2012年7月19日木曜日

Mark Pennington 「『左派』と公共選択論」(2012年1月30日)

Mark Pennington, “‘The Left’ and Public Choice Theory”(Pileus, January 30, 2012)


「公共選択論」のことを「左派」に話すと、色んな反応が返ってくるだろう。

まずは、「無知」だ。公共選択論という学問の存在自体を知らないわけだ。私が学者に成り立ての時のことだが、講義で1時間にわたって「規制の虜」理論――規制当局が規制対象である企業の言いなりになってしまう現象――について説明したら、社会主義労働者党と関わりを持っていた学生から講義終了後に次のように尋ねられたことがある。「先生はいつマルクス主義者になられたのでしょうか?」。ラディカルな「反マルキスト」を自任している身としては、正直言って面食らってしまったものだ。この学生の反応は、アカデミズムの世界に蔓延っている態度の一つを例証している。すなわち、企業が権力を振るって儲けているのに関心を持つような人間は、左派ないしは社会主義にシンパシーを抱いているに違いないと当然視する態度である。世の中の「権力関係」に古典的自由主義(classical liberal)あるいは自由市場を支持する立場から切り込んで分析を加える――公共選択論もそのうちの一つ――のも可能だとは思いも寄らないらしいのだ。 

「忌避」という反応もある。公共選択論の分野でどんなことが言われているかはそれとなく知っているが、公共選択論を脅威に感じて「忌避」するわけだ。どうして脅威に感じるかというと、公共選択論の方がネオマルクス主義よりも世の中の「権力関係」についてうまく説明できるからというのが理由の一つなんじゃないかと思う。公共選択論は、権力の配分についてのナイーブな多元主義的な見解を退ける。どの集団も同等の権力を持っているとは見なさないのだ。「資本家」(ブルジョア)と「賃金労働者」(プロレタリアート)という「階級」間で権力闘争が行われるとは想定せずに、一人ひとりの個人が直面しているインセンティブが集団として結束する能力だったり集団としての権力の大きさだったりにどんな影響を及ぼすかに注目する。企業が大きな権力を持ち得るのは確かだが、その理由は「企業だから」というわけでもなければ、「資本主義社会だから」というわけでもない。少数の大企業が市場を支配しているような部門であればという条件がつくが、「納税者」だとか「消費者」だとかという他の集団に比べて、「集合行為問題」ないしは「ただ乗り問題」を克服しやすいからなのだ。その一方で、競合他社の数が多くて市場での競争が激しい部門では、なかなかそうはいかない。むしろ、「労働組合」だとか「官僚」だとかの方が政治的に大きな影響力を持つ場合さえある。公共選択論では、企業(あるいは資本家)だとか労働者だとかを一緒くたに扱わない。政治的に大きな影響力を持つ企業もあればそうじゃない企業もあるし、政治的に大きな影響力を持つ労働者もいればそうじゃない労働者もいると見なす。集団の成員一人ひとりが直面しているインセンティブや組織編制の問題が成否を分けると見なすのだ。現実の世界では、多様な特殊利益が政策に反映されている。「階級支配」という単純な理論よりも公共選択論の方がそのような現実をうまく説明できるのだ。

左派の多くが公共選択論を脅威に感じて「忌避」するのは、特殊利益の力を削ぐにはどうしたらいいかという問題も関わっているんじゃないかと思う。政府が市場に介入しようとすると企業の言いなりになってしまうことが多いとすると――左派の多くはそう考えているようだが――、政府に裁量権をもっと与えるという「解決策」は特殊利益の力を削ぐのに役立ちそうにない。市場への介入が増えることになるわけだから。「私有財産を廃止して、何らかの公共団体に意思決定権を集中させるしかない」というのがマルキストが代わりに提示する「解決策」だろうが、説得的とは思えない。公共選択論の立場からすると、政府の手を縛るのが一番の特効薬ということになろう。現代の社会民主主義的な政府が市場に介入して、競争を制限しようとするのが元凶なのだから。この「解決策」が求めているのは、格差が一切ない夢のような平等な世界の実現ではない。「小さな政府」の実現である。優れた成果や創意工夫ゆえに格差が生じるのは歓迎する一方で、政治的なコネを持っているがゆえに生じる格差を最小限に抑えるような枠組みの実現なのだ。

最後に、「否定」という反応もある。政治というのは、企業/労働組合/官僚がそれぞれ政府に働きかけて公益を犠牲にして私腹を肥やそうとするゲームのようなものだと聞かされると、政治というのはそういうものじゃないと「否定」するわけだ。政治を突き動かしているのは、「利害」ではなく「価値」(あるいは、観念や理念)なのであり、お前ら(公共選択論が専門の経済学者たち)はそのことを見過ごしている、と言い返すわけである。私としては、大いにシンパシーを感じる反論だ。世の中で実施されているどの公共政策にしても、背後に特殊利益が控えていると言い募る――「右派のマルキスト」の一派はそうだと主張するかもしれないが――のは、あまりにも単純過ぎるように思えるからだ。しかしながら、そのように「否定」する代償として、左派は一つの問題を抱え込むことになる。同調者を獲得するための戦術としてしばしば使ってきた陰謀論めいた言い分の多くに頼れなくなるのだ。中央銀行が金融政策を緩和したのはなぜなのか? 金融規制当局が貸付基準を緩和したのはなぜなのか? 民間の金融機関の言いなりになってそうしたのだろうか? それとも、「正しい」と考えてそうしたのだろうか? 政治が「価値」や「観念」によって突き動かされるのだとしたら、「トップ1%」(所得上位1%)の不正行為ではなく、「誤った理論」に目を向けねばならないだろう。(ケインズ主義やマネタリズムのような)「誤った理論」が「政府の失敗」を引き起こしている原因なのかもしれないからだ。

公共選択論は、「左派」にいくつかの難問を突き付けている。政治を突き動かしているのは「利害」なのだとしよう。そうだとすると、多様な特殊利益が政策に反映されている現実をうまく説明できるのは公共選択論の方だし、特殊利益がもたらす弊害を和らげるための説得的な解決策を提示できるのも公共選択論の方だ。その一方で、政治においては「利害」よりも「観念」の方が重要なのだとしよう。そうだとすると、左派が同調者を獲得するための戦術として重宝してきた手の一つが使えなくなる。「敵」と「味方」に分けて、何もかもを「敵」のせいすることができなくなるのだ。

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