2025年5月10日土曜日

Garett Jones 「研究のインセンティブ 〜みすぼらしいパフォーマンスと高い世評〜」(2012年12月11日)

Garett Jones, “Research Incentives:Milton Friedman on the Fed”(EconLog, December 11, 2012)


カネ(金銭的なインセンティブ)は研究の結果に影響を及ぼすのだろうか? 医薬品の研究についてであればよく問われる問いだが、貨幣経済学(monetary economics)の研究にも間違いなく関わりのある問いなのだ。FRB、ECB、BOEのような中央銀行は、大勢のスタッフを雇っている。数多くのカンファレンスのスポンサーにもなっている。多額の謝金を払ってもいる。貨幣経済学の研究者たちが飼い主の手に噛みつくのにためらいを感じて批判を控える・・・なんていう可能性はないのだろうか?

私の同僚であるデイビッド・レヴィ(David Levy)がまさにこの件について切り込んでいる手紙をミルトン・フリードマン(Milton Friedman)から受け取ったことがある。その手紙のコピーが以下である。



大事な箇所を引用しておこう(手紙の日付は、1993年5月27日)。 

・・・(略)・・・私が知るところでは、FRBは貨幣について専門的に研究しているエコノミストのおよそ半数を直接雇用しています。・・・(略)・・・そのみすぼらしいパフォーマンスにもかかわらず、FRBの世評が高いのも主にそのために違いないと私は確信しています。

私の同僚であるローレンス・ホワイト(Lawrence White)がFRBの潜在的な影響力を測る別の指標に着目している。貨幣経済学の分野のトップジャーナルの編集者を対象にして、FRBと何らかのつながりを持っているかどうかを調査しているのである。どんな結果が判明したかというと、・・・皆まで言わなくてもおわかりだろう。ちなみに、Econ Journal Watch 誌に掲載されているホワイトのその論文はこちらだ。

ホワイトの論文は、以下のようにお見事な文章で締め括られている。

FRBがスポンサーになっている研究は、学術的に見ると概して高い水準を誇っている。だからといって、何のバイアスもかかっていないというわけでもなければ、その内容を吟味する必要なんて一切ないというわけでもないのだ。

Paul Krugman 「俗流ケインジアン」(1997年2月7日)

Paul Krugman, “Vulgar Keynesians”(Slate, February 7, 1997)


経済学の分野も、その他のあらゆる知的な営みと同様に、「学問版・収穫逓減の法則」の影響下にある。時折、偉大な革新者が颯爽と登場し、まるで詩人のような語り口で、自らのアイデアを披露する。そのアイデアは幾分粗が目立ち、先人(あるいは、主流派)のヴィジョンとの違いが誇張して語られるとしても、そのことは取り立てて問題とはならない。アイデアに磨きがかけられることで、やがて確固としたパースペクティブが形作られる可能性があるからだ。しかしながら、どうしても避けられない定めとして、その革新者の後には、表面上の字句には忠実でありながらも、アイデアの核となる精神を誤解した一群の信奉者が続くことになる――彼らの頑迷さは、主流派が自らの見解に対して見せるこだわりを凌駕するほどである――。革新者のアイデアが広まるにつれて、それはますます単純化されることになり、やがて常識(public consciousness)の一部――「誰もが知る」知識の一部――となるまでに流布した暁には、革新者によるアイデアは、粗っぽいまでに劇画化された姿に変容を遂げてしまうのだ。

これはまさに、ケインズ経済学が辿った道のりでもある。ジョン・メイナード・ケインズその人は、大変緻密で革新的なアイデアの持ち主だった。しかし、不運なことに――意図しないかたちで――、彼は自らの遺産の一つとして、今もなお経済問題を巡る論争に混乱をもたらし続けている思想を産み落としてしまったのである。ここではそれを「俗流ケインズ主義」と呼ぶことにしよう。

ケインズが『雇用・利子および貨幣の一般理論』を出版したのは1936年。それ以前の経済学の世界では、ミクロ経済学――個々の市場の機能を対象にして、稀少な資源があれこれの市場の間にどのように配分されるかを研究する分野――に関しては、精緻で洞察力のある理論が既に発展を遂げていた。その一方で、マクロ経済学の分野――インフレやデフレ、景気の過熱や不況といった一国レベルで発生する現象を研究する分野――は、発育停止とでも呼べる状況にあった。足許で進行中の「大恐慌」について何の説明も提供できずにいたのである。

いわゆる「古典派」のマクロ経済学によると、経済は(放っておいても)長期的には完全雇用に戻る傾向があると見なされていて、(完全雇用が実現している)「長期」だけが分析対象になっていた。「古典派」のマクロ経済学を支える理論的な支柱は2つあった。「貨幣数量説」と、「貸付資金(“loanable funds”)説」である。貨幣数量説というのは、物価がいかに決定されるかについての理論であり、一国の物価水準は、経済に流通する貨幣量に比例すると考えられた。その一方で、貸付資金説というのは、金利がいかに決定されるかについての理論であり、金利は、総貯蓄(一国全体の貯蓄)と総投資(一国全体の投資)の不一致を解消するように上下に変動すると考えられたのである。

ケインズとしても、十分に長いスパンをとってみた場合には、「古典派」のマクロ経済学を支える理論が妥当する可能性もあるかもしれないと認めるのにやぶさかではなかった。しかしながら、彼の有名な言葉をひくと、「長期的には、我々は皆死んでしまう」。そこで、ケインズは次のように主張した。短期において金利の水準を決定するのは、(貸付資金説が説くように)完全雇用下における総貯蓄と総投資のバランスではない。「流動性選好」(“liquidity preference”)――現金と比較して安全性や利便性の面で劣る資産への投資を促す上で(高い利回りのような)十分なインセンティブが提供されない限りは、現金を保有し続けようとする欲望――こそが、短期における金利の水準を決定するのだ、と。さらには、ケインズは次のようにも付け加えた。総貯蓄と総投資は、貸付資金説が妥当しないとしても、必ず等しくなる。とは言っても、(事前的な)総貯蓄が(事前的な)総投資を上回ると、(貸付資金説が説くように)金利が低下するのではなく、雇用量や産出量が減ることで総貯蓄と総投資が一致するようになるのだ、と。別の言い方をすると、何らかの理由――例えば、株価の急落など――で投資需要が減少すると、経済は(雇用量や産出量の落ち込みを伴う)全般的な不況に見舞われるということだ。

このようなヴィジョンは、経済の働きに関する従来の見解に見直しを迫るものだった。その見事なまでの洞察力もあって、当時の若くて優れた経済学徒の間ですぐさま受け入れられた。とはいえ、ケインズは現実を単純化し過ぎている面がある、と早いうちから指摘していた経済学者がいたことも事実である。特に、雇用量や産出量は、金利に対して反作用を及ぼすのが通常であり、このことは大きな違いを生む可能性がある。しかしながら、『一般理論』が出版されてから長年にわたって、多くの経済学者は、ケインズのヴィジョンから導き出される含意に魅惑されることになった。ケインズのヴィジョンは、(節倹という)美徳が罰せられ、浪費が報われる「不思議の国のアリス」のような世界に我々を誘うかのように思われたのだ。

例えば、「貯蓄(節約)のパラドックス」(“paradox of thrift”)について考えてみるとしよう。初期のケインジアンモデルによると、何らかの理由で貯蓄率――所得のうち支出(消費)に回されない割合――が上昇したとしたら、総貯蓄と総投資がともに減少するという結果になる。どうしてだろうか? その理由はこうである。貯蓄率が上昇する(事前的な総貯蓄が増加する)と、消費が減って不況になり、それに伴って所得が減ることになる。所得が減ると、所得の増加関数である総投資が減ることになる。総貯蓄と総投資は最終的には等しくならなければならないので、(減少した総投資と等しくなるように)総貯蓄は減らなければならない!

