2010年11月25日木曜日

Mark Thoma 「QEⅡって何?」(2010年11月15日)

Mark Thoma, “What is QEII?moneywatch.com, November 15, 2010)


最近よく耳にする「QEⅡ」って何なのだろうか? QEというのは、Quantitative Easing(量的緩和)の略だ。前にも試みられたことがあり(1度目のQEということで、「QE I」と呼ばれている)、これから再度試みられようとしているが(2度目のQEということで、「QE II」と呼ばれている)、そのメカニズムについてはイールドカーブ(利回り曲線)を用いて説明することができる。イールドカーブというのは、債券だとかの金融資産の期待利回り(≒金利)が満期(償還期間)の違いに応じてどのように変化するかを示したもので、図示すると以下のようになる。



横軸には、債券だとかが償還されるまでの期間がとられている。FF市場(コール市場)で取引されるオーバーナイト物(翌日物)の貸借のように満期が短い金融資産が左側に位置していて、満期が30年のモーゲージ(住宅ローン)のように満期が長い金融資産が右側に位置している。中間には、左から順に3ヶ月物、6カ月物、1年物、5年物、10年物、20年物だとかの金融資産が位置している。縦軸には、期待利回りがとられている。イールドカーブは右上がりの形状をしているのが一般的である。お金を手放して投資に回す期間が長くなるほど、見返りとして高い利回りが必要とされるからである。

住宅バブルが発生するまではどうだったかというと、Fedはイールドカーブ全体を上方あるいは下方にシフトさせることができた。財務省短期証券(TB)の売り買いを通じて、長期金利も短期金利もどちらもコントロールできていたのである(下図参照)。



しかしながら、住宅バブルが発生してから崩壊するまでの間に、Fedはイールドカーブの右側をコントロールできなくなったかのように見えた。FedがTBを売り買いしても、長期金利にそこまで影響を及ぼせなくなったのである(下図参照)。



企業による設備投資の決定だとか、家計によるあれこれの決定だとか――新築住宅の購入だとか、車や冷蔵庫のような耐久消費財の購入だとか――は、長期金利の変化によって左右される面が大きいので、長期金利にそこまで影響を及ぼせなくなってしまったという事実は、Fedにとって心配の種になった。Fedが長期金利にそこまで影響を及ぼせなくなった理由については完全には解明されなかった。金融危機が勃発してそれどころではなくなったからである。しかしながら、打つ手がないわけではない。イールドカーブの右側に位置する満期が長めの国債を売り買いすればいいのである。そうすれば、長期金利を望む方向に変化させられる可能性があるのだ。

「QEⅡ」でやろうとしているのがまさにそれなのだ。従来のように満期が短い金融資産を売り買いするのではなく、満期が長めの金融資産を売り買いしてイールドカーブの右側に直接働きかけようとしているわけで、それ以外の面では伝統的な金融政策と何ら変わらないのである。

しかしながら、イールドカーブの右側に直接働きかける必要性が生じているのは、金融危機が勃発する直前までのようにFedがTBを売り買いしても長期金利にそれほど影響を及ぼせないからというわけじゃない――住宅バブルが弾けると、TBの売り買いを通じて長期金利に再び影響を及ぼせるようになった――。イールドカーブの左側にある短期金利をもうこれ以上引き下げられなくなってしまったからなのだ。

Fedがイールドカーブの左側に働きかけることができないのは、Fedが操作対象にしている短期金利――オーバーナイト物のFF金利――の水準が現時点でほぼゼロ%だからである。もうこれ以上引き下げられないのだから、イールドカーブの左側に働きかけても大して効果は生まれないだろう。しかしながら、満期が長めの金融資産を買えば、長期金利を引き下げることは依然として可能なのだ(下図参照)。



長期金利が低下すれば、企業による設備投資や家計による消費が刺激されるかもしれない(為替レートが減価して純輸出が増える可能性もあるが、Fedとしては「QEⅡ」で為替レートを変化させるつもりはないらしい。詳しくはこちらを参照されたい)。

そこで、「QEⅡ」の登場である。イールドカーブに働きかけるという意味では、「QEⅡ」も伝統的な金融政策と何ら変わらないのだ。

Robert Barro 「QE2に関する私見」(2010年11月23日)

Robert Barro, “Thoughts on QE2”(Free Exchange, November 23, 2010)


Fedが第2弾の量的緩和――QE2と呼ばれている――に踏み切ったことに対して、賛否が入り乱れている。しかしながら、率直に言わせてもらうと、賛否どちらの立場であれ、その多くは主要な争点を考えるための首尾一貫した分析枠組みを欠いているようだ。この場を借りて、そのような分析枠組みを試しに提示してみようと思う。

Fed――議長をもって代表させるとすれば、ベン・バーナンキ――は、景気回復の足取りが鈍いのを気にかけているようだ。とりわけ、デフレーションに陥るのではないかと気に病んでいるようだ。そのような懸念材料を振り払うために、Fedが着手しようとしている新たな金融緩和策がいわゆるQE2である。私なりに達した主要な結論をまとめると、以下のようになる。

  • 短期金利がほぼゼロ%である今のような状況においては、財務省短期証券(Tビル)を購入対象とする買いオペレーションは何の効果も持たないだろう(この点についてはFedも同意している)。
  • 長期国債を購入対象とする買いオペ(QE2)は、景気を刺激する効果を持つかもしれない。しかしながら、長期国債を購入対象とする買いオペは、「既発国債の満期構成の短期化」とその効果において変わりがない。そのような国債管理政策もどきを財務省ではなくFedが担うべき理由となると、はっきりしないのだ。

Fedが今後の課題として最も意識しているのは、出口戦略の問題である。すなわち、景気が順調に回復して短期金利が上昇し出した場合にインフレが加速しないようにするためにはどうしたらいいかという問題である。売りオペをすればいいというのが標準的な答えだが、売りオペをしたら景気回復の腰が折られてしまうのではないかと心配する声がある。その一方で、準備預金への付利(IOR)という新たな手段のおかげで、景気回復の腰を折らずにインフレの加速を防ぐことができるというのがFedの考えのようだ。準備預金に対して支払われる金利を引き上げればいいというのである。しかしながら、それは間違っていると思う。出口戦略について私なりに達した結論は、以下の通りである。

  • 準備預金に対して支払われる金利を財務省短期証券(Tビル)の利回り(短期金利の一つ)が上昇するのに合わせて引き上げても、FedがTビルを売って準備預金の残高を減らすのとその効果において変わりがない。準備預金に対して支払われる金利を引き上げても、通常の売りオペとその効果において変わりがないのだ。
  • FedがTビルではなく長期国債を売却するという出口戦略も考えられる。そうしたら、準備預金の残高が減るだけでなく、既発国債の満期構成が長期化することにもなる。ただし、Fedの手を借りないでも財務省が単独でやれることでもあるし、Fedの邪魔をすることだってできるのだ。

これまでを振り返っておくと、Fedのバランスシートの規模は2008年8月以降に1兆ドル近く拡大している。すなわち、Fedが保有する資産が2008年8月以降に1兆ドル近く増えている一方で(そのうちのほとんどが不動産担保証券で占められている。この点については、また別の機会に論じるかもしれない)、バランスシートの反対側である負債サイドで超過準備が1兆ドル近く増えているわけである。超過準備はほとんど利子がつかない無利子資産と言っていいが、景気が低調だったこともあって、民間の金融機関はこれほど大量の無利子資産をすすんで受け入れた(準備預金をすすんで預け入れた)のである。とりわけ、金融危機が勃発すると、低リスクの資産に対する需要が急増した。準備預金もそのうちの一つだったわけである。低リスク資産に対する需要が急増したために、「貨幣」( “money” )の量が急増したにもかかわらずインフレが起きなかったのだ。

Fedに準備預金を預け入れる資格を持つ民間の金融機関にとっては、同じくらいの金利が支払われるようなら、超過準備(準備預金)を保有するのもTビルを保有するのも変わりがないだろう。実際のところはどうかというと、準備預金に対して支払われる金利もTビルの利回りもほぼゼロ%である。このような状況でFedが通常の買いオペを行えば――すなわち、市中からTビルを買い入れるのと引き換えに準備預金の供給量を増やしたら――、民間部門が保有するTビルの量が減って、それと同額だけ準備預金の残高が増えることになる。民間の金融機関からすると、準備預金とTビルは同じ資産のようなものなので、通常の買いオペは同じ資産を交換しているに過ぎずに何の効果も持たないだろう。つまりは、物価水準に対しても実質GDPに対しても何の影響も及ぼさないだろう。

長期国債を購入対象とする買いオペ(QE2)というのは、市中にあるTビルを増やす一方で、市中にある長期国債を減らすようなものである。Fedが長期国債を買い入れると、市中にある長期国債の量が減って、それと同額だけ準備預金の残高が増える。民間の金融機関からすると、準備預金とTビルは同じ資産のようなものなので、準備預金の残高が増えるというのは、Tビルの手持ちの量が増えるようなものなのだ。Tビルの利回りと長期国債の利回りには差がある――現時点でのTビルの利回りは0.1%である一方で、10年物国債の利回りはおよそ3%――事実が示しているように、Tビルと長期国債は異なる資産である。異なる資産が交換されるわけだから、QE2が試みられて市中に出回る長期国債の量が減ったら、長期国債の価格が上昇する――同じことだが、長期金利が低下する――可能性がある。長期金利が低下するようなら、総需要が刺激されるかもしれない。理屈としては筋が通っているかもしれないが、既に指摘したように、財務省が国債の満期構成を短期化させようとしても――Tビルの発行額を増やす一方で、長期国債の発行額を減らしても――効果に違いはないはずである。

景気が順調に回復して、民間の金融機関が低リスクで無利子の超過準備をこれまでのようにすすんで持ちたがらなくなったら、出口戦略の出番である。準備預金に対して支払われる金利がほぼゼロ%の水準に据え置かれるだけでなく、通常の売りオペも行われないようなら、1兆ドルの超過準備が火を噴いてインフレが加速するおそれがある。通常であれば、そうならないようにするために、Tビルを売って「貨幣」の量を減らす売りオペが試みられるだろう。

準備預金への付利を活用すれば、出口戦略を改良できるというのがFedの考えらしい。Tビルを売らずに、準備預金に対して支払われる金利を引き上げたらいいというのである。例えば、Tビルの利回りが2%にまで上昇したら、準備預金に対して支払われる金利も同じ水準(2%)にまで引き上げたらいいというのである。そうしたら、民間の金融機関が1兆ドルの超過準備をそのままFedに預けておくだろうというのだ。しかしながら、準備預金に対して支払われる金利が引き上げられてTビルの利回りと同じになったら、FedがTビルを売っても売る前と何も変わらないだろう。1兆ドルの超過準備を減らすために、Fedが1兆ドルのTビル――それだけの額のTビルを保有していたとしての話だが――を売ったとしても、同じ資産を交換しているだけに過ぎないから何の効果も起きないだろう。準備預金に対して支払われる金利をTビルの利回りが上昇するのに合わせて引き上げるという出口戦略は、Tビルを売る通常の売りオペとその効果において変わりがないのだ。

その代わりに試みるべきなのは、Tビルの売却ではなく(FedはTビルをそんなに保有していない)、2008年8月以降にFedのバランスシート上で蓄積されることになった資産の売却なのだ。QE2を試みた末に出口戦略に乗り出すとなったら、売却の対象になるのは長期国債ということになるだろうが、不動産担保証券も対象になるかもしれない。長期国債を売れば、長期国債を買う場合とは逆の効果が生じるかもしれない。Fedが長期国債の売りオペを試みて市中に出回る長期国債の量が増えると、長期国債の価格が低下する――同じことだが、長期金利が上昇する――可能性があって、そのおかげでインフレが抑制されるかもしれないのだ。しかしながら、財務省はその邪魔をできる。Tビルの発行額を増やす一方で長期国債の発行額を減らしたら(そのようにして既発国債の満期構成の長期化に抗したら)、Fedによる長期国債の売りオペの効果を相殺することができるのだ。

結論をまとめるとしよう。QE2は、短期的には景気を刺激する効果を持つかもしれないし、デフレ懸念を払拭するのに役立つかもしれない。しかしながら、財務省が既発国債の満期構成を変化(短期化)させてもQE2と同様の効果を生み出すことができる。QE2が抱えているマイナス面は、出口戦略の舵取りを難しくさせるところにある。大規模な金融緩和を試みた後にインフレが加速しないように防ぐという出口戦略の舵取りを難しくさせるのだ。しかしながら、Fedはというと、出口戦略の舵取りにだいぶ自信を持っているようだ。準備預金への付利という新たな手段をうまく活用すれば、無傷で出口に到達できると考えているようなのだ。しかしながら、それは間違っているのだ。

2010年11月24日水曜日

Nicholas Crafts&Peter Fearon 「記憶にとどめておくべきエピソード:1937~38年のアメリカの不況から得られる教訓」(2010年11月23日)

Nicholas Crafts&Peter Fearon, “A recession to remember: Lessons from the US, 1937–1938”(VOX, November 23, 2010)
 
今回の世界的な経済危機と1930年代の大恐慌(Great Depression)が比較されることは多いが、「1937年の不況」について論じられることは少ない。本稿では、「1937年の不況」からどのような教訓が得られるかについて検討する。「1937年の不況」が教訓として世の政策当局者に伝える主たるメッセージは以下の二つである。①財政再建を先延ばしするなかれ。②財政再建を試みるために財政刺激策から手を引くのであれば、金融緩和によって総需要を下支えせよ。

大恐慌以来最も深刻な不況と金融危機から回復しつつあるOECD諸国では、出口戦略で過ちを犯さないことが政策当局者にとっての関心事になっている。景気刺激策から手を引くのが早すぎると、再び景気後退に陥ってしまうおそれがある。その一方で、景気刺激策から手を引くのが遅すぎると、インフレの過熱を招いてしまうおそれがある。

金利(名目利子率)がゼロ%ないしはその近辺にある限りは、財政乗数の値はおそらく大きいだろう。しかしながら、中期的な観点からすると、財政の持続可能性(fiscal sustainability)の確保に努める必要がある。銀行危機の影響で潜在GDPが落ち込み、そのせいで構造的財政赤字――GDPギャップがゼロで完全雇用が達成されている状態での財政赤字額――が拡大しているからである。

今のこのタイミングで、1937~38年にアメリカを襲った厳しい不況を振り返ってみるのも時宜を得ているだろう。大恐慌から順調に回復していたアメリカ経済に突然襲いかかった1937~38年の不況は、米国外の経済学者の多くにはあまり知られていないが、心にとどめておくべき教訓を投げかけているのだ。フランソワ・ヴェルデの最近の論文(Velde 2009)で、1937~38年のアメリカで何があったかが巧みにまとめられているだけでなく、鋭い分析も加えられている。


大恐慌からの回復

アメリカ経済は、1933年以降に堅調な景気回復を経験した。表1にあるように、実質GDPが1937年までにほぼピークの水準にまで戻り、大恐慌のどん底だった1933年初頭の水準を40%以上も上回ったのだ。景気が勢いよく回復した主たる理由は、1933年3月に金本位制から離脱して新たな政策レジーム(policy regime)が採用されたからだというのが共通の理解である。クリスティーナ・ローマーが指摘しているように(Romer 1991, 2009)、金本位制から離脱した後にマネーサプライが非常に急速な勢いで増えた。重要なのは、新しい政策レジームへの移行に伴ってインフレ期待がシフトした――予想インフレ率が上昇した――ことである。そのことが「流動性の罠」から抜け出すのに重要な役割を演じたというのが、エガートソンがDSGEモデルを使って導き出している結論である(Eggertsson&Pugsley 2006, Eggertsson 2008)。ローマーもエガートソンも共通して指摘しているように、名目利子率がゼロ%近辺でそれ以上下がりようがなかったにもかかわらず、ルーズベルト大統領が1920年代中頃の水準にまで物価を引き戻す強い意志を見せたおかげでインフレ期待が劇的に高まって、実質利子率が大幅に下落することになったのである。そのおかげで景気が刺激されたのだ。連邦財政支出も急激に増えたが、経済史家にとっては周知のように、ニューディール政策は「穏やかな」財政刺激策というに過ぎなかった。とは言え、インフレ期待のシフトに貢献した可能性はある。当時の財政赤字の規模は対GDP比で3%あるいは4%程度だったが、赤字になったのは景気が低迷して税収が落ち込んだせいだったのである。



表1 四半期別の実質GDP
(1929年第3四半期(1929 Q3)の実質GDPを100とした場合)
データの出所:Balke&Gordon (1986)


1937年初頭の段階では依然としてGDPギャップが存在していたが――バルケ&ゴードン(Balke&Gordon 1986)によると、当時のGDPギャップは対GDP比で15%程度と見積もられている――、不況はもう終わったというのが世の中の認識だった。政策当局者はどうだったかというと、インフレや財政赤字を気にかけるようになっていた。Fedはというと、銀行システムに積み上がった大量の超過準備に懸念を抱き、財務省はというと、政府債務残高の対GDP比が1929年から1937年までの間に16%から40%に上昇したことに懸念を抱いたのである。 

1936年に所得税率が引き上げられて、1937年1月に社会保障税が導入されると、1938年に連邦財政収支がほぼ均衡するに至った。1936年に退役軍人に対するボーナスの支払いによって一時的に歳出が急増したものの、それ以降は歳出が削減された。結果的に裁量的な財政引き締め――財政黒字――の規模が対GDP比で3%を上回ったというのがラリー・ペッパーズ(Larry Peppers 1973)による推計である。金融政策に目を移すと、1936年12月に金不胎化政策が採用されて、1936年8月から1937年5月までの間に計3度にわたって預金準備率が引き上げられた(結果的にそれまでの倍に引き上げられた)。Fedの高官の口ぶりも変わって、インフレが加速するおそれが強調されるようになった。ヴェルデ(Velde 2009)によると、1937年5月から1938年6月までの景気の落ち込み――1937年5月から1938年6月までというのは、NBER(全米経済研究所)によって景気後退期と認定されている期間――は、財政・金融政策両面における政策変更によって説明し尽くせるという。表1にあるように、この間に実質GDPは約11%も減少した。鉱工業生産は30%以上も減少。設備投資は50%以上も減少。株価は40%以上も下落した。インフレもストップして、物価が再び下落し始めた。それまでの景気回復基調がひっくり返って、1930年代初頭に匹敵するほどの勢いで景気が落ち込んだのである。預金準備率が引き下げられて、金不胎化政策が停止されて、20億ドルに上る財政出動が繰り出されて均衡財政が放棄されると、景気後退も終わったのである。

