2010年4月11日日曜日

Paul De Grauwe 「"通常の景気後退期"における財政政策と"異常な景気後退期"における財政政策」(2010年3月20日)

Paul De Grauwe, “Fiscal policies in “normal” and “abnormal” recessions”(VOX, March 30, 2010)

財政刺激策を継続すべきだろうか? それとも、できるだけ速やかに財政引き締めに転じるべきだろうか? 3タイプの異なるマクロ経済モデル――ケインジアンモデル/ニューケインジアンモデル/リアルビジネスサイクルモデル(リカーディアンモデル)――を比較した上で言えるのは、どのようなタイプの景気後退に直面しているかによって答えが変わるということだ。「通常の景気後退」(“normal recessions”)に直面しているようなら、最も適切な指針を与えてくれるのはニューケインジアンモデルである。その一方で、「異常な景気後退」(“abnormal recessions”)に直面しているようなら、最も適切な指針を与えてくれるのはケインジアンモデルである。

世界的な経済危機が勃発した2008年以降に、政府が抱える財政赤字ならびに公的債務が急速な勢いで膨らんでいる。そんな中で、財政政策に景気を刺激する力があるのかどうかをめぐって活発な論争が繰り広げられている。重要な争点である。論争の行方次第によって、このまま財政刺激策を継続すべきなのか、それともできるだけ速やかに財政刺激策から手を引くべきなのかが決せられるからである。

門外漢の人でも特段驚きはしないだろうが、この問題については経済学者の間で意見が割れている。そのことを明瞭に示しているのが以下の図1である。アメリカ経済に関する異なるマクロ経済モデルから予測される財政政策の乗数効果をサーベイした最近の論文(Cogan et al. 2009)から転載した図で、政府支出が恒久的に1%増えた場合にアメリカの実質GDPに生じる効果の大きさ(乗数の値)について2つの異なるモデル――Romer&BernsteinモデルとSmets&Woutersモデル――から得られる予測が示されている。

Romer&Bernsteinモデルでは、政府支出が増えてから1年後に強力な乗数効果が表れて、乗数の値はその後も高止まりすると予測されている。その一方で、Smets&Woutersモデルでは、政府支出が増えてから4年後に乗数の値が0.4にまで落ち込んで、それ以降は次第にゼロに向けて低下していくと予測されている。


        
図1. 政府支出の1%の恒久的な増加がアメリカの実質GDPに及ぼす効果  
出典:Cogan, et al. (2009)


これら2つのモデルの根本的な違いをもっとわかりやすいかたちで可視化したのが以下の図2である。乗数の値ではなく、政府支出が恒久的に1%増えた場合に実質GDPが辿ると予測される経路が跡付けてある。比較のために、財政刺激策が試みられなかったとしたら実質GDPが辿ると予測される経路(ベースライン)も並べてある。


        
図2. 実質GDPが辿る経路:3つのシナリオ
出典:Cogan, et al. (2009) のデータに基づいて筆者が作成


根本的に異なる経済観

Romer&Bernsteinモデルでは、財政刺激策によって実質GDPが増えると、そのままベースラインを上回る経路に引っ張り上げられることになる。その一方で、Smets&Woutersモデルでは、財政刺激策が試みられても、実質GDPは次第にベースラインに向けて立ち返る傾向にある。背後にある経済観が根本的に異なっているのだ。

Romer&Bernsteinモデルでは、均衡が複数あって、政府が財政刺激策によって経済を別の均衡に誘うのが可能になっている。その一方で、Smets&Woutersモデルでは、均衡が一つしかなくて、財政刺激策が試みられてからしばらくすると、その唯一の均衡に立ち返ることになるのだ。経済観が根本的に異なるこれら2つのモデルからは、財政刺激策から手を引くべきか否かについて異なる回答が返ってくることは言うまでもない。


3タイプのマクロ経済モデル

図2における3つのシナリオにそれぞれ対応するマクロ経済モデルがあって、財政政策の有効性について三者三様の予測を行う。

第1のタイプは、ケインジアンモデルである。Romer&Bersteinモデルもこの仲間だ。ケインジアンモデルでは、財政刺激策によって産出量(実質GDP)の水準が恒久的に高まる。さらには、均衡が複数ある可能性があって、複数ある均衡のうちのいくつかでは雇用量が完全雇用水準に満たない可能性がある。

第2のタイプは、リアルビジネスサイクル(RBC)モデルである。このモデルでは、リカードの中立命題が成り立つと想定されていて――それゆえ、リカーディアンモデルと呼んでもいいだろう――、個々の経済主体は合理的で将来志向(forward looking)であると見なされる。現時点で財政赤字が拡大すると、そのうち増税されることを見越して行動するわけである。将来の税負担がどれくらい増えるかを現時点の価値に割り引いて計算して、それと同じ額だけ(将来の増税に備えて)今のうちに貯蓄を増やすわけである。それゆえ、リカーディアンモデルでは、財政刺激策を試みても、民間の経済主体が貯蓄を増やすのでその効果が完全に相殺されてしまう。乗数の値がゼロになるのだ。財政刺激策を試みても、実質GDPがベースラインから離れないのだ。

第3のタイプは、ニューケインジアンモデルである。Smets&Woutersモデルもこの仲間だ。ニューケインジアンモデルでは、財政刺激策が産出量(実質GDP)の水準を高める効果は長続きしない。財政刺激策が試みられた直後は、産出量にケインジアンモデルと非常に似た効果が生じる。しかしながら、リカーディアンモデルと同様に、合理的で将来志向の民間の経済主体が将来の増税に備えて貯蓄を増やす――それに伴って、民間消費と民間投資が減少する――ので、乗数の値が徐々に小さくなって、産出量が次第にベースラインに立ち返ることになる。産出量がベースラインに立ち返るまでにリカーディアンモデルよりも長い時間がかかるが、その理由は名目賃金や名目価格が硬直的なためである。現在の「最先端」のマクロ経済モデルの大半は、ニューケインジアンモデルに属していて、そのいずれもがSmets&Woutersモデルと似た特徴を備えている(Cwik&Wieland 2009)。

これまでの説明からも窺い知れるだろうが、ケインジアンモデルとニューケインジアンモデルの違いの方が、リカーディアンモデルとニューケインジアンモデルの違いよりも根本的だと言えよう。

ケインジアンモデルでは、産出量が長期的な均衡に自動的に引き戻されることはない。だからこそ、財政刺激策が産出量に及ぼす効果が持続する可能性があるのだ。それに対して、ニューケインジアンモデル――ならびに、リカーディアンモデル――は、大違いの経済観に立っている。ニューケインジアンモデルでは、財政刺激策が試みられると、金利、価格、賃金が変化して、それに伴って民間消費や民間投資がクラウドアウトされる(減少する)。その結果として、産出量が長期的な均衡に引き戻されることになる。リカーディアンモデルでは、産出量があっという間に長期的な均衡に引き戻される。ニューケインジアンモデルでは、賃金や価格が硬直的なせいで、産出量が長期的な均衡に引き戻されるまでに時間がかかる。そういう違いはあるが、ニューケインジアンモデルとリカーディアンモデルは基本的に同じ構造を共有しているのだ。


最も適切なマクロ経済モデルはどれ?