さらにもう一つ、賃金と雇用の関係をめぐる「寡婦の壺」(“widow's cruse”)理論――この名称は古い伝承にちなんで付けられた――についても取り上げておこう。名目賃金が引き上げられると、人件費が高くなるので労働への需要は減ると思うかもしれない。しかしながら、初期のケインジアンの幾人かは、次のような主張を展開した。名目賃金の上昇は、資本家から労働者への所得の再分配(資本家が受け取る利潤が減って、労働者が受け取る賃金が増えること)を意味する。労働者は、資本家と比べると、あまり貯蓄をしないので――これは事実に反しているのだが、それはまあよしとしておこう――、資本家から労働者へと所得が再分配されると、消費需要が増えて、その結果として産出量と雇用量が増える、と。

このようなパラドックスに思いを馳せることは楽しいし、入門レベルの教科書を開くと今でもその説明に出くわすことがある。

しかしながら、このようなパラドックスを真剣に受け止めている経済学者は、今ではほとんどいない。その理由はいくつかあるが、中でも最も重要な理由は、わずか2語で語ることができる。アラン・グリーンスパン(Alan Greenspan)である。

シンプルなケインジアンが語るストーリーを深く掘り下げていくと、金利は、雇用量や産出量の水準から独立して決まると想定されていることがわかる。しかし、現実はそうなっていない。金利は、FRB(連邦準備制度理事会)によって積極的に操作されている。雇用が低調であると判断されると金利が引き下げられて、景気が過熱気味だと判断されると金利が引き上げられるのだ。FRB議長(グリーンスパン)の判断の是非についてあれこれ言いたい人――金融政策をもう少し緩和して景気の拡大を支えるべきだと考えたり――もいるかもしれないが、FRB議長に備わる力の大きさについて疑問を呈することができる人はそうそういないだろう。今後数年間のアメリカの失業率を予測できるシンプルなモデルをお探しのようなら、今ここでそれを紹介して差し上げよう。この先の失業率は、グリーンスパンが望む水準に落ち着くと考えてほぼ間違いないのだ(グリーンスパンも神ではないので、彼が望む水準から若干ずれる可能性も考慮する必要はあるけれど)。

グリーンスパン(FRB議長)の役割を考慮に入れると、マクロ経済の働きに関する「古典派」のヴィジョンの多くが息を吹き返すことになる。とは言っても、そっくりそのままというわけじゃない。「古典派」のヴィジョンでは、(市場の)「見えざる手」が経済を長期的には――とは言っても、具体的にどのくらいの長さの期間かとなると特定されることはないけれど――完全雇用に導くと見なされていたが、現実においては、FRBの「見える手」が経済を2〜3年のうちにNAIRU(非インフレ加速的失業率)に導く役割を果たすのである。そのためには、失業率がNAIRU(あるいは、目標とする失業率)に達した時に総貯蓄と総投資が等しくなるように金利を操作する必要があるが、FRBが金利をそのように操作するようなら、「貯蓄のパラドックス」や「寡婦の壺」理論をはじめとした初期のケインジアンの主張が妥当性を失うことになるのである。例えば、貯蓄率が上昇したら、(貯蓄のパラドックスが説くところとは反対に)総投資は増えるだろう。なぜなら、FRBが金利を下げるだろうからである。

何らかの理由で総需要が変化しても、FRBが金利を操作してそれを打ち消す――そのため、雇用量は変わらない傾向にある――というアイデアは、少なくとも私にとってはシンプルでもっともなものに思える。しかしながら、学術的な世界の外に目をやると、このアイデアを受け入れている人はごくわずかというのが実状のようだ。例えば、NAFTA(北米自由貿易協定)の是非を巡る議論では雇用への影響が焦点になったが、アメリカとメキシコ間の貿易収支がどうなろうとも、今後10年間のアメリカの失業率はFRBが望む水準に概ね落ち着くだろうと私は当然のように考えていたが、世間はそう考えていなかったのだ(こんなことがあった。1993年に開催されたとあるパネルディスカッションの席上でまったく同じことを口にしたら、それを聞いていたパネリストの一人――NAFTAの支持者だったみたいだ――が激昂して、「そんなことを言うから経済学者は嫌われるのだ!」と宣ったのだ)。

その代わり、世間――悲しいかな、自分のことを物知りだと任じている知識人の多くもその中に含まれる――の「常識」になっていたのは、劇画化されたケインズ主義の一種だった。その特徴は、「消費の減少(貯蓄の増加)は、いついかなる時も悪である」というアイデアを無批判に受け入れているところにある。アメリカではインフレや財政赤字の問題がここしばらくは後景に退いているが、その機に乗じるかのようにして、俗流ケインズ主義が劇的なかたちでカムバックを果たしたのだ。先月のコラムで取り上げたばかりのウィリアム・グレイダー(William Greider)の新著でも、「貯蓄のパラドックス」とか「寡婦の壺」理論とかが主要なテーマになっているし――とは言っても、グレイダーがそのアイデアの出所をわかっているかとなると疑わしい。「知的な面で誰からも影響を受けていないと信じ切っている実践的な人間も、今は亡き経済学者の奴隷であるのが普通である」とはケインズの言だ――、 ジョン・ジュディス(John B. Judis)がニュー・リパブリック誌で似たような主張を開陳している姿も目に入る。これくらいなら驚くほどじゃないかもしれないが、「貯蓄の増加は、経済成長を阻害する」というアイデアがビジネスウィーク誌でも真剣に扱われているとなると(“Looking for Growth in All the Wrong Places,” February 3, 1997)、俗流ケインズ主義が一つの文化現象になりつつあると考えざるを得ないだろう。

「貯蓄の増加は、経済成長を阻害する」という主張――「貯蓄は、経済が成長するために決定的に重要な要因だと語る人がいるが、そこまでじゃない」という主張はある程度理にかなっているが、「貯蓄の増加は、経済成長を阻害する」という主張とは別物だ――を正当化するためには、FRBは無力だということを説得的に示さなければならない。何らかの理由で(事前的な)貯蓄が増加したら、FRBが金利を引き下げても総投資は増えないということを論証せねばならないのだ。

金利は、総投資に影響を及ぼす数ある要因のうちの一つに過ぎないと語るだけでは十分じゃない。そのような反論は、アクセルペダルを踏み込む力の強さは、車のスピードに影響を及ぼす数ある要因の一つに過ぎないと語っているようなものだ。「それで?」としか思わない。アクセルペダルをどれだけ強く踏み込むかは、自分で自由に調節できる。何か異常がない限りは、ペダルを踏み込む強さを調節して、車のスピードを「これくらいなら安全に運転できるだろう」と自分なりに考える速度に制御できる。それと同様に、グリーンスパンは、お望み通りに金利を自由に調節できる(FRBが望みさえすれば、一日のうちにマネーサプライの規模を倍増させることだってできる)。何か異常がない限りは、金利を調節して、雇用量を「これくらいならインフレも加速しないだろう」と考える水準に持っていくことができるのだ。

「貯蓄の増加は、経済成長を阻害する」という主張を正当化するためには、次のどちらかが成り立つことを示さねばならない。金利が総需要に対して何の影響も持たないことを示すか――本気でそう信じているなら、全米ホームビルダー協会(NAHB)に伝えてみるといい――、貯蓄率があまりに高すぎて、FRBが金利をゼロ%近くにまで引き下げても総貯蓄と総投資のギャップを埋められないことを示さねばならないのだ。1930年代のアメリカだったり――当時のTビル(財務省短期証券)の利回りは0.1%を下回っていた――、現在の日本だったり――現在の日本では、金利は1%程度――のように、後者のケースが妥当する例もなくはない――とはいえ、日本銀行は日本経済を停滞から救い出せるだけの力を依然として持っていると思うし、日銀の消極的な態度はかなりの不正行為(malfeasance)にあたると思う。しかし、この件については、別の機会に取り上げるとしよう――。しかしながら、住宅ローンを借りている銀行から自宅に通知書が毎月送られてくるのだが、それを見ると金利はプラスで、下がる余地はまだかなりあるようだ。ありがたや。

