Alan S. Blinder, “Keynesian Economics”(The Concise Encyclopedia of Economics, Library of Economics and Liberty)
ケインズ経済学(Keynesian economics)は、経済における総支出(total spending)-総需要(aggregate demand)とも呼ばれる-に関する理論であり、総需要が生産やインフレーションに及ぼす効果を理論的に研究する立場の一つである。これまで種々雑多なアイデアに対して「ケインズ経済学」という用語が(時に誤って)あてがわれてきたが、ケインズ経済学の中心的な教義(tenet)は以下の6つのポイントから成っているのではないかと思われる。はじめの3つのポイントは、現実の経済のメカニズム(経済はどのように機能するか)に関する視点をまとめたものである。
1. 総需要は様々な経済上の意思決定-民間部門における意思決定と公共(政府)部門における意思決定-によって影響を受け、時に不規則に変動する。
(総需要に影響を与えるような)公共部門における意思決定の最たるものは、金融政策と財政政策(政府支出と税金に関する政策決定)である。数十年前のことになるが、経済学者の間で財政政策と金融政策の相対的な有効性を巡って熱い議論が交わされたが、ケインジアンの中のある者は「金融政策は無力である」と主張し、マネタリストの中のある者は「財政政策は無力である」と主張したものである。しかしながら、現在ではこの問題は実質的にもはや争点ではなくなっている。今ではケインジアンであれマネタリストであれほとんど皆が財政政策も金融政策もどちらもともに総需要に影響を及ぼす、と信じているのである。しかしながら、経済学者の中には債務の中立性(リカードの中立命題)-ある一定水準の政府支出を税金で賄う代わりに借り入れ(国債発行)で賄うように資金調達の方法を変更したとしても総需要には効果は生じない、というアイデア-を信じている者もいる(この点に関しては後でもまた触れる)。
2. 総需要の変化は-それがあらかじめ予測されていようがそうでなかろうが-短期的には、価格に対してではなく、実質GDPと雇用とに対して最も大きな影響を及ぼす。
例えば、このアイデアは、失業率の低下に伴ってインフレーションがごく緩やかに上昇することを示すフィリップスカーブによっても捉えられているところである。ケインジアンは、「長期において成立すること」から「短期において成立すること」(短期において何が正しいのか)を推測することは必ずしもできず、また、現実の我々は短期の世界に生きているんだ、と信じている。この信念を要領よく伝えるために、ケインジアンはケインズの有名な言葉-「長期的に見ると、我々は皆死んでしまう」( “In the long run, we are all dead” )-をしばしば引用する。
金融政策が生産や雇用に対して影響を及ぼし得るのは名目価格の中で硬直的なものが存在する場合-例えば、名目賃金(ドル(や円)で測った賃金)が即座には調整しなかったりする場合-に限ってである。もしいずれの価格も硬直的でなければ、経済に対して新たに貨幣が注入されてもすべての価格が同じ割合だけ上昇するだけに終わるだろう。そこで、一般的にはケインジアンのモデルでは名目価格ないしは名目賃金の硬直性があらかじめ前提されるか、あるいは、なぜ名目価格や名目賃金が硬直的であるのかその説明が試みられることになる。標準的なミクロ経済学によれば、すべての名目価格が比例的に変化する場合には実質的な生産量や需要量に変化が生じるはずがないので、なぜ名目価格(のうちのあるもの)が硬直的であるのかを合理的に説明することは厄介な理論上の問題であると言えよう。
ケインジアンは、名目価格のうちのあるものは幾分か硬直的であり、総需要の構成要素-消費、投資、政府支出-のいずれかが変動すればそれに伴って生産の変動が引き起こされる、と見なしている。例えば、政府支出が増加して総需要のそれ以外の構成要素に変化がないとすれば生産は増加する、と見なすのである。また、経済変動に関するケインジアンのモデルの特徴としていわゆる乗数効果も重要である。つまりは、総需要に生じた変化はその何倍もの生産の変化をもたらす、と見なされているのである。政府支出が100億ドルだけ増加すると総生産は150億ドル増加することもあれば(乗数が1.5のケース)、50億ドル増加することもあり得るのである(乗数が0.5のケース)。ケインジアンの分析では乗数は1以上であることが必要だ、と広く信じられているが、そのようはことはない。乗数はゼロより大きければ(プラスであれば)よいのである。
3. 名目価格、特に名目賃金は生産や需要の変化に対して緩やかにしか反応せず、その結果として周期的に不足や過剰(特に、労働市場における不足や過剰(労働の超過需要や超過供給))が発生する。
あのミルトン・フリードマン(Milton Friedman)でさえ、「考え得るどのような制度的な仕組みの下であっても、そして現在アメリカ経済に広く普及している制度的な仕組みの下では確かに言えることだが、名目価格や名目賃金の柔軟性(伸縮性)には限りがある。」(原注1)(“under any conceivable institutional arrangements, and certainly under those that now prevail in the United States, there is only a limited amount of flexibility in prices and wages.”)、と認めているところである。現在の基準に照らせば、このフリードマンの発言はケインジアン的な立場の表明と受け取られることだろう。
以上の3つのポイントだけからはいかなる政策処方箋も引き出されることはない。また、自らをケインジアンだとは見なさない経済学者の多くも以上の3つのポイントすべてを受け入れることだろう。ケインジアンとその他の経済学者との違いは、経済政策に関する以下の3つの教義を信じるかどうかという点にある。
4. 現実において典型的に観察される失業の水準は理想的な水準ではない。というのも、経済は総需要の気まぐれな変動にさらされているからであり、また、価格調整は緩やかにしか進まないからである。
ケインジアンは、現実の失業は平均的に見てあまりにも高すぎ、あまりにも変動が激しすぎる、と見なす傾向にある-この現実認識を理論的に厳密に正当化することは困難であるとはよくよくわかっていながらも。また、「景気後退や不況=それほど魅力的ではない機会の出現に対する市場の効率的な反応の結果」と見なす実物的景気循環(リアルビジネスサイクル)理論とは異なり、ケインジアンは「景気後退や不況=一種の経済的な疾病(economic maladies)」である、と確信している。
5. 景気循環をすべての経済問題の中でも最も重要な問題と位置付け、景気循環の振幅(変動の大きさ)を和らげるために積極的な経済安定化政策の実施を求める(ただし、多くのケインジアンがそう考えているのであって、すべてのケインジアンがそう考えているというわけではない)。
保守派寄りのケインジアンの中には、経済安定化政策の効果に疑いを抱いたり、経済安定化政策を試みることが果たして賢明なのかと訝しんで、この教義を受け入れない経済学者も存在する点は指摘しておこう。
積極的な経済安定化政策の実施を求めるとはいってもファインチューニング(fine-tunig;微調整)-経済が完全雇用の状態にとどまり続けるよう促すために、政府支出や税金やマネーサプライを毎月ごとに細かく調整すること-を求めているわけではない。今日ではほとんどすべての経済学者-大半のケインジアンも含む-は、政府はファインチューニングを成功裏に進め得るほど十分に素早く行動できるわけでもなく、また(ファインチューニングを成功裏に進め得るほど)十分に知識を備えているわけでもない、と信じている。ファインチューニングを困難にするような3タイプのラグが存在しているのである。第1のラグは、政策変更の必要性が生じてから政府がそのこと(政策変更の必要性が生じたこと)を認識するに至るまでのラグである。第2のラグは、政府が政策変更の必要性を認識してから実際に政策が実施されるまでのラグである。アメリカのような国では特に財政政策の変更に関してこの第2のラグが非常に長くなり得る。政府支出や税金の内容を変更するためには議会と政府との同意が必要となるからである。そして第3のラグは、実際に政策が実施されてから(政策が変更されてから)政策の効果が表れるまで(政策が経済に影響を与えるまで)のラグである。このラグもまた長くなり得るものである。しかしながら、多くのケインジアンは、(ファインチューニングに比べて)もっと控えめな経済安定化政策-コースチューニング(coarse-tuning;粗い調整)とでも呼べよう-を目指すことは擁護し得るし分別ある立場でもある、と信じている。例えば、失業率が非常に高い水準にあるような状況では、金融緩和策の実施を勧告する上で、ラグの具体的な長さに関する細かな知識を持ち合わせている必要はないであろう。
6. インフレ退治(インフレーションの抑制)よりも失業退治(失業を減らすこと)のほうに関心を払う(ケインジアンであれば皆が皆そう考えているというわけではない)。
低インフレがもたらすコストが小さいことを示す証拠に基づいてこの教義を受け入れるに至ったケインジアンがいる一方で、反インフレ的なケインジアンもたくさん存在する。そう呼ばれることを好むかどうかにかかわらず、過去から現在までに至る世界中のセントラルバンカーの大半は反インフレ的なケインジアンだと言えるだろう。指摘するまでもないが、失業とインフレーションの相対的な重要性に関する見解の違い(失業とインフレのどちらに重きを置くかの違い)は、経済学者がどのような政策アドバイスを勧告し、政策当局者がどのような政策アドバイスを聞き入れるかに大きな違いを生み出す。ケインジアンは、ケインジアンではない経済学者と比べると、よりアグレッシブな緩和策を勧告する傾向にある。
経済安定化に向けた政府の積極的な行動を支持するケインジアンの信念は、価値判断と以下の2つの信念、すなわち、(a)マクロ経済の変動は人々の経済的な福祉(economic well-being)を大きく減ずるものであり、(b)政府は自由市場の働き(あるいは欠陥や機能不全)を改善し得る程度には知識も能力も備えている、という信念とに基づくものであると言える。
1980年代に勃発したケインジアンと「新しい古典派」(new classical)との間のちょっとした論争は、主に(a)の信念とケインズ経済学を特徴づけるはじめの3つの教義(1~3)-1~3の教義に関してはマネタリストも同じく受け入れていた-をめぐって争われたものであった。新しい古典派の経済学者は、あらかじめ予測されたマネーサプライの変化は実質的な生産量(実質GDP)に影響を与えることはなく、また市場-労働市場でさえも-は不足や過剰の解消に向けて素早く調整するものであり、さらには景気循環はもしかしたら効率的であるかもしれない、と信じていた。この後で明らかにする理由に照らして、私自身は、こういった論点に関する「客観的な」(“objective”)科学的な証拠はケインジアンの立場を強く支持するものである、と信じている。1990年代に入ると、新しい古典派も、価格は硬直的であり、そのために労働市場はかつて彼ら(新しい古典派)が考えていたほどには(不足や過剰の解消に向けて)素早く調整するものではない、という見解を受け入れるところとなったのであった。
「ケインズ経済学」の定義から離れて別の話題に転じる前に、これまでに意図的に避けてきた(避けてはならないように思われる)いくつかの論点についてここで強調しておかねばならないだろう。
避けてきた論点その1。合理的期待形成学派についてはこれまで一切触れてこなかった。経済政策に関する期待を形成するにあたって人々は利用可能な情報をすべて利用する、という合理的期待形成学派の見解に関しては、ケインズ自身もそうだが多くのケインジアンも疑わしく思っている。ただし、ケインジアンの中には合理的期待形成のアイデアを受け入れている者もいることはいる。ただ、私自身がこれまでに興味を向けてきた大きな争点のいずれも期待が合理的に形成されるかどうかにはほとんど影響されない、ということは指摘しておこう。例えば、合理的期待形成は価格の硬直性を排除するものではなく、価格の硬直性を伴う合理的期待形成モデルは私の定義によればまごうことなくケインジアン的なモデルである。しかしながら、新しい古典派の経済学者の中には合理的期待形成こそがケインジアンと新しい古典派との論争において(他のどの論点にもまして)ずっと本質的な論点だと考えている者もいることは明記しておくべきだろう。
避けてきた論点その2。長期的な失業の「自然な水準」が存在する、という仮説(自然失業率仮説)について。1970年以前においては、ケインジアンは、長期的な失業の水準は政府の政策に依存しており、政府は高めの-しかしその高い水準で安定した-インフレーションと引き換えに失業率を低下させることができる、と信じていた。しかしながら、1960年代の後半にマネタリストであるミルトン・フリードマンとケインジアンであるエドモンド・フェルプス(Edmund Phelps)とによって、失業とインフレーションとの長期的なトレードオフというアイデアに対して理論的な反駁が加えられたのであった。政府が現実の失業率を「自然失業率」以下の水準に保っておくことができる唯一の方法は、インフレの絶えざる加速(インフレ率の継起的な上昇)をもたらすようなマクロ経済政策を通じてのみである、と言うのである。長期的には現実の失業率は自然失業率を下回ることはできない、というわけである。フリードマン=フェルプスによる自然失業率仮説の発表後間もなくして、ノースウェスタン大学のケインジアンであるロバート・ゴードン(Robert Gordon)によってフリードマン=フェルプスの見解を支持するような実証的な証拠が提示され、1972年頃以降になるとケインジアンも自然失業率仮説を受け入れるところとなったのであった。そういう次第で、1975年~1985年の期間にわたって繰り広げられた(ケインジアンと新しい古典派との)激しい論争の過程で自然失業率仮説は何らの役割も果たすことがなかったのである。
