2012年6月22日金曜日

Alan Blinder 「ケインズ経済学」

Alan S. Blinder, “Keynesian Economics”(The Concise Encyclopedia of Economics, Library of Economics and Liberty)


ケインズ経済学(Keynesian economics)は、経済における総支出(total spending)-総需要(aggregate demand)とも呼ばれる-に関する理論であり、総需要が生産やインフレーションに及ぼす効果を理論的に研究する立場の一つである。これまで種々雑多なアイデアに対して「ケインズ経済学」という用語が(時に誤って)あてがわれてきたが、ケインズ経済学の中心的な教義(tenet)は以下の6つのポイントから成っているのではないかと思われる。はじめの3つのポイントは、現実の経済のメカニズム(経済はどのように機能するか)に関する視点をまとめたものである。
 
 
1. 総需要は様々な経済上の意思決定-民間部門における意思決定と公共(政府)部門における意思決定-によって影響を受け、時に不規則に変動する。

(総需要に影響を与えるような)公共部門における意思決定の最たるものは、金融政策と財政政策(政府支出と税金に関する政策決定)である。数十年前のことになるが、経済学者の間で財政政策と金融政策の相対的な有効性を巡って熱い議論が交わされたが、ケインジアンの中のある者は「金融政策は無力である」と主張し、マネタリストの中のある者は「財政政策は無力である」と主張したものである。しかしながら、現在ではこの問題は実質的にもはや争点ではなくなっている。今ではケインジアンであれマネタリストであれほとんど皆が財政政策も金融政策もどちらもともに総需要に影響を及ぼす、と信じているのである。しかしながら、経済学者の中には債務の中立性(リカードの中立命題)-ある一定水準の政府支出を税金で賄う代わりに借り入れ(国債発行)で賄うように資金調達の方法を変更したとしても総需要には効果は生じない、というアイデア-を信じている者もいる(この点に関しては後でもまた触れる)。

2. 総需要の変化は-それがあらかじめ予測されていようがそうでなかろうが-短期的には、価格に対してではなく、実質GDPと雇用とに対して最も大きな影響を及ぼす。

例えば、このアイデアは、失業率の低下に伴ってインフレーションがごく緩やかに上昇することを示すフィリップスカーブによっても捉えられているところである。ケインジアンは、「長期において成立すること」から「短期において成立すること」(短期において何が正しいのか)を推測することは必ずしもできず、また、現実の我々は短期の世界に生きているんだ、と信じている。この信念を要領よく伝えるために、ケインジアンはケインズの有名な言葉-「長期的に見ると、我々は皆死んでしまう」( “In the long run, we are all dead” )-をしばしば引用する。

金融政策が生産や雇用に対して影響を及ぼし得るのは名目価格の中で硬直的なものが存在する場合-例えば、名目賃金(ドル(や円)で測った賃金)が即座には調整しなかったりする場合-に限ってである。もしいずれの価格も硬直的でなければ、経済に対して新たに貨幣が注入されてもすべての価格が同じ割合だけ上昇するだけに終わるだろう。そこで、一般的にはケインジアンのモデルでは名目価格ないしは名目賃金の硬直性があらかじめ前提されるか、あるいは、なぜ名目価格や名目賃金が硬直的であるのかその説明が試みられることになる。標準的なミクロ経済学によれば、すべての名目価格が比例的に変化する場合には実質的な生産量や需要量に変化が生じるはずがないので、なぜ名目価格(のうちのあるもの)が硬直的であるのかを合理的に説明することは厄介な理論上の問題であると言えよう。

ケインジアンは、名目価格のうちのあるものは幾分か硬直的であり、総需要の構成要素-消費、投資、政府支出-のいずれかが変動すればそれに伴って生産の変動が引き起こされる、と見なしている。例えば、政府支出が増加して総需要のそれ以外の構成要素に変化がないとすれば生産は増加する、と見なすのである。また、経済変動に関するケインジアンのモデルの特徴としていわゆる乗数効果も重要である。つまりは、総需要に生じた変化はその何倍もの生産の変化をもたらす、と見なされているのである。政府支出が100億ドルだけ増加すると総生産は150億ドル増加することもあれば(乗数が1.5のケース)、50億ドル増加することもあり得るのである(乗数が0.5のケース)。ケインジアンの分析では乗数は1以上であることが必要だ、と広く信じられているが、そのようはことはない。乗数はゼロより大きければ(プラスであれば)よいのである。

