheles</a>”, speech at Cass Business School, 6 February.<br />
●Woodford, M (2012), “<a href="http://www.columbia.edu/~mw2230/JHole2012final.pdf" target="_blank">Methods of Policy Accommodation at the Interest-Rate Lower Bound</a>(pdf)”, speech at Jackson Hole Symposium, 20 August.voxwatcherhttp://www.blogger.com/profile/10317675353577588272noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2302196195769960775.post-61505543401749061672014-10-04T01:21:00.000+09:002014-10-04T01:21:43.046+09:00Ricardo Caballero 「ヘリコプタードロップ ~Fedから財務省への贈り物~」<span style="font-size: large;">Ricardo Caballero, “<a href="http://www.voxeu.org/article/helicopter-drop-us-treasury" target="_blank">A helicopter drop for the Treasury</a>”(<i>VOX</i>, August 30, 2010)</span><br />
<br />
<blockquote class="tr_bq">
<i>目下のところ(2010年現在)アメリカ経済は「流動性の罠」に陥りかけている可能性がある。中央銀行が財政刺激策(例えば、売上税の一時的な大幅減税)に必要な資金を直接賄う(新発国債を直接引き受ける)ようにすれば、「流動性の罠」の下でも金融政策は大きな効果を発揮する可能性がある。また、経済が「流動性の罠」から抜けた後の問題に対処するために、完全雇用が達成された暁には「ヘリコプタードロップ」を通じて財務省の手に渡った資金が再びFedのもとに返還されるようにあらかじめ取り決めておく――「ヘリコプタードロップ」に返還条件を設けておく――必要があるかもしれない。</i></blockquote>
<br />
景気の低迷が長引いており、この閉塞状況から抜け出せそうな気配はなかなか見られない。金融危機が経済システム全体に対して及ぼした大きなショックの影響がまだ完全には消え去っていないことを考えるとそれもやむを得ない面があるが、景気のさらなる落ち込みを防ぐ上でマクロ経済政策が果たすべき重要な役割はまだ残っている。とはいえ、Fedは資源には事欠いてはいないものの有効な手段を欠いており、その一方で財務省は有効な手段は手にしているものの資源に事欠いているというのが現状である。このような不幸な状況から抜け出すためにはFedから財務省に資源を移転すればよいとの結論を導き出すのはごく自然な発想だと言えるだろう。<br />
<br />
しかしながら、事はそう簡単ではない。というのも、金融政策を改善するための努力の多くが強欲な政府から「中央銀行の独立性」を勝ち取ることに捧げられてきたという過去数十年にわたる長い歴史があるからである。しかしながら、いかなるシステムもそれが日々巻き起こる政策問題を前にして錨の役割を果たし得る(訳注;そのシステムの下で暮らす人々の生活に安定をもたらす)ためには免責条項を用意しておく必要がある。そして(免責条項が適用される)例外的な状況においては(おそらくは最初にして)最終的な発言権はFed議長に委ねられるべきであろう。<br />
<br />
「量的緩和がまさしくそのような政策なのではないか?」との意見もあるかもしれないが、「ノー」である。国債(既発国債)の購入を通じた量的緩和は政府の資金調達コスト(国債の利回り)や民間部門が直面する資本コスト(長期資金の調達コスト)を若干ながらも低く抑える役割を果たしていることは確かである。しかしながら、次のような事情も考慮する必要がある。国債の発行は今もなお急速なペースで続いているだけでなく、そもそも財を購入するための十分な(消費)需要がなければ資本コストが少しばかり低く抑えられたところで大して助けとはならないのである。<br />
<b><br /></b>
<b><br /></b>
<b>公的債務を増やさずに減税を実現する方法</b><br />
<br />
公的債務を増やすことなしに拡張的な財政政策(例えば、売上税の一時的な大幅減税)を可能とするような術こそが必要とされているのだ。そしてそのような術というのがFedから財務省に向けた「ヘリコプタードロップ」――Fedが財務省に捧げる(お金という名の)贈り物――なのである。<br />
<br />
そんなのは会計上のごまかしに過ぎないとの批判の声があるかもしれない。政府と中央銀行をあわせた統合政府のレベルで考えると、統合政府のバランスシート上では依然として債務が計上されることに変わりはないではないか、というわけである。しかしながら、そのような批判は重要なポイントを見逃している。経済が「流動性の罠」に陥っている状況では貨幣需要が無限大の大きさになっているのだ。そういった状況で統合政府が抱える債務の構成(内訳)を「貨幣」(ないしは準備預金)の比重が増す方向へと変えれば、政府は一種の「フリーランチ」(ただ飯)を手に入れることができるのだ。<br />
<br />
「「流動性の罠」に陥っている間であればそのようなロジックも妥当するかもしれないが、「流動性の罠」から抜けた後はどうなるのだ? 我々の手に負えない状況がやってくるのではないか?」との批判もあり得るだろう。経済が危機を乗り越えた暁にはFedが速やかにバランスシートの縮小に乗り出しさえすれば――Fedはこれまでにもそのような出口戦略の策定に取り組み続けているわけだが――そのような懸念にも対処することができるだろうが、それに加えて「ヘリコプタードロップ」に返還条件を設けておくという手もあるだろう。例えば、完全雇用が達成された暁には「ヘリコプタードロップ」を通じて財務省の手に渡った資金が再びFedのもとに返還されるようにあらかじめ取り決めておけばいいだろう。<br />
<br />
景気低迷に対処する過程で(拡張的な財政政策を実行する結果として)巨額の財政赤字が発生する場合、通常であればそれに伴って市中で発行される国債の残高も増えることになり、公的債務の持続可能性が危うくなる恐れがある。しかしながら、返還条件付きの「ヘリコプタードロップ」を通じて拡張的な財政政策が実施される場合には景気低迷に対処する過程で市中における国債の残高が増えることもなく、それゆえ公的債務の持続可能性を巡る悪夢のようなシナリオを回避することが可能となる。また、返還条件付きの「ヘリコプタードロップ」を通じてFedが(完全雇用が達成されるまで)一時的に国債を直接引き受けることになれば、金融政策は財政政策に様変わりすることを通じて「流動性の罠」の下であっても大きな効果を発揮する可能性があるのだ。voxwatcherhttp://www.blogger.com/profile/10317675353577588272noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2302196195769960775.post-20713616955508475582014-09-30T06:28:00.000+09:002014-09-30T17:49:26.890+09:00Stephen Grenville 「量的緩和、貨幣の増刷、ヘリコプターマネー、そして財政ファイナンス」<span style="font-size: large;">Stephen Grenville, “<a href="http://www.voxeu.org/article/helicopter-money" target="_blank">Helicopter money</a>”(<i>VOX</i>, February 24, 2013)</span><br />
<br />
<blockquote class="tr_bq">
<i>財政ファイナンスとは具体的にはどのようなものなのだろうか? 本論説では、しばしば同一視されがちな「貨幣の増刷」や量的緩和、財政ファイナンスの間の違いについて説明する。それに加えて、ターナー卿による「ヘリコプタードロップ」提案に伴う課題――民間銀行部門のバランスシートに生じる歪みならびに「中央銀行の独立性」を脅かす可能性――についても触れる。</i></blockquote>
<br />
金融政策(特に量的緩和)を巡る論議の中に混乱の種を持ち込んでいる2つの用語がある。それは「貨幣の増刷」と「ヘリコプターマネー」である(Sinn 2011)。<br />
<br />
<br />
<b>量的緩和≠貨幣の増刷</b><br />
<br />
量的緩和を「貨幣の増刷」(輪転機を回してお金を刷ること)と同一視するのは不適切である。国民が保有する現金の量は現金需要(現金に対する需要)によって決定されるのであって、例えば(イギリスの中央銀行にあたる)イングランド銀行が量的緩和を実施して民間の銀行から債券を購入する際にはその民間銀行がイングランド銀行に開設している預金口座に債券の購入代金が振り込まれるのである。つまりは、量的緩和の過程で増えるのはあくまでも準備預金の量なのであり、準備預金を構成要素とするマネタリーベースの量なのだ。現金に対する需要が増えない限りは「貨幣を増刷する(お金を刷る)」必要はないのである。<br />
<br />
量的緩和が進められる過程で超過準備(民間の銀行が中央銀行に預けている預金のうちで法律で定められている預け入れ額を上回る部分)を抱えることになった民間の銀行は貸出を行ったり債券を購入したりして手持ちの準備預金を減らそうと試みるかもしれない。しかしながら、個々の民間銀行が新たに貸出を行おうと新たに債券を購入しようとマネタリーベースの量は変わらないのである。<br />
<br />
<br />
<b>量的緩和≠ヘリコプターマネー</b><br />
<br />
中央銀行の総裁がへリコプターを操縦し、地上で待ち構える国民に向けて空から大量のお金をばらまく。量的緩和を実施する中央銀行の姿をそのようなイメージとだぶらせる見解は広く見受けられるが、そのような捉え方は量的緩和を「貨幣の増刷」と同一視するよりもずっと誤解を招くものだ。国民に直接現金を配布する権限を持っているのは中央銀行ではなく政府である(現実問題としては現金ではなく小切手が配布されることになるだろう。例えば2009年にオーストラリア政府は多くの納税者に対して「キャッシュ・スプラッシュ」(‘cash splash’)と呼ばれる小切手を配布した)。それゆえ、国民に直接現金を配布する政策(「ヘリコプターマネー」)は金融政策ではなく財政政策の範疇に含まれる。中央銀行は国民に直接現金を配布する権限を持ち合わせてはいないのだ(中央銀行に認められているのは資産同士を交換する(例えば準備預金と国債を交換する)ことだけである。このことは量的緩和に関しても当てはまる)。国民に直接現金を配布する場合はその他の財政政策と同様に議会での予算編成プロセスを通じて承認を受ける必要がある。ヘリコプターを操縦して空からお金をばらまくことができるのは中央銀行ではなく政府なのであり、このような行為(「ヘリコプターマネー」)は財政政策と呼ぶべきなのである。<br />
<br />
「総需要を刺激する上で『ヘリコプターマネー』はどの程度効果があるだろうか?」という点については論者の間で意見に違いがある――どのような政策であれ大抵はその効果を巡って意見に違いが見られるものだが――。クラウディングアウトがそれほど強く働かなかったり、リカードの中立命題が当てはまらないようであれば――需給ギャップが存在しており金融政策を通じて金利が低く抑えられるようであればそうなる可能性は高い――、あるいは財政赤字を賄う上で低金利で借り入れを行う(国債を発行する)ことができるようであれば――今現在はまさにそのような状況にある――、「ヘリコプターマネー」が総需要を刺激する可能性はかなり高いと言えるだろう。突然の施しを手にした国民はそのうちの一部を貯蓄するだろうがそのほとんどを支出に回すことだろう。単なる量的緩和よりも「ヘリコプターマネー」の方が総需要を刺激する上でより確実な方法だと言えそうである。<br />
<br />
<br />
<b>量的緩和の一種としての財政ファイナンス</b><br />
<br />
「(財政赤字を賄うために)国債を発行したら金利が上昇してしまうかもしれない」「マーケットが国債を買い取ってくれないかもしれない」といった懸念があるかもしれないが、そのような場合は中央銀行が財政赤字を直接賄うという手段があり得る。中央銀行が直接(新たに発行されたばかりの)国債を買い取り、政府が中央銀行に開設している預金口座(政府預金)にその代金を振り込むのである。このような「財政ファイナンス」は――政府が主導権を握る場合もあるかもしれないが――量的緩和の一種だと言える。<br />
<br />
「財政ファイナンス」のコストは一体誰が負担することになるのだろうか? (中央銀行が国債を直接買い取ることで生まれた新たな資金(政府預金)を元にして)政府が国民に対して小切手(「キャッシュ・スプラッシュ」)を配布した(振り出した)場合、最終的にはその小切手は民間銀行部門に持ち込まれ、その結果(民間銀行部門が中央銀行に預け入れる)準備預金が増えることになるだろう。仮にヘリコプターから現金が直接ばらまかれたとしても、その時点で既に国民が手元に十分な(自らが望むだけの)現金を持っていたとすれば、ヘリコプターからばらまかれた現金は民間銀行に預金されることになるだろう。つまりは、最終的には民間銀行部門全体で見て債務(国民が民間銀行に預けている預金)と資産(民間銀行が中央銀行に預けている預金)がともに増えることになるのである。「財政ファイナンス」は民間銀行部門に対してさらなる準備預金の保有を強いることになるわけなのだ。<br />
