“The New Case for Keynesianism;Interview with George Akerlof(pdf)”(Challenge, vol. 50, no. 4, July/August 2007, pp. 5–16)
現在主流の経済学で広く受け入れられている諸前提に挑むのはノーベル経済学賞受賞者でもあるジョージ・アカロフ。市場参加者の意思決定(なぜそのような意思決定を行うのか、意思決定はどのように行われるのか)に関してもっと現実的な見方に立てば、ケインジアンの信念が無理のないかたちで正当化されることが判明するだろう。政府による政策は経済を運営する上で決定的な役割を果たす。政府による政策を欠いた状態では、我々は一層大きなリスクに直面することになり、おそらくは経済成長は鈍化することになるだろう。
インタビュワー;アカロフ教授、この冬(訳注;2006年の冬)にあなたがアメリカ経済学会の総会で行われた会長講演(欄外訳注)は大変挑発的な内容でした。講演では現在主流の経済学で広く受け入れられている教義のいくつかに対して正面切って挑戦をなされました。講演の目的というのは一体どのようなものだったのでしょうか?
アカロフ;そもそも私が経済学を学び始めた理由は特にマクロ経済学、それも基本的には失業の原因(どうして失業が生じるのか、といった問題)に興味を持ったことにありました。失業の問題は私がこれまでに学者としてのキャリアを通じて行ってきた研究の大半の中心をなしてきたと言えます。先の会長講演では、現在主流のマクロ経済学に関する私なりのビジョンを提示するとともに、古いタイプのマクロ経済学-私個人の目には常に常識的な見解として映ってきたマクロ経済学-に対してもっと高い評価を与えるべき理由について説明したいと考えました。ここで古いタイプのマクロ経済学というのは基本的にはケインズのマクロ経済学のことを指しています。
インタビュワー;ケインズはこれまでに(ケインズが自説を発表した当時においてもそれ以降の時代においても)辛辣な批判にされされてきました。アカロフ教授が試みようと考えてらっしゃるのはこのケインズ批判の潮流を反転させることにあるのでしょうか?
アカロフ;ケインズに対する攻撃は彼の古典的な著作である『雇用、利子および貨幣の一般理論』が発表された1936年当時から既に見られたところではありましたが、ケインズ主義(Keynesianism)はまたたく間に教科書や経済学的な思考(economic thinking)における標準的な見解として定着することになりました。しかしながら、1970年代~1980年代に入ると、ケインズ経済学の理論体系とそれを支える諸前提に対してちょっとした修正を施すと、最終的に理論上における大きな変化がもたらされることを幾人かの経済学者が発見することになったのです。
インタビュワー;「ケインズ経済学」ということで正確にはどのようなことを意味されているのでしょうか? まずはこの点についてお話しいただけるでしょうか?
アカロフ;「ケインズ経済学」ということで私が意味しているのは、政府は経済の安定化を図る役割を担うべきである、ということです。政府がその役割を果たすにあたっては金融政策に頼ることができるでしょうし、金融政策がうまく機能しない場合には財政政策に頼るという選択肢もあるでしょう。具体的な手段はともかく、「ケインズ経済学」においては、経済の安定化を一国政府の責任の一つと見なすのです。
インタビュワー;『一般理論』が出版された当時、ケインズは金融政策-マネーサプライや金利の操作-よりも財政政策-税金や政府支出の操作-にずっと大きな関心を持っていると解釈されていました。これはケインズに対する誤った解釈であるとお考えでしょうか?