ともあれ、そこまでこだわる必要もないかもしれない。というのも、「貯蓄の増加は、経済成長を阻害する」と語っている人たちは、FRBが無力だとは思っていないようだからだ。それどころか、これまでの長きにわたってアメリカ経済のパフォーマンスが低調だったのは、全部FRBのせいだと語っていたりするのだ。グリーンスパンが腰を上げさえすれば、今の苦境から抜け出すことができるのにと語っていたりするのだ。

2月3日付のビジネスウィーク誌から引用するとしよう。

「貯蓄が増えると、景気が減速する可能性が高い」と語る「つむじ曲がり」の経済学者もいる。貯蓄が増えると、投資が活発になるのではなくむしろ落ち込むというのがその理由だ。「投資を刺激する必要があります」と語るのは、テキサス大学のジェームス・ガルブレイス(James K. Galbraith)。ケインジアンを自任する経済学者だ。ガルブレイスによると、経済成長を促すには金利を引き下げるべきだという。

つまりは、こう主張していることになる。貯蓄が増えると、景気が悪化する。FRBが金利を引き下げても、総投資が増えないからだ。その代わり、FRBは、金利を引き下げて経済成長を促すべきだ。金利を引き下げれば、総投資が増えて経済成長が促されるだろうから。

・・・何か見過ごしてる?

2025年5月8日木曜日

Gauti Eggertsson 「コモディティー価格と『1937年の過ち』 ~現代の経済学者は同じ過ちを繰り返すか?~」(2011年6月1日)

Gauti Eggertsson, “Commodity Prices and the Mistake of 1937: Would Modern Economists Make the Same Mistake?”(Liberty Street Economics, FRB of New York, June 1, 2011)


(2011年6月時点の)アメリカ経済が置かれている現状は、政策上の重大なミスが犯されようとしていた1937年の状況と驚くほど似ている。例えば、以下の記述をご覧いただきたい。(1)不況がついに終わりそうな兆しが見え出していて、(2)何年にもわたってほぼゼロ%の水準にとどまっていた名目短期金利が上昇する(引き上げられる)のではないかとの観測が流れ、(3)インフレの過熱を心配する声がちらほらと聞こえてくる。(4)マネタリーベースが急増していて銀行部門に大量の超過準備(必要準備を上回る準備預金残高)が累積している事実がその心配の大きな理由になっていて、(5)コモディティー価格が近頃上昇していることも火に油を注ぐ格好になって、インフレが過熱して手に負えなくなってしまうのではないかと心配されている。

現状の要約としても通用するだろうが、実は1937年当時の状況を要約したものなのだ。私がベンジャミン・パグスレー(Benjamin Pugsley)と二人で執筆した論文――“The Mistake of 1937: A General Equilibrium Analysis”(pdf)――で要約した1937年当時の状況の説明を引っ張ってきたのだ。この論文で「1937年の過ち」(“the Mistake of 1937”)と呼んでいるのが、大まかに言うと、Fedと政府による一連の引き締め政策のことであり、そのせいで1933年から1937年にわたって続いた景気回復が頓挫させられて、1937年~1938年にそれまでの歴史で最も深刻な不況の一つに陥ることになったのだ。インフレに対する恐れが「1937年の過ち」の引き金になったのだが、コモディティー価格の上昇がインフレに対する恐れを引き起こした主たる原因だったという点は注目すべきである。コモディティー価格の急騰がインフレに対する恐れを掻き立てている今の状況と瓜二つなのだ。コモディティー価格の急騰を目にしてFF金利(政策短期金利)を引き上げよと求める声がちらほら上がっている今の状況と瓜二つなのだ。

ここで一つの問いを投げ掛けてみるとしよう。現代の経済学者が1937年に送り込まれて政策運営にあたったとしたら、同じように「1937年の過ち」を繰り返してしまうだろうか? 「繰り返さない」というのが私の答えである――そうなってほしいという願望が込められているのは否定できないが――。その理由は、現代の大半の経済学者は、消費者物価指数の一時的な変動と恒久的な変動を区別するようになっているからである。現代の大半の経済学者であれば、1936年~1937年に起きた物価の上昇は、コモディティー価格の変動による一時的なものであって、物価の基調が変化したことを反映したものではないと判断する可能性が高いのだ。


「1937年の過ち」とその結果

「1937年の過ち」は、景気回復の基盤が未だ脆弱な中で予防的な引き締めが試みられた結果として引き起こされた。もっと具体的に言うと、1933年に導入された「リフレーション」(“reflation”)政策が放棄された結果として起きたのだ。1929年~1933年の不況に伴って物価が下落したが、フランクリン・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt、 FDR)大統領率いる政権とFedは、不況が始まる以前の水準にまで物価を引き上げることにコミットした――1933年~1937年の景気回復をもたらした政策についての詳細は、American Economic Review 誌に掲載された拙論文 “Great Expectations and the End of the Depression”(pdf)を参照していただきたいと思う――。具体的には、「政府支出の積極的な拡大(財政赤字の放置)」/「金本位制の停止」/「金融緩和」が組み合わされて、リフレーションが目指されたのである。現代のマクロ経済モデルが説くところによると、リフレーションを実現するためのそのような政策の組み合わせは、名目短期金利がゼロ%の下限に達した状況――当時がまさにそうだった――で景気を大いに刺激する効果を持つ可能性がある。その理由は、名目金利がゼロ%で物価の下落ではなく物価の上昇が予想されるようになれば、総支出(総需要)の重要な決定因である「実質金利」がプラスの水準からマイナスの水準に低下することになるからである。実質金利がマイナスになれば、貨幣を退蔵するよりも支出した方が得になるからである。それに加えて、実質金利がマイナスになれば、過剰な債務を抱えている家計や企業のバランスシートが改善される可能性もある。この点については、ポール・クルーグマン(Paul Krugman)との共著論文である “Debt, Deleveraging, and the Liquidity Trap”(pdf)で詳しく論じている。

「1937年の過ち」により、リフレーションの恩恵が放棄されて、あらゆる政策の方向性が反転させられることになった。Fedだったり政府の主要人物だったりが金利の引き上げをほのめかすだけでなく、財政緊縮を支持するようになった。お上の関心が、景気回復の継続よりもインフレーションの抑制に向くようになったのである。

リフレーション政策が反転された結果として物価や産出量にどんな効果が及んだかを表しているのが、以下の図である。1927年~1941年における消費者物価指数(CPI)と卸売物価指数(WPI)の推移を跡付けたのが1番目の図で、同じ期間(1921年~1941年)における鉱工業生産の推移を跡付けたのが2番目の図である。どちらの図にも3本の垂直線が引かれているが、一番左の垂直線は、ルーズベルトが大統領に就任してリフレーション政策の採用が宣言された時点を表している。左から2番目の垂直線は、「1937年の過ち」が犯された期間を表している。1番目の図を見ると、政府がインフレを警戒し出した1937年の時点では、物価が目標とする水準――不況が始まる前の水準――にまでまだ戻っていないことがわかる。リフレーション政策が反転されると、物価も鉱工業生産も落ち込むことになった。 “reversal of 1938”(「1938年の反転」)と名付けられた一番右の垂直線は、不況が始まる前の水準にまで物価を引き上げることに政府が再度コミットした時点を表している。2番目の図にはっきりと表れているように、「1938年の反転」(再度のコミットメント)後に鉱工業生産が堅調に伸びている事実は重要である。






コモディティー価格の役割

1937年に政策が引き締められた原因は、「インフレに対する恐れ」(inflation fears)にあった。それでは一体何が「インフレに対する恐れ」を引き起こしたのかというと、コモディティー価格の上昇がその主たる原因だった。以下の図に示されているように、色々な一次産品の価格がわずか1年の間に倍以上も上がったのである。パグスレーとの共著論文でも指摘しているが、コモディティー価格が急騰しているのを見て、多くの政策当局者がインフレの過熱を心配する声を上げるようになったのである。


