2012年6月29日の金曜日に、政治学者であるヴィンセント・オストローム(Vincent Ostrom)が亡くなった。享年92歳。オストロームは、アメリカ憲法に体現されている連邦主義の構造とその特徴についてのその道の指導的な専門家の一人だった。1919年生まれで、1950年にUCLAで政治学の博士号を取得。1964年にインディアナ大学に移って、妻であるエリノア・オストローム(Elinor Ostrom)――2009年のノーベル経済学賞の受賞者で、夫が亡くなるおよそ3週間前に78歳で亡くなった――と共同で「政治理論と政策分析に関するワークショップ」を立ち上げている。
アメリカ憲法の秩序が解剖されている『The Political Theory of a Compound Republic』(1971年発行。第2版は1987年に発行)は、学術的な釈義として並外れた傑作である。 「フェデラリスト・ペーパー」の念入りな注釈を通じて、「自己統治」(“self-governing”)という概念の理解とそのユニークな特徴の解釈が試みられている。このテーマについては、『The Meaning of American Federalism:Constituting a Self-Governing Society』(1991年発行)に収録されたエッセイでさらなる検討が加えられて、様々な方向に拡張されている。
自由な民主主義社会は、選挙、立法手続き、成文憲法さえ揃っていれば何の問題もなく存立できるかというと、そうではない。オストロームが好んで引用したアレクシス・ド・トクヴィル(Alexis de Tocqueville)の表現を借りると、「心の習慣」(“habits of the heart”)や「精神の特徴」(“character of the mind”)によって支えられねばならないのだ。つまりは、社会の成員によって「共有された意味の構造」(“structures of shared meaning”)の広大なネットワークに支えられねばならないのだ。社会の秩序のあり方は、社会を構成する個々の成員が自分自身や他者をどう捉えるかに依存しているのだ。自己統治に立脚する社会秩序を打ち立てるためには、人間の価値の意味が社会の成員によって共有され、一人ひとりの尊厳が社会の成員によって認められねばならないのだ。一人ひとりが持つ夢、願望、望みが尊重されて、一人ひとりの価値観の違いが受け入れられねばならないのだ。
とりわけ重要なのは、暴力、抑圧、操作、欺瞞、腐敗――日常生活や政治的な討論の場で使われる言語の腐敗(転化)も含まれる――に頼らなくても、共同の目的のために平穏にみんなで力を合わせて協力する術を見つけ出すことは可能だし望ましくもあるということが社会の成員によって共有されねばならないことである。そのような「理念(信念)」が社会の成員によって共有されねばならないのだ――オストロームが強調しているように、信じ込まれるだけでなく、日常的に使われる言語の中に埋め込まれなければならない。言語の中に埋め込まれてこそ、社会の成員が自分自身や他者をどう捉えるかに影響が及ぶからである――。
オストロームが強調しているように、自己統治や「民主主義の精神」は、政治の世界だけに関わりがあるわけではない。いわゆる民主政治は、あくまでも全体の一部でしかないのだ。民主政治の性格やその良し悪しは、自由な個人が自発的に交じり合う自由な社会という理念――あるいは、協働的な自己統治という理念――が世の中にどれだけ広く深く行き渡っているかによって変わってくるのだ。
自己統治に立脚する社会秩序が抱える脆弱性の一つは、次の世代に受け継げるような「自己統治の遺伝子」なるものが存在しないことである。新たな世代ごとに学んで適応していかなければいけないのだ。自己統治に立脚する社会秩序を支えるために必要な「心の習慣」や「精神の特徴」が世代ごとに学び直されて更新されないようなら、弱体化してしまう可能性があるのだ。失われてしまう可能性があるのだ。
エドワード・シルズ(Edward Shils)が『Tradition』(1981年発行)で指摘しているように、社会の伝統なり慣習なりが保存され得るのは、三世代――子供と親と祖父母――が重なり合う場合だけに限られる。経験と内省を通じてのみ得られる知恵、洞察、理解、信念が若い世代に受け継がれるのは、三世代が重なり合う場合だけに限られるというのだ。
伝統にしても慣習にしても永遠に「不変」というわけではない。世代ごとに変化するし、修正されていく。しかしながら、「心の習慣」や「精神の特徴」が世代を超えて共有されていく中でそうなるのだ。
オストロームが懸念していたのは、自己統治に立脚する社会秩序を支える「心の習慣」や「精神の特徴」が失われつつあるのではないかということだった。その理由は、政府による介入が増えて福祉国家の規模が大きくなるにつれて、パターナリズムや社会工学を支持するメンタリティが世の中に広まったせいだ。