名目利子率が低いようなら、財政乗数の値はかなり高くて、クラウディング・アウトもそんなに起きそうにない――その方面の理論的な分析や実証結果を概観しているロバート・ホール(Robert Hall 2009)によってもそのことが確認されている――。おそらく1930年代後半も財政乗数の値は高かっただろう。ロバート・ゴードン&ロバート・クレンの二人によると、1940年時点での財政乗数の値は1.8と推計されている (Gordon&Krenn 2010)。となると、財政再建を試みるのであれば、財政緊縮によるデフレ圧力を打ち消すために拡張的な金融政策(=金融緩和)が求められていたはずだが、待っていたのはダブルパンチ(財政緊縮&金融引き締め)だった。手痛かったのは、1936~1937年に政策スタンスが転換されたせいでインフレ期待が萎えたことである。ローマーも指摘しているように、インフレ期待が萎えたせいで実質利子率が急上昇したのだ。エガートソン&パグスレー(Eggertsson&Pugsley 2006)によると、名目利子率が極端に低いようなら、世間のインフレ期待がちょっと変わるだけでも産出量(実質GDP)に大きな影響が及ぶことが見出されている。


「1937年の不況」の教訓

「1937年の不況」が教訓として世の政策当局者に伝える主たるメッセージは、財政再建を先延ばしせよということではない。財政再建を試みるために財政刺激策から手を引くのであれば、金融緩和によって総需要を下支えせよというのが主たるメッセージなのだ。近年においてOECD諸国で試みられた財政再建の成功例に備わる特徴とも符合する。金利が引き下げられたのだ。しかしながら、今現在はどうかというと、1930年代と同様に、名目利子率を引き下げられる余地が残されていない。それゆえ、実質利子率を引き下げようと思ったら、物価が上昇するという予想を醸成する(予想インフレ率を高める)必要がある。そのために量的緩和をさらに進めるというのもありだろうし、「インフレ目標」の代わりに一時的に「物価水準目標」を採用するというのも一考の価値があるだろう。

今回の危機の最中にアメリカをはじめとした各国の政策当局者が見せた積極的な行動は、1930年代初頭に犯された悲劇的なまでの過ちと比べると、大きな進歩を示していると言えよう。そのおかげで、第二の大恐慌(Great Depression)に陥らずに済んだのだ。大不況(Great Recession)にとどめることができたのだ。不況を和らげるためにはどうしたらいいかについては、過去の歴史から重要な教訓がきちんと学び取られている。しかしながら、1930年代は、その他にも目下の状況に関わりのある教訓を投げかけている。例えば、出口戦略についても。1930年代の経験から得られる教訓についてもっと詳しく知りたいようなら、我々が執筆したサーベイ論文(Crafts&Fearon 2010)に目を通してもらえたら幸いだ――このサーベイ論文は、1930年代の経験から得られる教訓についての専門的な研究成果を一般読者に紹介するために編まれた論文集のイントロダクションとして書かれたものである――。


<参考文献>


●Balke, N and RJ Gordon (1986), “Appendix B: Historical Data”, in RJ Gordon (ed.), The American Business Cycle: Continuity and Change. Chicago: University of Chicago Press, 781-850.
●Crafts, N and P Fearon (2010), “Lessons from the 1930s’ Great Depression”, Oxford Review of Economic Policy, 26:285-317.
●Eggertsson, GB (2008), “Great Expectations and the End of the Depression”, American Economic Review, 98:1476-1516.
●Eggertsson, GB and B Pugsley (2006), “The Mistake of 1937: a General Equilibrium Analysis(pdf)”, Monetary and Economic Studies, December, 151-190.
●Gordon, RJ and R Krenn (2010), “The End of the Great Depression, 1939-41: Policy Contributions and Fiscal Multipliers”, NBER Working Paper 16380.
●Hall, RE (2009), “By How Much Does GDP Rise if the Government Buys More Output?(pdf)”, Brookings Papers on Economic Activity, Fall, 183-231.
●Peppers, LC (1973), “Full-Employment Surplus Analysis and Structural Change: the 1930s”, Explorations in Economic History, 10:197-210.
●Romer, CD (1992), “What Ended the Great Depression?”, Journal of Economic History, 52:757-784.
●Romer, CD (2009), “The lessons of 1937”, The Economist, 18 June.
●Velde, FR (2009), “The Recession of 1937 – a Cautionary Tale”, Federal Reserve Bank of Chicago Economic Perspectives, Quarter 4, 16-37.

2010年11月19日金曜日

Paul Krugman 「債務、デレバレッジング、流動性の罠」(2010年11月18日)

Paul Krugman, “Debt, deleveraging, and the liquidity trapVOX, November 18, 2010)

先進国で交わされている政策論議で主役を演じているのが「債務」である。不況やデフレーションを避けるために拡張的な財政政策を試みよと主張する論者がいる一方で、債務(家計による借り過ぎ)によって引き起こされた問題を債務(政府債務)をさらに増やして解決できるわけがないと主張する論者もいる。本稿では、債務ショックとそれへの政策対応について理論的に分析を加えることが可能な新たなモデルの核となるロジックを説明する。異質なエージェント(主体)を導入することによって、「貯蓄のパラドックス」だけでなく、サプライサイドにおける新たなパラドックス――「精励のパラドックス」&「伸縮性のパラドックス」――も成り立つことが見出されている。大半の経済学者が考え違いをしていて、そのせいでアメリカやEUにおいて政策が間違った方向に誘導されてしまう可能性があるのだ。   

アメリカやヨーロッパを悩ましている経済問題をめぐる議論で一番頻繁に登場する単語と言えば、「債務」(“debt”)で間違いないだろう。2000年から2008年までの間に、アメリカでは家計債務の対可処分所得比が96%から128%に上昇した。イギリスの場合は、105%から160%に上昇。スペインの場合は、69%から130%に上昇。急速に累積した債務が危機のお膳立てをしたとも言われているし、過剰な債務が景気の足を引っ張り続けているとも言われている。


フォーマルなモデルはいずこに?

「債務」に対して熱い注目が寄せられている昨今だが、経済学の世界における長い伝統を想起せずにはいられない。フィッシャー(Irving Fisher)のデット・デフレ理論(1931年)から、再注目されているミンスキー(Hyman Minsky)の金融不安定性仮説(1986年)を経て、クー(Richard Koo)のバランスシート不況論(2008年)へと至る伝統だ。世の中で繰り広げられている経済談義の中で「債務」に注目が寄せられていて、景気を落ち込ませる重要な要因として「債務」に着目する長い伝統があるにもかかわらず、どうしたことか見当たらないのだ。政策の現場では「債務」におびただしい関心が寄せられているというのに、「債務」と絡めて経済政策――とりわけ、財政政策および金融政策――について理論的な分析を加えられるモデルが見当たらないのだ。多くの分析(僕のも含めて)は、未だに代表的個人モデル(representative-agent model)を使っている。債務者もいれば債権者もいるという事実がどういう結果をもたらすかを扱いようがないというのに。

エガートソン(Gauti Eggertsson)と一緒に進めている研究(Eggertsson and Krugman 2010)で、そのあたりの欠陥を修正するシンプルなモデルを提供しようと試みている。徹底的にシンプルなモデルだが、世の中が今まさに直面している問題について重要な洞察を与えてくれるに違いないと思っている。そのモデルによると、現実の政策を支えている通念の多くは今みたいな状況では間違っていることが示唆されるのだ。


モデルの核となるロジック

我々のモデルは、標準的なニューケインジアンモデルと構造をほぼ共有しているが、代表的個人の代わりに、「気長な」(“patient”)タイプと「気短な」(“impatient”)タイプの2タイプの主体がいると想定している。「気短な」タイプが「気長な」タイプからお金を借りるのだ。ただし、借り入れ可能な額には上限がある。これくらいなら貸しても安全だろうという暗黙の認識によって上限が決まってくるのだ。

「デレバレッジ・ショック」の結果として、今まさに世の中が直面しているのとそっくりの危機が起こる。具体的な理由はどうであれ、借り入れ可能な額の上限が突如として引き下げられる――「ミンスキー・モーメント」(“Minsky moment”)の到来――。すると、過剰な(借り入れ可能な額の上限を超える)債務を負っている債務者は、支出の急激な切り詰めを強いられる。不況に陥るのを防ぐためには、別の主体が支出を増やさないといけない。そうなるように、例えば金利を下げないといけない。でも、デレバレッジ・ショックがあまりにも強烈なようだと、金利をゼロ%にまで下げても足りないかもしれない。デレバレッジ・ショックが強烈だと、いとも容易く「流動性の罠」に陥ってしまう可能性があるのだ。

それに続いてフィッシャー流のデット・デフレーションのメカニズムも発動するかもしれない。返さないといけない債務の額が名目単位(貨幣単位)で決められていて、デレバレッジ・ショックのせいで物価が下落するようなら、債務の実質的な負担が増すことになる。その結果として債務者はさらに支出を切り詰めないといけなくなって、そのせいで当初のショックが増幅されることになるのだ。フィッシャー流のデット・デフレーションのメカニズムが発動するようだと、総需要曲線は右下がりではなくて右上がりになる可能性がある。物価が下落すると、総需要が減る可能性があるのだ。

デレバレッジ・ショックが強烈なようだと、通常のルールの多くが通用しなくなる「真っ逆さまの世界」に誘われるというのが我々のモデルから得られる一般的なメッセージである。その名は知られているものの、長らく無視されてきた「貯蓄のパラドックス」が成り立つようになるのだ。一人ひとりが貯蓄を増やそうとすると、全体としての総貯蓄が減ってしまうのだ。それだけじゃない。潜在GDPが高まると現実のGDPが減ってしまうという「精励のパラドックス」(“paradox of toil”)も成り立つようになるし、労働者が名目賃金の引き下げをすんなり受け入れるようになると失業が増えてしまうという「伸縮性のパラドックス」(“paradox of flexibility”)も成り立つようになるのだ。

しかしながら、我々のモデルのおかげで靄(もや)が晴れるようになるのは、財政政策の分析においてこそだと思われるのだ。


財政政策に対するインプリケーション

失業を減らすために拡張的な財政政策を試みよと主張すると、債務のことを持ち出して反論してくる人がいる。債務によって引き起こされた問題を債務をさらに増やして解決できるわけがないというのだ。家計が借金し過ぎたのが問題の元凶だというのに、政府にもっと借金しろとでも?

どこが間違っているかというと、どの債務も同じと暗に想定しているところだ。お金を借りるのが誰かというのは重要じゃないと想定しているのだ。でも、そんなことはあり得ない。誰がお金を借りようが関係ないとしたら、そもそも債務が問題を引き起こすことはないだろう。マクロで見ると、債務というのは、我々が自分から借りているお金みたいなものだ。アメリカは中国だとかからお金を借りてるじゃないかというのはその通りだが、そのことは肝心じゃない。海外からの借り入れを無視するか、世界経済をひっくるめて考えれば、債務の総計は純資産の総計に何の影響も及ぼさない。誰かの債務は、他の誰かの資産だからだ。

債務の総計が重要になるとしたら、その理由はただ一つだけだ。誰が債務を負っているかによって違いが出てくるからだ。高額の債務を負っている主体が直面する制約と、低額の債務を負っている主体が直面する制約が違っているからだ。どの債務も同じじゃないのだ。だからこそ、誰かが過去に借り過ぎたのが原因で生じた問題を他の誰かが今から借り入れを増やして解決できる可能性があるのだ。我々のモデルでそのことが明瞭に示されているのだ。我々のモデルによると、高額の債務を負っている民間の主体がバランスシートの改善(デレバレッジ/債務の圧縮)に励んでいても、政府が国債を発行して歳出を増やすと、失業やデフレーションを避けることが少なくとも理論的に可能になるのだ。さらには、デレバレッジ・ショックが原因で起きた危機が過ぎ去ると、国債を償還する余裕が生まれることも示されているのだ。

つまりは、債務の役割と債務者が直面する制約を真摯に受け止めると、世の中が今まさに直面している問題についてだけでなく、あり得る解決策についても見晴らしがずっとよくなるのだ。最後にもう一つ。我々のモデルによると、政策当局者に何をすべきかを勧告している通念は、ひどく間違っている可能性があるのだ。


<参考文献>

●Eggertsson, Gauti and Krugman, Paul (2010), “Debt, Deleveraging, and the Liquidity Trap(pdf)”, mimeo
●Fisher, Irving, (1933), “The Debt-Deflation Theory of Great Depressions(pdf)”, Econometrica, Vol. 1, no. 4.
●Koo, Richard (2008), The Holy Grail of Macroeconomics: Lessons from Japan’s Great Recession, Wiley.
●Minsky, Hyman (1986), Stabilizing an Unstable Economy, New Haven: Yale University Press.

2010年11月1日月曜日

Paul Krugman&Maurice Obstfeld&Marc J. Melitz 「『流動性の罠』と為替レート」(2010年)

Paul Krugman&Maurice Obstfeld&Marc J. Melitz, “Liquidity Trap”(in 『International Economics: Theory and Policy (9th)』, Ch. 17, pp. 451-454)


1930年代に長きにわたる大恐慌(Great Depression)に襲われたアメリカでは、名目利子率がゼロ%にまで下がった。経済学者によって「流動性の罠」と呼ばれている状況に陥ったのである。先の章でも述べたように、貨幣は、資産の中で流動性が最も高くて、どんな財とでも容易に交換できるというユニークな性質を備えている。「流動性の罠」が「罠」たるゆえんは、名目利子率がゼロ%にまで下がってしまうと、中央銀行がマネーサプライを増やしても――つまりは、経済に流動性を注入しても――名目利子率をそれ以上引き下げられなくなる(マイナスにできない)からである。そうなる理由は、名目利子率がマイナスになると、債券よりも貨幣を保有する方が断然得になって、債券の需給が一致しなくなる(債券の超過供給が発生する)からだ。名目金利がゼロ%になるというのは、借り手にとっては喜ばしいかもしれないが――お金を借りても金利を払わなくていいのだから――、マクロ経済政策を司る政策当局者にとっては悩みの種なのだ――標準的な金融緩和によって景気を上向かせるのが不可能になってしまうかもしれないのだから――。

「流動性の罠」は過去の遺物というのが経済学者の考えだった。1990年代の後半に日本経済が「流動性の罠」に陥るまでは。日本銀行によって名目利子率が劇的に引き下げられたものの、日本経済は少なくとも1990年代半ば以降から停滞に陥ったままで、デフレ(物価の下落)にも苦しめられた。1999年までに短期名目利子率が実質的にゼロ%に達した。2004年9月時点のオーバーナイト金利――金融政策によって直接的に影響を及ぼせる金利――は、わずか0.001%だったのだ。

日本銀行は2006年にゼロ金利政策を解除して、オーバーナイト金利を徐々に引き上げ始めた。景気回復の兆しが見られたからである。しかしながら、2008年後半に世界的な金融危機が勃発すると、オーバーナイト金利を再びゼロ%に引き下げた。金融危機によって激しく揺さぶられたアメリカでも政策金利がゼロ%にまで引き下げられた。世界中のあちこちの中央銀行も同じく政策金利を劇的に引き下げた。世界中が「流動性の罠」に陥ったのだ。

「流動性の罠」に陥っている状況で中央銀行が直面することになるジレンマについては、国内の名目利子率(R)がゼロ%である場合(R = 0)の金利平価条件を検討すれば一目瞭然となる〔訳注1〕。

R = 0 = R* + (Ee - E)/ E

将来の期待名目為替レート(Ee)は不変だと今のところはとりあえず想定するとしよう。一時的に為替レートを減価させようとして(つまりは、E を一時的に高めようとして)、中央銀行が国内のマネーサプライを増やしたとしたらどうなるだろうか? 金利平価条件に照らすと、R = 0 のようなら、為替レートを減価させられない(E を高められない)ことがわかる。為替レートを減価させるためには、国内の名目利子率(R) がマイナスにならないといけないのだ。 R=0 のようなら、マネーサプライを増やしても、名目為替レートは以下の水準から動かないのだ。

E = Ee /(1 - R*)

名目為替レート(E)はこの水準よりも高くならない(減価しない)のだ。

どういうわけでこんなことになるのだろうか? マネーサプライを一時的に増やすと名目利子率が下落する(ならびに、名目為替レートも減価する)という通常の議論が成り立つのは、債券を保有するのが貨幣を保有するよりも不利にならない限りは、市中に出回る貨幣が増えたらそのまま溜め込まれずに債券の需要が増えると想定されているからである。しかしながら、名目利子率がゼロ%(R=0)になると、貨幣を保有するのも債券を保有するのも変わりがなくなる。貨幣を保有しても債券を保有しても得られる金利は同じ(ゼロ%)だからだ。それゆえ、債券を買って市中に貨幣を注入する買いオペを中央銀行が試みても、市場が撹乱されないのだ。市中に出回る貨幣の量を増やしてもそのまま溜め込まれるので、名目利子率はゼロ%のままで変わらないし、それゆえに為替レートも変化しないのだ。先の章で検討したケースとは対照的に、マネーサプライを増やしても景気に何の影響も及ぼせないのだ。中央銀行が債券を売ってマネーサプライを徐々に減らせばそのうち名目利子率が上昇するだろうが――そうなるのは、貨幣に対する超過需要が発生するからだ。貨幣無しでは経済は回らないのだ――、景気が低迷している中でそんなことをしても助けになんかならないのだ。求められているのは、名目利子率が低下することなのだ。

「流動性の罠」に陥った場合に DD-AA図〔訳注2〕がどのように修正されるかを表しているのが Figure 1 である。DD曲線はこれまでと変わらないが、AA曲線は水平な部分を持つようになる。産出量があまりにも少ないようだと、貨幣の需給が一致する(貨幣市場が均衡する)名目利子率がゼロ%(R=0)になるのだ。AA曲線の水平な部分は、名目為替レートが Ee /(1 - R*)よりも高くなり得ない(減価し得ない)ことを表している。以下の図での均衡は、点1だ。完全雇用が達成される場合の産出量は Yf だが、均衡における産出量は Yf を下回っている。



この何とも奇妙な状況で中央銀行が買いオペを試みたらどうなるかを検討してみるとしよう。Figure 1 では詳しく跡付けていないが、マネーサプライが増えたらAA曲線が右方にシフトするだろう。マネーサプライが増えるとAA曲線が右方にシフトするのは、名目為替レートも名目利子率も変わらないままで貨幣の超過供給が解消されるためには、産出量(所得)が増加して貨幣に対する需要が高まる必要があるからだ。マネーサプライが増えると、AA曲線の水平な部分が右方に伸びることになるだろう。産出量が増えて貨幣に対する需要が増えても、名目利子率がなかなか上昇しないわけである(産出量が増え続けたら、いつかは名目利子率が上昇するだろう。名目利子率が上昇したら、名目為替レートが増価するだろう。AA曲線が右下がりになるわけだ)。驚くべきことに、マネーサプライが増えても均衡の位置は変わらない。点1のままなのだ。金融緩和は、産出量にも為替レートにも何の影響も及ぼさないのだ。「罠」に嵌ってしまっているのだ。