3. 名目価格、特に名目賃金は生産や需要の変化に対して緩やかにしか反応せず、その結果として周期的に不足や過剰(特に、労働市場における不足や過剰(労働の超過需要や超過供給))が発生する。

あのミルトン・フリードマン(Milton Friedman)でさえ、「考え得るどのような制度的な仕組みの下であっても、そして現在アメリカ経済に広く普及している制度的な仕組みの下では確かに言えることだが、名目価格や名目賃金の柔軟性(伸縮性)には限りがある。」(原注1)(“under any conceivable institutional arrangements, and certainly under those that now prevail in the United States, there is only a limited amount of flexibility in prices and wages.”)、と認めているところである。現在の基準に照らせば、このフリードマンの発言はケインジアン的な立場の表明と受け取られることだろう。


以上の3つのポイントだけからはいかなる政策処方箋も引き出されることはない。また、自らをケインジアンだとは見なさない経済学者の多くも以上の3つのポイントすべてを受け入れることだろう。ケインジアンとその他の経済学者との違いは、経済政策に関する以下の3つの教義を信じるかどうかという点にある。


4. 現実において典型的に観察される失業の水準は理想的な水準ではない。というのも、経済は総需要の気まぐれな変動にさらされているからであり、また、価格調整は緩やかにしか進まないからである。

ケインジアンは、現実の失業は平均的に見てあまりにも高すぎ、あまりにも変動が激しすぎる、と見なす傾向にある-この現実認識を理論的に厳密に正当化することは困難であるとはよくよくわかっていながらも。また、「景気後退や不況=それほど魅力的ではない機会の出現に対する市場の効率的な反応の結果」と見なす実物的景気循環(リアルビジネスサイクル)理論とは異なり、ケインジアンは「景気後退や不況=一種の経済的な疾病(economic maladies)」である、と確信している。


5.  景気循環をすべての経済問題の中でも最も重要な問題と位置付け、景気循環の振幅(変動の大きさ)を和らげるために積極的な経済安定化政策の実施を求める(ただし、多くのケインジアンがそう考えているのであって、すべてのケインジアンがそう考えているというわけではない)。

保守派寄りのケインジアンの中には、経済安定化政策の効果に疑いを抱いたり、経済安定化政策を試みることが果たして賢明なのかと訝しんで、この教義を受け入れない経済学者も存在する点は指摘しておこう。

積極的な経済安定化政策の実施を求めるとはいってもファインチューニング(fine-tunig;微調整)-経済が完全雇用の状態にとどまり続けるよう促すために、政府支出や税金やマネーサプライを毎月ごとに細かく調整すること-を求めているわけではない。今日ではほとんどすべての経済学者-大半のケインジアンも含む-は、政府はファインチューニングを成功裏に進め得るほど十分に素早く行動できるわけでもなく、また(ファインチューニングを成功裏に進め得るほど)十分に知識を備えているわけでもない、と信じている。ファインチューニングを困難にするような3タイプのラグが存在しているのである。第1のラグは、政策変更の必要性が生じてから政府がそのこと(政策変更の必要性が生じたこと)を認識するに至るまでのラグである。第2のラグは、政府が政策変更の必要性を認識してから実際に政策が実施されるまでのラグである。アメリカのような国では特に財政政策の変更に関してこの第2のラグが非常に長くなり得る。政府支出や税金の内容を変更するためには議会と政府との同意が必要となるからである。そして第3のラグは、実際に政策が実施されてから(政策が変更されてから)政策の効果が表れるまで(政策が経済に影響を与えるまで)のラグである。このラグもまた長くなり得るものである。しかしながら、多くのケインジアンは、(ファインチューニングに比べて)もっと控えめな経済安定化政策-コースチューニング(coarse-tuning;粗い調整)とでも呼べよう-を目指すことは擁護し得るし分別ある立場でもある、と信じている。例えば、失業率が非常に高い水準にあるような状況では、金融緩和策の実施を勧告する上で、ラグの具体的な長さに関する細かな知識を持ち合わせている必要はないであろう。

