「名目金利には「ゼロ下限制約」("zero lower bound")が存在する」と経済学者が発言しているのを耳にしたことがある人もおそらくいることだろう。「名目金利には「ゼロ下限制約」が存在する」というのは、言い換えれば、名目金利がゼロ%以下の水準に低下することはありそうもない、ということである。確かにいくつかの市場金利が現実にマイナスを記録したエピソードを―遠い過去からだけではなく、つい最近からも―見つけ出すことはできるものの、市場金利がマイナスを記録した事例というのは非常に限られている。このエントリーで私は次の2点を説明しようと思う。第1に「なぜ原則的には名目金利はマイナスになり得るのか?」、第2に「それにもかかわらず、なぜ名目金利が実際にマイナスを記録することは稀であるのか?」を説明しようと思うのである。金融市場は一般的にプラスの名目金利の下で機能するようデザインされており、それゆえ、もし名目金利がマイナスになったとすれば金融市場に重大な混乱が生じることになるかもしれない。政策当局者は、非伝統的なツールを用いて金融緩和に乗り出そうとする時でさえも、名目金利がマイナスになることで生じるかもしれない金融市場の混乱を避けようとして短期金利をゼロ%以上の水準に保とうとする傾向がある。政策当局者によるこの政策選択こそが「ゼロ下限制約」が存在する原因となっているのである。
「ゼロ下限制約」の存在についてのお決まりのお話は、現金の名目金利(現金を保有することから得られる名目金利)は常にゼロ%である、との観察からはじめられる。1ドル紙幣を手元に保有し続けていれば、明日も1ドルは1ドルのままであり、1週間後も1年後も変わらず1ドルは1ドルのままである。一方で、1ドルを貯蓄に回してその時の名目金利(年率)がマイナス2%であったとすれば、今日貯蓄した1ドルのうち1年後に手元に戻ってくるのはわずか98セントだけである。現金をそのまま手元に保有しておくという選択肢は万人に開かれているわけだから、名目金利がマイナスであるような資産に現金をすすんで投資しようと考える人は誰一人としていないことだろう。
しかしながら、このお決まりのお話はまだ途中であってここでおしまいというわけではない。大量の現金を(盗難されないように)自ら管理・監視したり、金額の大きい取引を現金だけを用いて行うことは、コスト(あるいは手間)のかかる行いである。一方で、現金を当座預金口座(checking account)に預けることで得られる安全性や便利さは、現金だけを用いて取引する―家賃や住宅ローン、公共料金を支払う等―ことに伴うリスクや苦労を想像すればよく理解できることだろう。現金を預金として預け入れることで享受できるその安全性や便利さを思えば、預金金利がマイナスであったり、あるいは預金口座の管理費を課せられたりしたとしても―管理費を課せられるということは実質的には名目(預金)金利がマイナスであることと同じである―、それでも多くの人々は喜んで現金を預金口座に預けることだろう。
大規模な機関投資家に関しても事情は同じである。機関投資家らは、個人が預金口座に現金を預け入れるのとまったく同じように、「レポ」(買い戻し条件付きの債券取引)市場で資金を貸し付けたり、財務省短期証券(Treasury bills;Tビル)を購入したりするなど多様な方法で短期投資を行っている。現金と比較してこういった短期投資がもたらす安全性や便利さのことを思えば、大規模な投資家にとっては金利(レポ金利やTビルの利回り等)がマイナスであったとしても依然としてレポやTビル等といった対象は魅力的な投資先であり続けることだろう。実際にもいくつかのレポ金利は2003年中(この点についてはニューヨーク連銀によるこの調査(pdf)を参照せよ)やつい最近も(この点についてはブルームバーグ参照)マイナスを記録したことがあるし、Tビルの流通市場(secondary market)でもつい最近利回りがわずかではあるもののマイナスを記録している(この点についてはビジネスウィーク参照)。
言い換えれば、市場(名目)金利は、多くの人々が大挙して現金を退蔵しようとする動きを引き起こすことなく、ある程度であればゼロ%以下の水準になり得るわけである。にもかからわず、(大規模資産購入(LSAP)のような)非伝統的なツールを用いて金融緩和に臨む時でさえ、中央銀行は一般的には短期金利をプラスの水準に保とうと試みることになる。
例えば、現在FRBは民間の銀行がFRBの口座に預け入れている準備預金に対して0.25%の金利(IOR)を支払っている。プラスの準備預金金利が支払われるために、民間の銀行は(インターバンク市場やレポ市場といった)各種市場を通じて資金を借り入れるインセンティブを持つことになり(訳注;借り入れた資金を準備預金として預け入れれば準備預金金利の支払いを受けられるため)、その結果として(訳注;資金の借入需要がある程度保たれるために)大抵の期間を通じて市場金利はプラスの水準に保たれることになると期待される。9月に開催された連邦公開市場委員会(FOMC)では準備預金金利を引き下げるべきかどうかを巡って議論がなされたが、実際に準備預金金利が引き下げられることはなかった。準備預金金利を引き下げれば短期市場金利には下押し圧力がかかり、場合によっては短期金利がゼロ%以下の水準にまで低下することもあり得るかもしれないが、当時の会合の議事録には次のような記載が見られる。「多くの参加者は、準備預金金利を引き下げることでマネー・マーケット(短期金融市場)や信用仲介に対してコストのかかる混乱がもたらされる危険性があり、その(混乱の)効果がどれほどの規模のものになるかは予測困難である、との懸念を表明した。」(“many participants voiced concerns that reducing the IOR rate risked costly disruptions to money markets and to the intermediation of credit, and that the magnitude of such effects would be difficult to predict.”)