これまでの議論で鍵になるのは、将来の期待名目為替レート(Ee)が不変だという想定だ。中央銀行がマネーサプライを増やすとして、それが一時的な措置ではなく恒久的な措置であると見なされるようなら、現時点においてマネーサプライが増えると同時に Ee も上昇することになる。AA曲線が右上にシフトするのだ。その結果として、産出量が増えるだけでなく、名目為替レートが減価するのだ。しかしながら、これまで日本経済を観察してきたその道の専門家の意見によると、日本銀行の審議委員たちは――1930年代初頭の多くのセントラルバンカーたちと同じように――、円安とインフレを大層恐れていて、日本銀行は円安をいつまでも放置しておこうとはしないだろうというのがマーケットの見立てだという。日銀は一旦は円安を受け入れてもすぐに為替を増価させようとするつもりなんじゃないかと疑われていて、日銀があの手この手で金融政策を緩和しても一時的な措置に過ぎないと見なされているというのだ〔原注1〕。

2010年の今でもなお、ゼロ金利政策が続けられている。日本だけでなくアメリカでもだ。Fedもデフレになるのを防げずに、日本のようになってしまうのではないかと懸念する経済学者もいる。Fedも含めてあちこちの国の中央銀行が「非伝統的な金融政策」に乗り出している。これまでとは異なる資産を買いオペの対象にしているのだ。例えば、長期金利を低下させるために、長期国債を購入するというのもそのうちの一つだ。住宅ローンの金利にも大いに関わってくる。住宅ローンの金利が下がるようなら、住宅需要が盛り上がるだろう。「非伝統的な金融政策」の別の候補としては、外貨を購入するという手がある。次章で詳しく論じるとしよう。


〔原注1〕この点についての詳しい議論は、以下の論文を参照されたい。Paul R. Krugman, “It’s Baaack: Japan’s Slump and the Return of the Liquidity Trap”(Brookings Papers on Economic Activity 2: 1998, pp. 137-205)。以下の論文も参照せよ。Ronald McKinnon&Kenichi Ohno, “The Foreign Exchange Origins of Japan’s Economic Slump and Low Interest Liquidity Trap”(World Economy 24, March 2001, pp. 279-315)。

〔訳注1〕R* は外国の名目利子率。E は自国通貨建ての名目為替レート。ドル円の為替レートだと、例えば「1ドル=100円」のように表される。E の値が上昇すれば円安(減価)を意味していて、E の値が下落すれば円高(増価)を意味する。

〔訳注2〕DD-AA図について簡単に説明しておくと、DD-AA図は短期における財市場と資産市場の同時均衡を表している。DD曲線は、財市場が均衡する名目為替レートと産出量の組み合わせを表している。AA曲線は、外国為替市場を含んだ資産市場が均衡する名目為替レートと産出量の組み合わせを表している。DD曲線が右上がりになるのは、名目為替レートが減価すると、純輸出が増えるおかげで産出量が増加するからである(E↑→Y↑)。(通常の)AA曲線が右下がりになるのは、産出量(所得)が増えると、貨幣に対する需要が増えるからである。Yの増加(Y↑)→貨幣に対する需要の増加→名目利子率が上昇して(R↑)、貨幣の超過需要が解消→(Ee、R*が所与の場合の金利平価条件より)名目為替レートの増価(E↓)という調整が働くのである(Y↑→E↓)。

2010年8月18日水曜日

Paul Krugman 「流動性選好説、貸付資金説、ニーアル・ファーガソン」(2009年5月2日)

Paul Krugman, “Liquidity preference, loanable funds, and Niall Ferguson (wonkish)”(The Conscience of a Liberal, May 2, 2009)


ジョー・ノセラ(Joe Nocera)が木曜日に行われたイベント――The New York Review of BooksとPEN World Voicesがスポンサーで、僕も参加した――について記事を書いているが、イベントの最中に僕が一番ガックリさせられたことには触れられていない。僕らが生きているのは「マクロ経済学の暗黒時代」で、これまでに苦労して獲得されてきた知識が忘れ去られてしまっていることを示すさらなる証拠を目の当たりにしたのだ。

その証拠というのは、財政拡張策は景気を冷え込ませるというニーアル・ファーガソン(Niall Ferguson)の「説明」だ。財政拡張策は名目金利を上昇させるだろうからというのがその理由だ。ファーガソンの発言だったと思う(何しろ有名人がたくさんいたので、誰がどの発言をしたのか区別するのが難しくて)。ともあれ、あんな発言を耳にするというのは本当に残念なことだ。学問的に洗練されていると思っている当世の人たちよりもジョン・ヒックス(John Hicks)の方が1937年の時点(pdf)でこの問題についてずっとよく理解していたわけだから。

今のような苦境に陥っているのはなぜかというと、世界的に貯蓄が過剰だからだと考えられるわけだが、そのことを再度説明してみるのも有益かもしれない。なぜなら、世界的に貯蓄が過剰なようだと、財政拡張策が景気を刺激しない限りは名目金利は上昇しないだろうからだ。

ファーガソンが考えていることを僕なりに推し量ると、利子率の水準は「貯蓄の供給」と「貯蓄に対する需要」によって決まると考えているんだと思う。いわゆる「貸付資金」(“loanable funds”)説と呼ばれているやつで、どのテキストにも載っている。僕が書いたテキストにも載っている。図にすると以下のようになる。




S は貯蓄。I は投資支出。r は利子率だ。
 
完全雇用が達成されないでいる可能性を考慮すると、この図は不完全だと指摘したのはケインズだ。その理由は、貯蓄も投資もGDPの水準に依存するからだ。例えば、GDPが増えて所得も増えると、そのうちの一部が貯蓄に回されるだろうから、貯蓄曲線が右方にシフトする(S1→S2)。GDPが増えると投資需要も増える(投資曲線も右方にシフトする)可能性があるが(I1→I2)、貯蓄の増加が投資の増加を上回るのが通常だ。すなわち、GDPが増えると、利子率は低下する。下図のように。




つまりは、貸付資金の供給(貯蓄)と貸付資金に対する需要(投資)だけに照らして利子率の水準がどうなるかを知ることはできないのだ。GDPの水準がこれこれの時に利子率の水準がこれこれになると教えてくれるのが貸付資金説なのだ。別の言い方をすれば、貸付資金説は、利子率とGDPとの関係を定義しているわけである。下図のように。




この図は、経済学入門の講義でも教えられるIS曲線そのものだ。通常は別のやり方で導出されるけれど。利子率が与えられると投資需要が決まって、投資需要が決まると乗数効果が働いてGDPの水準が決まる。通常であれば、そのようにしてIS曲線が導出される。しかしながら、導き方が違っているだけで、到達する結論は同じだ。同じモデルを違ったやり方で提示しているに過ぎないのだ。

ところで、GDPの水準はどうやって決まるのだろう? そのことを知るためには、「流動性選好」(“liquidity preference”)――「貨幣の供給」と「貨幣に対する需要」――を付け加える必要がある。最近では話をもっと単純化して、中央銀行が利子率を目標とする水準に誘導するためにマネーサプライを調整すると想定されることが多い。言い換えると、中央銀行がIS曲線上の1点を選ぶわけだ。

さて、僕らが置かれている現実に話を移そう。今のFedが選べる最低の利子率はゼロ%だ。でも、利子率をゼロ%にまで下げても完全雇用を達成するには力不足だ。上の図でも示されているように、完全雇用を達成するために必要な利子率の水準はマイナスなのだ。僕だけの意見じゃない。フィナンシャル・タイムズ紙によると、望ましいFF金利(政策金利)の水準はマイナス5%というのがFedで働くエコノミストの推計結果なのだ。

貸付資金説に照らしてこの状況を図示するとどうなるだろうか? 完全雇用が達成されたとした場合の「貸付資金の供給」と「貸付資金に対する需要」を描くと、以下のような感じになる。




利子率がゼロ%でも貯蓄が投資を上回るわけだ。それこそが問題なのだ。

政府が借り入れを増やしたら(財政拡張策に乗り出して財政赤字が拡大したら)どうなるだろうか? 政府が借り入れを増やしたら、過剰な貯蓄の一部が吸収される。その過程で総需要が増える。GDPが増える。少なくとも過剰な貯蓄が吸収し尽くされないでいる間は、政府が借り入れを増やしても民間の支出はクラウドアウト(抑制)されない。言い換えると、「流動性の罠」に陥っている間は、政府が借り入れを増やしても民間の支出はクラウドアウトされないのだ。

政府が大量に借り入れをすることにも問題があるのは確かだ。政府債務の残高が膨れ上がるというのもそのうちの一つだ。そういう問題を軽んじるつもりはない。例えば、アイルランドのように、厳しい不況に陥っているというのに、政府債務の残高が累積しているせいで財政緊縮を強いられている国もある。しかしながら、世界規模での過剰な貯蓄――行き場を求めて彷徨っている過剰な貯蓄――こそが僕らが直面している真の問題であることに変わりはないのだ。

2010年5月3日月曜日

Tom Jacobs 「強力な敵の不安鎮静化効果」(2010年3月8日)

Tom Jacobs, “The Comforting Notion of an All-Powerful Enemy”(Miller-McCune Online, March 8, 2010)
 
最新の研究によると、我々は、一般的な不安(generalized anxiety)に対する防衛機制(defense mechanism)として、敵を仕立て上げてその実力を誇張する傾向にある――そうすることを通じて、不安の鎮静化を図る傾向にある――らしい。

我々の前には、敵が立ち塞がっている。それも、強力な敵が。そのようにして、多くの人々の間で抱かれている「一般的な不安」が「獰猛な敵」の姿に転化されるというのは、現代の政治論争の場で繰り返されるモチーフの一つになっている。

感情的なレトリックを駆使する党派的な論客たちによって、けたたましい警鐘が鳴らされている。審議の過程で骨抜きにされた法案でさえも議会をなかなか通過させられずにいるオバマ大統領だが、党派的な論客たちによれば、オバマ大統領はアメリカを社会主義国家に作り変えようとしているらしい。反オバマの「ティーパーティー運動」は、これまでに何度も繰り返されている被害妄想的な現象ではなく、アメリカの基盤を揺るがしかねないまったく新しい現象らしい。オサマ・ビンラディンは、どこぞの洞穴に閉じ込められていて身動きできないようだが、気を許してはならないという。やはり脅威であるからだというのだ。

ある一派によると、敵の強さを誇張して語る傾向は、特定の心理的な機能を果たしているという。我々の幸福(well-being)は、自分ではコントロールできない要因に大きく左右されるという事実を受け入れるよりも、我々が感じているあらゆる恐怖の原因を単一の強力な敵のせいにするほうが、気持ち的に楽なのだ。何といっても、敵がいるとなれば、的が絞れるし、分析を加えることもできるし、倒すことだってできるかもしれないのだ。

怒りの矛先を強力な(と思われている)敵にぶつけることによって恐怖が和らぐ可能性について誰よりも先んじて論じたのは、文化人類学者のアーネスト・ベッカー(Ernest Becker)である――1969年に出版された 『Angel in Armor』にて――。Journal of Personality and Social Psychology誌に掲載されたばかりの論文――“An Existential Function of Enemyship”――で、ベッカーの説の妥当性が裏付けられている。

カンザス大学に籍を置く社会心理学者のダニエル・サリヴァン(Daniel Sullivan)が率いる研究チームは、先の論文で4つの実験を試みている。それらの結果によると、多くの人は、「身の回りの混沌とした環境というぞっとした事実に直面するのを避けるために、明確な敵を作り上げて絶えずそれと張り合うように動機づけられている」らしい。彼らの発見を踏まえて現代の多くの(経済的な、あるいはそれ以外の)脅威なるもの――我々が直面している脅威なるものーーを眺めてみると、異なるイデオロギーの持ち主を強力なモンスターのように見なそうとする傾向にも得心がいくようになる。

サリヴァンらが試みた実験の1つ――2008年の大統領選挙期間中に行われた実験――では、カンザス大学に通う学部生を対象に、自分が支持していない候補(オバマ or マケイン)――すなわち、敵――が選挙で勝つために電子投票機を不正に操作していると思うかどうかが尋ねられている。

この「陰謀論」について自分なりの考えを語ってもらう前に、被験者の半数に対しては、以下の主張が正しいと思うかどうかが問われている。

「私は、自分が病気に罹るかどうかを思いのままに操れます」(“I have control over whether I am exposed to a disease.”) 
「私は、就活がうまくいくかどうかを思いのままに操れます」(“I have control over how my job prospects fare in the economy.”)
その一方で、残りの半数の被験者に対しては、先の主張と似ているがそこまで重要とは言えない以下のような主張について、正しいと思うかどうかが問われている。
「私は、テレビの視聴時間を思いのままに操れます」(“I have control over how much TV I watch.”)。
どういう結果が得られたかというと、人生における重大事(病気や就職)に対する自分の非力さ(思いのままにならないこと)を自覚させられた被験者たちは、「自分が支持していない候補が電子投票機を不正に操作していると信じる傾向が強かった」という。

別の実験では、被験者の大学生に対して2つのエッセイのうちどちらか1つをランダムに割り当てて、それを読んでもらっている。1つ目のエッセイでは、アメリカ政府は不況を容易く終わらせることができる能力を備えていて、捜査当局の頑張りのおかげで犯罪率が下落傾向にあることが述べられている。2つ目のエッセイでは、アメリカ政府は不況に対して為す術がなくてお手上げ状態であり、捜査当局の懸命の努力にもかかわらず犯罪率が上昇傾向にあることが述べられている。

被験者たちは、どちらか一方のエッセイを読んだ後に、架空の出来事のリストを見せられて、それぞれの出来事を引き起こした原因として最も可能性が高そうなのはどれだと思うかを以下の選択肢の中から選ぶように求められた。
①友達、②敵、③どちらでもない(たまたま起きてしまった)
どういう結果が得られたかというと、政府が万能ではないことを「教えられた」被験者たち(2つ目のエッセイを読んだ被験者たち)は、自分の人生におけるよからぬ出来事は敵によって引き起こされていると見なす傾向が強かった。それとは対照的に、何もかもがうまく回っていると「教えられた」被験者たち(1つ目のエッセイを読んだ被験者たち)は、「自分の人生に対して敵がよからぬ影響を及ぼしている度合いを軽く見積もる傾向にあった」という。

これらの実験結果は、苦しみの原因を誰か(あるいは、何か)に帰することできたら、不思議と心が和らぐ可能性があることを示唆している。さらには、アメリカ人が絶えず外部の敵(標的)――ソビエトであったり、ムスリムであったり、中国であったり――を見つけ出そうとする理由を説明する助けにもなる。ところで、「強力な敵」という幻想が多くの人に信じ込まれてしまうと、何らかの代償(犠牲)を払わねばならなくなる。「敵意」(“enemyship”)への欲求を抑えるためには、どうしたらいいのだろうか?

この問いに対して、サリヴァンはメールで次のように答えている。「自分の人生だったり世の中で起こる危害だったりに対するコントロール感をいくらか高められたら、他人を敵に仕立て上げる必要性も減るだろうと思います。例えば、我々が試みた最初の実験では、自分の人生に対するコントロール感が高めになるように意識づけられた被験者たちは、外的な危害の原因を敵に求める傾向が弱いという結果が得られています。自分の人生に対するコントロール感を高めるのにつながる何らかの仕組みを用意できたら、敵を仕立て上げたり、敵の実力を誇張しようとする必要性(あるいは、傾向)は減ずるはずです。完全に無くなりはしないでしょうが」。

「我々が試みた3つ目の実験では、社会システムが安定していて秩序が保たれていると感じると、自分ではコントロールできない何らかの脅威に直面しても、その原因を敵に求めようとするよりも、政府に信頼を寄せる傾向にありました。先ほどの繰り返しになりますが、自分の人生に対するコントロール感が高まったり、頼もしくて効率的な社会システムのおかげでランダムな危害の脅威から守られていると感じられるようなら、敵を仕立て上げる必要性は減ずることになるでしょう」。 

「あらゆる市民が医療保険に入っていたり、警察が守ってくれるに違いないと感じているようなら、ランダムで差し迫った脅威を引き起こしている敵を探し出して槍玉にあげる傾向は減ずる可能性があると思います」。

サリヴァンは、「敵意」への欲求を抑制するために個人レベルで出来る対処法も二つほど語ってくれた。「自分の人生に対するコントロール感なり確実性への欲求なりが人間に埋め込まれているのだとしたら、その欲求が可能な限り社会的に有益な結果を生むように誘導してやればいいと思います。多くの人は、我々が住む不確実な世界を何らかのルールに基づく明確なシステムとして把握するために、あるいは、不確実な現実との折り合いをつけるために、科学、芸術、宗教等――以上は、ほんの一例にすぎません――に没頭しています。そのおかげで、自分なりに精通している領域というのを生み出せるわけですね。狭い領域ではありますが。そのような試みが誰も傷つけずに、コントロール感を高めるのに役立つようなら、『敵意』への欲求を抑制できるでしょう」。

「人生は不確実で、何もかもをコントロールできるわけではないことを受け入れるというのが最終的な対処法でしょうね。例えば、道教なんかは、そのような発想が根っこにあります。人というのは、自分でコントロールできることに限りがあるのをゆくゆくは受け入れられるというんです。敵を仕立て上げたりして我が身を守ろうとせずとも、そのような境地に達することができるというんです」。

というわけで、今すぐにできることから実践しようじゃないか。手始めに、MSNBCの視聴時間を減らして、瞑想にあてる時間を増やそうじゃないか。

2010年4月30日金曜日

Alberto Alesina&Richard Holden 「選挙における過激さと曖昧さ」(2008年9月22日)

Alberto Alesina&Richard Holden, “Why do candidates move along the political spectrum?”(VOX, September 22, 2008)
 
大統領選挙の候補者たちは、政治的スペクトル上の真ん中にいる中位投票者を説得しようとして似たり寄ったりの政策を掲げて、その内容を可能な限り正確に伝えようと試みるはずだというのが政治学の分野で最も知られている定理が説くところである。しかしながら、現実はどうなっているかというと、候補者たちは、中位投票者に歩み寄ろうとしないし、曖昧であろうとしがちである。金権政治(money-politics)が候補者たちを政治的スペクトル上の真ん中(中位投票者)から離反させるだけでなく、候補者たちの曖昧さを助長している可能性があるのだ。

政治学の分野で最も知られている定理――ダウンズ・モデルから導かれる中位投票者定理――によると(Downs 1957)、2人の候補者が選挙で争うようなら、どちらの候補者も政治的スペクトル上の真ん中に向かって歩み寄って、似たり寄ったりの政策を掲げるはずだとされる。もっと正確に表現するなら、どちらの候補者もともに中位投票者(median voter)が好む政策を掲げるはずだとされる。さらには、選挙に勝つためにはどんな政策を掲げるのが最善なのかが決まってしまえば、どちらの候補者も有権者に対してその内容を可能な限り正確に伝えようと試みるはずである。掲げる政策に不明瞭なところがないように尽くすはずである。

現実の選挙はどうかというと、だいぶ様子が違っているようだ。2つの政党が争う選挙の多くでは、左右で激しくて対立して、政治的スペクトル上の真ん中に位置する有権者がすっかり無視されるのも珍しくない。アメリカで間近に迫っている大統領選挙がいい例だ。共和、民主両党の候補者は、外交についても、中絶問題についても、医療問題についても、税金の問題についても、他にもあれやこれやについても意見を異にしている。過去2回の大統領選挙はどうだったかというと、もっと激しくぶつかり合っていた。フランス、イタリア、スペインで実施されたばかりの選挙でも、二大勢力が掲げた政策は大きく対立していた。

