2025年6月7日土曜日

Tyler Smith 「大恐慌から抜け出せたのは、金本位制から離脱したおかげか?」(2024年1月23日)

Tyler Smith, “Recovering from economic depressions: Did ending the gold standard help countries escape from the Great Depression?”(Research Highlights, American Economic Association, January 23, 2024)


金本位制からの離脱が1930年代の大恐慌(Great Depression)を終わらせるために必要な第一歩だったというのが多くの経済学者の考えである。そのことを裏付ける何よりの証拠がアメリカの経験である。しかしながら、一つの例あるいは一部の例から一般的な結論を導き出すのは軽率かもしれない。
 
大恐慌から抜け出すのを支えた真因は何だったのか? そのことを探るためにこれまでで最も包括的なデータを使って検証を加えているのが、アメリカン・エコノミック・レビュー誌の2024年1月号に掲載予定のマーティン・エリソン(Martin Ellison)&サン・セオク・リー(Sang Seok Lee)&ケヴィン・オルーク(Kevin Hjortshøj O'Rourke)の三人の共著論文――“The Ends of 27 Big Depressions”(American Economic Review 114 (1): pp. 134–68)――である。27カ国が対象になっていて、最先端のナウキャスティングの手法を使って1500以上の変数について月次ないしは四半期の23万件を超えるデータに分析が加えられている。

金本位制から離脱する前後で物価水準と産出量にどんな変化が生じたかを跡付けたのが、三人の共著論文から転載した以下の図(図11)である。ベルギー、カナダ、デンマーク、エストニア、フィンランド、日本、ニュージーランド、ペルー、南アフリカ、スウェーデン、イギリス、アメリカの計12カ国が対象になっている。いずれも金本位制から離脱した日付がはっきりしている国である。




横軸に直行する垂直線よりも左側が金本位制から離脱する前で、右側が金本位制から離脱した後である。赤色の実線は、アメリカの物価水準と産出量の推移を表している。濃い黒色の実線は、アメリカを除く11カ国の平均値を表している(産出量については、データの制約もあって、ペルー、ニュージーランド、デンマーク、エストニア、フィンランドが除かれている)。

金本位制から離脱するまでは、12カ国すべてで物価水準が下落傾向にあった。金本位制から離脱した後はどうだったかというと、大半の国で物価水準が急速に安定した。多くの国では、産出量も盛り返した。アメリカなんかは特にそうだ。しかしながら、産出量が下落し続けた国もいくつかあった。上の図に照らす限りだと、金本位制から離脱したおかげで産出量にどんな効果が及んだかについて明確な結論は下せない。

金本位制からの離脱がどんな効果を持ったかを推計するために、エリソン&リー&オルークの三人は別の手法も使って分析を加えている。そして、金本位制からの離脱がインフレ期待を喚起して実質金利を低下させたことを見出している。 実質金利が低下したおかげで、景気が回復したというのである。

通貨制度が大きく変わると、インフレ期待が喚起されて総需要が刺激される可能性があるのだ。金本位制からの離脱がその典型例なのだ。

2025年6月5日木曜日

Aaron Steelman 「輸入を称えて」(2003年)

Aaron Steelman, “In Praise of Imports”(Econ Focus, Federal Reserve Bank of Richmond, Winter 2003)


アメリカの歴史を振り返ると、輸入の制限を求める声が絶えない。貿易が自由になると、国内が海外の製品で埋め尽くされて、自国の企業が育たないという意見もある。貿易を制限して戦時において重要になる産業を保護するのは、国防の観点からして国益にかなうという意見もある。

保護主義を求める言い草のどれにも共通しているのは、「完全無欠な世界」とでも呼べるものが想定されていることである。例えば、次のように語られる。「他の国も関税を引き下げるのであれば、我が国が関税を引き下げるのに賛成してもいい」。他にもある。隣国が特定の産業に補助金を与えるのをやめるようなら、自由に貿易するのも結構なことに違いないだろうけど。あるいは、世界中で賃金が同一であるようなら云々。しかしながら、そのような条件は満たされそうにないので、貿易を制限する措置を撤廃するわけにいかないというのである。

「完全無欠な世界」が実現されそうにないからという理由で保護主義を擁護する議論のどこが問題かというと、そもそもどうして貿易を行うのかを誤解しているところだ。消費するためなのだ。「輸入」こそが国際貿易による真の恩恵を生むのだ。 

19世紀のアメリカがどうだったかを振り返ってみるとしよう。当時は、輸入が輸出を上回りがちだった。言い換えると、貿易赤字を抱えがちで、赤字が巨額に上ることもしばしばだった。そのせいでアメリカ経済は打撃を被ったかというと、逆だ。急速に成長したのである。その背後で輸入が重要な役割を果たしたのである。1993年にノーベル経済学賞を受賞したダグラス・ノース(Douglass North)によると、1800年代に「消費財を作るために使われていた生産要素(労働や資本)の多くが運河や鉄道の建設に転用された。海外から消費財が大量に輸入されたおかげで、国内での消費財の生産の落ち込みがある程度相殺された。1850年代になると、鉄道を建設するために使われる鉄が大量に輸入された。・・・(略)・・・海外の資本のおかげで輸入の超過が賄われたし、綿花の生産を増やしたり交通のインフラを整えたりするために資源を振り向けるのが可能になったのである」。

それは今でも同じで、世界中の貧しい国々が海外の製品に国境を開いたら生活水準を高められる可能性がある。貿易が発展途上国にどのような恩恵をもたらすかをワシントン大学に籍を置く経済学者のラッセル・ロバーツ(Russell Roberts)が架空の例を使って説明している。

セントルイスの住民が地元(セントルイス)で生産された品物しか買えなくなったとしたらどうなるかを考えてみるとしよう。農産物を育てる土地を確保するために、あちこちの家を取り壊わさなくてはいけなくなるだろう。生きるために欠かせない品物の生産に注力するために、多くの住民が職を変えないといけなくなるだろう。ロバーツによると、「あれやこれやの変化が相次ぐだろうが、どの変化も生活を貧しくするだろう。これとそっくりなのが最貧国なのだ。国内で自給自足しようとすると、ものすごく高くつくのだ。貿易をすれば、罠から抜けられる。貿易をすると、搾取されるのではなく、自給自足ゆえの貧困から抜けられるのだ」。

1950年代から1980年代にかけて真逆の進路を選んだのが、ラテンアメリカの発展途上国の多くである。工業化を促すために、「輸入代替」政策を採用したのである。そのおかげで国内に工業部門が育ったのは確かである。しかしながら、その代償は大きかった。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)に籍を置く経済学者のセバスチャン・エドワーズ(Sebastian Edwards)によると、「輸出が落ち込み、為替レートが割高になり、雇用が伸び悩み、保護されている部門における大量の資源――有能な人材も含む――がロビー活動に振り向けられた」。

輸入を制限したせいで「輸出が落ち込んだ」というエドワーズの指摘は、腑に落ちないかもしれない。輸入障壁を高くしても、海外への輸出は増えないまでもこれまでと変わらないんじゃないかと思うかもしれない。しかしながら、なかなかそうはならないのだ。1930年代にそのことに気付いたのがアバ・ラーナー(Abba Lerner)である。ラーナーも主張しているように、 輸入に税金を課すのは、輸出に税金を課すも同然なのだ。

チリとブラジルがその例証になる。チリは、1970年代にラテンアメリカ諸国の中で貿易の自由化を試みた数少ない例の一つである。チリでは、その後の25年の間に輸入も輸出も対GDP比で測って急増した。 その一方で、保護主義的な政策が続けられたブラジルでは、輸入も輸出も停滞したままだったのだ。

教訓として何が言えるかというと、輸入を制限するのは万能薬なんかではないということだ。輸入を制限すると、国が貧しくなる。輸入を制限しても、経常収支(貿易収支)はほとんど(あるいは、まったく)改善されない。ミルトン&ローザのフリードマン夫婦が語っているように、アメリカは世界中の国々に向かって次のように提案するべきなのだ。「貿易を自由化しろと強要することはできない。しかしながら、誰もが同じ条件で全面的に協力する機会を作ることならできる。関税もその他の制限措置も撤廃して、市場を開放するのだ。売れる商品を売ってもらうのだ。売りたい商品を売ってもらうのだ。買える商品を買ってもらうのだ。買いたい商品を買ってもらうのだ。 そうすれば、一人ひとりが世界規模で自由に協力できるようになるのだ」。

2025年5月24日土曜日

Paul Krugman 「小心の罠」(2014年3月21日)

Paul Krugman, “Timid Analysis (Wonkish)”(The Conscience of a Liberal, March 21, 2014)


今日のコラムでも軽く触れたけど、もうちょっと突っ込んだ話をしておこうと思う。

ブルッキングス研究所主催のパネルディスカッションから戻ってきたばかりだ。「アベノミクス」がテーマの論文についても報告があって、僕も含めて二人が討論者を務めた。もう一人の討論者は、ベン・バーナンキだとかいう名前だったと思う。個人的にずっと心配に思っていたことがあって、そのことについても語った。言いたいことを前よりもいくらかうまく整理できてると思うので、ここでも繰り返させてもらうとしよう。

僕が1998年に書いた論文(pdf)以降に大量に生み出された「ゼロ下限制約」に関する理論的な研究の山を眺めてみると、「流動性の罠」に陥るのは一時的なショックの結果であると見なされている。例外なくだ。何らかのショックが起こって――わかりやすい例だと、バブルが崩壊したりとか、信用ブームが終わってデレバレッジ(債務の圧縮)が強いられたりとか――、総需要が大きく落ち込む。金利をゼロ%にまで引き下げても完全雇用を実現できないくらいに。でも、そのショックもいつまでも続くわけじゃない。いつかは終わる。そうだとすると、抜け道があることになる。金融政策のレジームが変わったことをみんな(国民)に納得させればいいのだ。ゼロ下限制約に直面している状況で総需要を刺激してほどほどのインフレを起こしたければ、ショックが去って総需要が回復してからも中央銀行が金融緩和を続けるとみんなに信じ込ませればいいのだ。  

ところで、日本でショックが去るのはいつになるんだろうか? 総需要が勢いを取り戻して、ゼロ下限制約に縛られる必要が無くなるのはいつになるんだろうか? アメリカについてすら長期停滞(secular stagnation)の可能性が真剣に取り沙汰されていて、金融政策が「正常」に戻るまでにかなり長い時間を要するかもしれないというのに。

それでもなお、景気に弾みをつけるのは依然として可能だ。中央銀行が高めのインフレ率の達成を目標に掲げて、そのことがみんなから信頼されるようなら、〔予想インフレ率が上昇するので〕実質金利が低下する。ところで、中央銀行が掲げるインフレ目標がみんなから信頼されるために必要なことって何だろう? 「自己実現的な予言」(self-fulfilling prophecy)が大いに絡んでくるに違いない。中央銀行が掲げる目標値にまでインフレ率が上昇するに違いないとみんなが信じて行動したら、その通りにならなくちゃいけないのだ。景気が刺激されて、インフレ率が目標値にまで上昇しなくちゃいけないのだ。

そのための必要条件がある(ただし、十分条件じゃない)。インフレ率の目標値がかなり高めに設定される必要があるのだ。みんなが信じて行動したら、ブームが起きるくらいの高さに設定される必要があるのだ。インフレ率の目標値がそんなに高くないようだと、みんなが信じて行動したとしてもその通りにならないだろう。景気もそこそこしか刺激されずに、そのせいでインフレ率も目標値に届かないだろう。そんなだと、そのうち誰も中央銀行が掲げるインフレ目標を信頼しなくなって、すべての努力が無駄になってしまうおそれがあるのだ。 

