2012年12月17日月曜日

Garett Jones 「『債務』という名の最も粘着的な価格」(2012年9月11日)

Garett Jones, “Debt: The Stickiest Price of All”(EconLog, September 11, 2012)


名目支出(総需要)が減るせいで実体経済に害が及ぶとしたらいかにしてか? そのことについて経済学者はぺちゃくちゃと喋りまくる。いや、喋らざるを得ないのだ。名目支出が減ると、産出量(実質GDP)が減るというのは当たり前ではないからだ。「一般的な供給過剰」(general gluts)の存在を前提するわけにはいかないからだ。

窓の外に目をやれば供給過剰の証拠なんてすぐに見つかるというのが世間の考えだというのに、供給過剰を生んでいる根本原因を解き明かすためにわざわざ頭を悩ます必要なんてあるんだろうか? あるのだ。供給過剰の存在は、経済学者がこれまでに育んできた偉大なアイデアの一つと抵触するのだ。売れ残りが出るようなら――労働者が職にあぶれていたり、住宅が売れ残っていたり、車が売れずに駐車場で錆びついていたりするようなら――、価格が低下して、売り捌かれるはずなのだ。

売れ残りが出ると、供給過剰を解消するようなプロセスが始動するはずなのだ。その実例を知りたければ、終了まで残り30分のガレージセールを眺めるといい。

価格の力に刃向かって供給過剰が解消されるのを妨げる「摩擦」(“frictions”)というのがあるとすれば、相当強力じゃないといけないはずで、誰の目にもすぐに目につくはずだ。しかしながら、経済学者が持ち出す「摩擦」というと、「粘着価格」(“sticky prices”)だとか、「粘着賃金」(“sticky wages”)だとか、文化規範だとか、公共部門の労働組合だとかというのが通例だ。どれも強力だし、その存在も疑おうとは思わない。しかしながら、需要と供給の力を上回るくらい強力だろうか? 何年も持続するくらい強力だろうか?

ここで、私のお気に入りの「摩擦」にご登場願おう。社会心理学的な理由によってではなく、契約の力によって生じる「摩擦」である。その名は、「債務」(debt)。家計が負う債務。企業が負う債務。政府が負う債務。債務の破壊力に着目した経済学者と言えば、アーヴィング・フィッシャー(Irving Fisher)だ。1933年にエコノメトリカ誌の第1号に掲載された大変優れた論文(pdf)で、債務が景気を収縮させることを説いたのだ。フィッシャーの不況理論(デット・デフレ理論)は、ケインズの『一般理論』の中のどの説明よりも優れているというのが私の考えだ。

債務が存在するようだと、売り上げがちょっと落ち込むだけでも破産するおそれがある。収入が大きく落ち込むと、資産の投げ売りが誘発される。借り入れている額が大きいほど、自由にできるお金も少なくなる。債務の返済に充てないといけないからだ。クレジットカードの滞納が何度か続くと、これまでとは別の社会階級に仲間入りしないといけなくなる。住宅ローンが返済できないと、警察がやって来て我が家から追い出される。クレジットカードの支払いにしろ、住宅ローンの返済にしろ、粘着的な価格なのだ。

実質値で測った小売売上高が危機以前のトレンドをおよそ15%も下回った理由の一部は、債務が粘着的な価格だからだろう。大きく落ち込んだ売上高の中から債務を返済して、警察が我が家にやって来るのを防がなくてはいけないのだ。

個人的にこれという答えが出せないでいる問いがある。民間部門の債務は、大きな「負の外部性」を生むのだろうか? 名目所得(名目GDP)が不安定なようなら、その答えは「おそらくイエス」というのがフィッシャーの教えなのだ。

2012年11月26日月曜日

Christina Romer 「為替レートについて率直に話しましょうよ」(2011年5月21日)

Christina D. Romer, “Needed: Plain Talk About the Dollar”(New York Times, May 21, 2011)


先日のカンファレンスで、最近のドル安傾向についてどう思うか尋ねられたベン・バーナンキ(Ben Bernanke)――FRBの議長――は、為替レートは財務省の管轄ですのでとだけ答えていなした。そして、アメリカは強いドルを歓迎していますと付け加えたのだった。

その発言を耳にした瞬間に私の脳裏に蘇ったのは、オバマ政権のアドバイザーを務めて間もない時に味わった体験だった。2008年の11月に、元財務長官でオバマ大統領のアドバイザーだったラリー・サマーズ(Larry Summers)と一緒にシカゴの町を走るタクシーに乗っていた時のことである。これから何度となく訪れるインタビューやヒアリングの機会に備えて、サマーズと想定問答をしていた。サマーズにいくつか質問を投げかけてもらって、私の回答におかしなところがないかチェックしてもらっていたのである。

為替レートについて問われたので、「為替レートは、価格の一つです。あれやこれやの価格と違いはありません。その値は、市場で決まります」と答えた。

すると、サマーズから突っ込みが入った。「おっと、それは間違いだ。『為替レートは、財務省の管轄です。アメリカは強いドルを歓迎しています』が正解だね」。

率直に言わせてもらうと、私の回答の方がはるかに筋が通っていた。為替レートは、価格の一つに過ぎないのだ。他の国の通貨で測ったドルの価格なのだ。誰かによってコントロールされているわけでもない。ドルの価格が高くて「強い」のは、いつだって望ましいわけでもないのだ。

自国通貨の価格を固定している国もある。例えば、中国がそうだ。アメリカも1970年代の初頭まではそうだったが、今は違う。外国為替市場でのドルの需要と供給が変化するのに応じて、ドルの価格も変動する。エネルギー省がガソリンの価格を決めていないのと同じように、財務省はドルの価格を決めていないのだ。どちらの省もいくらか準備を保有している。市場が動揺した場合に対処できるようにだ。しかしながら、どちらの省にしても、市場で決まる均衡値から価格を長らく遠ざけておけるだけの資源も権限も持ち合わせていないのだ。

「為替レートは、財務省の管轄です」というので意味されているのは、政府の高官で為替レートについて語る資格があるのは財務長官だけ(財務長官でさえも、ベラベラ喋るわけじゃない)ということなのだろう。残念なことである。政府の高官が為替レートについて率直に話せるようになれば、為替レートが絡んでくる問題についての理解も深まるだろうし、議論の質も高まるだろうからだ。

つまりは、経済学の基礎を踏まえた議論が可能になるのだ。例えば、以下のような感じで。

外国為替市場が存在するのはなぜかというと、他の国と取引したいと思うからである。他の国に投資したいと思うからである。スペインに旅行するためには、ユーロが要る。ドイツ国債を買うためには、ユーロが要る。ドルとユーロを交換する術が必要になるのだ。

外国為替市場でドルを供給するのは、外国から何か(財、サービス、資産)を買いたいと思っているアメリカ人である。その一方で、外国為替市場でドルを需要するのは、アメリカから何か(財、サービス、資産)を買いたいと思っている外国人である。

ドルの需要が増えるなりドルの供給が減るなりしたら、ドルの価格が上がる。それとは反対に、ドルの需要が減るなりドルの供給が増えるなりしたら、ドルの価格が下がる。
 
例を使って考えてみるとしよう。まずは一つ目の例として、アメリカ国内の起業家によって外国人が欲しがるような新製品が次々と開発されたとしよう。外国人が投資したがるような会社の設立も国内で相次いだとしよう。すると、外国為替市場でドルの需要が増えて、ドルの価格が上がるだろう。アメリカ人も国内で開発された新製品を買いたがるだろうし、外国人に人気の国内の会社に投資したがるだろう。そのために、海外の製品なり資産なりを買うのを控えようとするだろう。すると、外国為替市場でドルの供給が減って、ドルの価格はさらに上がるだろう。イノベーションが起きてドルが強かった1990年後半のアメリカの状況そのものだ。

次に二つ目の例として、アメリカ政府が抱える財政赤字が膨らんで、アメリカ国内の金利が上昇したとしよう。すると、外国人もアメリカ人もドル建ての債券を買おうとする一方で、外貨建ての債券を買うのを控えようとするだろう。すると、外国為替市場でドルの需要が増えて、ドルの供給が減るだろう。その結果として、ドルの価格が上がるだろう。レーガン政権による減税と軍事費の拡大ゆえに巨額の財政赤字が発生した1980年代初頭のアメリカの状況そのものだ。財政赤字が巨額に上っただけでなく、ヴォルカー(Paul A. Volcker)議長率いるFedが反インフレ政策に乗り出したこともあって、アメリカ国内の金利は急騰した。ドルもかなり強かったのだ。

どちらの例でも――アメリカ国内で輝かしいイノベーションが起きても、アメリカ政府が厄介な財政赤字を抱えても――ドルが強くなる。しかしながら、イノベーションはアメリカ経済にとって明らかに好ましいが、巨額の財政赤字は好ましくない。ドルの価格が上がるにせよ下がるにせよ、どうなると良くてどうなると悪いかを一概には決められないのだ。為替レートの変動が望ましいかどうかは、どういう理由で変動したかによるのだ。

それに加えて、経済情勢にもよる。完全雇用が達成されているようなら、ドルが強くなるのは望ましい。ドルが高くて強いというのは、同じ額のドルで買える外国製品(輸入品)の量が増えることを意味するからである。

しかしながら、景気が低迷しているようなら、ドルが強くなるのは望ましいと言い切れなくなる。ドルが弱くなると、米国製品が外国製品に比べて安くなる。そうなると、米国から海外への輸出が増えて輸入が減る。純輸出(=輸出-輸入)が増えたら、アメリカ国内の産出量と雇用量が増える。ドルが弱くなったら、外国からの輸入品が高くなるというマイナスの効果が生じる一方で、アメリカ国内での雇用量が増えるというプラスの効果が生じる。景気が低迷していて雇用を確保するのが切実に求められているようなら、ドルがしばらく弱くなればプラスの効果がマイナスの効果を上回るだろう。

Fedは、アメリカ国内のインフレと失業率に配慮してどういう措置を講じるかを決めている。バーナンキ議長が為替レートについて公然と語れるようになったら、金融政策を緩和すると景気が刺激される理由の一つは、ドルが弱くなるからだと口にすることだろう。経済学入門の講義で必ず教えられていることなのに、今のFedはそうではないかのように振る舞わざるを得ないのだ。

財政政策も国内の事情に配慮してその内容が決められている。財政赤字を減らすために財政を引き締めたら(そのうちそうしないといけなくなるだろうが)、やはりドルが弱くなるだろう。ドルが弱くなったら、財政引き締めが雇用量や産出量に及ぼす短期的なマイナスの効果が和らげられるだろう。

不思議なことがある。どの政治家も例外なく、ドルが人民元(中国の通貨)に対して弱くなる(ドル安元高になる)のは望ましいと理解しているようなのだ。人民元に対してドルが弱くならないように、中国政府は長年にわたってアメリカ国債を買い続けている。中国政府がドルの価格が下がるのを受け入れたら、アメリカから中国への輸出が増えてアメリカ国内の景気にプラスに働くだろう。アメリカ議会は報復する可能性をちらつかせて、中国政府がドルを弱くするために必要な措置を講じるように迫っている。

そうかと思うと、次の瞬間には強いドルの重要性を訴える声が議場にこだまするのだ。人民元に対してドルが弱くなるのが好ましいのであれば、その他の多くの国の通貨に対してもドルが弱くなれば、なおさら好ましいだろう。

こんな感じで率直に語ると、過激派だとか非国民だとかという烙印を押されかねない。しかしながら、もっと成熟して率直に意見を交わすべきなんじゃなかろうか。為替レートを管轄しているのは、財務省でもなければ、強いドルの信奉者でもない。市場なのだ。

2012年10月11日木曜日

Paul Krugman 「デレバレッジ・ショックと財政乗数」(2012年10月9日)

Paul Krugman, “Deleveraging Shocks and the Multiplier (Sort of Wonkish)”(The Conscience of a Liberal, October 9, 2012)


IMFが財政乗数の推計について懺悔していて、ジョナサン・ポルテス(Jonathan Portes)――1週間後にロンドンで財政政策について討論する予定になっていて、彼とは共同戦線を張ることになりそうだ――がそのことについてコメントを加えている。世界中の多くの政策当局者は、財政乗数の値が1を大きく下回るという前提で行動してきたが、経験に照らすなら財政乗数の値は1よりも大きいようだというのだ。

あえて指摘しておかないといけないと思うことがある。財政乗数の値が大きくなる理屈と、危機が起こる理屈との間には非常に密接なつながりがあるのだ。信用バブルが崩落した後には、財政乗数の値が大きくなると予想されるのだ。それだからこそ、信用バブルが崩落した後にどうにでもなれとあきらめてしまうと――もっとまずいことには、財政緊縮に乗り出してしまうと――、ひどい害が招かれてしまうのだ。

今みたいな混乱に陥ることになってしまったのは、どうしてなんだろう? 借り入れに対して過度に強気な姿勢が続いていたかと思ったらある日突然目が覚めたというのが、シンプルだけど概ね正しい筋書きだ。家計が負う債務が急速に膨れ上がって、ある時突如として借り過ぎだと悟られたのだ。




マクロ経済学的な観点からすると見逃せないのは、借り入れとデレバレッジ(債務の圧縮)が景気に及ぼす効果が非対称ということだ。他の事情が一定で変わらないようなら、借り入れが増えると総需要も増える。でも、そのようにして総需要が増えても中央銀行がその気になれば相殺できるし、その気になって相殺するのが通常だ。金利を引き上げるのはいつだって可能だからだ。その一方で、デレバレッジが景気に及ぼす効果を相殺するのは、借り入れが景気に及ぼす効果を相殺するのと同じくらい造作ないかというと、そうじゃない。金利を引き下げて応じるという手があるが、ゼロ%までしか下げられない。非伝統的な金融政策で応じるという手もあるが、非伝統的な金融政策については異論もあって、その効果も不確かなところがある(だからといって、非伝統的な金融政策には手を付けるなかれと言いたいわけじゃない)。

つまりは、借り入れが急速に膨張していたのが一転して、誰も彼もがデレバレッジ(債務の圧縮)に勤(いそ)しむようになると、総需要の不足が長引いてしまう可能性があるのだ。通常の金融政策によってはそのことを解決できない可能性があるのだ。僕が言うところの「不況の経済学」が当てはまる状況に陥ってしまうのだ。

信用バブルが崩落した後に財政乗数の値が通常よりも大きくなるのも同じ事情が絡んでいる。通常であれば、拡張的な財政政策は、金融引き締め(金利の引き上げ)によって相殺される一方で、緊縮的な財政政策は、金融緩和(金利の引き下げ)によって相殺される。通常の経験に基づいて導き出された財政乗数の推計値が小さいのもそのためなのだ。しかしながら、誰も彼もがデレバレッジに勤しむせいで「流動性の罠」に陥ってしまうと、金融政策によって財政政策の効果を打ち消すことができなくなる。

「流動性の罠」に陥ってしまったとしたら、財政乗数の値はどれくらいになると予想されるだろうか? 答. 1より大きい。

その理由を探るために、まずは摩擦の無い世界を想定してみるとしよう。つまりは、消費者が将来のことを完全に見通すことができて(完全予見の仮定)、誰もが資本市場に自由にアクセスできる(資本市場の完全性の仮定)と想定するとしよう。摩擦の無い世界では、財政乗数の値は1になるはずだ。政府支出が変化しても、消費支出は増えも減りもしないはずだ。それゆえ、政府支出が増えるのと同額だけGDPが増えるはずだ。その理由は? 政府支出が増えると、今の時点で所得が増えるけど、それと同時に将来における税負担も増えるからだ。それら2つの効果がちょうど打ち消し合うことになるのだ。

現実に近付けて摩擦を付け加えてみるとしよう。家計は流動性制約下にあるか、今の所得がどれくらいかに照らして消費のために使う金額を決めるような経験則(rules of thumb)に従っているとしよう――ところで、エガートソン(Gauti Eggertsson)との共著論文でも指摘したが、債務ないしはデレバレッジを組み込んだモデルを使うというのは、多くの家計が流動性制約下にあると想定していることを意味するのだ――。そのような摩擦が存在するようなら、政府支出が増える結果として今の時点で所得が増えたら、消費支出も同じようにいくらか増えるだろう。反対に、政府支出が減る結果として今の時点で所得が減ったら、消費支出も同じようにいくらか減るだろう。つまりは、財政乗数の値が1よりも大きくなるのだ。

マーケットからの「信頼」がどうのこうのという意見があるかもしれない。政府支出が変化したとして、それが将来における政府支出のもっと大きな変化の前触れであるとみんなが信じるようなら、先の結論もひっくり返るかもしれない。でも、財政刺激策が試みられたとして、将来的に何かもっと大きな変化があるに違いないとみんなが信じるかというと、そんなことは到底ありそうにない。これまでを振り返ると、財政刺激策はあくまでも一時的な措置でしかなかったからだ。財政危機に陥って慌てて財政緊縮策に乗り出す場合にしても、将来的に何かもっと大きな変化があるに違いないとみんなが信じるかというと、かなり疑わしい。

そんなわけで、財政乗数の値が大きいからといって驚くべき理由なんてないのだ。今のような危機に陥ったら、そうなるはずと予測できたことなのだ。財政乗数の値が1を大きく下回るなんていう正当化し得ない想定が受け入れられたせいで、危機の深刻化に拍車がかかってしまったのだ。

Antonio Fatas 「過小評価された財政乗数」(2012年10月8日)

Antonio Fatas, “Underestimating Fiscal Policy Multipliers”(Antonio Fatas on the Global Economy, October 8, 2012)


IMFの世界経済見通し(IMF World Economic Outlook)の最新版(2012年10月)が公表されたが、世界経済の成長が鈍化するリスクについて強く警戒されている(報告書の全文はこちら)。第1章に目を向けると、これまでの成長予測において財政乗数の大きさが過小評価されていた可能性について優れた分析が加えられている。一部を引用しよう。

多くの国々が財政再建に取り組む中で、財政乗数の大きさについて激しい議論が繰り広げられた。財政乗数の値が小さければ小さいほど、財政再建に伴うコストも小さくなる。実際のところはどうだったか? 財政再建に着手した国々のパフォーマンスは、期待を裏切るものだった。そこで当然問われるべきは、財政乗数の値が過小評価されていたのではないかということである。財政引き締めが景気に及ぼす短期的なマイナスの効果が予想を上回ったのは、財政乗数の値が過小評価されていたからではないかということである。

そうなのだ。財政乗数の値は過小評価されていたのだ。

これまでの経緯を私なりに振り返ってみるとしよう。11年くらい前に試みられた一連の学術的な研究によると、財政乗数の値は1〜1.5の範囲にあると推計されていた。言い換えると、政府支出が1%増えると、GDPが1〜1.5%増えると推計されていたのである。2001年にイリアン・ミホフ(Ilian Mihov)と一緒に書いた論文――その論文はこちら(pdf)――で私なりに達した結論でもあり、ほぼ同じ時期に書かれたオリヴィエ・ブランシャール(Oliver Blanchard)とロベルト・ペロッティ(Roberto Perotti)の共著論文――その論文はこちら(pdf)――でも同じ結論が得られている。この件についてはその後に大量の研究が積み重ねられた。数多くの論文が(財政乗数の値が1〜1.5の範囲にあるという)先の推計結果を追認したが、疑問を投げ掛ける論文もあった。例えば、戦争のようなイベントに着目した研究では、財政乗数の推計値は小さくなりがちだった。財政政策が絡んでくる問題だけに、論争はいつまで経っても鎮まらなかった。乗数の値はゼロに近い、いやマイナスだ――政府支出が増えると、それと同じ額かそれ以上に民間の支出が減る――と語る研究者も出てくる始末だった。 