「通常の景気後退」(“normal recessions”)に直面しているようなら、最も適切な指針を与えてくれそうなのはニューケインジアンモデルで、「異常な景気後退」(“abnormal recessions”)に直面しているようなら、最も適切な指針を与えくれそうなのはケインジアンモデルだ。ニューケインジアンモデルを含む均衡モデルは、「通常の景気後退」を理解するのに役に立つ。「通常の景気後退」であれば、調整メカニズムが働く――例えば、金利や価格が変化するおかげで長期的な均衡に引き戻される――からである。ニューケインジアンモデルを含む均衡モデルは、産出量を長期的な均衡に引き戻すのに財政政策がどれくらい助けになるかを理解するヒントをくれるだろう。例えば、ネガティブな需要ショック(総需要の収縮)が生じたとしよう。ニューケインジアンモデルによると、産出量が落ち込むのは一時的で、産出量はそのうち長期的な均衡に立ち返ることになるだろう。しかしながら、産出量が長期的な均衡に立ち返るまでにはしばらく時間がかかるだろう。財政刺激策に乗り出せば、産出量が長期的な均衡に立ち返るまでの時間を縮めることができる。どれくらい短縮できそうかを知るためにも、乗数の値を把握しておくのが重要になってくる。ニューケインジアンモデルの予測によると、財政刺激策が試みられた直後は乗数の値は1くらいで、その後は急速に低下することになる。「通常の景気後退」に直面しているようなら財政政策は役に立つ可能性があるが、やり過ぎないように注意せよというのがニューケインジアンモデルの教えである。さらには、「出口戦略」(“exit strategy”)は急ピッチで進めろというのもニューケインジアンモデルの教えである。


「通常の景気後退」か? それとも「異常な景気後退」か?

我々が今まさに直面しているのは「通常の景気後退」ではないだろう。なぜそう言えるのかを説明するために、3種類のデフレスパイラル(deflationary spirals)を区別するとしよう。いずれも今回の危機の最中にその牙をむいたのだ。

  • ケインジアン流の「貯蓄のパラドックス」:多くの人が一斉に自信を失って――「集合的な自信の喪失」――、こぞって貯蓄に励む。そのせいで産出量が落ち込む。
  • フィッシャー流の「デット・デフレーション」: 誰もが疑心暗鬼になって――「集合的な不信」――、こぞって債務の削減を試みる。資産が一斉に売られるせいで、資産の価格が低下する。資産の価格が低下するせいで、バランスシートが毀損する(資産額から負債額を差し引いた純資産額が縮小する)。そのせいで、さらに資産の売却が試みられる。
  • 銀行信用デフレーション:民間の銀行が突如としてリスクを嫌い、一斉に貸し出しを抑制する。そのせいで、貸出債権のリスク(貸し倒れリスク)が高まる。

これら3種類のデフレスパイラルは、同じ構造を共有している。個々の行動(貯蓄、債務の削減、貸出の抑制)が「負の外部性」を生むせいで、自滅的な結果を招くことになるのだ。いずれのデフレスパイラルも、集合的な不安/集合的な不信/集合的なリスク回避がきっかけで引き起こされる。みんなで一致団結しようにもコストがかかってそう簡単にはいかないため、負の外部性を内部化することができない。「コーディネーションの失敗」が生じて、悪い結果を避けられないのだ(この点について詳しくは、Cooper&John (1988) を参照せよ)。 

大勢の信念が共鳴する――言い換えれば、「アニマルスピリッツ」(Akerlof&Shiller 2009)が伝播する――せいで引き起こされる「市場の失敗」の例だと言える。大勢の信念が共鳴しないようなら、市場は一人ひとりの信念をうまく調和させられるだろう。しかしながら、アニマルスピリッツが伝播するようなら、そうはいかない。市場は「良い均衡」(“good equilibrium”)を実現できずに終わるのだ(この点については、Farmer&Guo (1994) も参照せよ)。

同じ構造を共有してはいるが、違いもある。「貯蓄のパラドックス」は、「フローのデフレーション」(“flow deflation”)と呼べるだろう。消費者がフロー(貯蓄)を変えようと試みるせいで起きるからである。その一方で、フィッシャー流の「デット・デフレーション」や銀行信用デフレーションは、「ストックのデフレーション」(“stock deflations”)と呼べるだろう。ストック――債務の水準や銀行信用(貸出)の水準――の調整に伴って起きるからである。「フローのデフレーション」と「ストックのデフレーション」が相互作用し始めると、厄介なことになってしまうのだ。

戦後になってこれまでに起きた「通常の景気後退」においては、「フローのデフレーション」だけがその牙をむいた。家計にしても企業にしても民間銀行にしても、バランスシートの調整にあくせくするようなことはなかったのである。所得や利潤が減るのではないかと悲観的になって、貯蓄に励んだのである。しかしながら、調整メカニズムがちゃっかり働いて、止めどない下降スパイラルに陥らずに済んだのだ。銀行部門が調整メカニズムの一端として重要な役割を果たしたのだ。

「フローのデフレーション」と「ストックのデフレーション」が相互作用して互いに補強し合っているというのが、2007年以降に世界経済が直面することになった問題だ。今回の危機に先立って、民間部門で過剰な債務が積み上げられた。それが原因で「ストックのデフレーション」が強力に牙をむく土壌が形成されたのである。「通常の景気後退」であれば働く調整メカニズムもその機能を発揮しなかった。中央銀行が金利を引き下げたものの、民間の銀行が貸し出しを抑制したために、その恩恵(金利の低下)が消費者や企業にまで及ばなかったのである。

「フローのデフレーション」と「ストックのデフレーション」が相互作用しているのだ。積み上がった過剰な債務を処分するために、家計は債務を減らして貯蓄を増やそうとしている。しかしながら、待っているのは自滅的な結果だろう。貯蓄も増えないし、債務も減らないだろう。そこで、家計はなおさら貯蓄を増やそうとするだろう。預金金利が低下しているのに、民間の銀行が貸出金利を引き下げずにいるのも事態の悪化に手を貸している。今のような状況では、企業も投資を増やそうとするインセンティブを持たないだろう。デフレスパイラルを食い止めるストッパーがどこにも見当たらないのだ(Minsky (1986) および Fazzari, et al.(2008) も参照せよ)。


