2011年11月18日金曜日

Todd Keister 「名目金利に『ゼロ下限制約』が存在するのはなぜ?」(2011年11月16日)

Todd Keister, “Why Is There a “Zero Lower Bound” on Interest Rates?Liberty Street Economics, November 16, 2011)


経済学者が「名目金利のゼロ下限制約(“zero lower bound”)」について語るのを耳にしたことがある人もいるだろう。「ゼロ下限制約」というのは、名目金利がゼロ%を下回りそうにないという意味である。名目金利がゼロ%を下回ってマイナスになった例もあるにはあるが――遠い昔においてだけではなく、つい最近も――、あくまでも孤立した現象でしかない。このエントリーでは、名目金利は理論的にはマイナスになり得るが、実際にマイナスになることが稀なのはなぜなのかについて説明しようと思う。金融市場は、名目金利がプラスになることを前提として成り立っている。それゆえ、名目金利がマイナスになってしまうと、金融市場で重大な混乱が起きかねない。そうならないようにするために、非伝統的なツールを使って金融緩和を試みる時でさえも、中央銀行は短期金利をゼロ%を上回る水準に保とうとするのである。中央銀行による意図的な行為の帰結として「ゼロ下限制約」が生じるのだ。

「ゼロ下限制約」についての定番の説明では、現金の名目金利は常にゼロ%であるという事実から説き起こされる。1ドル紙幣を手元に持ち続けていたら、その1ドルは明日も1ドルのままであり、1週間後も1年後も相変わらず1ドルのままである。その一方で、1ドルを貯蓄してその金利(年利)がマイナス2%だったとしたら、1年後に手元に戻ってくるのは98セントだけである。誰でも現金をそのまま手元に持っておくことができるのだから、現金を手放して金利がマイナスであるような資産に投資しようとする人なんて一人もいないというのである。

しかしながら、話はこれでおしまいではない。大量の現金を管理したり、金額の大きい取引を現金だけを使って行うのは、手間がかかる。その一方で、現金を預金口座に預けたら、あらゆる取引――家賃、住宅ローン、公共料金等々の支払い――を現金だけで済ませようとすると付き纏うリスクも面倒も避けることができる。その安全性や利便性を考えたら、預金金利がマイナスだったり、預金口座の管理費を課せられたりしたとしても、多くの人は喜んで現金を預金口座に預けるだろう。

大金を扱う機関投資家にしても事情は同じである。彼らは、個人が現金を預金口座に預けるのとまったく同じように、「レポ」(買い戻し条件付きの債券取引)市場で資金(現金)を貸し付けたり、財務省短期証券(Treasury bills;Tビル)を買ったりするなどして色んなかたちで短期投資を行っている。短期投資の安全性や利便性を考えると、金利がマイナスであったとしても、依然として魅力的な投資先であり続けるだろう。実際にもいくつかのレポ金利がマイナスになったことがある。2003年(pdf)だけでなく、つい最近もだ。これまたつい最近だが、Tビルの利回りも若干ではあるがマイナスを記録しているのだ。

言い換えれば、名目金利は、現金への逃避を誘発することなしに、ゼロ%をいくらか下回ることができるのだ。しかしながら、大規模資産購入プログラム(LSAP)のような非伝統的なツールを使って金融緩和を試みる時でさえ、中央銀行は短期金利をプラスの水準に保とうとするのである。

例えば、民間の銀行はFedの口座に準備預金を預けているが、その金利(IOR)は現時点で0.25%である。準備預金を預けたらプラスの金利を払ってもらえるので、民間の銀行はインターバンク市場とかレポ市場とかで資金を調達してきて(借り入れてきて)準備預金として預けようとする。民間の銀行が資金を借りようとするので、インターバンク市場とかレポ市場とかの金利もプラスの水準に保たれることになるのだ。(2011年)9月に開催された連邦公開市場委員会(FOMC)で、準備預金に対して支払われる金利を引き下げるべきかどうかが議論の対象になったが、結局のところは引き下げられなかった。準備預金に対して支払われる金利が引き下げられたら、短期金利に下押し圧力がかかって、場合によってはゼロ%を下回るかもしれない。9月に開催されたFOMCの議事録に目をやると、以下のように記されている。「準備預金に対して支払われる金利が引き下げられたら、マネー・マーケット(短期金融市場)や信用の仲介に望ましからぬ混乱が生じるおそれがあり、その効果がどれくらいの大きさになるかを予測するのは困難であると懸念する声が多くの出席者の間から上がった」。

