2014年12月20日土曜日

Paolo Manasse 「経済学ブログの経済学」(2011年10月28日)

Paolo Manasse, “The economics of economics blogs”(VOX, October 28, 2011)


インセンティブの働きを理解するのが経済学者の仕事である。その証拠に、経済学者が運営しているブログのあちこちでインセンティブの話題が取り上げられている。ところで、一流の経済学者たちが貴重な時間を「浪費」してまでブログを書こうとするインセンティブは何なのだろうか?


多くの経済学者――とりわけ、アメリカを拠点にしている経済学者――が、ブログの運営に多大な時間と労力を注いでいるのは、なぜなのだろうか?――スティーヴン・レヴィットポール・クルーグマンブラッド・デロンググレゴリー・マンキューダニ・ロドリックベッカー&ポズナーマーク・ソーマジョン・テイラーが名の知れた例だ――。それなりに年齢を重ねると、学術誌に論文を投稿してから掲載されるまでの長いタイムラグが我慢ならなくなるのだろうか? あるいは、経済学者という存在や経済学者による専門的な研究に世間の注目を集めたいと思っているのだろうか? それとも、経済学のアイデアをわかりやすく説明したり、議論を喚起したり、読者と意見交換をしたりして、「市民としての義務」(“civic duty”)を果たそうとしているのだろうか? 何よりも不思議なのは、アメリカと違って、ヨーロッパの多くの国々――とりわけ、イタリア――では、個人でブログを運営している経済学者が珍しいことだ。それはなぜなのだろうか?


ブログが持つ3つの効果

格好の論文がある。マッケンジー&オズラーの論文(McKenzie&Özler 2011)がそれで、以下の仮説が検証されている。

a) アメリカの経済学者が運営している代表的な8つのブログで論文のリンクが貼られると、その論文のダウンロード数なりアブストラクト(要旨)の閲覧数なりが増える。
b) ブログを運営すると、運営者本人の学者としての評価が高まる。
c) ブログは読者の見解に影響を及ぼす。

かなり興味深い結果が見出されている。まずは一番目の仮説を取り上げると、ブログで論文のリンクが貼られると、その論文のダウンロード数なりアブストラクトの閲覧数なりが大きく増えるという。リンクが貼られたその月だけでなく、翌月までその影響は――リンクが貼られた月ほどではないにしても――続くという。以下の図1に示されているように、かなり大きな「乗数」効果を備えているブログもあるようだ。例えば、ポール・クルーグマンのブログだとか、Marginal Revolution だとか、Freakonomics だとかで論文のリンクが貼られると、その論文のアブストラクトの閲覧数が月あたりで300回~470回増えて――ちなみに、NBERのワーキングペーパーのアブストラクトの閲覧数は、平均すると月あたりで10.3回――、ダウンロード数が月あたりで33回~100回増える――ちなみに、NBERのワーキングペーパーのダウンロード数は、平均すると月あたりで4.2回――というのだ。



図1. Freakonomics で論文のリンクが貼られた場合のダウンロード数とアブストラクトの閲覧数の推移


次に二番目の仮説に関してだが、アメリカを拠点とする経済学者へのアンケート調査を基にして作成された「尊敬する経済学者ランキング」――人気を測るランキング――と、論文のダウンロード数/引用数で上位500位のランキング(RePEcによるトップ500ランキング)――学者としての実力を測るランキング――を突き合わせて、ブログをやっているかどうかが「尊敬する経済学者ランキング」に入る可能性を高めるかどうかが検証されている。その結果はというと、ブログをやっていると「尊敬する経済学者ランキング」に入る確率がおよそ40%高まるというのだ。RePEcによるトップ500ランキングに入る場合と同じくらい人気を高める効果があるというのだ。

最後に三番目の仮説に関してだが、ブログが読者の見解に影響を及ぼすかどうかを検証するために実験が行われている。開発経済学を専攻する修士課程および博士課程の大学院生(619名)、世界銀行で働く若手のエコノミスト、NGOで働く若者を2つのグループにランダムに振り分けて、一方のグループだけに世界銀行のサイトで開設されたばかりのブログ(Development Impact)を紹介して読むことを勧めたのである。その結果はというと、勧めに従ってブログに目を通した被験者は、世界銀行による研究の質を高く評価しがちになり、世界銀行で働きたいという思いを強めたという。


アメリカ vs.イタリア

アメリカにおいては、経済学者――その多くは大学に籍を置いている――による個人ブログは、専門的な論文への注目を高めるだけでなく、ブログを運営している本人の評価も高めるし、読者の見解にも影響を及ぼす。ブログを書くために貴重な時間を「浪費する」に足るだけの立派な理由が少なくとも3つはあるわけだ。しかしながら、イタリアではどうかというと、大学に籍を置いている経済学者で個人でブログを運営しているケースというのは少数の例外を除いて見当たらない。それはなぜなのだろうか?

イタリア国内で経済学がテーマの人気ブログ上位500位のリストを眺めるとすぐに気付くだろうが、複数人で協力して運営している「共同」ブログばかりが目に付く。例えば、(VOXとパートナーシップを結んでいる)Lavoce.infoがそうだ。

学者として出世しようとするインセンティブが関わっているようには思えない。研究のために割ける貴重な時間が犠牲になるというのが、ブログを書く機会費用である。アメリカよりもイタリアにおいてのほうがブログを書く機会費用が高いと言い募るのは、学術的な成果が学者として出世できるかどうかに及ぼす影響がイタリアにおいてのほうが大きいと主張するようなものだが、そんなことはありそうにない。

イタリアではアメリカにおいてよりもブログを運営することによって得られる見返り(自分の評価が上がる/専門的な研究の流布/世論に影響を及ぼす可能性)が小さいと思われていて、それゆえに共同でブログを立ち上げるということになっているのかもしれない。ブログを運営するコストを分担しているわけだ。しかしながら、ブログを運営することによって得られる見返りが小さいと思われているのはなぜなのかという別の疑問が持ち上がる。

私なりに思い付いた仮説を列挙すると、以下のようになる。

  • 世間一般の「経済学の素養(リテラシー)」がアメリカにおいてよりもずっと低いので、ブログを運営することによって得られる見返りが小さい。
  • マスメディアの所有権がアメリカよりもずっと集中していて、個人が付け入る隙が小さい。
  • イタリア(をはじめとしたヨーロッパ)の経済学者は、カトリック/ポスト・マルクス主義の影響下にあって、個人による成果よりも集団による成果を重視しがち。
  • 言語の壁もあって「市場規模」がアメリカよりもずっと小さいので、ブログを運営することによって得られる見返りが小さい〔原注1〕。
  • イタリアでは、ブログのように「市場」向けに活動するよりも、パーソナル・ネットワーク(コネ)に頼る方が得られる見返りがずっと大きい。

実証的に検証してみる価値がありそうだ。博士課程の学生でやってもいいという猛者はいないだろうか?


〔原注1〕国際貿易の分野における「スーパースター」効果のフォーマルな分析については、Manasse&Turrini (2001) を参照されたい。



<参考文献>


●Manasse, P and A Turrini (2001), “Trade, Wages and Superstars”, Journal of International Economics.
●McKenzie, D and B Özler (2011), “The Impact of Economics Blogs”, CEPR Discussion Paper 8558, September.

2014年10月22日水曜日

Itay Goldstein&Assaf Razin 「金融危機に備わる3つの顔 ~銀行取付け、信用市場の凍結、通貨危機~」(2013年3月11日)

Itay Goldstein&Assaf Razin, “Theories of financial crises”(VOX, March 11, 2013)

金融危機は、その特徴に応じて、大まかに3つのタイプに分類することができる。「銀行危機」、(信用取引に伴う摩擦を原因とする)「信用市場の凍結」、「通貨危機」である。今回世界全体を襲った金融危機は、これら3つの特徴をすべて兼ね備えており、「銀行危機」と「信用市場の凍結」と「通貨危機」とが互いに影響を及ぼし合いながら世界経済全体に大きな動揺をもたらすことになったのであった。金融危機をテーマとする過去30年以上にわたる先行研究の足跡を辿った上で言えることは、目下の状況を正確に捉えるためには、金融危機を引き起こす数ある要因を同時に組み込んだモデルの開発が何よりも待たれるということである。

金融システムおよび通貨システムの役割は、稀少な資源の効率的な配分を促すことを通じて、実体経済活動の円滑な働きを支えることにあると広く理解されている。事実、金融システムの発展が資源の効率的な配分を促すことで経済の成長を後押ししていることを裏付ける実証的な証拠も数多い(Levine 1997, Rajan and Zingales 1998)。その一方で、過去の歴史を振り返ると、金融システムや通貨システムに深刻な機能不全をもたらす金融危機が頻発していることも残念ながら事実だ。

多くの経済学者の意表を突いて、世界全体の金融システムが大きな混乱に見舞われてから、もうかれこれ5年になろうとしている。アメリカやヨーロッパでは、主要な金融機関が相次いで経営危機に追いやられ、それに伴って、貸出をはじめとした金融取引が急激な縮小を余儀なくされることになった。ユーロ圏経済は、今なお厳しい状況に置かれている。今回の危機の背後では、どのような要因がうごめいていたのか? 危機から抜け出すためには、どうすればいいのか? 将来再び今回のような危機に陥らないようにするためには、どうしたらいいのか? これら一連の問いに答えを見出すことが、多くの経済学者にとって最優先課題となっている〔原注;過去数年にわたる世界的な金融危機の実態については、多くの学者が詳細に取り上げている。その中でも、Brunnermeier(2009)やGorton(2010)を参照されたい〕。

今回の危機は、過去に発生した金融危機に備わる主要な特徴を同時に併せ持っている。金融危機の背後でどのような要因が働いているかを説明し、金融危機に対処するための処方箋を提供するために、これまでに長年にわたって数多くの経済理論の開発に多大な努力が捧げられてきている。金融危機を説明するためにこれまでに開発されてきた経済理論の内容を正確に理解し、今後の課題として既存の理論をどのような方向に彫琢していく必要があるかを明らかにすることは、我々が直面している目下の課題を克服するためにも、金融システムを改革して将来同じような事態に陥らないように備えるためにも、欠かせない作業である。

つい最近我々二人は、金融危機をテーマとする過去30年以上にわたる膨大な先行研究の足跡を辿り、その結果を展望論文としてまとめ上げたばかりである(Goldstein and Razin 2012)。過去の金融危機は、その特徴に応じて、3つのタイプに分類することが可能であり、これまでの先行研究も同じく3つの領域に細かく区別することができる〔原注;今回の論説のもととなる論文(Goldstein and Razin 2012)では、数多くの先行研究を参考文献として掲げている。今回の論説では、あくまでもその一部だけにしか触れられていない点に注意されたい〕。まず第1の研究領域は、銀行危機(あるいは、銀行パニック)をテーマとするものである。そして第2の研究領域は、信用取引に伴う摩擦と、信用市場の凍結をテーマとするものである。最後に第3の研究領域は、通貨危機をテーマとするものである。今回世界全体を襲うことになった金融危機は、これら3つの特徴(銀行危機、信用市場の凍結、通貨危機)をすべて兼ね備えており、「銀行危機」と「信用市場の凍結」と「通貨危機」とが互いに影響を及ぼし合いながら世界経済全体に大きな動揺をもたらしたというのが我々の判断である。以下では、金融危機をテーマとする先行研究の概要を3つの研究領域ごとに簡単に振り返ってみるとしよう。


銀行危機

銀行危機(あるいは、銀行パニック)をテーマとする研究は、1983年のダイアモンド&ディヴィグ論文(Diamond and Dybvig 1983)にまで遡る。銀行は、預金者から「短期」で借り入れた資金(預金)を基にして「長期」貸出(銀行ローン)を行う「資産変換機能」を果たしているが、そのおかげで、短期的な(あるいは、緊急の)資金の必要性に迫られる可能性のある投資家に対してリスクシェアリングの機会が提供されるかたちになっている〔訳注;投資家が自ら「長期貸出」を行った場合、緊急に資金が必要となっても即座にその貸し出しを引き揚げることができず、必要な資金を調達できない可能性がある。一方で、投資家が銀行に預金を預け、銀行がその預金を基にして「長期貸出」を行う場合、投資家は間接的に(銀行を介して)長期貸出を行っていると言えるが、緊急に資金が必要となった場合には預金を引き出してそれに応じればよい〕。しかしながら、銀行が資産変換機能を果たすことには、リスクも伴う。大勢の預金者が大挙して預金の引き出しに殺到する、銀行取付け(bank run)に晒される恐れがあるのだ。銀行システムは、銀行取付けの可能性と常に隣り合わせであり、そのような脆弱性の根底にあるのは、「協調の失敗」(coordination failure)である。預金の引き出しに殺到する預金者の数が多いほど、銀行が倒産する可能性も高くなるため、ある程度の数の預金者が預金を引き出そうとすると、他の預金者たちもできるだけ早く預金を引き出そうとする強いインセンティブを持つことになるのである。