集合行為を通じた「コーディネーションの失敗」の解決

今のように景気がこんなにも落ち込んでいるのは、「コーディネーションの失敗」の結果である。市場が一人ひとりの行動を調和させるのに失敗して、「良い均衡」を実現できずにいるのだ。

市場によっては解決できなくても、政府が陣頭指揮をとる「集合行為」を通じてなら解決することが原則的には可能な問題だ。景気を回復させるためには、銀行部門の安定化を実現できるかどうかが鍵になる。未だに「流動性の罠」に嵌っている可能性はあるものの、銀行部門はどうにか安定を取り戻したように思える。ケインズ流の「貯蓄のパラドックス」やフィッシャー流の「デット・デフレーション」についてはどうかというと、政府が貯蓄を切り崩す(財政赤字を拡大する)だけでなく、債務(公的債務)を積み増すことによって難を逃れたようである。そのおかげなのだ。民間部門が貯蓄を増やせたのも債務を減らせたのも。「フローのデフレーション」と「ストックのデフレーション」が相互作用して止めどない下降スパイラルに陥るのを回避できたのも。

これまでに述べてきたことが2007年に始まった景気後退のメカニズムを的確に描写できているとしたら、安定的な均衡の存在が想定されているモデルから得られる財政乗数の推計結果はまったくあてにならないことになろう(例えば、Wieland (2009), Cogan et al. (2009), Fatás&Mihov (2009), Hassett (2009) も参照せよ)。政府が財政赤字を拡大して債務(公的債務)を積み増したおかげで、民間部門における「コーディネーションの失敗」が解決されたし、民間の経済主体が望み通りに貯蓄を増やせて債務を減らせたのだ。景気を不安定化させることなく。その「乗数」効果は極めて大きい可能性があるが、具体的な値を推計するのは難しいだろう。


持続不可能な債務?

民間の債務が政府の債務によって置き換えられる――民間部門が債務を圧縮する一方で、財政赤字が拡大して公的債務が積み上がる――のに伴って争点として持ち上がっていてマーケットの関心事にもなっているのが、公的債務の持続可能性の問題である。公的債務の持続可能性に疑問符がつくようなら、政府はできるだけ速やかに出口戦略に乗り出す(財政引き締めに転じる)べきということになろう。しかしながら、この件については、民間の債務の持続可能性の問題と切り離して論じるわけにはいかないのだ。 

民間の債務の水準がまだ過剰で、民間の経済主体が今後も債務の圧縮を継続しなければならないようなら、政府ができるだけ速やかに出口戦略に乗り出すべきだとは言い切れない。出口戦略のタイミングを間違えて先走ってしまうと、その代償として民間の債務が持続不可能な水準にまで膨れ上がってしまって、新たにデフレスパイラルが引き起こされるだろうからだ。

民間の債務が現段階で持続可能な水準にあるかどうかが肝心なのだ。民間の債務が持続可能な水準にあって、政府が財政赤字と債務(公的債務)を減らそうとしてもデフレスパイラルに陥る恐れがないかどうかが肝心なのだ。残念ながら、今の段階でこの問いに答えを出すのは難しい。民間の債務が持続可能かどうかを見極めるのは難題だからである。フィッシャー流の「デット・デフレーション」のメカニズムを思い起こしてもらいたいが、誰かしらが負っている債務の持続可能性は他の誰かの行動に依存しているのだ。外部性が存在するからこそ、債務が持続可能かどうかを見極めるのはいつだって難しいのだ。


<参考文献>


●Akerlof, George, and Robert Shiller (2009), Animal Spirits: How Human Psychology Drives the Economy and Why It Matters for Global Capitalism, Princeton University Press, 264.
●Cogan, John, Tobias Cwik, John B Taylor and Volker Wieland (2009), “New Keynesian versus Old Keynesian Government Spending Multipliers”, CEPR Discussion Paper 7236, March.
●Cwik, Tobias, and Volker Wieland (2009), “Keynesian Government Spending Multipliers and Spillovers in the Euro Area”, CEPR Discussion Paper 7389.
●Cooper, Russell W and John, Andrew (1988), “Coordinating coordination failures in Keynesian models”, Quarterly Journal of Economics, 103:441-463.
●Farmer, Roger and Jang-Ting Guo (1994), “Real Business Cycles and the Animal Spirits Hypothesis”, Journal of Economic Theory, 63, 42-73.
●Fatás, Antonio and Illian Mihov (2009), “Why Fiscal Stimulus is Likely to Work”, International Finance 12:1, Spring.
●Fazzari, Stevan, Pierro Ferri and Edward Greenberg (2008), “Cash flow, investment, and Keynes–Minsky cycles”, Journal of Economic Behavior and Organization, 65:555–572.
●Fisher, Irving (1933), “The Debt-Deflation Theory of Great Depressions(pdf)”, Econometrica, 1:337-57, October.
●Leijonhuvud, Axel (1973), “Effective demand failures”, Swedish Journal of Economics, 75:27-48.
●Minsky, Hyman (1986), Stabilizing an Unstable Economy, McGraw Hill, 395pp.
●Reinhart, Carmen and Kenneth Rogoff (2009), “The Aftermath of Financial Crises”, NBER Working Paper 14656.
●Smets, Frank and Raf Wouters (2007), “Shocks and Frictions in US Business Cycles: A Bayesian DSGE Approach”, American Economic Review 97, 3: 506-606.
●Wieland, Volker (2009), “The fiscal stimulus debate: “Bone-headed” and “Neanderthal”?”, VoxEU.org, 31 March.