<br />
「財政ファイナンス」は公的な債務を増やすことはないかというとそうではない。「財政ファイナンス」の過程では中央銀行が民間銀行に対して負う債務(準備預金)が増えることになり、その意味でやはり公的な債務は増えることになるのである。また、準備預金に対して市場金利と同水準の金利が支払われる場合(現在大半の中央銀行はそうしている)には(財政赤字の調達に伴う)金利コストが節約されることもない。中央銀行が準備預金に対して支払う金利を市場金利以下の水準に引き下げれば金利コストは節約されることになるが、それは事実上民間銀行(が保有する準備預金)に課税しているようなものである。<br />
<br />
「財政ファイナンス」と通常の量的緩和の間には若干の違いもある。まず第一の違いは、通常の量的緩和の場合は中央銀行独自の判断に任される一方で、「財政ファイナンス」の場合は中央銀行と政府との共同決定という性格を帯びる点である。そしてこの違いは「中央銀行の独立性」を巡って一つの課題を提起することになる。政府による乱費(予算の無駄遣い)を牽制する上では政府が財政赤字の補填を要求してきた場合に中央銀行にその要求を撥ねつけ得る(「ノー」と言える)だけの能力があるかどうかが重要な役割を果たすわけだが、「財政ファイナンス」は中央銀行のそのような能力を脅かす可能性があるのだ。そして第二の違いは政策の終了がはっきりしているかどうかという点である。通常の量的緩和に関しては将来のどの時点かで終了を迎えることははっきりしているが、「財政ファイナンス」に関してはその点がはっきりしないのである(民間銀行部門が大量の超過準備の保有を強いられる状況が長続きしないことだけは確かであるが)。<br />
<br />
アデール・ターナー卿による(「財政ファイナンス」の一種である)「ヘリコプタードロップ」提案(Turner 2013)(訳注;ターナー卿自身は自らの提案を「ヘリコプタードロップ」と呼んでいるが、内容的にはこの論説で言うところの「ヘリコプターマネー(ヘリコプタードロップ)」ではなく「財政ファイナンス」にあたる)はインフレ警戒論者――貨幣と物価との間の関係について時代遅れの考えを引きずっている人々――や財政規律論者――需給ギャップが存在しているにもかかわらず、「財政刺激策は効果がない」とか「財政刺激策は有害だ」と唱える人々――に対する反駁という意味では成功している。しかしながら、ターナー卿による周到な「財政ファイナンス」提案の是非を論じる際にはその便益だけではなくその弊害――量的緩和ならびに「財政ファイナンス」が民間銀行部門のバランスシートに及ぼす歪み(大量の超過準備の発生)や「中央銀行の独立性」を脅かす可能性――にも同時に目を向ける必要があるのだ。<br />
<br />
<br />
<span style="font-size: large;"><参考文献></span><br />
<br />
●Sinn, Hans-Werner (2011), “<a href="http://www.voxeu.org/article/ecb-crisis-actions-printing-press-perspective" target="_blank">The threat to use the printing press</a>”, VoxEU.org, 18 November.<br />
●Turner, Adair (2013), “<a href="http://www.fsa.gov.uk/library/communication/speeches/2013/0206-at" target="_blank">Debt, Money and Mephistopheles: How do we get out of this mess?</a>”, speech, Cass Business School.voxwatcherhttp://www.blogger.com/profile/10317675353577588272noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2302196195769960775.post-23585183828800019032014-09-25T13:38:00.001+09:002022-10-31T12:29:07.255+09:00Barry Eichengreen and Peter Temin 「『金の足かせ』と『紙の足かせ』」<span style="font-size: large;">Barry Eichengreen and Peter Temin, “<a href="http://www.voxeu.org/article/fetters-gold-and-paper" target="_blank">Fetters of gold and paper</a>”(<i>VOX</i>, July 30, 2010)</span><br />
<br />
<blockquote class="tr_bq"><i>世界経済は、固定為替相場制度――具体的には、ドルにペッグした人民元、および、ユーロ――に端を発する緊張に包まれている最中である。かつての金本位制の経験が示しているように、国際通貨制度というのは、為替レートを通じて多くの国々が結び付けられた一つのシステムであり、どの国の政策も(為替レートを通じて結び付けられている)他の国に影響を及ぼさざるを得ない。1930年代と同様に、経常収支黒字国が支出の拡大を渋っているために、経常収支赤字国が景気の低迷を余儀なくされている。ケインズは、大恐慌の経験に学んで、慢性的な経常収支黒字国に対して(課税や制裁といった)何らかの措置を講じる必要性を訴えた。大恐慌から60年少々が経過しているが、ケインズが大恐慌の経験から導き出した教訓が忘れ去られてしまっているようだ。</i></blockquote>
<br /><div>「1930年代の教訓」を売り物にするマーケット(アイデア市場)に新規参入が相次いでおり、非常に激しい競争が繰り広げられている最中だ(例えば、以下を参照せよ。<a href="https://cepr.org/voxeu/columns/exit-strategies-central-banks-lessons-1930s" target="_blank">Mason and Mitchener 2010</a>, <a href="https://cepr.org/multimedia/us-monetary-and-fiscal-policy-1930s-and-now" target="_blank">Fishback 2010</a>, <a href="https://cepr.org/voxeu/columns/how-similar-current-crisis-great-depression" target="_blank">Helbling 2009</a>)。我々もその競争の輪に加わらせてもらうとしよう。ただし、「金融危機を拡散させる上で、固定為替相場制度が果たす役割」と「金本位制の経験から得られる教訓」の2点に焦点を絞って、参戦させてもらうとしよう。</div><div><br /></div><div>1930年代における世界経済危機の最中においては、金本位制が重要な役割を演じた。この件については、我々のどちらもが一家言を持っていて、詳細な分析を加えている(Temin 1989, Eichengreen 1992)。当時の金本位制が備えていた特徴を列挙すると、次のようになるだろう。国境を越えた金(ゴールド)の自由な移動、固定相場制――金と自国通貨との交換比率(平価)を一定に固定(それゆえ、金本位制を採用している国同士の間の為替レートも一定に固定――、国家間の調整を図る(超国家的な)国際機関の不在。</div><div><br /></div><div>金本位制が備えていた以上のような特徴は、経常収支赤字国と経常収支黒字国の間に「非対称性」を持ち込む結果になった。金準備の減少が続いていて、平価を維持するのが困難になっている国(経常収支赤字国)は、一種の罰則を受け入れざるを得なかった一方で、金準備を溜め込んでいる国(経常収支黒字国)は、(金準備を保有する代わりに、他の資産に投資していれば得られたであろう金利収入を除くと)罰則を一切受け入れる必要がなかったのである。金準備の減少が続く経常収支赤字国は、多くのケースで、平価を切り下げる(為替レートを減価させる)のではなく、デフレ(国内物価の下落)を受け入れることを選んだのである。</div><div><br /></div><div>1920年代を通じて、経常収支赤字国であるドイツやイギリスから、経常収支黒字国であるアメリカやフランスに向けて、金や外貨準備が大量に移動することになったが、それもこれも当時の金本位制に備わっていた「非対称性」が原因だった。(アメリカやフランスといった)経常収支黒字国は金準備が増えたからといって金融緩和(ひいては、リフレーション)を強要されることはなかった一方で、(ドイツやイギリスといった)経常収支赤字国は金準備が減るのに伴って金融引き締めを余儀なくされ、その結果としてますます強まるデフレ圧力に晒される格好になったのである。</div>
<br />
<b>イデオロギーとしての金本位制</b><br />
<br /><div>金本位制は、単なる通貨制度にとどまる存在ではなかった。金本位制は、イデオロギーでもあったのだ。大恐慌当時の政策決定は、「金本位制は、繁栄を実現するための前提条件である」との信念に束縛されていた。生産や雇用を安定させることよりも、金本位制を維持することが優先された。世のセントラルバンカーは、金本位制を維持しさえすれば雇用も自ずと増えると思い込み、直接的に雇用を増やそうと試みても失敗するに違いないと信じ込んでいた。金本位制を維持しさえすれば、生産量が落ち込むこともないし、物価が下落することもないし、銀行が閉鎖して貯蓄(金融資産)を失うこともないはず・・・だったが、金本位制が維持されていたら起きるはずのない出来事が1930年代の初頭に現に起きてしまったのである。</div><div><br /></div><div>期待と現実の大きな食い違いを前にして、どうにかしてその辻褄を合わせる必要が出てきた。起きるはずのない異常事態を慣れ親しんだ言語で無理矢理にでも解釈する必要に迫られることになったのである。危機が深まる中、批判の矛先は、「金本位心性」(gold-standard mentalité)に反逆した政策当局者に向けられた。「FRBやイングランド銀行が『管理通貨』という誘惑に負けたのが悪いのだ。金本位制のルールを守らずに、貨幣の濫発に手を染めるばかりか、金の不胎化に乗り出す始末。FRBやイングランド銀行が金本位制のルールを守ってさえいれば、金融市場も自ずと安定を取り戻し、それにあわせて、価格やコストの調整もスムーズに進んでいたはずなのに・・・」。</div><div><br /></div><div>しかしながら、デフレに晒されていた当時の状況においては、そのような批判は間違いもいいところだったのだ。</div><div><br /></div><div>21世紀版の金本位制と言えば、ユーロと人民元(ドルにペッグした人民元)ということになろう。金本位制と全く一緒とは言えないが、いくつか似た面があることは確かである。</div>
<br />
<b>ユーロ:金本位制よりも厳しいコミットメントを伴う通貨制度</b><br />
<br /><div>ユーロは、金本位制よりもずっと厳しいコミットメントを伴う通貨制度である。というのも、金本位制の場合だと、投資家から怒りを買うことなしに離脱することができたが、ユーロの場合は――ギリシャに対して、ユーロから一時的に離脱することを勧める提案(Feldstein 2010)もあるようだが――そうはいかない〔訳注;特定の国がユーロから一時的に離脱することを選ぶと、それに伴って金融危機が発生する可能性が高いという意味。それに加えて、ユーロから離脱するためには、非常に手間のかかる交渉が待っている(EUの協定では、ユーロから離脱する手続きについて明確な規定がなく、ユーロから離脱するためにはEU自体から離脱する必要がある。EUから離脱するためには、全加盟国の承認が必要とされる)〕からである (<a href="https://cepr.org/voxeu/columns/euro-love-it-or-leave-it" target="_blank">Eichengreen 2007</a>, <a href="https://cepr.org/voxeu/columns/leaving-euro-whats-box" target="_blank">Blejer and Levy-Yeyatia 2010</a>)。</div><div><br /></div><div>ユーロは、金本位制の後継というだけではなく、ブレトンウッズ体制の後継でもある。あえてこのことを指摘するのは、ブレトンウッズ体制が誕生するに至るまでの交渉に重要な意味が控えているからである。その交渉に参加した一人がケインズだ。ケインズは、戦間期の経済情勢を眺めているうちに金本位制の有害な影響に気付き始めた。そして、次のように結論付けた。金準備の減少に直面している国(経常収支赤字国)が既にデフレが定着している状況でさらにデフレの受け入れを選ぶことは、その国にとってだけではなく、周辺の国々にとっても有害である、と。</div><div><br /></div><div>戦後(第二次世界大戦後)に二度と同じような事態が起きないようにするためには、どうしたらいいか? 経常収支赤字国だけではなく、経常収支黒字国も、(国際収支の)不均衡を是正する義務を引き受けるべき、というのがケインズの答えだった。しかしながら、その線に沿ったケインズの提案(「清算同盟案」)は、イギリスとアメリカの意見が対立したために、実現するには至らなかった。こうして、問題は未解決のまま棚上げされてしまったわけだが、棚上げしたまま忘れてしまってもいいということには当然ならない。</div>
