2010年10月7日木曜日

Barry Eichengreen 「大不況と大恐慌;回顧と教訓(1)」


Barry Eichengreen , "The Great Recession and the Great Depression: Reflections and Lessons(pdf)"(Central Bank of Chile Working Papers No.543, September 2010)

これまでしばしば、2008年以降の世界的な同時不況――いわゆる大不況(The Great Recession)――と1929年に世界経済を襲った経済不況――わゆる大恐慌(the Great Depression)――との比較が行われてきた。本論文では、現在の大不況下における政策当局の反応が1920年代~1930年代の政策当局の反応とどれだけ大きく異なる姿をとったか、また、過去と現在とにおける政策当局の反応の違いが大恐慌に関する歴史的な分析にどれだけ負っているか、について論じる。さらに、歴史的な分析に依拠して、貿易・金融両面におけるグローバリゼーションとの関連で今後世界経済が直面することになるかもしれない変化についても議論する。


大学の同僚が好き好んで私にこう語ることがある。「君は経済史家だから、現実の出来事に応じて大学での講義内容を改定(アップデート)する必要がないという利点をもっている」と。私が担当するような歴史の講義は、例えば大いなる安定(Great Moderation)について語る講義のように瞬く間に時代遅れになることがない、というわけである。この見解(というかジョーク)に含まれている間違いは、いわゆる「事実」("facts")は変わることはないが、その解釈は変わり得る、という点を見過ごしているところにある。このことの明らかな例をあげれば、最近生じた出来事の結果として、私は大恐慌(Great Depression)についてこれまで語ってきたすべてのことに改定を施す必要に迫られることになった。具体的には、1929年の危機の原因――この問題と関連する争点としては、フロリダにおける不動産バブル、グローバル・インバランス(当時は「トランスファー問題」という名で呼ばれていたが)、金融システムにおける緩やかな監督・規制等といった話題が含まれる――や1930年代における金融政策や財政政策の(景気刺激策としての)有効性に関する論争、そして「「それ」(=大恐慌)は再来しうるか?」といった話題に関して私がこれまで抱いてきた見解に改定を施す必要に迫られることになったのである。

とは言え、依然として大恐慌に関する伝統的な(標準的な)説明が今日の政策当局者のものの見方を強固に形作っていることもまた事実である。今日の政策当局者のものの見方は、大恐慌に関する伝統的な説明や大恐慌についての記憶――果断な金融緩和に乗り出すことなく、デフレ期待の蔓延を許してしまったFedの失敗 / 最後の貸し手(lender of last resort)としての責務を果たすことなく銀行システムの崩壊を許してしまったFedの失敗 / 1930年代初頭に予算の均衡を目指して増税を実施し、結果として(予算の均衡を実現することができなかったばかりか)民間需要のさらなる低迷を後押しするだけに終わったフーバー政権と米議会の行動 /1929年の下半期にはすでに景気後退入りが明らかになっていたにもかかわらず、物価下落を食い止め、銀行システムに再び安定を取り戻し、(実物)投資需要の回復を促すことを意図した効果的な手段が1933年に入るまで実施されなかった事実――によって強く影響されているのである。

こういった「歴史の教訓」(“lessons of history”)が頭にあったのであろう、今次の危機においてアメリカの政策当局者らは行動することにためらいを見せることはなかった。危機が勃発するや、Fedは金融市場に対して大量の流動性を供給し、また経済が低調な様子を示し続けていることを受けて、政策金利をゼロ%にまで引き下げる決定を行った。さらには、Fedはあらゆる種類の証券化商品の市場に対しても介入を実施し、そして2009年のはじめ頃になると量的緩和に乗り出して政府債券の購入にも踏み切ることになったのであった。