現代の経済学者が1937年に送り込まれて政策運営にあたったとしたら、コモディティー価格の上昇に対して当時の政策当局者たちと同じような反応を見せる可能性は小さいだろう。現代の経済学者は、一般物価を測る指数がどのように変化しているかを脇に置いてコモディティー価格だけに注視するようなことはないのだ。1936年~1937年にコモディティー価格が上昇したのは、物価の基調が変化したせいではなく、コモディティー市場に生じた一時的な供給ショックにその原因の多くを求めることができそうだ。そのことを裏付けているのが、1936年から「1937年の過ち」が犯されるまでの間に、例えばトウモロコシのようにその価格が倍以上も上がった一次産品があった一方で、消費者物価指数の上昇ペースはそれよりも緩やかだったという事実だ(消費者物価指数の上昇率がピークに達したのは1937年5月。年率換算で4.8%の上昇率を記録した)。消費者物価指数に含まれていた一部の商品の価格が大幅に変動したにしても、消費者物価指数自体はそこまで大きくは変化しなかったのだ。

Fedで働いている現代の経済学者たちは、一時的な供給ショックにそれほど影響されない物価指数の動きに注目する傾向にある。その例としては、「コアCPI」がある(以下の図を参照)。通常のCPI(ヘッドラインCPI)から価格が変動しやすい食料やエネルギーを除いたのが、コアCPIだ。2008年に入ると、アメリカの景気は急激に悪化して危機へと突き進んでいった。先行きがどうなりそうかはっきりしてくるにつれて、経済学者たちはインフレではなくデフレに陥るのではないかと懸念するようになった。そのような懸念を受けて、政策金利が積極的に引き下げられた。最終的にゼロ%にまで引き下げられたのである。


しかしながら、上の図のヘッドラインCPIの動きからも読み取れるように、2008年の初期に石油価格が上昇すると、それにつられてコモディティー価格も一時的に上昇した。すると、インフレの過熱を警戒する声がちらほら上がるようになった。しかしながら、Fedで働いているか否かを問わず多くの経済学者たちは、ヘッドラインCPIで測ったインフレ率が上昇しているのは、個別の商品に特有の事情によるものであり、物価全般に上昇圧力がかかっているわけではないと判断した。2008年7月にヘッドラインCPIで測ったインフレ率が年率換算で5.5%の高さに達したにもかかわらず、Fedは、コモディティー価格の一時的な上昇をほとんど無視するようにして、コアCPIをはじめとしたその他の物価指数の動きに注目した。その判断は正しかったことが判明した。コモディティー価格は大幅に上昇していたが、一般物価水準は下落傾向にあったのである。

つまりは、現代の経済学者が1937年に送り込まれて政策運営にあたったとしたら、「1937年の過ち」を繰り返してしまう可能性は小さいのだ。あれほどの規模で予防的な引き締めに乗り出してしまう可能性は小さいのだ。現代の経済学者は、過去数十年にわたる一般均衡モデルの研究の蓄積もあって――この点については、例えば Eusepi&Hobjin&Tambalotti を参照されたい――、物価が変動しているのは一時的な撹乱要因によるのか(1937年のコモディティー価格の上昇がまさにそれ)、それとも物価の基調が変化したことを反映しているのかを区別する目がいくらか肥えているのだ。

Henry Farrell 「『経済政策に関するマーフィーの法則』は正しいか? ~経済学者が経済政策に及ぼす影響力が最大になるのはどんな時?~」(2011年3月17日)

Henry Farrell, “A simple model of disagreement among economists”(Crooked Timber, March 17, 2011)


ライアン・アベント(Ryan Avent)&マシュー・イグレシアス(Matthew Yglesias)によると、経済学者たちは言い争ってばかりいて意見が全く一致しないと思われているが、それは誤解だという。この件で私が真っ先に思い起こすのは、アラン・ブラインダー(Alan Blinder)が言うところの「経済政策に関するマーフィーの法則」である。ブラインダーは、『Hard Heads, Soft Hearts』(邦訳『ハードヘッド&ソフトハート』)の中で次のように述べている。

「経済学者たちが経済政策に及ぼす影響力が最小になるのは、研究が蓄積されていてお互いの意見が一致している時。経済学者たちが経済政策に及ぼす影響力が最大になるのは、研究が手薄で意見のバラツキが最も大きい時」。

わざわざ持ち出してきてなんだが、「経済政策に関するマーフィーの法則」は正しいのだろうか? はじめて目にした時からずっと疑わしく思っていたのだ。「経済政策に関するマーフィーの法則」が説いているのが、経済学者の間で「意見のバラツキが大きい」話題についてほど、公の討論の場での経済学者の「存在感が大きい」という相関関係なのだとしたら、異論はない。現実にそうなっているからだ。しかしながら、「存在感が大きい」というのは、「(経済政策に及ぼす)影響力が大きい」というのと同じじゃない。それに加えて、「存在感が大きい」からこそ「意見のバラツキが大きくなる」という可能性(逆の因果関係)も捨てきれない。以下にモデル(モデルといってもごくカジュアルな意味でそう呼ぶに過ぎない)の素描を試みるが、経済学者の間で意見のバラツキが大きい時に経済学者の(経済政策に及ぼす)影響力はそこまで大きくないように思えるのだ。

(I) 政党だとか利益集団だとかがわかりやすい例だが、経済政策に対する好みがはっきりしているアクター(行為主体)が政治の世界には多数存在する。例えば、Aという政党は、自党の党員なり支持者なりが得するような規制を導入しようとするだろう。その規制を導入したら経済成長率が低下してしまうかもしれないとしてもだ。その一方で、その規制の導入に断固として反対する抵抗勢力が存在するものだ。例えば、Bという政党がA党に反対するだけでなく、自党の党員なり支持者なりが得するような別の規制の導入を求めるかもしれない。そうなれば、激しい政策論争が巻き起こるだろう。

(II) 経済政策に対してはっきりとした好みを持っていなくて、専門家によって説得される可能性を秘めているアクターも存在している。専門家が支持する政策に味方する可能性があるアクターだ。専門家の話に耳を傾けてくれるようならという条件は付くが、一般の有権者(the public)もその一例だ。

(III) 専門家である経済学者が手にしているツールから導き出せるのは、一般的な結論でしかない。ちょっとした裏の手(誰もがよく知る部分均衡モデルだとか、フォーク定理だとか)を使えば、どんな政策だって支持することができる――この点については、マクロスキー(Donald McCloskey)の “The Rhetoric of Economics”(pdf)を参照されたい――。ちょっとした裏の手を使えば、A党が導入しようとしている規制も支持できるし、B党が導入しようとしている規制も支持できるのだ。政治信条に忠実たろうとしてなのか、お金に釣られてなのか、どちらの理由も一緒になってなのか、A党ないしはB党が導入しようとしている規制に理論的なお墨付きを与えようとする経済学者も出てくるだろう。

(IV) A党ないしはB党は、あの手この手を使って御用学者を拵(こしら)えることができる。味方になってくれそうな経済学者を快適な場所に招いて学術的なセミナーを開いたり、金銭的な便宜を図ったりして、自らの陣営が導入しようと図っている規制にお墨付きを与えてもらうのだ。御用学者がお墨付きを与えてくれたら、経済政策に対してはっきりとした好みを持っていないアクターの一部も味方になってくる可能性がある。

断っておくが、以上のような大雑把なスケッチをそっくりそのまま受け入れるつもりはない。経済学のツールというのは、(III) で述べたよりも首尾一貫していて、どんな政策でも同じくらい苦も無く支持できるわけじゃないだろう。かなり無理をして議論を呼ばずには理論的に支持できないような政策もあるだろう。それに、学問の世界におけるアイデアというのは、何らかの政治的なイデオロギーを正当化するためだけの存在に過ぎないわけでもない。とは言え、このモデルを使えば、現実についての興味深い予測を無理なく導き出すことができるのだ。例えば、以下のような。