避けてきた論点その3。経済安定化政策として金融政策と財政政策とのどちらが望ましいと言えるか、という論点もまたこれまで触れてこなかった話題である。この話題に関しては経済学者によって意見が異なり、自らの立場を変更するような経済学者も時折見受けられる。私の定義によれば、ケインジアンでありながら、経済安定化の責務は原則的には金融政策当局に委ねられるべきである、あるいは、実際のところそうなっている、と信じる、というのは何の問題もなしに成り立ち得る立場である。実際のところ、今では大半のケインジアンはこの2つの信念(訳注1)のうちどちらか一方あるいは両方ともに受け入れるかたちとなっている。
1970年代中頃から1980年代中頃にかけてケインジアンの理論はアカデミックな世界において散々な誹謗中傷を受けることになったが、1980年代中頃以降になるとケインジアンの理論は強力なカムバックを果たすことになった。その主たる理由は、ケインズ経済学のほうがライバルである新しい古典派よりも1970年代と1980年代に生じた経済上の出来事をうまく説明できた点にある、と思われる。
その「古典派」というルーツに忠実に、新しい古典派は、名目賃金や名目価格の下落を通じて景気後退を克服する市場経済の能力を強調した。1970年代中頃当時、新しい古典派は、景気後退の原因は相対価格(例えば、実質賃金)の動向を人々が誤って認識することにあり、そういった認識の誤りは人々が現下の一般物価水準やインフレ率を知らない場合に生じるだろう、と主張した。 しかし、物価指数の統計が毎月ごとに発表され、月ごとのインフレ率が1%を下回るような状況では、そういった認識の誤りはあくまでも一時的なはずであり、それほど大きな誤りとはなり得ないだろう。そうだとすれば、初期の新しい古典派の立場からすると、認識の誤りに基づく景気後退はマイルドですぐに終わるはずである。しかし、実際には世界各国の工業国は1980年代を通じて厳しくて長い景気後退を経験することになったのである。ケインズ経済学は理論的にみると粗雑であるかもしれないが、非自発的失業が長らく持続するだろうことを正確に予測したのであった。
1970年代、1980年代当時の新しい古典派(初期の新しい古典派)の理論家によると、あらかじめ正しく認識されたマネーサプライ成長率の低下は実質的な生産量(実質GDP)に対して-影響を与えるとすれば-ごくわずかしか影響を与えないはずであった。しかしながら、FRBやBOE(イングランド銀行)がインフレを抑制するために金融政策を引き締めることをアナウンスし、その後アナウンス通り(約束通り)に行動した際に何が起こったかというと、アメリカでもイギリスでも深刻な景気後退が生じる結果になったのであった。新しい古典派の経済学者は、「金融引き締めは予測されざるものだった(というのも、金融政策当局のアナウンスを人々が本気で信じなかったからだ)」と反論するかもしれない。その反論ももしかしたらある程度は正しいのかもしれないが、金融引き締めは大枠では予測されており、あるいは少なくとも金融引き締めがアナウンスされた際には正しくそのように認識されていたのである。企業や家計は、インフレに応じて価格が自動的に改訂されるような契約ではなく、価格が固定された契約を結んでいるために、いかなる金融引き締めも景気を冷え込ませる効果を持つだろう、と主張する古臭いケインジアンの理論のほうが現実をうまく捉えているように思われるのである。
新しい古典派から派生したアイデアとしては、ハーバード大学のロバート・バロー(Robert Barro)によって定式化された債務の中立性に関するアイデアがある。バローのアイデアを簡潔に述べると以下のようになろう。インフレーションや失業、実質GDP、実質的な国民貯蓄は、政府が一定水準の政府支出を賄うために高い税金を課すか(この場合財政赤字は低水準)それとも低い税金を課すか(この場合財政赤字は高水準)によっては影響されないはずである。というのも、人々は合理的なので、今日における低い税金(と高水準の財政赤字)は将来における高い税金を意味すると正しくも認識し、人々は将来(将来の自分自身あるいは自らの子孫)の税負担の増加分と同じ金額だけ今日の消費を切り詰めて貯蓄の増加に向かうだろうからである。こうして生じる民間貯蓄の増加は財政赤字の増加を完全に相殺するはずである。一方で、ナイーブなケインジアンの分析によると、政府支出の水準が変わらないままでの財政赤字の増加は総需要の増加を意味することになる。1980年代初頭のアメリカで実際に起こったように、(財政赤字の増加による)総需要への刺激が金融引き締め政策によって相殺されるようならば、ケインジアンの分析が予測するところでは実質金利は大きく上昇するはずである。ケインジアンの分析によると、このような状況において民間貯蓄が増加する理由はない、ということになろう。
1981年から1984年の間にアメリカで実施された大幅な減税はケインジアンと新しい古典派のどちらの見解が正しいかを検証する一種の実験テストの機会を提供することになった。現実には何が生じただろうか? 民間貯蓄は増加せず、実質金利は大きく上昇した。(大幅減税のかたちをとった)財政刺激策は金融引き締めによって相殺されたので、実質GDP成長率はほとんど影響を受けなかった。実質GDPはそれ以前の時期とほぼ同じペースで成長したのである。これら一連の事実もまた新しい古典派よりはケインジアンの理論と整合的であるように思われるのである。
最後に、ケインジアンと新しい古典派とは1980年代にヨーロッパで発生した不況-1930年代の不況以来最悪の不況-をそれぞれどのように説明するのだろうか? ケインジアンの説明は単純である。ケインジアンによれば、イギリスやドイツの中央銀行に先導されるかたちで各国の政府がインフレ退治に乗り出す決心をし、インフレの退治に向けてかなりの金融引き締めと財政引き締めが実施されたために不況が生じたのである。このインフレ撲滅運動の影響は、ドイツの断固たる金融引き締めをヨーロッパ中に拡散する役割を果たすかたちになったヨーロッパに特有の通貨制度によって強化されたのであった。一方で新しい古典派はケインジアンの説明に匹敵するような説明を持ち合わせていない。新しい古典派、そして広くは保守派の経済学者は、不況の原因は何かと尋ねられたら、ヨーロッパの各国政府が労働市場に深く介入しているからだ、とおそらくは主張することだろう(加えて、手厚い失業保険や労働者の解雇制限などにも言及することだろう)。しかし、ヨーロッパの各国政府による労働市場への介入の大半は、失業率が極めて低かった1970年代初頭時点でも既に存在していたのである。
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Further Reading(もっと深く学びたい人向けの文献紹介)
○Blinder, Alan S. “Keynes After Lucas(JSTOR)”, Eastern Economic Journal 12, no. 3 (1986): 209–216.
○Blinder, Alan S. “Keynes, Lucas, and Scientific Progress(JSTOR)”, American Economic Review 77, no. 2 (1987): 130–136. Reprinted in Mark Blaug, ed., John Maynard Keynes (1833–1946), vol. 2. Brookfield, Vt.: Edward Elgar, 1991.
○Gordon, Robert J. “What Is New-Keynesian Economics?(JSTOR)”, Journal of Economic Literature 28, no. 3 (1990): 1115–1171.
○Keynes, John Maynard. The General Theory of Employment, Interest, and Money. London: Macmillan, 1936.
○Mankiw, N. Gregory, and others. “A Symposium on Keynesian Economics Today.” Journal of Economic Perspectives 7 (Winter 1993): 3–82.
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原注
(原注1)“The Role of Monetary Policy,” American Economic Review 58, no. 1: 13.
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訳注
(訳注1)経済安定化の責務は原則的には金融政策当局に委ねられるべきであるという信念と経済安定化の責務は実際にも金融政策当局に委ねられるかたちになっているという信念。
2012年6月22日金曜日
2012年6月19日火曜日
Bennett McCallum 「マネタリズムの経済学」
Bennett T. McCallum, “Monetarism”(The Concise Encyclopedia of Economics, Library of Economics and Liberty)
マネタリズム(Monetarism)はマクロ経済学の一学派であり、以下の4点を強調する特徴がある。
まずは(1)から説明を加えていこう。例えば、マネーサプライが外生的にZ%増加したとしよう。このケースにおいて、諸々の調整が終了した後に、最終的に一般物価水準がZ%上昇して、実質変数(例えば、消費量、生産量、商品間の相対価格)に一切の変化が見られなければ、経済は「長期的な貨幣の中立性」の性質を備えていることになる。大半の経済学者は、現実の貨幣経済は少なくとも近似的には「長期的な貨幣の中立性」の性質を備えていると考えているが、マネタリストほどに「長期的な貨幣の中立性」を強調している経済学者のグループは他に存在しない。以上の議論に対して、現実の中央銀行はマネーサプライを外生的に変化させることはできないとの反論を寄せる人がいることだろう。確かにこの反論自体は正しいが、しかしながらこの反論は「長期的な貨幣の中立性」とは何の関係もない論点である。「長期的な貨幣の中立性」が成立するかどうかは、家計や企業が自らの需要や供給を選択するにあたって、財・サービス――消費され、また供給されることになる財・サービス――の数量のみに関心を持つかどうかにかかっているのである。家計や企業が財・サービスの数量にしか関心を持たないとすれば、経済は「長期的な貨幣の中立性」の特徴を示すことになり、上で例示した議論(訳注1)が妥当することになるのである(原注1)。自然失業率仮説も含めて他の中立性概念についてはもう少し後のほうで論じることにしよう。
次に(2)に進もう。終局的には「長期的な貨幣の中立性」が成り立つとしても、マネーサプライの変化に対して価格調整が緩やかにしか進まないようであれば、「短期的な貨幣の非中立性」が成り立つことになる。マネーサプライが変化するのに伴って、一時的に――価格調整が完了するまでの間に限って――実質GDPや雇用量といった実質変数も変化することになるのである。大半の経済学者は、「短期的な貨幣の非中立性」は現実において成り立つと見なしているが、マクロ経済学の重要な一学派である実物的景気循環理論(リアルビジネスサイクル理論)の擁護者は、「短期的な貨幣の非中立性」を否定している。
次は(3)である。実質利子率は、日常で普通に目にする利子率(名目利子率)に期待インフレ率の分だけ修正を加えたものである(訳注2)。現在消費と将来消費とのトレードオフに直面している合理的な経済主体は、最適化(異時点間にわたる効用の最大化)を実現するために、名目利子率ではなく実質利子率に基づいて意思決定を行う。名目利子率と実質利子率の区別は、1800年代にイギリスの銀行家であり経済学者でもあったヘンリー・ソーントン(Henry Thornton)によって早くも認識されており、1900年代の初期にアメリカの経済学者であるアーヴィング・フィッシャー(Irving Fisher)によっても強調されていた。しかしながら、名目利子率と実質利子率の区別は、1950年代にマネタリストが名目と実質を区別することの重要性を主張し始めるまでは、マクロ経済分析においてしばしば無視されていたのである。多くのケインジアンは原則としては名目と実質の区別を受け入れていたが、実際のところは、ケインジアンのモデルにおいてはしばしば名目利子率と実質利子率が区別されていなかったし、ケインジアンは、(実質利子率ではなく)名目利子率の水準に照らして金融政策のスタンスを判断していた。マネタリストは―― 一人残らず――インフレの克服に非貨幣的な手段(例えば、賃金・価格の直接的な統制やガイドラインの実施)を割り当てることは望ましくないと主張した。非貨幣的な手段は、市場の機能を歪めることになると考えたからである。その代わりに、マネタリストは、インフレーションはその本質において貨幣的な現象であることを強調した。それとは対照的に、当時のケインジアンの多くは、インフレーションを貨幣的な現象とは見なしていなかったのである。