論争はあったものの、2008年に危機が勃発するまでに得られていた研究成果を私なりに振り返ると、乗数の値は1くらいか1を少し上回るというのが大方の見立てだったと言っていいと思う。

2008年に危機が勃発すると、財政乗数の値がどれくらいかという問題は、学術的な論争の対象から、緊急を要する政策課題の争点になった。財政刺激策はどれくらいのインパクトを持つのだろう? オバマ政権は、財政刺激策の必要性を正当化するために、財政乗数の値が1.5くらいであることを示唆する報告書――執筆者の一人は、クリスティーナ・ローマー(Christina Romer)――を発表した。この報告書に批判を加えたのは、深刻な危機に陥っていようが総需要を管理しようなんて以ての外だと信じている人たちだった。財政乗数の値をめぐる論争は、イデオロギー闘争の様相を強めていった。その一方で、我々が今まさに直面しているような特殊な状況――金融政策がゼロ下限制約に直面していて、債務の圧縮に伴って民間の需要が落ち込んで深刻な景気後退に陥っている状況――では、乗数の値が11年前の推計値よりも大きくなる可能性を示唆する学術的な研究がちらほらと表れ出した。

しかしながら、その新しい研究成果も従来の研究成果ともども無視された。財政刺激策が試みられた後の2008年〜2009年に繰り広げられたイデオロギー色が濃い論争の結果として導き出されたのは、財政刺激策は効果がなかったし、財政緊縮に邁進することこそが求められているという結論だった。過去2年の間に多くの政府が足並みを揃えて財政緊縮に乗り出したが、乗数の値が大きい可能性を見過ごしてGDPの成長率が予測されたのだった。

IMFが最新の世界経済見通しの中で自己批判を込めて分析しているが、世界経済の成長率を予測するために使っていたモデルに検討を加えたところ、財政再建のインパクトを予測するにあたって乗数の値が0.5くらいであると暗黙のうちに想定されていたことがわかったという。GDPの成長率の実績値が予測を下回ったことを踏まえると、乗数の値は0.5を上回るのではないかというのがIMFの考えで、乗数の値は0.9〜1.7の範囲にあるかもしれないと示唆している。11年前の推計結果とほとんど同じであり、最新の推計結果とも合致する。今のような特殊な状況に置かれたら乗数の値がどうなりそうかをモデルを使って理論的に予測する試みもあるが、その大半の結果ともそれほどかけ離れていないのだ。

2012年8月11日土曜日

Barry Eichengreen&Douglas Irwin 「保護主義の誘惑:大恐慌の教訓」(2009年3月17日)

Barry Eichengreen&Douglas Irwin, “The protectionist temptation: Lessons from the Great Depression for today”(VOX, March 17, 2009)
 
1930年代における保護主義の蔓延について何がわかっているのだろうか? 保護主義に彩られた大恐慌の経験は、どんな教訓を投げかけているのだろうか? 各国の政策当局者たちは、協調して財政・金融政策をすり合わせるべきである。そのすり合わせがうまくいかないようなら、通商政策の面で1930年代と同じ過ちが繰り返されて最悪の結果になってしまうかもしれないのだ。

1930年代の大恐慌期には、保護主義が急速に台頭した。政策当局者が細心の注意を払って警戒しなければ、1930年代のように保護主義が蔓延してしまうのではないかと多くの人に恐れられている。1930年代における保護主義の蔓延について何がわかっているのだろうか? 保護主義に彩られた大恐慌の経験は、どんな教訓を投げかけているのだろうか?

大恐慌の多くの側面について今でも議論が続けられているが、全面的といっても構わないほど合意が得られていることもある。1930年代に採用された貿易制限措置は破壊的で逆効果だったというのがそれで、今のような停滞下に同じような真似をする(保護主義に身を委ねる)ことだけは絶対に避けるべきなのだ。1930年代に関税が引き上げられたり非関税障壁が導入されたりしたのは、景気を下支えするための他の手段が欠けていたからだった。海外製品に対する支出を自国製品に対する支出に振り向けようとした苦肉の策だったのだ。しかしながら、他の国の政府も同じような行動に出てあちこちで関税が引き上げられたので、意図した目的――海外製品に対する支出を自国製品に対する支出に振り向ける――を達成できずに、貿易の崩壊という結果を招いただけだった。1933年以降に大半の国で景気が回復したにもかかわらず、貿易量は30年代の終わりになっても1929年の水準に及ばなかったのである(図1を参照)。比較優位の恩恵が得られなかっただけではない。近隣窮乏化的な通商政策の応酬がネックになって、停滞から抜け出すための他の手段を互いにすり合わせるのが難しくなってしまったのである。



図1 世界の貿易量と産出量(1926年~1938年)


大恐慌についての同時代の説明なり現代の説明なりに目を向けると、1930年代にはあらゆる国が貿易障壁を設けていて、完全なる混沌に陥っていたかのような印象を受けるかもしれない。しかしながら、そのような印象は事実に反する(Eichengreen&Irwin, 2009)。貿易制限措置があちこちで導入されたのは確かだが、国によってその度合いにかなり大きな違いが見られたのである。当時の国別の関税率をまとめた図2をご覧いただきたい。30年代に入って関税率を大きく引き上げた国もあれば、そうではない国もある。あらゆる国がデンマーク、スウェーデン、日本と同じように振る舞っていたとしたら、1930年代の歴史はまったく違っていただろう。あらゆる国がデンマーク、スウェーデン、日本のように振る舞わなかったのはなぜなのだろうか?



図2 平均的な輸入関税率(1928年~1938年:単位は%)


採用していた為替相場制度が違っていたからというのが答えだ。金本位制にとどまって、平価(金と自国通貨との交換比率)を固定し続けた国ほど、貿易制限措置に訴えがちだったのだ。他の国が平価を切り下げたせいで価格競争力の面で不利な立場に置かれてしまい、国際収支(balance of payments)の悪化を食いとどめて金の流出を防ぐためにも貿易制限措置を採用せざるを得なかったのだ。景気の悪化に対処するための他の手段が欠けていたので、海外製品に対する支出を自国製品に対する支出に振り向けようとして、関税やそれに類する手段を用いたのである。

それとは対照的に、金本位制から離脱して為替レートの減価を受け入れた国では、国際収支が改善して、金が流入した。それに加えて、金本位制から離脱したおかげで、失業問題に立ち向かうための他の手段が手に入ったことも重要である。自国通貨と金(gold)の結び付きが断ち切られたおかげで、金融政策に対する縛りがなくなったのだ。平価を維持する必要がなくなったので、金利を自由に引き下げられるようになったのだ。金本位制のルールに縛られる必要がなくなったので、中央銀行が「最後の貸し手」として振る舞えるようになったのだ。金本位制から離脱したおかげで、大恐慌に立ち向かうための(貿易制限措置以外の)他の手段が手に入ったのだ。その結果が図3に示されている。鉱工業生産が順調に伸びたのだ。景気が順調に回復したおかげで、貿易制限措置に訴えずに済んだのだ。



図3 鉱工業生産の変化


金本位制から離脱して為替レートの減価を許容した国ほど、貿易制限措置に訴える度合いが低かったのだ。その一例が図4に示されているが、関税率だけではなく、為替管理や輸入割当のような非関税障壁についても同様の関係が成り立つのだ。



図4 為替レートの変化と輸入関税率の変化(1929年~1935年)


これまでに紹介してきた発見は、今現在のいわゆる大不況(Great Recession)への対処を任されている政策当局者に対しても重要な教訓を投げかけている。「保護主義を避けるために、景気を刺激せよ」というのがそれだ。しかしながら、景気を刺激するにはどうしたらいいのだろうか? 1930年代においては、景気刺激策と言えば、金融刺激策(金融緩和)を意味していた。財政政策を使って景気を刺激するという選択肢についてはよく理解されていなかったし、広く受け入れられてもいなかった。アイケングリーン&サックス(Eichengreen&Sachs 1985)が詳しく論じているように、金融刺激策は、当該国(金融緩和に乗り出した国)の景気を浮揚させた一方で、貿易相手国の景気を冷え込ませた。金利を引き下げる「チープマネー」政策は、貿易相手国に対して相反する効果を及ぼした。金融緩和のおかげで当該国の景気が上向いて輸入需要(海外製品に対する需要)が増えると、貿易相手国の景気にプラスに働くが、金利が引き下げられて当該国の通貨が減価すると、貿易相手国の景気にマイナスに働く。当該国だけが「単独」で金融緩和に踏み切ると、後者のマイナスの効果が前者のプラスの効果を凌駕したのだ。一国による単独の金融緩和は、貿易相手国の景気を冷え込ませて、その国を保護主義に向かわせたのだ。

1930年代と今とでは利用可能な政策手段に違いがあるのを反映して、抱える問題にも違いが出てくる。今はどうなっているかというと、大不況に立ち向かうために、金融刺激策に加えて、財政刺激策も試みられている。一国による単独の財政刺激策は、貿易相手国に対してもプラスに働く。財政刺激策のおかげで当該国(財政刺激策に乗り出した国)の景気が上向くと、それに伴って輸入需要(海外製品に対する需要)が増えるからである。財政刺激策が試みられるせいで世界金利が上昇するようなら、当該国でも貿易相手国でも民間投資が減る可能性があるが、今のところはその心配はなさそうだ。つまりは、いずれかの国が単独で財政刺激策に乗り出せば、貿易相手国の輸出が増える可能性があるので、貿易相手国が保護主義に訴える理由がなくなるのだ。

しかしながら、問題もある。財政刺激策の恩恵が「ただ乗りする」貿易相手国に波及することが問題視される可能性があるのだ。財政刺激策にはコストが伴う。子や孫の世代によって返済されなければならない公的債務が増えるのだ。それゆえ、財政刺激策が海外製品に対する需要(輸入需要)も増やすようなら、「バイアメリカ」(“Buy America”)条項に類した手段に訴えて、財政刺激策の恩恵が他の国に漏出するのを防ぎたくなるかもしれない。保護主義の誘惑は依然としてあるのだ。ただし、金融刺激策ではなく財政刺激策が試みられる場合に保護主義の誘惑に駆られるのは、事の成行きを静観している側(貿易相手国)ではなく、積極的な行動に打って出る側(財政刺激策に乗り出す国)なのだ。

1930年代と今とで抱える問題に細かいところで違いはあっても、答え(解決策)は同じだ。1930年代においてそうすべきだったように、各国の政策当局者たちは、協調して財政・金融政策をすり合わせる〔訳注;例えば、関連するすべての国が共同歩調をとって同時に金融緩和なり財政出動なりに乗り出す〕必要がある。そのすり合わせがうまくいかないようなら、通商政策の面で1930年代と同じ過ちが繰り返されて最悪の結果になってしまうかもしれないのだ。


<参考文献>


●Barry Eichengreen and Douglas A. Irwin (2009), “The Slide to Protectionism in the Great Depression: Who Succumbed and Why?", NBER Working Paper No 15142.
●Barry Eichengreen and Jeffrey Sachs (1985), “Exchange Rates and Economic Recovery in the 1930s(JSTOR)”, Journal of Economic History 45, 925-946.

2012年7月30日月曜日

Richard Ebeling 「ヴィンセント・オストローム ~自由と連邦主義の擁護者~」(2012年7月1日)

Richard M. Ebeling, “Vincent Ostrom (1919-2012): Political Philosopher of Freedom and Federalism”(In Defense of Capitalism & Human Progress, July 1, 2012)


2012年6月29日の金曜日に、政治学者であるヴィンセント・オストローム(Vincent Ostrom)が亡くなった。享年92歳。オストロームは、アメリカ憲法に体現されている連邦主義の構造とその特徴についてのその道の指導的な専門家の一人だった。1919年生まれで、1950年にUCLAで政治学の博士号を取得。1964年にインディアナ大学に移って、妻であるエリノア・オストローム(Elinor Ostrom)――2009年のノーベル経済学賞の受賞者で、夫が亡くなるおよそ3週間前に78歳で亡くなった――と共同で「政治理論と政策分析に関するワークショップ」を立ち上げている。

アメリカ憲法の秩序が解剖されている『The Political Theory of a Compound Republic』(1971年発行。第2版は1987年に発行)は、学術的な釈義として並外れた傑作である。 「フェデラリスト・ペーパー」の念入りな注釈を通じて、「自己統治」(“self-governing”)という概念の理解とそのユニークな特徴の解釈が試みられている。このテーマについては、『The Meaning of American Federalism:Constituting a Self-Governing Society』(1991年発行)に収録されたエッセイでさらなる検討が加えられて、様々な方向に拡張されている。

彼の真の代表作は 『The Meaning of Democracy and the Vulnerability of Democracies:A Response to Tocqueville’s Challenge』(1997年発行)だというのが私の考えだ。政治哲学、経済学、社会学、歴史、社会言語学が見事に融合された学際的な業績である。この本によると、自由な社会が存続するためには、「需要と供給の彼方」(by ヴィルヘルム・レプケ)にまで踏み出す必要があるという。

自由な民主主義社会は、選挙、立法手続き、成文憲法さえ揃っていれば何の問題もなく存立できるかというと、そうではない。オストロームが好んで引用したアレクシス・ド・トクヴィル(Alexis de Tocqueville)の表現を借りると、「心の習慣」(“habits of the heart”)や「精神の特徴」(“character of the mind”)によって支えられねばならないのだ。つまりは、社会の成員によって「共有された意味の構造」(“structures of shared meaning”)の広大なネットワークに支えられねばならないのだ。社会の秩序のあり方は、社会を構成する個々の成員が自分自身や他者をどう捉えるかに依存しているのだ。自己統治に立脚する社会秩序を打ち立てるためには、人間の価値の意味が社会の成員によって共有され、一人ひとりの尊厳が社会の成員によって認められねばならないのだ。一人ひとりが持つ夢、願望、望みが尊重されて、一人ひとりの価値観の違いが受け入れられねばならないのだ。

とりわけ重要なのは、暴力、抑圧、操作、欺瞞、腐敗――日常生活や政治的な討論の場で使われる言語の腐敗(転化)も含まれる――に頼らなくても、共同の目的のために平穏にみんなで力を合わせて協力する術を見つけ出すことは可能だし望ましくもあるということが社会の成員によって共有されねばならないことである。そのような「理念(信念)」が社会の成員によって共有されねばならないのだ――オストロームが強調しているように、信じ込まれるだけでなく、日常的に使われる言語の中に埋め込まれなければならない。言語の中に埋め込まれてこそ、社会の成員が自分自身や他者をどう捉えるかに影響が及ぶからである――。

オストロームが強調しているように、自己統治や「民主主義の精神」は、政治の世界だけに関わりがあるわけではない。いわゆる民主政治は、あくまでも全体の一部でしかないのだ。民主政治の性格やその良し悪しは、自由な個人が自発的に交じり合う自由な社会という理念――あるいは、協働的な自己統治という理念――が世の中にどれだけ広く深く行き渡っているかによって変わってくるのだ。

自己統治に立脚する社会秩序が抱える脆弱性の一つは、次の世代に受け継げるような「自己統治の遺伝子」なるものが存在しないことである。新たな世代ごとに学んで適応していかなければいけないのだ。自己統治に立脚する社会秩序を支えるために必要な「心の習慣」や「精神の特徴」が世代ごとに学び直されて更新されないようなら、弱体化してしまう可能性があるのだ。失われてしまう可能性があるのだ。

エドワード・シルズ(Edward Shils)が『Tradition』(1981年発行)で指摘しているように、社会の伝統なり慣習なりが保存され得るのは、三世代――子供と親と祖父母――が重なり合う場合だけに限られる。経験と内省を通じてのみ得られる知恵、洞察、理解、信念が若い世代に受け継がれるのは、三世代が重なり合う場合だけに限られるというのだ。

伝統にしても慣習にしても永遠に「不変」というわけではない。世代ごとに変化するし、修正されていく。しかしながら、「心の習慣」や「精神の特徴」が世代を超えて共有されていく中でそうなるのだ。

オストロームが懸念していたのは、自己統治に立脚する社会秩序を支える「心の習慣」や「精神の特徴」が失われつつあるのではないかということだった。その理由は、政府による介入が増えて福祉国家の規模が大きくなるにつれて、パターナリズムや社会工学を支持するメンタリティが世の中に広まったせいだ。

「自由の言語」が失われつつあるのだ。自由な個人による自己統治を支える言語が失われつつあるのだ。我々は、言語を通じて自分自身について考えるのだ。言語を通じて他者との関係について考えるのだ。言語を通じて社会のあり方について考えるのだ。

ナチスの時代を生き延びたユダヤ系ドイツ人であるヴィクトール・クレムペラー(Victor Klemperer)が戦後に一冊の本を執筆している。『The Language of the Third Reich』(邦訳『第三帝国の言語:ある言語学者のノート』)がそれである。クレムペラーによると、国家社会主義者と自任していたかどうかにかかわらず、ナチス・ドイツにおいては誰も彼もがナチスだったという。ユダヤ系ドイツ人をはじめとして、体制から虐げられた犠牲者の多くも含めて。

なぜなのか? ナチスの指導者たちが流布したアイデアやイデオロギーに感染したからである。思考が囚われてしまって、人生やモラルについて違った考えをするのに困難を感じたのである。人間、「人種」、社会についてのナチス流の考えを反映している言語やフレーズから独立した考えを持てずにいたのである。クレムペラーも示唆しているように、自分で自分を統治できる存在ではなくなっていたのだ。ヒトラー流の国家社会主義の言葉遣いやロジックで考えて行動しているうちに、体制の奴隷と化していたのだ。

オストロームが手遅れになってしまわないうちに警告しようとしていたことは、「他者による統治」に陥ってしまうなかれということだった。ところが、今やあまりにも多くの市民がそうなってしまいつつある。「給付」(“entitlement”)、「不労所得」(“unearned income”)、「社会正義」(“social justice”)とかいう類の言葉が氾濫していて、それらに思考が囚われつつあるのだ。

集産主義的なパターナリズムに屈するのか、それとも「自由の言語」や「自由の理念」が守り抜かれるのかによって、アメリカを舞台とする「自己統治」をめぐる偉大な実験――1830年代にアメリカを訪れたトクヴィルに強い印象を与えた実験――が今後も続行されるかどうかが決まるのだ。

ヴィンセント・オストロームの研究は、アメリカを舞台とする「自己統治」をめぐる実験の性質やそのロジックを説明しているだけにとどまらない。政治権力の分割と連邦制を通じて自由を確保しようとするアメリカの実験が人類の歴史に占めるユニークさを知らしめてもいる。その実験が途中で放棄されてしまったら、その損失たるやいかばかりか。 

ヴィンセント・オストロームは、「自由」を支える政治制度と理念に対する優れた分析を通じて、「自由の哲学」を深化させる知的遺産を後世に伝えているのだ。

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<訳者による追記>
 
ヴィンセント・オストロームの思想の全体像を知るには、R. ワグナーの以下の論文が参考になるかもしれない。
 
● Richard E. Wagner (2005), Self-governance, polycentrism, and federalism: recurring themes in Vincent Ostrom's scholarly oeuvre”(Journal of Economic Behavior & Organization, Vol. 57 (2), pp. 173-188;こちら(pdf)で閲覧できたり・・・

2012年7月25日水曜日

「ケインズ経済学に対する新たなる基礎づけ;ジョージ・アカロフへのインタビュー」

The New Case for Keynesianism;Interview with George Akerlof(pdf)”(Challenge, vol. 50, no. 4, July/August 2007, pp. 5–16)


現在主流の経済学で広く受け入れられている諸前提に挑むのはノーベル経済学賞受賞者でもあるジョージ・アカロフ。市場参加者の意思決定(なぜそのような意思決定を行うのか、意思決定はどのように行われるのか)に関してもっと現実的な見方に立てば、ケインジアンの信念が無理のないかたちで正当化されることが判明するだろう。政府による政策は経済を運営する上で決定的な役割を果たす。政府による政策を欠いた状態では、我々は一層大きなリスクに直面することになり、おそらくは経済成長は鈍化することになるだろう。

インタビュワー;アカロフ教授、この冬(訳注;2006年の冬)にあなたがアメリカ経済学会の総会で行われた会長講演(欄外訳注)は大変挑発的な内容でした。講演では現在主流の経済学で広く受け入れられている教義のいくつかに対して正面切って挑戦をなされました。講演の目的というのは一体どのようなものだったのでしょうか?
 
