2010年4月30日金曜日

Alberto Alesina&Richard Holden 「選挙における過激さと曖昧さ」(2008年9月22日)

Alberto Alesina&Richard Holden, “Why do candidates move along the political spectrum?”(VOX, September 22, 2008)
 
大統領選挙の候補者たちは、政治的スペクトル上の真ん中にいる中位投票者を説得しようとして似たり寄ったりの政策を掲げて、その内容を可能な限り正確に伝えようと試みるはずだというのが政治学の分野で最も知られている定理が説くところである。しかしながら、現実はどうなっているかというと、候補者たちは、中位投票者に歩み寄ろうとしないし、曖昧であろうとしがちである。金権政治(money-politics)が候補者たちを政治的スペクトル上の真ん中(中位投票者)から離反させるだけでなく、候補者たちの曖昧さを助長している可能性があるのだ。

政治学の分野で最も知られている定理――ダウンズ・モデルから導かれる中位投票者定理――によると(Downs 1957)、2人の候補者が選挙で争うようなら、どちらの候補者も政治的スペクトル上の真ん中に向かって歩み寄って、似たり寄ったりの政策を掲げるはずだとされる。もっと正確に表現するなら、どちらの候補者もともに中位投票者(median voter)が好む政策を掲げるはずだとされる。さらには、選挙に勝つためにはどんな政策を掲げるのが最善なのかが決まってしまえば、どちらの候補者も有権者に対してその内容を可能な限り正確に伝えようと試みるはずである。掲げる政策に不明瞭なところがないように尽くすはずである。

現実の選挙はどうかというと、だいぶ様子が違っているようだ。2つの政党が争う選挙の多くでは、左右で激しくて対立して、政治的スペクトル上の真ん中に位置する有権者がすっかり無視されるのも珍しくない。アメリカで間近に迫っている大統領選挙がいい例だ。共和、民主両党の候補者は、外交についても、中絶問題についても、医療問題についても、税金の問題についても、他にもあれやこれやについても意見を異にしている。過去2回の大統領選挙はどうだったかというと、もっと激しくぶつかり合っていた。フランス、イタリア、スペインで実施されたばかりの選挙でも、二大勢力が掲げた政策は大きく対立していた。

現実の選挙で候補者たちは政策の内容を可能な限り明確に伝えて不明瞭なところをなくそうと尽くしているかというと、これまた全く違っているようだ。選挙期間中の政治家たちは、自分の立場を明確にするのを避けようとして、どっちつかずの言葉で語ることで有名だ。「曖昧」であろうとするわけだが、それは二通りのかたちをとる。政策の内容を不明瞭なままにしておくこともあれば、聴衆ごとに話す内容を微妙に変えることもあるのだ。

2政党間競争についての古典的なダウンズ・モデルの予測と現実との乖離(かいり)を埋めるためにはどうしたらいいのだろうか? 我々二人が最近の論文で論じているように (Alesina and Holden 2008)、2つの政党が争う選挙では両党を「接近させる力」と「離反させる力」の相反する二つの力が作用している。「接近させる力」というのはダウンズ・モデルでも作用する通常の力であり、両党を政治的スペクトル上の真ん中に向かって歩み寄らせる力である――その理由は、左派の政党も右派の政党も穏健な立場(左派の政党にとっては政治的スペクトル上で自らの立ち位置よりも右側、右派の政党にとっては政治的スペクトル上で自らの立ち位置よりも左側)の有権者から支持を得ようとするからである―――。その一方で、「離反させる力」――左派の政党を政治的スペクトル上の左側へ、右派の政党を政治的スペクトル上の右側へと向かわせる力――も作用している。政治家(政党)への金銭(政治献金)の供与、ロビイストをはじめとした活動家(activists)の運動、労働組合によるストライキなどを含む「選挙協力」がもたらす効果である。

「選挙協力」のためにカネを出したり汗をかいて応援してくれがちなのは、急進派の団体である。急進派の「選挙協力」を得られたら、中道の有権者の一部を引きつけることができるかもしれない。例えば、保守系の団体からの献金を使ってTVでCMをバンバン流したら、中道の有権者の一部が右派の政党に票を投じるようになるかもしれない。あるいは、左派の活動家が選挙の応援のために汗をかいてくれたら、接戦の地区で左派の政党に投じられる票が増えるかもしれない。そういうわけで、例えば右派の政党から出馬する候補者は、相反する二つの力のバランスを取らなければいけない。政治的スペクトル上の右側へと動けば、保守系の有権者から票も「選挙協力」も得ることができて、保守系の団体の「選挙協力」のおかげで中道の有権者の一部からも票を得られる可能性がある。その一方で、政治的スペクトル上の真ん中に向かって歩み寄れば、保守系の団体から「選挙協力」が得られなくなる代わりに、中道の有権者から得られる票が増える可能性がある。これら相反する二つの力のバランスを取ろうとして掲げられる政策は、中位投票者の好みに合致するものじゃないだろう。左派の政党から出馬する候補者にしても同じことが言えるので、「分断均衡」に落ち着くことになる。右派の候補者は政治的スペクトル上で真ん中よりも右寄りの政策を掲げる一方で、左派の候補者は政治的スペクトル上で真ん中よりも左寄りの政策を掲げることになるのだ。

相反する二つの力のバランスを取ろうとする結果として、曖昧さが助長されることにもなる。候補者たちは、二兎を追いたがるものだ。そのために、立場を鮮明にするよりも、掲げる政策に幅を持たせようとするかもしれない。候補者が当選したとしたら、選挙に協力する急進派の団体は、幅のある中から自分たちの好みに一番近くて急進的な政策が実行されることを望むだろう。その一方で、中道の有権者は、幅のある中から自分たちの好みに一番近くて穏健な政策が実行されることを望むだろう。掲げる政策に幅を持たせて曖昧なところを残しておけば、立場を鮮明にするよりも、急進派から選挙に協力してもらえる可能性が高いだけでなく、中道の有権者から得られる票が多くなる可能性があるのだ。一般の有権者も「選挙協力」する急進派も候補者のそのような魂胆を見抜くかもしれないが、候補者が本音(政策に対する真の好み)を隠し通すことができる限りは、一般の有権者も「選挙協力」する急進派もともに徹底的に合理的でリスク回避的であったとしても、掲げる政策に曖昧なところを残す方が候補者たちにとって得になる可能性があるのだ。

これまでの議論は、2つの政党(あるいは、2人の候補者)が争う選挙であればどんなケースであっても妥当する。アメリカの大統領選挙では、予備選挙が曖昧さをさらに助長する働きをする。いずれの候補者も自らが掲げる政策のオプション価値(option value)を本選(一般投票)まで維持したがるだろう。例えば、共和党の予備選挙に出馬する候補者たちは、自らが掲げる政策に曖昧なところを残しておけば、民主党の予備選挙で誰が勝つかに応じて本選での戦い方を調整できる。民主党の予備選挙で誰が勝つかもその勝者がどんな政策を掲げるかも事前にはわからないので、共和党の予備選挙に出馬する候補者たちは、できるだけ曖昧であろうとするのだ。民主党の予備選挙に出馬する候補者たちにしても同じことが言えるので、予備選挙が終わって本選で戦う相手が誰であるかが決まっても、相手の本音(政策に対する真の好み)は完全にはわからないだろう。予備選挙で自分の立場を鮮明にすると、本選で身動きが取れなくなってしまう(相手が掲げる政策に応じて自分の立場を調整できる余地が少なくなってしまう)おそれがある。その一方で、リスク回避的な有権者は、予備選挙で候補者が掲げる政策があまりに曖昧であるようだとそっぽを向く(票を投じない)だろう。予備選挙における曖昧さの程度は、これら相反する力が釣り合うところに決まる。2つの政党が争う選挙において曖昧さが助長されるのは先に述べた通りだが、アメリカの大統領選挙では、予備選挙が曖昧さをさらに助長する要因として加わるのだ。

熾烈な予備選挙が争われている最中においては、曖昧さが滑稽なかたちをとってあらわれることがある。例えば、直近の共和党の予備選挙で、J.マケイン(John McCain)が中絶問題について対立候補のM.ロムニー(Mitt Romney)に批判を加えた。中絶問題について2年ごとに意見を変えているじゃないかというのである。ロムニーはどう応じたかというと、意見を変えたのはクローンの研究で新しい発見があったからだと答えたのだ。


<参考文献>

●Alesina and R. Holden (2008) , “Ambiguity and Extremism in Elections”, NBER Working Paper.
●Downs, Anthony (1957), An Economic Theory of Democracy, Harper and Row, New York, NY.

2010年4月27日火曜日

Esther Duflo 「多すぎるバンカー?」(2008年10月8日)

Esther Duflo, “Too many bankers? ”(VOX, October 8, 2008)
 
金融部門は、過去20年間にわたり、相対的に高額な給与の支払いを通じて多くの――おそらくは、あまりにも多すぎる――有能な人材を引きつけてきた。今般の金融危機は、才能の配分(allocation of talent)を改善する効果を持つかもしれない。すなわち、有能な人材の創造的なエネルギーがこれまでよりも社会的に有益なかたちで利用されるようになるかもしれないのだ。

金融危機の混乱から金融部門を救い出すための緊急救済策が講じられる過程で、金融部門における給与水準の驚くほどの高さに注目が寄せられた。ニコラス・クリストフ(Nicholas Kristof)がニューヨーク・タイムズ紙のコラムで詳しく報じているが、リーマン・ブラザーズ――今般の金融危機の渦中で最初に(9月に)倒産した銀行――のCEOが受け取っていた給与は、2007年の1年間で4500万ドル、1993年から2007年までの総額でおよそ5億ドルにも上るという。

しかしながら、リーマン・ブラザーズのCEOのケースは例外というわけではない。トマ・ピケティ(Thomas Piketty)&エマニュエル・サエズ(Emmanuel Saez)の二人によるパネルデータ分析によると、アメリカにおける所得上位1%の超富裕層の取り分は1980年代以降コンスタントに高まっているが、金融部門で働く「ゴールデンボーイ」が受け取る所得の上昇ペースは他の富裕層のそれを大きく上回っているのである。トマス・フィリポン(Thomas Philippon)&アリエル・レシェフ(Ariell Reshef)の二人による最近の研究によると(注1)、1980年の時点では、金融部門で働くバンカーが受け取っていた給与は他の部門で働く同程度の能力の持ち主とほぼ変わらなかったが、1980年代に入って両者が受け取る給与水準に開きが出始めて、その後はその差が広がる一方であることが明らかにされている。2000年時点だと、金融部門における給与水準は、それ以外の部門における給与水準を60%も上回っているのである。その一因としては、金融部門において高度なスキルを備えたバンカーの数が増えたのに加えて、失業するリスクが高まったことが挙げられるが、あくまでも一因でしかない。フィリポン&レシェフの二人の計算によると、金融部門で働くバンカーが受け取っている給与水準は、先の二つの要因――①高度なスキルを備えたバンカーの数が増えたこと、②失業するリスクが高まったこと――を踏まえて導き出される水準を40%も上回っているのである。バンカーの給与がこれほどまでの高額に達したのは、1929年以来のことなのだ。

そんなわけで、金融安定化に関するポールソン案の是非を巡る議論の過程で高額給与の問題が俎上にのぼるのは避けられなかった。ポールソン案では、金融機関の株式(市場では買い手がつかないであろう株式)を購入するために、最大7000億ドルの公的資金枠が設けられる予定になっているが、1万7000ドルもの時給を受け取っているバンカーの尻拭いをするために自分の財布からお金を出さねばならない納税者にとっては、何とも不公平な話に思えてしまうことだろう。最終的に、役員への「ゴールデンパラシュート(退職金)」にいくらか制約が課せられることにはなったものの、役員(政府が出資したファンドに株式を売却した銀行の役員)の報酬に制限を課す話はお流れになった。ピケティが先週のLiberation紙のコラムで指摘しているように、サラリーキャップ(給与水準に上限を課すこと)を出し抜くのは容易であることを考えると、ルーズベルト政権が実施したように、高額所得者への課税強化に乗り出す方が望ましいだろう。

バンカーの給与水準を(大幅に)引き下げるにしろ、給与への課税を(大幅に)強化するにしろ、モラルの観点からすれば――公平性の観点からしても――望ましい措置に違いないだろうが、多くの経済学者が主張しているように、その代償として経済効率が損なわれてしまう恐れはあるだろうか? 金融部門で働く有能なバンカーの労働意欲が阻害されて、金融技術面でのイノベーションが低迷してしまう可能性はあるだろうか? その答えはおそらく「イエス」だろうが、そうなるのには好ましい面もあるのだ。

金融部門が大学出のエリートたちをそそのかす誘惑の強さは、フィリポン&レシェフの二人の推計が示唆しているよりもずっと大きい。“Harvard and Beyond” サーベイ――クラウディア・ゴールディン(Claudia Goldin)&ラリー・カッツ(Larry Katz)の二人がハーバードの大学院生を対象に複数の世代にわたって実施した調査――によれば、大学での成績や入学時の偏差値、専攻、卒業年度etcにコントロールを加えた後でも、2006年時点で金融部門で働いていたハーバード大学の院卒生は、それ以外の部門で働いていた院卒生のほぼ3倍以上の(195%も高い)給与を得ていたという(注2)。才能ある若者にとって、金融部門で働くことの誘惑はかくも大きいのだ。1969年~1972年に大学院を修了したハーバード大の男子の院卒生のうちで金融部門で職を得た学生は全体の5%に過ぎなかったが、1988年~1992年に大学院を修了したハーバード大の男子の院卒生になると、その数は15%にまで増えているのだ。1980年代に入って金融市場で大規模な規制緩和が進み、莫大な利潤を手にできる機会が広がるのに伴って、金融部門で働く人の数が増えるとともに、金融部門で働く上で求められる資格要件(学歴)が厳しくなっていった。フィリポン&レシェフの二人によると、金融部門で働くバンカーとそれ以外の部門で働く人たちとの学歴差に匹敵する事例を過去から見つけようとすれば、1929年にまで遡らなければならないという。金融商品の複雑化に加えて、職務上求められるスキルの上昇を背景として、大学院生――おそらくは高い知性の持ち主――にとって金融部門の(就職先としての)魅力がいや増すことになったのである。

今回の危機が明け透けにしたことは、これらの有能な知性がそれほど生産的な方法で利用されていないということである。金融部門は、起業家と投資家とを結び付ける仲介役として欠かせない部門というのは確かである。しかしながら、金融に対する実体経済の必要性を満たすという役割からやや切り離されて、金融部門はそれ自体でほとんど独立(あるいは、自己完結)した部門として拡大を続けてきたように思える。フィリポンの計算によると、金融部門がGDPに占める割合は2006年時点で8%に達していて、金融仲介機能を果たすのに必要なサイズよりも少なくとも2%は余分に規模が大きい可能性があるという(注3)。なお厄介なことには、「不動産担保証券」(“mortgage backed securities”)に対する銀行の飽くなき需要が過剰な借入れと住宅バブルを招いて、サブプライム危機の一因になったことである。ここ数日の出来事を眺めていると、「金融部門のCEOたちを追い出せ」と求める声が日増しに強まっているようである。プラグマティックな観点からすると、金融部門で働くCEOの法外な報酬が抑制されたら、若い世代が金融部門以外の部門へと行き先(就職先)を変更することで、有能な若者の創造的なエネルギーがこれまでよりも社会的に有益なかたちで利用されるようになるかもしれない。金融危機は、経済を深刻で長期化する不況に引きずり込む可能性があるが、希望の光が見出せないこともない。金融危機は、「才能の配分」を改善する可能性を秘めてもいるのだ。ウォール街とヨーロッパで準備されている金融部門の救済パッケージが、最良にして最も聡明な若者たち(the best and brightest)に、金融部門は依然として最善の選択肢(=就職先)だと判断させる結果に終わらないように願いたいところである。 


<注>

(注1)Thomas Philippon and Ariell Reshef (2007), “Skill Biased Financial Development: Education, Wages and Occupations in the U.S. Finance Sector”, NYU Stern Business School mimeograph, September 2007.

(注2)Claudia Goldin and Lawrence Katz (2008), “Transitions: Career and Family Life Cycles of the Educational Elite(pdf)”, American Economic Review  vol. 98 (2), pp. 263-269.

(注3)Thomas Philippon (2008), “Why Has the U.S. Financial Sector Grown so Much?(pdf)”, MIMEO, NYU Stern.

2010年4月19日月曜日

Paola Giuliano&Antonio Spilimbergo 「経済危機の長期持続的な諸効果」(2009年9月25日)

Paola Giuliano&Antonio Spilimbergo, “The long-lasting effects of the economic crisis”(VOX, September 25, 2009)
 
経済面での出来事は、長期にわたって持続する非経済的な効果を持つ可能性がある。経済面での出来事だったりその時々の経済情勢だったりは、一人ひとりの終生にわたる信念に影響を及ぼす可能性があるのだ。不況の最中に成長した若者は、人生で成功できるかどうかは努力よりも運にかかっていると考える傾向にあって、政府による再分配政策を強く支持する傾向にある。その一方で、公的な制度に対してそれほど信頼を寄せない傾向にもある。現下の厳しい不況は、リスクを嫌うと同時に、政府による再分配を強く支持する新しい世代を育みつつあるのかもしれない 

“経済学の世界に足を踏み入れたのはなぜかというと、その理由は2つあります。まず1つ目の理由は、『大恐慌世代』ということもあって、世の中のことについて並々ならぬ関心を持つようになったのです。当時の世の中で起こっていた多くの問題の根本的な原因を探ると、そこには経済問題が横たわっていたのです。”― ジェームス・トービン(James Tobin), Conversations with Economists


大恐慌以来最も深刻な経済危機から脱しようとしている中で、世間の関心もシフトし始めている。危機にどう対応したらいいかということから、危機に備わる長期的な効果へと世間の関心がシフトし始めているのだ。

過去の経済危機は、経済の構造だけではなく、政治の世界にも、経済についての経済学者の考え方にも、世間の人々の心理や信念にも、しぶとい痕跡を残した。例えば、1930年代の大恐慌は、政府に対して「マクロ経済の安定化」という新たな役割を付与する契機になったばかりではなく、アメリカの政界をその後数十年にわたって規定することになった新たな政治連合の形成を促した。さらには、ケインズ革命とマクロ経済学の誕生を誘発したのである。 

現下の経済危機が経済の構造に対して及ぼす長期持続的な効果の詳細を把握するためにはしばらく時間がかかるだろうが、IMFのチーフエコノミストであるブランシャール(Olivier Blanchard)も語っているように、「今回の危機は、経済システムに深い傷を刻み付けた。供給と需要のどちら側に対しても、今後何年にもわたって影響を及ぼし続けるだろう傷を刻み付けたのだ」(Blanchard 2009)。現下の経済危機は、「経済システムに深い傷を刻み付けた」だけでなく、いくつかの新たな問いも提起している。これから先、経済学者が必死になって取り組まねばならないだろう問いだ。すなわち、過去2年にわたって金融面で急速な勢いで進んだディスインターメディエーション(financial disintermediation)は、一時的な現象に終わらずに、今後もこのまま定着するのだろうか? 「信用なき」(“creditless” )景気回復――銀行の融資を含む「信用」の拡大を伴わない景気回復――を続けるのは可能だろうか? 政府は、規制に対するアプローチを見直すべきだろうか? 