最後に(4)である。初期のマネタリストは皆、金融政策を分析するにあたり、貨幣集計量――例えば、M1やM2、マネタリーベース――の役割を強調した。しかしながら、細かい点をめぐってはマネタリストの間で違いもあった。特にフリードマン=シュワルツとブルナー=メルツァーとの間では細かい点をめぐって意見の対立があった。フリードマンのよく知られた政策提案は、足許のマクロ経済の状況の如何にかかわらず、貨幣集計量を「月単位で、可能であれば日単位で、年率X%――Xには3~5の間にある数字を選べばよい――」(原注1)で増やすべし、というものであった(訳注3)。一方で、ブルナー=メルツァーも金融政策の運営にあたっては何らかのルールを課すべきであるという立場ではあったが、貨幣集計量の成長率を足許のマクロ経済の状況と結び付ける積極主義的なルール(activist rule)の利点を認識していた。また、ブルナー=メルツァーは(法定準備預金額の変化を反映するように調整が加えられた)マネタリーベースの動きを注視する一方で、フリードマンはM2やM1といったマネーサプライの動きを注視した(訳注4)。フリードマンは、中央銀行がマネーサプライを正確にコントロールできるようにするために、預金準備率を100%に設定する銀行システム改革案を提言してもいた。
フリードマンのk%ルールがマネタリズムの基本的な(k%ルール以外の)他の教義を差し置いて大きな注目を浴びた結果として、マネタリズムの理解や評価が歪められることになった。特に、フリードマンによる「インフレ加速」(“accelerationist”)仮説、あるいは、「自然失業率」(“natural-rate”)仮説は、その重要性の割には無視されてきたといえる。「自然失業率」仮説によれば、インフレーションと失業率とは長期的にはトレードオフの関係にはない。つまりは、長期的なフィリップス曲線は垂直ということになる。この点――インフレと失業率とは長期的にはトレードオフの関係にはない――は、ブルナー=メルツァーによっても盛んに主張されたところである。「自然失業率仮説」を加味すると、マネタリストにとって基本的な命題を以下の2点にまとめることができるだろう。
マネタリズムが経済学界で広く認知されるようになったきっかけは、フリードマンをはじめとするシカゴ大学に勤務する経済学者たちが1950年代に金融理論の分野で書いた一連の論文にある。これらの論文が経済学界の興味を引きつけた理由は、どの論文も新古典派経済学の基本原則に則って書かれていたからである。マネタリズムの台頭にとって最も決定的だったのは、フリードマンが1967年にアメリカ経済学会で行った会長講演である(この講演は、“The Role of Monetary Policy”とのタイトルで1968年に論文として発表された)。フリードマンは、この講演において、自然失業率仮説を展開するだけでなく――フリードマンは、既にその2年前に明瞭なかたちで自然失業率仮説を主張していた――、k%ルールを支持する論拠として自然失業率仮説を援用したのである。ほぼ同時期に、エドモンド・フェルプス(Edmund Phelps)――フェルプスはマネタリストではなかったが――も自然失業率仮説を主張していた。フリードマン=フェルプスの自然失業率仮説は、数年後に現実によって強力な支持を与えられることになったのである。
1970年代後半~1980年代前半になると、それ以前の10年間とは対照的に、マネタリズムの影響力は徐々に弱まっていった。その理由は、主に3つあると考えられる。第1の理由は、実証的なデータに照らして、貨幣需要関数が基本的に極めて不安定である――貨幣需要関数は、4半期ごとに大きく、それも予想できないかたちで、シフトする――と見なされるようになったことである。第2の理由は、合理的期待形成学派が台頭してきたためである――合理的期待形成学派の台頭によって、ケインズ経済学的な積極主義に敵対的な立場の経済学者が別々のグループに分散することになった(マネタリストの過半は、合理的期待仮説を速やかに受け入れることになった)――。そして第3の理由は、1979~1982年にFRBが乗り出した「マネタリズムの実験」(“monetarist experiment”)にある。第3の理由について以下で詳しく説明を加えることにしよう。
1970年代のアメリカでは、他の多くの工業国と同様に、平時においては前例がないほど高水準のインフレーションが数年にわたって続いた。この未曾有のインフレーションは、様々な「ショック」――石油価格の高騰、ベトナム戦争、そして何よりも1971~1973年にかけてのブレトンウッズ体制(国際的な固定為替制度)の崩壊(崩壊の原因の多くは、アメリカがドルと金との交換レートを維持できなくなったことによる)――の結果として生じたものだった。ブレトンウッズ体制の崩壊は、中央銀行に対して新たな重責を課すことになった。つまり、中央銀行は、一国の通貨に対して、金(gold)に代わる新たな名目的なアンカー(錨)を提供せねばならなくなったのである。FRBは、1970年代を通じて、インフレを克服する意思を何度か表明したが、いずれの試みもうまくいかなかった。そんな中、1979年10月6日にヴォルカー(Paul Volcker)議長率いるFRBは、従来の金融政策運営の手続きを大幅に変更し、新たな試み――その試みは、マネタリストの提案する政策手続きと際立った共通点を有していた――に踏み切る旨をアナウンスした。具体的に言うと、FRBは、M1の成長率に月ごとの目標を設定して、その目標を達成するように金融政策の舵を取ることになった。さらには、コントロールが容易な非借入準備(nonborrowed reserves)――「準備預金額(bank reserves)」マイナス「FRBからの借入額(borrowings from the Fed)」――の操作に重点が置かれることになった。FRBが以上のような変更に踏み切った理由は、インフレ率を2桁の水準から大幅に引き下げるため――具体的にどの程度の水準にまで引き下げるかは特定されなかったが――だった。
現時点から振り返ってみると、1979年10月から1982年9月にかけての一連の出来事は、高インフレの克服にとって必要な処置だったし、1990年代における世界的な低インフレの実現につながった実り多き試みだったと見なすことができよう。しかしながら、当時においては、この「実験」は多くのアメリカ人から歓迎されたわけではなかった。1979年後半には、金融引き締めの影響で短期金利が急上昇し、1980年に入ると、融資規制(credit control)が強化された影響で産出量(実質GDP)が大きく落ち込んだが、次の4半期には、融資規制が撤廃されたおかげもあって産出量は回復した。1981年から1982年の中頃にかけて金融引き締めが長期にわたって続いた結果として、1930年代の大恐慌(Great Depression)以来最も深刻な不況が到来し、インフレ率は多くの経済学者が予想した以上のスピードで低下した。さらには、この間に利子率もマネーサプライ成長率もどちらも大振れした。具体的には、1979年10月から1982年9月にかけて、M1の月ごとの成長率の標準偏差は、3.73(1979年10月以前の3年間のケース)から8.22へと上昇し、FF金利(federal funds rate)の月ごとの変化の標準偏差は、2.86から23.1(年率換算)へと急上昇することになったのである。
多くの批評家は、この「実験」をマクロ経済的な大惨事と総括した。さらには、この「実験」はマネタリズムの無効性を示す強力で決定的な証拠であると受け止める者もいた。この「実験」は、貨幣集計量の成長率を目標にして金融政策を運営することがいかに好ましくないかを示すものであり、非借入準備の操作を通じてM1の成長率をコントロールしようとする試みがいかに非現実的であるかを示すものである、というのである。その一方で、マネタリストたちは、この「実験」は、実のところ、マネタリスト的な教義に則ったものではなかったと主張した。①M1の成長率が月ごとに大きく変動していたし、②準備預金の積み立てが1カ月遅れでなされる仕組みになっていたせいでM1をコントロールするのが極めて難しくなっていたし、③FRBが足許の経済状況に応じて裁量的に反応するのを断じてやめずにいた、というのがその言い分である。現時点から振り返ってみると、FRBによる非借入準備の操作を通じた政策運営――非借入準備額に週ごとの目標を設定した上で、非借入準備の供給量を操作する――は、FRBが国民と円滑な関係を築く上では大いに効果があったように思える。というのは、「利子率の高止まり」という国民に人気のない結果が生じたとしても、FRBとしては「利子率が高いのは、市場需要が旺盛だからだ」(原注3)と言い逃れできたからである。それに加えて、見かけ上はマネタリスト的なアプローチを採用しているかのように振る舞っておいて、いざ「実験」が失敗したとなれば、マネタリズム(+FRBに対していつも文句ばかり言ってくるマネタリスト)に失敗の責任を被せることができたからである。時間が経過して全貌が明らかになると、この「実験」は―― 一時的には痛みを伴うものであったかもしれないが――戦略的な成功であったと見なされるようになり、「マネタリズムの失敗」という評価だけがそのまま残るという顛末になったのであった。
マネタリズムの教義のうちで今日まで受け継がれているものは何かあるだろうか? 異論はあるだろうが、いくつか確かなこともある。面白いことに、初期のマネタリストがケインジアンに迫った意見変更のいくつかは、今日ではマクロ経済学や金融論のスタンダードとして受け入れられるに至っている。いくつか例を挙げると、実質変数と名目変数を慎重に区別すべきこと、実質利子率と名目利子率を区別すべきこと、インフレーションと失業率との間には長期的なトレードオフは存在しないこと・・・などがそれだ。さらには、今では大半の研究者が、財政政策よりも金融政策の方が景気安定化政策として効果的であると同時に使い勝手がいいと少なくとも暗黙のうちに考えている。アカデミックな研究者や中央銀行のエコノミストの中には、実物的景気循環理論の立場から、金融政策は実質変数に影響を与えることができないと考える人もいることはいるが、おそらくその勢力はそこまで重要性を持たないだろう。1981~1983年のアメリカで起きた不況の原因が、FRBによる1981年の意図的な金融引き締め――事後的な実質利子率とM1の成長率に照らして、1981年に金融政策のスタンスが引き締めの方向に転じたことがわかる――にはないと信じるのは困難なのだ(訳注5)。
2005年現在、貨幣経済学(monetary economics)の専門家の多くは、自分のことをニューケインジアンのシンパ(共鳴者)と見なすことだろう。アカデミックな経済学者や中央銀行のエコノミストが金融政策について加えている分析を目にすると、貨幣集計量にわずかしか――あるいは、まったく――注意が向けられていないことがあるのも確かだ。しかしながら、理論分析のレベルでいうと、今日の主流的な立場は、かつてのケインジアン――例えば、1956年~1978年のケインジアン ――よりは、マネタリストの立場にずっと近いと言える。さらには、金融政策を運営するにあたって「裁量」(“discretion”)――どのように定義されようとも――よりも「ルール」に重きが置かれているのは明らかだし、インフレーションを極めて低い水準に保つことの重要性が強調されてもいる。マネタリズムの教義のうちで、今では見捨てられて実践されずにいるものがあるとすれば、それは貨幣集計量を強調する見解くらいである。
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Further Reading(もっと深く学びたい人向けの文献紹介)
●Brunner, Karl, and Allan H. Meltzer. “An Aggregate Theory for a Closed Economy.” In Jerome L. Stein, ed., Monetarism. New York: American Elsevier, 1976.
●Friedman, Milton. A Program for Monetary Stability. New York: Fordham University Press, 1959.
●Friedman, Milton. “The Role of Monetary Policy(pdf)”, American Economic Review 58 (March 1968): 1–17.
●Friedman, Milton, and Anna J. Schwartz. A Monetary History of the United States, 1867–1960. Princeton: Princeton University Press, 1963.
●McCallum, Bennett T. Monetary Economics: Theory and Policy. New York: Macmillan, 1989.
●Symposium: “Monetarism: Lessons from the Post-1979 Experiment(JSTOR)”, American Economic Review Papers and Proceedings 74 (May 1984): 382–400.
●Taylor, John B., ed. Monetary Policy Rules. Chicago: University of Chicago Press, 1999.
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原注
(原注1)正確には、長期的な中立性が成り立つためには「リカードの中立命題」が成立している必要がある。
(原注2)Milton Friedman, Capitalism and Freedom (Chicago: University of Chicago Press, 1962), pp. 54.