アカロフ;そもそも私が経済学を学び始めた理由は特にマクロ経済学、それも基本的には失業の原因(どうして失業が生じるのか、といった問題)に興味を持ったことにありました。失業の問題は私がこれまでに学者としてのキャリアを通じて行ってきた研究の大半の中心をなしてきたと言えます。先の会長講演では、現在主流のマクロ経済学に関する私なりのビジョンを提示するとともに、古いタイプのマクロ経済学-私個人の目には常に常識的な見解として映ってきたマクロ経済学-に対してもっと高い評価を与えるべき理由について説明したいと考えました。ここで古いタイプのマクロ経済学というのは基本的にはケインズのマクロ経済学のことを指しています。

インタビュワー;ケインズはこれまでに(ケインズが自説を発表した当時においてもそれ以降の時代においても)辛辣な批判にされされてきました。アカロフ教授が試みようと考えてらっしゃるのはこのケインズ批判の潮流を反転させることにあるのでしょうか?

アカロフ;ケインズに対する攻撃は彼の古典的な著作である『雇用、利子および貨幣の一般理論』が発表された1936年当時から既に見られたところではありましたが、ケインズ主義(Keynesianism)はまたたく間に教科書や経済学的な思考(economic thinking)における標準的な見解として定着することになりました。しかしながら、1970年代~1980年代に入ると、ケインズ経済学の理論体系とそれを支える諸前提に対してちょっとした修正を施すと、最終的に理論上における大きな変化がもたらされることを幾人かの経済学者が発見することになったのです。

インタビュワー;「ケインズ経済学」ということで正確にはどのようなことを意味されているのでしょうか? まずはこの点についてお話しいただけるでしょうか?

アカロフ;「ケインズ経済学」ということで私が意味しているのは、政府は経済の安定化を図る役割を担うべきである、ということです。政府がその役割を果たすにあたっては金融政策に頼ることができるでしょうし、金融政策がうまく機能しない場合には財政政策に頼るという選択肢もあるでしょう。具体的な手段はともかく、「ケインズ経済学」においては、経済の安定化を一国政府の責任の一つと見なすのです。

インタビュワー;『一般理論』が出版された当時、ケインズは金融政策-マネーサプライや金利の操作-よりも財政政策-税金や政府支出の操作-にずっと大きな関心を持っていると解釈されていました。これはケインズに対する誤った解釈であるとお考えでしょうか?

アカロフ;いや、そうは思いません。ただ、ケインズが執筆していた当時は他の時期とは状況が大きく異なっていた点を思い出す必要があります。大恐慌当時においてプライムレート(優良企業向けの優遇貸出金利)はほぼゼロ%の水準にありました。そのため、金利への影響を通じて機能する金融政策は(経済を刺激する上で)ほとんど何の効果も持ち得ず、頼れるのは財政政策だけという状況だったのです。しかし、戦後になり再び繁栄が戻ってくると、金利がゼロ%に近い状況というのはもはやお目にかかれなくなり、経済の安定化を図る手段として再度金融政策に頼ることが可能となりました。加えて、金融政策は財政政策よりも柔軟性に富んでいるように思われます。 というのも、金融政策は大統領や議会ではなく中央銀行(アメリカではFRB)によって決定されているので速やかに変更することが可能だからです。そういうわけで、現在では(財政政策だけではなく)金融政策と財政政策の両者ともにケインズ政策に含まれると考えられています。景気が悪化すると景気の浮揚を狙って政府が減税に臨んだり、時には政府支出の増加に臨む傾向を目にするでしょうが、これはまさしく古典的なケインズ流の財政政策です。

インタビュワー;さて、先ほど、1970年代~1980年代に入るとケインズ経済学を支える諸前提に対して修正が施されることになった、とのお話がありましたが-そのような修正は主にミルトン・フリードマン(Milton Friedman)をはじめとしたシカゴ大学の経済学者によって施されたと言っても差支えないと考えるのですが-、ケインズ主義に対する攻撃をひきつけることになった(ケインズ経済学を支える)諸前提というのはどのようなものだったのでしょうか? 

アカロフ;基本的には3つの前提です。まず1つ目は、現在の消費は現在の所得に依存する、という前提です。この前提に対してミルトン・フリードマンは、「それは間違いだ。人は合理的であり、それゆえ、個々人が現在どれだけ消費するかは単に現在の所得だけに依存するのではなくこれから先の生涯全体にわたる所得(訳注;もっと正確には、恒常所得)にずっと大きく依存するはずである。さらには、個々人が資産を保有している場合には、資産もまた現在の消費に影響を与えるだろう」、と反論しました。もしフリードマンのこの反論が正しいとすると、ケインズ政策の実施は一層困難なことになります。というのも、政府支出の増加を通じて人々に仕事が提供され現在の所得が増加するとしても、(フリードマンの反論が正しければ)現在の消費は現在の所得にそれほど敏感には反応しないので、政府支出の増加が有する乗数効果は小さくなるだろうからです。

インタビュワー;フリードマンの反論が正しければ、政府支出の増加が経済を刺激する効果は(ケインズ経済学において想定されている場合よりも)小さくなるということですね。ところで、フリードマンとよく似たモデルを提案した経済学者として例えばフランコ・モジリアーニ(Franco Modigliani)やジェームス・デューセンベリー(James Duesenberry)といった人々-フリードマンのように政治的な保守派であるとは言えない経済学者-がいます。彼らのモデルはフリードマンのものと同じと見ていいのでしょうか? それともいささか違ったところがあるのでしょうか?

アカロフ;基本的には同じと見て構いません。ですので、(ケインズ経済学を支える)1つ目の前提に対して反論を加えたのはフリードマンだけではない、ということになりますね。フリードマンの恒常所得仮説には支持するに値する見解があると信じられており、その見解が広く共有されているわけです。その見解というのは、つまりは、現在の消費は現在の所得だけに依存するわけではない、というものです。 しかしながら、ケインズが執筆したものを見ると、彼が大変慎重であったことがわかります。確かにケインズは、現在の消費は主に現在の所得に依存すると述べていますが、同時に彼は現在の消費が依存する可能性のあるそれ以外の変数からなる長いリスト-その中には将来の所得も含まれます-を掲げてもいるのです。フリードマンのユニークな点は、現在の所得は富-すべての将来所得を含んだ富-の一部として勘定される以外のかたちでは(訳注;富ならびに恒常所得を変化させない限りは)現在の消費に対して影響を与えることはない、と主張したところにあります。これは極端な見解であると言えます。ところで実際の事実を見ますと、現在の消費はかつてケインズが主張したのとそっくりのかたちで現在の所得に依存しているように思われます。しかし、そうだとしたら問題が生じることになります。フリードマンが主張したように、人々が合理的であるとすれば、消費の決定は恒常所得に基づいて行われるはずですが、そうだとすると現在の消費が現在の所得に依存するという事実をどう説明したらよいのでしょうか? この事実を説明する上で最も簡単な方法は、人々は規範(norm)に従って行動していると想定することにあると私は考えます。消費はどのようにあるべきか(どれだけの金額を消費するべきか/消費してもよいか)という点に関して人はそれぞれに見解を持っており、その見解はどれだけの額を支出に回す権利(資格)があると感じているか(how much they feel entitled to spend)に依存していると考えられるのです。大半の人々にとっては、自らが支出に回す権利があると感じる額は現在どれだけ稼いでいるか(現在の所得)に大きく依存するでしょう。現在の所得以上に支出すると、何か不味いことをしているのではないかと感じるのです。こういった理由で、現在の所得は現在の消費を決定する上で特別な役割を果たすことになるのです。現在の消費と将来の消費との間の選択は-フリードマンが主張したように-単に経済的な便益と経済的なコストとを天秤にかけて行われている、というわけではないと考えられるのです。

インタビュワー;次に他の前提についてお話をうかがうことにしましょう。ケインズ主義に対する攻撃をひきつけることになった1つ目の前提は消費関数を巡るものでしたが、その他の前提はどのようなものだとお考えでしょうか?

アカロフ;2つ目の前提は投資に関するものです。企業が投資を行うのは投資がもたらす経済的な報酬が投資の実施に要する経済的なコストを上回る場合に限ってである、との見解がありますが、これとは対照的にケインズは、企業による投資はキャッシュフローにも依存する、と主張しました。大きな利潤を手にした企業は(訳注;その大きな利潤を基にして)大規模な投資を行い、一方で、それほど利潤をあげられなかった企業は(訳注;その小さな利潤を基にして)わずかばかりの投資しか行わない、と考えたのです。

インタビュワー;企業の投資に関するケインズのその前提に対してどのような反論があったのでしょうか?

アカロフ;フランコ・モジリアーニとマートン・ミラー(Merton Miller)という2人の経済学者が次のような理論を発展させて反論を寄せたのです。もし人々が完全に合理的だとすれば、経営者は株主に対して可能な限り最大の収益をもたらすように行動するので、その結果として企業による投資は現在のキャッシュフローからは独立して決定されるだろう。企業による投資はこれから実施される予定の投資の収益性のみに依存するだろう、と。しかし、先ほど話した現在の消費と現在の所得との関係の例のように、ここでも実証的な事実はモジリアーニ=ミラーの理論に疑問を投げかけているのです。現実には、企業による投資は現在のキャッシュフローに敏感に反応しているのです。
 
インタビュワー;つまりは、ここでもまた反ケインズ的な見方からケインズ的な見方への回帰が生じた-他にもっと適当な表現があるのかもしれませんが-ということですね。

アカロフ;そういうことです。そして、この事実をうまく説明するような新たな理論、経営者の行動に関する新たな理論というのも開発されています。この理論では、経営者は単に株主の利益のことだけを考えて企業を経営しているわけではなく、経営者は自らが念頭に置いている利益もまた追求しようと試みるものだ、と捉えます。彼ら経営者は「帝国の建設者(empire-builders)」であって、利用可能な資金があればそれを基にして自分にとって望ましいと感じるような仕方で投資を実施するのです。こうして、私たちは再びケインズ的な見方に立ち戻ることになります。キャッシュフローが豊富にあると、それを基にして大規模な投資が行われることになるのです。

インタビュワー;ということは、かつてケインズ主義を覆した前提が今後は逆に覆されつつある、というわけですね。

アカロフ;もし現実の人間が標準的な経済学のモデルにおいて想定されているのとは別のものを最大化しようと試みるのだとすれば-現実の人間が合理的な経済人とは異なる利益を追求するとすれば-、最終的に得られる結論は標準的な経済学のモデルが予測するのとは異なったものとなることでしょう。そして、その結論はオリジナルのケインズモデルと似た性質を備えていると考えられるのです。

インタビュワー;それでは、3つ目の前提についてお話しいただけるでしょうか?

アカロフ;この3つの目の前提というのは私が最も重要だと考えるポイントでもあります。さて、賃金や価格というのはどのように設定されるのでしょうか? 40年ほど前、ミルトン・フリードマンとエドモンド・フェルプス(Edmund Phelps)は非常に興味深い理論を公にしました。彼らが主張するには、失業率がある水準-自然失業率と呼ばれています-を下回ればインフレーションが加速することになり、反対に、失業率が自然失業率を上回ればデフレーションが加速することになる、というのです。どうしてそうなるのでしょうか? 彼らによればその理由はこういうことです。現実の失業率が自然失業率を下回ったとすれば、現実のインフレ率は期待インフレ率を上回ることになるでしょう。現実のインフレ率があらかじめ予想していた以上の高さであることが判明すれば、労働者は賃金の引き上げを要求し、経営側は自社製品の価格引き上げに臨むことになるでしょう。このようにして、現実の失業率が自然失業率を下回るとインフレーションが加速することになる、というのです。もしフリードマン=フェルプスの主張が正しいとすれば、財政政策は長期的な失業の水準にほとんど何の影響も及ぼせない、ということになるでしょう。というのも、現実の失業率が自然失業率を下回ったとしても(訳注;その状態は一時的なものでやがて現実の失業率は自然失業率に落ち着き)最終的にインフレーションが加速するだけであり、現実の失業率が自然失業率を上回ったとしても(訳注;その状態は一時的なものでやがて現実の失業率は自然失業率に落ち着き)最終的にデフレーションが加速するだけ、ということになるからです。

インタビュワー;フリードマンとフェルプスによって自然失業仮説が提唱される以前は、フィリップスカーブが大きな影響力を誇っていました。

アカロフ;その通りです。かつては、インフレ率の水準と失業の水準との間にはトレードオフが存在する、と考えられていました。つまりは、失業率が低ければ低いほどそれに応じてインフレ率は高くなる、と考えられていたのです。ところが、フリードマンとフェルプスによれば、失業率が自然失業率を下回るような状況では、(訳注;インフレ率が上昇することと引き換えに失業率が低下する、ということはなく)インフレーションがコントロールを失って加速するような悪循環が生じることになる、というのです。

インタビュワー;フリードマンとフェルプスによる自然失業率仮説は政府による政策に対してどのような意味合いを持っているのでしょうか?

アカロフ;もし彼らの理論が現実に妥当するのだとすれば、金融政策や財政政策によっては現実の失業率を長期にわたって自然失業率と大きく異なるような水準にとどめておくことはできない、ということになります。つまりは、金融政策や財政政策は経済の長期的な繁栄(繁栄というのは結局のところ職(job)の問題に尽きます)に対して何の効果も持たない、ということになるのです。

インタビュワー;なるほど。それではなぜフリードマンとフェルプスの主張は成り立たないとお考えなのでしょうか?

アカロフ;彼らの主張には真実の要素が含まれてはいます。価格を設定するにあたって、人々はある程度期待インフレ率を考慮する、というのは確かにその通りでしょう。賃金契約に臨むにあたって、人々はおそらくこの先のインフレ率がどうなりそうかを考慮に入れることでしょう。しかし、フェルプスやフリードマンの理論は高い正確性と合理性を要求しています。彼らの理論では、期待インフレ率が1%ポイントだけ上昇すると、人々は設定する価格を1%ポイントだけ引き上げ、名目賃金の1%ポイントの引き上げを求める、と見なされているのです。これは非現実的なまでの正確性を要求するものと言えます。期待インフレ率が価格や賃金の設定に影響を持っているのは確かだと私も考えますが、両者が正確に1対1で対応している(訳注;価格や賃金が期待インフレ率の変化とそっくり同じ規模だけ改訂される)かどうかはわかりません。統計上の証拠は、両者が1対1で対応していることを明白な形で支持している、というわけではありません。どうやら多くの経済学者は期待インフレ率が価格や賃金の設定に及ぼす影響を現実よりもずっと強力なものとして解釈してきたようです。さて、期待インフレ率と価格・賃金の設定とが1対1では対応していないとすれば、どういうことになるでしょうか? 結論を言いますと、インフレーションと失業率との間には、フィリップスカーブが示唆するように、かなりのトレードオフが存在することになるかもしれないのです。

インタビュワー;期待インフレ率と価格・賃金の設定が1対1で対応するかのように見なしてきた経済学者らは一体何を見過ごしてしまったのでしょうか?

アカロフ;重要なポイントは貨幣錯覚(money illusion)の存在です。貨幣錯覚が存在する、ということは、人々は名目価格(nominal price)を通じてものを考えるということです。もし5ドルだけ名目賃金が上昇したら、人々はそれ以前(賃金上昇前)に手にしていたよりも5ドル多く、あるいは何かしらを多く手にすることになると考えるのです。たとえインフレーションが生じていたとしても、です。つまりは、貨幣錯覚が存在する場合、人々は賃金でどれだけの財が購入できるか、というようには考えないのです。そして、非常に重要な2つのインタビュー調査によれば、名目賃金が上昇すると、たとえ財の価格が同じだけ上昇していたとしても、人々は名目賃金の上昇を受けて以前よりも幸福を感じることが明らかにされています。今私が主張していることとフリードマン=フェルプスが主張していることとの違いは、フリードマン=フェルプスによる想定、つまりは、人は皆極めて合理的である、との想定にあります。フリードマン=フェルプスによれば、人々が賃金について考える際には、自らの賃金でどれだけの財が購入できるかという点にしか注意が向けられない-言い換えれば、人々はインフレーションで調整した賃金(実質賃金)にしか興味がない-、と見なされているのです。しかし、実際のところ人々は賃金を貨幣単位で考えている(訳注;名目賃金それ自体に興味を抱いている)ことを示す様々な証拠があります。この事実がはっきりと表れている例を一つ挙げると、人々は賃金のカット(切り下げ)を嫌う、というのがあります。それも特に名目賃金のカットを嫌うのです。人々は賃金や給与のカットを経済的な観点から解釈するにとどまらず、賃金のカットを個人的な侮蔑としても受け取る傾向にあります。そのために、経済的に見て筋が通っていたとしても、人々は賃金のカットに抵抗することになるのです。一方で、名目賃金の上昇がインフレーションに遅れをとる場合(訳注;名目賃金は上昇する一方で実質賃金は低下する場合)、人々は名目賃金がカットされる場合ほどには心がかき乱されることはありません。実際に統計上の証拠を眺めると、名目賃金がカットされた例というのはほとんどないことがわかります。もし人々がフリードマン=フェルプスが想定するほどに合理的なのだとすれば、人々は名目賃金の上昇がインフレーションに遅れをとる場合にも名目賃金がカットされる場合と同じような反応をしてしかるべきなのですが・・・・。

インタビュワー;今ご説明いただいたお話が政策に対して持つ意味合いはどういったものになるでしょうか?

