「ケインジアン」という言葉には一体どのような意味が込められているのだろうか? 経済学のその他の用語と同様に、「ケインジアン」という言葉も政争の具とされている感を強く受ける。そのために政策論争が不毛なものとなり、その結果として何百万もの雇用がいたずらに失われる羽目になっているのだ。
少しばかり私自身の個人的な経歴に触れさせてもらうが、1987年にイギリスの大蔵省で職を得た後、私は経済学を学ぶために一時的にプリンストン大学の門を叩いた。そこではロゴフ(Kenneth Rogoff)やキャンベル(John Campbell)から教えを受けたが、その後は再びイギリスに戻り、2008年に金融危機が勃発した際には内閣府で首相に経済政策に関してアドバイスを送る立場にあった。これまでの歩みを振り返ると、この間に自分自身のことを「ケインジアン」と考えたことが一度もなかったことに気付く。そもそも「ケインジアンかどうか?」と問うこと自体意味がなかったのだ。それはあたかも物理学者に対して「あなたはニュートン主義者ですか?」と問うようなものだったのだ。ケインズは偉大な存在であり(20世紀のイギリスを代表する最も偉大な人物の一人であることは間違いない)、彼の洞察を理解せずしてマクロ経済学を理解することはできなかったのである。しかしながら、そのような状況にも徐々に変化の波が押し寄せることになったのであった。
2008年に金融危機が勃発する以前の時期を振り返ると、イギリスの大蔵省ではマクロ経済を管理する術を巡って次のような見解が広く支持されていた。財政政策は確かに重要ではあるが、総需要を管理する術として利用するのは――実践上の理由からして――賢明ではない。総需要を管理する術としては財政政策よりも金融政策の方が優れている。というのも、金融政策の方が小回りが利き、透明性が高く、政治的な圧力によって歪みが生じる恐れが小さいからだ。このような見解に対して理論的な後ろ盾を与えたのがナイジェル・ローソン(Nigel Lawson)が1984年に行ったかの有名なメイズ講演である。当の私自身もこの見解を全面的に支持していた。
しかしながら、金融危機を経た2008年以降の世界では事情は少々複雑になっている。というわけで、ここで問うことにしよう。「ケインジアン」という言葉には一体どういった意味が込められているのだろうか? その候補としてはいくつか考えられるだろう。
定義<その1>
時計の針を1930年代まで戻すことにしよう。その当時ケインズはいわゆる「大蔵省見解」(‘Treasury View’)に明確に異を唱えた(「大蔵省見解」はしばしば「セイの法則」――供給はそれ自らの需要を生み出す――と同一視されることがあるが、そのような捉え方は幾分不公平ではある。ともあれ、「大蔵省見解」を巡る過去の論争の概要についてはQuiggin(2011)を参照されたい)。「大蔵省見解」によると、財政政策は「会計上の恒等式」の制約ゆえに総需要に影響を及ぼすことはできないとされる。政府が支出を増やすためには課税ないしは国債の発行(借り入れ)を通じて市中に出回っているお金を調達してこなければならず、政府が支出に回せるお金が増えると民間部門ではそれと同額だけ支出に回せるお金が減るというのである。さて、ここで「ケインジアン」の定義<その1>が得られることになる。「ケインジアン」というのは「大蔵省見解」――財政政策は「会計上の恒等式」の制約ゆえに総需要に影響を及ぼすことはできない――を受け入れない人々というわけだ。どうやらジョン・コクラン(John Cochrane)は「ケインジアン」をこのように定義付けているようだ(Cochrane 2009)。彼は次のように書いている。
まず第一に、お金が新たに発行されないとすれば、市中に出回っているお金をどこかから調達してこなければならない。政府があなたから1ドルを借り入れたとすれば、あなたの手を離れたその1ドルは消費に回されることもなく、企業に貸し出されることも(そしてその企業が設備投資を増やすことも)ない。つまりは、政府支出が増えた分だけ民間部門で支出が減らねばならないのだ。政府支出が増えたおかげで新たに雇用が生まれたとしても民間部門で支出が減るおかげで別のところで雇用が失われることになるのだ。財政刺激策を通じて道路を建設することは可能だが、その代わり民間部門で工場の建設が取り止められることになる。道路も工場もどちらもともに建設することはできないのだ。このようにして「クラウディング・アウト」が発生するのは会計上の必然的な結果に過ぎず、経済主体の行動についてどういった想定を置こうとも結論は左右されないのだ。
