2012年7月30日月曜日

Richard Ebeling 「ヴィンセント・オストローム ~自由と連邦主義の擁護者~」(2012年7月1日)

Richard M. Ebeling, “Vincent Ostrom (1919-2012): Political Philosopher of Freedom and Federalism”(In Defense of Capitalism & Human Progress, July 1, 2012)


2012年6月29日の金曜日に、政治学者であるヴィンセント・オストローム(Vincent Ostrom)が亡くなった。享年92歳。オストロームは、アメリカ憲法に体現されている連邦主義の構造とその特徴についてのその道の指導的な専門家の一人だった。1919年生まれで、1950年にUCLAで政治学の博士号を取得。1964年にインディアナ大学に移って、妻であるエリノア・オストローム(Elinor Ostrom)――2009年のノーベル経済学賞の受賞者で、夫が亡くなるおよそ3週間前に78歳で亡くなった――と共同で「政治理論と政策分析に関するワークショップ」を立ち上げている。

アメリカ憲法の秩序が解剖されている『The Political Theory of a Compound Republic』(1971年発行。第2版は1987年に発行)は、学術的な釈義として並外れた傑作である。 「フェデラリスト・ペーパー」の念入りな注釈を通じて、「自己統治」(“self-governing”)という概念の理解とそのユニークな特徴の解釈が試みられている。このテーマについては、『The Meaning of American Federalism:Constituting a Self-Governing Society』(1991年発行)に収録されたエッセイでさらなる検討が加えられて、様々な方向に拡張されている。

彼の真の代表作は 『The Meaning of Democracy and the Vulnerability of Democracies:A Response to Tocqueville’s Challenge』(1997年発行)だというのが私の考えだ。政治哲学、経済学、社会学、歴史、社会言語学が見事に融合された学際的な業績である。この本によると、自由な社会が存続するためには、「需要と供給の彼方」(by ヴィルヘルム・レプケ)にまで踏み出す必要があるという。

自由な民主主義社会は、選挙、立法手続き、成文憲法さえ揃っていれば何の問題もなく存立できるかというと、そうではない。オストロームが好んで引用したアレクシス・ド・トクヴィル(Alexis de Tocqueville)の表現を借りると、「心の習慣」(“habits of the heart”)や「精神の特徴」(“character of the mind”)によって支えられねばならないのだ。つまりは、社会の成員によって「共有された意味の構造」(“structures of shared meaning”)の広大なネットワークに支えられねばならないのだ。社会の秩序のあり方は、社会を構成する個々の成員が自分自身や他者をどう捉えるかに依存しているのだ。自己統治に立脚する社会秩序を打ち立てるためには、人間の価値の意味が社会の成員によって共有され、一人ひとりの尊厳が社会の成員によって認められねばならないのだ。一人ひとりが持つ夢、願望、望みが尊重されて、一人ひとりの価値観の違いが受け入れられねばならないのだ。

とりわけ重要なのは、暴力、抑圧、操作、欺瞞、腐敗――日常生活や政治的な討論の場で使われる言語の腐敗(転化)も含まれる――に頼らなくても、共同の目的のために平穏にみんなで力を合わせて協力する術を見つけ出すことは可能だし望ましくもあるということが社会の成員によって共有されねばならないことである。そのような「理念(信念)」が社会の成員によって共有されねばならないのだ――オストロームが強調しているように、信じ込まれるだけでなく、日常的に使われる言語の中に埋め込まれなければならない。言語の中に埋め込まれてこそ、社会の成員が自分自身や他者をどう捉えるかに影響が及ぶからである――。

オストロームが強調しているように、自己統治や「民主主義の精神」は、政治の世界だけに関わりがあるわけではない。いわゆる民主政治は、あくまでも全体の一部でしかないのだ。民主政治の性格やその良し悪しは、自由な個人が自発的に交じり合う自由な社会という理念――あるいは、協働的な自己統治という理念――が世の中にどれだけ広く深く行き渡っているかによって変わってくるのだ。

自己統治に立脚する社会秩序が抱える脆弱性の一つは、次の世代に受け継げるような「自己統治の遺伝子」なるものが存在しないことである。新たな世代ごとに学んで適応していかなければいけないのだ。自己統治に立脚する社会秩序を支えるために必要な「心の習慣」や「精神の特徴」が世代ごとに学び直されて更新されないようなら、弱体化してしまう可能性があるのだ。失われてしまう可能性があるのだ。

エドワード・シルズ(Edward Shils)が『Tradition』(1981年発行)で指摘しているように、社会の伝統なり慣習なりが保存され得るのは、三世代――子供と親と祖父母――が重なり合う場合だけに限られる。経験と内省を通じてのみ得られる知恵、洞察、理解、信念が若い世代に受け継がれるのは、三世代が重なり合う場合だけに限られるというのだ。

伝統にしても慣習にしても永遠に「不変」というわけではない。世代ごとに変化するし、修正されていく。しかしながら、「心の習慣」や「精神の特徴」が世代を超えて共有されていく中でそうなるのだ。

オストロームが懸念していたのは、自己統治に立脚する社会秩序を支える「心の習慣」や「精神の特徴」が失われつつあるのではないかということだった。その理由は、政府による介入が増えて福祉国家の規模が大きくなるにつれて、パターナリズムや社会工学を支持するメンタリティが世の中に広まったせいだ。

「自由の言語」が失われつつあるのだ。自由な個人による自己統治を支える言語が失われつつあるのだ。我々は、言語を通じて自分自身について考えるのだ。言語を通じて他者との関係について考えるのだ。言語を通じて社会のあり方について考えるのだ。

ナチスの時代を生き延びたユダヤ系ドイツ人であるヴィクトール・クレムペラー(Victor Klemperer)が戦後に一冊の本を執筆している。『The Language of the Third Reich』(邦訳『第三帝国の言語:ある言語学者のノート』)がそれである。クレムペラーによると、国家社会主義者と自任していたかどうかにかかわらず、ナチス・ドイツにおいては誰も彼もがナチスだったという。ユダヤ系ドイツ人をはじめとして、体制から虐げられた犠牲者の多くも含めて。

なぜなのか? ナチスの指導者たちが流布したアイデアやイデオロギーに感染したからである。思考が囚われてしまって、人生やモラルについて違った考えをするのに困難を感じたのである。人間、「人種」、社会についてのナチス流の考えを反映している言語やフレーズから独立した考えを持てずにいたのである。クレムペラーも示唆しているように、自分で自分を統治できる存在ではなくなっていたのだ。ヒトラー流の国家社会主義の言葉遣いやロジックで考えて行動しているうちに、体制の奴隷と化していたのだ。

オストロームが手遅れになってしまわないうちに警告しようとしていたことは、「他者による統治」に陥ってしまうなかれということだった。ところが、今やあまりにも多くの市民がそうなってしまいつつある。「給付」(“entitlement”)、「不労所得」(“unearned income”)、「社会正義」(“social justice”)とかいう類の言葉が氾濫していて、それらに思考が囚われつつあるのだ。

集産主義的なパターナリズムに屈するのか、それとも「自由の言語」や「自由の理念」が守り抜かれるのかによって、アメリカを舞台とする「自己統治」をめぐる偉大な実験――1830年代にアメリカを訪れたトクヴィルに強い印象を与えた実験――が今後も続行されるかどうかが決まるのだ。

ヴィンセント・オストロームの研究は、アメリカを舞台とする「自己統治」をめぐる実験の性質やそのロジックを説明しているだけにとどまらない。政治権力の分割と連邦制を通じて自由を確保しようとするアメリカの実験が人類の歴史に占めるユニークさを知らしめてもいる。その実験が途中で放棄されてしまったら、その損失たるやいかばかりか。 

ヴィンセント・オストロームは、「自由」を支える政治制度と理念に対する優れた分析を通じて、「自由の哲学」を深化させる知的遺産を後世に伝えているのだ。

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<訳者による追記>
 
ヴィンセント・オストロームの思想の全体像を知るには、R. ワグナーの以下の論文が参考になるかもしれない。
 
● Richard E. Wagner (2005), Self-governance, polycentrism, and federalism: recurring themes in Vincent Ostrom's scholarly oeuvre”(Journal of Economic Behavior & Organization, Vol. 57 (2), pp. 173-188;こちら(pdf)で閲覧できたり・・・