アカロフ;オリジナルの自然失業率仮説からは、政府は経済の状況を改善し得ない、との含意が導かれることになりますが、一方で、貨幣錯覚が存在する場合には、労働者は自然失業率仮説が予測するところとは違って必ずしも期待インフレを賃金契約に反映させる(訳注;期待インフレ率の上昇分と同じだけの名目賃金の引き上げを要求する)ことはありません。その結果として、インフレーションと失業との間の長期的なトレードオフが復活する、ということになるのです。

インタビュワー;さらなる景気刺激策が採用されれば失業率は低下することになるかもしれない、ということでしょうか?

アカロフ;そうです。そして、穏やかなインフレーションは望ましいことだ(a little inflation is a good thing)、との結論が導かれることになります。これはある意味で、失業を減らすために人々が抱く貨幣錯覚を利用している、と見なすことができるでしょう。穏やかなインフレーションは雇用の妨げにならない、というわけですが、この見解は重要なインプリケーションを有しています。極めて低率のインフレーションの達成を目指してこれまでに奮闘を繰り広げてきた政府がいくつかありますが、そういった国では同時に高金利と経済成長の鈍化が見られました。例えば、1990年代を通じてカナダの金融政策は極めて低率のインフレーションの達成を目指して運営されましたが、同期間におけるカナダの失業率は大変高い水準を記録することになりました。インフレーションを極めて低い水準にとどめておこうとする過ちのために、経済成長の鈍化と不必要に高い失業率という高いコストを支払う結果となったわけです。

インタビュワー;1980年代から1990年代の初頭にかけてアメリカで追求されたインフレ率も低すぎであった、とお考えになりますか?

アカロフ;アメリカに関してははっきりとしたことは言えませんが、ただ、あまりに低率のインフレーションを目標とすることは重大な損害をもたらし得る、との警告であると受け止めていただきたいと思います。

インタビュワー;最近の経済学の教科書を読むと、執筆者がフリードマンにシンパシーを感じているような場合だけではなく、例えば、MITの伝統の中で育ったような人物が執筆者である場合でも、 自然失業率仮説に従順な様子が感じ取れますね。

アカロフ;そうですね。実にその点は会長講演でのメッセージの一つでもありました。「私たちはあまりにも自然失業率仮説に傾倒しすぎているのではないか? この点について冷静に考え直すべきではないか?」、というメッセージですね。もうちょっと丁寧に説明させていただきますと、優れた経済学者であれば誰でも、インフレ期待が賃金や価格の設定に影響を及ぼすだろう点には同意するでしょう。しかし、インフレ期待が賃金や価格の設定に影響を及ぼすと信じることとインフレ期待と賃金・価格の設定が1対1で対応していると主張することとの間には大きなギャップがあるのです。統計上の証拠によれば、確かにインフレ期待が価格や賃金の設定に影響を与えていることがわかります。統計上の証拠によれば、インフレ期待と価格・賃金の設定が1対1で対応している可能性を棄却することはできませんが、同時に、インフレ期待と価格・賃金の設定との結び付きが1対1での対応よりずっと弱い可能性もまた棄却されないのです。インフレ期待が価格や賃金の設定に及ぼす影響はゼロではないかもしれませんが、両者のつながりは1対1での対応よりずっと弱い可能性もあるのです。自然失業率仮説に対しては現状よりも少しばかり冷めた態度で接するべきなのです。実際の証拠は自然失業率仮説に関して広く受け入れられている見解を支持するものではなく、さらには、今日のようにインフレ率が低い場合には自然失業率仮説が妥当する可能性は特に小さくなるのです。後者(訳注;インフレ率が低い場合には自然失業率仮説が妥当する可能性が小さくなる点)については多くの証拠があります。

インタビュワー;どのような証拠でしょうか?

アカロフ;1930年代に大変痛ましい経済実験が行われることになりました。大恐慌(Great Depression)ですね。大恐慌の期間を通じて失業率は極めて高い水準にありましたが、当時の失業率は自然失業率-妥当なかたちで推計された自然失業率-を大きく上回っていたと思われます。自然失業率仮説が正しければ、現実の失業率が自然失業率を上回った結果としてデフレーションが加速していたはずです。しかし、現実にはそういったことは起きませんでした。1930年代を通じて失業率は極めて高い水準にあり、その結果として確かに低率のインフレーションが生じることにはなりましたが、自然失業率仮説が予測するようにデフレーションが加速するというようなことにはならなかったのです。

インタビュワー;これまでご説明いただいた議論は合理的期待形成理論に対しても疑問を投げかけることになるでしょうか?

アカロフ;自然失業率仮説や合理的期待形成理論のキーとなる想定は、通常思われている点とは違うのではないかと私は考えています。もう少し細かく説明させていただきましょう。多くの人々は、合理的期待形成理論のキーとなる想定は、市場参加者は将来に対して合理的に期待を形成する点にある、と見なしているようです。しかし、私個人としては、合理的期待形成理論のキーとなる想定は、人々は貨幣錯覚を抱かない、という点にあると思います。もし貨幣錯覚が存在するようであれば、たとえ人々が合理的に期待を形成するとしても、経済の安定化を図る上でシステマティックな金融政策に頼り得る余地が残されることになるでしょう。

インタビュワー;もう少し詳しくご説明していただけるでしょうか?

アカロフ;合理的期待形成理論によれば、金融政策は経済の安定化効果を持ち得ない、ということになります。その理由はこうです。もしマネーサプライの増加が賃金や価格の上昇を上回るようであれば、 金融政策は景気刺激効果を持つことになります。マネーサプライが物価水準よりも速やかに上昇するために(訳注;実質的な貨幣残高(マネーサプライを物価水準で除したもの)が増加するために)、総需要が増加することになるからです。しかしながら、貨幣錯覚が存在しない場合、金融政策の変更があらかじめ予見されていれば、賃金や価格はマネーサプライの増加と比例するかたちで引き上げられることになり、その結果として金融政策の効果が相殺されることになるのです。一方で、もし貨幣錯覚が存在すれば、人々はあらかじめ予見されたマネーサプライの変化を完全に相殺するようには行動しないと考えられます。貨幣錯覚が存在する状況では、マネーサプライの変化ほどには価格や賃金は変化しない(訳注;例えば、マネーサプライが増加した場合、賃金や価格はマネーサプライの増加ほどには引き上げられない)と考えられるのです。そうだとすると、あらかじめ予見されたマネーサプライの変化であっても生産や雇用に対して効果を持ち得ることでしょう。

インタビュワー;リカードの中立命題(Ricardian equivalence)も成り立たないとお考えでしょうか?

アカロフ;はい。リカードの中立命題については例を用いて説明することにしましょう。例えば、リカードの中立命題では、現代世代に対する社会保障給付の増加は現時点での支出(消費)に影響を与えない、と主張されます。その理由は、社会保障給付の増加を賄うために将来的に増税されるだろうと人々が予想するから、というのです。将来世代の消費水準を維持しようとの思いから、現代世代の人々は将来の増税(将来世代に対する税負担の増加)を予見して社会保障給付として受け取った分を(将来世代に相続する遺産として)貯蓄に回すだろう、というのです。このような理屈が現実をうまく描写していると信じる人はほとんどいないと私は思います。私であれば、ポケットに以前よりも多くのお金を持ち合わせていることを知ったとすれば、これまでよりもたくさん支出に回す権利があると感じることでしょう。

インタビュワー;合理的期待形成理論の後継者であり、リカードの中立命題といとこのような関係にあるのは実物的景気循環理論であると思われます。実物的景気循環理論でもまた政府による介入は何の助けにもならないと想定されています。実物的景気循環理論についてはどのようにお考えでしょうか?

アカロフ;実物的景気循環理論はその前提が非現実的であるためにうまくいかないと思います。実物的景気循環理論では、人々は貨幣錯覚を抱かないと想定されているのです。

インタビュワー;金融政策についてお考えになる際は、マネーサプライの成長率を頭に浮かべられるのでしょうか? それとも金利でしょうか?

アカロフ;今回のインタビューでは金融政策は主にマネーサプライの水準に影響を与えるものとして語ってきましたが、金融政策は金利を決定するものだと考えたとしても私の議論の本質は変わらないと思います。

インタビュワー;マネーサプライと金利とは切り離せないので、マネーサプライの観点から考えるか、それとも金利の観点から考えるかというのは重要ではない、という意味でしょうか?

アカロフ;金融政策は金利に影響を与えるのか、それともマネーサプライに影響を与えるのか、といった話は重要ではないと私は考えます。というのも、どちら一方の水準を決めたら、暗黙のうちに他方の水準も決めていることになりますからね。

インタビュワー;わかりやすい言葉で表現させていただくと、アカロフ教授の結論は、政府による政策は重要である、ということになるでしょうか。

アカロフ;私はケインジアンの見方に賛同しています。ケインジアンの経済認識はいつでも正しいものであった、と個人的には考えています。大恐慌についても戦後についても彼らの経済認識は正しいものでしたし、今日においてもケインジアンの経済認識は相変わらずその妥当性を失ってはいません。結論めいたことを言いますと、資本主義システムは人々が望む財を提供する上で極めて強力な仕組みであって、多くのメリットを備えています。しかし、だからといって、システムへの介入が果たすべき役割は何もない、ということにはなりません。政府は雇用水準に影響を与える上で責任があります。というのも、政府はそうすること(雇用水準に影響を及ぼすこと)が可能なのですから。戦後世界の経済的な成功は、政府が雇用に対する責務を果たすことへの信頼(faith)の上に成り立っていた(訳注;政府が雇用に対する責務を果たすに違いないとの信頼があったからこそ戦後世界の経済的な成功が可能になった)、と私は考えます。そのような信頼があれば、経済が不調に陥った場合でも、投資に回すはずであった資金を手に人々がどこかに逃亡するなんて事態は生じないでしょう。政府が完全雇用を維持する責務を果たすだろうから経済はそのうち復調するに違いない、と予想されるからです。過去60年にわたって西洋経済が完全雇用に極めて近い状況を保ち続けてきた主要な理由はまさにこの点(訳注;政府が雇用に対する責務を果たすことへの信頼が存在していた点)にある、と私は考えます。政府は経済の安定化を図る能力と責務がある、との発想に頼ることができなければ、私たちはこの先一体何が起こるのか見当もつかない状態に置かれることになるでしょう。そうなれば大変深刻な損失がもたらされることになるかもしれません。

インタビュワー;設備投資の決定や企業の意思決定、労働者の意思決定における不確実性が高まることになれば、それに伴って生じる損失は有害なものとなり得ますね。

アカロフ;そうですね。「政府を廃止せよ!」と訴える人々は、政府が廃止されることでこの世は一層見通しが良くなる(確かなものとなる)と考えているようです。そのような見方は私が考えるところとは正反対の見方ですね。

インタビュワー;今回アカロフ教授に披露していただいた見解といわゆるニューケインジアンの見解との間にはどういった違いがあるのでしょうか? ニューケインジアンのキーワードは「摩擦」(“frictions”)-賃金や価格の設定が粘着的になる根拠となるもの-ですが、この摩擦の存在がケインズ的な刺激策を正当化することになるわけですが。

アカロフ;「摩擦」を強調する議論に対しては何の反論もありません。ただ、今回お話しさせていただいた議論はケインジアンが心に抱いていた考えに対してもっとしっかりとした基礎を提供するものだと個人的には考えています。

インタビュワー;「摩擦」よりももっとしっかりとした基礎ということですか?

アカロフ;そうです。私の議論は「摩擦」を強調するニューケインジアンの議論を大きく補強することになると思います。ただ、「摩擦」を強調する議論に対しては反論があり得るのも確かです。「摩擦」の多くは情報の非対称性(asymmetric information)-特に、雇用者と被雇用者との間での情報の非対称性-が原因で生じますが、賃金契約を工夫することで情報の非対称性に伴う問題を和らげることは可能です。他にも、「摩擦」は精々小さなものであって、それゆえに景気循環に対してはわずかばかりの効果しか持たないとの反論もあり得ます。そういうわけで、「摩擦」を強調する議論は私の議論よりも脆い面があるのではないかと個人的には考えています。

インタビュワー;全体のまとめをしていただくとどうなるでしょうか?

アカロフ;ケインジアンの理解は基本的には正しかった、ということです。

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(欄外訳注)

インタビュワーの最初の質問で言及されている会長講演は以下。

●George A. Akerlof(2007), “The Missing Motivation in Macroeconomics”(American Economic Review, vol.97(1), pp.5–36;ドラフトはこちら(pdf))

なお、アカロフの本講演に関しては梶ピエール氏が詳細な解説を加えてらっしゃいます。本インタビューで触れられている内容についてもう少し深く突っ込んで知りたいという方は是非ともご一読あれ。

●梶ピエール、「『アニマルスピリット』の議論の原型」(梶ピエールの備忘録。, 2009年6月4日)

2012年7月19日木曜日

Mark Pennington 「『左派』と公共選択論」(2012年1月30日)

Mark Pennington, “‘The Left’ and Public Choice Theory”(Pileus, January 30, 2012)


「公共選択論」のことを「左派」に話すと、色んな反応が返ってくるだろう。

まずは、「無知」だ。公共選択論という学問の存在自体を知らないわけだ。私が学者に成り立ての時のことだが、講義で1時間にわたって「規制の虜」理論――規制当局が規制対象である企業の言いなりになってしまう現象――について説明したら、社会主義労働者党と関わりを持っていた学生から講義終了後に次のように尋ねられたことがある。「先生はいつマルクス主義者になられたのでしょうか?」。ラディカルな「反マルキスト」を自任している身としては、正直言って面食らってしまったものだ。この学生の反応は、アカデミズムの世界に蔓延っている態度の一つを例証している。すなわち、企業が権力を振るって儲けているのに関心を持つような人間は、左派ないしは社会主義にシンパシーを抱いているに違いないと当然視する態度である。世の中の「権力関係」に古典的自由主義(classical liberal)あるいは自由市場を支持する立場から切り込んで分析を加える――公共選択論もそのうちの一つ――のも可能だとは思いも寄らないらしいのだ。 

「忌避」という反応もある。公共選択論の分野でどんなことが言われているかはそれとなく知っているが、公共選択論を脅威に感じて「忌避」するわけだ。どうして脅威に感じるかというと、公共選択論の方がネオマルクス主義よりも世の中の「権力関係」についてうまく説明できるからというのが理由の一つなんじゃないかと思う。公共選択論は、権力の配分についてのナイーブな多元主義的な見解を退ける。どの集団も同等の権力を持っているとは見なさないのだ。「資本家」(ブルジョア)と「賃金労働者」(プロレタリアート)という「階級」間で権力闘争が行われるとは想定せずに、一人ひとりの個人が直面しているインセンティブが集団として結束する能力だったり集団としての権力の大きさだったりにどんな影響を及ぼすかに注目する。企業が大きな権力を持ち得るのは確かだが、その理由は「企業だから」というわけでもなければ、「資本主義社会だから」というわけでもない。少数の大企業が市場を支配しているような部門であればという条件がつくが、「納税者」だとか「消費者」だとかという他の集団に比べて、「集合行為問題」ないしは「ただ乗り問題」を克服しやすいからなのだ。その一方で、競合他社の数が多くて市場での競争が激しい部門では、なかなかそうはいかない。むしろ、「労働組合」だとか「官僚」だとかの方が政治的に大きな影響力を持つ場合さえある。公共選択論では、企業(あるいは資本家)だとか労働者だとかを一緒くたに扱わない。政治的に大きな影響力を持つ企業もあればそうじゃない企業もあるし、政治的に大きな影響力を持つ労働者もいればそうじゃない労働者もいると見なす。集団の成員一人ひとりが直面しているインセンティブや組織編制の問題が成否を分けると見なすのだ。現実の世界では、多様な特殊利益が政策に反映されている。「階級支配」という単純な理論よりも公共選択論の方がそのような現実をうまく説明できるのだ。

左派の多くが公共選択論を脅威に感じて「忌避」するのは、特殊利益の力を削ぐにはどうしたらいいかという問題も関わっているんじゃないかと思う。政府が市場に介入しようとすると企業の言いなりになってしまうことが多いとすると――左派の多くはそう考えているようだが――、政府に裁量権をもっと与えるという「解決策」は特殊利益の力を削ぐのに役立ちそうにない。市場への介入が増えることになるわけだから。「私有財産を廃止して、何らかの公共団体に意思決定権を集中させるしかない」というのがマルキストが代わりに提示する「解決策」だろうが、説得的とは思えない。公共選択論の立場からすると、政府の手を縛るのが一番の特効薬ということになろう。現代の社会民主主義的な政府が市場に介入して、競争を制限しようとするのが元凶なのだから。この「解決策」が求めているのは、格差が一切ない夢のような平等な世界の実現ではない。「小さな政府」の実現である。優れた成果や創意工夫ゆえに格差が生じるのは歓迎する一方で、政治的なコネを持っているがゆえに生じる格差を最小限に抑えるような枠組みの実現なのだ。

最後に、「否定」という反応もある。政治というのは、企業/労働組合/官僚がそれぞれ政府に働きかけて公益を犠牲にして私腹を肥やそうとするゲームのようなものだと聞かされると、政治というのはそういうものじゃないと「否定」するわけだ。政治を突き動かしているのは、「利害」ではなく「価値」(あるいは、観念や理念)なのであり、お前ら(公共選択論が専門の経済学者たち)はそのことを見過ごしている、と言い返すわけである。私としては、大いにシンパシーを感じる反論だ。世の中で実施されているどの公共政策にしても、背後に特殊利益が控えていると言い募る――「右派のマルキスト」の一派はそうだと主張するかもしれないが――のは、あまりにも単純過ぎるように思えるからだ。しかしながら、そのように「否定」する代償として、左派は一つの問題を抱え込むことになる。同調者を獲得するための戦術としてしばしば使ってきた陰謀論めいた言い分の多くに頼れなくなるのだ。中央銀行が金融政策を緩和したのはなぜなのか? 金融規制当局が貸付基準を緩和したのはなぜなのか? 民間の金融機関の言いなりになってそうしたのだろうか? それとも、「正しい」と考えてそうしたのだろうか? 政治が「価値」や「観念」によって突き動かされるのだとしたら、「トップ1%」(所得上位1%)の不正行為ではなく、「誤った理論」に目を向けねばならないだろう。(ケインズ主義やマネタリズムのような)「誤った理論」が「政府の失敗」を引き起こしている原因なのかもしれないからだ。

公共選択論は、「左派」にいくつかの難問を突き付けている。政治を突き動かしているのは「利害」なのだとしよう。そうだとすると、多様な特殊利益が政策に反映されている現実をうまく説明できるのは公共選択論の方だし、特殊利益がもたらす弊害を和らげるための説得的な解決策を提示できるのも公共選択論の方だ。その一方で、政治においては「利害」よりも「観念」の方が重要なのだとしよう。そうだとすると、左派が同調者を獲得するための戦術として重宝してきた手の一つが使えなくなる。「敵」と「味方」に分けて、何もかもを「敵」のせいすることができなくなるのだ。

2012年7月6日金曜日

Renee Haltom 「流動性の罠」(2012年)

Renee Haltom, “Jargon Alert:Liquidity Trap(pdf)”(Region Focus, Federal Reserve Bank of Richmond, First Quarter 2012)


中央銀行が景気を刺激する力を完全に失ってしまうなんてことがあり得るのだろうか? 今がまさにそういう状況で、「流動性の罠」(“liquidity trap”)に嵌っているのだと語る経済学者がちらほらいる。 