今朝作成したばかりの図を使って、今の話を確認しておくとしよう。




黒い曲線は、フィリップスカーブを表わしている。仮想的なものではあるが、現実のフィリップスカーブとそう違わないと思う。インフレ率が産出量の水準に依存していて、資本設備の稼働率が高くなるほど(産出量の水準が高まるほど)傾きが急になっている。青い直線は、金利がゼロ%の場合の総需要曲線を表わしている。予想インフレ率が上昇すると、それと同じだけ実質金利が低下する。総需要曲線が右上がりになっているのは、そのためだ。上の図では、中央銀行がインフレ率の目標値を2%に設定するけど、インフレ率が2%にまで上昇しない状況が描かれている。インフレ率が2%にまで上昇するとみんなが信じて行動したとしても、その通りにならないのだ。そのうち誰も中央銀行が掲げるインフレ目標を信頼しなくなってしまうだろう。

僕の心配事というのは以上の通りだ。インフレ率の目標値を4%に設定する必要があるというのに、セントラルバンカーが次のように語ったとしよう。「4%ですか? ちょっと過激に思えますね。もうちょっと慎重になって、2%にしておきましょう」。慎重で分別があるようだけれど、そのせいで失敗してしまうかもしれないのだ。

2025年5月23日金曜日

Gregory Mankiw 「景気循環の影響は尾を引く?」(2006年5月25日)

Gregory Mankiw, “Goolsbee on the Business Cycle”(Greg Mankiw’s Blog, May 25, 2006)


シカゴ大学に籍を置く経済学者のオースタン・グールズビー(Austan Goolsbee)が本日のニューヨーク・タイムズ紙に素晴らしい記事を寄稿している。学生たちが社会に出る時の景気の状態が彼らのその後のキャリアに及ぼす影響について調査している最新の研究結果が紹介されている。一部を引用しておこう。

スタンフォード大学経営大学院に籍を置く経済学者のポール・オイヤー(Paul Oyer)が最近の論文――“The Making of an Investment Banker: Macroeconomic Shocks, Career Choice and Lifetime Income”(NBER Working Paper 12059, February 2006)――で見出している証拠を取り上げるとしよう。オイヤーは、1960年から1997年までの間にスタンフォード大学経営大学院を卒業した学生たちのその後の経歴を辿っている。

どういう結果が見出されているかというと、学生たちが大学院に入学してから2年間の株式市場のパフォーマンスが卒業後に投資銀行部門に就職できるかどうかだけでなく、卒業後の平均賃金にも重要な影響を及ぼしているという。投資銀行部門というのは給与も高額だから、特段驚くような結果ではない。衝撃的なのは、卒業した年度の違いによる平均賃金の差が20年後になっても埋まらないということだ。

例えば、1988年度にスタンフォード大学経営大学院を卒業した学生たちは、1987年の株価大暴落(ブラックマンデー)の直後に就職戦線に入ることになった。民間の銀行は、新卒採用に消極的だった。そのためもあって、1988年度の卒業生の初年度の平均賃金は、1987年度の卒業生の初年度の平均賃金を下回るだけでなく、株式市場が回復した後に卒業した学生の初年度の平均賃金も下回ったのだった。卒業してから10年以上が経過した後でも、1988年度の卒業生の平均賃金は、それ以外の年度の卒業生の卒業後10年以上が経過した後の平均賃金を大きく下回ったままなのだ。1988年度の卒業生たちは、社会人としてスタートした時点で割りのいい仕事を取り逃がしてしまい、その後も失地を挽回できなかったのだ。

過去20年間を対象に同様の調査を行っている他の経済学者によると、MBA(経営学修士号)を取得してウォール街で働くような若者だけに当てはまる現象ではないことが見出されている。学部の卒業生(大卒者)にも当てはまるというのだ。フィリップ・オレオプロス(Philip Oreopoulos)&ティル・フォン・ワッチャー(Till Von Wachter)&アンドリュー・ヘイス(Andrew Heisz)の三人の最近の共著論文――“The Short- and Long-Term Career Effects of Graduating in a Recession”(NBER Working Paper 12159, April 2006)――によると、不況期に就職した大卒者は、社会に出てから10年間は収入面での躓き(つまずき)を挽回できないというのだ。

標準的なマクロ経済理論と食い違っているようだが、辻褄を合わせるにはどうしたらいいだろう? この記事を読みながら頭に浮かんだ疑問だ。標準的な理論によると、自然産出量や自然失業率から一時的に乖離するのが景気循環という現象なのだ。マクロ経済ショックが起きてから数年後には、すべてが正常に戻ると想定されているのだ。それとは対照的に、グールズビーが紹介している証拠によると、マクロ経済ショックが一人ひとりの機会に及ぼす影響はだいぶ尾を引くというのだ。

GDPが過去の値(履歴)に強く影響を受ける――「単位根」を持つ――ことを示唆する時系列分析の分野の発見と関わってくる証拠なのかもしれない。景気循環の社会的コストについて見直しを迫る証拠なのかもしれない。

グールズビーが紹介しているミクロの証拠と標準的なマクロ理論との食い違いを埋めるために、優れた研究論文がそのうち何本か書かれるんじゃなかろうか。

2025年5月21日水曜日

Mike Moffatt 「リセッションとデプレッションの違いとは?」(2018年7月22日)

Mike Moffatt, “What Is the Distinction Between a Recession and a Depression?”(ThoughtCo., July 22, 2018)


「リセッションというのは、あなたの隣人が仕事を失う時のこと。デプレッションというのは、あなたが仕事を失う時のこと」。経済学者の間で知られている古いジョークだ。

リセッションとデプレッションの違いが曖昧ではっきりしない単純な理由がある。一般的に認められている定義というのがないのだ。100人の経済学者にリセッションとデプレッションの定義を聞いたら、最低でも100通りの別の答えが返ってくるだろう。しかしながら、とにかくやってみるとしよう。リセッションとデプレッションがどう定義されているかを概観した後に、ほぼすべての経済学者が同意してくれそうなやり方で両者の違いを説明してみるとしよう。


リセッション:新聞の定義

GDP(国内総生産)が2四半期(あるいは、2四半期以上)連続して減少するのがリセッションというのが、新聞でよく目にする定義だ。

大半の経済学者は、この定義を気に入っていない。主な理由は二つあって、GDP以外の変数の変化が考慮されていないというのが一つ目だ。例えば、失業率だとか消費者信頼感指数だとかの変化が無視されているのだ。四半期のデータを使って判断されているので、リセッションがいつ始まっていつ終わったのかを特定するのが難しいというのが二つ目の理由だ。リセッションが10カ月未満しか続かないようなら、見過ごされてしまう可能性があるのだ。


リセッション:景気循環日付委員会の定義

リセッションに陥っているかどうかをより的確に見抜こうと試みているのがNBER(全米経済研究所)の景気循環日付委員会だ。 雇用量、鉱工業生産、実質所得、卸売販売額/小売販売額だとかの変化に目を凝らして、景気の良し悪しを認定している。景気循環日付委員会では、 景気が「山」から「谷」に向かうまでの期間をリセッション(景気後退局面)と定義している。それとは反対に、景気が「谷」から「山」に向かうまでの期間は景気拡張局面と定義されている。この定義によると、リセッションは平均的には1年くらい続く傾向にあるようだ。


デプレッションの定義

1930年代に大恐慌が起こるまでは、景気の低迷は例外なくデプレッションと呼ばれていた。1910年とか1913年とかに起こったデプレッションと1930年代に起こったデプレッションを区別するために、1910年とか1913年とかに起こったデプレッション(1930年代に起こったデプレッションほどは深刻じゃないデプレッション)をリセッションと呼ぶようになったのである。このことからデプレッションの単純な定義が得られることになる。リセッションよりも長く続いて深刻なのがデプレッション。


リセッションとデプレッションの違い

リセッションとデプレッションをどうやって区別したらいいだろうか? いい目安がある。実質GDPの落ち込みが10%以上ならデプレッションで、実質GDPの落ち込みが10%未満ならリセッションと見なすのだ。

この物差しを使うと、アメリカで最後にデプレッションが起こったのは1937年5月から1938年6月までの期間ということになる。実質GDPが18.2%減少したのだ。この物差しを使うと、1930年代に起こった大恐慌の見え方も変わってくる。一回ではなく二回のデプレッションが起こったのだ。1929年8月から1933年3月までの間に実質GDPが33%近くも減少するというひどいデプレッションが起こって、その後に景気回復局面を挟んで、1937年5月から1938年6月までの間にもう一回デプレッションが起こったのだ。

戦後のアメリカでは、実質GDPが10%以上減少するようなデプレッションは起こっていない。1973年11月から1975年3月までの間に実質GDPが4.9%減少したのが、過去60年の間に起こった最悪のリセッションだ。フィンランドだとかインドネシアだとかでは、実質GDPが10%以上減少するようなデプレッションがつい最近も起こっている。

2025年5月20日火曜日

Gregory Mankiw 「リセッションとデプレッション」(2008年10月10日)

Gregory Mankiw, “Recession or Depression?”(Greg Mankiw's Blog, October 10, 2008)


学生から質問された。

どうなればリセッション(recession)がデプレッション(depression)になる決まりになっているのでしょうか?
 
デプレッションの公式の定義というのはない。私も委員を務めたことがあるNBER(全米経済研究所)の景気循環日付委員会では、景気循環の転換点を認定している。景気が拡大局面から後退局面(あるいは、後退局面から拡大局面)に転換したのはいつかを後知恵で決めているわけだ。緩やかな景気後退をリセッションと呼んで、深刻な景気後退をデプレッションと呼ぶのが習わしみたいになっているが、リセッションとデプレッションを区別する公式の定義というのはないのだ。 

この上なく明快な定義は、おそらく以下だろう。

リセッションというのは、あなたの隣人が仕事を失う時のこと。デプレッションというのは、あなたが仕事を失う時のこと。

Cory Doctorow 「フランスやスコットランドが性能面で劣っていたクロスボウに固執したのはなぜ?」(2016年1月20日)



ロングボウはクロスボウよりも性能がだいぶ優れていたが、軍の主力武器として取り入れたのはイングランドだけだった。フランスやスコットランドの軍隊は、性能面で劣っていたクロスボウを1世紀近くも使い続けたのである。その理由は?