過去の歴史を振り返ると、銀行システムは度々取付け騒ぎに見舞われている(詳しくは、例えばCalomiris and Gorton(1991)を参照されたい)。20世紀初頭に入ると、銀行取付けの問題に対処するために、預金保険制度が導入されることになったが、その結果として、銀行取付けが発生する可能性は大きく抑えられることになった。しかしながら、預金保険で預金が全額保護されていないケースだったり、預金保険制度が導入されていない国では、銀行取付けは依然として金融危機を彩る特徴の一つとなっている。例えば、過去20年の間に、東アジアやラテンアメリカでは、多くの銀行取付けが発生している。今回の危機の過程でも、イギリスのノーザン・ロック銀行を対象として「教科書」通りの取付け騒ぎが発生し、大勢の預金者たちが預金の払い戻しを求めて店頭に殺到したことはご存知の通りである(Shin 2009)。銀行システムだけに限定せずに金融システム全体に目を向けると、(預金者が預金の払い戻しを求めて銀行に殺到する)伝統的な取付けの範疇には含まれないが、取付けと呼ぶにふさわしい現象は数多く発生している。例えば、今回の危機の過程では、投資銀行が短期資金を調達するために利用するレポ市場でも取付けが発生しており(Gorton and Metrick 2012)、そのせいでレポ市場では突如として流動性が枯渇し、資金の調達が困難となったのであった。ベア・スターンズやリーマン・ブラザーズといった名だたる金融機関が経営危機に追いやられた理由も、レポ市場における取付けにその原因があったのである。それ以外にも、マネー・マーケット・ファンド(MMF)や資産担保コマーシャルペーパーを取り扱うマーケットでも取付けは発生しており(Schroth, Suarez, and Taylor 2012)、オープンエンド型投資信託を取り扱うマーケットは、「協調の失敗」による脆弱性に日常的に晒されていると指摘する研究もある(Chen, Goldstein, and Jiang 2010)。

銀行危機をテーマとする研究領域でとりわけ重要な政策課題は、金融システムを舞台とした「協調の失敗」とそれに起因する取付け騒ぎがもたらす被害をいかにして回避するかという点にあると言えるだろう。預金保険はこれまでにそれなりの効果をあげてきたと評価できるが、預金保険はモラル・ハザードを引き起こす可能性を伴っており〔訳注;預金保険によって預金の一部(あるいは、全額)が保護されていると、預金を預けている銀行が破綻したとしても預金の一部(あるいは、全額)は手元に戻ってくるため、預金者は銀行の行動にそれほど注意を払わなくなる可能性がある。預金者による監視の目が緩むと、銀行は貸出先の審査にあたって手を抜く可能性がある〕、その点も真剣に考慮せねばならない。「最適な」預金保険制度の設計に向けて研究すべきことは、まだまだ残されているのだ。比較的最近になって発展を見せている経済理論として「グローバル・ゲーム」と呼ばれる一連のモデルがあるが(Carlsson and van Damme 1993, Morris and Shin 1998, Goldstein and Pauzner 2005)、このモデルを使えば、預金保険の便益(銀行取付けを防ぐ効果)とコスト(モラル・ハザードを引き起こす可能性)を同時に分析することが可能となり、「最適な」預金保険制度が備えるべき特徴についても手掛かりが得られるようになるかもしれない。


信用取引に伴う摩擦と信用市場の凍結

銀行危機をテーマとする研究領域では、銀行の預金者だったり銀行に対する貸し手だったりの行動に焦点が置かれている。言い換えると、銀行のバランスシートの「負債」の側に焦点が合わせられているわけである。しかしながら、金融システムにおける問題は、銀行のバランスシートのもう一方の側である「資産」の側に起因していることも珍しくない。信用市場〔訳注;資金が貸し借りされる市場のこと。その例としては、銀行ローン市場を挙げることができるが、銀行ローン市場では、銀行が資金の供給者(貸し手)であり、銀行からお金を借り入れる主体が資金の需要者(借り手)ということになる〕における均衡では、銀行による貸出の量だけではなくその質も決定されることになるが、信用取引に伴う摩擦のために、銀行は、悪質な借り手から自らを守るために貸出を渋る(ローンの供給を抑える)可能性があるのである。

信用市場において信用割当(credit rationing)〔訳注;信用に対する需要(資金の借り入れ需要)が供給を上回る状態。信用市場で成立する金利が、信用に対する需要と供給を等しくする水準を下回っている状態とも言える〕が発生する可能性を理論的に明らかにしたのが、1981年のスティグリッツ&ウェイス論文(Stiglitz and Weiss 1981)である。通常の経済理論の立場からすると、需要と供給の間にギャップがあれば、価格が変化して最終的には(均衡においては)割当は解消されるはずである〔訳注;信用に対する需要が供給を上回っている(信用割当が存在する)場合は、需給が一致するところまで金利が上昇するはず、ということ〕。しかしながら、銀行がローンの金利(貸出金利)を変化させると、それに伴って、ローンを借りにくる相手(借り手)の「質」も変化する可能性がある。金利の上昇に伴って借り手の「質」が悪化するようであれば、信用割当が存在していても、金利は上昇せずにそのままの水準にとどまる可能性があるのだ。信用割当が発生する背後には、信用取引に伴う2つの摩擦の存在が控えている。「モラル・ハザード」と「逆選択」である。1997年のホルムストローム&ティロール論文(Holmstrom and Tirole 1997)で定式化されたモデルが一大転機となって、この2つの摩擦(とりわけ、モラル・ハザード)が銀行の貸出(ローン供給)行動に及ぼす影響を探る膨大な研究が量産されることになった。銀行ローンの借り手が銀行の監視の目を逃れて好きなように(銀行から借り入れた)資金を流用できるようであれば、資金の貸し手である銀行としても、そう易々とローンの貸出に応じるわけにはいかない。銀行(貸し手)から借り手へと資金がスムーズに貸借されるためには、借り手に自分の好きなように資金を使わないようにさせることが重要となってくる。そのための方法の一つが、借り手に「身銭を切らせる」(“skin in the game”)――例えば、担保を出させる――というやり方だ。借り手によるモラル・ハザードを防ぐためには、借り入れた資金を投じたプロジェクトの成功に向けて借り手が熱を入れるように工夫する必要があるのだ。しかしながら、「身銭を切る」余裕のある借り手の数は限られているので、銀行による貸出の量も限られることになる。景気が悪化するのに伴って「身銭を切る」余裕のある借り手の数が減るようなら、銀行による貸出の量も減ることになり、やがては金融危機が招かれる恐れすらある。

今回の危機の過程でも、信用取引に伴う摩擦が信用市場の機能不全を引き起こす一因となっていたことは疑いない。2008年に金融システムを突如として襲ったショックの後に、銀行ローン市場でも、インターバンク市場(銀行間取引市場)でも、信用のやり取りが凍結するに至ったが、その理由は、信用取引に伴う摩擦が原因で当初のショックが増幅されたせいである可能性があるのだ。

信用取引に伴う摩擦がマクロ経済(景気循環)に及ぼす影響の解明に向けて、信用取引に伴う摩擦をマクロ経済モデルに組み込む試みがここにきて盛んになっている。そのような試みの先駆けとも言えるバーナンキ&ガートラー論文(Bernanke and Gertler 1989)や清滝&ムーア論文(Kiyotaki and Moore 1997)では、信用取引に伴う摩擦は、当初のショックを増幅させるだけでなく、当初のショックが消え去った後もその影響を持続させる役割を果たすことが明らかにされている。この線に沿ったつい最近の代表的な試みでは(Gertler and Kiyotaki 2010, Rampini and Viswanathan 2011)、マクロ経済モデルに金融仲介部門が明示的に組み込まれ、金融仲介部門とそれ以外の部門の間の動学的な相互作用が分析されている。金融仲介部門を組み込んだマクロ経済モデルが今後発展を見せることになれば、今回の危機の過程で各国の政府が採用した数々の政策について精緻で実りある議論を行える舞台が用意されることになるだろう。


通貨危機

金融危機に備わる重要な側面の一つとして、政府の関与、とりわけ政府が採用している為替レジームの崩壊も見逃してはならないだろう。1970年代初頭におけるブレトンウッズ体制の崩壊をはじめとして、多くの通貨危機は、政府が固定相場制度を維持しようと試みる中で、それ以外の政策目標との間に齟齬が生じる結果として引き起こされる傾向にある。固定相場制度の維持とそれ以外の政策目標との齟齬が積もり積もって、為替レジームの突然の崩壊が引き起こされるわけである。通貨危機をテーマとする研究の出発点をどこに求めるかについては色々と意見があるだろうが、我々二人の展望論文では、クルーグマンらによる第一世代モデル(Krugman 1979, Flood and Garber 1984)と、オブスフェルドによる第二世代モデル(Obstfeld 1994, 1996)をその出発点に定めている。

通貨危機の第一世代モデル&第二世代モデルは、ユーロ圏経済が今現在置かれている状況を理解する上でも大いに示唆に富むモデルである。通貨危機の第一世代モデル&第二世代モデルの礎となっているのは、かの有名な「国際金融のトリレンマ」だ。「国際金融のトリレンマ」によると、①国境を越えた資本の自由な移動、②独立した金融政策、③固定相場制度(あるいは、為替レートの安定)という3つの政策目標のうち、一国の政府が同時に追求できるのは2つだけだとされる。ユーロ圏の各国は、①と③を同時に追求するのと引き換えに②をあきらめたわけだが、その結果として(金融政策を自国の事情にあわせて自由に操れないために)、金融危機の余波を吸収するためにも、国債の価格を維持するためにも、限られた余地しか残されていない状況に追いやられる格好となってしまった。「ユーロ圏の各国政府には、固定相場を維持する意志も国債を償還する意志もないのではないか」と疑いを持たれるようであれば、投資家や投機家が大挙してユーロや国債の投げ売りに乗り出し、そのせいでユーロ圏経済が抱える問題はさらに深刻さを増す可能性がある。ユーロ圏の各国は、政府債務のデフォルトを宣言するか、もしくは、ユーロを放棄するか(あるいは、どちらもともに選ばざるを得ないか)という重大な選択を迫られる可能性があるのだ。

通貨危機の第一世代モデル&第二世代モデルでは、政府の行動だけに焦点が合わせられているが、通貨危機の第三世代モデル(Krugman 1999, Chang and Velasco 2001, Goldstein 2005)では、銀行危機に加えて、信用取引に伴う摩擦がモデルに組み込まれている。第三世代モデルが開発されたきっかけは、1990年代後半に東アジアを襲った通貨危機にある。東アジアの通貨危機では、金融機関の破綻と為替レジームの崩壊が同時に発生したが、銀行危機と通貨危機とが絡み合って経済全体が極めて脆弱な状態に晒される可能性があることをまざまざと知らしめた事件だった。第三世代モデルも、ユーロ圏経済が今現在置かれている状況を理解する上で大いに示唆に富むモデルだ。ユーロ圏では、銀行危機と債務危機とが複雑に絡み合っており、ユーロ圏経済の行く末がどうなるかは、その絡み合いがこの先どのような展開を見せるかに、かなりの程度左右されるのだ。


結論

今後の主要な研究課題は、これまでに触れてきた数々の「摩擦」――協調の失敗、インセンティブ問題、情報の非対称性、政府が採用する為替レジーム――をマクロ経済モデルの中に組み込んで、最適なポリシーミックスや政策の望ましい規模について定量的な結論を導き出すことにあると言えるだろう。中央銀行が、既存のモデルの代わりに、摩擦を組み込んだモデルを使い始めるようになれば、願ったりである。信用取引に伴う摩擦をマクロ経済モデルに組み込む試みは徐々にその気運が盛り上がりを見せているが、それ以外の摩擦を組み込む試みとなると、ほとんど手がつけられていない状態だ。あらゆる摩擦を組み込んだマクロ経済モデルの開発に取り組むことが今後の重要な課題だと言えるだろう。

もう一点だけ触れておくと、システムを脆弱にしたり金融危機を引き起こしたりする数ある要因の中からいずれか一つに焦点を定めて、その影響を分析するモデルは数多いが、数ある要因を同時にまとめて組み込んだモデルは今のところ――いくつかの例外はあるにせよ――著しく欠如していると言わざるを得ない。数ある要因を同時にモデルに組み込んではじめて、それぞれの要因が結果に及ぼす影響の強さを比較できるようになるし、それぞれの要因が互いにどのように作用し合っているかを理解できるようになる。システムを脆弱にしたり金融危機を引き起こしたりする数ある要因を同時に組み込んだモデルの開発に取り組むことも、今後の重要な課題であると言えるだろう。


<参考文献>

●Bernanke, Ben S, and Mark Gertler (1989), “Agency costs, net worth, and business fluctuations”, The American Economic Review 79, 14–31.
●Brunnermeier, Markus (2009), “Deciphering the liquidity and credit crunch 2007-2008”, Journal of Economic Perspectives 23, 77-100.
●Calomiris, Charles, and Gary Gorton (1991), “The origins of banking panics: models, facts, and bank regulation”, in Glenn Hubbard (ed.) Financial Markets and Financial Crises, University of Chicago Press.
●Carlsson, Hans, and Eric van Damme (1993), “Global games and equilibrium selection”, Econometrica 61, 989-1018.
●Chang, Roberto, and Andres Velasco (2001), “A model of financial crises in emerging markets”, Quarterly Journal of Economics 116, 489-517.
●Chen, Qi, Itay Goldstein, and Wei Jiang (2010), “Payoff complementarities and financial fragility: evidence from mutual fund outflows”, Journal of Financial Economics 97, 239-262.
●Diamond, Douglas W, and Philip H Dybvig (1983), “Bank runs, deposit insurance, and liquidity”, Journal of Political Economy 91, 401-419.
●Flood, Robert, and Peter Garber (1984), “Collapsing exchange-rate regimes, some linear examples”, Journal of International Economics 17, 1-13.
●Gertler, Mark, and Nobuhiro Kiyotaki (2010), “Financial Intermediation and Credit Policy in Business Cycle Analysis”, in Benjamin M. Friedman and Michael Woodford (eds.) Handbook of Monetary Economics.
●Goldstein, Itay (2005), “Strategic complementarities and the twin crises”, Economic Journal 115, 368-390.
●Goldstein, Itay, and Ady Pauzner (2005), “Demand deposit contracts and the probability of bank runs”, Journal of Finance 60, 1293-1328.
●Goldstein, Itay, and Assaf Razin (2012), “Three Branches of Theories of Financial Crises”, NBER Working Paper 18670(ungated版はこちら(pdf)).
●Gorton, Gary (2010), Slapped by the Invisible Hand: The Panic of 2007, Oxford University Press.
●Gorton, Gary, and Andrew Metrick (2012), “Securitized banking and the run on repo”, Journal of Financial Economics 104, 425-451.
●Holmstrom, Bengt, and Jean Tirole (1997), “Financial intermediation, loanable funds, and the real sector”, Quarterly Journal of Economics 112, 663-691.
●Kiyotaki, Nobuhiro, and John Moore (1997), “Credit cycles”, Journal of Political Economy 105, 211-248.
●Krugman, Paul R (1979), “A model of balance-of-payments crises”, Journal of Money, Credit, and Banking 11, 311-325.
●Krugman, Paul R (1999), “Balance sheets, the transfer problem, and financial crises”, International Tax and Public Finance 6, 459-472.
●Levine, Ross (1997), “Financial development and economic growth: views and agenda”, Journal of Economic Literature 35, 688-726.
●Morris, Stephen, and Hyun S Shin (1998), “Unique equilibrium in a model of self-fulfilling currency attacks”, The American Economic Review 88, 587-597.
●Obstfeld, Maurice (1994), “The logic of currency crises(pdf)”, Cahiers Economiques et Monetaires 43, 189-213.
●Obstfeld, Maurice (1996), “Models of Currency Crises with Self-Fulfilling Features”, European Economic Review 40, 1037-1047.
●Rajan, Raghuram, and Luigi Zingales (1998), “Financial dependence and growth”, The American Economic Review 88, 559-586.
●Rampini, Adriano, and S Viswanathan (2011), “Financial intermediary capital(pdf)”, Working Paper.
●Schroth, Enrique, G Suarez, and L Taylor (2012), “Dynamic debt runs and financial fragility: evidence from the 2007 ABCP crisis(pdf)”, Working paper.
●Shin, Hyun S (2009), “Reflections on Northern Rock: the bank run that heralded the global financial crisis”, Journal of Economic Perspectives 23, 101-119.
●Stiglitz, Joseph E, and Andrew Weiss (1981), “Credit rationing in markets with imperfect information”, The American Economic Review 71, 393-410.