1930年代にジョン・メイナード・ケインズが「流動性の罠」という概念をはじめて唱えて以来、その定義がいくらか曖昧になっている。背後にある理論が変化したためである。最も広い定義だと、金利が既にゼロ%にまで引き下げられてしまったために、金融政策で景気を刺激することができなくなってしまった――「罠」に嵌ってしまった――状況を指して「流動性の罠」と呼ばれている。2008年12月以降、政策金利はゼロ%近辺にとどまっている。 

もう少し狭い定義だと、他のどの資産よりも現金(cash)が欲されていて、「流動性」に対する需要に限りが無くなっている状況を指す場合もある。もしもそうなっていたら中央銀行がマネーサプライを増やしても、消費も投資も刺激されないので景気が活性化することはないだろう。マネーサプライが増えてもそのまま退蔵される(手元に持っておかれる)だけだからである。「流動性の罠」に嵌っている状況では金融政策は無力だからという理由で、代わりに例えば財政出動に乗り出すべきだと訴える声がある。しかしながら、Fedによる金融緩和が景気に何の影響も及ぼしていないかどうかをリアルタイムで見極めるのは難しいだろう。互いに対立し合う様々な要因が同時に景気に影響を及ぼしているからである。実際問題としては、Fedによる金融緩和が景気に及ぼす影響は事後的にしか知り得ないだろう。それゆえ、現金(「流動性」)に対する需要に限りが無くなっているという定義は、政策の現場にいる当局者にとってはあまり役に立たないかもしれない。

「流動性の罠」に嵌ることなんてあり得ないと主張する経済学者も多い。これまでの先行研究によると、政策金利がゼロ%に達したとしても中央銀行は決して無力ではないことが示唆されている。例えば、Fedが量的緩和に乗り出して銀行部門に大量の流動性が供給されると、貸付金利が低下した。さらには、 Fedが2011年の8月以来試みているように、政策金利を今後もしばらくは低い水準に据え置くつもりであることを明言して金融緩和の継続にコミットする――フォワード・ガイダンスと呼ばれている――と、貸付金利がさらに低下するなりして資金を調達しやすくなる可能性がある。Fedが量的緩和に乗り出すことを発表した時もフォワード・ガイダンスに乗り出すことを発表した時も金融市場はポジティブに反応したようだが、金融市場の参加者たちとしてはFedが無力だとは信じていないことを示唆していると言えよう。

実のところ、中央銀行が発行できる貨幣の量には上限がない。原則としては。極端な話をすると、貨幣を好きなだけ発行して、市中にある利子付きの資産をすべて買い取ることだってできる。そこまでする前に、貨幣以外の資産の価格が上昇し始めるだろう。その結果として、投資が刺激されて景気が活性化することだろう。 

「流動性の罠」について論じる時に多くの経済学者の頭にあるのは、景気を刺激する中央銀行の「能力」(ability)に対する制約ではなくて、景気を刺激しようとする中央銀行の「意思」(willingness)に対する制約であるように思われる。金融緩和にはコストが伴う。その中でも最も顕著なコストは、インフレが加速するリスクである。政策金利がゼロ%に達して以降もインフレ率は低い水準で落ち着いているが、さらなる金融緩和に踏み込んで景気の回復を後押しするよりも、景気が自然に回復するのに任せる方がコストが小さくて済むというのが政策当局者の判断なのかもしれない。例えば、フィラデルフィア連銀総裁のチャールズ・プロッサー(Charles Plosser)をはじめとした幾人かの経済学者は、さらなる金融緩和に踏み出すと金融市場に歪みが生じるおそれがあると語っている。特定の投資を行うことが他の投資を行うよりも人為的に安上がりになって、資源の配分が歪んでしまうかもしれないというのである。

中央銀行は無力だというよりも、中央銀行に景気を刺激しようとする意思が欠けているという方が妥当な見方なのかもしれない。さらなる金融緩和の便益とコストを比較して、コストが便益を上回ると評価しているのかもしれないのだ。しかしながら、政策当局者がそのように評価してさらなる金融緩和に踏み出さずにいたら、「流動性の罠」の定義から予測されるのと非常に似通った状況に陥ることになるかもしれない。中央銀行がいくつかの緩和策に乗り出しているにもかかわらず、低成長が持続するかもしれないのだ。

「流動性の罠」に陥った実例はあるのかというと、微妙なところである。「流動性の罠」に陥った実例としてよく挙げられる三つのエピソードがある。一つ目は、大恐慌(Great Depression)である。しかしながら、ミルトン・フリードマン&アンナ・シュワルツの二人が指摘してよく知られるようになったが、Fedは1930年代の半ばに金融緩和を継続していたわけではなかった。準備預金に対して導入された新たな措置が金融システムに及ぼす影響を見誤ったせいで、不注意にもマネーサプライの縮小を許してしまったのだ。その結果として、大恐慌が悪化することになってしまったのである。二つ目は、1990年代を通じて低成長を記録した日本の「失われた10年」である(2000年代の大半の時期もその中に含める経済学者もいる)。 しかしながら、日本銀行の金融政策も「失われた10年」の間に何度か引き締められたというのが多くの経済学者の言い分である。日本銀行が景気を活性化させて経済成長を刺激するためにできることがすべて試されたとは言い難いというのである。三つ目は、2008年~2009年の景気後退を経て現在に至るまでのアメリカである。景気を刺激するためにFedが前例のない試みに乗り出したにもかかわらず、景気回復の足取りは鈍かった。それはその通りだが、Fedの多くの当局者の主張によると、 Fedの弾薬庫は空っぽではないし、今後も空になることは決してないという。さらなる金融緩和に踏み込む必要があるようなら、そのために打てる手はあるというのである。

2012年7月5日木曜日

Gregory Mankiw 「流動性の罠」(2002年)

Gregory Mankiw, “The Liquidity Trap”(in 『Macroeconomics (5th)』, Ch. 11, pp. 303)


1990年代の日本と1930年代のアメリカでは、名目利子率が極めて低い水準に達した。表11-2 に示されているように、1930年代後半のアメリカでは、名目利子率が1%を大きく下回っていた。1990年代後半の日本についても同じことが当てはまる。日本の名目短期利子率は、1999年の時点でおよそ0.1%にまで低下したのだ。
 
このような状況を指して「流動性の罠」と形容する経済学者もいる。IS-LMモデルによると、金融政策が緩和されると、名目利子率が低下して設備投資が刺激されることになる。しかしながら、名目利子率が既にゼロ%近くにまで下がっていたら、金融政策は役立たずになってしまうかもしれない。名目利子率はゼロ%以下になり得ないのだ。その理由は、名目利子率がマイナスになったら、お金を誰かに貸すよりも手元に持っておく方が得になるだろうからだ。名目利子率が既にゼロ%近くにまで下がっていたら、金融政策を緩和して市中に流動性を注入しても、名目利子率はもう下がりようがないので、景気は一切刺激されないかもしれないのだ。総需要も産出量も雇用量も落ち込んだままの「罠」に嵌ってしまうかもしれないのだ。

異を唱える経済学者もいる。金融政策を緩和したら、予想インフレ率が高まるかもしれないというのである。名目利子率は下げられなくても、予想インフレ率が高まれば、実質利子率がマイナスになって、設備投資が刺激される可能性があるというのである。それに加えて、金融政策を緩和したら、為替レートが減価するかもしれないともいう。為替レートが減価したら、輸出品が海外で安くなるので輸出が増えるだろうというのである。本章で用いた閉鎖経済版のIS-LMモデルだと手に余るが、次章で論じる予定の開放経済版のIS-LMモデルに照らすと、もっとも言い分だ。

金融政策を司る中央銀行は、「流動性の罠」について気を揉む必要があるのだろうか? 金融政策が無力になってしまうことはあるのだろうか? 答えは人によってまちまちだ。「流動性の罠」なんて気にする必要ないという意見もあれば、「流動性の罠」に陥る可能性を考慮するとゼロ%以上のインフレ率を目標にすべきだという意見もある。インフレ率がゼロ%だと、名目利子率と同じように、実質利子率もゼロ%以下になり得ない。しかしながら、インフレ率が3%なら、実質利子率をマイナスにできる。名目利子率をゼロ%にまで引き下げたら、実質利子率はマイナス3%になる。緩やかなインフレは、景気を刺激する必要に迫られた時に中央銀行が打てる手を増やして、「流動性の罠」に陥るリスクを減らすのだ。

2012年7月2日月曜日

Alberto Alesina&Francesco Giavazzi 「財政緊縮を巡る正しい問いの立て方 ~手段(「どのように」)は規模(「どれくらい」)と同じくらい重要である~」(2012年4月3日)

Alberto Alesina&Francesco Giavazzi, “The austerity question: ‘How’ is as important as ‘how much’” (VOX, April 3, 2012)
 
ヨーロッパで財政緊縮が試みられると、経済学者の間で激しい議論が巻き起こった。財政緊縮を巡る議論は、問いの立て方が不適切であるために、袋小路に迷い込んでしまっている。「どのように」という問いが「どれくらい」という問いと同じくらい重要だということが受け入れられないでいるうちは、ヨーロッパにおける財政緊縮を巡る議論は、現実から遊離したままになってしまうだろう

ヨーロッパにおける財政緊縮を巡る議論は、袋小路に迷い込んでしまっている。財政緊縮の「規模」にばかり注目が寄せられているせいである。財政緊縮をどのように進めたらいいか――増税すべきなのか、政府支出を切り詰める(歳出を削減する)べきなのか――に焦点を当てるべきなのだ。財政緊縮にどんな政策が伴うべきなのかを問題にすべきなのだ。VOXディベートのタイトル――「財政緊縮は行き過ぎか?」( “Has austerity gone too far?” )――にも「規模」を強調する不適切な風潮が反映されているのだ。

「どれくらい」ではなく、「どのように」という問いこそが肝心なのだ。


「増税による財政緊縮」と「政府支出の切り詰めによる財政緊縮」の効果についての実証的な証拠

OECD加盟各国(とりわけ、ヨーロッパ各国)でこれまでに試みられた大規模な財政再建の効果の計測と評価を巡って、経済学者の間で活発な議論が繰り広げられてきている。これまでに得られた証拠を慎重かつ公正な目でもって判断すると、アプローチの違いにもかかわらず、比較的論争の余地のないポイントがいくつか明らかになってくる。過去40年の間にOECD加盟各国で試みられた財政再建についての膨大な証拠に目を凝らすと、以下の3つのポイントが明らかになってくるのだ。
 
ポイントその1:政府支出の切り詰めによる財政緊縮は、増税による財政緊縮よりも、景気を抑制する効果が小さい。
ポイントその2:政府支出の切り詰めによる財政緊縮に適切な政策が伴うようなら、適切な政策が伴わないでいるよりも、景気を抑制する効果が小さい傾向にある。経済成長率を高める場合さえある。
 
「適切な政策」としては、金融緩和、生産物市場・労働市場の自由化、その他の構造改革が含まれる。

「適切な政策」に何が含まれるのかについても、「適切な政策」が政府支出の切り詰めによる財政再建をどのような経路を介して加勢することになるのかについても突き詰めねばならないことがまだたくさん残されているが、ロベルト・ペロッティの最近の論文(Roberto Perotti 2011)でも明らかにされているように、以下の事実は揺るがない。

ポイントその3:政府債務残高の対GDP比が一定の水準で安定したという意味で「持続的な財政再建」に成功した例というのは、政府支出の切り詰めによる財政緊縮が試みられた場合のみに限られる。


IMFの研究を批判的に検討する

IMFによる最近の2つの研究(IMF 2010, Devries et al. 2011)でも、政府支出の切り詰めによる財政緊縮が功を奏することが確認されている。しかしながら、その理由は、財政緊縮が政府支出の切り詰めというかたちをとるおかげではなく、政府支出の切り詰めというかたちで財政緊縮が試みられると「偶然にも」長期金利が低下したり、「偶然にも」為替レートが安定したり、「偶然にも」株価が安定するおかげ(あるいは、以上のすべてが「偶然にも」同時に生じるおかげ)だという。

純粋に論理的な観点からしても突っ込みどころがある言い草だ。なぜなら、金融資産の価格――金利、為替レート、株価――は、外生的な変数ではなく、財政政策のアナウンスメントに反応するものだからである。例えば、政府支出の切り詰めによる財政緊縮だけが持続的な財政再建につながると正しくも投資家によって認識されているようなら、政府支出の切り詰めによる財政緊縮を試みることが公表されると、投資家たちの「信頼」(“confidence”)が高まって、その結果として長期金利が低下して株価が上昇すると考えられるのだ。

この点についてのもっと説得的な証拠は、異なるタイプの財政緊縮が信頼および産出量に及ぼす効果を比較することによって得られる。増税による財政緊縮は、政府債務残高の対GDP比が高まるのを食い止められないという意味で功を奏さないだけではない。増税による財政緊縮を試みることが公表されると、企業経営者たちの信頼が急激に冷え込んで、そのせいで産出量が落ち込むのだ。それとは対照的に、政府支出の切り詰めによる財政緊縮を試みることが公表されても(とりわけ、適切な政策が伴うようなら)、企業経営者たちの信頼が冷え込むことはない。政府支出の切り詰めによる財政緊縮を試みることが公表されてから1年の間に産出量が増えることも珍しくないのだ。

税収が対GDP比で50%近くに及ぶヨーロッパの国々に関しては、税収をこれ以上増やす余地が残されていないことも指摘しておかねばならないだろう。

ハラルド・ウーリヒ&マシアス・トラヴァントの二人の最近の論文によると(Uhlig&Trabandt 2012)、ヨーロッパの多くの国々は、現実的な想定に基づいて推計されたラッファーカーブの頂点近辺をうろついているようだ。つまりは、さらなる増税に乗り出せば、税収はそんなに増えない一方で、供給サイド・需要サイドの両方への影響を通じて景気が大きく落ち込んでしまう可能性があるのだ。

これまでに述べてきたことを勘案すると、財政再建を巡る議論で財政緊縮の規模に注目するのはやめるべきなのだ。財政再建を試みようとしてほんのちょっぴり増税する場合と、それを上回る額の歳出を削減する場合を比べると、前者の方が景気に及ぼすマイナスの影響が大きい可能性があるのだ。言い換えると、財政再建を試みようとして政府支出をちょっぴり切り詰める場合と、それを上回る額の増税に乗り出す場合を比べると、前者の方が政府債務残高の対GDP比を安定させられる可能性が高いのだ。


財政緊縮の「手段」についてもっと詰めるべき論点

財政緊縮の「手段」の効果を解きほぐすためにもっと詰めるべき論点がいくつかある。

財政再建を実現するという目的に照らすなら、政府支出の項目の中でどれを削減するのが効果的か?  
経済活動に及ぼす歪みを抑えると同時に税収を減らさないためには、税制をどのように改革したらいいか?
どの市場から自由化を開始したらいいか? どれくらいのペースで自由化を進めたらいいか? 

すべての国で答えが同じという場合もあれば、国によって答えが異なるという場合もあるだろう。

例えば、どの国にしても、所得税から付加価値税(VAT)に重きを置く方向に向かうのが望ましい。
定年年齢を大幅に引き上げて公共部門の人員を削減するしかない国もあるだろう。

労働市場の改革も絡んでくる。公共部門の人員を削減するにしても、解雇規制が取り払われて適当なセーフティーネットが整備されないと無理だろう。多くの国に関しては、物理的なインフラの必要性だとか生産性だとかを強調するのは的外れになりがちだ。


結論

「どのように」という問いが「どれくらい」という問いと同じくらい重要だということが受け入れられないでいるうちは、ヨーロッパにおける財政緊縮を巡る議論は、現実から遊離したままになってしまうだろう。

ユーロ圏における財政再建プログラムの中核を担う財務協定(fiscal compact)には、大きな落胆を感じざるを得ない。失敗の種を自ら蒔いているからだ。

条約を変更してまで新たに協定を結んだというのに、財政緊縮の「手段」について一切言及されていない。
増税を中心として財政緊縮が試みられて、政府債務残高の対GDP比が低下しないようなら、ユーロ経済は――再び景気後退に陥らずとも――停滞し続けることだろう。

安定・成長協定(Stability and Growth Pact)と同じように、財務協定も途中で放棄されるだろう。 


<参考文献>


●Corsetti, G (2012), “Has austerity gone too far? A new Vox Debate”, VoxEU.org, 2 April.
●Devries, P, J Guajardo, D Leigh, and A Pescatori (2011), “A New Action-Based Dataset of Fiscal Consolidation”, IMF Working Paper No. 11/128.
●IMF (2010), “Chapter 3”, World Economic Outlook, Washington, DC: International Monetary Fund.
●Perotti, R (2011), “The ‘Austerity Myth’: Gain Without Pain?”, NBER Working Paper No 17571.
●Trabandt, M and H Uhlig (2012), “How Do Laffer Curves Differ Across Countries”, NBER Working Paper No 17862.