政府側の対応に目を移すと、2008年はじめの財政刺激策のあとを受けて、2009年に入るとオバマ政権と議会は7870億ドル規模の財政刺激策に打って出ることになった。オバマ政権(と彼が率いたエコノミストのチーム)は1930年代の経験から引き出されたさらなる教訓――名目金利が低い水準にまで引き下げられた状況においては、経済を安定化させる手段として財政政策の重要性がより一層増す――をはっきりと意識した上で行動していた。

こうした米政府やFedならびに各国政府・中銀の行動のおかげもあって、今次の大不況(Great Recession)が第二の大恐慌に発展するような事態は回避された。しかしながら、そもそもどのようにして今のこの危機的な状況に陥ったのか、危機を抑制するうえでなぜ政策的な対応がそれほど効果を見せなかったのかといった問題について考えると、皮肉なことにその原因の一部は歴史(の教訓)をあまりにも文字通りに受け止め過ぎる傾向のためであったのかもしれない。大恐慌についての世間一般の理解では暗黒の木曜日(1929年10月24日)を含む1929年の株価大暴落が果たした役割に大きな注目が寄せられる傾向にあるが、経済学者による大恐慌の典型的な説明では29年の株価大暴落はあくまでも一つのサイドショー(sideshow)として扱われ、その代わりに銀行システムにおける危機――第一次(1930年)、第二次(1931年)、第三次(1933年)の銀行危機――が強調される傾向にある。1930年代のアメリカ経済は銀行部門に大きく依存していたおり、それゆえ銀行危機を強調する経済学者の(大恐慌に関する)説明は適切なものだと主張する人もいるかもしれない。しかしながら、ディスインターメディエーション(disintermediation;金融仲介機能の消滅)や証券化の進展を背景として経済における非銀行金融仲介機関(nonbank financial institutions)の重要性が今回の危機に先立つ期間において時の経過とともに高まってきていたのである。今次の危機は銀行部門で生じた危機であるだけではなく、AIGのような保険会社やヘッジファンド――ヘッジファンドによる資産(証券)の投げ売り(distress sale)は他の投資家の立場を悪化させることにつながった――、そして大きくは証券市場において生じた危機でもあったのである。

皮肉なことだが、今次の危機勃発当初において政策当局者らの注目が金融システムの中でも特に銀行部門に注がれ、(金融システム内の)それ以外の部門が無視される結果となったのは、1930年代の金融危機の記憶――当時の金融危機は何よりもまず銀行危機というかたちをとった――が原因となっているのかもしれない。(今次の危機勃発の)当初、政策当局は商業銀行に対して積極果敢な貸出を実施したが、それ以外の金融機関に対しては同様の措置がとられることはなかったのである。こうした行動の背後には、銀行は金融取引の連鎖における弱い鎖である(banks are the weak link in the financial chain)との「1930年代の教訓」(“lesson of the 1930s”)が控えていたのかもしれない。しかしながら、今次の危機においては、問題は銀行部門だけではなく「影の銀行システム」(“shadow banking system”)にまで広がりを見せていたのである。つまりは、危機は投資銀行が関与する導管体(conduit)や特別目的事業体(SPV;special purpose vehicles)――危機勃発当初、投資銀行は連銀貸出の対象には含まれていなかった――、ヘッジファンドやAIGのような保険会社にまで及んでいたのである。しかしながら、Fedは「影の銀行システム」に対して支援を行うことにためらいを見せたのであった。この事実は歴史物語(historical narrative)の持つ力を示しているのではないかと思われる――1930年代当時には歴史家の検証対象となるような影の銀行システムなるものは存在していなかったのである――。さらには、この事実は、歴史は繰り返すがまったく同じような姿をとって繰り返すことは決してない(while history repeats itself, it never repeats itself in the same way)、ということを認識することがいかに難しいかを示すものでもあると思われる。

