2014年9月30日火曜日

Stephen Grenville 「量的緩和、貨幣の増刷、ヘリコプターマネー、財政ファイナンス」(2013年2月24日)

Stephen Grenville, “Helicopter money”(VOX, February 24, 2013)


「財政ファイナンス」とは何なのだろうか? 本稿では、「貨幣の増刷」、「量的緩和」、「財政ファイナンス」の違いについて説明する。ターナー卿が提案する「財政ファイナンス」が抱える課題――民間の銀行のバランスシートに及ぼす歪み(大量の超過準備の発生)や「中央銀行の独立性」を脅かす可能性――についても触れる。

金融政策についての議論をいたずらに混乱させている2つの用語がある。「貨幣の増刷」と「ヘリコプターマネー」である(Sinn 2011)。


量的緩和≠貨幣の増刷

量的緩和を「貨幣の増刷」(輪転機を回してお金を刷ること)と同一視するのは間違っている。国民によって保有される現金の量は、現金に対する需要によって決まる。(イギリスの中央銀行である)イングランド銀行が量的緩和の一環として民間の銀行から債券を購入すると、その銀行がイングランド銀行に開設している預金口座に債券の購入代金が振り込まれる。つまりは、準備預金の量が増えるというかたちでマネタリーベースの量が増えるが、現金に対する需要は増えない。それゆえ、「貨幣を増刷する(お金を刷る)」必要はないのである。 

法律によって定められている額(所要準備額)を上回る準備預金を抱えることになった民間の銀行は、貸出を行ったり債券を購入したりして、手持ちの準備預金を減らそうと試みるかもしれない。しかしながら、個々の銀行がどんなことをしようとも、マネタリーベースの量は変わらないのだ。


量的緩和≠ヘリコプターマネー

中央銀行の総裁がへリコプターに乗って、地上で待ち構える国民に向かって空から大量のお金をばらまく。いわゆる「ヘリコプターマネー」というやつだが、量的緩和を「ヘリコプターマネー」とだぶらせるのは、「貨幣の増刷」と同一視する以上に誤解を招く間違いだ。政府であれば、できないことはない。国民に現金を配るか、もう少し現実的な策としては小切手を配布するという手がある――2009年にオーストラリア政府が「キャッシュ・スプラッシュ」(“cash splash”)と命名された小切手を多くの納税者に配布した例がある――。しかしながら、それは金融政策ではなくて財政政策だ。中央銀行は、国民に現金を配る権限を持ち合わせていないのだ(中央銀行に可能なのは、資産を交換することだけである。量的緩和がまさにそれにあたる)。国民に現金を配るためには、その他の財政政策と同様に、議会での予算編成プロセスを通じて承認を受ける必要がある。ヘリコプターからお金をばらまけるのは政府なのであり、政府がお金をばらまくのは財政政策なのである。

「ヘリコプターマネー」が総需要を刺激するのにどれくらい効果的かについては意見が割れている――どのような政策についても、意見が割れるものだが――。クラウディング・アウトがそれほど起きなかったり、リカードの中立命題が当てはまらないようなら――需給ギャップが存在していて、金融政策によって金利が低く抑えられているようなら、クラウディング・アウトもそれほど起こらないだろうし、リカードの中立命題も当てはまりそうにない――、「ヘリコプターマネー」が総需要を刺激する可能性は高いだろう。あるいは、財政赤字を埋め合わせるために低金利で借り入れをする(国債を発行する)ことができるようなら――今がまさにそのような状況である――、「ヘリコプターマネー」が総需要を刺激する可能性は高いだろう。突然の施し(現金)に恵まれた国民は、一部を貯金するかもしれないが、ほとんどを支出するだろう。総需要を刺激する上で量的緩和よりも「ヘリコプターマネー」の方が確実性が高い方法と言えそうである。


財政ファイナンス

財政赤字を賄うために国債を発行したら金利が上昇してしまうかもしれなかったり、国債に買い手がつかなかったりするおそれがあるようなら、中央銀行が財政赤字を賄うという手がある。中央銀行が新発国債を買い取って、政府が中央銀行に開設している預金口座(政府預金)に代金を振り込むのだ。政府が主導権を握る場合もあるかもしれないが、このような「財政ファイナンス」は量的緩和の一種だと言える。