2012年6月22日金曜日

Alan Blinder 「ケインズ経済学」

Alan S. Blinder, “Keynesian Economics”(The Concise Encyclopedia of Economics, Library of Economics and Liberty)


ケインズ経済学(Keynesian economics)は、経済における総支出(total spending)-総需要(aggregate demand)とも呼ばれる-に関する理論であり、総需要が生産やインフレーションに及ぼす効果を理論的に研究する立場の一つである。これまで種々雑多なアイデアに対して「ケインズ経済学」という用語が(時に誤って)あてがわれてきたが、ケインズ経済学の中心的な教義(tenet)は以下の6つのポイントから成っているのではないかと思われる。はじめの3つのポイントは、現実の経済のメカニズム(経済はどのように機能するか)に関する視点をまとめたものである。
 
 
1. 総需要は様々な経済上の意思決定-民間部門における意思決定と公共(政府)部門における意思決定-によって影響を受け、時に不規則に変動する。

(総需要に影響を与えるような)公共部門における意思決定の最たるものは、金融政策と財政政策(政府支出と税金に関する政策決定)である。数十年前のことになるが、経済学者の間で財政政策と金融政策の相対的な有効性を巡って熱い議論が交わされたが、ケインジアンの中のある者は「金融政策は無力である」と主張し、マネタリストの中のある者は「財政政策は無力である」と主張したものである。しかしながら、現在ではこの問題は実質的にもはや争点ではなくなっている。今ではケインジアンであれマネタリストであれほとんど皆が財政政策も金融政策もどちらもともに総需要に影響を及ぼす、と信じているのである。しかしながら、経済学者の中には債務の中立性(リカードの中立命題)-ある一定水準の政府支出を税金で賄う代わりに借り入れ(国債発行)で賄うように資金調達の方法を変更したとしても総需要には効果は生じない、というアイデア-を信じている者もいる(この点に関しては後でもまた触れる)。

2. 総需要の変化は-それがあらかじめ予測されていようがそうでなかろうが-短期的には、価格に対してではなく、実質GDPと雇用とに対して最も大きな影響を及ぼす。

例えば、このアイデアは、失業率の低下に伴ってインフレーションがごく緩やかに上昇することを示すフィリップスカーブによっても捉えられているところである。ケインジアンは、「長期において成立すること」から「短期において成立すること」(短期において何が正しいのか)を推測することは必ずしもできず、また、現実の我々は短期の世界に生きているんだ、と信じている。この信念を要領よく伝えるために、ケインジアンはケインズの有名な言葉-「長期的に見ると、我々は皆死んでしまう」( “In the long run, we are all dead” )-をしばしば引用する。

金融政策が生産や雇用に対して影響を及ぼし得るのは名目価格の中で硬直的なものが存在する場合-例えば、名目賃金(ドル(や円)で測った賃金)が即座には調整しなかったりする場合-に限ってである。もしいずれの価格も硬直的でなければ、経済に対して新たに貨幣が注入されてもすべての価格が同じ割合だけ上昇するだけに終わるだろう。そこで、一般的にはケインジアンのモデルでは名目価格ないしは名目賃金の硬直性があらかじめ前提されるか、あるいは、なぜ名目価格や名目賃金が硬直的であるのかその説明が試みられることになる。標準的なミクロ経済学によれば、すべての名目価格が比例的に変化する場合には実質的な生産量や需要量に変化が生じるはずがないので、なぜ名目価格(のうちのあるもの)が硬直的であるのかを合理的に説明することは厄介な理論上の問題であると言えよう。

ケインジアンは、名目価格のうちのあるものは幾分か硬直的であり、総需要の構成要素-消費、投資、政府支出-のいずれかが変動すればそれに伴って生産の変動が引き起こされる、と見なしている。例えば、政府支出が増加して総需要のそれ以外の構成要素に変化がないとすれば生産は増加する、と見なすのである。また、経済変動に関するケインジアンのモデルの特徴としていわゆる乗数効果も重要である。つまりは、総需要に生じた変化はその何倍もの生産の変化をもたらす、と見なされているのである。政府支出が100億ドルだけ増加すると総生産は150億ドル増加することもあれば(乗数が1.5のケース)、50億ドル増加することもあり得るのである(乗数が0.5のケース)。ケインジアンの分析では乗数は1以上であることが必要だ、と広く信じられているが、そのようはことはない。乗数はゼロより大きければ(プラスであれば)よいのである。

3. 名目価格、特に名目賃金は生産や需要の変化に対して緩やかにしか反応せず、その結果として周期的に不足や過剰(特に、労働市場における不足や過剰(労働の超過需要や超過供給))が発生する。

あのミルトン・フリードマン(Milton Friedman)でさえ、「考え得るどのような制度的な仕組みの下であっても、そして現在アメリカ経済に広く普及している制度的な仕組みの下では確かに言えることだが、名目価格や名目賃金の柔軟性(伸縮性)には限りがある。」(原注1)(“under any conceivable institutional arrangements, and certainly under those that now prevail in the United States, there is only a limited amount of flexibility in prices and wages.”)、と認めているところである。現在の基準に照らせば、このフリードマンの発言はケインジアン的な立場の表明と受け取られることだろう。


以上の3つのポイントだけからはいかなる政策処方箋も引き出されることはない。また、自らをケインジアンだとは見なさない経済学者の多くも以上の3つのポイントすべてを受け入れることだろう。ケインジアンとその他の経済学者との違いは、経済政策に関する以下の3つの教義を信じるかどうかという点にある。


4. 現実において典型的に観察される失業の水準は理想的な水準ではない。というのも、経済は総需要の気まぐれな変動にさらされているからであり、また、価格調整は緩やかにしか進まないからである。

ケインジアンは、現実の失業は平均的に見てあまりにも高すぎ、あまりにも変動が激しすぎる、と見なす傾向にある-この現実認識を理論的に厳密に正当化することは困難であるとはよくよくわかっていながらも。また、「景気後退や不況=それほど魅力的ではない機会の出現に対する市場の効率的な反応の結果」と見なす実物的景気循環(リアルビジネスサイクル)理論とは異なり、ケインジアンは「景気後退や不況=一種の経済的な疾病(economic maladies)」である、と確信している。


5.  景気循環をすべての経済問題の中でも最も重要な問題と位置付け、景気循環の振幅(変動の大きさ)を和らげるために積極的な経済安定化政策の実施を求める(ただし、多くのケインジアンがそう考えているのであって、すべてのケインジアンがそう考えているというわけではない)。

保守派寄りのケインジアンの中には、経済安定化政策の効果に疑いを抱いたり、経済安定化政策を試みることが果たして賢明なのかと訝しんで、この教義を受け入れない経済学者も存在する点は指摘しておこう。

積極的な経済安定化政策の実施を求めるとはいってもファインチューニング(fine-tunig;微調整)-経済が完全雇用の状態にとどまり続けるよう促すために、政府支出や税金やマネーサプライを毎月ごとに細かく調整すること-を求めているわけではない。今日ではほとんどすべての経済学者-大半のケインジアンも含む-は、政府はファインチューニングを成功裏に進め得るほど十分に素早く行動できるわけでもなく、また(ファインチューニングを成功裏に進め得るほど)十分に知識を備えているわけでもない、と信じている。ファインチューニングを困難にするような3タイプのラグが存在しているのである。第1のラグは、政策変更の必要性が生じてから政府がそのこと(政策変更の必要性が生じたこと)を認識するに至るまでのラグである。第2のラグは、政府が政策変更の必要性を認識してから実際に政策が実施されるまでのラグである。アメリカのような国では特に財政政策の変更に関してこの第2のラグが非常に長くなり得る。政府支出や税金の内容を変更するためには議会と政府との同意が必要となるからである。そして第3のラグは、実際に政策が実施されてから(政策が変更されてから)政策の効果が表れるまで(政策が経済に影響を与えるまで)のラグである。このラグもまた長くなり得るものである。しかしながら、多くのケインジアンは、(ファインチューニングに比べて)もっと控えめな経済安定化政策-コースチューニング(coarse-tuning;粗い調整)とでも呼べよう-を目指すことは擁護し得るし分別ある立場でもある、と信じている。例えば、失業率が非常に高い水準にあるような状況では、金融緩和策の実施を勧告する上で、ラグの具体的な長さに関する細かな知識を持ち合わせている必要はないであろう。

6. インフレ退治(インフレーションの抑制)よりも失業退治(失業を減らすこと)のほうに関心を払う(ケインジアンであれば皆が皆そう考えているというわけではない)。

低インフレがもたらすコストが小さいことを示す証拠に基づいてこの教義を受け入れるに至ったケインジアンがいる一方で、反インフレ的なケインジアンもたくさん存在する。そう呼ばれることを好むかどうかにかかわらず、過去から現在までに至る世界中のセントラルバンカーの大半は反インフレ的なケインジアンだと言えるだろう。指摘するまでもないが、失業とインフレーションの相対的な重要性に関する見解の違い(失業とインフレのどちらに重きを置くかの違い)は、経済学者がどのような政策アドバイスを勧告し、政策当局者がどのような政策アドバイスを聞き入れるかに大きな違いを生み出す。ケインジアンは、ケインジアンではない経済学者と比べると、よりアグレッシブな緩和策を勧告する傾向にある。

経済安定化に向けた政府の積極的な行動を支持するケインジアンの信念は、価値判断と以下の2つの信念、すなわち、(a)マクロ経済の変動は人々の経済的な福祉(economic well-being)を大きく減ずるものであり、(b)政府は自由市場の働き(あるいは欠陥や機能不全)を改善し得る程度には知識も能力も備えている、という信念とに基づくものであると言える。

1980年代に勃発したケインジアンと「新しい古典派」(new classical)との間のちょっとした論争は、主に(a)の信念とケインズ経済学を特徴づけるはじめの3つの教義(1~3)-1~3の教義に関してはマネタリストも同じく受け入れていた-をめぐって争われたものであった。新しい古典派の経済学者は、あらかじめ予測されたマネーサプライの変化は実質的な生産量(実質GDP)に影響を与えることはなく、また市場-労働市場でさえも-は不足や過剰の解消に向けて素早く調整するものであり、さらには景気循環はもしかしたら効率的であるかもしれない、と信じていた。この後で明らかにする理由に照らして、私自身は、こういった論点に関する「客観的な」(“objective”)科学的な証拠はケインジアンの立場を強く支持するものである、と信じている。1990年代に入ると、新しい古典派も、価格は硬直的であり、そのために労働市場はかつて彼ら(新しい古典派)が考えていたほどには(不足や過剰の解消に向けて)素早く調整するものではない、という見解を受け入れるところとなったのであった。


「ケインズ経済学」の定義から離れて別の話題に転じる前に、これまでに意図的に避けてきた(避けてはならないように思われる)いくつかの論点についてここで強調しておかねばならないだろう。

避けてきた論点その1。合理的期待形成学派についてはこれまで一切触れてこなかった。経済政策に関する期待を形成するにあたって人々は利用可能な情報をすべて利用する、という合理的期待形成学派の見解に関しては、ケインズ自身もそうだが多くのケインジアンも疑わしく思っている。ただし、ケインジアンの中には合理的期待形成のアイデアを受け入れている者もいることはいる。ただ、私自身がこれまでに興味を向けてきた大きな争点のいずれも期待が合理的に形成されるかどうかにはほとんど影響されない、ということは指摘しておこう。例えば、合理的期待形成は価格の硬直性を排除するものではなく、価格の硬直性を伴う合理的期待形成モデルは私の定義によればまごうことなくケインジアン的なモデルである。しかしながら、新しい古典派の経済学者の中には合理的期待形成こそがケインジアンと新しい古典派との論争において(他のどの論点にもまして)ずっと本質的な論点だと考えている者もいることは明記しておくべきだろう。

避けてきた論点その2。長期的な失業の「自然な水準」が存在する、という仮説(自然失業率仮説)について。1970年以前においては、ケインジアンは、長期的な失業の水準は政府の政策に依存しており、政府は高めの-しかしその高い水準で安定した-インフレーションと引き換えに失業率を低下させることができる、と信じていた。しかしながら、1960年代の後半にマネタリストであるミルトン・フリードマンとケインジアンであるエドモンド・フェルプス(Edmund Phelps)とによって、失業とインフレーションとの長期的なトレードオフというアイデアに対して理論的な反駁が加えられたのであった。政府が現実の失業率を「自然失業率」以下の水準に保っておくことができる唯一の方法は、インフレの絶えざる加速(インフレ率の継起的な上昇)をもたらすようなマクロ経済政策を通じてのみである、と言うのである。長期的には現実の失業率は自然失業率を下回ることはできない、というわけである。フリードマン=フェルプスによる自然失業率仮説の発表後間もなくして、ノースウェスタン大学のケインジアンであるロバート・ゴードン(Robert Gordon)によってフリードマン=フェルプスの見解を支持するような実証的な証拠が提示され、1972年頃以降になるとケインジアンも自然失業率仮説を受け入れるところとなったのであった。そういう次第で、1975年~1985年の期間にわたって繰り広げられた(ケインジアンと新しい古典派との)激しい論争の過程で自然失業率仮説は何らの役割も果たすことがなかったのである。

避けてきた論点その3。経済安定化政策として金融政策と財政政策とのどちらが望ましいと言えるか、という論点もまたこれまで触れてこなかった話題である。この話題に関しては経済学者によって意見が異なり、自らの立場を変更するような経済学者も時折見受けられる。私の定義によれば、ケインジアンでありながら、経済安定化の責務は原則的には金融政策当局に委ねられるべきである、あるいは、実際のところそうなっている、と信じる、というのは何の問題もなしに成り立ち得る立場である。実際のところ、今では大半のケインジアンはこの2つの信念(訳注1)のうちどちらか一方あるいは両方ともに受け入れるかたちとなっている。


1970年代中頃から1980年代中頃にかけてケインジアンの理論はアカデミックな世界において散々な誹謗中傷を受けることになったが、1980年代中頃以降になるとケインジアンの理論は強力なカムバックを果たすことになった。その主たる理由は、ケインズ経済学のほうがライバルである新しい古典派よりも1970年代と1980年代に生じた経済上の出来事をうまく説明できた点にある、と思われる。

その「古典派」というルーツに忠実に、新しい古典派は、名目賃金や名目価格の下落を通じて景気後退を克服する市場経済の能力を強調した。1970年代中頃当時、新しい古典派は、景気後退の原因は相対価格(例えば、実質賃金)の動向を人々が誤って認識することにあり、そういった認識の誤りは人々が現下の一般物価水準やインフレ率を知らない場合に生じるだろう、と主張した。 しかし、物価指数の統計が毎月ごとに発表され、月ごとのインフレ率が1%を下回るような状況では、そういった認識の誤りはあくまでも一時的なはずであり、それほど大きな誤りとはなり得ないだろう。そうだとすれば、初期の新しい古典派の立場からすると、認識の誤りに基づく景気後退はマイルドですぐに終わるはずである。しかし、実際には世界各国の工業国は1980年代を通じて厳しくて長い景気後退を経験することになったのである。ケインズ経済学は理論的にみると粗雑であるかもしれないが、非自発的失業が長らく持続するだろうことを正確に予測したのであった。

1970年代、1980年代当時の新しい古典派(初期の新しい古典派)の理論家によると、あらかじめ正しく認識されたマネーサプライ成長率の低下は実質的な生産量(実質GDP)に対して-影響を与えるとすれば-ごくわずかしか影響を与えないはずであった。しかしながら、FRBやBOE(イングランド銀行)がインフレを抑制するために金融政策を引き締めることをアナウンスし、その後アナウンス通り(約束通り)に行動した際に何が起こったかというと、アメリカでもイギリスでも深刻な景気後退が生じる結果になったのであった。新しい古典派の経済学者は、「金融引き締めは予測されざるものだった(というのも、金融政策当局のアナウンスを人々が本気で信じなかったからだ)」と反論するかもしれない。その反論ももしかしたらある程度は正しいのかもしれないが、金融引き締めは大枠では予測されており、あるいは少なくとも金融引き締めがアナウンスされた際には正しくそのように認識されていたのである。企業や家計は、インフレに応じて価格が自動的に改訂されるような契約ではなく、価格が固定された契約を結んでいるために、いかなる金融引き締めも景気を冷え込ませる効果を持つだろう、と主張する古臭いケインジアンの理論のほうが現実をうまく捉えているように思われるのである。

新しい古典派から派生したアイデアとしては、ハーバード大学のロバート・バロー(Robert Barro)によって定式化された債務の中立性に関するアイデアがある。バローのアイデアを簡潔に述べると以下のようになろう。インフレーションや失業、実質GDP、実質的な国民貯蓄は、政府が一定水準の政府支出を賄うために高い税金を課すか(この場合財政赤字は低水準)それとも低い税金を課すか(この場合財政赤字は高水準)によっては影響されないはずである。というのも、人々は合理的なので、今日における低い税金(と高水準の財政赤字)は将来における高い税金を意味すると正しくも認識し、人々は将来(将来の自分自身あるいは自らの子孫)の税負担の増加分と同じ金額だけ今日の消費を切り詰めて貯蓄の増加に向かうだろうからである。こうして生じる民間貯蓄の増加は財政赤字の増加を完全に相殺するはずである。一方で、ナイーブなケインジアンの分析によると、政府支出の水準が変わらないままでの財政赤字の増加は総需要の増加を意味することになる。1980年代初頭のアメリカで実際に起こったように、(財政赤字の増加による)総需要への刺激が金融引き締め政策によって相殺されるようならば、ケインジアンの分析が予測するところでは実質金利は大きく上昇するはずである。ケインジアンの分析によると、このような状況において民間貯蓄が増加する理由はない、ということになろう。

1981年から1984年の間にアメリカで実施された大幅な減税はケインジアンと新しい古典派のどちらの見解が正しいかを検証する一種の実験テストの機会を提供することになった。現実には何が生じただろうか? 民間貯蓄は増加せず、実質金利は大きく上昇した。(大幅減税のかたちをとった)財政刺激策は金融引き締めによって相殺されたので、実質GDP成長率はほとんど影響を受けなかった。実質GDPはそれ以前の時期とほぼ同じペースで成長したのである。これら一連の事実もまた新しい古典派よりはケインジアンの理論と整合的であるように思われるのである。

最後に、ケインジアンと新しい古典派とは1980年代にヨーロッパで発生した不況-1930年代の不況以来最悪の不況-をそれぞれどのように説明するのだろうか? ケインジアンの説明は単純である。ケインジアンによれば、イギリスやドイツの中央銀行に先導されるかたちで各国の政府がインフレ退治に乗り出す決心をし、インフレの退治に向けてかなりの金融引き締めと財政引き締めが実施されたために不況が生じたのである。このインフレ撲滅運動の影響は、ドイツの断固たる金融引き締めをヨーロッパ中に拡散する役割を果たすかたちになったヨーロッパに特有の通貨制度によって強化されたのであった。一方で新しい古典派はケインジアンの説明に匹敵するような説明を持ち合わせていない。新しい古典派、そして広くは保守派の経済学者は、不況の原因は何かと尋ねられたら、ヨーロッパの各国政府が労働市場に深く介入しているからだ、とおそらくは主張することだろう(加えて、手厚い失業保険や労働者の解雇制限などにも言及することだろう)。しかし、ヨーロッパの各国政府による労働市場への介入の大半は、失業率が極めて低かった1970年代初頭時点でも既に存在していたのである。


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Further Reading(もっと深く学びたい人向けの文献紹介)

○Blinder, Alan S. “Keynes After Lucas(JSTOR)”, Eastern Economic Journal 12, no. 3 (1986): 209–216.
○Blinder, Alan S. “Keynes, Lucas, and Scientific Progress(JSTOR)”, American Economic Review 77, no. 2 (1987): 130–136. Reprinted in Mark Blaug, ed., John Maynard Keynes (1833–1946), vol. 2. Brookfield, Vt.: Edward Elgar, 1991.
○Gordon, Robert J. “What Is New-Keynesian Economics?(JSTOR)”, Journal of Economic Literature 28, no. 3 (1990): 1115–1171.
○Keynes, John Maynard. The General Theory of Employment, Interest, and Money. London: Macmillan, 1936.
○Mankiw, N. Gregory, and others. “A Symposium on Keynesian Economics Today.” Journal of Economic Perspectives 7 (Winter 1993): 3–82.

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原注

(原注1)“The Role of Monetary Policy,” American Economic Review 58, no. 1: 13.