イングランド銀行はどうかというと、9月に開催された金融政策委員会(pdf)で政策金利を0.5%以下の水準に引き下げるべきかどうかが議論の対象になったが、結局のところは見送られた。3月に開催された金融政策委員会(pdf)では、「金利が極めて低い今のような状況が長引くようだと、マネー・マーケットの機能が阻害されるおそれがある」との懸念が表明されている。

名目金利がマイナスになったとしたら、金融市場にどんな混乱が生じるおそれがあるのだろうか? アメリカの金融市場を対象にして、考え得るケースをいくつか挙げてみるとしよう。

  • マネー・マーケット・ミューチュアル・ファンド(MMMF):マネー・マーケット・ファンドが投資家にマイナスの金利を払ったり〔訳注;元本割れを起こす、という意味〕、手数料を課したりするのは、法律的に難しい。運用利回りがゼロ%近辺あるいはマイナスになったとしたら、ファンドの運用が停止される結果として短期の資金調達に混乱が生じるおそれがある。
  • 国債の入札:アメリカの新発国債の入札では、マイナス金利を意味するような応札を行う(額面を上回る価格を提示する)ことが認められていない。そのため、国債の流通利回りがマイナスになるようなら(既発国債が流通市場で額面を上回る価格で取引されるようなら)、ゼロ金利を意味する価格(額面と同額)で新発国債を発行する――すなわち、その時の市場価格を下回る価格で発行する――しかなくなって、応札総額が発行額を上回るかもしれない。つい先日の入札でも応札総額が発行額を上回った(pdf)が、応札総額が発行額を上回るようだと、入札参加者たちは、落札できない可能性を考慮して、手に入れたいと思っているよりも余分に注文を出そうとするだろう。そうなると、応札総額と発行額の差がさらに広がることになるだろう。その結果として、望んでいた以上に国債を手に入れた投資家も出てくれば、望んでいたほどには国債を手に入れられなかった投資家も出てきたりして、マーケットのボラティリティ(金利の変動)が高まるおそれがある。
  • フェデラル・ファンド市場:準備預金に対して支払われる金利が引き下げられたら、民間の銀行やその他の機関がオーバーナイト(翌日物)の資金を貸し借りするフェデラル・ファンド市場にも影響が生じるだろう。準備預金に対して支払われる金利が引き下げられたら、民間の銀行がフェデラル・ファンド市場で資金を借りようとするインセンティブが弱まって、その結果としてフェデラル・ファンド市場での取引が減る可能性が高い。フェデラル・ファンド市場での取引が減るようなら、FF金利(フェデラル・ファンド金利)が特異な要因によって影響されやすくなって、金融市場の逼迫度を測る指標として頼りにならなくなってしまうだろう。そうなると、FF金利に誘導目標を定めるのを金融政策の手段の一つにしているFedとしては、政策意図を伝えるのが難しくなってしまうかもしれない。

すなわち、金融市場を支えている仕組みは、金利がゼロ%近辺あるいはマイナスになることを想定して設計されていないのだ。ミューチュアル・ファンドについての規制だとか国債の入札制度だとかの仕組みを変更するのは、原則的には可能である。例えば、2009年に国債の決済(settlement)に「フェイルチャージ」が導入されたが――詳しくはこちら(pdf)を参照されたい――、金利が極めて低くても市場が支障なく機能するのを可能にする変更の一例だと言える(モーゲージ関連の市場(pdf)でも、2012年2月にフェイルチャージの導入が予定されている)。しかしながら、そのような方向に仕組みを変更しようとしても実現するまでにかなりの時間を要する可能性があるし、別の市場が混乱に晒されてしまう羽目になる可能性もある。