Daniel Leigh 「インフレ率の目標値を4%に引き上げるべきか?」(2010年3月9日)

Daniel Leigh, “A 4% inflation target?”(VOX, March 9, 2010)
 
IMFのチーフエコノミストであるオリヴィエ・ブランシャール(Olivier Blanchard)が、通常時のインフレ率の目標値を4%に引き上げるべきだと提言している。深刻な不況に陥った場合に名目金利を引き下げられる余地をできるだけ確保するためというのがその理由だ。もっともだ。日本銀行が4%のインフレ率を目標にしていたとしたら、日本経済が 「失われた10年」(“Lost Decade”)の間に喪失した産出量の規模を半分に抑えることができていた可能性があるのだ。

金融政策は低インフレ――例えば、1~2%のインフレ率――の達成を最優先すべきだというのが、セントラルバンカーの世界における通念(conventional wisdom)になっている。例えば、世界中のセントラルバンカーが一堂に会した1996年のジャクソンホールカンファレンスでは、「低水準のインフレ率あるいはゼロ%のインフレ率を金融政策の長期的な目標に据えるべきだとの総意」が得られている(Kahn 1996)。CPI(消費者物価指数)が抱える上方バイアス(測定誤差)を考慮すると、CPIで測ったインフレ率が1~2%の時に「真の」インフレ率がゼロ%になるだろう(Wynn&Rodriguez-Palenzuela 2002)。

ところで、中央銀行が掲げるインフレ率の目標値が低い国では、世界的な金融危機のあおりを受けて、名目金利がゼロ下限制約に達してしまった。名目金利を引き下げられる余地がなくなってしまったのである。望ましい名目金利がゼロ%を下回ったケースもある。例えば、米国経済を対象にしたルドブシュ(Rudebusch 2009)の推計によると、テイラールールから導き出される望ましいFF金利(フェデラルファンド金利)の水準は、2009年時点でマイナス4%以下――ゼロ下限制約のずっと下――という結論が得られている。インフレ率の目標値がもっと高かったとしたら、万能薬が手に入っていただろうか? 


「名目金利の引き下げ余地」(“room to cut”)の効能に関する最新の研究

IMFのチーフエコノミストであるオリヴィエ・ブランシャールとその同僚たちが、インフレ率の目標値を4%に引き上げてみたらどうだろうかと提言している(Blanchard et al. 2010)。少し前になるが、日本銀行が4%のインフレ率を目標にしていたとしたら、日本経済のパフォーマンスが改善していたかどうかを私なりに検討してみたことがある(Leigh 2009)。日本経済は、1990年代中頃に政策金利がゼロ%の下限に達した後に、「失われた10年」(“Lost Decade”)に陥った。日本銀行が4%のインフレ率を目標にしていたとしたら、どうなっていただろうか? その答えを得るために、日本経済のデータから推計された標準的なDSGE(動学的確率的一般均衡)モデルの助けを借りて反実仮想のシミュレーションを試みたのだ。見出された発見は、3つある。

第1の発見:日本銀行は1990年代前半に大いなる過ちを犯したという大方の見方に反して、当時の日本銀行は、標準的なテイラールールに従って政策金利を調節していたようなのだ。どうやら1%のインフレ率が暗黙の目標だったようで、インフレ率の安定化に重きが置かれていた――インフレ率を1%に落ち着かせることが最優先されていた――ようなのだ。決して異端(unorthodox)と呼べるようなものではなかったのだ。実際の政策金利の推移と、モデルから推計された政策金利の推移を並べて掲げたのが図1である。1990年代前半においては、実際の政策金利がモデルの推計値をなぞっていることがわかる。



【図1】日本経済:モデルから推計された政策金利(実線)と実際の政策金利(点線)


第2の発見:シミュレーションの結果によると、日本銀行が4%のインフレ率を目標にしていたとしたら、名目金利のゼロ下限制約に直面せずに済んでいた(名目金利をゼロ%にまで引き下げなくてもよかった)可能性がある。しかしながら、名目金利の引き下げ余地が広がりさえすれば、それだけで産出量(GDP)で測ったパフォーマンスが大幅に改善するかというと、そうではない。日本銀行が産出量の安定化――GDPギャップ(現実のGDPと潜在GDPの乖離)の縮小――に積極的にならない限りは、名目金利の引き下げ余地が広がっても存分に活用されずに終わってしまうのだ。4%のインフレ率が目標にされていたら、予想インフレ率が高まって実質金利が低下する。そのおかげで産出量が増えるが、その効果は長続きしない(図2を参照)。 



【図2】4%のインフレ率が目標にされていたら:実際(実線)と反実仮想(点線)


第3の発見:日本銀行が4%のインフレ率を目標にするだけでなく、産出量の安定化――GDPギャップの縮小――にも積極的に取り組んでいたとしたら、日本経済のパフォーマンスは大きく改善していた可能性がある。シミュレーションの結果によると、4%のインフレ率が目標にされるだけでなく、日本銀行が産出量の安定化――GDPギャップの縮小――に積極的に取り組んでいたとしたら、日本経済が「失われた10年」の間に喪失した産出量の規模を半分に抑えることができていた可能性があるのだ(図3を参照)。



【図3】4%のインフレ率が目標にされるだけでなく、産出量の安定化に重きが置かれていたら:実際(実線)と反実仮想(点線)


1990年代の日本経済の経験から得られる教訓

新たに「失われた10年」に陥らないようにするために、金融政策にどんなことができるだろうか? 日本と経済構造が似ていて、襲われるショックの種類も似ているようなら、以下の2つの政策変更が求められることになるだろう。

  • 名目金利を引き下げられる余地をできるだけ確保するために、インフレ率の目標値を引き上げるべし。

私の研究では、インフレ率の目標値が4%に引き上げられるケースに焦点が当てられている。4%というのは、先進国で受け入れられている今の規範(norm)と比べると、ずいぶんと高い。しかしながら、大きな混乱を招くほどの高さではない。ここで、あえて指摘しておきたい史実がある。1980年代前半にFRB議長を務めた「タカ派」のポール・ヴォルカー(Paul Volcker)が、インフレ率が「4%」近辺で安定したのを見て「勝利を宣言した」のだ(Tobin 2002)。

  • 産出量の安定化――GDPギャップの縮小――に積極的になるべし。

中央銀行の責務の範囲を広げて、中央銀行がインフレ率の安定化――インフレ目標の達成――だけでなく、産出量の安定化――GDPギャップの縮小――にも積極的に取り組むようになれば、新たに「失われた10年」に陥らずに済む助けになるだろう。

10年に及ぶ穏やかなデフレーションを経験した日本だが、デフレ圧力が高まらないようにするというのが次なる課題である。これまで以上に難儀な課題になりそうだ。


<参考文献>


●Blanchard, Olivier, Giovanni Dell’Ariccia, and Paolo Mauro (2010), “Rethinking Macro Policy”〔拙訳はこちら〕, VoxEU.org, 16 February.
●Eggertsson, Gauti (2006), “The Deflation Bias and Committing to Being Irresponsible”, Journal of Money, Credit and Banking, 38(2), pp. 283-321, March.
●Eggertsson, Gauti (2008), “Great Expectations and the End of the Depression”, American Economic Review, 2008: 90(4).
●Kahn, George A., 1996, “Achieving Price Stability: a Summary of the Bank's 1996 Symposium(pdf)”, Economic Review, Fourth Quarter 1996, Federal Reserve Bank of Kansas City.
●Leigh, Daniel, 2009, “Monetary Policy and the Lost Decade: Lessons from Japan”, IMF Working Paper 09/232.
●Rudebusch, Glenn D (2009), “The Fed's Monetary Policy Response to the Current Crisis”, Federal Reserve Bank of San Francisco Economic Letter Number 2009-17.
●Tobin, James (2002), “Monetary policy”, in: Henderson, D R (ed.), The Concise Encyclopedia of Economics, Liberty Fund Inc., Indianapolis.
●Wynne, Mark A and Diego Rodriguez-Palenzuela (2002), “Measurement bias in the HICP: What do we know, and what do we need to know?(pdf)”, European Central Bank Working Paper Series, 131.