これと同様の話は、リーマン・ブラザーズを破綻させる決定に引き続いて生じたクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)絡みの金融的な混乱の影響を過小評価する傾向にあった政策当局の当初の態度に関してもあてはまるかもしれない。1930年代にはCDSやその他の複雑なデリバティブに対応するような金融商品が存在していなかったという事実のために、今日の政策当局者らはそれら(=CDSをはじめとする複雑なデリバティブ商品)の重要性を正当に評価することに失敗してしまったのかもしれないのである。再度繰り返し指摘しておくと、歴史物語(あるいは歴史の教訓)のおかげでまっとうな政策対応がなされることがあり得る一方で、同じく歴史物語のために政策対応が不適切な方向に歪められることになってしまうこともあり得るのである。

以上の議論は、今日の政策当局者らが1930年代当時よりも首尾よく対応したということを一切否定するものではない。まあ、1930年代当時よりもひどい政策対応がとられるなんてことはそもそも考え難いことではあるのだが・・・。

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今次の危機の過程において、各国の中央銀行は1930年代と同様に相互間での密なコミュニケーションを図った。1930年代との違いは各国の中央銀行間におけるコミュニケーションが実際の協調行動にまで発展・結実したことである。各国中銀間での協調を実現することがいかに重要であるかはさらなる「歴史の教訓」でもある。今次の危機の過程においては、FRBとECB、イングランド銀行との間で通貨スワップ協定が結ばれ、さらにECBはユーロ圏以外のヨーロッパ諸国との間でドルとユーロのスワップ協定を締結し、同様にFRBもメキシコ、ブラジル、韓国、シンガポールとの間でスワップ協定を締結した。通貨スワップ協定を通じた資金融通のおかげで資金受け入れ国が抱える金融上の問題が劇的なかたちで解決されるというようなことはなかったものの、アメリカのヘッジファンドやヨーロッパの銀行による投資資金の引き揚げに伴って生じた当面のドル資金やユーロ資金の不足問題が和らげられることにはなったのである。一方、1930年代の状況は今日の状況とはまったく異なるものであった。1930年代当時、フランスは国際決済銀行(Bank for International Settlements)を通じてオーストリアに対して資金を供与することを拒んだのであった。フランスが資金供与を拒んだ背景には、独墺関税同盟(Austrian-German customs union)計画やドイツがヴェルサイユ条約に反してポケット戦艦(pocket battle ships)の建造に乗り出したことに対する反感があった。フランスによるオーストリアへの資金供与の拒否は、金融危機がコントロール不能な状況にまで発展する上で決定的な役割を果たすことになったのである。

今日のアジアには戦間期におけるフランスとドイツとの紛糾した関係性と似た状況が存しているのではないかと私の眼には映る。アジアの各国間で金融支援を実施するための地域的な仕組み――チェンマイ・イニシアティブ(今では、チェンマイ・イニシアティブの多極化(“the Chiang Mai Initiative Multilateralization”、略してCMIM)と呼ばれている)――が設けられてはいるものの、過去80年において最も深刻なグローバル金融危機がその姿を露わにした2008年9月~11月の段階においてもアジア各国の間にはこの仕組みを本格的に稼働させようとする意思が見られることはなかった。その理由は明らかである。デリケートな政治上の関係が障害となってアジア各国間で政策調整を行うことが困難な状況にあり、そのためにどの国もイニシアティブ向けに資金を提供したがらないのである。

この問題を緩和するためにチェンマイ・イニシアティブを通じた金融支援では2国間で取り決めた融資枠の20%までは2国間の独自判断で融資が可能であるが、それを超える部分については国際通貨基金(IMF)による融資をリンクさせるよう設計されている。しかしながら、1997~1998年のアジア通貨危機の記憶が依然として生々しいこともあって、アジア各国政府はIMFと交渉することに対して乗り気ではない。北京(中国政府)はアジア地域内における金融支援をさらに拡充するための新たな仕組みの創設を目指しているが、東京(日本政府)はこの動きに対して抵抗を見せている。日本政府は金融支援のための新たな仕組みが創設されれば、最終的に中国がその仕組みの下で支配的な地位を占めることになるのではないかと懸念しているのであろう。日本政府としては新たな仕組みを創設するよりはIMFを通じた金融支援を望むことだろう――IMFにおいては日本は中国と比べて2倍の投票権を有しており、さらに日本政府はIMFの副専務理事のポストの一つを占めている――。一方、中国――IMFにおける中国の投票権はベルギーと同程度である――はIMFを通じた金融支援にはおそらく抵抗を見せることだろう。また、中国はドルに対して人民元を引き上げる(増価させる)ことにも抵抗しているが、後に詳しく触れるように中国政府の人民元引き上げに対する抵抗はまた別の問題を引き起こすことになるだろう。