読者もよくご存知だとは思うが、コクランのこの主張をきっかけとして経済学ブログの世界でクルーグマン(Paul Krugman)やデロング(Brad Delong)らを中心として激しい論争が巻き起こることになった。例えば、サイモン・レン-ルイス(Simon Wren-Lewis)はコクランに対して「学部レベルの間違いを犯している」と手厳しい批判を加えている(Wren-Lewis 2012a)。デロングらが指摘しているように、その後コクランは当初の意見を幾分か引っ込めたようである(Cochrane 2012, Delong 2012)。アメリカでの学者間での論争はともあれ、私自身は定義<その1>に照らす限りでは――「大蔵省見解」に与しないという意味で――紛れもなく「ケインジアン」である。しかしながら、この意味では誰もが皆――現在のイギリス大蔵省を含めて――「ケインジアン」ということになるだろう。「財政政策は定義上(「会計上の恒等式」の制約ゆえに)総需要に影響を及ぼすことはできない」と本気で信じている人は現在では誰一人として――誇張でも何でもなく本当に誰一人として――いないのだ。
定義<その2>
もう少しもっともらしくて標準的な用法にも沿った「ケインジアン」の定義は次のようになるだろう。財政政策は(理論上の話にとどまらず)「実証的にも」(実際にも)総需要にかなり大きな影響を及ぼすと信じる人々、それが「ケインジアン」だというものである(定義<その2>)。それとは対照的な立場に立つのが「リカードの等価定理」(‘Ricardian equivalence’)を信奉する人々である。「リカードの等価定理」によると、政府支出や政府の借り入れに変化が生じても民間部門においてその変化を打ち消すような行動が引き起こされ、その結果総需要はほとんどないしはまったく影響を受けないとされる。比較的最近になって提唱され出した「拡張的な財政緊縮」(‘expansionary fiscal contraction’)と呼ばれる考えはもっと先鋭的な立場である。「拡張的な財政緊縮」の立場に立つ論者によると、(財政再建に向けた)財政緊縮策は為替レートの減価や民間部門における信頼感の改善を通じて総需要の拡大および経済成長の加速をもたらし得るとされる。この見解を流布する上で特に強い影響を持ったのが2009年に発表されたアレシナ&アルダーニャ論文(Alesina and Ardagna 2009)であり、(あくまでも些細で一時的なものだとは思うが)その影響はイギリス大蔵省にも及んでいる。例えば2010年の緊急予算には次のような記述が見られる。
財政再建に向けた財政緊縮策は民間部門の行動に変化を促す可能性があるが、民間部門におけるそのような行動の変化は総需要を刺激し、経済パフォーマンスの改善を後押しする方向に作用する可能性がある。そういったポジティブな効果は財政緊縮に伴って直接的に生じるネガティブな効果を上回ることもあり得る。
私が知る限りではイギリス大蔵省がこのような見解を表明した機会はこれ一度きりのようだ。それも頷けるところである。というのも、現実の証拠は「拡張的な財政緊縮」論が説くところとは正反対の結果を指し示しているからだ。アレシナ&アルダーニャ論文に対してはこれまでに多くの学者から疑問が呈されており、その後のIMF(国際通貨基金)の研究によってその結論が否定されてもいる。さらに重要なことには、「拡張的な財政緊縮」論を裏付けるようなエピソードを各国中探してもそういった事実はほとんど見当たらないのである。「拡張的な財政緊縮」論の妥当性に関する現在の通念はIMFがまとめている通りだと言っていいだろう。IMFは2010年10月の段階で既にこう結論付けている(詳しくはこちら(pdf)を参照されたい)。
財政再建は短期的には経済成長の減速をもたらす傾向にある。今回新たなデータを用いて検証したところ、GDP比で1%に相当する規模の財政緊縮(財政赤字の縮小)はそれ以降の2年の間に生産量(実質GDP)をおよそ0.5%だけ落ち込ませ、失業率を3分の1(0.333…)%だけ引き上げる傾向にあるとの結果が得られた。
その後、IMFはどちらかというとこの結論を強調する姿勢を見せている。例えば、IMFのチーフエコノミストであるオリビエ・ブランシャール(Olivier Blanchard)はつい最近次のように語っている。
「短期的に見ると財政再建は総需要の足かせとなることは疑いない。ということはつまり経済成長の足かせともなるということだ。」(Blanchard 2012)
定義<その2>に照らす限りでは――財政政策は実際にも総需要に影響を及ぼすという見解を支持するという意味で――私自身はやはり「ケインジアン」である。しかしながら、この意味ではIMFの専務理事やチーフエコノミストも同じく「ケインジアン」である。それだけにとどまらない。イギリス大蔵省やイングランド銀行、イギリス予算責任局も「ケインジアン」に括られる。これらいずれの機関のマクロ計量モデルにも財政乗数が組み込まれているし、これらの機関で働く上級職員の中で財政再建に向けたこれまでの取り組みが実際問題としてイギリス経済の成長を鈍化させる効果を持ったことを否定する者はおそらくいないだろう。例えば、2011年11月に開催された(イングランド銀行の)金融政策決定会合の議事要旨(pdf)には次のような文言が見られる。
昨年1年間を通じてGDPの伸びは弱々しいものだったが、その理由は家計の実質所得の落ち込みや資金の借り入れが困難な状況が続いていること、そして長引く財政再建の影響に求められると思われる。
定義<その3>