「財政ファイナンス」のコストを負担することになるのは誰なのだろうか? 中央銀行に新発国債を買い取ってもらったおかげで増えた政府預金を原資として、政府が国民に小切手(「キャッシュ・スプラッシュ」)を配布したら、その小切手は民間の銀行に持ち込まれるだろう。国民が欲するだけの現金を既に手元に持っているようなら、小切手を換金してもそのまま預金口座に預け入れるだろう。最終的にどうなるかというと、国民が民間の銀行に預ける預金(民間の銀行にとっての債務)が増えて、民間の銀行が中央銀行に預ける預金(民間の銀行にとっての資産)が増えるだろう。すなわち、民間の銀行が「財政ファイナンス」のコストを負担することになるのだ。保有する準備預金の量が増えるというかたちで。

「財政ファイナンス」は公的な債務を増やさないかというと、そうじゃない。中央銀行が民間の銀行に対して負う債務(準備預金)が増えるからである。準備預金に対して市場金利と同じ水準の金利が支払われるようなら――大半の国でそうなっている――、財政赤字の調達コストが節約されることにもならない。中央銀行が準備預金に対して市場金利を下回る金利を支払うようなら、財政赤字の調達コストが節約されることになるが、民間の銀行に課税しているに等しい。

「財政ファイナンス」と通常の量的緩和とは違いもある。一つ目の違いは、通常の量的緩和であれば、タイミングなり金額なりについて中央銀行が単独で決めるが、「財政ファイナンス」であれば、タイミングなり金額なりについて中央銀行と政府が共同で決めるところである。そこで問題になるのが、「中央銀行の独立性」である。政府による乱費を防ぐためには、政府が財政赤字の補填を要求してきた時に中央銀行が「ノー」と言えることが肝心だが、「ノー」と言えなくなってしまうかもしれないのだ。二つ目は、いつ終わるかについてのマーケットの理解に違いがあるところである。通常の量的緩和については、いつかの時点で必ず終わるに違いないというのがマーケットの共通理解だが、「財政ファイナンス」については、いつ終わるかがはっきりしないのだ(民間の銀行が大量の超過準備の保有を強いられる状況が長続きしそうにないことだけは確かだが)。

アデール・ターナー卿がインフレ警戒論者と財政規律論者に批判を加えているが(Turner 2013)、もっともだ。貨幣と物価の関係について時代遅れの考えを引きずっているインフレ警戒論者も間違っているし、需給ギャップが存在しているのに財政刺激策の無効性や有害性を説く財政規律論者も間違っている。しかしながら、ターナー卿が提案している周到な「財政ファイナンス」案の是非を判断するには、その便益だけでなく、弊害――量的緩和ならびに「財政ファイナンス」が民間の銀行のバランスシートに及ぼす歪み(大量の超過準備の発生)や「中央銀行の独立性」を脅かす可能性――にも目を向ける必要があるのだ。 


<参考文献>


●Sinn, Hans-Werner (2011), “The threat to use the printing press”, VoxEU.org, 18 November.
●Turner, Adair (2013), “Debt, Money and Mephistopheles: How do we get out of this mess?”, speech, Cass Business School.

2014年9月25日木曜日

Barry Eichengreen&Peter Temin 「『金の足かせ』と『紙の足かせ』」(2010年7月30日)

Barry Eichengreen&Peter Temin, “Fetters of gold and paper”(VOX, July 30, 2010)

固定相場制――具体的には、①ユーロ、②ドルにペッグしている人民元――に端を発する緊張が世界経済を包んでいる。金本位制の経験を踏まえて言えることは、国際通貨制度というのは、為替レートを通じて多くの国々が結び付けられているシステムであり、どの国の政策も周囲に波及するということである。1930年代と同じように、経常収支の黒字を抱えている国が支出を増やそうとしないせいで、経常収支が赤字である国が景気の悪化を受け入れざるを得なくなっている。ケインズは、大恐慌の経験を踏まえて、慢性的に経常収支の黒字を抱える国に対して課税や制裁のような措置を講じる必要性を訴えた。大恐慌から60年と少々が経過しているが、ケインズが大恐慌の経験から導き出した教訓が忘れ去られてしまっているようだ。

「1930年代の教訓」をテーマにした言説が論壇を賑わせている――例えば、Mason&Mitchener (2010), Fishback (2010), Helbling (2009) を参照されたい――。「金融危機を拡散させる上で固定相場制が果たす役割」と「金本位制の経験から得られる教訓」の二点に焦点を絞って、我々もその輪に加わらせてもらうとしよう。