現実の選挙で候補者たちは政策の内容を可能な限り明確に伝えて不明瞭なところをなくそうと尽くしているかというと、これまた全く違っているようだ。選挙期間中の政治家たちは、自分の立場を明確にするのを避けようとして、どっちつかずの言葉で語ることで有名だ。「曖昧」であろうとするわけだが、それは二通りのかたちをとる。政策の内容を不明瞭なままにしておくこともあれば、聴衆ごとに話す内容を微妙に変えることもあるのだ。

2政党間競争についての古典的なダウンズ・モデルの予測と現実との乖離(かいり)を埋めるためにはどうしたらいいのだろうか? 我々二人が最近の論文で論じているように (Alesina and Holden 2008)、2つの政党が争う選挙では両党を「接近させる力」と「離反させる力」の相反する二つの力が作用している。「接近させる力」というのはダウンズ・モデルでも作用する通常の力であり、両党を政治的スペクトル上の真ん中に向かって歩み寄らせる力である――その理由は、左派の政党も右派の政党も穏健な立場(左派の政党にとっては政治的スペクトル上で自らの立ち位置よりも右側、右派の政党にとっては政治的スペクトル上で自らの立ち位置よりも左側)の有権者から支持を得ようとするからである―――。その一方で、「離反させる力」――左派の政党を政治的スペクトル上の左側へ、右派の政党を政治的スペクトル上の右側へと向かわせる力――も作用している。政治家(政党)への金銭(政治献金)の供与、ロビイストをはじめとした活動家(activists)の運動、労働組合によるストライキなどを含む「選挙協力」がもたらす効果である。

「選挙協力」のためにカネを出したり汗をかいて応援してくれがちなのは、急進派の団体である。急進派の「選挙協力」を得られたら、中道の有権者の一部を引きつけることができるかもしれない。例えば、保守系の団体からの献金を使ってTVでCMをバンバン流したら、中道の有権者の一部が右派の政党に票を投じるようになるかもしれない。あるいは、左派の活動家が選挙の応援のために汗をかいてくれたら、接戦の地区で左派の政党に投じられる票が増えるかもしれない。そういうわけで、例えば右派の政党から出馬する候補者は、相反する二つの力のバランスを取らなければいけない。政治的スペクトル上の右側へと動けば、保守系の有権者から票も「選挙協力」も得ることができて、保守系の団体の「選挙協力」のおかげで中道の有権者の一部からも票を得られる可能性がある。その一方で、政治的スペクトル上の真ん中に向かって歩み寄れば、保守系の団体から「選挙協力」が得られなくなる代わりに、中道の有権者から得られる票が増える可能性がある。これら相反する二つの力のバランスを取ろうとして掲げられる政策は、中位投票者の好みに合致するものじゃないだろう。左派の政党から出馬する候補者にしても同じことが言えるので、「分断均衡」に落ち着くことになる。右派の候補者は政治的スペクトル上で真ん中よりも右寄りの政策を掲げる一方で、左派の候補者は政治的スペクトル上で真ん中よりも左寄りの政策を掲げることになるのだ。

相反する二つの力のバランスを取ろうとする結果として、曖昧さが助長されることにもなる。候補者たちは、二兎を追いたがるものだ。そのために、立場を鮮明にするよりも、掲げる政策に幅を持たせようとするかもしれない。候補者が当選したとしたら、選挙に協力する急進派の団体は、幅のある中から自分たちの好みに一番近くて急進的な政策が実行されることを望むだろう。その一方で、中道の有権者は、幅のある中から自分たちの好みに一番近くて穏健な政策が実行されることを望むだろう。掲げる政策に幅を持たせて曖昧なところを残しておけば、立場を鮮明にするよりも、急進派から選挙に協力してもらえる可能性が高いだけでなく、中道の有権者から得られる票が多くなる可能性があるのだ。一般の有権者も「選挙協力」する急進派も候補者のそのような魂胆を見抜くかもしれないが、候補者が本音(政策に対する真の好み)を隠し通すことができる限りは、一般の有権者も「選挙協力」する急進派もともに徹底的に合理的でリスク回避的であったとしても、掲げる政策に曖昧なところを残す方が候補者たちにとって得になる可能性があるのだ。

これまでの議論は、2つの政党(あるいは、2人の候補者)が争う選挙であればどんなケースであっても妥当する。アメリカの大統領選挙では、予備選挙が曖昧さをさらに助長する働きをする。いずれの候補者も自らが掲げる政策のオプション価値(option value)を本選(一般投票)まで維持したがるだろう。例えば、共和党の予備選挙に出馬する候補者たちは、自らが掲げる政策に曖昧なところを残しておけば、民主党の予備選挙で誰が勝つかに応じて本選での戦い方を調整できる。民主党の予備選挙で誰が勝つかもその勝者がどんな政策を掲げるかも事前にはわからないので、共和党の予備選挙に出馬する候補者たちは、できるだけ曖昧であろうとするのだ。民主党の予備選挙に出馬する候補者たちにしても同じことが言えるので、予備選挙が終わって本選で戦う相手が誰であるかが決まっても、相手の本音(政策に対する真の好み)は完全にはわからないだろう。予備選挙で自分の立場を鮮明にすると、本選で身動きが取れなくなってしまう(相手が掲げる政策に応じて自分の立場を調整できる余地が少なくなってしまう)おそれがある。その一方で、リスク回避的な有権者は、予備選挙で候補者が掲げる政策があまりに曖昧であるようだとそっぽを向く(票を投じない)だろう。予備選挙における曖昧さの程度は、これら相反する力が釣り合うところに決まる。2つの政党が争う選挙において曖昧さが助長されるのは先に述べた通りだが、アメリカの大統領選挙では、予備選挙が曖昧さをさらに助長する要因として加わるのだ。

熾烈な予備選挙が争われている最中においては、曖昧さが滑稽なかたちをとってあらわれることがある。例えば、直近の共和党の予備選挙で、J.マケイン(John McCain)が中絶問題について対立候補のM.ロムニー(Mitt Romney)に批判を加えた。中絶問題について2年ごとに意見を変えているじゃないかというのである。ロムニーはどう応じたかというと、意見を変えたのはクローンの研究で新しい発見があったからだと答えたのだ。


<参考文献>

●Alesina and R. Holden (2008) , “Ambiguity and Extremism in Elections”, NBER Working Paper.
●Downs, Anthony (1957), An Economic Theory of Democracy, Harper and Row, New York, NY.

2010年4月27日火曜日

Esther Duflo 「多すぎるバンカー?」(2008年10月8日)

Esther Duflo, “Too many bankers? ”(VOX, October 8, 2008)
 
金融部門は、過去20年間にわたり、相対的に高額な給与の支払いを通じて多くの――おそらくは、あまりにも多すぎる――有能な人材を引きつけてきた。今般の金融危機は、才能の配分(allocation of talent)を改善する効果を持つかもしれない。すなわち、有能な人材の創造的なエネルギーがこれまでよりも社会的に有益なかたちで利用されるようになるかもしれないのだ。

金融危機の混乱から金融部門を救い出すための緊急救済策が講じられる過程で、金融部門における給与水準の驚くほどの高さに注目が寄せられた。ニコラス・クリストフ(Nicholas Kristof)がニューヨーク・タイムズ紙のコラムで詳しく報じているが、リーマン・ブラザーズ――今般の金融危機の渦中で最初に(9月に)倒産した銀行――のCEOが受け取っていた給与は、2007年の1年間で4500万ドル、1993年から2007年までの総額でおよそ5億ドルにも上るという。

しかしながら、リーマン・ブラザーズのCEOのケースは例外というわけではない。トマ・ピケティ(Thomas Piketty)&エマニュエル・サエズ(Emmanuel Saez)の二人によるパネルデータ分析によると、アメリカにおける所得上位1%の超富裕層の取り分は1980年代以降コンスタントに高まっているが、金融部門で働く「ゴールデンボーイ」が受け取る所得の上昇ペースは他の富裕層のそれを大きく上回っているのである。トマス・フィリポン(Thomas Philippon)&アリエル・レシェフ(Ariell Reshef)の二人による最近の研究によると(注1)、1980年の時点では、金融部門で働くバンカーが受け取っていた給与は他の部門で働く同程度の能力の持ち主とほぼ変わらなかったが、1980年代に入って両者が受け取る給与水準に開きが出始めて、その後はその差が広がる一方であることが明らかにされている。2000年時点だと、金融部門における給与水準は、それ以外の部門における給与水準を60%も上回っているのである。その一因としては、金融部門において高度なスキルを備えたバンカーの数が増えたのに加えて、失業するリスクが高まったことが挙げられるが、あくまでも一因でしかない。フィリポン&レシェフの二人の計算によると、金融部門で働くバンカーが受け取っている給与水準は、先の二つの要因――①高度なスキルを備えたバンカーの数が増えたこと、②失業するリスクが高まったこと――を踏まえて導き出される水準を40%も上回っているのである。バンカーの給与がこれほどまでの高額に達したのは、1929年以来のことなのだ。

そんなわけで、金融安定化に関するポールソン案の是非を巡る議論の過程で高額給与の問題が俎上にのぼるのは避けられなかった。ポールソン案では、金融機関の株式(市場では買い手がつかないであろう株式)を購入するために、最大7000億ドルの公的資金枠が設けられる予定になっているが、1万7000ドルもの時給を受け取っているバンカーの尻拭いをするために自分の財布からお金を出さねばならない納税者にとっては、何とも不公平な話に思えてしまうことだろう。最終的に、役員への「ゴールデンパラシュート(退職金)」にいくらか制約が課せられることにはなったものの、役員(政府が出資したファンドに株式を売却した銀行の役員)の報酬に制限を課す話はお流れになった。ピケティが先週のLiberation紙のコラムで指摘しているように、サラリーキャップ(給与水準に上限を課すこと)を出し抜くのは容易であることを考えると、ルーズベルト政権が実施したように、高額所得者への課税強化に乗り出す方が望ましいだろう。

バンカーの給与水準を(大幅に)引き下げるにしろ、給与への課税を(大幅に)強化するにしろ、モラルの観点からすれば――公平性の観点からしても――望ましい措置に違いないだろうが、多くの経済学者が主張しているように、その代償として経済効率が損なわれてしまう恐れはあるだろうか? 金融部門で働く有能なバンカーの労働意欲が阻害されて、金融技術面でのイノベーションが低迷してしまう可能性はあるだろうか? その答えはおそらく「イエス」だろうが、そうなるのには好ましい面もあるのだ。

金融部門が大学出のエリートたちをそそのかす誘惑の強さは、フィリポン&レシェフの二人の推計が示唆しているよりもずっと大きい。“Harvard and Beyond” サーベイ――クラウディア・ゴールディン(Claudia Goldin)&ラリー・カッツ(Larry Katz)の二人がハーバードの大学院生を対象に複数の世代にわたって実施した調査――によれば、大学での成績や入学時の偏差値、専攻、卒業年度etcにコントロールを加えた後でも、2006年時点で金融部門で働いていたハーバード大学の院卒生は、それ以外の部門で働いていた院卒生のほぼ3倍以上の(195%も高い)給与を得ていたという(注2)。才能ある若者にとって、金融部門で働くことの誘惑はかくも大きいのだ。1969年~1972年に大学院を修了したハーバード大の男子の院卒生のうちで金融部門で職を得た学生は全体の5%に過ぎなかったが、1988年~1992年に大学院を修了したハーバード大の男子の院卒生になると、その数は15%にまで増えているのだ。1980年代に入って金融市場で大規模な規制緩和が進み、莫大な利潤を手にできる機会が広がるのに伴って、金融部門で働く人の数が増えるとともに、金融部門で働く上で求められる資格要件(学歴)が厳しくなっていった。フィリポン&レシェフの二人によると、金融部門で働くバンカーとそれ以外の部門で働く人たちとの学歴差に匹敵する事例を過去から見つけようとすれば、1929年にまで遡らなければならないという。金融商品の複雑化に加えて、職務上求められるスキルの上昇を背景として、大学院生――おそらくは高い知性の持ち主――にとって金融部門の(就職先としての)魅力がいや増すことになったのである。

今回の危機が明け透けにしたことは、これらの有能な知性がそれほど生産的な方法で利用されていないということである。金融部門は、起業家と投資家とを結び付ける仲介役として欠かせない部門というのは確かである。しかしながら、金融に対する実体経済の必要性を満たすという役割からやや切り離されて、金融部門はそれ自体でほとんど独立(あるいは、自己完結)した部門として拡大を続けてきたように思える。フィリポンの計算によると、金融部門がGDPに占める割合は2006年時点で8%に達していて、金融仲介機能を果たすのに必要なサイズよりも少なくとも2%は余分に規模が大きい可能性があるという(注3)。なお厄介なことには、「不動産担保証券」(“mortgage backed securities”)に対する銀行の飽くなき需要が過剰な借入れと住宅バブルを招いて、サブプライム危機の一因になったことである。ここ数日の出来事を眺めていると、「金融部門のCEOたちを追い出せ」と求める声が日増しに強まっているようである。プラグマティックな観点からすると、金融部門で働くCEOの法外な報酬が抑制されたら、若い世代が金融部門以外の部門へと行き先(就職先)を変更することで、有能な若者の創造的なエネルギーがこれまでよりも社会的に有益なかたちで利用されるようになるかもしれない。金融危機は、経済を深刻で長期化する不況に引きずり込む可能性があるが、希望の光が見出せないこともない。金融危機は、「才能の配分」を改善する可能性を秘めてもいるのだ。ウォール街とヨーロッパで準備されている金融部門の救済パッケージが、最良にして最も聡明な若者たち(the best and brightest)に、金融部門は依然として最善の選択肢(=就職先)だと判断させる結果に終わらないように願いたいところである。 


<注>

(注1)Thomas Philippon and Ariell Reshef (2007), “Skill Biased Financial Development: Education, Wages and Occupations in the U.S. Finance Sector”, NYU Stern Business School mimeograph, September 2007.

(注2)Claudia Goldin and Lawrence Katz (2008), “Transitions: Career and Family Life Cycles of the Educational Elite(pdf)”, American Economic Review  vol. 98 (2), pp. 263-269.

(注3)Thomas Philippon (2008), “Why Has the U.S. Financial Sector Grown so Much?(pdf)”, MIMEO, NYU Stern.

2010年4月19日月曜日

Paola Giuliano&Antonio Spilimbergo 「経済危機の長期持続的な諸効果」(2009年9月25日)

Paola Giuliano&Antonio Spilimbergo, “The long-lasting effects of the economic crisis”(VOX, September 25, 2009)
 
経済面での出来事は、長期にわたって持続する非経済的な効果を持つ可能性がある。経済面での出来事だったりその時々の経済情勢だったりは、一人ひとりの終生にわたる信念に影響を及ぼす可能性があるのだ。不況の最中に成長した若者は、人生で成功できるかどうかは努力よりも運にかかっていると考える傾向にあって、政府による再分配政策を強く支持する傾向にある。その一方で、公的な制度に対してそれほど信頼を寄せない傾向にもある。現下の厳しい不況は、リスクを嫌うと同時に、政府による再分配を強く支持する新しい世代を育みつつあるのかもしれない 

“経済学の世界に足を踏み入れたのはなぜかというと、その理由は2つあります。まず1つ目の理由は、『大恐慌世代』ということもあって、世の中のことについて並々ならぬ関心を持つようになったのです。当時の世の中で起こっていた多くの問題の根本的な原因を探ると、そこには経済問題が横たわっていたのです。”― ジェームス・トービン(James Tobin), Conversations with Economists


大恐慌以来最も深刻な経済危機から脱しようとしている中で、世間の関心もシフトし始めている。危機にどう対応したらいいかということから、危機に備わる長期的な効果へと世間の関心がシフトし始めているのだ。

過去の経済危機は、経済の構造だけではなく、政治の世界にも、経済についての経済学者の考え方にも、世間の人々の心理や信念にも、しぶとい痕跡を残した。例えば、1930年代の大恐慌は、政府に対して「マクロ経済の安定化」という新たな役割を付与する契機になったばかりではなく、アメリカの政界をその後数十年にわたって規定することになった新たな政治連合の形成を促した。さらには、ケインズ革命とマクロ経済学の誕生を誘発したのである。 

現下の経済危機が経済の構造に対して及ぼす長期持続的な効果の詳細を把握するためにはしばらく時間がかかるだろうが、IMFのチーフエコノミストであるブランシャール(Olivier Blanchard)も語っているように、「今回の危機は、経済システムに深い傷を刻み付けた。供給と需要のどちら側に対しても、今後何年にもわたって影響を及ぼし続けるだろう傷を刻み付けたのだ」(Blanchard 2009)。現下の経済危機は、「経済システムに深い傷を刻み付けた」だけでなく、いくつかの新たな問いも提起している。これから先、経済学者が必死になって取り組まねばならないだろう問いだ。すなわち、過去2年にわたって金融面で急速な勢いで進んだディスインターメディエーション(financial disintermediation)は、一時的な現象に終わらずに、今後もこのまま定着するのだろうか? 「信用なき」(“creditless” )景気回復――銀行の融資を含む「信用」の拡大を伴わない景気回復――を続けるのは可能だろうか? 政府は、規制に対するアプローチを見直すべきだろうか? 


