2022年10月31日月曜日

Claudia Biancotti他 「サイバーセキュリティの経済学」(2017年6月23日)

Claudia Biancotti&Riccardo Cristadoro&Sabina Di Giuliomaria&Antonino Fazio&Giovanna Partipilo, “Cyber attacks: An economic policy challenge”(VOX, June 23, 2017)

 
円滑な経済活動を支える基盤の一つとしてサイバーセキュリティへの関心が高まっているが、「市場の失敗」ゆえに、サイバーセキュリティを強化するための私的な投資が十分に行われずにいる。「市場の失敗」を是正する政策を練り上げて、あらゆる部門が一体となってサイバー攻撃の脅威に立ち向かっていかねばならない。そのためには、サイバー空間の安全性を左右するミクロ経済レベルのメカニズムに対する理解を深めるだけでなく、サイバー攻撃の実態に関する信憑性のあるデータを集める必要がある。
 
サイバー攻撃が国家の安全保障上の脅威の一つに位置づけられるようになってからだいぶ日が経っているが、マクロ経済的な観点からも脅威の一つと見なされるようになってきている。その背景として、情報通信技術を介して生み出される付加価値がGDPに占める割合が日増しに高まってきていることがある。2012年にOECD加盟国全体で生み出された付加価値のうちの6%が情報産業によって生み出されている。同じく2012年にOECD加盟国全体で就業していた人のうちの4%が情報産業で働いている。同じく2012年にOECD加盟国全体で実施された設備投資のうちの12%が情報産業によるものとなっている。さらには、特許協力条約(PCT)に基づく手続きを経て国際的な特許権を取得した発明のうちの40%が情報通信技術絡みとなっている(OECD 2014, 2015)。2014年のイギリスでは、140万人がデジタル部門――情報通信産業のごく一部の部門――で働いている。140万人というのは、就業者全体の7.3%に相当する(UK Department for Culture, Media and Sport 2016)。これまでに挙げてきた数値は、デジタル技術によって生み出されている価値を控えめに捉えたものに過ぎない。デジタル化がどこまで進行しているかを知るには、インターネット上でごく普通の一日の間に何が起きているかに目を向けてみるという手があるが、世界銀行がその実情を図(図1)にまとめてくれている(World Bank 2016)。

図1:インターネット上におけるごく普通の一日(図の出所は、世界銀行が刊行している『世界開発報告2016年版』。上の図は、2015年5月29日にインターネット上で何が起きていたかをこちらのサイトを使って集計したもの)


デジタル化が急速に進行するのに伴って、経済内部における相互のつながり(連結性)の度合いも高まっている。言い換えると、誰かしらがサイバー攻撃を受けた場合に、被害の範囲がその当人だけにとどまらないおそれがあるわけだ。サイバー空間の安全性に疑念が抱かれると、知識集約型部門において情報通信技術の導入が避けられたり、国境を越えた商取引が手控えられたりして、生産性の伸びが鈍化するおそれがある(World Economic Forum 2014)。

サイバーセキュリティを強化する(サイバー空間の安全性を高める)上で、どうしても理解しておかねばならないことがある。サイバーセキュリティを強化できるかどうかは、脆弱じゃないプログラムを書けるかどうかだけでなく、インセンティブのありようにもかかっているのだ。

その一例が、Anderson (2001) によって15年以上前に指摘されている。預金の不正引き出し被害の件数で国ごとに開きがあるのはどうしてかというと、詐欺師の技術レベルに違いがあるためではなく、責任の所在に関するルールに違いがあるためだというのだ。米国では、キャッシュカードの持ち主が預金を不正に引き出されたと申し出ると、金融機関の側がその真偽を調査することになっている。そして、申し出が嘘だと証明できない限りは、金融機関が全額補償することになっている。その一方で、預金が不正に引き出されたことをキャッシュカードの持ち主が自分で証明しないと、一銭たりとも補償してもらえない国もある。預金の不正引き出し被害の件数が少ないのはどっちかというと、米国の方がずっと少ないのだ〔原注;この15年の間に預金の不正引き出し被害の数もだいぶ増えており、それに伴って、大体どこの国でも米国型のルールを採用するようになっている。その結果として、ATM(現金自動預け払い機)のセキュリティを強化するための投資が積極的に行われるようになっている〕。

時に国家によって企てられるAPT攻撃のような高度なサイバー攻撃も重要な問題には違いないが(Center for International and Strategic Studies 2016)、シンプルなサイバー攻撃であっても――社員に初歩的なセキュリティ教育を施すなり、すぐに手に入るウイルス対策ソフトをインストールするなり、セキュリティマネジメント体制を構築するなりすれば、容易に阻止できる類のサイバー攻撃であっても――大きな被害が出る。2013年に米国の大手ディスカウントストア・チェーンであるターゲット社のPOSシステムがサイバー攻撃に遭ったが、およそ3億ドルに上る被害が出た。ターゲット社の取引先である空調業者のパソコンのセキュリティ対策が甘く、そこを突かれたのだ。空調業者のパソコンから盗み出された認証情報を使われて、ネットワークへの侵入を許してしまったのだ。2017年にブラジルの銀行のネットワークが5時間にわたり乗っ取られた時には、「DNSハイジャック」と呼ばれる初歩的な手法が使われた。その銀行のサイトにアクセスすると、本物そっくりの偽サイト(フィッシングサイト)に飛ばされ、ログインしようとした顧客の個人情報が盗まれたのだ。

いわゆる「モノのインターネット」(IoT)――インターネットを介して相互に結び付けられたスマート・デバイス(スマートフォンやタブレットなど)のネットワーク――の市場規模が大きくなるにつれて新しくて未知の領域が広がっているが(図2)、新しいテクノロジーに付き物のトレードオフも抱えている。新しいテクノロジーのおかげで色んな可能性が開ける一方で、セキュリティ上の問題――技術的な問題に加えて、インセンティブが絡む問題――が放置されたままだと(安全性に疑念を抱かれて、テクノロジーの導入が避けられるために)その可能性が実現せずに終わるリスクがあるのだ。 「モノのインターネット」を標的にしたサイバー攻撃は既に起こっている。2016年には10万台にも上る数のデジタルビデオレコーダーやウェブカメラが乗っ取られて、TwitterやRedditといったソーシャルプラットフォームに障害が起きているし、 2017年には大学の自動販売機がハッキングされて、学内のネットワークがすべてダウンしている。


図2:「モノのインターネット」の市場規模の予測(データの出所は、IHS マークイット)


「市場の失敗」を是正するには?

様々な「市場の失敗」ゆえに、サイバーセキュリティを強化するための私的な投資が十分に行われずにいる。政策を通じて「市場の失敗」を是正できれば、サイバー攻撃を防ぐことができる。「市場の失敗」を是正する政策を練り上げるためには、政治的な意思が必要となるだけではなく、二つの障害物を取り除かなければいけない。 二つの障害物とは何か? サイバー空間の安全性を左右するミクロ経済レベルのメカニズムに対する理解不足が一つ目の障害物。サイバー攻撃の実態に関する信憑性のあるデータの不足が二つ目の障害物だ。

サイバー空間の安全性を左右するミクロ経済レベルのメカニズムをえぐり出しているのが、Anderson and Moore (2011) だ。まず何よりも先に指摘しておくべきなのは、ハードウェアの市場にしても、ソフトウェアの市場にしても、「ネットワーク外部性」が生じやすい市場だということだ。すなわち、製品のユーザーの数が増えるほど、製品の価値(利便性)が高まる傾向にあるのだ〔原注;格好の例は、パソコンのOS(オペレーティングシステム)だ。アプリケーションソフトの開発者は、広く利用されているOSに対応したソフトを作ろうとし、ユーザーは対応するソフトの数が多いOSに惹かれることになる。別の例は、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)だ。誰ともつながれないようだと、その価値はゼロだ〕。「ネットワーク外部性」は、先行者利益を生む源泉となる。ある程度の数のユーザーをいち早く獲得できた製品がその分野のスタンダードとなり、ユーザーがますます呼び込まれることになるのだ。ハードウェアの市場やソフトウェアの市場が寡占状態となっているのはなぜか? 製品開発の世界で「とにかく出荷(リリース)せよ。手直しするのは後でいい」というのがビジネスモデルの定番となっているのはなぜか? その答えは、「ネットワーク外部性」にあるのだ(「とにかく出荷せよ。修正するのは後でいい」というのが製品開発の世界におけるビジネスモデルの定番となっているのは、ユーザーが製品の安全性をそこまで重視していないせいでもある。ユーザーが製品の安全性をそこまで重視していないため、安全性はそっちのけで、どこよりも早く製品を出荷することに心血が注がれることになる。先行者利益を得るために。結果的に、多くの脆弱性を抱えた製品が出荷される運びとなる)。

次に指摘しておくべきなのは、脆弱性を抱えたハードウェアなりソフトウェアなりというのは、「負の外部性」(「外部不経済」)を引き起こす元凶になりかねないということだ。どういうことかというと、誰かしらがサイバー攻撃に遭った場合に、被害が及ぶ範囲がその当人だけにとどまらない可能性があるのだ。多くのコンピュータシステムには、そのシステムの持ち主の情報だけでなく、他者の貴重な情報も貯蔵されている。例えば、米国の医療保険会社であるアンセム社のサーバーが攻撃に遭った時には、顧客のデリケートな情報である診療記録が流出しているし、メールサービスを提供しているヤフー社のサーバーが攻撃に遭った時には、顧客の個人情報が流失している。サイバー攻撃は、間接的なかたちをとることもある。標的となる相手を直接狙うのではなく、まずはセキュリティ対策の甘い端末をいくつも乗っ取り、乗っ取った端末を遠隔操作して標的に攻撃を仕掛けるのだ。乗っ取られた端末によって構成されるネットワークは「ボットネット」とも呼ばれるが、そのネットワークに組み込まれた端末の数が何百万台もの規模に上ることもある。

サイバー攻撃に遭うと、被害があちこちに波及するリスクがある――「負の外部性」ゆえに、社会的なコスト(当人が被る被害に加えて、第三者に及ぼす被害)が私的なコスト(当人が被る被害)を上回る可能性がある――にもかかわらず、世間ではそのことに対する危機意識が依然として低いままだ。危機意識が低いままだと、「負の外部性」が一切生じないようであっても、セキュリティを強化するための私的な投資は十分には行われないだろう。仮にユーザーの側の危機意識が高まったとしても、ユーザーとメーカーとの間に横たわる「プリンシパル=エージェント問題」ゆえに、セキュリティを強化するための私的な投資は十分には行われないだろう。というのも、ハードウェアやソフトウェアを開発するメーカー(エージェント)が、製造物責任を負うのを渋っているのだ。プログラムのコードに間違いが混入するのは避けられないのに、その間違いが原因でサイバー攻撃が誘発されたのだからお前らが賠償しろと迫られるようだと、新製品を開発するインセンティブが削がれてしまう・・・というのがその言い分だ。とは言え、The Economist (2017) も指摘しているように、自動運転車がハッキングされて誰かが轢かれるなんて事故が起きたら、 世間の考えだったり政治家の態度だったりがガラリと変わる可能性はある。

「負の外部性」に対処する術は既にいくつか提案されているが、その多くは「負の外部性」を内部化する(サイバー攻撃によって生じた被害に対して、誰かしらが損害賠償責任を負う)必要性を認めつつも、負担の分かち合いを要求している。例えば、インターネットに接続されている洗濯機がハッカー集団に乗っ取られて、その洗濯機が石油会社のサーバーに攻撃を仕掛けるための道具として使われた場合に、洗濯機の持ち主に全額賠償させるのではなく、インターネットサービスプロバイダーに損害賠償の一部を肩代わりさせるわけだ〔原注;サイバー空間における「自衛権」のあり方について活発な論争が繰り広げられている。ハッカー集団に対して「逆ハッキング」(ハッキングしてきた相手にハッキングで復讐すること)で立ち向かうことをよしとする意見もあれば(Messerschmidt 2013)、「逆ハッキング」は逆効果になりかねないとの意見もある(Raymond et al. 2015)〕。

徐々にではあるが、OECD加盟国の多くで、「市場の失敗」の部分的な解決につながる法律が整備され出している。例えば、企業のサーバーが攻撃に遭って顧客の個人情報が流出した場合に、そのことを顧客本人に通知する義務が企業に課されている。あるいは、日常生活を送る上で欠かせない重要なインフラを運営する事業者に対して、安全基準の遵守が要請されている(それというのも、その事業者のサーバーが攻撃に遭ってインフラの操業が停止してしまうと、社会全体に甚大な被害が生じかねないからだ)。デジタル化が進んでいて、サイバー攻撃への強い警戒が求められる部門に対しては、国内法規によって厳格な義務が課されるだけでなく、国際的な法規制や慣行に従うことも要請されている。