(原注3)この主張は、いくらか欺瞞的である。非借入準備の供給量が一旦決定されてしまえば、その時々の利子率の水準は非借入準備に対する需要の大きさによって決まってくるというのはその通りだ。しかしながら、「非借入準備の供給量」を決定する権限はFRBにあるのである。
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訳注
(訳注1)Z%のマネーサプライの増加がZ%の一般物価の上昇につながる。実質変数は変化なし。
(訳注2)期待実質利子率 ≒ 名目利子率-期待インフレ率
(訳注3)以下では、フリードマンによるこの提案を「k%ルール」と表現することにする。
(訳注4)つまりは、フリードマン=シュワルツとブルナー=メルツァーとの間では、どの貨幣集計量に注視すべきかという点についても違いがあったということ。
(訳注5)実物的景気循環理論が正しいようなら、金融引き締めの影響で不況が生じるはずがない。しかしながら、1981年の金融引き締めによって実際には不況が生じている。このことは、実物的景気循環理論の言い分とは異なり、金融政策が実質変数に影響を及ぼせることを示している・・・ということが言いたいのだろう。
マネタリズム(Monetarism)はマクロ経済学の一学派であり、以下の4点を強調する特徴がある。
(1)長期的な貨幣の中立性代表的なマネタリストとしては、ミルトン・フリードマン(Milton Friedman)、アンナ・シュワルツ(Anna Schwartz)、カール・ブルナー(Karl Brunner)、アラン・メルツァー(Allan Meltzer)がいる。アメリカ以外の国でマネタリズムの初期の発展に貢献した経済学者としては、デイビッド・レイドラー(David Laidler)、マイケル・パーキン(Michael Parkin)、アラン・ワルターズ(Alan Walters)の名前を挙げることができよう。ジャーナリズム――特にイギリスのジャーナリズム――においては、マネタリズムのことを自由市場を擁護する立場に結びつけがちだが、そのような捉え方は適当ではない。自由市場擁護の立場に立つ多くの論者は、よもや自分がマネタリストと名指しされようとは考えもしていないことだろう。
(2)短期的な貨幣の非中立性
(3)名目利子率と実質利子率の区別
(4)政策分析における貨幣集計量(monetary aggregates)の役割の強調
まずは(1)から説明を加えていこう。例えば、マネーサプライが外生的にZ%増加したとしよう。このケースにおいて、諸々の調整が終了した後に、最終的に一般物価水準がZ%上昇して、実質変数(例えば、消費量、生産量、商品間の相対価格)に一切の変化が見られなければ、経済は「長期的な貨幣の中立性」の性質を備えていることになる。大半の経済学者は、現実の貨幣経済は少なくとも近似的には「長期的な貨幣の中立性」の性質を備えていると考えているが、マネタリストほどに「長期的な貨幣の中立性」を強調している経済学者のグループは他に存在しない。以上の議論に対して、現実の中央銀行はマネーサプライを外生的に変化させることはできないとの反論を寄せる人がいることだろう。確かにこの反論自体は正しいが、しかしながらこの反論は「長期的な貨幣の中立性」とは何の関係もない論点である。「長期的な貨幣の中立性」が成立するかどうかは、家計や企業が自らの需要や供給を選択するにあたって、財・サービス――消費され、また供給されることになる財・サービス――の数量のみに関心を持つかどうかにかかっているのである。家計や企業が財・サービスの数量にしか関心を持たないとすれば、経済は「長期的な貨幣の中立性」の特徴を示すことになり、上で例示した議論(訳注1)が妥当することになるのである(原注1)。自然失業率仮説も含めて他の中立性概念についてはもう少し後のほうで論じることにしよう。
次に(2)に進もう。終局的には「長期的な貨幣の中立性」が成り立つとしても、マネーサプライの変化に対して価格調整が緩やかにしか進まないようであれば、「短期的な貨幣の非中立性」が成り立つことになる。マネーサプライが変化するのに伴って、一時的に――価格調整が完了するまでの間に限って――実質GDPや雇用量といった実質変数も変化することになるのである。大半の経済学者は、「短期的な貨幣の非中立性」は現実において成り立つと見なしているが、マクロ経済学の重要な一学派である実物的景気循環理論(リアルビジネスサイクル理論)の擁護者は、「短期的な貨幣の非中立性」を否定している。
次は(3)である。実質利子率は、日常で普通に目にする利子率(名目利子率)に期待インフレ率の分だけ修正を加えたものである(訳注2)。現在消費と将来消費とのトレードオフに直面している合理的な経済主体は、最適化(異時点間にわたる効用の最大化)を実現するために、名目利子率ではなく実質利子率に基づいて意思決定を行う。名目利子率と実質利子率の区別は、1800年代にイギリスの銀行家であり経済学者でもあったヘンリー・ソーントン(Henry Thornton)によって早くも認識されており、1900年代の初期にアメリカの経済学者であるアーヴィング・フィッシャー(Irving Fisher)によっても強調されていた。しかしながら、名目利子率と実質利子率の区別は、1950年代にマネタリストが名目と実質を区別することの重要性を主張し始めるまでは、マクロ経済分析においてしばしば無視されていたのである。多くのケインジアンは原則としては名目と実質の区別を受け入れていたが、実際のところは、ケインジアンのモデルにおいてはしばしば名目利子率と実質利子率が区別されていなかったし、ケインジアンは、(実質利子率ではなく)名目利子率の水準に照らして金融政策のスタンスを判断していた。マネタリストは―― 一人残らず――インフレの克服に非貨幣的な手段(例えば、賃金・価格の直接的な統制やガイドラインの実施)を割り当てることは望ましくないと主張した。非貨幣的な手段は、市場の機能を歪めることになると考えたからである。その代わりに、マネタリストは、インフレーションはその本質において貨幣的な現象であることを強調した。それとは対照的に、当時のケインジアンの多くは、インフレーションを貨幣的な現象とは見なしていなかったのである。
最後に(4)である。初期のマネタリストは皆、金融政策を分析するにあたり、貨幣集計量――例えば、M1やM2、マネタリーベース――の役割を強調した。しかしながら、細かい点をめぐってはマネタリストの間で違いもあった。特にフリードマン=シュワルツとブルナー=メルツァーとの間では細かい点をめぐって意見の対立があった。フリードマンのよく知られた政策提案は、足許のマクロ経済の状況の如何にかかわらず、貨幣集計量を「月単位で、可能であれば日単位で、年率X%――Xには3~5の間にある数字を選べばよい――」(原注1)で増やすべし、というものであった(訳注3)。一方で、ブルナー=メルツァーも金融政策の運営にあたっては何らかのルールを課すべきであるという立場ではあったが、貨幣集計量の成長率を足許のマクロ経済の状況と結び付ける積極主義的なルール(activist rule)の利点を認識していた。また、ブルナー=メルツァーは(法定準備預金額の変化を反映するように調整が加えられた)マネタリーベースの動きを注視する一方で、フリードマンはM2やM1といったマネーサプライの動きを注視した(訳注4)。フリードマンは、中央銀行がマネーサプライを正確にコントロールできるようにするために、預金準備率を100%に設定する銀行システム改革案を提言してもいた。
フリードマンのk%ルールがマネタリズムの基本的な(k%ルール以外の)他の教義を差し置いて大きな注目を浴びた結果として、マネタリズムの理解や評価が歪められることになった。特に、フリードマンによる「インフレ加速」(“accelerationist”)仮説、あるいは、「自然失業率」(“natural-rate”)仮説は、その重要性の割には無視されてきたといえる。「自然失業率」仮説によれば、インフレーションと失業率とは長期的にはトレードオフの関係にはない。つまりは、長期的なフィリップス曲線は垂直ということになる。この点――インフレと失業率とは長期的にはトレードオフの関係にはない――は、ブルナー=メルツァーによっても盛んに主張されたところである。「自然失業率仮説」を加味すると、マネタリストにとって基本的な命題を以下の2点にまとめることができるだろう。
[1] 名目所得の循環的な変動は、主に貨幣数量の変動にその原因を求めることができる(貨幣数量の変動→名目所得の変動)以上の2つの命題が相伴って、マネタリストの政策上の立場が導かれることになるのである。
[2] 失業とインフレーションとの間には永続的なトレードオフは存在しない
マネタリズムが経済学界で広く認知されるようになったきっかけは、フリードマンをはじめとするシカゴ大学に勤務する経済学者たちが1950年代に金融理論の分野で書いた一連の論文にある。これらの論文が経済学界の興味を引きつけた理由は、どの論文も新古典派経済学の基本原則に則って書かれていたからである。マネタリズムの台頭にとって最も決定的だったのは、フリードマンが1967年にアメリカ経済学会で行った会長講演である(この講演は、“The Role of Monetary Policy”とのタイトルで1968年に論文として発表された)。フリードマンは、この講演において、自然失業率仮説を展開するだけでなく――フリードマンは、既にその2年前に明瞭なかたちで自然失業率仮説を主張していた――、k%ルールを支持する論拠として自然失業率仮説を援用したのである。ほぼ同時期に、エドモンド・フェルプス(Edmund Phelps)――フェルプスはマネタリストではなかったが――も自然失業率仮説を主張していた。フリードマン=フェルプスの自然失業率仮説は、数年後に現実によって強力な支持を与えられることになったのである。
1970年代後半~1980年代前半になると、それ以前の10年間とは対照的に、マネタリズムの影響力は徐々に弱まっていった。その理由は、主に3つあると考えられる。第1の理由は、実証的なデータに照らして、貨幣需要関数が基本的に極めて不安定である――貨幣需要関数は、4半期ごとに大きく、それも予想できないかたちで、シフトする――と見なされるようになったことである。第2の理由は、合理的期待形成学派が台頭してきたためである――合理的期待形成学派の台頭によって、ケインズ経済学的な積極主義に敵対的な立場の経済学者が別々のグループに分散することになった(マネタリストの過半は、合理的期待仮説を速やかに受け入れることになった)――。そして第3の理由は、1979~1982年にFRBが乗り出した「マネタリズムの実験」(“monetarist experiment”)にある。第3の理由について以下で詳しく説明を加えることにしよう。
1970年代のアメリカでは、他の多くの工業国と同様に、平時においては前例がないほど高水準のインフレーションが数年にわたって続いた。この未曾有のインフレーションは、様々な「ショック」――石油価格の高騰、ベトナム戦争、そして何よりも1971~1973年にかけてのブレトンウッズ体制(国際的な固定為替制度)の崩壊(崩壊の原因の多くは、アメリカがドルと金との交換レートを維持できなくなったことによる)――の結果として生じたものだった。ブレトンウッズ体制の崩壊は、中央銀行に対して新たな重責を課すことになった。つまり、中央銀行は、一国の通貨に対して、金(gold)に代わる新たな名目的なアンカー(錨)を提供せねばならなくなったのである。FRBは、1970年代を通じて、インフレを克服する意思を何度か表明したが、いずれの試みもうまくいかなかった。そんな中、1979年10月6日にヴォルカー(Paul Volcker)議長率いるFRBは、従来の金融政策運営の手続きを大幅に変更し、新たな試み――その試みは、マネタリストの提案する政策手続きと際立った共通点を有していた――に踏み切る旨をアナウンスした。具体的に言うと、FRBは、M1の成長率に月ごとの目標を設定して、その目標を達成するように金融政策の舵を取ることになった。さらには、コントロールが容易な非借入準備(nonborrowed reserves)――「準備預金額(bank reserves)」マイナス「FRBからの借入額(borrowings from the Fed)」――の操作に重点が置かれることになった。FRBが以上のような変更に踏み切った理由は、インフレ率を2桁の水準から大幅に引き下げるため――具体的にどの程度の水準にまで引き下げるかは特定されなかったが――だった。
現時点から振り返ってみると、1979年10月から1982年9月にかけての一連の出来事は、高インフレの克服にとって必要な処置だったし、1990年代における世界的な低インフレの実現につながった実り多き試みだったと見なすことができよう。しかしながら、当時においては、この「実験」は多くのアメリカ人から歓迎されたわけではなかった。1979年後半には、金融引き締めの影響で短期金利が急上昇し、1980年に入ると、融資規制(credit control)が強化された影響で産出量(実質GDP)が大きく落ち込んだが、次の4半期には、融資規制が撤廃されたおかげもあって産出量は回復した。1981年から1982年の中頃にかけて金融引き締めが長期にわたって続いた結果として、1930年代の大恐慌(Great Depression)以来最も深刻な不況が到来し、インフレ率は多くの経済学者が予想した以上のスピードで低下した。さらには、この間に利子率もマネーサプライ成長率もどちらも大振れした。具体的には、1979年10月から1982年9月にかけて、M1の月ごとの成長率の標準偏差は、3.73(1979年10月以前の3年間のケース)から8.22へと上昇し、FF金利(federal funds rate)の月ごとの変化の標準偏差は、2.86から23.1(年率換算)へと急上昇することになったのである。
