Chris Dillow, "Two justices"(Stumbling and Mumbling, May 03, 2011)
オサマ・ビン・ラディンが殺害されたが、「正義が成し遂げられた」(“justice has been done”)と言ってしまっていいのだろうか?(こちらとこちらとこちらを参照) この問題について掘り下げて考えると、ちょっとしたパラドックスが持ち上がってくる。
大まかではあるが、「正義」についての立場は、「プロセスとしての正義」と「結果としての正義」の二つのタイプに分類することができる。「プロセスとしての正義」という観点からすると、正義は成し遂げられなかったことになろう。なぜなら、ビン・ラディンは、公正な(just)裁判を経た末に命を奪われたわけではないからである(原注1)。しかしながら、「結果としての正義」という観点からすると、正義は成し遂げられたと言えるのかもしれない。犯した罪の重さゆえに死に値する人物がいるとするなら、ビン・ラディンもまさしくそのうちの一人だからである(原注2)。
ここからが本題である。経済問題が争点になる時には、左派(リベラル派)は「結果としての正義」を重視しがちな一方で、右派(保守派)は「プロセスとしての正義」を重視しがちである。左派の多く――全員とは言わない――は、経済面での格差がどのようなプロセスを経て生じたかにかかわらず、格差の大きさを問題にする傾向にある。これは、結果に照らして正義を判断する立場だ。その一方で、右派の多くは、プロセスに照らして正義を判断する立場に立つ。ロバート・ノージックの有名な格言――「公正な手続きを経て生起した結果は、どれもこれも公正である」(“whatever arises by just means is itself just.”)――に要約されているように。ハイエクも以下のように述べている。
「市場メカニズムを通じて一人ひとりに割り振られる便益(benefits)と負担(burdens)が誰かに操作されているのだとしたら、非常に不公正なものと見做されねばならないだろう。しかしながら、実際のところはそうはなっていない。市場メカニズムを通じて一人ひとりに割り振られる便益と負担は、そうなるように誰かが意図したわけではない。最終的な着地点が誰にも予見できないプロセスの結果なのである」(Law, Legislation and Liberty vol II, p. 64)経済問題に関しては、右派は「プロセスとしての正義」の立場に立つ一方で、左派は「結果としての正義」の立場に立つ。そのことを踏まえると、以下のような予想が成り立ちそうだ。ビン・ラディンの殺害に対して、右派は危惧の念を抱いていて、左派はあっけらかんとしている。ビン・ラディンは、適正な手続き(due process)を経ることなく殺害されたが、殺害という結果は「結果としての正義」に適っているからである。
予想と違った反応になっているのは、なぜなのだろうか? 経済問題を論じる時と犯罪絡みの問題を論じる時とでは、同じ「正義」という言葉を使っていても異なる意味が込められている、というのが考え得る理由の一つである(それはなぜなのか、という別の疑問が生じてくることになる)。別の可能性としては、正義についての我々の直観が混乱しているにすぎないのかもしれない。あるいは、ビン・ラディンの殺害に関しては、正義はそもそも争点になっていないのかもしれない。
(原注1) ここで私は、ビン・ラディンの殺害が暗殺であったのか、それとも通常の軍事行動の中での殺害であったのか、という問題-この違いは重要であると考える人もいることだろう-は無視していることを注意しておく。
(原注2) 罪の重さゆえに死に値する人物がいると考えながら、例えばプロセスが不公平(unfair)であることを理由に死刑(あるいは殺害)に反対することも首尾一貫した立場として成り立ち得る。