大不況と大傑作(Great recessions and great literature)

経済危機は、経済や政治の分野だけにとどまらず、世間の人々の心理や態度に対しても衝撃的な効果(traumatic effect)を及ぼす。スタインベックが『怒りの葡萄』(The Grapes of Wrath)や『ハツカネズミと人間』(Of Mice and Men)――どちらも、大恐慌の中頃に執筆された作品――でありありと描き出しているように。大恐慌という衝撃的な出来事は、世間の人々の信念や態度に大きなインパクトを及ぼした。その結果として、アメリカの政治システムを長きにわたって支えた信念や態度が醸成されるに至ったのである。

翻って、現下の経済危機はどうだろうか? 心理的・政治的な側面に対してどんな効果を及ぼすだろうか? ダストボウル(Dust Bowl)が引き起こした苦痛をありありと描き出したスタインベックのように、サブプライムローンが引き起こした苦痛をありありと描き出す作家はまだ登場していないが、経済危機が世間の人々の心理や行動に及ぼす効果について何らかの示唆を与えてくれそうな学術的な研究ならある。我々の最新の研究成果がそれだ。 


総合社会調査(General Social Survey)を利用した最新の研究成果

我々の研究では、厳しい不況が一人ひとりの広範にわたる信念や態度に対して及ぼす影響が調査されている(Giuliano and Spilimbergo, 2009)。具体的には、アメリカで1972年以降ほぼ毎年のように実施されている総合社会調査(GSS:General Social Survey)への回答データを利用して、経済的なショックがアメリカの異なる世代の人々の態度に及ぼした影響を分析している。成人期の初期段階(early adulthood)で生じたマクロ経済的なショックと、GSSで自己申告された回答を突き合わせて、マクロ経済的なショックが世間の人々――特に、若者――の態度にどのような影響を及ぼしたかを明らかにしようと試みたのである。

経済的なショックが一人ひとりの信念に及ぼす効果を分析しようとすると、乗り越えなくてはならない重要な課題がある。一人ひとりの人間は、生きていく中で実に色々な経験をする。一人ひとりの人間が味わう経験のうちで経済的なショック以外の経験がその人の信念に及ぼす効果をコントロールすることが大事になってくるのだ。特に、戦争だとか、文化の急激な変容だとかという非経済的な出来事は、異なる世代に異なる影響を及ぼす可能性がある〔原注1〕。例えば、大恐慌の最中に成人期を迎えた世代は、大恐慌からだけではなく、第2次世界大戦からも影響を受けている可能性があるのだ。

経済的なショックの効果をそれ以外の国家的出来事の効果から切り離すために、アメリカでは地域によって経済成長のパフォーマンスにかなり違いがあるという事実を利用した〔原注2〕。例えば、ニューイングランドは厳しい不況に見舞われているのに、それ以外の地域はプラス成長を謳歌しているということがあり得るのだ。我々の研究によると、アメリカ国内の特定の地域を襲った厳しい不況がその地域で育った若者の態度と信念を大きく変えたことが明らかになっている。不況は、世間の人々――特に、18~25歳の若者――の認識(perception)を変えるのだ。不況を経験した若者は、政府による再分配を強く支持する傾向にある。それに加えて、人生で成功できるかどうかは、努力や勤勉よりも運にかかっている面が大きいと考える傾向にあるのだ。 


不況が態度に及ぼす効果

我々の研究を通じて明らかになった事実のうち、特筆すべきなのは以下の4点である。

  • 厳しい不況を経験することによって態度(信念)に大きな影響が及ぶのは、18歳~24歳のいわゆる人格形成期(formative age)――社会心理学者によれば、社会的な信念(social beliefs)の大半が形作られるとされている時期――の若者である。人格形成期以降に厳しい不況を経験した場合は、不況が態度(信念)に及ぼす効果はそれほど大きくない。 
  • 不況が態度(信念)に及ぼす効果は長続きする。不況を経験したせいで大きく変化した態度(信念)は、厳しい不況が終わった後も長年にわたって変化したままにとどまる。
  • 我々の研究では、所得、教育水準、マイホームを所有しているか否かという属性にコントロールを加えて、不況が一人ひとりの態度(信念)に及ぼす直接的な効果だけを取り出している。しかしながら、不況は先に挙げた属性への影響を介して、一人ひとりの態度(信念)に間接的なかたちでも効果を及ぼす可能性がある。間接的な効果も加味すると、不況が一人ひとりの態度(信念)に及ぼす効果はさらに大きくなる可能性がある。
  • 不況が態度(信念)に及ぼす効果の大きさは控え目な推定である。我々が試みた検証では、地域レベルで生じた経済的なショックの影響だけが取り上げられていて、国家レベルで生じた経済的なショックの影響は暗黙のうちに無視されているからである。

金融取引に焦点を合わせて、国家規模で生じる経済的なショックが態度(特に、リスクに対する態度)に及ぼす効果を分析しているマルメンディア&ナーゲル(Malmendier&Nagel 2009)によると、過去に株式市場で高利回りを経験したことがある世代は、リスク回避の程度が低くて、株式投資に積極的で、資産を運用するとなると手持ちの流動資産の多くの割合を株式に投資しがちであることが見出されている。さらには、過去に高インフレを経験したことがある世代は、債券(bond)の保有を避ける傾向にあることも見出されている。興味深いことに、株式の利回りやインフレにまつわる経験のうちでも若かりし頃の経験は、その後数十年にわたってその人のリスクに対する態度に影響を及ぼすことも見出されている。世代によって投資パターンに違いが見られる理由を説明する発見と言えよう。

人生において運が果たす重要性だったり、政府が果たすべき役割だったり、政府による再分配だったりについて一人ひとりが抱いている信念が重要な意味を持つのはなぜかというと、政治風土を形作るからである。ひいては、どんな政策が選ばれるかを決めるからである。例えば、ピケティ(Piketty 1995)によると、人生において運が大きな役割を果たすと信じている人は、重めの税負担も許容する傾向にあるという。さらには、アレシナ&アンジェレトス(Alesina&Angeletos 2005)やベナボウ&ティロール(Benabou&Tirole 2006)によると、公平性(fairness)についてどんな信念が抱かれているか――「公正世界仮説」を信じるか否か――によって、自由放任的な政策が実施される「アメリカ的」な均衡に落ち着く場合もあれば、社会福祉政策が実施される「ヨーロッパ的」な均衡に落ち着く場合もあるのだ。


「大きな政府」を支持する新世代?

現下の厳しい不況は、新しい世代を育みつつあるのかもしれない。リスクを嫌って、株式投資に消極的で、政府の介入を歓迎して、政府による再分配を強く支持して、重い税負担も甘受する新しい世代を。

アメリカの歴史を振り返ると、政界の大再編が経済面での衝撃的な出来事と時を同じくして起こるというのは珍しくない――経済面での衝撃的な出来事が世間の態度を変えて政治風土を変容させる可能性については、昔からよく知られていた。しかし、そのことを裏付ける明確な証拠が欠けていたのだ――。経済危機に見舞われる時期というのは、将来にとって重要な意味を持つ「選択の時」でもあるのだ〔原注3〕。その時々の経済情勢が世間の人々の信念や態度に対して及ぼす影響を明らかにしようと試みる首尾一貫した研究成果が続々と報告されている。しかしながら、世の政治家たちは、新たな時代精神を歓迎するばかりで、その背後にある経緯を解きほぐそうと試みている学術的な研究成果には無関心なようだ。


〔原注1〕ストラウス&ハウ(Strauss&Howe 1991)によると、アメリカ史の中の主要な出来事は、異なる世代の入れ替わり(世代交代)によって説明できるという。アメリカの歴史は、4タイプの世代――理想主義(idealist)/反動的(reactive)/ シヴィック(civic)/ 適応的(adaptive)――の入れ替わりによって説明できるというのだ。ストラウス&ハウによると、4タイプの世代の入れ替わりは、経済面での出来事からは独立して起こるとされている。

〔原注2〕アメリカは、大きく9つの地域に区分される。

〔原注3〕crisis(危機)という単語は、古代ギリシア語の κρίσις (krisis) に由来している。興味深いことに、κρίσις には、「決定(decision)、選択(choice)、選挙(election)、判断(judgment)、討論(dispute)」という意味がある。


<参考文献>


●Alesina, Alberto, and George-Marios Angeletos (2005), “Fairness and Redistribution: US vs. Europe(pdf)”, American Economic Review, Vol. 95 (September), pp. 913–35.
●Benabou, Roland, and Jean Tirole (2006), “Belief in a Just World and Redistributive Politics”, Quarterly Journal of Economics, Vol. 121 (May), No. 2, pp. 699–746.
●Blanchard, Olivier (2009). “Sustaining a Global Recovery”, Finance & Development, September.
●Giuliano, Paola, and Antonio Spilimbergo (2009), “Growing Up in a Recession: Beliefs and the Macroeconomy(pdf)”, CEPR Discussion Paper 7399
●Malmandier, Ulrike, and Stefan Nagel (2009), “Depression Babies: Do Macroeconomic Experiences Affect Risk-Taking?(pdf)” mimeo.
●Piketty, Thomas (1995), “Social Mobility and Redistributive Politics(pdf)”, Quarterly Journal of Economics, Vol. 110, No. 3, pp. 551–84.
●Strauss, William, and Neil Howe (1991), Generations: The History of America's Future, 1584-2069. Harper Perennial.

2010年4月12日月曜日

岡田靖 「小幅で頑固な日本のデフレーションは問題か?」


訳すのはVOXの記事だけと決めていましたが、本エントリーに関してだけは例外です。
日本経済のデフレ脱却に向けて、これまで長きにわたり並々ならぬご尽力をなさってこられた岡田靖先生が一昨晩(2010年4月10日土曜日)にお亡くなりになられました。残念ながら先生とは直接お会いする機会を持つことはできませんでしたが、論文等を通じて多大な学恩を授けていただきました。その学恩に対するささやかながらの報いにでもなればと思い、ここに先生の論文を訳させていただきます。岡田先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

Yasushi Okada, “Is the Persistence of Japan’s Low Rate of Deflation a Problem?”(PDF)

要約
本論文は大きく2つのパートから構成される。まず第1のパートにおいて、なぜ日本経済において持続するデフレーションが小幅(マイルド)であるのかを論ずる。デフレーションが、①小幅(マイルド)であり、かつ、②長らく持続している(頑固である)、というこの2つの事実の組み合わせは、日本経済が過去10年間において経験したデフレーションの最も顕著な特徴である。本論文において我々は、このような2つの事実によって特徴づけられる日本のデフレーションは、あるインフレ定常均衡(inflationary steady state equilibrium)から別のインフレ定常均衡に至る移行過程(transition process)として解釈できることを示すであろう。第2のパートでは、名目賃金の硬直性が存在する状況においては、小幅で弱々しいマイルドなデフレーションが企業収益の大きな圧迫(減少)につながることが示される。こうして生じた企業収益の圧迫の結果として、日本経済における長期にわたる不況が生み出されることになったのである。


第1部.日本のデフレーションに対する一つの単純な解釈

日本銀行による目標インフレ率の引き下げとその結果としてのデフレーション

日本経済は、GDPデフレーターの前年からの変化で測った場合、1994年の第3四半期からデフレーションに突入し、それ以降今日に至るまで12年間にわたってデフレに陥り続けたままであった。このような長い期間にわたって物価が下落し続けた例というのは、第2次世界大戦の終結以降稀な事例である。実際のところ、このような事実は大不況(Great Depression)以降現実に観察されたことはなかったのである。しかしながら、大不況期に日本とアメリカで生じたデフレーションは極めて急速なものであったが、最近12年間にわたって日本で生じたデフレーションはマイルドなもの-平均すれば1%のデフレ-であった。このように大不況期と現在のデフレーションとが極めて異なる様相を示していることもあって、日本のエコノミストの多くは、現在のマイルドなデフレーションが経済に与える影響は大不況期におけるデフレーションが経済に与えた影響とは大きく異なるものである、と考えている。大不況期においては、デフレーションと生産活動の大幅な落ち込みとは時を同じくして生じた。大不況期におけるアメリカ経済においては、それ以前のピーク時と比べて、実質GDPはおよそ50%の減少を見せた。1991年-1991年は日本経済が長期的な不況に突入した年である-以降における日本経済の平均的な実質GDP成長率は、1980年代のそれを大きく下回っているものの、1~2%程度の成長は続いている状況であった。さらには、大不況期においては、金と通貨との公定の交換レートである平価を維持するために、金融政策を通じて意図的に物価の下落が図られたのであった。

図1 GDPデフレーターで測ったインフレーション
(固定基準年方式、消費税の影響除く)


図2 CPIで測ったインフレーション(消費税の影響除く)

1990年以降における日本の金融政策は、資産価格の引き下げを目標として運営されており、このような政策姿勢を指してバブルの抑制(Bubble suppression)を志向した政策と呼ばれることもあった。しかしながら、この間に物価が下落することはなかった。1980年代においては、目標とされるインフレ率は、GDPデフレーターで見て、2~3%のレンジに設定されていたようである。ところが、1990年以降においては、目標とされるインフレ率は、0~1%のレンジへと引き下げられたようである。たとえデフレーションを引き起こすこと自体を目的としてはいないとしても、目標とするインフレ率の引き下げがデフレーションを引き起こすとすれば、日本銀行による政策変更(目標インフレ率の引き下げ;訳者注)がデフレーションの原因であった、ということになる。

インフレ定常状態(Inflationary steady state)

ここで、生産技術と人口が時を通じて不変であり、マネーサプライだけが一定率で成長するような経済を考えてみよう(注1)。ある特定の条件の下で、この経済は最終的にある定常均衡(steady state equilibrium)に落ち着くことになるだろう。定常均衡においては、全ての実質変数は一定に保たれることになるので、実質的なマネーサプライもまた(実質変数であることから;訳者注)一定の値をとることになる。しかしながら、仮定より、マネーサプライは一定率で成長しているので、実質的なマネーサプライが一定に保たれるためには、インフレ率(物価上昇率)がマネーサプライ成長率と同じスピードで成長する必要があることになる。貨幣数量説が正しいかどうかにかかわらず、定常均衡においては、物価の変化率(インフレ率)はマネーサプライの変化率と等しくなるわけである。こうしてインフレ率が決まってくると、実質利子率にインフレ率を加えることによって名目利子率もまた決定されることになる。名目利子率-名目利子率は貨幣保有の機会費用である―は、以下のように、その他の実質変数(訳者注;実質貨幣残高に対する需要に影響を及ぼす諸々の実質変数を一括りにしてΛで表すことにする)とともに実質貨幣需要関数の変数を構成することになる。

M/P = L(i, Λ)

ここに、Mは名目的なマネーサプライを、Pは物価水準を、Lは実質貨幣残高に対する需要を、iは名目利子率を、それぞれ表している。 名目的なマネーサプライの水準は毎期ごとに中央銀行によって決定され、定常均衡においては実質貨幣需要関数の変数(iとΛ)は一定の値(均衡値)に決まってくる(それに応じて実質貨幣残高に対する需要量も特定の値をとることになる;訳者注)ので、物価水準は貨幣市場の均衡条件を満足するような水準に決まることになるであろう。

目標インフレ率の引き下げ

ここである特定のインフレ定常均衡に置かれている経済を考えてみよう。ここで中央銀行が時点Tにおいてマネーサプライ成長率を低下させる決定をしたとしよう。ただし、時点T以降におけるマネーサプライ成長率はある一定の正の値をとるものとする。言い換えれば、マネーサプライの数量を絶対的に減少させることを通じて物価水準を引き下げるよう試みる意図的なデフレ政策は採られないということである。X軸に時間をとり、Y軸には名目マネーサプライの自然対数値をとると、図3に描かれているように、マネーサプライの時間的経路はマネーサプライ成長率の低下を反映して時点Tにおいて屈折を見せることになる。

図3 時点Tにおけるマネーサプライ成長率の変化


ここでマネーサプライ成長率をμで表すことにしよう。特に、時点T以前におけるマネーサプライ成長率をμ(0)、時点T以降のマネーサプライ成長率をμ(1)、とそれぞれ表すことにしよう。中央銀行が時点Tにおいてマネーサプライ成長率を低下させることから、μ(0) > μ(1) との関係が成り立つことになる。定常均衡の仮定より、時点T以前のインフレ率はマネーサプライ成長率と等しいμ(0)となり、また、時点Tにおいてマネーサプライ成長率が引き下げられてから十分な時間が経過したのちには(=経済が新たな定常均衡に到達した暁には;訳者注)、インフレ率はμ(1)に達することになるだろう。

マネーサプライ成長率がμ(0)であるケースとμ(1)であるケースのどちらの定常均衡においても実質利子率は同じ値をとると仮定し、その際の実質利子率をρ* と表すことにしよう。すると、時点T以前の定常均衡における名目利子率i(0)は、i(0) = ρ * + μ(0) となり、時点T以降に(十分な時間が経過したのちに)成立する新たな定常均衡における名目利子率i(1)は、i(1)= ρ * + μ(1) となる。これら2つの名目利子率の間には、i(0) > i(1)、との関係が成り立つことは明らかであろう。ここで、実質貨幣残高に対する需要は、実質変数の関数であるばかりではなく、名目利子率の関数でもあることを思い出そう。実質貨幣残高に対する需要が名目利子率の関数でもある結果として、2つの定常均衡においては、実質変数のうちで(2つの定常均衡間においてそれぞれに成立する名目利子率が異なることを反映して;訳者注)実質貨幣残高に対する需要のみが異なる値をとることになる。(マネーサプライ成長率がμ(0)からμ(1)に低下したのちに成立する;訳者注)新たな定常均衡での名目利子率i(1)は時点T以前の定常均衡における名目利子率i(0)よりも低い値をとるので、(ヨリ低い名目利子率を反映して実質貨幣残高に対する需要がヨリ大きくなるために;訳者注)新たな定常均衡における実質貨幣量は、時点T以前の定常均衡におけるそれよりも大きな値をとることになる。

経済が時点Tに到達した段階で、今後将来的にマネーサプライ成長率が引き下げられることになるだろうことが民間部門の人々に広く知られているとすればどうなるか考えてみよう。期待インフレ率は今すぐにでも低下し、名目利子率もそれに応じて低下するだろう。さらには、実質貨幣残高に対する需要は(名目利子率の低下を反映して;訳者注)増加するであろう。しかしながら、時点Tにおいて名目マネーサプライの水準が増加することはないので、結果として、貨幣市場における均衡を維持するために時点Tにおいて物価水準が下落する必要があり、こうして実質貨幣量が増加する(つまりは貨幣市場の均衡が保たれる;訳者注)ということになるだろう。

図4 物価水準の移行経路

もちろん、現実には名目価格と名目賃金とは多かれ少なかれ硬直的であり、それゆえ、貨幣市場の均衡を維持するために必要なだけの物価水準の下方へのジャンプが生じることはないだろう。その結果、(貨幣市場が不均衡状態におかれることによって;訳者注)実質変数にも影響が及ぶことになり、貨幣市場の均衡を回復するために必要となる調整を実現するために、物価水準の下落と実質変数の減少とが緩やかなかたちで生じることになるだろう。新たな定常均衡に到達するのは、このような物価水準と実質変数との調整が完全に終了したのちのことであろうと考えられる。

以上の議論から明らかになる重要な結論は、マネーサプライが絶対的に減少させられることはなくともその成長率(マネーサプライ成長率)だけでも引き下げられることになれば、物価水準は低下することになるだろう、ということである。言い換えれば、短期的なマネーサプライの変化は物価(諸価格)に影響を及ぼさないだろう、ということである。マネーサプライ成長率は、新たな定常均衡を定めることを通じて、現時点における物価水準とインフレ率とに影響を及ぼすことになるわけである。これまで論じてきたようかたちで生じるデフレーションを前にして中央銀行が一時的にマネーサプライ成長率を増加させたとしてもこのようなデフレーションが食い止められることはないだろう。つまるところ、経済は「流動性の罠」に陥っているわけであり、Krugman [1998]が指摘したように、このような状況においては物価(諸価格)とマネーサプライとの間における明瞭な関係性が失われることになるわけである。