アカロフ;いや、そうは思いません。ただ、ケインズが執筆していた当時は他の時期とは状況が大きく異なっていた点を思い出す必要があります。大恐慌当時においてプライムレート(優良企業向けの優遇貸出金利)はほぼゼロ%の水準にありました。そのため、金利への影響を通じて機能する金融政策は(経済を刺激する上で)ほとんど何の効果も持ち得ず、頼れるのは財政政策だけという状況だったのです。しかし、戦後になり再び繁栄が戻ってくると、金利がゼロ%に近い状況というのはもはやお目にかかれなくなり、経済の安定化を図る手段として再度金融政策に頼ることが可能となりました。加えて、金融政策は財政政策よりも柔軟性に富んでいるように思われます。 というのも、金融政策は大統領や議会ではなく中央銀行(アメリカではFRB)によって決定されているので速やかに変更することが可能だからです。そういうわけで、現在では(財政政策だけではなく)金融政策と財政政策の両者ともにケインズ政策に含まれると考えられています。景気が悪化すると景気の浮揚を狙って政府が減税に臨んだり、時には政府支出の増加に臨む傾向を目にするでしょうが、これはまさしく古典的なケインズ流の財政政策です。
インタビュワー;さて、先ほど、1970年代~1980年代に入るとケインズ経済学を支える諸前提に対して修正が施されることになった、とのお話がありましたが-そのような修正は主にミルトン・フリードマン(Milton Friedman)をはじめとしたシカゴ大学の経済学者によって施されたと言っても差支えないと考えるのですが-、ケインズ主義に対する攻撃をひきつけることになった(ケインズ経済学を支える)諸前提というのはどのようなものだったのでしょうか?
アカロフ;基本的には3つの前提です。まず1つ目は、現在の消費は現在の所得に依存する、という前提です。この前提に対してミルトン・フリードマンは、「それは間違いだ。人は合理的であり、それゆえ、個々人が現在どれだけ消費するかは単に現在の所得だけに依存するのではなくこれから先の生涯全体にわたる所得(訳注;もっと正確には、恒常所得)にずっと大きく依存するはずである。さらには、個々人が資産を保有している場合には、資産もまた現在の消費に影響を与えるだろう」、と反論しました。もしフリードマンのこの反論が正しいとすると、ケインズ政策の実施は一層困難なことになります。というのも、政府支出の増加を通じて人々に仕事が提供され現在の所得が増加するとしても、(フリードマンの反論が正しければ)現在の消費は現在の所得にそれほど敏感には反応しないので、政府支出の増加が有する乗数効果は小さくなるだろうからです。
インタビュワー;フリードマンの反論が正しければ、政府支出の増加が経済を刺激する効果は(ケインズ経済学において想定されている場合よりも)小さくなるということですね。ところで、フリードマンとよく似たモデルを提案した経済学者として例えばフランコ・モジリアーニ(Franco Modigliani)やジェームス・デューセンベリー(James Duesenberry)といった人々-フリードマンのように政治的な保守派であるとは言えない経済学者-がいます。彼らのモデルはフリードマンのものと同じと見ていいのでしょうか? それともいささか違ったところがあるのでしょうか?
アカロフ;基本的には同じと見て構いません。ですので、(ケインズ経済学を支える)1つ目の前提に対して反論を加えたのはフリードマンだけではない、ということになりますね。フリードマンの恒常所得仮説には支持するに値する見解があると信じられており、その見解が広く共有されているわけです。その見解というのは、つまりは、現在の消費は現在の所得だけに依存するわけではない、というものです。 しかしながら、ケインズが執筆したものを見ると、彼が大変慎重であったことがわかります。確かにケインズは、現在の消費は主に現在の所得に依存すると述べていますが、同時に彼は現在の消費が依存する可能性のあるそれ以外の変数からなる長いリスト-その中には将来の所得も含まれます-を掲げてもいるのです。フリードマンのユニークな点は、現在の所得は富-すべての将来所得を含んだ富-の一部として勘定される以外のかたちでは(訳注;富ならびに恒常所得を変化させない限りは)現在の消費に対して影響を与えることはない、と主張したところにあります。これは極端な見解であると言えます。ところで実際の事実を見ますと、現在の消費はかつてケインズが主張したのとそっくりのかたちで現在の所得に依存しているように思われます。しかし、そうだとしたら問題が生じることになります。フリードマンが主張したように、人々が合理的であるとすれば、消費の決定は恒常所得に基づいて行われるはずですが、そうだとすると現在の消費が現在の所得に依存するという事実をどう説明したらよいのでしょうか? この事実を説明する上で最も簡単な方法は、人々は規範(norm)に従って行動していると想定することにあると私は考えます。消費はどのようにあるべきか(どれだけの金額を消費するべきか/消費してもよいか)という点に関して人はそれぞれに見解を持っており、その見解はどれだけの額を支出に回す権利(資格)があると感じているか(how much they feel entitled to spend)に依存していると考えられるのです。大半の人々にとっては、自らが支出に回す権利があると感じる額は現在どれだけ稼いでいるか(現在の所得)に大きく依存するでしょう。現在の所得以上に支出すると、何か不味いことをしているのではないかと感じるのです。こういった理由で、現在の所得は現在の消費を決定する上で特別な役割を果たすことになるのです。現在の消費と将来の消費との間の選択は-フリードマンが主張したように-単に経済的な便益と経済的なコストとを天秤にかけて行われている、というわけではないと考えられるのです。
インタビュワー;次に他の前提についてお話をうかがうことにしましょう。ケインズ主義に対する攻撃をひきつけることになった1つ目の前提は消費関数を巡るものでしたが、その他の前提はどのようなものだとお考えでしょうか?