(1) 経済学者たちの間で取り沙汰されている話題がA党だったりB党だったりの興味をそそらないようなら、経済学者たちは放っておかれるだろう。政治と無縁でいられるだろう。経済学者たちの間で取り沙汰される命題の中には、A党だったりB党だったりが興味をそそられない命題というのがたくさんある。A党なりB党なりが興味をそそられない理由は、自分たち(自党の党員や支持者)にとって毒にも薬にもならないからという場合もあれば、受け入れがたい(repugnant)からという場合もあるだろう。このようなケースでは、意見の対立を煽るような外部からの圧力が存在していないので、経済学者たちの間で「幸せな和合」が成り立つ可能性がある――ただし、経済学者に特有の「何かと衝突しがちな性向」が許す限りで――。

(2) 経済学者たちの間で取り沙汰されている話題がA党だったりB党だったりの興味をそそると同時に、その話題について経済学者たちの間でコンセンサス(意見の一致)が得られているようなら、経済学者の影響力は最大になるだろう。そのコンセンサスがA党の利害に反するようなら、A党は耳を貸そうとしないだろうが、そのコンセンサスがB党にとって都合がいいようなら、B党が近寄ってきて自党が掲げる政策にお墨付きをもらおうとするだろう。経済政策に対してはっきりとした好みを持っていないアクターの中からも、経済学者に説得されて同調する勢力が出てくるだろう。しかしながら、経済学者たちにとっては幸せなこの状況も不安定に違いない。なぜなら、不利な立場に置かれているA党が黙っていないだろうからである。寝返ってくれそうな経済学者を見つけ出して、コンセンサスを突き崩そうとするだろうからである。その経済学者に支援の手を差し伸べて、コンセンサスに反論させる機会を設ける――例えば、A党が費用を負担してその経済学者を1週間にわたる無駄仕事(boondoggles)に連れ出して、あちこちでコンセンサスに反論させる――だろうからである。経済学者たちの影響力が無視できないようであれば、A党は黙っていずに、経済学者たちが言い争うようにあの手この手を使うだろう。そのようにして、自分たちの「味方」をしてくれる経済学者を発掘するのだ。そういうわけで、遅かれ早かれ以下の(3)へと移行することになるだろう。

(3) 経済学者たちの間で取り沙汰されている話題がA党だったりB党だったりの興味をそそると同時に、その話題について経済学者たちの間で意見が割れているようなら、経済学者の影響力はそこまで大きくないだろう。A党もB党も自分たちの味方をしてくれる御用学者をそれぞれ抱えていて、自党が掲げる政策にモデルや実証研究でお墨付きを与えてもらえる。例外的なケースを除けば、この状況――「ジョン・ロット」(“John Lott”)均衡とでも呼べるかもしれない――は、(2)の状況とは違って、極めて安定しているだろう。

現実についてどんな予測が導かれるだろうか? 経済学者の間で「意見のバラツキが大きい」話題についてほど、公の討論の場での経済学者の「存在感が大きい」という相関関係が成り立つことを示唆しているというのがまず一つ目。経済学者たちの間でコンセンサスが得られていても、政治の世界のアクターたちにとってはどうでもいい(興味をそそられない)ような命題――「野菜を食べなさい」(“Eat your greens”)とかいう類の命題――は、政治の世界のアクターたちからことごとく無視されるという予測が二つ目。これら二つの予測は、読み替えられた「経済政策に関するマーフィーの法則」とも合致している。しかしながら、三つ目と四つ目の予測は、オリジナルの「経済政策に関するマーフィーの法則」と食い違う。経済学者たちの間で意見が割れているようなら、経済学者の(経済政策に及ぼす)影響力はそこまで大きくないと予測されるのだ。政治の世界で対立している陣営(例えば、A党とB党)のどちら側も御用学者を抱えている可能性があって、経済政策に対してはっきりとした好みを持っていないアクターへの影響が相殺されるのだ。最後に四つ目の予測になるが、経済学者の(経済政策に及ぼす)影響力が最大になるのは、政治の世界で政策論争の対象になっている話題について経済学者たちの間で意見が一致している(コンセンサスが得られている)時――非常に稀で不安定なケース――と予測されるのだ。

Tim Schilling 「制度と起業家精神 ~ジュジュ(精霊)に立ち向かう起業家~」(2010年11月19日)

Tim Schilling, “Institutions and Entrepreneurship”(MV=PQ: A Resource for Economic Educators, November 19, 2010)


このブログの定期的な読者であればご存知のように、私が興味を抱いている対象の一つが「経済制度」である。制度とは何かというと、「ゲームのルール」と定義されるのが通常である。もっと具体的に踏み込むと、インセンティブを形作ることによって一人ひとりの意思決定に影響を及ぼす一連のルールならびに組織――フォーマルなものであれ、インフォーマルなものであれ――の総体が制度だ。成文法も含まれるし、自発的に従われる行為規範も含まれる。文化的な信念(cultural beliefs)も含まれる。今回のエントリーの主題というのが、最後に触れた「文化的な信念」である。

本日付のウォール・ストリート・ジャーナル紙で、ナイジェリアのバイクタクシーについて取り上げられている。具体的には、ナイジェリアのバイクタクシーがいかに危険であるかがテーマだ。バイクタクシー絡みの事故があまりにも多いので、バイクタクシーの事故で負傷した患者専用の病棟を用意している病院もあるくらいだという。

バイクタクシーの乗客にヘルメットを被ってもらおうとあれこれと手が打たれたが、うまくいかなかったという。その主たる理由は、迷信(文化的な信念)にある。ナイジェリアでは、ヘルメットが頭に直に触れると、邪悪なジュジュ(精霊)の呪いにかかってしまって、災難に巻き込まれるおそれがあると広く信じ込まれているのである。この世から突如として消え去ったり、脳を失ったり、運を吸い取られてしまうおそれがあると広く信じ込まれているのだ。ナイジェリアの人々がヘルメットを被らないという選択――しばしば悲劇的な結末を伴う選択――をしているのは、ヘルメットを被るコストが迷信のせいで高く感じられて、ヘルメットを被るおかげで得られると予想される便益を上回るからだ。すなわち、ナイジェリアの人々は、便益とコストを比較した上で、「論理的」な選択をしているのだ。

ここで登場するのが、一人の起業家である。ヘルメットと頭の間に挟むことができる布帽子を開発したのである。布帽子を被れば、頭がヘルメットに直に触れずに済むので、ジュジュ(精霊)の呪いに対する恐れが和らげられる――皆が皆というわけにはいかないだろうが――。衛生面の問題をはじめとして色々と課題はあるものの、重要なポイントは次の点にある。この起業家が新たなマーケットを発見して開拓するのに成功したのは、この地に特有の制度的要因を理解していたからこそなのだ。安価な競合品――例えば、ハンカチ――が数多く存在していることを考えると、彼がこれからどれくらい成功を収められそうかはわからない。ライバルが続々と参入してくる可能性もある。ともあれ、この事例は、制度と起業家精神との関わりをめぐる興味深いケースであることは間違いない。

Chris Dillow 「二つの正義」(2011年5月3日)

Chris Dillow, “Two justices”(Stumbling and Mumbling, May 03, 2011)


オサマ・ビン・ラディンが殺害されたが、「正義が成し遂げられた」(“justice has been done”)――こちらとこちらを参照されたい――と言ってしまっていいのだろうか? この問題について掘り下げて考えると、ちょっとしたパラドックスが持ち上がってくる。

 大まかではあるが、「正義」についての立場は、「プロセスとしての正義」と「結果としての正義」の二つのタイプに分類することができる。「プロセスとしての正義」という観点からすると、正義は成し遂げられなかったことになろう。なぜなら、ビン・ラディンは、公正な(just)裁判を経た末に命を奪われたわけではないからである(原注1)。しかしながら、「結果としての正義」という観点からすると、正義は成し遂げられたと言えるかもしれない。犯した罪の重さゆえに死に値する人物がいるとするなら、ビン・ラディンこそまさしくその筆頭だからである(原注2)。