Olivier Blanchard&Giovanni Dell'Ariccia&Paolo Mauro 「マクロ経済政策を再考する」(2010年2月16日)

Olivier Blanchard&Giovanni Dell'Ariccia&Paolo Mauro, “Rethinking macro policy”(VOX, February 16, 2010)

このたびの世界金融危機は、マクロ経済政策のあるべき姿に関するこれまでのコンセンサスに沿わないかたちでの対応を各国の政策当局者に強いることになった。本稿では、(i) マクロ経済政策のあるべき姿に関するこれまでのコンセンサスの主要な要素を展望し、(ii) これまでのコンセンサスのうちでどれが誤りであったかを特定し、(iii) 今後のマクロ経済政策の新たな枠組みの輪郭を描き出す。

「大平穏期」(Great Moderation)(Gali and Gambetti 2009) と呼ばれるマクロ経済の安定期の到来は、マクロ経済政策のノウハウを知悉するに至ったとの信念をマクロ経済学者や政策当局者の間に植え付けることになった。しかしながら、このたび世界経済を襲った経済危機は、そのような信念の妥当性に疑問を投げかけている。我々は、つい最近公にしたばかりのIMFスタッフレポートで(Blanchard, Dell’Ariccia and Mauro 2010,;詳しい参考文献については、このレポートを参照されたい)、マクロ経済政策のあるべき姿に関するこれまでのコンセンサスの主要な要素を展望している。それに加えて、これまでのコンセンサスのうちでどれが誤っていて、どれが依然として(危機を経てもなお)通用するかを特定しようと試みている。さらには、今後のマクロ経済政策の新たな枠組みの輪郭も描き出している。


(i) これまでのコンセンサス(What we thought we knew)

マクロ経済政策のあるべき姿に関するこれまでのコンセンサスをいくらか誇張して要約すると、以下のようになる。

金融政策は、単一の手段――政策金利――を頼りにして、単一の目標――低率で安定したインフレーション――の達成を目指すべきである。インフレ率が安定しているようなら産出ギャップも小幅で安定しているはずだから、インフレ率が安定している限りは、金融政策はやるべき仕事を果たしていると言える。財政政策は、あくまで二次的な役割を果たすに過ぎない。というのも、財政政策は、政治的な制約によってその有効性に限りがあるからである。金融規制? 金融規制は、マクロ経済政策の枠組みの範囲外の問題だ。

上で簡潔に要約したコンセンサスは、どちらかというと、学者の間で広く深く共有されていたろう。政策当局者は、学者と比べると、もう少しプラグマティックだった。とは言え、これまでのコンセンサスが現実の政策や制度を形作る上で重要な役割を果たしたことは確かである。

単一の目標:低率で安定したインフレーション

これまでのコンセンサスでは、低率で安定したインフレ率の達成が中央銀行に課せられるべき第一義的な――排他的な、とまではいかなくても――法的責務と見なされていた。その理由は、中央銀行がインフレファイターとしての評判を確立する必要があったことに加えて、ニューケインジアンモデルによる知的な面からのサポートが与えられたからである。標準的なニューケインジアンモデルによると、インフレ率がある一定の水準で安定すると、それと同時に産出ギャップも解消される(産出ギャップがゼロになる)ことになる――いわゆる「神聖なる一致」(“divine coincidence”)――。経済に存在する様々な不完全性を考慮すると、インフレ率がある一定の水準で安定するようなら、考え得る限りで最善の結果が得られることになる。つまりは、中央銀行が実体経済の動向を気にかけているとしても、インフレ率をある一定の水準に安定させることが中央銀行にできる最大の貢献ということになる。「ある一定の水準」というのはどのくらいかというと、できるだけ低い水準であるべきだという点でコンセンサスが得られていた(大半の中央銀行は、2%のインフレ率を目標にしている)。

単一の手段:政策金利

これまでのコンセンサスでは、金融政策の手段として一つの手段にだけ注目が寄せられていた。政策金利がそれである。これまでのコンセンサスでは、金融政策は、現在の短期金利と将来の期待短期金利に影響を及ぼすことができればそれでよいと見なされていた。現在の短期金利と将来の期待短期金利に影響を及ぼすことができたら、その他の諸々の金利(満期がより長めの金利など)や価格にも影響を及ぼすことができると考えられていたのである。金融仲介の詳細については、大して重要ではないと軽んじられる傾向にあった。ただし、例外として、金融政策の波及経路としての「クレジット・チャネル」(“credit channel”)との絡みで、商業銀行(commercial bank)に対しては注意が向けられた。さらには、銀行取り付けの可能性を考慮して、預金保険制度や中央銀行の「最後の貸し手」機能が正当化された。そして、預金保険制度等の導入に伴って生じる(商業銀行が直面する)インセンティブの歪みに対処するために、銀行の規制や監督が擁護された。しかしながら、マクロ経済との絡みで、金融システムのその他の面に対して注意が向けられることはほとんどなかった。

財政政策の限定的な役割

1950年代および1960年代のケインジアンの栄光時代、1970年代の高インフレの時代を経て、その後の20~30年間にわたり、財政政策には二次的な役割しか与えられなかった。その理由はいくつかある。「リカードの等価定理」を根拠にして、財政政策の効果に疑いの目が向けられるようになったというのが一つ。財政政策が立案・実施されるまでには時間がかかる――財政政策は、機動性を欠いている――ことが認識されるようになったというのが一つ。財政政策の中身が政治的な利害関係によって左右される可能性が認識されるようになったというのが一つ。政府債務が累積していることも理由の一つに挙げることができるだろう。政府債務残高がこれ以上増えないようにするか減らすかする必要があると認識されるようになったのである。ただし、「財政の持続可能性」を脅かさない範囲でではあったが、財政の自動安定化装置(automatic stabilizers)に関してはその役割が認められていた。