その格好の例が、ハッカー集団にとってまたとない獲物である金融部門だ(Maurer et al. 2017)。先進国の法律では、金融部門に他のどの部門よりも念入りなセキュリティ対策が義務付けられている。例えば、2018年に改正された「EU決済サービス指令第2版」(PSD2)では、デジタル決済(電子決済)の安全性を確保するために、EU圏内で決済サービスを提供する事業者に対してかなり厳しい安全基準の遵守が求められている〔原注;改正された「EU決済サービス指令第2版」では、①ユーザー、②決済サービスを提供する事業者、③通信インフラの管理者、④規制官庁、の四者が一体となってセキュリティの強化に取り組む方針が打ち出されている〕。

中央銀行をはじめとした各国の金融監督機関は、監督対象となる国内の金融機関に対して様々な義務を課す――例えば、サイバー攻撃に遭った場合に、その旨を報告する義務を課す――だけでなく、サイバーセキュリティに関する国際的なガイドライン――法的な強制力はないものの、国内で法整備をする際に参考にされる指針――の作成にも国境の枠を超えて共同で取り組んでいる。その一例が、BIS(国際決済銀行)とIOSCO(証券監督者国際機構)によってまとめられた「金融市場インフラのサイバー攻撃耐性を高めるためのガイダンス」(BIS&IOSCO 2016)だが、サイバー攻撃に対する金融システムの耐性を高めるために取り組むべき課題として、技術的な面だけでなく、組織のガバナンスについても取り上げられている。他にも、人的要因が果たす役割だったり、サイバー攻撃に関する情報を共有する重要性についても触れられている。

法規制の面でいくらか進展が見られるとは言え、現状のままでは「市場の失敗」が部分的に解決されるに過ぎず、危機的な状況に追い込まれるリスクをゼロにすることはできない。例えば、規模の大きな金融機関がサイバー攻撃の標的となった場合に、経営破綻に追いやられるところまではいかなくても、営業停止に追い込まれる可能性は残されている。どれか一つの部門の守りを固めるだけでは、決して無駄ではないものの、十分じゃないのだ。あらゆる部門を対象とした包括的な政策対応が求められている。どこかに守りが甘いところがあると、その近隣の安全が脅かされてしまうのだ。個人情報の窃取を狙ったサイバー攻撃だけでなく、あらゆるタイプのサイバー攻撃に立ち向かうべきなのだ。重要なインフラを運営する事業者だけではなく、サイバー空間に足を踏み入れているすべてのプレイヤーに守りを固めさせるべきなのだ。


データの不足

「市場の失敗」を是正する政策の設計が阻まれているのは、サイバー攻撃の実態に関する信憑性のあるデータが不足しているためでもある。ごく一般的な企業のサーバーはどのくらい脆弱なのだろうか? サイバー攻撃はどのくらい頻繁に起きているのだろうか? サイバー攻撃に遭うと、どのくらいの被害が出るのだろうか? その答えはというと、・・・よくわからないのだ。サイバー攻撃についての統計データだったらメディアでもしばしば取り上げられてるじゃないかとお思いかもしれないが、ああいうデータを提供しているのは、ウイルス対策ソフトを作っているメーカーだったり、セキュリティ対策を仕事にしている会社だったりする。利益相反の可能性(自社の売り上げを伸ばすために、数字が水増しされている可能性)があるのに加えて、情報源が明らかにされていないことも多い。サイバー攻撃に関する信憑性のあるデータというのは、非常に限られているのだ。

その限られた中の一つが、英国政府による聞き取り調査だ。調査が開始されたのは、2016年。最新の結果は、2017年4月に報告されている(UK Department for Culture, Media and Sport 2017)。それによると、イギリス国内の46%の企業が過去1年の間に少なくとも1回はサイバー攻撃に遭っているという。企業規模が大きくなるほどサイバー攻撃の標的になりやすく、イギリス国内の大企業の68%が過去1年の間に少なくとも1回はサイバー攻撃に遭っているようだ(図3)。サイバー攻撃によって生じた被害の平均額はそこまで大きくないが(大企業に話を限ると、被害の平均額は1万9,600ポンド)、被害の額には大きなバラツキがある。被害額が一番大きかったケースでは、復旧作業だけで50万ポンドもかかったようだ。


図3:イギリス企業を標的にしたサイバー攻撃(図の出所は、英国政府)


英国政府による聞き取り調査に比べるといくらか大雑把ではあるが、同様の調査がイタリア銀行によって行われている(Biancotti 2017)。イタリアにある企業(具体的には、製造業と、金融業を除くサービス業を営む事業所)を対象にした長期間にわたる聞き取り調査〔原注;以下がそれ。Survey of Industrial and Service Firms(https://www.bancaditalia.it/pubblicazioni/indagine-imprese/index.html)/Business Outlook Survey of Industrial and Service Firms(https://www.bancaditalia.it/pubblicazioni/sondaggio-imprese/index.html)。どちらの聞き取り調査も毎年実施されている〕の結果によると、セキュリティ対策を一切していない企業の割合は2%を下回っているが、3分の1の企業が1年の間(2015年9月~2016年9月)に少なくとも1回はサイバー攻撃に遭っている(表1)。サイバー攻撃に遭ったことに気付いていなかったり、サイバー攻撃に遭ったことを隠している(サイバー攻撃に遭ったのに、遭っていないと答えている)可能性もあるので、「3分の1」という数値は実態を正確に反映していないかもしれない。そこで統計的な手法を使って生のデータに修正を加えると、1年の間(2015年9月~2016年9月)に少なくとも1回はサイバー攻撃に遭ったことがあると推測される企業の割合は、45.2%に上ることになる。部門別にみると、大企業、ハイテク企業、輸出企業(売上高に占める輸出額の割合が高い企業)がサイバー攻撃の標的になりやすいと言えそうだ。


表1:イタリア国内で製造業ないしはサービス業(金融業除く)を営む事業所のうちで、1年の間に少なくとも1回はサイバー攻撃に遭ったことがある事業所の割合


サイバー攻撃がこんなにも蔓延(はびこ)っていることを知れば、政府の要人も衝撃を受けて目を覚ますはずだ。データを集めなくてはいけない。定義を国際的に統一して、研究者が無料でアクセスできれば言うことないが、とにかくデータを集めなくてはいけない。サイバーセキュリティを強化するための適切な政策を練るためにも、サイバー攻撃の実態に関する信憑性のあるデータの蓄積が切実に求められているのだ。


<参考文献>


●Anderson, R (2001), ‘Why Information Security is Hard – an Economic Perspective’(pdf), Proceedings of the 17th Annual Computer Security Applications Conference.
●Anderson, R and T Moore (2011),  ‘Internet Security’, in Peitz, M. and J. Waldfogel (eds.), The Oxford Handbook of the Digital Economy, Oxford University Press.
●Biancotti, C (2017), ‘Cyber Attacks: Preliminary Evidence from the Bank of Italy’s Business Surveys’, Occasional Papers no. 373, Bank of Italy.
●Bank for International Settlements and Board of the International Organization of Securities Commissions (2016), ‘Guidance on Cyber Resilience for Financial Market Infrastructures’(pdf)
●Center for Strategic and International Studies (2016), ‘Significant Cyber Incidents since 2006’(pdf)
●Maurer, T, A Levite and G Perkovitch (2017), ‘Toward a Global Norm Against Manipulating the Integrity of Financial Data’, Carnegie Endowment for International Peace White Paper.
●Messerschmidt, J (2013), ‘Hackback: Permitting Retaliatory Hacking by Non-State Actors as Proportionate Countermeasures to Transboundary Cyberharm’, Columbia Journal of Transnational Law, 52(1).
●OECD (2015), ‘Digital Economy Outlook
●Raymond, M, G Nojeim and A Brill (2015), ‘Private Sector Hack-backs and the Law of Unintended Consequences’, Center for Democracy & Technology.
The Economist (2017), ‘How to Manage the Computer-Security Threat
●UK Department for Culture, Media and Sport (2017), ‘Cyber Security Breaches Survey: Main Report’.
●UK Department for Culture, Media and Sport (2016), ‘Digital Sector Economic Estimates – Statistical Release’(pdf)
●World Economic Forum (2014), ‘Risk and Responsibility in a Hyperconnected World’(pdf)

2016年5月31日火曜日

George Akerlof 「木の上の猫 ~経済危機に関する私見~」(2013年5月9日)

George A. Akerlof, “The cat in the tree and further observations: Rethinking macroeconomic policy”(VOX, May 9, 2013)

危機の予測という点に関しては、経済学者はダメダメだった。その一方で、危機が起きてからこれまでに試みられた一連の経済政策は、「経済を専門とする名医」の処方箋に近いものだったと言える。良い経済学も良識もこれまでのところはちゃんと機能している。あれこれと試してみて、成果も上がっている。このことは将来への教訓として胸に刻んでおかねばならないだろう。
 
IMFが主催した今回のカンファレンスでは、「マクロ経済政策の再考」がテーマとして掲げられた(IMF 2013)。私も参加させてもらって、多くのことを学ぶことができた。スピーチしてくれたすべての方々に大いに感謝したいと思う。ところで、全体の印象を何らかのイメージに置き換えるとしたら、どうなるだろうか? 誰かの役に立つかどうかはわからないが、大木によじ登っている猫というのが私の脳裏に浮かぶイメージだ。木の上にいる猫をみんなで見上げているのだ。 猫というのは、今回の大いなる危機のことを指しているのは言うまでもない。今回のカンファレンスでは、その愚かな猫をテーマにみんなで意見を出し合ったわけだ。どう取り扱うべきかについて。木の上から降ろすためにはどうしたらいいかについて。私がとりわけ感銘を受けたのは、「猫」に対するイメージ(「猫観」)が一人ひとり違っていて、意見が被ることがなかったことだ。とは言え、意見がうまく噛み合うことも時にあった。今回のカンファレンスを振り返ってみると、そういうイメージが浮かんでくるのだ。 今回のカンファレンスで交わされた討論は、大変有益なものだったと思う。なぜなら、どの「猫観」も独特だったし、それでいながらどれもが的を射ていたからだ。私の「猫観」はというと、哀れな猫が木の上にいて、今にも落ちそう。でも、下で見ている人たちはどうしていいかわからないでいる。そういう感じだ。

経済危機に関する私見

今回の危機についての私なりの考えを具体的に論じていくとしよう。「猫」の扱いはどれくらい上手くいったのだろうか? 他のみんながそれぞれ独自の観点から述べたことに私なりに少し違った角度から光を当ててみようと思う。

危機後のアメリカに分析を集中させるが、その結果は他の国にも当てはまるだろう。格好の論文がある。オスカー・ヨルダ(Oscar Jorda)&モリッツ・シュラリック(Moritz Schularick)&アラン・テイラー(Alan Taylor)の三人の大変優れた共著論文(Jorda, Schularick&Taylor 2011)がそれだ。この論文では、1870年から2008年までの間に先進14カ国で発生した景気後退が2つのタイプに分類されている。金融危機を伴う景気後退(financial recession)と、(金融危機を伴わない)通常の景気後退(normal recession)である。ブーム期における与信残高の対GDP比の違いに応じてその後に発生した景気後退の性質にどんな違いが見られるかが検証されていて、以下のような結果が見出されている。

  • 金融危機を伴う景気後退は、通常の景気後退に比べると、GDPの落ち込みが大きくて、景気回復の足取りも鈍い傾向にある。それに加えて、ブーム期における与信残高の対GDP比が高いほど、金融危機を経た後の景気回復の足取りが鈍い傾向にある。

これまでについてはそうだったという話だ。過去のデータから見出せる傾向に照らすと、目下の危機についてどんなことが言えるだろうか? 「与信残高」をどう測るかによってその結果は違ってくる。

  • 民間部門における銀行融資残高で「与信残高」を測ると、2007年以降のアメリカの景気回復局面におけるGDPの水準は、過去の似たような事例(景気後退に先立つブーム期における「与信残高」の対GDP比が同じくらいの過去の事例)での景気回復局面におけるGDPの水準の平均値を1%上回っている。
  • 民間部門における銀行融資残高にシャドー・バンキング・システムを経由した信用残高を加えて「与信残高」を測ると、2007年以降のアメリカの景気回復局面におけるGDPの水準は、過去の似たような事例(景気後退に先立つブーム期における「与信残高」の対GDP比が同じくらいの過去の事例)での景気回復局面におけるGDPの水準の平均値を4%上回っている。

詳しくは、ヨルダ&シュラリック&テイラーの共著論文のグラフをご覧いただきたい。ところえ、金融デリバティブの隆盛に伴って、「与信(信用)」(“credit”)をどう測ればいいかがよくわからなくなってきているのだ。