アカロフ;2つ目の前提は投資に関するものです。企業が投資を行うのは投資がもたらす経済的な報酬が投資の実施に要する経済的なコストを上回る場合に限ってである、との見解がありますが、これとは対照的にケインズは、企業による投資はキャッシュフローにも依存する、と主張しました。大きな利潤を手にした企業は(訳注;その大きな利潤を基にして)大規模な投資を行い、一方で、それほど利潤をあげられなかった企業は(訳注;その小さな利潤を基にして)わずかばかりの投資しか行わない、と考えたのです。
インタビュワー;企業の投資に関するケインズのその前提に対してどのような反論があったのでしょうか?
アカロフ;フランコ・モジリアーニとマートン・ミラー(Merton Miller)という2人の経済学者が次のような理論を発展させて反論を寄せたのです。もし人々が完全に合理的だとすれば、経営者は株主に対して可能な限り最大の収益をもたらすように行動するので、その結果として企業による投資は現在のキャッシュフローからは独立して決定されるだろう。企業による投資はこれから実施される予定の投資の収益性のみに依存するだろう、と。しかし、先ほど話した現在の消費と現在の所得との関係の例のように、ここでも実証的な事実はモジリアーニ=ミラーの理論に疑問を投げかけているのです。現実には、企業による投資は現在のキャッシュフローに敏感に反応しているのです。
インタビュワー;つまりは、ここでもまた反ケインズ的な見方からケインズ的な見方への回帰が生じた-他にもっと適当な表現があるのかもしれませんが-ということですね。
アカロフ;そういうことです。そして、この事実をうまく説明するような新たな理論、経営者の行動に関する新たな理論というのも開発されています。この理論では、経営者は単に株主の利益のことだけを考えて企業を経営しているわけではなく、経営者は自らが念頭に置いている利益もまた追求しようと試みるものだ、と捉えます。彼ら経営者は「帝国の建設者(empire-builders)」であって、利用可能な資金があればそれを基にして自分にとって望ましいと感じるような仕方で投資を実施するのです。こうして、私たちは再びケインズ的な見方に立ち戻ることになります。キャッシュフローが豊富にあると、それを基にして大規模な投資が行われることになるのです。
インタビュワー;ということは、かつてケインズ主義を覆した前提が今後は逆に覆されつつある、というわけですね。
アカロフ;もし現実の人間が標準的な経済学のモデルにおいて想定されているのとは別のものを最大化しようと試みるのだとすれば-現実の人間が合理的な経済人とは異なる利益を追求するとすれば-、最終的に得られる結論は標準的な経済学のモデルが予測するのとは異なったものとなることでしょう。そして、その結論はオリジナルのケインズモデルと似た性質を備えていると考えられるのです。
インタビュワー;それでは、3つ目の前提についてお話しいただけるでしょうか?