Andrea Prat 「金融規制の政治経済学」(2009年3月9日)

Andrea Prat, “A political economy view of financial regulation”(VOX, March 9, 2009)

現状の金融規制に欠陥があるのは間違いない。しかしながら、ルールが今のままであっても、規制当局は手持ちの情報を使ってもっと積極果敢で迅速な対応をとれたはずである。ルールがどんなに優れていても、規制当局者がそのルールを忠実に執行するインセンティブを持たなければ宝の持ち腐れだ。規制当局はこれまでに知り得た情報を公開して、規制対象となる業界との「人的なつながり」の実態について公表すべきである。そうすれば、金融規制の分野で「規制の虜」と呼ばれる現象が起きる可能性がどれくらいかを評価できるようになるし、その可能性を抑えることもできるようになるのだ。

今回の金融危機で大きな打撃を受けたのは、金融市場だけにとどまらない。金融システムを監視・監督する役目を果たすはずの金融規制に対する国民の信頼も地に落ちることになったのだ。金融システムの安定性を確保するためにルールをどう変えたらいいかについて活発で示唆に富む議論が繰り広げられている最中だが、ここではちょっと視点を変えて政治経済学的な観点からこの問題に切り込んでみることにしよう。

金融危機に見舞われた多くの国における金融規制の体系は、時代遅れどころか、最先端というにふさわしい特徴を備えていた。しかしながら、規制が効果を上げるかどうかは、(法律をはじめとした)ルールの質だけに依存するわけではなく、そのルールを執行する立場にある人間(規制当局者)のインセンティブにもかかっている。この点でとりわけ肝心なのは、規制当局が規制対象となる業界(民間企業)の虜(とりこ)になってしまう可能性――いわゆる「規制の虜」(regulatory capture)と呼ばれる現象(欄外訳注1)が起きる可能性――であり、この可能性については公的規制をテーマとするテキストの中でも大きな関心が寄せられている(Laffont&Tirole 1993)(原注;ラフォン&ティロールの共著であるこの本の第5部は「公的規制の政治学」(The Politics of Regulation)と題されていて、本全体のおよそ3分の1の分量を占めている)。さらには、規制当局が独立性を欠いているようだと、好ましからぬ結果が招かれることを指し示す実証的な証拠も大量にある(Dal Bó 2006)。

金融規制の分野における現状のルールを改善する必要があるのは、疑いない。しかしながら、ルールを執行する立場にある規制当局者が直面しているインセンティブも同時に分析の対象に含める必要がある。規制当局者がルールを忠実に執行するインセンティブを欠いていたり、ルールに反する誘惑に晒されているようなら、ルール自体がいかに優れていても茨の道が待っているだろう。

規制当局は、今回の金融危機の過程で金融機関の虜になってしまったのだろうか? どうだったのかを探るために、2つの問いに検討を加えてみるとしよう。


規制当局は、既存のルールと手持ちの情報をフルに活用したか?

ルールが今のままであっても、規制当局は手持ちの情報を使ってもっと積極果敢で迅速な対応をとれたはずというのが私の判断である。そのことを裏付ける何よりも典型的な例は、バーナード・マドフ(Bernard Lawrence Madoff)が仕掛けた金融詐欺事件である。米国証券取引委員会(SEC)は、詐欺が行われている可能性について事前に情報を得ていた。マドフが巨大なポンジ・スキームに手を染めている可能性について、信頼できる情報源から密かに何度も繰り返しリークがあったのである。それに加えて、SECはこの問題に対処するための揺るぎない法的な権限も手にしていた。証券詐欺規制法がそれである。それにもかかわらず、こんなにも大規模で古典的な手法の違法行為がどういうわけだか見逃されてしまったのだ(原注;2003年に起きたいわゆるスタンフォード詐欺事件についても、信頼できる情報源から規制当局に対して事前に情報がリークされていたことが判明している)。イギリスに目を向けると、ポール・ムーア(Paul Moore)による内部告発の例がある。イギリスの大手金融会社であるHBOSでリスク管理部長を務めていたムーアは、同社がリスクを過剰に取り過ぎていると内部告発を行ったのである(内部告発を行った後に、ムーアは同社を解雇された)。信頼できる情報源から警告が寄せられていたにもかかわらず、英国金融サービス機構(FSA)(欄外訳注2)は、重大な問題に発展しかねない事態にどういうわけだか真摯に向き合わなかった。FSAがムーアの内部告発の直後に断固たる対応をとっていたとしたら、HBOSを救済するために何十億ポンドもの公的資金が投じられずに済んでいた可能性がある。規制当局は、個別の金融機関に経営戦略の変更を強いることなどできなかった(そんな権限なんて持ち合わせていなかった)という反論もあるかもしれない。しかしながら、FSAにしても、SECにしても、手持ちの情報を基にして、国民に警告を発するくらいは少なくともできたはずである。株主や貸し手、預金者たちに向けて、自分と関わりのある金融機関が負っているリスクについて明確な警告が発せられていたとしたら、今頃どうなっていたろうか?


規制当局は「利益相反」の問題をどの程度抱えているか?

どの公的機関も、「独立性を確保する必要性」と「優秀な人材を確保する必要性」とのトレードオフに直面している。中でも金融規制の分野は、「利益相反」(conflict of interest)の問題に晒される可能性がとりわけ高そうに見える。例えば、HBOS――内部告発をしたポール・ムーアを解雇した会社――のCEOだったジェームズ・クロスビー卿(James Crosby)は、2004年から2006年にかけてFSAの副長官とHBOSのCEOを兼務していた。言うなれば、規制される側の企業のトップが規制当局を監視していたようなものだ。他の分野――例えば、競争政策の分野――だと、到底考えられない事態だろう。マイクロソフト社のCEOが(独占禁止政策を取り仕切る)米国連邦取引委員会(FTC)の委員に任命されるなんてことがあり得るだろうか? 規制当局と規制対象となる業界との間に存在する「人的なつながり」の例は、これだけにとどまらない。FSAの非常勤委員8名のうち3名は、今(2009年時点)でも民間の金融機関で働いているようなのだ(原注;その3名というのは、ピーター・フィッシャー(Peter Fisher)、デビッド・マイルズ(David Miles)、ヒュー・スティーブンソン(Hugh Stevenson)。FSAのホームページにある略歴によると、フィッシャーはブラックロック、マイルズはモルガン・スタンレー、スティーブンソンはエクイタスならびにマーチャント・トラストで、それぞれ要職にあるとのこと)。規制対象となる民間の企業と人的な交流(つながり)を持つのは避けられない面もあるが、規制対象となる企業のトップをFSAの委員に据える必要性は果たしてあるのだろうか?

金融規制というのは、ルールさえ用意すれば放っておいてもうまくいくわけではない。多くの国の金融システムは非常に洗練されていて、国民に多大な便益をもたらす可能性を大いに秘めている。優秀な弁護士や会計士に頼ることもできる。しかしながら、金融システムがその潜在的な力を存分に発揮するためには、能力が優れているだけでなく、ルールを忠実に執行するインセンティブも備えた規制当局者の存在が欠かせない。必要とあらば問題の所在を徹底的に追及し、規制対象となる金融業界に対して厳しい態度で臨むのも厭わない規制当局者の存在が欠かせないのだ。

今後の課題に目を転じるとしよう。規制当局者が用意されたルールを存分に活用するインセンティブを持つような方向に持っていくためには、どのような措置を講じたらいいだろうか?

  • これまでの実状を知らずして、規制当局が規制対象となる金融機関の虜になってしまうかもしれない可能性を評価することはできない。規制当局は、これまでに知り得た情報を公開すべきである。どういうリーク情報が寄せられたかについてだけでなく、リーク情報に基づいて調査に乗り出した経緯がある場合はその調査結果についても、第三者が確認できるようにすべきである。例えば、HBOSだけでなくそれ以外の金融機関が抱えるリスクの実態について、FSAがどういう情報を得ていたか(あるいは、知り得たか)が明らかになれば、非常に有用な判断材料になるだろう。
  • ルールの厳格な適用が妨げられるおそれがないかどうかを確認するために、規制対象となる金融機関の経営陣との「人的なつながり」の実態――規制当局の委員(および、規制当局で働く官僚)が任命前、委員在任中、任期終了後にそれぞれどのような地位にあったか(あるか)――についても情報を公開すべきである。
  • 規制当局が公開した情報を精査し、その分析結果に照らして「利益相反」の問題に対処するための措置を講じる必要がある。民間(金融業界)とのその時点での人的なつながりだけでなく、将来における人的なつながり(いわゆる「天下り」)も検討の対象になるだろう。その措置の具体的な内容が固まった暁には、国民に向けて大々的に公表すべきである。公益(社会全体の利益)を何よりも優先するのが規制当局の役目であることを改めてはっきりと打ち出すべきである。

成果主義(成果に応じた報酬の支払い)というのは、ここのところあまり受けがよくないようだ。しかしながら、ルールを忠実に執行するインセンティブを規制当局者に持たせる術の一つとして、金融システムの健全性の度合いに応じて規制当局者に支払う報酬の額を変える [6]という大胆な可能性を探ってみるべきだろう。金融システムの健全性(あるいは、その反対に脆弱性)を測る適当な指標についてコンセンサスが得られるようなら、その指標に照らして規制当局者に支払う報酬の額を決める――その指標の変動に応じて、報酬の額を上下させる――という一種の成果主義的な報酬制度を導入する道が開かれることになる。規制当局者が公益を優先するように仕向けることができるかもしれないのだ。


<参考文献>

●Jean-Jacques Laffont and Jean Tirole (1993), A Theory of Incentives in Procurement and Regulation, MIT Press.
●Ernesto Dal Bó (2006), “Regulatory Capture: A Review,” Oxford Review of Economic Policy, 22(2): 203-225.