「自由の言語」が失われつつあるのだ。自由な個人による自己統治を支える言語が失われつつあるのだ。我々は、言語を通じて自分自身について考えるのだ。言語を通じて他者との関係について考えるのだ。言語を通じて社会のあり方について考えるのだ。
ナチスの時代を生き延びたユダヤ系ドイツ人であるヴィクトール・クレムペラー(Victor Klemperer)が戦後に一冊の本を執筆している。『The Language of the Third Reich』(邦訳『第三帝国の言語:ある言語学者のノート』)がそれである。クレムペラーによると、国家社会主義者と自任していたかどうかにかかわらず、ナチス・ドイツにおいては誰も彼もがナチスだったという。ユダヤ系ドイツ人をはじめとして、体制から虐げられた犠牲者の多くも含めて。
なぜなのか? ナチスの指導者たちが流布したアイデアやイデオロギーに感染したからである。思考が囚われてしまって、人生やモラルについて違った考えをするのに困難を感じたのである。人間、「人種」、社会についてのナチス流の考えを反映している言語やフレーズから独立した考えを持てずにいたのである。クレムペラーも示唆しているように、自分で自分を統治できる存在ではなくなっていたのだ。ヒトラー流の国家社会主義の言葉遣いやロジックで考えて行動しているうちに、体制の奴隷と化していたのだ。
オストロームが手遅れになってしまわないうちに警告しようとしていたことは、「他者による統治」に陥ってしまうなかれということだった。ところが、今やあまりにも多くの市民がそうなってしまいつつある。「給付」(“entitlement”)、「不労所得」(“unearned income”)、「社会正義」(“social justice”)とかいう類の言葉が氾濫していて、それらに思考が囚われつつあるのだ。
集産主義的なパターナリズムに屈するのか、それとも「自由の言語」や「自由の理念」が守り抜かれるのかによって、アメリカを舞台とする「自己統治」をめぐる偉大な実験――1830年代にアメリカを訪れたトクヴィルに強い印象を与えた実験――が今後も続行されるかどうかが決まるのだ。
ヴィンセント・オストロームの研究は、アメリカを舞台とする「自己統治」をめぐる実験の性質やそのロジックを説明しているだけにとどまらない。政治権力の分割と連邦制を通じて自由を確保しようとするアメリカの実験が人類の歴史に占めるユニークさを知らしめてもいる。その実験が途中で放棄されてしまったら、その損失たるやいかばかりか。
ヴィンセント・オストロームは、「自由」を支える政治制度と理念に対する優れた分析を通じて、「自由の哲学」を深化させる知的遺産を後世に伝えているのだ。
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<訳者による追記>
ヴィンセント・オストロームの思想の全体像を知るには、R. ワグナーの以下の論文が参考になるかもしれない。
● Richard E. Wagner (2005), “Self-governance, polycentrism, and federalism: recurring themes in Vincent Ostrom's scholarly oeuvre”(Journal of Economic Behavior & Organization, Vol. 57 (2), pp. 173-188;こちら(pdf)で閲覧できたり・・・)
ヴィンセント・オストロームの研究は、アメリカを舞台とする「自己統治」をめぐる実験の性質やそのロジックを説明しているだけにとどまらない。政治権力の分割と連邦制を通じて自由を確保しようとするアメリカの実験が人類の歴史に占めるユニークさを知らしめてもいる。その実験が途中で放棄されてしまったら、その損失たるやいかばかりか。
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<訳者による追記>
ヴィンセント・オストロームの思想の全体像を知るには、R. ワグナーの以下の論文が参考になるかもしれない。
● Richard E. Wagner (2005), “Self-governance, polycentrism, and federalism: recurring themes in Vincent Ostrom's scholarly oeuvre”(Journal of Economic Behavior & Organization, Vol. 57 (2), pp. 173-188;こちら(pdf)で閲覧できたり・・・)
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