歴史家たちを何十年にもわたって悩ませてきたこの謎――「ロングボウパズル」――の答えを二人の経済学者が提示している。サイモン・フレーザー大学に籍を置くダグラス・アレン(Douglas Allen)と、ジョージ・メイソン大学に籍を置くピーター・リーソン(Peter Leeson)の二人が Journal of Law and Economics 誌に掲載された論文で、ロングボウパズルを解いているのだ。

フランスやスコットランドの王は、反乱を恐れるあまりに、兵にロングボウを持たせたがらなかったというのが二人の言い分だ。その一方で、イングランドは政情が比較的安定していたので、安心して兵にロングボウを持たせることができたというのだ。その結果として、イングランドは外敵との戦争で優位に立てたというのだ。

論文のアブストラクト(要旨)を引用しておこう。

ロングボウは、中世ヨーロッパにおける飛び道具界の無二の王の地位に一世紀以上にわたって君臨した。しかしながら、軍の主力武器として採用したのはイングランドだけだった。フランスやスコットランドの軍隊は、性能面で劣っていたクロスボウに固執したのである。何十年にもわたって歴史家たちを悩ませてきた謎である。本稿では、「制度によって制約された技術選択」理論の観点からこの謎に切り込む。ロングボウは、クロスボウとは違って、安価で作るのが簡単で、戦場で使うつもりであれば大勢の射手を養成する必要があった。ロングボウのこれらの特徴ゆえに、軍の主力武器として採用すると、王の座を狙う貴族がロングボウの扱いに慣れた大勢の兵を束ねて反乱を引き起こす可能性が生まれたのである。どの飛び道具を軍の主力武器として選ぶかをめぐって、王(支配者)はトレードオフに直面していたのだ。内乱を防ぐか、それとも国防を強化するかというトレードオフに。中世末期のヨーロッパで、飛び道具として最も優れていたロングボウを選んでも反乱が起こるのを心配する必要がないくらいに政情が安定していたのはイングランドだけだった。政情が不安定だったフランスやスコットランドでは、クロスボウがやむなく選ばれたのだ。

Gregory Mankiw 「野獣を飢えさせろ」(2008年6月16日)

Gregory Mankiw, “Starve the Beast”(Greg Mankiw's Blog, June 16, 2008)


ポール・クルーグマン(Paul Krugman)が本日のニューヨーク・タイムズ紙のコラムで述べているところによると、「野獣を飢えさせろ」理論は正しいらしい。減税すると、政府の規模が小さくなるというのだ。ただし、時間差があるという。

オバマは、マケインよりもずっと進歩的でもある。上位1%の税引き後所得を大幅に引き下げる一方で、下位80%の所得を引き上げるつもりだというのだ。しかしながら、どれだけの税収を確保するつもりなのかというと、7000億ドルにとどまっている。大金に聞こえるかもしれないが、国民皆保険を実現するためには足りないだろう。 

オバマが税金を集めるのに控え目なのはなぜなのか? ブッシュが税制に仕込んだポイズンピルに原因があるのだ。

・・・(中略)・・・

二人の候補者(オバマとマケイン)が税金についてせせこましい議論を繰り広げているのを眺めていると、ブッシュが税制に仕込んだポイズンピルが効果をちゃっかり発揮しているのがわかって、驚きもするしガッカリもしてしまう。 

言い換えると、ブッシュ減税のせいでオバマが大統領になっても政府の規模に縛りがかかるかもしれないというのだ。

似たようなことを語っているのが、ロバート・ライシュ(Robert Reich)だ。クリントン政権で労働長官を務めたライシュだが、当時を回想した滅茶苦茶面白い一冊である『Locked in the Cabinet』で、レーガンによる減税(および、その結果としての財政赤字の拡大)のせいでクリントン政権の手が縛られたと述べているのだ。ライシュが望んでいた支出プログラムを残らず実行することができなかったというのだ。

クルーグマンもライシュも悪い報せとして受け取っている。政府支出が拡大するのをよしとしているからだ。しかしながら、「小さな政府」をよしとする古典的自由主義者にとっては、良い報せだ。かの有名で悪罵を浴びせられることもある「野獣を餓えさせろ」理論を支持する報せなのだから。

2025年5月18日日曜日

Mark Thoma 「ケインズ経済学に関する『七つの神話』」(2013年5月7日)

Mark Thoma, “Seven Myths about Keynesian Economics”(The Fiscal Times, May 7, 2013)


ハーバード大学に籍を置く歴史学者のニーアル・ファーガソン(Niall Ferguson)がケインズについての発言で謝罪に追い込まれている。ファーガソンによると、ケインズはその独特な性的嗜好ゆえに子供がいなかったから、長期的な経済問題に関心が無かったというのだ。ケインズの性的嗜好云々については脇に置いておくとしても、経済が短期的な問題を抱えている時にケインジアンは長期的な側面に目をつぶりがちだと語られることはよくある。しかしながら、ケインジアンが長期的な問題に関心が無いという言い草は、ケインズ経済学に関する多くの「神話」のうちの一つなのだ。


【神話その1:ケインジアンは、長期的な経済問題への関心が疎かだ】

大間違いだ。ケインズ経済学を嫌っている保守派は、短期的な問題への関心が疎かで、短期的な問題――とりわけ、失業の問題――への対処を誤ると長期的な損害につながりかねないことへの注意が足りないのだ。例えば、景気後退が長引くと、労働市場から退出して二度と戻ってこない人が増えてしまって、経済の長期的な成長力(潜在成長率)が鈍ってしまうおそれがある。ケインジアンは、長期的な問題に大いに関心を持っているのだ。長期的な問題を解決するためには、短期的な問題を無視するに限るとは考えていないだけなのだ。 


【神話その2:ケインジアンは、経済成長にとんと興味が無い】

ケインジアンも経済成長の有難味(ありがたみ)は理解している。しかしながら、二酸化炭素の排出をはじめとした「外部性」を企業が考慮に入れるように望むだけでなく、経済成長の成果がどのように分配されるかにも関心を払う。近年のように、労働者の生産性が上昇しているのに所得上位層だけが潤っているようなら、そのことを問題視する。所得を増やそうとするなら経済成長は欠かせないが、少数のヨット(お金持ち)だけでなくすべてのボートが一緒に引き上げられねばならないのだ。海水を汚さないようにしなくてはならない(環境にも配慮しなくてはならない)のだ。


【神話その3:ケインジアンは、「大きな政府」の支持者だ】

ケインズ経済学に関する神話の中でもおそらく最も実態とかけ離れていて、最も広く流布している神話だ。景気が悪化したら政府支出を増やすか減税するかして景気の刺激を試みる一方で、景気がよくなったら逆のことをせよというのが、ケインジアンが説く安定化政策である。ケインジアンが説いているのは、政府支出なり税金なりの「一時的な」変更なのだ。景気が悪化した時に政府支出を増やしても、景気がよくなった後に政府支出を減らしたら、政府の規模は、景気が悪化する前と変わらない。しかしながら、景気がよくなった後に政府支出が減らされるのではなく増税が行われるようなら、政府の規模は、景気が悪化する前よりも大きくなるだろう。あるいは、景気が悪化した時に減税が実施されて、景気がよくなった後に政府支出が減らされるようなら、政府の規模は、景気が悪化する前よりも小さくなるだろう。しかしながら、ケインジアンが説くように、景気が悪化した時に政府支出を増やしたらその後(景気がよくなった後)に政府支出を減らすようにするか、景気が悪化した時に減税したらその後に増税するようにしたら、政府の規模は、景気が悪化する前と変わらないのだ。


【神話その4:ケインジアンは、公的債務のことなんて気にもかけていない】

ケインジアンとしても、政府が負う公的債務が状況によっては厄介な問題を引き起こす可能性があることはわかっているし、公的債務の長期的な持続可能性の問題に取り組む必要があることもわかっている。しかしながら、公的債務が原因で生じるコストだけを気にかけるのではなく、失業が原因で生じるコストと天秤にかけるのが肝心なのだ。深刻な景気後退に陥っていて、公的債務の残高が今くらいの水準のようなら、失業が原因で生じるコストの方が公的債務が原因で生じるコストよりもずっと大きい。その一方で、景気がよくなったら、二つのコストの大小関係が逆転するだろうから、財政赤字の削減に重きを置くべきだろう。しかしながら、今のところは、失業こそが最大の関心事であるべきなのだ。


【神話その5:ケインジアンは、インフレのことなんてどうでもいいと思っている】

ケインジアンが何よりも重視しているのは、労働者の雇用と所得を高い水準で安定させることだ。労働者の雇用と所得を高い水準で安定させようと試みている最中にインフレが加速するようなら、そのことを問題視するのは言うまでもない。インフレが原因で生じるコストを誇張して語る陣営に反対するのだ。失業が原因で生じるコストを矮小化して語る陣営に反対するのだ。すなわち、政府が経済に介入するのに何が何でも反対しようとする陣営の言い草に異を唱えるのだ。


【神話その6:ケインジアンは、金融政策を信用していない】

金融政策に景気を刺激する力が備わっていることについては、ケインジアンも否定しない。しかしながら、金融政策だけで深刻な景気後退から抜け出せるとは考えない。財政政策も必要なのだ。


【神話その7:ケインジアンが使っているモデルは、古くて時代遅れで劣っている】

危機に襲われて、現代のマクロ経済学のモデルが役に立たないことが明らかになると、経済学者の多くは、オールドケインジアンのモデルに助けを乞うた。今まさに我々が直面している類の問題に答えるために組み立てられたと言っても過言ではないようなモデルだったからである。現代のモデルが抱える欠陥が修正されるのを待っている余裕などなかった。その一方で、オールドケインジアンのモデルに関しては、その長所と短所を考慮に入れさえすれば、役に立つことが判明したのである。ケインジアンは、今回の危機のどの局面であれ、いつの時代に作られたものかなんて大して気にせずに、利用できる中から最善と思われるモデルを選んで使った。現代のモデルが役に立ったこともあれば、古いモデルが優れた洞察を与えてくれたこともあった。古かろうが新しかろうが、重要な疑問に答えるのに最善と思われるモデルに頼ったのである。今回の危機をきっかけに現代の「ニューケインジアン」モデルにも修正が加えられたが、修正されたニューケインジアンモデルが古いモデルから導き出される処方箋を支持する傾向にあるのは興味深い。


古いモデルだったり修正されたニューケインジアンモデルだったりが推奨する政策がもっと積極的に試みられていたとしたら、長期失業のような問題も今みたいにひどくはなっていなかったかもしれない。いや、今からでも遅くない。今からでもいいから、もっと積極的に試みる必要があるのだ。経験から学んでほしいところではあるが、これまでに触れてきた「七つの神話」が失業問題に効き目がある政策が試みられるのを邪魔し続けているのだ。

2025年5月17日土曜日

Robert Frank 「ミルトン・フリードマンの別の顔 ~社会福祉プログラムの改良案を提唱した保守派の守護聖人~」(2006年11月23日)

Robert H. Frank, “The Other Milton Friedman: A Conservative With a Social Welfare Program”(New York Times, November 23, 2006)


先週の16日(2006年11月16日)に94歳でこの世を去ったミルトン・フリードマンと言えば、「小さな政府」を旗印とする保守派の守護聖人として知られている。彼の名前を持ち出して、社会保障制度の民営化やあれこれのセーフティーネットの縮小を求める保守派たちが知ったら驚くかもしれないことがある。フリードマンは、これまでに考え出された中でも最も有望な社会福祉プログラムの発案者でもあるのだ。

市場は、多くの偉業を成し遂げられる力を秘めている。しかしながら、フリードマンも認識していたように、市場を通じて得た収入で、すべての国民が経済面での基本的なニーズを満たせるとは限らない。既存のあれやこれやの福祉プログラムに代えて、国民一人ひとりに現金――例えば、一人あたり最大で年間6,000ドル――を給付するプログラムへの一本化を求めたのが、フリードマンが「負の所得税」と名付けた提案である。例えば、収入が一切ない4人世帯の場合だと、内国歳入庁(IRS)から毎年24,000ドル(=6,000ドル×4)が支給されることになる。ただし、4人のうちの誰かが働いて収入を稼ぐようになると、支給される額は24,000ドルじゃなくなる。24,000ドルから、収入に一定の割合――例えば、50%――を掛けた額が差し引かれるのだ。例えば、4人が稼いだ収入の合計が12,000ドルだとすると、支給されるのは18,000ドルだ。24,000ドルから6,000ドル(=12,000ドル×0.5)が差し引かれるわけだ。4人が稼いだ収入が12,000ドルで、支給されるのが18,000ドル。合計で30,000ドルが懐に入るわけである。