1930年代の世界的な経済危機においては、金本位制が重要な役割を演じた。そのことについては、我々のどちらもがそれぞれに一家言を持っている(Temin 1989, Eichengreen 1992)。当時の金本位制は、以下のような特徴を備えていた。金(ゴールド)が国境を越えて自由に移動。金と自国通貨の交換比率(平価)を固定していた国同士の為替レートが固定。国家間の調整を図る国際機関の不在。

以上のような特徴を備えていたがゆえに、経常収支が赤字だった国と黒字だった国との間に「非対称性」が持ち込まれた。金準備が減少していて平価を維持するのが困難な国(経常収支が赤字の国)は、ペナルティ(一種の罰)を受け入れざるを得なかった。その一方で、金準備を溜め込んだ国(経常収支が黒字の国)は、(金の代わりに他の資産に投資していたら得られたであろう金利収入を除くと)何のペナルティも被らなかったのである。金準備が減少していて経常収支が赤字の国は、平価の切り下げ(為替レートの減価)を選ばずに、通常はデフレ(国内物価の下落)というペナルティを受け入れたのである。

その結果として1920年代を通じてどんなことが起きたかというと、経常収支が赤字だった国から黒字だった国へと大量の金や外貨準備が移動した。経常収支が黒字だったアメリカやフランスは金準備が増えたからといって金融緩和を強要されなかった一方で、経常収支が赤字だったドイツやイギリスは金準備が減ったせいで金融政策を引き締めざるを得なかったのである。


イデオロギーとしての金本位制

金本位制は、通貨制度というだけではなかった。イデオロギーでもあったのだ。金本位制を維持することが繁栄を実現するための前提条件だと政策当局者によって信じ込まれていたのだ。それゆえ、産出量や雇用量を安定させることよりも、金本位制を維持することが優先された。金本位制を維持しさえすれば雇用もそのうち回復するに違いないというのがセントラルバンカーたちの考えで、何らかの措置を講じて雇用を増やそうと試みても失敗するに違いないと信じ込まれていた。しかしながら、金本位制を維持していたら起こるはずがないと思われていた出来事が1930年代の初頭に起こってしまった。産出量が落ち込んだのだ。物価が下落したのだ。銀行が閉鎖されて貯金が失われたのだ。

予想と現実の食い違いを前にして、どうにかして辻褄を合わせる必要が出てきた。起きるはずがない異常事態を慣れ親しんだ枠組みの中で解釈する必要に迫られたのである。「金本位心性」(gold-standard mentalité)に逆らった政策当局者に批判の矛先が向けられたのだ。FRBやイングランド銀行が「管理通貨」という誘惑に負けたせいだというのだ。金本位制のルールを守らずに、貨幣を濫発して、金の不胎化に乗り出したせいだというのだ。FRBやイングランド銀行が金本位制のルールを守っていたら、金融市場も自ずと安定を取り戻して、価格やコストの調整もスムーズに進んでいたに違いないというのだ。

しかしながら、デフレに晒されていた当時の状況においては、そのような批判は見当違いも甚だしかったのだ。

21世紀版の金本位制と言えば、ユーロと人民元(ドルにペッグしている人民元)ということになろう。金本位制と全く一緒とは言えないが、いくつか似た面があるのは確かである。


ユーロ:金本位制よりも厳しいコミットメントを伴う通貨制度

ユーロを導入するというのは、金本位制を採用するよりもずっと厳しいコミットメントを負うことを意味する。金本位制であれば、危機に陥った場合に投資家の怒りを買わずに離脱するのも可能だったが、ユーロを一旦導入してしまうと、そうはいかないのだ〔訳注1〕――ギリシャに対してユーロからの一時的な離脱を勧める提案(Feldstein 2010)もあるようだが、無理があるのだ――(Eichengreen 2007, Blejer&Levy-Yeyatia 2010)。

ユーロは、金本位制の後継というだけではなく、ブレトンウッズ体制の後継でもある。あえてこのことを指摘するのは、ブレトンウッズ体制が誕生するまでの交渉に重要な意味が控えているからである。その交渉に参加した中心人物の一人であるケインズは、戦間期の体験を通じて金本位制の有害な影響に気付いた。既にデフレが定着している中で、金準備が減少している国(経常収支の赤字国)でなおも金融政策が引き締められるのは、その国にとってだけでなく、周辺の国々にとっても有害であることを見抜いていたのだ。