2012年7月25日水曜日

「ケインズ経済学に対する新たなる基礎づけ;ジョージ・アカロフへのインタビュー」

The New Case for Keynesianism;Interview with George Akerlof(pdf)”(Challenge, vol. 50, no. 4, July/August 2007, pp. 5–16)


現在主流の経済学で広く受け入れられている諸前提に挑むのはノーベル経済学賞受賞者でもあるジョージ・アカロフ。市場参加者の意思決定(なぜそのような意思決定を行うのか、意思決定はどのように行われるのか)に関してもっと現実的な見方に立てば、ケインジアンの信念が無理のないかたちで正当化されることが判明するだろう。政府による政策は経済を運営する上で決定的な役割を果たす。政府による政策を欠いた状態では、我々は一層大きなリスクに直面することになり、おそらくは経済成長は鈍化することになるだろう。

インタビュワー;アカロフ教授、この冬(訳注;2006年の冬)にあなたがアメリカ経済学会の総会で行われた会長講演(欄外訳注)は大変挑発的な内容でした。講演では現在主流の経済学で広く受け入れられている教義のいくつかに対して正面切って挑戦をなされました。講演の目的というのは一体どのようなものだったのでしょうか?
 
アカロフ;そもそも私が経済学を学び始めた理由は特にマクロ経済学、それも基本的には失業の原因(どうして失業が生じるのか、といった問題)に興味を持ったことにありました。失業の問題は私がこれまでに学者としてのキャリアを通じて行ってきた研究の大半の中心をなしてきたと言えます。先の会長講演では、現在主流のマクロ経済学に関する私なりのビジョンを提示するとともに、古いタイプのマクロ経済学-私個人の目には常に常識的な見解として映ってきたマクロ経済学-に対してもっと高い評価を与えるべき理由について説明したいと考えました。ここで古いタイプのマクロ経済学というのは基本的にはケインズのマクロ経済学のことを指しています。

インタビュワー;ケインズはこれまでに(ケインズが自説を発表した当時においてもそれ以降の時代においても)辛辣な批判にされされてきました。アカロフ教授が試みようと考えてらっしゃるのはこのケインズ批判の潮流を反転させることにあるのでしょうか?

アカロフ;ケインズに対する攻撃は彼の古典的な著作である『雇用、利子および貨幣の一般理論』が発表された1936年当時から既に見られたところではありましたが、ケインズ主義(Keynesianism)はまたたく間に教科書や経済学的な思考(economic thinking)における標準的な見解として定着することになりました。しかしながら、1970年代~1980年代に入ると、ケインズ経済学の理論体系とそれを支える諸前提に対してちょっとした修正を施すと、最終的に理論上における大きな変化がもたらされることを幾人かの経済学者が発見することになったのです。

インタビュワー;「ケインズ経済学」ということで正確にはどのようなことを意味されているのでしょうか? まずはこの点についてお話しいただけるでしょうか?

アカロフ;「ケインズ経済学」ということで私が意味しているのは、政府は経済の安定化を図る役割を担うべきである、ということです。政府がその役割を果たすにあたっては金融政策に頼ることができるでしょうし、金融政策がうまく機能しない場合には財政政策に頼るという選択肢もあるでしょう。具体的な手段はともかく、「ケインズ経済学」においては、経済の安定化を一国政府の責任の一つと見なすのです。

インタビュワー;『一般理論』が出版された当時、ケインズは金融政策-マネーサプライや金利の操作-よりも財政政策-税金や政府支出の操作-にずっと大きな関心を持っていると解釈されていました。これはケインズに対する誤った解釈であるとお考えでしょうか?

アカロフ;いや、そうは思いません。ただ、ケインズが執筆していた当時は他の時期とは状況が大きく異なっていた点を思い出す必要があります。大恐慌当時においてプライムレート(優良企業向けの優遇貸出金利)はほぼゼロ%の水準にありました。そのため、金利への影響を通じて機能する金融政策は(経済を刺激する上で)ほとんど何の効果も持ち得ず、頼れるのは財政政策だけという状況だったのです。しかし、戦後になり再び繁栄が戻ってくると、金利がゼロ%に近い状況というのはもはやお目にかかれなくなり、経済の安定化を図る手段として再度金融政策に頼ることが可能となりました。加えて、金融政策は財政政策よりも柔軟性に富んでいるように思われます。 というのも、金融政策は大統領や議会ではなく中央銀行(アメリカではFRB)によって決定されているので速やかに変更することが可能だからです。そういうわけで、現在では(財政政策だけではなく)金融政策と財政政策の両者ともにケインズ政策に含まれると考えられています。景気が悪化すると景気の浮揚を狙って政府が減税に臨んだり、時には政府支出の増加に臨む傾向を目にするでしょうが、これはまさしく古典的なケインズ流の財政政策です。

インタビュワー;さて、先ほど、1970年代~1980年代に入るとケインズ経済学を支える諸前提に対して修正が施されることになった、とのお話がありましたが-そのような修正は主にミルトン・フリードマン(Milton Friedman)をはじめとしたシカゴ大学の経済学者によって施されたと言っても差支えないと考えるのですが-、ケインズ主義に対する攻撃をひきつけることになった(ケインズ経済学を支える)諸前提というのはどのようなものだったのでしょうか? 

アカロフ;基本的には3つの前提です。まず1つ目は、現在の消費は現在の所得に依存する、という前提です。この前提に対してミルトン・フリードマンは、「それは間違いだ。人は合理的であり、それゆえ、個々人が現在どれだけ消費するかは単に現在の所得だけに依存するのではなくこれから先の生涯全体にわたる所得(訳注;もっと正確には、恒常所得)にずっと大きく依存するはずである。さらには、個々人が資産を保有している場合には、資産もまた現在の消費に影響を与えるだろう」、と反論しました。もしフリードマンのこの反論が正しいとすると、ケインズ政策の実施は一層困難なことになります。というのも、政府支出の増加を通じて人々に仕事が提供され現在の所得が増加するとしても、(フリードマンの反論が正しければ)現在の消費は現在の所得にそれほど敏感には反応しないので、政府支出の増加が有する乗数効果は小さくなるだろうからです。

インタビュワー;フリードマンの反論が正しければ、政府支出の増加が経済を刺激する効果は(ケインズ経済学において想定されている場合よりも)小さくなるということですね。ところで、フリードマンとよく似たモデルを提案した経済学者として例えばフランコ・モジリアーニ(Franco Modigliani)やジェームス・デューセンベリー(James Duesenberry)といった人々-フリードマンのように政治的な保守派であるとは言えない経済学者-がいます。彼らのモデルはフリードマンのものと同じと見ていいのでしょうか? それともいささか違ったところがあるのでしょうか?