デリバティブがリスクヘッジのために利用されるようなら、金融市場がクラッシュした時にそのインパクトを和らげる働きをするだろう。例えば、クレジット・デフォルト・スワップ(CDS)の売り手ではなく買い手が債務不履行で破産するとしたら、CDSのおかげでその影響が和らげられるだろう。その一方で、デリバティブがギャンブルを煽るようなら、金融市場がクラッシュした時にそのインパクトを増幅する働きをするだろう。

2007年~2008年のアメリカではどうだったかというと、デリバティブは色々なかたちでギャンブルを煽っていたというのが通説だ。デリバティブが住宅ローンの評価の嵩上げに寄与したことを伝えるたとえ話としてよく持ち出されるのが、(カリフォルニア州の)セントラル・バレーで怪しげな相手に貸し出された住宅ローンがデリバティブによってひとまとめにされて、Aないしはそれ以上の格付けを得たというやつだ。怪しげなジャンク債でも高い格付けを得られたのだ。そのため、住宅ローンのオリジネーター(原債権者)は、借り手に頭金の支払いを求めなかったし、借り手の信用調査も行わなかったのだ。

投資銀行や格付け機関は、「受託者」(fiduciary)という信用ある立場を存分に利用して、新しいデリバティブを次々と編み出して、それらに高い格付けを与えていった。これらのことを踏まえると、2007年以降のアメリカの景気回復局面についての先の二つの評価は辛めということになるだろう。


政策の成否を測る物差しとしての大恐慌

2008年の秋頃における世間の認識も同じだったようだ。政府が何らかの対策を講じなければ、「大恐慌」級の不況がやって来るだろうと思われていたのだ。「大恐慌」が物差しになっていたのだ。「大恐慌」を物差しにして判断するなら、これまでに試みられたマクロ経済政策は、「グッド」というにとどまらず「エクセレント」という評価になるだろう。アラン・ブラインダー(Alan Blinder)も出色の一冊である『After the Music Stopped』で、まったく同じ評価を下している(Blinder 2013)。

そのほとんどが「名医」の処方箋に近かったのだ。具体的な例は、以下の通り。 

  • 2008年景気刺激法
  • 保険大手のアメリカン・インターナショナル・グループ(AIG)への公的資金の注入
  • ワシントン・ミューチュアル、ワコビア、カントリーワイドの救済合併
  • 不良資産救済プログラム(TARP)
  • 財務省とFedによる銀行のストレステスト(健全性審査)
  • Fedによるゼロ金利政策
  • 2009年アメリカ復興・再投資法(ARRA)
  • 自動車業界の救済
  • IMFが主導的な役割を果たしたG20ピッツバーグ・サミットでの合意内容に沿った国際協調

個人的に不満に思っていることが一つだけある。

  • 政策の成否は、足許の失業率の水準で判断するのではなく、適当な物差しと比べて判断すべきなのだ。景気後退に先立つブーム期における金融面での脆弱性に照らして今回の危機と似ている過去の事例と比べて判断すべきなのだ。そのことを世間に訴えるべきだったのだ。

適当な物差しと比べると、これまでに試みられたマクロ経済政策は成果を上げていると判断できる。経済学者たちは、そのことを世間にうまく説明できていないのだ。とは言え、世間の人たちは、なかなか耳を貸してくれないかもしれない。マクロ経済学やマクロ経済の歴史を学ぶ以外にやるべきことをたくさん抱えているからだ。 

しかしながら、これまでに試みられたマクロ経済政策が上々の成果を上げているのに気付くためには、ちょっとした良識を働かせるだけでいい。例えば、リーマン・ブラザーズが1ドルの赤字を計上していて、経営破綻に陥らないためには1ドルの黒字に転じるだけでいいとすると、ここぞというタイミングで2ドルの公費を投じれば、「大恐慌」級の不況を回避できてしまえる可能性があるのだ。わずか2ドルでいいのだ。堤防の裂け目を防ぐためには、指・・・ではなくて2ドルを突っ込むだけでいいのだ。

言うまでもないが、金融機関を救済するために実際に投じられた公費は2ドルでは済まなかった。その額は、最終的に数十億ドルに及ぶ可能性もある。しかしながら、金融機関を救済するために公費が投じられたおかげで、金融システムのメルトダウンが避けられたことは確かだ。金融システムがメルトダウンして「大恐慌」級の不況に見舞われていたとしたら、数兆ドルものGDPが失われていた可能性がある。数十億ドルの公費を投じるおかげで数兆ドルものGDPが失われずに済むとすれば、不良資産救済プログラム(TARP)の費用対効果は1対1000ということになる。費用対効果が1対1000というのだから、「堤防の裂け目に突っ込まれた指」という喩えを持ち出しても誇張じゃないだろう。

ブッシュ政権ならびにオバマ政権によって試みられた財政刺激策(2008年景気刺激法と2009年アメリカ復興・再投資法)は、費用対効果の面で見劣りするが、効果があったのは確かだ。政府支出の乗数効果は2くらいと推計されているが、直感的にも納得がいく。流動性の罠に嵌っているようなら、均衡予算乗数の値は理論的に1くらいで、実証的にもそのくらいと推計されている。租税乗数の値も同じく1くらいと推計されている。政府支出乗数は、均衡予算乗数と租税乗数の和なので、足して2だ。財政刺激策もだいぶ大きな効果を生んだのは確かなのだ。


結論

まとめるとしよう。危機の予測という点に関しては、経済学者はダメダメだった。その一方で、危機が起きてからこれまでに試みられた一連の経済政策は、「経済を専門とする名医」の処方箋に近いものだったと言える。いずれの政策もブッシュ政権およびオバマ政権の両政権によって党派の枠を超えて繰り出され、議会も支持したのだった。

良い経済学も良識もこれまでのところはちゃんと機能している。あれこれと試してみて、成果も上がっている。このことは将来への教訓として胸に刻んでおかねばならないだろう。


<参考文献>

●Blinder, Alan S (2013), After The Music Stopped, Penguin.
●IMF (2013), “Rethinking Macro Policy II: First Steps and Early Lessons”, conference, 16-17 April.
●Jorda, Oscar, Moritz Schularick and Alan Taylor (2011), “When credit bites back: Leverage, Business Cycles and Crises”, NBER Working Paper Series 17621, NBER.

Martin Ravallion 「『貧困への目覚め』 ~過去3世紀の間に『貧困』に対する注目はどのような変遷を辿ってきたか?~」(2011年2月14日)

Martin Ravallion, “Poverty Enlightenment: Awareness of poverty over three centuries”(VOX, February 14, 2011)

世間の人々が「貧困」に注目し出してからどれくらいの期間が経っているのだろうか? 1700年以降に出版された書籍の中で「貧困」という単語がどれだけの頻度で使用されているかを調査した結果、次のような事実が明らかになった。1740年から1790年までの間に「貧困」という単語への言及頻度が急増したものの――一度目の『貧困への目覚め』の時代の到来――、19世紀から20世紀の半ばにかけて貧困への注目は徐々に薄らいでいった。しかし、1960年頃を境として、二度目の『貧困への目覚め』の時代が到来するに至っており、「貧困」への注目は今現在も高まり続けている最中である。

 

貧困に対する世間の注目は、これまでにないほど高まっていると言えるかもしれない。例えば、以下の図1をご覧いただきたい。この図はGoogle Books Ngram Viewerの助けを借りて作成されたものだが、1700年から2000年までの間に出版された書籍の中で「貧困」(“poverty”)という単語がどれだけの頻度で使用されているかを調べた結果を表わしている〔原注1〕――縦軸に示されているのが頻度の移動平均(その年に出版されたすべての書籍に含まれる総単語数で標準化したもの)――。この図によると、1740年から1790年までの間に「貧困」という単語への言及頻度が7倍に増えていることがわかる。この時期は、啓蒙主義の時代が終わりを迎えようとしている頃――フランスとアメリカで革命(フランス革命とアメリカ独立戦争)が発生した時期――にあたるわけだが、貧困に対する注目が急速な勢いで高まった「貧困への目覚め」(“Poverty Enlightenment”)の時代としても特徴付けることができるわけだ。その後の19世紀から20世紀の半ばにかけて貧困に対する注目は衰えを見せるが、1960年頃を境として二度目の「貧困への目覚め」の時代(second Poverty Enlightenment)に突入することになる。1960年頃を境として、突如として貧困への注目が再燃し、「貧困」という単語への言及頻度が(データが利用できる最新の年である)2000年の時点でこれまでのピークに達しているのだ。


図1. 「貧困」という単語への言及頻度 (1700年から2000年までの間に出版された英語圏の書籍が対象)


2度にわたる「貧困への目覚め」の時代の背後では、どのような事態が進行していた(いる)のだろうか? つい最近の論文(Ravallion 2011)で、驚くべき速さで単語をカウントする能力を備えたGoogle Books Ngram Viewerの助力を得つつ、過去のテキストの読解――私自身の能力の制約もあって、だいぶ時間を要したが――を通じて、私なりにこの問いへの答えを探ってみた。その結果の一部を以下で報告することにしよう。


一度目の「貧困への目覚め」

分配的正義(distributive justice)というアイデアの歴史がものの見事に跡付けられているサミュエル・フライシャッカー(Samuel Fleischacker)の著作(Fleischacker 2004)によると、前近代の時代においては「貧困層は、ひどい欠点を抱えた無価値な存在と見なされていた」(pp. 7)。例えば、ロバート・モス(Robert Moss)は、18世紀初頭にこう述べている。貧乏人は「自らが置かれている状況に満足すべきである。というのは、貧乏人がかくのごとくであるのは、神の望むところだからだ」。また、フランスの医師でありモラリストでもあったフィリップ・エッケ(Philippe Hecquet)は、1740年に次のように書いている。「貧乏人は、絵の中の影のようなものである。なくてはならないコントラストの役割を果たしているのだ」。貧困が発生するのはどうしてなのかという問いに対する答えとしては、「神の意志」が持ち出されるか、一人ひとりが抱える私的な問題――怠惰をはじめとした性格面での欠点――に目が向けられがちだった。飢え(空腹)は好ましいことだという意見さえあった。空腹だからこそ(空腹を満たしたいと思うからこそ)、貧乏人は働く気になるというのだ。

18世紀後半に入ると、特にフランスにおいて、従来の社会的な階級構造を疑問視する声が次第に上がり始めるようになる。ピエール・ド・ボーマルシェ(Pierre Baumarchais)が1784年に書いた戯曲『フィガロの結婚』がそのいい例だが、パリの聴衆たちは、召使のフィガロの側について貴族を嘲笑したのだった。フランスで芽生え始めた平等主義の精神は、やがてイギリス海峡を渡ることになるが、頑(かたく)なな抵抗に遭うケースもしばしばだった。例えば、イギリスにおける近代警察の生みの親であるパトリック・カフーン(Patrick Colquhoun)は、1806年にこう書いている。貧困は「社会を成り立たせる上で、最も必要で欠かせない要素である。貧困と無縁な国家や共同体は、文明の地位に辿り着くことはできない」。

貧困というのは、自然的秩序の表れ(自然法則の帰結)ではなく、政治・経済的な現象であるとの認識が広まるにつれて、一度目の「貧困への目覚め」の時代が到来して、貧困層自身も貧困からの脱出を意識し始めるようになる。しかしながら、書籍の上では依然として「貧困は、多かれ少なかれ避けることのできない(受け入れざるを得ない)この世の現実である」との見方が支配的であり、それは18世紀~19世紀の経済学の世界でも同様だった。当時の経済学者の中には、貧困は経済が発展する上で必須の条件と見なす者もいた。そのような経済学者も、実質賃金が上昇すれば貧困の削減につながることは否定しなかったものの、実質賃金が上昇すると富の蓄積が妨げられることになるかもしれないと懸念したのだった。実質賃金が高まれば、労働の供給が減るばかりか、輸出面での競争で不利な立場に立たされ、さらには労働者が贅沢品に夢中になって(仕事に身が入らずに)労働の質が低下するかもしれないというのである――輸出面での競争で不利な立場に立たされると、富の蓄積が妨げられることになるとの発想の背後には、重商主義的な世界観が控えていた――。また、トマス・マルサスが、生態学的な危機の到来を予測し、人口の増加は貧困と飢饉(食糧不足)によってしか食い止められないと語ったことも有名である。社会進歩の可能性についてマルサスよりもずっと楽観的だったアダム・スミスも、経済発展(経済成長)の果実が社会各層に公平に行き渡る可能性についてはそれほど大きな望みを抱いていなかった。スミスは、こう語っている(Smith 1776, pp.232)。「大いに繁栄している地域においてはどこであれ、格差もまた大きいものだ。1人の大金持ちに対して貧乏人が少なくとも500人はいるのが通例であり、少数の豊かさには多数の貧しさが伴っているのだ」。