6. インフレ退治(インフレーションの抑制)よりも失業退治(失業を減らすこと)のほうに関心を払う(ケインジアンであれば皆が皆そう考えているというわけではない)。

低インフレがもたらすコストが小さいことを示す証拠に基づいてこの教義を受け入れるに至ったケインジアンがいる一方で、反インフレ的なケインジアンもたくさん存在する。そう呼ばれることを好むかどうかにかかわらず、過去から現在までに至る世界中のセントラルバンカーの大半は反インフレ的なケインジアンだと言えるだろう。指摘するまでもないが、失業とインフレーションの相対的な重要性に関する見解の違い(失業とインフレのどちらに重きを置くかの違い)は、経済学者がどのような政策アドバイスを勧告し、政策当局者がどのような政策アドバイスを聞き入れるかに大きな違いを生み出す。ケインジアンは、ケインジアンではない経済学者と比べると、よりアグレッシブな緩和策を勧告する傾向にある。

経済安定化に向けた政府の積極的な行動を支持するケインジアンの信念は、価値判断と以下の2つの信念、すなわち、(a)マクロ経済の変動は人々の経済的な福祉(economic well-being)を大きく減ずるものであり、(b)政府は自由市場の働き(あるいは欠陥や機能不全)を改善し得る程度には知識も能力も備えている、という信念とに基づくものであると言える。

1980年代に勃発したケインジアンと「新しい古典派」(new classical)との間のちょっとした論争は、主に(a)の信念とケインズ経済学を特徴づけるはじめの3つの教義(1~3)-1~3の教義に関してはマネタリストも同じく受け入れていた-をめぐって争われたものであった。新しい古典派の経済学者は、あらかじめ予測されたマネーサプライの変化は実質的な生産量(実質GDP)に影響を与えることはなく、また市場-労働市場でさえも-は不足や過剰の解消に向けて素早く調整するものであり、さらには景気循環はもしかしたら効率的であるかもしれない、と信じていた。この後で明らかにする理由に照らして、私自身は、こういった論点に関する「客観的な」(“objective”)科学的な証拠はケインジアンの立場を強く支持するものである、と信じている。1990年代に入ると、新しい古典派も、価格は硬直的であり、そのために労働市場はかつて彼ら(新しい古典派)が考えていたほどには(不足や過剰の解消に向けて)素早く調整するものではない、という見解を受け入れるところとなったのであった。


「ケインズ経済学」の定義から離れて別の話題に転じる前に、これまでに意図的に避けてきた(避けてはならないように思われる)いくつかの論点についてここで強調しておかねばならないだろう。

避けてきた論点その1。合理的期待形成学派についてはこれまで一切触れてこなかった。経済政策に関する期待を形成するにあたって人々は利用可能な情報をすべて利用する、という合理的期待形成学派の見解に関しては、ケインズ自身もそうだが多くのケインジアンも疑わしく思っている。ただし、ケインジアンの中には合理的期待形成のアイデアを受け入れている者もいることはいる。ただ、私自身がこれまでに興味を向けてきた大きな争点のいずれも期待が合理的に形成されるかどうかにはほとんど影響されない、ということは指摘しておこう。例えば、合理的期待形成は価格の硬直性を排除するものではなく、価格の硬直性を伴う合理的期待形成モデルは私の定義によればまごうことなくケインジアン的なモデルである。しかしながら、新しい古典派の経済学者の中には合理的期待形成こそがケインジアンと新しい古典派との論争において(他のどの論点にもまして)ずっと本質的な論点だと考えている者もいることは明記しておくべきだろう。