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訳注

(訳注1)経済安定化の責務は原則的には金融政策当局に委ねられるべきであるという信念と経済安定化の責務は実際にも金融政策当局に委ねられるかたちになっているという信念。

2012年6月19日火曜日

Bennett McCallum 「マネタリズムの経済学」

Bennett T. McCallum, “Monetarism”(The Concise Encyclopedia of Economics, Library of Economics and Liberty)


マネタリズム(Monetarism)はマクロ経済学の一学派であり、以下の4点を強調する特徴がある。
(1)長期的な貨幣の中立性
(2)短期的な貨幣の非中立性
(3)名目利子率と実質利子率の区別
(4)政策分析における貨幣集計量(monetary aggregates)の役割の強調
代表的なマネタリストとしては、ミルトン・フリードマン(Milton Friedman)、アンナ・シュワルツ(Anna Schwartz)、カール・ブルナー(Karl Brunner)、アラン・メルツァー(Allan Meltzer)がいる。アメリカ以外の国でマネタリズムの初期の発展に貢献した経済学者としては、デイビッド・レイドラー(David Laidler)、マイケル・パーキン(Michael Parkin)、アラン・ワルターズ(Alan Walters)の名前を挙げることができよう。ジャーナリズム――特にイギリスのジャーナリズム――においては、マネタリズムのことを自由市場を擁護する立場に結びつけがちだが、そのような捉え方は適当ではない。自由市場擁護の立場に立つ多くの論者は、よもや自分がマネタリストと名指しされようとは考えもしていないことだろう。

まずは(1)から説明を加えていこう。例えば、マネーサプライが外生的にZ%増加したとしよう。このケースにおいて、諸々の調整が終了した後に、最終的に一般物価水準がZ%上昇して、実質変数(例えば、消費量、生産量、商品間の相対価格)に一切の変化が見られなければ、経済は「長期的な貨幣の中立性」の性質を備えていることになる。大半の経済学者は、現実の貨幣経済は少なくとも近似的には「長期的な貨幣の中立性」の性質を備えていると考えているが、マネタリストほどに「長期的な貨幣の中立性」を強調している経済学者のグループは他に存在しない。以上の議論に対して、現実の中央銀行はマネーサプライを外生的に変化させることはできないとの反論を寄せる人がいることだろう。確かにこの反論自体は正しいが、しかしながらこの反論は「長期的な貨幣の中立性」とは何の関係もない論点である。「長期的な貨幣の中立性」が成立するかどうかは、家計や企業が自らの需要や供給を選択するにあたって、財・サービス――消費され、また供給されることになる財・サービス――の数量のみに関心を持つかどうかにかかっているのである。家計や企業が財・サービスの数量にしか関心を持たないとすれば、経済は「長期的な貨幣の中立性」の特徴を示すことになり、上で例示した議論(訳注1)が妥当することになるのである(原注1)。自然失業率仮説も含めて他の中立性概念についてはもう少し後のほうで論じることにしよう。

次に(2)に進もう。終局的には「長期的な貨幣の中立性」が成り立つとしても、マネーサプライの変化に対して価格調整が緩やかにしか進まないようであれば、「短期的な貨幣の非中立性」が成り立つことになる。マネーサプライが変化するのに伴って、一時的に――価格調整が完了するまでの間に限って――実質GDPや雇用量といった実質変数も変化することになるのである。大半の経済学者は、「短期的な貨幣の非中立性」は現実において成り立つと見なしているが、マクロ経済学の重要な一学派である実物的景気循環理論(リアルビジネスサイクル理論)の擁護者は、「短期的な貨幣の非中立性」を否定している。

次は(3)である。実質利子率は、日常で普通に目にする利子率(名目利子率)に期待インフレ率の分だけ修正を加えたものである(訳注2)。現在消費と将来消費とのトレードオフに直面している合理的な経済主体は、最適化(異時点間にわたる効用の最大化)を実現するために、名目利子率ではなく実質利子率に基づいて意思決定を行う。名目利子率と実質利子率の区別は、1800年代にイギリスの銀行家であり経済学者でもあったヘンリー・ソーントン(Henry Thornton)によって早くも認識されており、1900年代の初期にアメリカの経済学者であるアーヴィング・フィッシャー(Irving Fisher)によっても強調されていた。しかしながら、名目利子率と実質利子率の区別は、1950年代にマネタリストが名目と実質を区別することの重要性を主張し始めるまでは、マクロ経済分析においてしばしば無視されていたのである。多くのケインジアンは原則としては名目と実質の区別を受け入れていたが、実際のところは、ケインジアンのモデルにおいてはしばしば名目利子率と実質利子率が区別されていなかったし、ケインジアンは、(実質利子率ではなく)名目利子率の水準に照らして金融政策のスタンスを判断していた。マネタリストは―― 一人残らず――インフレの克服に非貨幣的な手段(例えば、賃金・価格の直接的な統制やガイドラインの実施)を割り当てることは望ましくないと主張した。非貨幣的な手段は、市場の機能を歪めることになると考えたからである。その代わりに、マネタリストは、インフレーションはその本質において貨幣的な現象であることを強調した。それとは対照的に、当時のケインジアンの多くは、インフレーションを貨幣的な現象とは見なしていなかったのである。

最後に(4)である。初期のマネタリストは皆、金融政策を分析するにあたり、貨幣集計量――例えば、M1やM2、マネタリーベース――の役割を強調した。しかしながら、細かい点をめぐってはマネタリストの間で違いもあった。特にフリードマン=シュワルツとブルナー=メルツァーとの間では細かい点をめぐって意見の対立があった。フリードマンのよく知られた政策提案は、足許のマクロ経済の状況の如何にかかわらず、貨幣集計量を「月単位で、可能であれば日単位で、年率X%――Xには3~5の間にある数字を選べばよい――」(原注1)で増やすべし、というものであった(訳注3)。一方で、ブルナー=メルツァーも金融政策の運営にあたっては何らかのルールを課すべきであるという立場ではあったが、貨幣集計量の成長率を足許のマクロ経済の状況と結び付ける積極主義的なルール(activist rule)の利点を認識していた。また、ブルナー=メルツァーは(法定準備預金額の変化を反映するように調整が加えられた)マネタリーベースの動きを注視する一方で、フリードマンはM2やM1といったマネーサプライの動きを注視した(訳注4)。フリードマンは、中央銀行がマネーサプライを正確にコントロールできるようにするために、預金準備率を100%に設定する銀行システム改革案を提言してもいた。

フリードマンのk%ルールがマネタリズムの基本的な(k%ルール以外の)他の教義を差し置いて大きな注目を浴びた結果として、マネタリズムの理解や評価が歪められることになった。特に、フリードマンによる「インフレ加速」(“accelerationist”)仮説、あるいは、「自然失業率」(“natural-rate”)仮説は、その重要性の割には無視されてきたといえる。「自然失業率」仮説によれば、インフレーションと失業率とは長期的にはトレードオフの関係にはない。つまりは、長期的なフィリップス曲線は垂直ということになる。この点――インフレと失業率とは長期的にはトレードオフの関係にはない――は、ブルナー=メルツァーによっても盛んに主張されたところである。「自然失業率仮説」を加味すると、マネタリストにとって基本的な命題を以下の2点にまとめることができるだろう。
[1] 名目所得の循環的な変動は、主に貨幣数量の変動にその原因を求めることができる(貨幣数量の変動→名目所得の変動)
[2] 失業とインフレーションとの間には永続的なトレードオフは存在しない
以上の2つの命題が相伴って、マネタリストの政策上の立場が導かれることになるのである。

マネタリズムが経済学界で広く認知されるようになったきっかけは、フリードマンをはじめとするシカゴ大学に勤務する経済学者たちが1950年代に金融理論の分野で書いた一連の論文にある。これらの論文が経済学界の興味を引きつけた理由は、どの論文も新古典派経済学の基本原則に則って書かれていたからである。マネタリズムの台頭にとって最も決定的だったのは、フリードマンが1967年にアメリカ経済学会で行った会長講演である(この講演は、“The Role of Monetary Policy”とのタイトルで1968年に論文として発表された)。フリードマンは、この講演において、自然失業率仮説を展開するだけでなく――フリードマンは、既にその2年前に明瞭なかたちで自然失業率仮説を主張していた――、k%ルールを支持する論拠として自然失業率仮説を援用したのである。ほぼ同時期に、エドモンド・フェルプス(Edmund Phelps)――フェルプスはマネタリストではなかったが――も自然失業率仮説を主張していた。フリードマン=フェルプスの自然失業率仮説は、数年後に現実によって強力な支持を与えられることになったのである。

1970年代後半~1980年代前半になると、それ以前の10年間とは対照的に、マネタリズムの影響力は徐々に弱まっていった。その理由は、主に3つあると考えられる。第1の理由は、実証的なデータに照らして、貨幣需要関数が基本的に極めて不安定である――貨幣需要関数は、4半期ごとに大きく、それも予想できないかたちで、シフトする――と見なされるようになったことである。第2の理由は、合理的期待形成学派が台頭してきたためである――合理的期待形成学派の台頭によって、ケインズ経済学的な積極主義に敵対的な立場の経済学者が別々のグループに分散することになった(マネタリストの過半は、合理的期待仮説を速やかに受け入れることになった)――。そして第3の理由は、1979~1982年にFRBが乗り出した「マネタリズムの実験」(“monetarist experiment”)にある。第3の理由について以下で詳しく説明を加えることにしよう。

1970年代のアメリカでは、他の多くの工業国と同様に、平時においては前例がないほど高水準のインフレーションが数年にわたって続いた。この未曾有のインフレーションは、様々な「ショック」――石油価格の高騰、ベトナム戦争、そして何よりも1971~1973年にかけてのブレトンウッズ体制(国際的な固定為替制度)の崩壊(崩壊の原因の多くは、アメリカがドルと金との交換レートを維持できなくなったことによる)――の結果として生じたものだった。ブレトンウッズ体制の崩壊は、中央銀行に対して新たな重責を課すことになった。つまり、中央銀行は、一国の通貨に対して、金(gold)に代わる新たな名目的なアンカー(錨)を提供せねばならなくなったのである。FRBは、1970年代を通じて、インフレを克服する意思を何度か表明したが、いずれの試みもうまくいかなかった。そんな中、1979年10月6日にヴォルカー(Paul Volcker)議長率いるFRBは、従来の金融政策運営の手続きを大幅に変更し、新たな試み――その試みは、マネタリストの提案する政策手続きと際立った共通点を有していた――に踏み切る旨をアナウンスした。具体的に言うと、FRBは、M1の成長率に月ごとの目標を設定して、その目標を達成するように金融政策の舵を取ることになった。さらには、コントロールが容易な非借入準備(nonborrowed reserves)――「準備預金額(bank reserves)」マイナス「FRBからの借入額(borrowings from the Fed)」――の操作に重点が置かれることになった。FRBが以上のような変更に踏み切った理由は、インフレ率を2桁の水準から大幅に引き下げるため――具体的にどの程度の水準にまで引き下げるかは特定されなかったが――だった。

現時点から振り返ってみると、1979年10月から1982年9月にかけての一連の出来事は、高インフレの克服にとって必要な処置だったし、1990年代における世界的な低インフレの実現につながった実り多き試みだったと見なすことができよう。しかしながら、当時においては、この「実験」は多くのアメリカ人から歓迎されたわけではなかった。1979年後半には、金融引き締めの影響で短期金利が急上昇し、1980年に入ると、融資規制(credit control)が強化された影響で産出量(実質GDP)が大きく落ち込んだが、次の4半期には、融資規制が撤廃されたおかげもあって産出量は回復した。1981年から1982年の中頃にかけて金融引き締めが長期にわたって続いた結果として、1930年代の大恐慌(Great Depression)以来最も深刻な不況が到来し、インフレ率は多くの経済学者が予想した以上のスピードで低下した。さらには、この間に利子率もマネーサプライ成長率もどちらも大振れした。具体的には、1979年10月から1982年9月にかけて、M1の月ごとの成長率の標準偏差は、3.73(1979年10月以前の3年間のケース)から8.22へと上昇し、FF金利(federal funds rate)の月ごとの変化の標準偏差は、2.86から23.1(年率換算)へと急上昇することになったのである。

多くの批評家は、この「実験」をマクロ経済的な大惨事と総括した。さらには、この「実験」はマネタリズムの無効性を示す強力で決定的な証拠であると受け止める者もいた。この「実験」は、貨幣集計量の成長率を目標にして金融政策を運営することがいかに好ましくないかを示すものであり、非借入準備の操作を通じてM1の成長率をコントロールしようとする試みがいかに非現実的であるかを示すものである、というのである。その一方で、マネタリストたちは、この「実験」は、実のところ、マネタリスト的な教義に則ったものではなかったと主張した。①M1の成長率が月ごとに大きく変動していたし、②準備預金の積み立てが1カ月遅れでなされる仕組みになっていたせいでM1をコントロールするのが極めて難しくなっていたし、③FRBが足許の経済状況に応じて裁量的に反応するのを断じてやめずにいた、というのがその言い分である。現時点から振り返ってみると、FRBによる非借入準備の操作を通じた政策運営――非借入準備額に週ごとの目標を設定した上で、非借入準備の供給量を操作する――は、FRBが国民と円滑な関係を築く上では大いに効果があったように思える。というのは、「利子率の高止まり」という国民に人気のない結果が生じたとしても、FRBとしては「利子率が高いのは、市場需要が旺盛だからだ」(原注3)と言い逃れできたからである。それに加えて、見かけ上はマネタリスト的なアプローチを採用しているかのように振る舞っておいて、いざ「実験」が失敗したとなれば、マネタリズム(+FRBに対していつも文句ばかり言ってくるマネタリスト)に失敗の責任を被せることができたからである。時間が経過して全貌が明らかになると、この「実験」は―― 一時的には痛みを伴うものであったかもしれないが――戦略的な成功であったと見なされるようになり、「マネタリズムの失敗」という評価だけがそのまま残るという顛末になったのであった。

マネタリズムの教義のうちで今日まで受け継がれているものは何かあるだろうか? 異論はあるだろうが、いくつか確かなこともある。面白いことに、初期のマネタリストがケインジアンに迫った意見変更のいくつかは、今日ではマクロ経済学や金融論のスタンダードとして受け入れられるに至っている。いくつか例を挙げると、実質変数と名目変数を慎重に区別すべきこと、実質利子率と名目利子率を区別すべきこと、インフレーションと失業率との間には長期的なトレードオフは存在しないこと・・・などがそれだ。さらには、今では大半の研究者が、財政政策よりも金融政策の方が景気安定化政策として効果的であると同時に使い勝手がいいと少なくとも暗黙のうちに考えている。アカデミックな研究者や中央銀行のエコノミストの中には、実物的景気循環理論の立場から、金融政策は実質変数に影響を与えることができないと考える人もいることはいるが、おそらくその勢力はそこまで重要性を持たないだろう。1981~1983年のアメリカで起きた不況の原因が、FRBによる1981年の意図的な金融引き締め――事後的な実質利子率とM1の成長率に照らして、1981年に金融政策のスタンスが引き締めの方向に転じたことがわかる――にはないと信じるのは困難なのだ(訳注5)。

2005年現在、貨幣経済学(monetary economics)の専門家の多くは、自分のことをニューケインジアンのシンパ(共鳴者)と見なすことだろう。アカデミックな経済学者や中央銀行のエコノミストが金融政策について加えている分析を目にすると、貨幣集計量にわずかしか――あるいは、まったく――注意が向けられていないことがあるのも確かだ。しかしながら、理論分析のレベルでいうと、今日の主流的な立場は、かつてのケインジアン――例えば、1956年~1978年のケインジアン ――よりは、マネタリストの立場にずっと近いと言える。さらには、金融政策を運営するにあたって「裁量」(“discretion”)――どのように定義されようとも――よりも「ルール」に重きが置かれているのは明らかだし、インフレーションを極めて低い水準に保つことの重要性が強調されてもいる。マネタリズムの教義のうちで、今では見捨てられて実践されずにいるものがあるとすれば、それは貨幣集計量を強調する見解くらいである。


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Further Reading(もっと深く学びたい人向けの文献紹介)

●Brunner, Karl, and Allan H. Meltzer. “An Aggregate Theory for a Closed Economy.” In Jerome L. Stein, ed., Monetarism. New York: American Elsevier, 1976.
●Friedman, Milton. A Program for Monetary Stability. New York: Fordham University Press, 1959.
●Friedman, Milton. “The Role of Monetary Policy(pdf)”, American Economic Review 58 (March 1968): 1–17.
●Friedman, Milton, and Anna J. Schwartz. A Monetary History of the United States, 1867–1960. Princeton: Princeton University Press, 1963.
●McCallum, Bennett T. Monetary Economics: Theory and Policy. New York: Macmillan, 1989.
●Symposium: “Monetarism: Lessons from the Post-1979 Experiment(JSTOR)”, American Economic Review Papers and Proceedings 74 (May 1984): 382–400.
●Taylor, John B., ed. Monetary Policy Rules. Chicago: University of Chicago Press, 1999.


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原注

(原注1)正確には、長期的な中立性が成り立つためには「リカードの中立命題」が成立している必要がある。
(原注2)Milton Friedman, Capitalism and Freedom (Chicago: University of Chicago Press, 1962), pp. 54.
(原注3)この主張は、いくらか欺瞞的である。非借入準備の供給量が一旦決定されてしまえば、その時々の利子率の水準は非借入準備に対する需要の大きさによって決まってくるというのはその通りだ。しかしながら、「非借入準備の供給量」を決定する権限はFRBにあるのである。

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訳注

(訳注1)Z%のマネーサプライの増加がZ%の一般物価の上昇につながる。実質変数は変化なし。
(訳注2)期待実質利子率 ≒ 名目利子率-期待インフレ率
(訳注3)以下では、フリードマンによるこの提案を「k%ルール」と表現することにする。
(訳注4)つまりは、フリードマン=シュワルツとブルナー=メルツァーとの間では、どの貨幣集計量に注視すべきかという点についても違いがあったということ。
(訳注5)実物的景気循環理論が正しいようなら、金融引き締めの影響で不況が生じるはずがない。しかしながら、1981年の金融引き締めによって実際には不況が生じている。このことは、実物的景気循環理論の言い分とは異なり、金融政策が実質変数に影響を及ぼせることを示している・・・ということが言いたいのだろう。

2012年6月18日月曜日

Gregory Mankiw 「ニューケインジアンの経済学」

N. Gregory Mankiw, “New Keynesian Economics”(The Concise Encyclopedia of Economics, Library of Economics and Liberty)


ニューケインジアンのマクロ経済学(New Keynesian economics)は、ジョン・メイナード・ケインズの思想を引き継ぐ現代マクロ経済学の一学派である。ケインズは1930年代に『雇用、利子および貨幣の一般理論』を出版したが、ケインズの影響力は、1960年代を通じて、経済学者や政策当局者の間で高まっていくことになった。しかしながら、1970年代に入ると、R. ルーカスやT. サージェント、R. バローらを代表とする新しい古典派(New Classical)のマクロ経済学者が、ケインズ革命がもたらした多くの教訓に疑問を投げかけることになった。1980年代に入って、新しい古典派からの批判にさらされたケインズ経済学の教義の立て直しを図ろうと登場してきたのが「ニューケインジアン」を自称する一連の経済学者らであった。

新しい古典派とニューケインジアンとの間における主要な意見の不一致は、名目賃金や名目価格の調整速度(名目賃金や名目価格がどれだけ素早く調整されるか)に関する想定の違いに基づいている。新しい古典派は、名目賃金や名目価格は伸縮的であるとの仮定の下に理論を構築しており、価格は市場を清算するように-需要と供給とが等しくなるように-素早く調整されると想定しているのである。一方で、ニューケインジアンは、(新しい古典派が想定するような)市場均衡モデルは短期的な景気変動を説明することはできないと考え、短期的な景気変動を説明するためには、名目賃金や名目価格は粘着的(“sticky”)であるとの仮定の下に理論を構築するべきだ、と主張する。ニューケインジアンは、名目賃金と名目価格の粘着性に基づいて、非自発的失業が存在する理由や金融政策が経済活動に強い影響を及ぼし得る理由を説明しようとするのである。