戦後(第二次世界大戦後)に同じような事態に陥らないようにするためにケインズが練り上げた案(「清算同盟案」)では、経常収支の赤字国だけでなく黒字国も経常収支の不均衡を是正する責務を負う格好になっていた。しかしながら、イギリスとアメリカとの間で意見が対立したこともあって、ケインズの案は実現されなかった。問題は解決されずに棚上げというかたちになったわけだが、だからといって忘れてしまっていいわけでは勿論ない。


人民元:イデオロギーとしてのドルペッグ制

もう一つの重要な固定相場制である「ドルにペッグしている人民元」は、中国の開発戦略を支えるイデオロギーの中心的な要素の一つとして理解すべきだろう。人民元をドルにペッグしているのはなぜかというと、以下の3つの役割が託されているのだ。

  • 製造業の輸出を促進する
  • 海外からの直接投資を促進する
  • 国内企業の利益を蓄積して、それをインフラ投資に振り向ける

固定為替レートによって結び付けられていると、いずれか一方の側の政策が他方の側へも影響を及ぼすことになる。そのことについてはうっすらと気付かれてはいるが、何らかの手を打とうとする気はそんなにないようだ。1920年代とそっくりだ。例えば、2006年にIMF(国際通貨基金)が導入した多国間協議では、それぞれの国の政策が国境を越えて波及する問題に対処するのが狙いとして掲げられている。米中戦略・経済対話も毎年開催されている。IMFは、定期的に多国間サーベイランスを実施している。しかしながら、具体的に何らかの手が打たれたかというと、ほとんど実を結んでいないのだ。

経常収支が赤字である国に手を差し伸べよと言いたいわけではない。金本位制下のドイツにしても、ユーロ圏のギリシャにしても、今のアメリカにしても、予算制約を無視した結果なのだ。収入以上の暮らしをした(支出が収入を上回った)からこそ、財政収支も経常収支も赤字になって、海外から借り入れをしないといけなくなったのだ。 

しかしながら、経常収支が赤字の国だけではなく、コインのもう一方の側である黒字の国の政策も問題がある。1920年代~1930年代初頭にドイツをはじめとした中央ヨーロッパ諸国が陥った苦境は、アメリカとフランスによる「金の不胎化」によって大いに増幅された。アメリカとフランスが経常収支の黒字を計上したので、他の国々は経常収支の赤字を計上しなければならなかった。アメリカとフランスが支出を増やそうとしなかったので、他の国々は支出を切り詰めざるを得なかった。アメリカとフランスが緊急の資金援助を拒んだので、経常収支が赤字だった国で景気の悪化が加速した。その結果として、政治的に悲惨な事態が引き起こされたのだ。

似たような展開が進行中だ。経常収支の大幅な黒字を計上しているドイツが支出を増やすのに難色を示しているせいで、ドイツと貿易面で深くつながっているギリシャがデフレを選ぶしかない瀬戸際に追い込まれているのだ。資金繰りに苦しんでいるギリシャが対GDP比で10%にも上る支出の削減を短期間で成し遂げられるかどうかはわからない。現在のギリシャが抱えている問題は、1930年代初頭にドイツが抱えていた問題と似ている。賃金をはじめとしてコストの削減を試みたとしても、債務の負担がさらに重くなるだけに終わってしまうかもしれないのだ。


フーヴァー・モラトリアムの再現はあるか?

1931年にあのフーヴァー大統領〔アメリカ合衆国第31代大統領〕でさえもがドイツに対して債務の支払い猶予(モラトリアム)を認めざるを得なかったのもそのため〔訳注;コストの削減を試みたとしても債務の負担がさらに重くなるだけに終わるからこそ〕なのだ。「内的減価」〔訳注;デフレによって実質為替レートを減価させること〕――通貨の切り下げを実現するためにギリシャに残された最後の手段――には、債務の再編が伴う必要があるのだ。フーヴァー・モラトリアムを実現するためには、アメリカによる政策変更が必要だった。それと同じように、ギリシャの債務再編に漕ぎ着けるためには、EUとIMFが方向転換を図る必要があるだろう。