金利が今のように極めて低い状況というのは不慣れであるため、金融市場がどんな反応を見せそうかをそれなりの確度をもって予測するのは困難である。先に触れたような混乱が重大な影響を及ぼすようなら、短期金利をさらに引き下げると、金融市場の逼迫が緩んで資金の調達が容易になるのではなく、むしろ金融市場がさらに逼迫して景気回復を妨げてしまう可能性がある。そうならないようにするために、中央銀行は短期金利をプラスの水準に保とうとするのだ。言い換えると、名目金利がマイナスになると金融市場で混乱が起こるおそれがあるせいで、金利を引き下げて景気を刺激する中央銀行の能力に制限が課されているのだ。「ゼロ下限制約」という名の制限が。

2011年11月4日金曜日

Douglas Irwin 「1937~38年の景気停滞をもたらした原因は何か?」(2011年9月11日)

Douglas Irwin, “What caused the recession of 1937-38?VOX, September 11, 2011) 
 
このたびの金融危機が1929年~1932年の大恐慌(Great Depression)を再演するような事態に陥らずに済んだのは、政策当局による迅速な政策対応のおかげだった。しかしながら、1937~38年の景気停滞を再演しないでいられるだろうか? 世界経済の足取りが再び鈍化している中、新たな切迫感を持って1937~38年の景気停滞について分析を加え、しばしば見過ごされがちな政策決定――1936年12月にアメリカ財務省が行った決定(金の流入をすべて不胎化する決定)――について説明する

1937~38年の景気停滞は、時に「大恐慌の最中における景気停滞」(“the recession within the Depression”)と呼ばれることがある。1937~38年というのは、大恐慌からの回復が未だ不完全で、失業率が依然として非常に高い水準にとどまっていた時期だった。1937~38年の景気停滞は、それまで景気回復基調にあった経済に対して破滅的なほどの規模で冷や水を浴びせた。実質GDPが11%ポイント低下し、鉱工業生産が32%ポイントも低下したのである。1937~38年の景気停滞は、20世紀中にアメリカが経験した景気停滞のうちで(1929~32年、1920~21年に次ぐ)3番目に深刻な停滞だったのだ。

1937~38年の景気停滞の原因としてしばしば指摘されるのが、財政・金融政策の引き締めである。クリスティーナ・ローマー(Romer 2009)をはじめとした幾人かの論者によると、1937~38年の景気停滞は、景気が依然として弱々しい中で早まったかたちで景気刺激策から手を引くことの危険性を例証しており、目下の状況にとっても大きな関わりを持つ歴史上のエピソードだという。

しかしながら、1937~38年の景気停滞をめぐっては、ちょっとしたミステリーが存在する。景気停滞の原因として頻繁に指摘される2つの政策決定――財政赤字の縮小(財政緊縮)&預金準備率をそれまでの2倍の水準に引き上げたFedの決定――は、実際に観察された規模の産出量の落ち込みをもたらすだけの力があったようには見えないのである。例えば、クリスティーナ・ローマー(Romer 1992)も述べているように、産出量の落ち込みの多くの原因を財政政策の変化に求めるのは「非常に困難であろう」〔原注;カリー・ブラウン(E. Cary Brown)の有名な論文(Brown 1956)では、産出量の落ち込みのうちで財政政策の変化によって説明できる割合は、4分の1以下であると結論付けられている〕。預金準備率をそれまでの2倍の水準に引き上げたFedの決定にしても、これまでの研究の大半――最新の研究としては、Calomiris et al. (2011) を参照せよ――では、民間の銀行に対してそれほどインパクトを持たなかったと結論付けられている。既に大量の超過準備が積み上がっていたこともあって、預金準備率が引き上げられた後に準備預金を積み上げようとする動きは大して見られなかったのである。

「財政緊縮」と「預金準備率の引き上げ」という2つの要因によっては1937~38年の景気停滞を完全には説明できないとなると、他にどんな候補があるのだろうか? 1937~38年に深刻な貨幣的なショック(monetary shock)が生じたことは疑いない。以下の図1に示されているように、1934年から1936年にかけてマネーサプライ(M2)は年率およそ12%の伸びでコンスタントに増えていたが、1937年初頭に入ると突然その伸びがストップして、同年の後半には伸び率がマイナスにさえなっているのである。しかしながら、この貨幣的なショックは、預金準備率の引き上げに起因するものではなく、しばしば見過ごされがちな財務省による1936年12月の決定――金の流入をすべて不胎化する決定――にその原因があったのである。