(ケインズ経済学とマネタリズムとの両者のパースペクティブをともに含む)マクロ経済学における長い伝統(A long tradition in macroeconomics)においては、金融政策が短期的に雇用量や生産量に影響を与えることができるのは、マネーサプライの変化に対する名目価格の調整が緩やかであるからだ、とみなされている。この伝統的な見解によれば、マネーサプライの変化は以下のようなメカニズムを通じて生産や雇用に影響を与えることになると考えられている。例えば、マネーサプライが減少すると、人々はお金の支出を減らし、その結果財に対する需要が減少することになる。しかしながら、名目価格や名目賃金の調整は緩やかであり、それゆえ名目価格や名目賃金は需要の減少に応じて即座には下落しないために、(マネーサプライの減少に端を発する)需要の減少は生産の落ち込みと労働者の首切りをもたらすことになるだろう、と。新しい古典派はこの伝統的な見解を批判する。緩やかな価格調整という仮定は理論的に首尾一貫した説明を欠くアドホックな仮定だ、というのである。ニューケインジアンの研究の多くは、マクロ経済学における長い伝統に含まれているこの欠陥を修正すること、つまりは、緩やかな価格調整という仮定に対して理論的に首尾一貫したミクロ的基礎を提供することに向けられたのである。


Menu Costs and Aggregate-Demand Externalities (メニューコストと総需要外部性)

名目価格が市場を均衡させるように素早く調整されない理由の一つは、価格調整にコストがかかるからである。価格(値付け)の変更に伴って企業は顧客に対して新たなカタログを送付しなければならないかもしれず、商品の販売スタッフに対して新たな値付けのリストを配布しなければならないかもしれない。また、レストランでは新たなメニューを作り直さなければならないかもしれない。このような価格調整に伴うコスト-「メニューコスト」と呼ばれる-が存在するために、企業は需要の変化に応じてその都度柔軟に価格を変更する代わりに断続的に価格を変更することを選ぶのである。

メニューコストの存在が短期的な景気変動を説明する助けとなるかどうかという点に関しては経済学者の間で意見の不一致がある。(メニューコストの存在によっては短期的な景気変動を説明できないとの立場に立つ)懐疑的な経済学者は、メニューコストは大体において極めて小さいものであり、そのように小さなメニューコストが景気後退のような社会的に大きなコストを生み出す現象を説明することはできないのではないか、と主張する。一方で擁護の立場に立つ経済学者は、「小さい」("small")ということは「とるに足らない(重要でない)」("inconsequential")ということと同じではない、と反論する。メニューコストは個々の企業にとっては小さなものであったとしても、経済全体に対しては大きな効果を持ちうるかもしれない、というのである。

メニューコストの存在に基づいて短期的な景気変動を説明することができると考える経済学者は以下のように議論を展開する。価格がなぜ緩やかにしか変化しないのかを理解するためには、ある特定企業による価格の変更は外部性-当該の(自社製品の価格を変更しようとしている)企業や顧客以外にも効果が及ぶこと-を有していることを認識しなければならない。例えば、ある企業による製品価格の引き下げは次のように他の企業に対しても便益をもたらすことになる。ある企業が価格を引き下げると、同時に経済全体の平均価格も若干ではあるが下落することになり、その結果経済全体の実質所得は増加することになる(名目所得はマネーサプライの量によって決定される)。この実質所得の増加はすべての企業の製品に対する需要の増加というかたちをとることになるだろう。一企業の価格調整が他のすべての企業の製品に対する需要に及ぼすこのマクロ経済的な効果は「総需要外部性」(“aggregate-demand externality”)と呼ばれている。

総需要外部性が存在する状況下では、個々の企業の製品価格を粘着的にする小さなメニューコストは社会全体に対して大きなコストをもたらすことになる。例えば、GMがある新車の価格を発表した直後にFRBがマネーサプライを減少させたとしよう。FRBのこの行動を受けて、GMは発表したばかりの新車の価格を引き下げるべきかどうかを決定しなければならない。もしGMが価格を引き下げたとすれば、車の購入者の実質所得は増加することになり、車の購入者は他の企業の製品を(GMの新車価格が引き下げられなかった場合と比べると)より多く購入することになるだろう。しかし、新車の価格を引き下げるべきかどうか思案しているGMは自車の価格引き下げが他の企業にどのような便益を及ぼすことになるかを考慮に入れることはない。それゆえ、場合によっては、GMは、価格を引き下げることが社会的に見て望ましいとしても、メニューコストの存在により価格引き下げを断念する(訳注1)ということもあり得るだろう。このGMの例が示しているように、粘着的な価格(価格を据え置くこと)が個々の企業にとっては合理的である(最適である)としても、経済全体で見ると非合理的な(望ましくない)結果につながることがあり得るのである。


The Staggering of Prices (価格設定の時間的ズレ)

ニューケインジアンが価格の粘着性を説明しようと試みる際には、すべての企業が同時に価格を設定するわけではなく、その代わりに、企業ごとの価格設定には時間的なズレが存在する点が強調されることもある。それぞれの企業が価格を設定するタイミングにズレが存在するとなると、個別企業による価格設定は複雑な様相を呈することになる。というのも、企業ごとの価格設定に時間的なズレがあると、各企業は価格設定をする際に自社製品の価格と他社製品の価格との相対的な関係(=相対価格)にも注意を払わなければならなくなるからである。企業ごとの価格設定に時間的なズレが存在する場合には、個々の企業が頻繁に価格を改定したとしても、経済全体の物価水準は緩やかにしか変化しないことになる。

以下例を用いてこの点を説明してみよう。まずは、すべての企業が同時に価格設定を行う場合について考えてみることにしよう。すべての企業は月初めごとに価格設定を行うものとする。もし5月10日にマネーサプライが増やされ、その結果として総需要が増加したとすれば、5月10日から6月1日にかけて生産量は(マネーサプライが増やされなかった場合と比べて)増加することになるだろう。というのも、5月10日から6月1日にかけては(仮定により価格の変更は月初めにのみ行われるので)価格が変更されることはないからである。しかし、6月1日になれば、すべての企業は需要の増加に応じて各々の製品価格を引き上げることになるだろう。こうして(5月10日から6月1日にかけての)3週間にわたるブームは終了することになる。

次に、価格設定には企業ごとに時間的なズレがある場合について考えてみよう。経済全体の半数の企業は月初めごとに価格設定を行い、残る半数の企業は月の真中である毎月の15日に価格設定を行うものとする。もし5月10日にマネーサプライが増やされたとすれば、経済全体の半数の企業は5月15日に自社製品の価格を引き上げることが可能である。しかし、残る半数の(月初めごとに価格設定を行う)企業は5月15日に価格を変更することはないので、5月15日に価格を引き上げるとその企業の製品の相対価格は上昇することになり、(価格が据え置かれた製品(月初めごとに価格設定を行う企業の製品)に顧客が流れてしまうことで)結果として顧客を失ってしまうかもしれない(この事例とは対照的に、もしすべての企業が同時に価格を設定するとすれば、すべての企業が各々の製品価格を同時に引き上げるために相対価格は変化しない可能性がある)。(顧客を失うことを恐れて)5月15日に価格設定を行う企業は(価格を引き上げるとしても)おそらくそこまで製品価格を引き上げることないだろう。もし5月15日に価格設定を行う企業が価格を据え置く判断をすれば、月初めに価格設定を行う企業も6月1日には自社製品の価格を据え置く判断をするだろう。というのも、 6月1日に価格を引き上げるべきかどうか思案している企業もまた相対価格を変化させたくないと考えるからである。6月1日以降もこれと同様のロジックが働くことだろう。こうして月初めと毎月15日において個々の製品価格は徐々にしか上昇せず、そのために経済全体の物価水準も緩やかにしか上昇しないということになるだろう。どの企業も他の企業の製品と比べて自らの製品の価格が上昇することを望まないがために、価格設定に時間的なズレがあることで経済全体の物価水準は緩やかにしか変化しないということになるのである。


Coordination Failure (調整の失敗)

ニューケインジアンの中には、景気後退は調整の失敗(コーディネーションの失敗)にその原因がある、と主張する経済学者もいる。コーディネーションの問題は、経済主体が互いに他の経済主体による価格設定に関する意思決定を予想し合うような状況においても生じ得ると考えられる。賃金交渉に臨む労働組合のトップは他の労働組合が使用者側から勝ち取る譲歩に関心を有するだろうし、新たな価格設定に臨む企業は他の企業による価格設定に注意を寄せることだろう。

景気後退がいかにして調整の失敗の結果として生じるかを理解するために、以下の「お話」を見てみることにしよう。経済は2つの企業から構成されているとしよう。中央銀行がマネーサプライを減少させたことを受けて、それぞれの企業は自社製品の価格を引き下げるべきかどうかを思案している。どちらの企業もともに利潤の最大化を目指しているが、利潤は自社製品の価格設定に依存するばかりではなく、相手の企業による価格設定にも依存しているとしよう。

もしどちらの企業もともに製品価格を引き下げなければ、実質貨幣量(マネーサプライを物価水準で割ったもの)は低水準に落ち込み、それを受けて経済は景気後退に陥ることになる。この時両企業はそれぞれ15ドルの利潤しか得られないとしよう。

もしどちらの企業もともに製品価格を引き下げれば、実質貨幣量は高水準に維持され、経済は景気後退を回避することが可能となる。この時両企業はそれぞれ30ドルの利潤を得るとしよう。両企業ともに景気後退を回避することを望んでいるが、自らの行動(自社製品の価格設定)だけでは景気後退を回避することはできない、つまりは、一方の企業だけが製品価格を引き下げ、もう一方の企業は製品価格を据え置くとすれば、景気後退が生じることになるとしよう。この時製品価格を引き下げた企業は5ドルの利潤しか獲得することができず、製品価格を据え置いた企業は15ドルの利潤を獲得することになるとしよう。

この「お話」のポイントは、一方の企業の意思決定は他方の企業が利用可能な結果(機会)に影響を与えるということである。一方の企業(企業A)が製品価格を引き下げれば、他方の企業(企業B)が利用可能な機会は改善することになる。なぜなら、企業Bは自らの製品価格を引き下げることで景気後退を回避することができるようになるからである。企業Aによる製品価格の引き下げが企業Bが直面する利潤機会を改善することになるのは、総需要外部性が働く結果であると考えることができるだろう。

この経済は最終的にはどのような結果に落ち着くことになるであろうか? 一つの可能性は、どちらの企業もともに相手側が製品価格を引き下げると予想し、その結果両企業ともに実際にも製品価格を引き下げるということになるかもしれない。この時、経済は景気後退を回避し、両企業ともに30ドルずつの利潤を獲得することになる。もう一つの可能性は、どちらの企業もともに相手側が製品価格を据え置くと予想し、その結果両企業ともに実際にも製品価格を据え置くということになるかもしれない。この時、経済は景気後退に陥り、両企業ともに15ドルずつの利潤を獲得することになる。これら2つの可能性のどちらもともに実現可能である。つまりは、この経済は複数均衡を有する経済なのである。

どちらの企業もともに15ドルずつの利潤を獲得する(景気後退を伴う)劣位な均衡は調整の失敗の一例となっている。両企業が行動をコーディネートすることが可能であれば、両企業ともに製品価格を引き下げて(景気後退を回避する)優位な均衡を実現することができたであろう。この「お話」とは異なり、価格設定の意思決定に臨んでいる企業の数がもっと多い現実の世界においては、経済主体間のコーディネーションを達成することはしばしば困難となる。以上の「お話」の教訓は、誰一人として粘着的な価格に利害を有していないとしても、ただ単に各々の価格設定者の間で「価格は粘着的になるだろう」との予想が共有されるだけでも実際に価格が粘着的になり得る、ということである。


Efficiency Wages (効率賃金)

ニューケインジアンのマクロ経済学が発展させた重要な理論として失業の理論も見逃すことはできない。持続する失業の存在は経済理論にとって一つのパズルである。通常の経済分析が予測するところでは、労働の超過供給は賃金に対する低下圧力となり、賃金の下落は労働需要の喚起を通じて失業を減少させることになる、ということになるだろう。つまりは、通常の経済理論によれば、失業は自己矯正的な問題(訳注2)なのである。

ニューケインジアンの経済学者は、失業を解消する自己矯正的なメカニズムが機能しない理由を説明するためにしばしば効率賃金仮説と呼ばれる理論を持ち出す。効率賃金仮説によれば、高賃金は労働者の生産性を高めることになると考えられている。労働の超過供給が存在するにもかかわらず、企業が賃金のカットに乗り出さない理由は、賃金が労働者の効率性に影響を与える可能性があるからかもしれない。賃金をカットすることで企業は人件費を節約することができるかもしれないが、効率賃金仮説が正しいとすれば、賃金のカットは(人件費の節約につながると)同時に労働者の生産性を低下させることで逆に企業の利潤を減らす結果となってしまうかもしれないのである。

賃金が労働者の効率性に影響を与える理由としてはいくつかの説明が提示されている。第一の説明では、高賃金の支払いが労働者の転職を抑制することを通じて労働者の効率性に影響を与える可能性に着目する。労働者は様々な理由に基づいて現在の職を離れることになるだろう。他の企業においてもっと魅力的な職を見つけたり、あるいはキャリアの変更を考えたり、あるいは居住地の変更に伴ってなどなど様々な理由に基づいて、労働者は現在の職を離れることになる。しかしながら、労働者が現在の職場にとどまろうとするインセンティブは、企業が労働者に支払う賃金水準が高ければ高いほど、大きくなると考えられる。高賃金を支払うことによって、企業は労働者の転職を抑制し、その結果として新規に労働者を募集したり、新規労働者に訓練を施したりするための時間や手間といった諸々のコストを節約することが可能となるかもしれない。

第二の説明では、賃金が職場における労働者の平均的な能力の質に影響を及ぼす可能性に注目が寄せられる。企業が賃金をカットすると、おそらくは能力のある(生産性の高い)労働者から先に(他に機会を求めて)職場を離れていくことになるだろう。そして、職場には他に行くあてのない能力の劣る(生産性の低い)労働者が残る、ということになるだろう。均衡賃金(労働市場で需給が一致する賃金の水準)を上回る賃金を支払うことにより、企業は以上の逆選択(adverse selection)メカニズムが働くことを回避し、職場における労働者の平均的な能力の質を改善することができるかもしれない。職場における労働者の平均的な能力の質が改善されれば、企業全体の生産性は向上することになるであろう。

第三の説明では、高賃金が労働者の努力水準を高める可能性に注目する。労働者がどれだけ努力しているかを完璧にモニターすることができない場合には、労働者がどれだけ努力するかはある程度労働者自身の裁量に任されることになるだろう。労働者は一生懸命努力して仕事に励むこともできるし、上司に発見されれば首を切られるかもしれないとの危険を負いながらも手を抜いて仕事に臨むことも可能である。この時、企業は高賃金を支払うことによって労働者の努力水準を高めることができる。というのも、支払われる賃金が高ければ高いほど、労働者にとって首を切られることのコストはそれだけ大きくなるからである。高賃金を支払うことによって、企業は労働者が手抜きすることを抑制し、その結果労働者の生産性を高めることが可能となるかもしれない。


A New Synthesis (新しい総合)

1990年代に入ると、新しい古典派とニューケインジアンとの論争は「新しい総合」(new synthesis)の出現を促すこととなった。つまりは、短期的な景気変動を説明するための最善の方法や金融政策/財政政策の役割といった話題に関してマクロ経済学者の間で「新しい総合」に向けた可能性が探られることになったのである。この「新しい総合」は、対立するそれぞれの学派の長所を取り入れることを通じて学派間の総合を図ろうと試みている。「新しい総合」は、新しい古典派陣営から、家計や企業の異時点間にわたる意思決定に関するモデル構築上の様々なツールを取り入れるとともに、ニューケインジアン陣営からは価格硬直性のモデルを取り入れることを通じて短期的な貨幣の非中立性(訳注3)を説明しようと試みている。「新しい総合」に共通したアプローチの特徴は、独占的競争モデル-独占的競争下にある企業(各企業は市場支配力を持ってはいるものの他企業との競争にも直面している)は、市場の動向に応じて頻繁に価格を変更することはなく、間隔をおいて断続的に価格の改定を行う-を採用しているところにある。

「新しい総合」の核心は、経済を動学的な一般均衡システム(dynamic general equilibrium system)として捉える見方、それも価格粘着性やそれ以外の様々な市場の不完全性(market imperfections)のために短期的には効率的な資源配分の状況から逸脱することもあり得る動学的な一般均衡システムとして捉える見方にある。今やこの「新しい総合」は、多くの面において、FRBやその他の中央銀行の金融政策を分析する際の知的な基礎(intellectual foundation)を提供するに至っている。


Policy Implications (政策的なインプリケーション)

ニューケインジアンのマクロ経済学はあくまでもマクロ経済「理論」における一学派であり、それゆえ、ニューケインジアンを自称する経済学者間で経済「政策」に関して共有された単一の見解があるわけでは必ずしもない。大まかに言うと、ニューケインジアンのマクロ経済学においては、新しい古典派のいくつかの理論とは対照的に、景気後退=市場が効率的に機能するような通常時から逸脱した状態、と見なされている。ニューケインジアンのマクロ経済学の構成要素-メニューコストや価格設定における時間的なズレ、調整の失敗、効率賃金-は、古典派経済学が立脚している様々な仮定-経済学者が自由放任(レッセフェール)を正当化する際の知的根拠となるもの-からの大きな逸脱を示すものである。ニューケインジアンの理論においては、景気後退はマクロ経済レベルでの市場の失敗によって引き起こされるわけであり、それゆえ、ニューケインジアンのマクロ経済学は市場への政府介入-金融政策や財政政策を通じた経済の安定化-に対して「理論」的な根拠を提供しているとみなすことができるであろうし、ニューケインジアンのマクロ経済学におけるこの側面は先に述べた「新しい総合」の中にも組み込まれている。しかしながら、政府が実際にも市場に介入すべきかどうかという問題は、経済的な判断だけではなく政治的な判断も伴うものであり、「理論」的な結論をそのまま「実践」に移すことができるほど簡単な問題ではないのである。


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Further Reading (もっと深く学びたい人向けの文献紹介)

○Clarida, Richard, Jordi Gali, and Mark Gertler. “The Science of Monetary Policy: A New Keynesian Perspective(pdf)”, Journal of Economic Literature 37 (1999): pp.1661–1707.
○Goodfriend, Marvin, and Robert King. “The New Neoclassical Synthesis and the Role of Monetary Policy(pdf)”, in Ben S. Bernanke and Julio Rotemberg, eds., NBER Macroeconomics Annual 1997. Cambridge: MIT Press, 1997. pp. 231–283.
○Mankiw, N. Gregory, and David Romer, eds. New Keynesian Economics. 2 vols. Cambridge: MIT Press, 1991.

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訳注

(訳注1)価格引き下げによる車の売り上げの増加が価格引き下げに伴うメニューコストを下回る場合には、GMにとっては価格を据え置くことが(できるだけ多くの利潤を確保する上では)合理的となる。
(訳注2)価格(名目賃金)の調整を通じて市場が自動的に解決する問題
(訳注3)金融政策は短期的には生産量や雇用量といった実質変数に影響を与えることができる、ということ。

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サイドバーに「The Concise Encyclopedia of Economics(Library of Economics and Liberty)の訳」欄を新たに設置。