避けてきた論点その2。長期的な失業の「自然な水準」が存在する、という仮説(自然失業率仮説)について。1970年以前においては、ケインジアンは、長期的な失業の水準は政府の政策に依存しており、政府は高めの-しかしその高い水準で安定した-インフレーションと引き換えに失業率を低下させることができる、と信じていた。しかしながら、1960年代の後半にマネタリストであるミルトン・フリードマンとケインジアンであるエドモンド・フェルプス(Edmund Phelps)とによって、失業とインフレーションとの長期的なトレードオフというアイデアに対して理論的な反駁が加えられたのであった。政府が現実の失業率を「自然失業率」以下の水準に保っておくことができる唯一の方法は、インフレの絶えざる加速(インフレ率の継起的な上昇)をもたらすようなマクロ経済政策を通じてのみである、と言うのである。長期的には現実の失業率は自然失業率を下回ることはできない、というわけである。フリードマン=フェルプスによる自然失業率仮説の発表後間もなくして、ノースウェスタン大学のケインジアンであるロバート・ゴードン(Robert Gordon)によってフリードマン=フェルプスの見解を支持するような実証的な証拠が提示され、1972年頃以降になるとケインジアンも自然失業率仮説を受け入れるところとなったのであった。そういう次第で、1975年~1985年の期間にわたって繰り広げられた(ケインジアンと新しい古典派との)激しい論争の過程で自然失業率仮説は何らの役割も果たすことがなかったのである。

避けてきた論点その3。経済安定化政策として金融政策と財政政策とのどちらが望ましいと言えるか、という論点もまたこれまで触れてこなかった話題である。この話題に関しては経済学者によって意見が異なり、自らの立場を変更するような経済学者も時折見受けられる。私の定義によれば、ケインジアンでありながら、経済安定化の責務は原則的には金融政策当局に委ねられるべきである、あるいは、実際のところそうなっている、と信じる、というのは何の問題もなしに成り立ち得る立場である。実際のところ、今では大半のケインジアンはこの2つの信念(訳注1)のうちどちらか一方あるいは両方ともに受け入れるかたちとなっている。


1970年代中頃から1980年代中頃にかけてケインジアンの理論はアカデミックな世界において散々な誹謗中傷を受けることになったが、1980年代中頃以降になるとケインジアンの理論は強力なカムバックを果たすことになった。その主たる理由は、ケインズ経済学のほうがライバルである新しい古典派よりも1970年代と1980年代に生じた経済上の出来事をうまく説明できた点にある、と思われる。

その「古典派」というルーツに忠実に、新しい古典派は、名目賃金や名目価格の下落を通じて景気後退を克服する市場経済の能力を強調した。1970年代中頃当時、新しい古典派は、景気後退の原因は相対価格(例えば、実質賃金)の動向を人々が誤って認識することにあり、そういった認識の誤りは人々が現下の一般物価水準やインフレ率を知らない場合に生じるだろう、と主張した。 しかし、物価指数の統計が毎月ごとに発表され、月ごとのインフレ率が1%を下回るような状況では、そういった認識の誤りはあくまでも一時的なはずであり、それほど大きな誤りとはなり得ないだろう。そうだとすれば、初期の新しい古典派の立場からすると、認識の誤りに基づく景気後退はマイルドですぐに終わるはずである。しかし、実際には世界各国の工業国は1980年代を通じて厳しくて長い景気後退を経験することになったのである。ケインズ経済学は理論的にみると粗雑であるかもしれないが、非自発的失業が長らく持続するだろうことを正確に予測したのであった。

1970年代、1980年代当時の新しい古典派(初期の新しい古典派)の理論家によると、あらかじめ正しく認識されたマネーサプライ成長率の低下は実質的な生産量(実質GDP)に対して-影響を与えるとすれば-ごくわずかしか影響を与えないはずであった。しかしながら、FRBやBOE(イングランド銀行)がインフレを抑制するために金融政策を引き締めることをアナウンスし、その後アナウンス通り(約束通り)に行動した際に何が起こったかというと、アメリカでもイギリスでも深刻な景気後退が生じる結果になったのであった。新しい古典派の経済学者は、「金融引き締めは予測されざるものだった(というのも、金融政策当局のアナウンスを人々が本気で信じなかったからだ)」と反論するかもしれない。その反論ももしかしたらある程度は正しいのかもしれないが、金融引き締めは大枠では予測されており、あるいは少なくとも金融引き締めがアナウンスされた際には正しくそのように認識されていたのである。企業や家計は、インフレに応じて価格が自動的に改訂されるような契約ではなく、価格が固定された契約を結んでいるために、いかなる金融引き締めも景気を冷え込ませる効果を持つだろう、と主張する古臭いケインジアンの理論のほうが現実をうまく捉えているように思われるのである。