ここで戦間期の大恐慌に関するチャールズ・キンドルバーガー(Charles Kindleberger)の解釈との類似性を指摘したくなるところである。キンドルバーガーの解釈というのは、大国の地位から滑り落ちつつあった当時のイギリスにはリーダーシップを発揮するだけの能力がなく、一方で大国の地位に上り詰めつつあった当時のアメリカにはリーダーシップを発揮しようとする意思がなかったために、大恐慌が生じたのだというものである(原注1)。今現在、大国の地位から滑り落ちつつある(あるいはパワーの低下を経験しつつある)のはアメリカであり、大国の地位に上り詰めつつある(あるいはパワーの上昇を経験しつつある)のは中国である。しかしながら、この面における過去と現在との類似性があまり強調されすぎてはならないという点は指摘しておこう。中国が何らかの形でリーダーシップを発揮してくれるようであれば現在の問題が解決に向かう上で助けになることは疑いない。しかしながら、今のところ中国は1929年当時のアメリカに期待し得たような種類のリーダーシップを発揮するだけの能力を備えているとはいえない。1929年当時、台頭するパワーとしてのアメリカは凋落するパワーとしてのイギリスの3倍の経済規模を誇っていた。これとは対照的に、現時点におけるアメリカの経済規模は依然として中国の3倍の大きさである。この事実は記憶にとどめておく価値があるであろう。というのも、今後アメリカの家計が退職後に備えた貯蓄計画を練り直すことに伴ってアメリカ経済の消費支出が落ち込むようなことになれば、中国に対してそれ(=アメリカの消費支出の落ち込み)を相殺するに十分なだけ消費支出を増加させよと求める声があがるかもしれないが、アメリカの経済規模は中国の3倍の大きさであるという事実を前提とすると、アメリカの消費支出の落ち込みを相殺するために中国に必要とされる経済面での調整はかなりの規模のものになるだろうからである。


(原注1) 以下を参照せよ。Charles Kindleberger (1973), The World in Depression 1929-1939, Berkeley: University of California Press.(邦訳 『大不況下の世界- 1929-1939』)

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今次の危機において我々が賢明にもうまく対処した点を他にも探すと、それは保護主義を回避した点ということになろう――ここで「賢明にも」(“reasonably”)という修飾語を特に強調しておく必要があるであろう――。アメリカの財政刺激策の中に「バイ・アメリカ」(“Buy America”)条項が盛り込まれたり――他の国でも同様の措置が採られた――、世界銀行が伝えているように、リーマン・ブラザーズの破綻以降5カ月の間だけをとってみても世界中で新たに46の貿易制限措置が採られたことも事実である。しかしながら、保護主義への動きを抑えつける上で今日我々が(大恐慌期と比べれば)うまくやってのけることになったという点は依然として正しいことに変わりはないのである。今次の危機の過程では、1930年代のように、各国が見境なく関税を引き上げたり数量割り当てに訴えたりするような事態は生じなかったのである(原注2)。