アカロフ;この3つの目の前提というのは私が最も重要だと考えるポイントでもあります。さて、賃金や価格というのはどのように設定されるのでしょうか? 40年ほど前、ミルトン・フリードマンとエドモンド・フェルプス(Edmund Phelps)は非常に興味深い理論を公にしました。彼らが主張するには、失業率がある水準-自然失業率と呼ばれています-を下回ればインフレーションが加速することになり、反対に、失業率が自然失業率を上回ればデフレーションが加速することになる、というのです。どうしてそうなるのでしょうか? 彼らによればその理由はこういうことです。現実の失業率が自然失業率を下回ったとすれば、現実のインフレ率は期待インフレ率を上回ることになるでしょう。現実のインフレ率があらかじめ予想していた以上の高さであることが判明すれば、労働者は賃金の引き上げを要求し、経営側は自社製品の価格引き上げに臨むことになるでしょう。このようにして、現実の失業率が自然失業率を下回るとインフレーションが加速することになる、というのです。もしフリードマン=フェルプスの主張が正しいとすれば、財政政策は長期的な失業の水準にほとんど何の影響も及ぼせない、ということになるでしょう。というのも、現実の失業率が自然失業率を下回ったとしても(訳注;その状態は一時的なものでやがて現実の失業率は自然失業率に落ち着き)最終的にインフレーションが加速するだけであり、現実の失業率が自然失業率を上回ったとしても(訳注;その状態は一時的なものでやがて現実の失業率は自然失業率に落ち着き)最終的にデフレーションが加速するだけ、ということになるからです。
インタビュワー;フリードマンとフェルプスによって自然失業仮説が提唱される以前は、フィリップスカーブが大きな影響力を誇っていました。
アカロフ;その通りです。かつては、インフレ率の水準と失業の水準との間にはトレードオフが存在する、と考えられていました。つまりは、失業率が低ければ低いほどそれに応じてインフレ率は高くなる、と考えられていたのです。ところが、フリードマンとフェルプスによれば、失業率が自然失業率を下回るような状況では、(訳注;インフレ率が上昇することと引き換えに失業率が低下する、ということはなく)インフレーションがコントロールを失って加速するような悪循環が生じることになる、というのです。
インタビュワー;フリードマンとフェルプスによる自然失業率仮説は政府による政策に対してどのような意味合いを持っているのでしょうか?
アカロフ;もし彼らの理論が現実に妥当するのだとすれば、金融政策や財政政策によっては現実の失業率を長期にわたって自然失業率と大きく異なるような水準にとどめておくことはできない、ということになります。つまりは、金融政策や財政政策は経済の長期的な繁栄(繁栄というのは結局のところ職(job)の問題に尽きます)に対して何の効果も持たない、ということになるのです。
インタビュワー;なるほど。それではなぜフリードマンとフェルプスの主張は成り立たないとお考えなのでしょうか?
アカロフ;彼らの主張には真実の要素が含まれてはいます。価格を設定するにあたって、人々はある程度期待インフレ率を考慮する、というのは確かにその通りでしょう。賃金契約に臨むにあたって、人々はおそらくこの先のインフレ率がどうなりそうかを考慮に入れることでしょう。しかし、フェルプスやフリードマンの理論は高い正確性と合理性を要求しています。彼らの理論では、期待インフレ率が1%ポイントだけ上昇すると、人々は設定する価格を1%ポイントだけ引き上げ、名目賃金の1%ポイントの引き上げを求める、と見なされているのです。これは非現実的なまでの正確性を要求するものと言えます。期待インフレ率が価格や賃金の設定に影響を持っているのは確かだと私も考えますが、両者が正確に1対1で対応している(訳注;価格や賃金が期待インフレ率の変化とそっくり同じ規模だけ改訂される)かどうかはわかりません。統計上の証拠は、両者が1対1で対応していることを明白な形で支持している、というわけではありません。どうやら多くの経済学者は期待インフレ率が価格や賃金の設定に及ぼす影響を現実よりもずっと強力なものとして解釈してきたようです。さて、期待インフレ率と価格・賃金の設定とが1対1では対応していないとすれば、どういうことになるでしょうか? 結論を言いますと、インフレーションと失業率との間には、フィリップスカーブが示唆するように、かなりのトレードオフが存在することになるかもしれないのです。
インタビュワー;期待インフレ率と価格・賃金の設定が1対1で対応するかのように見なしてきた経済学者らは一体何を見過ごしてしまったのでしょうか?