大不況と大傑作(Great recessions and great literature)

経済危機は、経済や政治の分野だけにとどまらず、世間の人々の心理や態度に対しても衝撃的な効果(traumatic effect)を及ぼす。スタインベックが『怒りの葡萄』(The Grapes of Wrath)や『ハツカネズミと人間』(Of Mice and Men)――どちらも、大恐慌の中頃に執筆された作品――でありありと描き出しているように。大恐慌という衝撃的な出来事は、世間の人々の信念や態度に大きなインパクトを及ぼした。その結果として、アメリカの政治システムを長きにわたって支えた信念や態度が醸成されるに至ったのである。

翻って、現下の経済危機はどうだろうか? 心理的・政治的な側面に対してどんな効果を及ぼすだろうか? ダストボウル(Dust Bowl)が引き起こした苦痛をありありと描き出したスタインベックのように、サブプライムローンが引き起こした苦痛をありありと描き出す作家はまだ登場していないが、経済危機が世間の人々の心理や行動に及ぼす効果について何らかの示唆を与えてくれそうな学術的な研究ならある。我々の最新の研究成果がそれだ。 


総合社会調査(General Social Survey)を利用した最新の研究成果

我々の研究では、厳しい不況が一人ひとりの広範にわたる信念や態度に対して及ぼす影響が調査されている(Giuliano and Spilimbergo, 2009)。具体的には、アメリカで1972年以降ほぼ毎年のように実施されている総合社会調査(GSS:General Social Survey)への回答データを利用して、経済的なショックがアメリカの異なる世代の人々の態度に及ぼした影響を分析している。成人期の初期段階(early adulthood)で生じたマクロ経済的なショックと、GSSで自己申告された回答を突き合わせて、マクロ経済的なショックが世間の人々――特に、若者――の態度にどのような影響を及ぼしたかを明らかにしようと試みたのである。

経済的なショックが一人ひとりの信念に及ぼす効果を分析しようとすると、乗り越えなくてはならない重要な課題がある。一人ひとりの人間は、生きていく中で実に色々な経験をする。一人ひとりの人間が味わう経験のうちで経済的なショック以外の経験がその人の信念に及ぼす効果をコントロールすることが大事になってくるのだ。特に、戦争だとか、文化の急激な変容だとかという非経済的な出来事は、異なる世代に異なる影響を及ぼす可能性がある〔原注1〕。例えば、大恐慌の最中に成人期を迎えた世代は、大恐慌からだけではなく、第2次世界大戦からも影響を受けている可能性があるのだ。

経済的なショックの効果をそれ以外の国家的出来事の効果から切り離すために、アメリカでは地域によって経済成長のパフォーマンスにかなり違いがあるという事実を利用した〔原注2〕。例えば、ニューイングランドは厳しい不況に見舞われているのに、それ以外の地域はプラス成長を謳歌しているということがあり得るのだ。我々の研究によると、アメリカ国内の特定の地域を襲った厳しい不況がその地域で育った若者の態度と信念を大きく変えたことが明らかになっている。不況は、世間の人々――特に、18~25歳の若者――の認識(perception)を変えるのだ。不況を経験した若者は、政府による再分配を強く支持する傾向にある。それに加えて、人生で成功できるかどうかは、努力や勤勉よりも運にかかっている面が大きいと考える傾向にあるのだ。 


不況が態度に及ぼす効果

我々の研究を通じて明らかになった事実のうち、特筆すべきなのは以下の4点である。

  • 厳しい不況を経験することによって態度(信念)に大きな影響が及ぶのは、18歳~24歳のいわゆる人格形成期(formative age)――社会心理学者によれば、社会的な信念(social beliefs)の大半が形作られるとされている時期――の若者である。人格形成期以降に厳しい不況を経験した場合は、不況が態度(信念)に及ぼす効果はそれほど大きくない。 
  • 不況が態度(信念)に及ぼす効果は長続きする。不況を経験したせいで大きく変化した態度(信念)は、厳しい不況が終わった後も長年にわたって変化したままにとどまる。
  • 我々の研究では、所得、教育水準、マイホームを所有しているか否かという属性にコントロールを加えて、不況が一人ひとりの態度(信念)に及ぼす直接的な効果だけを取り出している。しかしながら、不況は先に挙げた属性への影響を介して、一人ひとりの態度(信念)に間接的なかたちでも効果を及ぼす可能性がある。間接的な効果も加味すると、不況が一人ひとりの態度(信念)に及ぼす効果はさらに大きくなる可能性がある。
  • 不況が態度(信念)に及ぼす効果の大きさは控え目な推定である。我々が試みた検証では、地域レベルで生じた経済的なショックの影響だけが取り上げられていて、国家レベルで生じた経済的なショックの影響は暗黙のうちに無視されているからである。

金融取引に焦点を合わせて、国家規模で生じる経済的なショックが態度(特に、リスクに対する態度)に及ぼす効果を分析しているマルメンディア&ナーゲル(Malmendier&Nagel 2009)によると、過去に株式市場で高利回りを経験したことがある世代は、リスク回避の程度が低くて、株式投資に積極的で、資産を運用するとなると手持ちの流動資産の多くの割合を株式に投資しがちであることが見出されている。さらには、過去に高インフレを経験したことがある世代は、債券(bond)の保有を避ける傾向にあることも見出されている。興味深いことに、株式の利回りやインフレにまつわる経験のうちでも若かりし頃の経験は、その後数十年にわたってその人のリスクに対する態度に影響を及ぼすことも見出されている。世代によって投資パターンに違いが見られる理由を説明する発見と言えよう。

人生において運が果たす重要性だったり、政府が果たすべき役割だったり、政府による再分配だったりについて一人ひとりが抱いている信念が重要な意味を持つのはなぜかというと、政治風土を形作るからである。ひいては、どんな政策が選ばれるかを決めるからである。例えば、ピケティ(Piketty 1995)によると、人生において運が大きな役割を果たすと信じている人は、重めの税負担も許容する傾向にあるという。さらには、アレシナ&アンジェレトス(Alesina&Angeletos 2005)やベナボウ&ティロール(Benabou&Tirole 2006)によると、公平性(fairness)についてどんな信念が抱かれているか――「公正世界仮説」を信じるか否か――によって、自由放任的な政策が実施される「アメリカ的」な均衡に落ち着く場合もあれば、社会福祉政策が実施される「ヨーロッパ的」な均衡に落ち着く場合もあるのだ。


「大きな政府」を支持する新世代?

現下の厳しい不況は、新しい世代を育みつつあるのかもしれない。リスクを嫌って、株式投資に消極的で、政府の介入を歓迎して、政府による再分配を強く支持して、重い税負担も甘受する新しい世代を。

アメリカの歴史を振り返ると、政界の大再編が経済面での衝撃的な出来事と時を同じくして起こるというのは珍しくない――経済面での衝撃的な出来事が世間の態度を変えて政治風土を変容させる可能性については、昔からよく知られていた。しかし、そのことを裏付ける明確な証拠が欠けていたのだ――。経済危機に見舞われる時期というのは、将来にとって重要な意味を持つ「選択の時」でもあるのだ〔原注3〕。その時々の経済情勢が世間の人々の信念や態度に対して及ぼす影響を明らかにしようと試みる首尾一貫した研究成果が続々と報告されている。しかしながら、世の政治家たちは、新たな時代精神を歓迎するばかりで、その背後にある経緯を解きほぐそうと試みている学術的な研究成果には無関心なようだ。


〔原注1〕ストラウス&ハウ(Strauss&Howe 1991)によると、アメリカ史の中の主要な出来事は、異なる世代の入れ替わり(世代交代)によって説明できるという。アメリカの歴史は、4タイプの世代――理想主義(idealist)/反動的(reactive)/ シヴィック(civic)/ 適応的(adaptive)――の入れ替わりによって説明できるというのだ。ストラウス&ハウによると、4タイプの世代の入れ替わりは、経済面での出来事からは独立して起こるとされている。

〔原注2〕アメリカは、大きく9つの地域に区分される。

〔原注3〕crisis(危機)という単語は、古代ギリシア語の κρίσις (krisis) に由来している。興味深いことに、κρίσις には、「決定(decision)、選択(choice)、選挙(election)、判断(judgment)、討論(dispute)」という意味がある。


<参考文献>


●Alesina, Alberto, and George-Marios Angeletos (2005), “Fairness and Redistribution: US vs. Europe(pdf)”, American Economic Review, Vol. 95 (September), pp. 913–35.
●Benabou, Roland, and Jean Tirole (2006), “Belief in a Just World and Redistributive Politics”, Quarterly Journal of Economics, Vol. 121 (May), No. 2, pp. 699–746.
●Blanchard, Olivier (2009). “Sustaining a Global Recovery”, Finance & Development, September.
●Giuliano, Paola, and Antonio Spilimbergo (2009), “Growing Up in a Recession: Beliefs and the Macroeconomy(pdf)”, CEPR Discussion Paper 7399
●Malmandier, Ulrike, and Stefan Nagel (2009), “Depression Babies: Do Macroeconomic Experiences Affect Risk-Taking?(pdf)” mimeo.
●Piketty, Thomas (1995), “Social Mobility and Redistributive Politics(pdf)”, Quarterly Journal of Economics, Vol. 110, No. 3, pp. 551–84.
●Strauss, William, and Neil Howe (1991), Generations: The History of America's Future, 1584-2069. Harper Perennial.

2010年4月12日月曜日

岡田靖 「小幅で頑固な日本のデフレーションは問題か?」


訳すのはVOXの記事だけと決めていましたが、本エントリーに関してだけは例外です。
日本経済のデフレ脱却に向けて、これまで長きにわたり並々ならぬご尽力をなさってこられた岡田靖先生が一昨晩(2010年4月10日土曜日)にお亡くなりになられました。残念ながら先生とは直接お会いする機会を持つことはできませんでしたが、論文等を通じて多大な学恩を授けていただきました。その学恩に対するささやかながらの報いにでもなればと思い、ここに先生の論文を訳させていただきます。岡田先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

Yasushi Okada, “Is the Persistence of Japan’s Low Rate of Deflation a Problem?”(PDF)

要約
本論文は大きく2つのパートから構成される。まず第1のパートにおいて、なぜ日本経済において持続するデフレーションが小幅(マイルド)であるのかを論ずる。デフレーションが、①小幅(マイルド)であり、かつ、②長らく持続している(頑固である)、というこの2つの事実の組み合わせは、日本経済が過去10年間において経験したデフレーションの最も顕著な特徴である。本論文において我々は、このような2つの事実によって特徴づけられる日本のデフレーションは、あるインフレ定常均衡(inflationary steady state equilibrium)から別のインフレ定常均衡に至る移行過程(transition process)として解釈できることを示すであろう。第2のパートでは、名目賃金の硬直性が存在する状況においては、小幅で弱々しいマイルドなデフレーションが企業収益の大きな圧迫(減少)につながることが示される。こうして生じた企業収益の圧迫の結果として、日本経済における長期にわたる不況が生み出されることになったのである。


第1部.日本のデフレーションに対する一つの単純な解釈

日本銀行による目標インフレ率の引き下げとその結果としてのデフレーション

日本経済は、GDPデフレーターの前年からの変化で測った場合、1994年の第3四半期からデフレーションに突入し、それ以降今日に至るまで12年間にわたってデフレに陥り続けたままであった。このような長い期間にわたって物価が下落し続けた例というのは、第2次世界大戦の終結以降稀な事例である。実際のところ、このような事実は大不況(Great Depression)以降現実に観察されたことはなかったのである。しかしながら、大不況期に日本とアメリカで生じたデフレーションは極めて急速なものであったが、最近12年間にわたって日本で生じたデフレーションはマイルドなもの-平均すれば1%のデフレ-であった。このように大不況期と現在のデフレーションとが極めて異なる様相を示していることもあって、日本のエコノミストの多くは、現在のマイルドなデフレーションが経済に与える影響は大不況期におけるデフレーションが経済に与えた影響とは大きく異なるものである、と考えている。大不況期においては、デフレーションと生産活動の大幅な落ち込みとは時を同じくして生じた。大不況期におけるアメリカ経済においては、それ以前のピーク時と比べて、実質GDPはおよそ50%の減少を見せた。1991年-1991年は日本経済が長期的な不況に突入した年である-以降における日本経済の平均的な実質GDP成長率は、1980年代のそれを大きく下回っているものの、1~2%程度の成長は続いている状況であった。さらには、大不況期においては、金と通貨との公定の交換レートである平価を維持するために、金融政策を通じて意図的に物価の下落が図られたのであった。

図1 GDPデフレーターで測ったインフレーション
(固定基準年方式、消費税の影響除く)


図2 CPIで測ったインフレーション(消費税の影響除く)

1990年以降における日本の金融政策は、資産価格の引き下げを目標として運営されており、このような政策姿勢を指してバブルの抑制(Bubble suppression)を志向した政策と呼ばれることもあった。しかしながら、この間に物価が下落することはなかった。1980年代においては、目標とされるインフレ率は、GDPデフレーターで見て、2~3%のレンジに設定されていたようである。ところが、1990年以降においては、目標とされるインフレ率は、0~1%のレンジへと引き下げられたようである。たとえデフレーションを引き起こすこと自体を目的としてはいないとしても、目標とするインフレ率の引き下げがデフレーションを引き起こすとすれば、日本銀行による政策変更(目標インフレ率の引き下げ;訳者注)がデフレーションの原因であった、ということになる。

インフレ定常状態(Inflationary steady state)

ここで、生産技術と人口が時を通じて不変であり、マネーサプライだけが一定率で成長するような経済を考えてみよう(注1)。ある特定の条件の下で、この経済は最終的にある定常均衡(steady state equilibrium)に落ち着くことになるだろう。定常均衡においては、全ての実質変数は一定に保たれることになるので、実質的なマネーサプライもまた(実質変数であることから;訳者注)一定の値をとることになる。しかしながら、仮定より、マネーサプライは一定率で成長しているので、実質的なマネーサプライが一定に保たれるためには、インフレ率(物価上昇率)がマネーサプライ成長率と同じスピードで成長する必要があることになる。貨幣数量説が正しいかどうかにかかわらず、定常均衡においては、物価の変化率(インフレ率)はマネーサプライの変化率と等しくなるわけである。こうしてインフレ率が決まってくると、実質利子率にインフレ率を加えることによって名目利子率もまた決定されることになる。名目利子率-名目利子率は貨幣保有の機会費用である―は、以下のように、その他の実質変数(訳者注;実質貨幣残高に対する需要に影響を及ぼす諸々の実質変数を一括りにしてΛで表すことにする)とともに実質貨幣需要関数の変数を構成することになる。

M/P = L(i, Λ)

ここに、Mは名目的なマネーサプライを、Pは物価水準を、Lは実質貨幣残高に対する需要を、iは名目利子率を、それぞれ表している。 名目的なマネーサプライの水準は毎期ごとに中央銀行によって決定され、定常均衡においては実質貨幣需要関数の変数(iとΛ)は一定の値(均衡値)に決まってくる(それに応じて実質貨幣残高に対する需要量も特定の値をとることになる;訳者注)ので、物価水準は貨幣市場の均衡条件を満足するような水準に決まることになるであろう。

目標インフレ率の引き下げ

ここである特定のインフレ定常均衡に置かれている経済を考えてみよう。ここで中央銀行が時点Tにおいてマネーサプライ成長率を低下させる決定をしたとしよう。ただし、時点T以降におけるマネーサプライ成長率はある一定の正の値をとるものとする。言い換えれば、マネーサプライの数量を絶対的に減少させることを通じて物価水準を引き下げるよう試みる意図的なデフレ政策は採られないということである。X軸に時間をとり、Y軸には名目マネーサプライの自然対数値をとると、図3に描かれているように、マネーサプライの時間的経路はマネーサプライ成長率の低下を反映して時点Tにおいて屈折を見せることになる。

図3 時点Tにおけるマネーサプライ成長率の変化


ここでマネーサプライ成長率をμで表すことにしよう。特に、時点T以前におけるマネーサプライ成長率をμ(0)、時点T以降のマネーサプライ成長率をμ(1)、とそれぞれ表すことにしよう。中央銀行が時点Tにおいてマネーサプライ成長率を低下させることから、μ(0) > μ(1) との関係が成り立つことになる。定常均衡の仮定より、時点T以前のインフレ率はマネーサプライ成長率と等しいμ(0)となり、また、時点Tにおいてマネーサプライ成長率が引き下げられてから十分な時間が経過したのちには(=経済が新たな定常均衡に到達した暁には;訳者注)、インフレ率はμ(1)に達することになるだろう。

マネーサプライ成長率がμ(0)であるケースとμ(1)であるケースのどちらの定常均衡においても実質利子率は同じ値をとると仮定し、その際の実質利子率をρ* と表すことにしよう。すると、時点T以前の定常均衡における名目利子率i(0)は、i(0) = ρ * + μ(0) となり、時点T以降に(十分な時間が経過したのちに)成立する新たな定常均衡における名目利子率i(1)は、i(1)= ρ * + μ(1) となる。これら2つの名目利子率の間には、i(0) > i(1)、との関係が成り立つことは明らかであろう。ここで、実質貨幣残高に対する需要は、実質変数の関数であるばかりではなく、名目利子率の関数でもあることを思い出そう。実質貨幣残高に対する需要が名目利子率の関数でもある結果として、2つの定常均衡においては、実質変数のうちで(2つの定常均衡間においてそれぞれに成立する名目利子率が異なることを反映して;訳者注)実質貨幣残高に対する需要のみが異なる値をとることになる。(マネーサプライ成長率がμ(0)からμ(1)に低下したのちに成立する;訳者注)新たな定常均衡での名目利子率i(1)は時点T以前の定常均衡における名目利子率i(0)よりも低い値をとるので、(ヨリ低い名目利子率を反映して実質貨幣残高に対する需要がヨリ大きくなるために;訳者注)新たな定常均衡における実質貨幣量は、時点T以前の定常均衡におけるそれよりも大きな値をとることになる。