(欄外訳注1) 規制対象となる企業が規制当局に対して政治的な働きかけを行う結果として、規制の内容が社会全体の利益よりも規制対象となる企業の利益を優先するような方向に歪められたり、規制の適用にあたって手心が加えられたりすること。

(欄外訳注2) FSAは2013年4月に解体されている。その権限は、金融行為監督機構(FCA)と、イングランド銀行内に設置された金融安定政策委員会(FPC)およびプルーデンス規制機構(PRA)の3つの機関に委譲されている。詳しくは、次の論文を参照のこと。 ●小林襄治, “英国の新金融監督体制とマクロプルーデンス政策手段(pdf)”(証券経済研究, 第82号(2013 . 6))

2014年10月7日火曜日

Jordi Galí 「タブーへの挑戦 ~財政ファイナンスの効果を探る~」

Jordi Galí, “Thinking the unthinkable: The effects of a money-financed fiscal stimulus”(VOX, October 3, 2014)

今般の経済危機の過程では各国の中央銀行によって数多くの非伝統的な金融政策が採用されることになったが、各国は未だ景気低迷から抜け出せずにいる。本論説では、政府支出の一時的な拡大の財源を貨幣の発行で賄う政策(「財政ファイナンス」)の効果について論じる。現実に近いモデルの枠内で財政ファイナンスの効果を評価すると、財政ファイナンスは生産と雇用を大きく刺激し、インフレを若干上昇させるとの予測結果が得られることになる。

「財政ファイナンスは経済論議の中でタブーの一つと見なされるまでになっている。有害な政策と断じられているばかりではない。提案することはおろか、考えてすらいけないものと見なされているのだ」-アデール・ターナー卿(2013)


今般の経済・金融危機は伝統的なマクロ安定化政策(あるいは反循環的な政策)が抱える限界を知らしめることになった。経済活動の落ち込みを受けて各国の金融当局と財政当局はそれぞれ金利の急速な引き下げと構造的財政赤字の大幅な拡大に乗り出したが、景気の回復を待たずして打つ手が無くなる事態に追い込まれることになった。経済危機を迎えてから比較的早い段階で政策金利はゼロ下限制約に達することになり、(大幅な構造的財政赤字に乗り出した結果として)政府債務残高の対GDP比がかなり高い水準にまで上昇を続けた関係もあって各国の政府は財政再建を強いられることになった――多くの国ではまだその途上にある――のである(財政再建は景気回復を遅らせ、経済にさらなる痛みを加える格好となった可能性がある)。それに加えて、主要な中央銀行は非伝統な金融政策にも踏み出すことになったわけだが、そのような一連の政策は金融システムに安定を取り戻し、銀行部門の収益の改善を後押しする上ではそれなりの役割を果たした可能性はあるものの、特に今回の金融危機で最も大きな痛手を受けたいくつかの国においては総需要を十分に刺激するには至らず、生産と雇用をぞれぞれ潜在的な水準(潜在GDPや自然失業率)にまで引き戻すことはできなかったのである。

名目金利の引き下げも国債の発行も伴わずして経済を刺激し得るような政策について真剣に検討すべき時が来ている。というのも、これ以上名目金利を引き下げることは不可能であり、(政府債務残高の対GDP比が歴史上稀に見るほど高い水準に達しているばかりか、なおも上昇する勢いにある事実を踏まえると)政府債務残高をこれ以上増やすことは望ましくないからである。また、政府支出の拡大にあわせて税金を引き上げる(政府支出の財源を捻出するために増税する)というのも魅力ある選択肢とは言えない。多くの国では税率は既に高い水準にあるだけでなく、税金の引き上げは自滅的な結果をもたらす(訳注;税金の引き上げが政府支出の効果を打ち消す)可能性があるからだ。さらには、労働コストの削減や構造改革に力点を置いた提案に対してはここにきて疑問視する声が上がっている。労働コストの削減や構造改革が生産の拡大に結び付くかどうかはそれと同時に金融緩和が伴うかどうかにかかっているとの反論が寄せられているのだ(原注;例えば次の論文を参照のこと。Eggertsson et al.(2013), Galí (2013), Galí and Monacelli(2014))――そして金融緩和の余地はもう無いときているのである――。


財政ファイナンス(Money-financed fiscal stimulus)

つい最近の論文で私は経済を刺激し得るような政策の候補の一つに検討を加えている(Galí 2014)。その候補というのは、政府支出を一時的に拡大するための財源を貨幣の発行で賄うというもの(以下、「財政ファイナンス」)である。冒頭で引用したターナー卿の言葉にあるように、財政ファイナンスは政策当局者の世界では「口にするのも憚られる」一種の「タブー」と見なされている。しかしながら、研究者はそのようなタブーに縛られるべきではないだろう。社会的に広く共有されている目標(例. 完全雇用と物価安定)の達成を促す可能性があればいかなる政策であれその帰結を探ってみる必要があり、その過程で明らかになった発見は包み隠さず(必要な注意書きも忘れず添えた上で)公にしなければならない。それが我々研究者の責任なのだ。

私の研究を通じて得られた中心的なメッセージは次の通りである。

  • 財政ファイナンスが生産やインフレに及ぼす影響はモデルの種類(どのようなモデルを選ぶか)に大きく依存する

「理想的な」古典派モデル――あらゆる市場で完全競争が行われており、名目賃金を含むあらゆる名目価格が完全に伸縮的であるような貨幣経済のモデル――の枠内では財政ファイナンスが生産や雇用を刺激する効果はごく限られたものであり、一方で(財政ファイナンスの結果として)インフレは即座に大幅な上昇を見せることになる。また、民間の消費は減少することになる。望ましい効果もあるにはある。財政ファイナンスは即座に大幅なインフレをもたらすことになるが、その結果として(債務の実質的な価値が低下することで)政府債務残高の対GDP比が縮小するのである。 財政ファイナンスが引き起こす結果をすべて考慮すると、 「理想的な」古典派モデルの枠内では財政ファイナンスは到底お勧めできない政策ということになるだろう(原注;「理想的な」古典派モデルでは、財政ファイナンスは家計の効用を確実に低下させることになる)。個人的な推測だが、財政ファイナンスをタブー視する態度の背後にはこのような「古典派」的な発想が控えているのではないだろうか。

しかしながら、以上の議論は必ずしも正しいものとは言い切れないかもしれない。論文の中でも詳しく論じていることだが、「理想的な」古典派モデルから離れてもう少し現実に近いモデル――市場では不完全競争が行われており、名目賃金や名目価格が粘着的であるような貨幣経済のモデル――の枠内で財政ファイナンスの効果を評価すると、その結果は「理想的な」古典派モデルの枠内で得られる結果とは大きく違ってくるのである。

  • (現実に近いモデルの枠内では)財政ファイナンスは複数年にわたって実体経済活動を大きく上向かせることになる。それに伴ってインフレも上昇することになるが、比較的穏やかな水準にとどまることなる。

実体経済活動が大きく刺激される理由は予想インフレ率の上昇によって実質金利がしばらくの期間にわたって低く抑えられ、その結果として民間消費と投資が刺激されるためである。

  • 政府債務残高の対GDP比は時とともに縮小していく。その主たる理由は実質金利がしばらくの期間にわたって低く抑えられるためである。
  • 当初の生産量が効率的な水準を十分大きく下回っている場合は、財政ファイナンスを通じて実施される政府支出がまったく無駄な対象に費やされたとしても経済厚生は改善されることになる。

政府支出の対象が生産性の向上につながるような公共投資に向けられる場合には財政ファイナンスが経済厚生を改善する効果はもっと大きくなることだろう。

現実に近いモデルから得られる以上のような予測結果は量的緩和をはじめとした非伝統的な金融政策のこれまでの経験とは大きな対照をなしている。非伝統的な金融政策は総需要に直接的に影響を及ぼすものではないが、そのためにこれまでのところ多くの国々――特にユーロ圏経済――を低迷から救い出すことができずにいるのだ(訳注;一方で、財政ファイナンスは総需要に直接的に影響を及ぼすことになる。というのも、政府支出の拡大が伴うためである)。財政ファイナンスはユーロ圏のような通貨同盟向けの政策としての利点も備えている。財政ファイナンスでは政府支出の拡大が伴うわけだが、高失業や低インフレ(あるいは長引くデフレのリスク)に悩まされている地域を選定した上でその地に政府支出を集中させるという方法も採り得るのである。

特にユーロ圏経済に言えることだが、古色蒼然とした偏見から脱却し、これまでに試されてきたどの方法よりもずっと確実に総需要を刺激し得る方法を試すべき緊急の必要性に迫られている事実に向き合う時が来ているのかもしれない。財政ファイナンスを選択肢の一つとして真剣に考慮すべき時が来ているのだ。


<参考文献>

●Eggertsson, G, A Ferrero, and A Raffo (2013), “Can Structural Reforms Help Europe?(pdf)”, Brown University, mimeo
●Galí, J (2013), “Notes for a New Guide to Keynes (I): Wages, Aggregate Demand and Employment”, Journal of the European Economic Association, 11(5), 973-1003.
●Galí, J and T Monacelli (2014), “Understanding the Gains from Wage Flexibility: The Exchange Rate Connection”, CREI working paper.
●Galí, J (2014), “The Effects of a Money-Financed Fiscal Stimulus”, CEPR Discussion Paper 10165, September.

2014年10月4日土曜日

Lucrezia Reichlin, Adair Turner and Michael Woodford 「ヘリコプターマネーの是非を問う」

Lucrezia Reichlin, Adair Turner and Michael Woodford, “Helicopter money as a policy option”(VOX, May 20, 2013)

ヨーロッパ全体が長引く景気低迷に追いやられる中、非伝統的な政策オプションを探し求める動きがますます盛んになっている。そのような中で依然として押し入れの奥深くに閉じ込められたままになっている政策が存在する。その名は「ヘリコプターマネー」――中央銀行が財政赤字を直接賄ういわゆる「財政ファイナンス」――である。本論説は世界を代表する3名の貨幣経済学者が「ヘリコプターマネー」をテーマに討論を行った際の模様を再現したものである。

イントロダクション(by ルクレツィア・ライシュリン)

金融危機が勃発して以降、各国の中央銀行は金融市場の動揺が続く中で総需要(名目支出)の安定化を目指して数々の非伝統的な金融政策に乗り出してきた。非伝統的な金融政策と一括りにはされても個々の政策ごとに直接的な目標(マーケットメイキング、長期金利をはじめとした資産価格のコントロール、補助金の提供を通じた信用支援等々)は異なっている。こういった一連の非伝統的な金融政策はリーマン・ブラザーズの破綻に続いて起こった銀行危機を和らげ、金融市場に安定を取り戻す上では役割を果たしたと評価されている。しかしながら、実体経済に対する効果については依然として不確実な面が多い(原注;非伝統的な金融政策がマクロ経済(特にアメリカ経済)に及ぼした効果に関する実証的な分析としては例えばKhrishnamurthy&Vissing-Jorgensen(2011)を参照されたい。また、欧州中央銀行(ECB)による非伝統的な金融政策についてはLenza&Pill&Reichlin(2010)を参照のこと)。

非伝統的な金融政策が実体経済にどのような効果を及ぼすのかはっきりしたことがわからない状況が続いている中、日本銀行が突如として大胆な行動プランを明らかにした。今後2年間でマネタリーベースならびに国債の保有額を2倍に拡大すると発表したのである。

非伝統的な金融政策を巡っては大きく対立する2つの立場がある。
  • 量的緩和は将来におけるバブルの温床となるだけではなく、量的緩和から手を引く(撤退する)過程では金融システムの安定性が損なわれる恐れがある(詳しくはStein(2013)を参照のこと)
  • 実体経済を上向かせるためには量的緩和よりもさらに積極的な行動が必要だ
つい最近になってアデール・ターナー卿が「量的緩和よりもさらに積極的な行動」の一つを提言している(Turner 2013)。 「ヘリコプターマネー」である(彼は「永続的な貨幣供給」とも呼んでいる)。このアイデアは元々ミルトン・フリードマン(Friedman 1948)によって論じられ、今から10年前の2003年にベン・バーナンキ(Bernanke 2003)によって再び取り上げられたものである。バーナンキはゼロ下限制約に直面している日本経済を念頭に置いていたが、彼は「ヘリコプターマネー」の具体的な手法として一般家庭への給付金の支給あるいは企業に対する減税と歩調を合わせるようにして中央銀行が国債の買い入れを進めること――貨幣の発行を伴う減税――を説いている 。

「ヘリコプターマネー」はそれなりに長い歴史を持つアイデアではあるが、今日ではタブーの一つとなっている。今般の経済危機に対処するために各国の中央銀行は数々の非伝統的な金融政策に乗り出すことになったわけだが、その結果として各国の中央銀行のバランスシートはいずれも大きく拡大することになった。しかしながら、マネタリーベースの拡大を明確な目標に掲げるだけでなく、マネタリーベースの「永続的な」拡大にコミットした例は――先の日本銀行を含めても――ここ最近ではない。しかしながら、経済学界の中からは「ヘリコプターマネー」を支持する声がちらほらと聞こえてきている。

2012年に開催されたジャクソンホール・シンポジウムでマイケル・ウッドフォードが「フレキシブル・インフレ目標」の変種を提案している。中央銀行が名目変数(例えば、名目GDPの将来経路)に関して目標を設定し、その目標の達成に向けてコミットするというもの(名目GDP水準目標)だが、その枠組みの中で採り得る手段についてもいくつか論じられている。その中の一つが給付金の支給と組み合わされたマネタリーベースの「永続的な」拡大である(Woodford 2012)。

世界各国が長引く景気低迷に苦しめられている現在、押し入れの奥深くに閉じ込められたままになっている選択肢も含めてありとあらゆる可能性を俎上に乗せてみるには絶好の機会だろう。


以下は「ヘリコプターマネー」をテーマとした3名の経済学者の討論の模様を再現したものである。ライシュリンが質問し、それにターナーとウッドフォードが回答する質疑応答の形式をとっている。

<質問その1> ターナー卿に質問です。金融政策のオプション(手段)の一つとして「ヘリコプターマネー」が特に今現在の状況においてその適切さを増しているとお考えになる理由をご説明願えるでしょうか?