多くの批評家は、この「実験」をマクロ経済的な大惨事と総括した。さらには、この「実験」はマネタリズムの無効性を示す強力で決定的な証拠であると受け止める者もいた。この「実験」は、貨幣集計量の成長率を目標にして金融政策を運営することがいかに好ましくないかを示すものであり、非借入準備の操作を通じてM1の成長率をコントロールしようとする試みがいかに非現実的であるかを示すものである、というのである。その一方で、マネタリストたちは、この「実験」は、実のところ、マネタリスト的な教義に則ったものではなかったと主張した。①M1の成長率が月ごとに大きく変動していたし、②準備預金の積み立てが1カ月遅れでなされる仕組みになっていたせいでM1をコントロールするのが極めて難しくなっていたし、③FRBが足許の経済状況に応じて裁量的に反応するのを断じてやめずにいた、というのがその言い分である。現時点から振り返ってみると、FRBによる非借入準備の操作を通じた政策運営――非借入準備額に週ごとの目標を設定した上で、非借入準備の供給量を操作する――は、FRBが国民と円滑な関係を築く上では大いに効果があったように思える。というのは、「利子率の高止まり」という国民に人気のない結果が生じたとしても、FRBとしては「利子率が高いのは、市場需要が旺盛だからだ」(原注3)と言い逃れできたからである。それに加えて、見かけ上はマネタリスト的なアプローチを採用しているかのように振る舞っておいて、いざ「実験」が失敗したとなれば、マネタリズム(+FRBに対していつも文句ばかり言ってくるマネタリスト)に失敗の責任を被せることができたからである。時間が経過して全貌が明らかになると、この「実験」は―― 一時的には痛みを伴うものであったかもしれないが――戦略的な成功であったと見なされるようになり、「マネタリズムの失敗」という評価だけがそのまま残るという顛末になったのであった。
マネタリズムの教義のうちで今日まで受け継がれているものは何かあるだろうか? 異論はあるだろうが、いくつか確かなこともある。面白いことに、初期のマネタリストがケインジアンに迫った意見変更のいくつかは、今日ではマクロ経済学や金融論のスタンダードとして受け入れられるに至っている。いくつか例を挙げると、実質変数と名目変数を慎重に区別すべきこと、実質利子率と名目利子率を区別すべきこと、インフレーションと失業率との間には長期的なトレードオフは存在しないこと・・・などがそれだ。さらには、今では大半の研究者が、財政政策よりも金融政策の方が景気安定化政策として効果的であると同時に使い勝手がいいと少なくとも暗黙のうちに考えている。アカデミックな研究者や中央銀行のエコノミストの中には、実物的景気循環理論の立場から、金融政策は実質変数に影響を与えることができないと考える人もいることはいるが、おそらくその勢力はそこまで重要性を持たないだろう。1981~1983年のアメリカで起きた不況の原因が、FRBによる1981年の意図的な金融引き締め――事後的な実質利子率とM1の成長率に照らして、1981年に金融政策のスタンスが引き締めの方向に転じたことがわかる――にはないと信じるのは困難なのだ(訳注5)。
2005年現在、貨幣経済学(monetary economics)の専門家の多くは、自分のことをニューケインジアンのシンパ(共鳴者)と見なすことだろう。アカデミックな経済学者や中央銀行のエコノミストが金融政策について加えている分析を目にすると、貨幣集計量にわずかしか――あるいは、まったく――注意が向けられていないことがあるのも確かだ。しかしながら、理論分析のレベルでいうと、今日の主流的な立場は、かつてのケインジアン――例えば、1956年~1978年のケインジアン ――よりは、マネタリストの立場にずっと近いと言える。さらには、金融政策を運営するにあたって「裁量」(“discretion”)――どのように定義されようとも――よりも「ルール」に重きが置かれているのは明らかだし、インフレーションを極めて低い水準に保つことの重要性が強調されてもいる。マネタリズムの教義のうちで、今では見捨てられて実践されずにいるものがあるとすれば、それは貨幣集計量を強調する見解くらいである。
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Further Reading(もっと深く学びたい人向けの文献紹介)
●Brunner, Karl, and Allan H. Meltzer. “An Aggregate Theory for a Closed Economy.” In Jerome L. Stein, ed., Monetarism. New York: American Elsevier, 1976.
●Friedman, Milton. A Program for Monetary Stability. New York: Fordham University Press, 1959.
●Friedman, Milton. “The Role of Monetary Policy(pdf)”, American Economic Review 58 (March 1968): 1–17.
●Friedman, Milton, and Anna J. Schwartz. A Monetary History of the United States, 1867–1960. Princeton: Princeton University Press, 1963.
●McCallum, Bennett T. Monetary Economics: Theory and Policy. New York: Macmillan, 1989.
●Symposium: “Monetarism: Lessons from the Post-1979 Experiment(JSTOR)”, American Economic Review Papers and Proceedings 74 (May 1984): 382–400.
●Taylor, John B., ed. Monetary Policy Rules. Chicago: University of Chicago Press, 1999.
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原注
(原注1)正確には、長期的な中立性が成り立つためには「リカードの中立命題」が成立している必要がある。
(原注2)Milton Friedman, Capitalism and Freedom (Chicago: University of Chicago Press, 1962), pp. 54.
(原注3)この主張は、いくらか欺瞞的である。非借入準備の供給量が一旦決定されてしまえば、その時々の利子率の水準は非借入準備に対する需要の大きさによって決まってくるというのはその通りだ。しかしながら、「非借入準備の供給量」を決定する権限はFRBにあるのである。
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訳注
(訳注1)Z%のマネーサプライの増加がZ%の一般物価の上昇につながる。実質変数は変化なし。
(訳注2)期待実質利子率 ≒ 名目利子率-期待インフレ率
(訳注3)以下では、フリードマンによるこの提案を「k%ルール」と表現することにする。
(訳注4)つまりは、フリードマン=シュワルツとブルナー=メルツァーとの間では、どの貨幣集計量に注視すべきかという点についても違いがあったということ。
(訳注5)実物的景気循環理論が正しいようなら、金融引き締めの影響で不況が生じるはずがない。しかしながら、1981年の金融引き締めによって実際には不況が生じている。このことは、実物的景気循環理論の言い分とは異なり、金融政策が実質変数に影響を及ぼせることを示している・・・ということが言いたいのだろう。
2012年6月18日月曜日
Gregory Mankiw 「ニューケインジアンの経済学」
N. Gregory Mankiw, “New Keynesian Economics”(The Concise Encyclopedia of Economics, Library of Economics and Liberty)
ニューケインジアンのマクロ経済学(New Keynesian economics)は、ジョン・メイナード・ケインズの思想を引き継ぐ現代マクロ経済学の一学派である。ケインズは1930年代に『雇用、利子および貨幣の一般理論』を出版したが、ケインズの影響力は、1960年代を通じて、経済学者や政策当局者の間で高まっていくことになった。しかしながら、1970年代に入ると、R. ルーカスやT. サージェント、R. バローらを代表とする新しい古典派(New Classical)のマクロ経済学者が、ケインズ革命がもたらした多くの教訓に疑問を投げかけることになった。1980年代に入って、新しい古典派からの批判にさらされたケインズ経済学の教義の立て直しを図ろうと登場してきたのが「ニューケインジアン」を自称する一連の経済学者らであった。
新しい古典派とニューケインジアンとの間における主要な意見の不一致は、名目賃金や名目価格の調整速度(名目賃金や名目価格がどれだけ素早く調整されるか)に関する想定の違いに基づいている。新しい古典派は、名目賃金や名目価格は伸縮的であるとの仮定の下に理論を構築しており、価格は市場を清算するように-需要と供給とが等しくなるように-素早く調整されると想定しているのである。一方で、ニューケインジアンは、(新しい古典派が想定するような)市場均衡モデルは短期的な景気変動を説明することはできないと考え、短期的な景気変動を説明するためには、名目賃金や名目価格は粘着的(“sticky”)であるとの仮定の下に理論を構築するべきだ、と主張する。ニューケインジアンは、名目賃金と名目価格の粘着性に基づいて、非自発的失業が存在する理由や金融政策が経済活動に強い影響を及ぼし得る理由を説明しようとするのである。
(ケインズ経済学とマネタリズムとの両者のパースペクティブをともに含む)マクロ経済学における長い伝統(A long tradition in macroeconomics)においては、金融政策が短期的に雇用量や生産量に影響を与えることができるのは、マネーサプライの変化に対する名目価格の調整が緩やかであるからだ、とみなされている。この伝統的な見解によれば、マネーサプライの変化は以下のようなメカニズムを通じて生産や雇用に影響を与えることになると考えられている。例えば、マネーサプライが減少すると、人々はお金の支出を減らし、その結果財に対する需要が減少することになる。しかしながら、名目価格や名目賃金の調整は緩やかであり、それゆえ名目価格や名目賃金は需要の減少に応じて即座には下落しないために、(マネーサプライの減少に端を発する)需要の減少は生産の落ち込みと労働者の首切りをもたらすことになるだろう、と。新しい古典派はこの伝統的な見解を批判する。緩やかな価格調整という仮定は理論的に首尾一貫した説明を欠くアドホックな仮定だ、というのである。ニューケインジアンの研究の多くは、マクロ経済学における長い伝統に含まれているこの欠陥を修正すること、つまりは、緩やかな価格調整という仮定に対して理論的に首尾一貫したミクロ的基礎を提供することに向けられたのである。
Menu Costs and Aggregate-Demand Externalities (メニューコストと総需要外部性)
名目価格が市場を均衡させるように素早く調整されない理由の一つは、価格調整にコストがかかるからである。価格(値付け)の変更に伴って企業は顧客に対して新たなカタログを送付しなければならないかもしれず、商品の販売スタッフに対して新たな値付けのリストを配布しなければならないかもしれない。また、レストランでは新たなメニューを作り直さなければならないかもしれない。このような価格調整に伴うコスト-「メニューコスト」と呼ばれる-が存在するために、企業は需要の変化に応じてその都度柔軟に価格を変更する代わりに断続的に価格を変更することを選ぶのである。
メニューコストの存在が短期的な景気変動を説明する助けとなるかどうかという点に関しては経済学者の間で意見の不一致がある。(メニューコストの存在によっては短期的な景気変動を説明できないとの立場に立つ)懐疑的な経済学者は、メニューコストは大体において極めて小さいものであり、そのように小さなメニューコストが景気後退のような社会的に大きなコストを生み出す現象を説明することはできないのではないか、と主張する。一方で擁護の立場に立つ経済学者は、「小さい」("small")ということは「とるに足らない(重要でない)」("inconsequential")ということと同じではない、と反論する。メニューコストは個々の企業にとっては小さなものであったとしても、経済全体に対しては大きな効果を持ちうるかもしれない、というのである。
メニューコストの存在に基づいて短期的な景気変動を説明することができると考える経済学者は以下のように議論を展開する。価格がなぜ緩やかにしか変化しないのかを理解するためには、ある特定企業による価格の変更は外部性-当該の(自社製品の価格を変更しようとしている)企業や顧客以外にも効果が及ぶこと-を有していることを認識しなければならない。例えば、ある企業による製品価格の引き下げは次のように他の企業に対しても便益をもたらすことになる。ある企業が価格を引き下げると、同時に経済全体の平均価格も若干ではあるが下落することになり、その結果経済全体の実質所得は増加することになる(名目所得はマネーサプライの量によって決定される)。この実質所得の増加はすべての企業の製品に対する需要の増加というかたちをとることになるだろう。一企業の価格調整が他のすべての企業の製品に対する需要に及ぼすこのマクロ経済的な効果は「総需要外部性」(“aggregate-demand externality”)と呼ばれている。
総需要外部性が存在する状況下では、個々の企業の製品価格を粘着的にする小さなメニューコストは社会全体に対して大きなコストをもたらすことになる。例えば、GMがある新車の価格を発表した直後にFRBがマネーサプライを減少させたとしよう。FRBのこの行動を受けて、GMは発表したばかりの新車の価格を引き下げるべきかどうかを決定しなければならない。もしGMが価格を引き下げたとすれば、車の購入者の実質所得は増加することになり、車の購入者は他の企業の製品を(GMの新車価格が引き下げられなかった場合と比べると)より多く購入することになるだろう。しかし、新車の価格を引き下げるべきかどうか思案しているGMは自車の価格引き下げが他の企業にどのような便益を及ぼすことになるかを考慮に入れることはない。それゆえ、場合によっては、GMは、価格を引き下げることが社会的に見て望ましいとしても、メニューコストの存在により価格引き下げを断念する(訳注1)ということもあり得るだろう。このGMの例が示しているように、粘着的な価格(価格を据え置くこと)が個々の企業にとっては合理的である(最適である)としても、経済全体で見ると非合理的な(望ましくない)結果につながることがあり得るのである。
The Staggering of Prices (価格設定の時間的ズレ)