<br />
<b>人民元:イデオロギーとしてのドルペッグ制</b><br />
<br />
もう一つの重要な固定相場制度である「ドルにペッグした人民元」は、中国の開発戦略を支えるイデオロギーの中心的な要素の一つとして理解するのが適当だろう。ドルペッグ制(ドルにペッグした人民元)には、次の3つの役割が託されている。<br />
<ul>
<li>製造業の輸出を促進する</li>
<li>海外から中国国内への直接投資を促進する</li>
<li>国内企業の利益(ひいては、内部留保)の蓄積を促して、インフラ投資に振り向けることができる貯蓄の源泉を拡大する</li></ul><div>固定為替レートを通じて結び付けられている国同士の間では、一方の国の政策が他方の国へも影響を及ぼすことになるわけだが、そのことについては当事者の間でもうっすらと気付かれてはいるようだ。しかしながら、何らかの行動に移ろうとする気まではないようだ――1920年代の状況とそっくりである――。例えば、2006年にIMF(国際通貨基金)が多国間協議の場を用意(pdf)して、それぞれの国の政策が国境を越えて他の国にも影響を及ぼす可能性を考慮に入れるように念押ししているし、アメリカと中国は、米中戦略・経済対話の場を通じて毎年会合を開いている。IMFは、定期的に多国間サーベイランスを実施している。しかしながら、重大な政策変更は、ほとんどなされていないままなのだ。</div><div><br /></div><div>金本位制下だとドイツ、ユーロ圏だとギリシャ、現状のグローバル・インバランス〔訳注;近年における世界的な経常収支不均衡のこと。ちなみに、この論説の著者の一人であるアイケングリーンは、「グローバル・インバランス」をテーマに一冊物している。次がそれ。 ●バリー・アイケングリーン(著)/松林洋一・畑瀬真理子(訳) 『<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4492654321/" target="_blank">グローバル・インバランス</a>』(東洋経済新報社、2010年)〕下だとアメリカということになるが、経常収支の大幅な赤字を抱える国に手を差し伸べよと言いたいわけではない。かつてのドイツにしても、ギリシャにしても、アメリカにしても、予算制約を無視しようとしている点では同じだ。いずれも、収入以上の生活をしており、そのせいで財政赤字と経常収支赤字が発生し、その赤字を海外からの借り入れで賄っている状態なのだ。</div><div><br /></div><div>しかしながら、経常収支赤字国が抱える問題は、コインの片面でしかない。コインのもう一方の面である経常収支黒字国の政策も問題を抱えているのだ。1920年代~1930年代初頭にドイツをはじめとした中央ヨーロッパ諸国を襲った困難は、アメリカとフランスによる「金の不胎化」によって大きく増幅された。アメリカとフランスが経常収支の黒字を計上したおかげで、他のいずれかの国は経常収支の赤字を計上しなければならなかった。アメリカとフランスが支出の拡大を拒否したおかげで、他の国々は支出を切り詰めざるを得なかった。アメリカとフランスが(経常収支赤字国への)緊急資金援助を拒んだおかげで、経常収支赤字国で景気の悪化が加速した。その結果として、政治の舞台で悲惨な事態が引き起こされることになってしまったのである。</div><div><br /></div><div>似たような展開が目下進行中である。経常収支の大幅な黒字を計上しているドイツが支出の拡大に難色を示しているせいで、ドイツと貿易面で深くつながっているギリシャがデフレを選ぶしかない瀬戸際に追いやられているのだ。資金繰りに苦しむギリシャが(経常収支の赤字を縮小するするために)対GDP比で10%にも上る支出のカットを短期間で成し遂げられるかどうかは、はっきり言ってわからない。現在のギリシャが抱えている問題は、1930年代初頭にドイツが抱えていた問題と似ている。1930年代初頭のドイツがそうだったように、ギリシャが(賃金をはじめとした)コストの削減を試みたとしても債務の負担が一層重くなるだけに終わるかもしれないのだ。</div>
<br />
<b>1931年のフーヴァー・モラトリアムの再現はあるのか?</b><br />
<br /><div>だからこそだ。だからこそ(コストの削減を試みたとしても債務の負担が一層重くなるだけに終わるからこそ)、1931年にあのフーヴァー大統領〔アメリカ合衆国第31代大統領〕でさえもドイツに対して債務の支払い猶予(モラトリアム)を認めざるを得なかったのだ。「内的減価」〔訳注;デフレを通じた実質為替レートの減価〕――通貨の切り下げを実現するためにギリシャに唯一残された手段――には、債務の再編が伴う必要があるのだ。フーヴァー・モラトリアムが実現するには、アメリカによる政策変更が必要だった。それと同じように、ギリシャの債務再編に漕ぎ着けるためには、EUとIMFによる方向転換が必要とされることだろう。</div><div><br /></div><div>中国をはじめとしたその他の(経常収支黒字を抱える)国々が支出の拡大に難色を示すだけでなく、ドルに対して自国通貨を切り上げるのを拒むようなら、アメリカが国内の雇用を増やすために打てる手は、輸出品の競争力を高めるくらいしか残されていない。オバマ大統領は、アメリカ国内で完全雇用を実現するために、今後5年間で輸出量を倍に増やすことを目標に掲げている。しかしながら、(経常収支黒字を抱える)アジア諸国が支出を増やすなり名目為替レートの増価を受け入れるなり高めのインフレを許容するなりして、実質為替レートがアメリカに有利な方向に調整されない限りは、輸出量を倍に増やすためには、アメリカ国内の(賃金をはじめとした)コストを削減して、大幅に生産性を高めるしかない。そのような努力も水の泡に終わる・・・なんてことになれば、保護主義に向けた反動が生じかねない。</div>
<b><br /></b>
<b>結論</b><br />
<br /><div>結論をまとめるとしよう。国際通貨制度というのは、為替レートを通じて結び付けられているすべての国の行動如何でその運行がスムーズにいくかどうかが左右される「システム」であると言える。経済収支赤字国の行動だけではなく、経常収支黒字国の行動も、システム全体に影響を及ぼす。それゆえ、経常収支赤字国だけに不均衡を是正するすべての責任を押し付けるわけにはいかないのだ。</div><div><br /></div><div>ケインズも大恐慌の経験から同様の教訓を導き出した。そして、第二次世界大戦中に考案した「清算同盟案」の中で、慢性的な経常収支黒字国に対して(課税や制裁といった)何らかの措置を講じる必要性を訴えたのだった。大恐慌から60年少々が経過しているが、ケインズが大恐慌の経験から導き出した教訓が忘れ去られてしまっているようだ。</div>
<br />
<br />
<span style="font-size: large;"><参考文献></span><br />
<br />
●Blejer, Mario I and Eduardo Levy-Yeyati (2010), “<a href="http://www.voxeu.org/article/leaving-euro-lessons-argentina" target="_blank">Leaving the euro: What’s in the box?</a>”, VoxEU.org, 21 July.<br />
●Eichengreen, Barry (1992), <a href="http://www.amazon.co.jp/dp/0195101138/" target="_blank"><i>Golden Fetters: The Gold Standard and the Great Depression, 1919-193</i>9</a>, Oxford University Press.<br />
●Eichengreen, Barry (2007), “<a href="http://www.voxeu.org/article/eurozone-breakup-would-trigger-mother-all-financial-crises" target="_blank">The euro: love it or leave it?</a>”, VoxEU.org, 17 November.<br />
●Fishback, Price (2010), “<a href="http://www.voxeu.org/vox-talks/us-monetary-and-fiscal-policy-1930s-and-now" target="_blank">US monetary and fiscal policy in the 1930s – and now</a>”, VoxEU.org, 30 April.<br />
●Feldstein, Martin (2010), “<a href="http://www.ft.com/intl/cms/s/0/72214942-1b30-11df-953f-00144feab49a.html" target="_blank">Let Greece Take a Euro-Holiday</a>,” Financial Times, 16 February, www.ft.com.<br />
●Helbling, Thomas (2009), “<a href="http://www.voxeu.org/article/how-similar-current-crisis-great-depression" target="_blank">How similar is the current crisis to the Great Depression?</a>”, VoxEU.org, 29 April.<br />
●Mason, Joseph and Kris James Mitchener (2010), “<a href="http://www.voxeu.org/article/exit-strategies-central-banks-lessons-1930s" target="_blank">Exit strategies for central banks: Lessons from the 1930s</a>”, VoxEU.org, 15 June.<br />
●Temin, Peter (1989), <a href="http://www.amazon.co.jp/dp/0262700441/" target="_blank"><i>Lessons from the Great Depression</i></a>(邦訳 『<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4492370749/" target="_blank">大恐慌の教訓</a>』), MIT Press.<br />
<br />
<hr />
<訳者による補足><br />
<div>
<br /></div>
<div>
この論説は、以下の論文の縮約版である。</div>
<div>
<br /></div>
<div>
●Barry Eichengreen and Peter Temin, “<a href="http://www.nber.org/papers/w16202" target="_blank">Fetters of Gold and Paper</a>”(NBER Working Paper No. 16202, July 2010;Oxford Review of Economic Policy誌に掲載されたバージョンは<a href="http://oxrep.oxfordjournals.org/content/26/3/370.abstract" target="_blank">こちら</a>)</div>
voxwatcherhttp://www.blogger.com/profile/10317675353577588272noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2302196195769960775.post-62212540771333053332014-09-19T23:21:00.000+09:002014-09-19T23:36:08.132+09:00Z. G. 「経済学者は世論に影響を及ぼせるのか?」<span style="font-size: large;">Z. G., “<a href="http://www.economist.com/blogs/freeexchange/2014/08/economists-and-public-opinion" target="_blank">Economics for the masses</a>”(<i>Free exchange</i>, August 20, 2014)
</span><br />
<br />
これまで経済学者は堅苦しい存在として捉えられがちだった。しかしながら、ここ最近になって経済学者は自らのことを俗世間での露出にも耐え得る存在として売り出し始めている。データジャーナリズムの隆盛も一因となって「陰鬱な科学」の専門家たちが続々と公共圏へと足を踏み入れてきているのである。しかしながら、経済学者の意見と世間一般の意見(世論)との間にはしばしば<a href="http://www.economist.com/blogs/freeexchange/2013/01/economists" target="_blank">大きなギャップ</a>が存在している。果たして経済学者は世間一般の人々のハートを掴み、世論を変えることができるのだろうか? それとも経済学者の意見は世間一般の人々の既存の信念(訳注;各人が前々から正しいと信じ込んでいること)を正当化したり補強するために利用されているに過ぎないのだろうか?<br />