アデール・ターナー(以下、「ターナー卿」): 「ヘリコプターマネー」とは何か?という点から軽く触れさせていただきますと、私個人としては中央銀行が(新発国債を直接引き受けることで)財政赤字を直接賄ういわゆる「財政ファイナンス」の意味で使っています。「ヘリコプターマネー」だけが総需要(名目支出)を確実に刺激できる唯一の手段だと言えるような状況があるかもしれません。それに加えて、「ヘリコプターマネー」は現在各国の中央銀行が広く採用している非伝統的な金融政策と比べると将来的に金融システムの安定性を脅かす可能性も低いのではないかと考えます。

まず真っ先に問うておくべき質問があります。果たして今現在は総需要を刺激すべき状況にあるのかどうか?ということです。次の2つの条件のいずれかが満たされるようであればその答えは当然「イエス」ということになるでしょう。まず第1の条件は、総需要の増加が概して実質的な産出量(実質GDP)の増加というかたちをとって表れる可能性が高いこと。そして第2の条件は、(総需要が増加する結果として生じる)インフレ率の上昇それ自体が望ましい効果を持つと考えられることです。現在のところ先進国の中には以上の2つの条件が当てはまる国がいくつかあると考えられます。そのような国では金融危機の余波を受けて民間部門でデレバレッジ(債務の圧縮)が進められている最中であり、そのために景気に大きな下押し圧力がかかっています。その結果、名目GDP成長率も極めて低い状態にあります。一方で先の2つの条件が満たされないようであれば、「ヘリコプターマネー」は言うまでもなく名目GDPを刺激するような政策はいかなるものであれ試すべきではないということになるでしょう。

ここでは先の2つの条件が満たされており、それゆえ名目GDP成長率を高めることが望ましいとの前提で話を進めることにしましょう。しかし、ここに厄介な問題が控えています。「ヘリコプターマネー」以外の政策にはあまり効果が期待できなかったり好ましからぬ副作用が伴う可能性があるのです。金融政策は――伝統的な金融政策も非伝統的な金融政策もいずれも――「ひもを押している」かのような状況に置かれている可能性があります。民間部門がデレバレッジ(債務の圧縮)に奔走する「バランスシート不況」が続く中で政策金利はゼロ%にまで引き下げられることになりましたが、(銀行貸出をはじめとした)信用の供給や需要を十分に刺激することはできませんでした。量的緩和を通じて長期金利の低下を促しても同様に効果はあまり期待できないかもしれません。それに加えて、金利を長い期間にわたって極めて低い水準に抑えつけておくと投資家たちの利回り追求行動(search for yield)を後押しする格好となり――その過程では新たな金融商品の開発やキャリートレードが盛んに行われることでしょう――、その結果として将来的に金融システムの安定性を脅かす火種をまいてしまうことにもなりかねません。

金融政策に比べると通常の(国債を市中で発行して得られた資金を財源とする)財政政策(財政刺激策)の方がまだ効果が高いと言えるかもしれません。中央銀行がフォワードガイダンスに乗り出している(しばらくの期間にわたって金利を低い水準に据え置くことを約束している)状況では財政乗数は大きな値をとる可能性があります。しかしながら、政府債務残高が既に高い水準にあってなおも累増する勢いを見せているような状況では、政府債務の持続可能性に強い疑いが持たれ出し、それに伴って「リカードの中立命題」がその効果を露わにし始める可能性があります。減税が実施されても「将来的に増税が行われてその埋め合わせがなされるに違いない」と国民の多くが予想する(訳注;そして将来の増税に備えて貯蓄を増やす(消費を減らす))ようになる可能性があるのです。

こういった事情を踏まえると、「ヘリコプターマネー」も選択肢の一つとして考慮すべきだというのが私の考えです。前FRB議長であるベン・バーナンキも2003年に日本に対して「ヘリコプターマネー」の採用を勧めています。仮に日本が2003年の時点で「ヘリコプターマネー」の採用に乗り出していたとしたら、実質GDPや物価は今よりも高い水準にあり、政府債務残高の対GDP比も今よりも低い水準に抑えられていたことでしょう。


<質問その2> 次にウッドフォード教授に質問です。ターナー卿が提案している「ヘリコプターマネー」は経済にどのような効果を及ぼすと思われますか? 通常の量的緩和と比較して効果の面で違いはあるでしょうか? もう一つ質問です。ターナー卿が提案している「ヘリコプターマネー」とあなた自身が提案されている名目GDP水準目標との間にはどのような関係があると思われますか?

マイケル・ウッドフォード(以下、「ウッドフォード教授」): 理論的に考えますと、「ヘリプターマネー」も量的緩和もまったく同じ均衡に至る可能性があります。量的緩和では中央銀行が市中にある国債(既発国債)を購入することでマネタリーベースが増えることになるわけですが、ここでは一つの想定として一旦拡大されたマネタリーベースがその後もずっと(永続的に)そのままの状態に置かれることが公に宣言されるとしましょう。一方で、「ヘリコプターマネー」提案では国民に対する給付金の財源としてマネタリーベースが活用されることになるわけですが、こちらでもやはり一旦拡大されたマネタリーベースがその後もずっと(永続的に)そのままの状態に置かれることが公に宣言されると想定することにしましょう。さらには、どちらのケースでも将来にわたる政府支出の経路に違いはなく、中央銀行が手にするシニョリッジ(通貨発行益)は国庫に納付され(政府の税収となり)、市中にある国債の償還と政府支出を賄う上で必要なだけの課税が行われるとしましょう。こういった一連の仮定に加えて完全予見(perfect foresight)の想定を置くと、どちらのケースでもマネタリーベースの拡大規模が同じである限りは理論的にはまったく同じ均衡に至ることになります。また、予算に及ぼす効果の面でも両者の間で違いはありません。量的緩和の下では中央銀行は市中から国債を買い取ることになりますが、中央銀行が買い取った国債に対して支払われる金利はやがては国庫に納付される(財務省に払い戻される)ことになります。中央銀行と政府の予算に及ぼす効果ということに関して言うと中央銀行が国債を買い取ってはいない場合と何の変わりもなく、「ヘリコプターマネー」ではこの点がもっとはっきりしています。

しかしながら、実際問題としては二つの政策は異なる効果を生む可能性があります。政策の将来の成り行きについて二つの政策の間で国民が異なる認識を持つかもしれないからです。量的緩和のケースでは国民は一旦拡大されたマネタリーベースがその後もずっと(永続的に)そのままの状態に置かれるとは受け取らないかもしれません。2001年~2006年に日本で実施された量的緩和がまさにそうでしたし(訳注;マネタリーベースの拡大が永続的なものではなかった)、アメリカやイギリスの政策当局者は中央銀行のバランスシートを今後もずっと膨らんだままにしておくつもりはないと語っています。マネタリーベースの拡大が一時的なものに過ぎない(永続的なものではない)と国民に受け取られる場合には総需要が刺激されることはないと考えられます。一方で、「ヘリコプターマネー」のケースでは一旦拡大されたマネタリーベースをその後もずっとそのままにしておくとの宣言が信用される可能性は高いと言えるかもしれません。それに加えて、「ヘリコプターマネー」のケースでは国民の手に直接現金(給付金)が渡ることになります。量的緩和の場合だと支出を増やす余裕が生まれた事実に気付くために国民は将来の状況(異時点間の予算制約)にどのような変化が生じたかを事細かく検討する必要がありますが、「ヘリコプターマネー」の場合はそのような細かい検討をせずとも現金(給付金)を直接手にすることで国民は支出を増やす余裕が生まれた事実にすぐに気付く可能性があります。

というわけで、量的緩和と比べるとターナー卿の提案(「ヘリコプターマネー」)の方が効果がありそうだと個人的には判断するわけですが、「ヘリコプターマネー」と同様の効果を持つ政策は他にもあるのではないかと思います。それも「ヘリコプターマネー」と同じく将来を見通す能力の面で国民に多くを要求せずとも効果が期待できるものです。それは何かと言いますと、給付金の財源は通常のように国債を市中で発行して賄うわけですが、それと足並みを揃えるようにして中央銀行が名目GDP水準目標に乗り出せばよいのです。マネタリーベースの拡大規模(ないしはその将来経路)が「ヘリコプターマネー」のケースと同じであれば(そうなるように名目GDPの目標水準(目標経路)を定めれば)、完全予見の想定の下では両者はまったく同じ均衡に落ち着くことになるでしょう。また、「ヘリコプターマネー」のケースと同様に国民の手に直接現金(給付金)が渡ることになります。そのため将来の状況(異時点間の予算制約)にどのような変化が生じたかを細かく検討しなくとも国民は支出を増やす余裕が生まれた事実に容易に気付くかもしれません。つまりは、将来を見通す能力の面で国民に多くを要求せずとも景気を刺激する効果が期待されるわけです。流動性制約下にある国民がいる場合も同様に景気の刺激につながるでしょう。「ヘリコプターマネー」との違いと言えば、国民に給付金が支払われるプロセスに中央銀行が直接関与することはないというところです。それゆえ私のこの提案では金融政策と財政政策はこれまで通り分離されたままになります。


<質問その3> ターナー卿に質問です。ウッドフォード教授のお話によりますと、ヘリコプターマネーよりも望ましくて適当な政策があるということです。政府が国債を発行して給付金の財源を市中で調達すると同時に中央銀行が名目GDP水準目標に乗り出せばよいとのことですが、ウッドフォード教授のご意見に同意なさいますか?

ターナー卿: ウッドフォード教授がいみじくも指摘されたように、完全予見の想定が妥当するようであれば、ウッドフォード教授が提案する政策も私自身が提案する「ヘリコプターマネー」もまったく同じ均衡に辿り着くことでしょう。しかしながら、完全予見は常に成り立つわけではないかもしれません。「ヘリコプターマネー」では給付金の財源は中央銀行が発行する貨幣によって直接賄われており、その貨幣が国民の手元に直接渡ることになるわけですが、完全予見が成り立つようにするためにはそのような透明性の高い仕組みが必要となるかもしれません。

ウッドフォード教授の提案のポイントは次の2点にあると言えるでしょう。まず第1点目は、政府が財政赤字の拡大を許容して(減税ないしは政府支出の拡大を通じて)国民の手元に入るお金の量を増やす。そして第2点目は、中央銀行が名目GDP水準目標に乗り出すことを宣言し、名目GDPを目標水準(目標経路)に留めておく上で必要なだけの買いオペを行う(国債を市中から購入する)。おそらくは目標を達成する上ではマネタリーベースの永続的な拡大を伴うことでしょう。

名目GDP水準目標の達成に向けて取り組む過程で拡大されたマネタリーベースはその後もずっと(永続的に)そのままの状態に置かれる(マネタリーベースの拡大は永続的なものである)と国民から受け取られる場合、政府が財政赤字の拡大を許容したからといって将来の税負担が増えるわけではないと正しく認識される可能性があり、それゆえ国民も将来の税負担について心配することはなくなるかもしれません。言い換えると、財政刺激策の財源は結局のところは中央銀行による貨幣の永続的な拡大によって賄われているのだということが国民によって正しく理解される可能性もなくはありません。

つまりは、ウッドフォード教授の提案は実質的には財政ファイナンスだと言えるわけですが、「ヘリコプターマネー」ほどその点が明白ではないわけです(訳注;財政赤字の財源が貨幣の発行によって賄われている点が「ヘリコプターマネー」ほど明白ではない)。そしてそのために完全予見が成り立たない恐れがあり、財政赤字が拡大している(政府が国債の発行を増やしている)様子を見て国民が「将来の税負担が増えているのではないか?」と勘違いしてしまう可能性があるのです。そのような勘違いが起こる場合には名目GDP水準目標を達成するためにかなり大規模な買いオペを行う必要があるかもしれません。先にも触れましたが、かなり大規模な買いオペが必要となる場合には金融システムの安定性が脅かされる恐れがあります。

「ヘリコプターマネー」のような“明白なかたちの”財政ファイナンスにも問題はあるかもしれません。とりわけ個人的に重要だと思う問題は、「中央銀行の独立性」と抵触しないようにすることは可能なのかどうか? 財政ファイナンスの行き過ぎを阻止することは可能なのかどうか? というものです。そしてそれは可能だと考えます。


<質問その4> 「ヘリコプターマネー」は財政政策の一種だと考えられますが、そうだとすると一つの問題が持ち上がってくることになります。どの機関がその政策を受け持つべきか? という問題です。中央銀行でしょうか? 財務省でしょうか? それとも両者が共同で担当すべきでしょうか? この問題は「中央銀行の独立性」という原則を脅かす可能性があります。そこまでいかなくとも、政府(財務省)と中央銀行との関係を律しているルールの再考を迫る可能性があるとは言えるでしょう。ウッドフォード教授に質問です。金融政策と財政政策との垣根が曖昧になるとそれに伴ってモラル・ハザードの問題が引き起こされる可能性があるわけですが、そのような問題に対処するにはどうすればよいとお考えでしょうか?

ウッドフォード教授: 「ヘリコプターマネー」に関してはそのような問題が伴うかもしれませんが、私がつい先ほど語った提案はその問題を免れていると思います。私の提案の方が好ましいと考える理由もこの点にあります。私の提案では金融政策と財政政策が共同歩調をとる必要がありますが、両者がこれまで通り別々に分離した状態のままであってもそれは可能です。国民に給付金を支払い、国債を市中で発行してそのための資金を調達し、そして満期を迎えた国債を償還するために将来的に課税を行う。以上の任務は財政当局が単独で行うことが可能です。一方で、名目GDP水準目標を達成するために必要なだけの公開市場オペレーションを行い(あるいは名目GDPが目標を下回る場合は名目金利をゼロ%に据え置き)、資産の獲得(購入)と引き換えに負債(マネタリーベース)を発行し、シニョリッジをはじめとした収益を国庫に納付する。以上の任務は中央銀行が単独で行うことが可能です。望ましい均衡を実現するために両者が緊密に協力する必要があるからといってそこからただちに「金融政策が財政当局に乗っ取られてしまう」ということになるわけではありませんし、「モラル・ハザードが誘発されるのではないか?」と過敏になる必要もないと思われるのです。それにそもそもの話として、財政当局がどのように行動しようとも中央銀行が名目GDP水準目標の達成に向けて全身全霊を注げばそれで構わないのです。特にゼロ下限制約に直面している場合には財政当局の協力が得られれば成功の可能性も高まるとは思いますが――というのは、財政刺激策は予想への働きかけに頼らずともその効果を発揮するからです――、財政当局の協力が得られようと得られまいと中央銀行にとっては名目GDP水準目標の達成に向けて邁進することが賢明な策であることには変わりないでしょう。


<質問その5> ターナー卿に質問です。あなたが提案されている「ヘリコプターマネー」を実行に移した場合、それに伴って「中央銀行の独立性」が脅かされる恐れがあると懸念する声がありますが、そのような意見に対してどのようにお答えなさるでしょうか?