ここからが本題である。経済問題が争点になる時には、左派(リベラル派)は「結果としての正義」を重視しがちな一方で、右派(保守派)は「プロセスとしての正義」を重視しがちだ。左派の多く――全員とは言わない――は、経済面での格差がどのようなプロセスを経て生じたかにかかわらず、格差の大きさを問題にする傾向にある。これは、結果に照らして正義を判断する立場だ。その一方で、右派の多くは、プロセスに照らして正義を判断する傾向にある。ロバート・ノージックの有名な格言――「公正な手続きを経て生起した結果は、どれもこれも公正である」(“whatever arises by just means is itself just.”)――に要約されているように。ハイエクも以下のように述べている。

「市場メカニズムを通じて一人ひとりに割り振られる便益(benefits)と負担(burdens)が誰かに操作されているのだとしたら、大いに不公正と見做されねばならないだろう。しかしながら、実際のところはそうはなっていない。市場メカニズムを通じて一人ひとりに割り振られる便益と負担は、そうなるように誰かが意図したわけではない。最終的な着地点が誰にも予見できないプロセスの結果なのである」(Law, Legislation and Liberty vol II, p. 64)

経済問題に関しては、右派は「プロセスとしての正義」の立場に立つ一方で、左派は「結果としての正義」の立場に立つ。そのことを踏まえると、以下のような予想が成り立ちそうだ。ビン・ラディンの殺害について、右派は危惧の念を抱いていて、左派はあっけらかんとしている。ビン・ラディンは、適正な手続き(due process)を経ることなく殺害されたが、殺害という結果は「結果としての正義」に適っているからである。

しかしながら、どうもそうはなっていないようだ。ビン・ラディンの殺害について、右派の一部――全員ではない――は喜んでいて、左派の一部――全員ではない――は気が咎(とが)めているようなのだ。

予想と違った反応になっているのは、なぜなのだろうか? 経済問題を論じる時と犯罪絡みの問題を論じる時とでは、同じ「正義」という言葉を使っていても異なる意味が込められている、というのが考え得る理由の一つである(それはなぜなのか、という別の疑問が生じてくることになる)。別の可能性としては、正義についての我々の直観が混乱しているに過ぎないのかもしれない。あるいは、ビン・ラディンの殺害に関しては、正義はそもそも争点になっていないのかもしれない。


(原注1)ビン・ラディンは暗殺されたのか、それとも通常の軍事行動の最中に殺害されたのかという問題――この違いは重要だと考える人もいるだろう――は、とりあえず脇に置いておこう。
(原注2) 罪の重さゆえに死に値すると考えながらも、プロセスが不公正ゆえに死刑(あるいは、殺害)に反対するのも首尾一貫した立場として成り立ち得る。

Hans-Joachim Voth&Nico Voigtländer 「ナチス流の利益誘導 ~ナチスによるアウトバーンの建設は政権への支持を高めたか?~」(2014年5月22日)

Hans-Joachim Voth&Nico Voigtländer, “Nazi pork and popularity: How Hitler’s roads won German hearts and minds”(VOX, May 22, 2014)

 
ヒトラー率いるナチス政権は、国の全土に及ぶ高速道路網――アウトバーン――を世界で初めて整備した。本稿では、ナチスによる高速道路の建設が政権への支持にいかなる効果を持ったかを検証する。1933年から1934年までの間に行われた選挙なり国民投票なりで投票結果にどんな変化が起きたかに着目して分析を加えたところ、「利益誘導」を意図した財政支出が政権への不支持率を低下させる効果を持ったことが見出された。高速道路が横切らなかった郡(選挙区)と比べると、新たに高速道路が横切ることになった郡(選挙区)では、選挙なり国民投票なりで政権への反対票の減り方がより大きかったのである。少なくとも1934年以降に関しては、アウトバーンが政権の人気をいくらか支える役目を果たしたと言えそうである。


「少なくとも、彼(ヒトラー)はアウトバーン(高速道路)を建設した」。ナチスが国内であんなにも支持された理由として両親や祖父母の口から繰り返し語られるがゆえに、多くのドイツ人の記憶に刻み込まれている文句である。ナチス政権が積極果敢な対外侵攻からジェノサイドに至るまでの一連の政策を推し進めるためには、国民からの圧倒的な支持が欠かせなかった。高速道路網の整備は、ナチス政権の疑いもなく光の面に属する成果として民衆の記憶の中に保存され、1933年以降にナチス政権が熱狂的に支持されるようになったのはなぜなのかを難なく説明してくれる絶好の答えとしてしきりに持ち出される格好になっている。

インフラを整備するための公共投資は、人心(国民のココロとアタマ)を掴む(つかむ)ことが果たしてできるのだろうか? 「ナチスがあんなにも支持されたのは、高速道路網を整備したから」という上の世代がひょいと口にする説明は、単なる言い訳に過ぎないのだろうか? それとも、ナチスに支持が集まった重要な理由を的確に捉えているのだろうか? 公共投資をはじめとした財政支出の効果について実証的な検証を試みているこれまでの先行研究に照らすと、インフラを整備するための公共投資は時の政権(与党、現職)への支持を高めるとは言い切れないようである。その理由の一部は、時の政権(与党、現職)にとって必要度の高い地域に狙いを定めて国の予算が投じられがちだからである。すなわち、公共投資をはじめとして国の予算が投じられる先として、厳しい選挙戦が予想される(選挙で敗れるおそれのある)地域(選挙区)が選ばれがちなのである。Levitt&Snyder (1997) や Manacorda et al. (2011) のように、利益誘導を意図した財政支出が時の政権(与党、現職)への支持を高める効果を持ったことを見出している研究もいくつかある。アメリカ軍によって占領されていた最中のイラクを対象に分析を加えている Berman et al.(2011) によると、インフラを整備するために巨額の予算(復興予算)が投じられた地域では反乱が減ったという結果が得られている。しかしながら、経済学なり政治学なりの方面の学術的な研究では、利益誘導を意図した財政支出の効果について懐疑的な見方――利益誘導を意図した財政支出は、狙い通りの効果を上げているとは言えない(時の政権への支持を高めるのに役立っているとは言えない)という見方――が大勢(たいせい)を占めている(例えば、Stein&Bickers 1994, Feldman&Jondrow 1984)。

ナチス・ドイツにおける高速道路網の整備がどんな効果を持ったかを検証するのは、無駄じゃないだろう。独裁という政治体制下において利益誘導を意図した財政支出が狙い通りに時の政権への支持を高めるのに役立ったかどうかについては、これまでに系統的に検証された試し(ためし)がないからである(Voigtländer&Voth 2014)。それに加えて、ナチスに支持が集まった理由についてよくわかっていないところもあるからである。ヒトラー率いるナチスが既に政権を握っていた1933年3月に行われた総選挙(国会選挙)でも、ナチス(国家社会主義党)の得票率は「わずか」44%でしかなかった。しかしながら、数年もしないうちに、政権への支持率が著しく(いちじるしく)高まったことが反体制派の調査によっても親衛隊保安部(SD)の調査によっても指し示されている(Evans 2006)。ナチス政権への支持が瞬く間に高まったのは、いかにしてだったのだろうか?