経済が時点Tに到達した段階で、今後将来的にマネーサプライ成長率が引き下げられることになるだろうことが民間部門の人々に広く知られているとすればどうなるか考えてみよう。期待インフレ率は今すぐにでも低下し、名目利子率もそれに応じて低下するだろう。さらには、実質貨幣残高に対する需要は(名目利子率の低下を反映して;訳者注)増加するであろう。しかしながら、時点Tにおいて名目マネーサプライの水準が増加することはないので、結果として、貨幣市場における均衡を維持するために時点Tにおいて物価水準が下落する必要があり、こうして実質貨幣量が増加する(つまりは貨幣市場の均衡が保たれる;訳者注)ということになるだろう。

図4 物価水準の移行経路

もちろん、現実には名目価格と名目賃金とは多かれ少なかれ硬直的であり、それゆえ、貨幣市場の均衡を維持するために必要なだけの物価水準の下方へのジャンプが生じることはないだろう。その結果、(貨幣市場が不均衡状態におかれることによって;訳者注)実質変数にも影響が及ぶことになり、貨幣市場の均衡を回復するために必要となる調整を実現するために、物価水準の下落と実質変数の減少とが緩やかなかたちで生じることになるだろう。新たな定常均衡に到達するのは、このような物価水準と実質変数との調整が完全に終了したのちのことであろうと考えられる。

以上の議論から明らかになる重要な結論は、マネーサプライが絶対的に減少させられることはなくともその成長率(マネーサプライ成長率)だけでも引き下げられることになれば、物価水準は低下することになるだろう、ということである。言い換えれば、短期的なマネーサプライの変化は物価(諸価格)に影響を及ぼさないだろう、ということである。マネーサプライ成長率は、新たな定常均衡を定めることを通じて、現時点における物価水準とインフレ率とに影響を及ぼすことになるわけである。これまで論じてきたようかたちで生じるデフレーションを前にして中央銀行が一時的にマネーサプライ成長率を増加させたとしてもこのようなデフレーションが食い止められることはないだろう。つまるところ、経済は「流動性の罠」に陥っているわけであり、Krugman [1998]が指摘したように、このような状況においては物価(諸価格)とマネーサプライとの間における明瞭な関係性が失われることになるわけである。

日本経済の現実のデータに目を転じると、1980年代におけるマネーサプライ(M2+CD)成長率はおよそ10%であったことが示されている。しかしながら、1990年以降マネーサプライ(M2+CD)成長率は突然低下を見せ、平均して0%から3%の間を推移するようになった。1980年代のデータからオイルショックの時期を除けば、1980年代におけるインフレ率は、CPIとGDPデフレーターのどちらで見ても、およそ3%であった。しかしながら、最近の金融政策決定会合でも述べられているように、日本銀行は長期的なインフレ率の目標をおよそ1%に変更したようである。日銀によるこのような長期的な目標インフレ率の引き下げがいつの時点で民間部門から広く認識されるようになったのかは明らかではないが、デフレーションの発生が実際に認識され始めた1990年代中頃には民間部門における長期的なインフレ期待に変化が生じたのではないかと考えることもできるかもしれない。

図5 マネーサプライ(M2+CD)成長率

先に論じたように名目価格や名目賃金に硬直性が存在すると考えられるならば、長期的な目標インフレ率が突然引き下げられたことによってデフレーションが発生したという可能性もあり得ることである。さらには、このようなかたちで生じるデフレーションは、マネーサプライの絶対的な縮小を伴う大不況期のデフレーションのような悲惨な結果をもたらす必要はないだろう。しかしながら、このようなデフレーションは物価水準の調整(貨幣市場の均衡を維持するために必要となる物価水準の下落)が終了するまで持続することになるだろう。それゆえ、発生するデフレーションがマイルドであるようならば、(デフレがマイルドであればあるほど埋め合わせるべき物価水準の下落を実現するまでに要する時間もそれだけ長くなるので;訳者注)それだけデフレーションは長い期間にわたって持続するということになるだろう。このようにして生じるデフレーションは、一時的なマネーサプライの増加によっては終わらせることはできない。経済は、極めて低水準の名目利子率とマイルドなデフレーションとを伴いつつ、長期間にわたる実体経済面での停滞を経験することになるだろう。


第2部.マイルドなデフレーションの効果

名目賃金や名目価格に硬直性が存在し、中央銀行による長期的な目標インフレ率が引き下げられる時には、マイルドではあるけれども、長期にわたる頑固なデフレーションが生じる可能性がある。しかしながら、1%~2%程度のマイルドなデフレーションが経済に対して大きなインパクトを持つ可能性に関しては広く問題とされることはなかった。日本における多くのエコノミスト-中央銀行内部の研究者のみならず、民間のエコノミストも含めて-は、その程度のマイルドなデフレーションは経済に対してそれほど深刻な悪影響をもたらさないだろうと考えていたのである。物価が個別製品の価格を平均したものであると見なされ、物価と貨幣価値との関連が見忘れられるやいなや、デフレーションを引き起こす技術進歩や規制緩和は経済にとってよいものである、と考えられたのであった。多くのエコノミストや政策当局者たちは、1990年代に生じたデフレーションを「よいデフレ」であると見なしていたのである。

多くのエコノミストは、日本経済が抱える最も深刻な問題はデフレーションではなく生産性の低迷にあると信じていた。このような考えは、Hayashi and Prescott [2003]によって提示されたものである。林=プレスコットは、成長会計の手法を用いて、1990年代において全要素生産性(TFP)の成長率が低下していることを示し、TFP成長率の低下こそが1990年代において日本経済のGDP成長率が低下した原因である、と主張した。しかしながら、その後の研究によれば(注2)、林=プレスコットの結論は必ずしも正しいものではない、との報告がなされている。

ここで、連鎖方式のデフレーターによって推計されたGDP統計―このようなデータは1994年以降になって利用可能となった―を用いて、労働生産性(注3)の変化を見てみることにしよう。以下の図6によれば、1994年以降、労働生産性は一定の率で成長していることがわかる。もちろん、これらのデータは必ずしも真の構造パラメータを反映しているわけではない。しかしながら、1994年以降に労働生産性に大規模な構造変化が生じてはいないことは明らかである。

図6 労働生産性とそのタイムトレンド

実質賃金(注4)は、安定した成長を見せる労働生産性とは異なる動きを見せている。1998年に失業率が過去最高を上回る3%に達すると、名目賃金は下落に転ずることになったが、GDPデフレーターが下落し続けたこともあって、実質賃金は2002年まで上昇を続けることになった(注5)。

図7 名目賃金と実質賃金の推移

実質賃金と企業収益との関係は単純なものである。もし実質賃金と労働生産性との比(*)が一定に保たれ得るとすれば、企業収益と名目GDPとの比も一定に保たれることになる。そして、このケース(実質賃金と労働生産性との比が一定で変わらないケース)では、企業収益の伸びは名目GDP成長率と一致することになる。そうでないケース、特に、実質賃金が労働生産性以上に増加するようなケースでは、企業収益の伸びは名目GDP成長率を下回ることになる。デフレの結果として名目GDP成長率は0%に陥ったと考えられ、失われた10年においては名目GDP成長率は実質GDP成長率を下回る(**)ことになった(注6)。(デフレによる;訳者注)実質賃金の上昇が(労働生産性を上回るスピードで上昇し、その結果として労働分配率を引き上げることを通じて;訳者注)直接的に企業収益を圧迫することになったわけである。労働生産性と実質賃金のそれぞれの推移は、以下の図8に示されている。

図8 労働生産性と実質賃金の推移


2002年以前における労働生産性の上昇は実質賃金の上昇によって完全に相殺されることになった。問題は、1994年中に企業収益が十分回復しなかった、ということにある。通常の景気循環の過程では、景気拡大の初期の段階には実質賃金が相対的に減少し、企業収益は大幅に増加するものである。1980年代までは、まさしくこのようなかたちで調整が進んだものである。名目賃金の上昇は1997年に入るとストップし、下落を始めることになった。この時デフレーションが生じていなければ、企業収益は名目賃金の下落を受けて増加を見せたはずである。しかしながら、実際のところはデフレが生じていたために、実質賃金は2002年まで上昇し続けることになった。こうして、1%程度のマイルドなデフレーションが(実質賃金の高止まりを通じて;訳者注)企業収益の堅調な回復を妨げることになったのである。

1994年に始まったGDPデフレーターで見たデフレーションは、名目賃金の下落の効果を完全に打ち消すことになった。デフレーションは実質賃金の上昇を引き起こすことで企業収益を圧迫し、また、株価を含んだ資産価格の回復を妨げることになった。企業収益の弱々しい回復を受けて、設備投資はすぐにも減少を見せることになり、さらには、金融機関ならびに一般事業法人のバランスシート上における純資産は、株価が下落したことにより、そして間接的なかたちではあるものの設備投資が減少したことにより、減少することになった。こうして、企業活動はさらなる低迷を経験することになり、2001年の下半期に入ると失業率は5%にまで上昇することになったのである。1997年に失業率が3%を超えたことを受けて名目賃金が下落に転じたように、失業率が5%もの高水準に達したことで名目賃金は大幅に下落することになり、ついには、実質賃金までも下落する事態になった。名目GDPは増加しなかったものの、実質賃金が下落したことによって、企業部門の収益は増加することとなり、その結果として、デフレーションは依然として続いたものの、(企業収益の伸びの回復を受けて;訳者注)資産価格の上昇と設備投資の増加とが定着するということになったのである。


結論

本論文で論じたように、複雑な動学マクロモデルを用いずとも、長期的なマネーサプライ成長率(あるいは中央銀行が目標として設定する長期的なインフレ率)が引き下げられれば、経済がデフレーションに陥ることを示すことは可能である。さらには、マネーサプライを短期的に(一時的に)増加させたとしても、このようなデフレが終焉することはないだろうことも示される。言い換えるならば、Krugman [1998]によって提唱された「流動性の罠」に関する命題の本質的な部分は、クルーグマンモデルに特有な構造には依存していないということである。本論文において示されているように、流動性の罠が生じるために必要な条件は、1)名目価格や名目賃金の調整が不完全であること、2)名目利子率が実質貨幣需要関数の独立変数であること、である。

現在のところ、すべての経済学者が同意するような名目価格や名目賃金の調整に関する短期的な動学モデルは必ずしも確立されていない。しかしながら、たとえすべての経済学者に支持されるような動学モデルが存在しないとしても、 単純なインフレ定常均衡モデルに基づくことで、長期的な金融政策の変化により流動性の罠が引き起こされることが明らかになるのである。

また、マイルドなデフレーションこそが長期にわたる経済停滞を引き起こした原因であると考え得ることも本論文で示したところである。1990年代に日本経済が抱えていた歴史的な条件のために、マイルドなデフレーションが企業収益を大きく圧迫することにつながり、それが原因で日本経済は停滞に陥ることになったと考えられるのである。つまりは、小幅で頑固なデフレーションは、過去10年間にわたって日本経済が停滞し続けた最も重要な要因の一つであった、と考えられるのである。


<注>

(注1)McCallum [1989], Chapter 6.
(注2)Jorgenson and Motohashi [2003].
(注3)労働生産性=実質GDP/雇用者数/平均週労働時間.
(注4)実質賃金=雇用者報酬/(GDPデフレーター×雇用者数)/平均週労働時間.
(注5)GDPデフレーターの動向に関しては消費税の影響も考慮せねばならない。消費税率は1997年4月に3%から5%に引き上げられることになった。消費税の影響を考慮するにあたり、本論文では最も単純な方法に従うことにする。つまりは、1997年第1四半期以前のデフレーターに関しては(消費税率3%を反映して)1.03で割り、1997年第2四半期以降のデフレーターに関しては(消費税率5%を反映して)1.05で割ることで、消費税の影響を調整することにする。
(注6)Hayashi and Prescott[2002].
 

<訳者による補足>

(*)実質賃金と労働生産性との比は、言い換えるならば、労働分配率のことである。なぜなら、
   労働分配率=雇用者報酬/名目GDP
={雇用者報酬/(GDPデフレーター×雇用者数)/平均週労働時間}/
         {(実質GDP/雇用者数)/平均週労働時間}
        =実質賃金/労働生産性
        (注3, 注4における労働生産性と実質賃金の定義参照)
             
(**)実質GDP成長率=名目GDP成長率-GDPデフレーター変化率
  =>実質GDP成長率-名目GDP成長率=-GDPデフレーター変化率
  デフレーションが生じているということは(GDPデフレーター変化率<0)、
ということなので、デフレが生じている時には、
    実質GDP成長率-名目GDP成長率>0、つまりは、
    実質GDP成長率>名目GDP成長率、が成り立つ。
  

<参考文献>

〇Hayashi, F. and E. Prescott, 2002, “The 1990’s in Japan: A Lost Decade(pdf),” Review of Economic Dynamics, 5, pp. 206–235.
〇Jorgenson, D.W. and K. Motohashi, 2003, “Economic Growth of Japan and the United States in the Information Age,” RIETI Discussion Paper Series 03-E-015.
〇Krugman, P. 1998, “It’s Baaak! Japan’s Slump and the Return of the Liquidity Trap(pdf)”(邦訳(山形浩生氏訳)はこちら(pdf)), Brookings Papers on Economic Activity, 2, pp. 137–187.
〇McCallum, B. 1989, Monetary Economics, Macmillan.

2010年4月11日日曜日

Yoonsoo Lee&Toshihiko Mukoyama 「不況の浄化効果?」(2008年1月7日)

Yoonsoo Lee&Toshihiko Mukoyama, “Are there cleansing effects of recessions? Entry and exit of manufacturing plants over the business cycle”(VOX, January 7, 2008)
 
景気循環の過程では、創造的破壊が次々と起きて産業が清められる(‘cleanse’ )と広く信じられている。しかしながら、崩壊(busts)期よりもブーム(booms)期のほうが市場への新規参入が盛んな一方で、市場からの退出率と市場から退出するプラントのタイプは、景気循環のどの局面でも変わりがないようだ。さらには、不況期に開業する(新規参入する)プラントは、ブーム期に開業する(新規参入する)プラントと比べると、規模が大きくて、生産性が高い傾向にあるようだ。すなわち、不況期に起きているのは、「創造的破壊」(‘creative destruction’)ではなく、「創造的参入」(‘creative entry’)なのだ。
 
「創造的破壊」は、現代の市場経済を突き動かす主要な原動力の一つである。市場に新規参入する企業もあれば、市場から退出する企業もある。開業するプラントもあれば、閉鎖されるプラントもある。労働者が職場を移ったり職業を変えるのも珍しくない。市場経済において起こる「資源の再配分」(reallocation)の規模はかなりのものであることが、経済学の分野における過去数十年間の研究を通じて明らかになり始めている〔原注1〕。創造的破壊は、例外的な現象ではなく日常的な現象なのであり、市場経済が円滑に機能するために欠かせないのだ。資源が再配分される過程でミクロのレベルで浮き沈みが生じる。そのおかげで新製品が導入されたり、新技術が実用化されたり、資源がより生産的に利用されたりするようになるのだ。

現代の市場経済においては、ミクロのレベルにおいてだけでなく、マクロのレベルでも浮き沈みが起きる。ブームと不況が――時に穏やかに、時に過酷に――繰り返されるのだ。景気循環の安定化を図ることは、多くの政府にとって主要な政策目標の一つになっている。しかしながら、景気循環の安定化を試みる前に、問うておかないといけないことがある。マクロのレベルの浮き沈み――景気循環――とミクロのレベルの浮き沈み――創造的破壊――は、どう関わっているのだろうか? マクロのレベルの浮き沈みが「資源の再配分」を反映しているのだとしたら、「資源の再配分」は市場経済が円滑に機能するために欠かせないのだから、景気循環は問題視するにあたらないかもしれないのだ。

経済学者の間で持て囃(はや)されている見解の一つによると、景気循環は次々と生起する創造的破壊の表れと見なされている。「創造」があちこちで起こるのがブーム期で、「破壊」があちこちで起こるのが不況期だというのだ。それゆえ、景気循環を安定化しようとする試みは、「資源の再配分」という健全なプロセスを阻害する可能性があると見なされる。長い目で見ると、不況も悪くないということになろう。不況期には非効率的な生産単位(企業)が淘汰されて、経済システムが浄化されるだろうからだ〔原注2〕。しかしながら、すべての経済学者が同意しているわけではない。正反対の立場に立って、不況期には「資源の再配分」のペースが鈍ると考える研究者もいる〔原注3〕。不況期には、創造と破壊のペースが落ちるというのだ。この立場からすると、不況はやはり悪いということになる。

そんなわけで、景気循環の過程で起こる「資源の再配分」の実態について知ることは政策当局者にとっても重要なのだ。アメリカの製造業部門を対象にしてこの問題にメスを入れているのが我々の最新の論文である(Lee&Mukoyama, 2007)。具体的には、米国勢調査局(US Census Bureau)が収集しているプラントレベルのデータを利用して〔原注4〕、景気循環の過程におけるプラントの新規開業(誕生)と閉鎖(死)の実態を詳細に検討している。見出された結果をまとめると、以下のようになる。プラントの開業率(一年の間に新たに開業したプラントの割合)は、不況期よりもブーム期のほうがずっと高い一方で、閉鎖率(一年の間に閉鎖されたプラントの割合)は、ブーム期と不況期とで違いが見られない。興味深いことに、不況期に開業するプラントとブーム期に開業するプラントは雇用量と生産性の面で大きな違いがある一方で、不況期に閉鎖されるプラントとブーム期に閉鎖されるプラントは雇用量と生産性の面でそれほど違いが見られない。不況期に開業するプラントは、ブーム期に開業するプラントと比べると、規模が大きくて(雇用量が多くて)、生産性が高い傾向にあるのだ。その一方で、不況期に閉鎖されるプラントとブーム期に閉鎖されるプラントは規模(雇用量)と生産性の面でそれほど差が無いのだ。