中国をはじめとした経常収支の黒字国が支出を増やさないだけでなく、ドルに対して自国通貨を切り上げるのを拒むようなら、アメリカが国内の雇用を増やすために打てる手は一つしか残されていない。輸出品の競争力を高めるしかない。アメリカ国内で完全雇用を実現するために、今後5年間で輸出量を倍に増やすというのがオバマ大統領が掲げている目標である。しかしながら、経常収支の黒字を抱えているアジア諸国が支出を増やすなり名目為替レートの増価を受け入れるなり高めのインフレ率を受け入れるなりしない限りは――言い換えると、実質為替レートがアメリカに有利になるように調整されない限りは――、輸出量を倍増するという目標を叶えるためには、アメリカ国内の(賃金をはじめとした)コストを削減するか、生産性を大幅に高めるしかない。その努力も水の泡に終わるようなら、保護主義へと舵が切られるだろう。


結論

国際通貨制度というのは、為替レートを通じて結び付けられているすべての国の行動如何でその運行がスムーズにいくかどうかが左右される「システム」である。経済収支が赤字の国の行動だけではなく、黒字の国の行動もシステム全体に影響を及ぼす。不均衡を是正する責任のすべてを経常収支が赤字の国だけに押し付けるわけにはいかないのだ。

ケインズが大恐慌の経験から導き出した教訓でもある。だからこそ、第二次世界大戦中に考案した「清算同盟案」で、慢性的に経常収支の黒字を抱える国に対して課税や制裁のような措置を講じる必要性を訴えたのだ。大恐慌から60年と少々が経過しているが、ケインズが大恐慌の経験から導き出した教訓が忘れ去られてしまっているようだ。



〔訳注1〕いずれかの国がユーロから一時的に離脱しようとしても、非常に手間のかかる交渉を経なければならず――ユーロから離脱するためには、EUから離脱する必要がある。EUから離脱するためには、全加盟国の承認が必要――、その間に金融危機が発生する可能性が高いという意味。


<参考文献>


●Blejer, Mario I and Eduardo Levy-Yeyati (2010), “Leaving the euro: What’s in the box?”, VoxEU.org, 21 July.
●Eichengreen, Barry (1992), Golden Fetters: The Gold Standard and the Great Depression, 1919-1939, Oxford University Press.
●Eichengreen, Barry (2007), “The euro: love it or leave it?”, VoxEU.org, 17 November.
●Fishback, Price (2010), “US monetary and fiscal policy in the 1930s – and now”, VoxEU.org, 30 April.
●Feldstein, Martin (2010), “Let Greece Take a Euro-Holiday”, Financial Times, 16 February, www.ft.com.
●Helbling, Thomas (2009), “How similar is the current crisis to the Great Depression?”, VoxEU.org, 29 April.
●Mason, Joseph and Kris James Mitchener (2010), “Exit strategies for central banks: Lessons from the 1930s”, VoxEU.org, 15 June.
●Temin, Peter (1989), Lessons from the Great Depression(邦訳 『大恐慌の教訓』), MIT Press.

2014年9月19日金曜日

Z. G. 「経済学者は世論に影響を及ぼせるか?」(2014年8月20日)

Z. G., “Economics for the masses”(Free exchange, August 20, 2014) 


堅物と思われていた経済学者たちが世間に顔を晒すようになっている。データジャーナリズムの隆盛も一因となって、「陰鬱な科学」の専門家たちが公共圏に進出してきているのだ。しかしながら、経済学者と世間とでは、その考えにしばしば大きなギャップがある。経済学者は、世人のハートを掴めるのだろうか? 世論を変えることができるのだろうか? それとも、世間に出回っている通念を正当化したり補強したりするために都合よく利用されるだけの存在に過ぎないのだろうか?

デューク大学に籍を置く二人の政治学者の共著論文(pdf)によると、経済学者は世論に影響を及ぼせるという。ただし、それもテクニカルな話題に限っての話だという。政治的に議論を呼びそうなホットな話題となると、経済学者は世論にそれほど影響を及ぼせないというのだ。この論文では、世間の人々が経済学者という専門家集団に対してどのようなイメージを抱いているかだけでなく、経済学者の間でコンセンサスが得られている問題――例えば、移民の受け入れだとか、金本位制への移行の是非だとか――について世間の人々がどのように考えているかが調査されている。さらには、「専門家のコンセンサス」の効果も探られている。世間の人々が「専門家のコンセンサス」を知ると自分の意見を変えるかどうかについてだけでなく、経済学者(という専門家集団)に対するイメージを見直すかどうかについても検証されているのだ。