<br />
デューク大学に在籍する政治学者らが共同で執筆した<a href="http://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm?abstract_id=2479439" target="_blank">新たな論文</a>(*)によると、経済学者は世論に影響を及ぼす力を持っているという。しかしながら、それはあくまでテクニカルな話題に限られるということだ。政治的にホットな話題(訳注;政治の場で論争の的となるような話題)については経済学者は世論に対してそれほど影響を及ぼすことができないというのだ。この論文では、世間一般の人々が経済学者という存在に対してどのようなイメージを抱いているか――信頼できるかどうか――を聞き取り調査を通じて明らかにするとともに、経済学者の間でコンセンサスが得られている政策問題(例えば、<a href="http://www.igmchicago.org/igm-economic-experts-panel/poll-results?SurveyID=SV_0JtSLKwzqNSfrAF" target="_blank">移民の受け入れ</a>や<a href="http://www.igmchicago.org/igm-economic-experts-panel/poll-results?SurveyID=SV_cw1nNUYOXSAKwrq" target="_blank">金本位制への移行</a>の是非など)について世間一般の人々がどのような意見を持っているかが調査されている。そして世間一般の人々が「専門家のコンセンサス」に触れた結果として自分の意見を変えるかどうか、経済学者に対するイメージを見直すかどうかが検証されている。<br />
<br />
さて、その結果やいかに? まずは悪い報せから取り上げることにしよう。経済学者の間でコンセンサスが得られている問題について意見を尋ねたところ、聞き取り調査に回答した(世間一般の)人々のうち――「わからない」と答えた人は除く――大多数はいずれの問題についても経済学者とは異なる意見を述べた。さらには、回答者のうちわずか59%だけが「経済政策」に関わる経済学者の意見を信頼すると答えた。それもその大半は「少しだけ信頼する」というに過ぎなかった。経済学者に対する不信の程度はどの属性のグループの間でも大体似たようなものだったが、そのような中でも経済学者を信頼すると答える可能性が特に低かったのは政治的に右寄りの回答者だったという。<br />
<br />
しかしながら、良い報せもあるにはある。回答者がそれぞれの問題について自らの意見を述べた後に「専門家のコンセンサス」を伝えられると、多くの回答者は自らの意見を変えて「専門家のコンセンサス」に同意する傾向が見られた。しかしながら、その効果の大きさは問題の性質によって違っていた。 金本位制への移行の是非や今後の税収予測といったテクニカルな問題については回答者の多くは「専門家のコンセンサス」を知るや(直前の自らの意見を変えて)それに同意する傾向にあったが、中国との貿易問題や移民のメリットといった政治的にホットな問題については「専門家のコンセンサス」が世論を揺さぶる力(訳注;世間一般の人々の意見を変える力)は弱々しいものであった。そればかりではない。政治的にホットな問題について自分の意見が「専門家のコンセンサス」とは違うことを知るや、回答者たちの経済学者に対する信頼の程度は大きく低下することになったのである。テクニカルな問題についてはそのような結果は観察されなかった。テクニカルな問題については自分の意見と「専門家のコンセンサス」が違うことを知っても回答者たちの経済学者に対する信頼の程度は影響を受けなかったのである。感情に訴えるような(政治的にホットな)話題については世間一般の人々は経済学者の意見を自らの偏見(あるいは既存の信念)にお墨付きを与える手段として利用しており、そのような手段として利用できないと知るや「経済学者なんて信頼できない」との判断に傾く。そういう次第になっているのかもしれない。<br />
<br />
経済学者が公共政策に影響を及ぼす――そして望むらくは改善する――ためには世論を納得させることが極めて重要である。そうする上ではどのようなアドバイスを送るのが適当だろうか? テクニカルな話題にだけ口を挟むというのは有益でもないし、有望であるようにも思えない。その性質上どうしても政治的にホットになりがちな問題であっても経済学者が有益なアドバイスを送ることのできる問題は数多いのだ。しかしながら、そういった政治的にホットな問題に口を挟む際にもやり方によってはアドバイスの効果を高めることができるかもしれない。例えば、「移民を受け入れよ!」と結論だけを述べるのではなく、移民の受け入れに伴う便益を計測してその結果を前面に出して伝える・・・といったようにあえてテクニカルな語り口で語りかけるようにすれば、経済学者のアドバイスが世間から聞き入れられる可能性も高まるかもしれない。<br />
<br />
<br />
*“Economists and Public Opinion: Expert Consensus and Economic Policy Judgments” Christopher D. Johnston, Andrew O. Ballard. Working papervoxwatcherhttp://www.blogger.com/profile/10317675353577588272noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2302196195769960775.post-19251155878141314082014-09-19T17:52:00.002+09:002022-10-31T12:35:36.897+09:00Douglas Irwin 「大恐慌の原因はフランスにもあり?」<span style="font-size: large;">Douglas Irwin, “<a href="http://www.voxeu.org/article/did-france-cause-great-depression" target="_blank">Did France cause the Great Depression?</a>”(<i>VOX, </i>September 20, 2010)</span><br />
<br />
<blockquote class="tr_bq"><i>大恐慌(Great Depression)に関する専門的な研究の多くは、大恐慌があそこまで深刻な不況となった理由を金本位制に求めている。これまで経済史家は、大恐慌の引き金となった要因としてアメリカによる金融引き締めに着目してきたが、フランス(による金融政策)が果たした役割に対しては十分な注目が払われていない。世界全体に存在する金準備のうちフランスが保有する割合は、1926年の時点では7%だったが、1932年の時点ではその割合は27%にまで上昇することになったのである。1930~31年の間に世界全体で物価は30%下落することになったが、そのうちのおよそ半分はフランスとアメリカによる金の大量保蔵(溜め込み)によって説明できる可能性があるのだ。</i></blockquote>
<br /><div>1930年代に発生した大恐慌(Great Depression)に関する経済学の専門的な研究の多くは、当時の景気後退の長さと深刻さを金本位制と結び付けて論じる傾向にある。金本位制を採用していた国では為替レートが固定されることになったため、危機に対処する手段として金融政策に頼れなかったというわけである(詳しくは、Temin(1989)、Eichengreen(1992)、Bernanke(1995)などを参照のこと)。</div><div><br /></div><div>しかしながら、金本位制が1929年から1933年までの間にあれほどまでのデフレーションを世界規模で引き起こすことになった理由についてははっきりしない面もある。というのも、世界全体での金準備の量は1920年代から1930年代を通じて着実に増え続けていたのである。それなのに、どうして金本位制は自壊したのだろうか? どうしてあれほどまでの大激震が引き起こされることになったのだろうか?</div>
<b><br /></b>
<b>大恐慌に関する標準的な説明</b><br />
<br />これまで経済史家は、1930年代の大惨事を説明しようと試みる中で、中央銀行が採用した政策に着目してきた。大恐慌の起源をめぐる標準的な説明では、1928年初頭にアメリカで実施された金融引き締めこそが大恐慌の引き金となったと考えられている(Friedman and Schwartz 1963, Hamilton 1987)。1928年初頭にFRBが金利を引き上げたことで他の国々からアメリカへと金が流入することになったが、FRBはそれにあわせて売りオペを行って金の流入を不胎化した。そのため、アメリカでは金の流入にもかかわらずマネタリーベースは増えず、(マネタリーベースが増えなかったために)景気が刺激されることもなかったが、その一方で金の流出に見舞われた国々は金融引き締めを余儀なくされることになった。かくして世界経済はデフレショックに見舞われることになり、その影響で通貨危機や銀行パニックが引き起こされ、さらにそれが原因となって物価の下方スパイラルに一層の拍車がかかる格好となった・・・というわけである。<br />
<br />
<b>新たな仮説</b><br />
<br />
しかしながら、大恐慌に関する標準的な説明では見過ごされがちな事実がある。フランスもアメリカと非常に似通った行動に乗り出していたという事実がそれである。実のところ、フランスはアメリカを上回るスピードで金準備を溜め込むだけでなく、アメリカを凌駕する勢いで(自国に流入してきた)金の不胎化に乗り出していたのである(詳しくは、Johnson(1997)およびMouré(2002)を参照のこと)。1926年にフランが切り下げられたことも一因となって大量の金がフランスに流入することになったが、その結果としてフランス銀行が保有する金準備の量は急速な勢いで増大し始めた。以下の図1に示されているように、世界全体の金準備のうちフランスが保有する割合は、1926年の時点では7%に過ぎなかったが、1932年にはその割合は27%にまで上昇することになったのである。<br />
<br />
<div style="text-align: center;">
<b>図 1.</b> 世界全体の金準備に占める各国のシェア(アメリカ(青)、フランス(赤)、イギリス(緑))</div>
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh9mWkQ1OLZyFE7LMbboNTjxM6QTZWlOzgYPu6RjM9BlPHpCcN9PN6uNsVgGIUzCtNVY6OiF1e26c_04_NlbaHd9P6Pb-6tGvGQblaSdpxGzk77NLiFEttqbY5fuspi6lYXxHQled1fCfM/s1600/IrwinFig1.gif" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="275" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh9mWkQ1OLZyFE7LMbboNTjxM6QTZWlOzgYPu6RjM9BlPHpCcN9PN6uNsVgGIUzCtNVY6OiF1e26c_04_NlbaHd9P6Pb-6tGvGQblaSdpxGzk77NLiFEttqbY5fuspi6lYXxHQled1fCfM/s1600/IrwinFig1.gif" width="400" /></a></div>
<br />
<br /><div>フランスやアメリカに金が集中した結果として、それ以外の国々は大きなデフレ圧力に晒されることになった。(アメリカとフランスを除く)それ以外の国々は、1929年から1931年までの間に世界全体の金準備のうち8%に相当する金を手放す格好となったわけだが、1928年12月の時点で(アメリカとフランスを除く)それ以外の国々が保有する(世界全体の金準備に占める)金準備の割合は15%だったことを考えると、そのほとんどを手放すことになったわけである。しかしながら、フランスとアメリカが金の流入を不胎化しなければ、フランスとアメリカへの金の集中も世界経済にとって問題とはならなかったことだろう。フランスとアメリカが金の流入を不胎化しなければ、金の流出に見舞われた国々では金融引き締めを余儀なくされる一方で、フランスとアメリカでは金の流入に伴って金融緩和が進められることになる。すべての国が古典的な金本位制の「ゲームのルール」に従うようなら当然そうなるはずだったが、戦間期においてはすべての国が同意する「ゲームのルール」は確立しておらず、フランスもアメリカも金の流入が金融緩和につながらないように金の流入を不胎化していたのである。</div><div><br /></div><div>フランスによる(金の流入の)不胎化の実態は、正貨準備率の推移を辿った以下の図2で見て取れる。正貨準備率というのは中央銀行債務(銀行券発行残高+当座預金残高)に対する金準備の割合を指しているが、この方面でフランスが辿った進路は他の国と比べて際立っている。フランス銀行の正貨準備率は、1928年12月の時点では40%だったが(法律で定められていた正貨準備率の下限は35%)、1932年12月の時点ではその値は80%近くにまで上昇しているのだ。フランスの金準備は1928年から1932年までの間に160%も増加したわけだが、その間にマネーサプライ(M2)はまったくと言っていいほど変化しなかった。同時代人の間ではフランスを指して「金の溜池(金の吸引機)」(“gold sink”)と呼ぶ声もあったというが、それももっともなことだと言えるだろう。</div>