ターナー卿: 財政ファイナンスを選択肢の一つとして認めることはタブーを犯すことを意味しており、それには大きなリスクが伴うという意見については「まったくその通りだ」と私も同意します。しかしながら、そのようなリスクを回避する術はいくつかあるとも考えます。また、ウッドフォード教授のご意見に異を唱える格好になりますが、ウッドフォード教授が提案されている政策もやはり財政規律を損なう危険性を抱えているのではないかとも考えます。

現在最も求められている政策を実現するためには金融政策と財政政策が緊密に協力する必要があるという点についてはウッドフォード教授と私とで意見の違いはありません。ウッドフォード教授の提案に従いますと、財政当局はクラウディング・アウトの可能性を気にかけることなく積極果敢な財政政策に打って出ることが可能です――その結果、景気も刺激されることになるでしょう――。というのも、中央銀行が名目GDP水準目標の達成に向けて大量の国債を購入し、その後もずっと購入した国債を保有し続ける(一旦購入した国債を決して売らない)可能性が高いことがわかっているからです。しかしながら、まさにそれだからこそ財政規律が損なわれる危険性があるのです。中央銀行が名目GDP水準目標を達成する上で必要となる規模を上回るほどの過大な財政赤字が生み出される可能性も捨てきれないのです。

私が提案する「ヘリコプターマネー」も財政規律を損なう危険性はありますが、そのような危険性を回避する手立ての一つとして独立した中央銀行が前もって財政ファイナンスの規模(国債の直接引き受けを通じて賄う財政赤字の規模)を決めるようにすればいいでしょう。まずはじめに中央銀行が政策目標(インフレ目標あるいは名目GDP目標)を達成する上でどのくらいの規模であれば国債を直接引き受けても問題ないかを決める。そしてその後に財政当局が具体的な使途(減税に回すかそれとも政府支出に回すか)を決めるわけです。中央銀行が財政ファイナンスの規模を決める際はあくまで政府から独立した立場で検討を加え、通常の金融政策を決める際と同じ政策決定プロセス(政策委員会)を通じて判断が下されることになるでしょう。

編集後記: 本論説は2013年4月に経済政策研究センター(CEPR)とロンドン・ビジネス・スクールが共同で開催した討論会の模様を再現したものである。この討論会ではルクレツィア・ライシュリンが司会を務め、アデール・ターナーとマイケル・ウッドフォードが「ヘリコプターマネー」をテーマに討論を行った。


<参考文献>

●Bernanke, B (2003), “Some Thoughts on Monetary Policy in Japan”(邦訳 『リフレが正しい。~FRB議長ベン・バーナンキの言葉~』の第7章に収録), speech, Tokyo, May.
●Friedman, Milton (1948), “A Monetary and Fiscal Framework for Economic Stability”, The American Economic Review 38, June.
●Giannone, D, Lenza, M, Pill, H and Reichlin, L (2012), “The ECB and the interbank market”, Economic Journal.
●Khrishnamurthy A and Vissing-Jorgensen, A (2011), “The Effects of Quantitative Easing on Interest Rates(pdf)”, Brooking Papers of Economic Activity, Fall.
●Lenza, M, Pill, H and Reichlin L (2010), “Monetary policy in exceptional times”, Economic Policy 62, 295-339.
●Stein, AJ (2013), “Overheating in Credit Markets: Origins, Measurement, and Policy Responses”, speech at the research symposium sponsored by the Federal Reserve Bank of St Louis, St Louis, Missouri, 7 February.
●Turner, A (2013), “Debt, Money and Mephistopheles”, speech at Cass Business School, 6 February.
●Woodford, M (2012), “Methods of Policy Accommodation at the Interest-Rate Lower Bound(pdf)”, speech at Jackson Hole Symposium, 20 August.

Ricardo Caballero 「ヘリコプタードロップ ~Fedから財務省への贈り物~」(2010年8月30日)

Ricardo Caballero, “A helicopter drop for the Treasury”(VOX, August 30, 2010)

アメリカ経済は「流動性の罠」に陥りかけているかもしれない。中央銀行が財政刺激策――例えば、売上税の一時的な大幅減税――に必要な資金を直接賄う(新発国債を買い取る)ようにすれば、金融政策も無効ではなくなる可能性がある。「流動性の罠」から抜け出した後の問題に対処するために、「ヘリコプタードロップ」に返還条件を設けておく――完全雇用が達成されたら贈り物(「貨幣」)をFedに返還するようにあらかじめ取り決めておく――といいかもしれない。
 
景気の低迷が長引いていて、なかなか抜け出せそうにない。金融危機が経済システムに及ぼした大きなショックの余波が完全には消え去っていないことを考えるとやむを得ない面もあるが、景気がさらに落ち込むのを防ぐためにマクロ経済政策が果たすべき重要な役割はまだ残っている。とは言え、Fedはどうかというと、資源には事欠いていないが、有効な手段を欠いている。その一方で、財務省はどうかというと、有効な手段は持ち合わせているが、資源に事欠いている。Fedから財務省に資源を移転すればいいのではないかというのは一理ある言い分である。

しかしながら、事はそう簡単ではない。強欲な政府から「中央銀行の独立性」を勝ち取ることによって金融政策が改善されてきた過去数十年にわたる長い歴史があるからである。しかしながら、どんなシステムであれ、日々あれやこれやの問題が起こっても頼りになる土台として命脈を保つためには、免責条項を用意しておく必要がある。免責条項を発動するか否かについての(おそらくは最初にして)最終的な決定権は、Fedの議長が握るべきだろう。

免責条項は既に発動されていて量的緩和がその証拠かというと、それは違う。量的緩和の一環として国債(既発国債)が購入されると、政府の資金調達コスト(国債の利回り)や民間の資本コスト(長期資金を調達するコスト)がいくらか下がるのは確かである。しかしながら、それらは些末な効果でしかない。国債の残高は今もなお急速なペースで膨らんでいるし、消費需要が盛り上がらなければ資本コストが少しくらい下がっても大して助けにならないのだ。


公的な債務を増やさずに減税を実施する術

公的な債務を増やさずに拡張的な財政政策(例えば、売上税の一時的な大幅減税)を実施する術が必要とされているのだ。そのうちの一つが「ヘリコプタードロップ」である。Fedが財務省に「貨幣」という名の贈り物を捧げるのである。

そんなのは会計上のごまかしに過ぎないという批判があるかもしれない。政府と中央銀行のバランスシートを統合しても、債務が消えて無くなるわけではないというのだ。しかしながら、重要なポイントを見逃している。「流動性の罠」に陥ると、貨幣に対する需要が無限大の大きさになるのだ。「流動性の罠」に陥っている状況で、統合政府(政府+中央銀行)が抱える債務のうちで「貨幣」が占める割合が高まれば、一種の「フリーランチ」(ただ飯)が政府に転がり込むことになるのだ。

「流動性の罠」に陥っている最中であればそういう理屈も成り立つかもしれないが、「流動性の罠」から抜け出したらすぐにも手に負えなくなってしまうおそれがあるという批判があるかもしれない。危機から抜け出したらFedのバランスシートがすぐにも縮小に向かうような仕組みを設けておけば――Fedの内部でそのような仕組みについて既にあれこれ検討されている――、そのような懸念にも対処できるだろう。それに加えて、「ヘリコプタードロップ」に返還条件を設けておくという手もある。例えば、完全雇用が達成されたら贈り物(「貨幣」)をFedに返還するようにあらかじめ取り決めておくのだ。 

公的な債務の持続可能性という観点からすると、景気の低迷が続く中で財政赤字が膨らむというのが懸念すべきシナリオである。景気の低迷から抜け出したら新発国債はもう発行しないとあらかじめ取り決めておけば、悪夢のようなシナリオに陥らずに済む。さらには、景気の低迷から抜け出すまではFedが新発国債を買い取るようにすれば、財政政策に仲間入りするおかげで「流動性の罠」に陥りかかっていても効果を発揮するようになるのだ。

2014年9月30日火曜日

Stephen Grenville 「量的緩和、貨幣の増刷、ヘリコプターマネー、財政ファイナンス」(2013年2月24日)

Stephen Grenville, “Helicopter money”(VOX, February 24, 2013)


「財政ファイナンス」とは何なのだろうか? 本稿では、「貨幣の増刷」、「量的緩和」、「財政ファイナンス」の違いについて説明する。ターナー卿が提案する「財政ファイナンス」が抱える課題――民間の銀行のバランスシートに及ぼす歪み(大量の超過準備の発生)や「中央銀行の独立性」を脅かす可能性――についても触れる。

金融政策についての議論をいたずらに混乱させている2つの用語がある。「貨幣の増刷」と「ヘリコプターマネー」である(Sinn 2011)。


量的緩和≠貨幣の増刷

量的緩和を「貨幣の増刷」(輪転機を回してお金を刷ること)と同一視するのは間違っている。国民によって保有される現金の量は、現金に対する需要によって決まる。(イギリスの中央銀行である)イングランド銀行が量的緩和の一環として民間の銀行から債券を購入すると、その銀行がイングランド銀行に開設している預金口座に債券の購入代金が振り込まれる。つまりは、準備預金の量が増えるというかたちでマネタリーベースの量が増えるが、現金に対する需要は増えない。それゆえ、「貨幣を増刷する(お金を刷る)」必要はないのである。 

法律によって定められている額(所要準備額)を上回る準備預金を抱えることになった民間の銀行は、貸出を行ったり債券を購入したりして、手持ちの準備預金を減らそうと試みるかもしれない。しかしながら、個々の銀行がどんなことをしようとも、マネタリーベースの量は変わらないのだ。


量的緩和≠ヘリコプターマネー

中央銀行の総裁がへリコプターに乗って、地上で待ち構える国民に向かって空から大量のお金をばらまく。いわゆる「ヘリコプターマネー」というやつだが、量的緩和を「ヘリコプターマネー」とだぶらせるのは、「貨幣の増刷」と同一視する以上に誤解を招く間違いだ。政府であれば、できないことはない。国民に現金を配るか、もう少し現実的な策としては小切手を配布するという手がある――2009年にオーストラリア政府が「キャッシュ・スプラッシュ」(“cash splash”)と命名された小切手を多くの納税者に配布した例がある――。しかしながら、それは金融政策ではなくて財政政策だ。中央銀行は、国民に現金を配る権限を持ち合わせていないのだ(中央銀行に可能なのは、資産を交換することだけである。量的緩和がまさにそれにあたる)。国民に現金を配るためには、その他の財政政策と同様に、議会での予算編成プロセスを通じて承認を受ける必要がある。ヘリコプターからお金をばらまけるのは政府なのであり、政府がお金をばらまくのは財政政策なのである。

「ヘリコプターマネー」が総需要を刺激するのにどれくらい効果的かについては意見が割れている――どのような政策についても、意見が割れるものだが――。クラウディング・アウトがそれほど起きなかったり、リカードの中立命題が当てはまらないようなら――需給ギャップが存在していて、金融政策によって金利が低く抑えられているようなら、クラウディング・アウトもそれほど起こらないだろうし、リカードの中立命題も当てはまりそうにない――、「ヘリコプターマネー」が総需要を刺激する可能性は高いだろう。あるいは、財政赤字を埋め合わせるために低金利で借り入れをする(国債を発行する)ことができるようなら――今がまさにそのような状況である――、「ヘリコプターマネー」が総需要を刺激する可能性は高いだろう。突然の施し(現金)に恵まれた国民は、一部を貯金するかもしれないが、ほとんどを支出するだろう。総需要を刺激する上で量的緩和よりも「ヘリコプターマネー」の方が確実性が高い方法と言えそうである。


財政ファイナンス

財政赤字を賄うために国債を発行したら金利が上昇してしまうかもしれなかったり、国債に買い手がつかなかったりするおそれがあるようなら、中央銀行が財政赤字を賄うという手がある。中央銀行が新発国債を買い取って、政府が中央銀行に開設している預金口座(政府預金)に代金を振り込むのだ。政府が主導権を握る場合もあるかもしれないが、このような「財政ファイナンス」は量的緩和の一種だと言える。

「財政ファイナンス」のコストを負担することになるのは誰なのだろうか? 中央銀行に新発国債を買い取ってもらったおかげで増えた政府預金を原資として、政府が国民に小切手(「キャッシュ・スプラッシュ」)を配布したら、その小切手は民間の銀行に持ち込まれるだろう。国民が欲するだけの現金を既に手元に持っているようなら、小切手を換金してもそのまま預金口座に預け入れるだろう。最終的にどうなるかというと、国民が民間の銀行に預ける預金(民間の銀行にとっての債務)が増えて、民間の銀行が中央銀行に預ける預金(民間の銀行にとっての資産)が増えるだろう。すなわち、民間の銀行が「財政ファイナンス」のコストを負担することになるのだ。保有する準備預金の量が増えるというかたちで。

「財政ファイナンス」は公的な債務を増やさないかというと、そうじゃない。中央銀行が民間の銀行に対して負う債務(準備預金)が増えるからである。準備預金に対して市場金利と同じ水準の金利が支払われるようなら――大半の国でそうなっている――、財政赤字の調達コストが節約されることにもならない。中央銀行が準備預金に対して市場金利を下回る金利を支払うようなら、財政赤字の調達コストが節約されることになるが、民間の銀行に課税しているに等しい。

「財政ファイナンス」と通常の量的緩和とは違いもある。一つ目の違いは、通常の量的緩和であれば、タイミングなり金額なりについて中央銀行が単独で決めるが、「財政ファイナンス」であれば、タイミングなり金額なりについて中央銀行と政府が共同で決めるところである。そこで問題になるのが、「中央銀行の独立性」である。政府による乱費を防ぐためには、政府が財政赤字の補填を要求してきた時に中央銀行が「ノー」と言えることが肝心だが、「ノー」と言えなくなってしまうかもしれないのだ。二つ目は、いつ終わるかについてのマーケットの理解に違いがあるところである。通常の量的緩和については、いつかの時点で必ず終わるに違いないというのがマーケットの共通理解だが、「財政ファイナンス」については、いつ終わるかがはっきりしないのだ(民間の銀行が大量の超過準備の保有を強いられる状況が長続きしそうにないことだけは確かだが)。

アデール・ターナー卿がインフレ警戒論者と財政規律論者に批判を加えているが(Turner 2013)、もっともだ。貨幣と物価の関係について時代遅れの考えを引きずっているインフレ警戒論者も間違っているし、需給ギャップが存在しているのに財政刺激策の無効性や有害性を説く財政規律論者も間違っている。しかしながら、ターナー卿が提案している周到な「財政ファイナンス」案の是非を判断するには、その便益だけでなく、弊害――量的緩和ならびに「財政ファイナンス」が民間の銀行のバランスシートに及ぼす歪み(大量の超過準備の発生)や「中央銀行の独立性」を脅かす可能性――にも目を向ける必要があるのだ。 


<参考文献>


●Sinn, Hans-Werner (2011), “The threat to use the printing press”, VoxEU.org, 18 November.
●Turner, Adair (2013), “Debt, Money and Mephistopheles: How do we get out of this mess?”, speech, Cass Business School.