フリードマンが「負の所得税」を提案したのは、最も恵まれない人たちのためを思ってというのも理由の一つだったのは間違いない。しかしながら、まず何よりもプラグマティストだった彼は、「負の所得税」が既存の福祉プログラムよりも実用性の面で優れていることを強調した。あまりにも収入が少ないというのが貧困者にとって主要な問題だとするなら、彼らにもっと多くの現金を渡すのが最もシンプルで最も安上がりな解決策だというのがフリードマンの考えだった。フードスタンプ、光熱費補助、デイケア補助、家賃補助。そんなあれこれのためにわざわざ大勢の役人(官僚)を雇うメリットなんてない、というのがフリードマンの考えだったのだ。 

彼のその他の提案にしてもそうだが、「負の所得税」もインセンティブの歪みをできるだけ小さくするように工夫されている。従来の福祉プログラムの立案者たちの間では、すっぽりと抜け落ちていた発想だ。それぞれのプログラムが別々の行政機関の管轄になっていて、対象世帯の収入が増えると、それに応じて給付(補助)の一部が減らされるというのが従来の福祉プログラムの特徴だ。収入が1ドル増えると給付(補助)の額が0.5ドル減らされるというのが典型的なケースで、4種類の福祉プログラムを受給している世帯で収入が1ドル増えたら、支給される給付(補助)の額が合計で2ドル減るのだ。働いたって得にならないのは、経済学の訓練を受けなくても誰にだってすぐわかる。それとは対照的に、フリードマンが提唱した「負の所得税」の場合は、働けば働くほど税引き後の収入が必ず増えるのだ。 

「負の所得税」は、これまでに一度も導入されていない。都会住みの4人家族が暮らしていけるくらいの現金が支給されるようになると、多くの人が働かなくなってしまうのではないかと懸念されたせいだ。例えば、一人あたり年間6,000ドルが支給されるとしたら、人口30人の田舎の小村では合計で毎年18万ドルが手に入ることになる。野菜を栽培したり、家畜を養ったりして暮らしを立てられるのにだ。血税で快適に暮らしている田舎の民たち。夜のニュースの格好のネタになること請け合いだ。そんなプログラムに支持を取り付けるのは難しいだろう。

その代わり、勤労所得税額控除(EITC)制度が導入されている。就労者だけが対象という点を除けば、「負の所得税」と本質的には同じ仕組みだ。アメリカ発の福祉プログラムで他の国でも取り入れられているいくつかのうちの一つだが、従来の福祉プログラムよりもずっと大きな成果を上げていることが判明している。フリードマンの見立て通りだ。しかしながら、EITCだけでは貧困問題の解決には至らないだろう。就労者だけが対象だからだ。

今月のはじめに行われた中間選挙で、セーフティーネットの強化を公約に掲げて出馬したポピュリストのジム・ウェッブ(Jim Webb)だったりジョン・テスター(Jon Tester)だったりが当選した。彼らが公約を本気で果たすつもりなら、フリードマンが気を配ったインセンティブの問題に真っ向から向き合う必要があるだろう。働くインセンティブを損なわずに失業者への支援を強化するためには、どうしたらいいのだろうか?

「公的な雇用」(政府による雇用)と「負の所得税」を組み合わせるというのが考え得る答えの一つだ。ただし、「負の所得税」を通じて支給される現金の額は低く抑える必要がある。支給される額だけでは生活できないくらいの水準に。EITC制度を通じて給付を受けてきた低所得層の多くは、これまで通りに民間で働くことになるだろう。民間での職にありつけない失業者に関しては、政府が「最後の雇用主」(employer of last resort)の役割を果たすことになる。監視役がついてきちんと訓練すれば、未熟なスキルの持ち主でもやれる公益性のある仕事というのはたくさんある。例えば、浸食された丘の斜面に苗木を植えたり、公園だとかの落書きを消したり、高齢者や障害者が移動するのを手伝ったり。「負の所得税」で低額の現金が支給されるのに加えて、民間で働くか政府によって雇用されるかして賃金も得られるようなら、誰もが貧困から抜け出せるようになる。働かない方が得になるようなインセンティブの歪みもない。

フリードマンが行政(官僚機構)の肥大化を歓迎するわけがないのは言うまでもない。しかしながら、彼なりに公共サービスの提供の実態を観察してよく理解していたように、「公的な雇用」を通じて働く機会を用意するにしても、支払う賃金を低く抑えれば、行政の肥大化につながるとは限らないだろう。「公的な雇用」プログラムの運営管理を代行する業者を入札で募れば、市場の力を利用してコストの節約につなげることもできる。

財政赤字が巨額に上っているというのに、財源はどうしたらいいのだろうか? フリードマンは、1943年の論文――“The Spendings Tax as a Wartime Fiscal Measure”――で、国家にとって重要な目的を果たすのに必要な財源を確保する格好の手段として、「累進消費税」を提案している。この案では、国民に年間の収入(所得)額だけでなく、年間の貯蓄額も申告してもらう必要がある。(申告された)収入額と(申告された)貯蓄額の差額――すなわち、年間の消費額――から一定の額を控除した上で累進税率を課すわけだ。富裕層の消費(消費額)に対して高い税率を課したとしても、それほど大きな犠牲を伴わずに税収を増やせるだろうというのがフリードマンの見立てだ。低・中所得層の生活の安定を確保するのが国家にとって重要な目的の一つであるようなら――多くの有権者はそう思っているようだが――、そのための財源を捻出する手段はあるのだ。

「寛大で、思いやりがある人」というのが、誰もが揃って口にするフリードマン評だ。弟子や信者の多くとは違って、人生において運が果たす役割にもよくよく気付いていた。フリードマンの功績から真摯に何かを学び取ろうとする者なら誰であれ、セーフティーネットの解体ではなく、セーフティーネットの改良を目指すことだろう。

Paul Krugman 「『流動性の罠』の下でのインフレ目標:日本経済に埋め込まれた排中律」(1999年2月)



噂によると、日本銀行がインフレ目標の採用を検討しているらしい。プラスのインフレ率を上限値にするんだとか。朗報だ。自分たちが置かれている状況をとうとう理解し始めたらしいことを意味しているわけだから。でも、本当にそうなんだろうか? 何とも言えないところだ。なぜなら、噂として聞こえてくるインフレ率の目標値があまりにも低過ぎるからだ。噂通りなんだとしたら、自分たちが置かれている状況をまだちゃんと理解していないんだろう。「流動性の罠」に嵌ってしまったら、かなり高めのプラスのインフレ率を目指すか、ノロノロ続くデフレを受け入れるかのどちらかを選ぶしかないのだ。中道なんてないのだ。

その理屈は単純なんだけれど、なかなか理解してもらえないみたいだ。均衡実質金利――完全雇用に達した場合に貯蓄と投資(海外純投資を含む)が等しくなる金利――がマイナスで(“Japan: still trapped”で説明したように、「流動性の罠」に嵌るというのは、均衡実質金利がマイナスになることなのだ)、失業が発生しても物価はすぐには下がらないとしよう。予想インフレ率が低過ぎて実質金利が均衡実質金利の水準にまで下がらないようなら――例えば、マイナス3%の実質金利が「必要」とされているのに、予想インフレ率がプラス1%でしかないようなら――、完全雇用が達成できずに緩やかなデフレが続くことになるだろう。そうなったら、インフレ目標の信用もすぐに地に落ちて、ふりだしに戻っちゃうだろう。

インフレ目標がうまくいく可能性があるのは、目標値がかなり高く設定されてそのことが信用される場合に限られるのだ。言い換えると、インフレが起きるくらいに景気が刺激される場合に限られるのだ。目標値が低過ぎるようなら、失敗する運命にあるのだ。

「調整インフレ」案を和らげたがる人――「物価安定を目指しちゃいけないのでしょうか? 例えば、1%のインフレ率を目指しちゃいけないのでしょうか?」とかいうふうに穏健にしたがる人――がいるけど、肝心なことがわかっていないのだ。“Japan's trap”でも述べたように、日本がデフレ圧力に晒されているのは、インフレが必要とされているからなのだ。そのために、今の物価水準を将来の期待物価水準よりも引き下げようとする力が働いているのだ。それと同時に景気が低迷しているのは、物価というのはなかなか下がらないし、その過程で痛みを伴わないわけにはいかないからだ。

これまでの話に抵抗を感じるのもよくわかる。政策当局者たちは、逆説的に聞こえる話には慣れていないし、どうにかして中道を歩もうと試みるのが彼らの本能だからだ。でも、日本経済に埋め込まれている排中律〔注1〕は、学者の頭の中にある抽象的な屁理屈なんかじゃない。筋道立った分析から導かれる避けられない結論なのだ。

最後に太字でまとめておこう。

目標値が十分に高くない限り、日本におけるインフレ目標は失敗に終わるだろう。

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〔注1〕かなり高めのプラスのインフレ率を目指すか、ノロノロ続くデフレを受け入れるかのどちらかを選ぶしかない(中道なんてない)、という意味。

2025年5月14日水曜日

David Beckworth 「不換紙幣から商品貨幣へ ~ソマリアのケース~」(2013年2月12日)

David Beckworth, “From Government Fiat Money to Private Commodity Money: the Case of Somalia”(Macro Musings Blog, February 12, 2013)


1991年に政権が崩壊して以降のソマリアでの「お金事情」について、ローレンス・ホワイト(Lawrence H. White)&ウィリアム・ルーサー(William Luther)の二人が興味深い研究を行っている(こちらとこちら)。彼らの論文から一部を抜粋しておこう。

貨幣の供給をどのように管理すべきかについて、過去数十年にわたって数多くの研究がなされてきている。興味深いことに、1991年に政権が崩壊して以降のソマリアで、貨幣の供給を自生的に管理するメカニズムが粗いかたちながらも出現してきているようだ。市中に流通する紙幣の量を制限できる力を持つ政府が不在であるのに乗じて、海外の印刷業者と手を組んで偽札を輸入して儲けようとする勢力が現れた。しかしながら、国内での通常の取引では1991年以前に発行された紙幣しか受け取ってもらえないので、国内に持ち込まれる偽札の量に制限が課せられる格好になった。額面が大きい紙幣を偽造しても儲けられないからである。1000ソマリア・シリングの対ドルレートは1991年から2008年までの間に0.30ドルから0.03ドルに減価したが、その後はそのレートで安定した。1000ソマリア・シリング紙幣を一枚偽造するのに要する費用(およそ0.03ドル/3セント)と等しくなったからである。