その結果やいかに? まずは、悪い報せから取り上げるとしよう。経済学者の間でコンセンサスが得られている問題について意見を求めたところ、どの問題についても回答者の過半数――「わからない」と答えた人は除く――が経済学者と異なる意見を述べたという。さらには、経済政策が争点である場合に経済学者の意見を信頼すると答えたのは、回答者のうちのわずか59%。それも、その大半は「少しは信頼する」というに過ぎなかった。経済学者(という専門家集団)に対する不信感は、属性の如何を問わずどのグループにも広まっているが、その中でも経済学者(という専門家集団)を一番信頼していないのは、政治的に右寄りの意見の持ち主たちだったという。

しかしながら、良い報せもある。経済学者の間でのコンセンサス(「専門家のコンセンサス」)を知らされると、世間の人々はそれ(「専門家のコンセンサス」)に同調しがちになるというのだ。しかしながら、「専門家のコンセンサス」が持つ効果は、どんな問題について意見が問われるかによって違っている。 金本位制への移行の是非だったり今後の税収予測だったりのようなテクニカルな問題については、「専門家のコンセンサス」は世論を変える(世人の意見を変える)力を持っているが、中国との貿易問題だったり移民受け入れのメリットだったりのような政治的にホットな問題になると、「専門家のコンセンサス」が世論を変える可能性はずっと小さいという。そればかりではない。政治的にホットな問題について自分の意見が「専門家のコンセンサス」と食い違っているのを知ると、その人が経済学者に対して寄せる信頼の度合いが大きく低下する傾向にあったというのだ。その一方で、テクニカルな問題については、そのような結果は観察されなかった。テクニカルな問題について自分の意見と「専門家のコンセンサス」が食い違っているのを知っても、その人が経済学者に対して寄せる信頼の度合いは変わらない傾向にあったのである。政治的にホットでヒートアップしやすい問題については、経済学者は世間から都合よく利用されているだけなのかもしれない。世間の偏見にお墨付きを与えられるようなら意見を聞き入れてもらえるが、そうでなければ「信頼できない奴ら」という烙印を押されかねないのだ。

経済学者が公共政策に影響を及ぼす――望むらくは、公共政策を改善する――ためには、世論を納得させられるかどうかが肝心になってくる。どうすればいいだろう? どうすれば少しでもうまくいきそうだろうか? テクニカルな問題に絞って口を出すように自制するというのは得策でもないし、守れそうにもない。政治的にホットになりがちで、経済学者が有益なアドバイスを送れる問題というのは、それはもうたくさんあるからだ。しかしながら、政治的にホットな問題に口を出すにしても、テクニカルな面を強調して語るようにするといいかもしれない。例えば、「移民を受け入れよ!」と結論だけを述べるのではなく、移民を受け入れた場合に生じる便益の大きさを計測してその結果を伝えるようにしたら、世間から意見を聞き入れてもらえる可能性も高まるかもしれない。

Douglas Irwin 「大恐慌の原因はフランスにもあり?」(2010年9月20日)

Douglas Irwin, “Did France cause the Great Depression?”(VOX,  September 20, 2010)

経済学の学術的な研究の多くでは、1930年代に起きた大恐慌があんなにも深刻だった理由が金本位制に求められている。これまでの先行研究では、大恐慌の引き金となった要因としてアメリカによる金融引き締めに注目が寄せられてきたが、フランスが果たした役割に十分に注目が払われていない。フランスが保有していた金の量は、1926年の時点では世界全体の金準備の7%だったが、1932年の時点では27%にまで上昇したのである。1930年から1931年までの間に世界全体の物価水準は30%下落したが、そのうちのおよそ半分がフランス&アメリカの二カ国による金の溜め込みによって説明できる可能性があるのだ。

経済学の学術的な研究の多くでは、1930年代に起きた大恐慌(Great Depression)があんなにも長引いて深刻だった理由が金本位制に求められている。金本位制を採用していたせいで為替レートが固定されていたので、金融政策を使って危機に対処できなかったというのである(詳しくは、Temin (1989)、Eichengreen (1992)、Bernanke (1995) などを参照されたい)。

しかしながら、金本位制が世界中を巻き込むかたちで1929年から1933年までの間にデフレーションと景気後退を引き起こした理由について何もかもが解明され尽くしているかというと、そうではない。世界全体での金準備の量は1920年代も1930年代も着実に増え続けていたのである。そうだというのに、金本位制が自壊してあれほどまでの大激震が引き起こされたのはなぜなのだろうか?