二度目の「貧困への目覚め」

現代的な意味での「分配的正義」の発想――「社会に生きるすべての人に最低限度の生活水準が保障されるべきである」との発想――が(粗いかたちではあれ)その姿を表わしたのは、18世紀後半の西欧世界においてだったが、その後の170年間を通じて世間から徐々に忘れ去られることになる。とは言え、学術的な文献に目を向けると、その微(かす)かな命脈を確認することができる。19世紀から20世紀への転換期において、経済学者のアルフレッド・マーシャルは、『経済学原理』(1890)の巻頭(pp.2)で次のように問い掛けている。「貧困はこの世にとって必要なものだとする発想は、過去の遺物ではなかったのか?」

世間の注目が再び貧困に向けられて、現代的な意味での「分配的正義」の発想に広い支持が寄せられるまでには、1960年代に入って二度目の「貧困への目覚め」の時代が到来するのを待たねばならなかった。その中心的な舞台となったのは、アメリカである。物質的な豊かさを享受していた20世紀中頃のアメリカで――公民権運動の盛り上がりに次ぐかたちで――、貧困が「再発見」されたのである。その後押しをする上で大きな役割を果たしたのが、当時の論壇を賑わせた J・K・ガルブレイス(John Kenneth Galbraith)の『ゆたかな社会』(1958)や、マイケル・ハリントン(Michael Harrington)の『もう一つのアメリカ』(1962)――どちらも当時ベストセラーになった――といった一連の著作だった。政府もこのような世間の風潮に反応し、「貧困との戦い」(War on Poverty)を旗印にしたリンドン・ジョンソン政権下で、貧困家庭に対する支援をはじめとした数々の社会プログラムが導入されることになったのである。

ガルブレイスやハリントンらの著作が大きな影響を持ち得た理由の一つは、著作が発表されたタイミングが時宜(じぎ)を得ていたからというのもあるだろう。1950年代~1960年代のアメリカでは、国民の大多数が豊かな生活を手に入れることになったが、それゆえにこそ、貧困という問題を見過ごして平然としていることがますます難しくなっていったのである。それに加えて、当時は楽観的な雰囲気が充満しており、貧困の削減に向けた政策の効果についても同様に楽観的に捉えられていた。しかしながら、1980年代に入ると、右派の側から反撃の狼煙(のろし)が上げられ――チャールズ・マレー(Charles Murray)の『Losing Ground』(1984)がその代表――、1990年代における一連の福祉改革(社会保障制度の改革)へとつながることになる。「貧困との戦い」(“War on Poverty”)が宣言されたと思いきや、その30年後に「福祉との戦い(福祉政策の縮小に向けた戦い)」(“War on Welfare”)が宣言されるに至ったわけだ。貧困の問題についてはその原因や適切な政策対応を巡って現在でも世界中で議論が続いているが、その多く――例えば、貧しさの原因のうちのどのくらいがその人(貧困層)自身にあると言えるのかといった問題を巡る論争――は、200年前(一番目の「貧困への目覚め」の時代)の論争の焼き直しという面を強く持っている。

20世紀後半に入って貧困に対する世間の注目が再び高まっている理由は、他にもある。そのうちの一つは、発展途上国の広い範囲で厳しい貧困が蔓延(はびこ)っている事実が徐々に世界中の人々の目に留まり始めたことである。そのような気運が醸成されたのは1970年代に入ってからのことだが、開発政策の専門家に強い影響を及ぼしたのが、世界銀行が1990年に刊行した『世界開発報告』(World Development Report)である。それ以降、世界銀行は「貧困のない世界」(“world free of poverty”)の実現を最重要目標に掲げ、専門家の間で貧困問題に関する実証研究が活発に行われるようになったのである。


貧困と政策:貧困の削減に向けて

過去3世紀の間に、貧困に対する世間の見方は大きなシフトを見せた。貧困の現実を現状肯定的に受け入れたり、貧困層を軽蔑しさえする態度が支配的な時代もあったが、今現在はそうではない。社会や経済ないしは政府の成績(善し悪し)は、貧困の削減にどのくらい成功しているかによって少なくとも部分的には評価すべきだというのが現在の支配的な見方である。このようなシフトが生じた理由としては、いくつか考えられるだろう。世界経済が全般的に豊かになったことで、貧困という問題を見過ごして平然としていることがますます難しくなったという事情もあるだろうし、民主主義の広がりによって貧困層の声が政治に反映されやすくなったという事情もあるだろう。貧困に関する研究の進展に伴って、効果的な政策対応を可能とする知識の蓄積が進んだということもあろう。

過去3世紀の間には、(貧困の削減に向けた政府介入の有効性をはじめとして)市場と政府の役割に対する態度の面でも大きなシフトが生じた。第二次世界大戦後の「政府介入の黄金時代」(Tanzi&Schuknecht 2000)においては、(貧困の削減に向けた政策も含めて)幅広い範囲で政府による市場への介入が試みられたが、1970年代の後半以降になると、経済問題の解決に向けた政府の介入には限界があることを明らかにした政治経済学方面の研究や積極的で精力的な政治運動に支えられるようにして、それまでの流れに反発して政府の役割の縮小を求める動きが勢いを増し始めることになった。

論争の行方や制度改革の方向性は右へ左へと揺れ動いているが、Google Books Ngram Viewerを用いた文献の解析によると、「政府介入の黄金時代」の終焉にもかかわらず、貧困に対する世間の関心はそれほど薄らいではいないようである。それどころか、「貧困」や「格差」(inequality)といった単語への言及頻度は、20世紀後半を通じてはっきりとした増加傾向を辿っている。1980年代以降に入って、「社会政策」(social policies)や「社会保障(社会的保護)」(social protection)、「市民社会団体」(civil society organisations)といった単語への言及頻度が急速に増えているのだ――その理由のいくらかは、貧困や格差に対する世間の関心の高まりに求められるに違いない――(Ravallion 2011)。

貧困に対する世間の注目がこれまでにないほど高まっている今現在だが、この気運をどうやって効果的な行動(取り組み)に結実させたらよいかとなると、それはまた別の問題である。二度目の「貧困への目覚め」の時代においては、意見の不一致があちこちで起こったし、貧国の削減に向けた取り組みも成功ばかりではなく失敗もあった。19世紀の大半を通じてと同様に、今現在においてもまた、政府の介入に懐疑的な見方が力を持ち始めている。しかしながら、励みになる事実もある。「貧困は、逃れようのない現実であり、受け入れざるを得ないのだ」という19世紀に支配的だった現状肯定的な態度が蘇るところまでは至っていないのだ。


〔原注1〕Google Books Ngram Viewerは、Michel et al.(2010)によって開発された。デジタル化されて保存されている書籍の総数は520万冊、単語の数は5000億ワードを超えている。Google Books Ngram Viewerの長短については、Ravallion(2011)を参照されたい。


<参考文献>

●Fleischacker, Samuel (2004), A Short History of Distributive Justice, Harvard University Press.
●Galbraith, John Kenneth (1958), The Affluent Society(邦訳 『ゆたかな社会 決定版』), Mariner Books.
●Harrington, Michael (1962), The Other America: Poverty in the US(邦訳 『もう一つのアメリカ-合衆国の貧困』), Macmillan.
●Michel, Jean-Baptiste, Yuan Kui Shen, Aviva P Aiden, Adrian Veres, Matthew K Gray, The Google Books Team, Joseph P Pickett, Dale Hoiberg, Dan Clancy, Peter Norvig, Jon Orwant, Steven Pinker, Martin A Nowak, and Erez Lieberman Aiden (2010), “Quantitative Analysis of Culture Using Millions of Digitized Books”, Science, 16 December.
●Marshall, Alfred (1890), Principles of Economics (8th edition, 1920)(邦訳 『経済学原理』), Macmillan.
●Murray, Charles A (1984), Losing Ground. American Social Policy 1950-1980, Basic Books.
●Ravallion, Martin (2011), “The Two Poverty Enlightenments: Historical Insights from Digitized Books Spanning Three Centuries”, Policy Research Working Paper 5549, World Bank.
●Smith, Adam (1776), An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations(邦訳 『国富論』), in Edwin Cannan (ed.), The Wealth of Nations, Chicago University Press.
●Tanzi, Vito and Ludger Schuknecht (2000), Public Spending in the 20th Century: A Global Perspective, Cambridge University Press.
●World Bank (1990), World Development Report: Poverty, Oxford University Press.

2016年1月3日日曜日

Guyonne Kalb&Jan van Ours 「家庭での本の読み聞かせにはどんな効果がある?」(2013年6月10日)

Guyonne Kalb&Jan van Ours, “Reading to children: a head-start in life”(VOX, June 10, 2013)


幼い頃に培われた認知的・非認知的なスキルは、大人になってからの境遇に大きな影響を及ぼす。親が幼い我が子に本を読み聞かせることにはどんな効果があるのだろうか? 計量経済学的な検証を通じて明らかになった発見に照らすと、世の親たちは幼い我が子に日常的に本を読み聞かせるべきである。親が家で本を読み聞かせると、幼い子供の非認知的なスキルはそれほど高まらないが、認知的なスキルは大いに高まるのだ。

幼い子供の認知的・非認知的なスキル〔訳注1〕を育むことは、経済学的な観点からしても重要である。幼い頃に培われた認知的・非認知的なスキルは、大人になってからの経済面での生産性に影響を及ぼすことが知られているからである(Heckman and Masterov 2007)。認知的なスキルは、社会的・経済的な面で成功できるかどうか――学業成績の高低、給料の高低、職場環境の良し悪し――を説明する上で重要な要因の一つであり、就学前教育(幼稚園や保育園での教育)や学校教育だけでなく家庭内での親の努力によっても影響される。例えば、全米青年長期調査(NLSY79)の追跡データを検証しているクンヤ&ヘックマンの2008年の論文(Cunha&Heckman 2008)によると、親が家庭内で投じる「投資」の量が子供の認知的なスキルを育む――ひいては、大人になってからの成功を左右する――上で重要な役割を果たしていることが見出されている。クンヤ&ヘックマンの論文では、家庭内での「投資」の量を測る指標として、家に児童書が何冊あるか、家に楽器があるかどうか、日刊紙(新聞)を購読しているかどうか、子供が習い事に通っているかどうか、家族で博物館や映画館に出掛ける習慣があるかどうかに目が向けられている。クンヤ&ヘックマンによると、親による家庭内での「投資」が子供の認知的なスキルに及ぼす効果が最も高いのは幼少期との結果が見出されている。これまでに試みられた大量の実証研究を概観しているクンヤその他(Cunha et al. 2006)によると、幼い頃に培われた認知的なスキルは、より高い訓練を受けられる可能性だったりより高い学歴を身に付けられる可能性だったりに影響を及ぼすだけでなく、訓練なり教育なりを受けることで得られる経済的な見返り(社会人になってからの稼ぎ)の大きさにも影響を及ぼすと結論付けられている。

親が我が子に日常的に本を読み聞かせれば、自分で読書する習慣が育まれて、そのおかげで子供の認知的なスキルが磨かれるかもしれない。教育分野におけるいくつかの先行研究によると、親が子供に本を読み聞かせることと、その子供がもう少し大きくなった時に身に付けているリーディングスキル(文字や文章を読む能力、読解力)、言語スキル、認知面の発達との間に正の相関があることが確認されている(例えば、Mol&Bus (2011) を参照)。しかしながら、その正の相関関係を因果関係と解釈できるかどうかとなると、そのことを検証した研究は乏しいと言わざるを得ない。


研究の背景

親が幼少期の我が子に本を読み聞かせたらその子供のリーディングスキルにどんな効果が及ぶかを全豪小児長期調査(LSAC)の追跡データを用いて検証しているのが、我々の最近の論文である(Kalb&Van Ours 2013)。4~5歳児の子供に本を読み聞かせた場合にリーディングスキルにどんな効果が及ぶかに加えて、その効果がどれだけ持続するかを調べるために、その子供がもう少し成長した時点(10歳~11歳時点)のリーディングスキルも追跡して調査している。実証結果の頑健性をチェックするために、一つではなく複数の指標を使ってリーディングスキルを測っている。



図1. 本を読み聞かせる頻度とリーディングスキル(4~5歳児)


生のデータを調べてみると、すぐに浮かび上がってくるパターンがある。親が幼児に本を読み聞かせる頻度と、その幼児のリーディングスキルとの間に明確な正の相関関係が見出せるのである(図1を参照)。つまりは、親に家庭で本を読んでもらう機会が多い幼児ほど、リーディングスキル(を測る指標の値)が高い傾向にあるのだ(青棒の色が薄いほど、リーディングスキルが高いことを示している)。さらには、親に家庭で本を読んでもらう頻度にかかわらず、女児の方が男児よりもリーディングスキルが若干高い。リーディングスキルを測るその他のすべての指標でも同様のパターンが見出されている。4~5歳の時点では、言語に関わるスキル全般で女児は男児よりも秀でているのだ。