マクロのレベルで起こる「景気循環」とミクロのレベルで起こる「資源の再配分」との関係について再考を迫る結果だ。不況の浄化効果を称える陣営によると、「破壊」(あるいは、退出・閉鎖)を通じて経済システムが浄化されることが強調される。操業中のプラントにおける雇用破壊(job destructions)が大いに反循環的である〔訳注;雇用破壊は、ブーム期に鈍る一方で、不況期に盛んになる〕ことを見出した先行研究がその裏付けになっているが、我々の研究によると、破壊(退出・閉鎖)の面でこれといって特別なことは起きていないことが見出されている。先にも述べたように、ブーム期に閉鎖されるプラントと不況期に閉鎖されるプラントは(雇用量や生産性の面で)似たような特徴を備えている。不況期に生産性の低いプラント――ブーム期であれば操業を続けられたであろうプラント――の大規模な淘汰が起きるわけでは必ずしもないのだ。不況に陥って事業を続ける(生き残る)のが難しくなると、従業員の一部が解雇されて雇用が縮小される傾向にある。既存の非効率的なプラントが一気に一掃されるわけではないようなのだ。生産性の低いプラントが淘汰されるのは、不況期だけに限られる話ではない。破壊を通じて働く浄化は、景気循環のどの局面でも――ブーム期だろうと、不況期だろうと――絶えず起きているのだ。不況期に起こる破壊とブーム期に起こる破壊は特徴の面でこれといった違いはないのだ。

とは言え、マクロのレベルで起こる「景気循環」とミクロのレベルで起こる「資源の再配分」とは何の関わりもないというわけではもちろんない。決してそうではなく、市場への新規参入は極めて順循環的なのだ〔訳注;市場への新規参入は、ブーム期に盛んになる一方で、不況期に鈍る〕。先にも述べたように、ブーム期に開業するプラントと不況期に開業するプラントは雇用量と生産性の面で大きな違いがある。そうなっているのは、景気循環の過程で「参入」の面で何らかの重要な選別が働いているせいなのかもしれない。ブーム期であれば、規模が小さくて生産性が相対的に低いプラントでも参入できる。景気がいいので、生産性が低くても利潤をあげられるからだ。その一方で、不況期に参入しても利潤をあげられるのは、生産性が高い(そして、規模が大きい)プラントくらいだ。不況は、生産性が高いプラントだけを選別して、経済全体の生産性を引き上げる効果を持っているのかもしれない。とは言え、既存の非効率的なプラントが淘汰されるというかたちで選別が働くわけでは必ずしもない。生産性が高いプラントだけが選別されるというのが何よりも重要である可能性があるのだ。つまりは、景気循環に備わる効果を探るのであれば、「退出」ではなく「参入」に着目すべきなのだ。「破壊」(“Destruction”)よりも「創造」(“Creation”)の方が重要なのだ。

我々が見出した結果は、以下にいくつか列挙するように、政策に対しても重要な意義を持っている。まず第1に、ブーム期に開業するプラントと不況期に開業するプラントが雇用量や生産性の面で違いがあるのは、不況期のほうが新規参入に対する障壁がずっと高いからである可能性がある。そのような障壁は、経済全体の長期的な成長を損なうかもしれない。新規のプラントは、イノベーションを体化していることが多い。いくつかの研究によると、新規のプラントの参入は、経済全体の生産性の伸びを高める重要な源泉の一つであることがわかっている。それゆえ、不況期に参入するのを邪魔している要因を突き止めるのが重要になってくる。不況期には、ブーム期と比べると、創業のための初期投資に要するコストが高まるか、資金を調達するのが困難になるのかもしれない。

第2に、景気循環の安定化を図る政策がどんな結果を招くかは、その政策が開業(参入)率と閉鎖(退出)率に及ぼす効果に左右される可能性がある。現実のデータと整合的なモデルを組み立てていくつかのシミュレーションを試みたところ、解雇税を課す――従業員を解雇する企業に税金を課す――ようにすると、プラントの開業(参入)や閉鎖(退出)に影響が出ないようであれば、景気循環の安定化につながる可能性が示されている。解雇税が導入されると、新規に採用されたり解雇されたりする機会が減るからである〔原注5〕。しかしながら、解雇税が導入されると開業率の変動が大きくなって、そのせいでマクロレベルの産出量の変動も大きくなる可能性が示されている。解雇税が導入されると開業率の変動が大きくなるのは、解雇税が参入を抑止する効果がブーム期よりも不況期においてのほうが強いからである。解雇税の影響を受けやすいのは、規模が大きくて雇用量が多い――それゆえ、将来的に苦境に陥った時に人員の縮小を迫られる可能性が高い――プラントである。不況期に開業するプラントは規模が大きい傾向にあるので、不況期のほうが解雇税の影響(参入を抑止する効果)が強くなるのだ。

我々が見出した結果は、新規参入(開業)のインセンティブに狙いを定めた政策の重要性も明らかにしている。補助金を給付するなどして不況期に新規参入を促せば、景気循環の安定化につながる可能性がある。市場の非効率性(流動性制約のような資本市場の不完全性)が新規参入の障壁になっているようなら、不況期に新規参入を促すのは経済厚生の面からしても望ましい政策だと言えよう。

最後になるが、我々が見出した実証的な結果は、アメリカの製造業のデータに基づいているということを強調しておきたいと思う。製造業以外の部門やアメリカ以外の国も対象に加えた上でどういう結果が見出されるかを探ってみるというのも、今後に残された興味深い課題の一つだろう。



〔原注1〕Dunne&Roberts&Samuelson (1989) および Davis&Haltiwanger&Schuh (1996) による先駆的な研究を参照せよ。

〔原注2〕この見解に理論的な観点から検討を加えている研究として、例えば Caballero&Hammour (1994) を参照せよ。

〔原注3〕例えば、Barlevy (2002) や Caballero&Hammour (2005) を参照せよ。

〔原注4〕我々の研究では、1972年から1997年までの工業統計調査(Annual Survey of Manufactures)を利用している。

〔原注5〕Veracierto (2004) や Samaniego (2006) も参照せよ。Samaniegoのモデルでは開業率が内生的に決まるが、開業率は景気循環のどの局面でもほとんど変わらないという結果が得られている。


<参考文献>


●Barlevy, G. (2002). “The Sullying Effect of Recessions”, Review of Economic Studies 69, 41-64.
●Caballero, R. J. and M. L. Hammour (1994). “The Cleansing Effect of Recessions”, American Economic Review 84, 1350-1368.
●Caballero, R. J. and M. L. Hammour (2005). “The Cost of Recessions Revisited: A Reverse-Liquidationist View”, Review of Economic Studies 72, 313-341.
●Davis, S. J., J. C. Haltiwanger, and S. Schuh (1996). Job Creation and Destruction, Cambridge, MIT Press.
●Dunne, T., M. J. Roberts, and L. Samuelson (1988). “Patterns of Firm Entry and Exit in US Manufacturing Industries”, RAND Journal of Economics 19, 495-515.
●Lee, Y. and T. Mukoyama (2007). “Entry, Exit, and Plant-level Dynamics over the Business Cycle”, Federal Reserve Bank of Cleveland Working Paper  07-18.
●Samaniego, R. M. (2006). “Entry, Exit and Business Cycles in a General Equilibrium Model”, mimeo. George Washington University.
●Veracierto, M. L. (2004). “Firing Costs and Business Cycle Fluctuations”, mimeo. Federal Reserve Bank of Chicago.

Paul Krugman 「ポール・サミュエルソン ~比類なき経済学者~」(2009年12月15日)

Paul Krugman, “Paul Samuelson:The incomparable economist”(VOX, December 15, 2009)


ハリネズミがいて、キツネがいて、そしてポール・サミュエルソンがいる。

ご存知だとは思うが、アイザイア・バーリン(Isaiah Berlin)が思想家を二つのタイプに分けていて、それを持ち出しているのだ。キツネタイプの思想家はたくさんのことを知っている。その一方で、ハリネズミタイプの思想家はデカいことを一つだけ知っている・・・というやつだ。経済思想家としてのサミュエルソンを人類史上比類なき存在たらしめているのは、彼がキツネでもありハリネズミでもあったという事実にある。デカいことをたくさん知っていたのだ。それらを僕らに教えてくれたのだ。サミュエルソンのようにたくさんの独創的なアイデアに恵まれた経済学者というのは、他に見当たらないのだ。

Google Scholar の助けも少しばかり借りて、サミュエルソンが知っていた(思い付いた)「デカいこと」を以下にいくつか列挙してみるとしよう。「いくつか」と断ったのは、網羅し切れないのがあまりにも明らかだからだ。ともあれ、8つ――8つだって!――だけ選んでみた。どれもこれもその後に膨大な数の後続研究を生み出すきっかけになった偉大な洞察だ。


1.顕示選好(Revealed preference:1930年代に消費者理論の分野で革命が起こった。消費者の選択を説明するには限界効用逓減の法則だけじゃ足りないことがわかってきたからだ。「あの人はAもBもCも選べたのに、BでもCでもなくAを選んだのは、Aが三つの中で一番好きだからに違いない」という単純な命題から実にたくさんの含意を導き出せることを教えてくれたのは、サミュエルソンだった。

2.厚生経済学(Welfare economics): XとYという二つの資源配分を比べて、Xの方がYよりも望ましいというのはどういう意味なんだろうか? サミュエルソンが登場するまでは、その意味するところが曖昧なままに放っておかれていて、所得分配についてどう考えたらいいのか五里霧中の状態だった。「倫理的な観察者」(ethical observer)による再分配という発想を導入して、社会厚生(social welfare)という概念を筋道立てて理解するにはどうしたらいいかを教えてくれたのがサミュエルソンだった。それと同時に、現実の世界において社会厚生という概念が限界を抱えていることを教えてくれたのもサミュエルソンだった。 現実の世界には、倫理的な観察者なんていないからだ。

3.貿易の利益(Gains from trade): 国際貿易は利益をもたらすというのはどういう意味なんだろうか? いつだってそう言えるんだろうか? これらの問いについて考えるための出発点になっているのが、「貿易の利益」についてのサミュエルソンの分析だ――その土台になっているのが、①の顕示選好の方法と、②の社会厚生についての分析――。「市場の歪み」についてのバグワティ(Jagdish Bhagwati)やジョンソン(Harry Johnson)の分析も、デアドロフ(Alan Deardorff)による比較優位の一般化も、この方面のどれもこれもがサミュエルソンの洞察に負っているのだ。

4.公共財(Public goods): 特定の財やサービスが政府によって供給されなければならないのはどうしてなんだろう? 市場に供給を委ねるのが適している財(その数はごく限られている)とそうじゃない財の違いはどこにあるんだろう? これらの問いについて考えるための扉を開いたのが、サミュエルソンが1954年に書いた「公共支出の純粋理論」(“Pure theory of public expenditure”)だ。

5.生産要素の賦存比率と国際貿易(Factor-proportions trade theory):生産要素の賦存状態と比較優位との関係について語るにしろ、国際貿易が所得分配に及ぼす影響について心配するにしろ、1940年代1950年代にサミュエルソンが手掛けた研究がその根拠になっている。サミュエルソンは、オリーン(Bertil Ohlin)&ヘクシャー(Eli Heckscher)の曖昧で混乱気味のアイデアを磨き上げて、切れ味鋭いモデルを組み立てた。そのモデルは、その後の一世代にわたって国際貿易理論の分野で支配的な地位を占めることになったし、現代の貿易理論の重要な構成要素の一つであり続けている。

6.為替レートと国際収支(Exchange rates and the balance of payments):ここでちょっと個人的な話をさせてもらいたいと思う。国際貿易について研究している学者の大半は、為替レートや国際収支の問題について語ろうとすると、話の筋を見失ってしまいがちになる。これまでにも何度か指摘したことがあるが、国際貿易という実物経済を研究対象にしている学者は、(貨幣的側面を研究対象にしている)国際マクロ経済学をブードゥー(いかさま)経済学と見なす一方で、国際マクロ経済学を研究している学者は、国際貿易論を退屈で現実との関わりが薄い学問と見なす傾向にある (機嫌が悪い時には、どちらの言い分も正しいと言って済ませている)。 僕がそのような対立から自由になれたのは、1977年に書かれたドーンブッシュ&フィッシャー&サミュエルソンの共著論文を読んだおかげだ。リカードの貿易理論に分析が加えられているこの論文では、国際貿易論と国際マクロ経済学を融合するにはどうすればいいかが示されている。為替レートと国際収支を結び付けて論じるにはどうすればいいかが示されている。「貿易の利益」が発生する可能性だけでなく、失業が発生する可能性も同時に考慮するにはどうすればいいかが示されている。

後になって知ったのだが、サミュエルソンが(国際貿易論と国際マクロ経済学の融合という)この課題を解決するためのとっかかりを掴んだのは1977年の共著論文よりもずっと前に遡るようだ――1977年の共著論文での整然とした定式化が最後の一歩を踏み出すのに役立ったようだけれど――。サミュエルソンは、1964年に「貿易問題に関する理論的覚書」(“Theoretical notes on trade problems”)と題された論文で次のように述べている。「雇用量が完全雇用の水準を下回っていて、国民純生産が最適な水準にないようなら、通常であれば間違っている重商主義的な議論のどれもこれもが妥当性を持つようになる」。これに続けて、『経済学』の当時の最新版(第6版)の付録で「通貨の過大評価が自由貿易擁護論者にとって面倒な問題を引き起こすことを指摘している」と述べている。完全雇用を達成するための方法としてサミュエルソンが提示したのが貿易の制限・・・ではなく、通貨の過大評価を終わらせること(為替レートの切り下げ)だった。サミュエルソンは、まっとうなマクロ経済政策こそがまっとうなミクロ経済政策を可能にする前提条件だと見なしていたわけである。この点については、後でも論じるとしよう。

7.世代重複モデル(Overlapping generations):サミュエルソンが1958年の論文で提唱した世代重複モデルは、社会保障だとか家計の債務だとかあれやこれやについて考えるための基礎的な枠組みを提供している。世代重複モデルを欠いたマクロ経済学というのを想像するのは難しい。

8.ランダムウォーク仮説(Random-walk finance):将来を見据えた投資家たちの行動が資産価格のランダムな変動を生むことを証明したのもサミュエルソンだ。現代のファイナンス理論の多くの出発点になっている洞察だ。


先にも述べたように、挙げようと思えばもっと挙げられるだろうが、これら8つの「デカいこと」のどれであれ、それ単独でサミュエルソンの名を偉大な経済学者として歴史に刻むのに十分だっただろう。こんなにたくさんの「デカいこと」をやってのけた経済学者は、サミュエルソン以外に誰一人として――誇張でも何でもなく、本当に誰一人として――いなかったのだ。

その秘訣は何だったんだろう? 誰よりも頭が良かったというのも勿論あるだろう。でも、それだけじゃなくて、他にも秘訣があるんじゃないかと思う。二つくらい。

一つ目は、「遊び心」だ。サミュエルソンの文章を読んでいると、堅苦しい論文を書き上げるために机の前に座している姿ではなく、楽しみながらアイデアを紡ぎだしている姿が思い浮かんでくる。遊び心が洗練されたおふざけのかたちをとることもある。例えば、先にも触れた1958年の論文(世代重複モデルが提唱されている論文)の注9を見てみるといい。こう書かれている。「確かに(Surely)、“確かに”(“surely”)という単語から始まる文の最後がクエッションマークで終わるというのは、普通であればあり得ないことである? しかしながら、一つの論文には一つのパラドックスで十分なのであって・・・(略)・・・」。遊び心があったからこそ、想像力(imagination)が解放されたし、創造力(creativity)が刺激されたと思われるのだ。

二つ目は、現実に根をおろそうと常に心掛けていたことだ。サミュエルソンは、大学という象牙の塔に閉じこもらずに、現実の出来事や現実の政策に強い興味を示し続けた。それに加えて、株式投資にも手を出した。理論が現実から遊離しないように心掛けていたのだ。

最後になるが、サミュエルソンが経済政策の理論の面で果たした偉大な貢献――いわゆる「新古典派総合」――について触れるとしよう。サミュエルソンは、大恐慌の赤ん坊(Depression baby)として知的修練を積んだ。サミュエルソンが学生として学んだのは、大量の失業が発生した大恐慌の真っ只中だったのだ。彼が執筆したテキスト――『経済学』――は、ケインジアン流の思考法を世の中に広めた。サミュエルソンが生涯を通じて決して忘れなかったように、市場は時にひどい機能障害に陥る可能性がある。そうだとすると、市場の利点を説く経済理論を現実に当てはめるにはどうしたらいいのだろうか?