大恐慌についての標準的な説明

これまでの先行研究では、中央銀行が採用した政策に着目して1930年代の大惨事の説明が試みられてきた。標準的な説明によると、1928年初頭にアメリカで金融政策が引き締められたのが大恐慌の引き金になったと見なされている(Friedman&Schwartz 1963, Hamilton 1987)。1928年初頭にFRBが金利を引き上げると、海外からアメリカへ金(ゴールド)が流入したが、FRBはそれにあわせて売りオペを行って金の流入を不胎化した。国内のマネタリーベースが増えないようにしたのである。そのせいで、金の流出に見舞われた国々も金融引き締めを余儀なくされた。かくしてデフレショックが発生し、その影響で通貨危機や銀行パニックが誘発されて物価の下方スパイラルに拍車がかかったのである。


新たな仮説

見過ごされがちな事実がある。フランスもアメリカとそっくりなことをしていたのである。実のところ、金準備を溜め込んだペースにしても、金を不胎化した度合いにしても、フランスはアメリカを凌駕していたのである(詳しくは、Johnson (1997) および Mouré (2002) を参照されたい)。1926年にフランが切り下げられたことも一因になって大量の金がフランスに流入したが、その結果としてフランス銀行が保有する金準備の量は急速な勢いで増え始めた。世界全体の金準備のうちどれくらいの割合をフランスが保有していたかというと、以下の図1に示されているように、1926年の時点では7%に過ぎなかったが、1932年になると27%にまで上昇したのである。
  


図1. 世界全体の金準備のうちどれくらいの割合をそれぞれの国が保有していたか:アメリカ(青)、フランス(赤)、イギリス(緑)


フランスとアメリカに金が集中した結果として、その他の国々は大きなデフレ圧力に晒された。1929年から1931年までの間にフランス&アメリカの二カ国を除く国々が手放した金の量は、世界全体の金準備の8%に相当した。1928年12月の時点でフランス&アメリカの二カ国を除く国々が保有していた金準備の15%が手放されたのである。しかしながら、フランスとアメリカが金の流入を不胎化しなかったら、問題にならなかっただろう。フランスとアメリカが金の流入を不胎化しなかったら、フランスとアメリカで金融政策が緩和されていた(マネタリーベースが増えていた)一方で、金が流出した国々では金融政策が引き締められていたはずである。すべての国が古典的な金本位制の「ゲームのルール」に従っていたらそうなっていたはずである。しかしながら、戦間期には「ゲームのルール」について明確な同意が得られていなかった。金が流入してきても金融政策が緩和されないように、フランスもアメリカも金の流入を不胎化していたのである。

正貨準備率の推移を辿った以下の図2を眺めると、不胎化の実態が浮き彫りになる。正貨準備率というのは、中央銀行の債務(銀行券発行残高+当座預金残高)に対する金準備の割合(=金準備÷マネタリーベース)を指している。フランスの正貨準備率の推移は、他の国と比べて際立っている。フランスの正貨準備率は、1928年12月の時点では40%だったが(法律で定められていた正貨準備率の下限は35%)、1932年12月の時点では80%近くに達したのだ。1928年から1932年までの間に金準備の量は160%も増えたのに、同じ期間にマネーサプライ(M2)はまったく増えなかった。フランスを指して「金の溜池(金の吸引機)」(“gold sink”)と呼ぶ声もあったというが、それももっともだ。 



図 2. 主要な中央銀行の正貨準備率(1928年~1932年)


フランス&アメリカによる金融政策は世界経済にどれくらいのデフレ圧力を及ぼしたか?

不胎化されたせいでマネタリーベースの拡大につながらなかった金を「余分な」金と呼ぶとすると、1928年を基準年として、それぞれの年に余分な金の量がどれくらいに上るかを計算することができる。ある年の金準備の量から、その年のマネタリーベースに1928年の時点の正貨準備率を掛けて得られる値〔訳注;正貨準備率を1928年の時点と同じ水準に維持するために必要な金準備の量〕を差し引けばいいのだ。その結果をまとめたのが以下の図3である。世界全体の金準備に対する割合として表わされている。