アカロフ;重要なポイントは貨幣錯覚(money illusion)の存在です。貨幣錯覚が存在する、ということは、人々は名目価格(nominal price)を通じてものを考えるということです。もし5ドルだけ名目賃金が上昇したら、人々はそれ以前(賃金上昇前)に手にしていたよりも5ドル多く、あるいは何かしらを多く手にすることになると考えるのです。たとえインフレーションが生じていたとしても、です。つまりは、貨幣錯覚が存在する場合、人々は賃金でどれだけの財が購入できるか、というようには考えないのです。そして、非常に重要な2つのインタビュー調査によれば、名目賃金が上昇すると、たとえ財の価格が同じだけ上昇していたとしても、人々は名目賃金の上昇を受けて以前よりも幸福を感じることが明らかにされています。今私が主張していることとフリードマン=フェルプスが主張していることとの違いは、フリードマン=フェルプスによる想定、つまりは、人は皆極めて合理的である、との想定にあります。フリードマン=フェルプスによれば、人々が賃金について考える際には、自らの賃金でどれだけの財が購入できるかという点にしか注意が向けられない-言い換えれば、人々はインフレーションで調整した賃金(実質賃金)にしか興味がない-、と見なされているのです。しかし、実際のところ人々は賃金を貨幣単位で考えている(訳注;名目賃金それ自体に興味を抱いている)ことを示す様々な証拠があります。この事実がはっきりと表れている例を一つ挙げると、人々は賃金のカット(切り下げ)を嫌う、というのがあります。それも特に名目賃金のカットを嫌うのです。人々は賃金や給与のカットを経済的な観点から解釈するにとどまらず、賃金のカットを個人的な侮蔑としても受け取る傾向にあります。そのために、経済的に見て筋が通っていたとしても、人々は賃金のカットに抵抗することになるのです。一方で、名目賃金の上昇がインフレーションに遅れをとる場合(訳注;名目賃金は上昇する一方で実質賃金は低下する場合)、人々は名目賃金がカットされる場合ほどには心がかき乱されることはありません。実際に統計上の証拠を眺めると、名目賃金がカットされた例というのはほとんどないことがわかります。もし人々がフリードマン=フェルプスが想定するほどに合理的なのだとすれば、人々は名目賃金の上昇がインフレーションに遅れをとる場合にも名目賃金がカットされる場合と同じような反応をしてしかるべきなのですが・・・・。
インタビュワー;今ご説明いただいたお話が政策に対して持つ意味合いはどういったものになるでしょうか?
アカロフ;オリジナルの自然失業率仮説からは、政府は経済の状況を改善し得ない、との含意が導かれることになりますが、一方で、貨幣錯覚が存在する場合には、労働者は自然失業率仮説が予測するところとは違って必ずしも期待インフレを賃金契約に反映させる(訳注;期待インフレ率の上昇分と同じだけの名目賃金の引き上げを要求する)ことはありません。その結果として、インフレーションと失業との間の長期的なトレードオフが復活する、ということになるのです。
インタビュワー;さらなる景気刺激策が採用されれば失業率は低下することになるかもしれない、ということでしょうか?