金融規制:Not マクロ経済政策

これまでのコンセンサスでは、金融規制や金融監督がマクロ経済に及ぼす影響は等閑視されていた。個別の金融機関や個別の市場に及ぼす影響にだけ目が向けられていたのである。具体的に言うと、金融規制の目的は、個別の金融機関の健全性を維持して、非対称情報や(株式会社形態に伴う)有限責任に起因する「市場の失敗」を是正することにあったのである。金融自由化に対する熱狂が続いている中では、金融規制を景気の安定化のためにも用いようとする発想は、信用市場の円滑な機能を阻害しかねないとして、不適切な発想と見なされたのだった。

大平穏期(The Great Moderation)

実質GDPおよびインフレ率の変動幅が縮小するのに伴って――「大平穏期」が到来するのに伴って――、首尾一貫したマクロ経済政策の枠組みが遂に完成したのだとの強い確信が生まれることになった。さらには、1987年の株式市場の暴落、LTCMの破綻、ITバブルの崩壊等々を難なく切り抜けたことで、金融政策はバブルの崩壊にも首尾よく対処できるのだとの見方が強まることにもなった。かくして、2000年代の中頃までには、巧みなマクロ経済政策のおかげでマクロ経済のさらなる安定を実現することは可能だし、実際にも実現してきたと考えることは不合理でもなんでもなくなっていた。そんな中、今回の危機がやってきたのである。


(ii) 危機の教訓(What we have learned from the crisis)

今回の危機から我々が学んだことを列挙すると、以下のようになる。

  • インフレ率が安定していても、マクロ経済面で脆弱性が積み上がることがある
危機が勃発する直前まで、コアインフレ率は大半の先進国で安定していた。コアインフレ率はインフレを測る正確な指標ではなく、石油価格や不動産価格の変動も考慮に入れるべきだと訴える声も当時からちらほらと上がってはいた。しかしながら、インフレをどのようにして測るのであれ、単一の指標にすべてを託すわけにはいかないだろう。さらには、コアインフレ率が安定していても、産出ギャップが変動するという可能性もある。インフレ率の「変動」と産出ギャップの「変動」との間にはトレードオフが存在するかもしれないのだ。また、危機が勃発するまでの2000年代においてもそうだったが、インフレ率も産出ギャップもともに安定しているのに、いくつかの資産価格だったり信用総量〔訳注;credit aggregates;金融機関による貸出残高、あるいは、その(フローで測った)変化〕だったり産出量の構成〔訳注;composition of output;産業レベルでの産出量の変動〕だったりに望ましくない変化が生じている可能性もある。

  • 低インフレは、デフレ不況に立ち向かう上で金融政策にできることを狭めることになる
2008年に入って危機が本格化し、総需要が大きく落ち込むと、大半の中央銀行は、政策金利を即座にゼロ%近くにまで引き下げた。もしも可能であったら、世の中央銀行は、さらなる利下げに訴えて、政策金利をゼロ%以下(マイナスの水準)にまで引き下げていたことだろう。しかしながら、名目金利に対するゼロ下限制約がそうすることを阻んだのだった。危機が勃発するまでの時期にインフレ率がもう少し高かったら(それに伴って、政策金利がもう少し高い水準に留まっていたら)、利下げの余地(名目金利および実質金利を引き下げる余地)も広がっていたことだろう。

  • 金融仲介は、マクロ経済面でも重要な役割を演じる
金融市場は、取引される金融商品ごとに細かく分断されていて、市場ごとにそこでの取引に特化した投資家がいる。分断されている市場は、投資家による裁定行為を通じて、大抵の場合は互いに密接に結び付けられている。しかしながら、何らかの理由によって(金融取引以外の面で損失を被ったり、必要な資金を調達できない等の理由で)投資家が一斉に資金を引き揚げると、金融商品の価格に大きな影響が及ぶ可能性がある。それと同時に、投資家が裁定行為から手を引いてしまうために、各種の金利の結び付きが弱まることになる。そうなると、政策金利という単一の手段を操作しさえすれば、各種の金利や資産価格に影響を及ぼせるとは到底言えなくなる。異なる資産の価格に影響を及ぼそうとするなら、資産を担保に資金を貸し出したり、資産を直接買い切ったりして、中央銀行が各種の金融市場に介入する必要が出てくることになろう(そうすれば、政策金利を操作しなくても異なる資産の価格に影響を及ぼせるだろう)。分断された市場が投資家による裁定行為を通じて結び付けられなくなると、市場を通じた短期での資金調達(wholesale funding)と要求払い預金の区別がなくなり、銀行だけでなく投資家一般も流動性を追い求めることになるのである。

  • 財政政策は、景気を安定させるための重要な道具の一つである
今回の危機は、財政政策をマクロ経済政策の主要な一員として舞台の中央に呼び戻すことになった。その理由は、2つある。1つ目の理由は、金融緩和が限界に達したからである。2つ目の理由は、危機に突入したばかりの段階で既に不況が長期化しそうだと予測されていたからである。財政政策が実行に移されるまでには長い時間を要するとしても、これから続くであろう不況の長さを考えると、財政政策が効果を表すまでに十分に時間の余裕があったのである。長期化する不況という例外的な状況ゆえに積極的な財政出動が正当化されたわけだが、その裏返しとして、「通常の」景気循環の過程で裁量的な財政政策に訴えることに伴う欠点――特に、適切な財政政策を立案・決定・実行することに伴うラグ――が再度浮き彫りになった。また、今回の危機は、「財政面での余地」(“fiscal space” )を確保する重要性も明らかにしている。危機に突入した段階で膨大な政府債務残高を抱えていた国は、財政政策を使える余地が限られていたのである。

  • 金融規制は、マクロ経済に対して非中立的な影響を及ぼす
金融規制は、アメリカで生じた住宅価格の下落を世界全体を巻き込む経済危機へと増幅させる役割を果たした。民間の銀行は、規制の網を潜り抜けるようにして、プルーデンシャル規制の適用を避けてレバレッジを高めるために、オフバランス化に乗り出した。こうした規制間の裁定(Regulatory arbitrage)の結果として、いくつかの金融機関に他の金融機関が従っているのとは異なるルールの下で活動するのを許してしまうことになった。また、ひとたび危機が勃発するや、個別の金融機関の健全性を維持することを目的として設計されたルールが、金融システム全体の安定性を脅かす方向に作用することになった。資産の時価評価を求めるルールとあらかじめ定められた自己資本比率の達成を求めるルールが組み合わさって、金融機関による投げ売りとデレバレッジング(債務の圧縮)を誘発することになったのである。