つまりは、贋金つくりに手を染める連中でさえも合理的な計算を行っているわけだ。限界費用(一枚の紙幣を偽造するのに要する費用)が限界便益(一枚の紙幣を偽造することによって得られる儲け)と等しくなるところまで偽札の発行を続けたというわけだから。その結果として、ソマリア紙幣の価値は、偽札を作るために要する費用と等しくなる水準にまで低下した。一枚の偽札を作るためにかかる紙代、インク代、プリンター代、電気代、海外からの輸送費等々の合計と等しくなる水準にまで低下したのだ。私からすると、ソマリアで出回っている偽札は一種の商品貨幣のように見える。政府が機能していない破綻国家であるにもかかわらず、ソマリアの経済がほどほどの安定を保っているのはこの商品貨幣のおかげだ。ソマリアで進行中の貨幣をめぐる魅惑的な実験は、商品貨幣から不換紙幣へという貨幣史の定番の流れに逆行している。ソマリアでは、不換紙幣(政府が独占的に発行する不換紙幣)が商品貨幣(民間で自由に発行される商品貨幣)に取って代わられているのだ。ブログ界における貨幣史の第一人者であるコーニング(J. P. Koning)がソマリアで起こっていることからどんな教訓を引き出すか楽しみだ。



David Beckworth 「『ゼロ下限制約』に達しても『流動性の罠』に陥ることはそうそうない」(2011年5月6日)

David Beckworth, “Liquidity Traps Are Very Unlikely, Even at the Zero Bound: A Rejoinder to Matt Rognlie”(Macro Musings Blog, May 6, 2011)


マシュー・ログリー(Matthew Rognlie)がタイラー・コーエン(Tyler Cowen)を難詰している。「流動性の罠」なんて存在しないと語るコーエンに反論を加えているのだ。「流動性の罠」が存在することを滔々と述べ立てた後に、ログリーは以下のように締め括っている。

しかしながら、希望は少しも残されていないというわけじゃない。Fedにやれることはまだあるのだ。名目金利の今後の経路についての予想に働きかけるという手もある。通常とは違うかたちで債券を大量に購入して、ポートフォリオのリバランスを引き起こして満期が長めの金利の低下を促すという手もある。・・・(略)・・・ゼロ%は制約ではないと言い回るのだけはよしてもらいたい。悲しいかな、ゼロ%は制約なのだ。

政策金利がゼロ%という制約に達しても、「流動性の罠」に陥ることはそうそうない。皮肉なことに、上に太字で引用した部分こそがまさにその理由になっているのだ。このことを理解してもらうためには、「流動性の罠」というのがどういう状況なのかをまずは思い起こす必要がある。「流動性の罠」というのは、貨幣に対する需要が無限に弾力的になる状況のことである。すなわち、中央銀行がどんなことをしても、貨幣に対する需要に何の影響も及ぼせない状況なのだ。「流動性の罠」に陥ると貨幣に対する超過需要が生じて、そこから派生する問題を金融政策で解決することができなくなってしまうのである。

ログリーの言い分によると、中央銀行が操作対象にしている短期金利(政策金利)がゼロ%に達したら、「流動性の罠」に陥ることになるという。政策金利だけが貨幣に対する需要に影響を及ぼすと想定するなら、その通りだろう。しかしながら、かつてミルトン・フリードマン(Milton Friedman)が主張したように、貨幣に対する需要は、政策金利を含む金利のスペクトラム(満期の異なる様々な金利)によって影響されるのだ。そうだとすると、政策金利がゼロ%に達したとしても、Fedにやれることは依然としてたくさんあることになる。Fedが長期国債だとか社債だとかの利回り――これらの利回りも貨幣に対する需要に影響を及ぼす重要な要因というのがフリードマンの考えだった――を低下させることができたら、貨幣に対する需要にも影響を及ぼせるわけであり、「流動性の罠」に陥らずに済むことになるのだ。

たった今述べたことは、上に太字で引用した箇所でログリーが述べている「ポートフォリオのリバランス」を引き起こす背景になっている。Fedが長期国債を購入したらその利回り(長期金利)が低下する可能性があるが、そうなるとポートフォリオのリバランスが引き起こされることになる。民間の経済主体が株式だとか実物資本だとかの高リスク資産を購入するようになるのだ。それに伴い、貨幣に対する需要が低下することになる。すなわち、Fedが長期国債を購入したらポートフォリオのリバランスが引き起こされると主張するのは、政策金利がゼロ%という制約に達したとしても「流動性の罠」に陥ることはないと主張しているに等しいのだ。ポートフォリオのリバランスが引き起こされると語るログリーは、「流動性の罠」の存在に懐疑的なコーエンの肩を持っていることになるのだ。

ところで、貨幣に対する需要が金利のスペクトラムによって影響されることを示す証拠はあるのだろうか? 過去に目を向けてもその証拠をいくつか見出すことができるし(例えば、こちらやこちらを参照)、最近についてもその証拠はある。以下の3つのグラフがそれだ。貨幣の流通速度(セントルイス連銀が発表しているMZMの流通速度)と各種の金利(3カ月物の短期国債の利回り、10年物国債の利回り、社債の利回り)との間に密接なつながり(相関)があることが示されている(決定係数の値はいずれも0.7を超えている)。 





政策金利がゼロ%に達したからと言って、「流動性の罠」に陥るとは限らないのだ。「流動性の罠」に陥るためには、貨幣に対する需要に限りが無くなる必要があるのだ。そうなれば、デフレが起きることになるのだ。さらには、政策金利がゼロ%に達して貨幣に対する需要に限りが無くなるようなことが仮にあったとしても、ピーター・アイルランド(Peter Ireland)がクルーグマンの「流動性の罠」モデルを使って示しているように(pdf)、人口が成長するようなら、マネーサプライが増えるのに伴って分配効果が生じて、そのおかげで「流動性の罠」に陥るのを避けられるのだ。

現状はどうなのかというと、貨幣に対する需要が高止まりしているせいで景気の足が引っ張られているのは確かだが、「流動性の罠」からは程遠い。すなわち、貨幣に対する超過需要が生じているせいで引き起こされている問題を解決するためにも、総需要(名目支出)を刺激するためにも、金融政策にできることは依然としてたくさんあるのだ。こちらの記事で私なりにそのための具体的な提案を行っているので、参照していただきたいと思う。

(追記1)ジョシュ・ヘンドリクソン(Josh Hendrickson)もログリーに反論している〔拙訳はこちら〕。

(追記2)しばらく前のブログエントリーになってしまうが、「流動性の罠」についてのスコット・サムナー(Scott Sumner)の見解もあわせて参照されたい。

Josh Hendrickson 「流動性の罠」(2011年5月9日)

Josh Hendrickson, “Liquidity Traps”(The Everyday Economist, May 9, 2011)

 
「流動性の罠」の有意義な定義としては、貨幣(現金残高)に対する需要に限りが無い状況というのくらいしか考えられない。貨幣(現金残高)に対する需要に限りが無いようなら、民間の経済主体は現金をいくらでも溜め込もうとするので、その必然的な結果として金融政策は無力になってしまうだろう。

例えば、中央銀行がFF金利(短期名目金利)に誘導目標を定めているとしよう。もしもFF金利がゼロ%に達したら、FF金利をそれ以上引き下げることはもはやできなくなってしまう。しかしながら、実質金利を引き下げる余地は残されている。標準的な貨幣理論によれば、中央銀行がマネーサプライを増やせばインフレ率が高まることになる。インフレ率が高まれば実質金利が低下して、総需要が刺激されることになる。

ところで、ポール・クルーグマン(Krugman 1998)(pdf)とラルス・スヴェンソン(Svensson 1999)(pdf)が提示しているモデルでは、名目金利がゼロ%に達すると、貨幣(現金残高)に対する需要に限りが無くなるようになっている。すなわち、名目金利がゼロ%の下限に達すると、マネーサプライを増やしても民間の経済主体によってそのまま溜め込まれてしまうのである。それゆえ、中央銀行は物価水準に影響を及ぼせなくなる。金融政策が無力になってしまうわけである(念の為に指摘しておくと、クルーグマンは金融政策がその力を取り戻す可能性についても言及している。中央銀行がインフレ期待を喚起することできるようなら、総需要を刺激できる可能性があるというのである。しかしながら、この点についてはしばらく脇に置いておくとしよう)。「流動性の罠」に嵌ることなんてあり得ないと無下に否定するわけにはいかないようだ。どういう条件が成り立てば「流動性の罠」に嵌るのかを真剣に検討する必要がありそうだ。

クルーグマンとスヴェンソンのモデルで「流動性の罠」に陥るのはどうしてかというと、貨幣が純資産(net wealth)ではないからである。貨幣が民間部門における純資産ではないせいで、マネーサプライが増えても実質残高効果(real balance effect)が生じないのだ。だからこそ、マネーサプライが増えても民間の経済主体によってそのまま溜め込まれてしまうのである。

ピーター・アイルランド(Ireland 2005)(pdf)によると、クルーグマンのモデルに人口の成長を組み込むと、実質残高効果が生じることになって、「流動性の罠」に陥るのを避けられるという。換言すると、人口が成長するようだと、貨幣を純資産に転換するような分配効果が生じるというのである。マネーサプライが増えると、民間部門における純資産が増えて、そのおかげで「流動性の罠」に陥るのを避けられるというのである。

これまでに触れてきたどのモデルも、政策金利がゼロ%の「ゼロ下限制約」に達した場合の金融政策の役割について理解する上で重要な示唆を投げかけている。その絡みで言うと、デビッド・ベックワース(David Beckworth)のこちらのブログエントリー〔拙訳はこちら〕を読んだ時には我が意を得たりと思ったものだ。「流動性の罠」に陥る可能性を認めながら、それと同時に金融政策がポートフォリオのリバランス(調整)を引き起こす可能性を説くのは矛盾しているというのがベックワースの言い分で、まさにその通りである。「流動性の罠」に陥っているなら、貨幣に対する需要に限りが無くなっているので、中央銀行による公開市場操作は何の効果も持たないだろう。中央銀行が債券を買い入れて市中に貨幣を注入しても、そのまま溜め込まれるだけだからだ――中央銀行がいかなる種類の債券を購入しようとも結果は変わらない――。「流動性の罠」に陥っている状況では、貨幣と他のあらゆる資産との間に違いがなくなる(完全に代替的になる)のだ。1968年にブルナー(Karl Brunner)&メルツァー(Allan H. Meltzer)の二人が指摘しているように(経済思想の歴史を学ぶことが重要なのはなぜなのかを物語っていると言えよう)。

ところで、マシュー・ログリー(Matthew Rognlie)がベックワースのエントリーのコメント欄に登場して反論を加えているが、それを読んで困惑してしまった。ログリー曰く、

まずはじめに強調しておきたいのは、言葉の定義には興味がないということです。中央銀行が金利に影響を与える手段を一切持ち合わせていない状況を指して「流動性の罠」と呼ぶのだとしたら、そういう意味での「流動性の罠」に嵌ることはないというが私の考えです。言葉の定義にこれ以上深入りするのを避けるためにも、私が言わんとすることを次のように言い換えるとしましょう。ゼロ下限制約に達すると、金融政策を通じて景気を刺激するのがずっとずっと難しくなる。ゼロ下限制約に達すると、金融政策の性質がそれまで(ゼロ下限制約に達する前)と根本的に変わる。

ログリーは、因果の向きを取り違えてしまっているようだ。私にしてもベックワースにしても、金融政策が無力であることを意味するように「流動性の罠」を「定義」しているわけじゃない。金融政策が無力になるというのは、「流動性の罠」の定義から必然的に導かれる結果なのだ。「貨幣に対する需要に限りが無くなっている」という定義に同意するか否かで、「流動性の罠」に陥る可能性を受け入れるかどうかも決まるのだ。「ゼロ下限制約に達すると、金融政策の性質がそれまで(ゼロ下限制約に達する前)と根本的に変わる」という主張は、「流動性の罠」に陥る可能性があるかどうかという話とは別物だ。「ゼロ下限制約」と「流動性の罠」を同一視すべきではないのだ(ベックワースも述べているように)。