<br />
<div style="text-align: center;">
<b>図 2.</b> 主要中央銀行の正貨準備率(1928年~1932年)</div>
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjZ91FHYF4KprRyQBmwACb78QBJ2roWGutB4NphGjtsi24tzGQ2kgBSQiH8CRgydv4h8Y_XhwjbrRd1Qv8alvSDGt3C5eEKI2bzEiqop3J3OhfAsjEiFv-sm8RuonG3VJy5K-eMa0MTC_U/s1600/IrwinFig2.gif" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="256" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjZ91FHYF4KprRyQBmwACb78QBJ2roWGutB4NphGjtsi24tzGQ2kgBSQiH8CRgydv4h8Y_XhwjbrRd1Qv8alvSDGt3C5eEKI2bzEiqop3J3OhfAsjEiFv-sm8RuonG3VJy5K-eMa0MTC_U/s1600/IrwinFig2.gif" width="400" /></a></div>
<br />
<br />
<br />
<b>アメリカとフランス(による金融政策)が世界経済に及ぼしたデフレ圧力はどの程度か?</b><br />
<br /><div>1928年を基準年として選ぶとすると、任意の年に(不胎化されたことで)未利用のままに置かれている〔訳注;金融緩和のために使用可能ではあるが、使用されずにいる〕金の量を次のようにして求めることができる。その年の金準備の量から、その年の中央銀行債務(マネタリーベース)に1928年時点の正貨準備率を掛け合わせたもの〔訳注;その年の中央銀行債務(マネタリーベース)×1928年時点の正貨準備率=1928年時点と同じ正貨準備率を維持する上で必要となる金準備の量〕を差し引くのである。そのようにして求められた「未利用の金の量」をグラフにしたのが以下の図3である(世界全体の金ストック(残高)に対する割合として表わされている)。</div><div><br /></div><div>フランスとアメリカは、1930年の時点では両国合わせて世界全体の金ストックのおよそ60%を保有していたわけだが、その同じ年に両国合わせて世界全体の金ストックの11%を未利用のままに置いていたことになる。1929年と1930年に関してはフランスもアメリカも(金の流入を不胎化し、金を未利用のままに置いておくことで)世界経済に対して同等のデフレ圧力を及ぼしたと考えられるが、1931年と1932年に関してはフランスの方がアメリカよりもずっと大きなデフレ圧力を世界経済に及ぼすことになったと考えられる。1928年から1932年までの期間全体で判断すると、フランスはアメリカを上回るデフレ圧力を世界経済に及ぼすことになったと考えられる。というのも、1928年時点と同じ正貨準備率を維持するという前提でいくと、1928年から1932年までの間にフランスがさらなる金融緩和のために利用できたはずの金の量は世界全体の金ストックの13.7%に相当する一方で、同じ期間にアメリカがさらなる金融緩和のために利用できたはずの金の量は世界全体の金ストックの11.7%に相当するという結果になっているからである。</div>
<br />
<div style="text-align: center;">
<b>図 3.</b> 未利用の金の量(1929年~1932年)</div>
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh9ZjA_dkImG7Ra8PgK9jv_QqFbCOrm-IBVHgpheebndAI2F_-G08rkeqzz5kBmc-0i4DTsW1f9QOplD7XneGainzQxLpzhEBewSaVVZLWSfq718i3mQGjexDWVvUuJYCmNnSeQKfR_dNY/s1600/IrwinFig3.gif" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="227" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh9ZjA_dkImG7Ra8PgK9jv_QqFbCOrm-IBVHgpheebndAI2F_-G08rkeqzz5kBmc-0i4DTsW1f9QOplD7XneGainzQxLpzhEBewSaVVZLWSfq718i3mQGjexDWVvUuJYCmNnSeQKfR_dNY/s1600/IrwinFig3.gif" width="400" /></a></div>
<br />
<br />
<b>物価に及ぼした影響</b><br />
<br /><div>デイヴィッド・ヒュームは1752年に「貨幣について」(“Of Money”)と題されたエッセイの中で次のように語っている。「硬貨(貨幣)がたんすの中にしまい込まれると、硬貨がこの世から消滅した場合と同様の効果が物価に対して生じることになる」。さて、フランスとアメリカが金を未利用のままに置いた――金をたんすの中にしまい込んだ――ことで世界全体の物価水準に対してどのような影響が生じたのだろうか? 私自身のつい最近の研究によると(Irwin 2010)、世界全体の金ストックが1%だけ増えると、世界全体の物価水準は1.5%だけ上昇するとの関係が成り立つことが確認されている。フランスとアメリカを合わせると1930年の時点では世界全体の金準備のうち11%が未利用のままに置かれていた〔訳注;世界全体の金ストックが11%だけ減少した〕わけだが、そのことが物価に対して及ぼした影響を(世界全体の金ストックが1%だけ増えると、世界全体の物価水準は1.5%だけ上昇するという)先の関係を使って算出すると、世界全体の物価水準をおよそ16%下落させる効果を持ったということになる〔訳注;世界全体の金ストックが1%だけ増えると、世界全体の物価水準は1.5%だけ上昇するという関係が成り立つとすると、世界全体の金ストックが11%だけ減少すると、世界全体の物価水準はおよそ16%(=(-11)×1.5)だけ下落するということになる〕。1930~31年の間に世界全体の物価水準は30%下落したわけだが、先の単純な演算によると、そのうちのおよそ半分はフランス銀行とFRBによる金の溜め込みによって引き起こされたと結論付けられることになろう(Sumner(1991)も異なる計算手法を使って同様の結論に達している)。</div><div><br /></div><div>デフレスパイラルに一旦嵌ると、他の要因が関与してきて物価の下方スパイラルに一層の拍車がかかることになるというのは確かである。例えば、アーヴィング・フィッシャー(Irving Fisher)が指摘したデット・デフレ(債務デフレ)のメカニズムが働く可能性がある。デフレによって企業の破産が増え、それに伴って銀行パニックが発生すると(銀行取付などを通じて預金の引き出しが増える結果として)現金預金比率が上昇して貨幣乗数が低下する可能性がある。しかしながら、そういった出来事は当初のデフレショックから独立して発生したとは見なし得ず、それゆえ、物価下落のうち「説明されずに残っている」部分〔訳注;30%の物価下落のうち、残りの14%(=30-16)〕についても少なくともその一部はフランス銀行とFRBが間接的に責任を負っていると言えるだろう。</div><div><br /></div><div>まとめるとしよう。これまで経済史家は、大恐慌の引き金となった要因として1928年初頭にアメリカで実施された金融引き締めに着目してきた。しかしながら、世界全体をデフレスパイラルに陥れた元凶ということで言うと、フランスが果たした役割にもこれまで以上にずっと大きな注目が払われてしかるべきなのだ。</div>
<br />
<br />
<span style="font-size: large;"><参考文献></span><br />
<br />
●Bernanke, Ben (1995), “<a href="https://fraser.stlouisfed.org/docs/meltzer/bermac95.pdf" target="_blank">The Macroeconomics of the Great Depression: A Comparative Approach</a>(pdf)”, <em>Journal of Money, Credit and Banking</em>, 27:1-28.<br />
●Eichengreen, Barry (1992), <em><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/0195101138/" target="_blank">Golden Fetters: The Gold Standard and the Great Depression, 1919-1939</a></em>, Oxford University Press.<br />
●Friedman, Milton, and Anna J Schwartz (1963), <em><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/0691003548/" target="_blank">A Monetary History of the US, 1867-1960</a></em>, Princeton University Press.<br />
●Hamilton, James (1987), “<a href="http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/0304393287900456" target="_blank">Monetary Factors in the Great Depression</a>”, <em>Journal of Monetary Economics</em>, 19:145-169.<br />
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●Johnson, H Clark (1997), <em><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/0300069863/" target="_blank">Gold, France, and the Great Depression, 1919-1932</a>, </em>Yale University Press.<br />
●Mouré, Kenneth (2002), <em><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/0199249040/" target="_blank">The Gold Standard Illusion: France, the Bank of France, and the International Gold Standard, 1914-1939</a></em>, Oxford University Press.<br />
●Sumner, Scott (1991), “<a href="http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/j.1467-9957.1991.tb00456.x/abstract" target="_blank">The Equilibrium Approach to Discretionary Monetary Policy under an International Gold Standard, 1926-1932</a>”, <em>The Manchester School of Economic & Social Studies</em>, 59:378-94.<br />
●Temin, Peter (1989), <em><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/0262700441/" target="_blank">Lessons from the Great Depression</a></em>(邦訳 『<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4492370749/" target="_blank">大恐慌の教訓</a>』), MIT Press.voxwatcherhttp://www.blogger.com/profile/10317675353577588272noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2302196195769960775.post-74215923612305115082013-11-19T00:00:00.002+09:002023-04-18T12:59:48.309+09:00Alan de Bromhead, Barry Eichengreen and Kevin O’Rourke 「1930年代の大恐慌下において極右勢力の台頭を支えた要因は何か?」<span style="font-size: large;">Alan de Bromhead, Barry Eichengreen and Kevin O’Rourke, “<a href="http://www.voxeu.org/article/right-wing-political-extremism-great-depression" target="_blank">Right-wing political extremism in the Great Depression</a>”(<i>VOX</i>, February 27, 2012)</span><br /><div><div></div><blockquote><div><i>世界中を巻き込む経済危機が長引くにつれて、1930年代と同じように、政治的な過激主義が勢いを増すのではないかとの恐れが広がりつつある。①民主主義を採用してからの歴史が浅く、②極右政党が既に議会でいくつか議席を得ており、③新政党が議会で議席を獲得するハードルが低い仕組みの選挙制度が採用されているようだと、政治的な分裂が生じたり過激主義が台頭したりする危険性が高まる傾向にあるが、④景気の低迷が長く続く――不況が長期化する――ようだと、とりわけその危険性が高くなるようだ。</i></div><div></div></blockquote><div><br /></div></div><div><div>世界中を巻き込む格好になった今般の経済危機は、単に経済の次元にとどまらないインパクトを及ぼしている。例えば、次のような事例を挙げることができるだろう。</div><ul><li>代議制、大統領制のいずれの民主主義国家においても、政権与党が選挙で敗北を喫した。</li>