「大平穏期」を再解釈する

マクロ経済政策の運営を背後で支える概念枠組みに大きな欠陥があったとするなら、マクロ経済面でこんなにも長きにわたってかくも良好なパフォーマンス――「大平穏期」――が続いたのはどうしてなのだろうか? その理由の一つとして考えられるのは、「大平穏期」に発生したショックのどれに対しても政策面でどう対応したらいいかがよく理解されていたからかもしれない。例えば、1970年代のサプライショックの経験から学んだ教訓――インフレ予想を安定させることの重要性――のおかげで、2000年代に再び生じた石油価格の高騰にどう対処したらいいかも熟知されていた。ところで、マクロ経済の安定化に成功した事実それ自体が今回の危機の種を播く結果になってしまった面もあるかもしれない。「大平穏期」は、多くの人々――政策当局者や規制当局者も含む――のリスク評価を歪ませて、マクロ経済リスクの過小評価やテールリスクの無視を招いた。その結果として、規制の緩和が後押しされもし、後になってどれだけ大きなリスクを抱えていたかが露呈するような投資上のポジションをとらせることにもなったのである。


(iii) マクロ経済政策の新たな枠組みの輪郭(Implications for policy design)

マクロ経済政策は、単一の目標ではなく、数多くの目標を追い求めるべきというのが今回の危機が露にしている悪いニュースである。その一方で、マクロ経済政策の手段は、数多くある――「風変わりな」(“exotic” )金融政策、財政政策、規制政策――というのが今回の危機が思い出させてくれている良いニュースである。どの手段をどの目標の達成に割り当てたらいいかという問いに答えが出るまでにはしばらく時間がかかるだろうし、かなりの研究が必要となるだろう。

マクロ経済政策の新たな枠組みの輪郭を描くにあたってまず何よりも先に指摘しておくべきなのは、産湯と一緒に赤子を流すべからず、ということだ。これまでのコンセンサスのうちの大半は、危機を経た後もなお依然として通用するのだ。その例をいくつか挙げると、産出ギャップとインフレ率を安定させることはマクロ経済政策が追い求める目標であり続けるべきだ。自然失業率仮説を少なくとも現実の大まかな近似として今後も受け入れるべきであり、それゆえ、インフレーションと失業率の間に長期的なトレードオフが成り立つなんて想定すべきではない。低率で安定したインフレーションは、今後も金融政策の主要な目標であり続けなければならない。財政の持続可能性を確保することは、長期的な観点からだけではなく、予想に及ぼす影響との絡みで短期的な観点からも重要となってくる。

以下に掲げるのは、マクロ経済政策の新たな枠組みの輪郭を描くにあたって、経済学者が精力を注いで取り組むべき重要な問いである。

インフレ率の目標値はどのくらいの水準に設定されるべきか?

今回の危機は、大規模なネガティブショックが現実に起き得ることを明らかにした。中央銀行は、今回のような大規模なネガティブショックに対応できる余地(政策金利の引き下げ余地)を確保するために、平時におけるインフレ率の目標値を今よりも高めに設定すべきだろうか? 4%のインフレ率に伴う(コストから便益を差し引いた)純コストは、2%のインフレ率――目下のところ、大半の中央銀行が目標にしているインフレ率――に伴う純コストよりも大きいだろうか? インフレ率の目標値を2%から4%に引き上げると、インフレ予想を安定させるのが難しくなるだろうか? 「中央銀行の独立性」を確保することを通じて低率のインフレを達成した事実は、歴史的な偉業であったと言える。それゆえ、先の一連の質問に安易に答えを出すわけにはいかない。先の一連の質問に答えるにあたっては、インフレの便益とコストを注意深く再検討する必要があろう。これまでの議論とも関連するが、インフレ率が極めて低いようなら、デフレに陥る可能性を最小化するために、金融緩和の行き過ぎも辞さないでいるべきかどうか――その対価として、総需要が予想以上に刺激されてインフレが加速するリスクがあるとしても――という問題もある。この問題は、2000年代初期にFOMC(米連邦公開市場委員会)のメンバーの頭の中を支配していた問題であり、その他の面々もいつの日か立ち戻らねばならない問題である。

金融政策と規制政策をどう組み合わせるべきか?

危機が勃発する前においても、政策金利を決定するルール(政策反応関数)――明白なルールであれ、暗黙的なルールであれ――の中に(インフレ率や産出ギャップの他に)資産価格も組み込むべきかどうか――資産価格の動向に応じて、政策金利を上げ下げすべきか――をめぐって議論がたたかわされていた。今回の危機をきっかけにして、政策金利を決定するルールの中に、資産価格の他にも、レバレッジ比率やシステミック・リスクを測る指標も組み込むべきではないかとの声が上がっている。しかしながら、そのような声は見当違いであるように思える。政策金利は、過剰なレバレッジなりリスクテイキングなりバブル(資産価格のファンダメンタルズからの乖離)なりに対処するには不向きなのだ。仮に不向きじゃないとしても(例えば、政策金利を引き上げたら、過剰なレバレッジを抑制できるとしても)、政策金利を引き上げるのと引き換えに産出ギャップが拡大してしまうことになるだろう。

政策当局者が手にしている道具箱の中に収まっているのは、政策金利だけじゃない。「循環的な規制ツール」とでも呼べる手段も収まっているのだ。「循環的な規制ツール」の使用法を例示すると、以下のようになろうか。

レバレッジが過剰なように見えたら、法定の自己資本比率を引き上げる。バランスシート上の流動性が低下しているように見えたら、法定の流動性比率を導入して、必要ならその比率を引き上げる。住宅価格の高騰を抑制したければ、借入金比率〔訳注;LTV比率=借入金額÷担保となる資産の価値〕を引き下げればいい。株価の高騰を抑制したければ、証拠金率を引き上げればいい。

こんな感じで金融政策と「循環的な規制ツール」が組み合わせて用いられるようになったら、金融規制やプルーデンシャル規制の枠組みをマクロ経済に及ぼすインパクトを踏まえた上で設計する必要が出てくることになろう。さらには、金融政策当局と金融規制当局の間でいかにして政策協調を実現したらいいかという別の問題も生じることになろう。金融政策と金融規制・金融監督業務を分離するというのがこれまでのトレンドだが、そのトレンドが反転させられて、単一の機関が金融政策も金融規制(その中でも、マクロプルーデンス規制)もどちらも担うことになるかもしれない。マクロプルーデンス規制を担う機関としては、中央銀行が第1の候補ということになろう。

中央銀行による流動性の供給を平時においても認めるべきか?