アカロフ;基本的には同じと見て構いません。ですので、(ケインズ経済学を支える)1つ目の前提に対して反論を加えたのはフリードマンだけではない、ということになりますね。フリードマンの恒常所得仮説には支持するに値する見解があると信じられており、その見解が広く共有されているわけです。その見解というのは、つまりは、現在の消費は現在の所得だけに依存するわけではない、というものです。 しかしながら、ケインズが執筆したものを見ると、彼が大変慎重であったことがわかります。確かにケインズは、現在の消費は主に現在の所得に依存すると述べていますが、同時に彼は現在の消費が依存する可能性のあるそれ以外の変数からなる長いリスト-その中には将来の所得も含まれます-を掲げてもいるのです。フリードマンのユニークな点は、現在の所得は富-すべての将来所得を含んだ富-の一部として勘定される以外のかたちでは(訳注;富ならびに恒常所得を変化させない限りは)現在の消費に対して影響を与えることはない、と主張したところにあります。これは極端な見解であると言えます。ところで実際の事実を見ますと、現在の消費はかつてケインズが主張したのとそっくりのかたちで現在の所得に依存しているように思われます。しかし、そうだとしたら問題が生じることになります。フリードマンが主張したように、人々が合理的であるとすれば、消費の決定は恒常所得に基づいて行われるはずですが、そうだとすると現在の消費が現在の所得に依存するという事実をどう説明したらよいのでしょうか? この事実を説明する上で最も簡単な方法は、人々は規範(norm)に従って行動していると想定することにあると私は考えます。消費はどのようにあるべきか(どれだけの金額を消費するべきか/消費してもよいか)という点に関して人はそれぞれに見解を持っており、その見解はどれだけの額を支出に回す権利(資格)があると感じているか(how much they feel entitled to spend)に依存していると考えられるのです。大半の人々にとっては、自らが支出に回す権利があると感じる額は現在どれだけ稼いでいるか(現在の所得)に大きく依存するでしょう。現在の所得以上に支出すると、何か不味いことをしているのではないかと感じるのです。こういった理由で、現在の所得は現在の消費を決定する上で特別な役割を果たすことになるのです。現在の消費と将来の消費との間の選択は-フリードマンが主張したように-単に経済的な便益と経済的なコストとを天秤にかけて行われている、というわけではないと考えられるのです。

インタビュワー;次に他の前提についてお話をうかがうことにしましょう。ケインズ主義に対する攻撃をひきつけることになった1つ目の前提は消費関数を巡るものでしたが、その他の前提はどのようなものだとお考えでしょうか?

アカロフ;2つ目の前提は投資に関するものです。企業が投資を行うのは投資がもたらす経済的な報酬が投資の実施に要する経済的なコストを上回る場合に限ってである、との見解がありますが、これとは対照的にケインズは、企業による投資はキャッシュフローにも依存する、と主張しました。大きな利潤を手にした企業は(訳注;その大きな利潤を基にして)大規模な投資を行い、一方で、それほど利潤をあげられなかった企業は(訳注;その小さな利潤を基にして)わずかばかりの投資しか行わない、と考えたのです。

インタビュワー;企業の投資に関するケインズのその前提に対してどのような反論があったのでしょうか?

アカロフ;フランコ・モジリアーニとマートン・ミラー(Merton Miller)という2人の経済学者が次のような理論を発展させて反論を寄せたのです。もし人々が完全に合理的だとすれば、経営者は株主に対して可能な限り最大の収益をもたらすように行動するので、その結果として企業による投資は現在のキャッシュフローからは独立して決定されるだろう。企業による投資はこれから実施される予定の投資の収益性のみに依存するだろう、と。しかし、先ほど話した現在の消費と現在の所得との関係の例のように、ここでも実証的な事実はモジリアーニ=ミラーの理論に疑問を投げかけているのです。現実には、企業による投資は現在のキャッシュフローに敏感に反応しているのです。
 
インタビュワー;つまりは、ここでもまた反ケインズ的な見方からケインズ的な見方への回帰が生じた-他にもっと適当な表現があるのかもしれませんが-ということですね。

アカロフ;そういうことです。そして、この事実をうまく説明するような新たな理論、経営者の行動に関する新たな理論というのも開発されています。この理論では、経営者は単に株主の利益のことだけを考えて企業を経営しているわけではなく、経営者は自らが念頭に置いている利益もまた追求しようと試みるものだ、と捉えます。彼ら経営者は「帝国の建設者(empire-builders)」であって、利用可能な資金があればそれを基にして自分にとって望ましいと感じるような仕方で投資を実施するのです。こうして、私たちは再びケインズ的な見方に立ち戻ることになります。キャッシュフローが豊富にあると、それを基にして大規模な投資が行われることになるのです。

インタビュワー;ということは、かつてケインズ主義を覆した前提が今後は逆に覆されつつある、というわけですね。

アカロフ;もし現実の人間が標準的な経済学のモデルにおいて想定されているのとは別のものを最大化しようと試みるのだとすれば-現実の人間が合理的な経済人とは異なる利益を追求するとすれば-、最終的に得られる結論は標準的な経済学のモデルが予測するのとは異なったものとなることでしょう。そして、その結論はオリジナルのケインズモデルと似た性質を備えていると考えられるのです。

インタビュワー;それでは、3つ目の前提についてお話しいただけるでしょうか?

アカロフ;この3つの目の前提というのは私が最も重要だと考えるポイントでもあります。さて、賃金や価格というのはどのように設定されるのでしょうか? 40年ほど前、ミルトン・フリードマンとエドモンド・フェルプス(Edmund Phelps)は非常に興味深い理論を公にしました。彼らが主張するには、失業率がある水準-自然失業率と呼ばれています-を下回ればインフレーションが加速することになり、反対に、失業率が自然失業率を上回ればデフレーションが加速することになる、というのです。どうしてそうなるのでしょうか? 彼らによればその理由はこういうことです。現実の失業率が自然失業率を下回ったとすれば、現実のインフレ率は期待インフレ率を上回ることになるでしょう。現実のインフレ率があらかじめ予想していた以上の高さであることが判明すれば、労働者は賃金の引き上げを要求し、経営側は自社製品の価格引き上げに臨むことになるでしょう。このようにして、現実の失業率が自然失業率を下回るとインフレーションが加速することになる、というのです。もしフリードマン=フェルプスの主張が正しいとすれば、財政政策は長期的な失業の水準にほとんど何の影響も及ぼせない、ということになるでしょう。というのも、現実の失業率が自然失業率を下回ったとしても(訳注;その状態は一時的なものでやがて現実の失業率は自然失業率に落ち着き)最終的にインフレーションが加速するだけであり、現実の失業率が自然失業率を上回ったとしても(訳注;その状態は一時的なものでやがて現実の失業率は自然失業率に落ち着き)最終的にデフレーションが加速するだけ、ということになるからです。

インタビュワー;フリードマンとフェルプスによって自然失業仮説が提唱される以前は、フィリップスカーブが大きな影響力を誇っていました。

アカロフ;その通りです。かつては、インフレ率の水準と失業の水準との間にはトレードオフが存在する、と考えられていました。つまりは、失業率が低ければ低いほどそれに応じてインフレ率は高くなる、と考えられていたのです。ところが、フリードマンとフェルプスによれば、失業率が自然失業率を下回るような状況では、(訳注;インフレ率が上昇することと引き換えに失業率が低下する、ということはなく)インフレーションがコントロールを失って加速するような悪循環が生じることになる、というのです。

インタビュワー;フリードマンとフェルプスによる自然失業率仮説は政府による政策に対してどのような意味合いを持っているのでしょうか?

アカロフ;もし彼らの理論が現実に妥当するのだとすれば、金融政策や財政政策によっては現実の失業率を長期にわたって自然失業率と大きく異なるような水準にとどめておくことはできない、ということになります。つまりは、金融政策や財政政策は経済の長期的な繁栄(繁栄というのは結局のところ職(job)の問題に尽きます)に対して何の効果も持たない、ということになるのです。

インタビュワー;なるほど。それではなぜフリードマンとフェルプスの主張は成り立たないとお考えなのでしょうか?

アカロフ;彼らの主張には真実の要素が含まれてはいます。価格を設定するにあたって、人々はある程度期待インフレ率を考慮する、というのは確かにその通りでしょう。賃金契約に臨むにあたって、人々はおそらくこの先のインフレ率がどうなりそうかを考慮に入れることでしょう。しかし、フェルプスやフリードマンの理論は高い正確性と合理性を要求しています。彼らの理論では、期待インフレ率が1%ポイントだけ上昇すると、人々は設定する価格を1%ポイントだけ引き上げ、名目賃金の1%ポイントの引き上げを求める、と見なされているのです。これは非現実的なまでの正確性を要求するものと言えます。期待インフレ率が価格や賃金の設定に影響を持っているのは確かだと私も考えますが、両者が正確に1対1で対応している(訳注;価格や賃金が期待インフレ率の変化とそっくり同じ規模だけ改訂される)かどうかはわかりません。統計上の証拠は、両者が1対1で対応していることを明白な形で支持している、というわけではありません。どうやら多くの経済学者は期待インフレ率が価格や賃金の設定に及ぼす影響を現実よりもずっと強力なものとして解釈してきたようです。さて、期待インフレ率と価格・賃金の設定とが1対1では対応していないとすれば、どういうことになるでしょうか? 結論を言いますと、インフレーションと失業率との間には、フィリップスカーブが示唆するように、かなりのトレードオフが存在することになるかもしれないのです。

インタビュワー;期待インフレ率と価格・賃金の設定が1対1で対応するかのように見なしてきた経済学者らは一体何を見過ごしてしまったのでしょうか?