アウトバーンの建設

高速道路の建設は、ナチス政権にとって最優先事項だった。ナチスが政権を握って数週間後に、自動車の購入を後押しするために補助金が導入され、国内の自動車産業のこれからについて野心的な構想が打ち出された。それから6か月後には、ドイツ全土に及ぶ高速道路網の建設を取り仕切る会社が設立された。そして、ナチスが政権を握ってから9か月後には、高速道路網の最初の区間の建設が開始された(Vahrenkamp 2010)。

よく耳にする話とは違って、ナチスによるアウトバーン計画にとって軍事的な意図は大して重要な役割を果たさなかった。アウトバーン計画は、1920年代に民間のシンクタンクと組織によって綿密に練り上げられていた構想――自動車道路研究会(STUFA)およびハンザ同盟=フランクフルト=バーゼル自動車道準備連合会(HaFraBa)による構想――を部分的に引き継いだものだった。ほぼほぼその構想に沿って建設が進められたが、構想とは違ったかたちで建設された区間も一部あった。

一区間ずつ完成させて都市圏を順々に繋いでいく(つないでいく)代わりに、同時に17区間の建設が開始された。全部で901ある郡のうち131郡を横切るかたちで、同時進行で建設が進められたわけである。そのせいもあって、最初の区間が開通するまでにはいくらか時間を要した。しかしながら、国内のあちこちでその進捗(しんちょく)を目にすることができた。計画段階でも建設段階でも、ナチスはアウトバーンを偉大な成果として喧伝するプロパガンダを流した 。ヒトラーは、首相に就任してから9カ月経つか経たないかという1933年9月に、最初の区間の着工を祝って鍬入れ式(くわいれしき)を行った。ヒトラーが鍬入れしている姿を収めた写真は、同年11月の総選挙で選挙ポスターとして転用された。 新しい区間が開通するたびに、大きな騒ぎになった。道路脇に大勢が列をなして集まって、党の指導者たちが得意げに運転する車が通過するのを見学したのである。1935年までに最初の区間が開通し、1938年までに距離にして3500キロメートル分が完成した(Vahrenkamp 2010)。

アウトバーン計画の1934年時点での進捗状況をまとめたのが以下の図1である。全土に高速道路網を張り巡らせてあちこちの人口密集地を残らずつなぎ、国内にあるすべての郡の半分近くをいずれかの区間が横切るようにするというのが当初の予定だった(点線)。しかしながら、1934年までに着工に踏み切られたのは、当初予定されていた区間のうちのわずか15%に過ぎなかった(黒色の実線)――二重線は、建設が承認されたものの、まだ着工されずにいた区間――。


図1. 1934年時点におけるアウトバーン計画の進捗状況


ナチス政権がどれだけ支持されていたかをどうやって測る?

高速道路が建設中だった郡(選挙区)でヒトラー率いるナチス政権への支持がいくらか高まったか? それが探るべき問いである。しかしながら、自由で公正な選挙が最早行われなくなってしまっていたというのに、その答えをどうやって知ったらいいのだろう? ナチスが政権を握って以降も、選挙はちょくちょく行われた。国民からどれだけ愛されているか(支持されているか)を見せつけるためにである。しかしながら、その選挙というのは、自由でもなければ公正でもなかった。投票ブースの前には突撃隊のメンバーが立っていて、有権者は監視されながら票を投じるように迫られた。誰にも見られずに票を投じるのも可能といえば可能だったが、冷ややかな目を差し向けられた。無効票が(政権への)賛成票としてカウントされるのもしばしばだった。高齢で体が弱い有権者も投票所まで連れて行かれた。いくつかの郡では、有権者に手渡す前に投票用紙に印(しるし)をつけておいて、誰がどんな票を投じたかが辿れるようになっていた。ナチス(国家社会主義党)の得票率は概して極めて高かったが、1933年11月の総選挙をはじめとしてその後の選挙での得票率通りに国民の9割以上が漏れ無く(もれなく)ナチス政権を本気で支持していたなんて語るのは馬鹿げているだろう。有権者のうちでどのくらいの割合がナチス政権を本気で支持していたかを(ナチスが政権を握って以降に行われた選挙での)ナチスの得票率から突き止めることなんてできないのだ。

そこで、ナチスがどれだけ支持されていたかではなく、どれだけ支持されていなかったかに目を向けてみるとしよう。具体的には、それぞれの郡ごとに政権への不支持率が時とともにどう変わったかに分析を加えてみるとしよう。いずれかの郡で政権への不支持率が国全体の趨勢を凌駕する勢いで減ったとしたら、その郡で政権への支持に変化が起きた証拠と見なすことができるだろう。このような角度から分析を加える理由は、選挙区ごとに重要な違いが見られるからである。例えば、ヒトラーが国家元首として権力を大幅に強めることにつながった1934年8月の国民投票では、アーヘン市の有権者の24%が(ヒトラーが首相に加えて大統領職も兼ねることに) 反対票を投じている。その一方で、ニュルンベルク市で反対票を投じた有権者の割合は4.6%に過ぎなかったのだ。

きちんと似たもの同士を比較する必要があるので、前後二回の投票――1933年11月の総選挙および1934年8月の国民投票――で政権への不支持率がどう変わったかを調べてみるとしよう。1933年11月に行われた総選挙では、国会での議席が争われた。出馬したのは、ナチス(国家社会主義党)に属する候補者のみだった。ヒンデンブルグ大統領の死去に伴って行われたのが、1934年8月の国民投票である。ヒトラーが首相と大統領を兼ねることに同意するかどうかが問われたのである。


高速道路の建設はいかなる効果を持ったか?

いずれかの区間(高速道路)が建設中だった郡と、新たに高速道路が建設されずにいた郡とでどういう違いが見られたか? 国全体をひっくるめた趨勢としても1933年11月から1934年8月までの間に政権への不支持率は低下したが、いずれかの区間が建設中だった郡ではその下げ幅がより大きかった。政権への不支持率の増減の分布をまとめたのが以下の図2である。いずれかの区間が建設中だった郡での結果(政権への不支持率の増減)の分布をまとめたのが点線、高速道路が建設されずにいた郡での結果の分布をまとめたのが実線である。一見してすぐわかるように、いずれかの区間が建設中だった郡の方が政権への不支持率の下落幅が大きい傾向にある。点線で描かれた曲線(分布曲線)の方が左側に位置しているのだ。


図2. 政権への不支持率の増減幅(1933年11月~1934年8月)


統計的な解析を試みたところ、1933年11月から1934年8月までの間に、政権への不支持率がかなりの勢いで下落していることが見出された。高速道路が建設されずにいた郡を平均すると、政権への不支持率の下落幅は1.5ポイント(1.5パーセントポイント)。それに対して、いずれかの区間が建設中だった郡を平均すると、政権への不支持率の下落幅は2.4ポイント(2.4パーセントポイント)。高速道路が建設されずにいた郡と比べると、いずれかの区間が建設中だった郡では、平均して6割増しの勢いで政権への不支持率が下落したのだ。

問題は、高速道路の建設が「原因」(政権への不支持率を下落させた原因)だったと言えるのかということである。もしかしたら、どういうわけだか政権寄りになりつつあった(政権への支持を強めつつあった)郡にご褒美(ほうび)のつもりで高速道路を建ててやったってだけなんじゃなかろうか? 忠実な僕(しもべ)に見返りとしてご褒美でもやるつもりで。そのあたりがどうだったかを探る(より厳密に因果関係を推定する)ために、二通りの検証を試みた。

  • 第一に、いずれかの区間が建設中だった選挙区で政権への不支持率の下落幅がより大きかったのは、1933年11月時点での政権への不支持率が異様に高かったせいかどうかを検証してみたが、そうじゃなかったという結果が得られた。
  • 第二に、1933年よりも前に練り上げられていた構想――自動車道路研究会(STUFA)による高速道路網構想――との異同に着目した。1933年以降にナチスによって建設が進められた区間と、1920年代に練り上げられていた構想に盛り込まれていた区間とを突き合わせてみたら、ナチスがご褒美のつもりで高速道路を建ててやった(政権寄りになりつつあった郡にご褒美のつもりで高速道路を建ててやった)かどうかを実証的に検証できるかもしれない。1920年代に練り上げられていた構想通りに(1933年以降になって)建設された区間に関しては、ナチスがご褒美のつもりで建ててやったという可能性は薄そうだ。その一方で、1920年代に練り上げられていた構想には盛り込まれていなかったのに1933年以降になって建設された区間に関しては、ナチスがご褒美のつもりで建ててやった可能性もあり得そうだ。