新しい古典派から派生したアイデアとしては、ハーバード大学のロバート・バロー(Robert Barro)によって定式化された債務の中立性に関するアイデアがある。バローのアイデアを簡潔に述べると以下のようになろう。インフレーションや失業、実質GDP、実質的な国民貯蓄は、政府が一定水準の政府支出を賄うために高い税金を課すか(この場合財政赤字は低水準)それとも低い税金を課すか(この場合財政赤字は高水準)によっては影響されないはずである。というのも、人々は合理的なので、今日における低い税金(と高水準の財政赤字)は将来における高い税金を意味すると正しくも認識し、人々は将来(将来の自分自身あるいは自らの子孫)の税負担の増加分と同じ金額だけ今日の消費を切り詰めて貯蓄の増加に向かうだろうからである。こうして生じる民間貯蓄の増加は財政赤字の増加を完全に相殺するはずである。一方で、ナイーブなケインジアンの分析によると、政府支出の水準が変わらないままでの財政赤字の増加は総需要の増加を意味することになる。1980年代初頭のアメリカで実際に起こったように、(財政赤字の増加による)総需要への刺激が金融引き締め政策によって相殺されるようならば、ケインジアンの分析が予測するところでは実質金利は大きく上昇するはずである。ケインジアンの分析によると、このような状況において民間貯蓄が増加する理由はない、ということになろう。

1981年から1984年の間にアメリカで実施された大幅な減税はケインジアンと新しい古典派のどちらの見解が正しいかを検証する一種の実験テストの機会を提供することになった。現実には何が生じただろうか? 民間貯蓄は増加せず、実質金利は大きく上昇した。(大幅減税のかたちをとった)財政刺激策は金融引き締めによって相殺されたので、実質GDP成長率はほとんど影響を受けなかった。実質GDPはそれ以前の時期とほぼ同じペースで成長したのである。これら一連の事実もまた新しい古典派よりはケインジアンの理論と整合的であるように思われるのである。

最後に、ケインジアンと新しい古典派とは1980年代にヨーロッパで発生した不況-1930年代の不況以来最悪の不況-をそれぞれどのように説明するのだろうか? ケインジアンの説明は単純である。ケインジアンによれば、イギリスやドイツの中央銀行に先導されるかたちで各国の政府がインフレ退治に乗り出す決心をし、インフレの退治に向けてかなりの金融引き締めと財政引き締めが実施されたために不況が生じたのである。このインフレ撲滅運動の影響は、ドイツの断固たる金融引き締めをヨーロッパ中に拡散する役割を果たすかたちになったヨーロッパに特有の通貨制度によって強化されたのであった。一方で新しい古典派はケインジアンの説明に匹敵するような説明を持ち合わせていない。新しい古典派、そして広くは保守派の経済学者は、不況の原因は何かと尋ねられたら、ヨーロッパの各国政府が労働市場に深く介入しているからだ、とおそらくは主張することだろう(加えて、手厚い失業保険や労働者の解雇制限などにも言及することだろう)。しかし、ヨーロッパの各国政府による労働市場への介入の大半は、失業率が極めて低かった1970年代初頭時点でも既に存在していたのである。


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Further Reading(もっと深く学びたい人向けの文献紹介)

○Blinder, Alan S. “Keynes After Lucas(JSTOR)”, Eastern Economic Journal 12, no. 3 (1986): 209–216.
○Blinder, Alan S. “Keynes, Lucas, and Scientific Progress(JSTOR)”, American Economic Review 77, no. 2 (1987): 130–136. Reprinted in Mark Blaug, ed., John Maynard Keynes (1833–1946), vol. 2. Brookfield, Vt.: Edward Elgar, 1991.
○Gordon, Robert J. “What Is New-Keynesian Economics?(JSTOR)”, Journal of Economic Literature 28, no. 3 (1990): 1115–1171.
○Keynes, John Maynard. The General Theory of Employment, Interest, and Money. London: Macmillan, 1936.
○Mankiw, N. Gregory, and others. “A Symposium on Keynesian Economics Today.” Journal of Economic Perspectives 7 (Winter 1993): 3–82.

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原注

(原注1)“The Role of Monetary Policy,” American Economic Review 58, no. 1: 13.

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訳注

(訳注1)経済安定化の責務は原則的には金融政策当局に委ねられるべきであるという信念と経済安定化の責務は実際にも金融政策当局に委ねられるかたちになっているという信念。

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