アカロフ;重要なポイントは貨幣錯覚(money illusion)の存在です。貨幣錯覚が存在する、ということは、人々は名目価格(nominal price)を通じてものを考えるということです。もし5ドルだけ名目賃金が上昇したら、人々はそれ以前(賃金上昇前)に手にしていたよりも5ドル多く、あるいは何かしらを多く手にすることになると考えるのです。たとえインフレーションが生じていたとしても、です。つまりは、貨幣錯覚が存在する場合、人々は賃金でどれだけの財が購入できるか、というようには考えないのです。そして、非常に重要な2つのインタビュー調査によれば、名目賃金が上昇すると、たとえ財の価格が同じだけ上昇していたとしても、人々は名目賃金の上昇を受けて以前よりも幸福を感じることが明らかにされています。今私が主張していることとフリードマン=フェルプスが主張していることとの違いは、フリードマン=フェルプスによる想定、つまりは、人は皆極めて合理的である、との想定にあります。フリードマン=フェルプスによれば、人々が賃金について考える際には、自らの賃金でどれだけの財が購入できるかという点にしか注意が向けられない-言い換えれば、人々はインフレーションで調整した賃金(実質賃金)にしか興味がない-、と見なされているのです。しかし、実際のところ人々は賃金を貨幣単位で考えている(訳注;名目賃金それ自体に興味を抱いている)ことを示す様々な証拠があります。この事実がはっきりと表れている例を一つ挙げると、人々は賃金のカット(切り下げ)を嫌う、というのがあります。それも特に名目賃金のカットを嫌うのです。人々は賃金や給与のカットを経済的な観点から解釈するにとどまらず、賃金のカットを個人的な侮蔑としても受け取る傾向にあります。そのために、経済的に見て筋が通っていたとしても、人々は賃金のカットに抵抗することになるのです。一方で、名目賃金の上昇がインフレーションに遅れをとる場合(訳注;名目賃金は上昇する一方で実質賃金は低下する場合)、人々は名目賃金がカットされる場合ほどには心がかき乱されることはありません。実際に統計上の証拠を眺めると、名目賃金がカットされた例というのはほとんどないことがわかります。もし人々がフリードマン=フェルプスが想定するほどに合理的なのだとすれば、人々は名目賃金の上昇がインフレーションに遅れをとる場合にも名目賃金がカットされる場合と同じような反応をしてしかるべきなのですが・・・・。

インタビュワー;今ご説明いただいたお話が政策に対して持つ意味合いはどういったものになるでしょうか?

アカロフ;オリジナルの自然失業率仮説からは、政府は経済の状況を改善し得ない、との含意が導かれることになりますが、一方で、貨幣錯覚が存在する場合には、労働者は自然失業率仮説が予測するところとは違って必ずしも期待インフレを賃金契約に反映させる(訳注;期待インフレ率の上昇分と同じだけの名目賃金の引き上げを要求する)ことはありません。その結果として、インフレーションと失業との間の長期的なトレードオフが復活する、ということになるのです。

インタビュワー;さらなる景気刺激策が採用されれば失業率は低下することになるかもしれない、ということでしょうか?

アカロフ;そうです。そして、穏やかなインフレーションは望ましいことだ(a little inflation is a good thing)、との結論が導かれることになります。これはある意味で、失業を減らすために人々が抱く貨幣錯覚を利用している、と見なすことができるでしょう。穏やかなインフレーションは雇用の妨げにならない、というわけですが、この見解は重要なインプリケーションを有しています。極めて低率のインフレーションの達成を目指してこれまでに奮闘を繰り広げてきた政府がいくつかありますが、そういった国では同時に高金利と経済成長の鈍化が見られました。例えば、1990年代を通じてカナダの金融政策は極めて低率のインフレーションの達成を目指して運営されましたが、同期間におけるカナダの失業率は大変高い水準を記録することになりました。インフレーションを極めて低い水準にとどめておこうとする過ちのために、経済成長の鈍化と不必要に高い失業率という高いコストを支払う結果となったわけです。

インタビュワー;1980年代から1990年代の初頭にかけてアメリカで追求されたインフレ率も低すぎであった、とお考えになりますか?

アカロフ;アメリカに関してははっきりとしたことは言えませんが、ただ、あまりに低率のインフレーションを目標とすることは重大な損害をもたらし得る、との警告であると受け止めていただきたいと思います。

インタビュワー;最近の経済学の教科書を読むと、執筆者がフリードマンにシンパシーを感じているような場合だけではなく、例えば、MITの伝統の中で育ったような人物が執筆者である場合でも、 自然失業率仮説に従順な様子が感じ取れますね。

アカロフ;そうですね。実にその点は会長講演でのメッセージの一つでもありました。「私たちはあまりにも自然失業率仮説に傾倒しすぎているのではないか? この点について冷静に考え直すべきではないか?」、というメッセージですね。もうちょっと丁寧に説明させていただきますと、優れた経済学者であれば誰でも、インフレ期待が賃金や価格の設定に影響を及ぼすだろう点には同意するでしょう。しかし、インフレ期待が賃金や価格の設定に影響を及ぼすと信じることとインフレ期待と賃金・価格の設定が1対1で対応していると主張することとの間には大きなギャップがあるのです。統計上の証拠によれば、確かにインフレ期待が価格や賃金の設定に影響を与えていることがわかります。統計上の証拠によれば、インフレ期待と価格・賃金の設定が1対1で対応している可能性を棄却することはできませんが、同時に、インフレ期待と価格・賃金の設定との結び付きが1対1での対応よりずっと弱い可能性もまた棄却されないのです。インフレ期待が価格や賃金の設定に及ぼす影響はゼロではないかもしれませんが、両者のつながりは1対1での対応よりずっと弱い可能性もあるのです。自然失業率仮説に対しては現状よりも少しばかり冷めた態度で接するべきなのです。実際の証拠は自然失業率仮説に関して広く受け入れられている見解を支持するものではなく、さらには、今日のようにインフレ率が低い場合には自然失業率仮説が妥当する可能性は特に小さくなるのです。後者(訳注;インフレ率が低い場合には自然失業率仮説が妥当する可能性が小さくなる点)については多くの証拠があります。

インタビュワー;どのような証拠でしょうか?

アカロフ;1930年代に大変痛ましい経済実験が行われることになりました。大恐慌(Great Depression)ですね。大恐慌の期間を通じて失業率は極めて高い水準にありましたが、当時の失業率は自然失業率-妥当なかたちで推計された自然失業率-を大きく上回っていたと思われます。自然失業率仮説が正しければ、現実の失業率が自然失業率を上回った結果としてデフレーションが加速していたはずです。しかし、現実にはそういったことは起きませんでした。1930年代を通じて失業率は極めて高い水準にあり、その結果として確かに低率のインフレーションが生じることにはなりましたが、自然失業率仮説が予測するようにデフレーションが加速するというようなことにはならなかったのです。

インタビュワー;これまでご説明いただいた議論は合理的期待形成理論に対しても疑問を投げかけることになるでしょうか?

アカロフ;自然失業率仮説や合理的期待形成理論のキーとなる想定は、通常思われている点とは違うのではないかと私は考えています。もう少し細かく説明させていただきましょう。多くの人々は、合理的期待形成理論のキーとなる想定は、市場参加者は将来に対して合理的に期待を形成する点にある、と見なしているようです。しかし、私個人としては、合理的期待形成理論のキーとなる想定は、人々は貨幣錯覚を抱かない、という点にあると思います。もし貨幣錯覚が存在するようであれば、たとえ人々が合理的に期待を形成するとしても、経済の安定化を図る上でシステマティックな金融政策に頼り得る余地が残されることになるでしょう。

インタビュワー;もう少し詳しくご説明していただけるでしょうか?