別の例として図2をご覧いただきたい。全国統一学力テスト(NAPLAN)での8~9歳の女児のリーディングテスト(読解力テスト)の成績分布が表されているが、4~5歳の時に親に家庭で本を読んでもらった機会が多い女児ほど、8~9歳時のリーディングテストの点数が高い(曲線全体が右側に位置している)傾向にある。



図2. 全国統一学力テスト(読解力テスト)の成績分布(8~9歳の女児)


研究の手法

我々の論文では、4000人を超える子供のコホート調査――全豪小児長期調査(LSAC)――のデータに分析を加えている。第一回目の調査が行われた時点で4~5歳だった4000人超の子供を対象に、2年ごとに計4回(第二回目の調査は6~7歳時点、第三回目の調査は8~9歳時点、第四回目の調査は10~11歳時点)にわたって行われた追跡調査のデータに分析を加えているわけである。リーディングスキルについては、親や幼稚園(ないしは保育園)の先生による評価(4~5歳の時点)、小学校の先生による評価(6~7歳、8~9歳、10~11歳の時点)、全国統一学力テストの成績という複数の指標を使って測っている。言語スキルについては、ピーボディー大学式理解力検査(PPVT)の点数を使って計測している。認知的なスキル全般については、全豪小児長期調査(LSAC)で収集されている学力指数を使って計測している。非認知的なスキルについては、全豪小児長期調査(LSAC)で収集されている社交性や情動に関する指数を使って計測している。メインとなる変数は、親が我が子に本を読み聞かせるためにどれくらいの時間を費やしているかである。親が1週間のうちに我が子にどれくらい本を読み聞かせているかを3つのカテゴリー(「週に0~2回」/「週に3~5回」/「週に6~7回」)に分類して、計量経済学的な検証を行っている。親が本を読み聞かせるおかげで子供のリーディングスキルが高まると言えるかどうかを検証するために、操作変数法と呼ばれる手法を用いている。その子供が第一子かどうか、兄弟姉妹が何人いるかを操作変数として用いている。第一子かどうか、兄弟姉妹が何人いるかというのは、親が一人の子供に本を読み聞かせるために割ける時間(説明変数)には影響を及ぼすものの、子供のリーディングスキル(被説明変数)には直接的に影響を及ぼすことはないと考えられるからである。


実証結果

3つの主たる結果が見出されている。一つずつ見ていくとしよう。

  • 親が子供に本を読み聞かせる頻度と関わりのある要因は?

まずは男児について。子供の年齢が高いほど、家にあるテレビの台数が多いほど、平日に家でテレビを視る時間が長いほど、兄弟姉妹の数が多いほど、親が本を読み聞かせる頻度が少なくなる。それとは反対に、家にある児童書の冊数が多いほど、親の学歴が高いほど、育児を主に担当する親の年齢が高いほど(ただし50歳以下)、親が本を読み聞かせる頻度が多くなる。さらには、その男児が第一子のようなら、親が本を読み聞かせる頻度は多くなる。女児についても似たような傾向が確認されているが、育児を主に担当する親の年齢や兄弟姉妹の人数が本を読み聞かせてもらえる頻度に及ぼす効果は統計的に有意ではない。さらには、男児の場合とは違って、親の所得が本を読み聞かせてもらえる頻度と関わりがある〔訳注2〕ようであり、平日だけでなく週末についても家でテレビを視る時間が長いほど、本を読み聞かせてもらえる頻度が少なくなるようである。

  • 子供のリーディングスキルと関わりのある要因は?

まずは男児について。4歳から5歳に近づくほど、リーディングスキルが高い。家の中で英語以外の言語が使われている場合もリーディングスキルが高い傾向にある。それとは反対に、家にある児童書の冊数が多いほど(ただし、統計的な有意性は低い)、育児を主に担当する親の年齢が高いほど(ただし、40歳以下)、リーディングスキルは低い傾向にある。女児についても似たような傾向が確認されているが、男児の場合とは違って、家にあるテレビの台数が多いほど、リーディングスキルが高い(ただし、統計的な有意性は低い)ことが見出されている。しかしながら、平日にテレビを視る時間が長いほどリーディングスキルが低い傾向にあって、二つの傾向がちょうど打ち消し合うかたちになっている。さらには、育児を主に担当する親の学歴が高いほど、リーディングスキルが若干低くなる傾向にあることも見出されている(ただし、統計的な有意性は低い)。4~5歳の女児についてはそうなっているが、もう少し上の年齢になると、(育児を主に担当する親の学歴が高いほど、リーディングスキルやその他のスキルが高いという)正の相関が成り立つようになる。

  • 親が本を読み聞かせるおかげで子供のリーディングスキルが高まるか?

親が本を読み聞かせる頻度と子供(4~5歳児)のリーディングスキルとの間に強い正の相関が成り立っているだけでなく、両者の間に因果関係が成り立っている――親が本を読み聞かせるおかげで子供のリーディングスキルが高まる――ことも見出されている。さらには、親による本の読み聞かせが子供のリーディングスキルを高める効果は、生のデータを使って得られる(単純な回帰分析から得られる)効果――親に本を読み聞かせてもらえるのが「週に6~7回」の子供と「週に0~2回」の子供とでは、リーディングスキルに標準偏差0.26個分の違いがある――よりも大きいことが見出されている。操作変数法を用いた検証結果の一覧を掲げているのが図3である。一番上の「a. Baseline estimates」をご覧いただければわかるように、親に本を読み聞かせてもらえるのが「週に6~7回」の子供と「週に0~2回」の子供とでは、リーディングスキルに標準偏差0.5個分以上の違いがあるという結果が得られている。この効果の大きさがいかほどのものかを把握するために、子供の年齢が上がるにつれてリーディングスキルが高まる効果と比較してみると、4~5歳の男児については、親に本を読み聞かせてもらえるのが「週に0~2回」から「週に6~7回」に増えるおかげでリーディングスキルが高まる効果は、年齢を半年(6ヶ月)重ねるおかげでリーディングスキルが高まる効果よりも若干大きくて、4~5歳の女児についてはその効果の差がもっと大きいという結果になっている。

実証結果の頑健性をチェックするためにいくつかの感度分析も試みている(その結果の多くは図3に掲げてある)が、親による本の読み聞かせが子供のリーディングスキルを高める効果の統計的な有意性や効果の向きは揺るがないことが確認されている。例えば、別のコホートが対象の全豪小児長期調査(LSAC)のデータを用いたり、子供が4歳になる前の時点で本を読み聞かせた場合の効果を調べたり、子供が6歳以降になった時点でリーディングスキルやその他のスキルがどうなっているかに分析を加えたり、操作変数法とは別の手法――PSM法(Propensity Score Matching methods)――を使って検証を行っている。さらには、本の読み聞かせ以外の親子の触れ合いが子供のリーディングスキルにどういう効果を及ぼすかも検証している。その子供が第一子かどうか、兄弟姉妹が何人いるかというのを操作変数に用いるのが妥当かどうかも検証している。第一子かそうじゃないかという違いは、親が本を読み聞かせるために費やせる時間が違ってくるからではなく、生物学的な(ないしは遺伝的な)属性の違いゆえにリーディングスキルに効果を及ぼす可能性があり、兄弟姉妹の数が多いか少ないかというのは、親が一人ひとりに本を読み聞かせることができる時間が違ってくるからではなく、その家庭の社会経済的地位(SES)の違いを反映していてそれがためにリーディングスキルに効果を及ぼす可能性があるが、そういう別の可能性はいずれも棄却されている。

図3をご覧いただければわかるように、親による本の読み聞かせが子供のリーディングスキルを高める効果は、計算能力(numeracy)のようなその他の認知的なスキルを高める効果を上回っている。とはいえ、親による本の読み聞かせは認知的なスキル全般にかなり大きな効果を及ぼしている。例外は非認知的なスキルに及ぼす効果で、親が本を読み聞かせる頻度を測る変数に含まれているバイアスをコントロールすると、親による本の読み聞かせが非認知的なスキルに及ぼす効果は消滅する。



図3. 親が家で4~5歳児に本を読み聞かせる効果(「週に6~7回」読み聞かせる場合と「週に0~2回」読み聞かせる場合の効果の差)


政策への含意

複数の手法を使って検証を行っても、親による本の読み聞かせが子供のリーディングスキルを高める「効果」は消えない。その「効果」は、子供が年齢を重ねても持続するし、リーディングスキルと関わりの深いその他の認知的なスキルにも及ぶ。しかしながら、その「効果」は非認知的なスキルには及ばない。親による本の読み聞かせが子供の認知的なスキル全般に及ぼす効果が一貫していることに照らすと、裕福で学歴の高い親が子供に本を読み聞かせる機会が多いために、親が本を読み聞かせるおかげで子供のリーディングスキルが高まっているように見えるに過ぎないわけではないようだ。親による本の読み聞かせは、子供のリーディングスキルを確かに高めているようなのだ。

これらのことからどんな含意が引き出せるだろうか? 幼少期の子供に日常的に本を読み聞かせることの重要性が明らかになったわけだが、親による家庭での本の読み聞かせは、幼少期の学習結果に好ましい影響を及ぼす可能性のある早期介入 (early-life intervention)の一つと見なせるだろう。子供の発育を支える上で、親は重要な役割を果たせるのだ。親が家で本を読み聞かせたら、我が子のリーディングスキルをはじめとする認知的なスキルが高まって、その効果が少なくとも10~11歳まで持続する可能性があるのだ。我々が用いたデータでは答えられないが、政策当局者の関心を引くに違いない興味深い問いがある。保育園、幼稚園、小学校で先生が子供に本を読み聞かせても、家で親が本を読み聞かせる場合と同じような効果があるのだろうか?


〔訳注1〕「認知的なスキル」というのは、読み・書き・計算の能力をはじめとするIQテストや学力検査で測れる能力を指している。その一方で、「非認知的なスキル」としては、やる気、社交性、忍耐強さ、自制心、自尊心などが含まれる。

〔訳注2〕親の所得が高いほど、本を読み聞かせてもらえる頻度が多くなる、という意味。


<参考文献>


●Cunha, F, JJ Heckman, LJ Lochner and DV Masterov (2006), “Interpreting the evidence on life cycle skill formation”, in: Hanushek, EA and F Welch (eds.) Handbook of the Economics of Education, Amsterdam, Elsevier, 697–812.
●Cunha, F and JJ Heckman (2008), “Formulating, identifying and estimating the technology of cognitive and noncognitive skill formation”, Journal of Human Resources 43, 738–782.
●Heckman, JJ and DV Masterov (2007), “The productivity argument for investing in young children”, Review of Agricultural Economics 29(3), 446–493.
●Kalb, G and JC van Ours (2013), “Reading to children gives them a head-start in life”, CEPR Discussion Paper 9485, May.
●Mol, SE and AG Bus (2011), “To Read or Not to Read: A Meta-Analysis of Print Exposure From Infancy to Early Adulthood”, Psychological Bulletin, 137, 267–296.