<li>厳しい経済状況が一因となって、ナショナリストや右翼政党――その中には、現状の政治制度への敵意を包み隠さず露にしている勢力も含まれている――に対する支持が高まっている。</li>
</ul><div>このまま厳しい経済状況が続くようなら、1930年代と同じように、政治的な過激主義が勢いを増すことになるのではないか。そんな恐れも広がりつつある。</div><div><br /></div><div>1930年代の記憶は、現下の経済論議に対してだけではなく、現下の政治議論に対しても多くの示唆を与えている――例えば、<a href="https://cepr.org/voxeu/columns/political-constraints-aftermath-financial-crises" target="_blank">Mian et al(2010)</a>や<a href="https://cepr.org/voxeu/columns/long-lasting-effects-economic-crisis" target="_blank">Giuliano and Spilimbergo(2009)</a>〔拙訳は<a href="http://voxwatcher.blogspot.com/2010/04/paola-giuliano-and-antonio-spilimbergo.html" target="_blank">こちら</a>〕を参照せよ――。しかしながら、戦間期に発生した大恐慌が当時の政治情勢(とりわけ、右翼の反体制派の台頭)にいかなる影響を及ぼしたかについては、これまでのところ系統的に検証されていないようだ。</div><div><br /></div><div>そこで、今回我々は、第一次世界大戦が終結してから第二次世界大戦が勃発するまでの戦間期に行われた選挙の分析に乗り出し、反体制派の政党――我々の論文では、既存の政治制度の転覆を目的に掲げている政党を指して、「反体制派の政党」と定義している――への支持の変遷を追った(<a href="http://www.nuffield.ox.ac.uk/Economics/History/Paper95/bromheadeichengreenorourke95.pdf" target="_blank">de Bromhead et al 2012</a>(pdf))。反体制派の政党の中でも右翼の政党に焦点を合わせているが、その理由は、1930年代に行われた選挙ではっきりとしたかたちで躍進したのが右翼の側の反体制派だったからである。それは今も同じようだ。今般の経済危機下で最も躍進を遂げているのは、またもや右翼の過激派政党(極右政党)なのだ(Fukuyama 2012)。</div>
<b><br /></b>
<b><br /></b>
<b>1930年代に極右勢力が台頭したのはなぜか?</b></div><div><br /></div><div>1930年代に政治的な過激主義が勢いを増した理由を探っている理論を分類すると、大きく5つのカテゴリーに分けることができる。<ul><li>第一のカテゴリー;過激派政党への支持が高まり、民主主義体制が動揺した原因を厳しい経済状況(景気の低迷)に求める理論(Frey and Weck 1983, Payne 1996)</li></ul>二つ目のカテゴリーでは、社会内部における亀裂に強調が置かれている。<br />
<ul>
<li>第二のカテゴリー;民族、宗教、階級間の亀裂(cleavage)が社会全体でのコンセンサスの形成を困難にし、経済危機に対して社会全体が一丸となって立ち向かうのを妨げたとする理論(Gerrits and Wolffram 2005, Luebbert 1987)</li>
</ul><div>第二のカテゴリーに沿った議論は、第一次世界大戦後のヨーロッパ情勢をテーマとする文献の中でよく顔を出す。第一次世界大戦後のヨーロッパでは、民族や宗教の違いが大して顧慮されずに、新たな国家が建設されたのだった。</div>
<ul>
<li>第三のカテゴリー;戦間期の政治情勢を形作った要因として、第一次世界大戦の遺産に注目する理論(Holzer 2002)</li>
<li>第四のカテゴリー;政治制度や憲法の構造に着目する理論。政治制度や憲法の構造の違いによって、反体制派の政党が影響力を得やすいかどうかも違ってくるとする理論。</li>
</ul>
例えば、レイプハルトによると(Lijphart 1994)、小規模政党や新政党(新しく作られたばかりの政党)に対してその国の政治制度がどれくらい開かれているか――政治制度の開放度は、選挙に比例代表制が導入されているかどうか、選挙で議席を獲得する上で最低限必要な得票率(閾値)がどれくらいかなどに基づいて測られる――が過激派政党の浮沈を決定づける重要な要因になるという。<br />
<ul>
<li>第五のカテゴリー;政治制度の安定性(耐久性)を決定づける重要な要因として、政治文化の役割に着目する理論(Almond and Verba 1989)</li>
</ul>
第五のカテゴリーに沿った議論では、民主主義の安定性を支える重要な要素として、「シビック・カルチャー(市民文化)」(‘civic culture’)に注目が寄せられる。シビック・カルチャーは、家庭/学校/コミュニティーを通じて世代を超えて伝播することになるが、民主主義それ自体に触れることによっても伝播が促されることになる。ペルソン&タベリーニの二人(Persson and Tabellini 2009)が主張するところによると、民主主義を採用してからの歴史が長い国ほど「デモクラティック・キャピタル」(democratic capital)の蓄積が進んでおり、そのおかげで国民が既存の政治制度を引き続き支持する可能性が高まることになるという。以上の議論からは、過激派勢力が大恐慌に乗じて勢いづきやすいのは、民主主義を採用してからの歴史が浅くて、デモクラティック・キャピタルの蓄積が貧弱な国においてということが示唆されよう。<strong><br /></strong>
<strong><br /></strong><div><b>我々の研究から得られた結果</b></div><div><br /></div><div><div>我々の研究では、1919年から1939年までの間に28カ国で行われた計171の選挙が分析の対象になっている。対象国はヨーロッパに偏っているが、それは戦間期に行われた選挙がヨーロッパに集中していたためである。しかしながら、情報を得られた範囲で、北アメリカ、ラテンアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドなどの選挙データも分析対象に含んでいる。我々の研究では、サルトーリ(Sartori 1976)に倣って、反体制政党(反体制派の政党)を「政権の交代ではなく、既存の政治制度の転換(転覆)を目指す政党」と定義している。反体制派として括られる右翼政党の例としては、ドイツの国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP;ナチス)は言うまでもなく、ハンガリーの矢十字党(Arrow Cross)、ルーマニアの鉄衛団(Iron Guard)なんかを挙げることができよう。</div><div><br /></div><div>我々の一番の関心事は、大恐慌が投票パターンにいかなるインパクトを及ぼしたかにある。すなわち、1929年以降に各政党の得票率がどのような変遷を辿ったかにある。我々なりに計量分析を試みてみたところ、大恐慌は、ファシストにとって追い風になったとの結果が得られた。さらには、大恐慌に喘(あえ)いだ国の中でも、1914年までに民主主義を採用していなかった国、1929年までにファシスト政党が議会でいくつか議席を得ていた国、 第一次世界大戦の敗戦国、1918年以降に国境線が書き換えられた国で、ファシスト政党の得票率の伸びが特に大きかった。</div><div><br /></div><div>当時のドイツは、今挙げた特徴をすべて備えていて、ファシスト政党(ナチス)の得票率も大きく伸びたわけだが、我々が得た結果は、ドイツの経験に引きずられているのではないかと訝(いぶか)る人もいるかもしれない。ここでは細かいところまで触れられないが、「そんなことはない」とだけ答えておこう。</div><div><br /></div><div>特筆しておくべきことがある。過激派勢力の浮沈を左右したのは、選挙が行われた年の経済のパフォーマンス――1年間の実質GDPの成長率――ではなく、数年にわたる経済のパフォーマンス――数年にわたる実質GDP成長率の累計――だったのだ。もっと適当な言い方をすると、景気の落ち込みの大きさ(深さ)こそが肝心な役割を果たしたのだ。景気の低迷が1年続いたぐらいでは、過激主義の台頭を招くには不十分だった。言い換えると、数年にわたって続いた不況――長期化した不況――こそが過激主義を大きく台頭させたのだ。</div><div><br /></div><div>あれこれのコントロール変数――期間ダミー、都市化変数、閾値〔訳注;選挙で議席を獲得する上で最低限必要な得票率〕など――を置いて回帰分析を行っても、異なる手法で計量分析を行っても、結果に変わりはないことが判明している。別の手法で行った回帰分析でも、景気の低迷が過激主義の台頭を招く効果は、ファシスト政党が1929年以前に既に議会で議席を得ていたり、民主主義を採用してからの歴史が浅い国で特に大きかった。我々が得た結果は、政治文化の役割を強調するアーモンド&ヴァーバの主張(Almond and Verba 1989)やデモクラティック・キャピタルの役割を強調するペルソン&タベリーニの主張(Persson and Tabellini 2009)――民主主義を採用してからの歴史が長い国ほどデモクラティック・キャピタルの蓄積が進んでおり、そのおかげで既存の政治制度に対する脅威を撥(は)ね付けられる可能性が高い――とも整合的だと言えよう。</div><div><br /></div><div>最後になるが、反体制派の右翼政党が選挙で躍進できたかどうかは、その国の選挙制度の特徴によって左右されたことも見出されている。選挙で議席を獲得する上で最低限必要な得票率(閾値)が高くなるほど、泡沫政党が議席を得るのは難しくなるので、ファシスト政党が選挙で躍進できる可能性も低くなるのだ。</div></div>
<strong><br /></strong>
<strong>結論</strong><br />
<br />
我々の研究によると、政治的な分裂が生じたり過激主義が台頭したりする危険性は、それぞれの国が備えている特徴によって異なることが示唆されている。具体的には、<br />
<ul>
<li>民主主義を採用してからの歴史が比較的浅くて、</li>
<li>極右政党が議会で既にいくつか議席を得ていて、</li>
<li>新政党が議会で議席を獲得するハードルが低い仕組みの選挙制度が採用されている</li>
</ul><div>ようだと、政治的な分裂が生じたり過激主義が台頭したりする危険性が高まる傾向にあるが、</div><div><ul style="text-align: left;"><li>景気の低迷が長く続く――不況が長期化する――</li></ul><div>ようだと、とりわけその危険性が高くなるようだ。</div><div><br /></div></div>
<br />
<span style="font-size: large;"><参考文献></span><br />
<br />
●Almond, GA and Verba, S (1989, first edition 1963), <i><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/0803935587/" style="color: #ed702b; text-decoration: none;" target="_blank">The Civic Culture: Political Attitudes and Democracy in Five Nations</a> </i>(邦訳 『<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/B000J4PLX8/" style="color: #ed702b; text-decoration: none;" target="_blank">現代市民の政治文化-五ヵ国における政治的態度と民主主義</a>』), London: Sage.<br />