アカロフ;合理的期待形成理論によれば、金融政策は経済の安定化効果を持ち得ない、ということになります。その理由はこうです。もしマネーサプライの増加が賃金や価格の上昇を上回るようであれば、 金融政策は景気刺激効果を持つことになります。マネーサプライが物価水準よりも速やかに上昇するために(訳注;実質的な貨幣残高(マネーサプライを物価水準で除したもの)が増加するために)、総需要が増加することになるからです。しかしながら、貨幣錯覚が存在しない場合、金融政策の変更があらかじめ予見されていれば、賃金や価格はマネーサプライの増加と比例するかたちで引き上げられることになり、その結果として金融政策の効果が相殺されることになるのです。一方で、もし貨幣錯覚が存在すれば、人々はあらかじめ予見されたマネーサプライの変化を完全に相殺するようには行動しないと考えられます。貨幣錯覚が存在する状況では、マネーサプライの変化ほどには価格や賃金は変化しない(訳注;例えば、マネーサプライが増加した場合、賃金や価格はマネーサプライの増加ほどには引き上げられない)と考えられるのです。そうだとすると、あらかじめ予見されたマネーサプライの変化であっても生産や雇用に対して効果を持ち得ることでしょう。

インタビュワー;リカードの中立命題(Ricardian equivalence)も成り立たないとお考えでしょうか?

アカロフ;はい。リカードの中立命題については例を用いて説明することにしましょう。例えば、リカードの中立命題では、現代世代に対する社会保障給付の増加は現時点での支出(消費)に影響を与えない、と主張されます。その理由は、社会保障給付の増加を賄うために将来的に増税されるだろうと人々が予想するから、というのです。将来世代の消費水準を維持しようとの思いから、現代世代の人々は将来の増税(将来世代に対する税負担の増加)を予見して社会保障給付として受け取った分を(将来世代に相続する遺産として)貯蓄に回すだろう、というのです。このような理屈が現実をうまく描写していると信じる人はほとんどいないと私は思います。私であれば、ポケットに以前よりも多くのお金を持ち合わせていることを知ったとすれば、これまでよりもたくさん支出に回す権利があると感じることでしょう。

インタビュワー;合理的期待形成理論の後継者であり、リカードの中立命題といとこのような関係にあるのは実物的景気循環理論であると思われます。実物的景気循環理論でもまた政府による介入は何の助けにもならないと想定されています。実物的景気循環理論についてはどのようにお考えでしょうか?

アカロフ;実物的景気循環理論はその前提が非現実的であるためにうまくいかないと思います。実物的景気循環理論では、人々は貨幣錯覚を抱かないと想定されているのです。

インタビュワー;金融政策についてお考えになる際は、マネーサプライの成長率を頭に浮かべられるのでしょうか? それとも金利でしょうか?

アカロフ;今回のインタビューでは金融政策は主にマネーサプライの水準に影響を与えるものとして語ってきましたが、金融政策は金利を決定するものだと考えたとしても私の議論の本質は変わらないと思います。

インタビュワー;マネーサプライと金利とは切り離せないので、マネーサプライの観点から考えるか、それとも金利の観点から考えるかというのは重要ではない、という意味でしょうか?

アカロフ;金融政策は金利に影響を与えるのか、それともマネーサプライに影響を与えるのか、といった話は重要ではないと私は考えます。というのも、どちら一方の水準を決めたら、暗黙のうちに他方の水準も決めていることになりますからね。

インタビュワー;わかりやすい言葉で表現させていただくと、アカロフ教授の結論は、政府による政策は重要である、ということになるでしょうか。

アカロフ;私はケインジアンの見方に賛同しています。ケインジアンの経済認識はいつでも正しいものであった、と個人的には考えています。大恐慌についても戦後についても彼らの経済認識は正しいものでしたし、今日においてもケインジアンの経済認識は相変わらずその妥当性を失ってはいません。結論めいたことを言いますと、資本主義システムは人々が望む財を提供する上で極めて強力な仕組みであって、多くのメリットを備えています。しかし、だからといって、システムへの介入が果たすべき役割は何もない、ということにはなりません。政府は雇用水準に影響を与える上で責任があります。というのも、政府はそうすること(雇用水準に影響を及ぼすこと)が可能なのですから。戦後世界の経済的な成功は、政府が雇用に対する責務を果たすことへの信頼(faith)の上に成り立っていた(訳注;政府が雇用に対する責務を果たすに違いないとの信頼があったからこそ戦後世界の経済的な成功が可能になった)、と私は考えます。そのような信頼があれば、経済が不調に陥った場合でも、投資に回すはずであった資金を手に人々がどこかに逃亡するなんて事態は生じないでしょう。政府が完全雇用を維持する責務を果たすだろうから経済はそのうち復調するに違いない、と予想されるからです。過去60年にわたって西洋経済が完全雇用に極めて近い状況を保ち続けてきた主要な理由はまさにこの点(訳注;政府が雇用に対する責務を果たすことへの信頼が存在していた点)にある、と私は考えます。政府は経済の安定化を図る能力と責務がある、との発想に頼ることができなければ、私たちはこの先一体何が起こるのか見当もつかない状態に置かれることになるでしょう。そうなれば大変深刻な損失がもたらされることになるかもしれません。

インタビュワー;設備投資の決定や企業の意思決定、労働者の意思決定における不確実性が高まることになれば、それに伴って生じる損失は有害なものとなり得ますね。

アカロフ;そうですね。「政府を廃止せよ!」と訴える人々は、政府が廃止されることでこの世は一層見通しが良くなる(確かなものとなる)と考えているようです。そのような見方は私が考えるところとは正反対の見方ですね。

インタビュワー;今回アカロフ教授に披露していただいた見解といわゆるニューケインジアンの見解との間にはどういった違いがあるのでしょうか? ニューケインジアンのキーワードは「摩擦」(“frictions”)-賃金や価格の設定が粘着的になる根拠となるもの-ですが、この摩擦の存在がケインズ的な刺激策を正当化することになるわけですが。

アカロフ;「摩擦」を強調する議論に対しては何の反論もありません。ただ、今回お話しさせていただいた議論はケインジアンが心に抱いていた考えに対してもっとしっかりとした基礎を提供するものだと個人的には考えています。

インタビュワー;「摩擦」よりももっとしっかりとした基礎ということですか?

アカロフ;そうです。私の議論は「摩擦」を強調するニューケインジアンの議論を大きく補強することになると思います。ただ、「摩擦」を強調する議論に対しては反論があり得るのも確かです。「摩擦」の多くは情報の非対称性(asymmetric information)-特に、雇用者と被雇用者との間での情報の非対称性-が原因で生じますが、賃金契約を工夫することで情報の非対称性に伴う問題を和らげることは可能です。他にも、「摩擦」は精々小さなものであって、それゆえに景気循環に対してはわずかばかりの効果しか持たないとの反論もあり得ます。そういうわけで、「摩擦」を強調する議論は私の議論よりも脆い面があるのではないかと個人的には考えています。

インタビュワー;全体のまとめをしていただくとどうなるでしょうか?