2015年6月12日金曜日

Francesco D’Amuri&Juri Marcucci 「Googleトレンドの予測精度はいかほど? ~Googleトレンドの検索データを使って失業率の行方を予測する~」(2009年12月16日)

Francesco D’Amuri&Juri Marcucci, “The predictive power of Google data: New evidence on US unemployment”(VOX, December 16, 2009)

タイムリーな経済指標を求める世間の声に応えるために、Googleの助けを借りて時系列モデルの予測精度を高めようと試みられている。Googleトレンドの検索データ(「Googleインデックス」)を使えば、失業率の予測精度を大幅に高めることができるのだ。アメリカだけでなく、イタリアについても。

Googleトレンドを予測に役立てるのが一つのトレンド(流行)になっている。例えば、ネイチャー誌に掲載されたばかりのGinsberg et al. (2009) では、Googleでインフルエンザに関係の深いキーワードがどれくらい検索されたかという情報だけを使ってインフルエンザ様疾患の患者数を予測するシンプルなモデルが開発されている。Googleで特定のキーワードがどれくらい検索されたかを知ろうと思ったら、全検索数に占める割合についてのデータが週ごとにほぼリアルタイムで利用できるのである。

求職活動にインターネットを活用するのも当たり前になりつつある昨今だが(Stevenson 2008)、失業の予測にGoogleの検索データを役立てようとする試みも散見されるようになってきている。これまでの研究成果によると、職探しに関わりの深いキーワードの検索数が総検索数に占める割合を示す「Googleインデックス」は、ドイツやイスラエルにおける失業率(Askitas&Zimmermann 2009、Suhoy 2009)だけでなく、アメリカにおける失業保険の新規申請件数(Choi&Varian 2009)を高い精度で予測できることが明らかになっている。


Googleトレンドの検索データを使ってアメリカの失業率の行方を予測する

今般の経済危機がインターネットを使った求職活動に及ぼした影響を浮き彫りにしているのが以下の図1である。危機が発生する前と後とで「Googleインデックス」の値がアメリカ国内でどう変化したかが可視化されている。「Googleインデックス」を失業率を予測するための先行指標の一つとして用いると、予測の精度が大幅に高まることが我々がつい最近行ったばかりの二つの研究で明らかになっている。アメリカ(D’Amuri&Marcucci 2009)だけでなく、イタリア(D’Amuri 2009)についても。



図1 今般の危機が発生する前と後での「Googleインデックス」の変化〔原注1〕


1ヶ月先、2ヶ月先、3ヶ月先の失業率を予測する上で、「Googleインデックス」を説明変数に含んでいるモデルの方が、線形・非線形の定評のある300以上の時系列モデル〔訳注;自己回帰移動平均(ARMA)モデル〕よりも精度が高かったのである。

「Googleインデックス」は、アメリカ全土の失業率だけではなく、州ごとの失業率の予測でも力を発揮する。アメリカ国内の7割に上る州の失業率を予測する上で最も精度が高かったのは、「Googleインデックス」を説明変数に含んでいるモデルだったのである。さらには、以下の図2に示されているように、「Googleインデックス」を説明変数に含んでいるモデル〔緑色の線〕は、フィラデルフィア連銀が実施している専門家予測調査(SPF)〔青色あるいは赤色の線〕よりも高い精度で四半期の失業率を予測できるのである。予測誤差を測る尺度の一つである平均二乗誤差(Mean Squared Error)の値が1桁違いで小さいのだ。



図2 予測誤差 ~時系列モデル vs 専門家予測調査(SPF)~〔原注2〕


「Googleインデックス」の高い予測精度は、イタリアにおいても確認されている。イタリアでも、「Googleインデックス」を説明変数に含んでいる時系列モデルが失業率の行方を予測する上で最も精度が高かったのである。政策の立案にも重要な意味を持ち得る発見である。なぜなら、四半期ごとの失業率が公式に発表されるのは大体2ヶ月後というのがイタリアの現状だが、Googleの検索データはほぼリアルタイムで利用できるからである。アメリカでは失業率のデータがもう少し早く公表されるので、「Googleインデックス」を失業率の予測に役立てることによって得られる見返りはイタリアにおいてのほうが大きそうである。


結論

「Googleインデックス」を失業率の予測に役立てる上での主たる難点は、インターネットを介した求職活動は失業者によるものだけとは限らないところである。在職中の転職活動も含まれている可能性があるのだ。別の難点は、誰もがインターネットを使うわけではないので、インターネットを介して職探しをする求職者は無作為に抽出されたサンプルとは言えない可能性があるところである。しかしながら、この点は大した問題じゃないだろう。求職活動にインターネットを活用するのが当たり前になりつつあるからだ。それに加えて、インターネットを使って職探しをする失業者とインターネットを使わずに職探しをする失業者とでショックから受ける影響が異ならない限りは、サンプルに偏りが生じることはないだろうからだ。

失業問題に対する世間の関心が高まるにつれて、失業率をタイムリーかつ正確に予測する必要性も高まっている。Googleの検索データの助けを借りれば、その求めに応じることも可能なのだ。


〔原注1〕左の画像は、危機が発生する前の2007年5月~8月の「Googleインデックス」の値(職探しに関わりの深いキーワードの検索数が総検索数に占める割合)を表している。右の画像は、危機の最中にあたる2009年5月~8月の「Googleインデックス」の値を表している。青色が濃いほど、Googleインデックスの値が高い(インターネットを介した求職活動が盛んである)ことを示している。画像の出所は、Googleトレンド。詳細は、D’Amuri&Marcucci (2009) を参照のこと。

〔原注2〕専門家予測調査(SPF)と時系列モデルによる四半期の失業率の予測誤差を比較した図。対象期間は2007年2月~2009年6月。SPF_mean は、専門家予測調査における(およそ30人の専門家による)予測の平均値の予測誤差。SPF_median は、専門家予測調査における予測のメディアン(中央値)の予測誤差。○○_Comb は、○○を説明変数に含んでいる時系列モデルの予測誤差を表している。時系列モデルから得られる四半期の失業率の予測値は、当該四半期の最初の月の終わりの時点での1ヶ月先と2ヶ月先の予測値に、当該四半期の最初の月の実際の失業率を加えて平均をとったもの。G_Comb は、「Googleインデックス」を説明変数に含んでいる時系列モデルの中で最も予測精度が高いモデルの予測誤差。IC_Comb は、「Googleインデックス」を説明変数に含まずに失業保険の新規申請件数(Initial Claims;IC)を説明変数に含んでいる時系列モデル(サンプル期間長め)の中で最も予測精度が高いモデルの予測誤差。IC_Comb_s は、「Googleインデックス」を説明変数に含まずに失業保険の新規申請件数を説明変数に含んでいる時系列モデル(サンプル期間短め)の中で最も予測精度が高いモデルの予測誤差。SETAR、LSTAR、AAR は、ラグ数が2の非線形自己回帰モデルの予測誤差。詳細は、D’Amuri&Marcucci (2009) を参照のこと。


<参考文献>


●Askitas, Nikoa and Klaus F Zimmermann (2009), “Google Econometrics and Unemployment Forecasting(pdf)”, IZA Discussion Paper (4201).
●Choi, Hyonyoung and Hal Varian (2009), “Predicting Initial Claims for Unemployment Benefits(pdf)”, Google technical report.
●D’Amuri Francesco (2009), “Predicting unemployment in short samples with internet job search query data”, MPRA WP 18403.
●D’Amuri, Francesco and Juri Marcucci (2009), ““Google it!” Forecasting the US unemployment rate with a Google job search index”, ISER WP 2009-32.
●Ginsberg, Jeremy, Mathew H Mohebbi, Rajan S Patel, Lynnette Brammer, Mark S Smolinski and Larry Brilliant (2009), “Detecting Influenza epidemics using Search Engine Query Data”, Nature (457), pp.1012-1014.
●Stevenson, Betsy (2008), “The Internet and Job Search”, NBER Working Paper (13886).
●Suhoy, Tanya (2009), “Query Indices and a 2008 Downturn(pdf)”, Bank of Israel Discussion Paper (06).

2015年2月5日木曜日

Jonathan Portes 「『ケインジアン』ってどういう意味?」(2012年2月7日)

Jonathan Portes, “Fiscal policy: What does ‘Keynesian’ mean?”(VOX, February 7, 2012)

「ケインジアン」ってどういう意味なのだろうか? 経済学のその他の用語と同様に、「ケインジアン」という用語も政争の具にされてしまっている。そのせいで政策論争がいたずらに紛糾していて、何百万もの雇用が失われる羽目になってしまっているのだ。

少しばかり私の個人的な経歴に触れさせてもらうとしよう。1987年にイギリスの大蔵省で職を得た後、経済学を学ぶために一時的にプリンストン大学の門を叩いた。そこではロゴフ(Kenneth Rogoff)やキャンベル(John Campbell)から教えを受けたが、その後は再びイギリスに戻った。2008年に金融危機が勃発した時には、内閣府で首相に経済政策についてアドバイスを送る任務に就いていた。これまでを振り返ると、自分のことを「ケインジアン」と考えたことが一度もなかったことに気付く。ケインジアンかどうかを問うことに、そもそも意味がなかったのだ。物理学者に対してニュートン主義者かどうかを問うようなものだったのだ。ケインズは偉大な存在であり(20世紀のイギリスを代表する最も偉大な経済学者の一人であることは間違いない)、彼の洞察を理解せずしてマクロ経済学を理解することはできなかったのである。しかしながら、常にそうだったわけではない。

2008年に金融危機が勃発するまでのイギリス大蔵省では、財政政策の重要性は否定されてはいなかったものの、総需要を管理するために財政政策を微調整するのは――実行面でのいくつかの困難もあって――賢明ではないという意見が大勢だった。金融政策の方が小回りが利くし、透明性も高いし、政治的な圧力によって歪みが生じるおそれが小さいと考えられていた。このような見解に対して理論的な後ろ盾を与えたのが、ナイジェル・ローソン(Nigel Lawson)が1984年に行ったかの有名なメイズ講演である。当の私もこの見解を全面的に支持していた。

しかしながら、2008年に金融危機が勃発して以降は、事情が少々複雑になっている。そこで、問わなくてはいけない。「ケインジアン」ってどういう意味なのだろうか? いくつかの定義を考えることができそうだ。


定義<その1>

時計の針を1930年代まで戻すと、ケインズは、いわゆる「大蔵省見解」(“Treasury View”)に決然と異を唱えた――「大蔵省見解」は、「供給はそれ自らの需要を生み出す」と説く「セイの法則」と同一視されることがあるが、それは些(いささ)か不正確だ。「大蔵省見解」をめぐる過去の論争の概要については、Quiggin(2011)を参照されたい――。 「大蔵省見解」によると、財政政策は、「会計上の恒等式」の制約ゆえに、総需要に影響を及ぼせないとされる。政府が支出を増やすためには、税金を徴収するか国債を発行するかして市中に出回っているお金を調達しなければならず、政府が支出に回せるお金が増えると民間部門でそれと同額だけ支出に回せるお金が減るというのである。さて、「ケインジアン」の定義<その1>のお出ましである。「財政政策は『会計上の恒等式』の制約ゆえに総需要に影響を及ぼせない」という言い分を受け入れないのが「ケインジアン」というわけである。シカゴ大学のジョン・コクラン(John Cochrane)が以下のように書いているが、この「ケインジアン」の定義が念頭にあるようだ(Cochrane 2009)。

まず第一に、お金が新たに発行されないようなら、市中に出回っているお金をどこかから調達してこなければならない。政府があなたから1ドルを借り入れたとすれば、その1ドルは消費に回されることもなければ、設備投資を行うための資金として企業に貸し出されることもない。つまりは、政府支出が増えるのと同じ額だけ民間部門で支出が減らねばならないのだ。政府支出が増えたおかげで新たに雇用が生まれたとしても、民間部門で支出が減るせいで別のところで雇用が失われることになるのだ。公共事業で道路を建設しても、民間部門で工場の建設が取り止めになる。財政刺激策によって道路も工場もどちらも建設することはできないのだ。このようにして「クラウディング・アウト」が発生するのは、会計上の必然的な帰結なのであり、経済主体の行動についてどんな想定を置いても結論は変わらないのだ。

読者もよくご存知だろうが、コクランのこの主張をきっかけにクルーグマン(Paul Krugman)やデロング(Brad Delong)を中心にしてネット上で激しい論争が巻き起こった。例えば、サイモン・レン=ルイス(Simon Wren-Lewis)は、「学部レベルの間違いを犯している」とコクランに対して手厳しい批判を加えている(Wren-Lewis 2012a)。デロングらが指摘しているように、しばらくしてコクランは当初の意見をいくらか引っ込めたようである(Cochrane 2012, Delong 2012)。アメリカでの学者間での論争はともかくとして、定義<その1>を「ケインジアン」の定義として採用するなら、私は紛れもなく「ケインジアン」である。しかしながら、この定義を採用するなら、誰もが皆「ケインジアン」ということになるだろう。現在のイギリス大蔵省も含めてだ。財政政策が「会計上の恒等式」の制約ゆえに総需要に影響を及ぼせないと本気で信じている人は、誰一人として――誇張でも何でもなく本当に誰一人として――いないのだ。


定義<その2>

もう少しもっともらしくて標準的な定義としては、財政政策が(理論的な可能性にとどまらずに)「実証的にも」(現実問題として)総需要にかなり大きな影響を及ぼすと信じているのが「ケインジアン」ということになろう(定義<その2>)。それとは対照的なのが、「リカードの等価定理」(“Ricardian equivalence”)を信奉する立場の人々である。「リカードの等価定理」によると、政府支出なり政府の借り入れなりが変化しても民間部門においてその変化を打ち消すような行動が引き起こされるので、総需要はほとんどないしは全く(まったく)影響を受けないとされる。最近になって唱えられ出した「拡張的な財政緊縮」(“expansionary fiscal contraction”)と呼ばれる考えはさらに踏み込んでいて、(財政再建を見据えた)財政緊縮策は総需要を刺激したり経済成長を加速させたりする可能性があるという。そうなるのは、為替レートが減価したり、民間部門における信頼感が改善したりするおかげだという。この説を流布するのに特に貢献したのが2009年に発表されたアレシナ&アルダーニャ論文(Alesina and Ardagna 2009)であり、その影響は(些細で一時的なものに過ぎないが)イギリス大蔵省にも及んでいる。例えば、2010年の緊急予算の中に次のような記述が見られる(HM Treasury 2010)。