定義<その1>と定義<その2>に照らす限りでは私は間違いなく「ケインジアン」だと言えるわけだが、しかしそれと同時に真面目に取り合うべき人々のあまりにも多くもまた「ケインジアン」ということになってしまうだろう。目下の政策論争の場で「ケインジアン」とそれ以外を区別するために用いられている定義はもう少し狭く限定されたものであり、これまでの2つの定義と比べるとずっと「政治的」な色合いが強いものだと言えるかもしれない。その定義というのは次のようなものだ。「今現在のイギリス経済(あるいアメリカ経済)が置かれている状況を踏まえると、財政再建のペースを遅らせることが好ましい」。そう考えるのが「ケインジアン」だというのである(定義<その3>)。しかしながら、個人的にはこの定義は色々と問題を抱えていると思う。そう考える理由は二つある。まず一つ目の理由は、「ケインジアン」という言葉が何らかの意味を備えるべきだとしたら、特定の時期に特定の国で議論の対象となっている特定の政策についての立ち場を指し示すための言葉として用いられるのではなく、もっと普遍的な意義を持った言葉であるべきだと思われるのだ。独自の哲学というか理論的な見解――少なくとも実証的な証拠を解釈する仕方――を指し示すための言葉であるべきなのだ。
二つ目の理由はもっと重要である。「拡張的な財政緊縮」論の妥当性には今や疑問符が付いているわけだが、そうだとすると「財政再建のペースを遅らせるべきだ」と語る陣営と「そのような決定(財政再建のペースを遅らせること)は大きな危険を伴う過ちと言わざるを得ない」と語る陣営との間の争点は財政再建のペースを遅らせることで経済に好ましい効果(訳注;財政再建のペースが遅らされることで財政緊縮策を原因とした景気の減速が和らげられる)が生じるかどうかという点にはないということになる(両陣営ともに好ましい効果が生じるという点に異論はない)。真の争点は財政再建のペースが遅らされることでマーケットが政府に対する「信頼」を失い、その結果として長期金利が跳ね上がるリスクがあるかどうか、そして長期金利が急騰した場合に経済に及ぶ損害は財政再建のペースを遅らせることに伴う好ましい効果を凌駕する可能性があるかどうかという点にあるのだ。
(財政再建のペースを遅らせることで)長期金利が跳ね上がるリスクはかなり誇張されており、財政再建のペースを遅らせた結果としてどのような事態が生じ得るかについて綿密な検討が加えられている様子はあまり見受けられないように個人的には感じるわけだが(この点について詳しくはPortes(2011a)およびPortes(2011b)を参照されたい)、果たしてどちらの陣営が正しいのかという話は少なくともここでの文脈ではどうでもいいことなのだ。両陣営の間で繰り広げられている論争にケインジアンかどうかという区別はまったく関係ないという点をこそ指摘したいのだ。マーケット全体が合理性を欠いた振る舞いを見せる可能性にどう取り組んだらよいか、格付け機関の役割についてどう考えるべきか、複数均衡の問題にどう対処したらよいか等々ここには多くの問題が控えているわけだが、こういった一連の問題についてどちらか一方の立場を表明したからといって「私はケインジアンだ」「お前はケインジアンではない」といったように截然と区別されるわけではないのである。
最後になるが、かつてイギリスの大蔵省に勤めていた際に学んだ経験との絡みで一点だけ指摘しておこう。かつての大蔵省でもそうだったのだが、総需要が極めて低調である際には財政政策ではなく金融政策(金融緩和)で対応するのが望ましいといった見解は今でも広く支持されている。この話題については経済学ブログの世界でも盛んに議論の対象となっている(とっかかりとしてはEconomist(2012)をご覧になられるといいだろう)。この話題に関する私の基本的な姿勢は正直言って変わった。過去20年間にわたって大蔵省を支配していた見解――総需要を管理する上で財政政策が果たすべき役割はない――には最早与してはいないのだ(とは言え、真っ先に財政政策に手を付けるべきだとまでは考えていない)。この点についてはサイモン・レン-ルイス(Wren-Lewis 2012b)が優れた要約(特に最後から2番目のパラグラフ)を行っているのでそちらもあわせてご覧になられたい。
総需要を管理する上では(財政政策よりも)金融政策の方が適しているという見解自体もそもそもは理論的な裏付けがあったわけではなく一種のプラグマティズム(pragmatism)にその根拠を持っていたわけだが、この話題に関して私が基本的な姿勢を変えた理由もそれと同様の事情からである。実際問題として総需要を刺激する上で金融政策単独で十分なのだとしたら、イギリス経済は今のような状況――失業率が自然失業率の推計を大きく上回っており、近い将来にこの状態が改善される見込みが薄い状況――にはそもそも置かれてはいないはずである。別のところでも触れたが(Portes 2012)、今のこのような状況(ひいては今のような状況をもたらしている総需要管理政策)は政策当局者の納得を得られるような代物では到底ないのだ。