ログリーはさらに次のように述べている。

あいにくなことに、量的緩和に起因するポートフォリオ・リバランス効果の大きさが些細ならざるものかどうかははっきりしません。エガートソン&ウッドフォード(Eggertsson&Woodford 2003)(pdf)は、一定の条件が成り立つようなら、量的緩和はポートフォリオのリバランスを一切引き起こさないという無関連命題を証明してさえいるのです。

確かにその通りである。ただし、エガートソン&ウッドフォードのモデルは、クルーグマンのモデルにいくらか手を加えた拡張版だということをおさえておくのは大事だ。クルーグマンのモデルと同じように、人口の成長が組み込まれていないので、分配効果が生じないようになっているのだ。つまりは、貨幣が純資産ではないことが仮定されていて、それゆえに実質残高効果が生じないのである。以下のように述べるログリーも実はそのことを密かに認めていることになるのだ。

エガートソン&ウッドフォードの無関連命題は、リカードの等価定理の変種の一つと言えるでしょう。公共部門のバランスシートのリスクを最終的に引き受けるのは民間の経済主体(消費者)なので、国債を所有しているのが民間部門から公共部門に変わっても何の違いも生じないのです。

同じようなアナロジーを持ち出している(「貨幣の超中立性」を「リカードの等価定理」の変種の一つと見なして分析を加えている)のがフィリップ・ウェイル(Weil 1991)(pdf)だが、ウェイルも指摘しているように、分配効果が生じないせいで貨幣が純資産ではないからこそ成り立つ結果なのだ。エガートソン&ウッドフォードのモデルでは、仮定によって分配効果が生じないようになっているのだ。

「流動性の罠」についてだけでなく、「流動性の罠」に陥るのはどういう条件が成り立つ場合なのかについても誤解があるようだ。「ゼロ下限制約」と「流動性の罠」を結びつけて論じるのが慣わしとなっているが、必ずしも同一視できないのだ。金融政策を論じる時には、「ゼロ下限制約」と「流動性の罠」の違いに気を配る(あるいは、言葉の定義にもっと注意を払う)のが大事なのだ。

2025年5月13日火曜日

Tyler Cowen 「ハインツ社のトマトケチャップがピッツバーグで根強い人気を誇っているのはなぜ?」(2009年4月22日)

Tyler Cowen, “Why is Heinz Ketchup still so popular in Pittsburgh?”(Marginal Revolution, April 22, 2009)


JPE(ジャーナル・オブ・ポリティカル・エコノミー)誌に掲載されているブロネンバーグ(Bart J. Bronnenberg)&ダール(Sanjay K. Dhar)&デューベ(Jean-Pierre Dubé)の共著論文より。

本稿では、アメリカ国内の計50の大都市で販売されている計34品の日用品のブランドを対象に、「先行者」の優位が持続することを示す証拠を提示する。それぞれのブランドの現時点の市場シェアは、発祥地に近い都市においてほど高い傾向にある。6つの業界についてはそれぞれの都市でトップブランドが販売を開始した順番がわかっていて、販売を開始した順番が早いブランドほどその都市での現時点の市場シェアが高いだけでなく消費者の評価も高い傾向にあることが見出されている。

草稿版はこちら(pdf)。具体的には、以下のような結果が見出されている。

1800年代後半ないしは1900年代初頭に販売を開始して今でも業界を引っ張っている計49のブランドに関して言うと、発祥地に近い都市での現時点での市場シェアは、全土における現時点での市場シェアよりも12パーセントポイント高い傾向にあることが見出されている。

先行者の優位というのはだいぶ長続きするようで、驚きだ。ミラー社のビールがシカゴで販売されたのは1856年に遡るが――シカゴが発祥の地というわけではないが、一番乗り――、他のどの都市においてよりもシカゴで優位な立場にあるのは今も変わらないのだ。ハインツ社のトマトケチャップがピッツバーグで販売されたのは1876年に遡るが、他のどの都市においてよりもピッツバーグでの市場シェアが今でも相変わらず高いのだ。

どういうメカニズムが働いているのだろうか? 小売店との密接な関係が長続きしているおかげなのだろうか? 地元(あるいは地元の近く)が発祥のブランドに対する愛着が育まれて、それが世代を超えて伝わるのだろうか? 発祥の地で暮らしていた住民と何らかの理由――人口構成だとか民族構成だとかのように、時が経過しても変わりにくい何らかの理由――でもともと相性がよかったのだろうか?

Neil Irwin 「ケチャップ発言を巡るミステリー 〜発言の主は噂通りの人物? それとも・・・?〜」(2013年5月12日)

Neil Irwin, “The mystery of Ben Bernanke and the Japanese ketchup is solved!”(Wonkblog, May 12, 2013)


中央銀行をテーマとした拙著で、「FRBの現議長、ケチャップ、日本銀行」が絡むちょっとしたミステリーについて言及している。そのミステリーは今や解かれた、というのが私の考えだ。

遡ること10年前の2000年代初頭。アメリカの政府高官や経済学者たちは、日本政府に対して――とりわけ、日本銀行に対して――、ひっきりなしに次のようなコメントを寄せていた。日本経済がデフレから脱却するために、あなた方はもっと積極果敢に行動する必要がある、と。当時FRBの理事だったベン・バーナンキ(Ben Bernanke)も、そのように訴えていた一人だった。

日本銀行の役員の間で長年にわたって語り継がれていて、リチャード・クー(Richard Koo)が自らの著書の中で取り上げている逸話がある。バーナンキが2003年の5月に訪日した時に、次のように主張したと言われているのだ。中央銀行は、いつだってインフレを起こすことができるはずだ。市中に貨幣を注入するために金融資産を購入するだけでは足りないようなら、何か他のものを買うことだってできる。それこそ、トマトケチャップを買うことだってできる。そうすれば、市中に流通する貨幣の量を増やせるし、物価を上昇させられるのだ。

ケチャップとは、何とも面白い例である。しかし、ここに問題が控えている。バーナンキ本人は、ケチャップを例に持ち出した覚えがないばかりか、本当に自分がそのように発言したのか極めて懐疑的なのである。先にも触れた拙著で日本がテーマの章を執筆している段階では、バーナンキの記憶違いなのか、日本銀行の役員の間で噂が広まるうちに話が事実とは違うかたちで伝わってしまったのか、確信が持てないでいた。かつて東京に滞在していた時に日銀の元スタッフ数人からこの逸話を耳にしたことはあったが、バーナンキのケチャップ発言を目の前で聞いたという人は一人もいなかった。そのため、拙著では、バーナンキがケチャップ(あるいは、それと似た何か)を例として持ち出したかどうかについては、真偽不明の未解決問題ということにしておいたのだった。

今や謎は解けたと言えるかもしれない。当時米財務省で勤務していたトニー・フラット(Tony Fratto)から、次のような話を聞いたのである。彼の記憶によると、ジョン・テイラー(John B. Taylor)と一緒に日本銀行を訪れたことがあるという。テイラーは、スタンフォード大学に籍を置く経済学者で、当時は財務次官(国際経済担当)を務めていた。新聞の切り抜きから判断すると、彼らが日銀を訪れたのは2002年10月のようだが、その時にテイラーがケチャップ発言をしたのを聞いたというのだ。

フラットは、メールで次のように答えている。「私たちが東京を訪れたのはなぜかというと、不良債権の処理をもっと速やかに進めるだけでなく、量的緩和をもっと積極的に実施するように、日本の政策当局者を鼓舞するためでした。あの時のジョンは、ややおどけた調子で意見を述べていましたが、ケチャップ発言も何気なく口を衝いて出た感じでした。ジョンは、日本銀行(金融研究所)の顧問を長年にわたって務めていて、そこで働いているみんなと懇意な間柄にありました。あの時のことは、よく覚えています」。

例として持ち出されたのは、抽象的な「ケチャップ」じゃなかったらしい。フラットの記憶によると、テイラーは、ケチャップの具体的な銘柄まで口にしたらしいのだ。

「ジョンも私もピッツバーグ出身で、日本への移動中はピッツバーグのあれこれについて情報交換し合ったり語り合ったりしていました。ジョンは、『ケチャップパケット』とだけ述べたんじゃありません。『ハインツのケチャップパケット』と述べたんです」。

どうやらこれが真相のようである。あの何とも愉快なケチャップ発言の主は、テイラーだったのだ。何度も語り継がれているうちに、テイラーと同じように高く評価されているアメリカ出身のマクロ経済学者で、同じく公職に転じ、ほぼ同じ時期に日本を訪れた別の人物の発言として入れ替わってしまったのだ。

テイラーによると、日本銀行を訪れた時にケチャップ発言をしたかどうかまでは詳しく覚えていないものの、大学の講義で学生に金融政策について説明する時にケチャップを例に持ち出すのが恒例になっているのは確かだという。テイラーは、メールで次のように答えている。「これまで長年に(何十年にも?)わたって、スタンフォード大学での経済学入門の講義で公開市場操作のエッセンスを説明する時に、ケチャップを例に持ち出してきました。『ケチャップが巷にたっぷり存在するようなら、Fedはケチャップを買うことだってできる』みたいな感じで。金融政策の働きについて学生たちが理解しやすくて記憶に残りやすいように配慮したジョークの一種としてですが」。

さて、もう一つのアイロニーがある。テイラーとバーナンキが日本を訪れて、もっと積極的な金融政策に打って出るように日本銀行に発破をかけてから10年以上が経過しているが、つい最近になってそのアドバイスが遂に聞き入れられた。安倍晋三首相率いる新政府と黒田東彦新総裁率いる日本銀行が、インフレ率を2%にまで引き上げるために必要なことは何でもすると誓ったのである。これまでのところは、口だけではないように見える。新たに刷った貨幣で国債が無制限に買い入れられているのだ。

しかしながら、巷間伝えられるところによると、日本銀行が新たに刷った大量の円でトマトケチャップ――ハインツのケチャップ、あるいは、その他の銘柄のケチャップ――を購入している様子はないようだ。

2025年5月12日月曜日

Gauti Eggertsson 「アベノミクスとフランクリン・ルーズベルト」(2013年4月4日)

Gauti B. Eggertsson, “Abenomics and FDR”(Economic Notes, April 4, 2013)


過去数ヶ月の間に経済政策の分野で起こった最も注目すべき出来事は、日本銀行と日本政府がデフレからの脱却に向けて金融政策と財政政策を「協調させる(コーディネートさせる)」決意をはっきりと固めたことだろう。新しい首相(安倍晋三)の名前にちなんで「アベノミクス」と呼ばれ出しているが、長年にわたって続いたデフレから脱却して年率およそ2%のインフレ率を達成することが目標として掲げられている。その目標を達成するための手段についてもあれこれと概要が伝えられている。

去る1月(2013年1月)に日本政府と日本銀行が共同で声明を出していて、デフレから脱却するために政策を協調(連携)させることが誓われている。その声明はこちら(pdf)〔日本語版はこちら(pdf)〕。

本日(2013年4月4日)になって、日本銀行がさらなる行動(「量的・質的金融緩和」)に乗り出すことが発表された。その概要はこちら(pdf)〔日本語版はこちら(pdf)〕。