財政再建を見据えた財政緊縮策は、総需要を刺激して、経済パフォーマンスの改善に寄与する可能性がある。ポジティブな効果がネガティブな効果を上回る可能性が大いにあるのだ。

私が知る限りでは、イギリス大蔵省がこのような見解を表明したのはこれ一度きりのようだ。それも頷(うなず)けるところである。というのも、これまでの実証研究によると、「拡張的な財政緊縮」説が説くのとは正反対の結果が得られているからだ。アレシナ&アルダーニャ論文に対しては多くの学者から疑問が呈されていて、IMF(国際通貨基金)の研究も異を唱えている。さらには何より重要なことに、「拡張的な財政緊縮」説を支持するような実証的な証拠がほとんど見当たらないのである。IMFがこの件についての通説を代表する立場だと言えるが、IMFは2010年10月の時点で次のように結論付けている。

財政再建は、短期的に経済成長を減速させる傾向にある。新たなデータを用いて検証したところ、対GDP比で1%に相当する規模の財政緊縮(財政赤字の縮小)が試みられると、それ以降の2年間に産出量(実質GDP)がおよそ0.5%落ち込み、失業率が3分の1パーセントポイント上昇する傾向にあることが見出された。

その後のIMFは、この結論をさらに強調するようになっている。例えば、つい先月のことだが、IMFのチーフエコノミストであるオリビエ・ブランシャール(Olivier Blanchard)は、次のように語っている。

「財政再建が総需要の足かせになるのは明らかだ。ということは、経済成長の足かせにもなるということだ。」(Blanchard 2012

定義<その2>を採用するにしても、私はやはり「ケインジアン」である。しかしながら、この定義によるなら、IMFの専務理事やチーフエコノミストも同じく「ケインジアン」である。イギリス大蔵省もだし、イングランド銀行もだし、イギリス予算責任局もだ。これらの機関のどのマクロ計量モデルにも財政乗数が組み込まれているし、これらの機関で働く上級職員の中で財政再建がイギリス経済の成長を鈍化させたことを公の文書で否定する者がいるとは思えない。例えば、2011年11月に開催されたイングランド銀行の金融政策決定会合の議事要旨(pdf)に目をやると、次のように述べられている。

GDPの伸びは一年を通じて弱々しかったが、その理由は、家計の実質所得が落ち込んでいること、資金の借り入れが困難な状況が続いていること、財政再建が長引いていることに求められるものと思われる。

定義<その3>

定義<その1>と定義<その2>のどちらを採用するにしても、私は間違いなく「ケインジアン」である。しかしながら、真面目に取り合うべき人たちのほぼすべても「ケインジアン」ということになるだろう。目下の政策論争の場において「ケインジアン」とそれ以外を区別するために用いられている定義は、これまでの2つに比べると「政治的」な色合いがずっと濃いようだ。「イギリス経済(あるいアメリカ経済)が置かれている現状を踏まえると、財政再建のペースを遅らせることが好ましい」と考えるのが「ケインジアン」だというのである(定義<その3>)。しかしながら、この定義は二つの理由で問題を抱えていると思う。まず第一に、「ケインジアン」という用語に何らかの意味を持たせるのであれば、特定の時期に特定の国で議論の対象になっている特定の政策についての立場を指し示すのではなく、もっと普遍的な意味を持たせるべきだろう。独自の哲学なり理論的な世界観なり――少なくとも、実証的な証拠を解釈する枠組みを提供する視座――を指し示す用語であるべきなのだ。

二つ目の理由はもっと重要である。「拡張的な財政緊縮」説の妥当性に疑問符が付いている今となっては、「財政再建のペースを遅らせるべきだ」と唱える陣営にしても、それに反対する陣営(「財政再建のペースを遅らせるのは、大きな危険を伴う過ちだ」と唱える陣営)にしても、財政再建のペースを遅らせたからといって景気に冷水が浴びせられるとは考えていない。財政再建のペースを遅らせると、政府に対するマーケットの「信頼」が損なわれて長期金利が跳ね上がるかどうかというのが争点になっているのだ。長期金利が急騰するリスクを避けるために、景気に冷水を浴びせてまで急いで財政再建に取り組むべきかどうかが争点になっているのだ。

長期金利が跳ね上がるリスクはかなり誇張されていると思うし、財政再建のペースを遅らせたとしたら社会なり経済なりにどんな損害が及ぶのかについて綿密に検討されているようにも思えないが(この点について詳しくは、Portes(2011a)およびPortes(2011b)を参照されたい)、どちらの陣営が正しいのかというのは今はどうでもいいのだ。両陣営の争いは、「ケインジアン」かどうかという区別とは全く(まったく)関係がないのだ。両陣営の争いには数々の問題が絡んでいるが――マーケットが合理性を欠いた振る舞いをしたらどう対処したらいいか、格付け機関の役割についてどう考えたらいいか、複数均衡の問題にどう対処したらいいか等々――、それらの問題について何らかの立場をとったからといって、「ケインジアン」に区別されるわけでもなければ、「反ケインジアン」に区別されるわけでもないのだ。

最後になるが、イギリス大蔵省に勤めていた時に身をもって学んだこととの絡みで指摘しておきたいことがある。私が勤めていた時もそうだったのだが、総需要が極めて低調であるようなら財政政策ではなく金融政策で対応すべきというのが、今でも大蔵省で広く支持されている見解である。この件については、ネット上でも盛んに議論になっている(とっかかりとしては、Economist(2012)をご覧になるといいだろう)。財政政策の役割についての私なりの態度は変わった。過去20年間にわたって大蔵省を支配していた見解――総需要を管理する上で財政政策に出る幕はないという見解――には、最早与(くみ)していないのだ。とは言え、財政政策に真っ先にご登場願うべきとは考えていないけれど――この点については、サイモン・レン=ルイスが優れた議論を展開しているので(特に最後から2番目のパラグラフ)、あわせて参照されたい(Wren-Lewis 2012b)――。

金融政策の方が総需要を管理するのに適しているという見解も理論的な裏付けがあったわけではなく、一種のプラグマティズム(pragmatism)にその根拠を持っていたが、私が態度を変えたのもそれと同じ事情ゆえである。総需要を刺激するのに金融政策だけで十分なのだとしたら、イギリス経済は今のような状況に陥っていないだろう。失業率が自然失業率の推計値を大きく上回っていて、近いうちに雇用情勢が改善される見込みが薄い今のような状況に陥っていないだろう。別の機会にも触れたが(Portes 2012)、今のような状況をもたらしている総需要管理策に合格点をあげることなど到底できないのだ。

私が態度を変えたのは、イデオロギー上の理由からではない。現実の世界(およびマクロ経済)が思っていた以上にずっと複雑であることを認識した結果なのだ。ブランシャールも同じ仲間のようだ。ブランシャール曰く(Blanchard 2011)、

金融危機後の世界は、まったく新しい世界である。政策決定者の目の前には、これまでとは大違いの光景が広がっている。この現実をまずは受け入れねばならない。・・・(中略)・・・マクロ経済政策(とりわけ財政政策と金融政策)が追い求めるべき目標の数は、一つではない。複数あるのだ。使える手段も一つではない。複数あるのだ。

プラグマティックであること。何事も疑ってかかること。現実の証拠という裏付けを求めること。マクロ経済政策のあるべき姿を探る時に心に留めておきたい戒め(いましめ)である。ケインズが今も生きていたら、同意してくれるだろう。


<参考文献>

●Alesina, Alberto F and Silvia Ardagna (2009), “Large Changes in Fiscal Policy: Taxes Versus Spending”, NBER Working Paper No. 15438, October.
●Blanchard, O (2011), “The future of macroeconomic policy”, blogpost, March.
●Blanchard, O (2012), “Driving the Global Economy with the brakes on”, blogpost, January.
●Cochrane, J (2009), “Fiscal Stimulus, Fiscal Inflation, or Fiscal Fallacies?”, University of Chicago webpage, version 2.5, 27 February.
●Cochrane, J (2012), “Stimulus and etiquette”, blogpost, January.
●Delong, B (2012), “John Cochrane says John Cochrane used to be a bullshit artist”, blogpost, January.
●Economist (2012), “The zero lower bound in our minds”, 7 January.
●Guajardo, J, D Leigh, and A Pescatori (2011), “Expansionary Austerity: New International Evidence”, IMF Working Paper 11/158, Research Department, International Monetary Fund.
●HM Treasury (2010), “Emergency Budget”.
●Lawson, N (1984), Mais Lecture.
●Leigh, D, P Devries, C Freedman, J Guajardo, D Laxton, and A Pescatori (2010), “Will it hurt? Macroeconomic effects of fiscal consolidation(pdf)”, World Economic Outlook, October, International Monetary Fund.
●Monetary Policy Committee (2011), Minutes(pdf), Bank of England.
●Portes, J (2011a) “The Coalition’s Confidence Trick”, New Statesman, August.
●Portes, J (2011b), “Against Austerity”, Spectator, October.
●Portes, J (2012), “The largest and longest unemployment gap since World War 2”, blogpost, January.
●Quiggin, J (2011), “Blogging the Zombies: Expansionary Austerity – Birth”, blogpost, November.
●Wren-Lewis, S (2012a), “Mistakes and ideology in macroeconomics”, blogpost, 10 January.
●Wren-Lewis, S (2012b), “The return of Schools-of-thought macro”, blogpost, 27 January.

2015年2月4日水曜日

Alan S. Blinder&Jeremy Rudd 「オイルショックの経済学」(2009年1月13日)

Alan S. Blinder&Jeremy Rudd, “Oil shocks redux: Why the recent oil shock wasn’t very shocking”(VOX, January 13, 2009)

2002年から2008年にかけて原油価格が高騰したにもかかわらず、1970年代のように惨憺たる結果が招かれることはなかった。それはなぜなのだろうか? その理由はいくつか考えられる。i)先進国で省エネ化が進んだため ii)実質賃金の伸縮性が高まったため iii)経済全体に占める自動車産業のシェアが縮小したため iv)金融政策がコアCPIに重きを置いて運営されるようになったため v)原油価格が高騰した原因が、供給サイドにではなく、需要サイドにあったため。

アメリカ経済は、2002年の終わりから2008年の半ばにかけて、大規模なオイルショックに見舞われることになった。原油のドル建て価格が5倍も上昇し、一時的に1バレル=145ドルにまで達したのである。物価変動の影響を取り除いた実質価格で見ても、この間の原油価格の高騰には仰天させられる。ピーク時の原油価格の実質価格は、1979年~80年のいわゆる第二次オイルショック時に記録されたそれまでの最高値を50%も上回ることになったのである(原油価格は2008年7月にピークをつけた後に急落し、その後は1バレル=30~50ドルのあたりをうろついている)。

かつての2度にわたる(OPECが主導した)オイルショック時と比べても遜色ないほどに原油価格が高騰したわけだが、マクロ経済に及ぼした影響となると、かなり大きな違いが見られるようだ。1970年代から1980年代前半には「スタグフレーション」が発生し、高い失業率と高率のインフレが共存する状況が長く続いたわけだが、教科書的な説明ではその原因は「サプライショック」(原油価格および食料価格の急騰)にあるとされている。その一方で、この間の原油価格の高騰に伴って、2001年以降から続く景気の拡大に横槍が入った様子はほとんど見受けられない(アメリカ経済は、2007年の終わり頃から景気後退入りすることになったが、その主たる原因は、サブプライム危機に端を発する金融危機にあるというのが大方の見方だ)。コアCPI(食料やエネルギーの価格を除いた消費者物価指数)にしても、かつての2度にわたるオイルショック時とは違って、比較的安定した動きを見せている。

「どうしてこうも違うんだろう?」という疑問が自然と湧いてくるが、その答えの候補の一つとして名乗りを上げているのが、1970年代のスタグフレーションの原因をめぐる「修正主義的な」解釈である。「修正主義的な」解釈――代表的な提唱者としては、デロング(DeLong 1997)、バースキー&キリアン(Barsky and Kilian 2002)、チェケッティその他(Cecchetti et al. 2007)を挙げることができる――によると、1973年から1983年にかけてマクロ経済のパフォーマンスが惨憺たる結果に終わったそもそもの原因は、オイルショック(をはじめとしたサプライショック)にではなく、稚拙な金融政策にあるとされる。例えばデロングによると、当時のFedは、1930年代の大恐慌の悪夢に囚われており、インフレを抑えるために金融引き締めに乗り出すべきところでも二の足を踏む傾向にあったという。それに加えて、当時のFedは、フィリップス曲線は長期的に見ても右下がりであると認識しており、高めのインフレを受け入れる代わりに失業率をできるだけ低く抑えようと試みる傾向にあったという。その結果として、インフレが昂進することになったというのだ。バースキー&キリアンの二人も同様の立場に立っており、1970年代から1980年代初頭にかけて高インフレと高失業が発生した原因は、当時の「ストップ&ゴー」型の金融政策に求められるという。バースキー&キリアンの二人はさらに一歩踏み込んで、アメリカをはじめとした世界各国の金融緩和が原因で一般物価のみならず原油をはじめとしたコモディティの価格も高騰することになったと主張している。つまりは、原油価格の高騰をはじめとしたサプライショックは、スタグフレーションを引き起こした原因ではなく、政策の失敗(行き過ぎた金融緩和)に付随して生じた現象に過ぎないというのだ。

我々二人は、つい最近の論文(Blinder and Rudd 2008)で、1970年代のスタグフレーションの原因をめぐる「通説」(「サプライショック説」)――原油価格および食料価格の急騰(それに加えて、1970年代初頭における賃金・価格統制の撤廃)こそが、スタグフレーションを引き起こした主因だとする説――の妥当性の検証を試みている。サプライショック説がはじめて唱えられたのは30年以上も前になるが、この間の研究の蓄積――新たに得られたデータに、新たに開発された理論に、計量経済学上の新たな証拠――に照らし合わせてみてわかったことは、「通説」の妥当性は揺るがないということである。詳しくは論文をご覧いただきたいが、(1970年代のスタグフレーションの原因をめぐる)「修正主義的な」解釈についても批判的な検証を加えている。


オイルショックの影響が弱まってきているのはなぜ?