図1 アメリカにおけるマネーサプライ(M2):1934年~39年


1934年1月にドルと金(ゴールド)の交換レートが再び金1オンス=35ドルに固定されて、アメリカは実質的に金本位制に復帰。マネタリーベースの85%に相当する量の金準備が保有されることになり、金準備の増減に伴ってマネタリーベースも増減することになった。1930年代中頃のアメリカには大量の金が流入して、それに伴って金融政策が緩和されることになった。金の流入に伴う金融緩和は、この間の景気回復を支えた主要な要因だった――この点については、Romer (1992) を参照せよ――。

しかしながら、ルーズベルト政権がインフレの加速を懸念し始めると、財務省は1936年12月に金の流入をすべて不胎化する決定を下した。金が流入してきてもFedが供給する準備預金が自動的に増えないように――準備預金が増えると、やがてはマネタリーベースやマネーサプライが増える――、新たに流入してきた金を休眠勘定(inactive account)に繰り入れるようにしたのである〔訳注;金不胎化政策の具体的な手続きについては、Irwin (2011) の pp. 254 を参照されたい〕。その結果として、金の流入にもかかわらずマネタリーベースは増加せずに一定の水準に保たれることになったのである。

1937年の春になると景気が鈍化し始め、秋には景気停滞入りしていることが一目瞭然になった。1938年2月に財務省は誤りを認めて、金を不胎化する政策を取り止めることを決定した。1938年4月に財務省は出口戦略に乗り出した。「休眠中」の金準備の非不胎化に着手した――「休眠勘定」に繰り入れられていた金をFedが保有する金準備に振り替えて、Fedに準備預金を拡大させた――のである。そして1938年6月に景気回復が始動することになったのである。

金不胎化政策がマネタリーベースに及ぼした効果は、以下の図2に示されている。図2によると、1934年から1936年にかけて、金準備もマネタリーベースも一貫して増えていることがわかる。しかしながら、1937年に入ると、金準備はそれまで同様に増え続けているものの、金不胎化政策のためにマネタリーベースは一定の水準に保たれることになった。不胎化されなかった(Non-sterilized)金準備〔訳注;マネタリーベースの裏付けとして利用できた金準備〕は、1938年4月に財務省が金準備の非不胎化に乗り出すまで一定の水準に保たれることになったのである。



図2 アメリカにおけるマネタリーべースと金準備:1934年~39年


「金不胎化政策」と「預金準備率の引き上げ」がマネーサプライに及ぼした効果は、次のように分解することができるだろう。すなわち、金不胎化政策はマネタリーベースに影響を及ぼした一方で、預金準備率の引き上げは貨幣乗数に影響を及ぼしたと考えられるのだ。私が執筆したばかりの論文によれば(Irwin 2011)、1937年にマネーサプライの伸びに生じた急ブレーキを説明する上では、貨幣乗数の変化よりも、マネタリーベースの変化の方がずっと重要であったことが見出されている〔訳注;つまりは、1937年にマネーサプライの伸びに急ブレーキをかけた要因としては、(マネタリーベースに影響を及ぼした)金不胎化政策の方が、(貨幣乗数に影響を及ぼした)預金準備率の引き上げよりも重要だったということ〕。

1937年の後半から1938年の中頃にかけて、アメリカへの金の流入がストップ(停止)したことについても簡単に説明しておこう。その原因の一部は、ルーズベルト政権が景気後退に対処するために再度――大恐慌から抜け出すために1933年の初頭に試みられたのと同じように――ドルの切り下げに乗り出すのではないかと投資家らが恐れを抱いたためだった――当時の金融市場では、「一度だけ僕をだましたのなら君の恥、二度も僕をだましたのなら僕の恥」(“Fool me once, shame on you, fool me twice, shame on me”)という文句が広まっていた――。しかしながら、1938年9月にヒットラーがチェコスロバキアに領土の割譲を要求した――いわゆる「ミュンヘン危機」――のがきっかけで、ヨーロッパで戦争が勃発するのではないかとの恐れが広がるようになると、再びアメリカへ向けて金が大量に流入し始めたのである。