アカロフ;そうです。そして、穏やかなインフレーションは望ましいことだ(a little inflation is a good thing)、との結論が導かれることになります。これはある意味で、失業を減らすために人々が抱く貨幣錯覚を利用している、と見なすことができるでしょう。穏やかなインフレーションは雇用の妨げにならない、というわけですが、この見解は重要なインプリケーションを有しています。極めて低率のインフレーションの達成を目指してこれまでに奮闘を繰り広げてきた政府がいくつかありますが、そういった国では同時に高金利と経済成長の鈍化が見られました。例えば、1990年代を通じてカナダの金融政策は極めて低率のインフレーションの達成を目指して運営されましたが、同期間におけるカナダの失業率は大変高い水準を記録することになりました。インフレーションを極めて低い水準にとどめておこうとする過ちのために、経済成長の鈍化と不必要に高い失業率という高いコストを支払う結果となったわけです。
インタビュワー;1980年代から1990年代の初頭にかけてアメリカで追求されたインフレ率も低すぎであった、とお考えになりますか?
アカロフ;アメリカに関してははっきりとしたことは言えませんが、ただ、あまりに低率のインフレーションを目標とすることは重大な損害をもたらし得る、との警告であると受け止めていただきたいと思います。
インタビュワー;最近の経済学の教科書を読むと、執筆者がフリードマンにシンパシーを感じているような場合だけではなく、例えば、MITの伝統の中で育ったような人物が執筆者である場合でも、 自然失業率仮説に従順な様子が感じ取れますね。
アカロフ;そうですね。実にその点は会長講演でのメッセージの一つでもありました。「私たちはあまりにも自然失業率仮説に傾倒しすぎているのではないか? この点について冷静に考え直すべきではないか?」、というメッセージですね。もうちょっと丁寧に説明させていただきますと、優れた経済学者であれば誰でも、インフレ期待が賃金や価格の設定に影響を及ぼすだろう点には同意するでしょう。しかし、インフレ期待が賃金や価格の設定に影響を及ぼすと信じることとインフレ期待と賃金・価格の設定が1対1で対応していると主張することとの間には大きなギャップがあるのです。統計上の証拠によれば、確かにインフレ期待が価格や賃金の設定に影響を与えていることがわかります。統計上の証拠によれば、インフレ期待と価格・賃金の設定が1対1で対応している可能性を棄却することはできませんが、同時に、インフレ期待と価格・賃金の設定との結び付きが1対1での対応よりずっと弱い可能性もまた棄却されないのです。インフレ期待が価格や賃金の設定に及ぼす影響はゼロではないかもしれませんが、両者のつながりは1対1での対応よりずっと弱い可能性もあるのです。自然失業率仮説に対しては現状よりも少しばかり冷めた態度で接するべきなのです。実際の証拠は自然失業率仮説に関して広く受け入れられている見解を支持するものではなく、さらには、今日のようにインフレ率が低い場合には自然失業率仮説が妥当する可能性は特に小さくなるのです。後者(訳注;インフレ率が低い場合には自然失業率仮説が妥当する可能性が小さくなる点)については多くの証拠があります。
インタビュワー;どのような証拠でしょうか?
アカロフ;1930年代に大変痛ましい経済実験が行われることになりました。大恐慌(Great Depression)ですね。大恐慌の期間を通じて失業率は極めて高い水準にありましたが、当時の失業率は自然失業率-妥当なかたちで推計された自然失業率-を大きく上回っていたと思われます。自然失業率仮説が正しければ、現実の失業率が自然失業率を上回った結果としてデフレーションが加速していたはずです。しかし、現実にはそういったことは起きませんでした。1930年代を通じて失業率は極めて高い水準にあり、その結果として確かに低率のインフレーションが生じることにはなりましたが、自然失業率仮説が予測するようにデフレーションが加速するというようなことにはならなかったのです。
インタビュワー;これまでご説明いただいた議論は合理的期待形成理論に対しても疑問を投げかけることになるでしょうか?
アカロフ;自然失業率仮説や合理的期待形成理論のキーとなる想定は、通常思われている点とは違うのではないかと私は考えています。もう少し細かく説明させていただきましょう。多くの人々は、合理的期待形成理論のキーとなる想定は、市場参加者は将来に対して合理的に期待を形成する点にある、と見なしているようです。しかし、私個人としては、合理的期待形成理論のキーとなる想定は、人々は貨幣錯覚を抱かない、という点にあると思います。もし貨幣錯覚が存在するようであれば、たとえ人々が合理的に期待を形成するとしても、経済の安定化を図る上でシステマティックな金融政策に頼り得る余地が残されることになるでしょう。
インタビュワー;もう少し詳しくご説明していただけるでしょうか?