何が意図されているかは明らかだ。インフレ期待を喚起して実質金利を引き下げるというのがまず第一だ。デフレではなくインフレが予想されるようになれば、実質金利が低下する。そうなると、お金を将来のためにとっておくよりも今すぐに使おう(支出しよう)という気になる。つまりは、インフレ期待が喚起されたら、通常の金融政策と同じような経路を通じて総需要が刺激されると予想されるのだ。次に、借り手が負う債務の負担を和らげるというのが第二だ。ほどほどのインフレになれば、借り手が負う債務の負担が和らいで、そのおかげでまたもや総需要が刺激されるかもしれない。景気が大きく落ち込んでいる中で過剰な債務が積み上がり、その圧縮(「デレバレッジ」)を余儀なくされている家計なり企業なりが少なくないケースにおいては特に。 

興味深いことに、アベノミクスと極めて似通った政策が1933年に米国の大統領に就任したばかりのフランクリン・D・ルーズベルトによって試みられている。政策レジームを構成する要素の大半がそっくり同じで、目標とするインフレ率が違うくらいだ。ルーズベルト大統領の方がアベノミクスよりも高めのインフレ率の達成を目標にしていたのだ――ルーズベルト大統領は、不況に陥る以前の水準にまで物価を引き上げる(リフレートする)ことを誓ったが、それはかなり高めのインフレ率を受け入れることを意味していた。この点については、2008年に書かれた拙論文(pdf)を参照していただきたい――。「ニューディール」政策の中でもこの要素は大きな成功を収めて、アメリカ経済が1933年から1937年にかけて急速な景気回復を成し遂げるのに貢献したというのが私の判断だ――しかしながら、うまくいった一連の政策も “Mistake of 1937”(pdf)(「1937年の過ち」)によって放棄されてしまい、アメリカ経済は再び不況に陥る羽目になってしまった――。これまでに日本政府が発表している政策も経済成長を加速させるのに同じように大いに役立つに違いないというのが私の判断だ。しかしながら、2%というインフレ率の目標値がちょいと低いのではないかというのが気がかりではある。どうなるかはこれからわかるだろう。ともあれ、私なりに何よりも肝心だと思うのは、日本政府がルーズベルト大統領と同じように「リフレーション」(“reflation”)を最優先課題に掲げて、リフレーションを達成するために必要なことなら何でもするつもりであることを前面に出していることだ。

ルーズベルト大統領が政策実験に乗り出した直後に放映された「インフレの宣伝」動画を以下に貼り付けておこう。講義で学生たちと一緒に視聴したこともある。インフレが総需要を刺激する二通りの経路については上でも述べたが、この動画でそのどちらについても触れられているのに気付くだろう――私がずっと前から取り組んでいる主要な研究テーマが第一の経路だ。例えば、こちらの論文(pdf)とか、マイケル・ウッドフォードとの共著論文(pdf)とかで分析を加えている。第二の経路(再分配経路)については、ポール・クルーグマンとの共著論文(pdf)で分析を加えている――。 



David Henderson 「ロナルド・コース 〜『黒板経済学』に異を唱えた男〜」(2013年9月4日)

David R. Henderson, “The Man Who Resisted ‘Blackboard Economics'”(Wall Street Journal, September 4, 2013)


つい先日のレイバーデー(Labor Day)に102歳で逝去したロナルド・コース(Ronald Coase)は、20世紀に活躍した経済学者の中でも誰よりも稀有な存在だった。取引費用が現実の経済に対してどのような影響を及ぼすかをめぐって鋭い分析を展開し、その洞察に対して1991年にノーベル経済学賞が授与されている。75年の学者人生を通じて彼が執筆した重要な論文は1ダース程度しかなく、論文で数学を使うこともほとんどあるいはまったくなかった。しかしながら、彼が経済学に及ぼした影響は深くて大きい。

20代前半の若かりしコースは、社会主義者だった。しかしながら、他の大半の社会主義者には欠けている特徴を持ち合わせていた。それは何かというと、現実の経済の働きに対する好奇心である。1931年から1932年にかけて、故郷のイギリスを離れてアメリカに旅行に出掛けた時のことだ。コースは、ノーマン・トーマス(Norman Thomas)――社会主義の政党(アメリカ社会党)から大統領選挙に出馬した泡沫候補の一人――のもとをひょっこり訪ねるだけでなく、フォードやゼネラルモーターズの工場にも立ち寄った。そのことをきっかけに、次のような疑問を抱くに至る。アメリカでは、幾つかの大企業がうまくやっているように見える。そうだというのに、ロシア経済を一つの大きな工場のように運営するのは可能だと考えているレーニンは間違っているというのが経済学者たちの言い分だ。どうなってるんだ?

この疑問に対するコースなりの回答が寄せられているのが、1937年に執筆されてその後数多く引用されることになる論文 “The Nature of the Firm”(「企業の本質」)である。企業は、(中央)計画経済と似ているところもあるが、違いもある。企業は、人々の自発的な選択を通じて形成される。どうしてそのような選択を行うのだろう? その理由は、「市場を利用することに伴うコスト」(“marketing costs”)が存在するためだ――あるいは、現代流に表現すれば、「取引費用」(“transaction costs”)が存在するためだ――というのがコースの答えだった。市場を利用するのにコストが一切かからないようなら、企業を作ったところで何の意味もないだろう。人々は、個々の独立した存在として、必要に応じてその都度取引を行うだろう。しかしながら、市場を利用するのにコストがかかるようなら、企業の内部で生産(取引)を組織化するのが最も効率的となる可能性がある。企業なるものが存在している理由についてコースが1937年の論文で与えている説明は、その後に大きく発展することになる研究領域を生み出すきっかけになったのだった。

コースが1960年に執筆した論文 “The Problem of Social Cost”(「社会的費用の問題」)も、その後に大きく発展することになる研究領域――「法と経済学」(“law and economics”)――を生み出すきっかけになった。コースのこの論文が登場するまでは、大半の経済学者は「外部性」の問題についてアーサー・ピグー(Arthur Pigou)の考えを受け入れていた。例えば、牧場で飼われている牛が隣接する農家に入り込んで、作物を踏み荒らしているとしよう。どうすべきだろうか? ピグー流の考えでは、政府が牧場主に牛の自由な放牧を禁ずるか、牛の放牧に対して税金を課すべきだということになる。そうでもしないと、牧場主としては牛が隣の農地を荒らさないように防ぐインセンティブがないので、農作物が牛に荒らされっ放しになってしまうだろうというのである。

コースは異を唱えた。重要な機会が見逃されているというのである。牧場主は、牛が農作物を荒らさないように手配するのと引き換えに、農家からお金を支払ってもらえばいいのだ。もしも取引費用がゼロであるようなら――コース自身は「取引費用がゼロ」という想定が現実に成り立つとは考えていなかったことを念押ししておこう――、農家も牧場主もどちらも得する合意に達することができる(どちらも得する取引を実現できる)のだ。

例えば、牛一頭から得られる金銭的な利益がネットで(飼育に要する費用を差し引いた上で)20ドルだとしたら、農家から牧場主に対して20ドルを超える支払いがなされるようなら、牧場主は牛をさらにもう一頭飼うのをやめるのに同意するだろう。その一方で、一頭の牛が農作物に及ぼす被害が30ドルだとしたら、牧場主が牛をさらにもう一頭飼うのをやめさせるために、農家としては30ドルまでなら喜んで支払うだろう。牛の放牧に対してピグー税を課すべきかというと、それほどはっきりと「イエス」とは言えなくなるわけである。

コースの1960年の論文に含まれている洞察の中でもとりわけ刺激的なのは「取引費用がゼロ」の場合に成り立つ結論であると考えたのが、ジョージ・スティグラー(George Stigler)――1982年のノーベル経済学賞受賞者――だ。「取引費用がゼロ」の場合に成り立つ結論に「コースの定理」(“Coase Theorem”)という名前を冠したのも、スティグラーだ。取引費用がゼロなら、(たとえ外部性が存在していても)政府が介入する必要は一切ないと説くのが「コースの定理」というわけだ。

その一方で、「取引費用がゼロ」の場合に成り立つ結論は取るに足りないと考えたのが、イリノイ州立大学シカゴ校に籍を置く経済学者のディアドラ・マクロスキー(Deirdre McCloskey)だ。マクロスキー女史の考えでは、コースの1960年の論文に含まれている洞察の中でもとりわけ興味深いのは、「取引費用がプラス」である現実の世界で成り立つ結論についてだった。取引費用がプラスなら、裁判所が賠償責任(liability)を誰(どの主体)に割り当てるかが重要な意味を持つことになる。例えば、牧場主と農家の先の例――牧場主にとっての牛の価値(20ドル)が、牛が農作物にもたらす損害額(30ドル)を下回っているケース――で、裁判所が牧場主に牛を飼う権利を認めたら、プラスの取引費用が存在するせいで効率的な解決策が阻まれる可能性があるのだ。

コース自身は、ピグーの考えだけでなく、(「取引費用がゼロ」のケースを重視した)スティグラーの考えも拒否して、どちらの考えも「黒板経済学」の典型だと嘲(あざけ)ったのだった。

コースが1974年に執筆した論文 “The Lighthouse in Economics”(「経済学における灯台」)も有名だ。経済学者は、灯台を「公共財」――政府だけが供給できる財――の例として持ち出すことがある。しかしながら、コースが歴史を詳細に調べてみたところ、19世紀のイギリスでは灯台(のサービス)が私的に供給されていて、港に立ち寄った船から(灯台のサービスを享受した見返りとして)代金が徴収されていたことが明らかになったのである。港に立ち寄らずにそのまま通り過ぎる船もあったが、灯台の運営・管理が商売として成り立つに足るだけの船が港に立ち寄って代金を支払っていたのだ。

コースによるこの発見は、経済学者がそれまで抱いていた見解に打撃を加えた。フリーライダー(ただ乗り)問題のせいで、灯台を私的に運営・管理するのは無理だと考えられていたのである。それに加えて、1974年の論文は、コースの持論を裏付けてもいる。経済学者は、黒板の上で問題を解いてよしとするのではなく、現実の経済(市場)を研究する必要があるという彼の持論を。

コースは、1959年に執筆した論文で、連邦通信委員会(Federal Communications Commission)は不要だと主張した。電磁スペクトルは、市場で自由に売り買いしたらいいというのである。周波数の稀少性だけを特別視すべき理由なんて一切ない。市場で取引されているどの財(経済財)にしても、同じく稀少なのだからというのである。当時は馬鹿にされた言い分だったが、今では経済学者の間でほぼ標準的な見解となっている。

コースは、1964年から1982年にかけてJournal of Law and Economics誌の編集者を務めた。その間の同誌には、政府による規制に批判的な論文が数多く掲載された。コースも強調しているが、政府による規制はうまくいきようがない(「市場の失敗」を解決できない)という意味で批判的なわけではなく、実際にうまくいっていない――同誌に掲載された論文で検討されているほぼすべてのケースで――という意味で批判的だったのである。政府による規制は、カルテルの形成を促したりその他のネガティブな結果をもたらしていたのだ。

コースは、政府による規制に信を置く知識人たちを苛立たせるような指摘を行っている。あなた方が信じておられるように、財市場に対する規制がそんなにうまくいくようなら、アイデア市場(言論の自由)に対する規制はなおさらうまくいくでしょう、というのである。