ニューケインジアンが価格の粘着性を説明しようと試みる際には、すべての企業が同時に価格を設定するわけではなく、その代わりに、企業ごとの価格設定には時間的なズレが存在する点が強調されることもある。それぞれの企業が価格を設定するタイミングにズレが存在するとなると、個別企業による価格設定は複雑な様相を呈することになる。というのも、企業ごとの価格設定に時間的なズレがあると、各企業は価格設定をする際に自社製品の価格と他社製品の価格との相対的な関係(=相対価格)にも注意を払わなければならなくなるからである。企業ごとの価格設定に時間的なズレが存在する場合には、個々の企業が頻繁に価格を改定したとしても、経済全体の物価水準は緩やかにしか変化しないことになる。
以下例を用いてこの点を説明してみよう。まずは、すべての企業が同時に価格設定を行う場合について考えてみることにしよう。すべての企業は月初めごとに価格設定を行うものとする。もし5月10日にマネーサプライが増やされ、その結果として総需要が増加したとすれば、5月10日から6月1日にかけて生産量は(マネーサプライが増やされなかった場合と比べて)増加することになるだろう。というのも、5月10日から6月1日にかけては(仮定により価格の変更は月初めにのみ行われるので)価格が変更されることはないからである。しかし、6月1日になれば、すべての企業は需要の増加に応じて各々の製品価格を引き上げることになるだろう。こうして(5月10日から6月1日にかけての)3週間にわたるブームは終了することになる。
次に、価格設定には企業ごとに時間的なズレがある場合について考えてみよう。経済全体の半数の企業は月初めごとに価格設定を行い、残る半数の企業は月の真中である毎月の15日に価格設定を行うものとする。もし5月10日にマネーサプライが増やされたとすれば、経済全体の半数の企業は5月15日に自社製品の価格を引き上げることが可能である。しかし、残る半数の(月初めごとに価格設定を行う)企業は5月15日に価格を変更することはないので、5月15日に価格を引き上げるとその企業の製品の相対価格は上昇することになり、(価格が据え置かれた製品(月初めごとに価格設定を行う企業の製品)に顧客が流れてしまうことで)結果として顧客を失ってしまうかもしれない(この事例とは対照的に、もしすべての企業が同時に価格を設定するとすれば、すべての企業が各々の製品価格を同時に引き上げるために相対価格は変化しない可能性がある)。(顧客を失うことを恐れて)5月15日に価格設定を行う企業は(価格を引き上げるとしても)おそらくそこまで製品価格を引き上げることないだろう。もし5月15日に価格設定を行う企業が価格を据え置く判断をすれば、月初めに価格設定を行う企業も6月1日には自社製品の価格を据え置く判断をするだろう。というのも、 6月1日に価格を引き上げるべきかどうか思案している企業もまた相対価格を変化させたくないと考えるからである。6月1日以降もこれと同様のロジックが働くことだろう。こうして月初めと毎月15日において個々の製品価格は徐々にしか上昇せず、そのために経済全体の物価水準も緩やかにしか上昇しないということになるだろう。どの企業も他の企業の製品と比べて自らの製品の価格が上昇することを望まないがために、価格設定に時間的なズレがあることで経済全体の物価水準は緩やかにしか変化しないということになるのである。
Coordination Failure (調整の失敗)
ニューケインジアンの中には、景気後退は調整の失敗(コーディネーションの失敗)にその原因がある、と主張する経済学者もいる。コーディネーションの問題は、経済主体が互いに他の経済主体による価格設定に関する意思決定を予想し合うような状況においても生じ得ると考えられる。賃金交渉に臨む労働組合のトップは他の労働組合が使用者側から勝ち取る譲歩に関心を有するだろうし、新たな価格設定に臨む企業は他の企業による価格設定に注意を寄せることだろう。
景気後退がいかにして調整の失敗の結果として生じるかを理解するために、以下の「お話」を見てみることにしよう。経済は2つの企業から構成されているとしよう。中央銀行がマネーサプライを減少させたことを受けて、それぞれの企業は自社製品の価格を引き下げるべきかどうかを思案している。どちらの企業もともに利潤の最大化を目指しているが、利潤は自社製品の価格設定に依存するばかりではなく、相手の企業による価格設定にも依存しているとしよう。
もしどちらの企業もともに製品価格を引き下げなければ、実質貨幣量(マネーサプライを物価水準で割ったもの)は低水準に落ち込み、それを受けて経済は景気後退に陥ることになる。この時両企業はそれぞれ15ドルの利潤しか得られないとしよう。
もしどちらの企業もともに製品価格を引き下げれば、実質貨幣量は高水準に維持され、経済は景気後退を回避することが可能となる。この時両企業はそれぞれ30ドルの利潤を得るとしよう。両企業ともに景気後退を回避することを望んでいるが、自らの行動(自社製品の価格設定)だけでは景気後退を回避することはできない、つまりは、一方の企業だけが製品価格を引き下げ、もう一方の企業は製品価格を据え置くとすれば、景気後退が生じることになるとしよう。この時製品価格を引き下げた企業は5ドルの利潤しか獲得することができず、製品価格を据え置いた企業は15ドルの利潤を獲得することになるとしよう。
この「お話」のポイントは、一方の企業の意思決定は他方の企業が利用可能な結果(機会)に影響を与えるということである。一方の企業(企業A)が製品価格を引き下げれば、他方の企業(企業B)が利用可能な機会は改善することになる。なぜなら、企業Bは自らの製品価格を引き下げることで景気後退を回避することができるようになるからである。企業Aによる製品価格の引き下げが企業Bが直面する利潤機会を改善することになるのは、総需要外部性が働く結果であると考えることができるだろう。
この経済は最終的にはどのような結果に落ち着くことになるであろうか? 一つの可能性は、どちらの企業もともに相手側が製品価格を引き下げると予想し、その結果両企業ともに実際にも製品価格を引き下げるということになるかもしれない。この時、経済は景気後退を回避し、両企業ともに30ドルずつの利潤を獲得することになる。もう一つの可能性は、どちらの企業もともに相手側が製品価格を据え置くと予想し、その結果両企業ともに実際にも製品価格を据え置くということになるかもしれない。この時、経済は景気後退に陥り、両企業ともに15ドルずつの利潤を獲得することになる。これら2つの可能性のどちらもともに実現可能である。つまりは、この経済は複数均衡を有する経済なのである。
どちらの企業もともに15ドルずつの利潤を獲得する(景気後退を伴う)劣位な均衡は調整の失敗の一例となっている。両企業が行動をコーディネートすることが可能であれば、両企業ともに製品価格を引き下げて(景気後退を回避する)優位な均衡を実現することができたであろう。この「お話」とは異なり、価格設定の意思決定に臨んでいる企業の数がもっと多い現実の世界においては、経済主体間のコーディネーションを達成することはしばしば困難となる。以上の「お話」の教訓は、誰一人として粘着的な価格に利害を有していないとしても、ただ単に各々の価格設定者の間で「価格は粘着的になるだろう」との予想が共有されるだけでも実際に価格が粘着的になり得る、ということである。
Efficiency Wages (効率賃金)
ニューケインジアンのマクロ経済学が発展させた重要な理論として失業の理論も見逃すことはできない。持続する失業の存在は経済理論にとって一つのパズルである。通常の経済分析が予測するところでは、労働の超過供給は賃金に対する低下圧力となり、賃金の下落は労働需要の喚起を通じて失業を減少させることになる、ということになるだろう。つまりは、通常の経済理論によれば、失業は自己矯正的な問題(訳注2)なのである。
ニューケインジアンの経済学者は、失業を解消する自己矯正的なメカニズムが機能しない理由を説明するためにしばしば効率賃金仮説と呼ばれる理論を持ち出す。効率賃金仮説によれば、高賃金は労働者の生産性を高めることになると考えられている。労働の超過供給が存在するにもかかわらず、企業が賃金のカットに乗り出さない理由は、賃金が労働者の効率性に影響を与える可能性があるからかもしれない。賃金をカットすることで企業は人件費を節約することができるかもしれないが、効率賃金仮説が正しいとすれば、賃金のカットは(人件費の節約につながると)同時に労働者の生産性を低下させることで逆に企業の利潤を減らす結果となってしまうかもしれないのである。
賃金が労働者の効率性に影響を与える理由としてはいくつかの説明が提示されている。第一の説明では、高賃金の支払いが労働者の転職を抑制することを通じて労働者の効率性に影響を与える可能性に着目する。労働者は様々な理由に基づいて現在の職を離れることになるだろう。他の企業においてもっと魅力的な職を見つけたり、あるいはキャリアの変更を考えたり、あるいは居住地の変更に伴ってなどなど様々な理由に基づいて、労働者は現在の職を離れることになる。しかしながら、労働者が現在の職場にとどまろうとするインセンティブは、企業が労働者に支払う賃金水準が高ければ高いほど、大きくなると考えられる。高賃金を支払うことによって、企業は労働者の転職を抑制し、その結果として新規に労働者を募集したり、新規労働者に訓練を施したりするための時間や手間といった諸々のコストを節約することが可能となるかもしれない。
第二の説明では、賃金が職場における労働者の平均的な能力の質に影響を及ぼす可能性に注目が寄せられる。企業が賃金をカットすると、おそらくは能力のある(生産性の高い)労働者から先に(他に機会を求めて)職場を離れていくことになるだろう。そして、職場には他に行くあてのない能力の劣る(生産性の低い)労働者が残る、ということになるだろう。均衡賃金(労働市場で需給が一致する賃金の水準)を上回る賃金を支払うことにより、企業は以上の逆選択(adverse selection)メカニズムが働くことを回避し、職場における労働者の平均的な能力の質を改善することができるかもしれない。職場における労働者の平均的な能力の質が改善されれば、企業全体の生産性は向上することになるであろう。
第三の説明では、高賃金が労働者の努力水準を高める可能性に注目する。労働者がどれだけ努力しているかを完璧にモニターすることができない場合には、労働者がどれだけ努力するかはある程度労働者自身の裁量に任されることになるだろう。労働者は一生懸命努力して仕事に励むこともできるし、上司に発見されれば首を切られるかもしれないとの危険を負いながらも手を抜いて仕事に臨むことも可能である。この時、企業は高賃金を支払うことによって労働者の努力水準を高めることができる。というのも、支払われる賃金が高ければ高いほど、労働者にとって首を切られることのコストはそれだけ大きくなるからである。高賃金を支払うことによって、企業は労働者が手抜きすることを抑制し、その結果労働者の生産性を高めることが可能となるかもしれない。
A New Synthesis (新しい総合)
1990年代に入ると、新しい古典派とニューケインジアンとの論争は「新しい総合」(new synthesis)の出現を促すこととなった。つまりは、短期的な景気変動を説明するための最善の方法や金融政策/財政政策の役割といった話題に関してマクロ経済学者の間で「新しい総合」に向けた可能性が探られることになったのである。この「新しい総合」は、対立するそれぞれの学派の長所を取り入れることを通じて学派間の総合を図ろうと試みている。「新しい総合」は、新しい古典派陣営から、家計や企業の異時点間にわたる意思決定に関するモデル構築上の様々なツールを取り入れるとともに、ニューケインジアン陣営からは価格硬直性のモデルを取り入れることを通じて短期的な貨幣の非中立性(訳注3)を説明しようと試みている。「新しい総合」に共通したアプローチの特徴は、独占的競争モデル-独占的競争下にある企業(各企業は市場支配力を持ってはいるものの他企業との競争にも直面している)は、市場の動向に応じて頻繁に価格を変更することはなく、間隔をおいて断続的に価格の改定を行う-を採用しているところにある。
「新しい総合」の核心は、経済を動学的な一般均衡システム(dynamic general equilibrium system)として捉える見方、それも価格粘着性やそれ以外の様々な市場の不完全性(market imperfections)のために短期的には効率的な資源配分の状況から逸脱することもあり得る動学的な一般均衡システムとして捉える見方にある。今やこの「新しい総合」は、多くの面において、FRBやその他の中央銀行の金融政策を分析する際の知的な基礎(intellectual foundation)を提供するに至っている。
Policy Implications (政策的なインプリケーション)
ニューケインジアンのマクロ経済学はあくまでもマクロ経済「理論」における一学派であり、それゆえ、ニューケインジアンを自称する経済学者間で経済「政策」に関して共有された単一の見解があるわけでは必ずしもない。大まかに言うと、ニューケインジアンのマクロ経済学においては、新しい古典派のいくつかの理論とは対照的に、景気後退=市場が効率的に機能するような通常時から逸脱した状態、と見なされている。ニューケインジアンのマクロ経済学の構成要素-メニューコストや価格設定における時間的なズレ、調整の失敗、効率賃金-は、古典派経済学が立脚している様々な仮定-経済学者が自由放任(レッセフェール)を正当化する際の知的根拠となるもの-からの大きな逸脱を示すものである。ニューケインジアンの理論においては、景気後退はマクロ経済レベルでの市場の失敗によって引き起こされるわけであり、それゆえ、ニューケインジアンのマクロ経済学は市場への政府介入-金融政策や財政政策を通じた経済の安定化-に対して「理論」的な根拠を提供しているとみなすことができるであろうし、ニューケインジアンのマクロ経済学におけるこの側面は先に述べた「新しい総合」の中にも組み込まれている。しかしながら、政府が実際にも市場に介入すべきかどうかという問題は、経済的な判断だけではなく政治的な判断も伴うものであり、「理論」的な結論をそのまま「実践」に移すことができるほど簡単な問題ではないのである。
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Further Reading (もっと深く学びたい人向けの文献紹介)
○Clarida, Richard, Jordi Gali, and Mark Gertler. “The Science of Monetary Policy: A New Keynesian Perspective(pdf)”, Journal of Economic Literature 37 (1999): pp.1661–1707.