アカロフ;ケインジアンの理解は基本的には正しかった、ということです。

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(欄外訳注)

インタビュワーの最初の質問で言及されている会長講演は以下。

●George A. Akerlof(2007), “The Missing Motivation in Macroeconomics”(American Economic Review, vol.97(1), pp.5–36;ドラフトはこちら(pdf))

なお、アカロフの本講演に関しては梶ピエール氏が詳細な解説を加えてらっしゃいます。本インタビューで触れられている内容についてもう少し深く突っ込んで知りたいという方は是非ともご一読あれ。

●梶ピエール、「『アニマルスピリット』の議論の原型」(梶ピエールの備忘録。, 2009年6月4日)

2012年7月19日木曜日

Mark Pennington 「『左派』と公共選択論」(2012年1月30日)

Mark Pennington, “‘The Left’ and Public Choice Theory”(Pileus, January 30, 2012)


「公共選択論」のことを「左派」に話すと、色んな反応が返ってくるだろう。

まずは、「無知」だ。公共選択論という学問の存在自体を知らないわけだ。私が学者に成り立ての時のことだが、講義で1時間にわたって「規制の虜」理論――規制当局が規制対象である企業の言いなりになってしまう現象――について説明したら、社会主義労働者党と関わりを持っていた学生から講義終了後に次のように尋ねられたことがある。「先生はいつマルクス主義者になられたのでしょうか?」。ラディカルな「反マルキスト」を自任している身としては、正直言って面食らってしまったものだ。この学生の反応は、アカデミズムの世界に蔓延っている態度の一つを例証している。すなわち、企業が権力を振るって儲けているのに関心を持つような人間は、左派ないしは社会主義にシンパシーを抱いているに違いないと当然視する態度である。世の中の「権力関係」に古典的自由主義(classical liberal)あるいは自由市場を支持する立場から切り込んで分析を加える――公共選択論もそのうちの一つ――のも可能だとは思いも寄らないらしいのだ。 

「忌避」という反応もある。公共選択論の分野でどんなことが言われているかはそれとなく知っているが、公共選択論を脅威に感じて「忌避」するわけだ。どうして脅威に感じるかというと、公共選択論の方がネオマルクス主義よりも世の中の「権力関係」についてうまく説明できるからというのが理由の一つなんじゃないかと思う。公共選択論は、権力の配分についてのナイーブな多元主義的な見解を退ける。どの集団も同等の権力を持っているとは見なさないのだ。「資本家」(ブルジョア)と「賃金労働者」(プロレタリアート)という「階級」間で権力闘争が行われるとは想定せずに、一人ひとりの個人が直面しているインセンティブが集団として結束する能力だったり集団としての権力の大きさだったりにどんな影響を及ぼすかに注目する。企業が大きな権力を持ち得るのは確かだが、その理由は「企業だから」というわけでもなければ、「資本主義社会だから」というわけでもない。少数の大企業が市場を支配しているような部門であればという条件がつくが、「納税者」だとか「消費者」だとかという他の集団に比べて、「集合行為問題」ないしは「ただ乗り問題」を克服しやすいからなのだ。その一方で、競合他社の数が多くて市場での競争が激しい部門では、なかなかそうはいかない。むしろ、「労働組合」だとか「官僚」だとかの方が政治的に大きな影響力を持つ場合さえある。公共選択論では、企業(あるいは資本家)だとか労働者だとかを一緒くたに扱わない。政治的に大きな影響力を持つ企業もあればそうじゃない企業もあるし、政治的に大きな影響力を持つ労働者もいればそうじゃない労働者もいると見なす。集団の成員一人ひとりが直面しているインセンティブや組織編制の問題が成否を分けると見なすのだ。現実の世界では、多様な特殊利益が政策に反映されている。「階級支配」という単純な理論よりも公共選択論の方がそのような現実をうまく説明できるのだ。

左派の多くが公共選択論を脅威に感じて「忌避」するのは、特殊利益の力を削ぐにはどうしたらいいかという問題も関わっているんじゃないかと思う。政府が市場に介入しようとすると企業の言いなりになってしまうことが多いとすると――左派の多くはそう考えているようだが――、政府に裁量権をもっと与えるという「解決策」は特殊利益の力を削ぐのに役立ちそうにない。市場への介入が増えることになるわけだから。「私有財産を廃止して、何らかの公共団体に意思決定権を集中させるしかない」というのがマルキストが代わりに提示する「解決策」だろうが、説得的とは思えない。公共選択論の立場からすると、政府の手を縛るのが一番の特効薬ということになろう。現代の社会民主主義的な政府が市場に介入して、競争を制限しようとするのが元凶なのだから。この「解決策」が求めているのは、格差が一切ない夢のような平等な世界の実現ではない。「小さな政府」の実現である。優れた成果や創意工夫ゆえに格差が生じるのは歓迎する一方で、政治的なコネを持っているがゆえに生じる格差を最小限に抑えるような枠組みの実現なのだ。

最後に、「否定」という反応もある。政治というのは、企業/労働組合/官僚がそれぞれ政府に働きかけて公益を犠牲にして私腹を肥やそうとするゲームのようなものだと聞かされると、政治というのはそういうものじゃないと「否定」するわけだ。政治を突き動かしているのは、「利害」ではなく「価値」(あるいは、観念や理念)なのであり、お前ら(公共選択論が専門の経済学者たち)はそのことを見過ごしている、と言い返すわけである。私としては、大いにシンパシーを感じる反論だ。世の中で実施されているどの公共政策にしても、背後に特殊利益が控えていると言い募る――「右派のマルキスト」の一派はそうだと主張するかもしれないが――のは、あまりにも単純過ぎるように思えるからだ。しかしながら、そのように「否定」する代償として、左派は一つの問題を抱え込むことになる。同調者を獲得するための戦術としてしばしば使ってきた陰謀論めいた言い分の多くに頼れなくなるのだ。中央銀行が金融政策を緩和したのはなぜなのか? 金融規制当局が貸付基準を緩和したのはなぜなのか? 民間の金融機関の言いなりになってそうしたのだろうか? それとも、「正しい」と考えてそうしたのだろうか? 政治が「価値」や「観念」によって突き動かされるのだとしたら、「トップ1%」(所得上位1%)の不正行為ではなく、「誤った理論」に目を向けねばならないだろう。(ケインズ主義やマネタリズムのような)「誤った理論」が「政府の失敗」を引き起こしている原因なのかもしれないからだ。

公共選択論は、「左派」にいくつかの難問を突き付けている。政治を突き動かしているのは「利害」なのだとしよう。そうだとすると、多様な特殊利益が政策に反映されている現実をうまく説明できるのは公共選択論の方だし、特殊利益がもたらす弊害を和らげるための説得的な解決策を提示できるのも公共選択論の方だ。その一方で、政治においては「利害」よりも「観念」の方が重要なのだとしよう。そうだとすると、左派が同調者を獲得するための戦術として重宝してきた手の一つが使えなくなる。「敵」と「味方」に分けて、何もかもを「敵」のせいすることができなくなるのだ。

2012年7月6日金曜日

Renee Haltom 「流動性の罠」(2012年)

Renee Haltom, “Jargon Alert:Liquidity Trap(pdf)”(Region Focus, Federal Reserve Bank of Richmond, First Quarter 2012)


中央銀行が景気を刺激する力を完全に失ってしまうなんてことがあり得るのだろうか? 今がまさにそういう状況で、「流動性の罠」(“liquidity trap”)に嵌っているのだと語る経済学者がちらほらいる。 

1930年代にジョン・メイナード・ケインズが「流動性の罠」という概念をはじめて唱えて以来、その定義がいくらか曖昧になっている。背後にある理論が変化したためである。最も広い定義だと、金利が既にゼロ%にまで引き下げられてしまったために、金融政策で景気を刺激することができなくなってしまった――「罠」に嵌ってしまった――状況を指して「流動性の罠」と呼ばれている。2008年12月以降、政策金利はゼロ%近辺にとどまっている。 

もう少し狭い定義だと、他のどの資産よりも現金(cash)が欲されていて、「流動性」に対する需要に限りが無くなっている状況を指す場合もある。もしもそうなっていたら中央銀行がマネーサプライを増やしても、消費も投資も刺激されないので景気が活性化することはないだろう。マネーサプライが増えてもそのまま退蔵される(手元に持っておかれる)だけだからである。「流動性の罠」に嵌っている状況では金融政策は無力だからという理由で、代わりに例えば財政出動に乗り出すべきだと訴える声がある。しかしながら、Fedによる金融緩和が景気に何の影響も及ぼしていないかどうかをリアルタイムで見極めるのは難しいだろう。互いに対立し合う様々な要因が同時に景気に影響を及ぼしているからである。実際問題としては、Fedによる金融緩和が景気に及ぼす影響は事後的にしか知り得ないだろう。それゆえ、現金(「流動性」)に対する需要に限りが無くなっているという定義は、政策の現場にいる当局者にとってはあまり役に立たないかもしれない。