まっとうなマクロ経済政策ありき、というのがサミュエルソンの答えだった。まず何よりも、金融・財政政策を使って完全雇用を達成しなければいけない(僕もあちこちで指摘してきたが、サミュエルソンは、今日の状況を予見していたかのように金融政策の限界を認識していた)。為替レートを調整して価格競争力を維持しなければいけない。そうしてはじめて市場の利点が発揮され得るというわけだ。

現代の経済学者のあまりにも多くが忘れ去ってしまった教訓だ。完全競争市場モデルの美しい数学的外観に見惚れてしまっているうちに忘れ去られてしまったのだ。市場はデカいことをやり遂げられる仕組みではあるが、政府による積極的な介入によってサポートされる必要があるというサミュエルソン流の現実主義が、今日ほど求められている時期は他にないだろう。

比類なき経済学者であるポール・アンソニー・サミュエルソンを称えようじゃないか。彼に比肩し得るような経済学者はこれまでに現れなかったし、今後も決して現れないだろう。

Axel Leijonhufvud 「マクロ経済における安定性と不安定性」(2009年11月21日)

Axel Leijonhufvud, “Stabilities and instabilities in the macroeconomy”(VOX, November 21, 2009)
 
現在の経済学は、その分析用具を用いて明らかにするはずの現実の経済の性質について地に足のついた理解を得れずにいる。「摩擦を伴う安定性」を特徴とするマクロ経済理論では、①レバレッジの不安定性、②連結性(connectivity)、③物価水準の潜在的な不安定性の「三つの不安定性」が無視されている。「摩擦を伴う安定性」が支配的なパラダイムであり続ける限りは、経済分析のテクニカルな面で進展があろうとも、現実の経済の理解の面で真の進歩が成し遂げられることはないだろうし、政府は新たな危機に備えられないだろう。

およそ50年前に経済学を学んだ学生たちは、市場(民間部門)は完全雇用に自動的に戻る傾向を持たないと教えられていた。乗数効果や加速度効果によって増幅された望ましからぬ景気変動に見舞われがちで、色んな種類の「市場の失敗」があちこちに存在していると教えられていた。だがしかし、慈悲深くて有能な民主主義下の政府のおかげで、景気変動が和らげられて、大半の「市場の失敗」も是正されるので、経済厚生の損失も取るに足りないものにとどまるとも教えられていた。 

翻って50年後の今の学生たちはどうかというと、民主主義下の政府のせいで物価や産出量の余計な変動が生み出されると教えられている。だがしかし、政府に対して適当な制約を課すことができれば――例えば、中央銀行に独立性を付与すれば――、自由な市場のおかげで完全雇用の達成をはじめとした多くの恩恵が得られると教えられている。民間部門の安定化を図るというのが50年前のマクロ経済政策の課題だったが、それが今では公共部門に制約を課すことへとシフトしたわけである。

過去50年の間に経済についての見方が大きく転換したわけだが、それと同時に、この半世紀というのは、経済分析のテクニカルな面で大きな進展があった実り豊かな時期でもあった(Blanchard 2008)。しかしながら、この半世紀の経済学の歩みを振り返って浮かび上がってくるのは、己が作り出した時流の表面をあてもなく漂いながら、ただただ途方に暮れている姿である。現在の経済学は、その分析用具を用いて明らかにするはずの現実の経済の性質について地に足のついた理解を得れずにいるのだ。 


新古典派総合

20世から21世紀へと向かう世紀の転換点のあたりで、振り子が反転し始めた――とはいっても、それほど大きな振れ幅ではなかったが――。マクロ経済学における「淡水学派」(“freshwater”)と「海水学派」(“saltwater”)との間に、「新・新古典派総合」(New Neoclassical Synthesis)として知られる「汽水」(“brackish”)的な妥協が成立したのである。「海水学派」のニューケインジアンは、新古典派によって開発された動学的確率的一般均衡(DSGE)モデルを受け入れた。その一方で、「淡水学派」の新古典派は、ニューケインジアンによって長らく問題にされてきた市場の 「摩擦」(“frictions”)や資本市場の「不完全性」(“imperfections”)を受け入れたのである。

この「新しい総合」は、50年前の「古い総合」と同様に、現実の経済を安定的な一般均衡システムであるかのように見なしていて、均衡に向かう傾向が「摩擦」によって妨げられると想定している。「新しい総合」の立場に立つ経済学者は、目下の出来事(金融危機に端を発する世界的な経済危機)を理論的に説明するのは可能だと言い張ろうとしているが、既存の理論によっては現在の危機をうまく説明できないのだ。

私の判断では、新旧どちらの総合も間違っている。新旧どちらの総合も、市場経済の性質について根本的な誤解を抱えているのだ。「摩擦を伴う安定性」(“stability-with-frictions”)が支配的なパラダイムであり続ける限りは、経済分析のテクニカルな面で進展があろうとも、現実の経済の理解の面で真の進歩が成し遂げられることはないだろう。現代経済が抱える真の不安定性に正面から立ち向かわなければならないのだ。


「複雑な適応システム」としての経済システム

現実の経済は、適応的で動的なシステム(adaptive dynamical system)である。「市場メカニズム」と呼ばれることもある自動調節機能を備えていて均衡に向かう傾向を持ってはいるが、複雑なシステムの内部で展開されるあれやこれやの経済活動のコーディネーションがいつでも円滑にいくとは限らない。約40年前に遡るが、「回廊仮説」(“corridor hypothesis”)を私なりに提唱したことがある。その概要を説明しておこう。何らかのショックが生じて均衡から離れたとしても、均衡経路付近の「回廊」の内側にとどまっていれば、「古典派」的な調整が働いて再び自動的に均衡に戻る。しかしながら、回廊の外側の「ケインジアン」的な領域では、市場に備わる自己調整能力が損なわれてしまう。均衡からの乖離があまりに大きくて、回廊の外側に飛び出してしまうようだと、政府による安定化政策の助けがない限りは再び均衡に戻ることができないかもしれない。

「回廊仮説」をはじめて提唱した時には、逸脱を増幅する乗数効果について細かく検討を加えたが、稀なケースに着目しているように見えてそんなに説得的に感じられないかもしれない。しかしながら、経済システム以外のあらゆる複雑な動的システム――人工的なものであれ、自然の中に存在するのものであれ――は、ホメオスタシスの働き(恒常性を維持しようとする傾向)に限界があることが知られている。経済システムだけは例外というのはありそうにない。

経済システムの状態空間(state-space)上には、均衡に向かう傾向を備えた領域に加えて、逸脱を増幅するようなプロセスが作動するせいで均衡に向かう傾向が打ち消される領域も存在すると見なしてもそれほど的外れではないだろう。しかしながら、話はこれで終わらない。現在の危機は、乗数効果以外にもポジティブ・フィードバック・ループの例がいくらでもあることを明らかにしているのだ。発動する領域が乗数効果のように狭くもないのだ。例えば、銀行によるデレバレッジ(債務の圧縮)がそうだ。銀行がデレバレッジの一環として信用(銀行貸出)の供与を削ると、不況がさらに深まって、銀行が保有する資産がさらに毀損する。そうなると、銀行がバランスシートを縮小しようとするインセンティブはさらに強まることだろう。システムを不安定化するポジティブ・フィードバック・ループの中でも最も危険なのは、フィッシャー流のデット・デフレーションである。これまでのところはどうにか回避できているが、経済システムの状態空間上にはいかなる犠牲を払ってでも避けるべき領域があるのだ。

外から何らかの「衝撃」が加わってその影響がシステムの内部に「波及」するというように問題を捉えると、ショック(衝撃)が発生したせいで均衡から大きく乖離したとしたら、システム全体の振る舞いにどんな影響が及ぶかが問われることになる。衝撃が外生的なもの(外からやってくるもの)として扱われるので、不安定性が内生的に引き起こされる可能性が見過ごされてしまうおそれがある。

過去200年の経験を通じて学び取られてきたことは、部分準備銀行制度が内生的な不安定性を生む可能性があることだ。部分準備銀行制度に備わる「金融的な不安定性」が商業銀行システムを超えて波及する可能性を説いたのは、ハイマン・ミンスキー(Hyman Minsky)である。ミンスキーによると、危機が起きないでいる期間が長引くと――「大平穏」(“Great Moderation”)期のように――、リスクを引き受けるのに抵抗を感じなくなって、そのせいで「金融的に脆弱」になってしまうという。脆弱なシステムは、遅かれ早かれ崩壊するだろうというのだ。


システミックな問題

世界経済が目下のところ直面している喫緊の問題には、「摩擦を伴う安定性」を特徴とするマクロ経済理論によって無視されてきた「3つの不安定性」が関わっている。その詳細については、VOXの論説で既に論じたことがある(Leijonhufvud, June 2007, January 2009July 2009)。 

  • レバレッジの不安定性:ライバルよりも何倍も高い収益を得ようとして、どの金融機関もこれまでにないほど高率のレバレッジをきかせた。それに伴って、リスクスプレッドが歴史上最低の水準にまで縮小し、金融機関のバランスシート上に「不良債権」(“toxic”)に化すことになる資産が大量に保有されたのである。
  • 連結性(Connectivity):グラス・スティーガル法が廃止されるまでのアメリカでは、金融業界が分離されていた。投資可能な資産の種類と、発行可能な負債の種類によって区分けされていて、異なる業態の金融機関が互いに直接競争することはなかった。しかしながら、規制緩和によって金融機関が形成するグローバル・ネットワークの連結性が急激に高まった。1980年代にアメリカでS&L危機が起きたが、かなり大きなコストを伴ったものの、その影響が及んだのはアメリカの住宅金融部門だけだった。現在の危機もアメリカの住宅金融部門に端を発しているが、世界中にその影響が及んだのである。
  • 物価水準の潜在的な不安定性:過去10年にわたってアメリカの消費者物価は安定を保ってきた。その理由の多くは、中国をはじめとした貿易相手国が為替安政策に訴えるだけでなく、中国をはじめとした新興国から安価な製品が続々と輸入されたおかげである。さらには、「大平穏」期を経て、予想インフレ率のボラティリティ(変動)も低下した。今後これらの条件に変化が生じるようなら、金融政策の既存の枠組み――FF金利を唯一の政策手段としてインフレ目標の達成を目指し、マネタリーベースの内生的な変化を許容する枠組み――は、金融面での安定を保つには不適切であることが判明するに違いない。


これからの課題

注意を払ってその成り行きを見守るべき課題は、以下の4つである。

  • 前途に立ちはだかっている脅威は、二つのタイプに分けられる。日本型の景気停滞と、ラテンアメリカ型の高率のインフレーションである。通常であれば、どちらにも陥りそうにないし、起き得る事象をその可能性の高い順に列挙したリストのかなり下の方に位置するだろう。しかしながら、①高水準の政府債務残高、②社会保障の財源の大規模な積み立て不足、③経常収支の大幅な赤字という事実に照らすと、どちらの脅威もまったくあり得ないとは言い切れないのだ。財政問題にきっちりとケリをつけることが政治的にどれほど難しいかを踏まえれば、一時的な苦境に済みそうにない。スキュラとカリブディスの間の航行可能なルートがだいぶ狭まってきている――進退が窮まってきている――のだ。
  • 今後の政策の方向性を見極めるにあたって念頭に置いておくべき非常に重要な事実がある。金融機関の救済(ベイルアウト)や財政出動によって財政赤字が極限にまで膨らんでいるせいで、将来的にいつかバブルが崩壊したとしても財政政策で対処できる余地が残されていないのだ。そのことを踏まえると、万が一の事態が起きても被害を最小限に抑えられるようにフェイルセーフ(fail-safe)モードに切り替えるべきである。現下の超低金利政策はどうかというと、フェイルセーフの発想に反している。景気のさらなる悪化を避けるために、資産価格をできるだけ引き上げるというのが低金利政策の目的だ。細心の注意を要するオペレーションであって、フェイルセーフの発想に則っているとは言えないのだ。今回の危機を招く原因となったゲーム――高いレバレッジをかけて満期転換〔訳注;短期で調達した資金を元手に、満期が長めの資産に投資する〕に勤しむゲーム――を再開しようとする動きが民間の銀行の間で見られるが、そのようなインセンティブを生み出している一因となっているのが現下の低金利政策なのだ。
  • 今回の危機をもたらした重要な犯人と言えば、高いレバレッジである。再び危機が起きるリスクを減らすためには、レバレッジを抑制せねばならない。しかしながら、各国の政府は、金融機関が今すぐにレバレッジを抑制するのには乗り気ではないようだ。金融機関がレバレッジを抑制したら、資産価格が下落するだけでなく、信用(銀行貸出)の供与も削られて、不況が悪化するかもしれないと心配しているのだ。問うとしよう。今すぐじゃないとしたら、一体いつならいいのだろうか?  
  • 各国の中央銀行は、「出口戦略」に乗り出す機会をうかがっている。風変わりな資産が混在するかたちで大きく膨らんだバランスシートを正常な状態に戻すのが「出口戦略」ということらしいが、おそらくそう簡単にはいかないだろう。たとえうまくいったとしても、今回のような危機がまた起きたら、同じようになりふり構わずに非伝統的な政策に手を染めなければいけなくなるだろう。中央銀行の責務がはっきりと確定していない既存の制度的な枠組みゆえに、そうなるのだ。解決策は一つだけだ。金融システムに新たな規制を課すしかない。しかしながら、その具体的な中身となると、よくわかっていないのが現状だ。 


<参考文献>


●Blanchard, Olivier (2008), “The state of macro”, NBER Working Paper 14259.
●Leijonhufvud, Axel (2007), “The perils of inflation targeting”, VoxEU.org, 25 June 2007
●Leijonhufvud, Axel (2009), “Fixing the crisis: Two systemic problems”, VoxEU.org, 12 January.
●Leijonhufvud, Axel (2009), “Curbing instability: policy and regulation”, VoxEU.org, 11 July.
●Leijonhufvud, Axel (2009), “Macroeconomics and the Crisis: A Personal Appraisal”, CEPR Policy Insight 41, November.

Willem Buiter 「マイナス金利の素晴らしき世界」(2009年6月4日)

Willem Buiter, “The wonderful world of negative nominal interest rates”(VOX, June 4, 2009)
 
政策金利をマイナスにせよと求める声が一部の経済学者の間から上がっている。本稿では、マイナス金利についての基礎を解説すると同時に、名目金利のゼロ下限制約を乗り越えるための三つの手段――①現金を廃止する、②現金に課税する、③新しい通貨を導入して、計算単位と交換手段を分離する――についても検討する。

少し前までフランクフルトにいた。ヨーロッパ中央銀行(ECB)の本店で、マイナス金利(および、名目金利のゼロ下限制約)をテーマ(pdf)に講演してきたのだ。どういうわけだか、マイナス金利について論じると、オバマ大統領を批判するのと同じくらい熱気がこもった感情的なリアクションを呼び起こすようだ。これまでにも何度かマイナス金利について論じたことがあるのだが、その時に読者から寄せられたいくつかの反応を踏まえて、今後この話題について論じる時には冒頭に警告文を掲げる必要があるかもしれないと考えたくらいだ。熱気がこもった感情的なリアクションが引き起こされる原因は、マイナス金利についての初歩的なロジックがびっくりするほど理解されていないせいだと思われるので、基礎的なことから説明するとしよう〔原注1〕。

金融政策に埋め込まれた馬鹿げた非対称性を取り除くための処置について論じるのが本稿の目的である。名目金利がゼロ%の現金が存在するせいで、どの金融資産についてもその金利がゼロ%以下になり得ないのだ(実際のところは、現金の持ち運びにはコストがかかるので、銀行預金なんかの金利(預金金利)は若干であればマイナスになり得る。しかしながら、そうだとしても以下の議論は依然として成り立つ)。インフレが過熱しそうであれば、政策金利を中央銀行が適当と判断する水準にまでいくらでも引き上げることができるが、デフレに陥りそうだったり景気が悪化しそうだったりしたら、政策金利を中央銀行が適当と判断する水準にまでいくらでも引き下げられるかというと、そうはいかない。ゼロ%までしか引き下げられないのだ。政策金利がゼロ%に達したら、量的緩和や信用緩和のような非伝統的な金融政策の出番ということになる。

名目金利と実質金利を混同しないように注意してもらいたいと思う。(事後的な)実質金利(=名目金利-インフレ率)がマイナスを記録した例は、これまでに何度もある。金融資産の利回り(名目金利)がインフレ率を下回ったためである。今後インフレが起きるようなら、実質金利はマイナスになるだろう。アメリカに住んでいるようなら特にだ。

もう一点だけ注意してもらいたいのは、現金とかその他のあれやこれやの金利(名目値にしても実質値にしても)をいつまでも永遠にマイナスにしろと言いたいわけではないことだ。金融政策に埋め込まれた非対称性――短期のリスクフリー(無リスク)金利を操る中央銀行の能力に課せられた制約――を取り除くための三つの手段について論じるのが目的なのだ。三つのうちのどれか一つでも採用されたら、名目金利をマイナスにすることが可能になるのだ。とは言え、政策金利をマイナスにすべきかどうかは、実証的な問題である。FRBのスタッフがアメリカ経済の計量経済モデルを使って行っているいくつかの研究によると、ゼロ下限制約が存在しないようなら(政策金利をマイナスの値にまで引き下げることができるようなら)、テイラー・ルールからはじき出される望ましいFF金利(政策金利)の水準はマイナス5%という結果が得られている。政策金利をマイナスの値にまで引き下げることが可能なようなら、景気後退からの脱却を目指して、主要な中央銀行は例外なく――Fedも、ECBも、イングランド銀行も、日本銀行も――とっくに政策金利をマイナスの値に設定していたに違いないと思われるのだ。


ゼロ下限制約を乗り越えるための三つの手段

名目金利のゼロ下限制約を乗り越えるための手段として、以下の3つが考えられる。

  1. 現金を廃止する
  2. 現金に課税する
  3. 新しい通貨(ルド)を導入して、既存の通貨(ドル)を廃止する。ドルはこれまで通り計算単位(ニュメレール)としての役割を果たすが、決済には使えなくなる。代わりにルドが決済に使える交換手段になるのだ。さらには、ドルとルドとの公定の交換レート(為替レート)も定める。ドルはもう交換手段ではなくなるので、ドルの名目金利にゼロ下限制約は存在しなくなるだろう。その一方で、新たに交換手段になるルドの名目金利にはゼロ下限制約が存在することになるだろう。政策目標を達成するためにドルの名目金利をマイナス(例えば、マイナス5%)に設定する必要が生じたとしても、ドルをルドに対して切り上げる(ドルをルドに対して5%切り上げる)つもりであることを宣言してそれが信頼されるようなら、ルドの名目金利はゼロ%を下回らずに済むだろう。
 
まずは1番目の手段について。政府が発行する現金が廃止されても、民間の支払い手段(銀行口座宛ての小切手、クレジットカード、デビットカード、デジタル通貨)を使って取引の決済のほとんどを行うことができる。民間の銀行だけではなく一般市民も中央銀行に預金口座を開設できるようにするという手もある。その口座を使って決済するわけだ。口座に残高があるようなら、その時々の経済情勢に応じてプラスの金利が支払われたり、マイナスの金利が課せられたりするだろう。

次に2番目の手段について。現金に課税するとして、現金の保有者に税金を払わせるにはどうしたらいいだろうか? 紙幣に発行日時が記載されているようなら――大抵の紙幣はそうなっている――、紙幣が法定通貨として通用する期間(満期)を定めて告知すればいいだろう。手持ちの紙幣が満期を迎える前に、中央銀行に足を運んで税金を払わせるのだ。満期前に税金が払われた紙幣にはスタンプを押すか何らかの印を付けて、その後も法定通貨として使えるようにするのだ。

グレッグ・マンキュー(Greg Mankiw)のブログで、紙幣に満期を設けるためのよく練られた案が紹介されている。マンキューによると、学生の発案らしい。チャールズ・グッドハート(Charles Goodhart)も似たような案を昔から唱えているが、その概要は以下の通り。

①どの紙幣にもシリアル番号(記番号)が記載されていて、末尾の数字が0から9までのいずれかの整数になっている。 
②1年に1度、決められた日に、中央銀行が0から9のいずれかの整数をランダムに選ぶ。
③シリアル番号の末尾の数字が②でランダムに選ばれた数字と一致する紙幣は、法定通貨としての地位を失う。その紙幣を中央銀行に持ち込んでも、同額の紙幣や硬貨と交換してもらえなくなる。 
④10分の1の確率で無価値になるわけだから、紙幣の期待名目金利はマイナス10%ということになる。デフレに断固たる決意で立ち向かおうとする中央銀行にとって大きな武器になるだろう。
 
イギリスで発行されている割増金付き公債(British Premium Bond)――利子も払われないし、キャピタルゲインも得られないが、抽選で賞金が当たる公債――のマイナス金利バージョンと言えるだろう。

ただし、一つ問題がある。マンキューやグッドハートは気付いていないようだが、法定通貨としての地位を失ったからといって、無価値になるとは限らないのである。不換紙幣(fiat money)の価値は、みんながどれくらいの価値があると考えているかによって左右される。マンキューやグッドハートが予想するように、法定通貨としての地位を失った紙幣の価値がゼロになる可能性(無価値の紙切れと化す可能性)も勿論ある。しかしながら、法定通貨かどうかというのは、不換紙幣が価値を持つために欠かせないわけじゃない。抽選の結果として法定通貨としての地位を失った紙幣が法定通貨の地位にとどまっている同じ額面の紙幣と同等に扱われ続ける可能性もあるのだ。

となると、法定通貨としての地位を失った紙幣を押収する可能性を仄めかすなり、その紙幣の所有者に何らかの罰金やペナルティーを科す可能性を仄めかすなりする必要もあるかもしれない。現金に課税するという2番目の手段は、財産への侵害行為として不快に思われるかもしれないし、実務的にも手間がかかって面倒かもしれない。その一方で、魅力を感じる為政者もいることだろう。


何が価値の貯蔵手段に選ばれるか?