同様にイングランド銀行の金融政策委員会(MPC)でも9月に開催された会合(pdf)で政策金利(official Bank Rate)を0.5%以下の水準にまで引き下げるべきかどうかを巡って議論されたが、結局のところは政策金利が0.5%以下の水準にまで引き下げられることはなかった。かつてイングランド銀行の金融政策委員会の場(pdf)では「金利が極めて低い水準に保たれる状況が長引くことになればマネー・マーケットの機能が阻害されることになるだろう」(“a sustained period of very low interest rates would impair the functioning of money markets.”)との懸念が表明されている。
アメリカの金融市場において(名目金利がマイナスになることで)生じ得る混乱の例を以下にいくつか挙げることにしよう。
〇マネー・マーケット・ミューチュアル・ファンド(MMMF): マネー・マーケット・ファンドは投資家に対してマイナスの金利を支払う-直接的にマイナス金利を課すか、あるいは取引に手数料を課すことを通じて間接的にマイナス金利を課すか-ことが困難であるようなルールの下で機能している。MMF市場で金利(MMF利回り)がゼロ%近辺あるいはマイナスになったとすれば、おそらく取引の多くが停止されることになり、その結果借り手に対する信用の供与に混乱が生じる可能性がある。
〇国債の入札:現在のところ、アメリカの新発(新規に発行される)国債の入札では、入札参加者がマイナス金利での応札を行うことは認められていない。もし市場金利(国債の流通利回り)がマイナスになれば、新発国債はゼロ金利で発行される-その時の市場価格以下の価格で発行される-ことになり、もしその時需要(応札)が供給(発行予定額)を上回ることになれば応札に対する割り当て(rationing)が生じることになるだろう。そのような割り当て-つい最近の入札でも生じることになった(pdf)が-の発生は、入札参加者に対して、実際に自らが望む以上の金額で応札するインセンティブをもたらすことになり(訳注;割り当ての可能性を考慮して、つまりは、自らの応札が完全には満たされない可能性を考慮して、多めに応札しておこうと考えるため)、結果的にさらなる割り当てを生じさせることになってしまうだろう。入札ごとにどの程度の割り当てが生じるかが予測できなければ、投資家の中には望み以上のあるいは望み以下の債券を保有する者も現れることになり、そのためマーケットのボラティリティが高まることになってしまうだろう。
〇フェデラル・ファンド市場:準備預金金利が引き下げられることになればフェデラル・ファンド市場-民間銀行やその他の機関がオーバーナイト(翌日物)の資金を貸し借りする市場-にも影響が生じることだろう。準備預金金利が低下すれば、民間の銀行がフェデラル・ファンド市場で資金を借り入れるインセンティブが低下することになり、その結果フェデラル・ファンド市場での取引は減少することになるだろう。フェデラル・ファンド市場での取引が減少することになれば、市場金利(FF金利)は特殊な要因(idiosyncratic factors)に影響されがちとなり、それゆえFF金利は足許の市場の状況(訳注;資金調達の条件が緩和的か引き締め的か)を示す指標としてはそれほど信頼の置けるものではなくなってしまう(足許の市場の状況を示す指標としての信頼性が低下することになる)だろう。こうしてFF金利と足許の市場の状況との結びつきが弱まることになれば、FOMCが決定する金融政策はその大部分がFF金利に対するターゲットを設定するというかたちをとっているために、FOMCはマーケットとの間で(政策意図を巡って)コミュニケーションを図る上で困難を抱えることになってしまうかもしれない。
以上の例は、金融市場の既存の制度的枠組みの多くは金利がゼロ%近辺あるいはマイナスになることを想定した上でデザインされてはいないことを示している。原則としては、こういった制度的枠組み-ミューチュアル・ファンド市場や国債の入札制度等を律するルール-を変更することは可能である。例えば、2009年に国債取引の決済(settlement)に対してフェイルチャージ("fails charge")慣行が導入されることになったが(この点についてはニューヨーク連銀によるこの調査(pdf)を参照せよ)、この慣行は金利が極めて低い水準の下であっても市場がうまく機能することを可能にする制度変更の一つの例である(2012年2月にモーゲージ関連の市場でもフェイルチャージの導入が予定(pdf)されている)。しかしながら、実際のところは、そういった制度変更を実現するにはかなりの時間を要する可能性があり、また、万一ある市場において(マイナス金利下でも機能するような方向に)制度変更がなされたとしても単に混乱が発生する場所が別の市場に移るだけということになるかもしれない。
金利が極めて低い水準の下での取引は限られた経験であるために、ゼロ%近辺あるいはマイナスの金利に対して金融市場がどういった反応を見せることになりそうかをそれなりの確度をもって予測することは困難である。もし先に触れたいくつかの混乱が重大なものであると判明すれば、短期金利をさらに引き下げることは資金調達の条件を緩和するのではなくむしろ引き締める効果を持つことになるかもしれず、それゆえ反対に景気回復の妨げとなってしまう可能性がある。そのような結果を避けるために、政策当局者は市場金利をプラスの水準に保つように政策を選択する傾向にある。言い換えれば、マイナスの名目金利が金融市場に混乱を招いてしまう可能性があるために、政策当局者が名目金利の引き下げを通じて経済活動を刺激し得る能力(程度)に制限が課されることになっているわけである。この制限こそが名目金利に「ゼロ下限制約」が存在する原因となっているのである。
おことわり
本ブログで表明される見解はあくまでも著者の個人的な立場からなされるものであり、著者がニューヨーク連銀あるいは連邦準備制度内で占める地位を必ずしも反映するものではない。なお、文中における誤りや脱漏の責任はすべて著者本人にある。