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</div>voxwatcherhttp://www.blogger.com/profile/10317675353577588272noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2302196195769960775.post-29607112766942279822013-10-14T21:27:00.011+09:002022-06-06T15:47:21.860+09:00David Henderson 「カーリー効果 ~都市は落ちぶれど、支持は高まる?~」<span style="font-size: large;">David Henderson, “<a href="http://econlog.econlib.org/archives/2012/05/curley_effect_i.html" target="_blank">Curley Effect in California</a>”(<i>EconLog</i>, May 4, 2012)</span><br />
<blockquote class="tr_bq">ジェームズ・マイケル・カーリー(James Michael Curley)は、ボストン市長を4期務めていた最中に、貧しいアイルランド系住民のために経済的に見て無駄の多い再分配政策に着手する一方で、扇情的なレトリックを弄して(アングロサクソン系の)裕福な住民がボストン市から出ていくように仕向けた。その結果として、ボストン市の有権者の構成が、カーリーにとって有利な方向に変化を遂げたのであった(訳注;再分配政策のおかげで貧しいアイルランド系住民の間で支持が高まる一方で、そのような再分配政策に反対し、カーリーの扇情的な発言に反発を覚えた裕福な住民がボストン市から移住したために、ボストン市の住民の中に占めるカーリー支持者の割合が高まることになった、という意味) 。結果的に、ボストン市は経済的に停滞する羽目になったが、カーリーは市長選で勝利し続けたのであった。</blockquote>エドワード・グレイザー(Edward L. Glaeser)&アンドレイ・シュレイファー(Andrei Shleifer)の共著論文 “<a href="http://www.nber.org/papers/w8942.pdf" target="_blank">The Curley Effect</a>”(pdf)からの引用だ。<br />
<br />引用を続けるとしよう。<br />
<blockquote class="tr_bq">このような戦略――「富の減少につながる歪んだ政策を通じて、自らの政治的な支持基盤の拡大を図る戦略――を「カーリー効果」と名付けるとしよう。とはいっても、カーリーだけの専売特許というわけではない。政治的な敵の退出を促す政策を推し進めて、選挙区の経済的な衰退を招きつつ自らの政治的な立場を強化しようと試みた例というのは、他にも(アメリカの他の市長だけではなく、世界中の政治家の中にも)見出せるのだ。例えば、20年間にわたってデトロイト市長を務めたコールマン・ヤング(Coleman Young)は、白人(および、白人が経営する企業)がデトロイトから出ていくように仕向けた。「ヤングが市長を務めている間に、デトロイトは、黒人がマジョリティを占めるシティ(city)の一つに変貌したというにとどまらない。デトロイトは、黒人のメトロポリス(metropolis)、合衆国の中にある第三世界のシティ(Third World city in the United States)のはしりともなったのである。その証拠は、至る所にある。ショーケース・プロジェクト、黒い拳のシンボル(訳注;おそらくは、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9" target="_blank">ジョー・ルイス</a>(黒人ボクサー)の<a href="http://michiganexposures.blogspot.jp/2010/07/joe-louis-fist.html" target="_blank">拳のモニュメント</a>を指しているものと思われる)、仮想外敵、熱狂的な個人崇拝」(Chafets 1990, p. 177)。 独立を果たした後のジンバブエでは、同国の大統領を務めたロバート・ムガベ(Robert Mugabe)が白人の農民に対して強権を発動して、他国へと移住するよう公然と促している――それに伴って、ジンバブエ経済に甚大なコストが生じる可能性もいとわずに――。 </blockquote>カリフォルニアでも似たような事態が進行しているのではなかろうか。カリフォルニアは、民主党によって牛耳られている州の一つ――州議会では民主党が多数派を占めていて、州知事も民主党出身――になっていて、民主党勢力が極めて無駄の多いプロジェクトを進めている最中だ。高速(ハイスピード)鉄道計画がそれだが、「ハイ」スピードなんかではなく、「ハイ」コストで、さらに「ハイ」な所得税率(最高限界税率の引き上げ)――カリフォルニア州の最高税率は、現時点でも既に全米で最高水準なのにもかかわらず――という結果が待ち構えているに違いない。しかしながら、民主党勢力は、(限界税率の引き上げに伴って)生産性の高い人々の多くがカリフォルニア州を離れようとしている、あるいは、すでに離れていることを心配していないようだ。高速鉄道計画には、彼らなりのイデオロギーが関わっているのかもしれない。確かにそういった面もあるだろう。しかしながら、民主党勢力の目的の一つは、民主党に反対する可能性のある有権者の数を減らして(訳注;カリフォルニア州からの自主的な退出を促して)、州内で民主党支持者が多数派を占めるように図ることにあると思われるのだ。<div>
<br />
(以下略)</div>voxwatcherhttp://www.blogger.com/profile/10317675353577588272noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2302196195769960775.post-50337585917061475012013-09-11T08:31:00.005+09:002013-09-11T20:41:32.706+09:00C.W. 「死に体のノーベル経済学賞受賞者?」<span style="font-size: large;">C.W., “<a href="http://www.economist.com/blogs/freeexchange/2013/08/nobel-prize-economics" target="_blank">Lame duck laureates</a>”(<i>Free exchange</i>, August 13, 2013)</span><br />
<br />
経済学の研究者は自らの論文が少しでも多く引用されることを強く望むものである。例えば、有名大学でポストを得たり、政府に対してアドバイスを送る役職に就くことができれば、論文の引用数は増える可能性があるが、それでは経済学界で最も名誉ある賞の受賞は論文の引用数にどのような影響をもたらすのだろうか? ノーベル経済学賞(アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞)の授与が開始されたのは1969年のことだが、ノーベル経済学賞を受賞した学者の論文引用数は受賞後にうなぎ登りに増えるに違いないと思われることだろう。しかしながら、オックスフォード大学とウプサラ大学に籍を置く研究者チームがつい最近執筆した論文(*)によると、どうやらそういうわけではないようである。<br />
<br />
件の論文では、デジタルライブラリーであるJSTORが提供するサービスを利用してノーベル経済学賞の受賞者ごとに論文引用数をカウントし、ノーベル経済学賞の受賞前後で論文引用数にどのような変化が見られるかが分析されている。対象となっている期間は1930年から2005年までだが、ここにちょっとした問題がある。1930年と2005年とでカウントの対象となる論文の数に大きな違いがあるのである。そこで、件の論文では、ただ単に年ごとの論文引用数をカウントするのではなく、その年に公けにされた論文の総数を用いて論文引用数の標準化が施されている。そのようにして標準化された論文引用数に対しては1972年にノーベル経済学賞を受賞したケネス・アロー(Kenneth Arrow)にちなんで「アロー」(“Arrows”)との単位が付けられている。<br />
<br />
ノーベル経済学賞受賞者全体の平均で見た場合に、賞の受賞前後で論文引用数にどのような変化が見られるかを示しているのが以下のグラフである。ここではBassモデルとの名で知られている複雑な数学モデルを用いて論文引用数の変遷が辿られている。<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh_5w_SvosgqPgzc0Nr-4KZuBszjpFNG0ZmePcgUk9gqfMpn3fZdKvot8SkJIKxhqPffPD7JSZt0oACJaZC1HNZ9Zf41tbxg7qyUcbGYHz-SPu53jA-3f4L-C27CsYyxZe-EiKpSk_EcQk/s1600/chart1.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh_5w_SvosgqPgzc0Nr-4KZuBszjpFNG0ZmePcgUk9gqfMpn3fZdKvot8SkJIKxhqPffPD7JSZt0oACJaZC1HNZ9Zf41tbxg7qyUcbGYHz-SPu53jA-3f4L-C27CsYyxZe-EiKpSk_EcQk/s1600/chart1.jpg" /></a></div>
<br />
論文引用数の一般的な(平均的な)トレンドはBassカーブと命名されている滑らかな曲線によって示されている。平均的にみると、ノーベル経済学賞の受賞者はキャリアのほぼピークに達した段階で賞を授与されている傾向にあることがわかるだろう。受賞者の選考を行うスウェーデン王立科学アカデミーは安全策をとっているわけである。上のグラフによると、ノーベル経済学賞の受賞後に論文引用数は一時的に上昇し、その後徐々に減少する傾向にあることも見て取れるだろう。<br />
<br />
個別の経済学者ごとに論文引用数の変遷を辿ってみるのも興味深いかもしれない。例えば、1976年にノーベル経済学賞を受賞したミルトン・フリードマン(Milton Friedman)の場合、論文引用数の変遷は先の標準的なパターンにほぼ沿っていることがわかる。ただし、ノーベル経済学賞の受賞後に論文引用数が大きく落ち込むということにはなっていない。<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjavq4biFo7oG2rg8cPfFzLk9I5rEJ5iJekb1xzUKdgC-O0oQcDt_Yji1vI_Akt0h_g-o-KJ9FFUicZLPmV5WfsOOHc9Pgg1jEls1CI7-kub64r3dGSzocxKVtI1PfgpR3I-PC6mUrBpv8/s1600/chart2_0+(1).jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjavq4biFo7oG2rg8cPfFzLk9I5rEJ5iJekb1xzUKdgC-O0oQcDt_Yji1vI_Akt0h_g-o-KJ9FFUicZLPmV5WfsOOHc9Pgg1jEls1CI7-kub64r3dGSzocxKVtI1PfgpR3I-PC6mUrBpv8/s1600/chart2_0+(1).jpg" /></a></div>
<br />
標準的なケースとは異なるパターンを辿っている経済学者としては、アマルティア・セン(Amartya Sen)やフリードリヒ・フォン・ハイエク(Friedrich Von Hayek)を挙げることができる。アマルティア・センは1998年にノーベル経済学賞を受賞した後も革新的な業績-その多くは経済学以外の分野のものである-を上げ続けたが、その結果は論文引用数の変遷に反映されている。<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgMDDwBkNM91wu9CaRb_OxsNev1cPu8TzMr7EuzxISj7QBbk5749PH1qSaknH6lLHhJ_GxizeMUOJEpGo82e6t4wDo7GhYPWR-k2IfaqgvWgv6YDWOWVWXQBoTyCG8sTQIP-klf7r_oTP8/s1600/chart3.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgMDDwBkNM91wu9CaRb_OxsNev1cPu8TzMr7EuzxISj7QBbk5749PH1qSaknH6lLHhJ_GxizeMUOJEpGo82e6t4wDo7GhYPWR-k2IfaqgvWgv6YDWOWVWXQBoTyCG8sTQIP-klf7r_oTP8/s1600/chart3.jpg" /></a></div>
<br />