「流動性の罠」に嵌ることなんてあり得ないと主張する経済学者も多い。これまでの先行研究によると、政策金利がゼロ%に達したとしても中央銀行は決して無力ではないことが示唆されている。例えば、Fedが量的緩和に乗り出して銀行部門に大量の流動性が供給されると、貸付金利が低下した。さらには、 Fedが2011年の8月以来試みているように、政策金利を今後もしばらくは低い水準に据え置くつもりであることを明言して金融緩和の継続にコミットする――フォワード・ガイダンスと呼ばれている――と、貸付金利がさらに低下するなりして資金を調達しやすくなる可能性がある。Fedが量的緩和に乗り出すことを発表した時もフォワード・ガイダンスに乗り出すことを発表した時も金融市場はポジティブに反応したようだが、金融市場の参加者たちとしてはFedが無力だとは信じていないことを示唆していると言えよう。

実のところ、中央銀行が発行できる貨幣の量には上限がない。原則としては。極端な話をすると、貨幣を好きなだけ発行して、市中にある利子付きの資産をすべて買い取ることだってできる。そこまでする前に、貨幣以外の資産の価格が上昇し始めるだろう。その結果として、投資が刺激されて景気が活性化することだろう。 

「流動性の罠」について論じる時に多くの経済学者の頭にあるのは、景気を刺激する中央銀行の「能力」(ability)に対する制約ではなくて、景気を刺激しようとする中央銀行の「意思」(willingness)に対する制約であるように思われる。金融緩和にはコストが伴う。その中でも最も顕著なコストは、インフレが加速するリスクである。政策金利がゼロ%に達して以降もインフレ率は低い水準で落ち着いているが、さらなる金融緩和に踏み込んで景気の回復を後押しするよりも、景気が自然に回復するのに任せる方がコストが小さくて済むというのが政策当局者の判断なのかもしれない。例えば、フィラデルフィア連銀総裁のチャールズ・プロッサー(Charles Plosser)をはじめとした幾人かの経済学者は、さらなる金融緩和に踏み出すと金融市場に歪みが生じるおそれがあると語っている。特定の投資を行うことが他の投資を行うよりも人為的に安上がりになって、資源の配分が歪んでしまうかもしれないというのである。

中央銀行は無力だというよりも、中央銀行に景気を刺激しようとする意思が欠けているという方が妥当な見方なのかもしれない。さらなる金融緩和の便益とコストを比較して、コストが便益を上回ると評価しているのかもしれないのだ。しかしながら、政策当局者がそのように評価してさらなる金融緩和に踏み出さずにいたら、「流動性の罠」の定義から予測されるのと非常に似通った状況に陥ることになるかもしれない。中央銀行がいくつかの緩和策に乗り出しているにもかかわらず、低成長が持続するかもしれないのだ。

「流動性の罠」に陥った実例はあるのかというと、微妙なところである。「流動性の罠」に陥った実例としてよく挙げられる三つのエピソードがある。一つ目は、大恐慌(Great Depression)である。しかしながら、ミルトン・フリードマン&アンナ・シュワルツの二人が指摘してよく知られるようになったが、Fedは1930年代の半ばに金融緩和を継続していたわけではなかった。準備預金に対して導入された新たな措置が金融システムに及ぼす影響を見誤ったせいで、不注意にもマネーサプライの縮小を許してしまったのだ。その結果として、大恐慌が悪化することになってしまったのである。二つ目は、1990年代を通じて低成長を記録した日本の「失われた10年」である(2000年代の大半の時期もその中に含める経済学者もいる)。 しかしながら、日本銀行の金融政策も「失われた10年」の間に何度か引き締められたというのが多くの経済学者の言い分である。日本銀行が景気を活性化させて経済成長を刺激するためにできることがすべて試されたとは言い難いというのである。三つ目は、2008年~2009年の景気後退を経て現在に至るまでのアメリカである。景気を刺激するためにFedが前例のない試みに乗り出したにもかかわらず、景気回復の足取りは鈍かった。それはその通りだが、Fedの多くの当局者の主張によると、 Fedの弾薬庫は空っぽではないし、今後も空になることは決してないという。さらなる金融緩和に踏み込む必要があるようなら、そのために打てる手はあるというのである。

2012年7月5日木曜日

Gregory Mankiw 「流動性の罠」(2002年)

Gregory Mankiw, “The Liquidity Trap”(in 『Macroeconomics (5th)』, Ch. 11, pp. 303)


1990年代の日本と1930年代のアメリカでは、名目利子率が極めて低い水準に達した。表11-2 に示されているように、1930年代後半のアメリカでは、名目利子率が1%を大きく下回っていた。1990年代後半の日本についても同じことが当てはまる。日本の名目短期利子率は、1999年の時点でおよそ0.1%にまで低下したのだ。
 
このような状況を指して「流動性の罠」と形容する経済学者もいる。IS-LMモデルによると、金融政策が緩和されると、名目利子率が低下して設備投資が刺激されることになる。しかしながら、名目利子率が既にゼロ%近くにまで下がっていたら、金融政策は役立たずになってしまうかもしれない。名目利子率はゼロ%以下になり得ないのだ。その理由は、名目利子率がマイナスになったら、お金を誰かに貸すよりも手元に持っておく方が得になるだろうからだ。名目利子率が既にゼロ%近くにまで下がっていたら、金融政策を緩和して市中に流動性を注入しても、名目利子率はもう下がりようがないので、景気は一切刺激されないかもしれないのだ。総需要も産出量も雇用量も落ち込んだままの「罠」に嵌ってしまうかもしれないのだ。

異を唱える経済学者もいる。金融政策を緩和したら、予想インフレ率が高まるかもしれないというのである。名目利子率は下げられなくても、予想インフレ率が高まれば、実質利子率がマイナスになって、設備投資が刺激される可能性があるというのである。それに加えて、金融政策を緩和したら、為替レートが減価するかもしれないともいう。為替レートが減価したら、輸出品が海外で安くなるので輸出が増えるだろうというのである。本章で用いた閉鎖経済版のIS-LMモデルだと手に余るが、次章で論じる予定の開放経済版のIS-LMモデルに照らすと、もっとも言い分だ。

金融政策を司る中央銀行は、「流動性の罠」について気を揉む必要があるのだろうか? 金融政策が無力になってしまうことはあるのだろうか? 答えは人によってまちまちだ。「流動性の罠」なんて気にする必要ないという意見もあれば、「流動性の罠」に陥る可能性を考慮するとゼロ%以上のインフレ率を目標にすべきだという意見もある。インフレ率がゼロ%だと、名目利子率と同じように、実質利子率もゼロ%以下になり得ない。しかしながら、インフレ率が3%なら、実質利子率をマイナスにできる。名目利子率をゼロ%にまで引き下げたら、実質利子率はマイナス3%になる。緩やかなインフレは、景気を刺激する必要に迫られた時に中央銀行が打てる手を増やして、「流動性の罠」に陥るリスクを減らすのだ。

2012年7月2日月曜日

Alberto Alesina&Francesco Giavazzi 「財政緊縮を巡る正しい問いの立て方 ~手段(「どのように」)は規模(「どれくらい」)と同じくらい重要である~」(2012年4月3日)

Alberto Alesina&Francesco Giavazzi, “The austerity question: ‘How’ is as important as ‘how much’” (VOX, April 3, 2012)
 
ヨーロッパで財政緊縮が試みられると、経済学者の間で激しい議論が巻き起こった。財政緊縮を巡る議論は、問いの立て方が不適切であるために、袋小路に迷い込んでしまっている。「どのように」という問いが「どれくらい」という問いと同じくらい重要だということが受け入れられないでいるうちは、ヨーロッパにおける財政緊縮を巡る議論は、現実から遊離したままになってしまうだろう