私が姿勢を変えたのはイデオロギー上の理由からではない。現実の世界およびマクロ経済学はこれまでに想定していた以上にずっと複雑なものだという事実を真摯に受け止めた結果としてそうなったのだ。どうやらブランシャールも私と同じ立場を共有しているようだ。彼は次のように語っている(Blanchard 2011)。
金融危機後の世界はまったく新しい世界である。政策決定者の目の前に広がる光景はこれまでとはガラリと変わっている。まずはこの現実を受け入れねばならない。・・・(中略)・・・マクロ経済政策(とりわけ財政政策と金融政策)が追い求めるべき目標の数は一つではなく複数存在している。そしてその複数ある目標を達成するために使用し得る手段も複数存在しているのだ。
マクロ経済政策のあるべき姿を探る上ではプラグマティックな観点に立って何事も疑ってかかる姿勢を忘れないこと――そして現実の証拠の裏付けを徹底して追い求めること――。それこそが私の理想とする態度である。ケインズが今も生きていたとしたらおそらく彼も私に同意してくれるに違いない。
<参考文献>
●Alesina, Alberto F and Silvia Ardagna (2009), “Large Changes in Fiscal Policy: Taxes Versus Spending”, NBER Working Paper No. 15438, October.
●Blanchard, O (2011), “The future of macroeconomic policy”, blogpost, March.
●Blanchard, O (2012), “Driving the Global Economy with the brakes on”, blogpost, January.
●Cochrane, J (2009), “Fiscal Stimulus, Fiscal Inflation, or Fiscal Fallacies?”, University of Chicago webpage, version 2.5, 27 February.
●Cochrane, J (2012), “Stimulus and etiquette”, blogpost, January.
●Delong, B (2012), “John Cochrane says John Cochrane used to be a bullshit artist”, blogpost, January.
●Economist (2012), “The zero lower bound in our minds”, 7 January.
●Guajardo, J, D Leigh, and A Pescatori (2011), “Expansionary Austerity: New International Evidence”, IMF Working Paper 11/158, Research Department, International Monetary Fund.
●HM Treasury (2010), “Emergency Budget”.
●Lawson, N (1984), Mais Lecture.
●Leigh, D, P Devries, C Freedman, J Guajardo, D Laxton, and A Pescatori (2010), “Will it hurt? Macroeconomic effects of fiscal consolidation(pdf)”, World Economic Outlook, October, International Monetary Fund.
●Monetary Policy Committee (2011), Minutes(pdf), Bank of England.
●Portes, J (2011a) “The Coalition’s Confidence Trick”, New Statesman, August.
●Portes, J (2011b), “Against Austerity”, Spectator, October.
●Portes, J (2012), “The largest and longest unemployment gap since World War 2”, blogpost, January.
●Quiggin, J (2011), “Blogging the Zombies: Expansionary Austerity – Birth”, blogpost, November.
●Wren-Lewis, S (2012a), “Mistakes and ideology in macroeconomics”, blogpost, 10 January.
●Wren-Lewis, S (2012b), “The return of Schools-of-thought macro”, blogpost, 27 January.