マイナス金利絡みでこれまでに読者から寄せられた中でも最も早とちりしたコメントは、おおよそ次のようなものだった。「名目金利がマイナスになったら、誰もがこぞって現金の代わりを探そうとするだろう」。それこそが狙いなのだ。現金(あるいは、名目金利がマイナスの金融資産)を手放させて、それ以外の資産――望むらくは、実物資産やコモディティ(一次産品)――の取得を促すのが狙いなのだ。正確を期して以下でもう少し突っ込んで論じるとしよう。

上で掲げた三つの手段のうちのどれが採用されたとしても、名目金利がマイナスになるようなら、現金が価値の貯蔵手段に選ばれることはないだろう。1番目の手段では、現金がそもそも存在しない。廃止されているからだ。2番目の手段では、現金の(期待)名目金利はマイナスだ。3番目の手段では、新しい通貨であるルドの名目金利はゼロ%を下回らないが、ドルがルドに対して増価するので、名目金利がマイナスのドル建て債券よりも現金であるルドの方が価値の貯蔵手段として優れているとは言えない。 

コモディティが現金に代わって価値の貯蔵手段に選ばれるだろうか? 耐久性のないコモディティが価値の貯蔵手段に選ばれるようなら、消費(コモディティの消費)が急伸するというかたちになるだろう。耐久性のあるコモディティが価値の貯蔵手段に選ばれるようなら、話を単純化するためにそのコモディティから得られる限界的な便益(使用価値)が時間を通じてずっと変わらないとすると、裁定の結果としてそのコモディティの価格は名目金利と同じ割合で低下する――名目金利がマイナスx%なら、x%の割合で低下する――ことになるだろう。

現金に代わる価値の貯蔵手段として一番優れているのは、名目金利がマイナスの債券ということになりそうだ。名目金利がマイナスであっても、民間の銀行は依然として儲けられるだろう。銀行の利潤は、金利の絶対的な水準ではなく、貸出利率と借入利率の差に依存するからである。例えば、民間の銀行が中央銀行からマイナス5%の金利で資金を借り入れて、その資金をマイナス2%の金利で誰かしらに貸し出せば、5%の金利で借り入れて8%の金利で貸し出す場合と同額の利潤が生じるのだ(ただし、二つのケースで扱われる金額が同じであれば)。

名目金利がマイナスになったとしたら、貯金を拠り所にして生活している人はどうしたらいいのだろうか? まずは、実質金利がどうなっているかをチェックする必要がある。かなりのデフレが起きていて、名目金利がマイナスでも実質金利はプラスになるようなら、悠々とやり過ごせるだろう。名目金利ばかりでなく実質金利もマイナスになるようなら、資本(capital)を取り崩して生活していかないといけないだろう。そうこうしているうちに貧困に陥る人が出てきたり、社会問題に発展したりするようなら、財務省や社会保健省(Ministry of Social Affairs)に詰め寄るべし。中央銀行に詰め寄って困らせるなかれ。

中央銀行の掌中に「マイナス金利」という手段が握られているより良き未来に向けて、いざ踏み出そうではないか。


〔原注1〕ロバート・ホール(Robert Hall)&スーザン・ウッドワード(Susan Woodward)のこちらの論説もあわせて参照されたい。

Paul De Grauwe 「"通常の景気後退期"における財政政策と"異常な景気後退期"における財政政策」(2010年3月20日)

Paul De Grauwe, “Fiscal policies in “normal” and “abnormal” recessions”(VOX, March 30, 2010)

財政刺激策を継続すべきだろうか? それとも、できるだけ速やかに財政引き締めに転じるべきだろうか? 3タイプの異なるマクロ経済モデル――ケインジアンモデル/ニューケインジアンモデル/リアルビジネスサイクルモデル(リカーディアンモデル)――を比較した上で言えるのは、どのようなタイプの景気後退に直面しているかによって答えが変わるということだ。「通常の景気後退」(“normal recessions”)に直面しているようなら、最も適切な指針を与えてくれるのはニューケインジアンモデルである。その一方で、「異常な景気後退」(“abnormal recessions”)に直面しているようなら、最も適切な指針を与えてくれるのはケインジアンモデルである。

世界的な経済危機が勃発した2008年以降に、政府が抱える財政赤字ならびに公的債務が急速な勢いで膨らんでいる。そんな中で、財政政策に景気を刺激する力があるのかどうかをめぐって活発な論争が繰り広げられている。重要な争点である。論争の行方次第によって、このまま財政刺激策を継続すべきなのか、それともできるだけ速やかに財政刺激策から手を引くべきなのかが決せられるからである。

門外漢の人でも特段驚きはしないだろうが、この問題については経済学者の間で意見が割れている。そのことを明瞭に示しているのが以下の図1である。アメリカ経済に関する異なるマクロ経済モデルから予測される財政政策の乗数効果をサーベイした最近の論文(Cogan et al. 2009)から転載した図で、政府支出が恒久的に1%増えた場合にアメリカの実質GDPに生じる効果の大きさ(乗数の値)について2つの異なるモデル――Romer&BernsteinモデルとSmets&Woutersモデル――から得られる予測が示されている。

Romer&Bernsteinモデルでは、政府支出が増えてから1年後に強力な乗数効果が表れて、乗数の値はその後も高止まりすると予測されている。その一方で、Smets&Woutersモデルでは、政府支出が増えてから4年後に乗数の値が0.4にまで落ち込んで、それ以降は次第にゼロに向けて低下していくと予測されている。


        
図1. 政府支出の1%の恒久的な増加がアメリカの実質GDPに及ぼす効果  
出典:Cogan, et al. (2009)


これら2つのモデルの根本的な違いをもっとわかりやすいかたちで可視化したのが以下の図2である。乗数の値ではなく、政府支出が恒久的に1%増えた場合に実質GDPが辿ると予測される経路が跡付けてある。比較のために、財政刺激策が試みられなかったとしたら実質GDPが辿ると予測される経路(ベースライン)も並べてある。


        
図2. 実質GDPが辿る経路:3つのシナリオ
出典:Cogan, et al. (2009) のデータに基づいて筆者が作成


根本的に異なる経済観

Romer&Bernsteinモデルでは、財政刺激策によって実質GDPが増えると、そのままベースラインを上回る経路に引っ張り上げられることになる。その一方で、Smets&Woutersモデルでは、財政刺激策が試みられても、実質GDPは次第にベースラインに向けて立ち返る傾向にある。背後にある経済観が根本的に異なっているのだ。

Romer&Bernsteinモデルでは、均衡が複数あって、政府が財政刺激策によって経済を別の均衡に誘うのが可能になっている。その一方で、Smets&Woutersモデルでは、均衡が一つしかなくて、財政刺激策が試みられてからしばらくすると、その唯一の均衡に立ち返ることになるのだ。経済観が根本的に異なるこれら2つのモデルからは、財政刺激策から手を引くべきか否かについて異なる回答が返ってくることは言うまでもない。


3タイプのマクロ経済モデル

図2における3つのシナリオにそれぞれ対応するマクロ経済モデルがあって、財政政策の有効性について三者三様の予測を行う。

第1のタイプは、ケインジアンモデルである。Romer&Bersteinモデルもこの仲間だ。ケインジアンモデルでは、財政刺激策によって産出量(実質GDP)の水準が恒久的に高まる。さらには、均衡が複数ある可能性があって、複数ある均衡のうちのいくつかでは雇用量が完全雇用水準に満たない可能性がある。

第2のタイプは、リアルビジネスサイクル(RBC)モデルである。このモデルでは、リカードの中立命題が成り立つと想定されていて――それゆえ、リカーディアンモデルと呼んでもいいだろう――、個々の経済主体は合理的で将来志向(forward looking)であると見なされる。現時点で財政赤字が拡大すると、そのうち増税されることを見越して行動するわけである。将来の税負担がどれくらい増えるかを現時点の価値に割り引いて計算して、それと同じ額だけ(将来の増税に備えて)今のうちに貯蓄を増やすわけである。それゆえ、リカーディアンモデルでは、財政刺激策を試みても、民間の経済主体が貯蓄を増やすのでその効果が完全に相殺されてしまう。乗数の値がゼロになるのだ。財政刺激策を試みても、実質GDPがベースラインから離れないのだ。

第3のタイプは、ニューケインジアンモデルである。Smets&Woutersモデルもこの仲間だ。ニューケインジアンモデルでは、財政刺激策が産出量(実質GDP)の水準を高める効果は長続きしない。財政刺激策が試みられた直後は、産出量にケインジアンモデルと非常に似た効果が生じる。しかしながら、リカーディアンモデルと同様に、合理的で将来志向の民間の経済主体が将来の増税に備えて貯蓄を増やす――それに伴って、民間消費と民間投資が減少する――ので、乗数の値が徐々に小さくなって、産出量が次第にベースラインに立ち返ることになる。産出量がベースラインに立ち返るまでにリカーディアンモデルよりも長い時間がかかるが、その理由は名目賃金や名目価格が硬直的なためである。現在の「最先端」のマクロ経済モデルの大半は、ニューケインジアンモデルに属していて、そのいずれもがSmets&Woutersモデルと似た特徴を備えている(Cwik&Wieland 2009)。

これまでの説明からも窺い知れるだろうが、ケインジアンモデルとニューケインジアンモデルの違いの方が、リカーディアンモデルとニューケインジアンモデルの違いよりも根本的だと言えよう。

ケインジアンモデルでは、産出量が長期的な均衡に自動的に引き戻されることはない。だからこそ、財政刺激策が産出量に及ぼす効果が持続する可能性があるのだ。それに対して、ニューケインジアンモデル――ならびに、リカーディアンモデル――は、大違いの経済観に立っている。ニューケインジアンモデルでは、財政刺激策が試みられると、金利、価格、賃金が変化して、それに伴って民間消費や民間投資がクラウドアウトされる(減少する)。その結果として、産出量が長期的な均衡に引き戻されることになる。リカーディアンモデルでは、産出量があっという間に長期的な均衡に引き戻される。ニューケインジアンモデルでは、賃金や価格が硬直的なせいで、産出量が長期的な均衡に引き戻されるまでに時間がかかる。そういう違いはあるが、ニューケインジアンモデルとリカーディアンモデルは基本的に同じ構造を共有しているのだ。


最も適切なマクロ経済モデルはどれ?

「通常の景気後退」(“normal recessions”)に直面しているようなら、最も適切な指針を与えてくれそうなのはニューケインジアンモデルで、「異常な景気後退」(“abnormal recessions”)に直面しているようなら、最も適切な指針を与えくれそうなのはケインジアンモデルだ。ニューケインジアンモデルを含む均衡モデルは、「通常の景気後退」を理解するのに役に立つ。「通常の景気後退」であれば、調整メカニズムが働く――例えば、金利や価格が変化するおかげで長期的な均衡に引き戻される――からである。ニューケインジアンモデルを含む均衡モデルは、産出量を長期的な均衡に引き戻すのに財政政策がどれくらい助けになるかを理解するヒントをくれるだろう。例えば、ネガティブな需要ショック(総需要の収縮)が生じたとしよう。ニューケインジアンモデルによると、産出量が落ち込むのは一時的で、産出量はそのうち長期的な均衡に立ち返ることになるだろう。しかしながら、産出量が長期的な均衡に立ち返るまでにはしばらく時間がかかるだろう。財政刺激策に乗り出せば、産出量が長期的な均衡に立ち返るまでの時間を縮めることができる。どれくらい短縮できそうかを知るためにも、乗数の値を把握しておくのが重要になってくる。ニューケインジアンモデルの予測によると、財政刺激策が試みられた直後は乗数の値は1くらいで、その後は急速に低下することになる。「通常の景気後退」に直面しているようなら財政政策は役に立つ可能性があるが、やり過ぎないように注意せよというのがニューケインジアンモデルの教えである。さらには、「出口戦略」(“exit strategy”)は急ピッチで進めろというのもニューケインジアンモデルの教えである。


「通常の景気後退」か? それとも「異常な景気後退」か?

我々が今まさに直面しているのは「通常の景気後退」ではないだろう。なぜそう言えるのかを説明するために、3種類のデフレスパイラル(deflationary spirals)を区別するとしよう。いずれも今回の危機の最中にその牙をむいたのだ。

  • ケインジアン流の「貯蓄のパラドックス」:多くの人が一斉に自信を失って――「集合的な自信の喪失」――、こぞって貯蓄に励む。そのせいで産出量が落ち込む。
  • フィッシャー流の「デット・デフレーション」: 誰もが疑心暗鬼になって――「集合的な不信」――、こぞって債務の削減を試みる。資産が一斉に売られるせいで、資産の価格が低下する。資産の価格が低下するせいで、バランスシートが毀損する(資産額から負債額を差し引いた純資産額が縮小する)。そのせいで、さらに資産の売却が試みられる。
  • 銀行信用デフレーション:民間の銀行が突如としてリスクを嫌い、一斉に貸し出しを抑制する。そのせいで、貸出債権のリスク(貸し倒れリスク)が高まる。

これら3種類のデフレスパイラルは、同じ構造を共有している。個々の行動(貯蓄、債務の削減、貸出の抑制)が「負の外部性」を生むせいで、自滅的な結果を招くことになるのだ。いずれのデフレスパイラルも、集合的な不安/集合的な不信/集合的なリスク回避がきっかけで引き起こされる。みんなで一致団結しようにもコストがかかってそう簡単にはいかないため、負の外部性を内部化することができない。「コーディネーションの失敗」が生じて、悪い結果を避けられないのだ(この点について詳しくは、Cooper&John (1988) を参照せよ)。 

大勢の信念が共鳴する――言い換えれば、「アニマルスピリッツ」(Akerlof&Shiller 2009)が伝播する――せいで引き起こされる「市場の失敗」の例だと言える。大勢の信念が共鳴しないようなら、市場は一人ひとりの信念をうまく調和させられるだろう。しかしながら、アニマルスピリッツが伝播するようなら、そうはいかない。市場は「良い均衡」(“good equilibrium”)を実現できずに終わるのだ(この点については、Farmer&Guo (1994) も参照せよ)。

同じ構造を共有してはいるが、違いもある。「貯蓄のパラドックス」は、「フローのデフレーション」(“flow deflation”)と呼べるだろう。消費者がフロー(貯蓄)を変えようと試みるせいで起きるからである。その一方で、フィッシャー流の「デット・デフレーション」や銀行信用デフレーションは、「ストックのデフレーション」(“stock deflations”)と呼べるだろう。ストック――債務の水準や銀行信用(貸出)の水準――の調整に伴って起きるからである。「フローのデフレーション」と「ストックのデフレーション」が相互作用し始めると、厄介なことになってしまうのだ。

戦後になってこれまでに起きた「通常の景気後退」においては、「フローのデフレーション」だけがその牙をむいた。家計にしても企業にしても民間銀行にしても、バランスシートの調整にあくせくするようなことはなかったのである。所得や利潤が減るのではないかと悲観的になって、貯蓄に励んだのである。しかしながら、調整メカニズムがちゃっかり働いて、止めどない下降スパイラルに陥らずに済んだのだ。銀行部門が調整メカニズムの一端として重要な役割を果たしたのだ。

「フローのデフレーション」と「ストックのデフレーション」が相互作用して互いに補強し合っているというのが、2007年以降に世界経済が直面することになった問題だ。今回の危機に先立って、民間部門で過剰な債務が積み上げられた。それが原因で「ストックのデフレーション」が強力に牙をむく土壌が形成されたのである。「通常の景気後退」であれば働く調整メカニズムもその機能を発揮しなかった。中央銀行が金利を引き下げたものの、民間の銀行が貸し出しを抑制したために、その恩恵(金利の低下)が消費者や企業にまで及ばなかったのである。

「フローのデフレーション」と「ストックのデフレーション」が相互作用しているのだ。積み上がった過剰な債務を処分するために、家計は債務を減らして貯蓄を増やそうとしている。しかしながら、待っているのは自滅的な結果だろう。貯蓄も増えないし、債務も減らないだろう。そこで、家計はなおさら貯蓄を増やそうとするだろう。預金金利が低下しているのに、民間の銀行が貸出金利を引き下げずにいるのも事態の悪化に手を貸している。今のような状況では、企業も投資を増やそうとするインセンティブを持たないだろう。デフレスパイラルを食い止めるストッパーがどこにも見当たらないのだ(Minsky (1986) および Fazzari, et al.(2008) も参照せよ)。


集合行為を通じた「コーディネーションの失敗」の解決

今のように景気がこんなにも落ち込んでいるのは、「コーディネーションの失敗」の結果である。市場が一人ひとりの行動を調和させるのに失敗して、「良い均衡」を実現できずにいるのだ。

市場によっては解決できなくても、政府が陣頭指揮をとる「集合行為」を通じてなら解決することが原則的には可能な問題だ。景気を回復させるためには、銀行部門の安定化を実現できるかどうかが鍵になる。未だに「流動性の罠」に嵌っている可能性はあるものの、銀行部門はどうにか安定を取り戻したように思える。ケインズ流の「貯蓄のパラドックス」やフィッシャー流の「デット・デフレーション」についてはどうかというと、政府が貯蓄を切り崩す(財政赤字を拡大する)だけでなく、債務(公的債務)を積み増すことによって難を逃れたようである。そのおかげなのだ。民間部門が貯蓄を増やせたのも債務を減らせたのも。「フローのデフレーション」と「ストックのデフレーション」が相互作用して止めどない下降スパイラルに陥るのを回避できたのも。

これまでに述べてきたことが2007年に始まった景気後退のメカニズムを的確に描写できているとしたら、安定的な均衡の存在が想定されているモデルから得られる財政乗数の推計結果はまったくあてにならないことになろう(例えば、Wieland (2009), Cogan et al. (2009), Fatás&Mihov (2009), Hassett (2009) も参照せよ)。政府が財政赤字を拡大して債務(公的債務)を積み増したおかげで、民間部門における「コーディネーションの失敗」が解決されたし、民間の経済主体が望み通りに貯蓄を増やせて債務を減らせたのだ。景気を不安定化させることなく。その「乗数」効果は極めて大きい可能性があるが、具体的な値を推計するのは難しいだろう。


持続不可能な債務?