一方で、ハイエクの論文引用数は彼がノーベル経済学賞を受賞する1974年までは減少傾向にあった。 しかし、ノーベル経済学賞はハイエクのキャリアに対して待ちに待った押し上げ効果をもたらすことになった。さらに、マーガレット・サッチャーがハイエクのアイデアに心酔していたこともあり、ハイエクの名は世間一般にも広く知れ渡ることになった。こうしてハイエクの論文引用数はノーベル経済学賞受賞後に上昇を続けることになったのであった。<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjkoi5OuvOFOia8pMDvU7e79D4s9RptWG6l60CC-qo4fa11wPz1aLqpHNHRB9VhkgIXkdOibdMzLEQ08LOM6Fqp1PQm1iVBCcoStU-A4Ud8EXTHhvbZIBLL5Cq-b43euhKm0I77Oe4_DjY/s1600/chart4.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjkoi5OuvOFOia8pMDvU7e79D4s9RptWG6l60CC-qo4fa11wPz1aLqpHNHRB9VhkgIXkdOibdMzLEQ08LOM6Fqp1PQm1iVBCcoStU-A4Ud8EXTHhvbZIBLL5Cq-b43euhKm0I77Oe4_DjY/s1600/chart4.jpg" /></a></div>
<br />
<br />
これら一連の発見は一体どのようなことを意味しているのだろうか? この点に関して当の論文の執筆陣はよくわからないとしているが、ノーベル経済学賞受賞後に論文の引用数が減るのは、彼らの研究があまりにも有名であるために誰もわざわざ参照しようとはしないせいなのかもしれない。私の個人的な意見では、経済学がいかに気紛れな学問であるかを表しているのではないかと思う。経済学の分野では一度流行ったアイデアもすぐに忘れ去られてしまう、ということなのかもしれない。経済学の分野で権力を保ち続けることは経済学界で最も名誉ある賞の受賞者にとってさえも困難な話なのである。<br />
<br />
<br />
*<a href="http://link.springer.com/article/10.1007/s11192-013-0989-5" target="_blank">Samuel Bjork, Avner Offer, Gabriel Söderberg (2013). “Time series citation data: the Nobel Prize in economics”, <i>Scientometrics</i>, vol. 95 (forthcoming 2013, available online)</a>voxwatcherhttp://www.blogger.com/profile/10317675353577588272noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2302196195769960775.post-87249867299090706852013-08-30T10:32:00.004+09:002023-04-18T14:22:08.737+09:00Tyler Cowen&Kevin Grier 「ムードに流される非合理的な投票者? ~カレッジフットボールの試合結果が大統領選挙の行方を左右する?~」<span style="font-size: large;">Tyler Cowen and Kevin Grier, “<a href="http://www.slate.com/articles/news_and_politics/politics/2012/10/how_the_presidential_race_between_barack_obama_and_mitt_romney_could_be.html" target="_blank">Will Ohio State’s Football Team Decide Who Wins the White House?</a>”(<i>Slate</i>, October 24, 2012) </span><br />
<blockquote class="tr_bq">
<i>「民主主義に対する最も説得的な反論を知りたければ、平均的な有権者と5分間ほど会話することをお勧めする。」( “ The best argument against democracy is a five-minute conversation with the average voter.”) -ウィンストン・チャーチル</i></blockquote>
<br />
2012年の大統領選挙は――選挙人団の投票、一般投票のどちらもともに――、どうやら接戦になりそうである。有権者の投票行動を理解しようと努めるのはいつであれ重要だが、選挙戦が緊迫している場合にはその重要性はなお増すことになろう。<br />
<br />
有権者が挑戦者に希望を託して票を投じたり、現職に「ノー」を突きつける背後には、一体どんな要因が控えているのだろうか? 有権者は、失業率、GDP、インフレ率の水準やそれらの変化の方向性(訳注;失業率が改善しつつあるのか、それとも悪化しつつあるのか/GDPの成長ペースが加速気味か、それとも減速気味かetc)を考慮に入れて投票するのだろうか? 投票の行方は、各陣営が提示する政策方針書(position papers)や候補者のこれまでの履歴(personal history)に左右されるのだろうか? テレビで放映される候補者の選挙用CMや討論会でのパフォーマンスの出来は、有権者の行動に影響を及ぼすのだろうか?<br />
<br />
有権者を突き動かすのは、もしかするとこれらのどれでもないかもしれない。最近の研究によると、有権者が抱える非合理性(voter irrationality)は、想像以上に恣意的であるようだ。紙一重のきわどい選挙においては、有権者の非合理的な振る舞いが最終的な結果に決定的な違いをもたらす可能性がある。それでは、有権者が抱える非合理性は、どんなかたちをとって表出するのだろうか? 最近の研究によれば、投票が実施されるその同じ州で直前に行われたカレッジフットボールの試合結果がホワイトハウスへの切符を賭けたレースの行方を決定づける可能性があるという。<br />
<br />
そのことを実証的に明らかにしているのが、アンドリュー・ヒーリー(Andrew Healy)&ニール・マルフォートラ(Neil Malhotra)&セシリア・モー(Cecilia Mo)が共同で執筆し、<a href="http://www.pnas.org/content/107/29/12804.full" target="_blank">『米国科学アカデミー紀要』(<i>Proceedings of the National Academy of Science</i>)に掲載されている大変魅力的な論文</a>である。この論文では、大統領選挙、上院議員選挙、州知事選挙の直前に行われたカレッジフットボールの試合結果が有権者の投票行動にどんな影響を及ぼしたかが検証されている。そして、投票日前の1週間内に行われたゲームで地元チームが勝利すると、現職の得票率がおよそ1.5ポイント(1.5パーセントポイント)だけ上昇するとの結果が見出されている。さらに、観客動員数トップ20のチーム――ミシガン大学、オクラホマ大学、南カリフォルニア大学といったビッグチーム――が投票日の直前に勝利すると、現職の得票率は3ポイント(3パーセントポイント)も上昇するという。かなりの票数であり、接戦の選挙戦を有利に戦う上で決して無視できない数だ。なお、以上の結果は、ごく限られたゲーム数や少数の選挙戦のデータから得られたわけではないことを指摘しておこう(彼らの実証分析では、1964年から2008年にかけて行われた全米62のトップチームの試合のデータが利用されている)。<br />
<br />
スポーツには、我々を元気づけ、日々の生活に輝きを添えてくれる力が備わっている可能性があるわけで、このことは良い報せと言えるだろう(・・よね?)。応援するチームが勝利すると、そのチームのファンは、競技場においてだけでなく、競技場の外でも、幸せを感じる。満足感を覚える。幸せや気持ちの高ぶりを感じている時、人は現状に満足しがちになる。そして、現状への満足感が、現職の政治家を支持するというかたちをとって表れる――それがどんなに非合理的な振舞いであるとしても――。<br />
<br />ヒーリーらの論文では、経済面・人口統計学的な属性面・政治面の諸要因に対してコントロールが加えられている。それゆえ、先に言及した結果は、大雑把な相関よりもずっと精緻なものだと言える。また、人々の予想を考慮に入れた分析にも踏み込まれており、予想外の勝利には特に強い力が備わっていることが見出されている。地元チームが予想外の勝利を収めると、現職の得票率がおよそ2.5ポイント(2.5パーセントポイント)上昇する傾向にあるというのだ。<br />
<br />
このような現象は、フットボールだけに限定して見られるわけじゃない。ヒーリーらの論文では、2009年度に行われた全米大学体育協会(NCAA)主催のバスケットボールトーナメントのケースも検討されており、(フットボールのケースと)ほぼ同様の結果が得られている。また、1948年~2009年の期間に実施された市長選挙を対象に、バスケットボール、フットボール、野球のプロの試合が市長選挙に及ぼした影響を検証している<a href="https://b2998732-a-62cb3a1a-s-sites.googlegroups.com/site/mkmtwo/Miller-Sports.pdf?attachauth=ANoY7cqMfCKzz21RPcvHJaHuL9uJue-37HcmNhRN24jlv7iQj4p7sVctNui6HVuKYbIfseDYVPAAzxQic2ArJshW0ya88ZOyc5N4xJpkvmy1S_FMo63vWDOPZRkogEeI7DIolPi-JSeSnj88cLiBmtd19OfyjOmCnoikl_tqAMhnfbT5zDqwWPTcmkKIbIk529CbC9f7obqv1oGveEe4y5fC0H96uSWKwQ%3D%3D&attredirects=0" target="_blank">別の研究</a>によると、地元チームがシーズンを通じて好調な成績を残すと、現職の得票率がいくらか上昇することがわかっている。<br />
<br />
ただし、カレッジフットボールや野球の試合が選挙結果を決定づける「主要な」要因だとまで言い募るつもりはない。オクラホマ大学のスーナーズ(Sooners)が100連勝しても(現職の)オバマ大統領がオクラホマ州で勝てない可能性もあるし、UCLA(カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校)のフットボールチームがボロ負けを喫したのに(挑戦者の)ミット・ロムニーがカリフォルニア州で敗れる可能性もある。ESPNスポーツセンターが報じる試合のスコア以外の要因も大いに重要であることは言うまでもないのだ。<br />
<br />
とは言え、これら一連の結果が驚くべきものであることに変わりはない。それというのも、ヒーリーらも指摘しているように、現職の政治家は、スポーツの試合の行方と何の関係も無いにもかかわらず、試合結果に対して称賛を受けたり責任を問われたりするというわけだから。我々がいかに気まぐれでムードに流されやすい存在かを示す証左であると言えよう。スポーツを含めたポップカルチャーが「投薬」された状態で日々の意思決定を行っているかもしれないと考えると、ちょっとゾッとする思いだ。スポーツのスコアがこんなにも重要な役割を果たしている可能性があることを踏まえると、果たして有権者は政治に関わる基本的な情報――経済のパフォーマンスに関するデータなど――を合理的に処理(解釈)しているのかどうかについても疑ってかかるべきかもしれない。<br />
<br />
さて、ここで極端なシナリオを想定するとしよう。今のところは、現職のオバマ大統領が挑戦者のミット・ロムニーを若干リードしているようだが、今回の選挙は接戦になるだろうというのが大半の専門家の見立てだ。共和党陣営が勝利するためには、フロリダ州、オハイオ州、ヴァージニア州の3つの激戦州(swing states)がキーとなる可能性がある。<br />
<br />
来る10月27日――投票日の1週間とちょっと前――に、オハイオ州とフロリダ州で2つの大きなフットボールゲームが実施される。オハイオ州では、地元のオハイオ州立大学のバッキーズ(Buckeyes)がペンシルベニア州立大学のニタニー・ライオンズ(Nittany Lions)を迎え撃つ。フロリダ州では、地元のフロリダ大学のゲイターズ(Gators)がジョージア大学のブルドッグス(Bulldogs)を迎え撃つ。大統領選がこのまま接戦のままのようであれば、これら2つの州での2つのフットボールゲームの行方がこれからの4年にわたって誰がホワイトハウスで指揮を執るかに影響を及ぼす可能性がある。夜遅くにバッキーズのヘッドコーチであるアーバン・マイヤーのもとにオバマ陣営から電話があって、ブリッツ(守備の戦術)についてアドバイスが送られる・・・なんてことがあったりするだろうか? ロムニー陣営からゲイターズに対して、ブルドッグスのラン・プレイを防ぐためのアドバイスが寄せられる・・・なんてことがあったりするだろうか? 大事なフォース(4th)ダウンでの決断――パントを選ぶか、タッチダウンを狙うか――は、フットボールチームのコーチ陣以外の人々の前途にも影響を及ぼす可能性があるのだ。<br />
<br />
地元チームの勝利は、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%83%AB%E5%8A%B9%E6%9E%9C" target="_blank">ビール・ゴーグル効果</a>の選挙版みたいなものだ。地元チームの勝利のせいで判断が曇らされて、翌朝になって後悔するってわけだ。ビール・ゴーグル効果に屈した面々が朝ベットで目覚めて開口一番につぶやくセリフを借りると、「そんなはずはない(That just ain’t right)」というわけだ。voxwatcherhttp://www.blogger.com/profile/10317675353577588272noreply@blogger.com0