2014年9月25日木曜日

Barry Eichengreen&Peter Temin 「『金の足かせ』と『紙の足かせ』」(2010年7月30日)

Barry Eichengreen&Peter Temin, “Fetters of gold and paper”(VOX, July 30, 2010)

固定相場制――具体的には、①ユーロ、②ドルにペッグしている人民元――に端を発する緊張が世界経済を包んでいる。金本位制の経験を踏まえて言えることは、国際通貨制度というのは、為替レートを通じて多くの国々が結び付けられているシステムであり、どの国の政策も周囲に波及するということである。1930年代と同じように、経常収支の黒字を抱えている国が支出を増やそうとしないせいで、経常収支が赤字である国が景気の悪化を受け入れざるを得なくなっている。ケインズは、大恐慌の経験を踏まえて、慢性的に経常収支の黒字を抱える国に対して課税や制裁のような措置を講じる必要性を訴えた。大恐慌から60年と少々が経過しているが、ケインズが大恐慌の経験から導き出した教訓が忘れ去られてしまっているようだ。

「1930年代の教訓」をテーマにした言説が論壇を賑わせている――例えば、Mason&Mitchener (2010), Fishback (2010), Helbling (2009) を参照されたい――。「金融危機を拡散させる上で固定相場制が果たす役割」と「金本位制の経験から得られる教訓」の二点に焦点を絞って、我々もその輪に加わらせてもらうとしよう。

1930年代の世界的な経済危機においては、金本位制が重要な役割を演じた。そのことについては、我々のどちらもがそれぞれに一家言を持っている(Temin 1989, Eichengreen 1992)。当時の金本位制は、以下のような特徴を備えていた。金(ゴールド)が国境を越えて自由に移動。金と自国通貨の交換比率(平価)を固定していた国同士の為替レートが固定。国家間の調整を図る国際機関の不在。

以上のような特徴を備えていたがゆえに、経常収支が赤字だった国と黒字だった国との間に「非対称性」が持ち込まれた。金準備が減少していて平価を維持するのが困難な国(経常収支が赤字の国)は、ペナルティ(一種の罰)を受け入れざるを得なかった。その一方で、金準備を溜め込んだ国(経常収支が黒字の国)は、(金の代わりに他の資産に投資していたら得られたであろう金利収入を除くと)何のペナルティも被らなかったのである。金準備が減少していて経常収支が赤字の国は、平価の切り下げ(為替レートの減価)を選ばずに、通常はデフレ(国内物価の下落)というペナルティを受け入れたのである。

その結果として1920年代を通じてどんなことが起きたかというと、経常収支が赤字だった国から黒字だった国へと大量の金や外貨準備が移動した。経常収支が黒字だったアメリカやフランスは金準備が増えたからといって金融緩和を強要されなかった一方で、経常収支が赤字だったドイツやイギリスは金準備が減ったせいで金融政策を引き締めざるを得なかったのである。


イデオロギーとしての金本位制

金本位制は、通貨制度というだけではなかった。イデオロギーでもあったのだ。金本位制を維持することが繁栄を実現するための前提条件だと政策当局者によって信じ込まれていたのだ。それゆえ、産出量や雇用量を安定させることよりも、金本位制を維持することが優先された。金本位制を維持しさえすれば雇用もそのうち回復するに違いないというのがセントラルバンカーたちの考えで、何らかの措置を講じて雇用を増やそうと試みても失敗するに違いないと信じ込まれていた。しかしながら、金本位制を維持していたら起こるはずがないと思われていた出来事が1930年代の初頭に起こってしまった。産出量が落ち込んだのだ。物価が下落したのだ。銀行が閉鎖されて貯金が失われたのだ。

予想と現実の食い違いを前にして、どうにかして辻褄を合わせる必要が出てきた。起きるはずがない異常事態を慣れ親しんだ枠組みの中で解釈する必要に迫られたのである。「金本位心性」(gold-standard mentalité)に逆らった政策当局者に批判の矛先が向けられたのだ。FRBやイングランド銀行が「管理通貨」という誘惑に負けたせいだというのだ。金本位制のルールを守らずに、貨幣を濫発して、金の不胎化に乗り出したせいだというのだ。FRBやイングランド銀行が金本位制のルールを守っていたら、金融市場も自ずと安定を取り戻して、価格やコストの調整もスムーズに進んでいたに違いないというのだ。

しかしながら、デフレに晒されていた当時の状況においては、そのような批判は見当違いも甚だしかったのだ。

21世紀版の金本位制と言えば、ユーロと人民元(ドルにペッグしている人民元)ということになろう。金本位制と全く一緒とは言えないが、いくつか似た面があるのは確かである。


ユーロ:金本位制よりも厳しいコミットメントを伴う通貨制度

ユーロを導入するというのは、金本位制を採用するよりもずっと厳しいコミットメントを負うことを意味する。金本位制であれば、危機に陥った場合に投資家の怒りを買わずに離脱するのも可能だったが、ユーロを一旦導入してしまうと、そうはいかないのだ〔訳注1〕――ギリシャに対してユーロからの一時的な離脱を勧める提案(Feldstein 2010)もあるようだが、無理があるのだ――(Eichengreen 2007, Blejer&Levy-Yeyatia 2010)。

ユーロは、金本位制の後継というだけではなく、ブレトンウッズ体制の後継でもある。あえてこのことを指摘するのは、ブレトンウッズ体制が誕生するまでの交渉に重要な意味が控えているからである。その交渉に参加した中心人物の一人であるケインズは、戦間期の体験を通じて金本位制の有害な影響に気付いた。既にデフレが定着している中で、金準備が減少している国(経常収支の赤字国)でなおも金融政策が引き締められるのは、その国にとってだけでなく、周辺の国々にとっても有害であることを見抜いていたのだ。

戦後(第二次世界大戦後)に同じような事態に陥らないようにするためにケインズが練り上げた案(「清算同盟案」)では、経常収支の赤字国だけでなく黒字国も経常収支の不均衡を是正する責務を負う格好になっていた。しかしながら、イギリスとアメリカとの間で意見が対立したこともあって、ケインズの案は実現されなかった。問題は解決されずに棚上げというかたちになったわけだが、だからといって忘れてしまっていいわけでは勿論ない。


人民元:イデオロギーとしてのドルペッグ制

もう一つの重要な固定相場制である「ドルにペッグしている人民元」は、中国の開発戦略を支えるイデオロギーの中心的な要素の一つとして理解すべきだろう。人民元をドルにペッグしているのはなぜかというと、以下の3つの役割が託されているのだ。

  • 製造業の輸出を促進する
  • 海外からの直接投資を促進する
  • 国内企業の利益を蓄積して、それをインフラ投資に振り向ける

固定為替レートによって結び付けられていると、いずれか一方の側の政策が他方の側へも影響を及ぼすことになる。そのことについてはうっすらと気付かれてはいるが、何らかの手を打とうとする気はそんなにないようだ。1920年代とそっくりだ。例えば、2006年にIMF(国際通貨基金)が導入した多国間協議では、それぞれの国の政策が国境を越えて波及する問題に対処するのが狙いとして掲げられている。米中戦略・経済対話も毎年開催されている。IMFは、定期的に多国間サーベイランスを実施している。しかしながら、具体的に何らかの手が打たれたかというと、ほとんど実を結んでいないのだ。

経常収支が赤字である国に手を差し伸べよと言いたいわけではない。金本位制下のドイツにしても、ユーロ圏のギリシャにしても、今のアメリカにしても、予算制約を無視した結果なのだ。収入以上の暮らしをした(支出が収入を上回った)からこそ、財政収支も経常収支も赤字になって、海外から借り入れをしないといけなくなったのだ。 

しかしながら、経常収支が赤字の国だけではなく、コインのもう一方の側である黒字の国の政策も問題がある。1920年代~1930年代初頭にドイツをはじめとした中央ヨーロッパ諸国が陥った苦境は、アメリカとフランスによる「金の不胎化」によって大いに増幅された。アメリカとフランスが経常収支の黒字を計上したので、他の国々は経常収支の赤字を計上しなければならなかった。アメリカとフランスが支出を増やそうとしなかったので、他の国々は支出を切り詰めざるを得なかった。アメリカとフランスが緊急の資金援助を拒んだので、経常収支が赤字だった国で景気の悪化が加速した。その結果として、政治的に悲惨な事態が引き起こされたのだ。

似たような展開が進行中だ。経常収支の大幅な黒字を計上しているドイツが支出を増やすのに難色を示しているせいで、ドイツと貿易面で深くつながっているギリシャがデフレを選ぶしかない瀬戸際に追い込まれているのだ。資金繰りに苦しんでいるギリシャが対GDP比で10%にも上る支出の削減を短期間で成し遂げられるかどうかはわからない。現在のギリシャが抱えている問題は、1930年代初頭にドイツが抱えていた問題と似ている。賃金をはじめとしてコストの削減を試みたとしても、債務の負担がさらに重くなるだけに終わってしまうかもしれないのだ。


フーヴァー・モラトリアムの再現はあるか?

1931年にあのフーヴァー大統領〔アメリカ合衆国第31代大統領〕でさえもがドイツに対して債務の支払い猶予(モラトリアム)を認めざるを得なかったのもそのため〔訳注;コストの削減を試みたとしても債務の負担がさらに重くなるだけに終わるからこそ〕なのだ。「内的減価」〔訳注;デフレによって実質為替レートを減価させること〕――通貨の切り下げを実現するためにギリシャに残された最後の手段――には、債務の再編が伴う必要があるのだ。フーヴァー・モラトリアムを実現するためには、アメリカによる政策変更が必要だった。それと同じように、ギリシャの債務再編に漕ぎ着けるためには、EUとIMFが方向転換を図る必要があるだろう。

中国をはじめとした経常収支の黒字国が支出を増やさないだけでなく、ドルに対して自国通貨を切り上げるのを拒むようなら、アメリカが国内の雇用を増やすために打てる手は一つしか残されていない。輸出品の競争力を高めるしかない。アメリカ国内で完全雇用を実現するために、今後5年間で輸出量を倍に増やすというのがオバマ大統領が掲げている目標である。しかしながら、経常収支の黒字を抱えているアジア諸国が支出を増やすなり名目為替レートの増価を受け入れるなり高めのインフレ率を受け入れるなりしない限りは――言い換えると、実質為替レートがアメリカに有利になるように調整されない限りは――、輸出量を倍増するという目標を叶えるためには、アメリカ国内の(賃金をはじめとした)コストを削減するか、生産性を大幅に高めるしかない。その努力も水の泡に終わるようなら、保護主義へと舵が切られるだろう。


結論

国際通貨制度というのは、為替レートを通じて結び付けられているすべての国の行動如何でその運行がスムーズにいくかどうかが左右される「システム」である。経済収支が赤字の国の行動だけではなく、黒字の国の行動もシステム全体に影響を及ぼす。不均衡を是正する責任のすべてを経常収支が赤字の国だけに押し付けるわけにはいかないのだ。

ケインズが大恐慌の経験から導き出した教訓でもある。だからこそ、第二次世界大戦中に考案した「清算同盟案」で、慢性的に経常収支の黒字を抱える国に対して課税や制裁のような措置を講じる必要性を訴えたのだ。大恐慌から60年と少々が経過しているが、ケインズが大恐慌の経験から導き出した教訓が忘れ去られてしまっているようだ。



〔訳注1〕いずれかの国がユーロから一時的に離脱しようとしても、非常に手間のかかる交渉を経なければならず――ユーロから離脱するためには、EUから離脱する必要がある。EUから離脱するためには、全加盟国の承認が必要――、その間に金融危機が発生する可能性が高いという意味。


<参考文献>


●Blejer, Mario I and Eduardo Levy-Yeyati (2010), “Leaving the euro: What’s in the box?”, VoxEU.org, 21 July.
●Eichengreen, Barry (1992), Golden Fetters: The Gold Standard and the Great Depression, 1919-1939, Oxford University Press.
●Eichengreen, Barry (2007), “The euro: love it or leave it?”, VoxEU.org, 17 November.
●Fishback, Price (2010), “US monetary and fiscal policy in the 1930s – and now”, VoxEU.org, 30 April.
●Feldstein, Martin (2010), “Let Greece Take a Euro-Holiday”, Financial Times, 16 February, www.ft.com.
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●Temin, Peter (1989), Lessons from the Great Depression(邦訳 『大恐慌の教訓』), MIT Press.

2014年9月19日金曜日

Z. G. 「経済学者は世論に影響を及ぼせるか?」(2014年8月20日)

Z. G., “Economics for the masses”(Free exchange, August 20, 2014) 


堅物と思われていた経済学者たちが世間に顔を晒すようになっている。データジャーナリズムの隆盛も一因となって、「陰鬱な科学」の専門家たちが公共圏に進出してきているのだ。しかしながら、経済学者と世間とでは、その考えにしばしば大きなギャップがある。経済学者は、世人のハートを掴めるのだろうか? 世論を変えることができるのだろうか? それとも、世間に出回っている通念を正当化したり補強したりするために都合よく利用されるだけの存在に過ぎないのだろうか?

