2012年7月6日金曜日

Renee Haltom 「流動性の罠」

Renee Haltom, “Jargon Alert-Liquidity Trap(pdf)”(Region FocusFirst Quarter 2012), FRB of Richmond)


短期的な経済成長を刺激する上で中央銀行が無力となる状況は存在するだろうか? 幾人かの経済学者は、「今こそがまさにそのような状況である。経済は「流動性の罠」(“liquidity trap”)に嵌っているのだ。」、と主張している。

1930年代にジョン・メイナード・ケインズがはじめて「流動性の罠」という概念を導入して以来、それを支える理論に変化が生じたために、「流動性の罠」の定義には幾分かの曖昧さが生じることになった。最も広い意味では、金利がゼロ%にまで引き下げられたために金融政策が経済を刺激することができなくなってしまった-「罠」に嵌ってしまった-状況を指して「流動性の罠」と定義づけられている。2008年12月以降、金利はゼロ%ないしはゼロ%近辺にとどまっている状況である。

「流動性の罠」のもう少し正確な定義は、「流動性の罠」=「人々が他の資産よりも現金(cash)に対して飽くなき(無限の)需要-「流動性」に対する飽くなき需要-を抱いている状況」というものである。人々が現金に対して飽くなき需要を抱いているような状況においては、中央銀行がマネーサプライを増やしても消費や投資は増加せず、経済が刺激されることはないだろう。なぜなら、中央銀行がマネーサプライを増やしても、人々は新たに手にした現金をそのまま保蔵してしまうからである。しばしば、財政刺激策のようなその他の政策を正当化するために、「「流動性の罠」の下では金融政策は無力である」と語られることがあるが、現実の経済には同時に様々な(時に対立する)影響が生じている点を勘案すると、Fedによる金融緩和の努力が経済に何の影響も及ぼさないかどうかをリアルタイムで(金融緩和に臨んでいる最中に)判断することは困難であると言えよう。実のところ、Fedによる金融緩和が経済に対して何の影響も及ぼさないかどうかは事後的に(実際に金融緩和を実施してみた後に)のみ知り得る問題なのである。「流動性の罠」を指して「人々が他の資産よりも現金に対して飽くなき需要を抱いている状況」と定義づけるとしても、そのような定義はリアルタイムの政策決定に対してはそれほど洞察を与えるものではないのかもしれないのである。

ところで、多くの経済学者は「流動性の罠は決して起こり得ない」と主張している。研究によれば、金利がゼロ%に達した状況においても中央銀行は決して無力ではないことが示唆されているのである。例えば、Fedの量的緩和は銀行部門に大量の流動性を供給することを通じて貸付金利の低下を促すことになったし、さらには、Fedが2011年の8月以来試みてきているように、金利を今後もしばらくの間極めて低い水準に据え置く旨を宣言することを通じて金融政策が将来的にも景気刺激的なスタンスにとどまる期待を生み出し、そうすることで貸付けの条件をさらに緩和することは可能なのである。こういった一連の政策のアナウンスに対して金融市場はポジティブな反応を見せたようだが、この事実は、マーケットの参加者たちはFedの政策が無力だとは信じていないことを示唆していると言えるだろう。

原則としては中央銀行が創造し得る貨幣の量には限界はない。というのも、極端な話、中央銀行は経済に存在する利子付きの資産をすべて購入し得るからである。おそらくは、中央銀行が利子付きの資産をすべて購入する以前の段階で、貨幣以外の資産の価格が上昇を始め、その結果として投資(実物投資)の魅力が増し、経済活動が上向くことになるだろう。

実のところ、「流動性の罠」を巡って議論する際に多くの経済学者の頭にあるのは、中央銀行が経済を刺激する「能力」(ability)に対する制約(限界)ではなく、中央銀行が経済を刺激しようとする「意思」(willingness)に対する制約であるように思われる。金融緩和に伴うコスト-その中でも最も顕著なものはインフレーションが上昇するリスク-が経済を刺激しようとする中央銀行の「意思」に対して制約を課しているのかもしれないのである。

Fedが名目金利のゼロ下限制約に直面して以降インフレーションは抑制され低水準で推移しているが、政策当局者は、さらなる金融緩和に乗り出して景気回復を促す場合と経済の自然治癒に任せる場合とでは後者(経済が自ずと回復するに任せる)の方がコストが小さい、と判断することがあるかもしれない。例えば、フィラデルフィア連銀総裁であるチャールズ・プロッサー(Charles Plosser)をはじめとした幾人かの経済学者は、「さらなる金融緩和策は金融市場に歪みを生み-特定の投資プロジェクトを他の投資プロジェクトと比べて人為的に安価にし-、将来的に資源配分を歪ませることになるかもしれない」、と主張している。

標準的な「流動性の罠」の概念が示唆するように中央銀行は無力である(中央銀行は経済を刺激する能力がない)、というよりは、中央銀行に経済を刺激する意思が欠けている-金融緩和のコストと便益との評価に基づいて(便益よりもコストの方が大きいと判断して;訳者挿入)経済をさらに刺激することを拒む-、と考えた方が(事実の描写として)妥当であるのかもしれない。しかしながら、政策当局者が「さらなる金融緩和は経済に対してネットで見て便益をもたらさない(コストの方が便益よりも大きい)だろう」と判断した(その結果としてさらなる金融緩和に乗り出すのを踏みとどまった;訳者挿入)場合、我々は「流動性の罠」のテクニカルな定義によって予測されるのと非常に似通った状況-中央銀行による力強い行動にもかかわらず、経済の低成長が持続する状況-を目にすることになる可能性があるのである。

「流動性の罠」に関する実際の証拠もまたそれほどはっきりとしたものではない。「流動性の罠」の実在を示す証拠としてよく挙げられる3つのエピソードがある。まず第1のエピソードは大恐慌(Great Depression)である。しかし、ミルトン・フリードマンとアンナ・シュワルツによる指摘、つまりは、1930年代の半ばにおいてFedは金融政策を緩和し続けていたわけではなかった、との指摘は有名である。準備預金に関する政策変更が金融システムに対してどのような影響を及ぼすかについて不完全にしか理解されておらず、そのためにFedは不注意にも(inadvertently)マネーサプライの縮小を許してしまい、結果として大恐慌を悪化させることになってしまったのであった。第2のエピソードは1990年代を通じて低成長を記録した日本の「失われた10年」である(2000年代の大半の時期もその中に含める経済学者もいる)。 しかしながら、多くの経済学者は、日本銀行の金融政策もまた(1930年代半ばのFedのように)「失われた10年」の間に幾度か引き締め的となり、経済成長を刺激する上で日本銀行にできることはすべて試みられたとは言い難い、と主張している。第3のエピソードは2008年~2009年の景気後退から現在にかけてである。経済を刺激するためにFedが前例のない試みに乗り出したにもかかわらず、結果的には力強い景気回復が見られなかったことを受けて、幾人かの経済学者は、「今や経済は「流動性の罠」に陥っているのだ」、と主張している。確かにこの間における経済成長は弱々しいものだったが、 これまでのところFedの多くの政策当局者は、「条件が許す限り、Fedの弾薬庫は空っぽではない(Fedの打つ手はなくなってはいない)-そして今後も決して打つ手がなくなることはないだろう-」、と主張してきている。

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