その理由は? 1997年のReason誌でのインタビューで、コースは次のように語っている。「消費者にとっては、アイデアの善し悪しを判断するよりも、モモの缶詰の善し悪しを判断する方が簡単でしょう」。多くの知識人は、コースがアイデア市場に対する規制を強化せよと訴えていると受け取った。しかしながら、コースにはそんな気はなかった。コースの真意としては、財市場に対する規制を是とする根拠の弱さを(政府による規制に無批判に信を置く)知識人たちに気付かせたかったのである。

Gregory Mankiw 「現金をどれくらい持ち歩くべきか?」(2007年9月4日)

Gregory Mankiw, “How much cash to hold”(Greg Mankiw's Blog, September 04, 2007)


ブライアン・カプラン(Bryan Caplan)が、財布にどれくらい現金を入れておくべきかを問うている。

大学(ジョージ・メイソン大学)でのランチの時間に、二人の経済学者(A氏&B氏)が財布にどれくらい現金を入れておくべきか(現金をどれくらい持ち歩くべきか)をめぐって意見を戦わせた。A氏が持ち歩いている現金は、ほんの少しだけ。クレジットカードで基本的に何でも買えるからというのがその理由だ。B氏はというと、現金をたくさん持ち歩いている。現金を手元に持っているせいで得られなくなる金利なんて無に等しいし、貴重な時間をできるだけ無駄にしたくない(現金を持ち歩いていたら時間を節約できる)というのがその理由だ。

あなたは、どちらに肩入れするだろうか? その理由は? 「時間の価値」および「現金を手元に持っているせいで得られなくなる金利」の具体的な計算結果もお待ちしている。

(追記)教科書に載っているような貨幣需要モデルは持ち出さないでもらいたい。知りたいのは、一般的な枠組みではなく、具体的な答えなのだ。

カプランは、教科書に載っているモデルをあまりにも安易に退けてしまっているようだ。現金管理に関するボーモル=トービンモデル――貨幣需要の在庫理論アプローチ――は、単なる「一般的な枠組み」というにとどまらない。「具体的な答え」も導き出せるのだ。拙著である中級マクロ経済学の教科書の18章の練習問題の一つで学生たちに現金をどう管理すべきかを問うているが、あれは簡単な数値例を使ったボーモル=トービンモデルの応用問題なのだ。

例えば、ジョージ・メイソン大学に籍を置く某経済学者が1日に使う現金は10ドルだとしよう。ATMまで足を運んでお金をおろすのに10分かかって、彼にとって1時間は60ドルの値打ちがあるとしよう。銀行にお金を1年間預けていたら、5%の利子が得られるとしよう。これだけの情報があれば、ボーモル=トービンモデルから具体的な予測を導き出すことができるのだ。某経済学者は、1年のうちにATMに3回足を運んで、そのたびに1200ドルを銀行口座から引き出すべきなのだ。言い換えると、1年を通じて財布の中に平均で600ドルが入っているようにすべきなのだ(この予測を裏付ける方程式の詳細については、拙著をご確認いただきたい)。

大半の人の財布には(1年を通じて平均で)600ドルも入っていない。ずっと少ない現金しか持ち歩いていない。1年のうちにATMに足を運ぶ回数も3回どころじゃない。もっとずっと多い。モデルから導かれる予測と違っているのは、なぜなのだろう? 謎だ。中級マクロ経済学の講義で格好の題材となるに違いない謎だ。モデルと現実が食い違っているのはなぜなのかをめぐって、実りある討論ができるだろう。 

現金を無くすのを心配しているから、というのが考え得る理由の一つだ。現金を紛失する(あるいは、盗まれる)確率が p だとすると、現金を保有する機会費用は(r+p)〔訳注;rは金利〕へと高まることになる。しかしながら、p に具体的な値を代入してみると、難があることにすぐ気付く。2週間に1回はATMに足を運ぶとかいう現実と合致する予測をモデルから導き出すためには、p の値をだいぶ大きくしないといけないのだ。現実にはあり得ないほど財布をしょっちゅう落とすと想定しないといけないのだ。

持ち歩いている現金の額がモデルから導き出される予測と大きく食い違っているのはどうしてなのかと学生たちに尋ねたら、お金を持ってたらつい使ってしまうかもしれないからだ、という答えがあちこちから返ってくることだろう。興味深い行動仮説だ。お金をポケットに入れておいたら焼け穴を作って出ていってしまう――お金を持っていたら、つい使ってしまいたくなる誘惑にとらわれる――おそれがあるが、銀行に預けておいたらその心配もないというわけだ。この仮説で私自身の行動がうまく説明できるとは思わないので、私としてはこの仮説にそこまで説得力を感じないが、多くの学生は共鳴するんじゃなかろうか。教師としてのこれまでの経験からそう言えそうだ。

2025年5月11日日曜日

Bradford DeLong 「J. S. ミル 対 ECB:ワルラスの法則で世界経済の現状を読み解く」(2010年7月29日)

J. Bradford DeLong, “John Stewart Mill vs. the European Central Bank”(Project Syndicate, July 29, 2010)


経済学の知られたくない秘密の一つは、「経済理論」と名乗れるようなものなんてどこにもないことだ。現実の経済現象に切り込む時に足場として頼れるような一揃いの根本原理なんてものがないのだ。財政緊縮を求める声が世界中でこだましているが、是非とも心に留めておいてもらいたいのは、このことだ。

例えば、生物学者であれば、細胞内でのタンパク質の合成は、DNAにコード化されていることを知っている。化学者であれば、ハイゼンベルグの不確定性原理とパウリの排他原理という二つの原理(それに加えて、空間の三次元性)に遡って、電子配置が安定しているのはなぜなのかを語る。 物理学者であれば、自然界の4つの力に遡ってあれやこれやの説明を試みる。

経済学者には、そのような足場がない。理論を支えていると称する「経済原理」なんてものは、まやかしなのだ。根本的な真理なんかではなく、「正しい」結論を導き出すために弄(いじ)ったり捻ったりできるドアノブみたいなものに過ぎないのだ。

「正しい」結論と言っても、その経済学者がどちらのタイプかによってその意味するところは違う。第一のタイプの経済学者は、まずはじめに政治的なスタンスを決める。どの陣営の味方になるかを決める。そして、自分が選んだ政治的なスタンスに合致する――自分の味方にとって都合がいい――結論が導かれるまで、理論の前提を弄ったり捻ったりする。第二のタイプの経済学者は、まずはじめに歴史の残骸を拾ってくる。次いでそれを鍋に投げ込んで、加熱して煮込む。骨だけになるまで煮込む。その骨から何らかの教訓が得られるかもしれないと願って。ユートピアの実現に向けてノロノロと徘徊する時に、有権者、官僚、政治家に指針を与える原理のヒントが得られるかもしれないと願って。

意外でも何でもないだろうが、第二のタイプの経済学者だけが傾聴に値する何かを語れるというのが私の考えだ。そこで、世界経済の当面の窮状について、歴史からどんな教訓が学べるか探ってみるとしよう。

1829年に、ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)は、彼が「全般的な供給過剰(“general gluts”)」と呼んだ現象にどう立ち向かえばいいかを明らかにした。そのおかげで知的な面で大いなる飛躍が成し遂げられたのだった。ミルは悟った。特定の金融資産に対する超過需要〔需要が供給を上回る状態〕が存在する裏には、生産物市場における財・サービスの超過供給〔供給が需要を上回る状態〕が存在するということを。生産物市場における財・サービスの超過供給は、労働市場における超過供給を生み出すということを。

そこからさらに一歩進めてどのようなことが言えるかも、明らかだった。すなわち、金融資産に対する超過需要を和らげることができたら、財・サービスの超過供給(つまりは、総需要の不足)も労働の超過供給(つまりは、失業)も和らぐのだ。

金融資産に対する超過需要を和らげる方法はたくさんある。

支払い手段として使われる流動的な資産――すなわち、「貨幣」――に対する超過需要が発生しているようなら、中央銀行が貨幣を発行して国債を買い取るのが正攻法である。その結果として、マネーストックが増えて(=「貨幣」の供給量が増加し)、「貨幣」の供給量(残高)と「貨幣」に対する需要量とがつり合うようになる。この方法は、「金融政策」と呼ばれている。

満期が長めの金融資産――現在から将来へと購買力を移転させる「価値の貯蔵手段」として機能する「債券」――に対する超過需要が発生しているようなら、正攻法は二通りある。第1の手段は、企業が借入を増やして(社債の発行を増やして)事業を拡大する方向にどうにかして持っていくことである。第2の手段は、政府が借入を増やして(国債の発行を増やして)政府支出の規模を拡大することである。その結果として、「債券」の供給量(残高)と「債券」に対する需要量とがつり合うようになる。第1の手段は「信頼回復」策と呼ばれていて、第2の手段は「財政政策」と呼ばれている。

安全資産――一時的にその場を離れて戻ってきても、預けた富を前の通りの姿でかくまっていてくれる安全な保管場所――に対する超過需要が発生しているようなら、(マーケットからの)信用度の高い(creditworthy)政府が民間の金融資産に対して政府保証を与えたり、民間の金融資産を国債と取り換えたりするというのが正攻法である。その結果として、リスク資産の供給量(残高)が減少して、安全資産の供給量(残高)が増えることになる。この方法は「資産転換政策」と呼ばれている。

言うまでもないが、現実の世界で試みられる政策は、上の理念型のどれか一つにぴったりと合致するわけじゃない。欧州中央銀行(ECB)は、財政刺激策をこれ以上続けたら逆効果になってしまうと懸念を露にしているが、ECBのその懸念を上の理念型を使って読み替えると、以下のようになるだろうか。「政府支出をさらに増やして、大規模な財政赤字を継続すれば、国債の供給量(残高)が増えることになるので、満期が長めの金融資産に対する超過需要が和らぐだろう。しかしながら、政府債務(国債)の残高が膨らんで政府の債務返済能力を上回るようなら、すべての国債が(安全資産から)リスク資産に変わってしまうだろう。 すなわち、財政刺激策をこれ以上続けたら、満期が長めの金融資産に対する超過需要は和らぐ一方で、安全資産が不足してしまうことになるのだ。そうなれば、状況は前よりも悪くなる」。

ECBの主張によると、北側の主要な国――ドイツ、フランス、イギリス、アメリカ、日本――は、今すぐにも財政緊縮策に方向転換する必要があるという。それらの国の債務(国債)の質に対する金融市場の信頼が揺らいでいて、その信頼がいつ崩壊するかもわからないというのだ。世の政策当局者たちも、ECBの主張に賛同しつつあるようだ。その例の一つが、米国行政管理予算局(OMB)長官であるピーター・オルザグ(Peter Orszag)が7月後半に口にした発言だ。オルザグによると、アメリカ政府が今後3年間にわたって取り組む予定の財政再建では、過去60年で最大規模の歳出削減が試みられるだろうというのだ。

しかし、私の目には、世界経済の現状は大きく違って見える。北側の主要な国の政府が発行する債務(国債)の質に対する金融市場の信頼が揺らいでいるようには見えない。その信頼が崩壊する瀬戸際にあるようには見えない。私の目に映るのは、生産能力を10%下回っていて、失業率が10%に迫ろうとしている世界の姿である。そして何よりも、主要な国の政府が発行する債務(国債)に対して投資家が大きな信頼を抱いている世界の姿である。投資家の多くにとって、政府債務(国債)こそが直近の嵐の中で唯一の安全な港になっているのだ。

ミルであればこのような状況でどのような政策を勧めたかは、あまりにはっきりしている。