日本経済の現実のデータに目を転じると、1980年代におけるマネーサプライ(M2+CD)成長率はおよそ10%であったことが示されている。しかしながら、1990年以降マネーサプライ(M2+CD)成長率は突然低下を見せ、平均して0%から3%の間を推移するようになった。1980年代のデータからオイルショックの時期を除けば、1980年代におけるインフレ率は、CPIとGDPデフレーターのどちらで見ても、およそ3%であった。しかしながら、最近の金融政策決定会合でも述べられているように、日本銀行は長期的なインフレ率の目標をおよそ1%に変更したようである。日銀によるこのような長期的な目標インフレ率の引き下げがいつの時点で民間部門から広く認識されるようになったのかは明らかではないが、デフレーションの発生が実際に認識され始めた1990年代中頃には民間部門における長期的なインフレ期待に変化が生じたのではないかと考えることもできるかもしれない。

図5 マネーサプライ(M2+CD)成長率

先に論じたように名目価格や名目賃金に硬直性が存在すると考えられるならば、長期的な目標インフレ率が突然引き下げられたことによってデフレーションが発生したという可能性もあり得ることである。さらには、このようなかたちで生じるデフレーションは、マネーサプライの絶対的な縮小を伴う大不況期のデフレーションのような悲惨な結果をもたらす必要はないだろう。しかしながら、このようなデフレーションは物価水準の調整(貨幣市場の均衡を維持するために必要となる物価水準の下落)が終了するまで持続することになるだろう。それゆえ、発生するデフレーションがマイルドであるようならば、(デフレがマイルドであればあるほど埋め合わせるべき物価水準の下落を実現するまでに要する時間もそれだけ長くなるので;訳者注)それだけデフレーションは長い期間にわたって持続するということになるだろう。このようにして生じるデフレーションは、一時的なマネーサプライの増加によっては終わらせることはできない。経済は、極めて低水準の名目利子率とマイルドなデフレーションとを伴いつつ、長期間にわたる実体経済面での停滞を経験することになるだろう。


第2部.マイルドなデフレーションの効果

名目賃金や名目価格に硬直性が存在し、中央銀行による長期的な目標インフレ率が引き下げられる時には、マイルドではあるけれども、長期にわたる頑固なデフレーションが生じる可能性がある。しかしながら、1%~2%程度のマイルドなデフレーションが経済に対して大きなインパクトを持つ可能性に関しては広く問題とされることはなかった。日本における多くのエコノミスト-中央銀行内部の研究者のみならず、民間のエコノミストも含めて-は、その程度のマイルドなデフレーションは経済に対してそれほど深刻な悪影響をもたらさないだろうと考えていたのである。物価が個別製品の価格を平均したものであると見なされ、物価と貨幣価値との関連が見忘れられるやいなや、デフレーションを引き起こす技術進歩や規制緩和は経済にとってよいものである、と考えられたのであった。多くのエコノミストや政策当局者たちは、1990年代に生じたデフレーションを「よいデフレ」であると見なしていたのである。

多くのエコノミストは、日本経済が抱える最も深刻な問題はデフレーションではなく生産性の低迷にあると信じていた。このような考えは、Hayashi and Prescott [2003]によって提示されたものである。林=プレスコットは、成長会計の手法を用いて、1990年代において全要素生産性(TFP)の成長率が低下していることを示し、TFP成長率の低下こそが1990年代において日本経済のGDP成長率が低下した原因である、と主張した。しかしながら、その後の研究によれば(注2)、林=プレスコットの結論は必ずしも正しいものではない、との報告がなされている。

ここで、連鎖方式のデフレーターによって推計されたGDP統計―このようなデータは1994年以降になって利用可能となった―を用いて、労働生産性(注3)の変化を見てみることにしよう。以下の図6によれば、1994年以降、労働生産性は一定の率で成長していることがわかる。もちろん、これらのデータは必ずしも真の構造パラメータを反映しているわけではない。しかしながら、1994年以降に労働生産性に大規模な構造変化が生じてはいないことは明らかである。

図6 労働生産性とそのタイムトレンド

実質賃金(注4)は、安定した成長を見せる労働生産性とは異なる動きを見せている。1998年に失業率が過去最高を上回る3%に達すると、名目賃金は下落に転ずることになったが、GDPデフレーターが下落し続けたこともあって、実質賃金は2002年まで上昇を続けることになった(注5)。

図7 名目賃金と実質賃金の推移

実質賃金と企業収益との関係は単純なものである。もし実質賃金と労働生産性との比(*)が一定に保たれ得るとすれば、企業収益と名目GDPとの比も一定に保たれることになる。そして、このケース(実質賃金と労働生産性との比が一定で変わらないケース)では、企業収益の伸びは名目GDP成長率と一致することになる。そうでないケース、特に、実質賃金が労働生産性以上に増加するようなケースでは、企業収益の伸びは名目GDP成長率を下回ることになる。デフレの結果として名目GDP成長率は0%に陥ったと考えられ、失われた10年においては名目GDP成長率は実質GDP成長率を下回る(**)ことになった(注6)。(デフレによる;訳者注)実質賃金の上昇が(労働生産性を上回るスピードで上昇し、その結果として労働分配率を引き上げることを通じて;訳者注)直接的に企業収益を圧迫することになったわけである。労働生産性と実質賃金のそれぞれの推移は、以下の図8に示されている。

図8 労働生産性と実質賃金の推移


2002年以前における労働生産性の上昇は実質賃金の上昇によって完全に相殺されることになった。問題は、1994年中に企業収益が十分回復しなかった、ということにある。通常の景気循環の過程では、景気拡大の初期の段階には実質賃金が相対的に減少し、企業収益は大幅に増加するものである。1980年代までは、まさしくこのようなかたちで調整が進んだものである。名目賃金の上昇は1997年に入るとストップし、下落を始めることになった。この時デフレーションが生じていなければ、企業収益は名目賃金の下落を受けて増加を見せたはずである。しかしながら、実際のところはデフレが生じていたために、実質賃金は2002年まで上昇し続けることになった。こうして、1%程度のマイルドなデフレーションが(実質賃金の高止まりを通じて;訳者注)企業収益の堅調な回復を妨げることになったのである。

1994年に始まったGDPデフレーターで見たデフレーションは、名目賃金の下落の効果を完全に打ち消すことになった。デフレーションは実質賃金の上昇を引き起こすことで企業収益を圧迫し、また、株価を含んだ資産価格の回復を妨げることになった。企業収益の弱々しい回復を受けて、設備投資はすぐにも減少を見せることになり、さらには、金融機関ならびに一般事業法人のバランスシート上における純資産は、株価が下落したことにより、そして間接的なかたちではあるものの設備投資が減少したことにより、減少することになった。こうして、企業活動はさらなる低迷を経験することになり、2001年の下半期に入ると失業率は5%にまで上昇することになったのである。1997年に失業率が3%を超えたことを受けて名目賃金が下落に転じたように、失業率が5%もの高水準に達したことで名目賃金は大幅に下落することになり、ついには、実質賃金までも下落する事態になった。名目GDPは増加しなかったものの、実質賃金が下落したことによって、企業部門の収益は増加することとなり、その結果として、デフレーションは依然として続いたものの、(企業収益の伸びの回復を受けて;訳者注)資産価格の上昇と設備投資の増加とが定着するということになったのである。


結論

本論文で論じたように、複雑な動学マクロモデルを用いずとも、長期的なマネーサプライ成長率(あるいは中央銀行が目標として設定する長期的なインフレ率)が引き下げられれば、経済がデフレーションに陥ることを示すことは可能である。さらには、マネーサプライを短期的に(一時的に)増加させたとしても、このようなデフレが終焉することはないだろうことも示される。言い換えるならば、Krugman [1998]によって提唱された「流動性の罠」に関する命題の本質的な部分は、クルーグマンモデルに特有な構造には依存していないということである。本論文において示されているように、流動性の罠が生じるために必要な条件は、1)名目価格や名目賃金の調整が不完全であること、2)名目利子率が実質貨幣需要関数の独立変数であること、である。

現在のところ、すべての経済学者が同意するような名目価格や名目賃金の調整に関する短期的な動学モデルは必ずしも確立されていない。しかしながら、たとえすべての経済学者に支持されるような動学モデルが存在しないとしても、 単純なインフレ定常均衡モデルに基づくことで、長期的な金融政策の変化により流動性の罠が引き起こされることが明らかになるのである。

また、マイルドなデフレーションこそが長期にわたる経済停滞を引き起こした原因であると考え得ることも本論文で示したところである。1990年代に日本経済が抱えていた歴史的な条件のために、マイルドなデフレーションが企業収益を大きく圧迫することにつながり、それが原因で日本経済は停滞に陥ることになったと考えられるのである。つまりは、小幅で頑固なデフレーションは、過去10年間にわたって日本経済が停滞し続けた最も重要な要因の一つであった、と考えられるのである。


<注>

(注1)McCallum [1989], Chapter 6.
(注2)Jorgenson and Motohashi [2003].
(注3)労働生産性=実質GDP/雇用者数/平均週労働時間.
(注4)実質賃金=雇用者報酬/(GDPデフレーター×雇用者数)/平均週労働時間.
(注5)GDPデフレーターの動向に関しては消費税の影響も考慮せねばならない。消費税率は1997年4月に3%から5%に引き上げられることになった。消費税の影響を考慮するにあたり、本論文では最も単純な方法に従うことにする。つまりは、1997年第1四半期以前のデフレーターに関しては(消費税率3%を反映して)1.03で割り、1997年第2四半期以降のデフレーターに関しては(消費税率5%を反映して)1.05で割ることで、消費税の影響を調整することにする。
(注6)Hayashi and Prescott[2002].
 

<訳者による補足>

(*)実質賃金と労働生産性との比は、言い換えるならば、労働分配率のことである。なぜなら、
   労働分配率=雇用者報酬/名目GDP
={雇用者報酬/(GDPデフレーター×雇用者数)/平均週労働時間}/
         {(実質GDP/雇用者数)/平均週労働時間}
        =実質賃金/労働生産性
        (注3, 注4における労働生産性と実質賃金の定義参照)
             
(**)実質GDP成長率=名目GDP成長率-GDPデフレーター変化率
  =>実質GDP成長率-名目GDP成長率=-GDPデフレーター変化率
  デフレーションが生じているということは(GDPデフレーター変化率<0)、
ということなので、デフレが生じている時には、
    実質GDP成長率-名目GDP成長率>0、つまりは、
    実質GDP成長率>名目GDP成長率、が成り立つ。
  

<参考文献>

〇Hayashi, F. and E. Prescott, 2002, “The 1990’s in Japan: A Lost Decade(pdf),” Review of Economic Dynamics, 5, pp. 206–235.
〇Jorgenson, D.W. and K. Motohashi, 2003, “Economic Growth of Japan and the United States in the Information Age,” RIETI Discussion Paper Series 03-E-015.
〇Krugman, P. 1998, “It’s Baaak! Japan’s Slump and the Return of the Liquidity Trap(pdf)”(邦訳(山形浩生氏訳)はこちら(pdf)), Brookings Papers on Economic Activity, 2, pp. 137–187.
〇McCallum, B. 1989, Monetary Economics, Macmillan.

2010年4月11日日曜日

Yoonsoo Lee&Toshihiko Mukoyama 「不況の浄化効果?」(2008年1月7日)

Yoonsoo Lee&Toshihiko Mukoyama, “Are there cleansing effects of recessions? Entry and exit of manufacturing plants over the business cycle”(VOX, January 7, 2008)
 
景気循環の過程では、創造的破壊が次々と起きて産業が清められる(‘cleanse’ )と広く信じられている。しかしながら、崩壊(busts)期よりもブーム(booms)期のほうが市場への新規参入が盛んな一方で、市場からの退出率と市場から退出するプラントのタイプは、景気循環のどの局面でも変わりがないようだ。さらには、不況期に開業する(新規参入する)プラントは、ブーム期に開業する(新規参入する)プラントと比べると、規模が大きくて、生産性が高い傾向にあるようだ。すなわち、不況期に起きているのは、「創造的破壊」(‘creative destruction’)ではなく、「創造的参入」(‘creative entry’)なのだ。
 
「創造的破壊」は、現代の市場経済を突き動かす主要な原動力の一つである。市場に新規参入する企業もあれば、市場から退出する企業もある。開業するプラントもあれば、閉鎖されるプラントもある。労働者が職場を移ったり職業を変えるのも珍しくない。市場経済において起こる「資源の再配分」(reallocation)の規模はかなりのものであることが、経済学の分野における過去数十年間の研究を通じて明らかになり始めている〔原注1〕。創造的破壊は、例外的な現象ではなく日常的な現象なのであり、市場経済が円滑に機能するために欠かせないのだ。資源が再配分される過程でミクロのレベルで浮き沈みが生じる。そのおかげで新製品が導入されたり、新技術が実用化されたり、資源がより生産的に利用されたりするようになるのだ。

現代の市場経済においては、ミクロのレベルにおいてだけでなく、マクロのレベルでも浮き沈みが起きる。ブームと不況が――時に穏やかに、時に過酷に――繰り返されるのだ。景気循環の安定化を図ることは、多くの政府にとって主要な政策目標の一つになっている。しかしながら、景気循環の安定化を試みる前に、問うておかないといけないことがある。マクロのレベルの浮き沈み――景気循環――とミクロのレベルの浮き沈み――創造的破壊――は、どう関わっているのだろうか? マクロのレベルの浮き沈みが「資源の再配分」を反映しているのだとしたら、「資源の再配分」は市場経済が円滑に機能するために欠かせないのだから、景気循環は問題視するにあたらないかもしれないのだ。

経済学者の間で持て囃(はや)されている見解の一つによると、景気循環は次々と生起する創造的破壊の表れと見なされている。「創造」があちこちで起こるのがブーム期で、「破壊」があちこちで起こるのが不況期だというのだ。それゆえ、景気循環を安定化しようとする試みは、「資源の再配分」という健全なプロセスを阻害する可能性があると見なされる。長い目で見ると、不況も悪くないということになろう。不況期には非効率的な生産単位(企業)が淘汰されて、経済システムが浄化されるだろうからだ〔原注2〕。しかしながら、すべての経済学者が同意しているわけではない。正反対の立場に立って、不況期には「資源の再配分」のペースが鈍ると考える研究者もいる〔原注3〕。不況期には、創造と破壊のペースが落ちるというのだ。この立場からすると、不況はやはり悪いということになる。

そんなわけで、景気循環の過程で起こる「資源の再配分」の実態について知ることは政策当局者にとっても重要なのだ。アメリカの製造業部門を対象にしてこの問題にメスを入れているのが我々の最新の論文である(Lee&Mukoyama, 2007)。具体的には、米国勢調査局(US Census Bureau)が収集しているプラントレベルのデータを利用して〔原注4〕、景気循環の過程におけるプラントの新規開業(誕生)と閉鎖(死)の実態を詳細に検討している。見出された結果をまとめると、以下のようになる。プラントの開業率(一年の間に新たに開業したプラントの割合)は、不況期よりもブーム期のほうがずっと高い一方で、閉鎖率(一年の間に閉鎖されたプラントの割合)は、ブーム期と不況期とで違いが見られない。興味深いことに、不況期に開業するプラントとブーム期に開業するプラントは雇用量と生産性の面で大きな違いがある一方で、不況期に閉鎖されるプラントとブーム期に閉鎖されるプラントは雇用量と生産性の面でそれほど違いが見られない。不況期に開業するプラントは、ブーム期に開業するプラントと比べると、規模が大きくて(雇用量が多くて)、生産性が高い傾向にあるのだ。その一方で、不況期に閉鎖されるプラントとブーム期に閉鎖されるプラントは規模(雇用量)と生産性の面でそれほど差が無いのだ。

マクロのレベルで起こる「景気循環」とミクロのレベルで起こる「資源の再配分」との関係について再考を迫る結果だ。不況の浄化効果を称える陣営によると、「破壊」(あるいは、退出・閉鎖)を通じて経済システムが浄化されることが強調される。操業中のプラントにおける雇用破壊(job destructions)が大いに反循環的である〔訳注;雇用破壊は、ブーム期に鈍る一方で、不況期に盛んになる〕ことを見出した先行研究がその裏付けになっているが、我々の研究によると、破壊(退出・閉鎖)の面でこれといって特別なことは起きていないことが見出されている。先にも述べたように、ブーム期に閉鎖されるプラントと不況期に閉鎖されるプラントは(雇用量や生産性の面で)似たような特徴を備えている。不況期に生産性の低いプラント――ブーム期であれば操業を続けられたであろうプラント――の大規模な淘汰が起きるわけでは必ずしもないのだ。不況に陥って事業を続ける(生き残る)のが難しくなると、従業員の一部が解雇されて雇用が縮小される傾向にある。既存の非効率的なプラントが一気に一掃されるわけではないようなのだ。生産性の低いプラントが淘汰されるのは、不況期だけに限られる話ではない。破壊を通じて働く浄化は、景気循環のどの局面でも――ブーム期だろうと、不況期だろうと――絶えず起きているのだ。不況期に起こる破壊とブーム期に起こる破壊は特徴の面でこれといった違いはないのだ。

とは言え、マクロのレベルで起こる「景気循環」とミクロのレベルで起こる「資源の再配分」とは何の関わりもないというわけではもちろんない。決してそうではなく、市場への新規参入は極めて順循環的なのだ〔訳注;市場への新規参入は、ブーム期に盛んになる一方で、不況期に鈍る〕。先にも述べたように、ブーム期に開業するプラントと不況期に開業するプラントは雇用量と生産性の面で大きな違いがある。そうなっているのは、景気循環の過程で「参入」の面で何らかの重要な選別が働いているせいなのかもしれない。ブーム期であれば、規模が小さくて生産性が相対的に低いプラントでも参入できる。景気がいいので、生産性が低くても利潤をあげられるからだ。その一方で、不況期に参入しても利潤をあげられるのは、生産性が高い(そして、規模が大きい)プラントくらいだ。不況は、生産性が高いプラントだけを選別して、経済全体の生産性を引き上げる効果を持っているのかもしれない。とは言え、既存の非効率的なプラントが淘汰されるというかたちで選別が働くわけでは必ずしもない。生産性が高いプラントだけが選別されるというのが何よりも重要である可能性があるのだ。つまりは、景気循環に備わる効果を探るのであれば、「退出」ではなく「参入」に着目すべきなのだ。「破壊」(“Destruction”)よりも「創造」(“Creation”)の方が重要なのだ。

我々が見出した結果は、以下にいくつか列挙するように、政策に対しても重要な意義を持っている。まず第1に、ブーム期に開業するプラントと不況期に開業するプラントが雇用量や生産性の面で違いがあるのは、不況期のほうが新規参入に対する障壁がずっと高いからである可能性がある。そのような障壁は、経済全体の長期的な成長を損なうかもしれない。新規のプラントは、イノベーションを体化していることが多い。いくつかの研究によると、新規のプラントの参入は、経済全体の生産性の伸びを高める重要な源泉の一つであることがわかっている。それゆえ、不況期に参入するのを邪魔している要因を突き止めるのが重要になってくる。不況期には、ブーム期と比べると、創業のための初期投資に要するコストが高まるか、資金を調達するのが困難になるのかもしれない。