この面において過去と現在との間で違いが生まれた理由は再度「歴史の教訓」に求めることができるであろう。しかしながら、この例は、悪い歴史(訳注;誤った歴史解釈といった意味が込められていると思われる)が皮肉にも良い政策を導く結果となった例の一つである。ここに悪い歴史というのは、スムート・ホーレー関税法が大恐慌の更なる深化に大きく貢献し、他国からの広範な報復措置を招くことになった、との信念のことである。大恐慌に貢献した要因をその重要性に照らして上から順番に並べたリストを作成した場合、私であればスムート・ホーレー法は上から17番目くらいのところに位置づけることだろう。実際のところアメリカの関税は1922年のフォードニー・マッカンバー「超高率」関税法(Fordney-McCumber “skyscraper” tariff)によってすでに高水準に達していたのである。スムート・ホーレー法はすでに高水準にあった関税をわずかばかり引き上げることになったにすぎない。大恐慌に貢献した要因としては、金融政策や財政政策、そして競争政策や労働市場に対する諸政策の方がよほど重要な要因であったのである(原注3)。

また、実際のところスムート・ホーレー法に対する報復措置は限定的なものであった。世界的な報復合戦のきっかけを作ったのは、スムート・ホーレー法ではなく、1932年にイギリスで成立した輸入関税法であった(原注4) 。しかしながら、良い政策を導く悪い歴史にはメリットもある。今次の危機において政策当局者らが嘆かわしい保護主義的な政策対応に打って出ることを防いだのは、まさにこの「スムート・ホーレー」というフレーズ(によって想起される歴史(悪い歴史)の教訓)のおかげであったのである。

ダグラス・アーウィン(Douglas Irwin)との共著論文の中でも指摘したことだが、今次の危機において我々が保護主義を回避するに至った他の理由としては、適切な財政・金融政策が採用されたことを挙げることができる。1930年代当時各国は限られた需要を自国に向けて取り込もうとして――限られた支出を自国の財に引きつけようとして――必死の思いで関税引き上げに踏み切った。各国が関税引き上げに踏み切った理由は、当時においては未だ財政刺激策の有効性が十分理解されておらず、また金本位制の制約が存在する限りはさらなる金融緩和策に乗り出すことが不可能であったからである。しかし、1931年以降になると、金本位制から離脱し、それゆえファースト・ベストの金融緩和策を採用することが可能となった国々が登場することになったが、金本位制から離脱したかどうかという点以外の他の事情を一定として考えると、金本位制から離脱した国々ほど保護主義的な政策に訴える傾向は弱まることになった。他の手段(訳注;特に金融政策)によって失業問題に対処することが可能となったことを受けて、(金本位制から離脱した)各国は「支出一定」仮説(fixed-lump-of-spending hypothesis)を唱えることも保護主義に訴えることもなくなったのである。ここには良い歴史(訳注;正しい歴史解釈といった意味が込められていると思われる)のおかげで保護主義が回避された例を見出すことができよう。政策当局者らが大恐慌のような脅威に対しては足並みの揃った(あるいは協調的な)財政・金融政策で対処する必要があると理解しているその程度に応じて、保護主義に傾斜する程度は弱められることになったわけである。

(続く;その(2)へ)


(原注2) 以下を参照せよ。Hiau Looi Kee, Christina Neagu and Alessandro Nicita, “Is Protectionism on the Rise: Assessing National Trade Policies during the Crisis of 2008(pdf)”, unpublished manuscript, the World Bank (April).

(原注3) スムート・ホーレー法はデフレ的な経済環境の下で物価上昇圧力を生み出すことになったという意味で望ましいインパクトを持っていた、との議論も成り立ち得るところである。このような結論がどのような条件の下で成り立つかについて論じたものとして、以下を参照せよ。Barry Eichengreen (1989), “The Political Economy of the Smoot-Hawley Tariff”, Research in Economic History 12, pp. 1-43(NBERワーキングペーパー版はこちら(pdf)).

(原注4) 以下を参照せよ。Barry Eichengreen and Douglas Irwin (2009), “The Slide to Protectionism in the Great Depression: Who Succumbed and Why?(pdf)”, NBER Working Paper no.15142 (July).

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