過去の過ちを避けるつもりであれば、過去の過ちの中身について正確に評価することが重要だ。1937~38年の景気停滞があそこまで深刻になった原因は、「財政緊縮」や「預金準備率の引き上げ」のせいではなかった。その原因は、財務省が決定した「金不胎化政策」にあったのだ。金の不胎化に伴って生じた「貨幣的なショック」は、決して穏やかなものではなかった。金不胎化政策の結果として、マネタリーベースの伸び率がゼロ%にまで落ち込んだのである。Fedに対して大恐慌下における稚拙な政策運営を叱責する非難の矢が向けられることがあるが、1937~38年の景気停滞下において生じた貨幣的なショックに関しては、その責任は財務省にあったのである。

1937~38年の景気停滞はとうの昔の出来事ではあるが、今もなお教訓を投げ掛けている。景気回復の足取りが鈍いにもかかわらず、インフレーション――今と同じように、1937~38年当時もインフレ率は極めて低かった――に対する予防的な金融引き締めに乗り出せば、その結果として破滅的な景気停滞がもたらされかねないのだ。


<参考文献>


●Brown, E Cary (1956), “Fiscal Policy in the 'Thirties: A Reappraisal”, American Economic Review, 46: 857-879.
●Calomiris, Charles W, Joseph Mason, and David Wheelock (2011), “Did Doubling Reserve Requirements Cause the Recession of 1937-1938? A Microeconomic Approach”, NBER Working Paper No. 16688, January.
●Irwin, Douglas A (2011), “Gold Sterilization and Recession of 1937-38(pdf)”, Working paper.
●Romer, Christina D (1992), “What Ended the Great Depression?(pdf)”, Journal of Economic History,52:757-784.
●Romer, Christina D (2009), “The Lessons of 1937”, The Economist, 18 June.

2011年3月6日日曜日

Anna Maria Mayda&Kevin H. O’Rourke 「大きな政府とグローバリゼーション:政府と市場の補完的な関係」(2007年11月12日)

Anna Maria Mayda&Kevin H. O’Rourke, “Big governments and globalisation are complementary”(VOX, November 12, 2007)

自由な貿易は勝者と敗者を生むが、勝者は敗者が被る痛み以上の得をする。政府は、勝者と敗者がお互いの得失を分かち合う仕組みを前もって用意して、自由貿易に対する世間の支持を醸成するべきである。政府がそのような仕組みを用意したら、自由貿易に対する世間の支持が高まることを示す証拠があるのだ
 
経済学者は、2世紀以上の長きにわたって、自由貿易の利点を説いて回っている。しかしながら、世間の大多数は、今もなお強硬な保護主義者のままである。1995年~1997年の期間に47カ国の計6万人以上を対象にして、自由貿易と輸入規制の強化のどちらを望むかが問われたが、回答者のうちの約60%が輸入規制の強化を望んだのである〔原注1〕。中国やインドが将来的に経済大国の地位に上り詰めるようなら、ヨーロッパやアメリカで保護主義を支持する声が今以上にさらに広がることだろう。自由貿易に対する世間の恐れを和らげるために、政府に打てる手というのはあるのだろうか? 保護主義を求める声をはねつけるか、保護主義を求める声に屈するかのどちらかを選ぶしかないのだろうか? 

貿易が自由化されると経済的なリスク(economic insecurity)が高まるというのが、グローバリゼーションに対して世間が抱く主たる不満の一つである。海外の生産者(あるいは、海外の労働者)との競争にさらされることによって、国内の労働者が職を失うリスクが高まって、将来の生活を予測するのが難しくなるわけである。グローバリゼーションが経済的なリスクを高めるようなら、政府が国内の労働者のために保険を提供するというのがあり得る対応の一つだろう。予想外の失職に備えて公的なセーフティーネットを整えるわけである。ダニ・ロドリック(Dani Rodrik)の有名な論文〔原注2〕でも述べられているように、他国に対して開かれている国ほど(貿易の自由度が高い国ほど)、政府の規模が大きい傾向にあるのもそのためなのだ。政府と市場は、代替的な関係にあるのではなく、補完的な関係にあるのだ。自由貿易に対する世間の支持を醸成する上で、政府のプログラムはきわめて重要な役割を果たすのだ。