民間の債務が政府の債務によって置き換えられる――民間部門が債務を圧縮する一方で、財政赤字が拡大して公的債務が積み上がる――のに伴って争点として持ち上がっていてマーケットの関心事にもなっているのが、公的債務の持続可能性の問題である。公的債務の持続可能性に疑問符がつくようなら、政府はできるだけ速やかに出口戦略に乗り出す(財政引き締めに転じる)べきということになろう。しかしながら、この件については、民間の債務の持続可能性の問題と切り離して論じるわけにはいかないのだ。 

民間の債務の水準がまだ過剰で、民間の経済主体が今後も債務の圧縮を継続しなければならないようなら、政府ができるだけ速やかに出口戦略に乗り出すべきだとは言い切れない。出口戦略のタイミングを間違えて先走ってしまうと、その代償として民間の債務が持続不可能な水準にまで膨れ上がってしまって、新たにデフレスパイラルが引き起こされるだろうからだ。

民間の債務が現段階で持続可能な水準にあるかどうかが肝心なのだ。民間の債務が持続可能な水準にあって、政府が財政赤字と債務(公的債務)を減らそうとしてもデフレスパイラルに陥る恐れがないかどうかが肝心なのだ。残念ながら、今の段階でこの問いに答えを出すのは難しい。民間の債務が持続可能かどうかを見極めるのは難題だからである。フィッシャー流の「デット・デフレーション」のメカニズムを思い起こしてもらいたいが、誰かしらが負っている債務の持続可能性は他の誰かの行動に依存しているのだ。外部性が存在するからこそ、債務が持続可能かどうかを見極めるのはいつだって難しいのだ。


<参考文献>


●Akerlof, George, and Robert Shiller (2009), Animal Spirits: How Human Psychology Drives the Economy and Why It Matters for Global Capitalism, Princeton University Press, 264.
●Cogan, John, Tobias Cwik, John B Taylor and Volker Wieland (2009), “New Keynesian versus Old Keynesian Government Spending Multipliers”, CEPR Discussion Paper 7236, March.
●Cwik, Tobias, and Volker Wieland (2009), “Keynesian Government Spending Multipliers and Spillovers in the Euro Area”, CEPR Discussion Paper 7389.
●Cooper, Russell W and John, Andrew (1988), “Coordinating coordination failures in Keynesian models”, Quarterly Journal of Economics, 103:441-463.
●Farmer, Roger and Jang-Ting Guo (1994), “Real Business Cycles and the Animal Spirits Hypothesis”, Journal of Economic Theory, 63, 42-73.
●Fatás, Antonio and Illian Mihov (2009), “Why Fiscal Stimulus is Likely to Work”, International Finance 12:1, Spring.
●Fazzari, Stevan, Pierro Ferri and Edward Greenberg (2008), “Cash flow, investment, and Keynes–Minsky cycles”, Journal of Economic Behavior and Organization, 65:555–572.
●Fisher, Irving (1933), “The Debt-Deflation Theory of Great Depressions(pdf)”, Econometrica, 1:337-57, October.
●Leijonhuvud, Axel (1973), “Effective demand failures”, Swedish Journal of Economics, 75:27-48.
●Minsky, Hyman (1986), Stabilizing an Unstable Economy, McGraw Hill, 395pp.
●Reinhart, Carmen and Kenneth Rogoff (2009), “The Aftermath of Financial Crises”, NBER Working Paper 14656.
●Smets, Frank and Raf Wouters (2007), “Shocks and Frictions in US Business Cycles: A Bayesian DSGE Approach”, American Economic Review 97, 3: 506-606.
●Wieland, Volker (2009), “The fiscal stimulus debate: “Bone-headed” and “Neanderthal”?”, VoxEU.org, 31 March.

Daniel Leigh 「インフレ率の目標値を4%に引き上げるべきか?」(2010年3月9日)

Daniel Leigh, “A 4% inflation target?”(VOX, March 9, 2010)
 
IMFのチーフエコノミストであるオリヴィエ・ブランシャール(Olivier Blanchard)が、通常時のインフレ率の目標値を4%に引き上げるべきだと提言している。深刻な不況に陥った場合に名目金利を引き下げられる余地をできるだけ確保するためというのがその理由だ。もっともだ。日本銀行が4%のインフレ率を目標にしていたとしたら、日本経済が 「失われた10年」(“Lost Decade”)の間に喪失した産出量の規模を半分に抑えることができていた可能性があるのだ。

金融政策は低インフレ――例えば、1~2%のインフレ率――の達成を最優先すべきだというのが、セントラルバンカーの世界における通念(conventional wisdom)になっている。例えば、世界中のセントラルバンカーが一堂に会した1996年のジャクソンホールカンファレンスでは、「低水準のインフレ率あるいはゼロ%のインフレ率を金融政策の長期的な目標に据えるべきだとの総意」が得られている(Kahn 1996)。CPI(消費者物価指数)が抱える上方バイアス(測定誤差)を考慮すると、CPIで測ったインフレ率が1~2%の時に「真の」インフレ率がゼロ%になるだろう(Wynn&Rodriguez-Palenzuela 2002)。

ところで、中央銀行が掲げるインフレ率の目標値が低い国では、世界的な金融危機のあおりを受けて、名目金利がゼロ下限制約に達してしまった。名目金利を引き下げられる余地がなくなってしまったのである。望ましい名目金利がゼロ%を下回ったケースもある。例えば、米国経済を対象にしたルドブシュ(Rudebusch 2009)の推計によると、テイラールールから導き出される望ましいFF金利(フェデラルファンド金利)の水準は、2009年時点でマイナス4%以下――ゼロ下限制約のずっと下――という結論が得られている。インフレ率の目標値がもっと高かったとしたら、万能薬が手に入っていただろうか? 


「名目金利の引き下げ余地」(“room to cut”)の効能に関する最新の研究

IMFのチーフエコノミストであるオリヴィエ・ブランシャールとその同僚たちが、インフレ率の目標値を4%に引き上げてみたらどうだろうかと提言している(Blanchard et al. 2010)。少し前になるが、日本銀行が4%のインフレ率を目標にしていたとしたら、日本経済のパフォーマンスが改善していたかどうかを私なりに検討してみたことがある(Leigh 2009)。日本経済は、1990年代中頃に政策金利がゼロ%の下限に達した後に、「失われた10年」(“Lost Decade”)に陥った。日本銀行が4%のインフレ率を目標にしていたとしたら、どうなっていただろうか? その答えを得るために、日本経済のデータから推計された標準的なDSGE(動学的確率的一般均衡)モデルの助けを借りて反実仮想のシミュレーションを試みたのだ。見出された発見は、3つある。

第1の発見:日本銀行は1990年代前半に大いなる過ちを犯したという大方の見方に反して、当時の日本銀行は、標準的なテイラールールに従って政策金利を調節していたようなのだ。どうやら1%のインフレ率が暗黙の目標だったようで、インフレ率の安定化に重きが置かれていた――インフレ率を1%に落ち着かせることが最優先されていた――ようなのだ。決して異端(unorthodox)と呼べるようなものではなかったのだ。実際の政策金利の推移と、モデルから推計された政策金利の推移を並べて掲げたのが図1である。1990年代前半においては、実際の政策金利がモデルの推計値をなぞっていることがわかる。



【図1】日本経済:モデルから推計された政策金利(実線)と実際の政策金利(点線)


第2の発見:シミュレーションの結果によると、日本銀行が4%のインフレ率を目標にしていたとしたら、名目金利のゼロ下限制約に直面せずに済んでいた(名目金利をゼロ%にまで引き下げなくてもよかった)可能性がある。しかしながら、名目金利の引き下げ余地が広がりさえすれば、それだけで産出量(GDP)で測ったパフォーマンスが大幅に改善するかというと、そうではない。日本銀行が産出量の安定化――GDPギャップ(現実のGDPと潜在GDPの乖離)の縮小――に積極的にならない限りは、名目金利の引き下げ余地が広がっても存分に活用されずに終わってしまうのだ。4%のインフレ率が目標にされていたら、予想インフレ率が高まって実質金利が低下する。そのおかげで産出量が増えるが、その効果は長続きしない(図2を参照)。 



【図2】4%のインフレ率が目標にされていたら:実際(実線)と反実仮想(点線)


第3の発見:日本銀行が4%のインフレ率を目標にするだけでなく、産出量の安定化――GDPギャップの縮小――にも積極的に取り組んでいたとしたら、日本経済のパフォーマンスは大きく改善していた可能性がある。シミュレーションの結果によると、4%のインフレ率が目標にされるだけでなく、日本銀行が産出量の安定化――GDPギャップの縮小――に積極的に取り組んでいたとしたら、日本経済が「失われた10年」の間に喪失した産出量の規模を半分に抑えることができていた可能性があるのだ(図3を参照)。



【図3】4%のインフレ率が目標にされるだけでなく、産出量の安定化に重きが置かれていたら:実際(実線)と反実仮想(点線)


1990年代の日本経済の経験から得られる教訓

新たに「失われた10年」に陥らないようにするために、金融政策にどんなことができるだろうか? 日本と経済構造が似ていて、襲われるショックの種類も似ているようなら、以下の2つの政策変更が求められることになるだろう。

  • 名目金利を引き下げられる余地をできるだけ確保するために、インフレ率の目標値を引き上げるべし。

私の研究では、インフレ率の目標値が4%に引き上げられるケースに焦点が当てられている。4%というのは、先進国で受け入れられている今の規範(norm)と比べると、ずいぶんと高い。しかしながら、大きな混乱を招くほどの高さではない。ここで、あえて指摘しておきたい史実がある。1980年代前半にFRB議長を務めた「タカ派」のポール・ヴォルカー(Paul Volcker)が、インフレ率が「4%」近辺で安定したのを見て「勝利を宣言した」のだ(Tobin 2002)。

  • 産出量の安定化――GDPギャップの縮小――に積極的になるべし。

中央銀行の責務の範囲を広げて、中央銀行がインフレ率の安定化――インフレ目標の達成――だけでなく、産出量の安定化――GDPギャップの縮小――にも積極的に取り組むようになれば、新たに「失われた10年」に陥らずに済む助けになるだろう。

10年に及ぶ穏やかなデフレーションを経験した日本だが、デフレ圧力が高まらないようにするというのが次なる課題である。これまで以上に難儀な課題になりそうだ。


<参考文献>


●Blanchard, Olivier, Giovanni Dell’Ariccia, and Paolo Mauro (2010), “Rethinking Macro Policy”〔拙訳はこちら〕, VoxEU.org, 16 February.
●Eggertsson, Gauti (2006), “The Deflation Bias and Committing to Being Irresponsible”, Journal of Money, Credit and Banking, 38(2), pp. 283-321, March.
●Eggertsson, Gauti (2008), “Great Expectations and the End of the Depression”, American Economic Review, 2008: 90(4).
●Kahn, George A., 1996, “Achieving Price Stability: a Summary of the Bank's 1996 Symposium(pdf)”, Economic Review, Fourth Quarter 1996, Federal Reserve Bank of Kansas City.
●Leigh, Daniel, 2009, “Monetary Policy and the Lost Decade: Lessons from Japan”, IMF Working Paper 09/232.
●Rudebusch, Glenn D (2009), “The Fed's Monetary Policy Response to the Current Crisis”, Federal Reserve Bank of San Francisco Economic Letter Number 2009-17.
●Tobin, James (2002), “Monetary policy”, in: Henderson, D R (ed.), The Concise Encyclopedia of Economics, Liberty Fund Inc., Indianapolis.
●Wynne, Mark A and Diego Rodriguez-Palenzuela (2002), “Measurement bias in the HICP: What do we know, and what do we need to know?(pdf)”, European Central Bank Working Paper Series, 131.

Olivier Blanchard&Giovanni Dell'Ariccia&Paolo Mauro 「マクロ経済政策を再考する」(2010年2月16日)

Olivier Blanchard&Giovanni Dell'Ariccia&Paolo Mauro, “Rethinking macro policy”(VOX, February 16, 2010)

このたびの世界金融危機は、マクロ経済政策のあるべき姿に関するこれまでのコンセンサスに沿わないかたちでの対応を各国の政策当局者に強いることになった。本稿では、(i) マクロ経済政策のあるべき姿に関するこれまでのコンセンサスの主要な要素を展望し、(ii) これまでのコンセンサスのうちでどれが誤りであったかを特定し、(iii) 今後のマクロ経済政策の新たな枠組みの輪郭を描き出す。

「大平穏期」(Great Moderation)(Gali and Gambetti 2009) と呼ばれるマクロ経済の安定期の到来は、マクロ経済政策のノウハウを知悉するに至ったとの信念をマクロ経済学者や政策当局者の間に植え付けることになった。しかしながら、このたび世界経済を襲った経済危機は、そのような信念の妥当性に疑問を投げかけている。我々は、つい最近公にしたばかりのIMFスタッフレポートで(Blanchard, Dell’Ariccia and Mauro 2010,;詳しい参考文献については、このレポートを参照されたい)、マクロ経済政策のあるべき姿に関するこれまでのコンセンサスの主要な要素を展望している。それに加えて、これまでのコンセンサスのうちでどれが誤っていて、どれが依然として(危機を経てもなお)通用するかを特定しようと試みている。さらには、今後のマクロ経済政策の新たな枠組みの輪郭も描き出している。


(i) これまでのコンセンサス(What we thought we knew)

マクロ経済政策のあるべき姿に関するこれまでのコンセンサスをいくらか誇張して要約すると、以下のようになる。

金融政策は、単一の手段――政策金利――を頼りにして、単一の目標――低率で安定したインフレーション――の達成を目指すべきである。インフレ率が安定しているようなら産出ギャップも小幅で安定しているはずだから、インフレ率が安定している限りは、金融政策はやるべき仕事を果たしていると言える。財政政策は、あくまで二次的な役割を果たすに過ぎない。というのも、財政政策は、政治的な制約によってその有効性に限りがあるからである。金融規制? 金融規制は、マクロ経済政策の枠組みの範囲外の問題だ。

上で簡潔に要約したコンセンサスは、どちらかというと、学者の間で広く深く共有されていたろう。政策当局者は、学者と比べると、もう少しプラグマティックだった。とは言え、これまでのコンセンサスが現実の政策や制度を形作る上で重要な役割を果たしたことは確かである。

単一の目標:低率で安定したインフレーション

これまでのコンセンサスでは、低率で安定したインフレ率の達成が中央銀行に課せられるべき第一義的な――排他的な、とまではいかなくても――法的責務と見なされていた。その理由は、中央銀行がインフレファイターとしての評判を確立する必要があったことに加えて、ニューケインジアンモデルによる知的な面からのサポートが与えられたからである。標準的なニューケインジアンモデルによると、インフレ率がある一定の水準で安定すると、それと同時に産出ギャップも解消される(産出ギャップがゼロになる)ことになる――いわゆる「神聖なる一致」(“divine coincidence”)――。経済に存在する様々な不完全性を考慮すると、インフレ率がある一定の水準で安定するようなら、考え得る限りで最善の結果が得られることになる。つまりは、中央銀行が実体経済の動向を気にかけているとしても、インフレ率をある一定の水準に安定させることが中央銀行にできる最大の貢献ということになる。「ある一定の水準」というのはどのくらいかというと、できるだけ低い水準であるべきだという点でコンセンサスが得られていた(大半の中央銀行は、2%のインフレ率を目標にしている)。

単一の手段:政策金利

これまでのコンセンサスでは、金融政策の手段として一つの手段にだけ注目が寄せられていた。政策金利がそれである。これまでのコンセンサスでは、金融政策は、現在の短期金利と将来の期待短期金利に影響を及ぼすことができればそれでよいと見なされていた。現在の短期金利と将来の期待短期金利に影響を及ぼすことができたら、その他の諸々の金利(満期がより長めの金利など)や価格にも影響を及ぼすことができると考えられていたのである。金融仲介の詳細については、大して重要ではないと軽んじられる傾向にあった。ただし、例外として、金融政策の波及経路としての「クレジット・チャネル」(“credit channel”)との絡みで、商業銀行(commercial bank)に対しては注意が向けられた。さらには、銀行取り付けの可能性を考慮して、預金保険制度や中央銀行の「最後の貸し手」機能が正当化された。そして、預金保険制度等の導入に伴って生じる(商業銀行が直面する)インセンティブの歪みに対処するために、銀行の規制や監督が擁護された。しかしながら、マクロ経済との絡みで、金融システムのその他の面に対して注意が向けられることはほとんどなかった。

財政政策の限定的な役割

1950年代および1960年代のケインジアンの栄光時代、1970年代の高インフレの時代を経て、その後の20~30年間にわたり、財政政策には二次的な役割しか与えられなかった。その理由はいくつかある。「リカードの等価定理」を根拠にして、財政政策の効果に疑いの目が向けられるようになったというのが一つ。財政政策が立案・実施されるまでには時間がかかる――財政政策は、機動性を欠いている――ことが認識されるようになったというのが一つ。財政政策の中身が政治的な利害関係によって左右される可能性が認識されるようになったというのが一つ。政府債務が累積していることも理由の一つに挙げることができるだろう。政府債務残高がこれ以上増えないようにするか減らすかする必要があると認識されるようになったのである。ただし、「財政の持続可能性」を脅かさない範囲でではあったが、財政の自動安定化装置(automatic stabilizers)に関してはその役割が認められていた。