「通説」の妥当性が揺るがないとすると、大きな謎に直面することになる。1970年代から1980年代初頭にかけてマクロ経済のパフォーマンスが惨憺たる結果に終わった主因がサプライショックにあったのだとすると、つい最近の原油価格の高騰も同じくマクロ経済に対して大きな負の影響を及ぼしてもおかしくはなさそうなのに、そうはなっていない。なぜなのだろうか? 1980年代初頭以降もオイルショックは度々発生しているが、多くの論者によって裏付けられているように――例えば、フッカー(Hooker 1996, 2002)、ブランシャール&ガリ(Blanchard and Gali 2007)、ノードハウス(Nordhaus 2007)を参照されたい――、オイルショックがマクロ経済に及ぼす影響はかつてに比べて小さくなってきているようだ。オイルショックがコアCPIに及ぼす影響は時代が下るにつれて急速に弱まってきており、生産量や雇用量はオイルショックからほとんど何の影響も受けないようになってきているのだ。

どうしてなんだろうか? 理由の一つは明らかである。1973年~74年のいわゆる第一次オイルショック(「OPEC I」)と1979年~80年のいわゆる第二次オイルショック(「OPEC II」)の後にエネルギーの消費を節約する動きが広がり、アメリカをはじめとする先進国では、1973年当時と比べると、省エネ化が相当進んだ。アメリカのケースで言うと、エネルギー消費量の対GDP比(BTU単位で測った年間のエネルギー消費量をその年の実質GDPで除した値)は劇的なペースで減少しており、1973年当時と比べるとほぼ半減するまでになっている。それに伴って、オイルショックがマクロ経済――価格(原油以外の財・サービスの価格)および数量(生産量や雇用量)――に及ぼす影響も同じく半減することになったと思われるのだ。

しかしながら、フッカーによると(Hooker 2002)、オイルショックがその他の財・サービスの価格(例えば、コアCPI)に及ぼす影響は時とともに無視できるところまで小さくなっており、省エネ化という要因だけではすべてを説明できないという。さらには、我々の論文ではエネルギー集約度に応じて消費財を分類し、それぞれの分類に含まれる消費財の価格がオイルショック後にどのような反応を見せたかを検証しているが、2002年~2007年の期間に関して言うと、エネルギー集約度の高さと、価格の変動幅との間に正の相関は見出せなかった〔訳注;「エネルギー集約度の高い消費財ほど、オイルショック後に価格が大きく上昇した」という関係は見出せなかったということ〕。どうやら、省エネ化以外の別の要因にも目を向ける必要があるようだ。

「別の要因」を探っているのが、ノードハウスのつい最近の論文だ(Nordhaus 2007)。ノードハウスは、その候補を三つ挙げている。つい最近の原油価格の高騰はその上昇ペースが比較的緩やかであり、そのためもあってその影響が薄められることになったというのが一つ目の候補だ。原油価格の上昇幅は、2002年~2008年にかけての累計で測ると相当なものだが、年平均で測ると「OPEC I」や「OPEC II」時よりもずっと緩やかなのである。2002年~2008年にかけての原油価格の上昇幅を年平均で測ると、対GDP比でおよそ0.7%という結果になるが(ただし、ノードハウスの試算では、2006年第2四半期までしか対象に含まれていない点に注意願いたい)、「OPEC I」や「OPEC II」時におけるそれは、対GDP比でおよそ2%になるのである。原油価格の上昇ペースが緩やかであれば、それだけその影響も弱まることになるだろう。

二つ目の候補は、とりわけ重要である。ノードハウスは、Fedがどのようなルールに従って政策金利を決定しているか(いわゆる「テイラー・ルール」)を推計しているが、1980年以前のFedはヘッドラインCPI(食料やエネルギーの価格を含んだ消費者物価指数)に重きを置いて金融政策を運営していたが、1980年以降になるとコアCPIに重きが置かれるようになっていることを見出している。バーナンキその他(Bernanke et al. 1997)によると、かつてのオイルショック時に生産量が落ち込んだ理由の多くは、Fedがインフレを抑えるために金融引き締めに動いたためだとされているが、そのような見方が正しいとすると、つい最近の原油価格の高騰がどうしてそれほど大きな生産の落ち込みを伴わなかったのかについてもそれなりに納得がいくことになる。というのも、先にも触れたように、オイルショックがコアCPIに及ぼす影響が弱まってきていて、FedがコアCPIに重きを置くようになっているとすると、オイルショックの発生に伴って金融政策が変更される(原油価格の高騰に伴って、金融政策が引き締められる)可能性は小さくなっていると予想されるからである。

三つ目の候補は、1970年代に比べて、実質賃金の伸縮性が高まっている可能性である〔訳注:このパラグラフでは、ノードハウスの主張がかなり圧縮されたかたちで要約されており、そのまま訳したのでは内容がわかりづらいだろうと判断して、Nordhaus(2007)に照らし合わせて訳者の側で若干修正を加えている〕。それもこれも、原油価格の高騰はあくまで一時的なものだとの見方が世間一般に広がったことが大きい。その結果として、原油価格が高騰しても、労働者は名目賃金の引き上げを求める代わりに、実質賃金の下落を受け入れるようになった。新古典派的なメカニズム(相対価格の変化に促された生産要素間の代替〔訳注;財・サービスを生産するにあたって、相対的に高価になった生産要素(エネルギー)の代わりに、相対的に安価になった生産要素(労働)の投入を増やす〕)が働く余地が広がることになった可能性があるのだ。さらには、原油価格の高騰はあくまで一時的なものだとの見方が広がったことで、消費者が原油高騰による実質所得の低下をあくまで一時的なものと見なすようになった。その結果として、原油価格の高騰が実質所得の低下を招いて総需要を冷え込ませるケインジアン的なメカニズムの効果がかつてよりは和らいでいる可能性がある。このような一連の変化は、オイルショックが生産量や雇用量に及ぼす影響を弱める方向に作用することだろう。

ブランシャール&ガリの二人も実質賃金の伸縮性が高まっている可能性に言及しているが(Blanchard and Gali 2007)、それに加えて、1970年代以降に中央銀行の「インフレ・ファイター」としての信頼性が高まってきていることも見逃せないと主張している。中央銀行の「インフレ・ファイター」としての信頼性が高まれば、原油価格が高騰しても、予想インフレ率はそこまで変わらない可能性がある(ブランシャール&ガリの二人は、そのような証拠を見出している)。原油価格の高騰にもかかわらず、予想インフレ率が安定しているようであれば、原油価格の高騰がコアCPIや生産量に及ぼす影響は小さくなると考えられるのだ。ただし、彼らも述べているように、荒削りな面が多分にあるモデルから得られた結論とのことなので、あまり重視し過ぎないほうがいいだろう。

実証的な裏付けのある二つの興味深い要因に言及しているのがキリアンだ(Kilian 2007)。いずれの要因も国際貿易と深い関わりがある。まず一つ目の要因は、おそらくはかつての2度にわたるオイルショック(「OPEC I」と「OPEC II」)がきっかけとなって、1973年以降にアメリカ国内の自動車産業で構造転換が進んだことである。小型で燃費の良い車を手に入れようと思ったら、かつては海外から輸入するしかなかったが、今では国内でも大量に製造されるようになっている。その結果として、原油価格が高騰しても、国産車への需要がかつてほど落ち込むことはなくなったのである(これまでの小型化・低燃費化の流れに逆行するかのようにして、SUV車が流行しているが、自動車産業もアメリカ経済もその代償を今になって支払わされているわけだ)。さらには、1970年代に比べると、自動車産業がアメリカ経済全体に占めるシェアもずっと小さくなっていて、このこともオイルショックの影響が弱まってきている理由の一つとなっている。

キリアンが指摘している二つの目の要因は、原油価格の高騰をもたらしたそもそもの原因に関わるものである。2002年~2008年にかけて原油価格が高騰した理由は、(1970年代のように)世界的に原油の供給が減少したためでもなければ、原油市場に特有のショックが発生したためでもなく、世界経済の堅調な成長に支えられて原油に対する需要が増加したためであるようだ。原油価格の高騰は、その原因の如何を問わず、アメリカのような原油輸入国にとっては「オイルショック」を意味することに変わりはないが、世界経済が堅調な成長を続けているおかげで海外への輸出が増えることになり、その結果として「オイルショック」に伴う負の影響(「オイルショック」に伴う生産の落ち込み)が和らげられる格好となったのである。


結論

まとめるとしよう。「オイルショックの影響が弱まってきているのはなぜか?」という疑問に答えるために長々と探りを入れてきたわけだが、その苦労も無駄ではなかったようだ。無駄ではなかったどころか、豊作だ。答えの候補が数多く列挙されたリストが出来上がったのだから。そのうちのどれか一つが群を抜いているわけではなく、いずれの候補も多かれ少なかれ妥当性を備えているように思われる。スタグフレーションの原因をめぐる「サプライショック説」も依然として定性的には妥当性を失っていないが、定量的にはかつてほど重要ではなくなっている〔訳注;原油価格の高騰に伴って、コアCPIが上昇したり生産量(や雇用量)が落ち込む可能性はあるが、その影響の量的な大きさは限定的ということ〕。よほどの不運や政策上の不手際に見舞われない限りは、食料やエネルギーの価格が高騰したとしても、1970年代や1980年代初頭のように惨憺たる結果が招かれる必然性は最早ないのだ。


<参考文献>

●Barsky, Robert B., and Lutz Kilian. 2002. “Do we really know that oil caused the Great Stagflation? A monetary alternative”, In NBER Macroeconomics Annual 2001, eds. Ben S. Bernanke and Kenneth Rogoff, 137-183.
●Bernanke, Ben S., Mark Gertler, and Mark Watson. 1997. “Systematic monetary policy and the effects of oil price shocks”, Brookings Papers on Economic Activity 1: 91-142.
●Blanchard, Olivier J., and Jordi Gali. 2007. “The macroeconomic effects of oil shocks: Why are the 2000s so different from the 1970s?”, NBER Working Paper no. 13368, September.
●Blinder, Alan S., and Jeremy B. Rudd. 2008. “The supply-shock explanation of the Great Stagflation revisited”, NBER Working Paper no. 14563, December.
●Cecchetti, Stephen G., Peter Hooper, Bruce C. Kasman, Kermit L. Schoenholtz, and Mark W. Watson. 2007. “Understanding the evolving inflation process(pdf)”, US Monetary Policy Forum working paper, July.
●DeLong, J. Bradford. 1997. “America’s peacetime inflation: The 1970s(pdf)”, In Reducing inflation: Motivation and strategy, eds. Christina D. Romer and David H. Romer, 247-280. Chicago: University of Chicago Press.
●Hooker, Mark A. 1996. “What happened to the oil price-macroeconomy relationship?”, Journal of Monetary Economics 38 (October): 195-213.
●Hooker, Mark A. 2002. “Are oil shocks inflationary? Asymmetric and nonlinear specifications versus changes in regime”, Journal of Money, Credit, and Banking 34 (May): 540-561.
●Kilian, Lutz. 2007. “The economic effects of energy price shocks(pdf)”, University of Michigan, October. Mimeo.
●Nordhaus, William D. 2007. “Who’s afraid of a big bad oil shock?”, Brookings Papers on Economic Activity 2: 219-240.