過去の歴史に目をやると、政府と市場が補完的な関係にあることを裏付ける顕著な証拠を見出すことができる。現代の福祉国家の礎が築かれたのは、グローバリゼーションの第一回目の絶頂期――第一次世界大戦に先立つ数十年の期間――だったのだ。当時のヨーロッパでは、社会主義的な政党が一連の社会保険プログラム――年金、傷害保険、失業保険――の導入と引き換えに、貿易の自由化に賛成した。社会保険プログラムの導入という面で改革が最も進められたのは、他国に対して最も開かれた国だった。グローバリゼーションの第一回目の絶頂期は、底辺への競争(race to the bottom)が繰り広げられた時期ではなく、ヨーロッパにおいて自由貿易と社会政策が手を取り合って互いを高め合った時期だったのだ。最近の研究が明らかにしているように、政府が自由貿易に対する世間の支持を醸成できたのは、社会保険プログラムが導入されたからこそなのだ〔原注3〕。別の例も挙げると、市場の開放と国内経済の安定のどちらにも目配りした第2次世界大戦後のブレトンウッズ・ガット体制は、戦間期における自給自足経済への傾斜が悲惨な結果を招いたことへの反省と、市場の開放が景気の回復を支えたという認識の上に築かれたと見なすことができるが、経済的なリスクの高まりに備えるために政府が積極的に介入しなければ、市場を開放しても長続きしないだろうと考えられていたのだ。

政治学者のリチャード・シノット(Richard Sinnott)も加えた三人での共同研究の成果を論文としてまとめたばかりなのだが、政府支出が自由貿易に対する世間の支持を高める可能性があることを支持する証拠が得られている〔原注4〕。ヨーロッパとアジアの18カ国が対象になっているサーベイデータを利用して検証を行っているが、リスク回避的な人ほど、自由貿易に反対しがちという関係性が見出されている。しかしながら、その関係性は、政府支出の対GDP比が高い国においてほど弱まるのだ。

計量経済モデルを用いた統計的推定の一つによると、スウェーデン人に関しては、リスク回避の度合いを測る変数が最大値にまで上昇すると、極端な保護主義に同意する確率が約6.5%ポイント高まる傾向にある。その一方で、インドネシア人に関しては、その確率が約16%ポイント高まる傾向にある。スウェーデンのケースの倍以上だ。スウェーデンとインドネシアの重要な違いは、政府最終消費支出の対GDP比にある。スウェーデンでは、その値(政府最終消費支出の対GDP比)は26.6%。インドネシアでは、わずか6.5%なのだ。スウェーデンでは、経済的なリスクに備える保険が政府によって提供されているのだ。その一方で、インドネシアでは、自助に委ねられている部分が多くて、労働者やその家族が経済的なリスクに自力で立ち向かわないといけないのだ。同じくらいリスクを嫌っていても、スウェーデン人の方が自由貿易への抵抗が少ないとしても、特段驚くようなことでもないだろう。

自由貿易に反対する理由は、人それぞれだろう。例えば、我々が利用したサーベイデータによると、経済とは関係のない理由だったり愛国主義的な理由だったりを根拠にして、海外との経済的な結びつきが強まることに反対する人もいる。ヨーロッパに話を限定すると、親ヨーロッパ的な感情と、自由貿易に対する好意的な感情との間には、明確なつながり(正の相関)があることが見出されている。ヨーロッパが統合されるまでの歴史を顧みたら、それほど驚くような結果でもないだろう。ともあれ、豊かな国々の政府は、経済的なリスクの高まりに備える政策を導入することによって、自由貿易に対する世間の支持を取り付けることができるのだ。市場が開放されるのに伴って労働者やその家族に過度のリスクが押し付けられないように保証する政策を導入すれば、自由貿易に対する世間の支持を取り付けることができるのだ。そうなることは、貧しい国々が輸出を通じて成長を続けるためにも不可欠なのだ。


〔原注1〕World Values Survey, 1995-1997. 詳しくは、以下のリンクを参照されたい。http://www.worldvaluessurvey.org/

〔原注2〕Rodrik, D., 1998. “Why Do More Open Economies Have Bigger Governments?”, Journal of Political Economy 106, pp. 997-1032.

〔原注3〕Huberman, M. and W. Lewchuk, 2003. “European Economic Integration and the Labour Compact, 1850-1913”, European Review of Economic History 7, pp. 3-41.

〔原注4〕A.M. Mayda, K.H. O’Rourke and R. Sinnott, 2007. “Risk, Government and Globalization: International Survey Evidence”.