第2に、景気循環の安定化を図る政策がどんな結果を招くかは、その政策が開業(参入)率と閉鎖(退出)率に及ぼす効果に左右される可能性がある。現実のデータと整合的なモデルを組み立てていくつかのシミュレーションを試みたところ、解雇税を課す――従業員を解雇する企業に税金を課す――ようにすると、プラントの開業(参入)や閉鎖(退出)に影響が出ないようであれば、景気循環の安定化につながる可能性が示されている。解雇税が導入されると、新規に採用されたり解雇されたりする機会が減るからである〔原注5〕。しかしながら、解雇税が導入されると開業率の変動が大きくなって、そのせいでマクロレベルの産出量の変動も大きくなる可能性が示されている。解雇税が導入されると開業率の変動が大きくなるのは、解雇税が参入を抑止する効果がブーム期よりも不況期においてのほうが強いからである。解雇税の影響を受けやすいのは、規模が大きくて雇用量が多い――それゆえ、将来的に苦境に陥った時に人員の縮小を迫られる可能性が高い――プラントである。不況期に開業するプラントは規模が大きい傾向にあるので、不況期のほうが解雇税の影響(参入を抑止する効果)が強くなるのだ。

我々が見出した結果は、新規参入(開業)のインセンティブに狙いを定めた政策の重要性も明らかにしている。補助金を給付するなどして不況期に新規参入を促せば、景気循環の安定化につながる可能性がある。市場の非効率性(流動性制約のような資本市場の不完全性)が新規参入の障壁になっているようなら、不況期に新規参入を促すのは経済厚生の面からしても望ましい政策だと言えよう。

最後になるが、我々が見出した実証的な結果は、アメリカの製造業のデータに基づいているということを強調しておきたいと思う。製造業以外の部門やアメリカ以外の国も対象に加えた上でどういう結果が見出されるかを探ってみるというのも、今後に残された興味深い課題の一つだろう。



〔原注1〕Dunne&Roberts&Samuelson (1989) および Davis&Haltiwanger&Schuh (1996) による先駆的な研究を参照せよ。

〔原注2〕この見解に理論的な観点から検討を加えている研究として、例えば Caballero&Hammour (1994) を参照せよ。

〔原注3〕例えば、Barlevy (2002) や Caballero&Hammour (2005) を参照せよ。

〔原注4〕我々の研究では、1972年から1997年までの工業統計調査(Annual Survey of Manufactures)を利用している。

〔原注5〕Veracierto (2004) や Samaniego (2006) も参照せよ。Samaniegoのモデルでは開業率が内生的に決まるが、開業率は景気循環のどの局面でもほとんど変わらないという結果が得られている。


<参考文献>


●Barlevy, G. (2002). “The Sullying Effect of Recessions”, Review of Economic Studies 69, 41-64.
●Caballero, R. J. and M. L. Hammour (1994). “The Cleansing Effect of Recessions”, American Economic Review 84, 1350-1368.
●Caballero, R. J. and M. L. Hammour (2005). “The Cost of Recessions Revisited: A Reverse-Liquidationist View”, Review of Economic Studies 72, 313-341.
●Davis, S. J., J. C. Haltiwanger, and S. Schuh (1996). Job Creation and Destruction, Cambridge, MIT Press.
●Dunne, T., M. J. Roberts, and L. Samuelson (1988). “Patterns of Firm Entry and Exit in US Manufacturing Industries”, RAND Journal of Economics 19, 495-515.
●Lee, Y. and T. Mukoyama (2007). “Entry, Exit, and Plant-level Dynamics over the Business Cycle”, Federal Reserve Bank of Cleveland Working Paper  07-18.
●Samaniego, R. M. (2006). “Entry, Exit and Business Cycles in a General Equilibrium Model”, mimeo. George Washington University.
●Veracierto, M. L. (2004). “Firing Costs and Business Cycle Fluctuations”, mimeo. Federal Reserve Bank of Chicago.

Paul Krugman 「ポール・サミュエルソン ~比類なき経済学者~」(2009年12月15日)

Paul Krugman, “Paul Samuelson:The incomparable economist”(VOX, December 15, 2009)


ハリネズミがいて、キツネがいて、そしてポール・サミュエルソンがいる。

ご存知だとは思うが、アイザイア・バーリン(Isaiah Berlin)が思想家を二つのタイプに分けていて、それを持ち出しているのだ。キツネタイプの思想家はたくさんのことを知っている。その一方で、ハリネズミタイプの思想家はデカいことを一つだけ知っている・・・というやつだ。経済思想家としてのサミュエルソンを人類史上比類なき存在たらしめているのは、彼がキツネでもありハリネズミでもあったという事実にある。デカいことをたくさん知っていたのだ。それらを僕らに教えてくれたのだ。サミュエルソンのようにたくさんの独創的なアイデアに恵まれた経済学者というのは、他に見当たらないのだ。

Google Scholar の助けも少しばかり借りて、サミュエルソンが知っていた(思い付いた)「デカいこと」を以下にいくつか列挙してみるとしよう。「いくつか」と断ったのは、網羅し切れないのがあまりにも明らかだからだ。ともあれ、8つ――8つだって!――だけ選んでみた。どれもこれもその後に膨大な数の後続研究を生み出すきっかけになった偉大な洞察だ。


1.顕示選好(Revealed preference:1930年代に消費者理論の分野で革命が起こった。消費者の選択を説明するには限界効用逓減の法則だけじゃ足りないことがわかってきたからだ。「あの人はAもBもCも選べたのに、BでもCでもなくAを選んだのは、Aが三つの中で一番好きだからに違いない」という単純な命題から実にたくさんの含意を導き出せることを教えてくれたのは、サミュエルソンだった。

2.厚生経済学(Welfare economics): XとYという二つの資源配分を比べて、Xの方がYよりも望ましいというのはどういう意味なんだろうか? サミュエルソンが登場するまでは、その意味するところが曖昧なままに放っておかれていて、所得分配についてどう考えたらいいのか五里霧中の状態だった。「倫理的な観察者」(ethical observer)による再分配という発想を導入して、社会厚生(social welfare)という概念を筋道立てて理解するにはどうしたらいいかを教えてくれたのがサミュエルソンだった。それと同時に、現実の世界において社会厚生という概念が限界を抱えていることを教えてくれたのもサミュエルソンだった。 現実の世界には、倫理的な観察者なんていないからだ。

3.貿易の利益(Gains from trade): 国際貿易は利益をもたらすというのはどういう意味なんだろうか? いつだってそう言えるんだろうか? これらの問いについて考えるための出発点になっているのが、「貿易の利益」についてのサミュエルソンの分析だ――その土台になっているのが、①の顕示選好の方法と、②の社会厚生についての分析――。「市場の歪み」についてのバグワティ(Jagdish Bhagwati)やジョンソン(Harry Johnson)の分析も、デアドロフ(Alan Deardorff)による比較優位の一般化も、この方面のどれもこれもがサミュエルソンの洞察に負っているのだ。

4.公共財(Public goods): 特定の財やサービスが政府によって供給されなければならないのはどうしてなんだろう? 市場に供給を委ねるのが適している財(その数はごく限られている)とそうじゃない財の違いはどこにあるんだろう? これらの問いについて考えるための扉を開いたのが、サミュエルソンが1954年に書いた「公共支出の純粋理論」(“Pure theory of public expenditure”)だ。

5.生産要素の賦存比率と国際貿易(Factor-proportions trade theory):生産要素の賦存状態と比較優位との関係について語るにしろ、国際貿易が所得分配に及ぼす影響について心配するにしろ、1940年代1950年代にサミュエルソンが手掛けた研究がその根拠になっている。サミュエルソンは、オリーン(Bertil Ohlin)&ヘクシャー(Eli Heckscher)の曖昧で混乱気味のアイデアを磨き上げて、切れ味鋭いモデルを組み立てた。そのモデルは、その後の一世代にわたって国際貿易理論の分野で支配的な地位を占めることになったし、現代の貿易理論の重要な構成要素の一つであり続けている。

6.為替レートと国際収支(Exchange rates and the balance of payments):ここでちょっと個人的な話をさせてもらいたいと思う。国際貿易について研究している学者の大半は、為替レートや国際収支の問題について語ろうとすると、話の筋を見失ってしまいがちになる。これまでにも何度か指摘したことがあるが、国際貿易という実物経済を研究対象にしている学者は、(貨幣的側面を研究対象にしている)国際マクロ経済学をブードゥー(いかさま)経済学と見なす一方で、国際マクロ経済学を研究している学者は、国際貿易論を退屈で現実との関わりが薄い学問と見なす傾向にある (機嫌が悪い時には、どちらの言い分も正しいと言って済ませている)。 僕がそのような対立から自由になれたのは、1977年に書かれたドーンブッシュ&フィッシャー&サミュエルソンの共著論文を読んだおかげだ。リカードの貿易理論に分析が加えられているこの論文では、国際貿易論と国際マクロ経済学を融合するにはどうすればいいかが示されている。為替レートと国際収支を結び付けて論じるにはどうすればいいかが示されている。「貿易の利益」が発生する可能性だけでなく、失業が発生する可能性も同時に考慮するにはどうすればいいかが示されている。

後になって知ったのだが、サミュエルソンが(国際貿易論と国際マクロ経済学の融合という)この課題を解決するためのとっかかりを掴んだのは1977年の共著論文よりもずっと前に遡るようだ――1977年の共著論文での整然とした定式化が最後の一歩を踏み出すのに役立ったようだけれど――。サミュエルソンは、1964年に「貿易問題に関する理論的覚書」(“Theoretical notes on trade problems”)と題された論文で次のように述べている。「雇用量が完全雇用の水準を下回っていて、国民純生産が最適な水準にないようなら、通常であれば間違っている重商主義的な議論のどれもこれもが妥当性を持つようになる」。これに続けて、『経済学』の当時の最新版(第6版)の付録で「通貨の過大評価が自由貿易擁護論者にとって面倒な問題を引き起こすことを指摘している」と述べている。完全雇用を達成するための方法としてサミュエルソンが提示したのが貿易の制限・・・ではなく、通貨の過大評価を終わらせること(為替レートの切り下げ)だった。サミュエルソンは、まっとうなマクロ経済政策こそがまっとうなミクロ経済政策を可能にする前提条件だと見なしていたわけである。この点については、後でも論じるとしよう。

7.世代重複モデル(Overlapping generations):サミュエルソンが1958年の論文で提唱した世代重複モデルは、社会保障だとか家計の債務だとかあれやこれやについて考えるための基礎的な枠組みを提供している。世代重複モデルを欠いたマクロ経済学というのを想像するのは難しい。

8.ランダムウォーク仮説(Random-walk finance):将来を見据えた投資家たちの行動が資産価格のランダムな変動を生むことを証明したのもサミュエルソンだ。現代のファイナンス理論の多くの出発点になっている洞察だ。


先にも述べたように、挙げようと思えばもっと挙げられるだろうが、これら8つの「デカいこと」のどれであれ、それ単独でサミュエルソンの名を偉大な経済学者として歴史に刻むのに十分だっただろう。こんなにたくさんの「デカいこと」をやってのけた経済学者は、サミュエルソン以外に誰一人として――誇張でも何でもなく、本当に誰一人として――いなかったのだ。

その秘訣は何だったんだろう? 誰よりも頭が良かったというのも勿論あるだろう。でも、それだけじゃなくて、他にも秘訣があるんじゃないかと思う。二つくらい。

一つ目は、「遊び心」だ。サミュエルソンの文章を読んでいると、堅苦しい論文を書き上げるために机の前に座している姿ではなく、楽しみながらアイデアを紡ぎだしている姿が思い浮かんでくる。遊び心が洗練されたおふざけのかたちをとることもある。例えば、先にも触れた1958年の論文(世代重複モデルが提唱されている論文)の注9を見てみるといい。こう書かれている。「確かに(Surely)、“確かに”(“surely”)という単語から始まる文の最後がクエッションマークで終わるというのは、普通であればあり得ないことである? しかしながら、一つの論文には一つのパラドックスで十分なのであって・・・(略)・・・」。遊び心があったからこそ、想像力(imagination)が解放されたし、創造力(creativity)が刺激されたと思われるのだ。

二つ目は、現実に根をおろそうと常に心掛けていたことだ。サミュエルソンは、大学という象牙の塔に閉じこもらずに、現実の出来事や現実の政策に強い興味を示し続けた。それに加えて、株式投資にも手を出した。理論が現実から遊離しないように心掛けていたのだ。

最後になるが、サミュエルソンが経済政策の理論の面で果たした偉大な貢献――いわゆる「新古典派総合」――について触れるとしよう。サミュエルソンは、大恐慌の赤ん坊(Depression baby)として知的修練を積んだ。サミュエルソンが学生として学んだのは、大量の失業が発生した大恐慌の真っ只中だったのだ。彼が執筆したテキスト――『経済学』――は、ケインジアン流の思考法を世の中に広めた。サミュエルソンが生涯を通じて決して忘れなかったように、市場は時にひどい機能障害に陥る可能性がある。そうだとすると、市場の利点を説く経済理論を現実に当てはめるにはどうしたらいいのだろうか?

まっとうなマクロ経済政策ありき、というのがサミュエルソンの答えだった。まず何よりも、金融・財政政策を使って完全雇用を達成しなければいけない(僕もあちこちで指摘してきたが、サミュエルソンは、今日の状況を予見していたかのように金融政策の限界を認識していた)。為替レートを調整して価格競争力を維持しなければいけない。そうしてはじめて市場の利点が発揮され得るというわけだ。

現代の経済学者のあまりにも多くが忘れ去ってしまった教訓だ。完全競争市場モデルの美しい数学的外観に見惚れてしまっているうちに忘れ去られてしまったのだ。市場はデカいことをやり遂げられる仕組みではあるが、政府による積極的な介入によってサポートされる必要があるというサミュエルソン流の現実主義が、今日ほど求められている時期は他にないだろう。

比類なき経済学者であるポール・アンソニー・サミュエルソンを称えようじゃないか。彼に比肩し得るような経済学者はこれまでに現れなかったし、今後も決して現れないだろう。

Axel Leijonhufvud 「マクロ経済における安定性と不安定性」(2009年11月21日)

Axel Leijonhufvud, “Stabilities and instabilities in the macroeconomy”(VOX, November 21, 2009)
 
現在の経済学は、その分析用具を用いて明らかにするはずの現実の経済の性質について地に足のついた理解を得れずにいる。「摩擦を伴う安定性」を特徴とするマクロ経済理論では、①レバレッジの不安定性、②連結性(connectivity)、③物価水準の潜在的な不安定性の「三つの不安定性」が無視されている。「摩擦を伴う安定性」が支配的なパラダイムであり続ける限りは、経済分析のテクニカルな面で進展があろうとも、現実の経済の理解の面で真の進歩が成し遂げられることはないだろうし、政府は新たな危機に備えられないだろう。

およそ50年前に経済学を学んだ学生たちは、市場(民間部門)は完全雇用に自動的に戻る傾向を持たないと教えられていた。乗数効果や加速度効果によって増幅された望ましからぬ景気変動に見舞われがちで、色んな種類の「市場の失敗」があちこちに存在していると教えられていた。だがしかし、慈悲深くて有能な民主主義下の政府のおかげで、景気変動が和らげられて、大半の「市場の失敗」も是正されるので、経済厚生の損失も取るに足りないものにとどまるとも教えられていた。 

翻って50年後の今の学生たちはどうかというと、民主主義下の政府のせいで物価や産出量の余計な変動が生み出されると教えられている。だがしかし、政府に対して適当な制約を課すことができれば――例えば、中央銀行に独立性を付与すれば――、自由な市場のおかげで完全雇用の達成をはじめとした多くの恩恵が得られると教えられている。民間部門の安定化を図るというのが50年前のマクロ経済政策の課題だったが、それが今では公共部門に制約を課すことへとシフトしたわけである。

過去50年の間に経済についての見方が大きく転換したわけだが、それと同時に、この半世紀というのは、経済分析のテクニカルな面で大きな進展があった実り豊かな時期でもあった(Blanchard 2008)。しかしながら、この半世紀の経済学の歩みを振り返って浮かび上がってくるのは、己が作り出した時流の表面をあてもなく漂いながら、ただただ途方に暮れている姿である。現在の経済学は、その分析用具を用いて明らかにするはずの現実の経済の性質について地に足のついた理解を得れずにいるのだ。 


新古典派総合

20世から21世紀へと向かう世紀の転換点のあたりで、振り子が反転し始めた――とはいっても、それほど大きな振れ幅ではなかったが――。マクロ経済学における「淡水学派」(“freshwater”)と「海水学派」(“saltwater”)との間に、「新・新古典派総合」(New Neoclassical Synthesis)として知られる「汽水」(“brackish”)的な妥協が成立したのである。「海水学派」のニューケインジアンは、新古典派によって開発された動学的確率的一般均衡(DSGE)モデルを受け入れた。その一方で、「淡水学派」の新古典派は、ニューケインジアンによって長らく問題にされてきた市場の 「摩擦」(“frictions”)や資本市場の「不完全性」(“imperfections”)を受け入れたのである。

この「新しい総合」は、50年前の「古い総合」と同様に、現実の経済を安定的な一般均衡システムであるかのように見なしていて、均衡に向かう傾向が「摩擦」によって妨げられると想定している。「新しい総合」の立場に立つ経済学者は、目下の出来事(金融危機に端を発する世界的な経済危機)を理論的に説明するのは可能だと言い張ろうとしているが、既存の理論によっては現在の危機をうまく説明できないのだ。

私の判断では、新旧どちらの総合も間違っている。新旧どちらの総合も、市場経済の性質について根本的な誤解を抱えているのだ。「摩擦を伴う安定性」(“stability-with-frictions”)が支配的なパラダイムであり続ける限りは、経済分析のテクニカルな面で進展があろうとも、現実の経済の理解の面で真の進歩が成し遂げられることはないだろう。現代経済が抱える真の不安定性に正面から立ち向かわなければならないのだ。


「複雑な適応システム」としての経済システム

現実の経済は、適応的で動的なシステム(adaptive dynamical system)である。「市場メカニズム」と呼ばれることもある自動調節機能を備えていて均衡に向かう傾向を持ってはいるが、複雑なシステムの内部で展開されるあれやこれやの経済活動のコーディネーションがいつでも円滑にいくとは限らない。約40年前に遡るが、「回廊仮説」(“corridor hypothesis”)を私なりに提唱したことがある。その概要を説明しておこう。何らかのショックが生じて均衡から離れたとしても、均衡経路付近の「回廊」の内側にとどまっていれば、「古典派」的な調整が働いて再び自動的に均衡に戻る。しかしながら、回廊の外側の「ケインジアン」的な領域では、市場に備わる自己調整能力が損なわれてしまう。均衡からの乖離があまりに大きくて、回廊の外側に飛び出してしまうようだと、政府による安定化政策の助けがない限りは再び均衡に戻ることができないかもしれない。

「回廊仮説」をはじめて提唱した時には、逸脱を増幅する乗数効果について細かく検討を加えたが、稀なケースに着目しているように見えてそんなに説得的に感じられないかもしれない。しかしながら、経済システム以外のあらゆる複雑な動的システム――人工的なものであれ、自然の中に存在するのものであれ――は、ホメオスタシスの働き(恒常性を維持しようとする傾向)に限界があることが知られている。経済システムだけは例外というのはありそうにない。