金融規制:Not マクロ経済政策

これまでのコンセンサスでは、金融規制や金融監督がマクロ経済に及ぼす影響は等閑視されていた。個別の金融機関や個別の市場に及ぼす影響にだけ目が向けられていたのである。具体的に言うと、金融規制の目的は、個別の金融機関の健全性を維持して、非対称情報や(株式会社形態に伴う)有限責任に起因する「市場の失敗」を是正することにあったのである。金融自由化に対する熱狂が続いている中では、金融規制を景気の安定化のためにも用いようとする発想は、信用市場の円滑な機能を阻害しかねないとして、不適切な発想と見なされたのだった。

大平穏期(The Great Moderation)

実質GDPおよびインフレ率の変動幅が縮小するのに伴って――「大平穏期」が到来するのに伴って――、首尾一貫したマクロ経済政策の枠組みが遂に完成したのだとの強い確信が生まれることになった。さらには、1987年の株式市場の暴落、LTCMの破綻、ITバブルの崩壊等々を難なく切り抜けたことで、金融政策はバブルの崩壊にも首尾よく対処できるのだとの見方が強まることにもなった。かくして、2000年代の中頃までには、巧みなマクロ経済政策のおかげでマクロ経済のさらなる安定を実現することは可能だし、実際にも実現してきたと考えることは不合理でもなんでもなくなっていた。そんな中、今回の危機がやってきたのである。


(ii) 危機の教訓(What we have learned from the crisis)

今回の危機から我々が学んだことを列挙すると、以下のようになる。

  • インフレ率が安定していても、マクロ経済面で脆弱性が積み上がることがある
危機が勃発する直前まで、コアインフレ率は大半の先進国で安定していた。コアインフレ率はインフレを測る正確な指標ではなく、石油価格や不動産価格の変動も考慮に入れるべきだと訴える声も当時からちらほらと上がってはいた。しかしながら、インフレをどのようにして測るのであれ、単一の指標にすべてを託すわけにはいかないだろう。さらには、コアインフレ率が安定していても、産出ギャップが変動するという可能性もある。インフレ率の「変動」と産出ギャップの「変動」との間にはトレードオフが存在するかもしれないのだ。また、危機が勃発するまでの2000年代においてもそうだったが、インフレ率も産出ギャップもともに安定しているのに、いくつかの資産価格だったり信用総量〔訳注;credit aggregates;金融機関による貸出残高、あるいは、その(フローで測った)変化〕だったり産出量の構成〔訳注;composition of output;産業レベルでの産出量の変動〕だったりに望ましくない変化が生じている可能性もある。

  • 低インフレは、デフレ不況に立ち向かう上で金融政策にできることを狭めることになる
2008年に入って危機が本格化し、総需要が大きく落ち込むと、大半の中央銀行は、政策金利を即座にゼロ%近くにまで引き下げた。もしも可能であったら、世の中央銀行は、さらなる利下げに訴えて、政策金利をゼロ%以下(マイナスの水準)にまで引き下げていたことだろう。しかしながら、名目金利に対するゼロ下限制約がそうすることを阻んだのだった。危機が勃発するまでの時期にインフレ率がもう少し高かったら(それに伴って、政策金利がもう少し高い水準に留まっていたら)、利下げの余地(名目金利および実質金利を引き下げる余地)も広がっていたことだろう。

  • 金融仲介は、マクロ経済面でも重要な役割を演じる
金融市場は、取引される金融商品ごとに細かく分断されていて、市場ごとにそこでの取引に特化した投資家がいる。分断されている市場は、投資家による裁定行為を通じて、大抵の場合は互いに密接に結び付けられている。しかしながら、何らかの理由によって(金融取引以外の面で損失を被ったり、必要な資金を調達できない等の理由で)投資家が一斉に資金を引き揚げると、金融商品の価格に大きな影響が及ぶ可能性がある。それと同時に、投資家が裁定行為から手を引いてしまうために、各種の金利の結び付きが弱まることになる。そうなると、政策金利という単一の手段を操作しさえすれば、各種の金利や資産価格に影響を及ぼせるとは到底言えなくなる。異なる資産の価格に影響を及ぼそうとするなら、資産を担保に資金を貸し出したり、資産を直接買い切ったりして、中央銀行が各種の金融市場に介入する必要が出てくることになろう(そうすれば、政策金利を操作しなくても異なる資産の価格に影響を及ぼせるだろう)。分断された市場が投資家による裁定行為を通じて結び付けられなくなると、市場を通じた短期での資金調達(wholesale funding)と要求払い預金の区別がなくなり、銀行だけでなく投資家一般も流動性を追い求めることになるのである。

  • 財政政策は、景気を安定させるための重要な道具の一つである
今回の危機は、財政政策をマクロ経済政策の主要な一員として舞台の中央に呼び戻すことになった。その理由は、2つある。1つ目の理由は、金融緩和が限界に達したからである。2つ目の理由は、危機に突入したばかりの段階で既に不況が長期化しそうだと予測されていたからである。財政政策が実行に移されるまでには長い時間を要するとしても、これから続くであろう不況の長さを考えると、財政政策が効果を表すまでに十分に時間の余裕があったのである。長期化する不況という例外的な状況ゆえに積極的な財政出動が正当化されたわけだが、その裏返しとして、「通常の」景気循環の過程で裁量的な財政政策に訴えることに伴う欠点――特に、適切な財政政策を立案・決定・実行することに伴うラグ――が再度浮き彫りになった。また、今回の危機は、「財政面での余地」(“fiscal space” )を確保する重要性も明らかにしている。危機に突入した段階で膨大な政府債務残高を抱えていた国は、財政政策を使える余地が限られていたのである。

  • 金融規制は、マクロ経済に対して非中立的な影響を及ぼす
金融規制は、アメリカで生じた住宅価格の下落を世界全体を巻き込む経済危機へと増幅させる役割を果たした。民間の銀行は、規制の網を潜り抜けるようにして、プルーデンシャル規制の適用を避けてレバレッジを高めるために、オフバランス化に乗り出した。こうした規制間の裁定(Regulatory arbitrage)の結果として、いくつかの金融機関に他の金融機関が従っているのとは異なるルールの下で活動するのを許してしまうことになった。また、ひとたび危機が勃発するや、個別の金融機関の健全性を維持することを目的として設計されたルールが、金融システム全体の安定性を脅かす方向に作用することになった。資産の時価評価を求めるルールとあらかじめ定められた自己資本比率の達成を求めるルールが組み合わさって、金融機関による投げ売りとデレバレッジング(債務の圧縮)を誘発することになったのである。

「大平穏期」を再解釈する

マクロ経済政策の運営を背後で支える概念枠組みに大きな欠陥があったとするなら、マクロ経済面でこんなにも長きにわたってかくも良好なパフォーマンス――「大平穏期」――が続いたのはどうしてなのだろうか? その理由の一つとして考えられるのは、「大平穏期」に発生したショックのどれに対しても政策面でどう対応したらいいかがよく理解されていたからかもしれない。例えば、1970年代のサプライショックの経験から学んだ教訓――インフレ予想を安定させることの重要性――のおかげで、2000年代に再び生じた石油価格の高騰にどう対処したらいいかも熟知されていた。ところで、マクロ経済の安定化に成功した事実それ自体が今回の危機の種を播く結果になってしまった面もあるかもしれない。「大平穏期」は、多くの人々――政策当局者や規制当局者も含む――のリスク評価を歪ませて、マクロ経済リスクの過小評価やテールリスクの無視を招いた。その結果として、規制の緩和が後押しされもし、後になってどれだけ大きなリスクを抱えていたかが露呈するような投資上のポジションをとらせることにもなったのである。


(iii) マクロ経済政策の新たな枠組みの輪郭(Implications for policy design)

マクロ経済政策は、単一の目標ではなく、数多くの目標を追い求めるべきというのが今回の危機が露にしている悪いニュースである。その一方で、マクロ経済政策の手段は、数多くある――「風変わりな」(“exotic” )金融政策、財政政策、規制政策――というのが今回の危機が思い出させてくれている良いニュースである。どの手段をどの目標の達成に割り当てたらいいかという問いに答えが出るまでにはしばらく時間がかかるだろうし、かなりの研究が必要となるだろう。

マクロ経済政策の新たな枠組みの輪郭を描くにあたってまず何よりも先に指摘しておくべきなのは、産湯と一緒に赤子を流すべからず、ということだ。これまでのコンセンサスのうちの大半は、危機を経た後もなお依然として通用するのだ。その例をいくつか挙げると、産出ギャップとインフレ率を安定させることはマクロ経済政策が追い求める目標であり続けるべきだ。自然失業率仮説を少なくとも現実の大まかな近似として今後も受け入れるべきであり、それゆえ、インフレーションと失業率の間に長期的なトレードオフが成り立つなんて想定すべきではない。低率で安定したインフレーションは、今後も金融政策の主要な目標であり続けなければならない。財政の持続可能性を確保することは、長期的な観点からだけではなく、予想に及ぼす影響との絡みで短期的な観点からも重要となってくる。

以下に掲げるのは、マクロ経済政策の新たな枠組みの輪郭を描くにあたって、経済学者が精力を注いで取り組むべき重要な問いである。

インフレ率の目標値はどのくらいの水準に設定されるべきか?

今回の危機は、大規模なネガティブショックが現実に起き得ることを明らかにした。中央銀行は、今回のような大規模なネガティブショックに対応できる余地(政策金利の引き下げ余地)を確保するために、平時におけるインフレ率の目標値を今よりも高めに設定すべきだろうか? 4%のインフレ率に伴う(コストから便益を差し引いた)純コストは、2%のインフレ率――目下のところ、大半の中央銀行が目標にしているインフレ率――に伴う純コストよりも大きいだろうか? インフレ率の目標値を2%から4%に引き上げると、インフレ予想を安定させるのが難しくなるだろうか? 「中央銀行の独立性」を確保することを通じて低率のインフレを達成した事実は、歴史的な偉業であったと言える。それゆえ、先の一連の質問に安易に答えを出すわけにはいかない。先の一連の質問に答えるにあたっては、インフレの便益とコストを注意深く再検討する必要があろう。これまでの議論とも関連するが、インフレ率が極めて低いようなら、デフレに陥る可能性を最小化するために、金融緩和の行き過ぎも辞さないでいるべきかどうか――その対価として、総需要が予想以上に刺激されてインフレが加速するリスクがあるとしても――という問題もある。この問題は、2000年代初期にFOMC(米連邦公開市場委員会)のメンバーの頭の中を支配していた問題であり、その他の面々もいつの日か立ち戻らねばならない問題である。

金融政策と規制政策をどう組み合わせるべきか?

危機が勃発する前においても、政策金利を決定するルール(政策反応関数)――明白なルールであれ、暗黙的なルールであれ――の中に(インフレ率や産出ギャップの他に)資産価格も組み込むべきかどうか――資産価格の動向に応じて、政策金利を上げ下げすべきか――をめぐって議論がたたかわされていた。今回の危機をきっかけにして、政策金利を決定するルールの中に、資産価格の他にも、レバレッジ比率やシステミック・リスクを測る指標も組み込むべきではないかとの声が上がっている。しかしながら、そのような声は見当違いであるように思える。政策金利は、過剰なレバレッジなりリスクテイキングなりバブル(資産価格のファンダメンタルズからの乖離)なりに対処するには不向きなのだ。仮に不向きじゃないとしても(例えば、政策金利を引き上げたら、過剰なレバレッジを抑制できるとしても)、政策金利を引き上げるのと引き換えに産出ギャップが拡大してしまうことになるだろう。

政策当局者が手にしている道具箱の中に収まっているのは、政策金利だけじゃない。「循環的な規制ツール」とでも呼べる手段も収まっているのだ。「循環的な規制ツール」の使用法を例示すると、以下のようになろうか。

レバレッジが過剰なように見えたら、法定の自己資本比率を引き上げる。バランスシート上の流動性が低下しているように見えたら、法定の流動性比率を導入して、必要ならその比率を引き上げる。住宅価格の高騰を抑制したければ、借入金比率〔訳注;LTV比率=借入金額÷担保となる資産の価値〕を引き下げればいい。株価の高騰を抑制したければ、証拠金率を引き上げればいい。

こんな感じで金融政策と「循環的な規制ツール」が組み合わせて用いられるようになったら、金融規制やプルーデンシャル規制の枠組みをマクロ経済に及ぼすインパクトを踏まえた上で設計する必要が出てくることになろう。さらには、金融政策当局と金融規制当局の間でいかにして政策協調を実現したらいいかという別の問題も生じることになろう。金融政策と金融規制・金融監督業務を分離するというのがこれまでのトレンドだが、そのトレンドが反転させられて、単一の機関が金融政策も金融規制(その中でも、マクロプルーデンス規制)もどちらも担うことになるかもしれない。マクロプルーデンス規制を担う機関としては、中央銀行が第1の候補ということになろう。

中央銀行による流動性の供給を平時においても認めるべきか?

今回の危機は、中央銀行の伝統的な役割の一つである「最後の貸し手」機能の拡充――範囲と規模の両面における拡充――を招いた。中央銀行は、非預金取扱金融機関に対しても潤沢に流動性を供給したし、広範囲に及ぶ資産市場に直接的――資産の買い切りというかたちで――ないしは間接的に――資産を担保として引き受けるのと引き替えに、資金を貸し出すというかたちで――介入した。中央銀行は、このようなかたちでの流動性の供給を(危機時における例外的な措置というにとどまらず)平時にも行うべきだとの提案は、説得力があるように思える。市場で流動性が不足している原因が、豊富な資金を持つ投資家が特定の市場から手を引いたせいであったり、(伝統的な銀行取り付けのケースのように)小口投資家の間で「協調の失敗」が生じているせいであったりするようなら、そこに介入できるのは権威ある公的な存在をおいて他にないだろう。

平時において「財政面での余地」を確保するにはどうしたらいいか?

今回の危機から得られる重要な教訓の一つは、必要に迫られた時に大規模な財政出動に打って出られるように「財政面での余地」をあらかじめ確保しておくことの望ましさである。高齢化が突きつけるいくつもの挑戦(例えば、年金問題や医療問題)に抗いつつ、政府債務残高を削減せねばならないとすれば、景気回復がしっかりと定着した後の話になるとは言え、「財政面での余地」を確保するのはそう簡単じゃないだろう。しかしながら、政府債務残高の水準は、危機が勃発する前までに積み上がっていた水準よりも低く抑えるべきというのが今回の危機が伝える教訓なのだ。今回の危機がこれから10年、20年先の財政運営のあり方について投げかけている指針をまとめると、以下のようになろう。

経済情勢が許すようなら、「財政面での余地」を確保するために果断な措置に打って出ることが必要である。経済成長が急速に進んで税収が大いに伸びるようなら、歳入面で生まれた余裕を、政府支出を賄ったり減税のために使うのではなく、政府債務残高の対GDP比を縮小するためにこそ使うべきである。

好景気に乗じて財政の好転を狙うというのは目新しくも何ともない手だが、その重要性は今回の危機をきっかけとして一層高まっている。中期的な財政健全化計画を練ったり、政府債務残高の対GDP比の削減に向けた信頼のおけるコミットメントを設けたり、(不況期における例外規定を盛り込んだ)財政規則を作成したり、財政データの透明性を高めたりすれば、「財政面での余地」を確保する助けになるだろう。

財政の自動安定化装置の機能を高めるにはどうしたらいいか?

裁量的な財政政策は、実行に移されるまでに長い時間を要することもあって、通常の不況時に使うには向いてない。そこで、財政の自動安定化装置に期待が寄せられることになるわけだが、財政の自動安定化装置の機能を高める(改善する)ことは可能だろうか? この問いに取り組むにあたって、自動安定化装置を、真正の自動安定化装置(以下、自動安定化装置<パート1>と呼ぶことにする)――所得の上昇(あるいは、景気の拡大)に伴って、移転支出が自動的に減る一方で、税収が自動的に増えるような財政上の仕組み――と、ルール型の自動安定化装置 (以下、自動安定化装置<パート2>と呼ぶことにする)――あらかじめルールを作成しておいて、そのルールで想定されている状況になったらルールの規定通りに移転支出や税金を変動させる――の二つのタイプに区別するとしよう。

自動安定化装置<パート1>は、①硬直的な歳出体系〔訳注;歳出の規模が名目GDPの値から独立して決められる〕と税収の弾性値がおよそ1〔訳注;名目GDPが1%増加すると、税収がおよそ1%増加する〕の税体系の組み合わせを通じてか、②失業保険等の社会保険制度を通じてか、③累進構造を持つ所得税体系を通じてかして、その機能を発揮する。政府の規模が大きくなったり、所得税の累進度が強化されたり、社会保障制度が拡充されたりすると、自動安定化装置<パート1>がマクロ経済に及ぼす効果は高まることになる。しかしながら、政府の規模を大きくするのであれ、所得税の累進度を強化するのであれ、社会保障制度を拡充するのであれ、結果的に自動安定化装置<パート1>の機能が高まるからよしとするのではなく、公平性や効率性といった観点からもその是非が判断されねばならないだろう。

どちらかというと、自動安定化装置<パート2>の方が見込みがありそうである。自動安定化装置<パート2>の税サイドの仕組みとしては、低所得層を対象にした時限的な減税――一律の給付付き税額控除、税負担額の何%かを減額――だったり、企業を対象にした景気連動型の投資税額控除なんかを考えることができる。自動安定化装置<パート2>の支出サイドの仕組みとしては、低所得層あるいは流動性制約下に置かれている(借り入れが困難な)家計を対象にした時限的な移転支出を考えることができる。時限的な税制措置や時限的な移転支出は、何らかのマクロ経済指標〔訳注;名目GDP成長率や失業率など〕があらかじめ定められた閾値(threshold)をまたぐと発動されることになる〔訳注;例えば、名目GDP成長率が2%を下回ると(あるいは、失業率が4%を超えると)、あらかじめ定められたルールの規定に従って時限措置が実行に移される〕。


<参考文献>

●Blanchard, Olivier, Giovanni Dell’Ariccia and Paolo Mauro (2010). “Rethinking Macroeconomic Policy”, IMF Staff Position Note, SPN/10/03, February 12.
●Gali, Jordi and Luca Gambetti (2009). “On the Sources of the Great Moderation(pdf)", American Economic Journal: Macroeconomics, 1(1): 26–57.


<訳者による補足>

本論説は、参考文献にも挙がっている Olivier Blanchard, Giovanni Dell’Ariccia and Paolo Mauro (2010), “Rethinking Macroeconomic Policy(pdf)”(IMF Staff Position Note, SPN/10/03, February 12)の簡略版。邦訳は以下。

●soulcageさん&night_in_tunisiaさん(共訳), “マクロ経済政策再考リフレーションに関連する海外記事および論文集