今回の危機は、中央銀行の伝統的な役割の一つである「最後の貸し手」機能の拡充――範囲と規模の両面における拡充――を招いた。中央銀行は、非預金取扱金融機関に対しても潤沢に流動性を供給したし、広範囲に及ぶ資産市場に直接的――資産の買い切りというかたちで――ないしは間接的に――資産を担保として引き受けるのと引き替えに、資金を貸し出すというかたちで――介入した。中央銀行は、このようなかたちでの流動性の供給を(危機時における例外的な措置というにとどまらず)平時にも行うべきだとの提案は、説得力があるように思える。市場で流動性が不足している原因が、豊富な資金を持つ投資家が特定の市場から手を引いたせいであったり、(伝統的な銀行取り付けのケースのように)小口投資家の間で「協調の失敗」が生じているせいであったりするようなら、そこに介入できるのは権威ある公的な存在をおいて他にないだろう。

平時において「財政面での余地」を確保するにはどうしたらいいか?

今回の危機から得られる重要な教訓の一つは、必要に迫られた時に大規模な財政出動に打って出られるように「財政面での余地」をあらかじめ確保しておくことの望ましさである。高齢化が突きつけるいくつもの挑戦(例えば、年金問題や医療問題)に抗いつつ、政府債務残高を削減せねばならないとすれば、景気回復がしっかりと定着した後の話になるとは言え、「財政面での余地」を確保するのはそう簡単じゃないだろう。しかしながら、政府債務残高の水準は、危機が勃発する前までに積み上がっていた水準よりも低く抑えるべきというのが今回の危機が伝える教訓なのだ。今回の危機がこれから10年、20年先の財政運営のあり方について投げかけている指針をまとめると、以下のようになろう。

経済情勢が許すようなら、「財政面での余地」を確保するために果断な措置に打って出ることが必要である。経済成長が急速に進んで税収が大いに伸びるようなら、歳入面で生まれた余裕を、政府支出を賄ったり減税のために使うのではなく、政府債務残高の対GDP比を縮小するためにこそ使うべきである。

好景気に乗じて財政の好転を狙うというのは目新しくも何ともない手だが、その重要性は今回の危機をきっかけとして一層高まっている。中期的な財政健全化計画を練ったり、政府債務残高の対GDP比の削減に向けた信頼のおけるコミットメントを設けたり、(不況期における例外規定を盛り込んだ)財政規則を作成したり、財政データの透明性を高めたりすれば、「財政面での余地」を確保する助けになるだろう。

財政の自動安定化装置の機能を高めるにはどうしたらいいか?

裁量的な財政政策は、実行に移されるまでに長い時間を要することもあって、通常の不況時に使うには向いてない。そこで、財政の自動安定化装置に期待が寄せられることになるわけだが、財政の自動安定化装置の機能を高める(改善する)ことは可能だろうか? この問いに取り組むにあたって、自動安定化装置を、真正の自動安定化装置(以下、自動安定化装置<パート1>と呼ぶことにする)――所得の上昇(あるいは、景気の拡大)に伴って、移転支出が自動的に減る一方で、税収が自動的に増えるような財政上の仕組み――と、ルール型の自動安定化装置 (以下、自動安定化装置<パート2>と呼ぶことにする)――あらかじめルールを作成しておいて、そのルールで想定されている状況になったらルールの規定通りに移転支出や税金を変動させる――の二つのタイプに区別するとしよう。

自動安定化装置<パート1>は、①硬直的な歳出体系〔訳注;歳出の規模が名目GDPの値から独立して決められる〕と税収の弾性値がおよそ1〔訳注;名目GDPが1%増加すると、税収がおよそ1%増加する〕の税体系の組み合わせを通じてか、②失業保険等の社会保険制度を通じてか、③累進構造を持つ所得税体系を通じてかして、その機能を発揮する。政府の規模が大きくなったり、所得税の累進度が強化されたり、社会保障制度が拡充されたりすると、自動安定化装置<パート1>がマクロ経済に及ぼす効果は高まることになる。しかしながら、政府の規模を大きくするのであれ、所得税の累進度を強化するのであれ、社会保障制度を拡充するのであれ、結果的に自動安定化装置<パート1>の機能が高まるからよしとするのではなく、公平性や効率性といった観点からもその是非が判断されねばならないだろう。

どちらかというと、自動安定化装置<パート2>の方が見込みがありそうである。自動安定化装置<パート2>の税サイドの仕組みとしては、低所得層を対象にした時限的な減税――一律の給付付き税額控除、税負担額の何%かを減額――だったり、企業を対象にした景気連動型の投資税額控除なんかを考えることができる。自動安定化装置<パート2>の支出サイドの仕組みとしては、低所得層あるいは流動性制約下に置かれている(借り入れが困難な)家計を対象にした時限的な移転支出を考えることができる。時限的な税制措置や時限的な移転支出は、何らかのマクロ経済指標〔訳注;名目GDP成長率や失業率など〕があらかじめ定められた閾値(threshold)をまたぐと発動されることになる〔訳注;例えば、名目GDP成長率が2%を下回ると(あるいは、失業率が4%を超えると)、あらかじめ定められたルールの規定に従って時限措置が実行に移される〕。


<参考文献>

●Blanchard, Olivier, Giovanni Dell’Ariccia and Paolo Mauro (2010). “Rethinking Macroeconomic Policy”, IMF Staff Position Note, SPN/10/03, February 12.
●Gali, Jordi and Luca Gambetti (2009). “On the Sources of the Great Moderation(pdf)", American Economic Journal: Macroeconomics, 1(1): 26–57.


<訳者による補足>

本論説は、参考文献にも挙がっている Olivier Blanchard, Giovanni Dell’Ariccia and Paolo Mauro (2010), “Rethinking Macroeconomic Policy(pdf)”(IMF Staff Position Note, SPN/10/03, February 12)の簡略版。邦訳は以下。

●soulcageさん&night_in_tunisiaさん(共訳), “マクロ経済政策再考リフレーションに関連する海外記事および論文集

はじめに

ブログタイトルが示しているように、「VOXを訳す」のが本ブログの目的である。

VOX というのは、以下のサイトのことである。

VoxEU

サイトの趣旨説明(Aboutページ)にあるように、「ニュース記事よりは専門的だが、学術誌に掲載されている論文に比べるとずっと近づきやすいかたち」で経済学者たちの「声」――VOXは「声」を意味するラテン語――を届けるのを目的にしているという。つまりは、経済学者たちが自らの研究成果の要点を経済学者以外の一般の人々にも理解しやすいようにかいつまんで解説しているわけである。

VOX で日々伝えられる経済学者たちの「声」を日本語に通訳するのが本ブログの目的である。「VOXを訳す」ことを通じて、些細ながらも経済学界の最新の「声」を伝える手助けができればと考える次第である。