ヨーロッパにおける財政緊縮を巡る議論は、袋小路に迷い込んでしまっている。財政緊縮の「規模」にばかり注目が寄せられているせいである。財政緊縮をどのように進めたらいいか――増税すべきなのか、政府支出を切り詰める(歳出を削減する)べきなのか――に焦点を当てるべきなのだ。財政緊縮にどんな政策が伴うべきなのかを問題にすべきなのだ。VOXディベートのタイトル――「財政緊縮は行き過ぎか?」( “Has austerity gone too far?” )――にも「規模」を強調する不適切な風潮が反映されているのだ。

「どれくらい」ではなく、「どのように」という問いこそが肝心なのだ。


「増税による財政緊縮」と「政府支出の切り詰めによる財政緊縮」の効果についての実証的な証拠

OECD加盟各国(とりわけ、ヨーロッパ各国)でこれまでに試みられた大規模な財政再建の効果の計測と評価を巡って、経済学者の間で活発な議論が繰り広げられてきている。これまでに得られた証拠を慎重かつ公正な目でもって判断すると、アプローチの違いにもかかわらず、比較的論争の余地のないポイントがいくつか明らかになってくる。過去40年の間にOECD加盟各国で試みられた財政再建についての膨大な証拠に目を凝らすと、以下の3つのポイントが明らかになってくるのだ。
 
ポイントその1:政府支出の切り詰めによる財政緊縮は、増税による財政緊縮よりも、景気を抑制する効果が小さい。
ポイントその2:政府支出の切り詰めによる財政緊縮に適切な政策が伴うようなら、適切な政策が伴わないでいるよりも、景気を抑制する効果が小さい傾向にある。経済成長率を高める場合さえある。
 
「適切な政策」としては、金融緩和、生産物市場・労働市場の自由化、その他の構造改革が含まれる。

「適切な政策」に何が含まれるのかについても、「適切な政策」が政府支出の切り詰めによる財政再建をどのような経路を介して加勢することになるのかについても突き詰めねばならないことがまだたくさん残されているが、ロベルト・ペロッティの最近の論文(Roberto Perotti 2011)でも明らかにされているように、以下の事実は揺るがない。

ポイントその3:政府債務残高の対GDP比が一定の水準で安定したという意味で「持続的な財政再建」に成功した例というのは、政府支出の切り詰めによる財政緊縮が試みられた場合のみに限られる。


IMFの研究を批判的に検討する

IMFによる最近の2つの研究(IMF 2010, Devries et al. 2011)でも、政府支出の切り詰めによる財政緊縮が功を奏することが確認されている。しかしながら、その理由は、財政緊縮が政府支出の切り詰めというかたちをとるおかげではなく、政府支出の切り詰めというかたちで財政緊縮が試みられると「偶然にも」長期金利が低下したり、「偶然にも」為替レートが安定したり、「偶然にも」株価が安定するおかげ(あるいは、以上のすべてが「偶然にも」同時に生じるおかげ)だという。

純粋に論理的な観点からしても突っ込みどころがある言い草だ。なぜなら、金融資産の価格――金利、為替レート、株価――は、外生的な変数ではなく、財政政策のアナウンスメントに反応するものだからである。例えば、政府支出の切り詰めによる財政緊縮だけが持続的な財政再建につながると正しくも投資家によって認識されているようなら、政府支出の切り詰めによる財政緊縮を試みることが公表されると、投資家たちの「信頼」(“confidence”)が高まって、その結果として長期金利が低下して株価が上昇すると考えられるのだ。

この点についてのもっと説得的な証拠は、異なるタイプの財政緊縮が信頼および産出量に及ぼす効果を比較することによって得られる。増税による財政緊縮は、政府債務残高の対GDP比が高まるのを食い止められないという意味で功を奏さないだけではない。増税による財政緊縮を試みることが公表されると、企業経営者たちの信頼が急激に冷え込んで、そのせいで産出量が落ち込むのだ。それとは対照的に、政府支出の切り詰めによる財政緊縮を試みることが公表されても(とりわけ、適切な政策が伴うようなら)、企業経営者たちの信頼が冷え込むことはない。政府支出の切り詰めによる財政緊縮を試みることが公表されてから1年の間に産出量が増えることも珍しくないのだ。

税収が対GDP比で50%近くに及ぶヨーロッパの国々に関しては、税収をこれ以上増やす余地が残されていないことも指摘しておかねばならないだろう。

ハラルド・ウーリヒ&マシアス・トラヴァントの二人の最近の論文によると(Uhlig&Trabandt 2012)、ヨーロッパの多くの国々は、現実的な想定に基づいて推計されたラッファーカーブの頂点近辺をうろついているようだ。つまりは、さらなる増税に乗り出せば、税収はそんなに増えない一方で、供給サイド・需要サイドの両方への影響を通じて景気が大きく落ち込んでしまう可能性があるのだ。

これまでに述べてきたことを勘案すると、財政再建を巡る議論で財政緊縮の規模に注目するのはやめるべきなのだ。財政再建を試みようとしてほんのちょっぴり増税する場合と、それを上回る額の歳出を削減する場合を比べると、前者の方が景気に及ぼすマイナスの影響が大きい可能性があるのだ。言い換えると、財政再建を試みようとして政府支出をちょっぴり切り詰める場合と、それを上回る額の増税に乗り出す場合を比べると、前者の方が政府債務残高の対GDP比を安定させられる可能性が高いのだ。


財政緊縮の「手段」についてもっと詰めるべき論点

財政緊縮の「手段」の効果を解きほぐすためにもっと詰めるべき論点がいくつかある。

財政再建を実現するという目的に照らすなら、政府支出の項目の中でどれを削減するのが効果的か?  
経済活動に及ぼす歪みを抑えると同時に税収を減らさないためには、税制をどのように改革したらいいか?
どの市場から自由化を開始したらいいか? どれくらいのペースで自由化を進めたらいいか? 

すべての国で答えが同じという場合もあれば、国によって答えが異なるという場合もあるだろう。

例えば、どの国にしても、所得税から付加価値税(VAT)に重きを置く方向に向かうのが望ましい。
定年年齢を大幅に引き上げて公共部門の人員を削減するしかない国もあるだろう。

労働市場の改革も絡んでくる。公共部門の人員を削減するにしても、解雇規制が取り払われて適当なセーフティーネットが整備されないと無理だろう。多くの国に関しては、物理的なインフラの必要性だとか生産性だとかを強調するのは的外れになりがちだ。


結論

「どのように」という問いが「どれくらい」という問いと同じくらい重要だということが受け入れられないでいるうちは、ヨーロッパにおける財政緊縮を巡る議論は、現実から遊離したままになってしまうだろう。

ユーロ圏における財政再建プログラムの中核を担う財務協定(fiscal compact)には、大きな落胆を感じざるを得ない。失敗の種を自ら蒔いているからだ。

条約を変更してまで新たに協定を結んだというのに、財政緊縮の「手段」について一切言及されていない。
増税を中心として財政緊縮が試みられて、政府債務残高の対GDP比が低下しないようなら、ユーロ経済は――再び景気後退に陥らずとも――停滞し続けることだろう。

安定・成長協定(Stability and Growth Pact)と同じように、財務協定も途中で放棄されるだろう。 


<参考文献>


●Corsetti, G (2012), “Has austerity gone too far? A new Vox Debate”, VoxEU.org, 2 April.
●Devries, P, J Guajardo, D Leigh, and A Pescatori (2011), “A New Action-Based Dataset of Fiscal Consolidation”, IMF Working Paper No. 11/128.
●IMF (2010), “Chapter 3”, World Economic Outlook, Washington, DC: International Monetary Fund.
●Perotti, R (2011), “The ‘Austerity Myth’: Gain Without Pain?”, NBER Working Paper No 17571.
●Trabandt, M and H Uhlig (2012), “How Do Laffer Curves Differ Across Countries”, NBER Working Paper No 17862.