アカロフ;合理的期待形成理論によれば、金融政策は経済の安定化効果を持ち得ない、ということになります。その理由はこうです。もしマネーサプライの増加が賃金や価格の上昇を上回るようであれば、 金融政策は景気刺激効果を持つことになります。マネーサプライが物価水準よりも速やかに上昇するために(訳注;実質的な貨幣残高(マネーサプライを物価水準で除したもの)が増加するために)、総需要が増加することになるからです。しかしながら、貨幣錯覚が存在しない場合、金融政策の変更があらかじめ予見されていれば、賃金や価格はマネーサプライの増加と比例するかたちで引き上げられることになり、その結果として金融政策の効果が相殺されることになるのです。一方で、もし貨幣錯覚が存在すれば、人々はあらかじめ予見されたマネーサプライの変化を完全に相殺するようには行動しないと考えられます。貨幣錯覚が存在する状況では、マネーサプライの変化ほどには価格や賃金は変化しない(訳注;例えば、マネーサプライが増加した場合、賃金や価格はマネーサプライの増加ほどには引き上げられない)と考えられるのです。そうだとすると、あらかじめ予見されたマネーサプライの変化であっても生産や雇用に対して効果を持ち得ることでしょう。
インタビュワー;リカードの中立命題(Ricardian equivalence)も成り立たないとお考えでしょうか?
アカロフ;はい。リカードの中立命題については例を用いて説明することにしましょう。例えば、リカードの中立命題では、現代世代に対する社会保障給付の増加は現時点での支出(消費)に影響を与えない、と主張されます。その理由は、社会保障給付の増加を賄うために将来的に増税されるだろうと人々が予想するから、というのです。将来世代の消費水準を維持しようとの思いから、現代世代の人々は将来の増税(将来世代に対する税負担の増加)を予見して社会保障給付として受け取った分を(将来世代に相続する遺産として)貯蓄に回すだろう、というのです。このような理屈が現実をうまく描写していると信じる人はほとんどいないと私は思います。私であれば、ポケットに以前よりも多くのお金を持ち合わせていることを知ったとすれば、これまでよりもたくさん支出に回す権利があると感じることでしょう。
インタビュワー;合理的期待形成理論の後継者であり、リカードの中立命題といとこのような関係にあるのは実物的景気循環理論であると思われます。実物的景気循環理論でもまた政府による介入は何の助けにもならないと想定されています。実物的景気循環理論についてはどのようにお考えでしょうか?
アカロフ;実物的景気循環理論はその前提が非現実的であるためにうまくいかないと思います。実物的景気循環理論では、人々は貨幣錯覚を抱かないと想定されているのです。
インタビュワー;金融政策についてお考えになる際は、マネーサプライの成長率を頭に浮かべられるのでしょうか? それとも金利でしょうか?
アカロフ;今回のインタビューでは金融政策は主にマネーサプライの水準に影響を与えるものとして語ってきましたが、金融政策は金利を決定するものだと考えたとしても私の議論の本質は変わらないと思います。
インタビュワー;マネーサプライと金利とは切り離せないので、マネーサプライの観点から考えるか、それとも金利の観点から考えるかというのは重要ではない、という意味でしょうか?