高速道路の建設がそれぞれの郡(選挙区)に及ぼした効果(政権への不支持率をどれだけ下落させたか)をまとめたのが以下の図3である。すべての郡(901郡)を二つのグループに分けて、1933年以降にいずれかの区間(高速道路)が建設中だった郡と、高速道路が建設されずにいた郡とで(1933年11月から1934年8月までの間に)政権への不支持率がそれぞれどのくらい下落したかを表しているのが、一番左の対(つい)になっている棒グラフである。いずれかの区間が建設中だった選挙区の方が1ポイント(1パーセントポイント)近い差で(政権への不支持率の下落幅がその差の分だけ大きいという意味で)有権者の「変心」が多くなっている。1920年代に練り上げられていた構想で高速道路が横切る予定になっていた郡(400郡)を対象に、同様の分析を加えた結果をまとめた――1933年以降に構想通りに高速道路の建設が進められた郡と、構想通りにいかなかった(高速道路が建設されなかった)郡とで、政権への不支持率がそれぞれどのくらい下落したかを表した――のが真ん中の対になっている棒グラフだが、すべての郡(901郡)を対象に分析を加えたケースとほぼ同じような結果が得られている。すなわち、1920年代に練り上げられていた構想で「技術的な理由に照らしても経済的な理由に照らしても、高速道路を建てるならこのあたりがいい」と白羽の矢が立てられた郡(400郡)同士を比べても、高速道路の建設に伴う効果の大きさ――高速道路が建設中かどうかによって、政権への不支持率の下落幅に生まれる差――は、すべての郡(901郡)が対象の先のケースと同じくらいなのである。1920年代に練り上げられていた構想では高速道路が横切る予定になっていなかった498郡を対象に、同様の分析を加えた結果をまとめたのが一番右の対になっている棒グラフである。「ナチスによるご褒美」仮説が成り立つようなら――政権寄りになりつつあった郡にご褒美のつもりでナチスが高速道路を建ててやったのだとしたら――、高速道路の建設に伴う効果が先の二つのいずれのケースよりも大きくなりそうなものだが、そうはなっていない。むしろ、(1920年代に練り上げられていた構想で高速道路が横切る予定になっていた400郡が分析対象の)真ん中のケースよりもその効果は小さいのだ。言い換えると、ナチスが独自の判断で建設に踏み切った区間が横切る郡では政権への支持がどこよりも高まったかというと、そうはなっていないのだ。結論をまとめると、すべての郡(901郡)が分析の対象になっている一番左のケースであのような結果になっている――高速道路が建設中かどうかによって、政権への不支持率の下落幅に差が生まれている――のは、ナチスがご褒美のつもりで高速道路をどこに建てるかを戦略的に決めたせいだとはどうも言えなさそうなのだ。



図3. 高速道路の建設が政権への不支持率に及ぼした効果


さらには、同じ郡の中でも建設中の区間が近くにあった(その区間との距離が近かった)選挙区ほど、政権への不支持率の下落幅が大きいことも見出されている。言い換えると、建設中の高速道路から距離的に隔たっていた選挙区ほど、「変心」する有権者が少なかったのである。


高速道路の建設が政権への支持を高めたのはなぜなのか?

ナチス政権は、景気刺激策として高速道路の建設を何よりも優先した。高速道路の建設によって60万人の雇用を生む目論見だったが、実際には最大で12万5千人の雇用が生み出されるにとどまった。最近の研究によると、高速道路の建設がマクロ経済(ドイツ経済全体の景気)に及ぼした効果は些細なものだったという結果が得られている(Ritschl 1998)。高速道路が建設されたおかげで交通の便がよくなって得をしたかというと、それも大したことはなかったようである。当時のドイツは、自家用車の所有率がヨーロッパで最下位だったからである(Evans 2006)。

とは言え、高速道路の建設が界隈の町や村をそれなりに潤した(うるおした)可能性はある。高速道路を建設するために雇われた作業員たちは、当初のうちは高速道路が建設されている周辺の町や村にある民家にお世話になったが、しばらくして付近にバラックが建てられるとそこに住まった。作業員たちは、その地にある宿屋や売店でお金を落とした。さらには、映画の鑑賞会を取り仕切りもした。そのおかげで、高速道路が建設されている周辺の町や村はちょっとした観光スポットになった。週末の旅行先として賑わったのである(Eichner-Ramm 2008)。

現代の民主主義国で選挙が近づくにつれて財政出動が試みられる(歳出が拡大されたり減税に踏み切られたりする)という「政治的予算循環」現象が引き起こされるのは、現職の政治家が己の力量を示さなくちゃという思いに駆られるせいかもしれない。それと同じように、アウトバーンの建設は、ナチス政権の力量を示す説得力のある証拠という役割を担ったと言えよう。ヒトラーがアウトバーン計画をぶち上げた演説で宣した(せんした)如く、新しい政権にはとめどないエネルギーと抜群の組織力が備わっていることをまざまざと見せつけようとしたのだ。アウトバーンの建設こそがドイツ経済の再生を引き起こした主因なのだと喧伝されたのに加えて、1933年以降に失業者が急速に減ったこともあり、アウトバーンの建設は「功を奏した」という思いが多くの国民によって共有された。「ワイマール時代の政府は、無能で右往左往してばかりいた」と苦々しく思っていた多くの国民は、高速道路がちゃっちゃと(素早く)建設される光景にびっくりして感動したに違いない。プロパガンダの流布に励んだ宣伝省は、国民の想像の中で高速道路とヒトラーとが一つに溶け合うようにあれこれと骨を折った。例えば、出来上がった道路を「総統の道」と名付けたりした。ヒトラーの人気に便乗してアウトバーンの評判を高めようとしただけでなく、同時にヒトラーの人気をさらに高めようともしたのだ。アウトバーンの建設というナチス政権の成果は、国中(くにじゅう)の有権者の投票行動に影響を及ぼしたろうが、新たに高速道路が建設されている最中の郡に住んでいてその様を目撃した有権者にとりわけ強い印象を与えたろう(Gennaioli&Shleifer 2010)。


結論

政権を握ったナチスが前例のない罪を犯さないでいるうちは、ドイツ国内でのその人気ぶりはそれはもう相当なものだった(Evans 2006)。多くの歴史家が指摘しているところによると、政権への支持を高める役割を果たした要因のうちの一つがアウトバーンの建設だったという。1933年から1934年までの間に行われた総選挙なり国民投票なりの結果を具に(つぶさに)調べたところ、そうかもしれない可能性が浮上してきた。アウトバーンの建設が有権者の投票行動に及ぼした効果を特定するために、ナチスによって建設された高速道路網の地理的な分布(どの区間がどこをどう横切ったか)に関する細かなデータを利用して、1933年11月から1934年8月までの9カ月の間に有権者の「変心」がどのくらい起きたかに分析を加えたところ、「総統の道」が横切ることになった郡(選挙区)で政権への不支持率がかなりの勢いで下落した――「総統の道」が横切らなかった郡(選挙区)と比べて、政権への不支持率の下落幅がずっと大きかった――ことが見出されたのである。

高速道路が建設されたおかげでその界隈が経済的に潤ったのも政権への支持を高める一因となった可能性はあるが、些細な一因というに過ぎなかったろう。それ以上に重要だったのは、新たに建設された高速道路が政権の力量を示す目に見える証拠となったことである。「ドイツを再起させる」という約束を果たせるだけの実行力が政権に備わっていることを示す目に見える証拠となったことである。ナチスが政権を握ってから数カ月しか経っていない段階で、壮大な高速道路網計画が実行に移された。100を超える郡を横切るかたちで、17の区間が国内のあちこちで同時進行で建設された。すなわち、高速道路の建設が着々と進んでいるのを目撃した多くの国民にまざまざと見せつけたのである。新しい政権には約束を果たせるだけの実行力が備わっていることを。

政権の手柄を吹聴する巧みなプロパガンダも加勢して、アウトバーンの建設は多くのドイツ国民のココロとアタマを掴むのに成功したのだった。いや、感銘を受けたのはドイツ国民だけじゃなかった。第二次世界大戦の終盤にドイツに足を踏み入れたアメリカ陸軍の士官の中にも、アウトバーンの利便性に心を打たれた人物がいた。ドワイト・アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)である。 帰国してからしばらく経って(1953年に)大統領に就任したアイゼンハワーは、アメリカにも高速道路網(州間高速道路網)を整備するべく腰を上げたのである。


<参考文献>


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