○Goodfriend, Marvin, and Robert King. “The New Neoclassical Synthesis and the Role of Monetary Policy(pdf)”, in Ben S. Bernanke and Julio Rotemberg, eds., NBER Macroeconomics Annual 1997. Cambridge: MIT Press, 1997. pp. 231–283.
○Mankiw, N. Gregory, and David Romer, eds. New Keynesian Economics. 2 vols. Cambridge: MIT Press, 1991.
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訳注
(訳注1)価格引き下げによる車の売り上げの増加が価格引き下げに伴うメニューコストを下回る場合には、GMにとっては価格を据え置くことが(できるだけ多くの利潤を確保する上では)合理的となる。
(訳注2)価格(名目賃金)の調整を通じて市場が自動的に解決する問題
(訳注3)金融政策は短期的には生産量や雇用量といった実質変数に影響を与えることができる、ということ。
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サイドバーに「The Concise Encyclopedia of Economics(Library of Economics and Liberty)の訳」欄を新たに設置。
ニューケインジアンのマクロ経済学(New Keynesian economics)は、ジョン・メイナード・ケインズの思想を引き継ぐ現代マクロ経済学の一学派である。ケインズは1930年代に『雇用、利子および貨幣の一般理論』を出版したが、ケインズの影響力は、1960年代を通じて、経済学者や政策当局者の間で高まっていくことになった。しかしながら、1970年代に入ると、R. ルーカスやT. サージェント、R. バローらを代表とする新しい古典派(New Classical)のマクロ経済学者が、ケインズ革命がもたらした多くの教訓に疑問を投げかけることになった。1980年代に入って、新しい古典派からの批判にさらされたケインズ経済学の教義の立て直しを図ろうと登場してきたのが「ニューケインジアン」を自称する一連の経済学者らであった。
新しい古典派とニューケインジアンとの間における主要な意見の不一致は、名目賃金や名目価格の調整速度(名目賃金や名目価格がどれだけ素早く調整されるか)に関する想定の違いに基づいている。新しい古典派は、名目賃金や名目価格は伸縮的であるとの仮定の下に理論を構築しており、価格は市場を清算するように-需要と供給とが等しくなるように-素早く調整されると想定しているのである。一方で、ニューケインジアンは、(新しい古典派が想定するような)市場均衡モデルは短期的な景気変動を説明することはできないと考え、短期的な景気変動を説明するためには、名目賃金や名目価格は粘着的(“sticky”)であるとの仮定の下に理論を構築するべきだ、と主張する。ニューケインジアンは、名目賃金と名目価格の粘着性に基づいて、非自発的失業が存在する理由や金融政策が経済活動に強い影響を及ぼし得る理由を説明しようとするのである。
(ケインズ経済学とマネタリズムとの両者のパースペクティブをともに含む)マクロ経済学における長い伝統(A long tradition in macroeconomics)においては、金融政策が短期的に雇用量や生産量に影響を与えることができるのは、マネーサプライの変化に対する名目価格の調整が緩やかであるからだ、とみなされている。この伝統的な見解によれば、マネーサプライの変化は以下のようなメカニズムを通じて生産や雇用に影響を与えることになると考えられている。例えば、マネーサプライが減少すると、人々はお金の支出を減らし、その結果財に対する需要が減少することになる。しかしながら、名目価格や名目賃金の調整は緩やかであり、それゆえ名目価格や名目賃金は需要の減少に応じて即座には下落しないために、(マネーサプライの減少に端を発する)需要の減少は生産の落ち込みと労働者の首切りをもたらすことになるだろう、と。新しい古典派はこの伝統的な見解を批判する。緩やかな価格調整という仮定は理論的に首尾一貫した説明を欠くアドホックな仮定だ、というのである。ニューケインジアンの研究の多くは、マクロ経済学における長い伝統に含まれているこの欠陥を修正すること、つまりは、緩やかな価格調整という仮定に対して理論的に首尾一貫したミクロ的基礎を提供することに向けられたのである。
Menu Costs and Aggregate-Demand Externalities (メニューコストと総需要外部性)
名目価格が市場を均衡させるように素早く調整されない理由の一つは、価格調整にコストがかかるからである。価格(値付け)の変更に伴って企業は顧客に対して新たなカタログを送付しなければならないかもしれず、商品の販売スタッフに対して新たな値付けのリストを配布しなければならないかもしれない。また、レストランでは新たなメニューを作り直さなければならないかもしれない。このような価格調整に伴うコスト-「メニューコスト」と呼ばれる-が存在するために、企業は需要の変化に応じてその都度柔軟に価格を変更する代わりに断続的に価格を変更することを選ぶのである。
メニューコストの存在が短期的な景気変動を説明する助けとなるかどうかという点に関しては経済学者の間で意見の不一致がある。(メニューコストの存在によっては短期的な景気変動を説明できないとの立場に立つ)懐疑的な経済学者は、メニューコストは大体において極めて小さいものであり、そのように小さなメニューコストが景気後退のような社会的に大きなコストを生み出す現象を説明することはできないのではないか、と主張する。一方で擁護の立場に立つ経済学者は、「小さい」("small")ということは「とるに足らない(重要でない)」("inconsequential")ということと同じではない、と反論する。メニューコストは個々の企業にとっては小さなものであったとしても、経済全体に対しては大きな効果を持ちうるかもしれない、というのである。
メニューコストの存在に基づいて短期的な景気変動を説明することができると考える経済学者は以下のように議論を展開する。価格がなぜ緩やかにしか変化しないのかを理解するためには、ある特定企業による価格の変更は外部性-当該の(自社製品の価格を変更しようとしている)企業や顧客以外にも効果が及ぶこと-を有していることを認識しなければならない。例えば、ある企業による製品価格の引き下げは次のように他の企業に対しても便益をもたらすことになる。ある企業が価格を引き下げると、同時に経済全体の平均価格も若干ではあるが下落することになり、その結果経済全体の実質所得は増加することになる(名目所得はマネーサプライの量によって決定される)。この実質所得の増加はすべての企業の製品に対する需要の増加というかたちをとることになるだろう。一企業の価格調整が他のすべての企業の製品に対する需要に及ぼすこのマクロ経済的な効果は「総需要外部性」(“aggregate-demand externality”)と呼ばれている。
総需要外部性が存在する状況下では、個々の企業の製品価格を粘着的にする小さなメニューコストは社会全体に対して大きなコストをもたらすことになる。例えば、GMがある新車の価格を発表した直後にFRBがマネーサプライを減少させたとしよう。FRBのこの行動を受けて、GMは発表したばかりの新車の価格を引き下げるべきかどうかを決定しなければならない。もしGMが価格を引き下げたとすれば、車の購入者の実質所得は増加することになり、車の購入者は他の企業の製品を(GMの新車価格が引き下げられなかった場合と比べると)より多く購入することになるだろう。しかし、新車の価格を引き下げるべきかどうか思案しているGMは自車の価格引き下げが他の企業にどのような便益を及ぼすことになるかを考慮に入れることはない。それゆえ、場合によっては、GMは、価格を引き下げることが社会的に見て望ましいとしても、メニューコストの存在により価格引き下げを断念する(訳注1)ということもあり得るだろう。このGMの例が示しているように、粘着的な価格(価格を据え置くこと)が個々の企業にとっては合理的である(最適である)としても、経済全体で見ると非合理的な(望ましくない)結果につながることがあり得るのである。
The Staggering of Prices (価格設定の時間的ズレ)
ニューケインジアンが価格の粘着性を説明しようと試みる際には、すべての企業が同時に価格を設定するわけではなく、その代わりに、企業ごとの価格設定には時間的なズレが存在する点が強調されることもある。それぞれの企業が価格を設定するタイミングにズレが存在するとなると、個別企業による価格設定は複雑な様相を呈することになる。というのも、企業ごとの価格設定に時間的なズレがあると、各企業は価格設定をする際に自社製品の価格と他社製品の価格との相対的な関係(=相対価格)にも注意を払わなければならなくなるからである。企業ごとの価格設定に時間的なズレが存在する場合には、個々の企業が頻繁に価格を改定したとしても、経済全体の物価水準は緩やかにしか変化しないことになる。
以下例を用いてこの点を説明してみよう。まずは、すべての企業が同時に価格設定を行う場合について考えてみることにしよう。すべての企業は月初めごとに価格設定を行うものとする。もし5月10日にマネーサプライが増やされ、その結果として総需要が増加したとすれば、5月10日から6月1日にかけて生産量は(マネーサプライが増やされなかった場合と比べて)増加することになるだろう。というのも、5月10日から6月1日にかけては(仮定により価格の変更は月初めにのみ行われるので)価格が変更されることはないからである。しかし、6月1日になれば、すべての企業は需要の増加に応じて各々の製品価格を引き上げることになるだろう。こうして(5月10日から6月1日にかけての)3週間にわたるブームは終了することになる。
次に、価格設定には企業ごとに時間的なズレがある場合について考えてみよう。経済全体の半数の企業は月初めごとに価格設定を行い、残る半数の企業は月の真中である毎月の15日に価格設定を行うものとする。もし5月10日にマネーサプライが増やされたとすれば、経済全体の半数の企業は5月15日に自社製品の価格を引き上げることが可能である。しかし、残る半数の(月初めごとに価格設定を行う)企業は5月15日に価格を変更することはないので、5月15日に価格を引き上げるとその企業の製品の相対価格は上昇することになり、(価格が据え置かれた製品(月初めごとに価格設定を行う企業の製品)に顧客が流れてしまうことで)結果として顧客を失ってしまうかもしれない(この事例とは対照的に、もしすべての企業が同時に価格を設定するとすれば、すべての企業が各々の製品価格を同時に引き上げるために相対価格は変化しない可能性がある)。(顧客を失うことを恐れて)5月15日に価格設定を行う企業は(価格を引き上げるとしても)おそらくそこまで製品価格を引き上げることないだろう。もし5月15日に価格設定を行う企業が価格を据え置く判断をすれば、月初めに価格設定を行う企業も6月1日には自社製品の価格を据え置く判断をするだろう。というのも、 6月1日に価格を引き上げるべきかどうか思案している企業もまた相対価格を変化させたくないと考えるからである。6月1日以降もこれと同様のロジックが働くことだろう。こうして月初めと毎月15日において個々の製品価格は徐々にしか上昇せず、そのために経済全体の物価水準も緩やかにしか上昇しないということになるだろう。どの企業も他の企業の製品と比べて自らの製品の価格が上昇することを望まないがために、価格設定に時間的なズレがあることで経済全体の物価水準は緩やかにしか変化しないということになるのである。
Coordination Failure (調整の失敗)
ニューケインジアンの中には、景気後退は調整の失敗(コーディネーションの失敗)にその原因がある、と主張する経済学者もいる。コーディネーションの問題は、経済主体が互いに他の経済主体による価格設定に関する意思決定を予想し合うような状況においても生じ得ると考えられる。賃金交渉に臨む労働組合のトップは他の労働組合が使用者側から勝ち取る譲歩に関心を有するだろうし、新たな価格設定に臨む企業は他の企業による価格設定に注意を寄せることだろう。