経済システムの状態空間(state-space)上には、均衡に向かう傾向を備えた領域に加えて、逸脱を増幅するようなプロセスが作動するせいで均衡に向かう傾向が打ち消される領域も存在すると見なしてもそれほど的外れではないだろう。しかしながら、話はこれで終わらない。現在の危機は、乗数効果以外にもポジティブ・フィードバック・ループの例がいくらでもあることを明らかにしているのだ。発動する領域が乗数効果のように狭くもないのだ。例えば、銀行によるデレバレッジ(債務の圧縮)がそうだ。銀行がデレバレッジの一環として信用(銀行貸出)の供与を削ると、不況がさらに深まって、銀行が保有する資産がさらに毀損する。そうなると、銀行がバランスシートを縮小しようとするインセンティブはさらに強まることだろう。システムを不安定化するポジティブ・フィードバック・ループの中でも最も危険なのは、フィッシャー流のデット・デフレーションである。これまでのところはどうにか回避できているが、経済システムの状態空間上にはいかなる犠牲を払ってでも避けるべき領域があるのだ。

外から何らかの「衝撃」が加わってその影響がシステムの内部に「波及」するというように問題を捉えると、ショック(衝撃)が発生したせいで均衡から大きく乖離したとしたら、システム全体の振る舞いにどんな影響が及ぶかが問われることになる。衝撃が外生的なもの(外からやってくるもの)として扱われるので、不安定性が内生的に引き起こされる可能性が見過ごされてしまうおそれがある。

過去200年の経験を通じて学び取られてきたことは、部分準備銀行制度が内生的な不安定性を生む可能性があることだ。部分準備銀行制度に備わる「金融的な不安定性」が商業銀行システムを超えて波及する可能性を説いたのは、ハイマン・ミンスキー(Hyman Minsky)である。ミンスキーによると、危機が起きないでいる期間が長引くと――「大平穏」(“Great Moderation”)期のように――、リスクを引き受けるのに抵抗を感じなくなって、そのせいで「金融的に脆弱」になってしまうという。脆弱なシステムは、遅かれ早かれ崩壊するだろうというのだ。


システミックな問題

世界経済が目下のところ直面している喫緊の問題には、「摩擦を伴う安定性」を特徴とするマクロ経済理論によって無視されてきた「3つの不安定性」が関わっている。その詳細については、VOXの論説で既に論じたことがある(Leijonhufvud, June 2007, January 2009July 2009)。 

  • レバレッジの不安定性:ライバルよりも何倍も高い収益を得ようとして、どの金融機関もこれまでにないほど高率のレバレッジをきかせた。それに伴って、リスクスプレッドが歴史上最低の水準にまで縮小し、金融機関のバランスシート上に「不良債権」(“toxic”)に化すことになる資産が大量に保有されたのである。
  • 連結性(Connectivity):グラス・スティーガル法が廃止されるまでのアメリカでは、金融業界が分離されていた。投資可能な資産の種類と、発行可能な負債の種類によって区分けされていて、異なる業態の金融機関が互いに直接競争することはなかった。しかしながら、規制緩和によって金融機関が形成するグローバル・ネットワークの連結性が急激に高まった。1980年代にアメリカでS&L危機が起きたが、かなり大きなコストを伴ったものの、その影響が及んだのはアメリカの住宅金融部門だけだった。現在の危機もアメリカの住宅金融部門に端を発しているが、世界中にその影響が及んだのである。
  • 物価水準の潜在的な不安定性:過去10年にわたってアメリカの消費者物価は安定を保ってきた。その理由の多くは、中国をはじめとした貿易相手国が為替安政策に訴えるだけでなく、中国をはじめとした新興国から安価な製品が続々と輸入されたおかげである。さらには、「大平穏」期を経て、予想インフレ率のボラティリティ(変動)も低下した。今後これらの条件に変化が生じるようなら、金融政策の既存の枠組み――FF金利を唯一の政策手段としてインフレ目標の達成を目指し、マネタリーベースの内生的な変化を許容する枠組み――は、金融面での安定を保つには不適切であることが判明するに違いない。


これからの課題

注意を払ってその成り行きを見守るべき課題は、以下の4つである。

  • 前途に立ちはだかっている脅威は、二つのタイプに分けられる。日本型の景気停滞と、ラテンアメリカ型の高率のインフレーションである。通常であれば、どちらにも陥りそうにないし、起き得る事象をその可能性の高い順に列挙したリストのかなり下の方に位置するだろう。しかしながら、①高水準の政府債務残高、②社会保障の財源の大規模な積み立て不足、③経常収支の大幅な赤字という事実に照らすと、どちらの脅威もまったくあり得ないとは言い切れないのだ。財政問題にきっちりとケリをつけることが政治的にどれほど難しいかを踏まえれば、一時的な苦境に済みそうにない。スキュラとカリブディスの間の航行可能なルートがだいぶ狭まってきている――進退が窮まってきている――のだ。
  • 今後の政策の方向性を見極めるにあたって念頭に置いておくべき非常に重要な事実がある。金融機関の救済(ベイルアウト)や財政出動によって財政赤字が極限にまで膨らんでいるせいで、将来的にいつかバブルが崩壊したとしても財政政策で対処できる余地が残されていないのだ。そのことを踏まえると、万が一の事態が起きても被害を最小限に抑えられるようにフェイルセーフ(fail-safe)モードに切り替えるべきである。現下の超低金利政策はどうかというと、フェイルセーフの発想に反している。景気のさらなる悪化を避けるために、資産価格をできるだけ引き上げるというのが低金利政策の目的だ。細心の注意を要するオペレーションであって、フェイルセーフの発想に則っているとは言えないのだ。今回の危機を招く原因となったゲーム――高いレバレッジをかけて満期転換〔訳注;短期で調達した資金を元手に、満期が長めの資産に投資する〕に勤しむゲーム――を再開しようとする動きが民間の銀行の間で見られるが、そのようなインセンティブを生み出している一因となっているのが現下の低金利政策なのだ。
  • 今回の危機をもたらした重要な犯人と言えば、高いレバレッジである。再び危機が起きるリスクを減らすためには、レバレッジを抑制せねばならない。しかしながら、各国の政府は、金融機関が今すぐにレバレッジを抑制するのには乗り気ではないようだ。金融機関がレバレッジを抑制したら、資産価格が下落するだけでなく、信用(銀行貸出)の供与も削られて、不況が悪化するかもしれないと心配しているのだ。問うとしよう。今すぐじゃないとしたら、一体いつならいいのだろうか?  
  • 各国の中央銀行は、「出口戦略」に乗り出す機会をうかがっている。風変わりな資産が混在するかたちで大きく膨らんだバランスシートを正常な状態に戻すのが「出口戦略」ということらしいが、おそらくそう簡単にはいかないだろう。たとえうまくいったとしても、今回のような危機がまた起きたら、同じようになりふり構わずに非伝統的な政策に手を染めなければいけなくなるだろう。中央銀行の責務がはっきりと確定していない既存の制度的な枠組みゆえに、そうなるのだ。解決策は一つだけだ。金融システムに新たな規制を課すしかない。しかしながら、その具体的な中身となると、よくわかっていないのが現状だ。 


<参考文献>


●Blanchard, Olivier (2008), “The state of macro”, NBER Working Paper 14259.
●Leijonhufvud, Axel (2007), “The perils of inflation targeting”, VoxEU.org, 25 June 2007
●Leijonhufvud, Axel (2009), “Fixing the crisis: Two systemic problems”, VoxEU.org, 12 January.
●Leijonhufvud, Axel (2009), “Curbing instability: policy and regulation”, VoxEU.org, 11 July.
●Leijonhufvud, Axel (2009), “Macroeconomics and the Crisis: A Personal Appraisal”, CEPR Policy Insight 41, November.

Willem Buiter 「マイナス金利の素晴らしき世界」(2009年6月4日)

Willem Buiter, “The wonderful world of negative nominal interest rates”(VOX, June 4, 2009)
 
政策金利をマイナスにせよと求める声が一部の経済学者の間から上がっている。本稿では、マイナス金利についての基礎を解説すると同時に、名目金利のゼロ下限制約を乗り越えるための三つの手段――①現金を廃止する、②現金に課税する、③新しい通貨を導入して、計算単位と交換手段を分離する――についても検討する。

少し前までフランクフルトにいた。ヨーロッパ中央銀行(ECB)の本店で、マイナス金利(および、名目金利のゼロ下限制約)をテーマ(pdf)に講演してきたのだ。どういうわけだか、マイナス金利について論じると、オバマ大統領を批判するのと同じくらい熱気がこもった感情的なリアクションを呼び起こすようだ。これまでにも何度かマイナス金利について論じたことがあるのだが、その時に読者から寄せられたいくつかの反応を踏まえて、今後この話題について論じる時には冒頭に警告文を掲げる必要があるかもしれないと考えたくらいだ。熱気がこもった感情的なリアクションが引き起こされる原因は、マイナス金利についての初歩的なロジックがびっくりするほど理解されていないせいだと思われるので、基礎的なことから説明するとしよう〔原注1〕。

金融政策に埋め込まれた馬鹿げた非対称性を取り除くための処置について論じるのが本稿の目的である。名目金利がゼロ%の現金が存在するせいで、どの金融資産についてもその金利がゼロ%以下になり得ないのだ(実際のところは、現金の持ち運びにはコストがかかるので、銀行預金なんかの金利(預金金利)は若干であればマイナスになり得る。しかしながら、そうだとしても以下の議論は依然として成り立つ)。インフレが過熱しそうであれば、政策金利を中央銀行が適当と判断する水準にまでいくらでも引き上げることができるが、デフレに陥りそうだったり景気が悪化しそうだったりしたら、政策金利を中央銀行が適当と判断する水準にまでいくらでも引き下げられるかというと、そうはいかない。ゼロ%までしか引き下げられないのだ。政策金利がゼロ%に達したら、量的緩和や信用緩和のような非伝統的な金融政策の出番ということになる。

名目金利と実質金利を混同しないように注意してもらいたいと思う。(事後的な)実質金利(=名目金利-インフレ率)がマイナスを記録した例は、これまでに何度もある。金融資産の利回り(名目金利)がインフレ率を下回ったためである。今後インフレが起きるようなら、実質金利はマイナスになるだろう。アメリカに住んでいるようなら特にだ。

もう一点だけ注意してもらいたいのは、現金とかその他のあれやこれやの金利(名目値にしても実質値にしても)をいつまでも永遠にマイナスにしろと言いたいわけではないことだ。金融政策に埋め込まれた非対称性――短期のリスクフリー(無リスク)金利を操る中央銀行の能力に課せられた制約――を取り除くための三つの手段について論じるのが目的なのだ。三つのうちのどれか一つでも採用されたら、名目金利をマイナスにすることが可能になるのだ。とは言え、政策金利をマイナスにすべきかどうかは、実証的な問題である。FRBのスタッフがアメリカ経済の計量経済モデルを使って行っているいくつかの研究によると、ゼロ下限制約が存在しないようなら(政策金利をマイナスの値にまで引き下げることができるようなら)、テイラー・ルールからはじき出される望ましいFF金利(政策金利)の水準はマイナス5%という結果が得られている。政策金利をマイナスの値にまで引き下げることが可能なようなら、景気後退からの脱却を目指して、主要な中央銀行は例外なく――Fedも、ECBも、イングランド銀行も、日本銀行も――とっくに政策金利をマイナスの値に設定していたに違いないと思われるのだ。


ゼロ下限制約を乗り越えるための三つの手段

名目金利のゼロ下限制約を乗り越えるための手段として、以下の3つが考えられる。

  1. 現金を廃止する
  2. 現金に課税する
  3. 新しい通貨(ルド)を導入して、既存の通貨(ドル)を廃止する。ドルはこれまで通り計算単位(ニュメレール)としての役割を果たすが、決済には使えなくなる。代わりにルドが決済に使える交換手段になるのだ。さらには、ドルとルドとの公定の交換レート(為替レート)も定める。ドルはもう交換手段ではなくなるので、ドルの名目金利にゼロ下限制約は存在しなくなるだろう。その一方で、新たに交換手段になるルドの名目金利にはゼロ下限制約が存在することになるだろう。政策目標を達成するためにドルの名目金利をマイナス(例えば、マイナス5%)に設定する必要が生じたとしても、ドルをルドに対して切り上げる(ドルをルドに対して5%切り上げる)つもりであることを宣言してそれが信頼されるようなら、ルドの名目金利はゼロ%を下回らずに済むだろう。
 
まずは1番目の手段について。政府が発行する現金が廃止されても、民間の支払い手段(銀行口座宛ての小切手、クレジットカード、デビットカード、デジタル通貨)を使って取引の決済のほとんどを行うことができる。民間の銀行だけではなく一般市民も中央銀行に預金口座を開設できるようにするという手もある。その口座を使って決済するわけだ。口座に残高があるようなら、その時々の経済情勢に応じてプラスの金利が支払われたり、マイナスの金利が課せられたりするだろう。

次に2番目の手段について。現金に課税するとして、現金の保有者に税金を払わせるにはどうしたらいいだろうか? 紙幣に発行日時が記載されているようなら――大抵の紙幣はそうなっている――、紙幣が法定通貨として通用する期間(満期)を定めて告知すればいいだろう。手持ちの紙幣が満期を迎える前に、中央銀行に足を運んで税金を払わせるのだ。満期前に税金が払われた紙幣にはスタンプを押すか何らかの印を付けて、その後も法定通貨として使えるようにするのだ。

グレッグ・マンキュー(Greg Mankiw)のブログで、紙幣に満期を設けるためのよく練られた案が紹介されている。マンキューによると、学生の発案らしい。チャールズ・グッドハート(Charles Goodhart)も似たような案を昔から唱えているが、その概要は以下の通り。

①どの紙幣にもシリアル番号(記番号)が記載されていて、末尾の数字が0から9までのいずれかの整数になっている。 
②1年に1度、決められた日に、中央銀行が0から9のいずれかの整数をランダムに選ぶ。
③シリアル番号の末尾の数字が②でランダムに選ばれた数字と一致する紙幣は、法定通貨としての地位を失う。その紙幣を中央銀行に持ち込んでも、同額の紙幣や硬貨と交換してもらえなくなる。 
④10分の1の確率で無価値になるわけだから、紙幣の期待名目金利はマイナス10%ということになる。デフレに断固たる決意で立ち向かおうとする中央銀行にとって大きな武器になるだろう。
 
イギリスで発行されている割増金付き公債(British Premium Bond)――利子も払われないし、キャピタルゲインも得られないが、抽選で賞金が当たる公債――のマイナス金利バージョンと言えるだろう。

ただし、一つ問題がある。マンキューやグッドハートは気付いていないようだが、法定通貨としての地位を失ったからといって、無価値になるとは限らないのである。不換紙幣(fiat money)の価値は、みんながどれくらいの価値があると考えているかによって左右される。マンキューやグッドハートが予想するように、法定通貨としての地位を失った紙幣の価値がゼロになる可能性(無価値の紙切れと化す可能性)も勿論ある。しかしながら、法定通貨かどうかというのは、不換紙幣が価値を持つために欠かせないわけじゃない。抽選の結果として法定通貨としての地位を失った紙幣が法定通貨の地位にとどまっている同じ額面の紙幣と同等に扱われ続ける可能性もあるのだ。

となると、法定通貨としての地位を失った紙幣を押収する可能性を仄めかすなり、その紙幣の所有者に何らかの罰金やペナルティーを科す可能性を仄めかすなりする必要もあるかもしれない。現金に課税するという2番目の手段は、財産への侵害行為として不快に思われるかもしれないし、実務的にも手間がかかって面倒かもしれない。その一方で、魅力を感じる為政者もいることだろう。


何が価値の貯蔵手段に選ばれるか?

マイナス金利絡みでこれまでに読者から寄せられた中でも最も早とちりしたコメントは、おおよそ次のようなものだった。「名目金利がマイナスになったら、誰もがこぞって現金の代わりを探そうとするだろう」。それこそが狙いなのだ。現金(あるいは、名目金利がマイナスの金融資産)を手放させて、それ以外の資産――望むらくは、実物資産やコモディティ(一次産品)――の取得を促すのが狙いなのだ。正確を期して以下でもう少し突っ込んで論じるとしよう。

上で掲げた三つの手段のうちのどれが採用されたとしても、名目金利がマイナスになるようなら、現金が価値の貯蔵手段に選ばれることはないだろう。1番目の手段では、現金がそもそも存在しない。廃止されているからだ。2番目の手段では、現金の(期待)名目金利はマイナスだ。3番目の手段では、新しい通貨であるルドの名目金利はゼロ%を下回らないが、ドルがルドに対して増価するので、名目金利がマイナスのドル建て債券よりも現金であるルドの方が価値の貯蔵手段として優れているとは言えない。 

コモディティが現金に代わって価値の貯蔵手段に選ばれるだろうか? 耐久性のないコモディティが価値の貯蔵手段に選ばれるようなら、消費(コモディティの消費)が急伸するというかたちになるだろう。耐久性のあるコモディティが価値の貯蔵手段に選ばれるようなら、話を単純化するためにそのコモディティから得られる限界的な便益(使用価値)が時間を通じてずっと変わらないとすると、裁定の結果としてそのコモディティの価格は名目金利と同じ割合で低下する――名目金利がマイナスx%なら、x%の割合で低下する――ことになるだろう。

現金に代わる価値の貯蔵手段として一番優れているのは、名目金利がマイナスの債券ということになりそうだ。名目金利がマイナスであっても、民間の銀行は依然として儲けられるだろう。銀行の利潤は、金利の絶対的な水準ではなく、貸出利率と借入利率の差に依存するからである。例えば、民間の銀行が中央銀行からマイナス5%の金利で資金を借り入れて、その資金をマイナス2%の金利で誰かしらに貸し出せば、5%の金利で借り入れて8%の金利で貸し出す場合と同額の利潤が生じるのだ(ただし、二つのケースで扱われる金額が同じであれば)。

名目金利がマイナスになったとしたら、貯金を拠り所にして生活している人はどうしたらいいのだろうか? まずは、実質金利がどうなっているかをチェックする必要がある。かなりのデフレが起きていて、名目金利がマイナスでも実質金利はプラスになるようなら、悠々とやり過ごせるだろう。名目金利ばかりでなく実質金利もマイナスになるようなら、資本(capital)を取り崩して生活していかないといけないだろう。そうこうしているうちに貧困に陥る人が出てきたり、社会問題に発展したりするようなら、財務省や社会保健省(Ministry of Social Affairs)に詰め寄るべし。中央銀行に詰め寄って困らせるなかれ。

中央銀行の掌中に「マイナス金利」という手段が握られているより良き未来に向けて、いざ踏み出そうではないか。


〔原注1〕ロバート・ホール(Robert Hall)&スーザン・ウッドワード(Susan Woodward)のこちらの論説もあわせて参照されたい。