1930年の時点でフランス&アメリカの二カ国が保有していた金の量を合わせると、世界全体の金準備のおよそ60%にもなるが、同じ年(1930年)の「余分な」金の量はどれくらいかというと、両国を合わせると世界全体の金準備のおよそ11%に上る。1929年と1930年に関しては、金の流入を不胎化したことによって世界経済に対して及ぼしたデフレ圧力はフランスもアメリカも同等だったが、1931年と1932年に関しては、フランスの方がアメリカよりもずっと大きなデフレ圧力を世界経済に及ぼした。1928年から1932年までの期間をひっくるめると、フランスの方がアメリカよりも大きなデフレ圧力を世界経済に及ぼしたのだ。金の流入を不胎化せずに正貨準備率を1928年の時点と同じ水準に保つようにしていたとしたら、1928年から1932年までの間にフランスがマネタリーベースを拡大させるために使えていた金の量は世界全体の金準備の13.7%にあたるが、アメリカについてはその量は世界全体の金準備の11.7%にあたるのだ。



図 3. 余分な金の量(1929年~1932年)


物価に及ぼした影響

「硬貨がたんすの中にしまい込まれると、硬貨がこの世から消滅する場合と同じ効果が物価に対して及ぶ」。1752年にデイヴィッド・ヒュームが「貨幣について」(“Of Money”)と題されたエッセイで述べている言葉である。フランス&アメリカの二カ国が金を「たんすの中にしまい込んだ」せいで世界全体の物価水準にどんな効果が及んだのだろうか? 私なりに検証したところ(Irwin 2010)、世界全体の金準備が1%増えると、世界全体の物価水準が1.5%上昇する傾向にあったことが見出されている。1930年の時点でフランス&アメリカの二カ国が「たんすにしまい込んだ」金の量を合計すると世界全体の金準備の11%に上るわけだから、それに伴って世界全体の物価水準がおよそ16%下落した可能性があるわけだ。1930年から1931年までの間に世界全体の物価水準は30%下落したわけだが、そのうちのおよそ半分がフランス&アメリカによる金の溜め込みによって引き起こされたと結論付けることができるのだ(Sumner (1991) も異なる手法を使って同様の結論に達している)。

デフレスパイラルに陥ると、物価の下方スパイラルに拍車をかけるような他の要因も関与してくるというのは確かである。とりわけ重要なのは、アーヴィング・フィッシャー(Irving Fisher)が指摘したデット・デフレ(債務デフレ)のメカニズムである。デフレによって企業の破産が増えて、そのせいで銀行パニックが発生して貨幣乗数が低下した可能性がある。(預金の引き出しが増えたせいで)現金預金比率が上昇したからである。しかしながら、そういった現象は当初のデフレショックによって誘発されたのであり、1930年から1931年までの間に起きた物価下落のうち「説明されずにいる」残りの半分についても少なくともその一部はフランス&アメリカの政策が間接的に責任を負っていると言えるだろう。

まとめるとしよう。これまでの先行研究では、大恐慌の引き金となった要因として1928年初頭におけるアメリカの金融引き締めに注目が寄せられてきた。しかしながら、世界全体をデフレスパイラルに陥れる上でフランスが果たした役割にもこれまで以上にもっと注目が払われるべきなのだ。


<参考文献>


●Bernanke, Ben (1995), “The Macroeconomics of the Great Depression: A Comparative Approach(pdf)”, Journal of Money, Credit and Banking, 27:1-28.
●Eichengreen, Barry (1992), Golden Fetters: The Gold Standard and the Great Depression, 1919-1939, Oxford University Press.
●Friedman, Milton, and Anna J Schwartz (1963), A Monetary History of the US, 1867-1960, Princeton University Press.
●Hamilton, James (1987), “Monetary Factors in the Great Depression”, Journal of Monetary Economics, 19:145-169.
●Irwin, Douglas A (2010), “Did France Cause the Great Depression?”, NBER Working Paper 16350.
●Johnson, H Clark (1997), Gold, France, and the Great Depression, 1919-1932Yale University Press.
●Mouré, Kenneth (2002), The Gold Standard Illusion: France, the Bank of France, and the International Gold Standard, 1914-1939, Oxford University Press.
●Sumner, Scott (1991), “The Equilibrium Approach to Discretionary Monetary Policy under an International Gold Standard, 1926-1932”, The Manchester School of Economic & Social Studies, 59:378-94.
●Temin, Peter (1989), Lessons from the Great Depression(邦訳 『大恐慌の教訓』), MIT Press.