景気後退がいかにして調整の失敗の結果として生じるかを理解するために、以下の「お話」を見てみることにしよう。経済は2つの企業から構成されているとしよう。中央銀行がマネーサプライを減少させたことを受けて、それぞれの企業は自社製品の価格を引き下げるべきかどうかを思案している。どちらの企業もともに利潤の最大化を目指しているが、利潤は自社製品の価格設定に依存するばかりではなく、相手の企業による価格設定にも依存しているとしよう。
もしどちらの企業もともに製品価格を引き下げなければ、実質貨幣量(マネーサプライを物価水準で割ったもの)は低水準に落ち込み、それを受けて経済は景気後退に陥ることになる。この時両企業はそれぞれ15ドルの利潤しか得られないとしよう。
もしどちらの企業もともに製品価格を引き下げれば、実質貨幣量は高水準に維持され、経済は景気後退を回避することが可能となる。この時両企業はそれぞれ30ドルの利潤を得るとしよう。両企業ともに景気後退を回避することを望んでいるが、自らの行動(自社製品の価格設定)だけでは景気後退を回避することはできない、つまりは、一方の企業だけが製品価格を引き下げ、もう一方の企業は製品価格を据え置くとすれば、景気後退が生じることになるとしよう。この時製品価格を引き下げた企業は5ドルの利潤しか獲得することができず、製品価格を据え置いた企業は15ドルの利潤を獲得することになるとしよう。
この「お話」のポイントは、一方の企業の意思決定は他方の企業が利用可能な結果(機会)に影響を与えるということである。一方の企業(企業A)が製品価格を引き下げれば、他方の企業(企業B)が利用可能な機会は改善することになる。なぜなら、企業Bは自らの製品価格を引き下げることで景気後退を回避することができるようになるからである。企業Aによる製品価格の引き下げが企業Bが直面する利潤機会を改善することになるのは、総需要外部性が働く結果であると考えることができるだろう。
この経済は最終的にはどのような結果に落ち着くことになるであろうか? 一つの可能性は、どちらの企業もともに相手側が製品価格を引き下げると予想し、その結果両企業ともに実際にも製品価格を引き下げるということになるかもしれない。この時、経済は景気後退を回避し、両企業ともに30ドルずつの利潤を獲得することになる。もう一つの可能性は、どちらの企業もともに相手側が製品価格を据え置くと予想し、その結果両企業ともに実際にも製品価格を据え置くということになるかもしれない。この時、経済は景気後退に陥り、両企業ともに15ドルずつの利潤を獲得することになる。これら2つの可能性のどちらもともに実現可能である。つまりは、この経済は複数均衡を有する経済なのである。
どちらの企業もともに15ドルずつの利潤を獲得する(景気後退を伴う)劣位な均衡は調整の失敗の一例となっている。両企業が行動をコーディネートすることが可能であれば、両企業ともに製品価格を引き下げて(景気後退を回避する)優位な均衡を実現することができたであろう。この「お話」とは異なり、価格設定の意思決定に臨んでいる企業の数がもっと多い現実の世界においては、経済主体間のコーディネーションを達成することはしばしば困難となる。以上の「お話」の教訓は、誰一人として粘着的な価格に利害を有していないとしても、ただ単に各々の価格設定者の間で「価格は粘着的になるだろう」との予想が共有されるだけでも実際に価格が粘着的になり得る、ということである。
Efficiency Wages (効率賃金)
ニューケインジアンのマクロ経済学が発展させた重要な理論として失業の理論も見逃すことはできない。持続する失業の存在は経済理論にとって一つのパズルである。通常の経済分析が予測するところでは、労働の超過供給は賃金に対する低下圧力となり、賃金の下落は労働需要の喚起を通じて失業を減少させることになる、ということになるだろう。つまりは、通常の経済理論によれば、失業は自己矯正的な問題(訳注2)なのである。
ニューケインジアンの経済学者は、失業を解消する自己矯正的なメカニズムが機能しない理由を説明するためにしばしば効率賃金仮説と呼ばれる理論を持ち出す。効率賃金仮説によれば、高賃金は労働者の生産性を高めることになると考えられている。労働の超過供給が存在するにもかかわらず、企業が賃金のカットに乗り出さない理由は、賃金が労働者の効率性に影響を与える可能性があるからかもしれない。賃金をカットすることで企業は人件費を節約することができるかもしれないが、効率賃金仮説が正しいとすれば、賃金のカットは(人件費の節約につながると)同時に労働者の生産性を低下させることで逆に企業の利潤を減らす結果となってしまうかもしれないのである。
賃金が労働者の効率性に影響を与える理由としてはいくつかの説明が提示されている。第一の説明では、高賃金の支払いが労働者の転職を抑制することを通じて労働者の効率性に影響を与える可能性に着目する。労働者は様々な理由に基づいて現在の職を離れることになるだろう。他の企業においてもっと魅力的な職を見つけたり、あるいはキャリアの変更を考えたり、あるいは居住地の変更に伴ってなどなど様々な理由に基づいて、労働者は現在の職を離れることになる。しかしながら、労働者が現在の職場にとどまろうとするインセンティブは、企業が労働者に支払う賃金水準が高ければ高いほど、大きくなると考えられる。高賃金を支払うことによって、企業は労働者の転職を抑制し、その結果として新規に労働者を募集したり、新規労働者に訓練を施したりするための時間や手間といった諸々のコストを節約することが可能となるかもしれない。
第二の説明では、賃金が職場における労働者の平均的な能力の質に影響を及ぼす可能性に注目が寄せられる。企業が賃金をカットすると、おそらくは能力のある(生産性の高い)労働者から先に(他に機会を求めて)職場を離れていくことになるだろう。そして、職場には他に行くあてのない能力の劣る(生産性の低い)労働者が残る、ということになるだろう。均衡賃金(労働市場で需給が一致する賃金の水準)を上回る賃金を支払うことにより、企業は以上の逆選択(adverse selection)メカニズムが働くことを回避し、職場における労働者の平均的な能力の質を改善することができるかもしれない。職場における労働者の平均的な能力の質が改善されれば、企業全体の生産性は向上することになるであろう。
第三の説明では、高賃金が労働者の努力水準を高める可能性に注目する。労働者がどれだけ努力しているかを完璧にモニターすることができない場合には、労働者がどれだけ努力するかはある程度労働者自身の裁量に任されることになるだろう。労働者は一生懸命努力して仕事に励むこともできるし、上司に発見されれば首を切られるかもしれないとの危険を負いながらも手を抜いて仕事に臨むことも可能である。この時、企業は高賃金を支払うことによって労働者の努力水準を高めることができる。というのも、支払われる賃金が高ければ高いほど、労働者にとって首を切られることのコストはそれだけ大きくなるからである。高賃金を支払うことによって、企業は労働者が手抜きすることを抑制し、その結果労働者の生産性を高めることが可能となるかもしれない。
A New Synthesis (新しい総合)
1990年代に入ると、新しい古典派とニューケインジアンとの論争は「新しい総合」(new synthesis)の出現を促すこととなった。つまりは、短期的な景気変動を説明するための最善の方法や金融政策/財政政策の役割といった話題に関してマクロ経済学者の間で「新しい総合」に向けた可能性が探られることになったのである。この「新しい総合」は、対立するそれぞれの学派の長所を取り入れることを通じて学派間の総合を図ろうと試みている。「新しい総合」は、新しい古典派陣営から、家計や企業の異時点間にわたる意思決定に関するモデル構築上の様々なツールを取り入れるとともに、ニューケインジアン陣営からは価格硬直性のモデルを取り入れることを通じて短期的な貨幣の非中立性(訳注3)を説明しようと試みている。「新しい総合」に共通したアプローチの特徴は、独占的競争モデル-独占的競争下にある企業(各企業は市場支配力を持ってはいるものの他企業との競争にも直面している)は、市場の動向に応じて頻繁に価格を変更することはなく、間隔をおいて断続的に価格の改定を行う-を採用しているところにある。
「新しい総合」の核心は、経済を動学的な一般均衡システム(dynamic general equilibrium system)として捉える見方、それも価格粘着性やそれ以外の様々な市場の不完全性(market imperfections)のために短期的には効率的な資源配分の状況から逸脱することもあり得る動学的な一般均衡システムとして捉える見方にある。今やこの「新しい総合」は、多くの面において、FRBやその他の中央銀行の金融政策を分析する際の知的な基礎(intellectual foundation)を提供するに至っている。
Policy Implications (政策的なインプリケーション)
ニューケインジアンのマクロ経済学はあくまでもマクロ経済「理論」における一学派であり、それゆえ、ニューケインジアンを自称する経済学者間で経済「政策」に関して共有された単一の見解があるわけでは必ずしもない。大まかに言うと、ニューケインジアンのマクロ経済学においては、新しい古典派のいくつかの理論とは対照的に、景気後退=市場が効率的に機能するような通常時から逸脱した状態、と見なされている。ニューケインジアンのマクロ経済学の構成要素-メニューコストや価格設定における時間的なズレ、調整の失敗、効率賃金-は、古典派経済学が立脚している様々な仮定-経済学者が自由放任(レッセフェール)を正当化する際の知的根拠となるもの-からの大きな逸脱を示すものである。ニューケインジアンの理論においては、景気後退はマクロ経済レベルでの市場の失敗によって引き起こされるわけであり、それゆえ、ニューケインジアンのマクロ経済学は市場への政府介入-金融政策や財政政策を通じた経済の安定化-に対して「理論」的な根拠を提供しているとみなすことができるであろうし、ニューケインジアンのマクロ経済学におけるこの側面は先に述べた「新しい総合」の中にも組み込まれている。しかしながら、政府が実際にも市場に介入すべきかどうかという問題は、経済的な判断だけではなく政治的な判断も伴うものであり、「理論」的な結論をそのまま「実践」に移すことができるほど簡単な問題ではないのである。
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Further Reading (もっと深く学びたい人向けの文献紹介)
○Clarida, Richard, Jordi Gali, and Mark Gertler. “The Science of Monetary Policy: A New Keynesian Perspective(pdf)”, Journal of Economic Literature 37 (1999): pp.1661–1707.
○Goodfriend, Marvin, and Robert King. “The New Neoclassical Synthesis and the Role of Monetary Policy(pdf)”, in Ben S. Bernanke and Julio Rotemberg, eds., NBER Macroeconomics Annual 1997. Cambridge: MIT Press, 1997. pp. 231–283.
○Mankiw, N. Gregory, and David Romer, eds. New Keynesian Economics. 2 vols. Cambridge: MIT Press, 1991.
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訳注
(訳注1)価格引き下げによる車の売り上げの増加が価格引き下げに伴うメニューコストを下回る場合には、GMにとっては価格を据え置くことが(できるだけ多くの利潤を確保する上では)合理的となる。
(訳注2)価格(名目賃金)の調整を通じて市場が自動的に解決する問題
(訳注3)金融政策は短期的には生産量や雇用量といった実質変数に影響を与えることができる、ということ。
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サイドバーに「The Concise Encyclopedia of Economics(Library of Economics and Liberty)の訳」欄を新たに設置。
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