デューク大学に籍を置く二人の政治学者の共著論文(pdf)によると、経済学者は世論に影響を及ぼせるという。ただし、それもテクニカルな話題に限っての話だという。政治的に議論を呼びそうなホットな話題となると、経済学者は世論にそれほど影響を及ぼせないというのだ。この論文では、世間の人々が経済学者という専門家集団に対してどのようなイメージを抱いているかだけでなく、経済学者の間でコンセンサスが得られている問題――例えば、移民の受け入れだとか、金本位制への移行の是非だとか――について世間の人々がどのように考えているかが調査されている。さらには、「専門家のコンセンサス」の効果も探られている。世間の人々が「専門家のコンセンサス」を知ると自分の意見を変えるかどうかについてだけでなく、経済学者(という専門家集団)に対するイメージを見直すかどうかについても検証されているのだ。

その結果やいかに? まずは、悪い報せから取り上げるとしよう。経済学者の間でコンセンサスが得られている問題について意見を求めたところ、どの問題についても回答者の過半数――「わからない」と答えた人は除く――が経済学者と異なる意見を述べたという。さらには、経済政策が争点である場合に経済学者の意見を信頼すると答えたのは、回答者のうちのわずか59%。それも、その大半は「少しは信頼する」というに過ぎなかった。経済学者(という専門家集団)に対する不信感は、属性の如何を問わずどのグループにも広まっているが、その中でも経済学者(という専門家集団)を一番信頼していないのは、政治的に右寄りの意見の持ち主たちだったという。

しかしながら、良い報せもある。経済学者の間でのコンセンサス(「専門家のコンセンサス」)を知らされると、世間の人々はそれ(「専門家のコンセンサス」)に同調しがちになるというのだ。しかしながら、「専門家のコンセンサス」が持つ効果は、どんな問題について意見が問われるかによって違っている。 金本位制への移行の是非だったり今後の税収予測だったりのようなテクニカルな問題については、「専門家のコンセンサス」は世論を変える(世人の意見を変える)力を持っているが、中国との貿易問題だったり移民受け入れのメリットだったりのような政治的にホットな問題になると、「専門家のコンセンサス」が世論を変える可能性はずっと小さいという。そればかりではない。政治的にホットな問題について自分の意見が「専門家のコンセンサス」と食い違っているのを知ると、その人が経済学者に対して寄せる信頼の度合いが大きく低下する傾向にあったというのだ。その一方で、テクニカルな問題については、そのような結果は観察されなかった。テクニカルな問題について自分の意見と「専門家のコンセンサス」が食い違っているのを知っても、その人が経済学者に対して寄せる信頼の度合いは変わらない傾向にあったのである。政治的にホットでヒートアップしやすい問題については、経済学者は世間から都合よく利用されているだけなのかもしれない。世間の偏見にお墨付きを与えられるようなら意見を聞き入れてもらえるが、そうでなければ「信頼できない奴ら」という烙印を押されかねないのだ。

経済学者が公共政策に影響を及ぼす――望むらくは、公共政策を改善する――ためには、世論を納得させられるかどうかが肝心になってくる。どうすればいいだろう? どうすれば少しでもうまくいきそうだろうか? テクニカルな問題に絞って口を出すように自制するというのは得策でもないし、守れそうにもない。政治的にホットになりがちで、経済学者が有益なアドバイスを送れる問題というのは、それはもうたくさんあるからだ。しかしながら、政治的にホットな問題に口を出すにしても、テクニカルな面を強調して語るようにするといいかもしれない。例えば、「移民を受け入れよ!」と結論だけを述べるのではなく、移民を受け入れた場合に生じる便益の大きさを計測してその結果を伝えるようにしたら、世間から意見を聞き入れてもらえる可能性も高まるかもしれない。

Douglas Irwin 「大恐慌の原因はフランスにもあり?」(2010年9月20日)

Douglas Irwin, “Did France cause the Great Depression?”(VOX,  September 20, 2010)

経済学の学術的な研究の多くでは、1930年代に起きた大恐慌があんなにも深刻だった理由が金本位制に求められている。これまでの先行研究では、大恐慌の引き金となった要因としてアメリカによる金融引き締めに注目が寄せられてきたが、フランスが果たした役割に十分に注目が払われていない。フランスが保有していた金の量は、1926年の時点では世界全体の金準備の7%だったが、1932年の時点では27%にまで上昇したのである。1930年から1931年までの間に世界全体の物価水準は30%下落したが、そのうちのおよそ半分がフランス&アメリカの二カ国による金の溜め込みによって説明できる可能性があるのだ。

経済学の学術的な研究の多くでは、1930年代に起きた大恐慌(Great Depression)があんなにも長引いて深刻だった理由が金本位制に求められている。金本位制を採用していたせいで為替レートが固定されていたので、金融政策を使って危機に対処できなかったというのである(詳しくは、Temin (1989)、Eichengreen (1992)、Bernanke (1995) などを参照されたい)。

しかしながら、金本位制が世界中を巻き込むかたちで1929年から1933年までの間にデフレーションと景気後退を引き起こした理由について何もかもが解明され尽くしているかというと、そうではない。世界全体での金準備の量は1920年代も1930年代も着実に増え続けていたのである。そうだというのに、金本位制が自壊してあれほどまでの大激震が引き起こされたのはなぜなのだろうか?


大恐慌についての標準的な説明

これまでの先行研究では、中央銀行が採用した政策に着目して1930年代の大惨事の説明が試みられてきた。標準的な説明によると、1928年初頭にアメリカで金融政策が引き締められたのが大恐慌の引き金になったと見なされている(Friedman&Schwartz 1963, Hamilton 1987)。1928年初頭にFRBが金利を引き上げると、海外からアメリカへ金(ゴールド)が流入したが、FRBはそれにあわせて売りオペを行って金の流入を不胎化した。国内のマネタリーベースが増えないようにしたのである。そのせいで、金の流出に見舞われた国々も金融引き締めを余儀なくされた。かくしてデフレショックが発生し、その影響で通貨危機や銀行パニックが誘発されて物価の下方スパイラルに拍車がかかったのである。


新たな仮説

見過ごされがちな事実がある。フランスもアメリカとそっくりなことをしていたのである。実のところ、金準備を溜め込んだペースにしても、金を不胎化した度合いにしても、フランスはアメリカを凌駕していたのである(詳しくは、Johnson (1997) および Mouré (2002) を参照されたい)。1926年にフランが切り下げられたことも一因になって大量の金がフランスに流入したが、その結果としてフランス銀行が保有する金準備の量は急速な勢いで増え始めた。世界全体の金準備のうちどれくらいの割合をフランスが保有していたかというと、以下の図1に示されているように、1926年の時点では7%に過ぎなかったが、1932年になると27%にまで上昇したのである。
  


図1. 世界全体の金準備のうちどれくらいの割合をそれぞれの国が保有していたか:アメリカ(青)、フランス(赤)、イギリス(緑)


フランスとアメリカに金が集中した結果として、その他の国々は大きなデフレ圧力に晒された。1929年から1931年までの間にフランス&アメリカの二カ国を除く国々が手放した金の量は、世界全体の金準備の8%に相当した。1928年12月の時点でフランス&アメリカの二カ国を除く国々が保有していた金準備の15%が手放されたのである。しかしながら、フランスとアメリカが金の流入を不胎化しなかったら、問題にならなかっただろう。フランスとアメリカが金の流入を不胎化しなかったら、フランスとアメリカで金融政策が緩和されていた(マネタリーベースが増えていた)一方で、金が流出した国々では金融政策が引き締められていたはずである。すべての国が古典的な金本位制の「ゲームのルール」に従っていたらそうなっていたはずである。しかしながら、戦間期には「ゲームのルール」について明確な同意が得られていなかった。金が流入してきても金融政策が緩和されないように、フランスもアメリカも金の流入を不胎化していたのである。

正貨準備率の推移を辿った以下の図2を眺めると、不胎化の実態が浮き彫りになる。正貨準備率というのは、中央銀行の債務(銀行券発行残高+当座預金残高)に対する金準備の割合(=金準備÷マネタリーベース)を指している。フランスの正貨準備率の推移は、他の国と比べて際立っている。フランスの正貨準備率は、1928年12月の時点では40%だったが(法律で定められていた正貨準備率の下限は35%)、1932年12月の時点では80%近くに達したのだ。1928年から1932年までの間に金準備の量は160%も増えたのに、同じ期間にマネーサプライ(M2)はまったく増えなかった。フランスを指して「金の溜池(金の吸引機)」(“gold sink”)と呼ぶ声もあったというが、それももっともだ。 



図 2. 主要な中央銀行の正貨準備率(1928年~1932年)


フランス&アメリカによる金融政策は世界経済にどれくらいのデフレ圧力を及ぼしたか?

不胎化されたせいでマネタリーベースの拡大につながらなかった金を「余分な」金と呼ぶとすると、1928年を基準年として、それぞれの年に余分な金の量がどれくらいに上るかを計算することができる。ある年の金準備の量から、その年のマネタリーベースに1928年の時点の正貨準備率を掛けて得られる値〔訳注;正貨準備率を1928年の時点と同じ水準に維持するために必要な金準備の量〕を差し引けばいいのだ。その結果をまとめたのが以下の図3である。世界全体の金準備に対する割合として表わされている。

1930年の時点でフランス&アメリカの二カ国が保有していた金の量を合わせると、世界全体の金準備のおよそ60%にもなるが、同じ年(1930年)の「余分な」金の量はどれくらいかというと、両国を合わせると世界全体の金準備のおよそ11%に上る。1929年と1930年に関しては、金の流入を不胎化したことによって世界経済に対して及ぼしたデフレ圧力はフランスもアメリカも同等だったが、1931年と1932年に関しては、フランスの方がアメリカよりもずっと大きなデフレ圧力を世界経済に及ぼした。1928年から1932年までの期間をひっくるめると、フランスの方がアメリカよりも大きなデフレ圧力を世界経済に及ぼしたのだ。金の流入を不胎化せずに正貨準備率を1928年の時点と同じ水準に保つようにしていたとしたら、1928年から1932年までの間にフランスがマネタリーベースを拡大させるために使えていた金の量は世界全体の金準備の13.7%にあたるが、アメリカについてはその量は世界全体の金準備の11.7%にあたるのだ。



図 3. 余分な金の量(1929年~1932年)


物価に及ぼした影響

「硬貨がたんすの中にしまい込まれると、硬貨がこの世から消滅する場合と同じ効果が物価に対して及ぶ」。1752年にデイヴィッド・ヒュームが「貨幣について」(“Of Money”)と題されたエッセイで述べている言葉である。フランス&アメリカの二カ国が金を「たんすの中にしまい込んだ」せいで世界全体の物価水準にどんな効果が及んだのだろうか? 私なりに検証したところ(Irwin 2010)、世界全体の金準備が1%増えると、世界全体の物価水準が1.5%上昇する傾向にあったことが見出されている。1930年の時点でフランス&アメリカの二カ国が「たんすにしまい込んだ」金の量を合計すると世界全体の金準備の11%に上るわけだから、それに伴って世界全体の物価水準がおよそ16%下落した可能性があるわけだ。1930年から1931年までの間に世界全体の物価水準は30%下落したわけだが、そのうちのおよそ半分がフランス&アメリカによる金の溜め込みによって引き起こされたと結論付けることができるのだ(Sumner (1991) も異なる手法を使って同様の結論に達している)。

デフレスパイラルに陥ると、物価の下方スパイラルに拍車をかけるような他の要因も関与してくるというのは確かである。とりわけ重要なのは、アーヴィング・フィッシャー(Irving Fisher)が指摘したデット・デフレ(債務デフレ)のメカニズムである。デフレによって企業の破産が増えて、そのせいで銀行パニックが発生して貨幣乗数が低下した可能性がある。(預金の引き出しが増えたせいで)現金預金比率が上昇したからである。しかしながら、そういった現象は当初のデフレショックによって誘発されたのであり、1930年から1931年までの間に起きた物価下落のうち「説明されずにいる」残りの半分についても少なくともその一部はフランス&アメリカの政策が間接的に責任を負っていると言えるだろう。

まとめるとしよう。これまでの先行研究では、大恐慌の引き金となった要因として1928年初頭におけるアメリカの金融引き締めに注目が寄せられてきた。しかしながら、世界全体をデフレスパイラルに陥れる上でフランスが果たした役割にもこれまで以上にもっと注目が払われるべきなのだ。


<参考文献>


●Bernanke, Ben (1995), “The Macroeconomics of the Great Depression: A Comparative Approach(pdf)”, Journal of Money, Credit and Banking, 27:1-28.
●Eichengreen, Barry (1992), Golden Fetters: The Gold Standard and the Great Depression, 1919-1939, Oxford University Press.
●Friedman, Milton, and Anna J Schwartz (1963), A Monetary History of the US, 1867-1960, Princeton University Press.
●Hamilton, James (1987), “Monetary Factors in the Great Depression”, Journal of Monetary Economics, 19:145-169.
●Irwin, Douglas A (2010), “Did France Cause the Great Depression?”, NBER Working Paper 16350.
●Johnson, H Clark (1997), Gold, France, and the Great Depression, 1919-1932Yale University Press.
●Mouré, Kenneth (2002), The Gold Standard Illusion: France, the Bank of France, and the International Gold Standard, 1914-1939, Oxford University Press.
●Sumner, Scott (1991), “The Equilibrium Approach to Discretionary Monetary Policy under an International Gold Standard, 1926-1932”, The Manchester School of Economic & Social Studies, 59:378-94.
●Temin, Peter (1989), Lessons from the Great Depression(邦訳 『大恐慌の教訓』), MIT Press.