アカロフ;金融政策は金利に影響を与えるのか、それともマネーサプライに影響を与えるのか、といった話は重要ではないと私は考えます。というのも、どちら一方の水準を決めたら、暗黙のうちに他方の水準も決めていることになりますからね。
インタビュワー;わかりやすい言葉で表現させていただくと、アカロフ教授の結論は、政府による政策は重要である、ということになるでしょうか。
アカロフ;私はケインジアンの見方に賛同しています。ケインジアンの経済認識はいつでも正しいものであった、と個人的には考えています。大恐慌についても戦後についても彼らの経済認識は正しいものでしたし、今日においてもケインジアンの経済認識は相変わらずその妥当性を失ってはいません。結論めいたことを言いますと、資本主義システムは人々が望む財を提供する上で極めて強力な仕組みであって、多くのメリットを備えています。しかし、だからといって、システムへの介入が果たすべき役割は何もない、ということにはなりません。政府は雇用水準に影響を与える上で責任があります。というのも、政府はそうすること(雇用水準に影響を及ぼすこと)が可能なのですから。戦後世界の経済的な成功は、政府が雇用に対する責務を果たすことへの信頼(faith)の上に成り立っていた(訳注;政府が雇用に対する責務を果たすに違いないとの信頼があったからこそ戦後世界の経済的な成功が可能になった)、と私は考えます。そのような信頼があれば、経済が不調に陥った場合でも、投資に回すはずであった資金を手に人々がどこかに逃亡するなんて事態は生じないでしょう。政府が完全雇用を維持する責務を果たすだろうから経済はそのうち復調するに違いない、と予想されるからです。過去60年にわたって西洋経済が完全雇用に極めて近い状況を保ち続けてきた主要な理由はまさにこの点(訳注;政府が雇用に対する責務を果たすことへの信頼が存在していた点)にある、と私は考えます。政府は経済の安定化を図る能力と責務がある、との発想に頼ることができなければ、私たちはこの先一体何が起こるのか見当もつかない状態に置かれることになるでしょう。そうなれば大変深刻な損失がもたらされることになるかもしれません。
インタビュワー;設備投資の決定や企業の意思決定、労働者の意思決定における不確実性が高まることになれば、それに伴って生じる損失は有害なものとなり得ますね。
アカロフ;そうですね。「政府を廃止せよ!」と訴える人々は、政府が廃止されることでこの世は一層見通しが良くなる(確かなものとなる)と考えているようです。そのような見方は私が考えるところとは正反対の見方ですね。
インタビュワー;今回アカロフ教授に披露していただいた見解といわゆるニューケインジアンの見解との間にはどういった違いがあるのでしょうか? ニューケインジアンのキーワードは「摩擦」(“frictions”)-賃金や価格の設定が粘着的になる根拠となるもの-ですが、この摩擦の存在がケインズ的な刺激策を正当化することになるわけですが。
アカロフ;「摩擦」を強調する議論に対しては何の反論もありません。ただ、今回お話しさせていただいた議論はケインジアンが心に抱いていた考えに対してもっとしっかりとした基礎を提供するものだと個人的には考えています。
インタビュワー;「摩擦」よりももっとしっかりとした基礎ということですか?
アカロフ;そうです。私の議論は「摩擦」を強調するニューケインジアンの議論を大きく補強することになると思います。ただ、「摩擦」を強調する議論に対しては反論があり得るのも確かです。「摩擦」の多くは情報の非対称性(asymmetric information)-特に、雇用者と被雇用者との間での情報の非対称性-が原因で生じますが、賃金契約を工夫することで情報の非対称性に伴う問題を和らげることは可能です。他にも、「摩擦」は精々小さなものであって、それゆえに景気循環に対してはわずかばかりの効果しか持たないとの反論もあり得ます。そういうわけで、「摩擦」を強調する議論は私の議論よりも脆い面があるのではないかと個人的には考えています。
インタビュワー;全体のまとめをしていただくとどうなるでしょうか?
アカロフ;ケインジアンの理解は基本的には正しかった、ということです。
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(欄外訳注)
インタビュワーの最初の質問で言及されている会長講演は以下。
●George A. Akerlof(2007), “
The Missing Motivation in Macroeconomics”(
American Economic Review, vol.97(1), pp.5–36;ドラフトは
こちら(pdf))
なお、アカロフの本講演に関しては梶ピエール氏が詳細な解説を加えてらっしゃいます。本インタビューで触れられている内容についてもう少し深く突っ込んで知りたいという方は是非ともご一読あれ。
●梶ピエール、「
『アニマルスピリット』の議論の原型」(
梶ピエールの備忘録。, 2009年6月4日)